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2023-08-21 10:07:01 +09:00

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title: "主観現実権"
date: 2020-12-11T00:40:49+09:00
draft: false
tags: ["novel"]
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 早川はこの日、勤めている会社のオフィスにある一室に呼び出されていた。旧弊な彼の会社は今時でも都内に広いオフィスを構えており、そのうちの大半の部屋は明らかに使用されていなかったが、毎日決められた時間にロボット掃除機が巡回しているおかげでどの部屋も常に清潔さが保たれていた。それは、今しがたドアをノックしたこの部屋も例外ではなかった。
 殺風景なその一室には印象の薄い何人かの若手社員がいた。そして無個性なモノトーンの長机とパイプ椅子が、二者を隔てる形で置いてあった。「早川部長、さっそくですが」中でもとびきり若そうに見える男が椅子から立ち上がり、目線と手の動きで着座を促した。彼はごく反射的に言われるまま座ったが、すぐに後悔した。こんな従順な態度を示していたら今からどんなにやりこめられるかわかったものではない。そう悟るやいなや口から声がすばやく飛び出した。
「なぜこんな大仰な事態になっているのか、正直なところ私はまだ理解が及んでいないのですが」あくまで表情は温和さを保ったが声の調子にだけは、自分はあくまでこの仕打ちに納得していない、というふうに異議の発露を絶やさなかった。
「それについては世代間で問題意識が異なる傾向にあるので、今からご説明します」
 そう言って話しはじめたのは、早川から見て先ほどの社員の左隣にいた別の若手女性社員だった。彼女は姿勢のよい着座を保ったまま、実に明瞭な物言いで要点を述べた。
「早川部長。社内からの告発により、あなたにはパワーハラスメントを働いた疑いがかけられています」
 それ自体は、先日受け取ったダイレクトメッセージで彼も予め知っていた。今や骨董品に近いスマートフォンで就寝前に社内の未読チャットを確認していたら、突然メッセージが飛んできて翌日の出頭を命じられたのだ。ひどく短い文面によれば、どうやらパワハラをしたことになっているという。だが、早川にはまったくそんな覚えはなかった。
「なるほど。まずは詳しく話をうかがいましょう」
 パワハラ、という言葉の歴史は古い。彼がまだ子供だった頃には既に定着していたし、大学の就活課や様々なメディアでもパワーハラスメントがいかに問題か、どれだけ個人の精神を歪ませ、人権に反するか、もしそのような上司と遭遇したらどう対処すべきか、ということを散々聞かされてきたものである。幸いにも早川自身にとってそれらの警句は杞憂に終わり、気づけばパワハラから身を守る方法ではなく、パワハラをしない方法の講習を受ける身分になっていた。今時珍しく、彼は一度も転職することなく三十年余りの人生を会社に捧げてきたのだった。
「ちょうど二週間前の午前十二時三十七分に交わされた、ある従業員との会話を覚えていますか?」
 唐突にそのようなことを言われ早川は面食らった――「はい、覚えていますとも。あんなことやこんなことや…」などとスラスラ再現できる人がいるとでも言うのだろうか。そんなやつがいたらストーカーに違いない――「いえ、覚えていません」湧き出てきた文句を努めて胸の奥底にしまいこみながら、あくまで口調と面持ちは生真面目さを保ち続けた。
「そうですか。早川部長は『ビジョン』を持っていないそうですが、仮に持っていても二週間分もためこんでいる人は稀でしょう。では件の社員のものを今から再生します。状況説明に必要な要素以外のオーバレイは予め除いてありますので、ご了承ください」
 女性社員は手元にある指でつまめるほどのサイズしかない正六面体の記録媒体を、机上の再生デバイスのくぼみに置いた。そこにデバイスがあるということすら、早川はたったいま気がついた。なんせ厚さが数センチほどしかなく、定規のように平べったく細身の形状をしていたからである。表面のくぼみに置かれた記録媒体は、その直後にちょっとの振動では微動だにしないくらいぴったりとくっついた。ほどなくして「定規」の全体が淡く光を帯び、全員が視聴できる大きさのホログラム映像が出力された。早川と若手社員たちはちょうど相対しているが、この映像に裏表はない。
 そこにはいつもの伝統的なランチ会の光景が主観視点で映し出されていた。この会社では社員交流を目的として週に決められた日数、社内チャットのボットがランダムで決めた組み合わせに基づいて対面式の昼食を摂ることが実質義務付けられていた。これは三十年ほど前まではむしろ先進的な取り組みだったらしいが、今では社員の間でも「伝統行事」などと揶揄される程度には古めかしいものとして認識されている。ただ、この主観視点映像は早川の記憶とはだいぶ異なっていた。
