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Rikuoh Tsujitani 2023-10-12 21:57:59 +09:00
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@ -6,9 +6,9 @@ tags: ['novel']
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 あれは保健の時間のことだった。はっきりと覚えている。ただでさえ学年合同授業はちょっとした珍事だ。ひんやりとするアルミ天板の大きな机が並ぶ総合室で、年老いた先生がのろのろと聴診器を配っていた。聴診器は隣り合った子と二人一組の割り当てらしく、僕は不用意にくるくる回る円形のスツールを両手でがっちりと抑えながら相手の子と向き合った。その子はさらなる慎重さでスツールの回転機構への不信任を露わにして、一旦立ちあがってから姿勢を変えて座り直した。
 先生の話によると、今日は心臓の動きを観察する授業とのことだった。告げられたページをめくろうと机の上に手を伸ばすと、相手の子が「ううん、私が」と制して教科書を開いて見せてくれた。ポップでコミカルな外枠のデザインとは裏腹に、聴診器をあてがわれた人体図の写実感は少々不気味ですらある。目をそらすと相手の子の名札が視界に入った。千佳ちゃんと言うようだった。
 先生の話によると、今日は心臓の動きを観察する授業とのことだった。告げられたページをめくろうと机の上に手を伸ばすと、相手の子が「ううん、私が」と言って教科書を開いて見せてくれた。ポップでコミカルな外枠のデザインとは裏腹に、聴診器をあてがわれた人体図の写実感は少々不気味ですらある。目をそらすと相手の子の名札が視界に入った。千佳ちゃんと言うようだった。
「うえーい」
 遠くの方でガキ大将のバイソンがスツールを高速回転させて、取り巻きとはしゃぐ大声が聞こえた。さっそく先生はのそっと腰を浮かせて注意に向かったが、このぶんだと彼の場所までたどり着く前に定年退職を迎えそうな印象を受けた。案の定、バイソンの悪ふざけを皮切りに授業の治安が乱れて、ちらほらと雑談を交わしたり立ち歩いたりする子たちが現れはじめた。
 遠くの方でガキ大将のバイソンがスツールを高速回転させて、取り巻きとはしゃぐ大声が聞こえた。さっそく先生はのそっと腰を浮かせて注意に向かったが、このぶんだと彼の場所までたどり着く前に定年退職を迎えそうな印象を受けた。案の定、バイソンの悪ふざけを皮切りに治安が乱れて、ちらほらと雑談を交わしたり立ち歩いたりする子たちが現れはじめた。
「ねえ、どっちから先に聴く?」
 一方、千佳ちゃんはあくまで授業に倣う姿勢を崩さず、僕も連中と一緒になって騒ぐ道理などみじんもないと思っていたので「ウーン、じゃあ僕が」と答えた。親切にも彼女が広げてくれていたページの図解を頼りに聴診器を身に着けようとすると、そこへつかつかと足早に別の子が歩いてきた。
 唇を一文字にぎゅっと結んで迫るその子は、あたかも決闘を挑むかのような面持ちで千佳ちゃんに短く言った。
@ -25,23 +25,23 @@ tags: ['novel']
 僕の家の近くにはグレーの公衆電話ボックスがある。田んぼに囲まれた直線道路の先を行った、山あいのあぜ道にぽつんとそれは佇んでいる。以前は宅地を造成する計画があったみたいで、田んぼと山しかないこの辺りにも重機や人が出たり入ったりしていたのを誰もが目にしていた。しかしある年を境にぱたんと沙汰止みになって、重機も人も消えて、宅地造成の話も消えた。なぜか町役場勤めの父さんだけは喜んでいた。でも、中途半端に削られた山とグレーの公衆電話ボックスは今も残されている。
 登山用のリュックにいつもねじ込まれているのは父さんがブームにかこつけて長期ローンで買ったートパソコンだ。グレーの公衆電話機と似た色をしていて、七十五メガヘルツのPentiumと八メガバイトのメモリが搭載されている。我が家にテレビとビデオデッキ以外の機械が闖入するのは前例がなく、ゲームボーイもスーパーファミコンも許されていなかった僕はいたく興味をそそられた。
