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11話の途中から
2024-02-07 15:12:58 +09:00

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たとえ光が見えなくても 2024-01-04T20:57:41+09:00 true
novel

 今でも思い出に残っているのは、指先に残るわら半紙の感触。言われるままにピンと立てた人差し指を滑らせていると、横にいるお父さんが耳元に語りかけてくれる。「そうら、そこがゲオルゲン通りだ。そこを右に曲がると――」私は彼より先に大声で答えた。「レオポルト通りね。お店がいっぱいある」「そうだ。いつかお前もそこで立派なドレスを買うようになる」
 耳の奥底からあまりにも聞き慣れすぎた高周波音と低周波音が徐々に近づいてきているが、まだ私は喋っている。
「私が着たってしょうがないわ。どうせ分からないもの」「そんなことないよ。上物は着るだけで分かる」 「じゃあ、今、欲しい」
「今は……難しいかな。そういうお店はどこも閉まっている」
「どうして?」
「……みんな、他のことで忙しいんだ。さあ、指がお留守だぞ」
 私の指先がぐんぐんと先に進み、ルートヴィヒ通りを過ぎる頃には高周波音が耳を覆いつくさんばかりにわなないていた。
「ずっとだ、そう、ずっと。さあ、広場に着いたぞ。どこだか分かるかな?」
 思わず、私は騒音に負けないような甲高い声で叫んでいた。 「マリエン広場! 私と同じ名前の――」 <ねえ、マリエン、どうしたの>
「あっ……ごめんなさい、ちょっと、夢を見ていたみたい」
<こんな状況に居眠りだなんて、よほど自信があると見ていいのかしら>
 リザのつっけんどんな声が束の間、私の頭蓋を満たす。 「そういうわけじゃあ……あっ、もう来るみたい」
<こっち側が済んだらそっちに行くわ、通信終了>
 途端に高周波音が左右に広がった。漆黒の視界の中に仮初の点描がぽつぽつと描かれはじめる。見たところ、十か二十か。だいたいそのくらい。まず間違いなく偵察でも斥候でもない。前触れなくびゅうっと吹いた突風にドレスのオーバースカートがひらひらと揺れる。  相手はまだ私に気づいていない。気づくはずもない。
 北海のまっただ中――上空数百メートルの位置に直立しているたった一人の人間の姿を視認する術などない。
 私はいつもの調子で右腕から手の先に流れる閃光のイメージを思い描いた。すると、見ることができなくても迸る光の層が肩口から腕を伝い、手のひらに集まっている様子が感じ取れた。最初は大雑把でもいい。的はたくさんある。うわんうわんと唸りをあげて接近する群体に手のひらを向けてから、弧を描いて光の渦を放出した。
 きっと壮大な景色なのだろう。耳をつんざく高周波音に代わり、いつか聞いたファイヤーワークスの音を何十倍にも派手にしたような爆発音が彼方から連続して聞こえてきた。今ので半分くらいは落とせたと思う。私は空気を柔らかく蹴ってふわりと上昇した。気流が身体の上から下に通り過ぎてスースーする感覚が、実はけっこう気に入っている。
 十分な距離を得た後、今度は鋭角に蹴り出して勢いよく前へと滑空する。ついでに脚に取り付けたホルスターから取り出したステッキは指先よりも太く、手のひらよりは細く、より指向性を持って閃光を撃ち出すことができる。崩壊する群体の悲痛な音が顔面を打つ。左に一機、右に二機。まず右に向かってステッキを振った。直後、手からステッキを通った閃光が鞭のようにしなって動き、遠ざかろうとする二つの戦闘機を鮮やかに両断したのが分かった。
 続いて、左側に取り掛かろうとしたところ、バリバリバリと機銃の音と共にビリビリとオーバースカートの生地が破れる音がした。金属の塊が表皮に達した感触を得るも、閃光に守られた肉体の奥には届かない。あてずっぽうの射撃ではない。確実に私を狙って撃った。顔を傾けると、プロペラが回る高周波音と、射撃音の残響と、機体が空気を切る音が、像を結んで漆黒の視界の中に空想上の戦闘機を描いた。
「そこにいるのね」
 私は像の上めがけて飛んだ。ロングブーツの底が、確かな金属質を捉えた。今、自分は戦闘機の上に立っている。
 前方で人の声がした。英語なので、私にはよく分からない。甲高い拳銃の銃声もする。たぶん私を撃っているのだろう。
 幸いにも銃撃音の角度から操縦手の正確な位置が把握できたので、私はおかえしにステッキを持っていない方の手で拳銃を模り「ぱん、ぱん」と言った。刹那、がくんと金属の地面が大きく傾ぎ、前のめりに倒れ込みそうになったので慌てて空中に逃げた。まもなく最後の機体が海に沈む音がすると、辺りは静かになると思われた。
 だが、高周波音は増え続ける一方だった。うわんうわんという唸りが第二陣の到来を告げる。
 私は再び手のひらに光の力を収束させた。騒音を打ち払うように死の円弧を作り出す。
 今度のファイヤーワークスはひどく小さかった。未だ優勢を誇る風切り音が群をなして爆発音を切り裂き、前へ前へと迫ってくる。
 真っ暗の視界に高速で描かれては消える軌跡を狙ってステッキを振りつけた。手応えのなさが私をますます焦らせる。
 まずい、このままじゃ本土が空爆されちゃう。
「お願い、お願い」
 必死に消えていく軌跡へと追いすがって、ステッキを振り続ける。時々聞こえる爆発音にも、数多のプロペラ音は揺らぐことなく私の左右上下を通り過ぎていく。
「お願いだから、落ちて」
 そんな文字通りの神頼みの声を拾ったのは、リザちゃんだった。
<どいて>
 私はばたばたとはためくスカートを抑えながら、ほぼ垂直に降下した。全身が絞られるような圧力は十数秒ほどで終わり、穏やかな波の音が耳に届いた辺りで静止した。
 直後、頭上で今日一番のファイヤーワークスが花開いた。形は見えなくても音の大きさで分かった。
「リザちゃん、すごい」
 惜しみのない賛辞に彼女は鼻息一つで答えた。
<ふん、私の方は敵が少なかったから>
 まもなく、施設長から連絡が入った。
<たった今、レーダーで確認した。目標は殲滅された。ご苦労さま。二人とも帰ってきておいで>
 だけど。 「いいえ、まだいるわ」
<はあ? あんた、なに言って――>
 実は、海面に避難してからずっと聴こえていた。さざなみの音に紛れて響く、おごそかな重低音。
 緩やかに上昇してから、身体を前に傾けて北海を見つめた。視界は暗闇でも、繰り返される低周波がその奥深くにおぼろけな像を作り出す。そこへ向かって、手のひらで集めた閃光を解き放った。波打つ水の動きを視界に描きながら待っていると、低周波音も消えた。
「海の底でかくれんぼしようとしていたみたい」
<……潜水艦がいたのね>
 はっとするリザの声に施設長も応じる。
<さすが、我が帝国航空艦隊が誇る最終兵器だ>
「でも、せっかく仕立てて頂いたドレスを汚してしまいました」
 施設長は短く笑った。
<また作ってもらえばいい。次はもっと立派な生地で注文しよう>
「嬉しいわ。早くお父さんにも見せたい」
 私はまた、漆黒の視界の中にお父さんの輪郭を描いた。
<祖国に勝利をもたらした後、毎日だって見せられるさ。では、改めて帰投を命じる。通信終了。ハイル・ヒトラー> 「はい、直ちに帰投します。ハイル・ヒトラー」
 ところで、私はお手紙を送る時に必ず年も書くようにしているの。そうじゃないと何年も文通することになった時、どれがどの八月だったかそのうちに判らなくなってしまうかもしれないでしょう?
 一九四六年十月二一日。この日もなんとか勝利を収めました。
 たとえ光が見えなくても。


”一九四六年十一月七日。昨月の今頃はあんなに暑かったのに、このところめっきり冷え込んできました。同じドイツでもミュンヘンとケルンでは少し調子が違うようです。引っ越して三年が経とうとしているのにまだ慣れていません。ブリュッセルのお空模様はいかがでしょうか。本当はすぐにでも空を蹴って会いにいきたいのだけれど、あいにく今の私は上官の許可なくしては男の人の背丈より高く飛ぶことも許されていません。でも、施設長が仰るには戦争でもっと功績を立てれば、どんどん偉くなって、したいことがなんでもできるようになるそうです。たまに失敗してしまうけれど、最近はうまくやっています。”  チーン、とタイプライタが鳴り、ハンマーが紙面の端に到達したことを知らせてくれる。一旦、タイピングを止めて手探りで本体のレバーを引っ張り、改行する。 ”それにしても、まだ子どもの私が「上官」とか「施設長」とか言って、言葉にしてみたらずいぶんおかしい話に聞こえるでしょうね。今の私はなんでも帝国航空艦隊所属の中尉なんだそうです。私よりたっぷり一フィート半も大柄な兵隊さんたちが、前を歩くとさっと右、左に避けてくれるのが分かります。姿は見えなくても足音でだいたいどんな背格好なのか分かりますから。”
 チーン。また、音が鳴った。再びレバーを引いて改行する。
”いつかもっと偉くなったら、私たちの鉤十字がはためくブリュッセルの空を飛んで、お父さんに会いに行く許可をもらおうと思います。ついでに山ほどのチョコレートを買うことも許されそうな気がします。その日まで、どうかお元気で。ハイル・ヒトラー”
 チョコレート……そう、チョコレートだ、と私は唐突に思い至った。今週、お給金を頂いたから、ベルギーのチョコレートは無理でも近所のチョコレートは買える。一月ぶりのご褒美。椅子から勢いよく立ち上がったら、ふわ、と全身が浮きかけたので、あわてて踵を地面にくっつける。左を向いて五歩半歩くと、壁にかかっているバッグがある。その中にお財布も身分証明書も入っている。前に手を伸ばすとそこには確かに古びた皮革の感触があった。
 両手でバッグを掴んで上にもちあげると肩掛けが釘から外れる。それを頭から被るようにして肩口に合わせると、また左に三歩歩いて、冷えたドアノブを触った。すぐ隣に立てかけられた杖も忘れずに持っていかないといけない。これがあるのとないのとじゃ大違い。部屋を出ると廊下が待ち受けているが、左手の杖先で床を叩きながら右手で壁をなぞっていくと、思いのほか簡単に玄関までたどりつける。  まだお日さまの熱を頭のてっぺんに感じる時間なのに、外は肌寒かった。さっき手紙で書いてばかりだというのに、横着せず右へ四歩半歩いてコートを持ってくるべきだった。でも、杖の先っぽで石畳をとん、とんと叩きながら道を歩いているうちに、だんだん身体が温まってきた。  この杖は先端がとても硬くできている。なので固い地面を叩くと甲高い音とともに、衝撃が指先に伝わる。すると、私の真っ暗な視界の中に白線の波がざざあ、と描かれていく。音の調子と衝撃の具合で、あと何歩歩くと壁があるのか、どの辺りに他の人が立っているのかだいたい分かる。
 今しがた、目の前に白線の壁の輪郭ができあがったので、私はそれをひょいとよけて道を曲がった。あまり土地勘のないケルンの街も今ではだいぶ楽に歩けるようになった。
 こういうのって誰でもできるわけじゃないみたい。施設長が「まるでコウモリみたいだね」とおっしゃっていた。聞いた話では、コウモリさんは目はほとんど見えないのだけれど、代わりに壁とおしゃべりをして場所を教えてもらうんだそう。一体、どんなふうにお話しているのかな。
 でも、確かに私とそっくりだ。杖でコツコツと叩くと地面が壁やお店の場所を教えてくれる。きっと私はコウモリとして生まれるはずだったのに、間違えて人間に生まれてきてしまったんだ。だとしたら、なんて運の良いことだろう。人間じゃなかったらチョコレートは食べられない。
 また角を曲がって路地に入ると、もう杖はいらなくなった。鼻をくすぐるチョコレートの甘い匂いが、ひとりでに私の足をお店の前に運んでくれるからだ。揺るぎない自信を持って手を前に突き出すと、果たしてそこには目的地のドアノブがあった。ぐい、と手前に引くと、愛想の良さそうなおじさんの声が出迎えた。
「やあ、久しぶりだね」
「あの……」
 おずおずと欲しいものを言いかけると、おじさんが得意げに先制した。 「チョコレートかい?」
「あ、はい。そうです」
「いやしかし、この頃は原料の配給が厳しくてね」
 低い声でウーン、とうなるおじさんの声に、私の心臓は緊急降下中の気圧よりも重たくなった。
「えっ、チョコレート、買えないんですか?」
「買えない……」
「そんな……」
「……わけないだろ、お嬢ちゃん。ちゃんと君がいつ来てもいいようにとっておいた」
 目線の高さにざっ、と紙袋が置かれた音がしたので、思わず私は手で袋をぎゅっと掴んだ。大、小、いろんな形のチョコレートが袋にぎっしりと入っているのが分かった。
「こんなに頂いていいんですかっ!?」
 店の中に響く大声で言うと、店主のおじさんはげらげらと笑って答えた。
「いやいやだめだよ、ちゃんとお金はもらうからね、はっはっは」
「あ、いえ、それはもう、もちろん。今すぐお支払いします」
 私は急いで鞄の中をまさぐり財布を取り出して、中に入っているお札を全部出した。
「これだけあれば足りますか」
「そんなにはいらないよ」
 おじさんは数枚の紙幣を抜き取ると、大きなごつごつとした手のひらで私の手を包み込み、そっと押し戻した。
「気をつけて帰るんだよ」
「はい、直ちに帰投しま……じゃない、はい、まっすぐ帰りますっ」
 最後の最後でうっかり会話の段取りを誤った私は、杖をいつもより素早く叩いて店を足早に去った。変な子だと思われたかもしれない。しかしなんにせよ、チョコレートが手に入ったのは間違いない。量もいつもよりずっと多い。思わず浮きかけた足を、うんと踵に力を込めて地面にくっつけた。
 片腕にチョコレートの紙袋を抱えているからか、ちょっと杖を叩くのがやりづらい。いっそ飛んで帰ってしまいたい。気が急いて杖の先端の向きがおろそかになってしまっている。白線の波が描く軌跡はおぼろげで頼りない。それでも私はずかずかと勇ましく前へ前へと進む。今の私は重戦車だ。
 しかし私の進撃は勝手知ったる街角をひょいと曲がったあたりで唐突に止まった。鼻先にぼすん、と衝撃が走り、地面に尻もちをついた。紙袋が手から滑り落ちる。突然の出来事でも、からからと石畳を転がる杖の行方を見失わないよう耳を傾けていると、覆いかぶさるように男の子の声が上から降り注いだ。
「いってーな」
「なんだ、この女」
「いきなりぶつかってきやがった」
 他にも何人かの声がする。咄嗟に「ごめんなさい、急いでいて」と平謝りすると、どういうわけか男の子たちの怒声がぴたりと止んだ。言葉遣いで怖そうだと思ったけれど、実は優しい人たちだったのかしら? と期待しつつ、地面のどこにあるはずの杖を手でまさぐっていると、まもなくそれは無惨に裏切られた。
「こいつ、目が見えてないんじゃないか」
「あれ見ろよ、チョコレートだ」
 また少しの沈黙。
 私は反射的に杖を諦めて紙袋を掴もうとした。が、言うまでもなく相手の方がすばやかった。がさがさと祝福の鐘を鳴らすその音は、今や石畳に這いつくばる私のはるか頭上にあった。
「あの、お願い、返して」
「なんでだ?」
 三人の中で一番野太い声の主が飄々と言う。続けて、チョコレートの包装紙を破る音。ぱきっ、と歯でかじる音がいやらしく辺りに響いた。
「お前みたいな国家のお荷物がこんな贅沢品を持っていいわけないだろ」
 別の男の子がもっともらしい主張で私からチョコレートを奪ったことを正当化した。
「でも、私がお金を出して自分で買ったものですわ」
「ふん、どうせ親の金だろう。出来損ないが一丁前に着飾っていい気になるな」
「違います、私も働いています」
 三人の男の子たちはチョコレートを頬張る咀嚼音に甲高い声を重ねながら、ひとしきりの嘲笑を浴びせてきた。
「嘘つくな。お前みたいな出来損ないを誰が雇うもんか」
「本当です」
「じゃあ、どこでなにをして働いているのか言ってみろよ」
「私は――」
 と、言いかけて、私はぐっと口をつぐんだ。言えない。言っちゃだめだ。私のしていることは国家機密だって施設長がおっしゃっていた。仮に言えても彼らはまず信じてくれない。先週も一昨日も空を飛んで魔法で戦闘機を落とした、なんて。
 それとも、今すぐ目の前で十フィートも浮き上がってみせたら、びっくりしてチョコレートを返してくれるだろうか?
