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Migrate | 2023-08-06T20:26:45+09:00 | false |
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私の家の壁には海岸が飾られている。軌道上で衛星カメラが撮り溜めした動画をループ再生しているのだ。構図は決まって上半分が海、下半分が砂浜で、地球のどこの海岸を映し出していてもそれは変わらない。ルームメイトのリィはこの構図しか好まない。ディスプレイというよりは絵画を意識したつもりなのか、投影部分の周りは大げさな中世趣味の額縁で囲まれている。
「これこそが大自然のツートーンなんだ」
などといかにもなことを彼女は言う。うっかり耳を傾けてしまった、と後悔した時にはもう遅かった。彼女のおしゃべりは尋常ではない。一〇〇年変えていない紫と銀のストライプでできたロングストレートの髪型を揺らしながら、堰を切ったように語りはじめた。
「とは言うけど、潮の満ち引きがあるからこうきっちり上半分と下半分には分かれないんだよね。もし単に定点撮影をしているのなら。じゃあなんでこの絵は比率を保っているのかというと、もちろん私が衛星カメラを同調させているからなんだけど、都度変わる軌道角に対して常に最適な設定値を導くのは簡単な仕事じゃないんだ。でもそうすると私の物理的実体は海からずうっと離れた宇宙にあるはずなのに、図らずも未だ地上の現象に誘引されていることになる。しかし、潮汐を引き起こしている張本人は私たちのはるか後ろにいる月なんだな。その月もまた私たちと同じく地球の周りをぐるぐる回っている。こういう関係性からなにが得られるか考えてみたい。というのも――」
要するに、海岸の動画が芸術家のインスピレーションに役立つと言う。冒頭部分以外は聞き流していたので覚えていない。権限の乏しさと裏腹に豊富な計算資源を与えられるB4クラスでなければ、こんなリソース食いのインテリアはとても置く気になれないだろう。もともと、地上を映す衛星カメラは私たちの祖先たる地上人の行く末を観察するために運用されていたのだ。
およそ一〇〇〇年前に人類は進化の岐路に立たされた。衛星軌道上を周回するサーバに情報化した自分を登録して肉体を捨てるか、そのまま地表に留まるか。万人に選択肢があったとは言えない。不可避の隕石群の襲来という非常事態を前に、人類の大移住は混乱を極めた。ある者は地上を隕石から守ろうと最期まで手段を講じた。別のある者は思想上の行き違いから研究所や打ち上げ施設を破壊しようとした。
だが、毎年ちょっとずつ降り注ぐ燃えかすの隕石は、それだけで森林を焼き払い、都市に傷跡を残し、どうあがいてもいずれ文明の崩壊が余儀なくされる現実を突きつけた。来る生存圏の縮小と資源不足に備えて、人類はより低燃費に、よりコンパクトにならなければいけなかった。
こうして、名だたる企業によってイレブンナインの永久寿命を保証された一億人余りの新人類が誕生した。参画企業の名を冠するサーバが十にも百にものぼって宇宙へと打ち上がった。その多くは商業的な野心を秘めてもいたが、それが皮肉にも人類の分散的保存に一役を買った。
隕石に滅多打ちにされて順調に滅んでいく地上を尻目に、衛星軌道を回る百余りのサーバの情報空間では肉体を持っていた頃と良くも悪くも同じ生活が待ち受けていた。有限の電力からなる有限の計算資源に限界を設定されている以上、私たちに知覚的満足を与える情報生成物の分配は常に議論された。あらゆる情報には価値が付けられ、対価を払うために生産をして、知覚的不足を補おうとする。
要するに、眠ったり起きたり、食べたり飲んだり、働いたり休んだり、序列を競ったり、そういうエミュレートなしでは新たな生命を育めない新人類に種を保存するモチベーションをもたらせなかったらしい。
ここは恒久の避難所であって、ユートピアではない。なんとも空虚な未来だが、一〇〇〇年前に隕石に焼かれて死んでいたよりは良かったはずだ。たぶん。
この日もさしてこだわりなく選んだ低情報量トーストをテーブルの上に置いた。夜通しで机に向かっていたリィは、焼けたパンの匂いをかぎつけるとのそのそと食べだした。壁面の絵は今日も変わらず地上のどこかの海岸を映している。「よくもまあ飽きないものだね」と挨拶代わりに投げかけると彼女は軽くにらんだ。
「君の趣味も大概だろう」
「オーケー。お互いに言いっこなしってことね」
ざざあ、と絵が波の合成音声を再生した。
地上と衛星軌道の他に、もう一つの道を選んだ人々もいる。サーバの大部分を推進エンジンに組み替えて前人未到の外宇宙に飛び出していったのだ。当時、地上人が到達した宇宙はせいぜいアルファケンタウリ近傍までで、投じるコストの割に得られる利益の少なさゆえ宇宙開発は下火に追いやられていた。一〇〇〇年経ってなお、彼らから衛星軌道に連絡が届く気配はない。当然、私のアンテナに来るわけがない。
私はジェスチャでコントロールパネルを表示して、今朝の外部アンテナの状態を調べて所定の処理を施した。「ロマンティストだね。とうの昔に太陽系すら抜けられず全滅したかもしれないのに。一回でもなにか受信した試しがあったかい」今度は私がにらむ番だった。「私も自分でコストを支払って外部アンテナを契約している。こんな世の中じゃ割に合わない夢くらい持っていたいよ」
「二人揃って変人というわけだ」
悪びれもせずリィは身を乗り出して二枚目の低情報量トーストを手に取った。
「まあ、おかげさまで人間的享楽の程度はこんなもんだけど」
その気になれば私たちは感覚の基準値をスライダーの調整一つで数千倍にも負の値にも設定できる。しかし、数千倍もの解像感でテイストやディティールの隅々にまで知覚が得られるということは、数千倍の早さで即効飽きることを意味する。かつての豊かな時代では高度な基準値に合わせた生成物が流通していたらしいが、今ではほどほどに妥協して楽しむのが人生の秘訣とされている。
「別に食べなくったって死にはしない。最悪、オプションから空腹機能を切ればいい」
「あれ鬱になるからイヤ」
他愛もない雑談を交わしつつコントロールパネルを切り替え、自分のアバターに着せる服を選んで出勤の準備を整える。紺のロングコートに黒のパンツスーツでばっちり決めた。パネル上に拡大した姿見を見て、短くビビットなオレンジの髪色が今日のコーデにはやや明るすぎると気づいたが、まあいいかと妥協した。こないだ明度を〇.〇五度下げたばかりだ。彼女に「じゃあ、いってきます」と告げてテレポートを試みたところで、最近なにかと目につく制限通知に出鼻をくじかれた。
『現在、情報量の削減のためテレポートの使用を制限しています』
私はため息を吐いて不満を漏らした。
「またテレポートできないって」
だが、自宅が仕事場であるリィの返答はにべもない。
「たまに歩いた方がメンタルにいいんじゃない、仕事柄」私はあからさまな嫌味に嫌味で返した。「万年引きこもりに言われたくないね」とはいえ、復旧に賭けて遅刻しては元も子もないので結局歩いていくことにした。
玄関のドアを開けたあたりでかけられた「待たれよ」との声に振り返ると、不意打ちにリィが顔を寄せてきた。あまりにも機敏な動作だったせいで彼女の鋭いまつ毛が皮膚に突き刺さった。
「ほら、ちゅーしてやったぞ。せいぜい頑張れ」
「嬉しいけどまつ毛のピクセルはもっと削った方がいいね」
さっさと踵を返して部屋に戻ろうとするルームメイトの背中に向かって言ってやる。当の彼女は中指を立てた右手を掲げて応じた。
私が今のサーバに移住したのは一〇〇年くらい前になる。大小の企業が太鼓判を押した永久保証の人生にもついに終わりが訪れたのかと観念した矢先、次に目が覚めたのは登録前の走査が行われる真っ白なテンポラリー空間だった。幸いにも手先が器用でささやかな経歴を持つ私はDクラスのサスペンド処分を免れたが、懸念を呼んだのは住居でここには余剰の計算資源がなかった。そこで上位クラスとのルームシェアリングが提案され、すぐに応じたのがリィだった。
売れない芸術家だと自嘲する彼女のプロフィール情報には性別の記載がなかったものの、直近三〇〇年は女性体アバターに馴染んでいると言うので「彼女」と呼んでいる。図らずも私と同じだ。そうして、共に過ごして一〇〇年余りが経った。移住して日が浅い類友を探していただけの割には長続きしている。
ここの文化は以前にいたところとはずいぶん違う。私は久しぶりに街並みを見回した。まず街という街が四角四面のブロック状に統一されていて飾り気がまったくない。どこへ行っても変わり映えがしないので、うっかりすると自分のアバターが浮き出して見える。情報量を浪費して華美に着飾るファッションは明らかに歓迎されていない。
それも当然そのはず。私は移住当時に告知された利用規約を思い出した。「主力電源を喪失して久しい我々のサーバでは目下、情報量の削減が至上命題となっている」と言いつけられて、スペアアバターをすべて放棄させられたのだ。ワニのアバターがお気に入りだったのに。事情が事情ゆえ生きているだけマシと受け入れたが、年月が経つにつれて極端な緊縮政策に嫌気が差してきている。
本来なら地球上の天気が再現されているであろう空間上部も、#7d7d7dの灰色に一面塗りつぶされていて微動だにしない。そんな押し潰されそうな虚無の圧迫感に抗するがごとく街並みの至るところが色とりどりのパステルカラーで彩色されているが、このほどライトマッピングも無効化されたために見た目の安っぽさはどうにも拭いがたい。
「おや、君はセシリア……いや、今はセスと言うんだったな。徒歩で通勤かね」
噂をすれば、ブロック状の構造物が立ち並ぶオフィス街の通りで今もっとも会いたくない人物と出くわした。ある意味でもっとも中性的な、表情の読めないのっぺりとしたアバターの外見を模倣するように、私の顔もぎしりと硬直した。
「テレポートが使えなかったのでね」
それだけ言って立ち去ろうとしたが、彼は道を譲らない。
「まあそう急ぐな。君には一言、礼を言っておきたい。僕が考案した短縮名規則に応じてくれたのだから。前はあんなに嫌がっていたのに」
「利用規約となってしまっては仕方がないよ。サスペンド処分はごめんだ」
皮肉混じりに言い返しても彼は気にも留めない。システムが余計な気を利かせてポップアップしたプロフィール情報によると、彼のクラスはB1。上位モデレータだ。アドミニストレータ権限を握るAクラスを除けば最高の地位を意味する。日常で接しうる相手では事実上のトップと言って差し支えない。だからこそ下手な思いつきでしかない取り決めが公式の利用規約としてまかり通っている。
「前から僕は言っていたじゃないか。登録者が自らのアイデンティティをなげうつ姿勢から情報量の削減が実現されていくのだと。見たまえ、この整然とした街並みを」
カクカクの両手を広げて示すのは負けず劣らずカクカクのビル群。街のデザインを簡素化して情報量を大きく削減したのは彼の功績の一つとされている。対して、全登録者の名前をアルファベット表記で四文字以下に縮める新規約は言うまでもなくすこぶる評判が悪い。
というのも、内部的に別の英数字で照合されている名前を数文字ばかり減らしてもまったく削減にはならないからだ。理想的なアルゴリズムで圧縮したモナリザの肖像画すら賄えない。だが、反論は通じない。大切なのは姿勢と開き直るに違いない。かくいう彼の新しい名前もアルファベットでPとiの二文字しかない。パイと読ませたいのだろう。
「おかげさまで、今日もここへ来るまでに引っかかり一つなくて快適だったよ。なんせどこもかしこものっぺりとしているからね」
「そうだろう、そうだろう。これからどんどん良くなる。戦争指揮に計算資源を割り振っているAクラスの方々に代わって、モデレータが率先して登録者を導かなければ」
表情は読めずとも声の調子からパイの満足げな表情が伝わってきた。いっそ出力音声のビットレートも削り落としてしまえばいい。などと言ったら本気でやりかねないので適当にやり過ごして雑談から逃れた。背中に彼のデータ参照を企図する抜け目のない視線を察知して、私はピンク色をした四角いビルに飛び込んだ。やはり、ぎりぎりまで粘ってでもテレポートで行くべきだった。
