5.9 KiB
title | date | draft | tags | |
---|---|---|---|---|
束になって浮かれる | 2024-04-29T19:45:21+09:00 | false |
|
思いのほかとんとん拍子に物事が進み、来月から新しい職場で働くことになった。そう、この男、こっそり転職活動をしていたのである。転職先はGoで書かれた非対称鍵暗号基盤を自社製品に持つ受託企業だ。もちろん将来的にGo案件に関わる機会を念頭に置いての話でもあるが、選考の過程でCTOの方と技術選定に纏わる問題意識が一致していたところが大きい。
インフラ寄りのSEからPGに鞍替えする形なので年収はさほど上がらなかったものの、福利厚生は申し分なく晴れてリモートワークの権利も獲得できた。そんなわけでゴールデンウィークを前にあらゆる問題が完全に解決する見通しとなった僕は、浮かれに浮かれきった気分で休暇を迎えた。
日曜日。関東圏では微妙に天気の優れない日が続くGW前半にあって、この日だけは快晴が確約されていた。折しもお気に入りのサンダルの底が剥がれてしまったのを口実に、さっそく東京へと出向く。このサンダルブランドの旗艦店は原宿に建てられているからだ。
ただでさえ人混みの多い街の、よりによって混みに混む日曜日、加えて大型連休まっただ中のこの日、いつもだったらどんな理由があろうとも決して行く気にはならなかっただろう。しかし、今の僕は浮かれている。浮かれている人間は通常とらない選択をとるものだ。ゆえに僕は原宿に行かなければならない。
こうして、まだ4月だというのに30度近い熱気の下、原宿までやってきた。現実が比喩を超越する文字通りすし詰め状態の電車から排出されてみれば、どこを見渡しても人、人、人……。東京の一つの街の、たった一つの通りにこれほどの人間がひしめいている。ありとあらゆる店が人間の肉体によって占められている……。店という店の軒先から伸びる長蛇の列は、もはやどれがどこの頭に繋がっているのかも定かではない。
だが、そんな道理の分からぬ呻吟の渦中でも人々の顔は涼しい。僕も普段の半分にも満たない歩調で悠長に街を歩く。なぜなら、誰も彼も僕も浮かれているからだ。街全体に弛緩した雰囲気が伝播して、あたかも一つの束となって浮かれ倒している。
幸いにもサンダル屋は割と空いていた。買うべき商品にはすでに当たりをつけておいたので、試着を申し出てサイズを確認する。僕の最適なサイズは26.5cmだが、サンダルの場合はハーフサイズ大きめくらいがちょうどよかった。あっけなく用事が済んだので特に意味もなく徒歩で渋谷に向かう。
スクランブル交差点の圧倒的な人だかりの前にはさしもの原宿も霞んで見える。全国各地、いや、世界各国からこの地に吸い寄せられた人々が今日この瞬間、互いに面識を交わすこともなくただ行き交う。信号機が緑を示すたびに数百人もの人間が一斉に交差する。いつもはスーツを着たサラリーマンたちが規律正しく往来する空間も、今日はだいぶ浮かれ濃度が濃い。
ただ愚直に消費を敢行する生物として、我々はひたすら空間という空間を占める。東京において空間を占める料金はタダではない。まともに座ろうとすると直ちに対価が発生する。300円や500円で居座れる空間が即座に人間で敷き詰められるのは常のこと、今日に限っては1000円近くもする純喫茶さえも人々に占められ尽くされていた。
次から次へと空間を収奪せんと空席を虎視眈々と狙う旅客を前にしては、ゆっくりコーヒーを啜りつつ読書というわけにもいかない。空間の独占はこの地では重罪だ。ゆえに移動し続けなければならない。原宿、渋谷ときて、次は東京駅、神田、秋葉原へと歩みを進めた。秋葉原では歩行者天国が盛況を極めていた。
次に買うラップトップとして、ThinkPadの他にLG gramが気になっていたのでこの機会に物色しておく。あまり知名度がないモデルなのか大きい店に行かないと実機が置いていない。触った感じ、なかなか良さそうだった。Linuxとの相性が悪くなければ次はこっちに買い替えてみるのも手かもしれない。新しい職場ではIntelliJ IDEAが必須の可能性大のため、タブレットの案はたち消えた。
じきに日が落ち、辺りに夕闇が広がりはじめた。アメ横で買ったクレープを食べながら帰途につく。別に名店と言うほどではなくむしろチェーン店だが、大抵の店の中ではマリオンクレープが一番美味しいと思う。なにげに生地がしっかりしている。
ちなみに、本店は原宿の竹下通りにある。今日あそこで買うとしたらディズニーランドの人気アトラクション並みに並ばなければならないだろう。ファストパスがないぶん余計に大変かもしれない。僕に言わせれば、アメ横で食べても味は原宿だ。
オチが薄いのは気のせいではない。浮かれている人間は自分が提供される側だと思い込んでいるので、他の人間に娯楽を差し出す気がさらさらないのである。