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Rikuoh Tsujitani 1407ed8624
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第4話の途中まで
2024-01-18 15:10:43 +09:00

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title: "たとえ光が見えなくても"
date: 2024-01-04T20:57:41+09:00
draft: true
tags: ['novel']
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 今でも思い出に残っているのは、指先に残るわら半紙の感触。言われるままにピンと立てた人差し指を滑らせていると、横にいるお父さんが耳元に語りかけてくれる。「そうら、そこがゲオルゲン通りだ。そこを右に曲がると――」私は彼より先に大声で答えた。「レオポルト通りね。お店がいっぱいある」「そうだ。いつかお前もそこで立派なドレスを買うようになる」
 耳の奥底からあまりにも聞き慣れすぎた高周波音と低周波音が徐々に近づいてきているが、まだ私は喋っている。
「私が着たってしょうがないわ。どうせ分からないもの」「そんなことないよ。上物は着るだけで分かる」
「じゃあ、今、欲しい」
「今は……難しいかな。そういうお店はどこも閉まっている」
「どうして?」
「……みんな、他のことで忙しいんだ。さあ、指がお留守だぞ」
 私の指先がぐんぐんと先に進み、ルートヴィヒ通りを過ぎる頃には高周波音が耳を覆いつくさんばかりにわなないていた。
「ずっとだ、そう、ずっと。さあ、広場に着いたぞ。どこだか分かるかな?」
 思わず、私は騒音に負けないような甲高い声で叫んでいた。
「マリエン広場! 私と同じ名前の――」
<ねえ、マーリア、どうしたの>
「あっ……ごめんなさい、ちょっと、夢を見ていたみたい」
<こんな状況に居眠りだなんて、よほど自信があると見ていいのかしら>
 リザのつっけんどんな声が束の間、私の頭蓋を満たす。
「そういうわけじゃあ……あっ、もう来るみたい」
<こっち側が済んだらそっちに行くわ、通信終了>
 途端に高周波音が左右に広がった。漆黒の視界の中に仮初の点描がぽつぽつと描かれはじめる。見たところ、十か二十か。だいたいそのくらい。まず間違いなく偵察でも斥候でもない。前触れなくびゅうっと吹いた突風にドレスのオーバースカートがひらひらと揺れる。
 相手はまだ私に気づいていない。気づくはずもない。
 北海のまっただ中――上空数百メートルの位置に直立しているたった一人の人間の姿を視認する術などない。
 私はいつもの調子で右腕から手の先に流れる閃光のイメージを思い描いた。すると、見ることができなくても迸る光の層が肩口から腕を伝い、手のひらに集まっている様子が感じ取れた。最初は大雑把でもいい。的はたくさんある。うわんうわんと唸りをあげて接近する群体に手のひらを向けてから、弧を描いて光の渦を放出した。
 きっと壮大な景色なのだろう。耳をつんざく高周波音に代わり、いつか聞いたファイヤーワークスの音を何十倍にも派手にしたような爆発音が彼方から連続して聞こえてきた。今ので半分くらいは落とせたと思う。私は空気を柔らかく蹴ってふわりと上昇した。気流が身体の上から下に通り過ぎてスースーする感覚が、実はけっこう気に入っている。
 十分な距離を得た後、今度は鋭角に蹴り出して勢いよく前へと滑空する。ついでに脚に取り付けたホルスターから取り出したステッキは指先よりも太く、手のひらよりは細く、より指向性を持って閃光を撃ち出すことができる。崩壊する群体の悲痛な音が顔面を打つ。左に一機、右に二機。まず右に向かってステッキを振った。直後、手からステッキを通った閃光が鞭のようにしなって動き、遠ざかろうとする二つの戦闘機を鮮やかに両断したのが分かった。
