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たとえ光が見えなくても短 | 2024-03-01T20:23:06+09:00 | true |
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今でも思い出に残っているのは、指先に残るわら半紙の感触。言われるままにピンと立てた人差し指を滑らせると、横にいるお父さんが耳元に語りかけてくれる。「そうら、そこがゲオルゲン通りだ。そこを右に曲がると――」私は言葉を遮って大声で答えた。
「レオポルト通りね! おしゃれなお店がいっぱいあるの」
「そうだ、いつかお前もそこで立派なドレスを買ってもらえるようになる」
耳の奥底からあまりにも聞き慣れすぎた高周波音が徐々に近づいているが、まだ私は喋っている。
「でも、私が着たってしょうがないわ。どうせ分からないもの」
「そんなことはないよ。上物は着るだけで分かるんだ」
記憶の中の私はいっそう声を張り上げる。
「じゃあ、今、欲しい」
「今は……難しいかな。そういうお店はどこも閉まっている」
「どうして?」
「……みんな、他のことで忙しいんだ。さあ、指がお留守だぞ」
私の指先がぐんぐんと先に進み、ルートヴィヒ通りを過ぎる頃には高周波音は耳を覆い尽くさんばかりにわめいていた。
「ずっとだ、そう、ずっと、さあ、広場に着いたぞ。どこだか分かるかな?」
思わず、私は騒音に負けないように大声で叫んだ。
「マリエン広場! 私と同じ名前の――」
<ねえ、マリエン、どうしたの>
「あっ……ごめんなさい、ちょっと、夢を見ていたみたい」
<こんなひどい状況で居眠りなんて、よほど自信があると見ていいのかしら>
リザちゃんのつっけんどんな声が束の間、私の頭蓋を満たす。
「そういうわけじゃあ――」
<敵、もう、来るわ。また命があったら会いましょう。通信終了>
ブツ、と両耳に覆いかぶさったカチューシャみたいなインカムがノイズを発して、それきり音が途絶えた。途端に、意識の外に追いやられていた高周波音が舞い戻り、左右に散らばった。漆黒の視界の中に仮初の点描がぽつぽつと描かれはじめる。見たところ、一〇〇機以上はいる。
相手はまだ私には気づいていない。気づくはずもない。
空中にぽつんと単機で佇む魔法能力行使者の姿は目視ではもちろんレーダーでも捉えられない。
私はいつもの調子で右腕から手の先に流れる閃光のイメージを思い描いた。すると、見ることができなくても迸る光の奔流が肩口から腕を伝い、手のひらに集まる様子が感じとれた。うわんうわんと唸りをあげて急接近する群体に手のひらを向けて、孤を描くように光線を放出した。
決して掛け声を忘れてはならない。言うか言わないかで威力が倍は違う。
「びーっ!」
きっと、壮大な景色なのだろう。さっきまでの高周波音がたちまち爆発音に取って代わって私の耳元を彩った。味気のない視界の中に、めくるめく幻想世界を想像した。
今ので半分くらいは撃ち落とせたと思う。私は空気を柔らかく蹴飛ばしてふわりと上昇した。気流が身体の上から下に通り過ぎてスースーする間隔が、実はけっこう気に入っている。
十分な距離を得た後、今度は鋭角に蹴り出して勢いよく前へと滑空する。ついでに脚に取り付けた革製のホルスターからステッキを取り出しておく。ステッキは指先よりも太く、手のひらよりは細い。だからより指向性を持って魔法を撃ち出すことができる。
崩壊していく群体の悲痛な音が散乱する一方、まだいくつもの機体が合間をすり抜けていこうとしている音が耳に入った。とりあえず、左に一機、右に二機、まず右に向かってステッキを振る。直後、手からステッキを通って現れた魔法が鞭のようにしなって動き、遠ざかろうとする戦闘機を捉えたのが伝わった。きっと戦闘機は真っ二つに割れただろう。忘れずもう一機も処理していく。
続いて、左側に取り掛かろうとしたところ、バリバリバリと機銃の音とともにビリビリとオーバースカートの生地が破れる音がした。金属の塊が身体を通り抜けて、魔法の源泉がずるずると抜けていく感覚がした。
瞬間、とてつもない怒りに私は突き動かされた。
許せない! 下ろしたてのドレスだったのに!
空を蹴って身体の向きを変えても、戦闘機のプロペラ音が衰える気配はなかった。あてずっぽうの射撃ではない。確実に私を狙っている。ついに敵方は魔法能力行使者を視認したのだ。
だが、それほどまでに近づいてくれるのならかえってやりやすい。プロペラが回る高周波音と、機銃の残響と、機体が身体のすぐそばを横切って空気を切り刻む感触が、一つの像を結んで漆黒の視界の中に淡く戦闘機を描き出した。
「そこにいるのね」
私は像の上めがけて飛んだ。ロングブーツの底が、確かな金属質を捉える。今、自分は戦闘機の上に立っている。
前方で人の声がした。英語なので、私には意味が分からない。拳銃らしき銃声もする。たぶん私を撃っているのだろう。今の私の身体はきっと穴だらけだ。
幸いにも銃撃音の角度から操縦手の正確な位置が把握できたので、私はお返しにステッキを握っていない方の手で拳銃を模った。 「ぱん、ぱん」
がくん、と金属の地面が大きく傾ぎ、前のめりに倒れ込んでいく。
だが、すでに何十もの機体を落としてるのに、高周波音はどんどんうるさくなる一方だった。うわんうわんと唸る機械の鳴き声が第二陣、第三陣の襲来を容赦なく告げる。
私は再び手のひらに光の力を収束させた。あたかも騒音を打ち払うように死を招く円弧を作り出す。
ところが、次の魔法はてんで群体に効果をもたらさなかった。せいぜい五、六程度の不運な機体が魔法の切れ端にぶつかって落ちた程度で、未だ優勢を誇る風切り音が爆発音を切り裂いて私を追い抜いていった。
視界の中で高速に現れては消える軌跡を追って、懸命にステッキを振りかざす。手応えのなさが私をますます焦られる。
このままではまた街が空爆される。もう何度も住む家を変えたか分からないのに。
「お願い、お願い」
一体、誰に祈っているのか――必死に軌跡の後に追いすがってステッキを振り続ける。時々聞こえる少々の爆発音にも、数多のプロペラ音は揺らぐことなく彼方へと消えていく。
「お願いだから、落ちて」
そんな文字通りの神頼みの声を拾ったのは、リザちゃんだった。
<どいて>
私はばたばたとはためくスカートを抑えつけながら、ほぼ垂直に降下した。全身が絞られるような圧力に耐えた数秒後、空のどこかでぴたりと静止する。
直後、頭上で今日一番の大花火が花開いた。形は見えなくても音の大きさがすべてを物語っていた。
「うわあ、リザちゃん、すごい」
惜しみのない賛辞に、リザちゃんは鼻息一つで答えた。
<ふん、まだ油断するには――>
ぶつ、と通信が途絶えた。無愛想に通信を切るのは彼女の癖だが、いくらなんでも会話の途中に切ったりはしない。
漆黒の視界の中で私は急速に答えにたどり着く。
今度は急上昇に圧力に耐えなければならなかった。あまりにも高速に舞い上がったので、両耳を覆うインカムが外れてしまった。背負っている重くて大きな無線機に跳ね返ってガツン、ガツンと暴れた後、線がちぎれてどこかへと吹き飛んでいった。
「リザちゃん!」
虚空に向かって叫ぶ。どこに顔を向けても私の目は決して光を映さない。
しかし、
神に齎された魔法の力だけが、私に見えないはずのものを見せてくれる。
漆黒に沈む奥底に、か細い線が見えた。その線はじぐざぐにうねって揺れ動き、私の方へと向かって伸びている。空を飛びながら目で追うと、それは私の背中の無線機と繋がっていた。
この先に、リザちゃんがいるんだ。
