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2023-08-21 10:07:01 +09:00

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僕はこのように投票した 2021-10-26T21:46:29+09:00 false
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先日、買い出しのついでに期日前投票を済ませた。僕は根っからの左翼ということもありこれまで投票先にはあまり悩まなかったのだが、今回は予想外の懸念が発生したために投票行動の修正を余儀なくされた。本エントリは投票先の決定に至るまでの経緯について記す。世間では投票を促す文言ばかりが盛んに打ち出される一方、実際に他人がどのような理路でもって投票先を選んでいるか分からないまま迷っている人たちも大勢いると思う。僕の例が参考になれば幸いだ。

第一の要素:格差の是正

投票にあたって特に重視したい政策は人によって異なる。僕は格差の是正を重視している。より具体的には最低賃金の上昇、労働環境の改善、学費等の減免、累進課税の強化、消費税の減税が挙げられる。コロナ禍の現在であれば現金給付も欠かせない。

格差が広がった世の中では、生まれつきの環境で人生がほぼ決定される。なぜなら公教育や福祉が乏しい社会は貧困家庭の子供に十分な教育や技能を身に着けさせたり、その機会を与える余力を持たないために、社会階層の移動が起こりえないからである。すなわち、貧乏人の子供は貧乏人、ということになってしまう。

この際に蟠る当事者の心理的問題は単なる不公平感には留まらない。貧困家庭の子供に熱意があったとしても、裕福な家庭の子息に与えられる選りすぐりの教育資本に打ち勝つことは難しい。人は投げれば届きそうだからこそボールをバスケットゴールに投げるのであって、何キロメートルもの高さにある場所に向かって投げる者は滅多にいない。投げる行為そのものを放棄する。 つまり、格差が一定以上に広がると市民から最低限の活力さえ失われてしまいかねない。

市民の活力が失われた社会では競争意欲が消滅する。人々は廉価で中毒性の高い刹那的な娯楽にばかりのめり込み、労働はもっぱらそのために行われることとなる。労働を通じた自己の啓発や向上などは望むべくもなく、企業は人材の確保に苦労する。現状、我が国の労働者のパフォーマンスが一見高いように見えるのは、労働条件のすり合わせが難しいパート主婦がやむをえず労働力を廉売したり、昔気質の中高年層が厳しい労働環境に耐えているからであり、いずれ崩壊は避けられない。

こうした事態を防ぐには税制を改革し、富裕層に応分の税負担を求めるより他に手はない。これは富裕層への懲罰ではなく、労働賃金よりも投資による収益の方が効率が高いことに起因する当然の施策なのだ。要するに資本主義経済とは、仕組み上どんな過程をたどっても最終的には必ず富が偏在化してしまう。 かといって旧態依然の共産主義では商品価値の判断が市場ではなく官僚――限られた人間の手によって行われるゆえ、しばしば汚職の温床となる。

われわれが価値判断のツールとして市場経済をうまく利用していくには、ことあるごとに政府が手を加えて富の偏りをならしてやらねばならない。新自由主義者は資本主義をバトロワゲーかなにかと見なしている節があるが、今時分は商取引を円滑化させるための補助輪に徹してもらいたい。したがって、累進課税には大いに正当性があると僕は考える。

これらを踏まえた上で投票先を選ぶ。そうなると、自民党と日本維新の会は除外される。この二つの政党は累進課税強化に消極的だからである。 岸田首相は就任当初、あたかも再分配を重視するかのような振る舞いを見せていたが、今や公約からその手の文言は軒並み削除されている。岸田首相本人の考えよりも党の方針が優先されたのだろう。

ただでさえ自民党は過去数十年間にわたって格差の拡大を放置してきた。小泉政権下で行われた派遣法改正は多くの労働者の雇用状態を不安定化させたし、安倍政権が推し進めたアベノミクスは日経平均株価こそ上昇させたものの、実態は大企業に公金をばらまいただけで庶民にはなんら利益をもたらさなかった。その上、度重なる消費税増税。連立与党の公明党と併せて三分の二以上の議席を有しており、政策の軌道修正はいつでも可能だったにも拘らず、この有様。どう見ても格差の是正に無関心であったとしか考えられない。

残った政党のうち、最大の勢力を持つ野党は立憲民主党だ。立憲民主党は格差の是正を重視している。政権交代が実現すれば富の再分配が促進される可能性が高い。また、僕の選挙区において候補者を出馬させている。他の候補者は自民党、維新の会、無所属。おのずと小選挙区の投票先は絞られた。以上の理由から、僕は小選挙区は立憲民主党の候補者に投票した。