 そんな危険な考え方が頭をよぎればよぎるほど、私の脚全体はかえってより強固に石畳と接地した。
 一転、まごついている様子の私を見て男の子たちは不敵に笑った。
「ほらな、言えねえ。チョコレートは没収だ」
 石畳に伝わる振動と、徐々に遠ざかっていく彼らの勝ち誇った声が、”目標”の離脱を知らせる。急速に冷えていく私の脳裏が、真っ暗な視界に白線の像を結んだ。杖なんてなくても、こんなにどたばたと足音を立ててくれているのなら、実に狙いやすい。横に並ぶ三人の男の子の”どれ”の背が一番高いのかまで、はっきりと判る。
 右手を拳銃の形に模った。肉体に秘められし光の源が私のやりたいことに呼応して、その魔法力を指先の一点に収束しはじめる……。
 ……。
 できない。
 私は我に返って手を下ろした。こんなことのために力を使ってはいけない。代わりに唇をぎゅっと噛み締めた。今頃食べているはずだったチョコレートの甘い味が、鉄臭い血液の味に変わって私の舌先を鈍く刺激した。
「貴様ら、ここでなにをしている」
 突然、ずいぶんと聞き慣れた声が街角に反響した。白線がその人の背丈を描くのを待つまでもなかった。
「施設長?」
 ががっ、と石畳がこすれる音。三人の男の子たちは敬礼している。
「ジーク・ハイル!」 「なるほど、敬礼には慣れているようだな」
「はっ」
「貴様らにもじきに国民突撃隊の招集礼状が来る。だというのに……その口元にこびりついているのはなんだ?」
「はっ、その、チョ、チョコレートですが」
「ほう、鋼鉄の男子にそんなものが必要か?」
「い、いえ、決して」
「ならば捨て置け。こんな街中をほっつき歩いている間にもできることがあるだろう」
「し、失礼しました」
 嘘みたいに縮み上がった男の子たちの声と、硬質な施設長の声がした後、整列行進の足取りで男の子たちが去っていった。入れ替わりに、施設長が静かな足音で近づいてきた。今度こそ、私はすばやく立ち上がって男の子たちに負けないくらいの声で敬礼をした。 「ハイル――」
「まあ、落ち着け。災難だったな。ほら」
 敬礼を解いた私のそれぞれの手に、杖と、それから紙袋が渡された。まだ中身はたっぷり残っているようだった。
「あ、ありがとうございますっ」
「まずは家に戻ろう、見せたいものがある」
 そうして、私は施設長に手を引かれて残りの帰り道を歩いた。
 ああ、男の子たちを「ぱんぱん」しなくてよかった。


「ううむ、もうタイプライタの扱いは私よりうまいな。手紙は私が代わりに届けてあげよう」
 施設長の声はいつも半フィート高いところから聞こえる。機械の留具から紙面をするりと取り出して、感心したふうにうなった。その声はどんなに柔らかい口調でもどこか硬い感触を与える。 「もったいないお言葉です。こんな私でもお手紙が書けるのですから、つい夢中になっちゃって」
「戦争に勝利したらタイピストになるといい」
「たいぴすと……?」
「人の代わりに文章を打ち込んであげる仕事だ。これなら家の中で働ける。給料もかなり良いと聞いている」
 そうか、戦争に勝ったら戦う相手がいなくなるんだ。そうしたらどこでなにをしているのか隠す必要もなくなって、あの男の子たちにも胸を張って自分の職業を言えるようになる。
「そうしたら、私に授けられたこの力も使い道がなくなってしまいますね……」
 小さい頃に収容所に連れていかれて、そこで私は国家のために役目を果たすのだと教えられた。毎日、色々な人たちがやってきては、それをまっとうするたびに私の前からいなくなった。みんな、私と同じように目が見えなかったり、耳が聴こえなかったり、体の一部がなかったりした。
 なにもかもが変わった日の後、今までに会った人たちのすべての生命を背負っているのだと教えられたのだった。そして、施設長が上官になった。
「ずいぶん気の長い話ではあるけどな。それまでは休む暇もないよ。ブリュッセルに飛んでいく余裕なんかないほどに」
「いえ、それはほんの冗談ですわ」
 あわてて私が訂正すると施設長は短く笑った。
「まあ、君に飛んでいかれたら実際困るが、ベルギーチョコレートくらいならそのうち用意させるよ」 「本当!? あっ……、失礼しました、どうもありがとうございます」
 ひょい、と浮き上がった踵を瞬時に床にくっつけた。施設長はまた笑った。
「でも、君のお父様に会うのはしばらくお預けかな。勝利は目前とはいえベルギーは未だ前線だからね。ここだってまだ危ない」
「そう……ついこないだ、あんなにやっつけたばかりなのに、どんどん来るんですね」
「敵は多勢だ。ヨーロッパ中が我々を目の敵にしている。思い知らせてやらなければならない」
 落ち着いた施設長の声ににわかに怒気がこもった。私も、お父さんといつまでも会えない辛さを思うと彼と同じくらい敵への怒りがこみあげてきた。
「私が、全部撃ち落とせたらいいのだけれど」
 ぽつり、と前のめりな発言を漏らした私に施設長が告げる。
「早まらなくてもいい。君が下手に力を使いすぎれば、いざという時に失敗してしまうかもしれない」
 ひょっとすると、さっきの男の子に私がしようとしたことも見透かしているのかもしれない。
「ごめんなさい、少し言い過ぎました」
「気にするな。君はよくやっている。敵を殲滅しなければならないのも完全に正しい。だから、ほら、さっそく新しいドレスを仕立てさせた。実はあの後、すぐに発注したんだ」
 はた、として私は前に手を伸ばした。以前も着るたびにうっとりするほどだった生地が、まるでわら半紙に感じられるほどのなめらかな触感が指先から全身に広がった。
「まあ、信じられないわ!」
 ついに私は軍人としての建前を放り出して嬌声をあげ、両手でドレスをむんずと掴んだ。しかし施設長は嗜めることなく「本当は見た目も最高なんだ。我々の軍服と同じ職人に服飾をやらせているからね」と補足した。すかさずぶんぶんと頭を振って応える。
「ううん、いいの。触るだけでこんなにも感激しているのに、繕いまで知ってしまったらこのまま死んでしまうかもしれない」
「おいおい、滅多なこと言わないでくれよ。君は間違いなく我が国でもっとも高価な兵器なんだから」
 すかさず、その場で施設長の助けを借りてドレスを着込んでみた。革の分厚い手袋をはめた手に引かれて鏡の前に立たされた私の視界には、やっぱり漆黒の暗闇しか映っていなかったけれど、世界でもっとも美しいとされる「お姫様」の姿を懸命に描き出そうとした。
「どうかしら、ほら、私には――」
 一回、二回、わざとらしく咳払いをしてから施設長が言う。
「君のお父様にはお見せしない方がいいかもしれないな」
 想定外の感想に私は見えもしないのに、声のする方向へ振り返って口元を曲げた。 「あら、どうして?」
「あまりにも美しすぎるから亡くなってしまうかもしれない」 「そんな――お上手ですね」
「嘘じゃないよ。君だってドレスをじかに目にしただけで死んでしまいそう、と言ったじゃないか。扱うべき者が扱えば効力は倍増される。兵器と一緒だ」
 施設長はひとしきりの賛辞を私に送ると「そろそろ時間だ」と告げ、今日一日はドレスを着たまま楽しんでいていいと許可を与えてくれた。彼が手紙を持って部屋から去った後、私はたまらず床を蹴って宙に浮かんだ。手にはまだチョコレートでいっぱいの紙袋。
 あまりにも軽く薄いオーバースカートの生地がふわりとたなびいた。漆黒の世界でも思い描けば私は部屋に咲く一輪の花だった。
 固い木材の天井に、おでこがこつんと当たった。
 緩やかに空中で漂いながら、私は紙袋からチョコレートを取り出して包装紙を破った。ころころした形の幸せを口に含むと、舌の上にじわりと甘さが広がった。
 リザちゃんが遅い昼食の時間を告げに部屋に来るまで、私はそのままでいた。


「ずいぶんお熱みたいね」
 手狭なダイニングに置かれたテーブルの上で、トマトソースのフジッリを二人で食べている時、リザが言った。
「そんなんじゃないよ、ドレス、とっても良かったから」
 ぎくしゃくした言い方をしながら、フォークで突き刺したショートパスタを口に運ぶ。いつも人以上に服を汚してしまう私が、ただでさえ汚しやすいトマトソースを食べているのだから、当然、今は肌着しか着ていない。その上にはナプキンもつけさせてもらっている。
 リザは私と同じ光の源に受け入れられた子で、何年か前にイタリアから逃げてきたそう。以来、ずっと一緒に住んでいる。目が見えるというだけで彼女に生活のなにもかもを任せてしまっているのは心苦しいけども、嫌なことは嫌、とはっきり言ってくれるので、ちょっとは気が楽だ。
「あのね、最近、どう」
「話題をそらすにしてもいい加減すぎない?」
 スパッとよく切れる包丁みたいに私の目論見を見抜いた彼女は、それでもはあ、とため息をついた後に話題を変えてくれた。
「私たちがこうして休んでいる間にも、敵はわんさとやってくるのね。ダンケルクもまたとられちゃったし、イタリアの方も」
「でも、勝利は目前だって、施設長が」
 からん、とフォークをぞんざいに皿の上に投げ出す音が聞こえた。
「どうだか。私はとてもそうとは思えない。もっと色んな戦場に出撃できるように要請した方がいいかもしれない。といっても、ほら、私は一応、イタリア軍属だから……」
「でも、施設長が”早まらなくていい”って言ってたよ」
 またため息が聞こえた。
「あんた施設長、施設長って結局自分で話を戻しているじゃないの」
「あっ、ごめん」
「言っておくけど、あの人を狙うには歳が離れすぎでしょ。たぶん倍どころじゃないくらい離れてる」
「施設長、そんなにおじさんっぽい顔してるの?」
「うーん、いや、どうかな。背はあんまり高くない。まあ、私の好みではないわね……っていうか本気なの」
 華奢な作りのテーブルががた、と揺れて、リザが前のめりの姿勢になったことが分かった。
「えー、まだ、わかんない、かな?」
 大きくがたがたと机が揺れだした。
 きっと今の私はとんでもなく緩んだ顔つきをしているのだろう、と思った。
「ちょっと、揺らしすぎだよ、机」
 はにかみながら嗜めると、予想に反してリザの深刻そうな声が返ってきた。
「私じゃない。空襲よ」
 覆いかぶさるように空襲警報のサイレンが耳に入ってくる。今日も今日とてお仕事の時間がやってきた。
 二人して椅子から立ち上がった。非番でも空襲警報が鳴ったら出動する決まりになっている。「着替えなくちゃ」彼女の声に「うん、ドレス、まだベッドの上にあるから」と答えた。机の上にナプキンを投げ捨てて、私は彼女の言う通りに手足を上げ下げして、正式に認可された戦闘服である新しいドレスを着せてもらった。私の着替えが済むと、リザちゃんは隣の部屋に駆け込んで自分の支度をはじめた。
 数分後、彼女の手に引かれて玄関から勢いよく飛び出す。最寄りの基地までは歩いて十分足らずだけど、杖に頼っていてはそんなに早くはたどりつけない。早足で歩く彼女の歩幅に負けじと大股で歩き続けた。
 なんだか今日は人に手を引かれてばかりだ。
 風が頬を撫でつける空白の時間の後、彼女の足が止まった。「身分証を」という端的な男の人の声に応じて、私も鞄から身分証明書を取り出す。直後、男の人の声はうわずり「どうぞお通りください、中尉殿」と丁寧な物腰に変わった。
 基地の建物内に入ると足音がかつかつと硬質な響きになった。辺りは騒然としていたのにリザの歩みは施設長のいる部屋に入るまでもう止まらなかった。それで私もするべきことが判った。両足をこつんと合わせて直立不動の姿勢をとり、敬礼をした。
「ただいま到着いたしました」
「よろしく頼んだぞ。では、私、アルベルト・ウェーバーSS施設長特別大佐の権限により、魔法能力の発動を許可する」
「はっ」
 もう収容所にいないのに肩書きが施設長のままなのはなんでだろう、と毎回思いながら命令に応じる。
 ほどなくして私たちは風が強まる夕暮れ時の滑走路に姿を晒した。兵隊さんの助けを借りて角ばった無線機を背負い、頭にはお話をするための装置が取り付けられた。どんな形をしているのかよく分からないけど、頭に乗っかった感じは昔よく着けていたカチューシャに似ていると思った。そして、服はドレスとオーバースカートを着ている。
 あの日、血だまりの中に座り込む私に、施設長が「ご褒美になんでも一つ叶えてあげよう」とおっしゃったので「いつもきれいなお洋服を着たい」と答えたのがきっかけだった。収容所ではボロ布しか着させてもらえなかったから。
訓練中に散々聞かされた我が軍の誇るアラドやフォッケウルフの勇ましいエンジン音とプロペラのうなり声が私を鼓舞させる。一分と駆動音を聞かないうちに、左右に並ぶ戦闘機の一つ一つの形状や位置関係までもが、鮮明な白線の網目で描き出された。
 もしかすると、このうちの一つに両手でぺたぺたと隅から隅まで触って形を確かめさせられた機体があるのかもしれない。私たちの魔法は神から授けられた力。偉大なる第三帝国が神に代わってこの世界を統治するためにもたらされた力だ。その圧倒的な能力の前には、人間の善悪は関係ないのだという。だから、私は決して善人を撃ってはならない。撃っていいのはフューラーに歯向かう者だけ。
「マリエン・クレッセ、出撃します」
「同じく、リザ・エルマンノ、出撃します」
 私たちの出撃には燃料も滑走も必要ない。ただ足元に意識を込めると、たちまち光の源が呼応して飛翔に必要な魔法力を授けてくれる。灰色にくすんだ舗装路の一帯に二点の光が灯った。ふわり、と身体が浮く。そこから上空百メートルまで飛翔するのは一瞬だった。下ろしたてのオーバースカートが風にたなびいて激しく揺れる。