激しく揺れ動くじぐざぐの線を追いかけて、急旋回、急降下。たどり着いた先はほとんど街の真ん中だった。しきりに爆発音と、炎が燃え盛る音、人々の絶叫がこだまする中で、線の根本を捉えた。
爆撃で暖まった空気による上昇気流がスカートの裾を激しくたなびかせる。ぐるぐると旋回する線の根本は、明らかに彼女が何者かに追われている状況を推測させた。どういうわけか彼女は一向に魔法を撃とうとはしていない。
私は接近しながらステッキを振りかざすも――輪郭を捉えきっていない敵にはまず当たらない事実を悟り、やり方を変えることにした。元より、残された魔法能力はもはや心もとない。
限られた力を足元の推進力に替えて、一気に距離を詰めた。蚊のようにうるさい高周波音が視界に像を描く。まだだ、まだ足りない。もっと正確に見なくちゃ。
戦闘機は私にお尻を向けているようだった。ステッキに込められた魔法がその先端に光の刃を灯す。まるでサブマリン・サンドイッチを作る時みたいにして、私はその魔法の剣を戦闘機の胴体に深く突き刺してから真横に両断した。
「リザちゃん!」
崩れ落ちていく戦闘機の輪郭を追うのも程々に、唯一の同僚の名前を繰り返し叫んだ。焼ける街の熱が発する生暖かい風を受けながら、性懲りもなく叫んでいると、下の方でかすかに声が返ってきた。
「ここよ、私は、ここ」
さっそく私は姿勢を変えて降下する。見たところ、どこかの聖堂の屋根に彼女は落ちていたらしい。着地して声のする方に駆け寄って顔に触れると、すぐにリザちゃんだと分かった。
「ああ、良かった、無事で」
「しくじったわ、私たち」
街が燃えていた。人々が叫んでいた。悲鳴と怨嗟の声の中にかつての民族の誇りはついぞ見られず、ただ手負いの獣の嘶きと去勢があるばかりだった。
「とにかく、基地に帰らないと」
「そうね、申し訳ないけど――」
声の調子から薄々分かっていた。触れていた頬から首、首から肩口に撫でていくと、その先がなかった。
「ちなみに、脚もどっかいっちゃった」
「おんぶしていくよ」
私は背中の無線機をぞんざいに捨てると、代わりに彼女を背負った。残っている方の腕のオーク材からはよく燻られたウインナー・ソーセージみたいな匂いがした。無線連絡は、彼女のインカムを使ってせざるをえない。
「帝国航空艦隊、マリエン・クラッセ、リザ・エルマンノ両名。ただいま帰投します」
程なくして、管制官から返事があった。
<帰投を認める。再び我々に勝利をもたらす日を願って。ハイル・ヒトラー>
<ハイル・ヒトラー>
一九四六年三月四日、愛するお父さんへ。ミュンヘンは相変わらずひどい状態です。私の身体は穴だらけ、同僚の子もまた手足がもげました。けれど、へっちゃらです。だってどうせすぐに直るし、彼女の手足は木でできていますから。
”一九四六年三月十日、愛するお父さんへ。昨月の今頃はまだ暖かったのに、このところめっきり冷え込んできました。ブリュッセルのお空模様はいかがでしょうか。本当はすぐにでも空を蹴って会いにいきたいのだけれど、あいにく私は上官の許可なくしては男の人の背丈より高く飛ぶことも許されていません。でも、管制官が仰るには戦争で華々しい勝利をもたらせば、私たちはアーリア民族の英雄として認められて、ようやく自由に過ごせるのだそうです。
チーン、とタイプライタが鳴り、ハンマーが紙面の端に到達したことを知らせてくれる。一旦、タイピングを止めて手探りで本体のレバーを引っ張り、改行する。
”それにしても、まだ子どもの私が「上官」とか「管制官」とか言って、口にしてみたらずいぶんおかしい話に聞こえるでしょうね。今の私はなんでも帝国航空艦隊所属の中尉なんだそうです。私よりたっぷり三〇センチも大柄な兵隊さんたちが、前を歩くとさっと右、左に避けてくれるのが分かります。姿が見えなくても、足音でだいたいどんな背格好なのか分かりますから。”
チーン。また、音が鳴った。再びレバーを引いて改行する。
”いつか暇ができたら私たちの鉤十字がはためくブリュッセルの空を飛んで、お父さんに会いに行こうと思います。もう十年も会っていないのはいくらなんでもさみしいです。これは内緒の話ですが、私たちがこうして本土で堪えている間にも、他の選り優れた魔法能力行使者たちが海と陸とを飛んでいって、敵の親玉を倒してくれるというのです。そうすればイギリスもアメリカもソ連もみんなすぐに降伏して、私たちの言うことを聞いてくれるでしょう。もしそうなったら、私はお祝いに山ほどのチョコレートを買いたいです。約束された勝利の日まで、どうかお元気で。ハイル・ヒトラー>
「ううむ、もうタイプライタの扱いは私よりうまいな」
急に背後から声がしたものだから、私はひっくり返りそうになった。他ならぬ声の主が管制官ともなればなおさらだ。
「か、管制官、ですか!? あっ、失礼しました、ハイル――」
その場で直立しそうになった私の両肩を、彼はむんずと掴んで椅子に押し戻した。
「落ち着きなさい。いいよ、たまたま様子を見に来ただけだ。今回の家は燃えずに済んだようだね」
管制官の言う通り、今回の空襲では私たちの家は燃えなかった。もう三回も引っ越しを余儀なくされていたので助かった。
「この手紙が私が送り届けてあげよう。いや、しかしそれにしてもうまいな。戦争に勝利したらタイピストになるといい」
管制官は機械の留具から紙面をするりと取り出して、感心したふうにうなった。その声はどんなに柔らかい口調でもどこか硬い感触を与える。
「たいぴすと……?」
「人の代わりに文章を打ち込んであげる仕事だ。これなら家の中で働ける。給料もかなり良いと聞いている」
そうか、戦争に勝ったら戦う相手がいなくなるんだ。あまねく人々がアーリア民族の下に集まって、一人のフューラーの指揮によって正しい調律が作られていく。
「でも、そうしたら、私に授けられた魔法の力も使い道がなくなってしまいますね」
物心がつく前から収容所で暮らしていて、そこで私は国家のために役目を果たすのだと教えられた。毎日、色んな人たちがやってきては、それをまっとうするたびに私の前からいなくなった。みんな、私と同じように目が見えなかったり、耳が聴こえなかったり、身体の一部がなかったりした。
なにもかもが変わった運命の日の後、今までに会った人たちのすべての生命を背負っているのだと教えられた。そして、私は帝国航空艦隊所属の魔法能力行使者になった。
「ははは、ずいぶん先の話ではあるけどね。我々の敵は多い。ブリュッセルに飛んでいく暇なんかないほどに」
「いえ、それは、あの、ほんの冗談ですわ」
あわてて私が訂正すると彼はまた短く笑った。
「とはいえ、君に飛んでいかれたら困ってしまうな。ここは一つ取引といこうじゃないか。さあ、これはなんだろう?」
ぺたり、と頬にくっつけられた包装紙の感触だけでは、もちろんなにも分からなかっただろう。しかし、その包装紙はとても芳しく、高貴で、甘い匂いを放っていた。
これは、チョコレートだ。
「まあ、信じられない!」
途端に、私は軍人としての振る舞いを放り出して嬌声を上げた。両手でそのふっくらした包装紙をむんずと掴み取る。
同時に、ぎゅっ、と踵を床に強く押し付けた。気をつけないと天井まで浮き上がってしまいそうだったから。
「おいおい、紙まで食べないでくれよ」
「あっ、すいません、私ったら」
「いいとも、代わりに私のお願いを聞いてくれるかね」
受け取ったチョコレートの袋を机の脇に置いて、神妙そうに膝元に手を置く。顔を仰いでも管制官の顔は分からない。リザちゃんと違ってべたべた触っていい相手ではない。でも私は暗闇の中に、厳父と慈母と賢人のすべてを兼ね備えた理想像を描き出そうとした。
