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父が麦酒を飲み干して切子を机に置くと、すかさず勇は二杯目を注いだ。
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「まあうちのカミさんは家では万年政権与党でっけどな」
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「そんな、父ちゃんにもたまには政権交代させたって〜」
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「無理やで。家では選挙権ないねん、わし」
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「無理やで。家では人権もないねん、わし」
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どっ、と笑い声が巻き起こる。東京通信工業社製の伝統的なマイクの前で二人の漫才師がお辞儀をして、演目はつつがなく終了した。ふん、と父が鼻を鳴らす。「そりゃ女に政治なんか無理に決まってる」ずずず、と半透明の切子の中身が喉の蠕動に合わせてみるみるうちに減っていく。コン、と音を立てて机に置かれた途端に今度は母が次を注ぐ。
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「帝國議会は第二の戦場だ。乱闘などしょっちゅうなのに女にどう務まるんだ。その時だけ男に守ってもらうのか」
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なし崩し的に晩酌の責務を解かれた勇はふと、なぜか和子が議会の壇上で弁舌を振るっている様子を思い浮かべた。議題はもちろん硬式戦争における防具着用の義務化である。獣のように猛り狂った男たちの罵声を浴びながら、彼女は毅然とした面持ちで語る。「そんなに命を賭けるのがお好きなら、いっそ敗けた方が切腹でもすればよろしいじゃありませんか。運動くらい粋がるのはやめにして兜を着けて安全に楽しみましょう」――あからさまな挑発に激昂した議員が雪崩をうって壇上に押し寄せる。どういうわけか、想像の中の勇はたった一人でそれを堰き止めようとしていた。
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試合開始の笛が画面越しに響いた。複数のカメラが小刻みに切り替わって一斉に動き出す選手を追う。五分と経たないうちに外地同士といえど採る戦略はまるで異なる様子が見て取れた。沖縄の第七高は野伏のごとく隠密に広がっていくのに対して、台北の第一八高はひと固まりの猪突猛進で戦場を横断している。
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「あれはどうなんだ、勇」
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酒が回って顔をうっすらと赤らめた父が訊ねる。素人ながらも準決勝の局面らしくない彼らの直線的な動きに疑問を持ったようだ。
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「普通は……やりません。互いの射撃が一定の水準以上だとちょっとした隙にやられてしまいますから、不必要に姿を晒さない方が賢明です」
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「普通は……やりません。互いの射撃が一定の水準以上だとちょっとした隙に撃たれてしまいますから、不必要に姿を晒さない方が賢明です」
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「そうか、じゃあ沖縄のが筋が良いのか」
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曖昧に頷いたものの、内心ではそう断言はできなかった。いけいけどんどんで準決勝まで上がってこられるほど公死園は甘くない。なにか策があっての行動に違いない。
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しかし数分後、左右の遮蔽物から第七高の選手による掃射が行われると、先頭に立っていた前衛がまともに弾を受けて退場を宣告された。右側の赤い仮想体力が一瞬で黒ずみ、残る九人も被弾の度合いに応じて体力を減らした。父が「なんだ、全然だめじゃないか」と言って、切子を置いた。母が日本酒のおかわりを注ぐ。
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しかし数分後、左右の遮蔽物から第七高の選手による掃射が行われると、先頭に立っていた前衛がまともに弾を受けて退場を宣告された。右側の赤い仮想体力がみるみる黒ずみ、残る九人も被弾の度合いに応じて体力を減らした。父が「なんだ、全然だめじゃないか」と言って、切子を置いた。母が日本酒のおかわりを注ぐ。
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一方、司会の出だしはあくまで冷静だった。どころか、かえって期待感を募らせた調子で彼らの次の行動を予想した。
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『さあ、これで第一八高は一人退場ですが……ここまでに彼らの戦いぶりをご覧になっていた方々はお分かりでしょう。やはり準決勝においても、彼らは同じ戦略――戦略と言っていいのかさえ定かではない荒業――を見せてくれるものと思われます。あ、今まさに!』
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カメラの視点が急速に拡大して第一八高の一群を中央に収めた。なにかを叫んでいる。すぐに戦場中に散りばめられた集音マイクが声を拾った。
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あたかも司会の声に呼応するかのごとく、ひと固まりだった選手たちが二人ずつ四方八方にすばやく散っていった。彼らの移動速度は相当に速い。敵が背を向けて逃げていたら追いつくのは容易だろう。だが、応射してこない相手に逃げの一手など打つはずがない。
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案の定、カメラが追った二人の前の朽ちた壁越しに速射が放たれた。これはひとたまりもない。敗着を確信して勇は机上の軍艦巻きを手に取ったが、直後にテレビの向こうの観客がわっと騒いだので視線を戻さざるをえなくなった。
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『やはり――ご覧になられているでしょうか! 弾を――よけています! なるほど硬式弾は実弾と異なり低速な弾ですから、決してよけられないことはないでしょう! しかし、よけられる前提で戦う分隊はそうはいません!』
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熱狂している司会をよそに第一八高の選手と壁との距離はぐんぐん詰まり、ついに二人は軽業師のごとく跳躍して一メートル弱の壁を飛び越えた。すぐさまカメラが反対側に切り替わる。慌てて弾倉を交換しようとする第八高の一人とは、もう軍刀の間合いだ。鮮やかな一太刀。左側の青い仮想体力は瞬時に黒く染まった。もう一人の方は模擬軍刀を銃身で受け止めてなんとか堪えているようだった。
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ところが膠着する間もなく第一八高の選手は相手の腰に差さった硬式拳銃を片方の手で抜いて、そのまま腹に何発も発砲した。模擬軍刀を抑えるために両手で銃身を支えている当人になすすべはない。一発ごとに削られていく仮想体力はぴったり四発で奪われ尽くされた。
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戦場の至る地点で、同様の戦いが繰り広げられていた。十数分かそこらのうちに左側で体力が青い者は一人しか残らなくなった。対する右側はまだ六人の選手が半死半生の体力で生き残っている。画面上に映し出された最後の一人の残弾数を見るに、理論上は六人すべてを撃ち倒せる可能性は零ではない。
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だが、軍刀を握って迫りくる六人の威容に恐れをなしてか、選手はあからさまに戦意を喪失している様相で後退する一方だった。それでも六人に取り囲まれると次第に逃げ道がなくなっていく。姿を現した相手にでたらめに弾を放つも、ただでさえ回避術を心得た相手に腰の落ち着かない射撃が当たるわけもなく、終盤には行き止まりの壁に追い詰められる展開となった。
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残弾の乏しい硬式小銃を捨てた彼は腰の拳銃に武器を切り替えて、前方に狙いを定めた。第七高は選手の何名かに予備弾倉ではなく拳銃を持たせる様式のようだ。しかしこうなってしまっては、そんな考察にはなんの意味もない。当人には知る由もないが、カメラには壁をよじ登って後方より襲撃せんとする第一八高の選手の姿がはっきりと捉えられていた。
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音に気づいて上方を仰ぎ見た時にはもう遅い。飛び降りざまに振られた軍刀が速やかに急所判定をもたらして、結局、彼はただの一発も拳銃を撃つことなく試合終了の笛が戦場に響き渡った。
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熱狂している司会をよそに第一八高の選手と壁との距離はぐんぐん詰まり、ついに二人は軽業師のごとく跳躍して半間の壁を飛び越えた。すぐさまカメラが反対側に切り替わる。慌てて弾倉を交換しようとする第八高の一人とは、もう軍刀の間合いだ。鮮やかな一太刀。左側の青い仮想体力が瞬時に黒く染まった。もう一人の方は模擬軍刀を銃身で受け止めてなんとか堪えているようだった。
