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2023-08-21 10:07:01 +09:00

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「一文が長い」と言われてもな 2021-05-25T10:50:31+09:00 false
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ロゴーンっていうWebサービスがある。言わずと知れた文体診断サイトで、ここに自分の文章をぶちこむと項目別にスコアリングしてくれる。項目は四つあり「文章の読みやすさ」、「文章の硬さ」、「文章の表現力」、「文章の個性」がそれぞれ評価される。文体が似ている作家をリストアップしてくれる機能もあるが、そっちはよく判らない。

このうち「文章の読みやすさ」以外は問題にならない。僕は「文章の硬さ」を記事の内容に応じて意識的にコントロールしている。だから硬すぎるのも柔らかすぎるのも自己演出の一つに入ると思っている。具体的には、記事のポエム力が高くなるほど文体を柔らかくしている。「っていう」とか「じゃないか」みたいな言い回しは無計画に出力されているのではなくて、あえて意図的にしつらえた装飾というわけだ。

こうした表現の違いがページビューに繋がるかはまだ検証できていないが、書き分けを試みるのは単純に面白い。くそ真面目な論文調の記事を読み終わった読者が、気まぐれで別の記事に遷移したらまるで雰囲気の異なる文章に出くわして面食らう、みたいな体験をぜひとも与えてやりたい。

後半二つの「表現力」、「個性」についてはあえて言及するまでもなかろう。長文を書いてB未満を取ることの方が難しい。「同じ単語を使い回すのはダサい」とか「助詞が連続するとダサい」といった文章に対する基本的な美意識が身についていればBから落ちる恐れはほぼない。今のところ僕の記事はだいたいどれもA評価を得ている。

問題は「文章の読みやすさ」なのだ。ロゴーンのやつが言うには、僕の文章はいつも「一文が長い」らしい。そのせいでここだけE評価を下されている。確かに、自覚はなくもない。僕は文章の書き方を小説から学んだせいか、一文の組み立てが冗長になりすぎるきらいがある。腰を据えて読む小説ではこの特徴は必ずしも失点にはならない。僕が主戦場にしているSFでは逆に歓迎されることもある。一文が長く、やや説明的なくらいの方が物語の重厚さを感じやすいからだ。

だが、ブログではどうだろう。ブログは小説とは接し方が違う。ただでさえ娯楽に満ち足りた今、プロの作家でさえ自分の文章を読ませるのに心を砕いている。どこの馬の骨とも知れない素人の文などちょっとでも引っかかりを感じれば即座にブラウザバックされて終わりに違いない。

僕がブログを書く目的は小説以外でも執筆と向き合う習慣を維持するためなので、じゃんじゃかアクセス数を稼ぐモチベーションはない。ある意味では、僕自身が僕の名において衆目に晒せる文章を書けたと納得できた時点で目的は達成されている。しかし、しかしだ。機械相手とはいえ「お前の文章は読みづらい」と評価されて、すごすごと引き下がっていられる性分ではない。

さしあたっては僕が普段読んでいるブログを解析にかけてみた。どんな場合でも先達を参考にする手法は有効だ。まず有名な書評ブログ「基本読書」の記事を診断した。文章の読みやすさはC。評価は「適切」。ムム、やはりそうなのか。確かに基本読書の書評は頭に入りやすい。全体の長さも過不足なく、対象の本の魅力を上手に引き出している。僕は自分の独自解釈満載な書評スタイルをとても気に入ってはいるが、本の魅力より自分自身が前に出すぎている平たく言えば出しゃばりと感じてもいる。書評は奥が深い。

次は過激な論調で知られる「テストステ論」の記事から引用。文章の読みやすさはB。評価は「読みやすい」。納得の評価だ。著者の持つマッチョイズム、新自由主義的な価値観にはまったく賛同できないが、文章そのものは好ましいと思うので読んでいる。僕は、小説以外の長文は文章ありきで選り好みしている。たとえどんな危険思想じみた内容であっても文章が好きなら読む。我ながらめちゃくちゃな選定基準だが、結果的に色々な世界観に接することができて案外悪くはない。

最後に 「人殺しの顔をしろ」 という象徴的なミームを生み出したブロガー、黄金頭さんのブログ「関内関外日記」の記事より引用。「人殺しの顔をしろ」そのものの方を挙げてもよかったが、投稿年が2010年と古く、さすがに十年以上も前の文章を引っ張ってきてあれこれ言うのはフェアではない気がしたので、僕のお気に入りの記事の中から比較的新しいものを選んだ。文章の読みやすさはA。評価は「とても読みやすい」。すばらしい。

彼の一見して高揚感にあふれた語調と、その脇からまろびでる破滅への恐怖心は真似しようとしてできるものではない。それはあたかも摩耗したゴムを彷彿させる。まだいくらでも伸び縮みするように見えて、切れる時は一瞬だ。そういう運命を線香花火に例える輩もいるが、死の間際だからこそ一層綺麗に光り輝くなんていうのは美化された妄想に過ぎない。ほとんどの人間は社会の要請に応じて必死に伸び縮みを繰り返し、耐えきれなくなったらブチンとちぎれて死ぬ。ちぎれた際の音がいくらか大きければ多少は慰みになる。そういう世界だ。

さて、こうして三つのブログの文体を診断してみたが、どうやらロゴーンの野郎の言い分には一理あるらしい。僕が読みやすいと思った記事の評価はいずれも高い。ということはやはり僕の文章は一文が長く、読みづらい。そいつを認めねばならない。認めたところで、試しに一文の長さを意識して長文を書いた。実を言うとこのエントリがそうだ。いま文章を読んでいるあんたはさしずめテスターってことになる。もし本エントリが気に入ったら高評価ボタンを、できればチャンネル登録もよろしく!

なんてな。そういうクソみたいな仕組みに縛られずに済んで助かってるよ。ちなみに、本エントリを解析にかけたらC評価だった。意識しただけの甲斐はあったな。次からも気をつけていこう。