「他ならぬ私の上官ですから」
「そうか、そうだな……実は、東部戦線の状況が芳しくなくてね、兵力が足りていない。そこで、君とリザ中尉に応援に行ってもらいたいんだ」
東部戦線。今やソビエトの共産主義者たちがポーゼンを越えてベルリンに迫っているという。数万にものぼる鋼鉄の暴力と嵐の前に、我が軍は後退を余儀なくされている。
初期配置から約二年、失敗続きの私たちにもついに名誉挽回の機会が与えられたのだ。
「お力になれるのなら光栄ですわ。しかし、東部戦線には私などより優れた魔法能力行使者が配備されているでしょう」
「もちろんそうだ。だが、度重なる戦いでみんな疲れていてね、他から集めてくるしかないということになったんだ」
収容所で散々習った地図のざらざらした手触りを思い出す。ミュンヘンからポーランドは指でなぞると数秒で辿り着くが、実際にはとても時間がかかる。私たちの魔法能力では飛んでいくよりも、鉄道の方が早く着いてしまう。
「リザちゃ……リザ中尉には、もうお伝えしましたか?」
「ああ。予備の手足の調子も悪くないと言っていたよ」
それを聞いて、ちょっとほっとした。リザちゃんは一つ屋根の下で一緒に住んでいるのに、いつも私の前では見栄を張る。今日の朝も「空襲が来ても全部撃ち落とせる」といばっていた。
「じゃあ、任せたよ。私も一足先にベルリンの基地に向かう。君たちも身の回りの整理をつけたら来たまえ。口頭でしゃべってしまったが、これは一応その命令書だ」
管制官が私の手の甲に紙面を触れさせたので、おずおずと受け取る。とん、とん、と静かな音で遠ざかる足音がして、部屋の扉ががちゃりと開けられた。お帰りらしい。
もし、私に目が見えていたらお茶を淹れて差し上げて、茶菓子もすすめて、他にも色々と気の利くことができたのに、うっかり転ぶのが怖くて椅子からさえ立ち上がれない。
暗闇に包まれた視界の中でひとりでにしょんぼりしていると、遠くから静かな声で管制官が言った。
「いつの日かアーリア民族に勝利をもたらさんことを。ハイル・ヒトラー、マリエン大尉」
「あ、はっ、ハイル・ヒトラー――あれ、えっと、私は大尉では――」
がたがたと慌てて立ち上がり、案の定体勢を崩しかけながら困惑する私に管制官は苦笑いを投げかける。
「いいや、君は大尉だ。その命令書を受け取った時点でね。後でリザ大尉に読んでもらうといい」
なにか言う間もなくばたんとドアが閉じた。お腹の奥底から、じわじわと喜びがせり上がってくるのが分かった。
私たち、昇進したんだ。管制官にもフューラーにも認められたんだ。
とうとう私は我慢できなくなって床を蹴り、ふわりと宙に浮かんだ。手にはチョコレートでいっぱいの紙袋。
オーバースカートの生地がふわりとたなびいた。漆黒の世界でも思い描けば私は部屋に咲く一輪の花だった。
固い木材の天井に、おでこがこつんと当たった。
緩やかに空中で漂いながら、私は紙袋からチョコレートを取り出して包装紙を破った。ころころした形の幸せを口に含むと、舌の上にじわりと甘さが広がった。
<マリエン・クラッセおよびリザ・エルマンノ両名の第三等級魔法能力行使者に以下の辞令を告げる。本辞令を受領後、直ちに行動を開始されたし。>
■両名は現在の拠点を放棄し、速やかにベルリンの中央軍司令部に出頭すること。
■以降、両名は国防軍中央集団の下に再編され、東部戦線に配置される。
■これまでの功績を鑑み、本辞令の受領をもって両名を大尉に任命する。
リザちゃんが読み上げた辞令の中身は、確かに管制官がおっしゃっていた内容とほとんど変わりがなかった。彼女のベッドに並んで座って、お互いの名前を呼び合ってみた。
「リザ大尉」
「マリエン大尉」
「ふふ」
大尉といったら数百人からなる中隊を束ねるほどの役職だ。歩く速度も戦う道具も異なる魔法能力行使者に配下は付かないけれど、偉くなったことに違いはない。
隣に振り向くと、お人形さんのように華奢な輪郭が映った。
「でも、大変だわ。一番おっきい鞄でもこの家のもの全部は入らない」
「大切なものだけ持っていけばいいよ。戦場に花瓶なんて持っていっても役に立たないもの」
とはいうものの、目の見えない私と小物を拾うのが苦手なリザちゃんの引っ越し作業はだいぶ難航した。手に取ったものが分かるまで何秒もかかってしまう。しまいにはリザちゃんが「紅茶を淹れるわ」といって中座して、ラジオまでかけはじめたものだから完全に手が止まった。
四角くてのっぺりとした手触りの国民受信機からは柔らかな弦楽器の調べと入れ替わりに勇ましい軍歌が流れ、たまに録音演説や戦況報道も聞こえてきた。
「私、ラジオ好き。私に優しいから」
まだ半分も中身が詰まっていない旅行鞄を前に、半ば独り言のようにつぶやいた。前に映画館、という新しくできた施設に連れて行ってもらったことがある。なんでも垂れ幕に記録された人や景色の動きが映るのだという。レコードを絵にしたようなものだとも言っていた。しかし、私の暗闇の視界は「映画」に対してなんの反応もしなかった。
でもラジオの前では私も他の人たちと平等だ。音しか聞こえてこないから、他のことが分からなくたって構わない。
お砂糖の入った紅茶をたっぷり二杯も呑んだおかげか、その後の作業はそれなりに進んだ。途中、タイプライタを持っていくかどうかで散々揉めたが――戦場にタイプライターなんて!――だって、お父さんにお手紙を書くんだもん!――最終的には携行を認めてくれた。ずいぶん大荷物になってしまったが、全然へっちゃらだ。
替えのドレスもたくさん詰めた。私の目には映らなくてもお洋服って着ているだけで楽しい。
収容所では毎日同じ服を着せられていたから、あの運命の日にも「ご褒美をあげよう」と言われた時に「きれいなお洋服を着たい」と即答したのだった。以来、私の戦闘服はフリルの着いたオーバードレスということになった。
そして最後に取り出しやすい位置にチョコレートを入れた。こうして出来上がった大きな旅行鞄と、タイプライターが収まった鞄を持つといかにも旅行気分が高まってくる。
歩幅を揃えて部屋に戻った私は、ドアを開けて前に三歩、左に二歩動いて壁にかかっていたポシェットを手に取る。この中に私のお財布と身分証明証が入っている。すぐ下の杖も忘れずに持っていかなくちゃならない。地面は障害物でいっぱいだから。
右に二歩、後ろに三歩後ずさって扉を閉めた。せっかく部屋の間取りを覚えたのに、たぶんここには戻ってこられないだろう。この家も、前の家も、その前の家も、元は別の人の持ち主がいたらしい。その人たちはいまどこに住んでいるのかしら。
大荷物を抱えてリザちゃんと家から出た後、なんとなく私はそれのある方向に一礼した。
まだお日さまの熱を感じる時間なのに、外はずいぶん肌寒かった。じきに雪解けの季節なのに厚手の手袋も外套も相変わらず手放せない。せっかくのドレスが台無しだ。でも、杖の先っぽで石畳をこつ、こつと叩きながら道を歩いているうちに、だんだんと身体が暖まってきた。
この杖の先端はとても硬くできている。なので固い地面を叩くと甲高い音が鳴って、衝撃が指先に伝わる。すると、私の真っ暗な視界の中に白線の波がざざあ、と描かれていく。反響の具合であと何歩歩くと壁があるのか、どの辺りに他の人が立っているのかだいたい分かる。
今しがた、目の前に白線の壁の輪郭ができあがったので、私はそれをひょいとよけて道を曲がった。リザちゃんとおしゃべりをしながらでもこれくらいのことはできるようになった。
管制官は「まるでコウモリみたいだな」と仰っていた。聞いた話では、コウモリさんは目はほとんど見えないのだけれど、代わりに壁とおしゃべりをして居場所を教えてもらうんだそう。一体、どんなふうにお話をしているのかな。
