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書評「出会って4光年で合体」:生命のダイナミズムと射精 | 2023-07-03T21:23:25+09:00 | false |
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インターネット上に突如現れた本作「出会って4光年で合体」は約400ページもの連なりを持つエロマンガだという。その常軌を逸した頁数もさることながらなおも並々ならぬ異常性を感じさせるのは、各ページに刻まれたおびただしい量の文章だ。作品欄のサンプル画像に気圧されて購入を断念した人も多いだろう。だが、まず言っておかなければならない。あれはまだ序の口だ。
一方、早々に読み切った猛者の間では絶賛の声が相次ぎ、星雲賞受賞待ったなしとの評も囁かれるなか、僕は本作を手に取るまで冷めた態度で騒動を見守っていた。オタクの誇大表現にはいい加減なんらかの法規制が敷かれるべきではないのか、と呆れたところで、いやしかし、400ページのエロマンガなど正気の沙汰では描けぬもの、もしかするともしかするかもしれない。そう考えて、やはり読んでみることにした。読み終わる頃には目がしばしばしすぎて柴犬になった。
結論から言うと、星雲賞だった。一見、荒唐無稽に広がり続ける民俗神話がだんだんと空想科学的に回収されていくさまはまさにハードSFのそれであり、物語を廻る二人の時空を越えた恋愛の成就にはいたく心を打たれた。一口にポルノと言ってもさながら山本直樹のごとく――彼ほどのレジェンドを引き合いに出しても差し支えがない――表現技法に富むアプローチが幾重にも織り込まれている。
内容の濃さが濃さなので本稿では400ページの中から分野ごとに焦点を当てる形式で論評を行う。また、ネタバレ注意にしてNSFW的表現が多数用いられている点にも留意されたし。なんにせよ、今これを書かなければ後悔すると僕は思ったのだ。
文章について
その密度の高さゆえ本作の文章はずいぶん固い印象を受けるものの、読んでいくと文中の随所にくだけた表現が挿入されている特徴に気づく。言うまでもなく本作は漫画、それもエロマンガであって、一般小説にありがちな制約を受けない。文体の一貫性はもちろん、あらゆる既成の枠にとらわれず必要な描写を自在に取り入れ、あるいは逆に排することができる。
中でも際立つのが性描写に関わる部分だ。本格官能小説顔負けの筆致と同人エロゲを彷彿させる軽快な表現が入り混じり、すでに字面の上だけで独自の世界観が作り上げられている。例として本作53ページの一部を以下に引用する。
……しかし橘はやとはそのただ一言の声に、そして怒っているような呆れているような、自らを見つめる瞳に感じたことのない胸の熱さとちんちんのパニックを覚えその場で動けなくなった。
通常、文体を合わせるなら太字部分は「陰茎の屹立」や「怒張」などといった修辞を当てはめると考えられるが、ここでは意図的に軽快な表現が採用されている。固い文面を読んでいる最中にこのような形で不意打ちを食らうと人間は笑いを漏らすしかない。次第に作中の文体との付き合い方が解ってくるにつれて、次はいつ意表を突かれるのか気になりはじめる仕掛けだ。
僕もブログではしばしば類似の工夫を用いている。面白いか面白くないか読む前には不明な文章を読ませるには、一定のリズムに読者を誘った後で裏切るのが手っ取り早い。調子を外された読み手は「今のはなんだったんだ?」と訝しむ反面、どこかに規則性か答えが潜んでいるのではないかと期待して先に進んでくれる。
ただでさえ本作はある人物の口述によって語られている都合上、固有名詞や背景に事前の説明がないまま展開していく。そこでいちいち停滞されては困るので是が非でも諸々の疑問を抱えたまま読み続けてもらわないといけない。400ページ近い長丁場の本作において上記の工夫はたいへんうまく機能したと思われる。
固い方の文章もエロマンガとして読むと確かに面食らってしまうが、割に一文の長さは適切でリズム感にも秀でている。ハードSFの風合いを醸し出しつつも読解に難儀する箇所は見られず、高度な水準に達した文章だと評価できる。
絵について
本作の絵は描き込みこそ簡素ではあるが各登場人物の特性をよく表している。とりわけ表情の変化がすばらしい。喜怒哀楽のいずれにも属さない、複数を兼ねる微妙な感情が色濃く表現されている。再び52ページの「怒っているような呆れているような」を引き合いに出すと、ここで描かれている表情がまさしく修辞を体現していることに早くも打ちのめされる。