 続いて、左側に取り掛かろうとしたところ、バリバリバリと機銃の音と共にビリビリとオーバースカートの生地が破れる音がした。金属の塊が表皮に達した感触を得るも、閃光に守られた肉体の奥には届かない。あてずっぽうの射撃ではない。確実に私を狙って撃った。顔を傾けると、プロペラが回る高周波音と、射撃音の残響と、機体が空気を切る音が、像を結んで漆黒の視界の中に空想上の戦闘機を描いた。
「そこにいるのね」
 私は像の上めがけて飛んだ。ロングブーツの底が、確かな金属質を捉えた。今、自分は戦闘機の上に立っている。
 前方で人の声がした。英語なので、私にはよく分からない。甲高い拳銃の銃声もする。たぶん私を撃っているのだろう。
 幸いにも銃撃音の角度から操縦手の正確な位置が把握できたので、私はおかえしにステッキを持っていない方の手で拳銃を模り「ぱん、ぱん」と言った。刹那、がくんと金属の地面が大きく傾ぎ、前のめりに倒れ込みそうになったので慌てて空中に逃げた。まもなく最後の機体が海に沈む音がすると、辺りは静かになると思われた。
 だが、高周波音は増え続ける一方だった。うわんうわんという唸りが第二陣の到来を告げる。
 私は再び手のひらに光の力を収束させた。騒音を打ち払うように死の円弧を作り出す。
 今度のファイヤーワークスはひどく小さかった。未だ優勢を誇る風切り音が群をなして爆発音を切り裂き、前へ前へと迫ってくる。
 真っ暗の視界に高速で描かれては消える軌跡を狙ってステッキを振りつけた。手応えのなさが私をますます焦らせる。
 まずい、このままじゃ本土が空爆されちゃう。
「お願い、お願い」
 必死に消えていく軌跡へと追いすがって、ステッキを振り続ける。時々聞こえる爆発音にも、数多のプロペラ音は揺らぐことなく私の左右上下を通り過ぎていく。
「お願いだから、落ちて」
 そんな文字通りの神頼みの声を拾ったのは、リザだった。
<下によけて、今すぐ>
 私はばたばたとはためくスカートを抑えながら、ほぼ垂直に降下した。全身が絞られるような圧力は十数秒ほどで終わり、おだやかな波の音が耳に届いた辺りで静止した。
 直後、頭上で今日一番のファイヤーワークスが花開いた。形は見えなくても音の大きさで分かった。
「リザちゃん、すごい」
 惜しみのない賛辞に彼女は鼻息一つで答えた。
<ふん、私の方は敵が少なかったから>
 まもなく、管制官から連絡が入った。
<たった今、レーダーで確認した。目標は殲滅された。ご苦労さま。二人とも帰ってきておいで>
「いいえ、まだいるわ」
<はあ? あんた、なに言って――>
 実は、海面に避難してからずっと聴こえていた。さざなみの音に紛れて響く、おごそかな重低音。
 緩やかに上昇してから、身体を前に傾けて北海を見つめた。視界は暗闇でも、繰り返される低周波がその奥深くにおぼろけな像を作り出す。そこへ向かって、手のひらで集めた閃光を解き放った。波打つ水の動きを視界に描きながら待っていると、低周波音も消えた。
「海の底でかくれんぼしようとしていたみたい」
<……潜水艦がいたのね>
 はっとするリザの声に管制官も応じる。
<さすが、我が軍が誇る究極兵器だ>
<でも、せっかく仕立てて頂いたドレスを汚してしまいました>
 管制官は短く笑った。
<また作ってもらえばいい。次はもっと立派な生地で注文しよう>
「嬉しいわ。早くお父さんにも見せたい」
 私はまた、漆黒の視界の中にお父さんの輪郭を描いた。
<祖国に勝利をもたらした後、毎日だって見せられるさ。では、改めて帰投を命じる。通信終了。ハイル・ヒトラー>
「はい、直ちに帰投します。ハイル・ヒトラー」
 ところで、私はお手紙を送る時に必ず年も書くようにしているの。そうじゃないと何年も文通することになった時、どれがどの八月だったかそのうちに判らなくなってしまうかもしれないでしょう?