 三……二……一……。数を数えてだいたいの位置取りを把握した辺りで静止する。地上とはうってかわって無風の空が、オランダの彼方までみちみちと広がっていることを想像した。
 その彼方の奥から、来る。蚊のようにか細く、卑小な鳴き声をわめきたてるイギリスの戦闘機が私たちのケルンの空を汚しにやってきたのだ。
<……まもなく敵機がケルン上空に襲来する。有効射程に入り次第、全機撃墜せよ>
<了解>
 無線機のノイズにまぎれて乗る施設長の硬質な力強い命令が私を後押しする。よく研磨された光の源が腕から構えたステッキに乗り移って、極めて鋭利な光線を作り出す。
 海上での戦いと違って、むやみやたらに魔法をふりまくわけにはいかない。街が怪我をしてしまう。
 視界に描かれる白い点描の集まりに飛び込んだ。音像が鮮明になるつれて白点は塊に、塊が戦闘機を模りはじまる。ぶんぶんと唸る蚊の群れの中でステッキをあたかも剣のように振るうと、伸長された光が戦闘機の銅を切断したのが分かった。たちまち動力を失った機体はしかし、爆発も炎上もせず、二つに分離した別々の鉄の塊となって空を滑っていった。
 さらに続けて二、三と魔法の剣を振るい、次々に戦闘機を断頭していく。あまりにも機体と間近に接しているので、時々、戦闘機に乗っている男の人の悲鳴が耳に入った。けれどもそれらは私の知らない英語だったおかげで、だいたい戦闘機のプロペラ音と似たように聞こえた。実際、機体を切断してプロペラ音が減衰すると、悲鳴もだんだんと届かなくなっていった。
 とはいえ、蚊の鳴き声がやむ気配はなかった。すぐにリザちゃんも気づいたのか、無線連絡が入る。
<敵機が多すぎてきりがないわ。一旦、距離をとって一気に――>
「だめ、それじゃ街に戦闘機が落ちちゃう」
<どのみち抜けられたら空爆されるわよ>
 話し合いする猶予はないようだった。たとえ剣をあと十回余分に振っても、おそらく全機撃墜には程遠い。遠方からより口径の広い魔法力で面制圧をする方が短時間で処理できる。でも、その間に敵機はケルン市街地の上空に接するだろう。十重幾重に織られた燃える鉄の塊が家々に降り注ぐ。
 だが、ここで止められなければ代わりに爆弾が降り注ぐ。
 リザちゃんの言っていることが正しい。
「……了解、離脱します」
 魔法の切っ先を畳んでステッキを腰の革製ホルスターにしまい後退を開始すると、視界の中の戦闘機の像も高速で遠ざかった。戦闘機が塊に、塊が白点に戻り、やがて点描の集まりと化した。一秒でも早く全機撃墜させれば、少しでも……。
 いつもの要領で手のひらに魔法力を集中させる。別の角度ではリザちゃんが同じく発射準備に取り掛かっている。無線機同士が飛ばし合っている電波が、私には白い糸のようにつながって見える。顔を横に向けてその糸をたどると、暗闇の奥にお人形のような人影が映った。彼女の姿かたちもよく知っている。戦闘機と違って彼女はくすぐったがりだ。
「秒読みを開始するね、三、二、……」
 二人の声が無線機越しに重なり、ゼロを刻むかと思われたところで、様子が変わった。私の手から放たれた光線が、リザちゃんの方角からは出ていない。片輪のみのファイヤーワークスがぼぼぼん、と爆発音を鳴らしたけれども、全機撃墜に程遠いのは明らかだった。
 あわてて彼女の方角を見やると、群体を抜け出たいくつかの白点が人影を追いかけていた。
 同時に、私の近くにもつんざく蚊の鳴き声が迫りくる。あっ、と誰に聞こえるわけでもない口を開きかけているうちに、プロペラ音は機銃の銃声に塗りつぶされた。たちまち、小さな金属の塊が雨あられとなって私の胴体を貫いた。
 直後、光の源が銃創を覆って淡い輝きを放った。首を傾げて自分のお腹を見ると、パンくずのような形の白点が無数に穿たれている様子が見えた。それらの光は秒を追うごとにだんだん体の外に漏れ出して、急速に力が失われていくのが感じられる。
 左右に散る戦闘機の軌跡を感覚で追いつつ、私は体勢を変えて空中で仰向けに半回転した。背後から迫る機銃の気配に備えて前方投影面積を縮小しなければならない。結果、辛くも二度目の銃撃による被害を最小限に抑えられたが、それによって敵方の意図も明白となった。
 間違いない。敵は空襲だけを目的に来たんじゃない。私たちを殺しにやってきたんだわ。
 三度目の交差。迫る一機の正面に向かって、私は拳銃を模る右手を突き出した。顔を打つプロペラの轟音に抗うように「ぱん!」と大声で叫ぶと、そのままなら衝突するはずの戦闘機が私の真下をくぐり抜けて落ちていった。
 あわてて遠ざかろうとするもう一機の背面にも続けて言う。白点がなだらかな放物線を描いて暗闇の外に消えた。
 一瞬の静寂。
 はっ、と振り返ったが、すでに手遅れだった。私の背面、ケルンの上空にはいくつか残った白点が、もうひと回り小さい白点をばらまきはじめていた。まもなく、下の方で爆発音が聞こえだした。
「リザちゃん、空爆が始まっちゃった。止めにいかなきゃ」
 急いで無線機越しに話しかけるも、彼女の応答はない。ノイズ音のみが耳先をなでる。
「リザちゃん?」
 無線機の糸は、途中でちぎれていた。電波を模した糸の先端が視界の中ほどでぷらぷらと揺れている。  私は小さな白点をばらまく白点の群体と、ちぎれた糸を交互に眺めた。
 負傷した私の残された力では撃墜しきれないかもしれない。
 リザちゃんを助けにいかないと。
 爆撃で暖まった空気による上昇気流がスカートの裾を激しくたなびかせる。リザちゃんの姿は群体から外れて位置にある蚊の音を追えば、割にすぐ見つかった。ケルン大聖堂のすぐ上でドッグ・ファイトが繰り広げられている。どういうわけか彼女は一向に魔法を撃たない。
 ちまちまと小刻みに旋回を繰り返す目標をこの距離で撃ち抜くのは難しい。  再び、私はホルスターからステッキを抜いた。かなりの力を込めても光の剣はずいぶん淡く頼りなく、いつもの半分ほどしか魔法の刃がつかなかった。
 それでも、戦闘機を一機落とすくらいはできる。
 残る魔法力を足元の推進力に替えて、一気に距離を詰めた。獣の声で華奢な人形を追いかけるその敵機は背面より迫る私に気づかず、銃弾の雨をリザちゃんの人影に放っていた。ばりばりと音がして、ついに彼女の身体が勢いを失い、ケルン大聖堂に向かって落ちていく。
 入れ替わりに、魔法の剣が戦闘機の動力部分を貫いた。煙をあげて墜落する機体をうっちゃって、私は直ちにリザちゃんを探した。
 ちょうど、彼女は大聖堂の荘厳な屋根の上に横たわっていた。
「リザちゃん!」
 屋根に降り立ち、肉声で呼びかけると数多の輝点に包まれた彼女がぼそりとつぶやいた。
「あー、やられちゃった。ほら、私の手足って魔法で守っていてもそんなに頑丈じゃないからさ……」
 確かに、白線の肩口を触るとそこには折れた木材があるのみで、腕や手は残っていなかった。同様に、右足も破損していた。
 無言で残っている方の腕を自分の肩に回して彼女を背負った。無線機を人の体で覆う格好になったのでいかにも違和感が強い。
「敵……どうなったの」
「街を燃やしている」
 私は静かに答えた。大聖堂の屋根から見える暗闇の景色は、街の人々の悲鳴、絶叫、敵機が落とす爆弾の爆発音、ぱちぱちと火炎が爆ぜる音が情報源となって、かくも鮮やかな輪郭に彩られていた。


(ここになにかいい感じのエピソードを追加)


”一九四六年十一月十五日。ケルンは今日も煙くさいです。街のあちこちがまだもくもくしています。私のせいです。もっと戦闘機を落とせていたらこんなことにはならなかったのに。次はがんばります。今日は、同僚のリザちゃんの話を書こうと思います。彼女は私より一つ歳上のお姉さんです。私と同じ、役目を持って生まれた子どもでした。私の目が光を映さないように、彼女は手足が一つもありません。せめて格好だけでも普通にさせようとして、家具職人の父が地元の木で作った義肢をこしらえたそうですが、あいにくどんなに力を込めても動かすことはできません。"
 チーン。私はレバーを引き上げるついでにリザちゃんの様子を見にいった。椅子から立ち上がって一回転。前へ進む。そのうち扉に手がぶつかるので部屋を出るぶんには歩数を数える必要はない。
 壁伝いによりかかって何歩か歩いて、隣の部屋のドアノブに手を触れる。だいたいの見当をつけてドアを軽くノックした。
「リザちゃん? 調子どう?」
 返事の代わりにちょっとうんざりしたようなため息が返ってきた。
「そう一時間置きに聞きにこなくても私は元気だって。元気じゃないのは肩から先だけ」
 ドアノブをひねって部屋に入ると、真っ暗闇の視界の中にぽつんと座る少女の白線が描かれた。姿勢からしてベッドの上に座っているのだろうと思われた。彼女に必要な四つの義肢は予備が用意されているので昔ほどの不便はないという。けれど、不器用な人が動かす操り人形のようにぎくしゃくと動く白線を見るかぎり、日常生活にも支障をきたしているのは明らかだった。
「やっぱり、イタリアの木じゃないと相性が悪いのかもね」
 窓の方に顔を向けながらリザちゃんが言った。ムッソリーニ首相が王様に叱られて以来、イタリアのほとんどの土地はずっと敵にとられたままで、木材の輸入は滞っている。たまたま難を逃れていた彼女はドイツ軍に「セッシュウ」されて、一度も故郷に帰る許しをもらえていない。「セッシュウ」されると、別の国の人でもその国のきまりに従わなければいけないのだと、施設長が言っていた。
 だから、今の彼女の手足はイタリアではなくドイツの木でできている。私は彼女の隣に腰掛けて、肩から伸びる稜線を手でなぞった。
「ちょっと固いね」
「たぶんオーク材だと思う。私は松の木の方が好きかな」
 右手でゆるく握りこぶしを作って、幅の広い肩の付け根あたりをこつこつと叩いてみた。しっかりした響きの少ない鈍い感触が手のひらに伝わる。
「オークはドイツの国樹なんだって」
 現在、ヨーロッパの至るところにあるオークの樹林には、そこかしこに私たちの鉤十字がはためいているという。仕えるべき国家の存在を木々に教えてあげているのだ。
「ふうん」
 少しの沈黙を隔てた後、ぽつりとリザちゃんが謝った。
「ごめんね、お世話できなくて。一人じゃ着替えとか、大変でしょ」
「ううん、最近はちょっとコツを覚えてきたつもり」
 手をぱたぱたと振って否定したが、それをすり抜けて彼女のオーク材の指先が私の襟口を不器用につまんだ。
「でも服の後ろ前が逆だわ」
「え、ほんと」
 とっさに振り返ってみても、私には分からない。微妙に気恥ずかしさを残したまま部屋から出ていってなんとか部屋着を正しく着直したら、そういえばまだ手紙が書き途中だったことを思い出した。手探りで椅子のへりを掴んで座ると、手を突き出しながらタイプライタのキーの位置を確かめた。
"彼女は昔、近所の子にピノッキオと呼ばれていました。身体の一部が松の木でできているからです。お父さんに読み聞かせてもらったので、私もお話はよく覚えています。ですが、彼女はこのあだ名がとっても不満でした。それはピノッキオが嫌いだからではありません。ピノッキオは自由に身体を動かしていろんな冒険ができるのに、彼女は両親に車椅子を引いてもらわないと自分の部屋からさえ出られなかったからです。"  またレバーを引き下げつつ、次の文章を考える。
"そんな彼女に転機が訪れたのは私と同じく、役目を果たすための施設がイタリアにできたおかげです。光の源の祝福を授かった彼女は、あたかも本物の手足が生えたかのように木製の義肢を動かすことができます。魔法も私よりうんと強く放てます。その代わりに、狙いを定めるのはちょっぴり下手です。"
 キータイプの手を一旦止めて、祝福を授かったリザちゃんがどんな気持ちだったのか、自分自身の体験を通じて想像しようとした。長い長い鉄道と大きな車に揺られて私が送られた施設は看守さんにも周りの人々にも「収容所」と呼ばれていた。お世辞にも、あまり良い場所ではなかった。ご飯の量は小さい私にとっても明らかに少なく、大人の人たちが怒ると看守の人はもっと怒って彼らを散々ぶった。中でも特にひどくぶたれた人とは二度と会えなかった。その時、施設で一番偉かった施設長は私たち子どもに「彼らはちょっと早めに役目を果たしたんだよ」と教えてくれた。
 いくら子どもの私でも、月日が流れるたびに「役目を果たした」人たちが施設からいなくなっていくのを見て、私たちの「役目」がなんなのか理解した。しばらくはわんわん泣いて、お父さんに会いたいと看守にも施設長にもお願いしてみたけれど、だんだん施設の人を困らせれば困らせるほどかえって「役目を果たす」日が早くなりそうな気がして、そのうち隅っこでおとなしく過ごすようになった。
 でも施設でのお勉強が進むと、役目を果たすことが本当にすばらしい行いなのだと分かるようになってきて、今度は早く役目を果たしたいと施設の人にお願いしはじめた。今思うと、ずいぶんわがままな子どもだったと思う。
結局、一年ほど経った後、施設の中で私より先にいる人を見かけなくなった辺りで、ようやく出番が回ってきた。
 やたら扉が多い部屋だった。部屋の中の部屋の中の部屋の中に案内されて、気づいたら案内してくれた施設の人はどこかにいなくなって、私はひとりぼっちだった。誰かを呼んでも返事がないし、声も全然響かない。とても怖かったけれど、その後にすごい出来事があってなにもかも吹き飛んだ。
 視界の中に白いまんまるが見えた。これが「白」なんだ。みんなが「白い」って言っているのは、これのことなんだとどうしてかすぐに分かった。私が前に一歩踏み出すと、まんまるはちょっぴり大きくなった。後ろに後ずさると、ちょっぴり小さくなった。三歩進むと、かなり大きくなって、肌に温かみを感じた。手を伸ばせば触れそうだと思った。
