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novel

 あれは保健の時間のことだった。はっきりと覚えている。ただでさえ学年合同授業はちょっとした珍事だ。ひんやりとするアルミ天板の大きな机が並ぶ総合室で、年老いた先生がのろのろと聴診器を配っていた。聴診器は隣り合った子と二人一組の割り当てらしく、僕は不用意にくるくる回る円形のスツールを両手でがっちりと抑えながら相手の子と向き合った。その子はさらなる慎重さでスツールの回転機構への不信任を露わにして、一旦立ちあがってから姿勢を変えて座り直した。
 先生の話によると、今日は心臓の動きを観察する授業とのことだった。告げられたページをめくろうと机の上に手を伸ばすと、相手の子が「ううん、私が」と言って教科書を開いて見せてくれた。ポップでコミカルな外枠のデザインとは裏腹に、聴診器をあてがわれた人体図の写実感は少々不気味ですらある。目をそらすと相手の子の名札が視界に入った。千佳ちゃんと言うようだった。
「うえーい」
 遠くの方でガキ大将のバイソンがスツールを高速回転させて、取り巻きとはしゃぐ大声が聞こえた。さっそく先生はのそっと腰を浮かせて注意に向かったが、このぶんだと彼の場所までたどり着く前に定年退職を迎えそうな印象を受けた。案の定、バイソンの悪ふざけを皮切りに治安が乱れて、ちらほらと雑談を交わしたり立ち歩いたりする子たちが現れはじめた。
「ねえ、どっちから先に聴く?」
 一方、千佳ちゃんはあくまで授業に倣う姿勢を崩さず、僕も連中と一緒になって騒ぐ道理などみじんもないと思っていたので「ウーン、じゃあ僕が」と答えた。親切にも広げてくれていたページの図解を頼りに聴診器を身に着けようとすると、そこへつかつかと足早に別の子が歩いてきた。
 唇を一文字にぎゅっと結んで迫るその子は、あたかも決闘を挑むかのような面持ちで千佳ちゃんに短く言った。
「どいて」
 これは明らかなる命令である。お願いではない。突然降って湧いた上下関係に千佳ちゃんが動揺していると、その子はやや鋭角な目元をさらに釣りあげてキッと睨んだ。じきに雌雄が決したらしい――二人とも女の子だけども――千佳ちゃんはおずおずと立ちあがって脇にのき、代わりに件の子が勢いよくどすんと座った。
 改めて正面から見ると、僕はこの子のことをだんだん思い出してきた。肩までかかる長いまっすぐな髪の毛に足を組んだ乱暴な姿勢の取り合わせは千佳ちゃんとはなにもかも対照的だ。間違いなくこの子は回転式スツールをわざわざ手で抑えたりしないし、立って自分の姿勢を変えたりもしない。
「ほら、さっさと聴診器をつけて」
 そんな彼女と出会ったのは、などと頭の片隅で回想を並走させながら、僕は鞭を打つようなぴしゃりとした声に急かされて胸を張る彼女に聴診器をあてがった。すると、耳に伝わってきたのは意外にもか細い心臓の鼓動だった。驚いて目を上げると尊大そうな一文字の口元が映ったが、やはり心拍は弱々しかった。
「ちょっと、なんとか言ったらどうなの」
 片耳で微かな鼓動、もう片方の耳で鞭を打つような声を聴いた刹那に、僕はどうしようもなく形容しがたい感情に侵された。答えあぐねているうちにその子は「あーもういい!」と座った時と同じ勢いで立ちあがり、ずかずかと遠ざかっていった。まだ僕はなんらかの未知の感情に侵襲された感覚を味わっていて、我に返ったのは千佳ちゃんに「ねえ、大丈夫?」と声をかけられた時だった。
 ほどなくして千佳ちゃんの心臓の音も聴くと、たちまち力強い和太鼓のごとき響鳴が頭蓋を満たした。目をやると鮮やかな緑のスカートの両端を手でぎゅっと掴んで、恥ずかしげに笑みを浮かべている。なぜだか僕はこの瞬間、千佳ちゃんに対する関心が急速に薄れていくのを感じた。


 僕の家の近くにはグレーの公衆電話ボックスがある。田んぼに囲まれた直線道路の先を行った、山あいのあぜ道にぽつんとそれは佇んでいる。以前は宅地を造成する計画があったみたいで、田んぼと山しかないこの辺りにも重機や人が出たり入ったりしていたのを誰もが目にしていた。しかしある年を境にぱたんと沙汰止みになって、重機も人も消えて、宅地造成の話も消えた。なぜか町役場勤めの父さんだけは喜んでいた。でも、中途半端に削られた山とグレーの公衆電話ボックスは今も残されている。
 登山用のリュックにいつもねじ込まれているのは父さんがブームにかこつけて長期ローンで買ったートパソコンだ。グレーの公衆電話機と似た色をしていて、七十五メガヘルツのPentiumと八メガバイトのメモリが搭載されている。我が家にテレビとビデオデッキ以外の機械が闖入するのは前例がなく、ゲームボーイもスーパーファミコンも許されていなかった僕はいたく興味をそそられた。
 初めての日、父さんが重箱のようにどっしりとしたそれの電源を入れると、がりがりとうなるパソコンが画面いっぱいに揺れ動く旗の絵柄を表示した。僕はこれに見覚えがあった。その頃はテレビで頻繁にこの旗を見たものだった。父さんは「おーっ、こいつがウインドーズか」とたどたどしい発音で叫んだ。しかしここが父さんのテンションの頂点だった。
 最初は頑として僕に手を出させまいとしていた父さんの方針はパソコン操作からの敗走が濃厚になるにつれて次第に鳴りを潜め、やがて氷解した。下手に売りに行って嫌な噂が立つことを恐れた父さんは僕にパソコンを許してくれたのだ。さっそく無我夢中でいじり倒して、まずはキーボードの手前のボールを転がすと画面上の矢印が動くということ、小さな絵の上でボタンを押すとなにかが起こるという現象の理解に努めた。
 そのうちに父さんは職場から節約のために持ち帰ってくる使いさしのテレホンカードに、古いパソコン雑誌を帯同するようになった。「父さんには解らんかったが」と自嘲気味に笑って雑誌を放り投げてよこし、母さんから受けとった発泡酒のプルタブを開ける様子は後光が差して見えた。この時ばかりは父さんが神に見えた。
 与えられたパソコン雑誌はどれもかなり古い号だったが僕には聖なる経典に等しかった。そこには僕の知りたい話がなんでも載っていた。翌年には学校での話題はニンテンドー64でもちきりになり、さらに数年後にはゲームボーイカラーを持ち込む子が続出して全校集会が開かれたが、僕はどっちも欲しがらなかった。欲しいのはインターネットだった。
 父さんが持ち帰るどんなパソコン雑誌にもその単語はしかと記されていた。漢字を覚えて雑誌を読むのにさほど不自由しなくなってきた年頃には、頭の中で膨れあがったインターネット像はまるで大銀河のようであり、テレビを通してしか見たことがない東京やアメリカでもあった。要するにそこが世界の中心で、すべてで、尊敬すべき先人たちがいて、自分ひとりが取り残されているに違いないという観念に囚われていた。
 にも拘らず、いつ打診しても父さんはてんで取りつく島がなかった。「金がかかる」の一言で僕の願いは退けられ、しゅわしゅわと鳴る発泡酒とそれをごくごくと飲み干す父さんの喉仏を恨めしげに睨むしかなかった。だが、本棚の片隅に使いさしのテレホンカードを溜める専用の箱ができて、パソコン雑誌の束が塔を形成するに至った頃、僕はついに見つけた。
『ISDN公衆電話』
 グレーの公衆電話ボックスにはそう刻まれていた。ある日「たまには外で遊べ」の一言で家を追い出された僕は、行くあてもなくバイソンの行動範囲を避けて街とは反対方向の窪んだ山を目指した。陽の光を照り返す田んぼの水面が僕の退屈を見計らったように断ち切れて、急勾配のあぜ道へと変化した先にそれはあった。あぜ道から外れて雑木林の始端に佇む、異様な色合いの公衆電話ボックスに僕は吸い寄せられた。
 ISDNのアルファベット四文字はすでに頭に染み込んでいた。ISDNはNTT。インターネットはNTT。パソコン雑誌でも繰り返し出てきたし、テレビのコマーシャルでも繰り返し聞かされたフレーズだ。兎にも角にも明確なのはISDNとやらがあればインターネットができるという事実だった。僕は全速力で引き返してートパソコンをこっそり取りに戻った。
 三キログラムもあるノートパソコンの角が背中に突き刺さり、バンドが両肩にめりこむ辛さもインターネットができる興奮の前には気にならなかった。財布にぎっしり詰めた使いさしのテレホンカードは他にも大量に箱の中にある。どうせ補充されるから気づかれる心配もない。万が一気づかれたとしても、大した咎めは受けないだろう。父さんはお金がかからないぶんには大抵のことに寛容だった。
 この日も半ドンの土曜授業を終えるやいなやダッシュで帰り五分で昼食を済ませて、そそくさと家を出てきた。このところ積極的に外出する僕の姿に母さんは目に見えて安心しきっていたが、僕の行き先は街ではなく、バイソンたちがたむろしているゲーセンでもなく、スーパーストリートファイターⅡでもなかった。リュックの中には大銀河を征く宇宙船があった。
 果たしてグレーの公衆電話ボックスはいつも通りの場所に佇んでいた。透明なプラスチックのドアを手前に引いて入室すると、そこはもう僕だけの世界だった。夏の鬱陶しい湿った空気も、種類も名前もどうでもいい虫の鳴き声も即座に遮断されて、グレーの箱の中ではグレーのノートパソコンとグレーの電話機が世界を代表していた。
 僕はリュックからノートパソコンを神妙に引き出して膝の上に置いた。電話ボックスの側面に背中を預けて床に座り、次にモジュラーケーブルを取り出した。ノートパソコンと電話機の「端末接続口」と記された穴にジャックを差し込むと、財布に詰まったテレホンカードの一枚目を電話機に与えた。
 ノートパソコンを起動する。がりがりがりとハードディスクのうなり声が電話ボックス内に響いた。虫の音は遮断されているので、もっぱらこれが僕の世界の音ということになる。あとはせいぜいキーボードのタイピング音くらいだ。四年近くも訓練を積んだおかげでキーボードの操作には不自由しない。機械音に満たされた空間は僕に高揚と平穏を一挙にもたらした。
 デスクトップに並ぶアイコンの中から「インターネット接続」のショートカットをダブルクリックすると、登録ダイヤルが発信されてグレーの電話機に特有の大きなモノクロディスプレイがテレホンカードの使用を通知した。一分ごとにお金がかかるが、大量のテレホンカードにものを言わせる。
 接続確立の文字が示されたと同時に僕は手慣れた動作で「e」のアイコンをダブルクリックした。「インターネットエクスプローラー」と題されたこのアイコンこそが僕を大銀河へと運んでくれる。毎秒六十四キロビットの情報の波がモジュラーケーブルに押し寄せて、ディスプレイにヤフーのホームページを上から下に――走査線のようにゆっくりと――描き出した。
 このようにして僕は毎週土日、世間に忘れられた山あいの箱の中にいながら街よりも東京よりもアメリカよりも広大で緻密な世界と繋がっている。今でも色褪せない世紀末の夏の思い出だ。


 とはいえ、時間は無駄にできない。このノートパソコンは約二時間でバッテリー切れを起こす。リュックの底に押し入れたパソコン雑誌を床にぶちまけて、予め付箋を貼っておいた紙面を開いた。インターネット通のマニアたちが選んだウェブページ集のコーナーだ。どの雑誌のどの号にも必ずこの手のコーナーがある。言うまでもなく、たったの二時間で全雑誌のウェブページを見て回るのは不可能に近い。一つの号のぶんを確認するのにさえ事足りない。
 だが、この解決策もパソコン雑誌がくれた。フリーウェアの紹介欄にウェブページを簡単にまるごと保存できるソフトが載っていたのだ。五回目の接続の際に僕はこのソフトをインターネット経由で入手した。それからというもの情報収集速度は飛躍的に高まった。電話ボックスでは保存に専念して、閲覧は家で電源を繋げてじっくりとやればいい。要領を掴んだ頃には翌週まで退屈しない量のウェブページを集めることができた。今日もそのつもりだ。まる一週間も経ったらお気に入りのウェブページだけでもかなり更新されている。
 しかし直後、聞こえてくるはずのない外界の音が聞こえてきた気がして僕は手を止めた。この世界にはハードディスクとキーボードの音しか存在しないはずだ。再びこつん、こつんと音が背後で鳴った。気のせいではない。振り返ると、バイソンと二人の取り巻きが遠くから石を投げつけている様子が見えた。
 瞬間、僕の心臓は恐怖でぎゅっと縮みあがった。嘘だろ、なんであいつらがこんなところにいるんだ。
 取り巻きを一旦控えさせたバイソンは野球投手のモーションで大仰に振りかぶると、さっきより巨大な石を直線状に投げてきた。なにしろ今度は「こつん」なんてものではなかった。ばーんという轟音とともに振動が電話ボックスじゅうにびりびりと伝わって、危うく僕は姿勢を崩してノートパソコンを放り出しかけた。
 肩を怒らせてのしのしと近づいてくるバイソンはいかにも格好の獲物を見つけたと言いたげな表情で、わざとらしく両手をメガホンの形にして叫んだ。プラスチックの壁を容易に突き破る怒声だった。
「おーい、出てこいよ!」
 出だしは友達に呼びかける感じの朗らかさだが、すぐ後に「十秒で出てこないと前歯全部折るぞ」と続き、間延びした音程のカウントダウンが開始された。取り巻きたちもげらげらと笑いながら唱和する。否が応もなく、僕はノートパソコンをモジュラーケーブルが繋がったまま閉じて、リュックに突っ込んで隠した。街よりも東京よりも広いグレーの公衆電話ボックスの中の世界には、鍵がついていない。意地を張って籠城を決め込んでも僕を引きずり出すのにそう手間はかからない。
 這うような前のめりの姿勢で電話ボックスから出ると、途端にむわっとした夏の空気と虫の鳴き声と土の匂いと地獄のカウントダウンが一斉に襲いかかってきて、僕はめまいを覚えた。「出た、出たからやめてくれよ」そう言うのが精一杯だった。なにをやめてほしいか具体的な言及は避けた。殴るなと言えば殴られるし、壊すなと言えば壊されるに決まっているからだ。
「田宮、お前こんなとこでなにしてんだ?」
 左右に取り巻きを引き連れてバイソンが眼前に立ちはだかった。二十センチもの身長差はどうあがいてもこちらになすすべがないことを思い知らせてくれる。取り巻き連中は人並みの背丈だが、少なくとも僕よりは高い。
「あー……ちょっと休んでて」
 僕は曖昧に答えた。正直に答えても事態が好転する余地はない。
「ふーん、お前、こんな山とかに来るようなやつだったっけ」
