riq0h.jp/content/post/書評「蠅の王」:愚かしさからの学び.md
2023-08-21 10:07:01 +09:00

71 lines
No EOL
23 KiB
Markdown
Raw Blame History

This file contains invisible Unicode characters

This file contains invisible Unicode characters that are indistinguishable to humans but may be processed differently by a computer. If you think that this is intentional, you can safely ignore this warning. Use the Escape button to reveal them.

This file contains Unicode characters that might be confused with other characters. If you think that this is intentional, you can safely ignore this warning. Use the Escape button to reveal them.

---
title: "書評「蠅の王」:愚かしさからの学び"
date: 2021-03-20T13:41:22+09:00
draft: false
tags: ["book"]
---
## 前置き
![](https://www.amazon.co.jp/images/I/518f0pwCtmL._SY291_BO1,204,203,200_QL40_ML2_.jpg)
未成熟な少年少女たちが文明から隔絶した環境で奮闘するさまは、それ自体が独特の芳香を放っている。そこには分別の行き届いた大人の理屈を軽々とすっ飛ばす爽快さと背中合わせのもどかしさ、計画に裏打ちされない行きあたりばったりの邪悪さ、脆く壊れやすくもあり、同時に修復されやすくもある刹那的な人間模様……などが、渾然一体となって詰められているのだ。
本作は巻末の訳者あとがきで既に一定の解説が為されており、キリスト教的なモチーフが用いられていることや、ある種の寓話的性質の色濃さについて言及されている。従って、今さら同様の筋からアプローチしても単なる繰り返しにしかならないので、本エントリではもっと地に足の着いた素朴な難癖に重点を置きたいと思う。
## あらすじ
本作は冷戦時代、南太平洋の無人島が舞台とされている。ある日、核戦争が勃発し主人公ら十数名の少年たちは旅客機にて集団疎開を余儀なくされる。物語は、当の旅客機が敵機により撃墜され、子供たちだけが件の無人島で目を覚ましたところからはじまる。
本作の登場人物は大別して「大きな少年」と「小さな少年」に区分けされる。前者は概ね小学校高学年から中学一年生くらいの年齢で、程度の差はあれど物語を動かす存在として描かれる。対して後者は時折思い出したかのように描写される程度で、実際的な存在感としては背景とほとんど変わりがない。だが、物語の結末に至るといきおいそれが批評性を放ちはじめるのだから面白い。
「大きな少年」の中でも特に重要な人物が何人かいる。まず、ラルフ。物語の主人公である。整った外見と精悍な肉体を持ち、知能や人格も年齢相応ではあるものの良好な部類に入ると思われる。次に、ピギー。肥満体、眼鏡、喘息の三拍子が揃った不健康な肉体と引き換えに、みんなの中でもとりわけ優れた頭脳を持つ。しかし性格は臆病でどこか卑屈さが否めない。「ピギー(子豚)」という名前も当然本名ではなく、かつてのいじめっ子に押しつけられたあだ名だという。「**それ以外**ならどう呼んでもかまわない」と前置きした上で教えたにも関わらず、ラルフが陽キャ特有の無神経さから周囲に吹聴してしまったため、無人島内でも瞬時に定着してしまった。