 どういうわけか、対面している社員も、近くにいる他の客も、店員に至るまでの全員がうら若い美少女なのである。どんなに高く見積もってもティーンエイジャーくらいの年齢に見える。こんな若い女性しかいない店に行った覚えはない。「あのう、これは私と対面した方のビジョンなんですよね?」早川は念のために確認した。そうすると、その反応を前もって予期していたとでも言わんばかりに、男性の方の若手社員が「やはりそうみたいだ」と隣の女性社員に向けてぼそっとつぶやいた。早川はすぐに「何が『やはりそう』なのですか」と追及した。
 若手社員は聞かれていると思っていなかったらしく、バツの悪そうな表情を浮かべながら「すいません」と小声で言い、それから「でも『ビジョン』はご存知なんですよね?」と取り繕う形で確認をとった。
「確かに私は持っていないが……コンタクトレンズ型のスマートフォンみたいなものだとは聞いています。娘が使っているらしくて。この映像もそれで撮ったものなんでしょう」
 彼は自身が知っている情報をありのままに開示した。十何年か前まで簡便な情報端末といえばスマートフォンだったが、ここしばらくの間に『ビジョン』と呼ばれるコンタクトレンズ型の端末がだいぶ普及してきている……それが早川の持つ知識のすべてだった。
「あれですよ部長。昔、お寺とかに映像を投影するイベントとかあったじゃないですか。AR……プロジェクションマッピング、とかなんとかとかいって」
 これまでもっぱら議事録の入力に努めていた三人目の若手社員が突然口を挟んできた。その例え話は、早川にこの不可思議な映像の理解を急速に早める手助けとなった。
 つまり……これは……。
「この社員の方は、ビジョンの機能か何かで、私や周囲の人の顔や身体に別のグラフィックを上書きしている、ということですか?」
 女性社員と隣の若手社員は一瞬だけ顔を見合わせた。それから女性の方が「おっしゃるとおりです。最初に世代間で問題意識が異なる傾向がある、と言ったのは、まさにこのことです。部長にご理解いただきたいのは、何であれ、これが件の社員にとっての**主観現実**である、ということです」と一息で言った。話しぶりからするととても重要そうな論点に聞こえるが、まだ早川にはいまいち理解が及んでいなかった。
 しかし、何か反応を示す間もなくホログラムの映像は終わりに近づいていた。投影された画面の下に細く表示されたシークバーが終端に接近しつつある。ランチ会での会話は率直に言って、ほとんど記憶にないのも無理はないというくらい、ごく淡白で取るに足らないものだった。
 社員交流などと謳ってみたところでいきなり腹を割った話などできるはずがない。あまり個人的な内容に言及するのもそれはそれでハラスメントになる。早川は当初、記憶にないだけでもしかすると自分がそのような発言をしてしまったのでは、と危惧していたが、この映像を観る限りではありえそうになかった。
 それにしても、聞こえてくる声は完全に初老男性の声――早川の声――なのに、上書きされたグラフィックだけはほぼ完璧と言えるほど理想化された美少女然としているのだから、彼にとっては奇妙で仕方がなかった。美少女化された早川の頭が急に傾いでも、マッピングは瞬時に追従し破綻する様子はまったく見られない。早川の愛想笑いの表情は、理想化された美少女の屈託のない笑顔に変換されていた。
 だが、間もなくして事件は起こった。「では部長、これで私は失礼します」食事を終えた件の社員がそう言って机上にあったインターフェイス――ビジョンを操作するリモコンのようなもの――を手に取ろうとし、しかし取り損ねたらしくインターフェイスは転がって地面に落ちた。続けて落下音が大きく鳴り響いた。どうやら映像の音声はインターフェイス本体から入力されているらしい。同時に映像の視点も激しく横ぶれした。「あ、いや、私が拾おう」くぐもった声が聞こえた。ハイテク・リモコンは早川の近場に落ちていた。
「ありがとうございます」と、件の社員のあからさまに張り詰めた声。そして、視点が床から上がると――そこには別世界が広がっていた。先ほどまで完璧にマッピングされていたグラフィックが、嘘のように消失していたのである。
「ほら、これだろ」インターフェイスを拾い上げた早川はもはや美少女ではなかった。年相応の外見をした五十代後半の男性がそこには映し出されていた。周囲の人物も各々の客観的な姿に戻っている。
「ひっ」という社員のかすかな震え声が映像から漏れた。主観視点も小刻みに振動していて、あえて推察するまでもなく動揺している様子は十分に感じ取れた。視点の下から社員の腕が伸び、インターフェイスを"中年男性"の手から取り上げるやいなや「ではこれで失礼します」と言い残し、即座に振り返ったところでおおむね映像は終わった。
 厳密には、最後の最後で視点がインターフェイスに集中し、猛烈に指を動かす様を数秒ほど映し出したあたりで途切れた。
 早川はなんとなく事態が掴めてきた。と同時に、すさまじい虚脱感に襲われた。あまりにも急速に緊張感が解けたのでつい口元も緩くなってしまったのか、思わず「ばかばかしい」と口走ってしまった。だが、彼の理性を司る部分がすぐに持ち直し、数秒後には「今のは失言だった。申し訳ない」と訂正させた。しかし対面した若手社員の心象を悪化させるには、その一言で十分足りたらしかった。
「早川部長、もう理解していると思われますが、インターフェイスを拾った際に、なにか誤って入力しませんでしたか?」
 女性社員の声は先ほどよりずっと鋭く、まるでナイフを突きつけられているかのように聞こえた。