 それはこっちのセリフだ。なんでいつもみたいにゲーセンにいないんだ。僕の周りを取り囲む三人の顔ぶれにはどれも気味の悪い笑みが浮かんでいる。
「う、梅村君こそどうしたの、ゲーセン――」
 視界がぐわっと揺れ動いた。遅れて腹部に鋭い痛みを感じて、ああ僕はやっぱり殴られたのだなと悟った。地面に両膝をついて苦しんでいると頭上から罵声が降り注いだ。
「ばっかじゃねえのお前、なにも知らないのかよ」
「あーバイソン怒った」
「ストⅡの代わりにこいつ殴るわ」
 と、言う割に次いで繰り出されたのは蹴りだった。耳に靴の側面をぶつけられた衝撃で僕は地面に打ち倒された。だがこの時に考えていたのは痛いとか怖いとかではなく――いや痛いし怖くもあったが――せめて手早く気を済ませてどこかに行ってくれたらインターネットの続きができるのに、という願望だった。僕はさらなる追撃に備えて亀のように丸まった。様々な実体験を経て、徹底した防御がもっともバイソンたちの害意を削ぐと分かったのだ。
 ところが追撃は来なかった。代わりに三人のどなり声が聞こえる。僕に対してではない。手の込んだ真似をして防御を解かせてから顔面に靴先をめりこませる算段なのでは、と疑ったが、いよいよ場違いな女の子の声が聞こえるに至って、僕は亀の構えを解除した。地面に伏せた視界の先では、紺のスカートを履いた女の子が、三人、いや二人と相対している光景が広がっていた。どういうわけか一人は顔を抑えて膝をついている。手の隙間からは血が漏れていた。
「ぶっ殺すぞ」
 取り巻きの片割れが食ってかかるとその子はためらいなくグーで顔面を殴りつけた。パーならともかくグーで人を殴る女の子は今まで見たことがなかった。ほのかな勝算を感じさせたのも束の間、残るはバイソンだ。どんなに強くてもバイソンに勝てる小学生がいるとは到底考えられなかった。街で中学生とタイマンを張って勝ったと噂されているほどだ。
 戦闘態勢をとったバイソンと対峙したその子は、じきに僕と同様の見解に達したようだった。さっと身を翻すと、あぜ道を引き返してすばやく撤退していった。
「あっ! おい、待てこら!」
 まさか無言で逃げの一手を打たれるとは予想していなかったのか、バイソンも遅れて後を追いかけた。彼に続いて鼻血を垂らした取り巻き二人もよろよろと場を去り、奇しくも望まれた平穏が戻ってきた。
 シャツについた汚れを手で払おうとしたら、土埃が繊維に染みてかえって跡が残った。腹も頭もずきずきと痛いし、なにもかも最悪だったが、それでも身を起こしてグレーの公衆電話ボックスの中に舞い戻ると安堵感に包まれた。どうであれインターネットは守られたのだ。僕は土埃でノートパソコンを汚さないように両手の汚れをシャツで入念に拭き取ってから、大銀河の探索を再開した。
 それから一時間ほど経ち、バッテリーの残量に意識が傾いた辺りでどん、どん、とプラスチックの壁を叩く音がした。僕は今しがた味わった苦しみを瞬時に連想して身体をこわばらせたが、そうっと目をやった先に立っていたのはバイソンではなく取り巻きを殴り倒した女の子だった。さっきのはノックのつもりだったらしい。だが、目が合った途端に電話ボックスのドアを遠慮なく引き開けて、一文字に締めた唇もがばっと開いた。
「なんであんたまだここにいるの? あいつらに見つかったら今度こそ――」
 ずばずばとまくしたてる口調は彼女がノートパソコンを捉えたと同時に止まった。
「……それ、ノートパソコンじゃん」
「……うん、まあ」
 不慣れな状況のせいか図らずも無愛想な返事をしてしまった。しかし彼女は追加の質問をせずに、電話機に繋がったモジュラーケーブルを見ただけで合点を得たらしかった。
「へえ、こんなふうにインターネットって使えたんだ」
 彼女はさらっと言ってのけると、グレーの公衆電話ボックスを見回した。
 僕は「インターネット」という単語が自分以外の子どもから発せられたのをこの時初めて聞いた。それを発したのが僕のような子ではなく、男のいじめっ子をグーで殴り倒す女の子ときたものだから二重の驚きだった。あっけにとられて彼女を凝視していると表情を読まれたのか「あたしがインターネットを知ってちゃ悪いっていうの?」と口を尖らせた。
「悪くないよ、悪くないけど……他に知っている子なんてどこにもいなかったから」
「それはまあ、あたしもそうかも」
 山あいにふうっ、と風が吹き込んで床に散乱したパソコン雑誌がぱらぱらとめくれた。すると、彼女はまるで風に負けたかのようにふらついて、電話ボックスにもたれかかる格好になった。
「あたし、家に帰らなきゃ」
 さっきまでの勝ち気な態度とはうってかわって小さい声でそうつぶやくと、僕の返事を待たずに彼女は踵を返した。
 そう、あの彼女だ。僕の頭の片隅で並走していた回想が終了した頃にはもうとっくに保健の学年合同授業は終わっていて、身体は総合室からに教室に、授業は算数に変わっていた。それでも彼女のか細い心臓の震えと、鞭を打つような鋭い声のコントラストはしっかりと脳裏に焼きついていた。


 それからというもの、ことあるごとに彼女は僕を虐げるようになった。たとえば、今日は交換日記用のノートをひったくられた。「交換日記ってこんな感じのこと書くんだ」と感心しきりに言う彼女だが、ここは六年二組の教室で彼女は一組だ。他クラス侵入は星の数ほどもある校則違反のうちで下の下から上の上に重いとされている。
 というのも、担任の先生によって注意の度合いが大幅に異なるからだ。怒り狂って違反者を定規で叩きのめす恐ろしい先生もいれば、めそめそと泣き出して後の授業を放棄する先生もいる。後者の方はおのずと自習時間に振り替えられるため、当事者でなければむしろウェルカムだったりする。幸か不幸か六学年の担任の先生はいずれも下の下派で、そんな校則などもともと存在していないかのように振る舞っていた。だから僕が交換日記用のノートを奪われてあわあわしていても、止めてくれる人はどこにもいない。彼女は男の子並に背が高い。
 いや、いないことはなかった。たった今、千佳ちゃんを筆頭に模範的な子たちが勇気を振り絞って「あのう、ここは二組だよ?」と迂遠に注意してくれた。もっとも、彼女がひと睨みすると結局はみんな黙らされるのだが。
 ただ、恩恵も一つあった。取り巻きたちが近寄ってこない。大柄で不良のバイソンはなにもしなくても先生が目を光らせているので、学校では特になにもしてこない。片や、力強さはなくても狡猾さに長けた取り巻き連中は厄介だった。すれ違いざまにすねを蹴ったり、バケツに汲んだ水をひっかけてくるのが彼らのやり口だった。
 しかしそんな彼らも彼女が僕にまとわりついていると手の出しようがない。実際、一度いつの間にか逆にすねを蹴り返して撃退していたらしい。おかげで取り巻きたちはずいぶんおとなしくなった。でもこれはよく考えると、ハイエナに追われなくなった代わりにライオンに捕まったような状況だ。
 この日もどんな目に遭わされるのかと恐れをなしていたら、出し抜けに彼女はこう言った。
「ねえ、この交換日記って誰と書いてるの」
 普通、交換相手を周知しないのが交換日記なんだけどな、とうっすら反駁が頭をよぎったが強いて押し殺した。余計に会話を往復してもどのみち白状させられるのは変わらない。
「千佳ちゃんだよ」
 僕は答えた。たしか保健の授業の後で誘われたのだった。間が悪く回想中だったので空返事をしているうちに交換日記をはじめることになってしまった。数回のやり取りを経て判ったのは、千佳ちゃんの書く日記は非常に長い。なんとなく同じ量の文章を書かなければいけない気がしてそこそこ苦労している。
 眼前の彼女はこんな事情を知ってか知らずか、ふっ、と口元を半月状に曲げて「あんた、そんなふうに女の子を呼んだりしてるからいじめられるんじゃないの、ちゃんとか言って」となじった。
「でもまあいいや、あたしともやろう」
 そう言うと、交換日記用ノートのページをびりびりと破り、机の上に置いてあった僕のボールペンを手にとってなにかを書きだした。ここ一週間で彼女の仕打ちにはだいぶ慣れたつもりだったが、交換日記を他人のノートを破って開始する人がいるとは驚きだった。
「ん」
 しかし、僕の鼻先に突き出された紙片は日本語で綴られていなかった。おまじないのように必ずアルファベット四文字が頭にくっついて、それからコロン、続いてスラッシュが二つ。そして、ダブリューが三つ、かなり高い頻度で付いている。その後にようやく任意の英数字が続く。末尾はドットジェーピーだったり、ドットコムだったりする。これは、URLだ。
「これは?」
「URLに決まってるでしょ」
「いや、分かるけど……交換日記をするんじゃないの?」
 彼女はふん、と鼻を鳴らした。
「こんなのでちんたらやるなんて馬鹿馬鹿しいでしょ。えーと、夕方は家庭教師が来るから……そのあとご飯を食べて……そうね、午後八時にそこにアクセスして」
「八時!? 今日の? 無理だよ!」
 僕は思わず叫んだ。
「なんで? ああ、あれは家族共用のパソコン?」
 文脈からすると「あれ」とは電話ボックスで見たノートパソコンのことだろう。だけども、彼女の誤解は根が深い。まず第一に家族共用ではなく勝手に持ち出しているだけだし、第二に、家にインターネット回線は通っていない。第三に、いくらなんでも夜遅くにグレーの公衆電話ボックスに行ってインターネットをするのは叱られるどころでは済まない。たとえ彼女に脅されたって無理なものは無理だ。インターネットに接続できる日は土日の昼間しかない。
 ……という事情を説明すると、彼女は妙に納得したふうにうなずいた。
「へえ、そういうキャラとかじゃなかったんだあれ」
「そういうキャラってどういうキャラ?」
「教室の隅でこれみよがしに難しい本を読むような感じ」
「そんなつもりは……そもそもあの辺には誰も人なんて来たことなかったんだよ。ましてやあいつらが来るなんてありえなかった。いつもゲーセンに入り浸ってるのに」
 そう、あの日以来、またぞろバイソンたちが襲ってくるのではと怯えて先週はインターネットをやっていない。彼らが山あいに来た時に僕の姿がなければ、まさか毎週いるとは思われないだろう。二週間前に保存したウェブページをちまちまと控えめに閲覧するのは、なんだか父さんがタバコを半分に切って一本分のつもりで吸っている様子と被って嫌な気持ちになる。でもしょうがない。母さんは口うるさく言っている。「不景気だから貯金しないと」とは言うものの、僕の「貯金」はもはやからっけつだ。
「知らないの だいぶ前から先生とかPTAの人とかが街を見回ってるんだよ。特にゲーセンは物騒だから親と一緒じゃないと小学生は禁止だって」
 知らなかった。ストⅡの全キャラクリアが間に合ってよかった。ゲーム機を許されていない僕がやれるゲームといったら街のゲーセンにある限られたゲームぐらいだ。以前は一体いつになったらⅢに入れ替わるのかとやきもきしていたが、今となっては割とどうでもいい。親戚の子にせがまれてごくたまに行くぐらいだ。だから事実上の「ゲーセン禁止」を寝耳に水の形で知らされても思いのほかショックは少なかった。
 予鈴が鳴ると、彼女は紙片を押しつけて新しい日時を指定した。
「じゃあ、日曜日の午後一時にアクセスして。来なかったら殺すから」
 押しつけられた紙片を裏返すと千佳ちゃんの書いた日記が載っていた。表の方にはでかでかとURLが書かれているため、僕のぶんの日記を書くこともできない。しかも、紙片は一枚まるごとではなく斜めに袈裟切りで破られていた。僕は千佳ちゃんの日記をまだ読んでいない。
 帰ったらセロテープでページをくっつけて日記を読んで、URLを書き写して、元のを修正液で消して、日記を書いて……。週末は、バイソンたちに出くわさないことを祈りつつ彼女の言う通りにしなきゃならない。想像するだけでもどっと気疲れした。


 日曜日、僕は所定の荷物に加えて大きなダンボールの板をたくさん持っていった。思うに、あの件は遠目から見つかってしまったのが失敗だったのだ。バイソンたちは僕が公衆電話ボックスでなにをしていたのかなんて知る由もない。パソコンとテレビの見分けが付くのかも怪しい。ましてやインターネットなど理解できないだろう。電話ボックスはとりたてて彼らの関心を惹いたりはしない。壊したり倒したりするには頑丈すぎるからだ。
 そこで僕は黒ゴシックペンで塗りつぶしたダンボールの板を電話ボックスの四面に貼りつけることにした。こんなところで本当に公衆電話が必要になる人なんてどうせいない。僕は僕の世界を守らなくちゃいけない。空腹を装って十一時前には昼食を済ませ、僕は約束よりずっと早い時間に現地へ赴いた。ダンボール板をハサミで適当なサイズに切り取り、電話ボックスの面に沿う形にガムテープで貼りつけた。外から眺めるとただでさえグレーの公衆電話ボックスが陰に溶け込んだように見えて、自分の世界がより強固になった気がした。
 改造された電話ボックスの中は虫の音のみならず陽の光も遮断されて、まさしく宇宙らしい風情を醸し出している。もっと早くこうするべきだったと自画自賛もほどほどに所定の作業を始めた。約束の時間にはまだ三十分もある……。お気に入りのウェブページに絞れば一週間分の分量を確保するのは難しくない。
 つつがなく蒐集を終えたところで僕は例のURLを打ち込んだ。時刻は午後一時の五分前。軽快にキーボードを叩いて最後の一文字を埋めて、なんだかんだで期待を抱きつつエンターキーを強く押した。強引に約束させられたとはいえウェブページには違いない。がりがりがりとハードディスクがうなり、上から下に向かって鈍い青色のウェブページが描写されていった。
 しかし、そのページには空白のテキストボックスと「更新」と書かれたボタン以外にはなにも情報が載っていなかった。ページ一面が凪いだ海みたいに閑散としている。
 もしかするとURLの入力を誤ったのかもしれない。以前にも、タイプミスをしたのに違うページに偶然繋がってしまって気づくのに遅れたことがある。URLを書き写した紙片をディスプレイ脇に寄せて、インターネットエクスプローラーのアドレス欄と見比べる。間違いはなかった。
 とすると、このウェブページの唯一の仕掛けは「更新」ボタンのみという話になる。彼女は僕を騙したのだろうか。これまでの嗜虐的な態度を踏まえると大いにありえる。
 手持ち無沙汰を紛らわせたくて手元の「更新」ボタンをクリックしてみると、青い背景に日本語の文字列が追加された。
『梨花 さんが入室しました』
 入室?