 父さんが重箱のようにどっしりとしたそれの電源を入れると、がりがりとうなるパソコンが画面いっぱいに揺れ動く旗の絵柄を表示した。僕はこれに見覚えがあった。その頃はテレビで頻繁にこの旗を見たものだった。父さんは「おーっ、こいつがウインドーズか」とたどたどしい発音で叫んだ。しかしここが父さんのテンションの頂点だった。
 最初は頑として僕に手を出させまいとしていた父さんの方針はパソコン操作からの敗走が濃厚になるにつれて次第に鳴りを潜め、やがて氷解した。売りに行って嫌な噂が立つことを恐れた父さんは僕にパソコンを許してくれたのだ。さっそく無我夢中でいじり倒して、まずはキーボードの手前のボールを転がすと画面上の矢印が動くということ、小さな絵の上でボタンを押すとなにかが起こるという現象の理解に努めた。
 初めての日、父さんが重箱のようにどっしりとしたそれの電源を入れると、がりがりとうなるパソコンが画面いっぱいに揺れ動く旗の絵柄を表示した。僕はこれに見覚えがあった。その頃はテレビで頻繁にこの旗を見たものだった。父さんは「おーっ、こいつがウインドーズか」とたどたどしい発音で叫んだ。しかしここが父さんのテンションの頂点だった。
 最初は頑として僕に手を出させまいとしていた父さんの方針はパソコン操作からの敗走が濃厚になるにつれて次第に鳴りを潜め、やがて氷解した。下手に売りに行って嫌な噂が立つことを恐れた父さんは僕にパソコンを許してくれたのだ。さっそく無我夢中でいじり倒して、まずはキーボードの手前のボールを転がすと画面上の矢印が動くということ、小さな絵の上でボタンを押すとなにかが起こるという現象の理解に努めた。
 そのうちに父さんは職場から節約のために持ち帰ってくる使いさしのテレホンカードに、古いパソコン雑誌を帯同するようになった。「父さんには解らんかったが」と自嘲気味に笑って雑誌を放り投げてよこし、母さんから受けとった発泡酒のプルタブを開ける様子は後光が差して見えた。この時ばかりは父さんが神に見えた。
 与えられたパソコン雑誌はどれもかなり古い号だったが僕には聖なる経典に等しかった。そこには僕の知りたい話がなんでも載っていた。翌年には学校での話題はニンテンドー64でもちきりになり、さらに数年後にはゲームボーイカラーを持ち込む子が続出して全校集会が開かれたが、僕はどっちも欲しがらなかった。欲しいのはインターネットだった。
 父さんが持ち帰るどんなパソコン雑誌にもその単語はしかと記されていた。漢字を覚えて雑誌を読むのにさほど不自由しなくなってきた年頃には、頭の中で膨れあがったインターネット像はまるで大銀河のようであり、テレビを通してしか見たことがない東京やアメリカでもあった。要するにそこが世界の中心で、すべてで、尊敬すべき先人たちがいて、自分ひとりが取り残されているに違いないという観念に囚われていた。
 にも拘らず、いつ打診しても父さんはてんで取りつく島がなかった。「金がかかる」の一言で僕の願いは退けられ、しゅわしゅわと鳴る発泡酒とそれをごくごくと飲み干す父さんの喉仏を恨めしげに睨むしかなかった。だが、本棚の片隅に使いさしのテレホンカードを溜める専用の箱ができて、パソコン雑誌の束が塔を形成するに至った頃、僕はついに見つけた。
**『ISDN公衆電話』**
 グレーの公衆電話ボックスにはそう刻まれていた。ある日「たまには外で遊べ」の一言で家を追い出された僕は、行くあてもなくバイソンたちの行動範囲を避けて街とは反対方向の窪んだ山を目指した。陽の光を照り返す田んぼの水面が僕の退屈を見計らったように断ち切れて急勾配のあぜ道へと変化した先にそれはあった。あぜ道から外れて雑木林の始端に佇む、その異様な色合いの公衆電話ボックスに僕はたちまち吸い寄せられた。
 ISDNのアルファベット四文字はすでに頭に染み込んでいた。ISDNはNTT。インターネットはNTT。パソコン雑誌でも繰り返し出てきたし、テレビのコマーシャルでも繰り返し聞かされたフレーズだ。兎にも角にも明確なのはISDNとやらがあればインターネットができるという事実だった。僕は全速力で引き返してートパソコンを取りに戻った。