三人目は、ジャック。この子は共に漂着した「聖歌隊」と呼ばれる、おそらくはイギリスの学校に属する合唱団のリーダーを務めている。肉体と知能の程度はラルフと五分五分と見られるが、性格はかなり傲慢で荒々しく、弱者には――特にピギーのようないじめられっ子然とした子には――特段に冷酷な仕打ちをする。だが、少なくとも最低限の規範意識と理性は備わっており、元来はあらかさまな悪人ではない。こうした性質は聖歌隊のような上下関係の強い集団を統率していく過程で、無意識のうちに内面化してしまった側面もあると思われる。
他にも、主人公やピギーに友好的な双子のサムとエリック(作中では『サムネリック』と一括して呼ばれ、二人で一人として扱われている)、変わり者だがピギーとは毛色の異なる哲学的な思慮深さを持つサイモン、ジャックの相棒にして強い凶暴性を秘めたロジャーなどが登場する。
たぶん、こうして登場人物を紹介していった時点で、本作を読んでいなくてもおおよその展開が想像ついたのではないかと思う。十中八九、ラルフとジャックは対立するし、ピギーはいじめられる。サムネリックは友好的であっても実際の戦力にはならない。サイモンは誰も気づかなかった真実を知るがそれゆえ苦痛を味わう。だいたいこんな筋書きが予想できるのではないか。事実、その通りである。
しかし、本作は執拗に描かれる情景描写によって、あることが判っている。**作中の無人島は温暖な気候で、食糧にも不自由しない楽園であるということ**――通常、サバイバルものの作品で登場人物同士が対立を余儀なくされる状況というのは、えてして資源不足や過酷な環境下での制約を端緒にしている。例えば「漂流教室」なら慢性的な食糧不足、「バトルロワイヤル」なら爆弾付きの首輪とルールによる強制だ。死ぬかもしれない恐怖が人を狂気に駆り立て、結果として悪事や殺人に至らせる。実に腑に落ちる話だ。ところが本作における環境はそうではないのである。ここに、本作ならではの特徴が見て取れる。
人が狂気に駆り立てられてもおかしくない舞台設定をわざわざ用意してその様子を描く作品は、一見、人間の負の側面を露悪的に誇張させているように見えて悪趣味に感じるかもしれない。しかし、逆説的に考えるとむしろそこには人間に対する一種の信頼が垣間見える。**われわれ文明人は状況的に追い詰められでもしなければ気が狂ったりしないのだ**、と。
なるほど無人島に漂着するというのも、決して気安い話ではないし相応の不安はつきまとうに違いない。だがポカポカ陽気がさんさんと降り注ぎ、海水もあり、火を熾す方法も心得ており、山の中には果物がたくさん実っている。それでも人は争わねばならないのか? これこそが本作のテーマだ。著者は物語を通して語りかける。たとえ文明人であっても、人間には純粋な暴力衝動が秘められている――ひとたび条件が揃えばそれは無制限に解放され、合理性や倫理観は即座に打ち捨てられ、血の渇きを満たすまでは収まりがつかない。動物よりずっとたちが悪い。動物が凶暴なのは理由があるが、この時の人間の暴力性は凶暴さを発揮すること自体が目的になっているからだ。
本作の梗概を説明する。ラルフとピギーは拡声器の代わりとなる美しいほら貝を拾い、それを用いて島内の子供たちを集め、集会を開く。ラルフはそこでリーダーに選ばれる。ジャックは不満げだったが、この時点では渋々受け入れる。ラルフたちはピギーの助言を受け、火を熾して遠方の船に存在を知らせること、小屋を立てて雨風をしのぐこと、全体の人数を把握しておくこと、などを行おうとするが、結果的にどれもうまくいかない。ジャック率いる聖歌隊は火の番を引き受けていたが、無人島に生息する豚を狩ることの方に面白さを見出したのだった。結果、火の番を怠って山を火事にしてしまったり、逆に火を熾し忘れたまま船が通り過ぎてしまうなど、重大な失態を犯してしまう。
むろん、ラルフは激怒した。一度はジャックと共に島を探検して友情を深めたものの、仕事を放棄して豚狩りに没頭する身勝手さには我慢ならない。反面、ジャックはそれこそ太った豚みたいな、いかにもいじめれっ子のピギーがラルフを通してあれこれ指図してくることが気に入らない。狩りとった豚を肉にして振る舞えば、みんな惜しみなく賛辞を送ってくれるが、それでもリーダーとしてのカリスマはラルフに劣っているらしいことも不満で仕方がない。こうして徐々に溝は広がっていく。