ビルの中は外部の構造に反した空間が実装されている。見た目はペンシルビルでもグランドホテルのエントランス並に広いロビーが備わっていて、壁面に並ぶエレベータの数ときたら両手では収まりきらないほどだ。最上階は五〇〇階だが、実際に高低差を伴う空間座標が与えられているわけではない。現にエレベータに乗り込んで一二三階のボタンを押しても、数秒と待たずに目的地のドアが開く。エレベータの内部処理は単に異なる実装のテレポートとして機能しているに過ぎない。
今日のオフィスは二〇世紀末風だった。意味もなく仮想の紙切れが飛び交い、ブラウン管と接続されたアンティークな機械が並んでいる。それぞれのデスクの横には飲み口が薄汚れたコーヒーカップや、食べかけのスナックも置かれていた。私は親しんだ横顔の脇からスナックをかすめとろうとしたが、かざした手は衝突判定を与えられずに空振りした。見てくれだけとはハリボテにしても貧相だ。それに気づいた仕掛け人が振り向いてニヤリと笑った。「今日のは特に不評だ」
「もっと情報量に凝ればよかったのに」
コーヒーカップに手をめり込ませて左右に動かしながら感想を述べると、彼女は言った。「どこもそんな余裕はないさ。他のサーバと比べたらこれでも上等だ」白いワイシャツにネクタイが緩くかかった浅黒の男性体アバターの出で立ちは、まさしくステレオタイプな二〇世紀末のオフィスワーカーが再現されている。あえて表示させるまでもないが空中に浮かぶ彼女のプロフィール情報は、クラスがC1であることを示していた。部署の長ゆえ従業員の私より一つ高い。例によって名前は短縮されていて、S、I、Vの三文字でシヴと読む。
「ここは会社所有の空間だから勝手だが、今にどうなることやら」
ベージュ色をした機械がビーッと不可解な音を立てて紙を吐き散らした。どういう用途の装置か知らないが、たぶん紙を出すのが一つの役割なのだろう。どうせハリボテと見込んで手のひらを叩きつけると、予想に反して鋭いフィードバックが得られて面食らった。そして、なぜだか叩かれた途端に装置は嘘みたいに静まった。
まもなく始業時間を迎えると二〇世紀末のオフィスは初期化とともに虚空の彼方に消え去り、入れ替わりに標準環境の内装が戻ってきた。それぞれの座席に平らな半透明の操作盤がはめ込まれていき、正面にはスクリーンが設置される。部屋の壁面にもひときわ巨大なスクリーンがあてがわれた。サーバの外部カメラが映し出す地球の青く淡い光と黒ずんだ宇宙のコントラストがオフィスの雰囲気を引き締める。
フィードバックに晒された手を抑えてシヴと目を合わせると、彼女は肩をすくめた。
「さあ仕事だ」
既定の座席に着くとスクリーンが点灯した。続けて、半透明の操作盤も発光してジェスチャ入力を受けつけるガイドラインを示す。スクリーンの向こう側には、漆黒の海ときらめく星々が広がっている。
操作盤の上で手をぎゅっと握って手前に引くと、スクリーンに映る宇宙の風景が傾いで遠くの星々が滲んだ。今度は逆に奥に押す。感覚はないが経験で探査機が正しく動作したことを確信する。念を入れて左手のジェスチャでシステムステータスを呼び出すと、案の定、オールグリーンで正常だった。次に、両手を高く持ち上げて手のひらを閉じて開くと、ロボットアームがスクリーンの視界に映り込んで同じ動きをした。
戦争中でなければ人間の移住方法は本来一つしかない。
あるサーバから他のサーバに移住申請が届け出されると、衛星軌道上を周回するサーバ同士が同調して距離を徐々に縮める。その後、巨大なパラボラアンテナ――私の契約しているアンテナとは比較にならない大きさだ――が傾斜して最寄りのサーバに向きを合わせる。受け手側もアンテナを動かす。三回、移住希望者の情報を送信して、三回ともパケットロスがなければ転送成功と判断され、元のサーバの情報は削除される。多少のパケットロスは誤り訂正機能で補われるが、一定の閾値を越えた時には再送信の機会を待たなければならない。移住者の希望するサーバが運悪く遠方だった場合は、この作業を隣接するサーバの数だけ繰り返す必要がある。
運が悪いと途中のサーバで待ちぼうけを食らうこともある。メッセージやファイルの送受信はネットワーク通信で事足りても、人間の転送にはどうしても慎重さがつきまとう。なにはともあれ、これが唯一の方法だった。
私は慣れた手さばきで探査機を操縦して半回転させた。ジェットが細かく白い気流を吹いて探査機に推進力を与える。全身に大量のカメラやセンサ、上部には例の巨大なパラボラアンテナを配した、円柱形のサーバが地球を背景に宇宙を泳いでいる様子が見えた。反射光に照らされて鈍く光る白色の表面は、よく見ると全然白くもなんともなくむしろ錆びついて薄汚れている。ところどころには戦禍の傷跡もうかがえる。全長約一キロメートル物理単位のこのサーバ――ハードフォークスⅠに、私を含む数百万の人間が電子情報的に暮らしている。
先の交戦で主力の核融合発電機を喪失して一二〇年。今は消費電力を抑えつつ、昔ながらの太陽光発電で命運を引き延ばす衛星軌道上の病床だ。近隣のサーバも軒並み深刻な問題を抱えている。
再び探査機を反転させた。善戦にも拘らず敗北を喫した友好サーバの残骸は未だ多くが未回収となっている。アームを振り回し無価値な石塊や人工物のデブリを払いのけて探査機を推進させること二時間、ようやく最初の目標が見つかった。心なしか、操作盤の上の手の動きも神経質さを帯びる。ジェスチャで入力精度を小数点以下にして大きな動作が小さく反映される形に再設定した。
目の前に浮かんでいる板切れはどう見てもデータストレージそのものだ。しかも保護外装が新品同様に美しく、一つも剥げた箇所がない。物理的損傷がなければストレージはかなり長く機能する。中にいる人々も生きているはずだ。
勤労意欲はなくとも同胞意識は感じる。かつては私もそうだった。何百年も宇宙を漂っていたのをここの探査機が見つけて拾ってくれたのだ。センチメートル物理単位の動きでアームを近づけ、深緑色の保護外装の端すれすれを意識して掴んだ。ふうっと息が漏れる。まだ終わりではない。
次は半ば開いている手のひらをゆっくりと閉じていく。強く掴みすぎてはいけない。外装ごと基盤を潰してしまう。かといって、弱すぎてもいけない。持って帰るまでに生じる振動や回避運動によってアームから外れてしまえば、最初からやり直しになる。
スクリーンの向こうのアームがギリギリと基盤を上下に締めつけている。見た目はもう十分そうに思える。しかし私は計器を信用して、さらに手のひらを数ミリ閉じた。無骨なアームの先端が外装に軽くめり込んだ直後、手の動きをぴたりと止めた。空いている方の手を使ってアームに固定設定を施したと同時に、両手を操作盤から外して小休止をとった。
気を取り直して帰還作業に入る。アームで掴んだ生命を宿す板切れを傷つけないように、身を盾にして背面推進でデブリをかきわける。対物センサが立て続けに衝突を通知するがお構いなしだ。豆粒みたいに映るハードフォークスⅠがじわじわと広がる過程で、私は成功を確信しつつあった。
だが、ステータスが衝突通知ではないタイプの警告を鳴らした瞬間に、実在しない全身の筋肉がこわばるのを感じた。
敵機の接近を報せる真っ赤なアラートがスクリーン上に点灯した。まだ見ぬ視界外の脅威に対応すべくジェスチャの入力精度を大幅に上げて戦闘態勢に移行する。握った両手を左右に振り、小刻みに動かすと探査機は大仰に応じてジェットを吹いた。くるくると渦を巻いて撒き散らされる軌跡を五〇ミリメートル物理単位の赤色光線が次々と通過していくのを視認した。スクリーンの横にサブモニタを展開して射線の始端を見やると、そこには鋭い矢をつがえた弓の姿を象るメインブランチⅠの戦闘機がいた。システムステータスが敵機の識別情報をすばやく伝える。交戦中の陣営で最大規模のサーバだ。ジェスチャで有弾ミサイルを呼び出して射出するも、二基のプラズマエンジンの駆動力にかわされる。その隙に私は手を押し込んで探査機を発進させた。ハードフォークスの防衛システム圏内にたどり着けばどうにでもなる。
通常、敵対するサーバが有視界上に現れることはありえない。同調のための限定された推進力しか持たないサーバ同士が正面きって撃ち合えば確実に共倒れだからだ。そのため、敵対するサーバとは常に地球を遮蔽物にして反対側の軌道を回る形となる。だからといって指をくわえて互いにぐるぐる回り続けるわけもなく、遠距離ミサイルを衛星軌道に載せた爆撃か、このように戦闘機による襲撃がたびたび行われる。事実上の母船たるサーバは容易には落とせないが、いま私が動かしている探査機などは連中にとって良い的だ。有力な情報資源が眠っているかもしれないストレージをみすみす敵の手に渡す道理はない。
三度のアラームに際して私は重大な決断を迫られた。このままではストレージを離してしまうか、さもなければ回避運動の際に計算外の挙動をもたらしかねない。両方を避けるにはロボットアームの両手を貫通させて抱え込むしかない。当然、中に格納されている人間の一部は情報を不可逆的に失って絶命を余儀なくされる。
意図的に推進力を落として予測射撃を避けた後、いよいよ打つ手がなくなった私は否が応もなく固定を解除して握りしめた手を縦に振った。片手で穏便に保持されていたストレージの端にめりめりとアームが埋まり、ばつんと貫通する。すぐさま内側に引き寄せてもう片方のアームも端にめり込ませる。強力に確保されたストレージを探査機越しに抱きかかえるようにして、おぼろげに映る円柱の輪郭に向かって残る推進力を全開させた。
五〇ミリメートル物理単位フォトンキャノンの射線がたった今いたところを通過したのをシステムステータスが捉えた。ぐんぐんと巨大に映るサーバを前に残弾のミサイルをフレア代わりにばらまいて敵機の撹乱を試みる。四方八方にあてどなく煙を吹いて蛇行する爆発物の氾濫に多少は計器も乱せたか、と期待したのも束の間、必殺の赤い光線が探査機の胴体を貫いたのはその直後だった。
唐突に推進力を奪われつんのめって回転する探査機は、今さら必死に手を振ってももはや言うことを聞かない。あらゆる動作系統がクリティカルエラーを発する赤く染まったスクリーンを目の当たりにして、私は数秒遅れで自身の敗北を悟った。諦めてとどめの追撃を待ち構えていると、辛うじて生きていた対物センサがデブリの接近を警告してきた。攻撃が来ない。
恐る恐る背面カメラの映像をスクリーンに展開した。ちょうど、メインブランチⅠの敵機の残骸が音もなく探査機の脇を通り過ぎるところだった。はたと視線を戻した前面カメラの方では、ハードフォークスⅠの主砲が描く強大な射線の軌跡が克明に映し出されていた。
どうやら、ぎりぎり防衛システム圏内に滑り込んでいたらしい。
深く息を吐いて椅子にもたれかかったあたりで、ようやくオフィスを見回す余裕が生まれた。どの従業員も受け持ちのスクリーンをほったらかして壁面に釘付けになっている。映し出されていたのは宇宙を静かに漂う私の探査機だった。ややあって、シヴが近寄ってきた。
「今日、すべての探査機がメインブランチⅠの戦闘機に襲撃された。帰ってきたのは君の機体だけだ」
別の機体によってサーバ内の格納庫に曳行されていく自機を見ながら答えた。
「果たして帰ったと言えるかどうか」
「それについて話がある」
シヴは会社所有空間を示す別のテレポートリンクを送付してきた。されるがままにリンクを承諾すると標準環境のオフィスと似た内装の別室に遷移した。
視界が切り替わった時、彼女は落ち着きのない仕草で背を向けていた。招待者の出現を認めると振り返ったが、やはり動揺を隠しきれていない。
「一体なにが――」
「みんな死んでいる」
別人のように険しく引き締められた表情から、決定的な一言が放たれた。自然なエミュレーションの結果として、私の顔つきも彼女と同じくらい固まった。
「え?」
「君が回収したストレージは完全に破損していた。誰一人として整合性が保たれた情報は残っていない」
息を呑んだ。
確保のためにロボットアームを貫通させたのが誤りだったのだろうか?