続いて、比例代表選挙の話をする。この選挙は政党名を書く。すべての政党の中から選べるので、個々人の支持政党が反映されやすいと言える。僕はこれまで比例代表選挙では日本共産党に投票してきた。言わずもがな、もっとも格差の是正に意欲的な政党であり、本党の議席が増えればそれだけ富の再分配が進むと考えられるためだ。僕は共産主義者ではなく市場経済と議会政治を肯定する社会民主主義者だが、彼らにほどほどの存在感を持ってもらうぶんには共産主義的な発想も有意義に作用するのではないかと思っている。

しかしながら後半の第二の要素に懸念が生じたので、今回は投票先を再考しなければならなくなった。

第二の要素:表現の自由

表現の自由は僕にとって次点の重要度を持つ。国家がみだりに市民の口を塞ぎ、ペン先を折らせる状態では自由闊達な議論など生まれようがない。おのずと国家の方針に阿る言論ばかりが跋扈する事態に陥り、われわれは幅広い知見を得られなくなる。この手の言論統制は突然やってくることはない。実に巧妙な、一見もっともらしい小理屈を携えて忍び寄ってくる。かのナチス・ドイツがポルノ規制から手をつけたのは有名な話だ。

では、われわれ市民はいかにして表現の自由を守るべきなのか? それは、表現規制を最小限に留めることである。 その表現によって明確に被害を被る人物がいる場合や、ただちに人々を危険に晒しかねない内容を除いて、基本的には一切を自由とする。 これらの中には大勢の人が眉をひそめるであろう表現も当然含まれる。爆弾の詳細な製造方法を記して出版するのは後者に該当するが、爆弾で人を大勢殺したテロリストの物語を書いて出版することはなんら構わない。

とりわけ創作物の表現とはえてして不定形な出力であり、構成要素の一部分からは総体を判断できない。悪漢の生き様を描いた物語に道徳の尊さを見出すことも珍しくない。各々の表現をどう受け止めるかは市民それぞれの裁量に委ねられるべきであって、国家に判断を仰がせるような振る舞いは厳に慎まなければならない。こうした方針を保てばこそ、国家が言論統制の糸口を掴むことも困難になっていく。

してみると、我が国の現状はあまり望ましいとは言えない。一九五一年のチャタレー事件、二〇〇二年の松文館裁判の例から判る通り、被害者の有無や危険性に拘らず警察当局が「わいせつ物」と見なした表現は事実上禁止されている。どんな表現が「わいせつ物」に該当するかは警察の胸先三寸で決められ、客観的な基準は存在しない。しかしどういうわけか性器にモザイク処理が施された映像、図画等は警察が「わいせつ物」と判断しないので、現行のポルノ作品はどれも当該部分にモザイクがかけられている。

先に述べたように、われわれ自由市民にとってもっとも望ましいのは表現規制が最小限に留められた状態である。上記の例は明らかに最小限ではない。その気になれば警察当局はいつでも任意の性表現を「わいせつ物」と認定することができる。そしてこれらの状況を今日に至るまで維持してきたのは、他ならぬ自民党政権なのだ。 以上の理由から、この場合においても僕は自民党を支持しない。

ここのところ何人かの議員が自民党の内部で反表現規制を訴えてはいる。だが、僕にしてみれば自民党の議席を削って影響力を落とす方がよほど確実に思えてならない。件の議員たちが真に表現規制に反対していたとしても、自民党議員である以上は党の命令に逆らえないのだから。サブカルチャー文化の支援には熱心でも、この手の分野になると急に冷淡になるのも「所詮は保守派だな」という感じがして僕はどうも相容れない。アニメ漫画だけを守っていても表現の自由を擁護していることにはならない。

さて、そうなると表現の自由のために一体どこの政党を選ぶべきなのか。以前は日本共産党に投票していた。日本共産党は共産主義が弾圧されていた時代に創立された経緯から、表現の自由の擁護にいたく熱心な政党だったからだ。――なぜ、過去形なのか それはAbema tvに出演した吉良佳子参議院議員の発言に関係がある。

吉良氏は「矛盾はない。ジェンダー政策の部分で言っているのは、子どもに対する性暴力は絶対許さないということだ。児童ポルノも子どもへの性暴力だから許されないということだ。ただし、児童ポルノという言葉を使った表現規制ということに対しては明確に否定している。表現の自由を守り抜くのは当然だし、児童ポルノを無くせば子どもへの性暴力も無くなるという話ではない。どう解決していくかはクリエイターも含めて国民的に議論していくべきだ。具体的には、子どもたちや一般の人たちの目に触れないような場所に置くゾーニングというやり方もあると思うし、“こういう表現は本当にまずいよね”“儲からないよね”という合意ができれば、クリエイターの皆さんも作らなくなると思う」と答えた。
引用元:ABEMA TIMES

この発言内容だと、一見、表現規制に反対しているようにも見える。現に政策一覧には 『「児童ポルノ規制」を名目にしたマンガ・アニメなどへの法的規制の動きには反対します。』 と書いてあるので、反対は反対なのだろう。法的な規制には。 僕が気になったのは後半―― 『こういう表現はまずいよね、儲からないよね、という合意ができれば、クリエイターも皆さんも作らなくなると思う』 ――この部分だ。