 いまいち要領を得ない文言だが、先のボタンを押下してウェブページの情報が書き換わったのは事実だった。僕はもう一回「更新」をクリックした。すると、やはりウェブページが書き換わって、新たな文字列が上に追加された。
梨花>見えてる?
 僕は理解した。これは会話を行う機能を持ったウェブページだ。この発言の主は彼女に違いない。でも、どうすればいいのか解らなかった。僕はまた「更新」ボタンを押した。
梨花>見えてるなら右上のテキストボックスに名前を入れて「入室」ボタンを押して
 はたとウェブページの右上に目をやると、確かにそこには小さい別のテキストボックスと「入室」ボタンが設けられていた。あまり考慮せず僕は本名を入れて、指示通りに「入室」した。
『誠 さんが入室しました』
 同時にウェブページが書き換わって、僕自身の入室が示された。彼女の発言も追加されている。
梨花>更新ボタンの横のテキストボックスに文字を入れてエンターを押すと話せる
 僕はさっそく返事を入力した。
誠>こう?
 相手の回答をしばらく待ったが、表示されない。どうしたのかと思ったが、そういえば「更新」ボタンを押していなかった。慌てて押すと一気に三回分のメッセージが追加された。
梨花>そう
梨花>なんかおかしいところとかない?
梨花>おーい
 僕は急いで返事を書いた。
誠>ごめん更新ボタンを押してなかった
誠>たぶんないと思う
梨花>そのうち自動で更新するようにしたい
 彼女の発言に僕はいささか疑問を覚えた。ウェブページの利用者としての発言ではなかったからだ。
誠>もしかして君が作ったの?
 返事はすぐに来た。
梨花うん。これ、CGIチャットっていうの
 目から鱗が落ちた。僕にとってインターネットやウェブページというのは情報を与えてくれる場所だった。僕は一方的に受け取る側でしかなかった。そういう場所を作っている人たちは神々のごとき存在で――まさかその立場になれるなんて考えもしなかった。名門大学を卒業した偉くて賢い人がやっているものだと思い込んでいた。そんなとてつもないことを、同い年の女の子がやってのけているのだ。
誠>どうやって作ったの?
 我ながら間抜けすぎる質問だったが、他に言い表しようがなかった。
梨花Perlで作った。レンタルの方が高機能なんだけど、それだと面白くなくて
 僕には意味の解らない単語が次々と出てくる。
 学ぶ機会自体はあった。「CGI」も「Perl」もパソコン雑誌で見た覚えのある単語だ。横着して読み飛ばしていなければ、彼女の会話についていけたのかもしれない。
誠>そういえば、梨花ちゃんって言うんだね名前
 苦し紛れに僕は話をそらした。
梨花>あんた名前も知らずに話してたの?
誠>人の名前覚えるの苦手で
梨花>どうでもいいけどちゃんはやめて
 それから色々な話をした。彼女が言う「Flash Player」というソフトウェアをインストールして指定されたウェブページに行くと、描画が済むまでに何分もかかったが――なんと画像が動いていた。つまりこれは、動画だ。僕はインターネットで動画を観ているのだ。
 パソコン雑誌に出てくる動画といえばもっぱらCD-ROM付録の形態をとっていたが、このートパソコンにはCDを読み取る装置が搭載されていなかった。その上、父さんがくれるパソコン雑誌に付録が入っていたことは一度もない。父さんに古雑誌を譲ってくれている誰かは、きっと付録が目当てなのだろう。
誠>こんなのパソコン雑誌でも見たことないや
梨花>ようやくまともなバージョンが出たばかりだから。日本語版の制作ソフトもまだ発売されていないはず
 彼女の得意げな顔がディスプレイを通して浮かんでくるようだった。
 チャットは毎回、僕のノートパソコンがバッテリー切れを予告するタイミングでお開きとなった。それでも僕たちは毎週末の決まった時刻、二時間にも満たない中でそれぞれの大銀河を共有した。遠く離れた星系から出発した宇宙船同士が出会ったように、広大な銀河の全貌を探るべく互いに星図を描きこんだ。
 二百五十六色のディスプレイに映るフォントの粒立ちが見える。ドットの一つ一つに宇宙の砂塵を感じる。その砂塵の一つ一つが礫岩や小惑星群を構成している……。
 僕は一生このままが良かった。初めて気持ちの通じ合う友達ができた気がした。


 そういえば、こんな日もあった。いつものように外出の準備を始めると定位置に置かれてあるはずのノートパソコンが失くなっていたのだ。居間にもなく、自室にもない。もしやと思って父さんの部屋を覗くと、机の上に積まれた大量のフロッピーディスクの隣にあった。父さんは懸命にそのフロッピーディスクを抜き差ししていて、僕が部屋に入ってきたのに気づくと大げさに驚いた。
「あっ、おいっ、なんで部屋に入ってくるんだ」
「いや、あの……パソコンを使いたくて」
「今日はだめだ」
 父さんはきっぱりと言って何枚目かのフロッピーディスクを抜いて脇に置き、また積まれた山のてっぺんの一枚を手に取った。
「どうしても使いたいんだけど……」
「どうしてだ。別に今日じゃなくてもいいだろう」
 本当の理由は言えない。でも、まさに今日こそ絶対にパソコンが必要な日だった。なぜなら休日であり、日曜日であり、すなわち梨花ちゃんとの待ち合わせの日だからだ。彼女の言によると約束を破ったら殺される手はずになっている。結局、うまい説得は思いつかずに子どもっぽい駄々だけが口から漏れた。
「えー……」
 父さんはじれったそうに振り返って、片手でフロッピーディスクを入れ替えながら無慈悲に告げた。
「いつもみたいに外で遊んでいればいいじゃないか。そうだ、そうしなさい」
 どうやらノートパソコンを取り上げるだけでは飽き足らず、僕を家から追い出したいようだった。こうして僕はパソコンを持たず、財布とパソコン雑誌が詰め込まれた虚無のリュックを片手に灼熱の太陽の下へと放逐された。
 行くあてのない足は半ば習慣的に山あいに向く。浮くように軽いリュックと重く沈んだ気持ちを抱えながら、土と木の匂いでむせそうな森林に入って、グレーの電話ボックスの中に腰を落ち着けた。変わらずそこに鎮座する電話機は、宇宙船に乗らずして現れた僕にワープゲートの入場口を固く閉ざしている。
 仕方がなくリュックを開けて比較的読み込んでいない号の再読を始めた。やがて約束の時間が訪れて、淡々と五分が過ぎ、十分が過ぎた。パソコンの前で静かに怒りを燃やす梨花ちゃんを想像する。殺すと言ってもまさか文字通り殺されはしないと思うが、どつかれる覚悟くらいはした方がいいかもしれない。
 三十分が過ぎた頃、前触れなくどん、と電話ボックスが叩かれたので僕はパソコン雑誌から顔をあげた。最初は全然集中できなかったが、いざ腹をくくると妙に気持ちが落ち着いて読み進められた。それが梨花ちゃんの顔――普段は一文字に結ばれた口元がへの字に曲がっている――を目の当たりにするやいなや崩壊して、たちまち僕はボックス内の隅に身を縮めた。勢いよくドアが開けられて、湿った空気とともに彼女が踏み込んできた。
「とりあえず殺すつもりだけど一応言い訳を聞いてあげる」
「……父さんにノートパソコンを取られちゃったんだ。もともと僕のじゃないって言ったろ」
 おそるおそる口上を述べると、彼女は仁王立ちのまま片方の眉を釣り上げてふうん、と唸った。
「忘れてないしわざとでもないって言いたいわけね。まあ、ここには来てたし……まだぎりぎり間に合うかな」
 妙に芝居がかった声色で腕時計を見やると、急に手を伸ばして僕の腕を掴んだ。やはり、死刑か。目を瞑っていると、思いがけない提案が降って湧いた。
「どうせ暇でしょ。街に行こう」
「えーっ!」
 梨花ちゃんに引っ張り上げられながら僕は変な声を出した。
「なに、約束を破ったくせに埋め合わせもしないつもりなの?」
「でも街って子どもだけで行ったらいけないんじゃ……バイソンとかもいるし……」
 おろおろしていると彼女は胸を張って自慢げに言い切った。
「あたし、中学生に見えるってよく言われるんだ。やつらと鉢合ったらまたぶっ飛ばすよ」
 反対側の街に赴く道すがら、僕たちの会話はあまり弾まなかった。時折、降り注ぐ直射日光の熱さに文句を言って、飲み物を持ってこなかったことに文句を言って、他にも親のこととか、学校の規則とか、あらかたの物事に文句を言い尽くすと彼女はだんだん口数が少なくなって、ただ応じていた僕もおのずと口を閉ざした。
 インターネットを介している時はニ時間あっても全然足りないくらい大はしゃぎできるのに、現実では会話の糸口がてんで見つからない。ずんずんと堂々たる足取りで進む彼女の影に入り込むようにして、ひたすら後をついていくしかなかった。
 街に着いて雑踏に紛れると梨花ちゃんの口数は復活した。まずは自販機でジュースを買って飲んだ。それから僕の手を引っ張って入った書店の少女漫画コーナーで、あれやこれやと物語のあらすじを教えてくれた。錆びついた歯車に油が染み込むように、おかげで僕も会話の調子を取り戻した。
 目当ての漫画本を手に入れて上機嫌の彼女は、通りかかった店の前でいきなり立ち止まった。見上げると、そこはゲームセンターだった。ニ階建ての手狭な店舗で、ビルを貸し切ったような大都会のそれとは及びもつかないが、市内の子どもたちにとってはここが手に届く唯一の娯楽施設だ。うっかり気を抜いていた僕はそこでようやく原初の恐怖心を思い出した。
「バイソンたちがいるかもしれない。早く離れよう」
「へえ、でもあたしは入ってみたいな。一度も行ったことないし」
 僕はぶんぶんと首を振った。執行猶予中の身でも抗弁の権利はある。
「いくらなんでも危険すぎるよ。前にバイソンは中学生とやりあったんだから」
「じゃあ、先にあたしが偵察してくるから、やばそうなのがいなかったら入ろう。そこで待ってて」
 僕の意思表示を待たず梨花ちゃんはゲーセンの自動ドアをくぐって行ってしまった。恐れをなして勝手に逃げたら間違いなく死刑なのだろう。足元を熱気で包むコンクリートの上で、僕は忠犬よろしく額に汗を滲ませて棒立ちで彼女を待った。数分の後に、先に声をかけてきたのは別の女の子だった。
「あーっ、田宮くんだ」
 大きい目を丸く見開いて、道路の反対側から千佳ちゃんが声をかけてきた。明るい色のワンピースを着て、頭にカチューシャをしている。千佳ちゃんは隣に立つ両親になにかを言い、一人で道路をまたいで駆け寄ってきた。
「偶然だね」