物語中盤、上空で撃墜された戦闘機からパラシュート降下してきた人間の死体が、山の頂上の木に引っかかる。みんなは夜間に発見したがために死体を獰猛な「獣」と誤解し、これまで火を熾していた場所を恐怖心から放棄せざるをえなくなってしまう。ラルフたちは海岸沿いでなんとか大きく火を熾そうとするが、人手になる「大きな少年」のうち多くを占める聖歌隊の面々は狩りに夢中で火力を維持できない。当然、小屋もまともに建てられない。集会でジャックを批判すると、彼は怒りだし逆にリーダーの交代を要求する。受け入れられないと知ると、集団から去ってしまう。
ピギーは自分をいじめるジャックが去って喜ぶも、徐々に「大きな少年」たちがジャックの方へ集ってしまっている事実を悟る。みんなは面倒くさい火熾しや小屋作りよりも、戦化粧を顔面に施し野蛮人を演じながら豚を狩る方が楽しかったのだ。勢力を拡大したジャック率いる新たな集団「部族」は、次第にラルフたちを侵犯するようになる。火を熾す方法としてこれまでピギーの眼鏡を虫眼鏡代わりに使っていたので「部族」だけでは調理のための火を熾せないが、火の付いた枝を盗んでしまえば当座は解決する。それで物足りなくなれば、眼鏡ごと盗んだ。むかつくラルフとラルフの仲間を殴り、小屋を破壊した。
他にも事件は起こった。変わり者のサイモンは一人で思索を広げながら山を歩き回っていた最中に「獣」がただの人間の死体に過ぎなかったと知る。しかしそれを知らせようとした時、運悪く「部族」は雷雲を打ち払うための「儀式」の最中だった。そこにはラルフやピギーも居合わせた。急いで山を降りてきたために全身が真っ黒に汚れていたサイモンは「獣」と誤認され、極度の興奮状態にあった「部族」の面々に攻撃され殺されてしまうのだ。
やがて少数派となったラルフたち(ラルフ、ピギー、サムネリック)は話し合うため「部族」の陣地に赴くも、ロジャーが発動させた罠によりピギーは殺害され、サムネリックは捕縛されて寝返ってしまう。とうとう一人ぼっちになったラルフはジャックら「部族」の狩りの対象となる。山々を走り回り、逃げ惑い、逆転の方法を必死に考えるも「部族」は山に火を放ち、丸焼きにしようとする――そこには食糧たる果物や豚が蓄えられているにも関わらずだ。万策尽き果て、開けた砂浜に躍りでたラルフはついに降参したが、そこにはイギリス海軍の将校と兵士たちが船でやってきていた。間一髪、ラルフは助かり「部族」も大人の姿を見て正気に戻った。将校は子供たちの境遇に同情を示しはしたものの、同時に呆れもした。**「イギリス人の子供なら、もっとうまくやってもよさそうじゃないか」**……こうして物語の幕は閉じる。
1500文字も費やして展開を書き出してみると、改めて顛末の愚かしさがありありと伝わってくる。先に説明したとおり、確かに彼らは「大きい少年」と言えどもせいぜい小中学生程度ではある。ではあるが、将校の呆れ具合にもうなずけるところは大きい。実際、もうちょっとうまくやれてもよかったんじゃないか 著者の言い分に沿うのであれば人間誰しも野蛮な暴力衝動を抱えているということになるのだろうが、本エントリでは逆にどうすればよかったのか考えてみたいと思う。
## 君らはどうすればよかったのか
まずラルフ。君は体格に優れ、知能や判断力も悪くはない。なにより、カリスマ性がある。ほぼ満場一致でリーダーに選ばれるほどだ。特に雄弁さを発揮したわけではなく、地の文いわく「美しいほら貝を持っている姿がさまになっていたから」だという。つまり君はイケメンなのだ。イケメンで陽キャなのだ。**だったら、もっとピギーを助けてやれ!** 君は陽キャだからか物語後半までピギーをカジュアルに見下していた節がある。「実はピギーって賢いしまともなやつなのでは?」と気づいた頃にはもう手遅れで、既にジャックたちとのパワーバランスが崩れてしまっている。もっと早く気づくべきだった。そして、ピギーがジャックに気圧された時には積極的に助け、必要であれば武力介入もして、ピギーが演説する際には君の権威を貸してやるべきだった。それがカリスマに優れる君の役目だ。実際、君自身は演説しようとしてもそんなにうまくしゃべれなかったんだから。**だが君はピギーが地元で「ピギー」と呼ばれていることを周囲に吹聴したな? そのせいでピギーのプレゼンスは不当に貶められてしまった。** それが回り回って君自身をも苦しめた。せいぜい反省してくれ。