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ところが膠着してまもなく第一八高の選手は相手の腰に差さった硬式拳銃を片手で引き抜いて、そのまま腹に連射した。鹵獲戦法の応用だ。模擬軍刀を抑えるために両手で銃身を支えている当人になすすべはない。一発ごとに削られていく仮想体力はぴったり四発目で奪われ尽くされた。
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戦場の至る地点で、同様の戦いが繰り広げられていた。十数分かそこらのうちに左側で体力が青い者は一人しかいなくなった。対する右側はまだ六人の選手が半死半生の体力で生き残っている。画面上に映し出された最後の一人の残弾数を見るに、理論上は六人すべてを撃ち倒せる可能性は零ではない。
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だが、軍刀を握って迫りくる六人の圧に恐れをなしてか、選手はみるからに戦意を喪失して後退する一方だった。それでも六人に取り囲まれると次第に逃げ道がなくなっていく。時折、姿を現した相手にでたらめに弾を放つも、ただでさえ回避術を心得た相手に腰の落ち着かない射撃が当たるわけもなく、終盤には行き止まりの壁に追い詰められる展開となった。
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弾切れの硬式小銃を投げ捨てた彼は武器を拳銃に切り替えて、前方へと狙いを定めた。第七高は選手の何名かに予備弾倉ではなく拳銃を持たせる様式のようだ。しかしこうなってしまっては、そんな考察にはもはやなんの意味もない。当人には知る由もないが、カメラには壁をよじ登って後方より襲撃せんとする第一八高の選手の姿がはっきりと捉えられていた。
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音に気づいて上方を仰ぎ見た時にはもう遅い。飛び下りざまに振られた軍刀が速やかに急所判定をもたらして、試合終了の笛が戦場に響き渡った。
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はっ、と我に返った勇の手には、まだ食べていない軍艦巻きが手に握られたままだった。
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『これにて準決勝第二試合は臣民第一八高等学校の勇猛な勝利にて幕を下ろしました。休養日を挟んで明後日には、強豪、大阪の帝國実業高等学校と記念杯を巡って最後の一戦を交えることとなります――おや、なにか選手が言っていますね、見てみましょう」
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カメラが第一八高の主将に視点を合わせた。たとどころに集音マイクが音を拾う。
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「臣民第一八高等学校三年、主将、陳開一! 畏れ多くもこの場を借りて一言申し上げたい! 公死園は直ちに仮想体力制度を取りやめ、己の命の限り死力を尽くす伝統に立ち返られよ!」
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カメラが第一八高の選手に視点を合わせた。集音マイクが音を拾う。
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『臣民第一八高等学校三年、主将、陳開一! 畏れ多くもこの場を借りて一言申し上げたい! 公死園は直ちに仮想体力制度を取りやめ、己の命の限り死力を尽くす伝統に立ち返られよ!」
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駆け寄ってきた控えの選手から手渡された布をばっ、と広げる。華々しい日の丸の波状が際立つ大日本帝國の国旗を両手で前に持ち上げ、掲げる。息を呑んだ司会が、しかし相変わらずの熱量で感心したふうに言う。
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「外地の若者の訴えです。もし彼らの戦い方で仮想体力制度を用いないとなると、昔ながらの木刀で気絶するまで殴り合う従前の形式に戻ることとなりましょう。彼らは――それでもいいと、むしろ本望であると訴えているのです。たかが支那人と侮ってはいけません。大和魂は外地の者にも確かに伝わっております。我々としても見習うべきところがあるのやもしれません……」
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「ずいぶんすごい連中だな。次はこいつらと戦うのか」
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酒も飲まずに同じく試合に集中していた父が言った。
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『外地の若者の訴えです。もし彼らの戦い方で仮想体力制度を用いないとなると、昔ながらの木刀で気絶するまで殴り合う従前の形式に戻ることとなりましょう。彼らは――それでもいいと、むしろ本望であると訴えているのです。たかが支那人と侮ってはいけません。大和魂は外地の者にも確かに伝わっております。我々としても見習うべきところがあるのやもしれません……』
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「すごい連中だな。次はこいつらと戦うのか」
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切子を握ったまま同じく試合に熱中していた父が言った。
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「今すぐにでも分隊を集めて作戦会議をしたい気分です」
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殊勝な物言いだが偽りではなかった。まるで身のこなしが軽くなったユンが十人に増えたような戦いぶりだ。他の常連校や強豪の戦略は予習していたが、台北の第一八高は完全に想定外の相手だった。教本通りの戦い方では今しがたの第七高のようにあっという間に呑まれてしまう。彼らとして決して弱くはない。見たところ、帝國実業をもってしても三回戦って勝ち越せるかどうかの堅実さを持っていた。番狂わせに弱い一面をまんまと突かれたのだろう。
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殊勝な物言いだが偽りではなかった。身のこなしが軽くなったユンが十人に増えたような戦いぶりだ。他の常連校や強豪の戦略は予習していたが、台北の第一八高は完全に想定外の相手だった。教本通りの戦い方では今しがたの第七高のようにあっという間に呑まれてしまう。彼らとして決して弱くはない。見たところ、帝國実業をもってしても三回戦って勝ち越せるかどうかの堅実さを持っていた。番狂わせに弱い一面をまんまと突かれたのだろう。
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「まあそう急ぐな。お前にはまず褒美をくれてやらなきゃならん」
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出し抜けに父はポケットから少し丸まった白い封筒を取り出して、勇に投げてよこした。封筒には地元の銀行の社章が刻まれていた。
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「十萬円入ってる。好きに使え。お前はこれまでろくになにも欲しがらなかったからな……金を手にしたら思いつくかもしれん」
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「ありがとうございます。大切に使います」
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恭しく両手で持ち上げた封筒を勇は自分のポケットにしまい込んだ。突然の労いに深い感動を覚えかけた矢先、横の功が父の酩酊に漬け込んで軽口を叩いた。
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出し抜けに父は懐から少しひしゃげた白い封筒を取り出して、勇に投げてよこした。封筒には地元の銀行の社章が刻まれていた。
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「十萬円入ってる。好きに使え。お前はこれまでろくにものを欲しがらなかったからな……金を手にしたらなにか思いつくかもしれん」
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「ありがとうございます。大切に使います」
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恭しく両手で持ち上げた封筒を勇は自分の衣嚢にしまい込んだ。めったに人を褒めない父からの労いに深い感動を覚えかけた矢先、横の功が父の酩酊につけ込んで軽口を叩いた。
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「僕にはないんですか。全国模試十四位だったんですよ」
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弟の狙いは的中して、いつもなら怒声の飛びそうな催促に父は苦笑いで応じた。
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「お前は北野高校に入った時に計算機と通信回線をねだったから当分はだめだ。それさえも、あいつの件があってから計算機は絶対に許さんつもりだったが、北野に受かれば買ってやると言ってしまったからな……次はそうだな、模試で十位以内に入ったらなにか買ってやる」 「本当ですか? 約束しましたよ」
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弟の狙いは的中して、いつもなら一喝されそうな催促に父は苦笑いで応じた。
