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title: "病気の時にする妄想"
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date: 2023-08-14T20:21:29+09:00
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draft: false
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tags: ['poem', 'diary']
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かのジェームズ・キャメロン監督は殺人ロボットに追われる悪夢を見て「ターミネーター」を思いついたと言う。巨匠は熱にうなされていても元を取る。すごい。だが、残念ながら僕みたいな凡夫はそうじゃない。普通に意味不明な妄想に眠りを妨げられるだけだ。先週の日曜日夜から木曜日にかけて、僕は病に伏していた。
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心当たりはある。Web小説を書く際の自主目標のために睡眠時間を削りすぎた。一週間にわたって5時間も眠らずやりくりしていたせいか現にほんのり具合が悪かったし、日曜日の朝には初期症状っぽいのも表れていた。目標の期日は達成したが代わりに誤字脱字の報告が複数寄せられたので、やはりベストパフォーマンスでは推敲できていなかったと見える。
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日曜日夜の地獄は辛くも新作の公表を終えた直後にやってきた。露骨に身体がだるいし寒気もする。こいつはやっちまったな、と急いで横になるも、案の定寝られない。眠くないわけじゃない。睡眠負債を溜め込んでいるのだから眠いに決まっている。しかし、急速に火照る顔、にも拘らず逆に冷えていく四肢の末端、やにわに痛みだす関節などが僕を頑として寝させない。
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暑いのに寒いっていうのはなかなかやりきれない。火照る顔は今すぐ冷房を入れろと言う。一方、四肢の末端はむしろ布団を被ってくれと金切り声で叫んでいる。仕方がないので布団を被り、顔にはアイスノンをあてがってやる。模範的官僚的折衷案だ。ところが、すでに僕の身体の中では政府転覆の気運が高まっており、波打つ暴徒が国会議事堂に砲撃を繰り返していた。どーんと激しい衝撃が建物を揺らすたびに頭ががんがんする。これが、頭痛だ。
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初日は一睡もできなかった。徹夜なんて具合が悪くなくたって始末が悪い。朝を迎えても食事を摂る気力は当然湧かず、砲撃で滅多打ちにされた頭が痛いわ全身の倦怠感がものすごいわで天井を仰ぐしかすることがない。我が家の天井は真っ白なので、しわの数を数えたり模様を考える楽しみもない。
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数時間経って、身体が苦痛に慣れてくる。断じて和らいだわけではない。体感1トン近い身体を引きずって、まず用便を済ませる。ついでに水を飲む。えらくまずい。次に体温計も持ってくる。一度で全部済ませないと次にいつ起き上がれるか分からない。体温は、40度を越えていた。これはもしかするのではないかと取り置きの検査キットを使ってみたものの、結果は陰性。
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さしあたり各方に連絡する面倒は免れた。冷蔵庫を開ける。まるで戦車の蓋みたいに重い。ゼリー食品の「inゼリー」を取り出す。細かいことだが「ウイダーinゼリー」はもう存在しない。どうやら森永製菓はウイダーの商標を使うのをやめたという話だが、やめたのに商品を作れるのならじゃあ「ウイダー」って一体なんだったんだ? こういう些末な部分にやたら気が向くのは病んでいる証拠だ。
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ウイダーじゃないinゼリーを30分くらいかけてちまちまと飲む。ただの水にさえ圧迫感を覚える今の僕にはゼリーも手強い。飲食のために姿勢を正してもいられないので横になりながら飲む。食事が終わったらSlackで欠勤を報告しなければならない。スマホのどぎつい発光に吐き気を催す。あたかも光源が実体を伴って、眼底の最奥を鋭く突き刺してくるかのようだ。事前に考えた文面を一息で打ち込むやいなやスマホを遠くに放り投げた。