 手を触れた途端、まんまるはまんまるじゃなくなって、長細くぐにゃりと曲がって私の中に入ってきた。全身が熱かった。熱すぎて息ができなかった。鉄臭い匂いがした。これは白色と違って知っている。間違って紙で手を切ってしまった時に嗅いだことのある匂いだ。血の匂いだ。
 次に目が覚めた時、身体中がべとべとしていた。どこもかしこも鉄の匂いが立ち込めていたので、私は身体中から血が出ているのだと分かった。そんなに血が出ているのなら、きっと大怪我をしているに違いない。私はその部屋を出て、怪我を治してもらおうと思った。でも、手探りで見つけたドアは押しても引いても開かなかった。
 もう一度、施設の人を呼んでみても返事はない。私はとうとう怒って、力任せにドアを両手で押した。
 すると、ドアはすごい音を立てて壊れた。薄いブリキの板みたいに、ひどく折れ曲がっているようだった。もっと押し続けるとドアはぺしゃんこに潰れて、通り道ができた。
「動くな!」
 道の先を歩いていると、突然、男の人たちがそう口々に叫ぶ声が聞こえた。かちゃかちゃと金属が鳴る音がとてもうるさかった。「だあれ?」と聞くとまた「動くな!」と怒られた。不思議なことに、男の人が叫べば叫ぶほど、真っ暗闇の視界の中の白い線が波打って、お人形のような形を作り出した。どうやら男の人たちは横一列に並んでいて、手におそろいのなにかを持っているみたいだった。私はそれがなんなのか知りたがった。 「それ、なにを持っているの」
 前に歩いて手を差し出すと、直後、ぱん、と音がして、私は後ろに押し倒された。お腹の辺りがじんじんとしたので、手でまさぐると石ころのようなものが見つかった。
「えいっ」
 投げつけられた石ころを投げ返すと、鋭い悲鳴が部屋中にこだました。男の人がそういうふうに叫ぶのを初めて聞いたので、私はとてもびっくりした。どんどん石ころが投げつけられたので、私も一生懸命に投げ返した。白い線のお人形があらかたいなくなり、最後の一つがくしゃりとしゃがんだので、遊びはもうおしまいかと思いきや施設長が部屋に入ってきた。
「楽しかったかい」
「ううん、あんまり」
「じゃあ、こうしてみよう」
 施設長は私の小さな手を握って、人差し指を伸ばさせ、親指を突き立たせ、残りは丸めるように指南した。そしてされるがままに腕をまっすぐにすると、しゃがんだお人形さんに人差し指が向いたようだった。お人形さんは鋭い悲鳴をあげて尻もちをついたけど、施設長は構わず「さっき聞こえた音を真似してごらん」と言ったので、私は何の気なしに「ぱん」と言った。もう悲鳴は聞こえなかった。  鉄臭い匂いは、施設に入って初めてお風呂に浸かる許しが得てからも、しばらくとれなかった。
 私が国家魔法少女として正式に階級章を授けられたのは、その日から始まった訓練を終えたさらに半年後の話。
 リザちゃんも同じような訓練をしたのかな。今度聞いてみよう。
”私たち二人でケルンの空、オランダやベルギーの海を守っています。このところは失敗続きだけれど、今度こそ全機撃墜したいです。お父さんもベルギーの前線で勇猛果敢に戦っていると施設長がおっしゃっていました。離れ離れに暮らしているのは、やっぱりまだ少しさみしいですが、親子揃って帝国に殉じていることを誇りに思います。いつか、祖国に勝利をもたらすその日までお元気で。ハイル・ヒトラー”
 私は手を伸ばして紙面をタイプライタから外した。机の上に準備しておいた封筒に合わせて紙面を折りたたんで、なんとか便箋に仕立てる。最後に切手を封筒の上に貼り付けると、椅子から立ち上がって左に五歩、手に取った鞄に封筒を入れて、右に三歩。今月からは忘れないように外套を羽織らないと寒くていけない。
 くるりと身体を回転して、ドアに手がぶつかるまで進む。触れたらすぐに引っ込めて、ドアノブを優しく掴んで回す。ドア横に立てかけた杖を掴んで、隣の部屋に呼びかけた。
「リザちゃん。 お手紙をポストに入れてくるね」
 すると、部屋の奥から物音がして彼女が答えた。
「待って、私もついていく。リハビリしないと」
 ややぎくしゃくとした軌跡を描いてやってきた彼女と並んで玄関のドアを開けようとしたところ、先に扉の方が開いて遠ざかっていったので手が空を掴んだ。
「施設長大佐どのから命令書類を預かっています」  若い男の人のはきはきした声が耳に届いた瞬間、波打った白線が目の前に自分より二フィート半高い、痩身の人形を模った。
「あら、どうも」と慇懃に言って書類を受け取ったリザちゃんは、その割にびりびりとぞんざいな音を立てて命令書の封筒を破って開けた。読み終わった彼女はたちまち声音を変えた。
「これは……今すぐ実行しなければならないのかしら」
「自分は”直ちに遅滞なく”と聞かされております」
「どうしたの……」
 差し迫った彼女の態度に不安を覚えて尋ねると、深い吐息をにじませた言葉がかえってきた。
「私たち、遠出することになったわ。休みながら飛ばないと着けないから、もっと上着を持っていかないと」
「どこに行くの」
「ずっと東。ベルリンよりも東……ポーランドよ」


"SS特別施設長大佐より、辞令を言い渡す。マリエン・クレッセ、およびリザ・エルマン両名の国家魔法少女は直ちにポーゼンに向かい、以下に示す現地における作戦行動に従事せよ。1同封地図上に存在する研究施設の破壊 2敵勢力の排除 なお、これまでの国軍への貢献を評価し、同両名に新たな軍階級章を授ける。この書類を受け取った時点から両名を臨時大尉とする。以上。"
命令書を物憂げに読み上げるリザちゃんと対照的に、私の口からはのんきな声が衝いて出た。
「昇進したんだ、私たち」
「こんなのなんの意味もないわ。部隊を率いているわけでもないのに。私たちはお払箱になったのよ」
 ぺしゃり、と紙が投げ捨てられる音が響いた。
「どういう意味……?」
「ここで私たちができることはもうないって意味」
 彼女が出し抜けに部屋の窓を開けると、たちまち焦げ臭い匂いが入り込んできた。
「えほっ、なにするの」
「私もあなたも戦闘機に勝てていない。街を守れていない。かといって無理して大軍勢と戦えば今度こそやられちゃうかもしれない。だから、体よく左遷させられたんだわ」
「サセンってなあに」
「さあ、なにかしらね」
 白線にふちどられた少女の顔がつん、と横を向いた。さすがの私も彼女がすねているのだと分かった。ベッドから腰を浮かせて立ち上がり、腕組みをして仁王立ちの少女の頬に前触れなく手を触れた。彼女の方が頭一個、背が高いので私の踵はほんの少しだけ浮いた。リザちゃんの頬は少しざらざらしている。
「ちょっと、やめてよ」
 さらにもう片方の手を、別の頬に合わせた。すりすりしていると、だんだんと手のひらが暖かくなった。
「くすぐったいって」
 たまりかねたのか、リザちゃんのオーク材の手が私の手を掴むと、見計らったように私も掴みかえした。いつも目を閉じている私と決して目は合わないけど、合っているかのように顔を傾けた。 「私たちにできることをやるしかないよ。どんな作戦でも役目を果たさなきゃ」
「まあ……そうね」
 木製の義手がぎしりと開いて力が緩んだ。
「でも」
 ひと呼吸を置いて私も手を離す。
「ちょっとでいいからお父さんに会いたかったな……」
 たとえ会えなくてもケルンとベルギーの距離は目と鼻の先だ。会おうと思えばいつでも会えるという安心感が、なんとか私の踵を地面にくっつけさせていた。対して、これから向かうことになるポーランドははるか東のベルリンよりもさらに東。手紙だって届くのに何日かかるか分からない。そもそも送ることができるのかすら。まだ一回もお返事をもらっていないのに、宛名書きに記したこの家を去らないといけない。
「じゃあ……」
 お返しと言わんばかりに、今度は彼女の手が私の両頬を包んだ。肌触りはごつごつとしているけれど、森の中にいるような香りがした。
「今から、行く? どうせもう、ここですることはないんだし」
「ええーっ」
 それって、命令違反だ。と、ごくまっとうな考えが心を占めた直後で、ざわざわと良くない想像が足元から胸までせり上がってきた。私たちの魔法を使っても、昼間の今からだとポーランドまでたどり着くのには早朝になる。途中で下りて一旦休まないといけないからだ。ということは、寄り道をして一時間か二時間、遅く着いたとしても、軍の人たちにばれる心配はない。
 お父さんに会える。
 でも、もしばれたら施設長にきっと怒られる。怒られたことは一度もないけど、男の人たちがとても怖がっているからすごく怖いに違いない。
「それって命令いは……」「はい、遅い。行く気が全然ないなら即答のはず」
 ぴしゃりとしたリザちゃんの見透かした物言いに、しかし私は一言も言い返せなかった。続けざまに彼女は畳み掛ける。
「それにほら? ベルギーチョコレートだって買えるかもしれないし」
 決定的な一言だった。私はまだベルギーチョコレートを食べていない。あの後、幾度となく施設長にお伺いを立てる機会はあったものの、全機撃墜を果たせなかった負い目から言えずじまいだった。それでもお給料はしっかり毎月頂いている。私が自分で行けば、ベルギーチョコレートも買えるし、お父さんにも会える。
「ちょっとだけなら」
 もじもじしながらうなずく私に、彼女は言う。
「旅行鞄の隅っこを空けておかないとね。チョコレート、たくさん買いたいでしょ」
 私はまたこくりとうなずいて、それから遠出の準備に取り掛かった。
 自分の身体がまるまる折りたたんで入りそうな大きさの旅行鞄に、持っているお洋服をどんどん詰め込んでいく。干し肉とか、炒ったスイートコーンとか、豆の缶詰も入れる。ピクニックの時期からはだいぶ離れているのに、こうして荷造りをしていると小さい頃を思い出す。初めから終わりまでお父さんに手を引かれていたのに途中で疲れてしまって、帰り道はおんぶをねだったのだった。
 外套の下にも重ね着をして厚手の手袋をはめた。そして最後の最後に、旅行鞄の一番上に、私たちの勝負服であり、軍服であり、戦闘服でもあるオーバースカートを飾るように畳み入れる。どんな時でも作戦行動中は軍規に則らなければならない。
 でも今は、規則を破って裏庭から空を飛ぼうとする、もこもこしたただの魔法少女だ。タイプライタを担いで持っていこうとしてリザちゃんと散々揉めた後、手紙を書く時は彼女に代筆してもらう約束を取り付けてなんとか家に捨てていく決心がついた。
「曇ってるわね」
「滑走路じゃないところで飛ぶのって久しぶり」
 曇っているらしい空を仰ぎ見て言う。晴れていないのは好都合。今回は友軍の機体にも見つけてほしくない。
 踵に力を込めると、長らく地面に縛りつけられていた身体がふわりと浮いた。


 湿り気のある空を一時間も飛ぶと平べったいアーヘンの街並みが高速で手前から近づいてきて、そこを通り過ぎるとリエージュ州が見えてきた。ここはもうベルギーだけど、高度を下げると至るところにはきっと私たちの鈎十字がはためいているに違いない。ベルギーは私たちの一員なのだ。なのに、北海の向こうからイギリスやアメリカが奪い取りに来る。
 ブリュッセルに近づくにつれて、薄汚れた硝煙が曇り空に混じりはじめた。私は咳き込みながらケルンとそっくりだと思った。
 お父さんはどこで戦っているのだろう。ダンケルクが奪われたと言っていたから、その近くで戦っているのかもしれない。そうじゃなければ、どこかの前線基地にいるのかも。そこまで行けば会えるかな。
 だとしたら、と私は顔を緩めた。ブリュッセルでチョコレートを買ってから会いに行く方が手間が少ない。そうだ、お父さんにもチョコレートをあげなくちゃ。前線の兵士にはチョコレートが支給されると聞いているけれど、たくさんあればもっと嬉しいはず。嬉しいに決まっている。
 さらに高度を下げて、街の音に耳をそばだてた。もしかしたらチョコレートの匂いも漂ってきて、お店を探す手間が省けるかもしれない。
 しかし、予想に反して辺りは静まりかえっていた。たまらず、左右を見回してリザちゃんの点線に向かって手信号を送る。無線機を背負っていないのでお話するにはよほど近づかないと聞こえない。彼女の輪郭は距離が縮まるたびに精細さを増した。
「あの! ブリュッセル! どんな感じ?」
 風切り音に負けない大声で呼びかける。返事も負けず劣らずの大声で返ってきた。
「人が全然いない! どうしてかしら!」
「降りて探してみよう!」
 彼女の先導に従って石畳の上に降り立った。踵を二回、かつん、かつん、と強く踏み鳴らして白線のさざ波を立てると、視界の中にぼんやりと粗く狭くブリュッセルの大通りが描かれた。十歩も進んだらまた踏み鳴らさないといけない。ただでさえ大きな旅行鞄を片手に持っているのに、長細い杖でもう片方の手を塞ぐ危険は冒せなかった。
 街の中は本当に人の気配がみじんもしなかった。吹きすさぶ冬の風が窓を不躾に叩く音がするだけ。ブリュッセルの人たちはみんなして家に閉じこもっているのか、それともどこかへ行ってしまったのだろうか。
 踵をかつかつと鳴らしながらちょっとずつ視界の中に街の風景を作り出していく。普段は人の足音や話し声に呼応して泡立つ白点も、この時は平坦な石畳の地面をつらつらと刻むばかりでにべもない。横を歩くリザちゃんも「本当に誰もいない」とつぶやいているので、私の能力が衰えたわけでもない。
 大通りの端にたどり着いた時、聴覚ではなく私の嗅覚が異変をとらえた。思わず、少しも嗅ぎ漏らすまいとして顔を上げて鼻をくんくんと鳴らす。  この匂いは……!