「あーうん、そうだね、本当に」
 高い声を弾ませて気さくに笑顔を振りまく千佳ちゃんとは対照的に、僕の応対は挙動不審そのもので自分でも目線が泳いでいるのが判った。
「えっとね、この前の日記! とっても面白かった! 何度も読み返しちゃった」
「そ、そう? それは……よかった」
 実のところ、僕は交換日記になにを書いたか具体的には覚えていない。千佳ちゃんが日々繰り出す膨大な文章と釣り合わせるのに必死になっていたからだ。面白いと言われれば嬉しい気もするが、よく考えたらほどほどに退屈させた方がむしろ簡単に交換日記を済ませられるのではないか。そんな邪な考えが頭をよぎった。
「ところで、田宮くんのご両親は? 私、まだご挨拶したことなくて」
 いよいよ言葉に詰まった。少なくとも両親の片方は部屋でフロッピーディスクを差し替えている。今頃はその作業も終わったと思うが、それにしてもとっくにパソコンを諦めたはずの父さんがあそこまで熱心になっていたのはなぜだろう。そんなに楽しいものがあのフロッピーディスクに入っているのなら僕にも見せてほしかった。いや、願いが叶うのなら今すぐここにテレポートしてきてほしい。
「あー、僕の親はそのう、あの」
 その時、背後の自動ドアが開いて梨花ちゃんが姿を現した。
「ねえ、おじさんしかいなかったよ。誰も――」
「堺さん?」
 彼女の苗字を呼ぶ千佳ちゃんの声は幾分驚きを反映していたものの、それでも寒気がするほど低い音程だった。このほど僕が理解を得たのは、女の子が発する声は我々が思っているよりずっと自由自在という事実だ。対する彼女は「ん? どちらさんだっけ?」とあくまで飄々と、しかしなんらかの圧力を弾き返そうとする意図を持った声色で応じた。
 わずかな沈黙の間に、かいた汗が全部冷水に変わった気がした。夏の暑さも二人が無言で発する冷気の前には敵わない。
「堺さんは田宮くんと二人で街に来ているの?」
 千佳ちゃんは完全に問い詰める態度で鋭く声を張って訊ねた。
「うーん……いや」
 さしもの梨花ちゃんも逃げ場のないストレートな詰問に声を濁らせたが、かろうじて有効な回答をひねり出した。
「あたしと田宮……くんのママがお茶会をするから、この辺で遊んでなさいって言われたの」
 険しくなりかけた千佳ちゃんの表情が一転、花が咲いたようにぱっと明るくなる。梨花ちゃんもやや不自然に引きつった笑顔を作った。
「へえ、そうなんだ! 私、てっきり……」
 通りの向こうから大人の声がした。千佳ちゃんが振り返って「はーい、今行きます」と返す。別れ際には親切な忠告がもたらされた。
「でもゲームセンターは危ないから気をつけてね。田宮くんも」
「ああ……うん。どうもありがとう」
 千佳ちゃん一家が通りの角を曲がるまで目で追ってから、二人して深いため息を吐いた。
「とってもいい子だね。仲良くなれそう」
 サボテンでできた惑星くらい棘のある声で彼女はそう言うと、僕の腕をむんずと掴んでゲームセンターに引きずっていった。
 タバコの煙がもくもくと燻る独特の空気はゲームが好きでも一生馴染めそうにはない。シューティングゲームやアーケードゲーム、レースゲームの台が所狭しと並ぶ中で、梨花ちゃんはどれを遊ぶか決めあぐねている様子だった。無理もない。一ゲーム百円のプレイ料金は小学生には重い。どれが面白いのか判らないのにおいそれとお金は費やせない。
「ねえ、あんたはどれ遊んでるの」
 ここへきてようやく出番が巡ってきた。幸い、田舎町のゲームセンターなだけあって台はろくに入れ替わっていない。僕はいつになく堂々と言った。
「ストⅡかな、やっぱ」
 慣れた足取りで狭い通路内を突き進む僕の後を梨花ちゃんがついてくる。こんなことは今後一度もないかもしれない。
 ところが、ゲームの攻略方法を知っていても人に楽しさを教えられるとは限らないとつくづく思い知らされた。彼女はてんでゲームの心得がなかった。CPUのダルシムが放つベタ打ちのズームパンチを一向にくぐり抜けられず、負け続けることゆうに三回。たまらず交代を申し出た僕がほとんどダメージを食らわず最終面のベガ戦をあっけなく制すると、自慢げな顔を晒した僕の頭に平手打ちが見舞われた。
「いたっ」
「つまんなすぎ。もっと他のないの?」
 なかった。シューティングゲームは序盤で撃墜、レースゲームは一周目でコースアウト。現実では男の子をグーで殴り倒せるのにゲーム内では手も足も出ない。彼女は明らかに苛立ちを募らせていた。このままだと代わり僕を痛めつけて遊ぶ、という話になりかねない殺気を放っていた。
 やむをえず、僕は奥の手を繰り出した。むすっと唇を「へ」どころか集合記号並に曲げた彼女を誘導して、二階へと上がる。雑然とぬいぐるみが積まれたUFOキャッチャーの前に立ち止まると躊躇なく二百円をなげうった。梨花ちゃんは尖った目を丸くした。
「見てて、あれを獲るから」
 操作に合わせて動くクレーンを見て「あ、動いた」と彼女は言った。直線状の確信を帯びた駆動で目標に進むアームはまもなく指差した亀のぬいぐるみの甲羅をしかと掴み、来た経路を悠然と戻って穴の上に落とした。ごとん、と音をたてて樹脂製の壁の中からこちらの世界に転がってきた景品を取ると、彼女に手渡した。
「あげる。良かったらだけど」
 実を言うと、この一連の動作にはかなりの修練を積んでいる。遠方から歳の離れた親戚の子が来るたびにこうやって機嫌をとっていたのだ。あえて亀のぬいぐるみを指定してみせたのも、甲羅の部分がアームにフィットしていて格段に掴みやすいためだった。この時ばかりは何年間も代わり映えしない景品を並べている街のゲーセンに感謝した。
「まあ……一応もらっておいてあげる」
 梨花ちゃんは亀の甲羅の部分を抱き締めて言った。それからはすべてが順調に進んだ。二階のメダルゲームコーナーは彼女に向いていたらしく、しまいには財布から取り出した千円札をまるごとメダルに替えてしまうほどだった。「借りを作るのも癪だから」と気前よくメダルをくれたので、そのぬいぐるみはプレゼントなんだけど、とほのかな反駁を胸に秘めつつも二人してメダルゲームに興じた。豪勢に遊んだせいか夕方までにメダルの枚数は着実に減っていった。しかし、彼女は上機嫌を保っていた。
「ねえ、ちょっと」
 二階のメダルゲームを何周分も遊び尽くした辺りで、梨花ちゃんは僕を手招きして奥まった位置に置かれた機械を指差した。従業員の手製と思しきカラフルな装飾文字が周囲に施されている。やたらポップな字体で『ご期待に応えてついに新登場!』と描かれていた。
「あれ、プリクラじゃない?」
「ぷりくら?」
 連想しようのない四文字のひらがなの連なりが頭に浮かんで消えた。
「プリクラ、知らないの?」
「ウーン、知らないな……どんなゲーム?」
 彼女はふふと笑った。そういう笑い方もできるんだ、と僕は少し驚いた。
「あたしも撮ったことはないけど……やってみれば分かるよ。ほら、あたしが出すから」
 とる とるってなにを取るんだろう。UFOキャッチャーのような代物なのか……こんこんと湧き出る疑問をよそに誘われるまま、僕は外側が天幕で覆われた機械の内側に入った。台の上部に「プリント倶楽部」と銘打たれている。これが「ぷりくら」が略語に違いない。
 お金を投入した後、スピーカーから流れる音声案内に倣って梨花ちゃんがボタンを押していくと、目の前のモニタに僕と彼女の顔が映り込んだ。僕はあっと声をあげた。
「やばっ、チーズしてチーズ」
 二人の顔を取り囲むハート型の枠の下に『はい、チーズ!』と文字が現れた。咄嗟に梨花ちゃんは顔の横にピースを掲げたが、僕は終始うろたえた状態で固まり、それがそのまま静止画と化して機械の下から吐き出された。やけに肌が白く見えるその写真を見て、彼女は苦笑した。
「捕まった人みたいだね」
 確かに、写真の中の僕はまるで罰を受けているみたいだった。
 遅れて「ぷりくら」を「とる」という言葉の意味が、加工写真を撮ることだと理解した。
「前に来た時はこんなのなかったけどな」
「最近、東京でブームだって雑誌で読んだの。もう一回やろう。今度はちゃんとしてよ」
 彼女は『¥300』と刻まれた硬貨の投入口に百円玉をざらざらと入れて再度の写真撮影に取り組んだ。不意打ちを食らったとはいえ三百円も無駄にしてしまった恐ろしい喪失感から、僕はハート型の枠の内側でこの上なく真剣な表情を決めた。出力された写真には、にたにたと笑う彼女と真顔の僕の奇妙な共演が映えていた。
「うーん、まあ、これはこれでありかも」
 謎の納得を得た彼女は「ぷりくら」の横のテーブルに置かれた小さいハサミで写真を切り取り、紙面に並ぶ同じ写真の列のうちの半分を僕によこした。
「はい」
「これ、どうするの?」
「ノートに貼ったりするらしいよ」
「そういうものなのか」
 ゲームセンターの眩い照明を受けて、ただでさえ白い肌をした写真の中の僕たちがいっそう輝いて見えた。
 午後五時を過ぎ、夏の長い夕方でも子どもが街にいるのは体裁が悪い時刻になった。ぬいぐるみを抱えながら通りを歩く彼女は、さすがに遊び疲れたのか僕でも追い越せそうな歩幅で伸びる自分の影の後を追っている。
「今日は割とよかった。けど……」
 梨花ちゃんがぽつりと言った。
「……来週は、ちゃんと来てよね。チャット」
 僕はうん、と答えた。実際のところは父さんの裁量次第だが、なんとなくあのフロッピーディスクは今回限りで用が済むのではないかと直感していた。
「まずい、止まって」
 数歩ぶん先行していた彼女の歩みがはたと止まった。言われるまでもなく僕も止まらざるをえなかった。テレビでしか見たことのない渋谷のスクランブル交差点を大幅に縮小したような街の交差点の反対側に、バイソンと二人の取り巻きが立っているのが見えた。彼らはもうこちらの姿を明確に捉えていて、いつ襲いかかってきてもおかしくない獰猛な笑みを湛えていた。
「どうしよう」
 僕が情けない声を漏らすと彼女は言った。
「もし、やつらがまっすぐ来たらダッシュで逃げよう」
「えっ、ぶっ飛ばしてくれるんじゃないの?」
「今はもう無理」
 休日の浮かれ気分で満ち足りた喧騒が遠のいて、そこにはバイソンと取り巻きと僕たちしかいないような気がした。信号機が、青に変わる。
 ぞろぞろと人々が交差点を往来していく最中、刹那の空白の後にバイソンたちは横にそれて移動しはじめた。獣の視線は相変わらずこちらに向けられている。彼女に手を引かれるまま、僕も横にずれていった。互いに平行移動しながら徐々に遠ざかっていく。さながら見えない国境線を沿って歩く兵士を空想させた。