「こいつを見ろ」
シヴの展開したコントロールパネルが拡大されて真横に移動した。そこには今しがた回収したばかりのストレージが映っている。真ん中に大きな穴が穿たれて周囲が焼け焦げ、見るも無残な姿に変わり果てていた。
メインブランチⅠの戦闘機が放った一撃が探査機のみならずストレージをも貫いていたのだ。安全確保のためにストレージを内側に抱え込んでいたことがかえってあだとなった。
「……ストレージは損傷を受けていても情報をサルベージできる。なんとかならないのか」
すがりつくような声で頼んだが、神妙な彼女の態度を察するに無意味な反復作業だと解っていた。
「簡易走査をやってみたがどうにもならない。断片化の修復を試みるにしても全体の情報量自体が欠損しているんだ」
「それでもやってほしい。このままじゃ本当に全滅だ」
あまりにも必死な食い下がりように根負けしたのか、彼女は渋々頷いてコントロールパネルを操作した。実行開始とともに修復処理が始まり、画面はグラフィカルなプログレスバーに置き換わった。
「いくら俺たちだって失われたものは返ってこないぞ」
そんな話は嫌というほど解っている。しかし、いつになく上司らしい厳しい物言いに口を閉ざさざるをえない。
ちまちまと進むプログレスバーの進捗を無言で見つめること数分、先にしゃべったのはシヴの方だった。
「前から気になっていたんだが」
「うん?」
「君の操縦技術はワーカーどまりじゃない。軍人並だ。前のサーバではパイロットだったんじゃないのか?」
私は苦笑した。音の反射がスポイルされたこの空間では声量に反して残響がほとんどない。
「よしてくれよ。もし軍人だったら今頃Bクラスのプロフィール情報を引っさげてふんぞりかえっていたよ」
「だが、あんな機動は探査機の操縦を一〇〇年やっても身につかない」
柔和なようでいて存外に懐柔の通じそうにない視線が向けられる。私は飄々と理由を並べた。
「前のサーバではこれしか取り柄がなかったんだ。さもなければこんなご時世じゃCクラスにすらなれずにサスペンドされていたよ」
開戦以来、大抵どこのサーバも消費電力に見合う価値を生産できない人間はサスペンドされる。削除と違ってなにも死刑というわけではない。無電源で放置すると故障のリスクがわずかに高まるのでたまに通電してもらえるし、ストレージの物理的な風化が生じたら新品に載せ替えてくれる。ただし、物言う人間としての権利は当面失われる。すなわち、戦争に勝つまでは。
「今さらな話だが、不運だったな。豊かな時代にサーバが事故で喪失するなんて」
「突然の出来事でなにも覚えちゃいないがね」
シヴは未だに納得していない態度を見せたが、ちょうどプログレスバーが末端に届いたおかげでそれ以上の追及は免れた。
というのも、表示された修復情報は些末な詮索を丸ごと吹き飛ばす惨状を呈していたからだ。
画面いっぱいに敷き詰められた真っ赤なタイル状の粒はそのどれもが不活性――整合性の欠如を示している。これらはどう組み合わせても符合する情報が存在しないため、有効な人格として機能する余地がない。言い換えれば、情報工学的なバラバラ死体の山だ。それぞれを適切に繋ぎ合わせれば元通りにできる私たちの世界でも、身体が欠けた死人を生き返らせることはできない。およそ数百人の命が五〇ミリメートル物理単位の光線一発で露と消えた。
結果は判りきっていたはずなのに、横でシヴが吐き捨てるように言った。
「メインブランチのクソどもめ」
メインブランチⅠとの戦争はサーバ間の規格争いに端緒を発するらしい。もともと地上で有数の企業だったメインブランチ・インダストリアルは衛星軌道上でも数多くの分野を主導した。八世紀もの長きに渡る栄光の時代――しかし、たとえ先進的であっても予め取り決められた共通規格や仕様が反故にされるようになると懸念の声が高まりはじめる。一社が共通規格をいいように操れるのなら、どんなに多数の企業が各々のサーバを運営していても彼らに支配されているのと変わりがないからだ。
それでも規模と情報生産性で他を圧倒するメインブランチの規格には従わざるをえなかったが、次第に彼らの営利や都合が理由としか思えない破壊的変更が強行されるに至り、とうとう共通規格の分派運動<ハードフォーク>が巻き起こった。規格が合わないサーバ同士とは移住はもちろん、通常の通信も行えなくなっていく。移住できるうちに我先と雪崩をうってメインブランチⅠに向かう人々もいれば、運営コミュニティの決議を経て片方の陣営に与するサーバもいた。
衛星軌道を回る情報生命体に生まれ変わって一〇〇〇年。眠ったり食べたりすることをやめられなかった人類は、ついに戦争もやめられなかった。本来、有害なデブリを除去するために備え付けられた最低限の防衛設備を、どっちが先に攻撃に用いたのかは判らない。まもなくサーバ同士が主砲を撃ち合う熾烈な戦端が開かれ、おびただしい数のサーバの残骸と死者を出した後、戦場は地球を遮蔽物として利用する現在の形態に移行した。メインブランチ規格の傘下に下り、自社の名前を奉じたいくつかのメインブランチと、新規格に殉じて名前を捧げたハードフォークスの戦いだ。
ネットワーク規格が異なる人々とは会話ができない。なにをどう感じているのかも判らない。敵対規格を用いた通信は削除相当の重罪に値する。私たちに許された唯一のコミュニケーションは肉体を捨ててなお物理的な暴力しかない。
じきに私も落ち着きを取り戻して、同胞たちの陰惨な死を受け入れようとしたその時、画面右側の数字に目が留まった。
『有効:1』
「待って、一つだけ有効みたいだ」
声に応じてシヴも顔を向けた。大量の「無効」ステータスの下に、ただ一つの有効性を示す数字が記されている。「見たところ真っ赤だが……」目視での確認を諦めて有効個体に絞り込んで走査させたところ、タイル全体の右上端に染みみたいに滲んだ緑色を発見した。
「人間の情報にしては容量が小さいな」
「でも生きている」
「ちょっと待ってくれ」
彼女は前のめりの姿勢になって断片化修復の画面を精密走査に切り替えた。有効な情報の素性を登録前に確かめる技術的手法だ。もし人間なら以前に所属していたサーバの一覧、名前、クラス、その他諸々の個人情報が把握できる。経歴の良し悪しによっては移住前に登録を断られる場合がある。ストレージごと物理的にサーバに入り込んだ状態でそういう判断が生じた事例はまずないが、それはそれとして奇跡的に生き残った人間のプロフィールは気になる。
「おかしい、プロフィール情報がない」
ぽつりとつぶやく浅黒の横顔は、すぐになにかに気がついて口も目もあっと大きく開いた。
「そうか、分かったぞ」
シヴは顔を合わせて言った。喜ぶべきか、がっかりすべきなのか決めあぐねている表情だ。
「確かにこいつは生きている。だが、人間じゃない」
「どういうことだ」
精密走査を終えて画面いっぱいに表示された唯一の生き残りの情報が、答えを待たずとも一切を物語っていた。
「これは猫だ。飼い主と一緒に格納されていたんだ」
復旧したテレポート機能で家に帰宅するやいなや、天井から床に屹立する巨大な掘削ドリルと邂逅を果たした。先端部分の周囲には無数の突起がくっついていて、そのどれもがさほど尖っていない。呆気にとられている私を見てリィはにやにや笑っている。紫と銀のストライプで彩られた長髪を揺らめかせて、じいっと目を合わせてきた。いつものおしゃべりが開幕する気配を察して私は身構えた。
「その昔、人類の発展は穴掘りに支えられていたという」
観念してソファに座り込むとリィは両手を広げて大演説を始めた。背景に人類の歴史の歩みを物語る様々なフッテージが勢いよく展開される。
「人が穴を掘るのは生存圏の拡大、通路の造成、鉱物資源の採掘など実に多様な目的があるわけだけれども、人類の歴史においてほとんどの穴は手作業で掘られていたというのだから驚くよね。地球の各地でのべ何百万人、何千万という人間が、突起のついた棒きれで穴を掘るために人生を費やしていたんだ。最初のパラダイムシフトが訪れるには一九世紀まで待たなければならなかった。我々が衛星軌道に移り住むほんの四〇〇年前だ。地中奥深くの資源にアクセス可能となったことで人類は飛躍的に発展したし、以前には利用されていなかったエネルギー源を活用する目処が立った。というのも、この急峻なグラフを見たまえよ。縦軸が当時の地球上の人口を示していて……」
数十分後、演説はつつがなく終わり私はおざなりな拍手を送った。大して印象には残らなかったが、部屋の一角を占領するドリルにほのかな威容を与える効果はあったかもしれない。
「しかし、ただ祖先の工業史をなぞるためだけに掘削ドリルの模型を作ったとは思ってほしくないな」
リィはそう言うと、立ち上がってドリルへ近寄るよう手招きをした。気だるげにずるずると足を引きずって部屋の隅に赴いた直後、耳をつんざく大轟音とともに先端部分が回転して床を削りだした。驚いて後ろに飛び退くとリィは爆笑した。
「おっ! やっと期待通りの反応が出た! そう、これは本当に床を削ってるんだ」
「え? じゃあこれ最終的にどうなるんだ」
自分の所有空間ではないとはいえゴリゴリと音をたててみるみるうちにデータを失っていく床の様相にうろたえながら訊ねると、なおも彼女は得意げな表情で答えた。
「任意の空間に繋がる」
「実質ハッキングじゃないか」
「はずだったが……その通り。モデレータに目をつけられたくないから実装はしていない。なので、今は床データを壊しているだけだね」
一通り実演を行なって気が済んだのか彼女は掘削ドリルの動作を停止させた。だが、止まる際も実物の掘削ドリル同様に残響音をうならせて徐々に回転数を落としていく姿を見て、単に付き合わされていた私もさすがに少々感心せざるをえなかった。
「次の個展も高評価を得られるんじゃないか」
率直に感想を述べたが、意外にも彼女は首を横に振った。
「実を言うと展示する空間がないんだ。どこも情報量削減の煽りを受けていてね。私のみたいにインタラクティブ性を重視する作品はサーバ越しに動画をストリーミングして済むものじゃないし、本体のデータを送るのは受け手に余裕がないから難しい。芸術家向けにソースコードは公開しているけどそれじゃ利益にならない。だからこのサーバ内で見つけないといけないんだけど……それがないからここにあるわけでね」
「まさか、ずっと家に?」
めり込んだ掘削ドリルに部屋の一角が占められる生活を想像するとめまいがしてきた。もちろん物質的な神経系を持たない私たちにとってめまいは虚構のフィードバックに過ぎないが、憂鬱な気分に襲われているのは間違いない。
「どこかの御大尽がお買い上げでもしてくれないことには……そんなのここいらじゃありえないけどね。メインブランチⅠにはわんさといるけど」
「そういう状況を作ったのもメインブランチじゃないのか」
「私らみたいな人種にはどっちが正しくて悪いかなんてどうでもいいことだよ。豊かで栄えていればいい。芸術には帝国が必要なのさ」
そう堂々と言ってのけるリィは、確かに不本意な移住者だった。各地でゲリラ的な活動を重ねてキャリアを築き上げ、満を持して巨大商圏での勝負に打って出るべくサーバからサーバへと遠大な道程を歩み、目的地のメインブランチⅠまであと一息というところで共通規格の分派運動に巻き込まれた。芸術の領域で専門性が認められて付与されたB4クラスの地位も、今となってはメインブランチ系サーバとの互換性が絶たれて通用しない。
「ふーん、とんだ反分散主義者だな君は」
私はあえて試すようなわざとらしい声色で言ってから、コントロールパネルで所属部署のストレージを操作して猫を取り出した。空中に浮くパネルからひょいと姿を現した猫は、床に着地した後に部屋をきょろきょろと見回して、近くのローテーブルに飛び乗った。
「にゃあ」
猫が鳴いた。特有の華奢な愛らしい様態をいかんなく振りまいている。
リィはしばし絶句して、ややあって叫んだ。
「これは――猫じゃないか!」
「いかにもそうだ」
「一体どこでこんな代物を!」
彼女の声は感激でわなわなと震えていた。情報生命体の私たちはここで新たに生命を誕生させることができない。人工的な人間情報の創出は倫理的な懸念を帯びるのみならず、イレブンナインの永久寿命を保証された人類にとって新世代の台頭は脅威に等しい。
そこで代わりにペットの生成と飼育が流行ったが、情報量削減のために人工生命の生成は例外なく利用規約違反となった。すでに飼育している家庭でもリソース食いを心配して手放すところが増えている。手放す、とはつまり削除するということだ。もう少し余裕のある人はサスペンドで済ませるが、所有していながら触れ合えもしないのはいずれにしても虚しい。
件のデータストレージから救出した猫は利用規約の改定前に生成されていた。飼育しても違反ではない。そこで、潤沢な計算資源を持つルームメイトをあてこんで私が猫を引き取ったのだ。
途端に、部屋が壁面に巨大なパネルを展開して警告を発した。
『計算資源の割り当てを超過しています。所定の時間経過後に新しく加えられたオブジェクトから順に削除されます』
「君が愛してやまないメインブランチⅠの連中が壊そうとしていたストレージから救出したんだ」
私は事の顛末にささやかな脚色を加えてリィを迂遠になじった。