「チョコレートだ」
「どうして分かるの?」
 素っ頓狂な声をあげる彼女をよそに、鼻の穴をめいいっぱいに広げながら匂いの元を追った。
 もはや踵を踏み鳴らしていない視界はとうに真っ暗なのに、まるで匂いが軌跡を描いているかのように私の足取りは明確だった。お菓子屋さんのおじさんには悪いけれど、ベルギーのチョコレートはうんと美味しいに違いない。ラジオ番組では世界で一番美味しいチョコレートだと言っていた。世界で一番だ。お父さんが手を添えて教えてくれた世界地図の広さを思い起こすと、それがどんなに偉大なことなのか震えが止まらなくなる。
 果たして匂いの元はそこにあった。ぺたぺたと店先を手で触って確かめると、ガラス張りのようだった。
「わあ、ショーウインドウにチョコレートが飾られているわ」
 やや遅れてついてきたリザちゃんが素直に驚きの声をあげた。それを聞いて、私も驚いた。ベルギーではチョコレートをお洋服みたいにお客さんに見せているんだ。
「ノイハウス、ベルギー王室御用達、一八五七年創業」
 店先の看板かどこかに記されているのであろう文字を彼女が読み上げた。すごい、すごい。ベルギーでは王様も王女様もチョコレートを食べているんだ。それなのに、独り占めしないでこうやって街に店があって、ブリュッセルの人たちはみんなこのチョコレートを食べている。
「入ろう、すぐお店に入ろう」
 珍しくリザちゃんの手を引っ張り、片方の手をガラスの上でなぞってドアノブを掴んだ。が、しかし、開かなかった。
「開かない」
「だって店の中も静かだし、人もいないわ」
「チョコレートを置いてどこかへ行ってしまったの? そんなわけないよ」
 もう一回強くドアノブを回して引くと、明らかに金属がひしゃげる音がしてドアが開いた。「ほら、開いた、開いたよ」私はその異音を聞かなかったことにして店内に足を滑り込ませた。彼女がなにか言いたそうに口をもごもごと動かした音も聞こえていたが、これも聞かなかったことにした。
 店内は濃厚なチョコレートの匂いでいっぱいだった。まるでチョコレートの森林浴をしているように感じられた。すーっと肺の奥底にまで空気を吸い込むと、ただそれだけでチョコレートを食べている感じがした。
「誰か、どなたかいらっしゃいませんか?」
 最高のチョコレートを前にして、最大限の礼儀をわきまえた声色で店内に呼びかけた。数秒待ったが返事はないので、次はもっと大声で叫んだ。やはり返事はない。
「本当に誰もいなさそうね。たぶん、この店だけじゃなくてどこもかしこも」
「そんな……」
 店の人がいなければチョコレートを買うことはできない。歓喜に満ちあふれて風船のように膨れて浮きあがっていた心臓が、急速に鉛でできた文鎮と化して足元よりも奥底に沈んでいった。対するリザちゃんは朗らかな態度で言った。
「うーん、でもチョコレートはここにいくらでもあるし、一つか二つとっていってもバレないんじゃないの」
「ダメだよ、それは窃盗」
「なるほど、そこは即答なのね」
 たとえ死ぬほどチョコレートが欲しくても、私は誇り高き軍人だ。盗みを働いていいわけがない。
 とはいえ、結論が出ていても私はそこから微動だにできなかった。このままチョコレートの空気にしばらく浸っていたかった。とうとうリザちゃんが咳払いをして、折衷案を繰り出した。 「じゃあ、こうしましょう。あなたのお金をここに置いて、チョコレートを持っていく。値段は分からないけど多めに置いていけば店の人も困らない。どう?」
「それは……」
 とても、良い案に思える。店の人に直接渡してはいないけど、たぶん、窃盗ではない、はず。たくさんお金を払って困る人もいない、はず。彼女の意見を隅から隅まで検討して、反論の余地はなさそうだと納得するまでの間に、どういうわけか手は勝手に鞄を開けて財布の中のお金を台の上に全部ぶちまけていた。じゃらじゃらと盛大な音が鳴り響いて、何枚かの硬貨が床に落ちて転がった。
「これだけ払えばショーウインドウのチョコレートを全部持っていけそうね……」
 呆れた声で言うリザちゃんの姿勢が途中でぴたりと止まった。白線で描かれた彼女の手が床のなにかを拾い上げた仕草をした。続いて出た彼女の声はこわばっていた。
「この街に人がいない理由が分かったわ」
 ぐい、と私の手を引っ張って彼女が店を出ようとするので、私は全力で踵を地面にくっつけて抗った。
「なんで、どうして」
 その時、地鳴りのような振動が店の中を揺らした。きゅるきゅるという規則的な音までもが辺りに響き渡る。踵の力を緩めた瞬間、彼女の力が上回りつんのめるような形で二人して店の外に飛び出した。
 地鳴りは生き物のように道路を伝って移動して、私たちのすぐ近くで止まった。もう返事を待つまでもなく、私の視界はその嫌というほど聞き慣れた音を頼りに白線の輪郭を模っていた。
「この街はもう、敵に占領されようとしているんだわ」
 M26重戦車。
 敵国アメリカ合衆国の主力戦車が奏でる悪魔の調べだ。
 約一分の長くて短い間隙を置いて、それは主砲をまっすぐと私たちの方に傾けた。
 リザちゃんが私の身体を抱きしめて空中に退避した直後、入れ替わりに砲弾が風を切ってすぐ真下を通り過ぎた。背後で耳を突き破る爆発音がして空気をびりびりと震わせた。空中で自立した私は直ちに戦闘態勢をとった。手のひらに込めた光の源を目標に向かって解き放つ。
 精細に模られた白線の戦車に鋭い凹みができた。続いて、リザちゃんの魔法も突き刺さり、醜くひしゃげた重戦車はのろのろと後退をはじめる。とどめを刺すために追いすがる私たちはしかし、戦車が通りの十字路で停止したところで相手の意図を察知した。
 両脇の建物の角からわらわらと現れた一個小隊規模の随伴歩兵たちが、雨あられの銃撃を浴びせてきた。間一髪、私たちは回避運動をとって被弾を最小限に抑えた。それでも脚とか、肩のあたりにじんじんとかすかな鈍痛を感じた。
 この間に戦車は後退を成功させて建物の後ろに逃げ込んでいった。追いかけようとした私の腕をリザちゃんがむんずと掴む。「だめよ! 絶対に狙撃される」「みんなまとめてやっつければいい!」「だめ! 絶対に被弾するわ!」
 彼女の言わんとしていることは理解できた。私たちはここにいちゃいけないはずなんだ。本来の作戦行動に支障をきたす被弾は避けないといけない。でも、でも……!
「お父さんが! あの戦車に撃たれたら死んじゃう!」
 一瞬、彼女が言葉に詰まったものの、すぐにごくまっとうな返事が返ってくる。
「たぶん、あれだけ痛めつけたらしばらくは使えないわ。それに、私たちの身体は国家のものなのよ」
 あちこちに敵国の伏兵が潜むブリュッセルの空で、二人してしばらく見つめ合った。言い争うまでもなく答えは明らかだった。
「帰ろう、ケルンの基地に」
 前線を離脱してケルンのお家に逃げ帰った私たちは、急いで乱れた髪の毛を整えて格好を取り繕った。今度こそオーバースカートに着替える。予想通り、外套にはいくつか穴が開いてしまっていたけれど、幸いにも9mmパラベラム弾だったのでさほど気にならなかった。もし.45ACP弾だったらリザちゃんにお裁縫をお願いしないといけなかったかもしれない。
 あわてて外に飛び出すと、顔に当たる太陽光の角度で夕方に近づいている様子が分かった。こないだよりもさらに早い足取りで突き進むリザちゃんに引っ張られて、基地までの道のりを走るようにして歩く。煙臭いケルンの街にはもう行き交う人々の軌跡は描かれない。チョコレートを奪おうとした男の子たちも、会社に急ぐ男の人も、かつかつとハイヒールの音を甲高く鳴らして白線を泡立てる女の人も、めっきり映らなくなった。
「身分証明証を」「はい」「失礼しました、どうぞお通りください大尉どの」前回よりほんの少し待遇が良くなった手続きを矢継ぎ早に済ませて基地の中に入り込む。大股で歩く大柄な男の人たちが次々と、どんなに広い廊下でも壁にぴたりと背を向けて敬礼を送る。私たちが先に敬礼しなければいけない相手は施設長しかいないみたいだった。
「ずいぶん時間がかかったようだが」
 執務室に入り、めいいっぱいの声で敬礼すると施設長はそれを遮るように言った。道中、なにか言い訳を考えなければと思ってはいたものの、どう頑張っても施設長を納得させられるような賢い物言いは湧いてこなかった。
「申し訳ありません。お昼寝をしていましたの。長旅のために体力を回復しなければ、と……」
「ほう。リザ・エルマンノ臨時大尉も同じかね」
「……さようでございますわ。私たちの能力を使っても夜明けまでかかる距離ですし、仮眠を一度しておいた方が効率的かと」
 表情が判らなくても視線の圧力を感じる。無言の間がしばらく続いた後、ようやく施設長は「まあいい」と静かに言った。
 息を潜めたまま安堵のため息を吐くのはとても難しかった。冗談ではなく、無断で魔法を行使したことも、戦闘したことも、ベルギーに行っていたこともばれてはいけない。
「いずれにせよ、速やかに作戦行動に入ってもらう。地図で示された場所はソ連軍が侵入してきている領域でもある。くれぐれもやつらに施設を占領されぬよう、徹底的に破壊せよ」
「はっ」
 リザちゃんが先んじて命令に応じる中、私は出し抜けに質問を繰り出した。
「ソ連兵……ポーランドに来ているんですか?」
 今年の夏に入りかけた頃、施設長はフューラーが軍隊を一休みさせているとおっしゃっていた。ソ連兵も手強くて一筋縄ではいかないみたい。でも、今は十一月。これだけたっぷりと休めたのなら、今頃はモスクワに鉤十字が掲げられていてもおかしくない。ポーランドにソ連兵が迫ってきているという話は意外に思われた。
「やつらは虫みたいな連中だ。後から後から、うじゃうじゃと湧いてくるから手がつけられない」
 いつになく声を震わせ、硬質さに翳りを見せる施設長の姿はいつもと違って映った。
「でも我々の軍隊なら虫なんてへっちゃらに違いませんわ」
 私が声を張り上げると、施設長も自信を取り戻してくれたのか力強く答えた。
「もちろん、そうだとも。我々がかの地を支配することは神に約束されているのだから」
 滑走路に向かう道すがら、珍しく施設長が相伴を名乗り出てきて一緒に寒空に身を晒した。普段なら執務室で行われる許可が、静かな滑走路の上で行われる。
「私、アルベルト・ウェーバーSS施設長特別大佐の権限により、魔法能力の発動を許可する」
 正式な許可が下り、付き添いの兵士たちが私たちに無線機を背負わせた。頭にはカチューシャのようななにか。オーバースカートは外套の下に着込んでいる。耳に当たる装置から流れる、静かなハムノイズの音が作戦の開始を強く印象付ける。
 出撃の直前、ふと、私は外套のポケットにしまいこんだままの手紙を思い出した。あわててポケットから取り出して、目の前の施設長に差し出した。
「あの、ごめんなさい。もしお手数でなければ、父への手紙をどうか送っておいてもらえませんか。ポーランドからだと、届きそうにありません」
 相手がしばらく無言だったのでおずおずと引っ込めかけたその手を、革手袋をはめた大きな手のひらが包み込んだ。ふふっ、と穏やかな笑い声も聞こえたので、私はようやく安心することができた。
「喜んで預かろう。実は、私からも贈り物がある」
 手紙を差し出した方と互い違いの手で受け取ったものは、かすかに甘い匂いがして固い手触り、そう、チョコレートだった。
「これ、もしかして……!」
「そう、前に約束したベルギーチョコレートだ。なかなか手配させるのが難しくてね。本当は箱いっぱいあげたいのだが、他の兵士にも配ってやらないといけなくてね」
「いえ、私にはもったいないくらいです。本当にありがとうございます」
 チョコレートを握り潰しかねない勢いで固く掴みとってから、深々とお辞儀をした。
「きっとおいしいはずだ。なんでもノイハウスとかいう老舗らしい……」
「ノイ、ハウス?」
「おや、聞き覚えがあるかね? さすがチョコレート博士だな」
「いえ……そんな……」
 聞き間違いでなければ、ブリュッセルにあるあのお店と同じ名前だった。あの時、お財布の中身を全部うっちゃってでも手に入れようとしたものが、今や文字通り私の手の中にある。ひとりでに身体が浮くほど喜んでいいはずなのに、頭の中がなんだかもやもやしてすっきりしなかった。
 お店には誰もいなかった。これを”手配”した人は、どうやってそんなにたくさんのチョコレートを買えたのだろう?
