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書評「人間たちの話」:にじみでる諦観の念 | 2021-06-10T22:30:28+09:00 | false |
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どんなに完璧な生活リズムで暮らしていても、やはり寝付きが悪い日というのはあるものだ。寝床に入って十分、二十分……まだ眠れない。そんな時には、諦めて本を手にとる。眠れない日の読書はどういうわけか活字がよく頭に入ってくる。夜半に間食を貪るがごとく、僕は文章を頬張った。
そうは言っても膨らむのは頬ではなく瞳孔で、咀嚼音の代わりに目がぱちぱちと閉じて開く。そういう形態の営みを三時間も続けた頃、物語はあらかた食べ尽くされた。その時分には、僕の目もようやく咀嚼を止める気になって休息に落ち着いたのだった。特にオチはない。
本作は「横浜駅SF」で有名なえらく読みにくい名前の著者によって書かれたSF短編集である。それぞれの作品は独立しており執筆された時期も異なる。共通の特徴としては、壮大なスケールの舞台や突飛な設定を馴染み深いフレーズで言い表している点が挙げられる。
このアプローチのおかげで、通常は想像しにくいはずのSF世界がとても親しみやすい形にまとまっている。また、そこからおのずと醸しだされるどこかズレた雰囲気が独特の魅力を形成しており、これは既読の諸兄においては大いに頷かれるところかと思う。
冬の時代
気候変動によって日本列島が雪と氷に覆われた未来の話。物語の冒頭から日本の地名が登場するので、大抵の読者は迷うことなく物語に入りこめる。聞けば件の厳冬は不測の事態というわけではなく、前々から予想されていたことらしい。作中の科学者たちは遺伝子改良を施した生物を前もって放ち、冬の時代の到来により人類が文明を失っても食料の調達に困らぬよう環境整備をしていたという。
主人公らはある事情から、故郷の村の掟に従って一年間の流浪を言い渡された一人の少年と大人。掟自体に不服はなかったが、どうせなら暖かい場所を探しにいこうと人生を前向きに捉え、村に引き返さず延々と南下を続けている。旅の途中、自律的なプログラムで延々と雪かきを続ける除雪機に出くわした。その内部には電源に繋がった冬眠カプセルがあった。
雪がこんこんと降りしきる世界で除雪機の価値はとても高い。冬の時代以前のインテリたちはなかなか頭をひねったもので、除雪機を見つけた生き残りの人類は雪かきを持続させるためにきっと気を払うだろうと当て込んだのだ。事実、動物の死骸などの雑多なバイオ燃料で簡単に動くこの機械は、主人公らにとってもありがたかった。中は窮屈だがほんのり暖かい上に、歩かなくても勝手に先へ先へと進んでくれるのだから。
冬眠カプセルには「冬の時代が終わるまで起こすな」という旨の注意書きが記してあった。作中の言葉を借りれば、主人公らにとっては生まれた時から接してきた厳冬も、以前の人類にとっては眠りで回避すべき苦痛の時間に過ぎないのだ。作中には描かれていないが、おそらく他でも冬の時代をやり過ごそうとする試みは行われていて、この世界の人々はいわば非同期的に時代を歩んでいるのだろう。
道中、不完全な遺伝子改良を施されたせいでかえって猛獣のような性質になってしまった元人間や、周囲から隔絶した暮らしをしてきたために独自の価値観を持つに至った人などが登場するが、いずれも苦楽のある人生を雪上に描きだしている。僕が著者ならタイトルは「冬の時代」ではなく「非同期の時代」としたかもしれない。最終的に主人公らは常夏の地域と記録にある沖縄へと向かう。行く末は誰も知らない。
たのしい超監視社会
誰もが「一九八四年」を愛している。言わずと知れた珠玉の名作である。僕もSFオールタイムベストを作るのなら同作は真っ先に挙げる。初めて読んだ中学生の時などはそのショッキングな顛末に恐怖心がいつまでも拭いきれなかった。僕が政治経済に強い関心を抱きはじめたのはそれから間もないことだった。
本作はそんなおぞましく残酷な「一九八四年」的監視社会像に対して、相反した一種の現代的解釈を加えている。テレスクリーンなる映像送受信機が最先端のテクノロジーだった「一九八四年」とは異なり、世界観を共有しつつもズルズルと二十一世紀まで進んだifの未来が描かれている。