 一九四七年十月一二日。この日も私たちは勝利を収めました。
 たとえ光が見えなくても。
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”一九四七年十月二〇日。昨月の今頃はあんなに暑かったのに、このところめっきり冷え込んできました。お父さんがいるシェラン島はきっともっと寒いのでしょうね。本当はすぐにでも空を蹴って会いにいきたいのだけれど、あいにく今の私は上官の許可なくしては男の人の背丈より高く飛ぶことさえ許されていません。でも、管制官が仰るには戦争でもっと功績を立てれば、どんどん偉くなって、したいことがなんでもできるようになるそうです。”
 チーン、とタイプライタが鳴り、ハンマーが紙面の端に到達したことを知らせてくれる。一旦、タイピングを止めて手探りで本体のレバーを引っ張り、改行する。
”それにしても、まだ子どもの私が「上官」とか「管制官」とか言って、言葉にしてみたらずいぶんおかしい話に聞こえるでしょうね。今の私はなんでも中尉なんだそうです。私よりたっぷり何フィートも大柄な男の人たちが、前を歩くとさっと右、左に避けてくれるのが分かります。姿は見えなくても足音でだいたいどんな背格好なのか分かりますから。”
 チーン。また、音が鳴った。再びレバーを引いて改行する。
”いつか少佐になったら、私たちの鉤十字が輝くブリュッセルの空を飛んで、お父さんに会いに行く許可をもらおうと思います。少佐だったら、ついでに山ほどのチョコレートを買うことも許されそうな気がします。その日まで、どうかお元気で。ハイル・ヒトラー”
 チョコレート……そう、チョコレートだ、と私は唐突に思い至った。今週、お給金を頂いたから、ベルギーのチョコレートは無理でも近所のチョコレートは買える。椅子から勢いよく立ち上がったら、ふわ、と全身が浮きかけたので、あわてて踵を地面にくっつける。左を向いて五歩半歩くと、壁にかかっているバッグがある。その中にお財布も身分証明書も入っている。前に手を伸ばすとそこには確かに古びた皮革の感触が広がった。
 両手でバッグを掴んで上にもちあげると肩掛けが釘から外れる。それを頭から被るようにして肩口に合わせると、また左に三歩歩いて、冷えたドアノブを触った。すぐ隣に立てかけられた杖も忘れずに持っていかないといけない。これがあるのとないのとじゃ大違い。部屋を出ると廊下が待ち受けているが、左手の杖先で床を叩きながら右手で壁をなぞっていくと、思いのほか簡単に玄関までたどりつける。
 まだお日さまの熱を頭のてっぺんに感じる時間なのに、外は肌寒かった。さっき手紙で書いてばかりだというのに、横着せず右へ四歩半歩いてコートを持ってくるべきだった。でも、杖の先っぽで石畳をとん、とんと叩きながら道を歩いているうちに、だんだん身体が温まってきた。
 この杖は先端がとても硬くできている。なので固い地面を叩くと甲高い音とともに、衝撃が指先に伝わる。すると、私の真っ暗な視界の中に白線の波がざざあ、と描かれていく。音の調子と衝撃の具合で、あと何歩歩くと壁があるのか、どの辺りに他の人が立っているのかだいたい分かる。
 今しがた、目の前に白線の壁の輪郭ができあがったので、私はそれをひょいとよけて道を曲がった。
 こういうのって誰でもできるわけじゃないみたい。管制官が「まるでコウモリみたいだね」とおっしゃっていた。聞いた話では、コウモリさんは目はほとんど見えないのだけれど、代わりに壁とおしゃべりをして場所を教えてもらうんだそう。一体、どんなふうにおしゃべりしているのかな。
 でも、確かに私とそっくりだ。杖でコツコツと叩くと地面が壁やお店の場所を教えてくれる。きっと私はコウモリとして生まれるはずだったのに、間違えて人間に生まれてきてしまったんだ。だとしたら、なんて運の良いことでしょう。人間じゃなかったらチョコレートは食べられないもの。
 また角を曲がって路地に入ると、もう杖はいらなくなった。鼻をくすぐるチョコレートの甘い匂いが、ひとりでに私の足をお店の前に運んでくれるからだ。揺るぎない自信を持って手を前に突き出すと、果たしてそこには目的地のドアノブがあった。ぐい、と手前に引くと、愛想の良さそうなおじさんの声が出迎えた。