「いや……まあ、何かしたかもしれないな。どうだろう」早川はしどろもどろになって答えた。
 実際、インターフェイスは物理接点がほとんどないタッチパネルだったので、彼にとって操作したかどうかは本当に曖昧なことだった。しかし、あれほど精密なマッピングが急に解除されたのは、状況から考えれば誤操作以外にありえなさそうでもあった。
「操作記録と照らし合わせてもあなたの入力で解除されたと判断できます」
 若手社員も厳しい口調で指摘した。先ほどの失言の代償は想像をはるかに越えるほど大きいものだったようだ。
「いいですね、部長。あなたは彼の**主観現実権**を犯したことになるのですよ」
 にわかに聞き慣れない単語が飛び出してきたが、その単語の意味するところを十分に想像できたので、早川はまたしても「ばかばかしい」と言い出しそうになるのを必死でこらえなければならなかった。今回は理性が辛うじて勝利した。だが、その理性でさえも彼を抑えつつ異議を申し立てている。そんな権利知ったことか、と。
「あー……失礼、つまり、私が彼のビジョンの……この、機能を、解除してしまったことが、パワハラにあたるとでも? 私が、誤ってヘンテコなリモコンをいじってしまったせいで?」
「端的に言えば、そうです。件の社員の労働パフォーマンスは当日まで平均よりかなり高い値でしたが、この日以降は著しく悪化しています。さらに、予防精神科による診断結果も……」
 後半の方はほとんど早川の耳に届いていなかった。眼前にいる三人の若手社員の表情は真剣そのものだ。この三人はさしずめ異端審問官かなにかで、自分は気づかぬうちに制定されていた戒律に反した咎を背負い、今から厳罰に処されるのだ。これは、二十一世紀の宗教裁判だ。主文、バージョンアップ不履行罪により被告人は有罪……。そんな光景が彼の脳裏に浮かんだ。
「……とはいえ早川部長に悪意がなかったことはわれわれ人権擁護部も認識しています。件の社員も厳罰は望んでいません。しかし、現に部下のメンタルを傷つけ、パフォーマンスを悪化させたことは事実です。そこで人事部に相談したところ、二週間程度の停職とハラスメント予防講座の受講で手を打っていいと言われています」
 早川はため息をつく代わりに深く息を吸い込んだ。
「つまり、事実上、私には何の抗弁の余地も残されていないということだな」
 今や彼から表向きだけの慇懃さは取り払われ、敬語を使うことも忘れていつもの管理職然とした口調に戻っていた。とはいえ、実のところ少し安堵もしていた。
 ――少なくとも、理解不能な権利を侵害した罪でギロチン台に送られるなどという最悪の展開は免れたらしい。あと数年も経てば還暦になろうかという人間を今と同じ給料で雇ってくれる会社など存在しない。この会社にしても、膨大な既得権益と不動産収入のおかげで終身雇用などという大それた口約束を今までなんとか守ってこられただけに過ぎない。眼前の若手社員にそんな席は間違いなく残されていないだろう――早川はこのように自身の立場を恵まれたものとして捉え、若手社員たちを殊更に憐憫してみせることで、理不尽な停職処分が負わせた屈辱を内的に処理しきった。
「ええ、残念ながら。差し出がましい助言ですが、とにかく受け入れた方が社にとっても部長にとっても有益かと」
 記録係の若手社員がまた横から口を挟んだ。早川はこれを受けて、いかにも理解に努めようとする物分りがよい初老の台詞を捏造することに成功した。話しはじめる前に、記録係の社員へほんの一瞬だけ視線を飛ばした。
「……件の社員には必要であれば、後ほど私の方から謝罪しておきます。私との対面に問題が生じるようならその意思がある旨をどうか伝えておいてください。老輩の私にはまだ理解が及ばぬ概念ですが、今回の処分を機会に勉強してまいります」
 若手社員たちは一斉に緊張が解けた様子を見せた。「後ほどチャットのダイレクトメッセージで予防講座のURLを送ります」女性社員が言った。
 横の若手社員が立ち上がったので、早川も一緒に席を立った。「では、これで失礼しても?」「ええ、どうぞ。本日はわざわざオフィスまでご足労下さり、ありがとうございました。こういうことは対面で、と社の内規で決まっていますので」
 続けて、他の二人の社員も席を立った。真ん中の社員がジェスチャ操作で再生デバイスの電源を切り、いよいよこの部屋から退出するのみとなった。ドアの位置関係から考えれば、まず早川から退出する方が順当と思われる。
 彼はきびすを返し、ドアの取っ手に手をかけた。そこで初めて、扉に「人権擁護部相談室」と表札がかかっていることに気がついた。それと同時に、なぜか知らないが彼の中にどうしても訊かずにはいられない疑問が湧き出した。
 早川はドアを開放したが、すぐには出ていかず振り返った。三人の若手社員と等しく目が合った。
「最後に一つだけ伺っても?」彼は承諾を待たずに問うた。
「君らの主観現実でも、私は美少女か何かに仕立て上げられているのか?」
 結論から言うと回答は得られなかった。ただ「主観現実の内容はプライバシーに関することなので」と濁されただけだった。
**
 帰り道は地獄のように感じられた。地下鉄の車両内で目にする人たちが、みな一様に虚空を見つめているのは十年以上前から慣れた光景だが、意思に反して最新技術を知った彼にとってはまったく別の文脈を纏っていた。