 グレーの公衆電話ボックスにはそう刻まれていた。ある日「たまには外で遊べ」の一言で家を追い出された僕は、行くあてもなくバイソンの行動範囲を避けて街とは反対方向の窪んだ山を目指した。陽の光を照り返す田んぼの水面が僕の退屈を見計らったように断ち切れて急勾配のあぜ道へと変化した先にそれはあった。あぜ道から外れて雑木林の始端に佇む、異様な色合いの公衆電話ボックスに僕はたちまち吸い寄せられた。
 ISDNのアルファベット四文字はすでに頭に染み込んでいた。ISDNはNTT。インターネットはNTT。パソコン雑誌でも繰り返し出てきたし、テレビのコマーシャルでも繰り返し聞かされたフレーズだ。兎にも角にも明確なのはISDNとやらがあればインターネットができるという事実だった。僕は全速力で引き返してートパソコンをこっそり取りに戻った。
 三キログラムもあるノートパソコンの角が背中に突き刺さり、バンドが両肩にめりこむ辛さもインターネットができる興奮の前には気にならなかった。財布にぎっしり詰めた使いさしのテレホンカードは他にも大量に箱の中にある。どうせ補充されるから気づかれる心配もない。万が一気づかれたとしても、大した咎めは受けないだろう。父さんはお金がかからないぶんには大抵のことに寛容だった。
 この日も半ドンの土曜授業を終えるやいなやダッシュで家に帰り五分で昼食を済ませて、そそくさと家を出てきた。このところ積極的に外出する僕の姿に母さんは目に見えて安心しきっていたが、僕の行き先は街ではなく、バイソンたちがたむろしているゲーセンでもなく、スーパーストリートファイターⅡでもなかった。リュックの中には大銀河を征く宇宙船があった。
 この日も半ドンの土曜授業を終えるやいなやダッシュで帰り五分で昼食を済ませて、そそくさと家を出てきた。このところ積極的に外出する僕の姿に母さんは目に見えて安心しきっていたが、僕の行き先は街ではなく、バイソンたちがたむろしているゲーセンでもなく、スーパーストリートファイターⅡでもなかった。リュックの中には大銀河を征く宇宙船があった。
 果たしてグレーの公衆電話ボックスはいつも通りの場所に佇んでいた。透明なプラスチックのドアを手前に引いて入室すると、そこはもう僕だけの世界だった。夏の鬱陶しい湿った空気も、種類も名前もどうでもいい虫の鳴き声も即座に遮断されて、グレーの箱の中ではグレーのノートパソコンとグレーの電話機が世界を代表していた。
 僕はリュックからノートパソコンを神妙に引き出して膝の上に置いた。電話ボックスの側面に背中を預けて床に座り、次にモジュラーケーブルを取り出した。ノートパソコンと電話機の「端末接続口」と記された穴にジャックを差し込むと、財布に詰まったテレホンカードの一枚目を電話機に与えた。
 ノートパソコンを起動する。がりがりがりとハードディスクのうなり声が電話ボックス内に響いた。虫の音は遮断されているので、もっぱらこれが僕の世界の音ということになる。あとはせいぜいキーボードのタイピング音くらいだ。四年近くも訓練を積んだおかげでキーボードの操作には不自由しない。機械音に満たされた空間は僕に高揚と平穏を一挙にもたらした。
 デスクトップに並ぶアイコンの中から「インターネット接続」のショートカットをダブルクリックすると、登録ダイヤルが発信されてグレーの電話機に特有の大きなモノクロディスプレイがテレホンカードの使用を通知した。一分ごとにお金がかかるが、大量のテレホンカードにものを言わせれば好きなだけインターネットができる。
 デスクトップに並ぶアイコンの中から「インターネット接続」のショートカットをダブルクリックすると、登録ダイヤルが発信されてグレーの電話機に特有の大きなモノクロディスプレイがテレホンカードの使用を通知した。一分ごとにお金がかかるが、大量のテレホンカードにものを言わせる。
 接続確立の文字が示されたと同時に僕は手慣れた動作で「e」のアイコンをダブルクリックした。「インターネットエクスプローラー」と題されたこのアイコンこそが僕を大銀河へと運んでくれる。毎秒六十四キロビットの情報の波がモジュラーケーブルに押し寄せて、ディスプレイにヤフーのホームページを上から下に――走査線のようにゆっくりと――描き出した。
