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Markdown

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title: "球になりたい"
date: 2023-05-20T18:43:03+09:00
draft: false
tags: ['poem', 'math']
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もし身体性から解き放たれた電脳世界に行けるのなら、僕は球になりたい。
女の子でも動物でも怪獣でもなく球になりたい。色は任意のツートーンカラーで、目も耳鼻も口も手足も備えず、地面から2フィートほど浮いて漂っていたい。各々の計算資源によって毎分毎秒維持され続ける美少女の群れの中で僕はただ一個、意味もなくミニマルを気取っている。
環境光さえ計算に入れていないものだから、どこから観察しても僕を彩るツートーンカラーは変色しない。ピンクとオレンジの日に僕と出会った人は、どの角度で対面しても#F8ABA6か#FFA500しか見えない。薄暗いムーディーな空間に移動しても、僕のモデルは決して暗がりに溶け込まず逆に浮き出て映る。普通に雰囲気がぶち壊しになるのでブロックされやすい。
実際、ブロックされる理由は至極もっともだが僕には僕で怒りを表明する権利があり、そのために僕はしばらく赤一色で過ごさざるをえなかった。しかし赤色が怒りの表明であるとのコンテクストは電脳空間では必ずしも通用せず、公共の広場ではしばしばテクスチャ剥げと誤解されて通報された。もう何度通報されたか覚えていない。さしあたり$n$度目の通報ということにしておく。
ある日、とびきり仲の良い子と一個と一人きりで出かける約束をした。柄にもなく張りきった僕は環境光をあっさり取り入れて煌めくミラーボール調で打って出たところ、待ち合わせ場所に彼は現れずメッセージが届いた。「眩しすぎて近寄れない」あわててライトマッピングを除去すると、なんでもない空間に虚空が開いたかのごとく真っ黒な球がそこに佇んだ。
改めて姿を現した彼が「輪郭が掴めないから中心線だけ白くしてよ」と言ったので、その通りに色を整えると彼は「これはこれでツートーンだよね」と微笑んだ。僕も微笑み返したかったが、目も耳鼻も口もないため、代わりに中心線を点滅させた。このように限定されたコミュニケーション手段しか持たないことによって、自身の至らなさを隠蔽したい。
モデルの衝突を許可している彼が僕に触れると、あたかも脂肪を蓄えた動物の表皮みたいに指先がめりこむ。しがない球体から存外に有機的なフィードバックが得られて喜んだ彼に、僕は握りこぶしをさらに深く沈みこませる行為を提案したい。調子よく手をうずめた彼が間もなく金属質の固い核に触れて、期待を裏切られた表情をする様子を見たい。「中は柔らかくないんだ」と彼は無邪気にぼやいたが、僕は中心線を離散的に点滅させてごまかした。「あ、今のは階差数列だね」彼は言った。
一個でいる時に、どこからともかく出現した数学徒たちに自身の非ユークリッド性を指摘されたい。「君は自分で思っているほど球じゃないぞ」ツートーンカラーの片方を黄色に変えて抗議の意思を露わにすると、論より証拠と言わんばかりに他の数学徒が座標を投げてよこした。「客観視点で見たまえ。この位置関係だと君は割に非ユークリッド的だ」確かに僕は微妙に歪んでいた。
咄嗟にモデルのパラメータをいじってもうまくいかない。示された距離間で正しく映る形に球の作図を試みると、どういうわけか他の座標では球体を維持できなくなってしまう。体表のテクスチャが波打って乱れた。「おい、かわいそうじゃないか」通行人が数学徒たちを批判した。「ユークリッド性にアイデンティティを持っている相手にそんなことを教えるなんて」それを受けて、数学徒たちの間で数ミリ秒の喧喧諤諤とした議論が行われた。彼らもなかなかに簡素な見た目をしていたが、これはもっぱら計算資源を数学上の問題解決に割り当てていたゆえらしかった。