 ――この中の何人が――あるいは全員かもしれない――通りすがりの人たちを好き勝手に書き換えているのだろうか?  ある人にとって人間はみんな美少女で、別のある人にとっては動物なのかもしれない。そもそも、マッピングの対象は人間だけに留まらない可能性だってある。
 早川は技術に疎かったが、動く物体にリアルタイムでグラフィックを上書きできるのであれば、止まっている物体にはもっと簡単にできてもおかしくないという推測は容易だった。
 だとしたら、この周囲の空間、物体、景色は、いずれも上書き可能な対象なのだ。ここにいる人たちのすべては、ひょっとすると自分とは異なる現実を生きていて、なるべくそれを信じるようにしている。
 こうした想像は早川をずいぶん苦しめた。彼が若い頃にもヴァーチャル・リアリティだのなんだのという単語だけはやたらと独り歩きしていたが、ひとたび現実になってみるとこれほど寒々しいものはない。もたらしたのは現実の増殖であり、多様化であり、そして、個別化でもあったのだ。
 帰宅したのは昼前だった。朝方にオフィスまで出向いて、ほとんどすぐ帰ってきたのだから陽はまだ真上にも達していない。
 しかしリビングのドアを開けてソファに目をやった途端に、虚空を見つめている娘の姿が写ったのは彼をぎょっとさせた。それで、今日は祝日にあたることを思い出した。
「ただいま」早川はごく機械的に言った。今年、中学生になった娘は成績優秀だが、代わりに若干の反抗期までも先取り学習してしまったらしく、この頃は淡白な態度を示すようになった。家計の問題で私立中学は諦めざるを得なかったものの、このまま自然に推移すればかなり上位の公立高校に入れる見込みがあると先の三者面談では太鼓判を押されていたのだが。彼はぼりぼりと頭を掻いた。
 案の定、娘は親の呼びかけを無視したまま虚空を見つめ続けていた。――まさかとは思うが、娘も私を別の何かに上書きしているのだろうか? ――彼はとっさに娘を揺さぶって問いただしたい衝動に駆られたが、先ほどの人権擁護部から言われた忠告を思い出し、なんとか踏みとどまった。
 社内チャットのダイレクトメッセージ欄が威勢よく吠えだしたのは質素な昼食を摂りおえた少し後だった。当初は娘を外食に誘おうと思っていたが、気づいたら彼女はどこかへ外出していた。行き先を前もって言わないのは表皮下に埋め込まれたペアレンタルコントロール・タグによって居場所が常に露見していることに対する、ささやかな反抗と思われる。
 この頃の少年少女には親の目から逃れる自由が存在しない。そんな取るに足らない青春の一スクロールよりも安全の方がよほど重要だと訴える親たちの至極もっともな言い分によって、子供たちの悪事やいたずらの類はほぼ完全に制圧されてしまった。事実、早川はスマートフォンで彼女の位置情報を確認しただけで状況を把握し、すぐに自分だけの昼食を用意しはじめた。
 その間、人権擁護部ときたらやたら文章を細切れにして都度送りつけてくるものだから、気がつけばスマートフォンの画面上は通知でいっぱいになっていた。もしかするとこれは一種のテクニック――ここ二十年近くの間に心理学を応用したチャット上におけるコミュニケーション手法はだいぶ進歩してきた――なのかもしれないと早川は訝しんだ。ようするに、とっとと「宿題」を済ませろ、ということだ。
 少々機嫌が悪くなりながらも彼は慇懃な言葉が並ぶメッセージ履歴の行間に、儀式として観なければならないパワハラ予防講座の動画を見つけた。この動画は、履歴が言うところによればAIによって膨大な映像素材から自動的に構築された、つまり、早川の停職事由にパーソナライズされた代物らしい。
 しかし再生するやいなや、珍妙な形状の、極度にデフォルメされたキャラクターが甲高い声でしゃべりだしたので、彼はさっそく裏切られた気持ちになった。パーソナライズといっても、個人の感受性や好みまでは反映してくれないようだった。
「やあ! 今日は君が傷つけてしまった人がどんな気持ちだったのか、説明しちゃうよ!」
 平面的で中間色を多用した色彩のアニメーションで描かれたその空間は、なぜか前時代的なオフィスの風景を再現していた。中にいるキャラクターは弾力のあるボールのように弾みながら画面外からホワイトボードを引っ張り出してきた。
**『主観現実とは:人々によって個別的に解釈される認識のこと』**
 キュッキュッ、とあえて若干耳障りに加工された人工の筆記音とともに一文が記された。
「いいかな? 主観現実っていうのは、人々が持つそれぞれの解釈や認識を守るための概念なんだ! 人の数だけ世界観があるってことだよね! みんなちがって、みんないい!」
 キャラクターはキンキンとしたダミ声を撒き散らしながら、ひとしきり騒いだかと思えば、今度は急に萎びた様子になって表情までわざとらしく落ち込んだ。
「でもきみは良くないことをしたね……人の認識を傷つけちゃったんだ……誤りとはいえ、今度からは注意しないとね……」
 いつの間にかホワイトボードの一文は「提案される改善:主観現実を学ぶ」に書き換わっていた。
「今回のことは残念だけど、たぶん、最新のテクノロジーを理解していないことが原因なんじゃないかと思うんだ!」
 早川は先ほどまでこのまるまる太ったほとんど手足のないキャラクターが何の動物をデフォルメしたものか考えていて、実のところ内容の大半を聞き流していたが、話が妙な方向に進んでいることを理解して引き戻された。