「一九八四年」ではユーラシア、イースタシア、オセアニアの三カ国がそれぞれの独裁体制を維持すべく意図的に永久戦争を繰り広げていたが、本作の時代では色々あってユーラシアが内部崩壊し、消滅。主人公らが暮らすイースタシアは急速な政治改革を余儀なくされた。その方法とは、国民監視の大義名分の下に肥大化しきった特高警察を解体し、通信回線に接続された「電幕」なる装置でもって国民が国民を互いに監視しあうというものだった。
ゆえにイースタシアの国民は二十四時間いつでも「画面映え」を気にしながら、時として自己アピールに用いつつ、おおむね楽しく監視社会を暮らしている。というのも、より多く任意監視の対象に選ばれれば選ばれるほど国民信用値が向上し、就職や進学などで優遇措置を得られるからだ。たくさん監視を受けていても密告されなければ、すなわち政府にとっては模範的な人物と考えられる。
多分に漏れず、主人公も「映え」を気にする国民の一人である。彼はカメラの前で原稿用紙を部屋に散らし、しばしば悩める青年作家を演じている。実際の進捗は芳しくない。主人公の任意監視者は十七人おり、創作の苦労話や大学生活の愚痴などを漏らす。例の読みにくい名前の著者が、われわれの世界でいうところのYoutuberを意識して描いたのは言うまでもなく明白だ。
主人公は国民青年文学賞の応募締め切りと、進級がかかった期末試験が同時期にやってくることに強い焦燥感を抱いていた。独裁国家イースタシアの小説コンテストは応募者ではなく政府が大まかな内容を決める。幸運にも今回のあらすじはSF寄りだったので、それを得意とする主人公はどうしても応募にこぎつけたかった。とはいえ、勉学を疎かにするわけにもいかない。
そんな中、相互監視メイトの友人に誘われて彼は街コンに参加する運びとなった。むろん前述の理由から乗り気ではなかったが、健全な異性交流を育まない青少年は不穏分子と見なされ減点対象になりうる。そこで出会った同級生の女性と書類上のみ「交際相手」となる談合を交わすも、ちょっとした行き違いから相手が政府転覆を企む反体制派だと判明し、とうとうグループの重鎮と顔を合わせるまでに至ってしまう。
しかし主人公は会話中に示された「プライバシー」や「自由」といった概念がまったく理解できない。むしろ密告で得られる信用値によって四単位分の免除措置が受けられることに気が付き、彼は特に葛藤もなく同級生ごと反体制派を売り飛ばしたのだった。
本作で描かれるディストピア像は新しい。「一九八四年」など従来の形式をとるディストピア作品は、むろん、それはそれでびっくりするほど面白い。面白いのだが、いかにも実現しそうな真実味はとうに賞味期限が切れている。独裁と戦争の恐怖が生々しく記憶に残る五十年代とは対極に、二十一世紀の先進国ではあくまでエンターテイメントの領域に収められてしまうからだ。
一方、本作は幾分おちゃらけた雰囲気こそあるものの、わりあい実現性のありそうなディストピア像をわれわれに提示している。主人公らは決して政府の言い分を鵜呑みになどしていない。どころか、必要に応じて特殊な話法で密談さえ行っている。統計や法律がおよそデタラメに作られていることも知っている。にも関わらず、おおむね国の秩序に従って生きている。
多少の不自由は飲み放題の麦酒や種々の優遇措置で補填され、体制と戦う発想には至らない。設けられた制限を壊そうとは思わず、その中で賢く生きようとする。この感じ、現代の日本社会にも通ずるものがあると思わないだろうか? 違いがあるとすれば、作中のイースタシアは経済成長しているのに対し、われわれの日本社会は衰退していっているところくらいだ。
国が何が何でもオリンピックをやると言えば、われわれは不平不満を漏らしながらも結局はそれに付き従う。じきに祝賀ムードが演出されると国民も何となく良い気分になり、やがて反抗の芽は摘みとられる。かといって膨大な負債がどこかに消え去るはずもなく、それらは子々孫々に引き継がれていく。
政府もわれわれもその責任を負う気は毛頭ない。そもそも責任の主体が明確に存在しないのでうやむやになる。そんな真似を延々と続けるうちにとうとう資産を食い尽くし、残された世代がババを引く。この結末には誰もが薄々勘付いているが、みんな「いいね」の数やVtuberのリアクション、仕事終わりのストロングゼロなどに気が向いているので、いつまでも事態は変わらない。
せいぜいババを引かされた世代がブチギレてわれわれを殺しに来ないことを祈るのみだ。こんな体たらくでは言い訳の余地などない。
人間たちの話
宇宙の新しい生命体の定義や、惑星を惑星たらしめる根拠はとどのつまり人間たちのさじ加減に左右される、という話。タイトルとプロローグから一見壮大なスケールの物語を空想させるが、最終的には地球外生命体の認定が会議の多数決であっさり決められてしまう。