「リザ・エルマンノ、出撃します」
 リザちゃんの張り上げた声でまとまりのない疑問から現実に引き戻された。一旦、チョコレートはポケットに収めて、私も威勢よく声をあげる。
「マリエン・クレッセ、出撃します」
 光の源が地面を跳ねのけると、たちまち施設長を模した輪郭は白点と化して真下に沈んでいった。


 ”一九四六年十一月二三日。このお手紙は同僚のリザちゃんに書いてもらっています。頭で中で考えることをお話するのはおかしな感じがします。たぶん、お父さんにはお返事を書く暇がないのでしょう。せめて一度くらいお返事を頂きたかったのですが、どこかで生きて戦っているのだと信じます。たとえブリュッセルが敵の手に渡っても……"
「これはだめよ」
 かりかりと鉛筆を走らせる音を止めて、リザちゃんが忠告した。
「ブリュッセルが占領されたことなんて私たちは知らない」
「あ、そうだった」
 お手紙を書くのにも我が国にはルールがあるのだと施設長によく教えられた。みんながルールを守っているか確かめるために、お巡りさんみたいな人たちが代わりにお手紙を読んでくれるのだという。そこでルールを守っていないと判ると「ケンエツ」されてしまう。お話を書き慣れていなかった頃はよく「ケンエツ」されて、施設長と会うたびに窘められた。私が国家魔法少女になったことは、もちろんお父さんも知っているので書けるけれど、作戦に関わることは書いちゃいけない。ブリュッセルの話もたぶんそうだ。ルールは守らないといけない。
「じゃあ、今のは削って……」
 次の段落を考えるのには苦労した。ポーランドに行っていることは書けない。つまり、今の私たちの生活も書けない。一旦、ベルリンで休憩してからポーランドに飛んだ私たちは大して進まないうちに地上に降りざるをえなくなった。イギリスの戦闘機がうるさい蚊なら、ソ連の戦闘機は濃硫酸の大雨に等しかった。ひと粒の雨を振り払うたびに身体が焼け焦げ、秒を追うごとに他の雨粒が全身を貫かんとして降り注いでくる。ソ連兵が攻めてきているという話は本当だった。
 そこで私たちは経路を大幅に迂回して北からポーゼンに向かう作戦を採った。それでもソ連兵はわらわらとどこからでも姿を現して、一向に尽きる気配がない。まるで地面から無尽蔵に生えてきているかのように感じられた。
 本当なら往復で三日程度と考えていた作戦に、もう一週間以上も費やしている。直線距離なら一日とかからない道のりも、迂回路を探りながら地上を歩くやり方では遅々として進まない。旅行鞄のけっこうな割合を占めていた食糧はほとんど尽きかけだった。
 私がなにも続きを話さないので、リザちゃんの持つ鉛筆の先がとんとん、と音を鳴らした。
「あ、ごめん。やっぱり今日はいいや。なにを書けばいいのか思いつかない」
「そう」
 紙をめくる音がした。彼女の旅行鞄には使いさしの便箋が何枚も溜まっていることだろう。一日おきに今度こそ手紙を書こうと思い立っても、なかなかしっくりくる感じにならない。いっそ作戦を終えてから家でじっくり書く方がいいと思うものの、この異国の寒空の下でなにも考えずに過ごすのはとても難しかった。リザちゃんの方も、何度も書き直しを手伝わされているのに文句一つ言わない。
 ちょっとずつ食べていた豆の缶詰の底をスプーンでひっかき続けて、とうとう口に運んでもなんの味もしなくなったので指をつっこんだ。舐め回すとほのかにまだトマトソースの味がした。
「いい加減に食糧がないわね。まだ目的地にもついていないのに」
「どこかの集落に行って、食べ物を分けてもらおうよ」
 ポーランドの西半分は私たちの味方だと聞いている。こんなドレスを着た子どもが軍人だと言っても信じてもらえないかもしれないけど、鞄には顔写真入りの身分証が入っている。そう、私たちは大尉なのだ。
「この有様じゃどの集落もソ連に占領されているんじゃないかしら」
 白線の横顔が空を仰ぐ。こんなにも大量のソ連兵が進軍してきているのなら、少なくとも街と呼べるような場所には私たちの鉤十字ではなく鎌と槌の旗が翻っているに違いない。
「街から離れたところに家を建てて一人とか二人で住んでいる人たちもいるでしょ。まさか、そんなところにまでソ連兵は居座っていないはず」
 リザちゃんが「どうかしら」と疑問を投げかけるも、二人そろってお腹の虫がぎゅーっと鳴った。三日分しかない食糧を三等分しているせいでいつもお腹はぺこぺこだ。ご飯を食べながら、次のご飯のことを考えている。飲み水は川から汲んでくれば手に入るとはいえ、それも敵の進軍を避けながらでは気後れする。もちろん、水筒の中身もほとんど残っていない。
 結局、彼女は家を探すことに同意してくれた。平地を離れて丘陵に近づくにつれて、なんとなく張り詰めた神経が落ち着いてきた。できれば今日は屋根のある場所で寝たいと思った。旅行鞄に入った上着という上着を不細工に重ね着してもなお、夜の間は寒くて仕方がない。 「前にね、お父さんと一緒に住んでいた家でね、暖炉が壊れてしまったことがあるの」
 一転、明るい調子で私は話し始めた。ろくに景色も見えない道のりを無言で歩き続けるのは耐えがたかった。
「あの時もちょうど冬の頃で、家じゅうのお洋服を着込んで、それでも寒かったからお父さんの膝の上に座ってた」
 そこで読んでもらった絵本が当時の私の知っている世界のすべてで、そのうちの一冊がピノッキオだった。ピノッキオの冒険。何度もせがんで読んでもらったお気に入りのお話だけど、結末だけは今もあまり好きじゃない。様々な苦難を乗り越えたピノッキオは最後、妖精に認められて人間に生まれ変わる。
 どうして、木のままではいけなかったのだろう。ピノッキオは色んなことができて、苦しい試練があっても楽しく暮らしている。松の木でできているからこそ、あんなにどきどきするような大冒険の日々に恵まれている。人間に生まれ変わってしまったら、特別でもなんでもない普通の子だ。
 もし私の目を普通の人と同じにできるとしても、代わりに魔法少女でなくなるのなら、私はずっと見えないままでいい。「役目を持った人にしか神は祝福を授けない」と、施設長もおっしゃっていた。
「お父さんってどんな人なの」
 私の数歩先を先導して歩きながらリザちゃんが言った。
「えっとね、優しくて、賢くて、なんでも知ってるの」
「ふうん」
「リザちゃんのお父さんは?」
「……同じだよ。とっても、優しかった」
「いつか会えるといいね」
 イタリアも大変だと聞いていた。王様に嫌われたムッソリーニ首相が、フューラーに助けられて北の方に新しい国を作ったという。新しい国にはまだ兵士の数が足りないので、代わりに我が国の軍隊が居候している。イタリアとドイツは友達なのでこういう時は助け合わないといけない。
 リザちゃんが我が国に「セッシュウ」されて来たのも同じ頃だ。できればイタリアで戦いたかったみたいだけど、偉い人たちはもっと難しい作戦を考えているのだと思う。実際、彼女がいなければドイツもどうなっていたか分からない。
「そうね、いつか」
 それきり、会話はぶつ切りに途絶えて固く締まった土を踏む音が響いた。たまに、遠く彼方の方角に戦闘機らしきプロペラの高周波音と、戦車のキャタピラが草木をすり潰す重低音がかすかに聞こえる。
 私たちは黙々と歩き続け、川の水を汲んでは飲み干し、また歩いた。相変わらずお腹は鳴っていてもポーランドが川の多い国だったおかげでなんとか我慢できている。人はなにも食べていないと三日くらいで死んでしまうけど、水を飲んでいれば二週間は生きられるらしい。
 夕方、森林に空が覆われている箇所を見繕って野宿の支度をする。暗くなってからだと薪を集めるのにも苦労するので明るいうちにしないといけない。もともと目の前が暗い私には関係ないけど、目で見て薪を探せるリザちゃんには大いにある。荷物は減っているのに気だるさが増す身体を懸命に動かして、言われるままに辺りの木を伐採する。
 そうは言っても、実際のところはなんてことない。前線の兵士と比べたら私たちはよっぽど楽だ。木を削るのも、火をつけるのも簡単に済む。リザちゃんが「そう、そこよ」と声で示した位置でぴたり、と人差し指を止めて「ぼっ」とつぶやくと、光の源が爆ぜて薪がぱちぱちと言う。灯りのありがたみが分からない私でも、焚き火の温かみを感じるとなんとなく安心できる。
「そういえば、コーヒーがあったわ」
「えー、コーヒー飲むの」  寒くなったのでたぶん今は夜なんだ、と思った辺りでリザちゃんが言った。旅行鞄からなにかを取り出した後、がたごとと音をたててインスタントコーヒーを作りはじめた。じきにぶくぶくとお湯が湧く音が聞こえたので、手を差し出して待っていると熱いコップがあてがわれた。私の抗議の声は再三に渡ったが徹頭徹尾、無視され続けた。
 顔にあたる湯気を吸い込むと、コーヒーの香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
「そう、匂いはいいのに……でも」
 試すようにして慎重に口に含むと、たちまち言葉では言い表せない強烈な苦味が舌の上に広がった。
「うええ……コーヒーってとってもおいしそうな匂いがするのに、どうしてこんなにまずいんだろう」
 焚き火が爆ぜる音の向こう側でもコーヒーをすする音がした。私と違ってずいぶん慣れた感じだった。
「そのうち慣れるわよ。飲むと温まるからちゃんと全部飲みなさい」
 ぴしゃりと命令口調で言われて、リザちゃんはやっぱりお姉さんなんだと思った。しかし私があまりにもちまちまとしか飲み進められない状況に呆れたのか、ついに決定的な打開策を提案した。
「コーヒーってチョコレートと一緒に飲むとおいしいんだって」
「えっ、そうなんだ……」
 出し抜けにチョコレートの話が持ち出されたことで、なるべく考えないようにしていた旅行鞄の中のチョコレートを思い出してしまった。どれだけ食糧を切り詰めようとも、これにはまだ一口も手をつけていない。チョコレートが一番美味しいのはお腹が空いている時でも、空いていない時でもなく、その中間くらいの時なのだ。
 とはいえ、そんなこだわりもうっかり捨てたくなるほどにコーヒーは苦い。なんで大人の人たちはこんな苦いものをわざわざ飲んでいるのだろう。実はみんな我慢して飲んでいて、ただかっこつけているだけなんじゃないだろうか。お酒もタバコもきっとそうだ。みんなかっこつけだ。
 私は頭の中で必死にコーヒーと闘争するための理論武装を組み立てていった。さもなければ一向に軽くならないコップを両手で握り続ける気力を失いかねなかった。落としたふりをして地面に飲ませようかな、と本気で考えたりもした。
 確かに、チョコレートの甘さを噛み締めながらだったら、確かになんとか我慢できそうな気はしないでもない。
 そうして旅行鞄の方に伸ばしかけた手を、もう一人の自分が強く制する。こんなことのためにベルギーチョコレートを食べてしまうなんて神への冒涜だわ。決して許されない。でも、でも、もしかしたらコーヒーが飲めるようになるかも……。いいえ、ありえないわ。コーヒーの苦さは神にも救えない。ええ、そんな……。
 結局、私は水筒の水と交互に飲むことでなんとかコーヒーのコップを空にした。いよいよ寝る直前になって、リザちゃんは思い出したように言った。
「ウィスキーもチョコレートと一緒に飲むとおいしいらしいわ。大人の人はみんなやってるそうよ」
 すっかりふてくされて寝袋にくるまっている間に、地球がぐるりと回って私の顔にお日さまの光が当たった。


 リザちゃんに急かされて半分寝たまま朝の支度をさせられる。文字通り、させられている。手渡されたものを食べて、飲んで、服を脱がされて、濡らした布で拭かれて、着せられる。うんと時間をかければ自分でもできないことはないし、家にいる時はなるべくやっていたけれど作戦行動中はそういうわけにもいかない。
「あら、月のものが来ているのね」
「え、そうなんだ」
 どうりで股の辺りがむずむずすると思った。いつもだったらあの独特な匂いで嫌でも気付かされるけど、こんなに長くお風呂に入っていないと鼻が全然効かなくなる。本当だったら入りたくてたまらないはずなのに意外にそうでもないのは、お腹が空いているとか喉が乾いているとか、他にしたいことが多すぎて身体が忘れてしまっているのだと思う。もし、息ができなかったら息をしたい以外にはきっとなにも考えられない。
 撤収が済んで私たちの進軍が再開されると、股にあたるやたらごわごわとした布の感触が気になった。なんとかうまく歩こうとして大股歩きにすると、今度は慣れない歩き方をしているせいで余計に疲れる。ただでさえ女の子は月のものが始まっている最中は元気がなくなる。つまり、お腹が空いていて、お風呂に入れなくて、月のものが始まっていて、チョコレートを食べていない私は今、ものすごく元気がない。
 足が草木をかき分ける音が減って、全身に熱を感じはじめたので森林を抜けたのだと分かった。朝から無言で歩いていたリザちゃんが「あっ、あそこ」と急に叫んだので、頭をあげて見えない視界になにかを見出そうとした。「家があるわ、とても大きい」と彼女が言ったので、途端に萎みきっていた心臓が高鳴る。
「どれくらい、大きそう?」
「近づかないと分からないけど、たぶん納屋があるわ。養牧をしているのかもしれない」
 今日の夜には屋根のついた家で眠れる可能性がいっそう高まった。家のご主人が気難しい人だったらどうしようと心配していたけど、納屋でなら一晩寝させてもらえるはず。なんだったらついでに牛さんのお世話をしてもいい。ついでにミルクも飲めたら嬉しい。むくむくと膨らむ妄想が止まらなくなって、鉛の重さだった足取りが空を飛んでいるように軽い。
「本当に牧場だった、牛もいる」
 さらに歩いた後、リザちゃんが感慨深そうにつぶやいた。手をのばすと乾いた薄い木の感触が伝わる。ぺたぺたと手を動かすと輪郭が分かる。これは、ゲージだ。
「ミルク、分けてくれるといいな」
 のんきなお願いに最初は朗らかに応じていた彼女が、家の近くにまで足を伸ばした途端に声をこわばらせる。「いえ、それは無理そうね」首を傾げて「どうして」と問うと、質問には答えず「いつでも飛べるようにして」とだけ答えた。もう家はすぐそこなのに。だって、ほら、家の中から男の人たちの楽しそうな声がさっきから聞こえる。
 男の人たち?