「ビジョンや様々なテクノロジーは主観現実を実現するための手段だから、これらに精通することで誤りをなくせるかもしれないよ!」
 AIがわざわざアニメまで仕立て上げて考えた改善策とはビジョンを買わせることだったらしい。彼は先ほど電車の中で見た光景を思い出した。あの虚空を見つめる集団の一員になれというのか。
 早川はいわゆるテクノフォビアではない。これまでの人生で人並みにテクノロジーに触れ、相応に流行りものを楽しんできた。しかし、機械の指示で別の機械を買わされそうになっている現状を容易に受け入れられるほど親和的でもなかった。
 とはいえ、実質的に選択肢はない。機械の指示と言っても背景には会社がいて、それに早川を従わせられる権威を付与しているのだから。パワハラ予防の改善策を断ったとなれば、もうこれだけで十分すぎるほど体裁が悪い。
 結局この場では判断がつかず、彼はダイレクトメッセージ欄の動画のURLが記された箇所に「既読」のリアクションをしただけに留めた。
 早川は何かと体面を気にするきらいのある男ではあったが、少なくとも家族の前では誠実だった。今回の停職の件も当日のうちに夕飯の席で包み隠さず話した。その上で、同席していた娘にも話を振った。彼女は帰宅した時には機嫌が治っていたらしく、自ら夕飯のメニューを妻に聞いていた。
 これは彼にとって上策に思われた。停職になったという弱みをあえて積極的に開示すれば、いかに難しい年頃の娘だってあからさまに無碍にはしづらい。それに、当の娘はビジョンのネイティブ世代だ。早川の世代もかつてインターネットネイティブ世代などと言われたが、今ではどんなこともいちいちエミュレートしなければ読み取りすらおぼつかない。
「へえ、そりゃあパパが悪いね」
 ただちにネイティブ世代の判決が下された。主文、父親は有罪。
「やはり、みんな主観現実っていうやつを持ってるものなのかなあ」早川は横に座る妻をちらっと見ながら言った。
 彼の妻もまた機械には疎い方だったので「私はよく解らないけど」と前置きした上で「なんかそれの啓蒙? みたいなのはテレビで見たかも」と言った。
 早川の妻は時短労働者なので今日は出勤していたが、週の大半は家事をしている。都市部においては今時珍しい形ではあるものの妻はこの方が性に合っていると言って譲らなかった。労働は週に三日もすれば十分だ、と言うのが彼女の口癖だ。出不精な早川としても家事分担がないだけ気が楽だった。このようにかなり保守的な装いの家庭であるから、最新デバイスの情報に疎いのは無理もなかった。
「学校でも教わってるよ。『それぞれの現実を尊重しましょう』ってね。でも、ビジョンを買えない人はどうするんだろうね」娘はカレーライスを口に運びながらはきはきと喋った。無視する時は完全に無視を決め込むくせに、会話すると決めたら明瞭に話すのが最近の特徴だ。
「でもすごく安いみたい。特にインド製が」妻が言った。片手の指を折り曲げて示した数字は、欲しいのに買えない方がいくらなんでもおかしい、というくらいの価格帯だった。
「どうせ買うなら中国製の方がいいな」
早川が話に乗ると娘は機敏に反応を示した。
「え、買うの? ずっと電話しか使ってなかったのに」
 娘はスマートフォンのことをただ「電話」とだけ言う。彼の世代にとってビジョンはスマートフォンの発展形だが、ネイティブ世代の彼女からしてみればむしろビジョンの方が基本形で、スマートフォンはもはや過去の遺物に過ぎない。
「電話を馬鹿にするなよ。これはこれで使いやすい」
「だって画面離れてるじゃん。使いづらいよ」
 娘の反論は速やかなもので、技術に疎い早川に太刀打ちできる余地はなかった。
「で、買うの?」
彼女はなおも追及した。彼はわざとおどけながら先ほどの動画の件を話した。
「実はな、さっきAIに『ビジョンを買わないとクビにするぞ』と脅されたばかりなんだ」
「それがパワハラじゃん」娘も苦笑いした。「AIにパワハラされたといって訴えてみるか」
 驚くべきことに、ここ数週間の中では一番会話が弾んだ。普段の食事も殺伐としているとまでは言わないが、どうにも年頃の娘との会話の糸口がつかめず、かといってどんな話題を振ればいいのかも判らず、結局、隣の妻に仕事の愚痴を漏らすくらいしか彼にはできなかった。娘といえば、食事中にもビジョンを使いはじめる始末だった。さすがに無作法だと理解しているのかインターフェイスは机の下でいじっていたが、使用中は目線がどことなくおかしくなるのですぐに判る。
 とはいえ、叱りとばすほどの説得力を早川は持ち合わせていなかったので、事実上黙認していた。適切な話題を提供できていないのに怒っても仕方がないという卑屈な気持ちが彼にはあった。
 ――しかし、ビジョンを買って、あれこれ聞けば、こんなふうに娘とまた会話が弾んだりするかもしれない。
「そうだな……まあ、買わなきゃならんだろう。クビになりたくないしな」
あくまでやむを得ないという体裁をわざと醸し出しながら早川は宣言した。
 あまりにも娘と調子良くコミュニケーションがとれたせいか、彼女が父親を他の何かで上書きしていないかについては、結局聞きそびれてしまった。
**
 数日後、スマートフォンのフロントカメラでスキャンした早川の眼内所見に基づいて、自動的に調整されたビジョン一式が自宅に届けられた。製品名すら書かれていない真っ白な外装を解くとすぐに本体が姿を現した。
