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2025-02-09 21:24:28 +09:00

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title: "論評「機動戦士Gundam GQuuuuuuX」僕はガンダムもエヴァも嫌いだ"
date: 2025-01-30T16:36:36+09:00
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tags: ['movie']
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あらかじめ言っておくが僕はガンダムもエヴァも嫌いだ。まず、ミリタリーなんだかオカルトなんだか結局よく分からないところが気に入らない。言うまでもなく、ファーストガンダムの革新性は「白衣を着たひげもじゃの科学者だか秘密結社だかが頑張って作った」みたいな解像度に留まっていた”ロボットアニメ”をミリタリー作品の水準に押し上げたことだった。
つまり、”ロボット”――モビルスーツは作中の軍需企業が製造し、資金は政府が拠出している。事前の計画やデータに基づいて設計が行われ、必要に応じて中断や改良、量産化もありえる。殊に量産化の概念は本作の”ロボット”が操縦者の相棒でも友達でもなく、純然たる兵器、道具に過ぎない事実を効果的に打ち出している。
短いシーンとはいえ補給や修理の描写が含まれていたのも新しかった。どんなに優れた兵器とて補給なしでは扱えないのが戦場の常である。しばしば謎の超エネルギーでごまかされていた”ロボット”の動力に制約を設けたことで物語の緊迫感もいっそう高められている。
そこで描かれるのはまことにリアルな戦争の様相だ。主人公だからといってやることなすことが正しい方向には進まない。善悪と関係なく人々は戦争に巻き込まれ死に、戦うかぎりは誰でも人を殺す。戦わなければ自分が殺される。当時のアニメ制作においてこの領域に踏み込んだのはたいへんな偉業だったと思う。
しかし、結局は徹底しきれなかった。作中でどんなにモビルスーツの兵器性を強調しても、なんだかんだで主要キャラクターとモビルスーツはほぼ一対一で結びついてしまっている。属人化はミリタリーとは対極の姿だ。かろうじてシャアは並行して複数の機体を乗り回しているが、それでも赤く塗られたシャア専用機の存在はいかにもな玩具っぽさが拭えない。士官とはいえ現場の一員に道具を選り好みする権利などあるわけがない。まあ、最後にモビルスーツを捨ててフェンシングで殺し合ったのは偉かった。
ニュータイプの設定に至っては最悪の一言に尽きる。せっかくミリタリーSFに相応しい設定を丹念に積み上げてきたのに、どうしてわざわざ根底から無に帰す真似をしたのだろう。だが富野監督曰く、人間同士が真に分かり合うというテーマの性質上、むしろこっちの方が重要な要素らしい。だとしてもオカルトとミリタリーは基本的に食い合わせが悪い。どうしてもやりたければマクロスのようにやるべきだった。
あまつさえニュータイプはしっかり軍事転用されて専用のモビルスーツまで出てくる始末だ。以降の続編でも格差は広がるばかりでオールドタイプの立つ瀬がない。これではニュータイプが優生的な思想を持つのもさもありなんというか、仮に持たなくても「優位性を認識した上で控える」といった態度を内面化せざるをえず、どちらにしてもグロテスクさが付きまとう。
それゆえ歴代の作品で主人公(当然、ほぼ例外なくニュータイプである)がいかに平和や共存を叫ぼうとも、かえって嫌味ったらしい自己欺瞞にしか聞こえない。どのみち能力的に秀でているなら遅かれ早かれオールドタイプを統治する役回りに選ばれるのは必然であり、潔く清濁を併せ呑んで指導者として名乗りを上げる方が賢明とさえ感じる。