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「お前は北野高校に入った時に計算機と通信回線をねだったから当分はだめだ。それさえも、あいつの件があってから計算機は絶対に許さんつもりだったが、北野に首席で受かれば買ってやると言ってしまったからな……次はそうだな、来年の模試で十位以内に入ったらなにか買ってやる」
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「本当ですか? 約束しましたよ」
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「今度は計算機以外だぞ」
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「構いません」
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父がまんざらでもなさそうな表情で清酒をすすっている間に、功は勇にだけ判るように片目を瞑った。有名な英米式の仕草というのはさすがの彼にも理解できた。やはりとんでもない弟だ。
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大量の寿司が大の男三人の腹にすっかり収まり、就寝の頃合いに差し掛かったあたりで勇は分隊員に携帯電話で電文を送っておいた。便宜上は休養日と定められているが本当に休養する選手はありえない。明日は分隊総出で対軍刀戦を仕上げなければならない。
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父がまんざらでもなさそうな表情で日本酒をすすっている隙に、功は勇にだけ判るように片目を瞑った。有名な英米式の仕草というのはさすがの彼にも理解できた。やはりとんでもない弟だ。
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大量の寿司が男三人の腹にすっかり収まり、就寝の頃合いに差し掛かったあたりで勇は分隊員に携帯電話で電文を送っておいた。便宜上は休養日と定められているが真に受ける選手はいない。明日は分隊総出で軍刀対策を仕上げなければならない。
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寝床に就いた時、勇の胸中にはじめて決勝進出を果たした実感がわいてきた。
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翌日、朝早くから自転車を駆って大阪城近くに敷地を構える帝國実業高校へと登校した。中空を漂う無人航空機と勝手に競争した気になって意識的に並走を試みる。臣民の暮らしを守る安心と信頼の三菱重工製だ。
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翌日、朝早くから自転車を駆って大阪城近くに敷地を構える帝國実業高校へと登校した。低空を漂う無人航空機と勝手に競争した気になって意識的に並走を試みる。臣民の暮らしを守る安心と信頼の三菱重工製だ。
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正門の前には不機嫌そうな顔のユンがすでに立っていた。待ち合わせの約束など一度もした覚えはないが、いつからか正門前で肩を並べて登校するのが二人の習慣と化していた。自転車を降りて転がしながら歩く。
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「なんだそのツラは」
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「うるせえな」
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ユンがずんずんと巨体を揺らして先に進んでしまったので、勇も後を追う。機嫌がコロコロ変わるのは彼の性分とはいえ、今日は特に悪い方に振れている気配がする。敷地の奥ではもう硬質小銃の低く鈍い銃声と怒声が聞こえてきている。
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ユンがずんずんと巨体を揺らして先に進んでしまったので、勇も後を追う。機嫌が頻繁に変わるのは彼の性分とはいえ、今日は特に悪い方に振れている気配がする。敷地の奥ではもう硬式小銃の低く鈍い銃声と怒号が聞こえてきている。
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「お前、昨日の試合観たか」
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「観てねえ」
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相変わらずのそっけない返事にも構わず勇は話を続ける。
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「台北の高校が勝った。やつらは全員軍刀を装備しているぞ」
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「ほう」
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一瞬、ユンが立ち止まったので岩の壁に進路を阻まれたような格好になった。ぐるりと巨体が振り返り、にわかに感心したふうな表情を見せてくる。
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「ああ?」
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ぴたとユンが立ち止まったので岩の壁に進路を阻まれたような格好になった。ぐるりと巨体が振り返り、にわかに感心したふうな表情を見せてくる。
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「おれみたいなやつが他にもいたとはな」
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「お前でも初手では使わんだろう。だが、あいつらはほとんど軍刀一つで戦っている。戦略を見直さなきゃならんぞ」
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「なるほど、それで昨日の電文か」
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そういえばあの電文は試合を観ている前提の内容だったな、と勇は思い直した。そうこうしている間に二人は硬式戦争部が専有する野戦場にたどり着いた。真横の駐輪場に自転車を停める。あどけなさの残る一年生たちは必死の形相で「洗礼」の第二段階に取り組んでいた。硬質弾をまともに受けた状態でひたすら走らされるのだ。仮想体力が零に尽きないうちに身動きが取れなくなるようでは選手にはなれない。足取りが緩む候補生に監督の檄が飛ぶ。
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「硬質弾ごときでへばっていてどうする! いま、海の向こうでは栄えある帝國軍人が自らの漏れた腸を引きずりながらでも支那の反乱分子どもと戦っておられるのだぞ!」
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二人の姿を認めると、候補生たちは険しい顔のまま一斉に直立不動の体勢に直ってお辞儀をした。
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そういえばあの電文は試合を観ている前提の内容だったな、と勇は思い直した。そうこうしている間に二人は硬式戦争部が専有する野戦場にたどり着いた。真横の駐輪場に自転車を停める。戦場ではまだあどけなさの残る一年生たちが必死の形相で「洗礼」の第二段階に取り組んでいた。硬質弾を受けた状態での全力疾走。仮想体力が尽きないうちに身動きが取れなくなるようではとても使い物にならない。全身の痛みで足取りが緩む候補生に監督の喝が飛ぶ。
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「硬質弾ごときでへばっていてどうする! いま、日本海の向こうでは栄えある帝國軍人が自らの漏れた腸を引きずりながらでも支那の反乱分子どもと戦っておられるのだぞ!」
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帝國実業の主力である二人の姿を認めると、候補生たちは苦痛に歪んだ顔のまま一斉に直立不動の体勢に直ってお辞儀をした。
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「いいから続けていろ!」
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怒号とともに彼らは無限とも思える持久走に戻っていく。振り返った監督は声を落として二人に告げた。
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「試合、観たな? やつらは軍刀を使う。お前らにも二年時までは仕込んできたが一朝一夕であの技量には追いつけまい」
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怒声に応じて彼らは再び銃口の前に戻っていった。振り返った監督は声を落として二人に告げた。
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「試合、観たな? やつらは軍刀を使う。貴様らにも二年時までは仕込んできたが一朝一夕であの技量には追いつけまい」
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「おれはやれますよ。今でも毎日自主練してます」
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自信満々にユンが答えると、監督は厳しい目で睨みを効かせた。
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「お前のは体格に頼りすぎている。あっという間に隙を突かれるのがオチだ」