合議の対象は、岩盤の隙間に溜まった水溶液やガスに溶けた有機物といった、見るからに中途半端な代物だった。しかし西側諸国からなる火星チームは、中国やインドといった他の宇宙大国に先を越されないために、どうしても前者を生命体として認めさせる必要があった。これは同チームに属する主人公にとっても変わりはない。たとえ、個人の意見は異なるとしても。
人間同士のわずかなパワーバランスの差によって初の地球外生命が決定される様子からは、官僚主義的な意思決定への風刺が見てとれる。甥との会話で登場したオヴィラプトルの話も面白い。オヴィラプトルは長らく他の恐竜の卵を盗んで食べるとされてきたが、近年の研究によって自身の卵を守っていただけだと判明した。
だが、それでも一度名付けられた「卵泥棒」を意味する不名誉な名前は変えられない。生物の名称を変更する手続きには莫大な手間がかかる。ゆえにオヴィラプトルは、汚名をそそがれた今でも依然として卵泥棒のままなのだ。惑星として扱われていた冥王星が準惑星に格下げされたり、小惑星扱いだったものが準惑星に格上げされたりと、歴史的な「人間たちの話」が紡がれていく。
本作における「人間たちの話」とは必ずしも人間賛美的な文脈ではない。人間以外の動植物にとっては取るに足らない、人間本位の手前勝手な物語だったのだ。こうした些末な定義争いはわれわれの社会でもしばしば発生している。作中では他にも、惑星探査機の部品の一部が日本の工場で作られたことを喜び勇んで報じるマスコミや、主人公が地球外生命体の発見に大きく寄与したことを期待する日本社会の気勢などがアイロニックに描かれている。
これは著者なりの「日本スゴイ」批判に違いないが、本作の舞台は現在から三十年以上も先の時代だ。そんな未来でも今と変わらぬ痴態を晒しているとしたらため息すら出そうにない。
宇宙ラーメン重油味
しんみりとした風情に満ちた前作の次ページにデカデカと 「宇宙ラーメン重油味」 などと印字されているのだから、きっと面食らった人も少なくないはずだ。社会風刺色に優る先の二作とうってかわって、本作はかなりコメディに振っている。
主人公は「消化管があるやつは全員客」をモットーに掲げ、太陽系外縁部の駅チカ的小惑星群都市でラーメン屋を営む地球人。ここでいう駅とは鉄道のではなく、遠方の星系にワープするための超空間移動ポータルを表している。この時代における地球人類は銀河連邦序列四位の大国として、宇宙の星々に巨大な経済圏を築き上げていた。当然、大勢の来訪者でごったがえす太陽系の駅チカも、様々な異星人が共に暮らす都市として賑わっている。
聞けば地球人類は自力で惑星間航行を為し遂げた自負心から、異星人に対して排他的な態度をとる傾向が見られるらしい。そのため、せっかくの駅チカながら完璧な異星人向けの食事を出す飲食店はそう多くない。ゆえにどんな異星人をも満足させると噂のラーメン屋は注目の的だった。ある時は異星人の体組成に合わせた重油味、またある時は小惑星よりも大きい客のために特注の原子炉まで用意する。
うまい宇宙ラーメンを作る秘訣は、各々の異星人の必須元素を調べて味の決め手に用いることだ。地球人がグルタミン酸を「うまみ」と認識できるのは、同アミノ酸が人間の生存に必要な食材に多く含まれているところに由来する。同様の考え方は異星人に対しても通用すると主人公は胸を張る。
本作はテーマそのものよりも、特徴的すぎる異星人の性質や言葉運びに面白さのウエイトが占められている。これ以上の説明はかえって忍びない。もし本当にあらゆる異星人のための飲食店を実現しようとしたら、大資本によるシステマチックな経営なくしては成り立たないとも考えられるが……まあ、そんなのどうだっていいじゃないか。リアリティを超越したセンス・オブ・ワンダーをぜひ感じてもらいたい。
もともとコメディ仕立てなこともあり、エンターテイメント的な観点で言えば本作が短編集の中でもっとも面白くできていると思う。
記念日
あまりSFらしい物語ではない。僕はなんだか村上春樹っぽい雰囲気だなと思った。何をもって村上春樹的と断じるのかはいまいち言語化が難しい。が、本作のように異常な出来事を前にしても動じずに日常を営もうとする話は、少なくとも僕にとっては村上春樹的な区分けに突っ込まれる。
主人公は大学に勤務する研究者である。ある日、仕事から帰宅したら部屋の中央に大きな岩が屹立していた。何の変哲もない岩だが、大きすぎて自力ではとても動かせない。室内はだいぶ手狭になってしまった。しかし辛うじてベランダを行き来できるため、生活する上ではさほど不自由しない。主人公は風変わりな価値観の持ち主ゆえ、岩の存在を認めたまま豊かな内面描写と共に淡々と日々を暮らしていく。