エヴァはもっとひどい。ミリタリー的な要素を広く継承しつつも、エヴァ本体そのものに内包されたオカルト性が物語のバランスを致命的に崩している。そのハチャメチャぶりはニュータイプの比ではなく、根本的に理解させるのを拒んでいるとしか思えない。ここまで来るともはやエヴァ自体がいらない。エヴァで面白いのはエヴァ以外で戦う場面だ。いっそエヴァ抜きのエヴァが作られるべきだった。僕は割と本気でそう考えている。
次に、作品展開が無責任なのが気に入らない。ファーストガンダムとテレビ放映版のエヴァンゲリオンが実質的に未完で終わったのは、まあ仕方がない。両作とも予算の都合やスポンサーの意向でどうにもならないところはあった。だが、以降の続編にそんな言い訳は立たない。
Zガンダムの展開は本来許してはならなかった。ファーストガンダムの課題を回収するどころか50話かけて事を荒立て、さらにZZガンダムと逆シャアに後始末をぶん投げる怠慢を犯している。前者におけるカミーユは異様に超越者然としすぎていて、これが富野監督にとって目指すべき人類の革新なのだとしたら強迫的にもほどがあると言わざるをえないし、後者は後者でシャアを情緒不安定に描きすぎだと思う。最終的に皆殺しにするならZガンダムで頑張っていたのは一体なんだったのか
そしてエヴァはやはりひどい。劇場版Air / まごころを、君に)をやって完全に墓に押し込んだ作品を、なぜかもう一度掘り起こして作り直しせしめたのだ。それでなにがどうテーマ性に新しく寄与したのかと言えば、特になにもない。活劇はチープ、同じ話が延々と繰り返されるどころか、ゲンドウ本人に全部喋らせたぶん脚本面ではむしろ退行している。あんなとってつけたような”救い”を見せつけられて諸君らは本当に納得したのか?
その点、漫画版の『ガンダム THE ORIGIN』とエヴァはいいものだ。あらゆる課題が作品内で回収され、説明すべきところを説明しきり、クリーンに完結している。こういう責任ある態度こそ今後の作り手にも自分自身にも強く求めていきたい。どんな物語もまずは正しく終わらなければならないのだ。他にも文句は山ほどあるが、書いていたらあっという間に5000文字を超えたので泣く泣く削った。まあ、要するに君らはもっと『装甲騎兵ボトムズ』を評価すべきってことよ。
そんな折に、性懲りもなくガンダムの新作が降って湧いた。その名も『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』だ。なんでもサンライズとカラーの共同制作で、しかも宇宙世紀ものだと言う。その上、あまり関わっていはいないとうそぶきつつもしっかり脚本にクレジットされている庵野監督。僕の嫌いなガンダムとエヴァが、あろうことか合体しやがったのだ
これを観ない選択肢はありえない。是が非でも劇場に駆け込んでいち早く文句を言わなければ収まりがつかない。そう意気込んで鑑賞したのが先週の話である。結論から言うと、意外に気に入ってしまって困惑している。そういう手で来られるとは想定していなかった。本稿では前半と後半のパートに分けてそれぞれ論評を行う。
## 前半パート
本作は宇宙世紀ものであり、同時にAnother U.Cでもある。なぜならアムロ・レイが搭乗するはずのガンダムがシャアによって鹵獲されてしまったために、一年戦争の歴史が大きく書き換えられた物語だからだ。
この点について、二通りの前提が提唱される。一つは歴史改変の始点をシャアの鹵獲に置く前提、もう一つはもともと歴史改変が行われており、シャア自身もその影響を受けているとする前提だ。だが、理詰めで進めると後者以外にはありえない。
たとえばガンダムが開発されていたサイド7の状況が挙げられる。正史ではアムロをはじめとする民間人を巻き込む形で戦闘が始まるが、本作では前もって避難が済んでいる。これはシャアの行動とは連動しない事象のため後者の説が補強される。