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「貴様のは体格に頼りすぎている。連中相手では脇を抜かれるのがオチだ」
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「では、一体どうすれば」
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「あいつらが弾をよけるのなら、お前らは軍刀をよけろ。今日中に仕込めるのはそれぐらいだ」
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さっそく、監督の指示の下に集められた分隊員は軍刀の回避術を学んだ。昨日までは軍刀なんて趣味でやっている者が遊びで持つ装備と軽んじられていたのに、今では全員が真剣な眼差しでその切っ先を捉えようと構えていた。当然、勇に刀を振るのはユンの役目だ。先の丸まった模擬軍刀とはいえ判定のために電子部品を内蔵している刀身は意外に重く、表面は金属で保護されている。それをユンの膂力で振るというのだから、まともに当たればやはり痛い。早晩、勇の全身は鈍痛に包まれた。
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勇が尋ねる。
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「あいつらが弾をよけるのなら、貴様らは軍刀をよけろ。今日中に仕込めるのはそれぐらいだ」
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さっそく、監督の指示の下に集められた分隊員は軍刀の回避術を学んだ。昨日までは軍刀なんて趣味でやっている者が遊びで持つ装備と軽んじられていたのに、今では全員が真剣な眼差しでその切っ先を捉えようと構えていた。当然、勇に刀を振るのはユンの役目だ。先の丸まった模擬軍刀とはいえ判定のために電子部品を内蔵している刀身は意外に重く、表面は金属で保護されている。それをユンの膂力で振るというのだから、まともに当たればやはり痛い。早晩、勇の全身は鈍痛に苛まれた。
|
||||
「痛ッッ、おい、もう少し加減しろ」
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||||
「無理だ。加減して振ったら簡単によけられる。それじゃ練習になんねえ」
|
||||
とは言うものの、そこはさすがの帝國実業主将。回数を経るごとに回避の成功率はぐんぐん上がった。次は交代して勇が振ってみるも、存外に身のこなしの巧みなユンにはあっけなくかわされてしまう。
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||||
「くそっ、おれじゃだめだ。軍刀なんて握るのは一年ぶりだ」
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||||
「どけ、俺が代わる」
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||||
見かねた監督が攻撃役を買って出る。現役だったのは三〇年前とはいえ、軍刀を握った瞬間に彼の威圧感は普段の数倍にも膨れ上がった。さしものユンもまだ打たれていないのに一歩後ずさる。
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||||
「俺の時代では軍刀は人気の装備だった。敵をズタズタにする手応えが段違いだからな」
|
||||
端的にそうつぶやいた直後、空気を蹴散らす鋭さで振られた一閃がユンの肩口に直撃した。びいいいんと金属製の模擬軍刀がしなって振動する。呻き声をあげたユンが肩を抑えてうずくまる。
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「無理だ。加減して振ったらお前は簡単によける。それじゃ練習になんねえ」
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とは言うものの、そこはさすがの帝國実業主将。回数を経るごとに回避率は格段に上がった。次は交代して勇が振ってみるも、存外に身のこなしの巧みなユンにはあっけなくかわされてしまう。
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「くそっ、俺じゃだめだ。軍刀なんて握るのは一年ぶりだ」
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「どけ、俺がやる」
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見かねた監督が攻撃役を買って出る。現役だったのは三〇年前とはいえ、軍刀を握った瞬間に彼の威圧感は普段の数倍にも膨れ上がった。さしものユンも振られる前から一歩後ずさる。
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||||
「俺の時代では軍刀は人気の装備だった。敵を這いつくばらせる手応えが段違いだからな」
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||||
そうつぶやいた直後、空気を蹴散らす鋭さで振られた一閃がユンの肩口に直撃した。びいいいんと金属製の平らな模擬軍刀がしなって振動する。呻き声をあげたユンが肩を抑えてうずくまる。
|
||||
「立て。あの支那人どもはもっと速かったぞ」
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||||
「押忍ッ」
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||||
二回目の攻撃は横薙ぎに脇を狙ってきた。今度はユンが機敏に反応を示して身をよじって剣筋から遠ざかる――が、監督が一歩踏み出して立て続けに繰り出した追撃が胸部に直撃した。予想だにしないすばやさにユンは驚きの表情を見せる。
|
||||
「なんだ、ひと振りで済むとでも思ったのか。軍刀に弾切れはないぞ。お前が回避のために過剰に姿勢を崩せば敵は必ず押し切ろうとする。確実によけろ。ただし最小限でなければならん」
|
||||
それから、ユンは勇に負けず劣らずの痣を全身に作ってなんとか監督の年季の入った剣筋を最大三往復ほどよけることに成功した。続いて、勇も一回に限って回避に成功する。他の分隊員たちも半日かけて各々の力量に合った見極め方を掴みつつあった。
|
||||
まさか公死園決勝を明日に控えた最後の練習が軍刀の回避に費やされるとは思ってもみなかった。本来であれば強豪らしい強豪が勝ち上がってきて、以前の録画などを観ながら癖や作戦を探るのが常道だ。しかし、あんな奇天烈な戦い方をされたのでは座学などなんの意味もない。身体で覚えるしかなかった。
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二回目の攻撃は横薙ぎに脇を狙ってきた。今回は機敏に反応を示して剣筋から遠ざかる――が、監督が一歩踏み出して立て続けに繰り出した追撃が胸部に直撃した。予想だにしないすばやさにユンは驚きの表情を見せる。
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「なんだ、ひと振りで済むとでも思ったのか。軍刀に弾切れはないぞ。貴様が回避のために過剰に姿勢を崩せば敵は必ず押し切ろうとする。確実によけろ。ただし最小限でなければならん」
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それから、ユンは勇に負けず劣らずの痣を全身に作ってなんとか監督の剣撃を最大三往復もよけることに成功した。続いて、勇も一回に限って回避に成功する。他の分隊員たちも半日かけて各々の力量に合った見極め方を掴みつつあった。
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まさか公死園決勝を明日に控えた最後の練習が軍刀の回避に費やされるとは思ってもみなかった。本来であれば強豪らしい強豪の常連校が勝ち上がってきて、以前の録画を観ながら傾向や作戦を探るのが常道だ。しかし、あんな奇天烈な戦い方をされたのでは座学などなんの意味もない。身体で覚えるしかなかった。
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夕暮れ時、分隊員は骨の髄まで軍刀の痛みを身に刻まれて解放された。みんなやるだけのことはやったという面持ちだった。
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帰り道が正反対なのに下校時も勇はユンと連れ立って歩く。これも一種の腐れ縁、というやつだろうかと彼は決勝を控えた今になって思ったが、それはそれとしてまだしかめっ面をしているのは少々気に入らなかった。
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帰り道が正反対なのに下校時も勇はユンと連れ立って歩く。これも一種の腐れ縁、というやつだろうかと彼は今になって感慨深く思ったが、それはそれとして依然しかめっ面をしているのは少々気に入らなかった。
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「だからお前のそのツラはなんなんだよ」
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業を煮やして正面切って問いただすと、巨体が傾いで視線が合う。
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「歯が痛えんだよ」
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ぼそっと言うとユンはすぐに顔をそらした。あれほど軍刀で叩かれても次第に慣れたふうだったのに歯痛には堪えられないのか。あの硬式弾はよほど当たりが悪かったらしい。
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ぼそっと言うとユンはすぐに顔をそらした。あれほど軍刀で叩かれても次第に慣れたふうだったのに歯痛には堪えられないのか。あの硬式弾はよほど当たりが悪かったらしい。