 たっぷり数十メートル単位も距離を離すとバイソンたちはくるりと背を向けた。途端に、傾いた日差しの熱や人々の声、湿った空気などが全身に舞い戻ってくる。
「さすがにこんなところで暴れるわけないか」
 梨花ちゃんがぬいぐるみを抱える腕を緩めて言った。
「そんなことないよ。バイソンのやつは絡んできた中学生をこの辺りでボコボコにしたらしい」
「又聞きにしちゃ詳しいね」
「その時は一緒にいたんだよ。僕は大人を呼びにいって、すぐに帰らされたから勝敗は知らないけど……」
 思い起こしてみればそうだった。バイソンが僕をいじめだしたのはその後からだった。前はストⅡだってたまに遊んでいた。もちろん、彼の使うM・バイソンには一度だって負けたことはなかった。


 悲劇は突然に訪れた。担任の先生が普段の調子で帰りの会を早じまいさせようとしたところ、がらがらと教室の引き戸が開いて別の先生が入ってきた。ずんぐりとした体型に似合わず、黒板を引っ掻いたような甲高い声が特徴の風紀指導担当教員だ。不意の闖入者に担任の先生も少々驚いた様子だったが、教員はすぐに持ち前の声で要件を高らかに伝えた。
「本日は風紀指導について、古井さんからとても重要なお話があるそうです。皆さん静かに聞きましょう」
 キーッキーッとした音が総体としては明瞭に日本語の意味を持つのは今もって不思議な感覚だ。教室全体に逆らいがたい重圧が立ちこめた。
 担任の先生が遠慮がちに言った。
「あのう、今日はクラブ活動もありますし、わたくしも詳細を伺っていないので後日というわけには……」
 指導教員のかける黒縁メガネがぎらっと光った感じがした。さらに一オクターブ高い声が、空気ごと周囲を威圧せしめる。
「ことは急を要するのです。そもそもこんなことになったのはあなたの指導不足なのですよ」
 先生が先生に叱られている! 子どもの目にも両者の主従関係が本能的に理解できた。一転、教員はにっこりと笑顔を振りまいて「では、古井さん、どうぞ起立してお話してくださいな」と結んだ。実質、教室での実権を簒奪された担任の先生はうろたえるばかりだった。
 指名された千佳ちゃんがすっと立ちあがった。総合室でのもじもじした態度が嘘みたいに決意が全身に張り詰めていた。
「ここ最近、六年生の校則違反には目に余るところがあります。下級生の模範となるべき最上級生の私たちには特にあってはならないことです」
 持って回った話しぶりから、千佳ちゃんの演説が即興ではなく事前の準備を経たものであることがうかがえた。
「まず一つ目は今学期に決められたゲームセンターの利用制限ですが、先生やPTA役員の方々にお骨折り頂いているにもかかわらず、今でもご両親の同伴なく立ち寄っている子たちがいます」
 一瞬、ぎょっとしたが続く苗字に僕は含まれていなかった。
「たとえば、私たち二組では梶くんと尾野くん」
 名指しされた二人にクラスメイト全員の視線が集まった。二人ともバイソンの取り巻きだ。あの日も彼らは街にいた。うん、うんと深くうなずく指導教員をよそに、取り巻きの二人は抗議の声をがなりたてた。
「そんなこと言われても、親とゲーセンなんて行けっかよ」
「俺の母ちゃんは土日働いてんだよ」
 しかし千佳ちゃんは凶暴な二人相手に一歩も引かず、力強い口調で宣告した。
「あなたたちの行いはルール違反です。先生とクラスメイトの皆さんに謝って、固く更生を誓ってください」
「は? いやだし!」
「なんで謝んなきゃいけねーんだよ! お前に関係ねーだろ!」
 取り巻きたちは声を揃えてぎゃーぎゃーと抵抗した。このままでは二人して千佳ちゃんに掴みかかりかねないと一触即発の雰囲気に場が包まれたところで、待ってましたと言わんばかりに指導教員が割って入った。
「はーっ、いいですか梶さん、尾野さん。あなたがたがそうやってわがままを言っていると、クラスメイトの皆さんの時間を浪費することになるのですよ。浪費というのは無駄遣いのことです。無駄遣いはよくありませんよね?」
 剣山のごとく突き刺さる声を前に二人はたじろいだが、まだ抵抗の意志は消えていない。すると、教員はとんでもないことを言い出した。
「お二人が心の底から反省して、真摯に謝るまでは本日の帰りの会を終わることはできません。いいのですか、あなたがたはそれで」
 えーっと教室じゅうから大声があがった。口々に、帰ったら遊ぼうと思ってたのに、とか、じゃああいつん家でロクヨンできないじゃん、とか、塾が、クラブが、といった不平不満が噴出した。それらの声に被せるように指導教員が声を張った。
「でも仕方がありませんよね? お二人が謝らないのであれば、これはもう六年二組の連帯責任ということです。皆さんもお二人の罪を見過ごした罰を受けなければなりません。それが社会なのです」
 たちまち場の空気が凍った――そして、取り巻き二人に対する視線が興味本位から、ゆっくりと、しかし加速的に、敵意へと変遷していく過程が感じとれた。
 クラスメイトの中から誰かがぼそりと「謝れよ」と言った。「謝ればいいじゃん」とさらにもう一人。趨勢は決定づけられた。二人への謝罪要求は波紋を打つように徐々に広がり、じきに糾弾の大波を象って氾濫した。
「あーやまれ! あーやまれ!」
 さしものバイソンの尖兵も、これにはひとたまりもない。バイソンは別のクラスにいて、彼らは孤立無援だった。多勢に無勢だ。二人は顔を青ざめさせながらきょろきょろと視線を泳がせて、それから互いに顔を見合わせた。そうして二人の口から、ぼそぼそと謝罪めいた文言が出るまでにもう何分も経過していた。だが、指導教員は恍惚とした表情でなおも二人を追い詰めた。
「わたくしは真摯に、と言いました。真摯というのは、真心を込める、本気で、という意味です。今のお二人の謝罪は真心がこもっていましたか? わたくしにはそうは見えません」
 結局、教員がそのガマのような顔をうっとりと紅潮させて「いいでしょう」と認めるまで、取り巻きの二人は教室じゅうの冷たい視線を浴びながら何十回と謝罪をやり直しさせられた。そのうちにどちらともなく涙を流しはじめて、途中から謝罪の声は嗚咽に上書きされ、動物じみた慟哭に等しい様相を呈していた。しかし指導教員はむしろ満足したようだった。
「お二人はこれでよく反省したと思います。皆さんもお二人を許してあげてくださいね」
 率直に言って、僕は割といい気分だった。心底ざまあみろと思った。散々、僕を痛めつけてきた二人がズボンの裾を掴んで、大粒の涙を流しながら頭を垂れる様を見るのは大いに溜飲が下がった。なんなら来週辺りにもう一回やってもらっても全然構わないぐらいだった。
「それからもう一つ、話さなければならないことがあります」
 千佳ちゃんがそう言うと再び教室がざわめいた。ようやく二人を謝らせて解放されると喜んでいたのに、まだ話は終わっていなかったのだ。
「他クラスへの侵入は、皆さんの教科書や私物を適切に管理保全するためには極力避けられなければなりません」
 そこですうっ、と千佳ちゃんは深く息を吸い込んだ。
「ですが、ここ最近、二組に何度も侵入している子がいます」
 千佳ちゃんが指導教員にお辞儀をすると、教員はずんぐりした体を左右に揺らしながら引き戸に向かって歩き、扉を開けて「入りなさい」と告げた。すると、他でもない梨花ちゃんが仏頂面で教室に入ってきた。
「一組の堺梨花さんは私の記録によると、一ヶ月の間に計十三回も二組に侵入しています。おそらく本当はもっとでしょう」
 梨花ちゃんのライオンを彷彿させる眼光が鋭く千佳ちゃんを捉えた。だが、二組全員の衆人環視に晒され、指導教員までもが真横に控えている状況では彼女の威圧はさしたる効果を持ちえなかった。
「そして現に……堺さんの他クラス侵入によって被害を受けている子がいます」
 直後、まったく予想だにしていなかった事態が起こった。千佳ちゃんの顔が僕に向けられ、つられてクラスメイトの視線も僕の方に向いたのだ。コロッセウムの観客席から、いきなり闘技場に投げ出されたような戦慄に襲われた。
「田宮くんはノートを堺さんに破られていました。他にも、連れ回されたりしていて……。他の子たちも怖がっています」
 クラスメイトが次々と「私も見た」、「田宮くんかわいそう」と声をあげはじめた。僕に注がれる視線は同情で、梨花ちゃんに向けられているのは先ほどの二人と同じ敵意だった。彼女は二組の構成員に手を出した外敵と見なされたのだ。当の本人もうつむきがちに黙りこくっている。
「こういう時は被害者の意見を第一に訊くべきじゃないかしら?」
 教員の「助言」に応じて、千佳ちゃんは僕の方に身体ごと向き直って言った。
「ねっ、田宮くん、メーワクだったよね。堺さんにノートを破られたりして。そうでしょ?」
「僕は……」
「田宮さん、発言する時は起立しましょう」
 指導教員の有無を言わさぬ指示に身体が勝手に動いた。以前、低学年の担任だった頃は定規で子どもを殴りまくっていた恐るべき相手に、わずかでも抗ったと気取られることは避けたかった。
「僕は――」
 起立して改めて口を開いたものの、なにを言うべきか見当がつかなかった。ートを破られたのは、むろん、迷惑と言わざるをえない。彼女の振る舞いは理不尽極まる。でも、あの日、グレーの公衆電話ボックスの前で危機に瀕していた僕を、結果的に救ったのは梨花ちゃんなのだ。CGIチャットやFlash Playerやプリクラを教えてくれたのも彼女だ。
 しかし、そうした背景について説明する能力を僕は持っていなかった。ありのままに言えばたとえいじめっ子が相手だとしても暴力は悪い、となりかねない。ゲーセンにも子どもだけで行っている。本気で調べられたら嘘はばれる。
 なにより恐ろしいのは、これらが「メーワク」じゃないとしたら、先の罪科は彼女のみならず僕自身にも降りかかってくることだ。共同正犯に手を染めたと言っているに等しい。
 千佳ちゃんは黙らされてなんかいなかった。一つも納得なんてしていなかった。この瞬間に至るまで、仇敵を確実に仕留める作戦を拵えていたのだ。
 脇から首筋から、手のひらから、冷や汗がだらだらと垂れてきた。もし共犯なら、僕もみんなの前で謝らせられるのだろうか? あの愚かな取り巻きの二人と同じように、僕も嗚咽を漏らして涙を流す醜態を晒すのだろうか?