でも、確かに私とそっくりだ。杖でこつこつと叩くと地面が壁やお店の場所を教えてくれる。きっと私はコウモリとして生まれるはずだったのに、間違えて人間に生まれてきてしまったんだ。
だとしたら、なんて運の良いことだろう。だって、人間じゃなかったらチョコレートは食べられない。
「ねえ、口からよだれが垂れているわよ」
「え、うそ」
慌ててハンカチで口元を拭おうとしたが、ポケットに向かう手を押し止められた。
「ごめん、うそ。なんか顔が緩んでたから」
そんなにだらしない顔をしていたのか。チョコレートの話はあまり考えないようにしなくちゃ。
あの後、お腹いっぱいになるまでチョコレートを頬張ったのに袋の中にはまだたくさん残っている。大切に食べないといけない。
「あら、火事じゃない?」
言われてみれば、もくもくとした煙くさい匂いが漂ってきていた。先の空襲から一週間近く経っているのに消火が済んでいないのはおかしい。杖をコツコツ、と強く叩くと、視界の中に雑然とした人々の姿が描かれた。街の人たちも火事が気になっているようだ。
おのずと、私たちの足取りも人波に合わせて炎の気配が強まる方向に進んだ。
どやどやと行き交う野次馬の騒ぐ声をかき分けて、たどり着いた先では音と熱だけでもはっきりと分かるほどの火柱が上がっていた。なにやら肉が焼ける匂いもする。それに、すっかり嗅ぎ慣れた血の匂いも。
熱を帯びる火柱の前で、何者かが声を張り上げていた。
「――もしやつらが我々の街を燃やすのなら! 我々もこいつらの家を燃やすだろう! もしやつらが、我々の身を焼き焦がすのなら! 我々もこいつらの身を焼き焦がすだろう!」
演説調の節をつけてがなりたてる男の人、左右に集まった人だかりが歓声を上げて応じる。
「またユダヤ人が見つかったのね」
淡々とリザちゃんが言った。どうやらユダヤ人の隠れ家が燃やされていたようだった。
管制官が言うには、ここミュンヘンにも、ドイツ国内の至るところにも、まだまだユダヤ人たちがたくさん隠れ潜んでいてイギリスやアメリカに情報を送っているという。劣勢に立たされた私たちの首元に刃をかける隙をうかがっているのだ。
とはいえ少なくとも、これでそのうちの一つの拠点は滅ぼされたと言える。私はほっ、と胸をなでおろした。
「これで空爆が来なくなるといいね」
「……そうね」
吹き上がる火柱の前に際限なく盛り上がる群衆の熱を後して、私たちはミュンヘン中央駅に向かった。
それにしてもユダヤ人ってどんな人たちなんだろう。直接触れたことがないからどういう顔をしているのか分からない。みんな悪魔みたいだって言うから、私も頭の中で一生懸命に「悪魔」の姿を思い描いてみる。
切符を買って、汽車に乗り込むまでひたすら考えてみたけれど、あまりうまくはいかなかった。
”一九四六年三月一四日。親愛なるお父さんへ。辞令でベルリンに移って三日が経ちました。まもなく東部戦線に行って参ります。ついこないだ中尉になったかと思えば、もう大尉になってしまいました。ベルリンに着任した管制官は、大佐だったのに今はもう准将です。相変わらず厳しい情勢ですが、頑張りが報われるのは嬉しいです。お父さんもきっと、ブリュッセルでイギリス軍やアメリカ軍を食い止めてくれているのでしょう。でも、くれぐれも銃弾には当たらないでくださいね。私と違って普通の人は治りが遅いですから。”
チーン。二段ベッドと小さな机と椅子しかない手狭な空間に、タイプライタの改行音が響く。
”今日は、同僚のリザちゃんのお話を書こうと思います。彼女は私より一つ歳上のお姉さんで、イタリア人です。威張りんぼなところがありますがとてもいい子です。私と同じ、役目を持って生まれた子どもでした。私の目が光を映さないように、彼女は自分の手足が一つもありません。せめて格好だけでも普通にさせようとして家具職人の父が敷地に生えている木で義足をこしらえたそうですが、あいにくどんなに力を込めても動かすことはできません。”
チーン。リザちゃんはまだ寝ている。二段ベッドの上の方ですやすやを寝息を立てている。私はむしろ下の方がよかったのだけれど、居室に着くなり彼女ときたら「私が上ね!」と宣言して梯子を昇っていったのだった。
”彼女は昔、近所の子たちにピノッキオと呼ばれていました。身体の一部が松の木でできているからです。お父さんに読み聞かせてもらったので、私もお話はよく覚えています。ですが、彼女はこのあだ名がとっても気に入りませんでした。それはピノッキオのことが嫌いだからではありません。ピノッキオは自由に身体を動かしていろんな冒険ができるのに、彼女は車椅子を引いてもらわないと自分の部屋からさえ出られなかったからです”
うーん、とリザちゃんがうなり声をあげて寝返りを打った。改行やタイプの音が耳に障るのかもしれない。でも、今日を逃したらしばらく書けないのだから我慢してもらうしかない。さすがに戦場のまっただ中にタイプライタは持っていけない。
”そんな彼女に転機が訪れたのは私と同じく、役目を果たすための収容所が外国にもできたおかげです。魔法能力を授かった彼女は、あたかも本物の手足が生えたかのように木でできた義肢を動かすことができます。魔法も、私よりうんと強く放てます。その代わりに、狙いを定めるのはちょっぴり下手です。”
キータイプの手を一旦止めて、神から祝福されたリザちゃんがどんな気持ちだったのか想像しようとした。けれど、湧き出てくるのは自分自身の記憶ばかりだった。
そこは「収容所」と呼ばれていた。ずっとそこに住んでいた私でも、あまり良い場所とは思えなかった。ご飯の量は小さい私にとっても明らかに物足りなく、新しく連れてこられた大人の人たちが大声を出して怒ると看守の人はもっと怒って彼らを散々にぶった。中でもひどくぶたれた人とは二度と会えなかった。その時、収容所で一番偉い人だった管制官は私に「彼はちょっと早めに役目を果たしたんだよ」と教えてくれた。
収容所からほとんど誰もいなくなった頃、ついに私の番が回ってきた。身体じゅうにぺたぺたとなにかを貼り付けられたかと思いきや、すごい痛みが走って、次に目が覚めた時には全身がべとべとしていた。どこもかしこも鉄臭い匂いが立ち込めていたので、私は血を流しているのだと分かった。
そんなに血が出ているのなら、きっと大怪我をしているに違いない。私はすぐに部屋を出て、大人の人に怪我を治してもらおうとした。でも、手探りで見つけたドアは押しても引いても開かなかった。
何回叫んでもどこからも返事はない。私はとうとう怒って、力任せにドアを両手で押した。
すると、ドアはすごい音をたてて壊れた。薄いブリキの板みたいに、ひどく折れ曲がっているようだった。もっと押し続けるとドアはぺしゃんこに潰れて、通り道ができた。
「動くな!」
道の先を歩いていると、突然、男の人たちがそう口々に叫ぶ声が聞こえた。かちゃかちゃと金属が鳴り響く音がとてもうるさかった。
「だあれ?」と聞くとまた「動くな!」と怒られた。不思議なことに、男の人が叫べば叫ぶほど、なにも映さないはずの私の真っ暗な視界の中に、白い線が波打って角ばったお人形のような像を作り出した。どうやら男の人たちはみんなお人形さんで、手にお揃いのなにかを持っているみたいだった。私はそれがなんなのか知りたかった。
「それ、なにを持っているの?」
前に歩いて手を差し出そうとすると、直後に、ぱん、と乾いた音がして、私は後ろに押し倒された。お腹の辺りがじんじんとしたので、手でまさぐると石ころのようなものが見つかった。
「えいっ」