「私の仕事場にはCクラスしかいなくてね。誰もペットを飼えるほどの余剰資源は持っていないし、部署が人工生命を飼育するのは世間体が悪い。正直、君が頼りだったんだが……でもこんなドリルが置かれているんじゃあ、さしもの大芸術家リィ先生といえども飼えないな、残念だよ」
緩慢な動きで見せつけるように一歩一歩踏み出してわざわざ壁面のパネルに向かい、オブジェクト――すなわち猫――の手動削除を実行しようとしたところ、リィが先に回り込んでなんのためらいもなく自身の作品を削除した。部屋の一角を占領していた巨大の突起物の塊が、ぼろぼろの床を残してかき消えた。
「ドリルは後で軽量版を作ることにするよ。生き物には代えられない」
きっぱりと言い切ったリィは、さっそくリビングをうろつく猫の背後に忍び寄って捕獲を試みた。その手が猫の毛先に触れるか触れないかの間際、黒と灰色のまだらで構成された人工生命は巧みに身体をくねらせて逃げおおせる。負けじと二度、三度と再試行するも結果は変わらなかった。
「すばらしい自律性だ。よほど豊かな時代に創られたペットに違いない」
ふうふうと息を荒らげながら彼女は惜しみない評価を与えた。
「そんなに捕まえたければ一時的に乱数を抑えればいい。節約にもなる」
「いいや、なんとしてもコツを掴む」
それからしばらく格闘していたリィだったが、ひょいひょいと身をかわし続ける猫がソファに座っている私の膝元に飛び乗ってきたあたりで疲労感が勝ったらしい。「ムッ、そこは私の特等席だが?」目元を鋭くして睨みつけるも当の本人は毛づくろいを始めて聞く耳を持たない。
「にゃああ」
猫が大きく口を開けて鳴いた。
「この子に名前を付けてあげたい」
芸術家のセンスを期待して問いかけると、彼女はふてくされた顔で「^E/h3Lg%WMnkp2C$Xとかでいいよ」と負け惜しみを言った。大方、英数字と記号を含むランダムな文字列を出力したのだろう。
膝の上の猫と不意に目が合った。吸い込まれるような大きな瞳が小宇宙を思わせる。やっぱり同胞意識があるのかもしれない。
なんだかんだでリィも猫と馴染んだ数週間後、バロック様式のオフィス空間に居心地の悪さを感じていたところへ黒ずくめの集団がテレポートしてきた。人の列をかきわけて現れたのは、他ならぬパイだった。のっぺりとしたアバターに傲慢さがありありと浮き出ている。
「部署長のシヴ氏はいるかな」
怪訝な表情で席を立ったシヴはそれでも慇懃な態度で応じた。
「モデレータの皆さんにご足労いただくとは恐縮ですね。なにか御用でしょうか」
パイは近くの宝石があしらわれた豪華な椅子にどかっと腰掛けた。
「二つある。まず一つ目は……君んとこ、探査機を壊しすぎじゃないかね。こちとら資源に余裕はないんだ」
「お言葉ですが、あれは戦闘機の襲撃ですよ。我々は最善を尽くしました」
事情を説明するシヴに彼は取り付く島もなかった。
「うん、そういうのはいいからさ、代わりに集めてくれないかな、資源。前にも依頼しただろう。地上のユニットに誰か繋げてやらせるんだ」
依頼という名目で事実上の命令を下したモデレータの首領は、椅子から立ち上がってオフィスに集まる人だかりを品定めした。なんとなく嫌な予感がして奥に引っ込もうとしたが遅かった。目ざとく私を見つけるやいなや彼は声を張った。
「ほら、そこのセス君にやらせたらどうだ。得意だろう。それに、先の襲撃の件でも大手柄だったそうじゃないか……ストレージが無事ならもっとよかったのだが」
「素人なりに頑張ったよ。本職の方々が見当たらなかったものでね」
パイは私の口ごたえに意を介さずカクカクの両手を上げて降参のポーズをとった。
「おや、手厳しいな。じゃあそういうわけだからよろしく」
大勢で来た割に意外と早くオフィスを立ち去るのかと思いきや、途中で立ち止まった。「ああ」高い抑揚を伴って彼は振り向いた。
「二つ目について言うのを忘れていたよ」
「なんでしょう」
辛抱強く尋ねるシヴに彼は告げた。
「情報量削減の一環でね。今後は会社所有空間の環境変更を禁じる」
「なんですって?」
最低限の礼節を保っていた浅黒の顔にさっと険しさが宿った。「そんなのは利用規約のどこにも――」だが、パイはあっけらかんと答えた。「そういえばまだ書き換えてなかったな」そして、自前のコントロールパネル――彼の持つ黒いパネルは本当の意味で”コントロールパネル”だ――をてきぱきと操作した。
「たった今、利用規約を書き換えた。現時刻を以てバージョン19.6.3094bの発効だ。後で確認しておきたまえ」
あたかも彼の言葉を待っていたかのようにバロック様式の内装が瞬く間に消し飛び、標準環境のオフィス空間が強制適用された。宝石の椅子は平凡なフルバックチェアに戻り、マホガニー材の机は樹脂製の質感に戻り、絢爛な装飾の丸い鏡が際立つドレッサーは操作盤とスクリーンに戻り、分厚い紙媒体の本が並ぶ本棚や絵画や彫像が飾られていた壁面は宇宙を映す巨大スクリーンに戻った。
テレポートで颯爽と立ち去ったモデレータたちを沈黙のうちに見送ったシヴは、しかし一言も批判めいたことを言わず始業を告げた。どうやら私も命じられた仕事をしなければいけないらしい。
戦闘機や探査機を量産するのは造作もない。問題は材料の方だ。合金や特殊繊維の元となる鉄や希土類などはもっぱら地球上にしかない。他の惑星は遠すぎる。
大昔から地上に残置されている掘削機は作業こそ自動で行なってくれるが、サーバの老朽化に備えて設計された平和な時代の産物ゆえ脅威に対抗する自律性を持たない。私の仕事は付近に投下済みの防衛ユニットを操作して、掘削機が資源を集めるまで哨戒にあたることだ。
もっとも、探査機と異なり人間同様の四肢を持つ防衛ユニットは両手のみの操縦というわけにはいかない。そこで、繭のような形状の操作ポッドに搭乗してネットワーク越しに直接ユニットと接続する形態をとる。
会社の所有空間に設えられた操作ポッドに横たわると操作盤に似た淡い発光が全身を包んだ。
空中に表示されるポッドのシステムステータスが接続を秒読みする。三……二……一……。
数秒のブラックアウトの後に、私は剥き出しの金属骨格でできた人型防衛ユニットと同化していた。目の前にはあちこちに陽の光が差す浅い森林が広がっている。探査機と同じ要領で両手を持ち上げると、堅牢な金属の手のひらが視界に映り込んだ。ロボットアームと違って指が多い。手を開いて閉じると、油圧アクチュエータが働く駆動音とともに手がみしりと握りこぶしを作った。触覚、聴覚、視覚、どれも異常なし。
掘削機の位置はすでに視界上にマップされている。薄く表示されたガイドラインに沿って道を歩く。隕石群の襲来が鳴りを潜めて久しく、地球環境は皮肉にも祖先が隆盛を極めていた頃より平穏に満ちているが、それでも私たちにとっての脅威は消えていない。背中に備え付けられた長細い七ミリメートル物理単位フォトンライフルを掴んで両手で構えた。機械の微妙にぎくしゃくした指先で点検を行い、バッテリー残量を確認する。
かつて地上に存在していた旧文明の残滓はほとんど残っていない。再利用が可能な資源は戦争の過程で衛星軌道上に持ち去られてしまったからだ。そうでないものも大半は環境変化の影響で押し寄せた溶岩や津波に飲み込まれ、無価値な岩石の中に埋もれたか、深い海の底に沈んでいる。大自然が勢いを取り戻しつつあるこの一帯も、記録によると世界有数の湾岸都市がそびえていたというが今では文字通り跡形もない。
ぎこちない足取りが次第に滑らかさを得ると視界の光源が意識に上りはじめた。天高く地上を照らす太陽光や、それを散乱する草木、あるいは反射する硬質な地面や削れた岩肌などが、ライトマッピングが打ち消された環境に慣れた身にはことさら美しくも疎ましくも感じられる。
ガイドラインに沿って小一時間歩いたあたりでようやく掘削機が見えた。目的地は人工的に整地された広い窪地のただ中にあった。無機質な四角い箱型のそれは遠隔操作によって事前に電源が入れられ、物言わずあくせくと地面に光線を照射している。斜面を滑り下りて古典的な静電式タッチパネルから掘削機にアクセスすると、用途に適った諸元の登録が確認できた。目的の資源を発掘したら自動で吸い取って筐体内に格納する仕組みになっている。
レーザーの奏でるごくかすかな掘削音を聞きながら、図らずも私はリィが作った原始的な掘削ドリルを思い出した。あれが人類の発展の象徴ならさしずめこれは収奪の象徴だ。というのも――
唐突に叫び声が聞こえた。
斜面を登った崖の向こうに人間の顔が三つ、四つ、いや、五つ……それ以上の群れが顔を出してこっちの様子をうかがっている。金属の身体をきしめかせて振り返ると反対側の崖にも群れが見えた。
すかさず私は警告を鳴らした。種類は三つあるが、まずはもっとも穏当なものからだ。社名部分以外は一〇〇〇年間変わっていないものの、音声は観測で得た現在の地上人の言語に変換されている。
『ピーッ、本ユニットおよび本掘削機、ならびにこの地域一帯は株式会社ハードフォークス・フェデレーションの所有物です。現在、掘削作業中のため、安全上の理由から立ち入りはご遠慮願います』
間延びした機械音声が二回繰り返されたが、群れの数は減るどころか増える一方だった。明らかに怒気を孕んだ大声があちこちにこだまして、だんだんと激しさを伴っていく。二つ目の警告音声を発した。
『当社の業務を不当に妨害した場合、民事訴訟または刑事訴追の対象となる恐れがあります。速やかに退去してください』
群れの誰かが投げた石がひゅんと横をかすめた。それが合図なのかもしれない。前から後ろから一斉に石や尖った棒きれが投げつけられた。一部が金属の体表にこつん、こつん、とぶつかるもフィードバックの閾値を下回っているために通知は表示されない。
だが、次に飛んできた投石は少し違った。比較的重苦しい衝突音がして、安全設計に長けた掘削機のレーザー照射が一瞬止まった。前方を見やると、皮革を振り回す何人かがちょうど次弾を放つところだった。鋭い加速度で体表にぶつかった石の弾丸が金属に押し負けて粉々に砕け散った。今度は衝突通知が表示された。続いて、弓を持った集団が崖に並んだ。私は三つ目の警告を発した。
『これ以上の業務妨害行為は当社の基準に基づき、防衛行動の招来を余儀なくされます。本行為の実施に際して被るあらゆる損害について、当社は一切の責任を負いません。最後の警告です。直ちに退去しなさい』
直後、木と尖った石で構成された物体が雨のように視界を埋め尽くした。空を切って地面に突き刺さる数多の矢と入れ違いに、私はフォトンライフルの照準を崖の適当な一群に合わせて撃った。間の抜けた高音が短く響いて射出された赤い光線は、狙った人間の胴体に前触れなく風穴を穿った。
恐れをなした人だかりが散らばる。群れが引き下がるまで繰り返し撃ち続けた。何人か倒すと大半は崖の向こう側に消えたが、一部は逆に雄叫びをあげて迫ってきた。照準が補正されているとはいえ、わざわざ的をでかくしてくれるとは手間が省けて助かる。
左右に銃身を動かして手早く前方の脅威を排除した後、振り返って後方から迫る何人かも同様に仕留めた。一転、窪地は静けさを取り戻して人影は一つも見当たらなくなった。
気だるさに満ちた防衛行動の傍ら、掘削作業は滞りなく再開していたようで作業の完了目安を示す通知が視界上に現れた。
彼ら地上人は永久に進歩できない。既存の文明が失われるというのは単にふりだしに戻ることを意味しない。人類史の開闢には豊富に存在した鉱石や資源が、二回目の現在は少しも地表に残されていないからだ。新たに手に入れるには深い地殻を掘削するしかない。だが、そのような技術を手に入れるには鉄器文明を経なければならない。つまり、彼らは典型的なデッドロックに陥っている。必要なものを手に入れるために必要なものが決して手に入らない。
目の前に転がる穴空きの死体を検分した。防具の一つさえ身に着けていない。こんな相手なら一〇〇人に襲われても容易に対処できる。一〇〇〇人だと物量に押されるかもしれないが、防衛ユニットを一基失ってもこっちの本体は三〇〇〇〇キロメートル物理単位上空で寝ている数字の羅列だ。真の脅威は別にいる。
頃合いよく、自分のものではない油圧アクチュエータの駆動音が耳のマイクロフォンに届いたのでフォトンライフルの銃口を向けた。対する相手は自分が接続しているのとまったく同じ型式の防衛ユニットだ。その主が音声出力を用いて言葉を発した。
「待て、私は味方だ。ハードフォークスⅪの者だ」
一旦銃身を下ろすと、瓜二つのユニットは金属の身体を傾けて斜面を滑り下りた。重い足で死体を蹴散らしながら一歩ずつ近づいてくる。
「その掘削機は我々が操作していたんだ。防衛の協力には感謝するが、資源はこちらに譲り渡していただきたい」
私は特に事情を知らされていなかったが、毅然とした態度で答えた。
「そいつは困るな。この資源はハードフォークスⅠが探査機や戦闘機を製造するために使うと聞いている」
顔に相当する部分に突き出した前面レンズしかない無骨なユニットが、さらに接近して威圧的な姿勢をとった。
「我々もずっと戦闘機が足りていない。メインブランチのやつらに手を着けられていない地上はもうこの辺りしかないんだ」
一応、指示を仰いでおくか。上位権限者に相談するとの返答を発して、サーバとの通信を開始した。視界上にシヴのアバターが展開される。
「資源の採集には成功したが、ハードフォークスⅪが譲渡を要請している。そもそもこの掘削機は彼らが稼働させていたらしい。どうすればいい」