 そんなの絶対に嫌だ。僕は悪くない。そんな目に遭わなければならない道理は、取り巻き連中や梨花ちゃんにはあっても僕にはない。僕は僕の世界を守らなくちゃいけない……。父さんに知られたらノートパソコンを取り上げられてしまうかもしれない。
 教室じゅうの視線が僕に集中していた。梨花ちゃんも僕を見ていた。表情は平坦そのもので感情をうかがい知ることはできない。
「――メー、ワク、でした……。もう、やってほしく、ないと、思います」
 がくがくと震える口を懸命にこじ開けながら僕は意見を表明した。ただ、目は誰とも合わせなかった。合わせたくなかった。言っている最中も、言い終わって着席してからも僕の視線は常に空中を漂っていて、黒板の上に架けられた時計とか、その横に掲げられた標語とかをふらふらと眺めていた。
 千佳ちゃんの勝ち誇ったような声が耳に届いた。
「堺さんは田宮くんに謝るべきだと思います」
 指導教員がとどめを刺した。
「その通りです。堺さん?」
 僕は耳を塞ぎたかった。へりくだる彼女の姿なんて見たくなかった。その状況を決定づけたのが僕自身だというのも認めたくなかった。今すぐここから消えてグレーの公衆電話ボックスに逃げ込みたかった。
 ところが、僕の悪い予感に反して梨花ちゃんの鞭を打つような声は教室じゅうにくっきりと響きわたった。
「田宮くん、ならびに六年二組の皆さん、このたびはご迷惑をおかけして大変申し訳ありませんでした。以後は身勝手な行動を慎み、更生を果たし、二度と同じ過ちを繰り返さないよう努めます」
 声量、抑揚、文言といい、そのどれもが小学生に期待されうる謝罪を大幅に上回る質感だった。恐る恐る目をやると、彼女は背をきっちり直角に曲げて深々とお辞儀をしていた。このあまりにも完璧な謝罪には、さすがの指導教員も一度で満足した。拍手もつくほどだった。
「いいでしょう、いいでしょう、実にすばらしい謝罪だったと思います。この点については皆さんも見習うべきところがありますね。では、田宮さん、これでよろしいですね?」
 僕は目線を時計に合わせながら、喉元を震わせて「はい」という応答を絞り出した。謝られてこんなにも惨めになったことはなかった。
 指導教員が教室を後にした頃には僕の気はすっかり変わっていた。いつもは向きを揃えて入れる教科書やノート類を雑にランドセルに突っ込んで、急ぎ彼女の行方を追った。彼女は謝罪が終わってすぐに帰らされたが、まだそんなに時間は経っていない。一組の教室を覗き込むと、いた。とっくにひと気が失せた一組の教室で一人、取り残されたように帰り支度を進めている。
「梨花ちゃん!」
 僕は教室の外から叫んだ。彼女の肩がびくりと震えたが、振り向きはしなかった。相変わらず手を止めずに帰り支度を進めている。かまわず一組の教室に足を踏み入れた。これで僕も他クラス侵入だが、もうどうだってよかった。彼女の誤解を解く方がよっぽど大事だった。
「梨花ちゃん、あの……」
 目の前まで近づいて呼び止めると、すっと彼女が顔をあげた。ライオンのような鋭い視線ではなかった。いかなる形容も装飾もふさわしくない無味乾燥な視線――本当にただ目が合っているだけ、といった具合の目つきが僕を凍てつかせた。
「他クラス侵入だよ、出てって」
 彼女の声は過去に聞いたどの声よりも静かだった。けれども、僕にとっては今までのどんな仕打ちよりもはるかに気持ちを重くさせた。架空の錘に心臓が押し潰されそうだった。
「あの場ではああするしかなかったんだ、でも」
「出てって。また告げ口されたくないから」
「誤解だ。僕はなにも」
 彼女はふう、とため息をついてランドセルを背負った。帰り支度が済んだらしい。
「じゃあいいよ。あたしが出ていく」
 ロングの髪の毛がなびく早歩きで彼女はさっと教室を出ていった。僕はすがるように後を追いかけた。
「待って、待ってよ!」
 廊下に出て、階段の手前まで来たところで僕は痺れを切らして梨花ちゃんの手を掴んだ。だが、僕ごときの力で彼女を止めることは叶わなかった。彼女はすぐさま手を振り払うと、逆に僕を両手で突き飛ばした。倒されて尻もちをついたまま仰ぎ見ると、彼女は激しい運動をした直後のように呼吸を荒らげていた。
「もう、二度と関わらないで。チャットにも来なくていいから」
 語気を強めてそう言うと、幾ばくか緩慢な動きで階段を降りていき、やがて姿が見えなくなった。そこまで徹底的に絶交を突きつけてきた相手をさらに追う勇気はなかった。
「大丈夫?」
 よろめきながら立ちあがると、背後から聞き覚えのある声がした。振り返ると千佳ちゃんが心配そうな顔をして立っていた。僕が「うん、まあ」と応えて、現に外傷のない様子を確かめると、ぱっと柔らかな笑みを浮かべた。
「よかった。……ねえ、堺さんって、怖いね。でももう大丈夫。先生もしっかり見張ってくれるって言ってたから。二度と関わらなくて済むよ、きっと。梶くんと尾野くんも――」
 その言葉でついさっきの梨花ちゃんによる絶交宣言が脳裏にリフレインされた。目の前の千佳ちゃんをまじまじと見て、僕はだんだん怒りが湧いてくるのを感じた。その感情を認めた途端に、千佳ちゃんのすべてが憎たらしく思えてきた。丁寧に整えられた二つ結びの髪型も、前髪に差しているヘアピンも、鮮やかな緑のスカートも、どんな大人をも味方につけそうな丸みを帯びた目と顔も、なにもかもが憎たらしかった。
「あのさ、もう、交換日記やめよう」
「えっ」
 僕は背中のランドセルを肩に回して開き、中から交換日記用のノートを取り出して彼女に押しつけた。
「本当は興味なかったんだ、最初から」
 それだけ言い残すと、僕は千佳ちゃんから顔をそらして階段を駆け下りた。幸いにも追いかけてくることはなかった。下駄箱で上履きを履き替え、校門を通り過ぎ、歩いて、田んぼの連なりが視界いっぱいに広がると、ついに僕の心は均衡を失ってぐちゃぐちゃになった。
 どう考えても八つ当たりだ。女の子に嫌われた腹いせに、別の女の子をわざと嫌った。街でも東京でもアメリカでも、インターネットの大銀河でも僕より最低最悪なやつは見つからないんじゃないかと思った。
 僕はなにも悪くないはずだった。ノートも破っていないし、暴力も振るっていないし、告げ口もしていない。嘘をついたのは梨花ちゃんだ。交換日記だってこっちから誘ったわけじゃないし、いつやめようと勝手だ。そうとも、僕は悪くない。
 でも、僕は悪くないけど、全部間違えた。なにもかも間違えた。夏の陽の光に晒された直線の道を歩きながら、僕はわんわん泣いた。今は宇宙船なんかよりもタイムマシンが欲しかった。


 週末までの数日、梨花ちゃんは学校に来なかった。いつ一組の教室を覗いても彼女の座席は虚空が埋めていた。それでも間の悪さに賭けて、幾度となく授業中にトイレに行くふりをして教室を見に行ったが、やはりいない。同じ間の悪さでも、あの後にたまたま病気にかかったなどという可能性を信じる気にはなれなかった。
 土日は二日続けて大雨だった。インターネットをしたくても雨が降っていては外出できない。電話ボックスの中に入ってしまえば関係ないが、行くまでの間にリュックが雨水に濡れて浸水したら大変だ。パソコン雑誌にも、コップの水がかかっただけで何十万もする自慢のマシンがお陀仏になった、という失敗談とともに家財保険の広告が載っていた。僕の父さんがそんな保険に入っているわけもなく、パソコンを壊したら残るのは長期ローンの支払いだけだ。そして二度とパソコンもインターネットもできなくなる。
 だが、日曜日の昼食時に差し掛かるといつもの約束の時間が迫っていることを思い出した。日曜日の午後一時。梨花ちゃんは「来なくていい」と言ったが、僕はどうしても今日こそ行かなければいけない気がした。居間の窓に張りついてざあざあと降りしきる雨脚を見ていると、昼食を持ってきた母さんが訝しんだ。
「朝から外ばかり見て……ここのところしょっちゅう出かけているけどそんなに気に入った場所でもあるの? 今日はよしときなさい」
「うん、でも、今日は行かないと」
「いつもどこに行っているの?」
 山あいに置かれたグレーの公衆電話ボックスに父さんのノートパソコンとテレホンカードを持ち出してインターネットをしている、などと言えるはずもなかった。
「あー、ちょっとね、石を探しているんだ。あそこの山に、変わった色の石が埋まってて……あー、それで、雨の方が掘りやすい」
 自分でもびっくりするでたらめが口からひねり出された。「あそこ」と言って指を差した方向に山はない。母さんは不審そうに僕の顔を見つめていたが、ややあって一言だけ言った。
「……まあ、いいけど、かっぱを着ていきなさいね」
 想像上の冒険少年に擬態した甲斐があったのか、それとも見抜かれた上で黙認されたのか判らないが、とにかく僕は昼食を摂ったが早いかリュックに所定の荷物を詰め込んで準備を進めた。パソコン雑誌の塔からあまり面白くなかった号を抜き取って、ノートパソコンの天板と底面を覆う形にした。これで多少は浸水対策になるはずだ。リュックそのものをかっぱが覆っているし、なんとかなるだろう。
 折りよく、外に出る頃には雨脚が弱まって小雨くらいになっていた。しとしとと田んぼの水面に降り積もる無色透明の雨粒は、土と混ざり合ってみるみるうちに濁り気を増していく。左右の田んぼから溢れ出た泥水が直線の道を茶色く染めあげた。道路があぜ道に変わると路面はますますひどくなり、ほとんど土の中を歩いている感覚に囚われた。
 太ももまで丈がある長靴の大部分が泥に汚れた辺りで、グレーの公衆電話ボックスにたどり着いた。雨はもう止んでいた。内側に貼られたダンボール板の遮蔽は変わらず、外側のプラスチックの表面が雨で濡れて水滴がこびりついている。
 中に足を踏み入れようとして、考え直した。僕の世界を泥で汚したくない。やむをえずダンボール板の一部をちぎって床に置き、そこに脱いだ長靴を立てた。
 濡れたかっぱを電話ボックスの内側から外に向かって脱いで、水分を入念に払ってから折りたたんだ。そうしてから電話機本体と金具の隙間に差し込んでおいた。次にインターネット接続の準備に取り掛かる。微かに抱いていた心配はどうやら杞憂だったらしく、ノートパソコンはもちろんパソコン雑誌も全然濡れていなかった。いつも通りに電源を入れて、モジュラーケーブルを接続して、電話機にテレホンカードを読み取らせた。
 彼女のCGIチャットはとっくにブックマークしてある。ハードディスクのうなり声に合わせて描画されたチャット画面は前回となにも変わっていない。履歴を読む限りでは僕たちはまだ仲良しに見える。
 僕はせかせかとキーボードを叩いて「入室」ボタンを押した。タスクバーの時刻表示は午後一時ちょうどを示していた。
『誠 さんが入室しました』
誠>来てる?
誠>君は来ないでって言ってたけど
誠>どうしても誤解を解きたくて
 三連続で会話をタイピングした。でも、打ち込んですぐに発言を取り消したくなった。これでは前と同じだ。
誠>ごめん
誠>誤解じゃないや
誠>僕は悪くないと思ってた
誠>だから周りに合わせちゃったんだ
 言いたいことはたくさんあるはずなのに、電話ボックスの壁面を伝い落ちる雨粒のように言葉は細切れにしか出てこなかった。
誠>でも間違いだった
誠>僕は悪くないだけで間違っていた
誠>インターネットを教えてくれた君に報いるべきだった
誠>一緒に叱られるべきだった
 どんなに書き連ねても梨花ちゃんが入室してくることはなかった。それでもかまわず書き続けた。前の会話がどんどん下に追いやられていって、僕の発言で画面が埋まっても書き続けた。ずっと新着を追っていないお気に入りのウェブページのことなんて頭から消えていた。街よりも東京よりもアメリカよりも広大な大銀河の世界で、街よりも家よりも矮小なグレーの公衆電話ボックスの中にいる僕の申し開きを、ただ一人の女の子に見て欲しかった。
 指先が疲労で痺れるくらいにキーボードをタイピングして「更新」ボタンを連打しているうちに午後二時を過ぎた。自分ひとりでチャット画面を埋めたせいで、インターネットエクスプローラーのスクロールバーが豆粒みたいなサイズに縮んでいた。
 たぶん今日はもう来ない。
 ため息をついてウインドウのバツ印にカーソルを合わせたその時、どん、どん、と電話ボックスの壁を叩く音が聞こえた。
 えっ、梨花ちゃん?
