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ルイーズ・ブルジョワ展に行ってきた | 2025-01-21T21:09:50+09:00 | false |
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先週末、ちょっとした思いつきから「ルイーズ・ブルジョワ展」に行ってきた。かなり刺激的な内容ながら人気を博しているらしく、前提知識を備えていなくてもそれなりに楽しめるのではないかと期待した次第だ。結論から言うと、この目論見は大いに当たった。
本展のテーマは良くも悪くも非常に明快で分かりやすかった。各所でアイコン的に押し出されている展示物が蜘蛛の大型彫像なのは知名度を重視しての判断と思われるが、母性の持つ二面性を暴き出すという真意を伝えるにはかえって抽象的すぎたきらいも否めない。デート向きのおしゃれな美術展だと早合点して行ったカップルなどは少々気まずい思いをしただろう。
美術展内ではルイーズ・ブルジョワ本人の人生を辿る形式で、幼少期のオーガニックな情動を映し出したものから成人女性の葛藤を含んだものへと変化していく。制作年順ではなく作者当人の加齢や、それに伴う意識の変化を展示に反映させる手法には共感を誘うところがあり、素直に感心を覚えた。
たとえば曲がり角を進んで最初の広間では、母親の胴体を抱きしめる子どもの彫像が中央に展示されていた。身体の稜線が巧みに造形されている胴体部分は確かに幼子を抱く若い母親の姿を想像させるものの、しかし頭部も下半身も備わっていない。欠け落ちた身体の様々なパーツは、それぞれが胴体部分を取り囲むようにして個別に展示されている。
その中でとりわけ興味を惹いたのは、豊かに膨れる臀部を表した作品だ。他の作品には概ね身体の部位と対応する名称が振られているのに、これは『無題』とされている。僕の理解では中央の胴体部分が純粋な母性を代表しており、それと対立する母の性的な部分を切除して脇に追いやる形で幼児特有の独占欲を表現したのだと見ている。
親にすがるしかない幼子にとって母の女性性は時に脅威に映る。なぜなら旺盛な女性性は父または外の男による母の収奪を招き、結果として子が増えれば増えるほど自分ひとりに割り当てられる愛情が減少すると考えられるためだ。むろん、母の立場からすれば大層心外な話なれども、幼子の情緒が常に深刻な飢餓状態にあることを我々はみんな忘れて育っている。
そこからしばらく先に進むと、乳房が大量に植えられた彫刻が現れる。これまでのテーマから察するに、この作品も母性のなにかを表しているのだろうとあたりを付けつつ背面に回ると、彫刻の裏には大振りの鋭いナイフが格納されていた。母性の中に潜む暴力性が文字通り明確に描き出されている。
また、その彫刻が置かれた部屋には『授乳』と題された絵画が壁面を覆い尽くすようにして飾られていた。授乳とは母が子に与えるもっともプリミティヴな愛情とされる一方、子にとっては否が応もなく強制的に押し付けられるものであり、かつ、それなくしては生きられないという点では最大の権威的存在とも言える。
これらの作品群には子を産んだ母としてのルイーズ・ブルジョワ本人の内省、ないしは批評的な側面が強く表れている。母の愛情に飢えていた自分自身が母となった時、慈しむ母性と並走する権威たりうる母性、外敵を滅ぼし子を守る暴力的な母性の存在を認識するに至ったのだと思われる。
例の蜘蛛の彫像『ママン』も、同様の文脈を意識して作られている。脚を広げて構える巨大な蜘蛛の姿は見る角度や位置によって印象が大きく変わる。脚の部分に着目すると鋭利に尖った先端や輪郭が強調されていかにも恐ろしげだが、中央部分に着目すると子を産むための重要な器官を守るべく防御を固めているようにも見える。
このように冒頭で言及した通り、ルイーズ・ブルジョワの作品からは母性と対照的な要素を暴き出しつつも、なんらかの受容を試みる意図がうかがえる。他方、後半のブースではより性的なモチーフに移行した作品群を見ることができる。ある時期に内省から外向的な属性に批評の対象が移り変わったのかもしれない。
僕がもっとも感心したのは宙吊りにされた醜い男性器の彫像だ。なにげに親切な展示がなされており、ゆっくりと回転しているおかげでどの位置に立っていても造形の細部を把握するのに困らない。この誇張された陰茎が男性の権力性を象徴しているのは明らかだが、片や本作の題名は意外にも 『少女(可憐)』 なのである。
ルイーズ・ブルジョワは子どもの頃、支配的に振る舞う父親に抑圧されながら育ってきた。しかし、その一方で父は堅実な実業家でもあり家庭は裕福で衣食住には不自由していなかった。子に対する愛情が欠けていたわけではないどころか、むしろ彼女をソロボンヌ大学の数学科やパリ国立高等美術学校に進学させるなど惜しみない教育や支援を施している。それでも家に堂々と愛人を連れ込み、母をないがしろにして横柄に振る舞う父の姿に彼女は憎しみを抱いていたようだ。
後年、彼女はフェミニズム運動に参画してそれに関連する作品群『ファム・メゾン(女・家)』を手がけている。多くの女性にとって家とは自らを守ってくれる強固な鎧であると同時に、自らをその地に縛りつける錘でもあるとの主張は、憎しみつつも容易に離れがたい当時の家制度を見事に浮き彫りにしている。
ところが、そんなルイーズ・ブルジョワも三人の男児を産み、育てるにあたって男性器には(つまり、男性性にも)ある種の繊細さが備わっている一面に気づき、これを守り通すことも母親の使命なのだと認識したのだった。ゆえに醜い陰茎の題名には繊細さを表す「少女」の名が与えられているのだ。つまりここに、男性性の権力と戦うフェミニストとしての彼女と、男性性の繊細さを守らなければならない母親としての彼女の葛藤が見て取れる。
夫婦関係や恋人関係を描いた作品も多い。たとえば下の巨大な彫像は『カップル』、その下の絵画の方は『家族』と題されている。両親の性行為を見てしまった幼少期の体験に基づくと言う。どんなに密接に繋がろうとしても、自ら突き出しているものに阻まれて決して真に抱き合うことはできない。他にもルイーズ・ブルジョワ本人が出演しているビデオ映像が放映されていて、作品を作った当人の人となりを知る上で大いに役立った。
晩年には、一転しておとなしい雰囲気の作品が増えてくる。長年の精神分析と治療を経て、深刻なうつ症状を乗り越えた後に作られた『青空の修復』を初めとする青を基調とした作品群は、激情に揺さぶられた内面世界の幕引きにふさわしい穏やかな祈りに満ち足りている。
以上、2200円の観覧料は軽い気持ちで行くには安いとは言えないが、かくも充実した展示物の数々を踏まえれば十分割に合う内容だと感じた。気づいたら三時間近くも丹念にうろついてしまっていた。通常、畑違いの催し物にはどこか背伸びしている感覚が付きまとうものだが、本展はテーマが明瞭だったおかげもあって等身大の洞察が得られた。
惜しむらくは本展が先週末で終了してしまっており、今さら他の人に教えても実物を観に行ってもらえないところだ。昨年の秋には開幕していたのだからもっと早く行っておけばせめて友人、知人くらいは誘い込めたのではないかとかなり真剣に後悔している。