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「決勝が終わったら金貯めて歯医者に行けよ。歯は勝手には治らんぞ」
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「お前はおれの嫁かよ」
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「うるせえやつだな。お前はおれの嫁かよ」
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二人の会話はほとんどそれで終わって、正門前で解散した。勇は自転車にまたがって、まだ明るい夕暮れの太陽と大阪城を横目に帰路に着く。
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行く時は一基しか見なかった無人航空機が帰り道ではばかに多い、と彼はすぐ異変に気がついた。しかもその数は家に近づくにつれてだんだんと増しているように思われた。空中を飛んで追い越していった無人航空機が四台目を数える頃には、気のせいではないと確信を持つに至った。
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住宅街に差し掛かると警察車輌がまばらに停車しているのが見えた。まっすぐには通れそうもないので自転車を降りて歩くと、さらに一台、二台、そして上空には無人航空機。ただごとではない。奇妙な焦燥感に急き立てれて躍起に自転車を押す。
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行く時は一基しか見なかった無人航空機が帰り道ではばかに多い、と彼は異変に気がついた。しかもその数は家に近づくにつれてだんだんと増えているように思われた。空中を飛んで追い越していった無人航空機が四台目を数える頃には、気のせいではないと確信を持つに至った。
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住宅街に差し掛かると警察車輌が二、三台、停車しているのが見えた。まっすぐには通れそうもないので自転車を降りて歩くと、さらに一台、二台。そして、上空には回転翼を唸らせる無人航空機。ただごとではない。奇妙な焦燥感に急き立てれて躍起に自転車を押す。
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角を曲がって家の前の道路に来た時、彼の目には異常な光景が広がっていた。
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築二〇年の平凡な家の前を複数の警察車輌が取り囲んでいる。その手前には巨大なカメラやマイクを担ぎ持った報道機関と思しき人間が何人も集る。自分の家なのにそうではないような強烈な違和感に晒されて、彼はしばしそこに棒立ちになった。
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ところが、報道機関の一人が勇の姿を認めると状況は一変した。「あっ! あれは兄じゃないかっ」と誰かが指を差して叫んだ。他の者も「そうだ、公死園の……」と言うやいなや、大量のカメラとマイクと人が彼の前に殺到した。パシャパシャパシャとカメラのシャッターを切る音と、太陽の下でもなおまばゆいフラッシュの光に気圧されて呆然としていると、人波の奥から父が無理矢理に記者たちを押しのけて現れた。手には勇の旅行鞄が握られている。
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築二〇年の平凡な家の前が人々に取り囲まれている。巨大なカメラやマイクを担ぎ持った報道機関と思しき人間であふれかえっていた。自分の家なのにそうではないような強烈な違和感に晒されて、彼はしばしそこに棒立ちになった。
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報道機関の一人が勇の姿を認めると事態はさらに悪化した。「あっ! あれは兄じゃないかっ」と誰かが指を差して叫んだ。他の者も「そうだ、公死園の!」と言うやいなや、大量のカメラとマイクと人が彼の前に殺到した。パシャパシャパシャとカメラのシャッターを切る音と、太陽の下でもなお眩い光に気圧されて呆然としていると、人波の奥から父が無理矢理に記者たちを押しのけて現れた。手には勇の旅行鞄が握られている。
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「おいっ、勇っ、今日は家に帰ってくるなっ」
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父の声に正気を取り戻した彼は「え、なんでですか」と未だ状況の掴めない返答をしたが、父は旅行鞄を押し付けて再度叫んだ。
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「功が憲兵に捕まった。だがお前は試合に専念しろ。あいつのことは俺がなんとかする」
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父の声に正気を取り戻した勇は「え、なんでですか」と要領を得ない返答をしたが、父は旅行鞄を押し付けて再度叫んだ。
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「功が憲兵に捕まった。だが、お前は試合に専念しろ。あいつのことは俺がなんとかする」
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「そう言われても……どこに行けば」
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「友達の家でもどこでもいい」
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すぐに報道機関が父子を取り囲んで質問責めの体勢に入った。ほとんど防衛反応的な動作で完全に退路を塞がれる直前、勇は旅行鞄を盾代わりに脇の緩い記者を押し倒して包囲網を抜け出した。倒されても即座に起き上がり「あ、ちょっと、君! 弟君の件についてなにか一言!」と商魂たくましく尋ねる声が背後から追いかけてくるが、一旦抜けた窮地に舞い戻る勇ではなかった。そのまま、振り返らずに倒れていた自転車を引き起こして今来た道を戻った。
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報道機関の群れが父子を取り囲んで質問責めの体勢に入ろうとしていた。完全に退路を塞がれる直前、勇は防衛的な反応で旅行鞄を盾代わりに脇の緩い記者を押し倒して包囲網を抜け出した。倒されても即座に起き上がり「あ、ちょっと、君! 弟の件についてなにか一言!」と商魂たくましく訊ねる声が背後から追いかけてくるが、一旦脱した窮地にむざむざ舞い戻る彼ではなかった。そのまま、振り返らずに倒れていた自転車を引き起こして今来た道を戻った。
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友達の家、などと言われて思い浮かぶ場所は一つしかなかった。
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勇は帝國実業の校舎を通り過ぎてさらに向こう側、ユン・ウヌの家がある鶴橋へと自転車を走らせた。
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鶴橋に向かう途中、無人偵察機の数は増える一方だった。さっきのと違って明確な指向性を持って飛んでいるわけではないと判っているのに、勇にはなぜか自分がつけ回されているような気がしてならなかった。大阪城を通り過ぎて目的に近づくにつれ、高層のマンションや建築物は鳴りを潜め、年季の入った風合いの木造住宅が目立ってきた。そのぶん空の境界が低くなり無人航空機のちかちか光るカメラがいっそう悪目立ちした。だが、ぶんぶんと飛び回るそれらは鶴橋駅にたどり着いた途端に姿が見えなくなった。
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駅の出口には待ち合わせ場所によく使われる石像が置かれてある。雛壇を模した段差の下に、様々な出で立ちの民族衣装に身を包んだ複数の男女が笑顔で座り、一段高いところに和服を着た男が座っている。石像の側面には『八紘一宇の精神 〜みなさん仲良くしませう〜』と刻まれていた。
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ユンの家は鶴橋商店街の中にある。引きめき合う店の合間に佇む二階建て木造住宅は、一階が露店と居間と兼ねている。店の前で投げ出すように自転車を置いた勇を、露店で漬物を売っているユンの祖母が見るといつもの調子で二階の階段に向かって叫んだ。
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鶴橋に向かう途中、無人偵察機の数は増える一方だった。さっきのと違って明確な指向性を持って飛んでいるわけではないと判っているのに、勇にはなぜか自分がつけ回されているような気がしてならなかった。大阪城を通り過ぎて目的に近づくにつれ、高階層のマンションや建築物は鳴りを潜め、代わりに年季の入った風合いの木造住宅が目に留まる。そのぶん空の境界が低くなり無人航空機のちかちか光るカメラがいっそう悪目立ちした。だが、ぶんぶんと飛び回るそれらは鶴橋駅の雑踏にたどり着いた途端に姿が見えなくなった。
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待ち合わせ場所によく使われる駅前の石像を横切って商店街に進む。雛壇を模した段差の下に、各々の民族衣装に身を包んだ複数の男女が笑顔で座り、一段高いところに和服を着た男が座っている。石像の側面には『八紘一宇の精神 〜みなさん仲良くしませう〜』と刻まれていた。
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ユンの家は商店街の中にある。引きめき合う店の合間に佇む二階建て木造住宅は、一階が露店と居間を兼ねている。店の前で投げ出すように自転車を置いた勇を、露店で漬物を売っているユンの祖母が見つけるといつもの調子で階段に向かって叫んだ。