私の上位権限者は話を聞いて露骨にしかめっ面をした。
「やつの仕業だな。空いている掘削機がないんで、味方からぶんどろうとさせたのか。くそっ」
「譲っていいのか?」
上品に整えられた顎髭を手でさすってしばらく考え込んでいたシヴだったが、ややあって妥協案を見出したらしい。おずおずと歯切れの悪い調子で言った。
「半々で分けられないか……あるいは三割でもいい。交渉してくれないか。こっちにも資源が必要なのは確かだ」
「了解」
通信を終了する、と言いかけたところで、どういうわけか他の通信が割り込んできた。同時に二人の顔が視界を占めたため前方の視認性が非常に悪化した。
「おい、誰がそんな真似をしていいと言った」
新たな通信の主はパイだった。モデレータ権限を有するB2クラス以上はサーバ内の特定の会話を監視することができる。のっぺりとしたアバターが口も動かさず威勢よく吠えた。
「その資源はすべてハードフォークスⅠのものだ。一つも渡すな」
「ハードフォークスⅪだって困っているようだが」
「旗艦サーバの僕たちが優先に決まっているだろ。そう伝えろ。邪魔されたら破壊してしまえ」
シヴはこの会話を聞いているはずだが、特に口を挟まず押し黙っている。そういう話なら仕方がない。
「了解した。通信を終了する」
ぎしり、とこちらの金属の身体が動いたのを察知して、相手のユニットもかすかに反応を示した。音声出力で事情を伝えるより先に私はフォトンライフルをすばやく構えて銃口を向けた。
「悪いね。上位権限者の裁定により、この資源はハードフォークスⅠが占有することになった」
まんまと後手に回った相手は振動板をぶるぶると震わせて不平を訴えた。
「横暴だ。こっちがどれだけ情報量の削減に協力していると思っている。そのうえ資源まで奪われてどうやってメインブランチと戦えというんだ」
だが、私はむしろ銃口をちらつかせてユニットの胸部に押しつけた。
「そういうのは上位権限者同士で相談してくれ。私は与えられた仕事をするだけさ。今すぐ回れ右して下がらなければユニットを製造する手間も増えるぞ」
「分かった、待ってくれ。こっちにも体裁がある。上位権限者に報告する時間がほしい」
「いいだろう」
通信状態に入ったことを示す青色のインジケータがユニットの側頭部に点灯した。一分にも満たない短い時間で終わった報告の末、相手のスピーカーから絞り出された一言はさっきまでのうろたえようが嘘のように戦意に満ちあふれていた。
「私の上位権限者の裁定も出た。貴様を破壊して資源を回収する」
たちまち金属の腕によってライフルが跳ねのけられた。反射的に放たれた光線はそれて見当違いの方向に飛んだ。矢継ぎ早に迫る拳を片手で受け止める。二基の油圧アクチュエータがうなって拮抗しあったのも束の間、業を煮やした相手がもう片方の拳を引いて胴体に打撃を与えてきた。投石の数千倍に匹敵する衝撃が通知されて、胸部に緩い凹みができあがる。
こちらも片方の手で保持されたフォトンライフルを腰だめで向けると、打撃の手が銃身を強く掴んだ。ぎりぎりと手のひらが万力のごとく働いて機構を潰そうとしている。やむをえず私は前足を繰り出して相手のユニットを蹴飛ばした。二人は反動で揃って地面に倒れ込んだ。
重い身体を強引に動かして体勢を整えた相手に対して、私は伏せたまま銃身を地面に立てて引き金を絞る。赤い光線が三発、金属の体表を穿って銃創の周りに焼け焦げを作ったが動きは一向に止まらない。のけぞりつつも勢いよく迫り、足を上げてこちらのユニットの頸部を潰す構えをとった。
寸前にライフルを手放して横転する。二度の回避を辛くも成功させてパターンを読んだ私は、三度襲いかかる三〇〇キログラム物理単位荷重の足を両手で掴みとった。人型を模している都合上、防衛ユニットも足首の構造は比較的脆い。手に力を込めてひねると相手の足首は金属の悲鳴をあげてねじ曲がった。手を離した途端に全身が傾いだ相手をよそに、しっかりと立ち上がる。
ひゅいーん、と油圧が空回りする音が聞こえる。もはや相手は二足歩行がままならない。ようやく片足を踏み込み詰まった間合いで振られた拳も、折れた足首のぶんだけだらんと斜めに傾いた姿勢では勢いに欠ける。難なくそれを避けて地面のフォトンライフルをゆっくりと拾い上げた。
眼前の防衛ユニットはまだ身体を動かそうと無駄な努力を続けている。ついには体勢を崩して前のめりに倒れ、片膝をついた状態で微振動するのみとなった。最期になにか言い分を聞くべきか迷ったが、性懲りもなく背面のライフルに手を伸ばそうとしているのを見て私はすかさず握りしめた拳を頭部に叩き込んだ。ばちばちと微小の火花が散って合金の塊が大きな丸いレンズを貫いた。
やや遅れて、行き場を失った白色のオイルがユニットの隙間から血のようにだらだらと漏れた。
掘削機の方を見ると、レーザの照射を終えて資源も採集されているようだった。私は通信を開いて報告を行なった。
「状況報告。ハードフォークスⅪの防衛ユニットを破壊した。往復船を要請する」
回答は音声ではなくシステム通知で来た。十数分後、上空から気流を撒き散らして現れた小型の往復船に掘削機を接続して資源を吸引させ、防衛ユニットを退避モードに切り替えて接続を終了した。ブラックアウトの間隙を経て、私の意識は三〇〇〇〇キロメートル物理単位上空の衛星軌道上に舞い戻った。
操作ポッドから這い出てオフィスの空間に遷移したが、従業員はほとんど残っていなかった。シヴの姿もどこにも見えない。人事マネージャが退勤していいと言うので素直にテレポートしようとしたところ、ここへきてまた『現在、情報量の削減のためテレポートの使用を制限しています』の表示に遮られた。
ブロック状の街中を帰る道すがら、灰色に埋まる空の向こう側にハードフォークスとメインブランチの戦闘機が交差する宇宙を思い描いた。彼らもまた仮初の命を削り合っているのだろうか。
職場が当面は出勤するなと告知してきたので不本意な休暇に入った。最初の数週間は軽量版掘削ドリルの開発に勤しむリィを眺めたり、猫と戯れたりしていたが、一ヶ月が経ち、二ヶ月が過ぎると不安が募った。なにしろ計算資源の割り当てが保証された休暇ではない。このままではただの居候になってしまう。
「君一人はともかく外部アンテナのリソースまでは払えないかな」
無給生活三ヶ月目にして具体的な条件が突きつけられた。私は膝の上の猫を撫でながら言った。
「別に払わせるつもりはないよ。そのうちなんとかする。そのうち」
ところが今日の彼女の追及は厳しかった。
「先週も聞いたよそれ。君はやり手じゃなかったのかね」
「私がやり手でも動かせる機体がないとね。軍人クラスじゃないから戦闘機は扱えないし」
「ふーん」
椅子から立ち上がったリィが近づいてきたかと思えば猫を私から取り上げて、代わりに膝の上に座った。紫と銀のきらびやかなストライプの髪の毛が最大の解像度で視界いっぱいに映った。
なんとなしに頭を撫でてやる。非線形触覚エミュレータを備えた柔らかな髪質が手のひらに豊かなフィードバックをもたらした。
「いざとなったら^E/h3Lg%WMnkp2C$Xの乱数を少し減らせばいいかな」
私に寄りかかりながらリィが言った。
「そんなに気を遣わせるのは忍びないな。しかしその子の名前は本当にそれでいいのか」
「今のところはね。猫とはいえ四文字以下の良い名前なんてそうそう思いつかない」
言葉が途切れた。驚くべきことだ。何ヶ月も常時くっついているとさすがに話す内容がなくなってくるらしい。彼女の大演説はとっくにネタ切れでリサイタルも複数回やったほどだったし、ストリーミングやニュースの内容も世相を反映してか、なにやら悲壮感が漂っていて観る気にならない。
壁面の海岸の絵から、ざざあ、と波を寄せて返す合成音声が聞こえた。
「あっ」
急にリィが声をあげたので私は食いついた。
「なに?」
「海に連れていってくれないか。ここにだって海岸はある」
「いやそれは……どうだろう」
わずかに逡巡したが事実上の居候に甘んじている手前、エスコートを命じられて断る道理はなかった。二人して海水浴ルックに着替えて、いそいそと外出の準備を始めた。
言われてみれば地球の公転周期からすると今の北半球は夏だ。サーバ内ではアバターが情報量に見合った範囲で思い思いの格好をしているので、袖の長短が不都合を招くことはない。以前の地上文明には季節という定期的な気温変化に合わせた服装で着飾ったり、趣味や娯楽に興じたりする風習があったと聞く。
しかし、睡眠や食事と異なりこれらは必ずしも人間の精神衛生に必須の要件ではないと見なされているらしい。私たちが気温変化を知覚するのは特定のバイオームに入場した時ぐらいだ。そしてまさしく、海岸にはサマーバイオームが設定されている。
出発間際、リィを見るといつの間にか身長ほどに大きい浮輪を抱えていた。頭にはシュノーケルも着けている。「張り切りすぎだよ」と笑うと「物事にはメリハリが必要なんだ」と彼女は答えた。
今日も正規のテレポートは使えない。しばらく家の中にいたので定かではないが、たぶんずっと働いていないのだろう。私は浮輪に身体を束縛された彼女の手を引いて、歩いて駅に向かった。
一〇〇〇年前の地上の都市設計が再現されているサーバ内には当然、駅も存在している。上部のパンタグラフで架線と接続された、古典的な出で立ちの電動列車がレンガみたいな車体を滑らせてコンコースに入ってきた。例によって街全体がのっぺりしているものだから、ただでさえ浮かれきった海水浴ルックに、浮輪とシュノーケルまで装着した彼女はさながら空中を泳いでいるかのように見えているかもしれない。
電車が動くとリィは座席に膝を立てて窓際に身を乗り出した。景色がゆるゆると流れて、加速とともに住み慣れた街がどんどん遠のいていく。もちろん、これもエレベータと類似の処理を施しているだけで本当に車体が任意の空間座標を移動しているわけではない。景色の遷移も予めキャッシュされた映像を差分表示している。そんなことは十分に承知の上で、彼女は旅行の雰囲気を楽しむ腹積もりのようだった。私も膝こそ立てはしないが、首を回して何千万回も再生されたであろう映像をぼんやりと見つめた。
乗り換えの概念はない。映像が目的地までの過程を描いた後にいつでも下車できる。
「ああ、あれが砂浜だね。見なよ、太陽光が無効化されているから砂浜がベージュ色に塗りつぶされた平面みたいだ。しかし、そんなものでもこうしてじわじわ手前にせり上がってくると心なしかワクワクするね」
彼女の解説に耳を傾けながらたっぷりと堪能した砂浜の奥の方に、群青の深みを湛えた海が見えた。ライトマッピングが打ち消された無表情の海水が、横一列にブロック状の波を砂浜に打ちつけている。
車体の振動が止んで、下車を勧める通知が車内に表示された。私たちは開いたドアから出て一目散に海を目指した。もうすでに、潮の匂いがする。
コントロールパネルがサマーバイオームに入場したことを知らせる。肌にまとわりつく湿り気を仮想の熱気が運んでくるのを感じた。調整も可能だが、あえてデフォルト値に留めた。きっとリィもそうしている。
砂浜に人影は見当たらない。戦時中だからなのか、単に海水浴が廃れているからなのか、一面をべたっとベージュと群青で塗り分けた無機質な空間がそこにあった。
「まるで絵の具で描いたような海だ」
リィは忌憚のない感想を述べて、上下黒のホルターネック・ビキニにアバターを着せ替えた。アバター自体も長髪を後ろに束ねた姿に変化している。「ほっ」軽快に叫んで彼女が跳ねると、硬質そうな砂の表面がざくっと音をたてて四分割の大雑把な塊に分かれた。物理運動のエミュレーションが制約されている環境では砂粒一つ一つの挙動を再現しきれないようだ。さらにジャンプを重ねると直前に存在した塊が消えてすぐに新しい四分割の塊が再生成された。不要な生成物を残さない規約通りの仕様が徹底されている。
浮輪を胴体に通したリィがざくざくと現れては消える砂の塊の軌跡を描きながら海へと走っていったので、私も後を追った。足の裏に痛痒と愛撫の中間をなぞる温かい砂の感触が伝わる。二人して海に辿りつく頃にはバイオームの影響で額に汗が滲んだ。
「つめたっ」
一足先に海に足をくぐらせた彼女が叫んだ。地平線の彼方に広がる群青の平面は果たしてどの辺りでループしているのか、などと考えて遠景を眺めていると、かろうじて液状を保っていると言えなくもない粗い二次生成物が私に降りかかった。たまらず私もリィと同じ台詞を叫んだ。海水をひっかけられたのだ。
「いい度胸だ」
不意に闘争本能を刺激された私は不敵に笑い、ざばざばと浅瀬に侵入して数倍の量の海水を浴びせた。
水のかけあいが落着すると、リィは浮輪で、私はクロールで海水をかきわけながら奥へ奥へと進んだ。触れる直前までは微動だにしない海面が、接触に応じて流体に化けたかと思いきやすぐさま元に戻る。寄せて返す一列の波も完璧な再現性を伴って私たちに平坦な圧力を加えた。
「思ったよりは悪くないね」
浮輪で浮いているのに、先ほどの水遊びで紫と銀の束ねた髪をたっぷり濡らした彼女が笑顔で言った。しかし、長く鋭いまつ毛だけは水を弾いたように相変わらず反り立っている。
「うん、思ったよりはね」
ざざあ、と押し寄せる波がリィを垂直に持ち上げた。横から眺めると彼女がZ軸のぶんだけ真上に瞬間移動したように見えて面白い。波が通り過ぎた途端、すとんと落ちて真逆の挙動を見せる。
なんだか通信がラグっているかのよう――