 コンタクトレンズ部とインターフェイス、インターフェイスの充電器がそれぞれ適切な大きさに作られた溝の中にぴったりと収められている。一方、説明書らしい説明書は見当たらなかった。薄くて小さい一枚の再生紙に、非常に簡素な図柄とわずかな単語で起動に必要な手順が示されているだけだった。もっとも「初期起動は安全な場所で行ってください」とだけは日本語で記してあったが、明らかに後から追加で印字した形跡が見て取れた。
 早川はさっそく手順に従って、保護されたコンタクトレンズを慎重に取り出し、目に装着した。続いて、薄いビニールで包装されたインターフェイスを開封し、書かれているままに起動ジェスチャを入力した。インターフェイスは不親切な説明書に〈紧急/Emergency/आपातकालीन〉と記されていた側面の物理ボタンを除いては、全面がタッチサーフェイスだった。
 **≪深圳视光科技 亞-0293≫**
**载入启动...|||||||||||||**
 突然、視界に明朝体で製品名がオーバレイされたかと思えば、すぐにローディング中を示す簡素なプログレスバーが表示された。いかにもありがちなシステム音声はインターフェイス本体から出力されているようだった。
 ややあって個人情報取得についての同意確認ダイヤログが表示されたので、インターフェイスを指先で触って視界上のポインタを動かした。動作は非常に滑らかでスマートフォンと大きく操作感が異なる様子はなかった。今のところ、ディスプレイが網膜の上に移動しただけのように彼には感じられた。
 初期設定は速やかに完了した。言語設定はネットワークによる居住地と購入者情報で判定され、それ以外の設定もほぼ自動的に確定していった。彼は大抵の場合、ただ「次へ」ボタンを押すだけで済んだ。システム音声は耳障りだったのですぐに無効にした。
 設定を終えると視界上にはほとんど何もオーバレイされなくなった。ほとんど、というのは、視界の左上に時刻とインターフェイスの残充電量だけは表示され続けていたからである。さしあたってはスマートフォンで使ってきたアプリケーションと同機能のものを、このビジョンに導入するところから初めなければいけない。しかし、これも大して時間はかからなかった。
 早川が必要としている機能と言えば、せいぜいブラウザ、天気情報、ニュース、オフィススイート、メモ……いずれも標準搭載されていた。唯一、社内チャットシステムとして採用されているアプリケーションだけ、別途導入する必要があった。なんとか網膜上で社内チャットにログインを済ませると、同時に視界の左上にポップアップ通知が現れた。
**ダイレクトメッセージ:人権擁護部より、経過報告を……**
 反射的に視点を左上に動かした途端、自動でフォーカスが合ったので、ポインタを余分に動かす手間なくダイレクトメッセージ欄を表示できた。ここで早川はビジョンが眼球の動きを操作の補助としてトレースしていることを理解した。
 彼は手短にAIの指示通りビジョンを購入し、今まさに使用中だとメッセージを送った。人権擁護部のレスポンスは瞬時に返ってきた。冗長な前置きを省くと、そこにはこう書かれていた。
「次のランチ会が楽しみですね」
早川はこの文章の示唆するところが理解できず訝しんだ。当日の夕食時までは。
 いつものように早川家は所定の時間にリビングに集合した。娘はたとえ無視を決め込むほど機嫌を損ねていても、このルールだけは破ったことがない。それは父親の早川にとっては嬉しい面もある一方で、娘の気持ちを好転させられる言葉を何一つ思いつけない自身の不甲斐なさを思い知らされる側面もあった。
 そして今日は後者の面の色が濃かった。彼女は席につくなり両親から顔を背けたまま、黙々と食事を摂りはじめた。視点をそらすのは彼女なりの不機嫌の示し方なのだ。ところが今の早川にはビジョンがある。いつもと違って話題には困らない。
「今日な、ビジョンが届いたんだ。実は今もつけてるよ」
「……」
「確かに便利だな。どこを向いていても操作できるし」
「……」
「……なんか、おすすめのアプリとかある? 今時の若い子って、これでどういうことしてるんだ?」
 娘は急に顔をあげ、こちらに鋭い視線を向けた。いつもより会話の催促がしつこかったからに違いない。妻に至ってはとっくのとうに諦めて、こういう時は一切話しかけないようにしているらしい。
 本来であればこのあたりで早川も状況を察して撤退するところだったが、娘の顔を視界に捉えた瞬間に思いもよらぬことが起こった。
**……表情分析完了[上位の感情:怒り31% 悲しみ47%]**
**会話のサジェスト:**
- **なにか嫌なことでもあった?**
- **いつでも相談に乗るよ。**
- **事情があればそのうちでいいから話してね。**
 突如、娘の真横にテキストウインドウがオーバレイされた。さすがの早川にもビジョンが何らかの手法で**会話を技術的に支援しようとしている**のだと即座に理解できた。
 彼は一瞬だけ、強烈な怒りがこみあげてきた――なぜ機械に娘との会話を指南されなければならない? 余計なお世話だ――しかし、注目に値する情報もそこにはあった。ビジョンの考えでは、娘は怒っているのではなく、どちらかといえば悲しんでいるのだという。こんなふうに捉えた試しは彼にはなかった。――もし、これが真実なら? 