また、ガンダムのデザインも正史と異なっている。商業的な理由などのメタ的な理由を除けば、これもシャアの行動とは関わりのない事象ゆえ後者の説を補強しうる。逆にこれらをスルーして前者の前提で押し進むとしたら、それはチェーホフの銃を忘れ去った脚本であり、失着していると評価せざるをえない。
モビルスーツの生産過程にも不審な点が残る。試作機のガンダムが一機鹵獲されてもスペアパーツから陸戦型ガンダムの製造は十分に可能で、実機がなくとも設計データがある以上はジムの量産化自体にも支障はないはずだ。事実、これらの機体はガンダムの動向とは無関係に並行して生産されている。しかし本作では連邦が不自然にガンダムの開発から手を引いたように映る。この辺りには現段階ではいまいち釈然としない設定が多く、さらなる考察が待たれる。
過去ではなく先の出来事に目を向けてみると、こちらは割と筋が良い。ガンダムを手に入れたシャアが正史を凌ぐ活躍を見せ、あるいはジオニック社がガンダムの量産化に成功しても、それだけでは30分の1の国力差は埋まらない。「アムロやホワイトベースの戦功は一年戦争全体で見るとそれほどでもない」とはよく聞く話だが、まさしく逆もまた然りと言える。
実際、本作で語られる台詞を聞くかぎりでもドズル中将がソロモンで戦死しているなど、一年戦争の趨勢は変わらず概ね正史に沿っている様子がうかがえる。連邦軍がソロモン要塞に攻め入っているということはオデッサ作戦でもジオン軍は負けている(連邦軍はオデッサ作戦で地上を取り戻したおかげで反転攻勢の機会を得た)と考えられ、おのずと以前の軍事作戦でもジオン軍は敗走していると判断できる。
他方、ホワイトベース隊に敗北したパイロットたちはその多くが生存していると推測される。まず、アムロに惜敗を喫したシャリア・ブル大尉は本作では小説版顔負けの立ち位置でシャアの右腕を担っており、描写の濃さからも相当な活躍が見込まれる。次に、作戦行動が変化してシャアとの関わりが薄れたガルマ・ザビも謀殺されずに生き残っている。同様に当てはめると黒い三連星やランバ・ラル、マ・クベなども生きていると考えられる。一方で不明瞭なのはララァ・スンの行方だ。
本作の一年戦争末期では、シャア専用ガンダムにサイコミュとビットを搭載した新型機が登場する。これはララァ・スン専用モビルアーマー「エルメス」に搭載されていた兵装をそのままガンダムに移し替えた形態に近い。となると、ララァ本人はどこでなにをしているのか? 答えは前半パートの終わりに示唆される。
ジオン軍の基地に迫りくる巨大隕石を破砕すべく――もっともシャアは利用するつもりでいたが――爆薬を仕掛けていたところ、彼は偶然にも実妹のセイラ・マスと遭遇する。これがきっかけでサイコミュになんらかの異常が発生して「キラキラ」のワームホールを形成、シャアは渦の中に飲み込まれてしまう。
その間際、彼は正史のララァと同じく「刻が見える」とつぶやく。ファーストガンダムから逆シャアに至るまでとことん彼女への執着を露わにしていただけに、本作でも二人が関わり合うのは確定的だろう。結果、ワームホールが形成された反動で隕石は半壊、基地は壊滅を免れて連邦軍は最後の反撃の機会を失う。
最終的に一年戦争はジオン公国に大幅に有利な条件で無期限の休戦を迎える。連邦軍は宇宙から撤退を余儀なくされ、残されたコロニーはジオン公国の影響下に入ったのだった。個人的に一連の流れはかなり印象が良い。もしガンダム一つで戦況がひっくり返ってジオン軍が圧勝していたら僕もひっくり返っていたが、モビルスーツの過度な神格化が抑えられた妥当な筋書きがスクリーン上で展開されたおかげで僕の尻はシートの奥底に深く沈み込んだ。気づけば手元のポップコーンはもう空だった。