 まさか、直接来てくれて――
 隠しきれない喜びを胸にドアの方を見ると、切り取って背が低くなったダンボール板から顔を覗かせるように、あのバイソンが邪悪な笑みを湛えてそこにいた。
 ――直後、思考と指先が直結したかのように反射的にキーボードを叩いていた。
誠>ばいそんがきた
 詳細を書く暇は与えられなかった。ぐわっと一息でドアが開け放たれると、バイソンの腕がぬうっ伸びてきて僕を電話ボックスの外に引きずり出した。ダンボールの上の長靴が倒れて転がり、膝の上のノートパソコンは床に投げ出された。
 外界に引きずり出された僕は雨水でぬかるんだ地面に倒され、たちまちシャツが泥で染まった。
「てめえ、やっぱりここにいやがったんだな」
 バイソンの怒気と狂喜を両方孕んだ低い声が降り注いだ。仰ぎ見ると、取り巻きの二人もいた。
「よお、チクリ魔。今日という今日こそ覚悟しろよ」
 なんの予備動作もなく、梶の前蹴りが無防備な腹部に突き刺さった。激痛に耐えられず地面を転がるとびちゃびちゃと泥の跳ねる音がした。その数秒後に、おそらくは尾野のものと思われる靴底が脇腹に深くめりこんだ。痛み以上に臓器にかかった負担から、僕は吐き気を催して食べたばかりの昼食をおおかた地面に吐き戻した。蹴られ続けているうちに吐瀉物は泥水とまみれて次第に区別がつかなくなった。
「ざまねえな、センコーを味方につけて調子くれやがって」
 僕は萎縮する胃袋を御し手を虚空に掲げて釈明を試みた。
「違う、僕は関係ない。なにもっ、なにも言っていない」
「あの時にやられなかったのはてめえだけだろうが。チクリ野郎がよ」
 尾野が冷たく言って、さらに追撃を重ねた。抗弁の余地は与えられなかった。
 しばらくすると寝転がる僕を蹴るのにも飽きたのか、バイソンは取り巻きたちに「おい、こいつ立たせろ。根性入れてやる」と命令した。二人は嬉々として僕の腕を掴んで無理やり起きあがらせた。正面に立ったバイソンは握りしめた両手を構えて、ボクサーに似たポーズをとった。
 しゅっと音がして彼の拳が腹に直撃した。僕はいまいちど激しい嘔吐感に襲われたが、口から漏れてくるのは胃液だけだった。「バイソンのパンチやべー」と左右のどちらからか囃したてる声がした。勢いは止まらず、さらに一発、二発と連続して打撃が入った。
 普段、どんなに脅かされても心の奥底では彼らを軽く見ている自分がいた。だって所詮は小学生同士じゃないか。気が済んだらそれまでの話だ。
 だが、今日の彼らは一味違った。どれだけ蹴っても殴っても気を済ませてくれそうになかった。それこそ一日じゅうだって僕を嬲りそうな憎悪が感じとれた。
「ゲホッ、ゲホッ」
 僕は吐き気を抑えながら発話の姿勢をとった。僕が喋りそうな気配を認めると、バイソンの拳は止まった。
「なんで……なんで、君らがこんなことをするのか解らない」
「ああ?」
 バイソンは声を荒らげた。
「てめえがむかつくからだよ。一人じゃなんにもできねえチビのくせして、大人の陰に隠れていい気になってやがる」
 追加の殴打が会話の合間に差し込まれた。あたかも拳で改行を代替しているかのようだった。彼にとってのエンターキーは殴打なのだ。
「こいつらが晒し者にされて楽しかったか? 楽しかったよな? 俺たちも楽しんでんだよ、今」
 腹を殴られすぎて感覚が鈍麻してきた。もう胃液もなにも出てこない。ひたすら反射的に臓器がせりあがって、口から空気がひゅっと漏れて、頭ががんがんと響いてくる。
「僕はただ……インターネットがしたかっただけで……家じゃできないから……」
 声を張る気力もなくぼそぼそと言った。彼らへの主張というよりは自分の行動を説明する形式に近かった。バイソンは顔を電話ボックスに傾けて、取り巻きに言いつけた。
「おい、お前らあの中からこいつの荷物とってこい。そういえばなんかやってたわ」
 取り巻きたちが腕を放すと、すでに直立の気力を失っていた僕は崩れ落ちた。彼らにノートパソコンが見つかる事態だけは避けたかったが、もはや防ぐ手立ては残されていない。
「バイソン、これあれじゃね? パソコンってやつ」
 梶が電話ボックスの中を覗いて叫んだ。ノートパソコンを持ち出そうとして引っ掛かったのか「線が抜けねえ」と難儀していると、業を煮やした尾野が「もうちぎっちゃえよ」と言い、ほどなくして破損したモジュラーケーブルをぷらぷらと垂らしたノートパソコンが眼前に現れた。
「へえ」
 人生でもっとも狼狽した表情をしているであろう僕を見てバイソンは満足そうに、この上なく残忍な笑みを口元に広げた。
「こんなもんまで買ってもらえるのかよ、コームインのせがれってのは」
 彼は礫岩のように重いノートパソコンをひょいと片手で持ち上げた。そうしてから、なんのためらいもなく地面に叩きつけた。湿った地面にべしゃっと筐体の底面が埋まった。もう声は出ないと思っていたが、その光景を見た瞬間に僕の腹の底からは出したこともない悲鳴が衝いて出た。
 相当に滑稽な声色だったのか、梶と尾野が二人揃って爆笑した。僕はただその笑いの渦が止むのを待つしかなかった。
 しかし意外にも、笑い声はすぐさま立ち消えた。あと一時間は笑っていそうな勢いだったが、たぶん十秒と経っていない。実際、彼らの爆笑はほとんど一瞬でかき消されたのだ。入れ替わるように梶が叫んだ。
「あーっ! お前!」
 地面に寝転がったままどうにかして首をひねると、梨花ちゃんがいた。よほど急いで来たのか呼吸を荒らげている。
「そいつを放して。じゃないと今度は鼻を折る」
 梶と尾野はたじろいだ。この前は一撃で倒されたのだ。バイソンはそんな二人に苛立ちを覚えたようだった。
「なにビビってんだ。三対一じゃねえか、行けよおら!」
 彼が前足で梶の背中を蹴ると、つんのめった梶が前に押し出されて、つられた尾野も先陣を切る格好となった。バイソンも二人の後に続いて僕をまたいで行った。ちょうど、山あいから家へと続く道が開けた。
「逃げて!」
 鞭を打つような声に動かされて、僕は立ちあがって走った。まだ走れる体力が残っていたのかと自分でも不思議なくらい速く走れた。だが、急勾配の道を下ってなだらかな斜面に差し掛かった頃、足が止まった。空を見上げると、ぱらぱらと小雨が降りだしていた。
 逃げてと言われて逃げたが、置いてけぼりにしてしまっているじゃないか。
 ノートパソコンが山に放置されている。まだ壊れたと決まったわけじゃない。
 あれがなければ、僕は……。
 直ちに来た道を引き返して勾配を登った。しかし、あそこには三人の敵が待ち構えている。取り巻き二人は梨花ちゃんがやっつけてくれるとしても、さすがにバイソン相手は心許ない。なにか武器が欲しい。
 僕は脇道に生えている手頃な太さの木を両手で掴んで、全体重をかけて引き抜いた。リーチは増やせば増やすほど有利になる。ダルシムのズームパンチは分かっていても面倒くさい。
 自分の半身ほどもある木の棒を引きずって、元いた場所に戻ってくると前回と同じ状況が再現されていた。梶と尾野が顔を抑えて倒れていて、バイソンと梨花ちゃんが対峙している。
 歩を前に進めると、湿った地面を踏みしめる音で二人がこちらに目を向けた。木の棒を構える僕を見たバイソンは露骨にあざ笑った。梨花ちゃんも悲鳴に近い罵声を飛ばした。
「お前、わざわざ戻ってきたのかよ」
「馬鹿……!」
 僕は木の棒をバイソンに向けて、手元を、身体を、口元を、肉体という肉体をぶるぶると震わせながら宣言した。
「パソコンを取り返しに来たんだ……父さんの四十八回ローンはまだ終わってないんだぞ」
 僕の挑戦を受けてバイソンは急速に猛禽類じみた獰猛な顔つきに変わった。
「ふーん、追いかける手間が省けてよかったわ」
 彼はこちらに平然と歩み寄ってきて、思いきり振ったはずの木の棒を両手で軽々と掴んだ。その両手が手前にぐいと引かれるやいなや、圧倒的な筋力差が露呈して僕は身体ごと引っ張られた。そのまま蹴りが腹部に突き刺さり、地面に転がされた。
 隙を見て距離を詰めた梨花ちゃんに対して、バイソンは奪ったばかりの木の棒を横薙ぎに叩きつけた。したたかに脇腹を打ち据えられて体勢を崩した彼女に、彼はさらに木の棒を振りあげ追撃を図った。
「やめてくれ!」
 僕は這いずったまま上半身を起こして彼のズボンをがむしゃらに掴んだ。すると、バイソンは振りあげた木の棒を彼女ではなく僕の背中に叩きつけた。
「邪魔すんな!」
 だが、木の棒による打撃は腹に食らうバイソンの殴打ほどには痛くないことに気づいた。叩かれても必死に食らいついていると、体勢を立て直した彼女がバイソンのみぞおちに打撃を加えたのが見えた。
 不意に急所を殴られてよろめいたバイソンだったが、案の定さして効き目はないようだった。むしろかえって力を増した勢いで全身ごとひねって木の棒を振り回したので、梨花ちゃんは後ろに退いて距離をとり、僕は振り落とされた。
「こんなのいらねえ」
 彼は木の棒を自分の膝で真っ二つに叩き折った。折れた木を地面に放り投げると、改めて梨花ちゃんと相対した。
 しかし、彼女は困憊しきった様子で膝に手をついて、ふらついたかと思うとその場に倒れ込んだ。立ちあがる気配はない。バイソンは興を削がれたふうに「ちっ」と舌打ちをすると、向きを変えて僕の胸ぐらを掴んだ。
「まあ邪魔者は消えたな」
 万事休すだ。
 バイソンの拳が頬面を打ちつけた。顔を殴られるのは初めてだった。雨水か汗かで、彼の手がシャツから滑り落ちると、いよいよ面倒になったのか僕の身体にのしかかって馬乗りになった。
「もう、勘弁してくれ」
 ひりついた喉から声を押し出した。さしものバイソンも疲れたのか、息を切らせながら言った。
「てめえみたいな裏切り者は許しちゃおけねえんだ」
 裏切り者? 僕がバイソンを裏切ったというのか?
 身に覚えのない濡れ衣に僕は戸惑いつつも問い返した。
「裏切り者ってなんだ」
「うるせえ」
 馬乗りの姿勢で彼は僕の顔面を殴った。目がちかちかとした。鼻の奥も口の中も鉄臭さと血の味でいっぱいになった。束縛から逃れようと身体をもぞもぞと動かしたがどうにもならず、まるで巨石に挟まったかのような絶望感が全身を支配した。なんとか自由が利く両手だけをじたばたと動かしていると、そのうちに右手の先がなにかと当たった。この感触は木の棒だ。
「なにもかもてめえのせいだ。てめえが――」
 バイソンが三発目を振りかぶったその時、僕は決死の覚悟で木の棒を右手で掴んで彼を叩いた――つもりだった。
 半分に折れて短くなっていた木の棒は彼の頭には当たらず、首筋にずぶりとめりこんだ。得体の知れない気色悪い感覚が手に伝わった。
 バイソンは野太いうめき声をあげて地面に転がった。辛くも馬乗りから解放された僕はすばやく起きあがって彼から距離をとった。身体をわなわなと震わせながら首筋に生えた木の棒を抑える彼を見て、ようやく全容を悟った。
 折れた木の棒は先端が尖っていたのだ。
「この野郎、やりやがったな」
 彼が声を出すと、首筋から見たこともない量の血がどくどくとあふれ出た。雨水に洗われてなお薄れる兆しはなかった。顔面を打たれて戦意を失っていた取り巻き二人もそれを見て絶叫した。
「バイソンやべえ、首に木が刺さってる!」
 木の棒を引き抜こうとしたバイソンに尾野が駆け寄って腕を掴んだ。
「やめろバイソン、俺、映画で観たんだ! 抜くと死ぬぞ――」
 慌てて梶も後を追って反対の腕を引っ張った。
「俺の家に行こう、母ちゃんが看護婦だから――」
 バイソンは二人に抑えられたまま目つきだけは鋭く僕を睨みつけた。だがなにも言わなかったので、僕はついに自分の主張を通す機会を得た。
「もう、放っといてくれ。僕はインターネットがしたいだけなんだ」
 彼は言い返してこなかった。取り巻きの二人に肩を預け、ゆっくりと山から去っていった。
 しばらく呆然といじめっ子たちの後ろ姿を眺めていたが、やがて梨花ちゃんのことを思い出した。三人の姿が完全に見えなくなってから彼女の元に近寄ると、どうやら意識を失ったわけではないようだった。彼女は気だるげにではあるが自らの力で上体を起こした。
「梨花ちゃん?」
「ちゃんはやめてって言ったでしょ」
 僕は咄嗟に謝ったが、顔を合わせると彼女は息も絶え絶えに微笑んでいた。
「あんた、勝ったじゃん。あいつらに」
 言われてみればそうだった。バイソンに、中学生をもタイマンで屠ったというあのバイソンに、僕は勝ったのだ。全身から力が抜け落ちた。こんな田舎町ではインターネットをするのも一苦労だ。


 僕はノートパソコンとパソコン雑誌をリュックに詰めて、長靴を履き直した。雨は降ったり止んだりしている。具合の悪そうな梨花ちゃんにかっぱを被せて一緒に下山すると、あぜ道の手前に自転車が停めてあった。彼女は「あたしの家に来て」と言って、代わりに自転車を漕ぐように求めた。
 二人して泥まみれの格好で、カゴにリュック、彼女が荷台、僕がサドルに座って、雨に濡れた道を走った。湿った道路とタイヤが奏でるぬるぬるとした擦過音を聞いて、背中に彼女の体温を感じていると、だんだん心臓の錘が溶けていくようだった。
 そこそこ自転車を漕ぐと、建ち並ぶ家屋の群れが見えてきた。彼女の家は中でもひときわ大きく、赤色のレンガ造りでできていた。自転車を下りて玄関に立つと、その瀟洒ぶりに気圧されて泥まみれでなくても入るのに気後れしそうな印象を持った。
「シャワーを浴びて、まずあんたから」
 梨花ちゃんの両親は留守だった。玄関からまっすぐ伸びるフローリングの廊下を左に曲がるとそこが更衣室で、先に浴室があった。指示通りに汚れた衣類を投げ込んだ大型の洗濯乾燥機は洗濯から乾燥まで数時間で済むと言う。シャワーを浴びて出てくると、そこにはバスタオルと替えの服が一式用意されていた。服の上に置かれた走り書きのメモには「弟のだけどあんたには合うと思う」と書かれていた。微妙に屈辱を覚えたが、確かにサイズはぴったりだった。