投げつけられた石ころを投げ返すと、鋭い悲鳴が辺りにこだました。男の人がそういうふうに叫ぶのを初めて聞いたので、私はとてもびっくりした。どんどん石ころが投げつけられたので、私も躍起になって投げ返した。白い線でできたお人形さんがいなくなって、最後の一つがくしゃりと小さく丸まったので、遊びはもうおしまいかと思いきや管制官が部屋に入ってきた。
「楽しかったかい」彼に訊かれたので、当時の私は無邪気に「ううん、あんまり」と答えた。
「じゃあ、こうしてみよう」
管制官は私の小さな手を握って、人差し指を伸ばさせ、親指を突き立たせ、残りは丸めるように指南した。そしてされるがままに腕をまっすぐにすると、丸まったお人形さんに人差し指が向いた。お人形さんはすごい悲鳴を叫んで遠ざかっていった――管制官は構わず「さっき聞こえた音を真似してごらん」と言ったので、私は「ぱん」と言ってみた。
もう悲鳴は聞こえなかった。
血の匂いは、久しぶりにお風呂に浸かる許しを得てからもしばらくとれなかった。
私が魔法能力行使者として正式に階級章を授けられたのは、その日から始まった訓練を終えたさらに半年後の話になる。
リザちゃんも同じような訓練をしたのかな。
”ムッソリーニ首相が王様に叱られて以来、イタリアのほとんどの土地はずっと敵にとられたままになっています。イタリア人の彼女はたまたま難を逃れていましたが、ドイツ軍に「セッシュウ」されたので今はここで戦っています。なんでも「セッシュウ」されると、別の国の人でもその国のきまりに従わなければいけないのだそうです。難しいことは私にはよくわかりません。いつか故郷に帰してもらえるといいと思います。イタリアはドイツの大切な同盟国なので、フューラーも色々考えてくれているでしょう。お父さんも、祖国に勝利をもたらすその日まで、どうかお元気で。ハイル・ヒトラー”
手紙を書き終えると私は杖を握って居室を出た。ベルリンの大きな基地は大きいだけあって基地の中に郵便局がある。壁伝いに身体を預けつつ杖をこつこつと叩いているうちに、窓口に着いてしまう。口数が少ない郵便局員の人に便箋と身分証明書と小銭を手渡すと、いつもの調子で鼻を鳴らした。私の中ではこれが受領完了の合図ということになっている。すぐに判をつく音がして、身分証明書が突き返された。十日に着いてから毎日送っているので愛想の悪さにはもう慣れた。それも、今日までだ。
往路を同じ要領で戻ると、いつの間にかリザちゃんが起きて髪を梳かしていた。一定の感覚で刻まれる音の感じで、彼女の髪の長さが分かる。
「おはよう、リザちゃん」
「ん」
ぶっきらぼうに答えたかと思えば、彼女はなにも言わずに手を引いて私を椅子に座らせた。ぎしぎしした私の髪の毛に櫛が通されて不気味な音をたてる。
「ちょっと傷んでるわね」
「そうなんだ」
私の髪の毛って金色らしい。金色ってどんな色か分からないけれど、光に似ているという人もいれば、価値が高い鉱物と同じ色だという人もいる。いずれにしてもめでたい話には違いない。
「そろそろ出撃の時間じゃないかしら」
「朝ごはんを食べそこねちゃったわね」
「もう、リザちゃんが起きるの遅いから」
ため息をついて苦言を漏らすと、彼女は首の後ろをオーク材の指でなぞりながら告げた。
「そういうけど、あんただってドレスの後ろ前が逆よ」
「えっ!?」
結局、ドレスを着直して、最後に携行物の確認もして――余ったチョコレートは必携――管制官のいる執務室に出頭する頃にはほとんど遅刻寸前の時刻になっていた。
「ハイル・ヒトラー!」
二人してピンと声を張って敬礼する。ロングブーツの踵が鈍い音をたてた。
「いよいよ出撃だ。準備はいいかね」
「お休みになられている先輩方の穴を埋められるよう努力します」
「頼もしい言葉だ。期待しているぞ、大尉」
そのまま、私たちは管制官の先導に従って基地の発着場に向かった。ごわごわした分厚い外套が早朝の切り裂くような寒さを一身に受け止めている。空を飛ぶのは気持ちがいいけど、冬はやっぱり寒い。
幸いにも降雪の気配はない。陽光に照らされて雪も溶けている。
発着場では私たちの他に、ドイツ空軍の戦闘機たちが勇ましい唸り声をあげて出撃の時を待っていた。その音を聴いているうちに、淡い白線が視界の左右に戦闘機の輪郭を描きはじめる。フォッケウルフもアラドも、訓練のたびに何度もぺたぺたと丁寧に触ってきたからどんな形をしているのか私にはよく分かる。
滑走路の上に立った管制官が、プロペラ音に負けない大音声を張り上げる。
「私、アルベルト・ウェーバー管制官准将の権限により、マリエン・クラッセ大尉、およびリザ・エルマンノ大尉両名に魔法能力の行使を許可する」
この瞬間、私たちは法的に魔法能力の行使が認められた。
いよいよ付き添いの兵隊さんが私たちの背中に角ばった無線機を背負わせた。頭には耳をすっぽりと覆うインカム。私はいつか着けたカチューシャのようなものだと思うことにしている。ドレスにはそっちの方が似合う。
耳に当たるところから流れる、さざ波に似たハムノイズの音が出撃の開始を強く印象づける。
滑走路の前に立つ。
「マリエン・クラッセ、出撃します」
「リザ・エルマンノ、出撃します」
あたかも戦闘機がそうするように、数メートルほど助走を経てから魔法の力を踵に強く込めた。ふわ、と身体が柔らかく浮かんだのも束の間、私たちの身体はぐんぐん空へと舞い上がって戦闘機の唸りも滑走路の感触も、白い線でできた淡い輪郭も、遠く彼方へと沈んでいった。
静かな空の旅は突然に破られた。ベルリンから国境を越えてまもなく、ソ連の戦闘機が白い点描を模って姿を現した。その数はイギリスやアメリカの空襲とは比べ物にならなかった。
<退避! 退避!>
後方を飛ぶ友軍の戦闘機から漏れた無線の音が、インカムを通して私の耳に入る。直後、爆発音がして鋭く上がった煙が鼻をつく。どこからか放たれた奇襲攻撃がさっそく友軍を撃墜したのだ。
<旋回!><――マリエン、私たちが先行しないと!><退避!>まずは混線した無線をなんとかしなくちゃいけない。事前の取り決め通り、背中のダイヤルに手を回して周波数を変えた。兵士たちの絶叫がノイズの向こうにかき消えて、すぐにリザちゃんの声だけがはっきり聞こえるようになった。
<マリエン!>
「うん、分かってる。行こう」
急加速して点描の群れを十分に視界に収められる上方を陣取った後、私たちは一斉に両方の手のひらから魔法を放った。
「びーっ!」
二人合わせての広範囲魔法はそれなりの成果をもたらした様子だった。熱風と凄まじい轟音から全機撃墜の手応えを得る。
だが、
<まだまだ来るわ>
けたたましいプロペラ音が止む気配は訪れない。遠目に映っていた点描はいつしか、それぞれを見分けられるほどの輪郭を伴って私たちに迫ってきた。
鋭い機銃の銃弾をくるくると回って回避するも、次から次へとやってくる戦闘機の群れが左右上下を陣取って牽制する。まるで頭を抑えつけられたかのようだ。次第に避ける手段は減っていき、その間にも圧倒的物量の前に友軍の戦闘機が落とされていく。
「いたっ」
上から降り注ぐ銃弾の雨が身体を貫いた。ふと、力が抜けて私は地面に急降下を余儀なくされる。ちながら見据えた漆黒の視界の奥から、抜きん出た一機が追撃を試みて追いすがってくる。
すかさず、ドレスをめくって脚のホルスターからステッキを取り出した。魔法の力を手の先と、脚の両方に込める。
降下から一転、急上昇を果たした私と戦闘機が交差する。ステッキから伸びた魔法の刃が追い抜きざまに機体を両断した。
「ふん、甘く見てもらっちゃ困るわ」
精一杯の去勢を崩れ落ちていく戦闘機に張るも、灯る魔法の刃は危なげに揺らいでいる。そうして、四方八方からまた敵機が襲いかかってくる。