「……なあ、なんか嫌なことでもあったのか?」
気づけば早川は"機械"のすすめるままに言葉を発していた。それによって得られた娘の反応は、早川でも把握できるくらい劇的なものだった。
「えっ……別に、ない……」
娘の目がわずかに見開いた。しかし、その表情の変化を自覚的したのか、すぐに意識的に頑なな面持ちを維持しようとする様子がうかがえた。同時に、ビジョンがオーバレイする内容も変化した。
**……分析更新完了[上位の感情:怒り30%↓ 悲しみ38%↓ 喜び20%↑]**
**音声入力の結果を適用……✔**
**会話例のサジェスト:**
- **言えることだけでいいから、相談してみないか?**
「ッッ……」愚かにも早川は言葉に詰まった。思わず視点を机上のインターフェイスに向けようとして、踏みとどまったせいもある――こいつは娘との会話も聞いてやがる! ――なにより、これ以上、機械に頼って会話するなどという恥知らずな行為を、彼は続けたくなかった。
 数秒ほど何も言えないまま間が空くと、娘の表情にまた大きな変化が生じた。そして、小さくため息をついて顔を伏せた。視界から分析に必要な情報源が消えたため同時にオーバーレイも非表示になったが、その寸前に更新されていた内容は早川の目にはっきりと焼きついていた。
**[上位の感情: 怒り30%- 悲しみ44%↑ 不信21%↑]**
「ッ……言えることだけでいいから相談してみないか?」
結局、早川は早急に自身の感情と折り合いをつける必要に迫られた。わずか数秒、反応が適切でなかっただけで、もう娘に不信感を持たれてしまっている。この機械の言い分が正しいかどうかは先の結果でもはや明らかだ。
「なんでパパに言わなくちゃいけないの」
 再び娘は顔を上げ、きっと彼を睨みつけた。客観的に見ればこの会話の雰囲気はこれまでで最悪に近い。こういう様子の時は一切話しかけないと誓っていた妻もとうとう参戦してきて「あなたたち、その辺にしときなさい」とたしなめはじめた。
 だが、今の早川には心強い味方がいた。彼は妻とは目を合わせず、視点を娘にしかと固定したまま「いいから、ちゃんと話そう」と言った。
**[上位の感情:怒り45%↑ 喜び26%↑ 悲しみ25%↓]**
 とうとう喜びが悲しみを上回った。早川にとっては理解しがたい感情の動きだった。ビジョンいわく、娘は怒りながら喜んでいるのだというのだから。彼はサジェストに従い続けた。
「不機嫌になってる理由はパパにもよく判るよ。イライラしてても本当は悲しいんだろ」
「知ったふうに言わないで」
「いつでも相談に乗るから――」
 娘は急に立ち上がった。オーバレイされた彼女の感情は『怒り』が急上昇していたが、同時に『喜び』も追いつきそうな勢いだった。そして、『悲しみ』は基準を下回ったのかもう表示されなくなっていた。
「もう食事いらない!」
 そう言ってリビングから飛び出していった娘を、早川は普段では考えられないほど落ち着いて見送った。
 ドアをバーンと激しく閉める音とともに、間もなく深い静寂が訪れた。
「あなたどうするの。あんなにしつこく言ったらだめじゃない。年頃なんだから放っておかないと」
 ややあってようやく妻が口を開いた。視点を合わせると分析の対象が即座に切り替わった。娘と異なり、彼女の感情はごく平坦な値をマークしていた。
「いや、あれでいいんだよ。間違いない」
早川は力強く断言した。
「なんでそう言い切れるの」
「……そういうものらしい。最近、育児に関する本を読んでみたんだ。怒らせるくらいがいいってさ」
 早川は嘘をついた。サジェストされるまでもなく、機械の言いなりになったなどと言えるわけがない。直後、妻の感情リストのうち『不信』がごくわずかに上昇したが、『喜び』も上がった。
 それから数日の間、少なくとも客観的に見る限り早川家は明らかに家庭内不和を抱えた状態にあった。娘は完全に無視を貫く態度をとり、妻もまた彼女を放置した。
 そのせいか妻はことあるごとに「それみたことか」という表情を早川に示したものの、妻の感情リストはやはり平坦なままだった。
 つまり、彼の妻は実際には動揺していないし、この騒動で本質的に何かが脅かされるとも思っていない。
 挑発的な態度が仮初のものと判ると早川はとても落ち着いた気分になれた。同じくらい、恥ずかしくもある。これまで妻に対してずいぶんと的外れな会話をしてきたことになるからだ。
 娘の方も、表向きの態度と本心はだいぶ異なるらしかった。彼女の顔つきはどう見ても鋭く険しいものとして早川には映っていたが、裏腹に上位の感情はほとんど怒っても悲しんでもいなかった。
 ビジョンのソフトウェアはこれを「小康状態」と評価した。当初、親子間の会話に踏み込んでくるビジョンに敵意さえ覚えた早川だったが、今ではむしろ貴重な助言者に昇格していた。
 時折、何の前触れもなく事務的な内容で娘に話しかけられても、もはや早川は動じなかった。いつでもビジョンは適切と思われる会話に導いてくれたし、オーバレイされた値が真実を語っていることはおのずと判った。そこから得られる自信が、ますます彼を前向きにさせた。
 数日後、やはり娘は険しい面持ちを保ちながら夕食の席についた。妻は「またか」という趣旨のため息を一瞬スッと吐いたが、あまりにもささやかで抑制が効いていたため、横に座っていた早川にしか聞こえなかった。時々、娘は食事を口に運ぶ合間に、盗み見るような形で彼の顔をうかがっていたが、すぐに顔を伏せたのを彼は視界の端で捉えた。
 その時、ビジョンに変化が生じた。蓄積された会話の履歴と現在の表情分析から、何らかの結論が算出されたらしい。
**[上位の感情:怒り20% 悲しみ21%]**
**積極的な問題解決が可能です。✔**
**会話のサジェスト:**
- **いつまでそうしているつもりだ。言わなければ人には伝わらないぞ。**
 今まで表示されていたサジェストは穏当な会話だったので早川の抵抗感は幾分か薄かったが、今回は明らかに一定のリスクが要求される内容だった。
 彼はまた躊躇しかけたが、その行為にも厳しいリスクが伴うことを、ここ数日間で十分学習していた。