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そうすると、いよいよ虚無の時間がやってくる。スマホは見られないし、読書や映画鑑賞などもってのほかだ。もちろん眠れないのは変わらない。子供の頃の病欠ってなんだかんだで余裕だった気がするのだが、所詮は過去を美化しているに過ぎないのだろうか。お気に入りの映画を一気に3本は観た記憶がある。実際、丸一日休めるとなったらそういう娯楽の一つや二つあったっていい。
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しかし30歳独身男性の僕がやれることと言ったら、見飽きた天井を忌み嫌ってせいぜい目を閉じるぐらいだ。ごくたまに、負傷兵の面持ちで冷凍庫に這って行って、マガジンをリロードするみたいにしてアイスノンを交換する。これを怠ると火照った顔と冷えた四肢の対立が表面化して暴徒がまたぞろ大砲を撃ち鳴らす。窓の外で高らかに鳴く夏の風物詩をぶち殺したくて仕方がなかった。
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さらに数時間経つと新たな脅威が現れた。名を空腹感と言う。僕はこれっぽっちもなにかを食べるモチベがないのに、胃袋のやつときたらこっちの都合などお構いなしで食糧を要求する。お前さっきinゼリーを持っていったじゃないか、と叱責してやりたいが、まあ、やつの言い分も分かる。いつもより配給が少ないって言いたいんだろ。だがあいにく今は内戦中でね。
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胃袋の要求は熾烈極まる。全身の節々が痛いとか、高熱が辛いとか、そういうのとは別種の内側をえぐる嫌らしいしんどさがある。もっともそう簡単に我慢されたら死んじまうんだから、我慢しきれないしんどさを抱えるのが生物の本分なのだが、多少はこっちの事情も斟酌してくれないかな。
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なにも一生食わないなんて言ってない。然るべき順番がある。高熱とか痛みとかが和らぐのが先、メシは後だ。そうすればこそ食事のモチベだって相応に高まる。胃袋のやつにはこういう政治的駆け引きっていうのを学んでもらいたいものだ。そんな愚痴を考えているうちに、ちょっとは眠れた。
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二度目の食事を行う。我が家は段階別に分けたゼリー食品が充実している。次に飲むのは「朝バナナ」だ。こいつはなんと200kcal近くもカロリーがある。例によって30分以上かけて味わう。砂糖がばっちり入っているおかげでバナナ感があまり嘘くさくない。胃袋も納得したことだろう。
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暇つぶしにラジオをつける。いくら病に伏していても一生天井を眺めているつもりはない。耳に勝手に情報が入ってくるぶんには目のやつとて文句は言わないはずだ。普段と違って真剣に聴いていたので巷の流行にずいぶん詳しくなった。カヌレとかいうスイーツが流行っていたかと思いきや、最近はパヌレというのがアツいらしい。あまり口に出して言いたい語感ではないな。
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アイスノンをリロードして体温を測る。みじんも下がってはいない。さすがに高熱とは付き合いきれなくなってきた。殊ここに至っては休戦協定しかない。発熱は病原菌を殺してくれるが、例えるなら街中の反政府軍を空爆して殺している状態に近い。やりすぎれば奪還すべき街がぼろぼろになってしまう。心身が衰弱しすぎれば回復どころではない。
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そこでロキソニンを投与してやる。発熱をコントロールして体力の回復を間に合わせる腹積もりだ。発効を告知した瞬間にぞろぞろと暴徒が下がっていく。あいつらむっちゃ統率がとれてんな。そりゃただの暴徒が大砲とか持ってるわけないか。その間に郊外のホテルでなんたら解放戦線とかいう大層な名前のついた連中と交渉する。
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元はといえば前政権が無茶苦茶な内政をしていたからこうして負けず劣らず無茶苦茶な輩が台頭してきているのだが、それでも連続的な政体を担う者としては尻拭いせざるをえない。とりあえず、なにはともあれ小康状態だ。この日の夜は割としっかり眠れた。朝に起きたら寝汗の量がとんでもなかったが、症状もかなり良くなっていた。体温は36.8度。ほぼ平熱。