もう空中では戦えない。
「リザちゃん――地上に――降りよう――一旦」
煙幕がてらステッキから乱雑に魔法を放ちつつ、私は草木の生い茂る地面に向かって急降下を始めた。戦闘機たちが輪郭が奥にすぼまって点描に戻っていく。
木々が私を包み込むような素振りを見せたのは最初だけだった。加速した身体はすぐに森林を突き抜けて木や枝のあちこちにぶつかり、最後に湿り気のある地面にべしゃりと着地した。
慌てて起き上がり天を仰いでも、視界にはなにも映っていない。さすがに地面までは追いかけてこないらしい。
「リザちゃん!」
墜落で無線機が壊れていないか筐体を触りながら叫ぶと、すぐに応答があった。
<あ、聞こえた。今、どこ?>
予想外にあっけらかんとした返事に私はちょっとむっとして言い返す。
「そっちこそ、どこにいるの」
<木の上にいる。地上は地上でソ連兵がわんさかいるんだもの。あんたも気をつけて>
ざわざわとしたノイズ混じりの声と入れ替わりに、確かにあちこちから聞き慣れない言葉が聞こえてきた。
言われるがままに私も飛び上がり、手頃な枝の上に乗った。
柔らかな泥を数多の軍靴が無作法に押し潰しながらやってきたのは、それから割にすぐのことだった。ぐしゃ、ぐしゃ、とソ連兵たちが土に足跡を残すたび、私の視界に描かれる輪郭の細やかさが増していく。目下の敵は小隊規模と見られた。
大樹を掴む手に力がこもる。五つの指先が木の幹の奥に深くめり込んで、あたかも鉤爪のように機能する。私はコウモリだ。
被弾したとはいえ小隊程度の敵を滅するのは私でもあまり難しくはない。軍靴が泥に沈む音が後方に移ろいで、後続が途絶えたことが判ると私の鉤爪はますます鋭く尖った。
しかし、できない。
目下の敵は小隊規模でも、この一帯には間違いなく複数の大隊が展開されているはずだ。事を荒立てればすぐさま増援がやってくるだろう。どっちに逃避すれば友軍側に近づくのかも、今の私には分からない。空を飛ばなければ――だが、制空権はもはや敵方にある。
結局、小隊の進軍をただ黙って見送った。いずれ彼らがベルリンの街を焼き、銃弾を壁に穿つのかもしれない。
気づいたら、私の鉤爪は木の幹をえぐりとっていた。濡れぼそった木片を投げ捨てると、ややずれた位置の幹を優しく掴んで小隊とは反対方向の木々に乗り移った。
「リザちゃん……」
インカムに向かって小声で呼びかける。相手も小声で応じる。
<敵が多すぎる。多勢に無勢ね>
「でも」
潜んだ声にも低く熱がこもる。
「このままじゃ、ベルリンが――」
今月最初のミュンヘン大空襲が脳裏に蘇った。そこかしこから火柱が上がり、人々が悲鳴を上げて逃げ惑い、建物が崩れ去っていく。それが第三帝国の帝都で再演されるのだ。
<落ち着いて、考えがある>
「どうするの」
<このまま私たち二人でポーゼンまで行くの。もちろん大部隊が駐屯しているでしょうけど――私たちなら派手に撹乱ができる。そうしたら>
ざらざらとしたノイズ混じりの声にほのかな期待が乗る。
「敵の進軍が止まるかもしれない」
<そう。ただ、飛んでいくのはダメね。体力を消耗するし、戦闘機がうじゃうじゃいるから>
これは、私たちにしかできない任務だ。またぞろ、私の手が幹にめりこみはじめた。もし前線の都市を制圧できれば、他の魔法能力行使者の戦線復帰が間に合うかもしれない。
きっとベルリンを守りきっている間に、イギリスやアメリカに潜入しているという仲間たちがチャーチルの首を、トルーマンの首を、必ずや討ち取ってくれる。
なにも映さない私の目前に突如として現れた、戦争の趨勢を覆しかねない契機に身震いが止まらなかった。
私がいた収容所には変な部屋があった。ただの盲目の少女でしかなかった頃、帰り道で迷って階段をいくつも降りていった先に、それは広がっている。中にはほっそりとした、あるいはでっぷりとした壺ようなもの、細い棒切れのようなもの、ざらざらした手触りの、たぶん壁画かなにか――などが所狭しに置かれていた。
中でも気を惹いたのは固くて重い、当時の私の背丈くらいある大きな円盤だった。一体、これはなにに使うものなんだろう。どうしてこんな形をしているんだろう。
金属質のつるつるしたそれの手触りを確かめていると、急にドアが激しく開いて看守の人たちが大騒ぎで入ってきた。
その後、私はたっぷり叱られてただでさえ少ないその日の食事が全部抜きになった。
「食料がないわね」
出し抜けに、リザちゃんが言った。スプーンで缶詰の底をがりがりとこする音もする。私も同じことをしているのでちょっとうるさいくらいだ。
ポーゼンに進みはじめてから早くも三日近くが経過した。外套に収まるだけの携行食糧は早くも底を尽きた。一時間おきに無線機の周波数を切り替えても友軍との連絡は一向につかない。ひょっとすると地上軍はもうベルリンまで撤退してしまったのだろうか。
幾度となく、空を飛んで辺りを見渡したい衝動に駆られた。けど、どうしてもできなかった。バルバロッサ作戦以来、ソ連は五年間にわたり私たち魔法能力行使者と戦ってきている。一度でも発見されたら血眼になって追いかけてくるに違いない。そうなればポーゼンを奇襲するどころではない。
私たちはひたすら平地や開けた場所、近隣の村などを避けて、敵兵との接触を最小限に抑えた。戦車の重苦しいキャタピラが地面を揺らすのが聞こえたら動き、歩兵たちのちょっとした声や足音にさえ敏感に反応した。そのどれもがベルリンを燃やしに向かっているという事実を前にしても、真の目標の前には耐えなければならなかった。
でも、空腹は耐えがたい。
「どこかから糧秣を調達しないと」
こそげ落とした最後の豆を口に含みながら提案した。今や全土がソ連の支配下にあるとはいえ、ポーランドの西半分は私たちの味方のはずだ。こんなドレスを着た子どもが軍人だと言っても信じてもらえないかもしれないけど、外套には顔写真入りの身分証明書が入っている。そう、私たちはなんといっても大尉なのだ。
「でも、この有様じゃどの集落もソ連に占領されているんじゃないのかしら」
白線で縁取られた横顔が空を仰ぐ。こんなにも大量のソ連兵が進軍してきているのなら、少なくとも街や村と呼べるような場所には私たちの鈎十字ではなく鎌と槌の旗が翻っているのだろう。
「集落から離れたところに家を建てて住んでいる人たちもいるでしょ。まさか、そんなところにまでソ連兵は居座っていないはず」
リザちゃんが「どうかしらね」と疑念を孕んだ声を投げかけるも、二人そろってお腹の虫がぎゅーっと鳴った。現地部隊との合流を前提に一日分しか携行していない食糧を三等分しているのだから、いつもお腹はぺこぺこだ。ご飯を食べながら、次のご飯のことを考えている。ちょうど雪解けの季節で川が流れていなければ飲み水にも苦労したかもしれない。
そんな水筒の中身もソ連兵を避けながらの補給では頼りない。
結局、彼女は寄り道に同意してくれた。平地を離れ丘陵に近づくにつれて、心なしか張り詰めた神経が落ち着いてきた。そろそろ屋根のある場所で寝たいと思った。外套を深々と着込んで全部のボタンを留めても、夜の間は寒くて仕方がない。
「前にね、お父さんと一緒に住んでいた家でね、暖炉が壊れてしまったことがあるの」
一転、私は明るい調子で話しはじめた。漆黒の道のりを無言で歩き続けるのは退屈だった。
「あの時もちょうど冬の頃で、家じゅうのお洋服を着込んで、それでも寒かったからお父さんの膝の上に座ってた」
そこで読んでもらった絵本が当時の私の知っている世界のすべてで、そのうちの一冊がピノッキオだった。ピノッキオの冒険。何度もせかんで読んでもらったお気に入りの話だけど、結末だけは今もあまり好きじゃない。様々な困難を乗り越えたピノッキオは最後、妖精に認められて人間に生まれ変わるのだ。
