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「機動戦士Gundam GQuuuuuuX」レビュー:ガンダムもエヴァも嫌いだ | 2025-01-29T14:53:36+09:00 | true |
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最初に言っておくが僕はガンダムもエヴァも嫌いだ。まず、ミリタリーなんだかオカルトなんだか結局よく分からないところが気に入らない。言うまでもなく、ファーストガンダムの革新性は「白衣を着たひげもじゃの科学者だか秘密結社だかが頑張って作った」みたいな解像度に留まっていた”ロボットアニメ”をミリタリー作品の水準に押し上げたことだった。
つまり、”ロボット”――モビルスーツは作中の軍産企業が製造し、資金は政府が拠出する。事前の計画やデータに基づいて設計が行われ、必要に応じて中断や改良、量産化もありえる。殊に量産化の概念は本作の”ロボット”が操縦者の相棒でも友達でもなく、純然たる兵器、道具に過ぎない事実を効果的に打ち出している。
短いシーンとはいえ補給や修理の描写があったのも良かった。どんなに優秀な兵器であっても補給なしでは戦えないのが戦場の常である。しばしば謎の無限エネルギーでごまかされていた”ロボット”の動力に制約を設けたことで物語の緊迫感も高められている。
そこで描かれるのはまことにリアルな戦争の様相だ。主人公だからといってやることなすことが正しい方向には進まない。善悪と関係なく人々は戦争に巻き込まれ死に、戦うかぎりは誰でも人間を殺す。戦わなければ自分が殺される。当時のアニメ制作においてこの領域に踏み込んだのはたいへんな偉業だったと思う。
しかし結局は徹底しきれなかった。作中でどんなにモビルスーツの兵器性を強調しても予定調和的にアムロがガンダムに乗り、続編ではカミーユがガンダムに乗る。シャアのザクは赤く塗られた専用品でどう見ても道具以上の愛着めいたものが宿っている。これはミリタリー作品のあるべき姿ではない。士官とはいえ現場のいち兵士に道具を選り好みする権利などあっていいはずがない。ガンダムが修理中ならガンキャノンで出ろ! まあ、最後にフェンシングで殺し合ったのは偉かった。
ニュータイプの設定に至っては最悪の一言に尽きる。せっかくミリタリーSFに相応しい設定を丹念に積み上げてきたのに、どうしてわざわざ根底から無に帰すような真似をしたのだろう。しかし富野監督曰く、人間同士が真に分かり合うというテーマ性においてはむしろこっちの方が重要な要素らしい。じゃあもうマクロスでいいじゃん。あっちの方がよっぽど素直だよ。
あまつさえニュータイプはしっかり軍事運用されて、専用のモビルスーツまで出る始末である。以降の続編でも格差は広がる一方でオールドタイプの立つ瀬がない。これではニュータイプが優生的な思想を持つのもさもありなんというか、仮に持たなくても「優位性を認識した上で控える」というような態度を内面化せざるをえず、どちらにしてもグロテスクさが付きまとう。
それゆえ歴代の作品でいかに主人公(当然、ほぼ例外なくニュータイプである)が平和や共存を叫ぼうとも、かえって嫌味ったらしい自己欺瞞にしか聞こえない。そこまで能力的に秀でているなら遅かれ早かれオールドタイプを統治する役回りに選ばれるのは必然であり、むしろ清濁を呑み込んで指導者として名乗りを上げる方が潔いとさえ感じる。
エヴァはある意味でもっとひどい。ミリタリー的な要素を広く継承しつつも、エヴァそのものに内包されたオカルト性がすべてを台無しにしている。もはやニュータイプどころの騒ぎじゃないし根本的に理解させるのを拒んでいるとしか思えない。ここまで来るといっそエヴァ自体がいらない。エヴァで面白いのはエヴァ以外の兵器で戦う場面だ。もしエヴァ抜きのエヴァがあったら僕はそっちの方を気に入るに違いない。
次に、作品展開が無責任なのが気に入らない。ファーストガンダムやテレビ放映版のエヴァンゲリオンが実質的に未完で終わったのは、まあ仕方がない。両作とも予算の都合やスポンサーの意向でどうにもならないところはあった。しかし、以降の続編にそんな言い訳は立たない。
Zガンダムの展開は本来許してはならなかった。ファーストガンダムの課題を回収するどころか50話かけて逆に事を荒立て、さらにZZガンダムと逆シャアに後始末をぶん投げてしまう怠慢を犯している。前者におけるカミーユはあまりにも超越者然としすぎていて、これが富野監督にとっての目指すべき人類の革新なのだとしたら強迫的にもほどがあると言わざるをえないし、後者は後者で逆にシャアを俗物的に描きすぎだと思う。最終的に皆殺しにするならZガンダムで頑張っていたのは一体なんだったのか。
そしてエヴァはやはりもっとひどい。劇場版(Air)をやって完全に墓に押し込んだはずの作品を、なぜかもう一度掘り起こして作り直しせしめた。それでなにがどうテーマ性が補足されたのかと言えば、映像が良くなった他には特になにもない。同じ話が繰り返されるどころか、ゲンドウ本人に全部喋らせたぶん脚本面ではむしろ退行している。エヴァファンの連中は本当にあんな台詞回しで納得したのか?