## 後半パート
後半パートに入ると急に絵柄が変わる。前半パートはファーストガンダムをブラッシュアップしたクラシカルな画作りだったが、後半ではうってかわって一気に今風の雰囲気となる。調べてみるとキャラクターデザインはポケモンの人がやっているらしい。言われてみればそんな感じがする。
作中の舞台となる宇宙世紀0085は前半パートと地続きの歴史を歩んでいる。実質的に戦争に勝ったとはいえジオン公国の統治は芳しくない。もともとの国力差に加え、予定より長期化した戦争のせいで物資も人員も不足していて各コロニーに支援が回りきらない状況だ。
後半パートの主人公たちが暮らすサイド6は、しかしそれなりに豊かな生活を送っているように見える。実は正史でも中立コロニーとして一度登場している。戦禍のさなかでも経済的に恵まれた平和なコロニーである反面、領空内で連邦軍がジオン軍に襲われていても我関せずとばかりにテレビ中継で成り行きを見守るなど、あからさまに他人事な態度が目立っていた。
おそらくこのサイド6の様子は現実の日本社会の有り様をモチーフにしていたのだろう。今も昔も世界のどこかでは大勢の人々が戦争の犠牲になっているが、それとはまったく無関係に我々は概ね満ち足りた生活を送っている。そんな意図をより強く反映したのか、本作のサイド6は現代の日本の都市部を再現したかのような都市景観を備えている。
もちろん、ガンダムの時代設定は21世紀よりずっと後の未来なので合理的な理由で都市が建築されたとは考えにくい。ガンダムの世界には「テキサスコロニー」など特定の時代を再現したテーマパーク的なコロニーが存在していることから、作中の設定においてはこれも「21世紀初頭の日本の都市」を娯楽的に創出したものと思われる。
さて、その街の中で平凡な女子高生として暮らす主人公、アマテ・ユズリハが様々な騒動に巻き込まれていくのだが、彼女の行動様式が現代の女子高生の習慣に沿っているのだとしたら一つ疑問が残る。今時の子は調べ物をする際にいちいちググってWikipediaを読んだりはしない。一足飛びにSNSでワード検索をするだろう。
設定上もその方が辻褄を合わせやすい。というのも、あの世界の政体が表現の自由に律儀に気を遣ってくれるわけがなく、準公共的な用途のWebサイトだとしても検閲もなしに放っておく可能性は極めて低いからだ。違法パーツの情報が揃った静的なWebページなど真っ先に削除されるに違いない。
対してSNSは大勢のユーザによって散発的な投稿が随時行われており、たとえ検閲の対象であっても当局の対応が追いつかない場合がある。百歩譲ってアマテことマチュが長文を丹念に読むマメな性格なら納得できなくもないが、どう見てもそういうキャラクターではない。スマホを用いる場面は後々にもなにかと出てきそうなのでこの辺りの扱いにはやや懸念を感じている。
違法パーツの設定についても現状では評価を保留せざるをえない。イケイケの軍事国家たるジオン公国がいざ統治を担う立場に回った途端、モビルスーツの非武装化を推し進めるというのはなかなか皮肉が効いている設定とはいえ、あのテム・レイ回路とハードディスクの合いの子みたいな機械で再武装化が可能になるイメージはどうにも湧きづらい。単純に認証を解くためのハードウェアキーならあんなにデカくする必要はない。
一方、ニャアンと難民の描き方は時節柄に即していると感じた。一見豊かそうなサイド6にも実は大勢の難民が流れ込んでいて、彼ら彼女は不当に貧困を強いられている。ニャアンと聞けばどことなくアニメっぽいキャッチーな名前だが、おそらくはベトナムの姓名から着想を得たのだと思われる。
現代の日本にベトナム系の出稼ぎ労働者が急増している背景を踏まえると、この設定は決して偶然ではないだろう。現実の彼らは難民でこそないものの、業者の甘言に騙されて多額の借金を背負わされた挙げ句、日本の理不尽な外国人技能実習制度によって労働力を搾取されている。