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「ウヌ、あんたのチョルチンが来たよ!」
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チョルチンとは”親友”を意味する朝鮮語である。来るたびにそう言われるので意味を調べたら気恥ずかしくなってしまい、勇はむしろ知らないふりをしている。
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チョルチンとは”親友”を意味する朝鮮語である。来るたびにそう言われるので意味を調べたら気恥ずかしくなってしまい、勇はあえて知らないふりをしている。
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外からでも聞こえる階段をぎしぎし軋ませる音が響いて、まもなくユンの太い脚が垣間見えた。顔は相変わらず険しかったが、不機嫌を示すそれではないと彼は感じた。
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「なあ、ユン……その、言いにくいんだが、今晩……」
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旅行鞄を手にぶら下げながら言い淀んでいると、ユンははっきりと応じた。
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「テレビを観た。事情は判っている。早く家に入れ」
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ほっ、と安堵して勇は祖母に深くお辞儀をして、軒先で靴を脱いで居間をまたぎ、今にも崩れそうな階段をユンの後に続いて上った。
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二階にある四畳半の部屋がユンの根城だ。薄汚れた畳の上に万年床の布団、まるで使った形跡のない古びた勉強机には埃が積もり、さらにその上には読みかけの雑誌や紙切れや学校から支給された用紙などが堆積している。畳の上にさえ紙がいくつも落ちている。部屋の片隅に置かれた小さな本棚には絵本らしき書籍が雑然と並んでいて、内容が幼稚園以来一度も更新されていない様子がうかがえた。
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一方、壁際の旧式のテレビにはそれなりの手入れが施されているようだった。テレビの画面では、今まさに勇の家が映し出されていた。彼は急速に、とんでもない異常事態が起きつつあることを悟った。
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テレビの右上には『北野高の首席入学生 治安維持法違反で逮捕さる!』と題する字幕が目立つ。さらにその下には『兄は帝國実業硬式戦争部の主将』と丁寧な補足情報まで記されてあった。
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旅行鞄を手にぶら下げながら言い淀んでいると、ユンはぶっきらぼうに応じた。
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「テレビを観た。ぼさっとしてないで早く家に入れ」
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ほっ、と安堵して勇は彼の祖母に深くお辞儀をして、黄色い漬物樽が並ぶ軒先で靴を脱いで居間をまたぎ、今にも崩れそうに軋む階段をユンの後に続いて上った。
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二階の四畳半の部屋がユンの根城だ。薄汚れた畳の上に万年床の布団、まるで使った形跡のない古びた勉強机には埃が積もり、さらにその上には読みかけの漫画雑誌や学校から配布された用紙などが堆積している。畳の上にさえ紙切れがいくつも落ちている。部屋の片隅に置かれた小さな本棚には絵本らしき書籍が雑然と並んでいて、内容が幼稚園以来一度も更新されていない様子がうかがえた。
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一方、壁際にある旧式のテレビにはそれなりの手入れが施されているようだった。画面の中では、今まさに勇の家が映し出されていた。彼は急速に、とんでもない異常事態が起きつつあることを悟った。
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映像の右上には『北野高の首席入学生 治安維持法違反で逮捕さる!』との題目が付けられ、さらにその下には『兄は帝國実業硬式戦争部の主将』と丁寧に補足情報まで記されてあった。
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「治安維持法違反だと? 功のやつ、捕まらんと言ってたじゃないか!」
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勇は思わず大声をあげた。ユンは万年床にあぐらをかいて座って、腕組みをした。
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「身に覚えはあるようだな。お前の弟は計算機に詳しかった」
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「あいつはただ技術の勉強をしていただけだ! それを……こんな……」
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「だけかどうかは国が判断することさ。お前の弟は運が悪かったな」
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彼のそっけない態度に、一晩泊めてもらう恩義も忘れて勇はいらだちを露わにした。
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「なんだその言い草は。喧嘩売っているのか」
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「いいから座れ。この狭い部屋でそう突っ立っていられるとねずみ小屋にいる気分になる」
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やむをえず勇は座ったが、まだ怒りは収まっていない。それを知ってか、ユンは冷静に言った。
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「おれらなんてしょっちゅうしょっぴかれている。斜向いんとこの悪ガキもこの前やられた。どうでもいいようなことでも実刑は当たり前だ」
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朝鮮人とおれの弟は違う、と喉元まで出かかった言葉を勇は呑み込んだ。単に日本人ではないというだけでユンの命を賭した戦いぶりを退けた監督の顔がちらついたのだ。テレビでは自宅の映像に代わり、中学生の頃の功の作文や成績表、同級生の人物評が仔細に語られている。しばらく観ていると、公死園の録画とともに勇の経歴も槍玉に上げられた。
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それから父、母、さらには親族、町内會にまで曝け出されるのに十五分とかからなかった。今この瞬間、帝國中の臣民に葛飾家の素性が覗き見られている。勇は全身に悪寒が走った。
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「だけかどうかは国が判断することだ。なまじ優秀だったのが裏目に出たな」
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ユンの突き放した態度に、一晩泊めてもらう恩義も忘れて勇は怒りを露わにした。
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「なんだその言い草は。喧嘩を売っているのか」
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「いいから座れ。この部屋でそう突っ立っていられるとねずみ小屋にいる気分になる」
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やむをえず勇は座ったが、まだ苛立ちは収まっていない。それを知ってか、ユンは冷静に言った。
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「いいか。おれらなんてしょっちゅうしょっぴかれている。斜向いんとこの悪ガキもこの前やられた。どうでもいいようなことでも実刑は当たり前だ。正しいとか正しくないとかの問題じゃねえ。お前の弟は運が悪かったんだ」
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朝鮮人と俺の弟は違う、と咄嗟に喉元まで出かかった言葉を勇は呑み込んだ。単に日本人ではないというだけでユンの命を賭した戦いぶりを退けた監督の顔がちらついたのだ。テレビでは自宅の映像に代わり、中学生の頃の功の作文や成績表、同級生による人物評が仔細に語られている。しばらく観ていると、公死園の録画を添えて勇の経歴も槍玉に上げられた。
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それから父、母、さらには親族、町内會での役割まで曝け出されるのに十五分とかからなかった。今この瞬間、帝國中の臣民に葛飾家の素性が覗き見られている。勇は全身に寒気が走った。
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「くそっ、どいつもこいつも好き勝手に言いやがって」