どうして、木のままではいけなかったのだろう。ピノッキオは色んなことができて、苦しい試練があっても楽しく暮らしている。松の木でできているからこそ、あんなにどきどきするような大冒険の日々に恵まれている。人間に生まれ変わってしまったら、特別でもなんでもない普通の子だ。
”君は特別だ”
魔法能力を授けられてから私は口々にそう言われるようになった。もし私の目を普通の人と同じにできるとしても、代わりに魔法が使えなくなるのなら、私はずっと見えないままでいい。私には役目がある。
「あんたのお父さんってどんな人なの?」
私の数歩先を先導して歩きながらリザちゃんが言った。
「えっとね、優しくて、賢くて、なんでも知ってるの。今はブリュッセルで戦ってる」
「ふうん」
「リザちゃんのお父さんは?」
「同じよ、たぶんね」
「いつか会えるといいね」
彼女の歩行は淀みない。段差や障害物がある時だけ過不足なく歩幅が変わるから、まるで道標のように機能する。
イタリアも大変だと聞いていた。王様に嫌われたムッソリーニ首相が、フューラーに助けられて北の方に新しい国を作ったという。新しい国にはまだ兵士の数が足りないので、代わりにドイツ国防軍が居候している。イタリアとドイツは友達なので助け合わないといけない。
リザちゃんがドイツに「セッシュウ」されてきたのも同じ頃だ。できればイタリアで戦いたかったのだろうけど、偉い人たちはもっと難しい作戦を考えているのだと思う。実際、彼女がいなければドイツもどうなっていたか分からない。
「そうね……」
それきり、会話はぶつ切りに途絶えてぬかるんだ土を踏む音が続いた。たまに、遠く彼方の方角にプロペラの高周波音と、戦車のキャタピラが草木をすり潰す重低音が聞こえる。
私たちは黙々と行軍して、時折、隙を見ては川の水を飲み干し、再び歩いた。相変わらずお腹は鳴っていても、ポーランドが川の多い国だったおかげでなんとか我慢できている。人はなにも食べていないと三日くらいで死んでしまうのに、水を飲んでいれば二週間は生きられるらしい。
夕方、草木に空が覆われている手頃な箇所を見繕って野宿の支度をする。暗くなってからだと薪を集めるにも苦労するので明るいうちにしないといけない。もともと目の前が暗い私には関係なくても、目で見て手頃な木を探せるリザちゃんには大いにある。
「そう、そこよ」
彼女が声で示した位置でぴたり、と人差し指を止めて「ぼっ」とつぶやくと、魔法が指先で爆ぜて集めた薪がぱちぱちと言う。灯りのありがたみが分からない私でも、焚き火の温かみはよく分かる。こんな的外れな位置にはさすがのソ連兵は来ないと願うしかない。
「そういえば、コーヒーがあったわ」
「えー、コーヒー飲むの」
「飲むと温まるし空腹も紛れるから。あんたも飲むのよ」
リザちゃんはなにやらごそごそと音をたてて、焚き火でインスタントコーヒーを作りはじめた。ぶくぶくとお湯が湧く音が聞こえる。私の抗議は再三にわたったが徹頭徹尾、無視され続けた。
空いた手に熱いコップがあてがわれる。顔にあたるゆげを吸い込むと香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
「そう、匂いはいいのに……でも」
試すようにして慎重に口を含むと、たちまち言葉ではとても言い表せない強烈な苦味が舌の上に広がった。
「うええ……コーヒーってとっても美味しそうな匂いがするのに、どうしてこんなにまずいんだろう」
焚き火が爆ぜる音の向こう側でコーヒーをすする音がした。私と違ってずいぶん慣れた感じだった。
「そのうち慣れるわよ。ちゃんと飲みなさい」
ぴしゃりと命令口調で言われて、リザちゃんはやっぱり威張りんぼだと思った。
しかし、あっさり飲み干した彼女とは対照的に私のコップはいつまでも空かなかった。ちまちまと飲んでいるうちにどんどんコーヒーは冷めていき、ますます苦味が強く際立つ。そうなると、ますます飲み進められない。
私は必死にコーヒーと闘争するための戦意を振り絞り続けた。さもなければ一向に軽くならないコップを両手で握りしめる気力を失いかねなかった。いっそ落としたふりをして地面に飲ませようかな、などと考えたりもした。
とうとう呆れたのかリザちゃんは打開策を提案した。
「コーヒーってチョコレートと一緒に飲むと美味しいんだって」
「えっ、そうなんだ……」
外套の中にひとにぎり押し込んであったチョコレートの存在が思い起こされた。どれだけ食糧を切り詰めようとも、これにはまだ一口も手をつけていない。チョコレートが一番美味しいのはお腹が空いている時でも、空いていない時でもなく、その中間くらいの時なのだ。
とはいえ、とはいえ……リザちゃんから聞いた話はとても魅力的に感じられた。
チョコレートの食べ時を諦めざるをえないくらい、コーヒーは苦い。
意を決していそいそと外套の奥底をまさぐり、できるだけ小さいチョコレートの包みを取り出す。口に含んで訪れた幸福を味わうのもそこそこに、救いがたき苦味をざっと流し込んでやる。
確かに、鋭い苦味が甘さに包まれて幾分和らいだようだった。もう一個、またなるべく小さいのを取り出して入れ違いにコーヒーを含む。後味が不思議にすっきりとして、案外悪くない。
気づけばコップの中身はあっという間に空になっていた。
その日、眠りにつくまでの数時間、私はちょっぴり大人になった気がした。
リザちゃんに急かされて半分寝たまま朝の支度をさせられる。文字通り、させられている。手渡された最後の食糧を食べて、最後の水を飲んで、服を脱がされて、濡らした布で身体を拭かれて、着せられる。
とても時間をかければ自分でもできないことないし、家にいる時はそうしていたけど作戦行動中はそういうわけにもいかない。
「あら、月のものが来ているのね」
「え、そうなんだ」
どうりで股の辺りがむずむずすると思った。いつもだったらあの独特の嫌な匂いで気づくけど、こんなに長くお風呂に入っていないと鼻がほとんど効かなくなる。本当だったら入りたくてたまらないはずなのに意外とそうでもないのは、お腹が空いているとか喉が乾いているとか、他にしたいことが多すぎて身体が忘れてしまっているのだと思う。もし、息ができなかったら息をしたい以外にはきっとなにも考えられない。
しかし、いざ行軍が再開されると股に当てられたやたらごわごわする布切れの感触が気になった。なんとかうまく歩こうとして大股歩きになると、今度は慣れない歩き方をしているせいで動きがぎくしゃくする。ただでさえ女の子は月のものの最中は元気がなくなる。
ただでさえお腹が空いていて、喉も乾いていて、お風呂にも入れていないのに、これからもっと元気じゃなくなるのだ。
「あら、雪が降ってきたわ」
リザちゃんがそう言うか言わないか、頬にひんやりとしたなにかが触れた。途端に寒さが増した気がして、外套のボタンを全部留めて歩く。
「積もれば水には困らなくなるね」
ここにタイプライタはないけれど、もしお手紙を書くならきっとこんな感じになるだろう。
”一九四六年三月一八日。親愛なるお父さんへ。このお手紙はお父さんのお手元に届く頃には少し湿っているかもしれません。というのも、今まさに雪が降っているからです。もちろん音もなく降りしきる雪の姿は私の目には映りません。肌をなでる冷たい感触が私に雪を感じさせます。昔、たくさん積もった雪をすくって食べていたらお父さんに叱られましたね。案の定、あの後にお腹を壊してトイレから出られなくなったのを覚えています。行軍中にそうなったら大変ですが、今では私もお姉さんなのでもうそんなことはしません。……”