次にピギー。君は賢いが見た目が悪すぎる。振る舞いも体裁が良いとはとても言えない。そりゃ喘息でデブだから肉体労働ができないっていうのは、叔母さんも言っていたし嘘偽りのない事実なんだろう。だが少年同士のヒエラルキーなんてのはちょっとした所作で安直に決まってしまうって、賢い君なら早々に理解できそうなものじゃないか? **周囲が小屋作りや枝木集めや狩りに勤しんでいる間、ずっと座りっぱなしで休んでるんじゃあ、どれだけ賢そうなこと言ってたって誰も聞きやしないよ。** 君はせめて一度か二度くらいは、全力で働いてぶっ倒れてみるべきだったな。そうすれば、少なくとも周囲からある程度の尊敬を得られただろう。あと、確かにジャックは傲慢で嫌なやつかもしれないが、そんなやつの失態を手厳しく批判したら、ますます意固地になるだけだと思わなかったのか? 君はコミュニケーションへの洞察が不十分だ。真に賢い人間なら一旦その失態は棚上げにして、なんならジャックの狩猟の腕を褒めそやし、彼の自尊心を満足させ、最終的にそれとなく次回以降は気をつけるように誘導してみせるだろう。**君がジャックを素手でぶっとばせる男ならそんな回りくどい手段は不必要だが、君はひ弱ないじめられっ子なんだから頭を使え。** ジャックみたいなやつを敵に回したら、どんなに身になる演説しようとしてもただ邪魔されて終わるだけだ。逆にジャックさえ味方にできていたら、もはや君の演説を阻む者はいない。すべてスムーズに進む。そうは考えられなかったのか? まあ、ロジャーの罠を避けられなかったのはしょうがない。来世に期待しろ。
三番目にジャック。ジャックよ。君は実に嫌なやつだ。その傲慢な性格はひょっとすると聖歌隊仕込みなのかもしれないが、それにしたって少しは自省を学ぶべきだった。そもそも君、そんなに頭は悪くないはずだろう。聖歌隊のリーダーってのは歌唱力の優劣だけで選ばれるような役職じゃないはずだ。だったら、果物がいつまでも無限に実り続けるとか、豚が延々とすくすくどこからかリスポーンしてくるとか、そんなふうに考えちゃいないよな? どれだけ温暖な気候で凍死の恐れがなく、当面は餓死の危険もないといっても、一年中適温である確証はないし、果物だってみんなが好き勝手に食べれば減っていくんだ。君が君自身のプライドのために狩りにこだわり続けていたら、もしかすると本当に餓死していたかもしれないぞ。**君には暴力性に裏打ちされた統率力がある。それはラルフを追い落とすこととか、狩りの頭数を増やすために使うのではなく、食糧の管理や子供たちにルールを守らせる手段として用いるべきだった。** 君は暴力の使い方がもっとうまかったらラルフなんか目じゃないくらいリーダーの器だったのにな。
四番目にサイモン。たぶん君は特定の領域ではピギーより聡明なのかもしれない。だがその領域は君くらいの年齢の子にはいささか抽象的すぎて言語化が難しい。君も見たところかなり賢いようだから、時期が来ればおのずとそれを言語化する機会に恵まれたはずだ。**死ななければな。** そう、君の失点はただ一つ。死んだことだ。とはいえ「獣」に誤認されて殺されたのは確かに君の落ち度ではない。周囲がアホだったからだ。攻撃する前に二秒でも確認していればみんな判ったはずだしな。だから君がすべきだったのは、あまり周囲に期待せずとにかく生き残るために万全を尽くすことだった。「獣」の正体が人間の死体かどうかなんて、急いで報せなくてもよかったのさ。明日でも明後日でも、他のみんながアホじゃなさそうな時でも十分間に合った。まあ、仮に生き残っていても「蠅の王」がどうとかみたいな神秘的な話は、どうせみんなには理解できないからしない方がよかっただろうな。多感な時期に「変な子」扱いされるのは歯がゆいかもしれないが、人間には誰しも最盛期の年頃ってやつがあるのだと思う。**きっと君の最盛期は人生のずっと後半の方にあったんだ。だから生き残るべきだった。君はちょっと善良すぎたんだ。**