「いつまでそうしてるつもりだ」
 ほとんど口を荒げることなく、教育の大半を妻に任せきりだった早川がにわかに厳しい物言いをしたので、娘は反射的に顔を見上げ、はっきりと目を見開いた。
「言わなければ人には伝わらないぞ」
「……言ったって判んないでしょ」
 娘の反応と表情の機微を基にすぐに次の会話がオーバレイされた。横に座る妻といえば、箸を置いて両者の会話を黙って見守っていた。
「判らないかもしれないが、言うだけ損なことはないだろ」
「期待して裏切られるのはイヤ」
「いいか」言いながら早川は視界内のテキストを黙読した。
 "力強く話しはじめ抑揚を作りだし、相手に意識を集中させる。間を数秒間置いてから、ゆっくり本文を話す。視点の位置は……"
 3……2………1……視界に表示される仮想のタイマーがゼロを打った瞬間に、早川は口を開いた。
「絶対、期待に応えるなんていう無責任な約束は、基本的に誰にもできない。ただ、パパとママは君の話を聞き、必ず味方になることだけは、必ず約束できる――」
「やっぱり判ってない!」
 ――娘はこの前のように立ち上がり、リビングから出ていった。早川はビジョンが何か予測を違えたのかと思い、インターフェイス本体を睨みつけたが、視界のオーバレイは即座に別の表示に切り替わった。
**!分析対象の移動を検知**
- **会話を継続してください。**
 言われるままに早川は娘の後を追った。妻が「二人ともいい加減にしてよ」と責め立てる声が背後から聞こえたが、今回ばかりは無視せざるをえなかった。
 娘は自室に立てこもっているようだった。早川はドアをノックした。すると、扉越しに「あっち行って!」とくぐもった声が聞こえた。
**?入力音声を優先的に分析中……**
 今度ばかりは気が急いて、彼は会話例がサジェストされたとほとんど同時に読み上げた。
「行かない。今日は君と話すと決めた」
「イヤだって言ってるの」
「入るよ。いいね」
「イヤ!」
 いつもなら決して得られなかった勇気が早川の内側にみなぎっていた。それが体内から湧き出たものではなく、網膜上の素子によって獲得できたものと認識するのはいかにも皮肉めいた話だったが、今の彼にとってそれを区別する必要性は見いだせなかった。
「話してみなさい。今すぐに」
「しつこいって」
「人はただ話すだけでも気が楽になるんだ。いいから」
 しばらくはこんな感じで、娘と一見感情的とも思えるやり取りが続いた。だが、早川の内面はひどく冷静だった。
 これらの一連の会話は実質的にはビジョンが作り出している。ある言葉をきっかけにどんな会話が予期され、最終的にどこに着地するかまで、この素子の中で算出済みだとしたら――見方によっては既にほぼ確定した過去を台本通りになぞっているだけに過ぎない。彼のそんな想像を裏付けるように、娘はだんだんと弱々しくなり、やがてただすすり泣くだけとなった。
「なんでむかつくかもわかんないけど、そうなっちゃうの」
「うん」
「ほんとに、ちょっとしたことだけで信じられないほど腹が立つの」
「そうだね」
「ほんの一年か、二年前くらいまではそうじゃなったのに……」
「わかるよ」
「うそ、パパには判んないよ」
「そうかもね。でも、男にだってそういう時期はあるんだよ」
 さしもの早川にも、娘が月経による精神的不調を示唆しているのはすぐに理解できた。しかしビジョンはこれを適度に濁すよう指南してきた。矢継ぎ早に情緒的な会話を繰り返していると、急に娘は早川にしなだれかかってきて、おずおずと言い出した。
「パパ……あの……」
「なんだい」
 この時点でビジョンは抑揚のつけかたや言葉を発する速度についても、極めて精緻にサジェストを行うようになっていた。たった四文字だけでも、それが有効かどうかだけでずいぶん違って聞こえるのは、彼自身もひどく驚かされた。
「ごめんなさい。反省してる」
「……なんでも包み隠さず、とまでは言わないよ」
 ここでわずかにひと呼吸おいて、娘の顔をじっと見つめた。それから、この上なく力強く一気に言い切った。
「けど、たとえどんなことがあっても、必ず助けになる。わかったね」
「うん……ありがとう」
 娘の感情リストが急速に安定期と定義されうる閾値へと収束したのを早川は横目で確認して、ようやく本当の安堵を手に入れた。
 それから何分かの間、彼はビジョンに言われるまま、ただ沈黙を守り、娘を抱きしめ続けた。
 こうして早川家が抱えていた家庭内不和は終結した。妻も放置をやめ、娘の相手をするようになった。以前は不必要に気を揉んでいたが、今ではすべてが対処可能な問題に思われ、何もかも順調に運んだ。
 二週間ののち、ようやく出社日が来た。早川は初日に行われた人権擁護部の面談でさっそくビジョンを活用した。
 家族に向けて使った時に生じた心理的抵抗は、仕事場では毛の先ほども生じなかった――どうせ他人を少女だか動物に上書きしている連中だ――そして期待どおり、ビジョンがサジェストした会話は例の三人の若手社員にかなりの好印象を与えたらしかった。
「先の停職期間は部長にとても良い影響を与えたみたいですね」
前回に引き続き早川から見て左側に座った女性社員が笑顔で言った。
「おかげさまで、素晴らしい学習期間でした」
彼もまた笑顔で答えた。
 どちらかといえば退屈だったランチ会も、今の早川にとっては実に快適なひとときへと変貌した。これまでどれだけの会話の投球を拾い損ね、また、相手に不躾な暴投をしていたか、思い返すだけで恐ろしくなった。
 それでも時折、早川の脳裏に宿る本能が、ちくりと警告の棘を刺すこともあった――もし、相手も私の表情や話した内容を分析させているとしたら?  サジェストされた会話をしているとしたら?  ――この疑問が意味するところの本質に理解が及ぶと彼は少しだけ薄ら寒さを覚えたが、少なくとも目の前で行われるコミュニケーションはいつでも上出来で、同じ相手と回数を重ねるたびにその精度はますます洗練されていく一方だった。
 たとえそれらが網膜上の素子同士がもたらす虚構の交信に過ぎないとしても、この高度に確立された主観現実に嫌疑を差し込む余地は、まったくないように思われた。