 次第に、リザちゃんが心配していることが分かった。彼女のオーク材の手が木でできた扉を強く叩くと、ちょっと変な響いて家の中の男の人たちの声も止んだ。ぼそりと私に告げてから――「もしソ連兵がたくさんいたら、即離脱よ」――家の中に向かって叫んだ。言われた通りに私は踵をわずかに浮かせる。
「あの! すいません! 食糧を分けてもらえませんか!」
 潜めた息が次々と吐き出される音がする。ややあって、のしのしと重い足音がして声が返ってきた。扉は開いていない。
「どちらさんかね」
 変に演技したような声色だけど、言葉はれっきとしたドイツ語だった。
 リザちゃんは一瞬、口をもごもごさせていたがすぐに決心した様子で叫んだ。ただし、一歩半ぶん、扉から左に身体をずらして。
「……私たちはドイツ国軍所属の軍人です。その、作戦行動中に糧秣が不足しまして、よろしければ少々分けて頂けないかと」
 また声が途絶えた。私の踵はほとんどつま先立ちに近い高さまで上がっている。ここで食糧を得られなかったらとても困る。でも、うっかり深手を負ったら作戦自体が危うくなる。
 幸い、扉の向こうにいる男の人は純粋なドイツ語の発音で厳かに話しはじめた。
「我々もドイツ軍人だ。部隊、所属、名前を言え」
 ほっと息をなでおろして、私たちは顔を見合わせる。浮いた踵が地面にぺたりとくっついた。しかしリザちゃんは油断せずに続ける。
「私たちは将校よ。まずはそちらから名乗りなさい」
 わずかな沈黙。
「……第二二一保安師団、第三一三警察大隊隷下のリヒト小隊だ。元の隊長は死んだ」
 その名乗りがどういう意味を持つのか私にはピンと来なかったが、リザちゃんは納得したみたいで幾分落ち着いた口調になった。
「警察大隊……なるほどね。分かったわ。私たちは帝国航空艦隊所属よ。司令官はアルベルト・ウェーバー施設長特別大佐」
「帝国航空艦隊だと? 本土にいる連中がなにしにここに来た」
 今度はリザちゃんが一瞬だけ黙ったが、決心は早かった。
「私たちは国家魔法少女よ」
 直後、木の扉がぶわっと開いて大柄な男の人の白線がじわじわと模られはじめた。手には小銃が握られている。どやどやと奥の方で騒ぐ声の感じからして、分隊規模の人数がいるようだった。
「魔法少女……噂には聞いていたが……そんなものが実在するとは」
 リザちゃんもきっと疲れているのだろう。間延びしたやり取りをいい加減におしまいにして、男の人の目の前で指を「ぱっちん」した。すると、鋭く火花が散る音がして奥の方の人たちがどよめいた。特に間近にいた男の人は驚いて、どたんと尻もちをついて倒れこむほとだった。痛くはなくとも突然やられるとけっこうびっくりする。肌がぴりっとするからだ。
 魔法の力を直に見て、鞄の中の身分証も見た彼らは一転、私たちを文字通りの上官待遇で出迎えてくれた。扉を開けた男の人が彼らの中では一番偉く、ウルリヒ伍長と名乗った。大隊からはぐれて撤退を模索するも、あちこちにいるソ連兵に阻まれて立ち往生していたところ、ちょうどこの民家を見つけたので「セッシュウ」したのだという。セッシュウ。じゃあ、ここはもうポーランドじゃなくてドイツのものなんだ、と私は納得した。
「俺たちの任務は占領地を警護すること。いわば後方支援、ただそれだけのはずだったんだが、気づいたら前線になっちまっていた」
 伍長さんはリヒト少尉という小隊長が先週までいたが戦死したこと、その後も友軍が次々と死んでいき自分より階級の高い軍人がいなくなったことなどを話した。
「だが大尉殿が二名も着任されたからには安心だ。肩の荷が下りた。貴殿らが我々の隊長だ」
 そして、待ちに待った温かい食事がやってきた。彼らはすでに食事を終えていたらしく、私たちのために大きい身体をあくせくと動かしてシチューと黒パンをたんまりと振る舞ってくれた。私のぶんはまずリザちゃんに渡されて、彼女から私にそっと手渡された。やけどしそうなほど熱いシチューがお腹の中にすとんと落ちていって、じんわりと体中が温まった。あっという間に食べ尽くした後に冗談めかしておかわりを要求すると、すぐさまなみなみと注がれたシチューと、追加の黒パンがやってきた。私たちって本当に偉いんだ、と階級章のありがたみを初めて実感した。
 食事が済むと、またぞろウルリヒ伍長がのしのしと近づいてきた。私たちの目的を知りたいみたいだった。「えっとね、ポーゼンにある研究施設を壊さないといけないんだって」と言うと、伍長さんは「ポーゼンか」とつぶやいて、しばらく黙りこくった。「貴殿らの魔法で、施設と言わずポーゼンの拠点全体を破壊できないか? 後方を撹乱してソ連兵の進軍を遅らせたい」この提案にはリザちゃんが応じた。「どうかしら。私たちの力は無限ではないの。傷を負ったり疲れると徐々に失われる。ソ連兵の規模によるわ」伍長さんは、またうなった。「こんな有様だが我々も随伴する。このままおめおめとベルリンに逃げ帰っても状況は良くならない」同じ部屋にいるであろう兵隊さんたちがざわめいたが、伍長さんは無視して続けた。「どうか、頼む。その研究施設とやらの破壊にもぜひ協力しよう。長く駐屯していたから少々、土地勘もあるしな」
 今度こそ、私が先に答える。
「いいと思う。たくさん味方がいた方が有利になるよ。ご飯を食べたから私たちも元気になったし」
 お父さんほど歳が離れていそうな男の人に深々と頭を下げられるのは慣れないけど、初めて自分に部下ができたような気がしてちょっぴり誇らしい気持ちになった。
 さっそく、伍長さんは分隊員を呼んで私たちの前に整列させた。それぞれ、エルマー、ハンス、パウルと自己紹介した。できるだけ上官らしさを意識した態度で、顔をつんとあげて「ひざまずいてちょうだい」と言うと、三フィート以上も背の高い男の人たちがさっと腰を落とした。一人一人の顔をぺたぺたと触っていくと、私の視界の中の白線が細かい輪郭を描き出す。
「自分は、エルマー一等兵であります」
 ぺたぺた。
「ハンス一等兵です」
 ぺたぺた。
「パウル一等兵です。マリエン臨時大尉殿は目が見えないでござりますか」
 ぺたぺた。
 いかにも芝居めかした口調でパウルが言った。さすがの私でも馬鹿にされていると分かる態度だったので、ちょっとムッとした。
「そうよ、でもあなたよりずっと強いんだから」
「おや、それはたいへん恐ろしゅうございますな」
 にたにたと笑うパウル一等兵の顔の輪郭が、声の調子に合わせてゆらゆらと動く。こういう時って大声で怒鳴ったりしないといけないのかな、と考えていたあたりで、横から伍長さんが「上官にその口の聞き方はなんだ」とたしなめると彼はすぐに直立不動の姿勢になおった。
「申し訳ない、こいつらは国民突撃隊上がりで」
 国民突撃隊、と聞くとケルンの街角で施設長に叱られていた男の子たちを思い出す。あの彼らもそのうち兵隊さんになっていくのだろうか。この兵隊さんたちも昔はああいう感じだったのだろうか。大人の男の人はみんな紳士なのに、男の子ってどうしてあんなに乱暴なんだろう。男の子はいつ、どこで急に「男の人」に早変わりするんだろう。
 暖炉の火の灯った温かい部屋でうたた寝をしていると、夜が来るのも早かった。作戦行動の細かい指示はリザちゃんが伍長さんと相談して決めていたので、私がすべき仕事は特になにもなかった。エルマー一等兵が沸かしたお風呂に入って、ハンス一等兵が整えた客室のベッドで眠ればよかった。最後に、パウル一等兵がのそのそと近づいてきて、私のそばに座った。吐く息がお酒くさかったので、手には酒瓶かなにかが握られているに違いなかった。
「よう、臨時大尉どの」
「なによ」
 つん、とすました態度で応じたが、彼はまったく意に介さない様子で会話を続ける。
「目が見えないってどんな気分なんだい」
 また私を小馬鹿にしようとしている、とたちまち不機嫌になった私は質問には答えず「どうでもいいでしょ」と声を荒らげた。
「ちぇ、なんだよ」
 意外にもパウル一等兵はつきまとうのでもなく、嫌味を繰り返すのでもなく、あっさりと引き下がった。ちゃぷちゃぷと液体が揺れる音を手元でたてながら、頼りない足取りで遠ざかっていく。身体は大きいのにまるで子どもみたいな人だと思った。
「待ちなさいよ」
「ああ?」
 ちゃぷ、と酒瓶の中身が大きく揺れる音がした。白線の輪郭はあやふやだったが振り返ったのだろう。
「私が見えないと思っていると痛い目を見るわよ」
 続けて、右手を拳銃に模り「ぱん」とごく小声で言った。狙い通り、酒瓶が破裂して中身とガラス片が床に飛び散った。「うおっ」と大声で叫ぶパウル一等兵。あんまり期待通りに驚くものだから小気味がよかった。
「どう?」
 得意げに胸をそると、彼は「いや、まいった、実にまいったよ」と大げさに両手をあげた。本当に恐れをなしたのか、彼は床に滴ったお酒とガラス片にも頓着せず去っていった。
 入れ替わりにリザちゃんが部屋に入ってくる。石鹸のいい匂いがしたので、彼女もお風呂に入ったと分かった。昨日とはうってちがって、まるで高級ホテルに泊まったかのような変わりようだ。
「ねえ、今の、見た? 部下をこらしめたの」
 得意げに報告するも、リザちゃんの声は落ち込んでいた。
「断るべきだったわ、ポーゼンの件」
「どうして?」
 彼女はただでさえ低い声をさらに落として続けた。
「同封写真からじゃ施設とやらのはっきりした場所までは分からない。ソ連兵と一戦を交えながらそれを探し当てるだけでも一苦労なのに、ポーゼンの解放まで目指すなんて無茶よ。一個大隊規模の兵士がいるのならともかく、六人しかいないのよ」
「でも、そのうち二人は私たち国家魔法少女だよ」
 たっぷり食事を摂って、お風呂にも入って、これからふかふかのベッドでぐっすり眠れる私は自信に満ちあふれていた。厄介な戦闘機はベルリンに飛んでいってポーゼンには残っていないだろう。陸の上を歩いているだけの兵隊さんなんて何人いようと一緒だ。やる気満々の私に圧されたのか、単に呆れたのか、リザちゃんは深くため息をついて応じた。
「まあ、やれるだけやってみるけど、作戦行動が最優先だからね」
「それは分かっているよ、どんな場所なのかな」
「ソ連に取り上げられたらまずい場所なのは確かでしょうね」
 二人きりの作戦会議もそこそこにベッドに寝転がると、夢の中に落ちるのは一瞬だった。夢を見ている私はなにも見ることができない。


 初めての部下を引き連れての行軍は予想以上に捗らなかった。「セッシュウ」した家にあった干し肉などが新たに詰め込まれた旅行鞄を片手に、無線機まで背負った私たちよりずっと身軽に見える彼らの歩行速度は信じられないほど遅かった。ソ連兵に見つからないようこそこそ歩くという条件を加味してなお、這っているかごとしに感じられる。曲りなりにも将校の私たちにこれまで部隊が与えられなかった理由がはっきりした。誰も同じ速さで歩けないからだ。
「大尉殿ー、俺はもう休憩したいのでござりますよ」
 あからさまに気の抜けた声で言うパウル一等兵は、またぞろ半日も歩かないうちにお休みをねだってきた。単に速さだけじゃなく、普通の人はあまり長くも歩けないらしい。まだ軽口を叩く余裕のある彼は良い方で、伍長さんも他の兵隊さんも口を開く余裕すらないようだった。ただ、やたらと視線を感じる。休みたいのは彼だけはなかった。
「……分かった、じゃあお休みしよう」
 数人しかいない分隊内に安堵のため息が漏れる。対して、リザちゃんのいる方からは半ば呆れ気味のため息が聞こえる。各々、地面にへたり込む隊員たちを遠巻きにするとさっそく彼女が不平を言い出した。
「こんな調子じゃポーゼンまであと何日もかかるわよ。私たちだけだったら今頃ベルリンに帰ってたかも」
 あながち大げさとも言い切れないところが歯がゆい。作戦に協力すると伍長さんと約束したのは自分なのだ。そうでなくても、半壊した分隊を置いてけぼりにしてどこかへ行ってしまうのは冷たすぎると思った。
「でも、ほら、いつまでにやれ、とは言われていないし」
 精一杯にかばってみせるが、たちまちリザちゃんに切って返される。
「私たちが見送ったソ連兵が、それまでにベルリンを攻め落としていないといいけどね」
 返す言葉はなにも思いつかなかった。今日はたぶん、手紙の数え方を間違えていなければ十一月の末日。書いては途中で止めてを繰り返した手紙の枚数は経った日にちとぴったり合っている。一日に起こる出来事が少なすぎると書くことがなにも思い浮かばない。ここのところ、かっこよく敵の戦闘機を落としてもいないし、そもそも戦ってすらいない。ひたすら歩いて、飲んで、食べて、歩いて、寝るだけ。そのどれもが微妙につまらなくて、焦りを感じさせた。
 気温が下がり、肌をなでる風に鋭さが帯びる頃、その頬をなにかがかすめていった。なにが、と感じるまでもなく、物静かなハンス一等兵がつぶやく。「雪だ」
 雪が降ってきたらしい。これは手紙に書けそうな気がする、とリザちゃんの足音を追い続けながら頭の中で帳面を開く。たくさんのお手紙を書いて分かったのは、お天気とか季節のお話から始めると書きやすいということだった。
”一九四六年十一月三〇日。私は現在、特別な任務を遂行すべくポーランドに出兵しています。このお手紙はお父さんのお手元に届く頃にはちょっぴり湿っているかもしれません。というのも、今まさに雪が降っているからです。もちろん、音もなく地に舞い降りる雪の姿は私の目には映りません。肌をなでる冷たい感触が私に雪を感じさせます。小さい頃、地面に積もった雪をすくって食べていたらお父さんに怒られましたね。案の定、あの後にお腹を壊してトイレから出られなくなったのを覚えています。行軍中にそうなったら大変ですが、今では私もお姉さんなのでもうそんなことはしません。”
 どこかで、チーン、とタイプライタの音が鳴ったような気がした。いやしかし、改行を知らせるには遅すぎるし音程も変だ。そもそもこれは頭の中で書いているお手紙であって本当にタイプライタを叩いているわけでは……。
 私はすぐに他にも聞き慣れた音があったのを悟った。これは取りこぼした銃弾が硬い地面の上で跳ね返る音だ。
「敵だ」
 先ほどハンス一等兵が「雪だ」と言った時とほぼ変わらない調子でつぶやいた。どよめくも動きの鈍い部下たちにリザちゃんが息を呑みつつもなんとか大声を繰り出す。