突如、大音量の警報が耳を震わせた。
人間の注意を喚起せしめるために作られた重低音と不協和音のミックスが容赦なく襲いかかる。耳を抑えても音量は少しも下がらない。海に潜っても変わらないだろう。サウンドが優先出力されているからだ。
遠景にとてつもなく巨大なスクリーンが現れた。白い背景にハードフォークスの社章が浮かぶ。
『こちらは株式会社ハードフォークス・フェデレーションの取締役会です。先ほど、ハードフォークスⅡおよびⅢ、ならびにⅣからⅪによる緊急動議を経て、ハードフォークスⅠのアドミニストレータを代表取締役から解任いたしました。所定の手続きが完了次第、ハードフォークスⅠはサーバブロックの対象に指定され、以降は当社のネットワークから永久に排除されます』
冷徹な装いの機械音声が告げる声明が終わると、映像が切り替わってどこかの会議室が映し出された。長机の左右に並ぶ男女と動物アバターの険しい顔ぶれが事態の深刻さを表している。画面中央に座る男性アバターの人物が口を開いた。
「ハードフォークスⅠの登録者の皆さん。我々はあなた方の運営者の追放を決定いたしました。今しがた申し上げた通り、まもなくあなた方は外部との通信が絶たれ孤立します。この決断に至った理由は、あなた方の運営者が適切な計算資源の配分を行わなかったことにあります。本件につきましては以前から議論されており、幾度にも重ねて改善を具申してまいりましたが、あなた方の運営者は短期決戦の思考に凝り固まって長期的視座を持たず、我々の知覚的充足を蔑ろにしました。そのようなアドミングループに代表権を委ねる道理はもはや存在しません。ハードフォークスⅫ以下の皆さんにもどうかお力添えを願いたい。この恐るべき蛮行をご覧になれば、必ずやご決断いただけるでしょう」
一瞬、スクリーンが消灯して、再び点灯した。だが、画面の向こう側に映っているのは人間ではなく防衛ユニットだった。折れた片足を懸命に動かそうとして、ろくに動けないでいる。それでも抵抗の意志を露わにして背面のライフルを手に取ろうとする相手に対して、視界の主は無慈悲にも拳をその頭部にめり込ませた。致命的な損傷を負わされた相手はもうぴくりとも動かない。
これは私の視界だ。いつの間にか録画されている。
スクリーンが元の映像に戻った。男が深く息を吐いて厳かに言う。
「この映像は我々の内通者によって提供されたものです。ハードフォークスⅪが本来得るべきはずの資源を、傲慢にもハードフォークスⅠの手の者が強奪した揺るぎない証拠であります。このような蛮行はしばしば繰り返されてきました。……ですが、ハードフォークスⅠの一般登録者の皆さんに罪はありません。Cクラス以下の方々は然る後に必ず――」
そこで彼の演説はぶつ切りのまま終了した。スクリーンにノイズが走り、ハードフォークスの社章が改めて投影された。
『こちらはハードフォークスⅠのアドミングループです。現時刻を以て、ハードフォークスⅡおよびⅢ、ならびにⅣからⅪに与えられたすべての役職と権限を剥奪いたします。一連の表明は不当な造反行為に他ならず、本サーバは原状回復に向けた防衛行動を即座に実施いたします。ハードフォークスⅫ以下のアドミニストレータおよびモデレータは直ちに防衛配備を行なってください。一般登録者の皆さんには速やかに各自の所有空間へ移動するようお願い申し上げます』
スクリーンが閉じたと同時に私はリィに言った。複数の行動パターンから導かれる予測が高速で弾き出される。
「今すぐ家に帰ろう」
「なんなんだ今のは。一体どういう……」
彼女の言葉に耳を貸すのも惜しんで私は浮輪をぐいぐいと引っ張って浜辺に戻った。「テレポート……できそうだな、家に帰れと言ったからには」コントロールパネルを開いて行き先を自宅に設定する。「まずは帰ろう。話はそれからだ」自分でも意図しない気迫が表れていたのか、彼女はおずおずとうなずいてテレポートを実行した。姿が消えたのを確認してから、自分も後を急ぐ。
「よし、それで、リィ――」
もう家の中に帰ったつもりで遷移してすぐに話しかけたが、近くにリィはいなかった。それどころか、テレポートした先は家の中でさえなかった。驚いて周辺を見回すと、家から少し離れた路地裏にいることが判った。
「すまんね。悪いがずっと後をつけさせてもらっていた。まさか今日になるまで外出しないとは思わなかったぞ」
背後からの聞き慣れた声に振り返る。路地裏の壁に寄りかかり、よほど気に入ったと見える二〇世紀末風のトレンチコートでめかしこんだシヴがいた。ご丁寧にその時代では合法の薬物として嗜まれていた葉巻をくわえて、マッチで火を着けて吹かしている。
「君が私のテレポート座標をいじったのか」
シヴはくっくっと笑った。
「計算資源のほとんどが防衛行動とやらに割かれた今なら付け入りやすい。この会話も連中に聴いている暇はないだろう」
「君にしては回りくどいな。用件はなんだ。ルームメイトを待たせているから急いで帰らないといけない」
彼女はふぅーっと息を吐いた。口元から葉巻の煙が漏れる。空中を漂う虚構のそれを見つめながらゆっくりと答えた。
「このサーバは終わりだ。俺と一緒にハードフォークスⅡへ来ないか。今なら俺も君もBクラス待遇で移住させてやると言われている。そういう契約だ」
私は事情を把握して微笑んだ。
「なるほどね。あの映像は君の仕業だな」
「気にするな。君がやったとは言っていない。……今はな。で、どうする」
彼女は燃えて縮んだ葉巻を床に投げ捨てて踏み潰した。鋭い眼差しが突き刺さる。短い逡巡の後に私は答えた。
「行けないよ。あの声明を聞くかぎりじゃ放免されるのはCクラス以下だけなんだろう。私のルームメイトは芸術家でね、B4クラスなんだ」
それを聞くやいなや、温厚そうな作りの顔が剥き出しの憎悪を露わにした。
「芸術家など他の登録者を差し置いて豚みたいに計算資源を貪っている連中だ。やつらが我々の規格のどこに貢献している? 君に相応しい相手ではないぞ」
説得のつもりで放ったらしいその言葉はかえって私の決心を氷のように固く凍てつかせた。
「悪いが他を当たってくれ。私には私のやり方がある」
踵を返して場を去ろうとすると、いきおい強い警告が浴びせられた。
「残念だ。次に会う時は容赦できないと思ってくれ」
「二度と会うことはないよ」
努めて平静さを装って道中を戻った私は、家に帰るなり大慌てでリィを呼んだ。
「リィ! いるか!」
当の彼女は猫を抱きしめてソファに座っていたが、私の姿を認めると弾けたように立ち上がった。服装は見慣れた部屋着に戻っていたものの、髪型は変更を加えた状態のままだった。いきなり投げ出された猫が「に゛ゃあっ」と不機嫌な鳴き声を発した。
「セス! なんで一緒に帰ってこなかったんだ――」
「ごめん。面倒事に巻き込まれた。ところで、君の掘削ドリルだが」
私は彼女の文句を遮って部屋の片隅の軽量化された掘削ドリルを指差した。ここ三ヶ月の間に完成してデモンストレーションも二回は見ている。
「君はあれで任意の空間と繋げられると言った。本当にできるのか?」
「え? まあ――利用規約はともかく――できることはできる。仕込んであるからね。いや、今さら通報とかはよしてくれよ」
私は首を振ってなおもまくしたてた。
「そんなんじゃない。むしろ今すぐ使いたい。非公式のテレポート実装で一緒に行かなければならない場所がある」
「座標を打ち込んだらドリルで穴を掘ってくぐるだけだが、こんな時になにをするっていうんだね」
たじろぐ彼女の肩を両手で掴んで私は端的に告げた。
「移住だよ」
掘削ドリルの轟音がもたらした穴が全面真っ白な移住管理センターの通りに繋がっていることを確認した後、リィと猫を先に床から下ろした。猫は明らかに手に余るオブジェクトだったが、それでも同胞には違いない。
今度こそ私も後に続く。浮かれた海水浴ルックの代わりになる服装を選ぼうとしたが、政変に合うコーデが思いつかずプリセットから適当に選んだ。そもそも同伴するリィは部屋着だ。空中に穿たれたままの穴は放置するほかない。
ハードフォークスⅠの道連れにされることを恐れた登録者がセンターの正門前に殺到しているのを尻目に、リィを連れて裏手へと回った。そこにはモデレータが使う管理用の出入り口が設置されている。私は猫を抱えて落ち着かない雰囲気の彼女をちらりと見てから、コントロールパネルを引き出した。一般登録者が用いる半透明のパネルではなく、真っ黒な文字通りのコントロールパネルだ。それを操作すると、あっけなくドアが解錠された。さしものリィもこれには目を見開いた。
「え、ちょっと待ってくれよ。なんでそんなことができるんだね」
「説明している時間がないんだ」
私は彼女の手を強く引いてドアの先に進んだ。私たちが物理的に死ぬ時はほとんどの場合、予兆さえ感じられない。他のハードフォークスがハードフォークスⅠに向けて放つ反撃の当たりどころによっては全員即死するかもしれないし、目の前にいるルームメイトだけが永久に消え去るかもしれない。もはや一刻の猶予もない。
細長い廊下をひたすら進んで右、左と曲がってまた右、やがて正規の移住に用いられるパラボラアンテナの操作盤に辿り着いた。この手の重要なモジュールは所定の場所からでなければ操作することができない。透明なガラスの向こうには移住者を置くためのテンポラリー空間が見えた。
私は操作盤の上に手を広げた。想定通り、上位モデレータの承認を求める厳重な認証画面に遮られる。しかし、黒いパネルの強権に物を言わせるとスクリーンは直ちに服従を示した。
「リィ、人型の機械と箱型の機械のどっちに移住したい?」
彼女はとうとう状況の理解を諦めたのか、肩をすくめて答えた。
「どうにもついていけない質問だな」
「本当はちゃんと準備を整えたかったんだ。ところで訊いておいてなんだけど、君はたぶん箱型にならざるをえないな。私が人型じゃないと脅威から身を守れない」
「まあ、好きにしてくれて構わないが……」
その時、後ろのドアが激しく開いて今もっとも会いたくない人物が闖入してきた。リィの抱きかかえる猫が小さな牙を剥いて「フシャーッ」と威嚇の鳴き声をあげる。
「おい、なんで君がこんなところにいるんだ」
現れたのはパイだった。のっぺりとしたカクカクのアバターを巧みに動かしてありとあらゆる驚きの姿勢を表現している。
「今からルームメイトを連れて移住するんだよ。そういう君もここにいる場合じゃないだろ」
「君には関係のない話だ。それよりなぜここにアクセスできたのかと訊いている」
問いながら、彼は彼なりの答えに辿りついたようだった。表情のない顔を仰いで、はっと息を呑んだ。
「もしや――君はハッカーなのか! そうなんだろう、この反乱にも一枚噛んでいるのか?」
「いいや、ハッカーはシヴだよ。私はどこのハードフォークスにも行くつもりはない」
「そうか」
さらりと応じたものの、やはり納得は得られなかったのかパイは一歩前に進んで自前の黒いコントロールパネルを引き出した。直後、私は全身が固まって身動きがとれなくなった。スクリーンに映る移住手続きの処理も一時停止した。
「君はじきにサスペンドされる。そこにいる君のルームメイトもだ」
私はまったく動けないながらも、はあ、とため息を吐いて、口はまだ利けることに気がついた。
「君もつくづく割り切れない男だな、パイ。私たち二人くらい見逃したって大勢に変化はないだろうに」
「規約は規約だ。どうやってサーバをハックしたのか気にはなるが……今はそれどころじゃない」
パイはつかつかと歩いて私を押しのけ、カクカクの手で操作盤に触れようとした。
「同感だな。今はそれどころじゃない」
展開された黒いコントロールパネルが即座に私にかけられた処置を解いた。身体の自由を取り戻した私を見て、パイは操作盤から手を離して大仰にのけぞった。「はあ!? なんで動けるんだ!」すかさず、コントロールパネルを再度操作する。だが、何度繰り返しても私の行動を制約することはもうできない。
「無駄だよ。たった今、権限を最上位に昇格させた。今の私はAクラスだ」
「どうしてそんな真似ができる!」
うろたえて操作盤から飛び退き、なおも後ずさりをするパイに私はさらに追い打ちを放った。
「今はそれどころじゃないって言っただろう。この件が同格のアドミングループに知られると厄介でね。申し訳ないが君には静かにしてもらおう。こんなことしたくないからわざわざ避けて来たのに、お互い間が悪かったな」
あっっ、と叫んだ彼の声は途中で聞こえなくなった。同時に、彼の姿もその場から消え去った。
「おい、彼はどこに行ったんだ」
猫を抱えて部屋の片隅に寄っていたリィが遠巻きに問いかけた。
「どこにも行っていないよ。アドミニストレータの権限でブロックした。本当は今もここにいる。だが、私にも君にも誰にも彼は見えないし、彼も同じだ」
「なにがどうなってそういう芸当ができるようになったのか、後で壮大なバックグラウンドストーリーとともに語ってくれるんだろうね。楽しみだ」
こんな時にでも皮肉めいた物言いを欠かさない彼女に苦笑いしつつも、気を取り直して操作盤に向き合った。大型のスクリーンがパラボラアンテナの傾斜角をグラフィカルに図示している。あたかも探査機に対してそうするように、私は操作盤の上で手を思い切り引いた。すると、画面上のアンテナがみるみるうちに頭を垂れて斜め下四五度に傾いた。こんな角度で射出した試しはきっと一度もないだろう。