文章で「絶世の美女」と書けば必ずあなたにとっての絶世の美女が表れる、とは三島由紀夫の言だが、文章と絵を重ね合わせる漫画では前者が後者を補うことはどうしてもできない。そこへいくと本作は自らの持ち味を最大限に利用したアプローチで文章と絵の分離融合を見事成し遂げている。
というのもあれほど文章に耽溺しているようでいてその実、特定のシーンではあっさりと一切の文字情報を捨て去っているからだ。普遍的な技法であっても普通の作品がそうするのと文字まみれの異常な作品がそうするのとでは、受け取る印象の深みががらりと変わる。急速にもたらされた静寂はただの静けさよりもいっそう我々の認識を侵犯せしめるのだ。
やや古典的ながらヒロインの登場シーンに数多の花々が配されているのも、度を越して繰り返せば否が応にでも彼女が特別に美しい存在だと認識せざるをえない。技法を用いる時には執拗に用いて、そうでない時には徹底して用いずにいる。独自の世界観をアピールするには極めて効果的と言える。
同様に、主人公の醜男ぶりにも容赦がない。物語上の苦難を克服した成果として醜く描かれていた人物が壮健に美化されたり、単に作者やファンの愛着を通じてイメージチェンジが図られる事例はままあるが、本作にそのような優遇は見受けられず主人公は常に一貫して醜男だ。
ただ、醜男でも内実は素朴かつ温和であり、もしかするとこれは性格と容姿の優劣がしばしば連動するルッキズム的表象へのカウンターを狙っているのではないか、などと過剰な深読みが働く。なんせ性描写のさなかでも醜男ぶりは健在で、表面的には悪意すら邪推してしまいかねない。
だが人格が安易に顔面の造形に反映される方がよほど欺瞞であって、本作は誠実、もしくは性癖に尽くしたがために醜男をとことん醜く描いたのである。
物語について
本作は架空の民俗神話にポルノとSF要素を加えて創られた作品である。主人公の橘はやとは片親の単身赴任を理由に転校を余儀なくされる。そこは冒頭に描写された妖艶な化け狐の伝説「くえん神話」が今なお息づく辺境の地だった。彼は紆余曲折の末に一族の末裔にしてヒロインのくえんと邂逅を果たす。
はて、そうすると強烈な違和感が頭をもたげる。本作のタイトルは「出会って4光年で合体」だ。光年とは時間単位ではない、距離だ。物語の序盤に寄せるなら4光年というよりは400年とかそういう感じがしっくりくる。大方、主人公とヒロインの間には歴史を越えて相通じる関係性があるのだろう。もしや作者は単位を取り違えたのだろうか?
そんな疑念にうっすらと呼応するのが26ページ目。本作の世界には現代でいうGAFAをさらに強力にしたような企業群が存在している。 CATHEDRAL<カセドラル> と通称されるそれらは、人間のほぼすべての欲望を一手に引き受ける多様なサービスを展開する傍ら、途上国への支援活動も国家を上回る効率性でこなす超越的存在だという。
今までしきりに語られてきた民俗神話が一撃で意識の外に追いやられる唐突なSF設定だが、中盤以降ではさらに混乱を余儀なくされる。なぜならカセドラルはそのすべてが異星人によって運営されており、地球人類そのものも実は上位存在の糧となるべくして作り出された生命だと明かされるからだ。
以降の展開は本作を読まれた皆さんにはご存知の通りだ。「出会って4光年で合体」は誤りではない。くえんは上位存在と融合する異星人の餌として、橘はやとはくえんの餌として、創造主の命によって宇宙船に移住させられる。二人が再会した時、そこは地球から4光年離れた位置を漂っていた。
しかし本作が文字通り物語っているのは主人公やヒロインよりも二人がいかにしてこの世界に構築され、あるいは周りの人々が影響を与えあっているかを示す背景の方である。様々な偶然と数奇な出会いの連続を経て二人は共に生きている。その端緒は本作の11ページ目でうかがえる。
主人公は顔も知らない実の母親に便器で産み捨てられて生まれた。偶然にそれを保護したのは特殊性癖を満たすべく女子トイレに忍び込んだ盗撮犯で、彼が自首した後にようやく育ての両親に引き取られる。だが物語冒頭、両親はたちまち離縁して親権を持つ父親も転勤でいなくなり、彼の事実上の保護者は父方の祖母のみとなる。
こうした背景の描写は主人公のみならずほとんど作中に出番のない脇役に対しても行われている。たとえ本格派の小説であっても各登場人物の背景をここまで細かく明示するのは珍しい。後に主人公が救おうとする野良犬にさえ背景がある。ズーフィリアの原始人が失った羊を想って描いた自慰用の壁画からはじまり、最終的に一匹の野良犬へと繋がる壮大なサーガが克明に語られているのだ。