その点、漫画版の『ガンダム THE ORIGIN』とコミカライズのエヴァはいいものだ。あらゆる課題が作品内で回収され、説明すべきところを説明しきり、クリーンに完結している。こういう責任ある態度こそを今後の作り手にも、自分自身にも強く求めていきたい。どんな物語もまずは正しく終わらなければならないのだ。
ところがそんな折に、性懲りもなくガンダムの新作が降って湧いた。その名も『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』だ。なんでもサンライズとカラーの共同開発で、しかも宇宙世紀ものだと言う。その上、あまり関わっていはいないとうそぶきつつもしっかり脚本にクレジットされている庵野監督。僕の嫌いなガンダムとエヴァが、あろうことか合体しやがったのだ!
これを観ない選択肢はありえない。是が非でも劇場に駆け込んでいち早く文句をつけなければ収まらない。そう意気込んで鑑賞したのが先週の土曜日の話である。結論から言うと、意外に気に入ってしまって困惑している。そういう手で来られるとは想定していなかった。本稿では前半と後半のパートに分けてレビューを行う。
前半パート
本作は宇宙世紀ものであり、同時にアナザーU.Cでもある。本来ならアムロ・レイが搭乗するはずだったガンダムが、妙な気まぐれでシャアの手によって鹵獲されてしまったために一年戦争の歴史が大きく変わってしまったからだ。より厳密には”パラレルU.C”ということになる。
この点について、まず二通りの前提が考えられる。一つは「シャアがガンダムを鹵獲してから歴史が変わった」という捉え方、もう一つは「もともと歴史が改変されており、シャアもその影響下で行動が変化した」という捉え方だ。しかし理詰めで考えると後者以外にはありえない。
たとえばガンダムが開発されていたサイド3の状況が挙げられる。史実ではアムロ・レイをはじめとする民間人を巻き込む形で戦闘が始まるが、本作ではあらかじめ避難が済んでいる。これはシャアの行動とは連動しない事象のため、後者の形で歴史が改変されていると推定される。
ガンダムのデザインも史実とは異なっている。商業的な理由などのメタ的な理由を除けば、これもシャアの行動とは関わりのない事象ゆえ設計段階で介入があったのだろう。逆にこれらが完全にスルーされて前者の捉え方のまま押し進むとしたら、それはチェーホフの銃を忘れた脚本であり、失着していると評価せざるをえない。
また、モビルスーツの開発周りにも不審な点がある。試作機のガンダムが一機鹵獲されてもスペアパーツから陸戦型ガンダムを製造することは可能であり、機体がなくとも設計データがある以上はジムの量産化にも支障はないはずだ。しかし本作では連邦軍が不自然にガンダムの開発から手を引いたように見える。
代わりに登場しているのが「軽キャノン」なるモビルスーツなのだが、史実ではコストカットのためにジムに廉価なチタン系合金を使っているのになぜかガンダムと同じルナ・チタニウム合金を採用して量産化に成功している。どうしてそうなった? あるいはもしかすると、無傷で避難したテム・レイが辣腕を振るっているのだろうか。この辺りにはさらなる考察が待たれる。
対して過去ではなく先の出来事に目を向けてみると、こっちは割と筋が良い。ガンダムを手に入れたシャアが史実を凌ぐ活躍を見せ、あるいはジオニック社がガンダムの量産化に成功したとしても、それだけでは30分の1の国力差は埋まらない。史実の一年戦争において「アムロやホワイトベースの活躍は全体で見ると実はそれほどでもない」とはよく聞く話だが、まさしく逆もまた然りと言える。
事実、作中で語られる台詞を聞くかぎりでもドズル中将がソロモンで戦死しているなど、戦争の全体の流れは概ね史実に沿っていることが分かる。連邦軍がソロモン要塞に攻め入っているということはオデッサ作戦でもジオン軍は負けている(連邦軍はオデッサ作戦で地上を取り戻したおかげで反転攻勢の機会を得た)と考えられ、連鎖的に以前の作戦行動でもジオン軍は敗走していると判断できる。
他方、ホワイトベースやアムロのガンダムによって殺害されていたパイロットはその多くが生き残っていると推測される。まず、史実でアムロに惜敗を喫していたシャリア・ブル大尉は本作では小説版顔負けの立ち位置でシャアの右腕を担っている。
同様に、地上に降りる必要がなくなり、シャアとの関わりが薄れたガルマ・ザビも謀殺されずに生存している。ここから類推するに黒い三連星やマ・クベ、ランバ・ラルなども生きていると考えられる。一方、不明瞭なのはララア・スンの行方だ。