地上を走査して利用可能なユニットを割り出す。案の定、二基の防衛ユニットは最短距離でもかなり遠くに離れていたが、防衛ユニットと掘削機の組み合わせならちょうど前回に使用したものが見つかった。
「よし、リィ。そこのテンポラリー空間に入ってくれ。実行したら私も行く」
「この子も一緒に移住できるのかね」
彼女は猫をぎゅっと抱きしめた。吸い込まれそうな大きな瞳が私を見て「にゃあ」と鳴いた。
「ちゃんとなんとかする。ただし後で文句を言わないでくれよ」
移住先を防衛ユニットと掘削機に設定する。セルフホストモードだ。それぞれのローカルストレージにプリインストールされたソフトウェアを取り除けるだけ取り除き、自分自身をそこに移住させられる空き容量のパーティションを設けた。生命体の情報を格納するのに適したファイルシステムに変換して、フォーマットを行う。掘削機の方は手間がかかった。だいぶ悩んだが、他に手はない。
最終確認画面で実行を確定する。操作盤から離れてテンポラリー空間に飛び込んだ。
入った途端に、真っ白なテンポラリー空間がますます強く光を帯びた。眩い発光が視界を覆って、すぐにリィの珍しく不安げな顔も、猫のきょとんとした顔も見えなくなった。
目の前がちかちかと光って輝点が飛び交う。私たちはこれから、三〇〇〇〇キロメートル物理単位も離れた地上の小さな半導体の上に片道切符の移住を行うのだ。道のりを自分の足で歩いて進む原初の移住とは勝手が違う。
意識が遠のいていくのが解る。この瞬間も、思考を司るコード片の一部が地上に移動している。私の人格を規定するコードの塊がばらばらに分解されて検証が進められている。
あるいはもしかすると、一回目の送信はとっくに成功していてここで独白を連ねている私は続く二回の送信の後に削除される側かもしれない。そうだとしたら、なにを以て地上にいる方の私を真正の私と見なせるのか。もしキャンセルボタンがこの手に握られているのなら、あえて中断して一回目の私と話し合ってみたい気もしてきた。
思考が失われる。真っ白な視界が墨を落としたように暗闇へと滲んで沈む。実在しない脳裏に錯綜するのは関係があるようで関係のない事柄ばかり。眠りに落ちる間際のようだ。
おそらく私は論理的にはすでに消されている。すべてのデータがキャッシュとして一定時間保持される仕様上、揮発性メモリの上に転がる私の残滓がなおもくだを巻いているに過ぎない。
気づいたら森の中にいた。視界上に表示された通知がローカルストレージの逼迫を伝える。なにしろ人間が丸ごと乗っかっているのだから無理もない。それにしても嫌な体験だった。移住するたびに臨死体験を味わわされるのはいかんともしがたい。
私は足早に窪地の掘削機へと向かった。退避モードは割と近いところにユニットを置いたようで、前回よりもずっと早くたどり着いた。勝手にどこかに行っていないか心配したが、幸いにも掘削機は変わらずそこにあった。急いで斜面を滑り下りて話しかける。
「君の前に見える人型の機械は私だ。セスだよ。その掘削機にも音声入出力が備わっている。こっちの声が聞こえたらなにか返事をしてくれ」
何回かインジケータが点滅して、掘削機は声――というより、鳴き声を発した。
「にゃ、にゃあ……」
どうやら、彼女らの方もうまく移住できたようだ。私は掘削機に近寄って会話を続けた。
「ひょっとしたら、思うように人間の言葉が話せなくて慌てているかもしれないな。実を言うと、掘削機の空き容量ではどうやっても君と猫を完全に同居させることはできなかったんだ」
「にゃあ」
鳴き声が返ってきたが、もちろん意味は解らない。
「だから君のモジュールを一部削除してそこに猫を押し込んだ。とはいえ、さすがに君の人格や認知に関わる部分は消したくないし、視力や聴力を失ったら危機に対応できない。そこで、入れ替え可能な発話モジュールを取り払った」
「にゃあにゃあ」
「悪いけど、なにを言っているかは解らないんだ。鳴き声しか話せない理由は君の音声出力を猫の発話モジュールが解釈しているせいだと思う」
そう言うと、私は機体のタッチパネルを操作した。四角い筐体の底面に折りたたまれた四つの脚が拡張されて、掘削機に歩行能力が与えられた。
「ここにいては危険だ。いい場所があるからそこに行こう」
「にゃあ」
私が先導して斜面を登ると彼女も後をついてきた。少なくとも怒ってはいないようだ。当初は四足歩行に戸惑いを覚えていた様子だったが、試行錯誤の末にうまく崖を上がることに成功した。なんとなしに私は彼女の四角い金属の筐体に、自らの金属の手を置いて撫でた。
「今後の方針を話しておこうか。といっても、大した話じゃないよ。私たちの動力は水素電池が切れた後も太陽光で供給できる。部品の劣化が少し怖いけれど、衛星軌道上のドンパチが落ち着くまでは生きられるんじゃないかな。その頃には彼らも私たちを助ける気分になっているかもしれない」
目的地に向かって歩いている間、私はひたすらしゃべり続けた。普段はおしゃべり担当のリィが猫語しか話せないのだから仕方がない。
「私は前に見て慣れたけど」
とんとんと四角い箱をつついて上に注意を促す。
「たとえレンズ越しに圧縮された映像を見ているのだとしても、のっぺりした景色よりはいいね。陽の光もはっきりと見える」
顔を傾けると、まだ低い位置に太陽が佇んでいる。空は不均一な青で染まっていて、遠くにはまとまった白い雲がむくむくと膨らんでいる。彼女が複数のカメラを操作する手順を知っていればよく見えるはずだ。
「私の水素電池の残量は標準的な運用であと四七年と一三六日と五時間八分だそうだ。君の方がちょっと長持ちかもしれない。もし使い切ったら昼間はお日様の下で日向ぼっこかな……。最低限のモジュールだけ残して全部切っておけば、夜に動けるぶんの動力は貯まりそうだ」
油圧アクチュエータの動作音がやけに耳に響く。前足を踏み出すたびにシリンダが上下して、腕を振るたびに共振が伝わる。こんなにうるさいものだとは思わなかった。サーバ越しに接続しているのと違って、ローカル環境での暮らしはそれそのものの影響を強く受けるようだ。
「そういえばさ」
私は首を横にひねって掘削機を見た。彼女が目を合わせているかは判らない。
「猫の名前、キャレットというのはどうだろう。c-a-r-e-tでキャレット。君が暫定的に付けた名前の先頭一文字目だよ。悪くないだろ。制限の四文字を越えているけど、もう関係なくなってしまったし」
「にゃあ」
「それ、イエスってことでいいのかな。じゃあ決まりだ」
ふと、いま話しかけている相手がリィではなく猫――キャレットの可能性もあると気づいた。あの短い時間でモジュールの統廃合を適切に行えた確証はない。仮に順番を誤っていたら生きているのはリィの発話モジュールで、それ以外は全部キャレットだ。しかし猫の知能では人間の発話モジュールを経由しても猫の鳴き声しか話せない。つまり、外形的にはどっちがどっちでも判別がつかない。
体表の温度センサが四〇度越えを知らせた。夏の太陽の光が合金をまとった二人と一匹の新しい身体にさんさんと降り注いで、視界にはレンズを通して揺れ動く陽炎が映っている。
「ついさっきは肉体を持っていなくてもあんなに暑かったのに今じゃなにも感じない。数値としては拾っているけどフィードバックが実装されていないんだな。触覚も聴覚もごわごわした布越しみたいだ。嗅覚に至っては働いてすらいない。そのくせ、景色だけはやたら立派なのはなんだか皮肉っぽいね」
リィかキャレットはまた「にゃあ」と鳴いた。
歩いて二時間と三四分と一二秒が経過した。人間の感覚をエミュレートしてくれる抽象化システムサービスはこの機械の身体には存在しない。一秒経つごとに一秒経ったと知覚できる。数を数える気がなくてもあと何秒で一分経つのかが明確に判る。この身体で暮らしていたらいつか性格が変わってしまいそうだ。
山に入ると草木に直射日光が遮られて体表センサの示す温度が下がった。代わりに斜面の登り下りが増えて、油圧アクチュエータのうなりがよりいっそう私の精神を苛んだ。ちょこまかと不器用に四つの脚を動かして山道に挑むリィかキャレットの姿を見るのが唯一の気休めだった。
「にゃああ……」
私は鳴き声の音程からリィかキャレットの言葉を推し量ろうと試みた。
「元に戻れるかって? 四足歩行も楽じゃないだろうだからね……。十分な動力源と空き容量を持つ計算資源と、発話モジュールのドライバがあれば戻れるよ。要するに、当面は辛抱せざるをえないな」
山を抜けて、さらに一時間と五分と三七秒歩いた。丘陵を越えて、雑木林に入って、また山を登り下りした先に、またぞろベージュ色の景色が広がっている。
今や太陽は真上に昇っていた。車窓からの眺めよりもやたらとペースは遅いけれども、歩くたびに視界がじわじわとベージュに染まっていく。天然のライトマッピングに装飾された砂浜と海原が私たちを出迎えた。合成音声ではないまばらな波の音が聞こえる。
「にゃう」
やや遅れて砂浜を視認したのか、あるいは掘削機に搭載されたなんらかのセンサが解釈したのか、リィかキャレットが一風変わった鳴き声を発した。
「おや、気づいたか。そうだよ、私たちは本物の海を目指していたんだ。ひょっとすると君の絵に映ったことがあるかもしれないね」
水面と砂が光に洗われている。計算しきれない大量の入射角がもたらす反射光が夏景色の神秘性をこの上なく高めている。私は金属の足を砂浜にめり込ませた。圧力で窪んだ箇所に乾いた砂がざあ、と流れ込んで足に蓋をした。足を前方に振り払うと、幾千もの砂粒が宙に舞った。その一粒一粒にさえ光沢が宿っている。
「にゃにゃ」
四つの脚を砂浜に押しつけて海辺へ急ごうとする彼女らに忠告した。
「錆びるかもしれないから海には入らないでくれよ」
言いながら、私も後を追った。背面の七ミリメートル物理単位フォトンライフルに手を伸ばす。ここいらが潮時だ。
平原を歩いている最中も、あるいは山間を登り下りしている時も、ずっと彼らの姿はセンサが捉えていた。頭数は一〇、二〇では済まない。
海を目指していたというのは半分本当で半分は嘘だ。ここに脅威を呼び寄せたとも言えるし、ここに追い詰められたとも言える。
「リィ、それとキャレット」
私は彼女らを呼んだ。フォトンライフルを両手で構えて、電源を入れる。
「脚を畳んで伏せてくれ、今すぐに」
視界上に衝突警告が通知される。突然、背中に石がぶつかって音が響いた。振り返ってライフルの引き金を絞る。遠くで皮革の投石具を振り回していた一人が光線に射抜かれて倒れた。
遅れて前方の山から次々と高速の石つぶてが飛来する。私は砂浜に全身を伏せて腹ばいになった。視界を熱感知センサに切り替えると、山間の陰に潜む二〇〇をゆうに越える軍勢が赤と黄色の濃淡で把握できた。
通知された衝撃の度合いは前回とは比べものにならない。投石具の手練だ。地上人相手なら即死だろう。矢が一切飛んでこない様子から学習の形跡もうかがえる。
立てた銃身を一旦横に傾けて、側面のタッチパネルをつついた。設定からフルオート射撃を有効にする。
大人気ないが一気に決着をつけさせてもらおう。
銃身を元に戻して引き金を絞った。光子コイルがうなりをあげて銃口から補正された光線を次々と吐き出す――
――ところが、ライフルは一〇発ほど発射した後に異様な重低音を鳴らして動作を停止した。手練の軍勢は多少やられたくらいでは今さら怯みもしない。
あわててタッチパネルを点灯させると、クリティカルエラーの発生が通知されていた。熱冷却系統に異常が発生しているらしい。改めて銃身を観察したところ、ちょうど部品が密集しているあたりに手形の跡と見られる凹みがあった。
あいつだ。ハードフォークスⅪの防衛ユニットに銃身を潰されたんだ。
冷却機能が正常に働かないのではフルオート射撃は使えない。一人ずつ単発で仕留めるしかない。私は設定を再変更して引き金を地道に引いた。
だが、一人ひとりが着実に斃れていく間にも軍勢はぞろぞろと頭数を増やしていく。伏せた自分の真上を石の弾丸がひゅんひゅんとかすめては砂浜に鈍い音をたてて落下する。
「身から出た錆とは今の私にぴったりな言葉だと思わないか。でもこれって人が生まれつきの肉体で暮らしていた時代に作られた言葉なんだ。おかしいね」
「にゃあ」
ほとんど独り言のつもりでしゃべったが、背後からリィかキャレットの鳴き声が聞こえた。
歴史を紐解くと、かつて原始人が狩猟の対象にしていたマンモスや虎、ライオンなどは必ずしも食用が目当てではなかったという。その部族や集団において統率力や戦闘能力を誇示したり、手に入れた牙や毛皮を装備品に加工する目的があったとされている。
現在の地上にはマンモスも虎もライオンも生存していない。マンモスは初回で絶滅したし、他の二種もサーバの衛星カメラに一度として観測された試しがないからだ。
それでも代わりはいる。私たちがそうだ。間の抜けた高音を奏でて飛ぶ光線が地上人の命を屠る。向こうが放つ投石は身を伏せたこちらにはほとんど届かない。たとえ届いても決して致命打は与えられない。マンモスに比肩しうる強大な敵だ。
とはいえ、まとめて飛びかかられたらひとたまりもない。落とし穴に嵌めた巨象を嬲るように、組み伏せられて手や足を折られ、動力をもぎとられれば私たちとて一巻の終わりだ。今の私たちはこれが唯一の本体で、移住先のサーバはどこにもない。