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シャワーを浴びて食事を摂る。寒天ゼリーを食べた。2日目にして晴れて固形物デビューを飾る。休戦協定の甲斐もあってインフラ設備の復旧が順調に進む。ラップトップを開いて近況報告を行なったり、小説の誤字脱字を修正したりした。夜には中華粥を作って食べた。束の間の文化的生活――このまま休戦協定から和平交渉に発展できそうだと期待に胸が高鳴る。
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しかし3日目の朝、事態は急速な悪化を迎える。和平交渉に向かった閣僚の首が官邸に送りつけられてきたのだ。一転して火照る顔、猛るタカ派。議会は空爆の再開を決定する。体温は再び40度を越えた。交渉の席でいざこざがあった上に、誰かが休戦協定の期限切れをほのめかしたらしい。相手も重鎮の一人が死んだ。お互い好き勝手にやってくれたな。
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とはいえ、それは同時に解放戦線の内部に綻びが生じている実情を推測させる。過激な報復なくしては権威が保てない状況なのだろう。復旧したばかりのインフラ設備が自軍の空爆でずたぼろに壊されていく様相を見送りながらも、事態の収拾が目前に迫っている手応えを感じた。習慣的に飲んだコーヒーはめんつゆと焦げたナッツを足した味がした。
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タカ派を満足させるためにしばらく空爆を許した後、また休戦協定を申し入れた。連中に受け入れない手はない。構成員の大半が死んでいる。こっちも建物の揺れに我慢できなくなってきたところだった。どうせもともと出口戦略のない反乱なのだ。苦痛を堪えつつごまクリームを塗った食パンを一枚食べた。協定が発効しても具合の悪さは変わらず、この日もラジオの世話になった。
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今回は抜かりなく和平交渉に臨む。睡眠時間最低7時間厳守の確約が功を奏したらしく、情報が知れ渡ると解放戦線の中から自発的に投降する者が現れはじめた。タカ派の説得に骨を折ったが効果は絶大だ。相手方の指導部による脅迫めいた訓告も虚しく、3日目の晩までに組織的抵抗はほとんど失われた。ここでタカ派の交換条件を呑んで解放戦線本部への部隊投入を決定する。夕飯だ。冷えた大根おろしのうどんに舌鼓を打つ。まともにメシの味が判るようになってきた。
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4日目の朝。症状はあらかた落ち着いたが喉が激しく痛む。襲撃を逃れた解放戦線の残党が立てこもって最後の抵抗を続けているようだ。そろそろハト派の顔も立ててやらなければならぬ。僕は昔から粉の龍角散にあこがれていた。なんでも喉の痛みに一番効くのは兎にも角にも龍角散だという話だ。すっかり軽くなった60キログラムの身体で薬局へ行くと700円ほどで売っていた。
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粉の龍角散の味は、甘みのない龍角散ののど飴っぽかった。もし経験する順番が逆なら感想も逆だったのかもしれない。服用すると15分と経たないうちに残党が投降してきた。彼らの呼んだ交渉人とやらは只者ではないな。僕はハト派の議員たちに惜しみなく感謝を述べて平和的解決の理念をしきりに称揚した後、タカ派のところへ行って実力行使の重要性にもうなずいてみせた。
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食事はもう普段通りに摂れる。失ったカロリーを取り戻す勢いで色々と食べた。塩分がいつもより強く感じられるのが新鮮だった。あんこの甘みよりもバターのほのかな塩味の方が味蕾を刺激する。砲撃の静まった街は今や、建築工事の騒音に取って代わって急ピッチで再建が進んでいる。
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働き手には元解放戦線の者も多い。末端の構成員には等しく恩赦を与えた。なにしろ大切な労働力で、票田だ。まあ、次の選挙は楽勝だな。というような妄想とともに4日間をやり過ごしていた。しょうがないだろ、こんな時には現実逃避にひたむきにならざるをえないんだ。
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