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書けるやつは傲慢、書こうとして書けないやつはもっと傲慢 | 2024-02-19T19:48:23+09:00 | true |
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今更言うまでもないことだが、自分の頭の中を曝け出して人に読ませようなんて傲慢にもほどがある。通常、思考というのは曖昧模糊としていて取り留めのないものだ。一説によると高度な知能を持っているとされる人間様も、さすがにすべての行動に思考リソースを割り振るのは難しいらしく、実際には遅延実行を余儀なくされれているという。
思考の遅延実行とはすなわち、まず筋肉と神経の反射による行動があり、思考が後からそれを評価・考察する方式である。とりわけその行動に即応性が伴っていればいるほど、人間の思考は後回しになる。当然、なんであれすでにやらかしたことを後から正確に評価するのは難しいので、人間の基本的な思考はしばしば事後承認的、追認的に陥る。要は体の良い自己正当化を図ってしまうのだ。
とはいえ、行動した後にいつまでも悩んでいたらきりがない。それこそ生存可能性を妨げる思考リソースの無駄遣いに他ならない。そこで我々の脳味噌は適当なところで記憶を希薄化させ、どんな行動をしたのかも、行動した後にどう感じたのかも、一切合切を曖昧にしていく。何日、何ヶ月、何年と経過を経るごとに当時の精細な像は失われて、なんかいい感じの、さもなければ、なんか悪かった感じの、いわば思い出だけが残る。
しかし人類は文字を開発した。文章にしたためておくことによって、自己正当化を図ったなら図ったなりの、正確に記録を試みたのならそれなりの、言語化した像の姿かたちが築かれる。後から読み返すことによって人間は人間の記憶や情動を掘り起こせるのだ。いずれにしても、とんでもない行為である。
なにもかも曖昧にしておけば思考の責任を取らずに済むのに、あえて形にして検証可能性をもたらそうというのだ。こんな不都合な話はない。にも拘らず、人間、しきりによく文章を書く。紀元前の中国の書物では早くも「こんなにものを書く人間が増えたら世の中は文字であふれかえってしまう」と冷笑する一文もあったらしい。言語化の欲望は底知れない。
翻って、現代。言語化のハードルはずいぶん下がった。紀元前の物書きが予言した通り、今の世の中には文字があふれている。ミリ秒ごとに文字が視界を埋め尽くしていくから、大抵はなにを書いても下へ下へと埋もれていく。確かに記録、それも複写で記録されているのに、埋没する気楽さが思考の責任を取り除いている。
ところが、そんなご時世にあってもわざわざ長文を書くやつがいる。ブロガー、エッセイイスト、小説家、物書き、肩書きはなんでも構わないが、いずれにしてもとんでもない連中である。せっかく言語化から責任を取り除き、腐臭のする腸と頭を抜いて、小綺麗で美しいデザインに包んでパッケージングした時代に、あえて心の澱をぶちまけるつもりでいるのだ。
文章は長ければ長いほど個人の痕跡を残す。思考化の過程が刻まれる。多くを語らなければ曖昧でいられた部分が、隠しきれない粗として露呈する。誰も見ていないようで誰かが見ているインターネットの世界において、そうした行為が半ば自傷癖や露出狂の一群に分類されることにもはや疑いの余地はない。
それでも書かずにはいられない。ありあまる言語化の欲望があらゆる懸念を超越して、その人間に長文を書かせる。インターネット上に公開して、あまつさえ読んでもらおうとさえ期待する。目をそむけたくなる汚い粗や、鼻をつまみたくなる臓物の臭いも、まるごと愛されるつもりでいる。未来の自分の目でさえ恐ろしいのに、他人の目にも全身を曝け出して平然としている。物書きほど傲慢な人種はそういそうにはない。
だが意外にも、物書きを越える傲慢さを備えた連中が近くにいる。書こうとしているのにいつまでも書けないでいる人々だ。せっかくしたためた数千文字、数百行にわたる長文を、ついに完成させることなく打ち捨てる人々だ。彼らは自分から滲み出る思考の澱に耐えられなくなったのではない。もしそうなら、わざわざ書き溜めるまでもなくもっと早く気づくだろう。
彼らは自分たちが、もっと非の打ち所のない、未来の自分にも、他の人の目にも称賛されうるような、洗練された彫刻のごとき完成品を望んでいるのである。それは絹のような柔らかさと大理石の剛健さ、花々のかぐわしさをもまとい、賢者の叡智、武人の勇猛、美姫の色香を兼ね備えているとされる。いつか偶然にもそんな一文が生まれると信じて、結局、ただの一回も完成させないでいるのだ。
これが度を越した傲慢と言わずしてなんという。思考の過程を長々と見せびらかすだけでも十分な傲慢さに値するのに、あまつさえ際限のない美化を試みて暗闇をさまよい歩いている。そのような腹積もりでしたためられた文章はさながら年増の厚化粧で塗り固められたいっそう寒々しいものとなり、本人もまた嫌というほど自覚しているために決して日の目を見ることはない。そしてまた、研鑽の糧になりえた作品が一つ打ち捨てられる。
ことここに至っては腹をくくるべきである。この娯楽が氾濫しきった時代に、己の意思をもって、己の文章を数千文字にわたって刻みはじめた時点で、その人物はどうしようもなく言語化の欲望に取り憑かれた狂人なのだ。一度こうなったら、もう書き上げるしか救済の道はない。書けるものから書いていけ。狂人なら狂人らしく取り繕わず、汚物を原料に拵えた腐臭の立ち込める像を創造せしめ、未来の自分からの避けられぬ軽蔑の眼差しを慄然と睨み返さなければならない。
もしかするとそれは誰にも読まれないかもしれない。だが、実は僕がこっそり読んでいる。僕のRSSリーダにはそうした手作り感のあるブログや個人サイトが大量に登録されていて、君が次にどんな腐臭をその一文に込めるのかを心待ちにしている。そういう君も、こうして僕の淀みに満ちた文章を読んでいる。
それこそが狂人の楽しみだ。体裁と見てくればかりに気を遣った観光地を素通りして、わざわざ地下奥深くのヘドロを汲み上げにきている。そのアンダーグラウンドでは通常とはまったく異なる価値基準が働いており、より醜く毒々しく、ぬらぬらとしているほど尊ばれるのだ。しかし時折、そこから脱皮した蝶のごとく美しく天に舞い上がる存在を見ることができる。そうした時には黙って見送る手はずになっている。