 このようにして僕は毎週土日、世間に忘れられた山あいの箱の中にいながら街よりも東京よりもアメリカよりも広大で緻密な世界と繋がっている。
 このようにして僕は毎週土日、世間に忘れられた山あいの箱の中にいながら街よりも東京よりもアメリカよりも広大で緻密な世界と繋がっている。今でも色褪せない世紀末の夏の思い出だ。
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@ -49,7 +49,7 @@ tags: ['novel']
 だが、この解決策もパソコン雑誌がくれた。フリーウェアの紹介欄にウェブページを簡単にまるごと保存できるソフトが載っていたのだ。五回目の接続の際に僕はこのソフトをインターネット経由で入手した。それからというもの情報収集速度は飛躍的に高まった。電話ボックスでは保存に専念して、閲覧は家で電源を繋げてじっくりとやればいい。要領を掴んだ頃には翌週まで退屈しない量のウェブページを集めることができた。今日もそのつもりだ。まる一週間も経ったらお気に入りのウェブページだけでもかなり更新されている。
 しかし直後、聞こえてくるはずのない外界の音が聞こえてきた気がして僕は手を止めた。この世界にはハードディスクとキーボードの音しか存在しないはずだ。再びこつん、こつんと音が背後で鳴った。気のせいではない。振り返ると、バイソンと二人の取り巻きが遠くから石を投げつけている様子が見えた。
 瞬間、僕の心臓は恐怖でぎゅっと縮みあがった。嘘だろ、なんであいつらがこんなところにいるんだ。
 取り巻きを一旦抑えたバイソンは野球投手のモーションで大仰に振りかぶると、おそらくはさっきより巨大な石を直線状に投げてきた。なにしろ今度は「こつん」なんてものではなかった。ばーんという轟音とともに振動が電話ボックスじゅうにびりびりと伝わって、危うく僕は姿勢を崩してノートパソコンを放り出しかけた。
 取り巻きを一旦控えさせたバイソンは野球投手のモーションで大仰に振りかぶると、さっきより巨大な石を直線状に投げてきた。なにしろ今度は「こつん」なんてものではなかった。ばーんという轟音とともに振動が電話ボックスじゅうにびりびりと伝わって、危うく僕は姿勢を崩してノートパソコンを放り出しかけた。
 肩を怒らせてのしのしと近づいてくるバイソンはいかにも格好の獲物を見つけたと言いたげな表情で、わざとらしく両手をメガホンの形にして叫んだ。プラスチックの壁を容易に突き破る怒声だった。
「おーい、出てこいよ!」
 出だしは友達に呼びかける感じの朗らかさだが、すぐ後に「十秒で出てこないと前歯全部折るぞ」と続き、間延びした音程のカウントダウンが開始された。取り巻きたちもげらげらと笑いながら唱和する。否が応もなく、僕はノートパソコンをモジュラーケーブルが繋がったまま閉じて、リュックに突っ込んで隠した。街よりも東京よりも広いグレーの公衆電話ボックスの中の世界には、鍵がついていない。意地を張って籠城を決め込んでも僕を引きずり出すのにそう手間はかからない。
@ -59,17 +59,17 @@ tags: ['novel']
「あー……ちょっと休んでて」
 僕は曖昧に答えた。正直に答えても事態が好転する余地はない。
「ふーん、お前、こんな山とかに来るようなやつだったっけ」
 それはこっちのセリフだ。なんでいつもみたいにゲーセンにいないんだ。僕の周りを取り囲む三人の顔ぶれはどれも気味の悪い笑みを浮かべている。
 それはこっちのセリフだ。なんでいつもみたいにゲーセンにいないんだ。僕の周りを取り囲む三人の顔ぶれにはどれも気味の悪い笑みが浮かんでいる。
「う、梅村君こそどうしたの、ゲーセン――」
 視界がぐわっと揺れ動いた。遅れて腹部に鋭い痛みを感じて、ああ僕はやっぱり殴られたのだなと悟った。地面に両膝をついて苦しんでいると頭上から罵声が降り注いだ。
「ばっかじゃねえのお前、なにも知らないのかよ」
「あーバイソン怒った」