「やあ、久しぶりだね」
「あの……」
 おずおずと欲しいものを言いかけると、おじさんが得意げに先制した。
「チョコレートかい?」
「あ、はい。そうです」
「いやしかし、この頃は原料の配給が厳しくてね」
 低い声でウーン、とうなるおじさんの声に、私の心臓は緊急降下中の気圧よりも重たくなった。
「えっ、チョコレート、買えないんですか?」
「買えない……」
「そんな……」
「……わけないだろ、お嬢ちゃん。ちゃんと君がいつ来てもいいようにとっておいた」
 目線の高さにざっ、と紙袋が置かれた音がしたので、思わず私は手で袋をぎゅっと掴んだ。大、小、いろんな形のチョコレートが袋にぎっしりと入っているのが分かった。
「こんなに頂いていいんですかっ!?」
 店の中に響く大声で言うと、店主のおじさんはげらげらと笑って答えた。
「いやいやだめだよ、ちゃんとお金はもらうからね、はっはっは」
「あ、いえ、それはもう、もちろん。今すぐお支払いします」
 私は急いで鞄の中をまさぐり財布を取り出して、中に入っているお札を全部出した。
「これだけあれば足りますか」
「そんなにはいらないよ」
 おじさんは数枚の紙幣を抜き取ると、大きなごつごつとした手のひらで私の手を包み込み、そっと押し戻した。
「気をつけて帰るんだよ」
「はい、直ちに帰投しま……じゃない、はい、まっすぐ帰りますっ」
 最後の最後でうっかり会話の段取りを誤った私は、杖をいつもより素早く叩いて店を足早に去った。変な子だと思われたかもしれない。しかしなんにせよ、チョコレートが手に入ったのは間違いない。量もいつもよりずっと多い。思わず浮きかけた足を、うんと踵に力を込めて地面にへばりつけた。
 片腕にチョコレートの紙袋を抱えているからか、ちょっと杖を叩くのがやりづらい。いっそ飛んで帰ってしまいたい。気が急いて杖の先端の向きがおろそかになってしまっている。白線の波が描く軌跡はおぼろげで頼りない。それでも私はずかずかと勇ましく前へ前へと進む。今の私は重戦車だ。
 しかし私の進撃は勝手知ったる街角をひょいと曲がったあたりで唐突に止まった。鼻先にぼすん、と衝撃が走り、地面に尻もちをついた。紙袋が手から滑り落ちる。突然の出来事でも、からからと石畳を転がる杖の行方を見失わないよう耳を傾けていると、覆いかぶさるように男の子の声が上から降り注いだ。
「いってーな」
「なんだ、この女」
「いきなりぶつかってきやがった」
 他にも何人かの声がする。咄嗟に「ごめんなさい、急いでいて」と平謝りすると、どういうわけか男の子たちの怒声がぴたりと止んだ。ちょっと怖そうだと思ったけれど、存外に優しい人たちだったのかしら? と期待しつつ、地面のどこにあるはずの杖を手でまさぐっていると、まもなくそれは無惨に裏切られた。
「こいつ、目が見えてないんじゃないか」
「あれ見ろよ、チョコレートだ」
 また少しの沈黙。
 私は反射的に杖を諦めて紙袋を掴もうとした。が、言うまでもなく相手の方がすばやかった。がさがさと祝福の鐘を鳴らすその音は、今や石畳に這いつくばる私の頭上にあった。
「あの、お願い、返して」
「なんでだ?」
 三人の中で一番野太い声の主が言う。続けて、チョコレートの包装紙を破る音。ぱきっ、と歯でかじる音までもが実にいやらしく辺りに響いた。
「お前みたいな国家のお荷物がこんな贅沢品を持っていいわけないだろ」
 別の男の子がもっともらしい主張で私からチョコレートを奪ったことを正当化した。
「でも、私がお金を出して自分で買ったものですわ」
「ふん、どうせ親の金だろう。出来損ないが一丁前に着飾っていい気になるな」
「違います、私も働いています」
 三人の男の子たちはチョコレートを頬張る咀嚼音に甲高い声を重ねながら、ひとしきりの嘲笑を浴びせてきた。
「嘘つくな。お前みたいなのを誰が雇うもんか」
「本当です」
「じゃあ、どこでなにをして働いているのか言ってみろよ」
「私は――」
 と、言いかけて、私はぐっと口をつぐんだ。言えない。言っちゃだめだ。私のしていることは国家機密だって管制官がおっしゃっていた。仮に言えても彼らはまず信じてくれない。それとも、今すぐ目の前で十フィートも浮き上がってみせたら、びっくりしてチョコレートを返してくれるだろうか?