にもかかわらず、選挙や運動を通じて諸制度を変えられるはずの我々は彼らの実情に驚くほど無関心だ。彼らが最低賃金を大幅に下回る給与で過酷に働いているおかげで安価に食料や製品を手に入れられている側面もあるのに、せいぜい治安を乱す迷惑なガイジン程度にしか見なしていない。
難民関係のシーンといえば本作に登場する「軍警」のキャラクター像はなかなか面白い。黒塗りのモビルスーツに漢字が印字されているデザインは庵野監督のようであり、押井監督のようでもある。僕はとても気に入った。作中では難民居住区の屋根を引っ剥がしてでも強行捜査を行うなど権威を笠に着る典型的な小悪党として描かれていたが、ジオン軍との複雑な関係性も含めて今後の深掘りに期待したい。
ところで、本作における最大の力点はそんな軍警や当局の目をかいくぐって行われる興行「クランバトル」である。モビルスーツを用いた試合と言うとGガンダムのガンダムファイトを彷彿させるが、クランバトルの参加には違法パーツが必須で常に逮捕拘禁のリスクが伴う。しかし作中の演出からはアングラな地下武闘会というよりストリーミング配信のe-Sports大会に似た雰囲気が漂っている。
ひょっとすると本作の企画はおよそ5、6年前に始まったのではないか。従来の検索エンジンとWikipediaに頼った古典的な調べ物の仕方といい、クランバトルのe-Sportsっぽさといい、どうにかしてトレンドを取り入れようとした努力が垣間見える。脚本の執筆当時にはちょうどよくても放映する時にズレが生じてしまう例は珍しくない。
とはいえ、戦闘シーンはさすが予算がかかっているだけあって小気味よく動いている。クラシカルな画作りにこだわっていた前半パートもそれはそれで味があったが、後半パートの戦闘シーンは勢いと見応えがすばらしい。経験豊富とされる敵方のマブが執拗にマチュの機体を追い続けて返り討ちに遭う場面は思い返すと若干ご都合展開っぽいが、観ている最中にはさほど気にならなかった。
一連の話運びから想像すると「キラキラ」の正体はニュータイプに特有の能力を呼び覚ます神秘空間であると同時に、平行世界を行き来できる特異空間でもあると考えられる。であれば、シャアは「キラキラ」に飲み込まれて消えたのではなく、どこか別の世界で生き延びているとの仮説が成り立つ。
逆に、シャアが乗っていた機体を所有しているシュウジは、きっと別の平行世界から来た人間なのだ。彼と出会ってなんらかの密約を交わしたか、入れ違いで転移したのかもしれない。「キラキラ」を感じることができるマチュもまた、いずれ平行世界を行き来する宿命を背負っていると捉えられる。
なにしろシュウジの頭に乗っかっているロボットの名前は「コンチ」だ。ガンダム作品でおなじみの球体ロボットの名前が「ハロ」Helloで、それと対照的に四角いロボットの名前が「コンチ」こんにちは……ここまであけすけな伏線を張っておいてなにもないわけがない。
ちなみに、こうした平行世界――関連作品を活かしたマルチユニバース化――も洋画業界では以前から行われている手法の一つだ。『水星の魔女』に引き続きトレンド重視の作品作りをすることで若年層の獲得を目指し、片やifのファーストガンダム以後を描く形で中高年層をも誘い出すのが本作の狙いなのだろう。
マチュの家がミサトのマンションと瓜二つなところといい、エヴァファンに向けたイースターエッグにも余念がない。僕は一つしか見つけられなかったが探せばもっとあるはずだ。エンドロールに並ぶ錚々たる制作会社の顔ぶれを見るに、本作がとてつもなく大々的な集客を見込んで作られているのは間違いない。
僕が冒頭で「意外に気に入ってしまって困惑している」と書いたのも、モビルスーツの兵器性やらニュータイプやらを一旦脇に置けるぐらい本作の野心的な取り組みに率直な感銘を受けたからだ。こうなったからにはとことん歴史をかき回して新たな解釈を生み出してもらいたい。伸るか反るか。ひたすら創造を重ねて膨れ上がったガンダムの世界は今、破壊と再生の時期に来ている。