どこかで、チーン、と改行音が鳴ったような気がした。いやしかし、それにしては音程が変だ。そもそもこれは頭の中で書いているお手紙であって本当にタイプライタを叩いているわけでは……。
私はすぐに他にも聞き慣れた音があったのを思い出した。これは銃弾が空気を切り裂く音だ。
「敵だ」
私がつぶやくと、彼女が息を呑んだ。「え、どこに」「まだ遠い。銃声、二時の方向、私たちに向けてじゃない」
「一体どこに向かって……?」
耳を研ぎ澄ませて銃声の残響を追う。
「少なくとも水平に飛んでいる。地面に向かってでも、空に向かってでもない。誤射や祝砲ではなさそう」
「じゃあ、もしかして」
「友軍が撃たれてるんだ」
瞬間、私たちの歩幅はメートル単位で変化した。繰り返し聞こえる銃声を目指して、短い跳躍を繰り返す。何歩目かで木々に飛び移り、幹から幹へ、足で軽く蹴って立体的に移動する。
しばし位置を離れた彼女が無線機越しにしゃべると、電波を示す白線がぎざぎざに揺れて視界に波を打つ。
<見つけた。敵。小隊規模、車輌はなし。やれるわ>
ごく簡潔な状況報告の後に炸裂音が響いた。私も白線を辿り木から鋭角に飛び出して地面に降り立つ。全身に陽の光を感じる――ここは平地だ――応射がリザちゃんに集中することを避けるために、未だ像を結べていない雑然とした暗闇へ、すばやくステッキを振りかざした。悲鳴。さらなる轟音。敵が叫べば叫ぶほど、だんだんと私にははっきりと見えるようになる。
お人形さんみたいに並ぶ敵たちがいよいよ銃口をこちらに揃えた。
横殴りの銃弾の雨を避けて真横に飛び、さらに接近する。距離にして十メートルもあるかないかに迫った状況では、ステッキの口径だと釣り合わない。ホルスターにしまい込みながら逆の手で咄嗟に拳銃を模る。
「ぱん!」撃つ。「ぱん!」お人形さんの頭が割れた風船のように弾けて地面に崩折れていった。 私たちとの戦力差を認めて撤退を始めた残党に、リザちゃんがとどめの光線を放つ。遠ざかる人影が白い靄に包まれて跡もなく消え去った。たちどころに銃声が止んで、しばしの静寂が訪れる。
「もしやあれは――」
「魔法を操る特別な兵士がいるという……」
後方でざわざわと声がした。ドイツ語だ。振り返るとあやふやな輪郭が三、四、五、続く声に応じて描かれた。
ソ連兵だらけの敵地で出会った友軍に、私は泥と雪で濡れたドレスの裾を伸ばして応じる。
「ええ。私たちは帝国航空艦隊所属の魔法能力行使者です。あなたがたの援護に参りました」
「おお……」
直後、視界に広がるいくつもの輪郭が急にぺしゃんこに潰れたのかと思った。
そうではなかった。
私よりも三十センチも高い大柄な男の人たちが一斉に跪いたのだ。
先頭にいる人が低い声で言った。
「我々は第二二一保安師団、第三一三警察大隊隷下の残存兵どもでございます。ポーゼンに駐屯していましたが、指揮官を失い寄る辺もありません。どうかご指揮を」
奥の木陰からもわらわらと人影が出てくる。リザちゃんが言う。
「あそこにある民家はあなたたちが検分したのかしら」
私の視界にはなにも映っていないが、どうやら民家があるらしい。先頭の男の人が答える。
「さようでございます。あの家々から物資を接収した後に、運悪くソ連兵とかち合って戦闘になりました」
「じゃあ、今は食糧を持っているの?」
「それなりには」
リザちゃんが私の肩を叩いた。表情は分からないけど、声の弾み方からきっと笑っているのだと思う。
空腹である旨を伝えると、大尉の階級章は存分にものを言った。
私たちは木陰の比較的清潔そうな場所に案内されて、そこに敷かれた風呂敷の上に座った。ただ待っている間に白線のお人形さんたちがせわしなく働いて、回収した食材を元に料理が作られていく。やがて、ブラウンソースとよく煮込まれたお肉の良い匂いが漂ってきた。
これはビーフシチューの匂いだ。
「あんた、よだれが出てるわよ」
「嘘でしょ」
「いや、今度は本当」
本当だった。三、四日もろくに食べていないとさすがにはしたなさが勝ってしまう。
「どうぞ、大尉どの」
兵士の誰かが差し出した皿を、リザちゃんが一旦受け取って私に手渡す。続けてスプーンももらい、いよいよ待ち焦がれた食事の時間が訪れた。
一口目を食べてからの事はあまり記憶に残っていない。この時の私は脳みそではなく舌が本体になっていた。皿に残ったソースまで舐め回しかけたところで「ちょっと、お代わりを貰えばいいじゃないの」と制止されて、ようやく我に返った。間を置かずにやってきた二皿目もほとんど飲むかの勢いだった。三皿目、四皿目と食べ尽くしていくにつれて次第に人間らしさを取り戻して、もしかするとこれは部隊全員ぶんの食事だったのでは、と思い至った。
「食べ過ぎちゃったかも」
「今更気づいたの?」
そういうリザちゃんだって二皿は食べている。まさかこんな敵に囲まれた戦場でビーフシチューにありつけるとは思わなかった。
「あのう」
近くを通りかかった兵士の足音に向かって呼びかけて、食べ過ぎを謝罪すると彼はからからと笑った。
「多少は構いませんよ。民家にいた牛を一頭潰したんです。余って捨てるよりはマシでしょう」
そんなにたくさん作ったのか、と安心して文字通り腹落ちしたところで、別の疑問も湧いた。
「そこに住んでいた人はよく牛さんをくれたね」
牛さんは牛乳をくれる。牛乳からチーズも作れる。世話をしているだけでずいぶん役に立つから、潰すとしたら本当に最後の最後だ。たまたまそういう牛がいたのだろうか、それとも特別に協力してくれたのだろうか。いずれにしてもありがたいことだ。
しかし、兵士はあくまで笑うばかりだった。
「他にも色々くれましたよ。まあ多少は手こずりましたがね」
「ねえ、あなたたちの中で一番偉かった人を呼んできてくれないかしら。ポーゼン奪還の話をしたいの」
そこへ、唐突にリザちゃんが割って入り兵士に言いつけた。言われてみれば確かにそうだ。食糧探しのためにだいぶそれてしまったけれど、ここまでソ連兵に見つからずにポーゼンから逃げてきたのならきっと良い道を知っているのだろう。
たいへんな戦争を戦っているはずなのに、私はふわふわとした気持ちで満たされていた。相変わらず股の辺りがごわごわしているけれど、美味しいビーフシチューをお腹いっぱい食べて、大勢の部下までできた。なにもかもうまくいきそうな感じがした。
部隊の中で一番偉かった人――ウルリヒ伍長はてきぱきと道案内をしてくれた。たっぷり時間をかけてシュナイデミュール付近まで回り込み、そこから北側からポーゼンに到達した。ちょうど股から血が垂れなくなった頃だった。
辺りに並ぶ兵士たちの声を聴くかぎり、街と呼ぶにはあまりにも悲惨な光景が広がっているようだ。彼らの目に映る建物という建物は崩れ、焼け焦げ、人の気配はみじんも見当たらない。一ヶ月前まではちょうどこの辺りで我が軍の精鋭が物量に勝るソ連軍を抑えていたはずだ。それが今では不気味な静寂に満ちている。音がしないから私の目にはなにも映らない。
「夜を狙う。まず大尉どのに奇襲を仕掛けてもらい、連中が慌てているところで我々が街に」
ウルリヒ伍長の低く落ち着いた号令が寒空に吸い込まれていく。雪はあれから降ったり止んだりを繰り返している。一度よく晴れた日に乾かしたはずのドレスは早くも湿りはじめた。
「でも、敵はどこにいるのかしら」
リザちゃんの問いにも伍長の答えは簡潔で揺らぎがない。
「見れば分かります。あそこにはもうまともに建っている建物の方が少ないですから」
数時間後、私たちは部隊から離れて空を飛んだ。久しぶりの飛行に全身の筋肉がぎくしゃくとする。