 そんな危険な考え方が頭をよぎればよぎるほど、私の脚全体はかえってより強固に石畳と接地した。
 一転、まごついている様子の私を見て男の子たちは不敵に笑った。
「ほらな、言えねえ。チョコレートは没収だ」
 石畳に伝わる振動と、徐々に遠ざかっていく彼らの勝ち誇った声が、”目標”の離脱を知らせる。急速に冷えていく私の脳裏が、真っ暗な視界に白線の像を結んだ。杖なんてなくても、こんなにどたばたと足音を立ててくれているのなら、実に狙いやすい。横に並ぶ三人の男の子の”どれ”の背が一番高いのかまで、はっきりと判る。
 右手を拳銃の形に模った。全身をめぐる光の源が私のやりたいことに呼応して、その超常的な力を指先の一点に収束しはじめる……。
 ……。
 できない。
 私は我に返って手を下ろした。こんなことのために力を使ってはいけない。代わりにくちびるをぎゅっと噛み締めた。今頃食べているはずだったチョコレートの甘い味が、鉄臭い血液の味に変わって私の舌先を鈍く刺激した。
「貴様ら、ここでなにをしている」
 突然、ずいぶんと聞き慣れた声が街角に反響した。白線がその人の背丈を描くのを待つまでもなかった。
「管制官?」
 ががっ、と石畳がこすれる音。三人の男の子たちは敬礼している。
「ジーク・ハイル!」
「なるほど、敬礼には慣れているようだな」
「はっ」
「貴様らにもじきに国民突撃隊の招集礼状が来る。だというのに……その口元にへばりついているのはなんだ?」
「はっ、チョ、チョコレートですが」
「ほう、鋼鉄の男子にそんなものが必要か?」
「い、いえ、決して」
「ならば捨て置け。こんな街中をほっつき歩いている間にもできることがあるだろう」
「し、失礼しました」
 嘘みたいに縮み上がった男の子たちの声と、とてつもなく低い管制官の声との応酬の後、整列行進の足取りで男の子たちが去っていった。入れ替わりに、管制官が体格に似合わない静かな足音で近づいてきた。今度こそ、私はすばやく立ち上がって男の子たちに負けないくらいの声で敬礼をした。
「ハイル――」
「まあ、落ち着け。災難だったな。ほら」
 敬礼を解いた私のそれぞれの手に、杖と、それから紙袋が渡された。まだ中身はたっぷり残っているようだった。
「あ、ありがとうございますっ」
「まずは家に戻ろう、見せたいものがある」
 そうして、私は管制官に手を引かれて残りの帰り道を歩いた。
 ああ、男の子たちを「ぱんぱん」しなくてよかった。
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「ううむ、もうタイプライタの扱いは私よりうまいな」
 管制官の声はいつも2フィート半高いところから聞こえる。機械の留具から紙面をするりと取り出して、感心したふうにうなった。その声はどんなに柔らかい言葉遣いでも鋼鉄の感触を与える。
「こんな私でもお手紙が書けるのですから、つい夢中になっちゃって」
「戦争に勝利したらタイピストになるといい」
「タイピスト……?」
「人の代わりに文章を打ち込んであげる仕事だ。これなら家の中で働ける。給料もかなり良いと聞いている」
 そうか、戦争に勝ったら戦う相手がいなくなるんだ。そうしたらどこでなにをしているのか隠す必要もなくなって、あの男の子たちにも胸を張って自分の職業を言えるようになる。
「そうしたら、私に授けられたこの力も使い道がなくなってしまいますね……」
 十歳の頃に収容所に連れていかれて、そこで私は国家のために義務を果たすのだと教えられた。毎日、色々な人たちがやってきては、それをまっとうするたびに私の前からいなくなった。みんな、私と同じように目が見えなかったり、耳が聴こえなかったり、体の一部がなかったりした。
 なにもかもが変わった日の後、今までに見た人たちのすべての生命を背負っているのだと教えられたのだった。