五番目。サムネリック。君らはとても働き者だがもっと主体性を持ちたまえ。「部族」の連中なんてたいがい隙だらけだからラルフの味方をしようと思えばできたはずだ。三人もいたらあそこまで一方的な展開にはならなかった。たまたま救助が間に合ったからよかったけど、もしそうじゃなかったらラルフが抹殺された後、君らは「部族」内でずっと低い地位に甘んじる羽目になっていたんじゃないのか。だって、途中から寝返ったやつの地位が高くなるわけないだろ? ちゃんとそこまで考えて寝返ったか? **行きあたりばったりで付く相手を選ぶと人生を棒に振るぞ。**
六番目にロジャー。君らさ、両端を尖らせた木の棒に狩った豚の頭を突き刺して「『獣』への供え物だ」とか言ってたけど、そういうサイコな発想はどこで覚えたの? **特に君はラルフを狩ろうとした時も両端を尖らせた木の棒を持ち歩いてたな。彼を捕まえたら何をするつもりだったんだ?** 君くらいの年齢だったら重い岩を加速運動させて人にぶつけたら死ぬかもしれないってのも明確に理解できるよな。確かにジャックは暴力的だが、意図的に殺人を犯したのは君だけなんだよ。**君みたいなやつはのうのうと文明社会に帰ってきてはいけない。然るべき法の裁きを受けてくれ。**
最後に、聖歌隊の面々。ジャックに権力を与えているのは君たちの存在に他ならない。君たちが盤石な支持者として働いているからこそジャックはリーダーでいられる。**意思決定のキャスティングボートを握っているのは実は君たちだったんだ。** だから、ラルフとジャックの間を行ったり来たりすればおのずと利益の最大化を図ることができた。別にラルフにもジャックにも頭を下げる必要なんてなかったのさ。イギリスの教育は既にこのやり方を君たちに教えているはずだ。
ところで「小さい少年」たちは「大きい少年」の連中がこぞって醜態を晒している間、ただひたすら水浴びや砂遊びをしたり、果物を食べたりしていただけだったが、山火事に巻き込まれた不運な一人を除いては誰も死んでいない。それなりの不安を味わいはしたが、怪我や病気に苦しめられた子もいない。この事実が「大きい少年」たちの振る舞いの愚かさをより一層際立たせていると言える。
## おわりに
こうして各登場人物の至らなかった点を指摘していくと、各々の抱える問題が社会生活における一般的なコミュニケーション上のそれとだいぶ共通していることが判る。言うなれば一種のアンチパターンだ。現代の閉塞した社会で逆転ホームランは難しくとも、自己のキャラクターを正確に認識して応用するやり方を学べば、今よりちょっとだけ良い思いができるかもしれない。
著者はあくまで人間はどうしようもなく暴力的なのだと言いたいのだろうが、本作が出版された50年代から半世紀以上も未来の、より高度な文明と教育が行き届いた社会に住む僕にとって、本作の顛末は面白くはあってもリアルではない。2021年現在で12歳の子供といえば2009年前後に生まれた子だが、そんな真新しい時代の子たちが件の無人島に漂着したとしても、どんな理由であれ殺し合いに至るとは考えられない。強権的なリーダーを選ぶまでもなく、火を熾して救助を求めなければいけないことくらいどんな子でも思いつくだろう。不衛生さに辟易したり腹痛で下痢を催したりして、メンタルをやられてめそめそ泣く可能性はあるが、そうそう大した問題は起こりえないと思われる。
以上の認識から僕はあえて本作の寓話的側面をあえて無視する形で読解した。しかし本作に登場する人物の造形はいずれも非常に魅力的なので、こうした読み方をしても十分に楽しめてしまう。歴史の荒波をくぐり抜けた作品というものは、やはり何かしらの普遍性を持つらしい。