ほら、どうだ。これで主人公がパスタを茹ではじめたり、どこからか女が湧いてきて情事にでもふけろうものならもう完全に村上春樹だ。逆を言えばこれら二つの重要な構成要素が欠けているので、村上春樹的ではあっても完全な村上春樹ではない。僕の見立てではせいぜい九分の四村上春樹といったところだ。フォルダから紙片が微妙にはみ出している。
作中では他にも岩が前触れなく部屋の端に動いたり、主人公が高熱で寝込んでいる時に雑炊が出現したりなど、輪をかけて不可解な事態が起こる。しかし主人公はあくまですべての結果を受け入れ、決して大騒ぎしたりはしない。それは彼以外も同様で、雨漏りの修理にやってきた作業員は驚きもせず岩を足場代わりに使い、写真を見たオカルト好きの知人は言葉少なめに祝福の言葉だけを送る。
主人公はいつの間にか部屋に岩を置くことがトレンドになっているのかなどと思い悩むも、結局何一つ謎は解明されないまま物語は終わる。こういうところも村上春樹的だ、というとまるで腐しているみたいだが、僕はわりと本作を気に入っている。特にアポトーシスのくだりは感心した。
No Reaction
読んですぐに「言葉選びが若い」と感じた。予想は見事に的中した。本作は、二〇一四年に書かれた初期の作品とのことだった。とはいえ主人公が中学生である点を踏まえると、案外これも意図した書き方なのかもしれない。
主人公は生まれついての透明人間。両親はおらず、ずっと透明なまま他人の家に居候して暮らしてきた。言葉はつけっぱなしにされたテレビを通じて覚えた。本作における透明人間の特徴はとても興味深く、先行例にありがちな利点はほとんどオミットされてしまっている。
壁をすり抜けることはできないし、物に触って動かすこともできない。その一方で、外部からの物理的作用は受ける。つまり、人にぶつかったら痛い思いをするが、相手の方は何の感覚もない。
ドアノブをひねって扉を開けられないので、下手をすると室内に閉じ込められたまま過ごす羽目になる。そんな不幸にも思える星の下に生まれた主人公だったが、わりあい前向きな性格をしており小粋な冗談を挟みながらぼちぼち生きている。
終盤、透明人間の新解釈が披露されるがここは人によって賛否が別れそうだ。物語全体を通して語られる非力な透明人間ならではの独白は、人を殺傷しうる能力が発現したとしても有効性を認められるだろうか?
事後の主人公はその強力きわまる能力を使いこなすことにさほど意欲を見出さない。これが主人公の人格のみに依拠した結末ならやや説得力が弱い。今まで理不尽に孤独を味わわされてきた人間なら、たとえ破壊や殺戮であっても他者に影響を与えたいと考える方が僕は自然に思える。
もちろん、著者や作中の彼の性根がまっすぐで、単に僕の方がひん曲がっているだけという可能性も否定はできないが。
おわりに
本短編集は一見ソフトで親しみやすい顔をしているが、後ろ手に隠し持った短剣で読者を突き刺す機会をうかがっている。いくつかの作品で展開された風刺は現代日本社会へのダイレクト・アタックに等しい。「一九八四年」でかつて示された、より良い社会への展望はおくびにも見られず、本短編集から感じられる姿勢は諦観の念が強い。
「たのしい超監視社会」の社会像は現在の中華人民共和国にも近似している。中国共産党はどう取り繕おうと確実に圧政を敷いているし、当の中国人も十分に自身が置かれた状況を理解している。それでも彼らは何だかんだで共産党支配を認め、民間ベースではあるものの「芝麻信用」などの国民信用値然とした仕組みを取り入れつつある。
日本のシステム開発運用力の低さを考慮すると、もし本当に件の超監視社会がやってくるとしたら他国のこういったサービスに乗り入れる形になりそうだ。中国と聞くと兎にも角にも拒絶反応を示す日本人だが、数十年先のことは判らない。七十年ほど前には根強かったアメリカへの敵愾心も、敗戦と同時に驚くほど速やかに雲散霧消した。われわれは適応力が高い。
本短編集からにじみでる諦観の念は、たぶんそういう種類の代物だ。われわれには世の中を変えられないし、変えたいと願う強い熱意も機運ももはや残されていない。とにかくルールや掟には面従腹背。隙を見てたまに逸脱を楽しむ。運悪く誰かが排除されたら、可哀想だけど仕方がない。
SFとは良くも悪くも、辛くも快くも、われわれの時代精神を紙面に反映させてしまうものだ。