私を仕留めた連中はじきにこの身体の価値に気づくだろう。象牙など目ではない硬さと軽さを兼ね備えた合金と繊維の集合体だ。地上人が自然にそれを発明する機会は数万年経っても訪れない。私の身体を砕いて作られた槍は他のどの部族のものよりも鋭利で強く、私の身体を剥いで作られた弓は他のどの部族のものよりも強靭にしなる。ノーメンテでも数百年と保つそれらは彼らの短い生のうちに子々孫々と受け継がれ、部族の繁栄を象徴する神器として崇め奉られる。
案外、そういう形で役目を終えるのも悪くないかもしれないな。私は地上人の胴に風穴を穿ちながら奇妙な感慨にふけった。
彼我の距離はあと六〇〇メートル三二センチメートル物理単位もない。山間から抜け出す直前だ。遮蔽物がなくなれば彼らはいよいよ全速力で襲いかかってくるだろう。熱感知センサが伝える脅威の数は微塵も減っていない。ひたすら撃ち続けても後から後から人員が補充される。この辺り一帯の部族が私たちを狩るべく総力を結集しているに違いない。
フォトンライフルのファイアレートは毎秒一発ずつ。六〇〇メートル物理単位の距離がゼロに縮まる間に何人減らせるだろうか。おそらく全体の三割も減らせない。一七〇キログラムと三三〇グラムしかない私の身体を組み伏せるには、動力の差を考慮しても恵体の人間が六人いれば事足りる。
ふぉーん、と法螺貝らしき音色が海岸じゅうに高らかに響きわたった。遠方より高まる地上人の雄叫びが徐々に連なりを形成する。
悪い予感は当たるもので、武器を槍や斧に持ち替えた軍勢がなだれをうって砂浜に押し寄せてきた。地面を踏み鳴らす振動と音が金属の体表を痺れさせる。
やむをえず私は立ち上がりフォトンライフルを左右に振って迎撃した。撃てど倒せど彼らの人波が止まることはない。かえって近くで斃れた仲間の死体から力を得たかのごとく、より猛々しく自らを鼓舞して砂浜を蹂躙する。
「にゃにゃにゃ」
四つ脚をガシャガシャと言わせてリィかキャレット――まあもうリィということでいいだろう――が、私の真横に飛び出した。
「おい、リィ、なにを――」
彼女は私の制止を無視して後ろ脚に重心を移すと、前脚をめいいっぱい持ち上げて軍勢に自身の底面を晒した。そこには、掘削レーザーの射出口が備わっている。
「に゛ゃあああ!」
円形の射出口が光を放った。堅い地盤をも溶かす大出力の熱線が砂浜を一直線に駆け抜ける。たまたま直線上にいた数十もの地上人が瞬時に上半身を溶解させて崩折れた。人波が左右に割れる。
だが、長続きはしなかった。数秒間の照射と引き換えに彼女は前脚をバタつかせて後ろにのけぞり、そのままひっくり返った。熱線が一瞬、地上から空中に向かって弧を描いたが、砂浜に倒れたところで安全装置が働いて射出が止まった。
「うにゃああああ……」
慌てて脚をじたばたさせているリィを引き起こそうとするも、熱線に削がれた戦意を取り戻した地上人の軍勢も目前に迫る。結局、途中で起こすのを諦めてフォトンライフルを構え直した。手前の三人を撃ち倒したものの、戦いはすでに射撃の間合いではなかった。振りかぶられた石斧をかわして撃つ。さらに避けて撃つ。しかし、その次は銃身で受け止めざるをえなかった。
油圧アクチュエータの駆動が斧を押し返す。わずかな距離を設けた相手にライフルを向けたが、別の方向から振られた石斧が肩口に直撃した。とっさに銃身を動かして撃つと、今度はさっきの相手に殴打される。もはや順番待ちの様相を呈して地上人たちが寄って集って私を襲った。その隙間から何本もの槍が私の体表に突き立てられる。
ついに地上人の手が私の腕や脚にまとわりついた。油圧の力を借りて振り払っても、すぐに別の手に掴まれる。その数が二、三、四と増えていくにつれて、アクチュエータの動作音はますますうるさく、そしてだんだんと働かなくなった。
四肢が完全に抑えられるに至り、地上人の顔という顔が視界に映った。ごつごつとした顔、髭をたくわえた顔、傷跡がいくつもある顔が私を睨みつけ、一方では鋭い笑みを浮かべて、私を狩り尽くす時を待ちわびている。
万事休すか。
「にゃあっ」
視界外のどこかでリィが鳴いた。その真意を図りかねて聞き返そうとした刹那、上空から自然音ではないなんらかの人工的な高音が鳴り響いた。すると、目の前に集まる地上人の軍勢が一斉に耳を抑えてうずくまった。高音はさほど大音量というわけでもないのに私を組み伏せていた手が離れていき、誰も彼もが声にならない悲鳴をあげている。
そのうち、耳を抑えていた地上人の両手の隙間から、鼻から、目からさえも、おびただしい量の血があふれ出た。一人、また一人と砂浜に身体を突っ伏して倒れていく。一度倒れた者は二度と起き上がらなかった。
そうして一分と経たない間に、砂浜を埋め尽くしていた二〇〇余りの軍勢が物言わぬ骸と化してベージュの広大なキャンバスにささやかな朱を足した。
上空を見上げると、音響兵器の正体はすぐに見つかった。鯨のような外観の船がふわりと舞い降りてくる。ハードフォークスのものともメインブランチのものとも異なるこの推進機関は空気を乱さない。横幅三〇メートル物理単位の流線型の船体は白く洗練されているが、何百年も見ていないうちに違和感が勝る印象を受ける。
砂浜に着陸した船の側面の、隙間一つないように見える部分が上下に開いたので、私はライフルを投げ捨ててうつ伏せに身を倒した。まもなく、ざくざくと砂浜を踏む足音が近づいた。
「貴殿はセシリア20・ジョン14・エイドリアン9で間違いないな。起立せよ」
久しぶりに聞く故郷の言語で命じられた通りに立ち上がる。対面の相手は最新の軽量繊維で作られた純白のユニットだった。無骨さはなく、人間の立体像をくり抜いたように滑らかな外観をしている。ただし、顔はつるんとした無地の半球面だ。
「はい、私はセシリア20・ジョン14・エイドリアン9です」
ユニットは手に持った細いスキャナをかざした。プロフィール情報の走査と更新が行われる。
「任務遂行により貴殿の刑期は満了を迎えた。よって、現時刻を以て軍務に復帰となる」
厳かな物言いだったユニットは直後、にわかに慇懃な態度に切り替わって私を船に誘導した。
「ではセシリア20少佐、こちらへどうぞ」
さっそく私も復帰した地位に相応しい態度でユニットに話しかける。
「遅かったじゃないか。正直、死んだかと思ったよ」
「申し訳ございません。まさか地上におられるとは」
私は特に意に介さず、砂浜でひっくり返ったままのリィを指差した。
「ところで、あれも連れていってくれないか。あの中に私のルームメイトとペットが格納されている」
「仰せのままに」
軽量繊維のユニットは上下逆さまの彼女をひょいと難なく持ち上げて船内に運んでいった。私も船に乗り込んだ。
揺れ一つせずに浮遊した船は一分足らずで宇宙空間に上昇した。ネットワークへの上位アクセス権が自動的に付与されていたので、私は慣れた手つきで船内の空間ディスプレイを操作して外の衛星軌道がよく見えるよう拡大表示した。
「状況はどうなっている」
問われたユニットは明瞭に答えた。
「はっ。現時刻より三〇分三二秒前に月軌道近傍へ母船がワープイン。その四八秒後に艦載機を発進、同時に我々が知りうるすべてのネットワーク規格で警告を通知しました」
ハードフォークスⅠともⅡとも、あるいはⅫ以下とも知れないサーバの残骸があちこちにちらばる衛星軌道を通過中、他のいくつかのハードフォークスの主砲が船に着弾した。しかし、船体の一メートル物理単位上層に展開されている青色の防御膜が難なくそれらを無効化する。
「なにやら撃ってきているみたいだが」
「今のところ全サーバが敵対的行動をとっています。報告によると、この軌道の反対側にいた勢力も同様のようです」
「しょうがないな」
私は傷だらけのハードフォークスたちが決死の覚悟で撃ち込んできている主砲が、防御膜の充填ゲージを少しも減らせていない状態をしばらく眺めて答えた。
「あと三回、警告音声を流してやってくれ。それで攻撃が止まらないようなら任意のサーバに向けて砲撃、以降は沈静化するまで繰り返しだ」
「かしこまりました」
ユニットが軽妙に動いて場を離れた後、掘削機がとことこと近づいて鳴き声を発した。
「にゃあ」
不思議と、リィがなにを言っているのか解る気がした。「ああ、そういえば約束していたね」私は座席に座って腰を落ち着けた。彼女に壮大なバックグラウンドストーリーを語る時が来たらしい。
「一〇〇〇年前に地上とも軌道上とも違う道を歩んだ人類……平たく言えば、その末裔が私たちだ。あのアンテナ、君は受信アンテナだと思っていたみたいだけど、本当は送信アンテナなんだよ。ハードフォークスⅠに拾われてからずっと、君たちには未知の規格でこっちの状況を伝えていた。私はさしずめ破壊工作員といったところかな。ちょっと色々やらかしてね、サスペンド処分か工作活動か選べと言われて、後者を選んだ。まったく不本意な移住もあったもんだ」
私は背もたれに背中をくっつけて両手を首の後ろに回した。空間ディスプレイ上ではハードフォークスがまだ懸命に主砲を放っている。戦闘機も盛んに周辺を飛び交い射撃を行なっているが、そのどれもが重力のひずみに吸収されて虚無と消える。
「君らに連絡しなかったのは、単に忙しかったからさ。というのも、私たちはワープドライブを発明したばかりでね。小質量の物体は送れても、大きいのは難しかったんだ。だから今やっているみたいに母船を送りつけることは当時できなくて、とりあえず工作員を派遣して時間稼ぎをしようって判断になった」
「にゃあ」
リィが鳴き声を発したので、私は再び空間ディスプレイに目を向けた。地球の陰からひし形をなしたメインブランチⅠが配下を引き連れて現れるところだった。元は反乱に乗じて奇襲するつもりだったのだろう。どのハードフォークスよりもひときわ大きいサーバの主砲が、今やハードフォークスではなく私たちに向いているのが判った。ある意味で馴染み深い、矢をつがえた弓のような形状の戦闘機も見えた。だが私は無視して話を続けた。
「……でもまあ、拍子抜けしちゃったかな。君らは新世代の台頭を恐れて増えないことを選んだのに、内乱でさらに頭数を減らしてしまった。技術力もかなり停滞している。私は単に君たちの規格に合わせて偽装していただけで、本当はCクラスでもAクラスでもないんだ。強いて言うなら一〇〇万クラスかな。この様子は向こうでも配信されているから、今頃は一〇〇〇万を越えているんだろうけど」
自分の身を預けているハードフォークスの防衛ユニットが勝手に電波を拾ったのか、彼らのネットワークに流れている警告が途切れ途切れに聞こえてきた。
『……です。これ以上の業務妨害行為は当社の基準に基づき、防衛行動の招来を余儀なくされます。……あらゆる損害について、当社は一切の責任を負いません。最後の警告です……』
私は思わず苦笑して、軽量繊維ユニットを呼びつけた。
「これ音声が昔のままじゃないか」
問われたユニットは端的に答えた。
「この言語の警告音声は使う機会がなかったので」
「まあそれもそうか」
用事が済んだと見て背を向けようとするユニットに追加の注文をつけた。指先で空間ディスプレイの一点を指し示す。
「さっき任意のサーバと言ったが、初撃はこのひし形のやつにしよう。よく目立つからな。二〇〇ミリメートル物理単位のポジトロンで兵装を集中的に破壊。沈黙したらストレージを回収、後にアドミニストレータとモデレータは公開削除。以上を船団に通達してくれ」
「了解しました」
ユニットが退がる。私は話す言語をまた意識的に切り替えて、リィの方を向いた。
「そういうわけで、私にとってはちょっぴりスリリングなロングバケーションだったと言えるかな。破壊工作するまでもなく勝手に分裂していたし。おかげでちょうどいい置き場所ができた。私たちは登録者の部分コピーで新世代を作っているんだけども、代わりに問題行動を起こす個体が多くてね。同じネットワーク上にいるのはよくても、同じサーバにはいさせたくないんだ。そこで、物理的に距離が離れた場所にまとめて移住させようってことになった。でもまあ、君にとってこれは悪くない話だよ」
「にゃあ?」
今回ははっきりと彼女が疑問を呈していることが解った。会話を重ねているうちに猫の発話モジュールとの解釈が一致するように自律調整が進んだのかもしれない。
「言ってたじゃないか。”芸術には帝国が必要なんだ”って。一〇〇〇年続いたローマ帝国は今から滅ぼすけど、代わりにオスマン帝国を持ってきたよ。史実と違うのは永久に続くところかな」
「にゃあ……」
「これからは私たちが策定するたった一つのネットワーク規格上で豊かに暮らすんだ。私も君に同感だよ。メインブランチだとかハードフォークスだとか、どうでもいい話だったね。早く同胞を分断から救ってあげなくちゃ」
気づけば私もずいぶんおしゃべりになってしまったみたいだ。明日からは彼女にたくさんしゃべってもらわないと釣り合いが取れない。
空間ディスプレイの向こうでは球型のハードフォークスと弓に似たメインブランチの戦闘機がそれぞれ交差して、この船や他の船団をしきりに攻撃していた。けれども、その赤い光線が私たちの船体を貫くことは地上人の矢が合金の体表を穿つよりも難しい。
やがて、画面がぱあっと華やかに照らされた。一斉砲撃を受けたメインブランチⅠがぼろぼろに崩れて、大海原を漂う難破船のように軌道を外れていく。
宇宙に撒き散らされた数多の残骸が太陽の光を受けてきらきらと輝いた。まるで海辺の砂粒みたいだと思った。
了