「ずいぶん気の長い話ではあるけどな。それまでは休む暇もないよ。ブリュッセルに飛んでいく余裕なんかないほどに」
「いえ、それはほんの冗談ですわ」
 あわてて私が訂正すると管制官は短く笑った。
「まあ、君に飛んでいかれたら実際困るが、ベルギーチョコレートくらいならそのうち用意させるよ」
「本当!? あっ……、失礼しました、どうもありがとうございます」
 ひょい、と浮き上がった踵を瞬時に床にくっつけた。管制官はまた笑った。
「でも、君のお父様に会うのはしばらくお預けかな。勝利は目前とはいえベルギーは未だ前線だからね。ここだってまだ危ない」
「そう……ついこないだ、あんなにやっつけたばかりなのに、どんどん来るんですね」
「敵は多勢だ。ヨーロッパ中が我々を目の敵にしている。思い知らせてやらなければならない」
 落ち着いた管制官の声ににわかに怒気がこもった。私も、お父さんといつまでも会えない辛さを思うと彼と同じくらい敵への怒りがこみあげてきた。
「私が、全部撃ち落とせたらいいのだけれど」
 ぽつり、と前のめりな発言を漏らした私に管制官が告げる。
「早まらなくてもいい。君が下手に力を使いすぎれば、いざという時に失敗してしまうかもしれない」
 ひょっとすると、さっきの男の子に私がしようとしたことも見透かしているのかもしれない。
「ごめんなさい、少し言い過ぎました」
「気にするな。君はよくやっている。敵を殲滅しなければならないのも完全に正しい。だから、ほら、さっそく新しいドレスを仕立てさせた。実はあの後、すぐに発注したんだ」
 はた、として私は前に手を伸ばした。以前も着るたびにうっとりするほどだった生地が、まるでわら半紙に感じられるほどのなめらかな触感が指先から全身に広がった。
「まあ、信じられないわ!」
 今度こそ、私は軍人としての建前を放り出して嬌声をあげ、両手でドレスをむんずと掴んだ。しかし管制官は嗜めることなく「本当は見た目も最高なんだ。我々の軍服と同じ職人に服飾をやらせているからね」と補足した。すかさずぶんぶんと頭を振って応える。
「ううん、いいの。触るだけでこんなにも感激しているのに、繕いまで知ってしまったらこのまま死んでしまうかもしれない」
「おいおい、滅多なこと言わないでくれよ。君は間違いなく我が国でもっとも高価な兵器なんだから」
 すかさず、その場で管制官の助けを借りてドレスを着込んでみた。革の分厚い手袋をはめた手に引かれて鏡の前に立たされた私の視界には、やっぱり漆黒の暗闇しか映っていなかったけれど、世界でもっとも美しいとされる「お姫様」の姿を懸命に描き出そうとした。
「どうかしら、ほら、私には――」
 一回、二回、わざとらしく咳払いをしてから管制官が言う。
「君のお父様にはお見せしない方がいいかもしれないな」
 想定外の感想に私は見えもしないのに、声のする方向へ振り返って口元を曲げた。
「あら、どうして?」
「あまりにも美しすぎるから亡くなってしまうかもしれない」
「そんな――お上手ですね」
「嘘じゃないよ。君だってドレスをじかに目にしただけで死んでしまいそう、と言ったじゃないか。扱うべき者が扱えば効力は倍増される。兵器と一緒だ」
 管制官はひとしきりの賛辞を私に送ると「そろそろ時間だ」と告げ、今日一日はドレスを着たまま楽しんでいていいと許可を与えてくれた。彼が部屋から去った後、すっかり調子に乗った私は床を静かに蹴って宙に浮かんだ。
 あまりにも軽く薄いオーバードレスの生地がふわりとたなびいた。漆黒の世界でも思い描けば私は部屋に咲く一輪の花だった。
 固い木材の天井に、いつも広げているおでこがこつんと当たった。
 リザが遅い昼食の時間を告げに部屋に来るまで、私はそのままでいた。