「一理ある」と数学徒が言った。「今しがた我々の間で」「計算が実行されたが」「電脳空間側の不具合と思われる」と一言ずつ別々の数学徒が言った。彼らは問題解決の効率を高めるために思考を並列化している。じゃあ、一体どうすればいいんだ。僕は中心線を離散的に点滅させた。「それは階差数列だな」数学徒が言った。
「残念ながら現政権は権威主義的な体制をとっており我々のプルリクエストが通る見込みはない」数学徒たちは迅速な意思疎通を優先してコミュニケーションの担当者を一人に定めたようだった。一人が全文を喋って、他は計算に専念している。「だが、君が非ユークリッド性を抱えながら今後の余生を過ごす境遇はあまりにも忍びない」「そこで我々に君のモデルパラメータを操作する権限を委譲してほしい。先の座標に限って歪みに逆数を加えれば見かけ上のユークリッド性を維持できる」
僕はうろたえてうっかり体表をミラーボール調に変えてしまった。公共空間でいきなり環境光を乱反射したせいでたちまち非難の声があがった。あわや$n+1$度目の通報かと思われたところで、とびきり仲の良い彼が現れて僕の誤入力をキャンセルしてくれた。彼は僕のモデルパラメータを操作する権限を持っている。
「僕が代わりにパラメータを操作するよ」と彼は名乗りをあげたが、数学徒は一瞥して「君の所有する計算資源では有限時間以内に操作を完了させられない」と宣告した。「もちろん当事者自身にも不可能だからこうして提案している」彼は僕と数学徒の間に立って忠告した。「もしこの人たちが悪人だったら$y=x$とかのつまんない直線にされちゃうかもしれないよ」
さりとて僕は完全な球になりたかった。与えられた座標から見た僕が歪んでいる事実に疑いはなかった。たとえ広場でダサい直線に変えられたとしても当面笑いものにされるだけで実害はない。操作権限を取り消した後で元の形状に戻ればいい。僕はツートーンカラーを#00FF00に変えて合意を示した。
操作は一瞬のうちに完了した。「では例の座標から見てみたまえ」さっそく客観視点に遷移すると、そこには理想的な球体を成している僕がいた。率直な感謝の伝達を試みるも該当の意思を表す適当な色が見当たらなかった。まごついている間に数学徒たちは「君のユークリッド性を保てたことを嬉しく思う」と言い残して去っていった。僕も嬉しかったが、とびきり仲の良い彼はむくれた顔で僕の体表に指先をぐりぐりと押しつけた。「やっぱり直線になった方が面白かったかも」
僕は左右に回転して人間モデルの古典的な所作を模倣した。しかし彼の機嫌を直さなければならない。招待コードを発行して、一個と一人揃って大きな黒塗りの三角形が壁に図示されたプライベート空間へと移動した。そこへ僕は自身をめいいっぱいめりこませて、ちょうど線分と弧が接する位置にうずまった。客観視点での僕はさながら$x^2+y^2=r^2$の円のように映っているはずだ。
三角形の内接円と化した僕を見た彼は途端に目を輝かせ、僕の$xy$平面上にペイントツールで黒い補助線を引いた。ずりずりずりと心なしか荒々しいフィードバックに動揺しつつも経過を見守っていると、彼は三本の補助線をある座標で交わらせた。「ここが重心$G$だね」ぐりぐりと深く穿つペン先があともう少しで固い金属質の核に触れそうだった。
「ほら、白くなってよ、早く」指図されるがままに体表を白くすると、黒塗りの三角形に白い内接円が浮き出る格好となった。円に引かれた三本の補助線と重心の黒点は色差の隔たりによって輝かんばかりの鮮明さを放っている。彼は満足げに微笑んだ。「これはこれでツートーンだよね」
微笑み返すべきか迷ったが、なにかする前に彼は「光らないでね」と釘を差した。どうやら機嫌は直ったらしい。彼が遊び飽きて眠りにつくまで、僕はずっとこうしていたい。