本作の一年戦争末期では、シャア専用ガンダムにサイコミュとビットを搭載した試作機が登場する。これは史実ではララア・スン専用モビルアーマー「エルメス」に搭載されていた兵装がそのままガンダムに移し替えられた形に近い。
となると、ララア・スンはどこでなにをしているのか? 答えは前半パートの終わりに示唆される。ジオン軍の基地に降り注ぐ巨大隕石を破砕すべく――シャアは利用するつもりでいたが――作戦行動をしていたところ、偶然にもセイラと遭遇する。これがきっかけでサイコミュになんらかの異常が発生して”キラキラ”なワームホールを形成、シャアは渦の中に飲み込まれてしまう。
僕の記憶違いでなければ、その時にララアの声が聞こえていた気がする。ファーストガンダムから逆シャアまで執拗に絆の深さを強調していただけに、本作でも彼女がシャアと関わることはまず間違いないだろう。結果、ワームホールのおかげで隕石は半壊、ジオン軍の基地は壊滅を免れて連邦軍は最後の反撃の機会を失う。
最終的に一年戦争はジオン公国に大幅に有利な条件で無期限の休戦を迎える。宇宙空間から連邦軍は撤退し、残されたコロニーはジオン公国の保護下に入ったのだった。個人的に一連の流れは総合的にかなり印象が良い。
もしガンダム一つで戦況がひっくり返り、ジオン軍が連戦連勝で圧勝、みたいな流れだったら冷笑して席を立っていたところだったが、モビルスーツの過度な神格化が抑えられた妥当な筋書きがスクリーン上で展開されたおかげで僕の尻はシートの奥底に深く沈み込んだ。気づけば手元のポップコーンはもう空だった。
後半パート
後半パートに入ると急に絵柄が変わる。前半パートはファーストガンダムを解像感だけブラッシュアップさせたようなクラシカルな画作りだったが、後半ではいかにも現代的な雰囲気だ。調べてみるとキャラクターデザインはポケモンの人がやっているらしい。言われてみればそんな感じがする。
作中の舞台となる宇宙世紀0085は前半パートと地続きの歴史を歩んでいる。実質的に戦争に勝ったとはいえジオン公国の統治は芳しくない。もともとの国力差に加え、予定より長期化した戦争の影響で物資も人員も不足していてコロニーに支援が回りきらない状況だ。
後半パートの主人公たちが暮らすサイド6はそんな中でもそれなりに豊かな生活水準を保っているように見える。実は史実でも中立コロニーとして一度登場している。戦禍のさなかでも平和な恵まれたコロニーである一方、領空内で連邦軍がジオン軍に襲われていても我関せずとばかりにテレビ中継で成り行きを見守るなど、どことなく他人事な態度が目立っていた。
おそらくこのサイド6の様子は現実の日本の有り様をモチーフにしているのだろう。今も昔も世界のどこかで大勢の人々が戦争の犠牲になっているが、それとはまったく無関係に我々は概ね満ち足りた生活を送っている。そんな意図をより濃く反映したのか、本作のサイド6は現代の日本の都市部を再現したかのような都市景観を備えている。
もちろん、ガンダムの時代設定は21世紀よりずっと未来なので合理的な理由に基づいて都市が建築されたとは考えにくい。ガンダムの世界には「テキサスコロニー」など特定の時代を再現したテーマパーク的なコロニーが存在していることから、作中の設定においてはこれも「21世紀冒頭の日本の都市」を演出的に構成したものと思われる。
さて、その街の中で主人公のアマテ・ユズリハは平凡な高校生として平凡な日々を送っているのだが、もし現代の女子高生の行動様式に沿っているのだとしたら疑問点が残る。まず、今時の子は調べ物をする時に律儀にググってWikipediaを読んだりはしない。おそらくSNSでワード検索をするだろう。
設定上もそっちの方が利点が大きい。なにしろジオン公国が表現の自由に気を遣うような政体とは思えず、インターネットは当然に検閲されているだろうから著名なWebサイトは常時監視されていると考えられる。違法パーツの情報が揃った固定のWebページなど真っ先に削除されるに違いない。
対してSNSは大量のユーザによって投稿が散発的に随時行われており、たとえ検閲の対象であっても当局の対応が追いつかない場合がある。百歩譲ってアマテことマチュが長文を丹念に読むマメな性格ならWWikipediaでも納得できるが、どう見てもそうではない。モチーフには解像度が要求される。