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これまで幾度となく報道番組で観てきた光景なのに、自分のこととなると全然感覚が違う。これまでは悪人の本性が暴かれているのだろうとしか考えていなかった。でも今は、帝國中に向かって葛飾家の潔白を訴えたい気持ちでいっぱいだった。電子計算機を悪用したであろう弟さえ、どこかで擁護できるならいくらでもしてみせたかった。
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これまで幾度となく報道番組で観た光景なのに、自分のこととなると全然感覚が違う。以前は悪人の本性が暴かれているのだろうとしか考えていなかった。でも今は、帝國中に向かって葛飾家の潔白を切に訴えたかった。電子計算機を悪用したであろう弟さえ、どこかで擁護できるならいくらでもしてやりたかった。
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「勝つしかねえよ」
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報道番組に出演している有識者が少年犯罪の凶悪化を憂いている傍ら、ユンはぼそりと言った。身体ごと向きを変えて、繰り返す。
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報道番組に出演している有識者が少年の非愛国化を憂いている傍ら、ユンはぼそりと言った。身体ごと向きを変えて目を合わせ、繰り返す。
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「おれたちは公死園で勝つしかねえんだ。結果を出せば世間は黙る。これはそういう戦いだ」
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「そもそも出られるのか、おれが」
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口に出すと急速に心配が現実味を帯びはじめた。身内に犯罪者を作ってしまった自分が公死園の決勝などという最高の晴れ舞台への出場を許されるのだろうか。だが、ユンはニタリと笑った。紫に変色したすきっ歯の歯茎が見えた。
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「そもそも出られるのか、俺が」
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口に出すと心配が現実味を帯びはじめた。身内に不穏分子を作ってしまった自分が公死園の決勝などという最高の晴れ舞台への出場を許されるのだろうか。だが、ユンはニタリと笑った。紫に変色したすきっ歯の歯茎が見えた。
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「出られるさ。監督は強い選手なら出す」
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「なぜ分かる」
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「やつがおれを嫌っているのは知っている。だが強いから出している。朝鮮人のおれをな。今は……まあそれでいい。おれには目標がある」
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監督がユンに徹底的な指導を施して何倍も模擬軍刀を打ち据えたのは、果たして個人的な嫌悪心からくるものなのか、それとも純粋に強い選手をさらに強くしたかったからなのか、勇には判らなかった。なにも言えず黙っているとユンは場の空気を入れ替えるように調子の良さそうな声を張った。
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「あの野郎がおれを嫌っているのは知っている。だが強いから出している。朝鮮人のおれをな。今は……まあそれでいい。おれには目標がある」
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監督が模擬軍刀でユンを徹底的に打ち据えたのは、果たして個人的な嫌悪心からくるものなのか、それとも純粋に鍛えたかったからなのか、勇には判らなかった。なにも言えず黙っているとユンは場の空気を入れ替えるように声を張った。
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「まあ、とりあえずメシを食え。いま下でハルモニが作っているはずだ」
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予想通り、ほとんど間を置かずに彼の祖母が階下から二人を呼んだ。階段を危なげに下りて居間に行くと、畳の上のちゃぶ台にすでに夕飯が用意されていた。やたら大きい米びつに入った大量の雑穀米と、鍋いっぱいのわかめの汁物、朝鮮漬け、牛肉の和え物などが台の上を埋め尽くしている。日本人には不慣れな朝鮮人の家庭料理だが、家に来るたびに振る舞われるので勇にとってはすっかり馴染み深い味になっていた。なにしろ量が多く執拗におかわりを勧められるので、昼飯時に行くと育ち盛りの勇でさえ夕飯がいらなくなるほどだ。
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予想通り、ほとんど間を置かずに彼の祖母が階下から二人を呼んだ。階段を危なげに下りて居間に行くと、畳の上のちゃぶ台にすでに夕飯が用意されていた。やたら大きいお櫃に入った大量の雑穀米と、鍋いっぱいのわかめの汁物、朝鮮漬け、牛肉の和え物などが台の上を埋め尽くしている。日本人には不慣れな朝鮮人の家庭料理だが、家に来るたびに振る舞われるので勇にとってはすっかり馴染み深い味になっていた。なにしろ量が多く執拗におかわりを勧められるので、昼飯時に行くと育ち盛りの勇でさえ夕飯がいらなくなるほどだ。
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そんな光景を見てユンは「金はねえがとにかくメシはあるからデカくなれた」と、普段は家の文句ばかりなのにここぞとばかり自慢するのだった。
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ところが今日の彼は様子がおかしかった。「もっと食え」と勇におかわりを勧める割には、自分の丼ぶりの中身は一向に減っていない。いつもは大きい米びつが空になるほど食べるのにまだ半分も残っている。隣で甲斐甲斐しく米をよそってくれるユンの祖母もすぐに気がついて「あんた、全然食べないねえ」と訝しんだ。対する彼はただ「うるせえな、食い飽きたんだよ」と買い言葉を口にして、とうとう一杯分の丼ぶりをなんとか空にしただけで夕食を終えてしまった。
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旧式のバランス釜で沸かされた風呂から順番に勇が出てくると、まだ九時にもならないうちに「おれは寝る」と言って灯りをつけたまま万年床の布団に仰向けになって寝転がった。客人の立場で無駄に電気を消耗するのも気が咎めた勇は、父に様子を尋ねる電文を打ってから灯りを消した。入浴の間にユンの祖母が隣に敷いてくれたのであろう布団に横たわると、窓から入り込む夜の商店街の電燈が赤青緑にちかちかと薄く光って部屋の至るところを照らすのが見えた。
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規則的に繰り返される点滅を見ながら、勇は公死園のことを考えた。
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即興で身につけられた回避術一つで軍刀の手練とまともに戦えるだろうか?
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硬式弾を全身に浴びるのは痛いけれども、仮想体力制を失ってあっけなく退場させられる際の無力感はやるせない。たとえ身体が万全でも、痣一つ付かなくても、電子的に衝突判定が認識されれば試合の中の自分は死んだことになる。その瞬間、固く緊張を保っていた全身の力が砂を抜いた土嚢袋のように萎びて、敗北の味が広がっていく。
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硬式弾に何十発も耐えられる恵まれた身体には、精神の敗北がよりいっそうの苦々しさをもらたしめるのだ。
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早く眠ろうと意志を固めて寝返りを打つと、ユンが寝言を言っているのが聞こえた。最初は判別が付かなかったが、じきに人名の羅列だと判った。
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しかし今日の彼は様子がおかしかった。「もっと食え」と勇におかわりを勧める割には、自分の丼ぶりの中身は一向に減っていない。いつもはお櫃が空になるまで食べるのにまだ半分も残っている。隣で甲斐甲斐しく米をよそってくれるユンの祖母も気がついて「あんた、今日は全然食べないねえ」と訝しんだ。対する彼ときたら「うるせえな、食い飽きたんだよ」と買い言葉を口にして、とうとう一杯分の丼ぶりを辛うじて空にしただけで夕食を終えてしまった。
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旧式のバランス釜で沸かされた風呂から順番に勇が出てくると、まだ九時にもならないうちにユンは「おれは寝る」と言って灯りをつけたまま万年床の布団に仰向けに寝転がった。客人の立場で電気を消耗するのに気が咎めた勇は、父に様子を尋ねる電文を打ってから早々と灯りを消した。入浴の間にユンの祖母が隣に敷いてくれたのであろう布団に横たわると、窓から入り込む夜の商店街の光が部屋の至るところを赤緑青にちかちかと薄く照らすのが見えた。
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規則的に繰り返される光の点滅を仰ぎながら、勇は決勝戦のことを考えた。
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即興で身につけた回避術一つで軍刀の手練たちとまともに戦えるだろうか?