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「ずいぶんお熱みたいね」
 手狭なダイニングに置かれたテーブルの上で、トマトソースのスパゲッティーニを二人で食べている時、リザが言った。
「そんなんじゃないよ、ドレス、とっても良かったから」
 ぎくしゃくした言い方をしながら、フォークで巻いたパスタを口に運ぶ。いつも人以上に服を汚してしまう私が、よりによっていつも異常に服が汚れるトマトソースを食べているのだから、当然、今は肌着しか着ていない。その上にナプキンをつけさせてもらっている。
 リザは私と同じ光の源に受け入れられた子で、何年か前にイタリアから逃げてきたそう。以来、ずっと一緒に住んでいる。私より目が見える彼女に生活のなにもかもを任せてしまっているのは心苦しいけども、嫌なことは嫌、とはっきり言ってくれるので、ちょっとは気が楽だ。
「あのね、最近、どう」
「話題をそらすにしてもわざとらしすぎない?」
 スパッとよく切れる包丁みたいに私の目論見を見抜いた彼女は、それでもはあ、とため息をついた後に話題を変えてくれた。
「私たちがこうして休んでいる間にも、敵はわんさとやってくるのね。ダンケルクもまたとられちゃったし、イタリアの方も」
「でも、勝利は目前だって、管制官が」
 からん、とフォークをぞんざいに皿の上に投げ出す音が聞こえた。
「どうだか。私はとてもそうとは思えない。もっと多く出撃できるように要請した方がいいかもしれない。といっても、ほら、私は一応、イタリア軍属だから……」
「でも、管制官が”早まらなくていい”って言ってたよ」
 またため息が聞こえた。
「あんた管制官、管制官って結局自分で話を戻しているじゃないの」
「あっ、ごめん」
「言っておくけど、狙うには歳が離れすぎでしょ。たぶん倍ぐらい離れてる」
「管制官、そんなにおじさんっぽい顔してるの?」
「うーん、いや、どうかな。徽章が立派だったから年上かなあって、……っていうか本気なの」
 華奢な作りのテーブルががた、と揺れて、リザが前のめりの姿勢になったことが分かった。
「えー、まだ、わかんない、かな?」
 がたがたと机が揺れだした。
 きっと今の私はとんでもなく緩んだ顔つきをしているのだろう、と思った。
「ちょっと、揺らしすぎだよ、机」
 はにかんで嗜めると、リザの深刻そうな声が返ってきた。
「私じゃない。空襲よ」
 覆いかぶさるように空襲警報のサイレンが耳に入ってくる。二人して椅子から立ち上がった。空襲警報が鳴ったら心身の状態に関わらず出動する決まりになっている。「着替え、一人でできそう?」彼女の声に「うん、ドレス、まだベッドの上にあるから」
 数分でめいめいに服装を着込んで出動の準備を整えた。今度はリザの手に引かれて玄関から勢いよく飛び出す。最寄りの基地までは歩いて十分足らずだけど、杖に頼っていては決してそんなに早くはたどりつけない。早足で歩く彼女の歩幅に負けじと大股で歩き続けた。
 今日は人に手を引かれてばかりだ。
 風が頬を撫でつける空白の時間の後、彼女の足が止まった。「身分証を」という端的な男の人の声に応じて、私も鞄から身分証明書を取り出す。直後、男の人の声はうわずり「どうぞお通りください」と丁寧な物腰に変わった。
 基地の建物内に入ると足音がかつかつと硬質な響きになった。辺りは騒然としていたのにリザの歩みは管制官のいる部屋に入るまでもう止まらなかった。それで私もするべきことが判った。両足をこつんと合わせて直立不動の姿勢をとり、敬礼をした。
「よし、さっそく国土を汚す敵を駆逐してくれ。私、アルベルト・ウェーバーSS特別管制官大佐の権限により、魔法能力の発動を許可する」
「はっ」
 ほどなくして私たちは風が強まる夕暮れ時の滑走路に姿を晒した。