違法パーツ自体の設定についてはまだ判断を保留している。イケイケの軍事国家であるジオン公国がいざ統治を担う立場に回った途端、モビルスーツの非武装化を推し進めるというのはなかなか皮肉が効いている設定とはいえ、あのテム・レイ回路とハードディスクの合の子みたいな機械で再武装化が可能になるイメージはどうにも湧きづらい。もしソフトウェア上の認証を解く暗号鍵のような代物ならあんなにデカくする必要はない。
一方、ニャアンと難民の設定は時代に即していると感じた。一見豊かそうなサイド6でも実は大勢の難民が流れ込んでいて、彼ら彼女らは貧困を余儀なくされている。ニャアンと聞けばいかにもアニメっぽいキャッチーさだが、おそらくはベトナムの姓名から着想を得た命名だと思われる。
現代の日本にベトナム系の出稼ぎ労働者が急増している背景を踏まえると、この設定は決して偶然ではないだろう。現実の彼らは難民でこそないものの、業者の甘言に騙されて多額の借金を背負わされた挙げ句、日本の理不尽な外国人技能実習制度によって労働力を搾取されている。
にもかかわらず、現にこの国で国民として暮らし、選挙や運動を通じて諸制度を変えられるはずの我々は彼らの現状に驚くほど無関心だ。彼らが最低賃金を大幅に下回る給与で過酷に働いているおかげで安価に食料や製品を手に入れられている側面もあるのに、せいぜい治安を乱す迷惑なガイジン程度にしか思っていない。
難民関係のシーンといえば本作に登場する「軍警」のキャラクター像はなかなか面白い。黒塗りのモビルスーツに漢字が印字されているデザインは庵野監督のようでもあり、押井監督のようでもある。作中では難民居住区の天井を引っ剥がしてでも強行捜査を行うなど権威を笠に着る典型的な小悪党として描かれていたが、今後の深掘りに期待したい。
ところで、本作における最大の力点はそんな軍警や当局の目をかいくぐって行われる興行「クランバトル」である。参加に違法パーツが必須で実弾を発射することから命の危険はあるにせよ、どことなくe-Sportsを連想させる雰囲気が漂う。
ひょっとすると本作の企画は5、6年前に始まったのではないだろうか。従来の検索エンジンに頼った調べものの仕方といい、クランバトルのe-Sportsっぽさといい、どうも半周遅れのトレンドを脚本に盛り込んでいる気配がする。実際には半周遅れなのではなく、脚本執筆時にはまさにトレンディだったのだろう。
戦闘シーンはさすがに予算がかかっているだけあって滑らかに動く。意図的にクラシカルな作画に制約されていた前半パートもそれはそれで味があったが、後半パートの戦闘シーンには勢いが強く見応えがある。敵方のチームが執拗にマチュを追い続けて返り討ちに合うところは思い返すとややご都合展開っぽいが、観ている最中にはあまり気にならなかった。
一連の話運びから想像すると「キラキラ」の正体はニュータイプに特有の神秘空間であると同時に、平行世界を行き来するワームホールなのだと考えられる。シャアは飲み込まれて消えたのではなく、どこか別の宇宙世紀の世界で生きているに違いない。
逆に、シャアが乗っていた機体をなぜか持っているリュウジは別の平行世界から来た人間なのだろう。シャアと出会ってなんらかの約束を交わしたか、入れ違いで転移したのかもしれない。「キラキラ」を感じることができるマチュもまた、なんらかの形で平行世界に移動するのは必然と思われる。
なにしろリュウジの頭に乗っかっているロボットの名前は「コンチ」だ。ガンダムシリーズではおなじみの球体ロボットの名前が「ハロ」(Hello)で、それと対照的に四角いロボットの名前が「コンチ」(こんにちは?)……ここまであけすけな伏線を張っておいてなにもないわけがない。
ちなみに、こうした平行世界――作品世界の広さを活かしたマルチユニバースものも洋画業界ではかつて流行っていた展開の一つである。「水星の魔女」に引き続きトレンド重視の作品作りをすることで若年層の獲得を目指し、片や時代設定ではIFのファーストガンダム以後を描く形で中高年層をも誘い込むのが本作の狙いなのだろう。
マチュの家がミサトのマンションと瓜二つなところといい、エヴァファンに向けたイースターエッグにも余念がない。僕は一つしか見つけられなかったが探せばもっとあるに違いない。エンドクレジットに並ぶ錚々たる制作会社の顔ぶれを見るに、かなり広い集客を見込んだプロジェクトなのは間違いない。
僕が冒頭で「割と気に入って困惑している」と書いたのも、モビルスーツの兵器性やらニュータイプやらを一旦脇に置けるほど本作の野心的な取り組みに率直な感銘を受けたからだ。こうなったからにはとことん歴史をかき回して新たな解釈を生み出してもらいたい。ひたすら創造を重ねて膨れ上がったガンダムの世界は今、破壊と再生の時期に来ている。