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硬式弾を全身に浴びるのは痛いけれども、仮想体力を失ってあっけなく退場させられる際の無力感はやるせない。たとえ身体が万全でも、痣一つ付かなくても、電子的に衝突判定が認識されれば試合の中の自分は死人になる。その瞬間、固く緊張を保っていた全身の力が砂を抜いた土嚢袋のように萎びて、敗北の味が広がっていく。
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硬式弾に何十発も耐えられる恵まれた肉体には、精神の敗北がよりいっそうの苦々しさをもらたしめるのだ。
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早く眠ろうと意志を固めて寝返りを打つと、ユンが寝言を言っているのが聞こえてきた。最初は判別がつかなかったが、じきに人名の羅列だと判った。
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それは一定の周期性を伴っていた。最初に、監督の名前。その後に、勇には知らない名前が延々と続く。たまに、もう卒業した帝國実業の先輩や、あまり接点はない同級生の名前もいくつか読み上げられる。勇の名前はなかった。
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一体これはなんの一覧表なのだろうか、と疑問に思っているうちに、だんだんと寝言は薄れていって寝息に置き換わった。
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乱雑な部屋に似つかわしくない光と人名の規則性が、皮肉にも不安を抱える勇を緩慢な眠気へと導いた。
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乱雑な部屋に似つかわしくない光と人名の規則的な反復が、皮肉にも不安を抱える勇を緩慢な眠気へと導いた。
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己の事情とは関係なく身体は半ば機械的に眠り、然るべき時間に覚醒した。時計を見なくても今が午前五時前だと判る。夏の気が早い太陽の光が差し込んで、褪せた焦げ茶色の天井にここが自室でないことを知らされる。功は今頃どうしているだろうか。逮捕されたからには、拘置所かどこかで同じように褪せた天井を眺めているのだろうか。男のくせに女みたいにきれい好きで日に二度も風呂に入りたがる弟が、拘置所の暮らしに耐えられるとは兄の勇には思えなかった。
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父と母の動向も気がかりだった。今頃、職場は父にどんな処罰を課すか検討している頃合いだろう。母も実家から連絡があったに違いない。高校生の勇にはいまいち想像しがたい社會の動きだが、いずれにしてもこれ以上はないというくらい最悪の事態が浮かんでは消えた。
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勇は寝言だか呻き声だかよく判らない声をあげて横たわるユンを尻目に、勝手知ったる他人の洗面所を使うために階下へと下りた。例の小さいちゃぶ台には、やはりもう大量の朝食が用意されている。階段の軋む音を聞いたユンの祖母に挨拶されたので礼儀よく返す。
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己の事情とは関係なく身体は半ば機械的に眠り、然るべき時間に覚醒した。時計を見なくても今が午前五時前だと分かる。気が早い夏の太陽の光が差し込んで、褪せた焦げ茶色の天井にここが自室でないことを知らされる。功は今頃どうしているだろうか。逮捕されたからには、拘置所かどこかで同じように色褪せた天井を眺めているのだろうか。男のくせに女みたいにきれい好きで日に二度も風呂に入る弟が、拘置所の暮らしに耐えられるとは勇には思えなかった。
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父と母の動向も気がかりだった。今頃、職場は父にどんな処罰を下すか検討している頃合いだろう。母も実家から連絡があったに違いない。高校生の勇にはいまいち想像しがたい社會の動きだが、いずれにしてもこれ以上はないというくらい最悪の事態が浮かんでは消えた。
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勇は寝言だか呻き声だかよく判らない声をあげて横たわるユンを尻目に、勝手知ったる家の洗面所を使うために階下へと下りた。例の小さいちゃぶ台には、やはりもう大量の朝食が用意されている。階段の軋む音を聞いたユンの祖母に挨拶されたので礼儀よく返す。
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「ウヌはまだ起きてこないのかい」
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「なんか寝言言ってますよ」
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「なんか寝言を言ってますよ」
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「ご飯が冷めるから後で起こしてやってね」
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洗面所で洗顔を済ませた後、言われた通りに再び階段を上って部屋に戻った。横たわるユンに呼びかけるも、ろくな反応がない。今日は公死園の決勝だというのにだらしのないやつだ、と思って肩に掴みかかると、そこで勇は初めて異変に気づいた。
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まるで大雨に打たれたみたいに全身がびしょ濡れになっている。それに、信じられないほど熱い。あわてて身体を引き起こすと、ユンの顔はかつてないほどの苦痛に歪んで生気のない土気色に染まっていた。
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洗面所で洗顔を済ませた後、言われた通りに階段を上って部屋に戻った。横たわるユンに呼びかけるも、ろくな反応がない。今日は公死園の決勝だというのにだらしのないやつだ、と思って肩を掴み、そこで勇は初めて異変に気づいた。
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まるで大雨に打たれたみたいに全身がびしょ濡れになっている。それに、信じられないほど熱い。あわてて身体を引き起こすとユンの顔はかつてないほどの苦痛に歪んでいた。
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「おい、ユン、どうした」
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慌てて身体をさすると、紫色の唇がわずかに動いてやがてぼそぼそと言葉を発した。
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紫色の唇がわずかに動いてやがてぼそぼそと言葉を発した。
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「歯が……歯が痛くてしょうがねえ」
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「歯だと? もしかしてお前――」
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本人が動けないのをいいことに唇を指でぐいと押し開けてみると、どす黒く変色した歯茎が見えた。失った前歯を中心に左右に穢れが広がっているように思われる。
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勇はその瞬間になにもかも悟った。昨日の朝の時点でユンはなんらかの治療が必要な状態だったのだ。無理矢理に我慢していたせいで症状が悪化したのかもしれない。
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本人が動けないのをいいことに唇を指でぐいと押し開けてみると、どす黒く膨れた歯茎が見えた。失った前歯を中心に左右に穢れが広がっている。
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勇はなにもかも理解した。昨日の朝の時点でユンはなんらかの治療が必要な状態だったのだ。無理に我慢していたせいで症状が悪化したのだろう。
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「病院に行くぞ。こんな調子では試合などとても無理だ」
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病院、という言葉に反応したのか彼の目が薄く開いて睨んだ。
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「病院だと……そんな金が家にあるかよ」
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