 廊下に戻ると梨花ちゃんと入れ替わりになった。「ここから一歩も動かずに待ってて。覗いたり勝手に部屋に行ったら殺すから」と宣告されたので、僕はおとなしく廊下で待った。やたらと幅の広い廊下だったおかげか居心地の悪さは感じなかった。
 シャワーを済ませた彼女に連れられて階段を登り、後に続いて一番手前の部屋に入った。そこには想像上の女の子の部屋を反映させたような、パステルカラーの彩色に満ちた空間が広がっていた。しかし僕の目線はインテリアやぬいぐるみなどではなく、学習机の上に置かれたパソコンに釘付けだった。
 これは……。
「iMacだ
 僕は思わず叫んだ。ボンダイブルーのスケルトンカラーが印象的なiMacは、Apple Computer社製の一体型コンピュータだ。二百三十三メガヘルツのPowerPC 750に、三十二メガバイトのメモリが搭載されている。Windows95が入っている四年ものの僕のートパソコンよりも何倍も速い。
 昨年の夏に発売されてからというもの各社パソコン雑誌の話題は当面iMac一色に染まっていた。むろん、たとえお年玉を二十年貯めたって僕には買えやしない。父さんも新しいパソコンは買ってくれないだろう。そんな高嶺の花が目の前に、さも当たり前のように部屋に溶け込んで鎮座しているのだから、驚きを通り越して唖然とした。
「あ、やっぱ分かるんだ。出てすぐに買ってもらったの」
 僕は驚嘆の眼差しで彼女を見た。
「君ん家って、もしかして金持ち?」
「まあね」
 そのあと彼女は僕を水色のベッドの上に座らせて一旦部屋から出ていき、薬箱を携えて戻ってきた。ここへ来る間に出血は止まっていたが、アルコールのついた脱脂綿を傷口にあてがわれるとやはり激しく染みた。治療が済むと、今度は学習机の椅子を引いて座るように示した。僕がおずおずと広い学習机の前に腰掛けると彼女は背後から手を伸ばしてiMacの電源を入れた。
 明るい高精細のディスプレイがMacOS8のデスクトップ画面を映し出した。彼女は手を伸ばした状態でマウスを操作して、ネットスケープナビゲーターを起動した。そして、ブックマークからCGIチャットを開いた。優れたマシンパワーゆえか僕のートパソコンとは比べものにならないスピードでウェブページが描画された。
「実は、ずっと見てたんだ」
 ぽつりと彼女が言った。
「こーんなに書いちゃって、更新ボタンを押すのが面倒だったんだから」
「ごめん」
 僕は謝った。この謝罪には色々な意味がある。彼女は返事をしなかった。ひどく長い沈黙が続いたので、振り返って顔を見そうになったところ――急に彼女は僕を抱きしめてきた。
 一瞬、ついに捕食されるのかと思った。濡れた髪の毛が僕の両頬を撫でる。嗅ぎ慣れないシャンプーかボディーソープの香りが鼻腔をくすぐった。浴室のシャンプーとボディーソープを使ったのだから、自分自身と同じ匂いがするはずなのになぜだかそのようには思えなかった。
 そういったあらゆる感覚を通り過ぎた最後に、僕の耳は捉えた。彼女の微かな、とても弱々しい心臓の鼓動が、背中に振動を伝えてあの時の形容しがたい感情を蘇らせた。
「あたし、心臓が弱いんだって」
 梨花ちゃんが話しはじめた。語り口調は落ち着いていても弱々しさはなかった。
「お昼までは元気だけど、日が傾く頃には疲れて歩くだけで精一杯になる。体力づくりに空手とかも習ってみたけどダメで……誰にも知られたくないから、ずっと一人で遊んでた」
 彼女は言葉を切って、息を吸い込んだ。
「そうしていたら、パパがパソコンを買ってくれた。インターネットにいると、夜中でも家の中にいても世界中と繋がっていられる気がした」
「僕も、そう思う」
「……でもパソコンの電源を落とすと、消えたディスプレイに一人ぼっちのあたしが浮かんで見えた。自分だけじゃ街の方にも行きづらくて、ほっつき歩いていると山であんたがいじめられてた。ちょうどムカついていたからあいつらをぶっ飛ばしてやった。その後に……あんたが電話ボックスでインターネットをやっているのを見たんだ」
 ばらばらの点が線で繋がっていくようだった。
「あたし、夏休みに入ったら東京に引っ越すんだ」
 唐突に彼女が言った。僕は「えっ」と口から息みたいな声を漏らした。テレビでしか見たことのない東京、日本のすべてが集まっているとまことしやかに喧伝されているメガロポリス東京。梨花ちゃんはあそこに行くという。夏休みまであと二週間もない。
「東京の病院じゃないと手術できないんだって。治すのに何年もかかる。学校だって行けるかどうか……インターネットをしている子なんて病院で見つかるとは思えない。あたしには時間がなくて、その、だから」
「僕をいじめた?」
 僕は後を引き取った。彼女はなにも言わなかったが、うなずいたのが気配で分かった。
「合同授業が体育ならカッコつけられたのにな。あの時は二時間目だったから」
 僕がなにか言う前に彼女はまたマウスを動かして、ネットスケープナビゲーターの横に別のアプリケーションを起動した。立ち上げられたそれは黒背景のウインドウで、様々な色で着色された大量のアルファベットや記号が並んでいた。
「ソースコードだ」
「あ、やっぱり分かる。当たり」
 彼女は小馬鹿にしたふうに笑って僕の頭をぽんぽんと叩いた。腹立たしいような、気恥ずかしいような、嬉しいような複雑な気分だった。最終的に、毛の先ほど負けん気が上回った。
「これ、CGIチャットのコードなんだ。せめて更新の自動化くらいやっておきたかったけど間に合いそうにない。全体じゃなくて部分的に再描画させたくて――」
「じゃあ、僕が代わりに作る」
「はあ?」
 梨花ちゃんが素っ頓狂な声をあげた。
「あんた、プログラミングは知らないでしょ」
「今から勉強するよ」
「そんな簡単じゃ……」
 彼女は否定しかけたが、途中で止めて言い直した。
「……でも、あたしが心臓を治すまでにはなんとかなるかもね」
「あーっ!」
 そこで僕は肝心の問題を思い出して絶叫した。
「僕のノートパソコン、壊れちゃったかも」
 座席から立ちあがると僕は部屋の床に置かれたリュックからノートパソコンを取り出した。固まった泥が筐体の至るところにこびりついている。ノートパソコンをこじあけると、内側にも入り込んでいた泥が床に落下した。
「わーっ、ここで開けるな!」
 梨花ちゃんが怒ったので僕はそれ以上の被害を拡大させないためにその場で硬直して、彼女が切って表面積を広げたゴミ袋を持ってくるまで待たなければならなかった。ノートパソコンを開け直すと残っていた泥がゴミ袋の上にぼたぼたと垂れ落ちた。電源を点けようとして、ボタンに手を伸ばしかけると彼女に制止された。
「待って、電源は点けない方がいいかも。きれいに掃除してからじゃないと」
「でも掃除って言ってもどこをどうやれば」
「精密ドライバならあるよ」
 僕はふと思い当たった。リュックを開き、防水用に詰めたパソコン雑誌の中から目当ての号のページをめくりあてた。コップの水をこぼしてパソコンを壊した人の失敗談と家財保険の紹介記事だ。このページに応急処置の方法が書いてあったのだ。
「まず、電源は絶対に入れず……本当だ。えーと、ノートパソコンの場合は底面の四隅にネジが……」
 僕たちはパソコン雑誌の図解に則ってノートパソコンのクリーニングを進めた。エタノールに漬けた綿棒で泥が入り込んだ基盤の隙間という隙間を清掃して、ヘアドライヤーで筐体の隅々まで乾かした。ノートパソコンが元の輝きを取り戻した頃には、二人とも変な姿勢を長時間維持した弊害で腰や背中が痛くなった。部屋の大きな窓の外ではとっくに日が沈みきっていた。
「これでダメだったらしょうがないよ」
 僕は梨花ちゃんに言った。
「でも、一応渡しておく」
 彼女は自分のートを袈裟切りで一枚破って、学習机のペン立てから抜き取ったボールペンで文字を書いた。手渡された紙片を読むと、またURLだった。前回と異なるのはその下に「ID」や「PASSWORD」と書かれた欄が増えているところだ。
「それ、レンタルサーバの管理用URLとログインパスワード。そこに全部置かれてる」
 洗濯乾燥機によって元通りに乾かされた服に着替えて、いよいよ玄関まで見送られる段になると彼女は念押しした。
「あたし、治ったら絶対にアクセスするから。ちゃんと作っておいてよ、じゃないと」
 僕は梨花ちゃんの顔を見て、目を合わせた。肩までかかるロングの髪型にやや釣りあがった目元が際立つ、この勝ち気な女の子が重病を抱えているというのはどうしても信じがたかった。一文字に結ばれた唇は頑なに閉じられていて、今は僕の返事を待っている。
「君よりうまく作ってみせるよ。殺されたくないからね」
 そう言い残して、玄関から外に出た。後はもう振り返らなかった。空が晴れて、月明かりに照らされた夜の田んぼの道はとても美しかった。


 なにから話すべきだろうか。
 ああ、あのノートパソコンはちゃんと動いたよ。二人して頑張った甲斐あって律儀に働いてくれた。まあ、バッテリー稼働時間は短くなっていったし、ヒンジも割れかけたし、最後の方なんかは勝手にシャットダウンするようになってたけどさ。そのせいで上書き保存のショートカットキーを小刻みに連打するくせが今も抜けていないんだ。
 Perlはぼちぼち覚えたよ。HTMLもCSSも勉強した。でも、教本の値段があんなに高いとは思わなかったな。小遣いで買おうとして街の本屋で値札を見たらひっくり返りそうになったよ。結局、誕生日に買ってもらった。それにしてもなんであの教本ってどれも表紙の絵が動物なんだろうね。
 いや、いきなりこういうパソコンとかの話ばかりするのもあれだから、身の周りの話にしよう。
 バイソン覚えてる? 彼はあの日以来なにもしてこなくなったよ。おかげさまで平穏無事な暮らしを満喫できた。あ、でも一回だけあったな。街の中学校に入学して間もない頃、バイソンのやつときたらすでに大勢の手下を従えて廊下を練り歩いていたんだ。一学年に八クラスもあるマンモス校だから、そのぶん手下の頭数も増えるんだろうね。彼と長い付き合いの取り巻き二人はさしずめ幹部ってところかな。
 そのバイソンが、廊下の壁にへばりついて縮こまっている僕を指差して大声で言ったんだ。「あのチビには気をつけろ、これはあいつに刺されたんだ」って。学ランの襟をめくって首筋の傷跡を見せびらかしてね。ほら、あの時に木の棒でやっちゃったやつ。手下連中は冗談と思って笑ったんだけど”幹部”の二人が「嘘じゃねえよ、お前らバイソンなめてんのか?」ってすごんでね、それでマジだという話になったらしい。今思うと、不良まみれの学校で誰にも絡まれずに済んだのは彼らのおかげかもしれないね。
 なんか武勇伝を語っているみたいで嫌だな。じゃあ、千佳ちゃんの話をするのはどうだろう。
 あれはお互い苦い思い出だったね。でも千佳ちゃんだって交換日記用のノートを破られたのは事実なわけだし、やり方はともかくとしても仕返ししたい気持ちは否定できないんじゃないかな。実は僕も千佳ちゃんに失礼なことをしちゃって、だから後日に交換日記の再開を申し出たんだけど「今は一組の淳くんとしているの」って断られちゃったよ。だけど、もじもじしている時よりもさっぱりしていて好きになれそうな感じだったな。
 いや、この話はよくないな。プリクラの話にするか。
 あの後にプリクラ帳っていうのを作ってみたんだ。でも、君と撮ったやつしか貼っていない。ゲーセンのプリクラが二台に増えて、三台に増えて、今じゃ専用コーナーと化しているほど盛況なのに、なんだかんだで誰とも撮る機会がなかったんだ。言葉には表しづらいけど……なんか違う気がして。
 だから、もし君がよければ次に会った時に一緒に撮らないか。UFOキャッチャーのぬいぐるみはたぶんもう一発では取れないから勘弁してほしい。
 うーん、この話題は悪くなさそうだけど後に回した方が格好がつきそうだ。最初にするなら電話ボックスの話がいいかもしれない。
 グレーの公衆電話ボックスはさすがに卒業したよ。家にインターネット回線を引いてもらえたし、止まっていた宅地造成の計画が動きだしたんだ。今は人や重機でごった返しているから、昔みたいに独り占めしてちゃ怒られる。なんでも父さんが勤めている町役場にもとうとうデジタル化の波が来たみたいで、これからはITの時代だという認識にようやくなったらしい。こんな田舎町にも毎秒一.五メガビットのADSL回線が通っているぐらいだからね。
 そういう事情だから、新しいパソコンを買ってくれっていう打診も条件付きで通った。「県立一高に受かったらな」って。県内一の難関校だけど、バイソンともう一度戦えと言われるよりは千倍楽勝だと思ったね。
 新しいパソコンはiMacにしたよ。クロック周波数が一ギガヘルツもあるから、申し訳ないが君の持っている旧モデルより断然速い。このチャットの改良も捗った。君に言われた部分描画の自動更新は割とすぐにできたけど、どうにも特定の時間単位ごとに再読み込みさせる方法しか実装できなくてね。相手の発言に応じてリアルタイムで読み込むようにしたかったんだ。それで、Flashで作り直してみた。我ながらうまくいっているんじゃないかと思う。
 いつの間にか「パソコンとかの話」に戻っていた。落ち着け、あれから四年も経っているんだぞ。彼女が今もこういう話に興味を持っているとは限らない。そもそもこんな話し方でいいのか。馴れ馴れしすぎじゃないのか。
 僕は回想していると時間感覚がおかしくなる。いつ来てもいいように準備していたけれど、いざこの文字列を見ると懐かしさがこみあげて色々と思い出してしまった。総合室での出来事だって、こうして振り返るとはっきり覚えている。
 せめて相手の方から話してくれれば僕もそれに合わせられるのに、一向に発言してくれないものだから回想の止め時が見つからなかった。ひょっとすると彼女も同じで、僕のように昔を思い出しているのかもしれない。
 ちらりとメニューバーに目をやると、時刻表示は日曜日の午後一時をゆうに十分も過ぎていた。
 僕は真新しいチャット画面の一番上に浮かぶ、あの週末の続きのような文字列を見つめ続けた。

『梨花 さんが入室しました』