この鬼気迫る精緻さは後半に描かれる原初の生命の成り立ちをもっていよいよ裏付けられる。本作の表象的なジャンルはポルノと民俗神話とSFだが、より奥深いところでは様々な生命の交差が織りなす偉大なる足跡を辿っている。単純な凹凸を備えた原初の生命が物質的安定を求めて互いに結合し、やがて分化していく姿はまるで我々の営みを代表しているかのようだ。
本作の登場人物には醜さがある。美しさを一身に背負ったヒロインくえんとは対照的に、橘はやとは醜男であり、彼を結果的に救った男は盗撮犯であり、彼を育てた両親は夫婦生活に失敗した上に育児を半ば放棄する。主人公のクラスメイトはおまるで脱糞しながら切腹する侍に興奮する変態性欲の持ち主であり、その母親もアナルビーズに固執する官能小説家だ。
だが、それぞれが互いの欠落を補い突起を活かし、生命を育み助けて、一つの目的に向かい協力を重ねたことで主人公の親友にして天才長曽我部真男の計画は実を結ぶ。異星人が言う「もし地球人が君たちを迎えにきたら帰っていい」との無茶振りに応え、二人は無事に救出されるのだ。
実際のところ、400ページの尺の大半は度し難き凹凸を持つ人々の姿を浮き彫りにするために割かれている。あたかも原初の生命が安定を求めて結合するように……足りない者たちの充足、尖った者たちの躍動、生命のダイナミズムを描かんとして本作は生まれたのだと僕は信じている。
性表現について
本作はポルノなので性表現に手抜かりはない。400ページもの長大な作品と聞くと性表現はおざなりなおまけなのかと誰もが疑うが、その豊かな技法は性表現にも惜しみなく応用されている。
作者はとりわけフェラチオにただならぬ熱意があるらしく、本作では多数のフェラチオシーンが丹念に描かれている。持ち前の絶妙な表情作りを活かした「フェラ中に目線を合わせる仕草」はこのプレイに特別な関心がなくとも、つい蠱惑的な感情を抱かずにはいられない。
本作126ページにおいてくえんが精飲の可否を筆談でうかがい――なぜなら彼女は今まさに橘はやとの精液を口内に含んでいるからにして――彼が快諾するシーンは、現代の発達した性表現の世界ではとりたてて珍しくはない。しかし、二人のこれまでの経緯や経験の乏しさを踏まえると、性的な逸脱に手を染めた共犯関係的な背徳感がまざまざと強調される。
なにしろくえんは間違いなく精飲を拒まれるはずがないと承知しながら、あえて自ら興奮を高めるプレイの一環として許可をとる体裁を作ったのである。同時に橘はやとも意図を受け取って許可を与えることで興奮を高め、直前の運命的なシーンを連想させる非言語コミュニケーションの一致がありふれたシチュエーションに神聖な不可侵性をもたらしている。
ちなみに僕が特に気に入ったのは90ページの、くえんが橘はやとに「なにを想像して自分で自慰をしたのか」尋ねるシーンだ。個人的にはもっと責め立てる口調だとより好みだったが、作中の彼女のためらいがちに興味を示す顔つきと旺盛に質問を重ねる姿勢を前に僕も性的興奮を抑えられなくなり、とりあえずここで一旦シコった。
苦難を経て再会した二人がようやくタイトル回収を行う328ページ以降のシーンは、待ち焦がれた年月の長さが耽美に演出されている。性交渉に至る間際の触れられるだけで身をよじり恍惚とする彼女の様子は、少女の表象としての初心な恥じらいではなくむしろフェチズムの発達を強く示唆しているのだ。
まもなく二人はマジで濃厚すぎるセックスを交わして――そう「出会って4光年で合体」のタイトルが示す通り、二人が性交を行うのはこのシーンが初めてとなる――かくも円満に物語は閉じる。よく作り込まれたエロゲのトゥルーエンドに似た深い感慨を覚えつつ、せっかくなのでもう一度シコった。
おわりに
どう取り繕っても本作がポルノと見なされる現実は覆しがたい。事実、ポルノであるし、そうであるばかりか、成人男性とローティーンの少女との性交描写が含まれている。すなわちこれは小児性愛のコンテンツと形容される。この時点で商業の流通はほぼ望めず、海外展開に至っては逮捕拘禁のリスクをもつきまとう。本作がインターネットの外に出て脚光を浴びる日は決して訪れないだろう。
だが、こうした世相にあっても我々の社会に合法の販売プラットフォームが存在していて、正規の手段で閲覧できる法的状態が今なお維持されていることは大いに喜ばしい。剥きだしの刃物を然るべき場所に保管する注意を我々が怠らないかぎり、400ページのエロマンガが800ページでも、逆に4ページであっても作品を創り、読み、正当に評価を受け、与える機会が得られるのだ。
我々自身もまた不用意に触れれば指先を削ぎ落としかねない表現のエッジを愛でて、ひとしきり堪能した後に素知らぬ顔をして日常へと帰っていける。このような分別と尊厳の行き届いた社会に改めて感謝の念を抱いたのもひとえに本作のおかげである。ていうか全作買おうかな。