言うまでもなく、児童ポルノは既に法規制されている。被害を被る人物が実在するからだ。そのことに異を唱える表現規制反対派はまずいないと思われる。加えて「クリエイター」という単語。つまり、吉良佳子議員が「合意ができれば作らなくなると思う」と言っているのは児童ポルノではない。創作物の、架空のポルノ作品を指し示している。彼女は、そういった類の表現は社会的合意の名の下になくなるべきだ、と発言している。

社会的合意は見方によっては法規制よりも恐ろしい。遠大な例を挙げるなら戦前、戦中の敵性語排斥運動がそれにあたる。アメリカの公用語である英語を使うのはけしからんということで、当時のマスメディア各社が中心となってはじめたキャンペーンだ。これは法規制ではないが、市民の間で盛んに持て囃されたという。あえて逆らった者がどんな目に遭ったかは想像に難くない。

卑近な例を挙げるなら、洋ゲーの自主規制だ。洋ゲーには人間の肉体をバラバラに損壊したり、臓器が派手に露出するような描写がごく当たり前にありふれている。こうした作品が日本で販売される際に、ローカライズを行う会社が勝手に修正を加える場合がある。これは、既に業界団体のゾーニング規制により成人指定を受けたゲームにさえ適用されている。

ゾーニング規制は理解できる。なにしろ作品を手に入れられなくなるわけではない。過激な表現を意図せず見たくない人たちのために、一定の距離感を図ることもそれはそれで大切に違いない。だが、元々の表現を書き換えるのは一体どういう了見なのか。これもまた、法規制に基づいて実施されてはいない。

共産主義だってそうだ。戦後の日本政府は共産主義を表立って弾圧しなくなったが、それでも偏見の目がやわらぐまでにはずいぶん長い年月を要した。社会的合意が理に適っているとは限らない。当の共産党員たちが身をもって体験しているはずである。その日本共産党が、よりによってあの共産党が、このような発言を許したのはとても信じられないことだった。

日本共産党は特殊な政党だ。民主国家の政党にしては珍しく党内選挙が存在せず、すべてがトップダウンで決められる。共産党はこれを「民主集中制」と呼ぶが、端的に言い換えればソフトな独裁制に他ならない。通常の政党なら本件を議員個人の見解と見なせても、共産党議員に個人の見解は存在しえないのだ。だからこそ日本共産党は極めて優れた組織力を持っているし、議員のスキャンダルも非常に少ない。反面、彼女の発言も日本共産党の公式見解と判断せざるをえない。

僕も左翼として共産党員を学友に数える人間ゆえ、投票の直前までどうにかして本件を善意解釈できないか模索し続けた。しかし、どんなにあがいても、社会的合意さえあれば特定の表現を封殺せしめることもやぶさかではない ……そう言っているようにしか思われないのであった。やむをえず僕は今回、日本共産党ではない政党に投票した。

立憲民主党の枝野幸男党首が歴戦の反表現規制派なので小選挙区と足並みを揃えるのも手かと思ったが、僕は立憲民主党に全幅の信頼を置いているわけではない。できれば票を分散させておきたい。国民民主党は僕と政策の一致度がそこそこ高く、玉木雄一郎党首も表現規制に対抗し格差の是正もやると言ってくれている。社民党やれいわ新選組も同様だ。自民党と日本維新の会は元より選択肢に入らない。

迷った結果、僕は投票用紙に「民主党」とだけ書いた。立憲民主党と国民民主党の正式な略称は今回、どちらも「民主党」で届け出されている。したがって、僕の「民主党」と書いた投票用紙は両党の得票数に基づいて按分される。 どっちの票にカウントされるかは判らない。小選挙区制度で野党勢力が勝つ上で候補者の統一は必要不可欠だ。だからこそ僕はどこの誰だろうが小選挙区は統一候補に票を入れるつもりだったし、現にそうした。

一方、比例代表選挙においてはあえて野党共闘を行っていない政党に票が入る余地を残した。国民民主党だ。表現の自由についてナメくさった物言いをした日本共産党には、この結果を通じてどうか反省してもらいたい。左翼の本分に立ち返ってほしい。たかが一票にそこまでの意図が乗って伝わることはもちろんありえないが、持てる力を行使しきる意欲こそがわれわれを自由市民たらしめていると僕は信じている。

最高裁判所裁判官の国民審査について

衆議院選挙では最高裁判所裁判官の国民審査も行われる。それぞれの裁判官が過去の裁判で下した判断はここから確認できる。僕は「一票の格差」を合憲と判断した裁判官にバツ印を付けた。一人一票の選挙権は題目上の概念に留まってはならず、その実態価値も公平でなくてはならない。よって一票の格差が存在する現状は法の下の平等に反すると僕は考えた。