「とっとと伏せなさい!」
 鋭い白線が目の前を瞬時に横切っていった。着弾の音からして真横の木の中に埋まったのだと思われる。続けて、何発もの銃弾が飛来する。モシン・ナガンの重苦しい銃声が耳を突き刺す。間一髪、彼女の檄が功を奏してそのどれもが友軍を模る白線の上を通り過ぎた。
 射撃精度からして流れ弾ではない。敵はこちらの位置を把握している。
 ならば、と私は腰の革製ホルスターからステッキを抜き取り――旅行鞄を投げ捨てる――切り裂いた空気が封で閉じられていくかのように薄れていく白線の軌跡を追い、その始端に向けて魔法を射出した。
 炸裂音の直後に悲鳴がこだまする。森の中にあって敵の姿は見えないが手応えはある。リザちゃんも追撃の魔法を放つ。
「応射だ、応射しろ」
 奇襲からいちはやく立ち直った伍長さんが部下をけしかけつつ、自分自身も小銃を構えて撃ちはじめた。遅れて、一等兵さんたちもなんとか応射を開始する。
「空から見ていいかな」
 あらゆる音がないまぜになった空間で無線機越しに尋ねると、ハムノイズ混じりの彼女の声が<ダメ>と端的に告げた。<もし戦闘機に捕捉されたら面倒なことになる>
「じゃあ私たちが二人で突っ込んで――」
<それもダメ。ここで被弾のリスクは負いたくない>
「じゃあ、どうするの」
<間をとる。ついてきて>
 白線で描かれたリザちゃんの影がふわ、と浮いて止まった。背の高い木に捕まっているようだった。
<上からも下から見えにくいように木を伝っていく」
 合点を得て、私も影を追う。一瞬、振り返ってもはやなにも映らない暗闇に向かって叫んだ。
「やっつけてくるね! そこでがんばってて!」
 彼女の軌跡を頼りに手を伸ばすと、堅くて柔らかい木々のささくれだった節に触れた。ぎゅっと爪をたてて指先をめり込ませて捕まり、すぐに足で軽く蹴って次の木に飛び移る。何回か繰り返しているうちに慣れてきて、朧げだった同僚の後ろ姿が鮮明に映し出された。彼女が無線機越しにしゃべると、ピンと糸を張ったように繋がっている電波を示す白線がぎざぎざに揺れて波を打つ。
<いた、敵。小隊規模、車輌はなし。やれるわ>
 ごく簡潔な状況報告の後に炸裂音が響いた。私は木から鋭角に飛び出して地面に降り立つ。応射がリザちゃんに集中することを避けるために、未だ音像を結べていない雑然とした白い靄の中にすばやくステッキを振りかざした。さらなる悲鳴。轟音。敵の兵士が叫べば叫ぶほど、応射すればするほどだんだんと私は見えるようになる。
 横殴りの銃弾の雨を避けて真横に飛び、さらに接近する。距離にして十メートルもあるかないかに迫った現況では、ステッキの口径が釣り合わない。ホルスターにしまい込みながら逆の手で拳銃を模る。「ぱん!」撃つ。「ぱん!」別に叫ばなくても小口径の魔法を射出することは可能なのだけれど、なぜか声を出した方が調子が良い。白い糸に包まれたようなお人形さんの頭が割れた風船のように弾けて地面に崩折れた。
 私たちとの戦力差を認めて撤退を始めた敵に向けて、さらに手のひらから放つ大口径の魔法をお見舞いする。地面をえぐる白い光が幾人かの遠ざかる人影を包み込んで消し飛ばした。たちどころに銃声が止んで、静寂が訪れる。
「やっつけた?」
「やったわ」
 木から下りたリザちゃんの地声が耳に届いた。後方からざくざくと音がして、私たちの部下の到着した。
「ご無事でしたか」
 伍長さんがおずおずと言い、他の一等兵さんたちは黙りこくって息を呑んだ。パウル一等兵でさえなにも喋らなかった。
 わずか五分足らずで敵小隊を一掃したとはいえ、むしろ戦況は悪化したと言っていい。本体であるところの大隊もそんなに遠くには離れていないだろうし、今しがたの轟音を聞きつけてすぐにでも百人規模の歩兵と戦車がここに殺到してくるだろう。潜伏から数週間が経ち、ついにそれは破られたのだ。
 皮肉にも、ソ連兵の追撃がにわかに現実味を帯びると分隊の足取りは滑らかに動いた。すでに存在は補足されている。まもなく事態を把握した大隊が死体を検分して、そこにドイツ国軍兵のものが一つもないと判れば直ちに部隊を差し向けてくるだろう。  結果、ナメクジが這ったような歩みの分隊は全力疾走で逃げる鹿ほどの前進を遂げて、日が暮れる頃までに森林を抜けてポーゼンのすぐそばまで接近することができた。
「このまま夜半のうちにポーゼンに侵入する」
 追手を警戒して焚き火も焚けず、全員が遁走で得た体温を頼りに寒さをしのぐ中、伍長さんが小さい声で、しかしはっきりと言った。他二人の一等兵さんたちが無言で俯く一方、パウル一等兵だけは文字通り虫の鳴く声で嫌がった。
「俺はもう疲れ果てましたよ。いま動いたら身体がばらばらになっちまいそうだ」
 だが、伍長さんは頑として譲らず冷ややかに告げた。 「ここで一晩でもくだを巻いていたらアカ野郎が嬉々としてお前を八つ裂きにするだろうよ」
 そして彼は顔を私たちのいる方に向けた――と思う――なぜなら声の調子と聞こえ方が変わったからだ。
「先ほどの戦いぶりを見るに、あなた方がいればまさに百人力だ。街の中でぐっすり眠りこけているような連中などイチコロでしょう」
「でも、私たちは施設の破壊を――」
「街の再占領さえできたらじっくり探しましょう。無線設備があればまだ撤退していない友軍に支援を要請できるかもしれない。それに――」
「マリエン大尉殿は目が見えなくとも戦える。しかし、敵はどうです? 夜間に有利なのは我々の方です」  伍長さんの意見は私から見ても筋が通っていた。さしものリザちゃんも押し黙る。
「大丈夫だよ、私もリザちゃんもまだ被弾していない。兵隊さん相手ならちゃんと戦えると思う」
ケルンでも夜中に鳴り響く空襲警報に跳ね起きて出撃したことは何度もあったけど、夜ふかしをして敵をやっつけに行くのは初めてだ。肩で息をする部下たちの疲れた様子をよそに、私はなんだかわくわくしていた。


 案の定、ポーゼンは静まり返っていた。街の規模に対してあてがわれている歩哨の数はごくまばら、サーチライトの類もない。おそらく主力部隊は一律でベルリンに投入されていて、通り道の街の占領は私たちの軍でいうところの警察大隊――治安維持部隊――に任されているのだろう。となれば、問題の施設の破壊もそう難しくはなさそうに思える。
「大尉殿、もうちっとゆっくり歩けませんかね。こちとら一発でも弾が当たったらおっ死んじまうんで」
しかし、その好条件を覆しかねない友軍が私の背後にいた。パウル一等兵である。我々は集中砲火を避けるべくリザちゃんと二手に別れて撹乱する作戦を採った。四人いる分隊員が二つに分割されて、伍長さんとハンス一等兵が彼女に、パウル一等兵と物静かなエルマー一等兵が私の下に振り分けられたのだった。
「出だしが揃わなかったらどっちかがもっと撃たれちゃうよ」
 手を変え品を変え繰り返される彼のわがままにもいい加減慣れてきた。さらりと受け流して無線機越しに話しかける。
「そっちは中に入れた?」
<入れた。敵影はなし>
「了解」 「ほら、行くよ。エルマーさん、お願い」
「はい」
 返事はそっけないがしっかりした足取りでエルマー一等兵が先陣を切る。歩哨も息を潜める夜の占領地は、戦闘が起こるまで私の目にほとんどなにも映さない。数歩先を行くおとなしい部下の輪郭だけがぼんやりと白のもやを作り出している。ぎゅむ、ぎゅむ、と重く締まった積雪を踏む音は音の大きさに反して位置が掴みづらい。足音の距離間隔や個人差を雪が覆い隠してしまうためだ。先の戦闘直前から半日以上に渡って降り続けたこの雪では、今では一面の銀世界を築き上げているという。銀色ってどんな色か分からない。人は雪を白色だというけれど、私の知っている白とは少し違うのかもしれない。
 ロングブーツの中は溶けた雪が染み込んでとっくにびしゃびしゃに濡れていた。替えの靴下は持っていても替えのブーツは持ってきていない。これでは靴下を履き替えても無意味だ。私はあまり雪と仲良くなれそうにない。雪だるまも作れないし、雪合戦もできない。ただ押し黙って降り積もり、私を凍えさせるだけ。
 早く暖炉のそばで温まりたかった。
「こりゃひでえや」
 しばらく歩くと後ろでうるさい方の部下がつぶやいた。なにがひどいのか聞くまでもなく、足元で鳴る砂利や石塊の感触でだいたい分かる。きっとポーゼンはぼろぼろなんだろう。雨あられのようにソ連兵が押し寄せた後で無事でいられるはずがない。
 街の人たちはうまく逃げられたのだろうか。この寒さの中、住む家がなくなったらどこか別の街に行くしかない。私たちのいないケルンの街は今どうなっているのか。
 あの後も空襲は続いているに違いない。ダンケルクをとられて、ブリュッセルもとられたら、次はリエージュ、その次はケルン。どれほどの戦闘機を落としても、何人もの歩兵を倒しても手のひらの隙間から水が漏れ出るように敵が街に攻め込んでくる。
 本当に私たちは勝っているのかしら、と浮かんだ疑問を慌てて振り払う。これは施設で散々叱られた「敗北主義」という考え方だ。私たちは今、お互いに全力を尽くしている。先に諦めた方が負ける。唐突に、エルマー一等兵がぼそりと言った。
「瓦礫だ」
 白い靄が揺れて右に動く。細道を選んでるとはいえだいぶ街の中心に近づいているのに敵の気配はない。「実は誰もいないんじゃないですか、ねえ」あわよくばそうあってほしいと言いたげなパウル一等兵の消え入るような声さえ、この静けさでは辺りによく響いた。思わず「しっ」と制する私の声も冷たい空気の隅々にこだまする。
 でも、そうだ。確かにいない可能性もある。
 伍長さんが言った通り、ドイツ国防軍の本隊が撤退したのならわざわざ後方に戦力を割く理由はない。補給拠点にするにしても街全体が廃墟では用をなさない。
「リザちゃん、敵、いないかも」
<……そうかもね>
 ややあって返ってきた無線は同意を示す。
「だとしたら、急いで作戦を遂行してベルリンに戻った方がいいと思うの」
 静かな夜だとハムノイズがよく聞こえる。私たちが急ぐ、ということは空を飛ぶという意味だ。もし敵が街の奪還を警戒してどこかに潜んでいたら見つかるのは時間の問題だろう。万全を期すのなら不用意に飛行すべきではない。
 だが。
「早くベルリンを守らないと」
 声色に湿り気が混じる。私たちが見過ごしたソ連兵が今日明日にも帝都を焼くかもしれないのだ。その実感は森の中で一日を追うたびに増していっている。
<……分かった。でも飛ぶのは私だけよ。空から目視で施設を探して、見つけたら報告する>
 動かず音もたてない建物は私の目には決して映らない。正しい判断だった。
「……わかった」
 ヒュッと空気を切る音が一瞬、無線機越しに入った後、スイッチを切ったのか音が途切れた。
 再び無線機から声がしたのはわずか数分後、ちょっと上ずった調子でリザちゃんが言う。
<あったわ、施設。街から少し外れた場所にある。中心部で合流してから向かいましょう>
 ポーゼンは本当に無人のようだった。ちぎれそうな足の冷たさを除いて、なに一つ支障なく私たちは合流を果たした。さしものパウル一等兵も安心しきったのか私の前を歩きはじめた。「足音が多い方が大尉殿も歩きやすいでしょう」しかし、私はやっぱり馬鹿にされている気がした。
「ここよ」
 ハンス一等兵がはきはきと「フォンテイン&ポルトフ食品加工研究所」と、おそらくは看板かなにかに記された文字を読み上げる。 「まあ、無論、実際には違うんでしょうけど。さっさと壊すわよ」
 そう言って、彼女は私の肩に手を置いた。 「あちこちボロボロだったけどこの建物はピンピンしてる。上から壊した方が手っ取り早いかも」
 なるほど、と素直にうなずいて踵を浮かせかけたところで、伍長さんが声を発した。
「ちょっと待ってください。私はこの施設の調査を具申します」
「でもそんなことしろなんて言われてないよ?」
 一回の発話では伍長さんがどこにいるのか分からなかったので、適当な方を向いて答えた。リザちゃんが「彼はここよ」と身体を動かしてくれたので次ははっきりと位置を掴めた。
「第一に、先ほどリザ大尉が仰ったように、この建物だけ無事なのは妙です。なにかあるかもしれません」
「敵が仮本営に使っているとか――」
 ハンス一等兵の補足にパウル一等兵がうめき声をあげる。「俺はここで待機してていいっすかね」伍長さんは無視して続けた。
「第二に、食品加工研究所、というのが偽装だとしても、大抵は上っ面を取り繕うはずです。申し訳程度にでもなにか備蓄食糧があるかもしれない。ここを再占領するにせよ、ベルリンに帰るにせよ食い物は欲しい」
 またしても伍長さんの言い分は筋が通っている。家で「セッシュウ」した干し肉や缶詰は元々そんなに多くはなかった。持ってあと二日程度だろう。
「あまり時間は使えないのよ」
 暗に、ベルリンの状況を指しているのだと思われた。
「見たところそこそこデカい建物ですが食い物を探す程度なら大した手間にはならんでしょう」
 先ほどの余裕を失って分隊の列の後ろに引っ込んだパウル一等兵はともかくとして、全体の方針は決定されたようだった。リザちゃんを先頭に私たちは施設の中へと足を踏み入れる。前後でかちゃかちゃと金属音が鳴って、さっきまでは下りていた味方の小銃が胸の高さまで持ち上がったのだと分かった。
 私にとって室内はありがたかった。少なくとも今以上に濡れる心配はないし、足音がよく響く。波打つ白点の集合が通路の精密な輪郭を描くのに大して時間はかからなかった。「灯りがついているな。しかも電灯だ」伍長さんが訝しげにつぶやく。
 私にとってはなんの意味もない光も、普通の人たちにとってはなくはならないものだ。裏を返せば、明かりが灯っている場所には人がいる。慎重ながらも淀むところがない一行の歩みを見るに、この建物は隅から隅まで明かりが行き届いている。
 足裏の感触からして建物には損傷もないようだった。つるつるとした均一な感触にどことない不穏さを感じる。ぼろぼろになった街の中で唯一、ここだけが無傷だった。私たちの知らない指揮系統下で「フォンテイン&ポルトフ食品加工研究所を守れ」と厳命されていたとしか思えない。それも、ドイツ、ソ連双方の指示によって。