「ストⅡの代わりにこいつ殴るわ」
 と、言う割に次いで繰り出されたのは蹴りだった。耳に靴の側面をぶつけられた衝撃で僕は地面に打ち倒された。だがこの時に考えていたのは痛いとか怖いとかではなく――いや痛いし怖くもあったが――せめて手早く気を済ませてどこかに行ってくれたらインターネットの続きができるのに、という願望だった。僕はさらなる追撃に備えて亀のように丸まった。様々な実体験を経て、徹底した防御がもっともバイソンたちの害意を削ぐと分かったのだ。
 ところが追撃は来なかった。代わりに三人のどなり声が聞こえる。僕に対してではない。手の込んだ真似をして防御を解かせてから顔面に靴先をめりこませる算段なのでは、と疑ったが、いよいよ場違いな女の子の声が聞こえるに至って、僕は亀の構えを解除した。地面に転がった視界の先では、紺のスカートを履いた女の子が、三人、いや二人と相対している光景が広がっていた。どういうわけか一人は顔を抑えて地面に倒れている。手の隙間からは血が漏れていた。
 ところが追撃は来なかった。代わりに三人のどなり声が聞こえる。僕に対してではない。手の込んだ真似をして防御を解かせてから顔面に靴先をめりこませる算段なのでは、と疑ったが、いよいよ場違いな女の子の声が聞こえるに至って、僕は亀の構えを解除した。地面に伏せた視界の先では、紺のスカートを履いた女の子が、三人、いや二人と相対している光景が広がっていた。どういうわけか一人は顔を抑えて膝をついている。手の隙間からは血が漏れていた。
「ぶっ殺すぞ」
 取り巻きの片割れが食ってかかるとその子はためらいなくグーで顔面を殴りつけた。パーならともかくグーで人を殴る女の子は今まで見たことがなかった。ほのかな勝算を感じさせたのも束の間、残るはバイソンだ。どんなに強くてもバイソンに勝てる小学生がいるとは到底考えられなかった。街中学生とタイマンを張って勝ったと噂されているほどだ。
 戦闘態勢をとったバイソンと対峙したその子は、じきに僕と同様の見解に達したようだった。さっと身を翻すと、あぜ道を引き返して街の方角に撤退していった。
 取り巻きの片割れが食ってかかるとその子はためらいなくグーで顔面を殴りつけた。パーならともかくグーで人を殴る女の子は今まで見たことがなかった。ほのかな勝算を感じさせたのも束の間、残るはバイソンだ。どんなに強くてもバイソンに勝てる小学生がいるとは到底考えられなかった。街中学生とタイマンを張って勝ったと噂されているほどだ。
 戦闘態勢をとったバイソンと対峙したその子は、じきに僕と同様の見解に達したようだった。さっと身を翻すと、あぜ道を引き返してすばやく撤退していった。
「あっ! おい、待てこら!」
 まさか無言で逃げの一手を打たれるとは予想していなかったのか、バイソンも遅れて後を追いかけた。彼に続いて鼻血を垂らした取り巻き二人もよろよろと場を去り、奇しくも望まれた平穏が戻ってきた。
 シャツについた汚れを手で払おうとしたら、土埃が繊維に染みてかえって跡が残った。腹も頭もずきずきと痛いし、なにもかも最悪だったが、それでも身を起こしてグレーの公衆電話ボックスの中に舞い戻ると安堵感に包まれた。どうであれインターネットは守られたのだ。僕は土埃でノートパソコンを汚さないように両手の汚れをシャツで入念に拭き取ってから、大銀河の探索を再開した。
@ -82,18 +82,18 @@ tags: ['novel']
「へえ、こんなふうにインターネットって使えたんだ」
 彼女はさらっと言ってのけると、グレーの公衆電話ボックスを見回した。
 僕は「インターネット」という単語が自分以外の子どもから発せられたのをこの時初めて聞いた。それを発したのが僕のような子ではなく、男のいじめっ子をグーで殴り倒す女の子ときたものだから二重の驚きだった。あっけにとられて彼女を凝視していると表情を読まれたのか「あたしがインターネットを知ってちゃ悪いっていうの?」と口を尖らせた。
「悪くない、悪くないけど……他に知っている子なんてどこにもいなかったから」
「悪くない、悪くないけど……他に知っている子なんてどこにもいなかったから」
「それはまあ、私もそうかも」
 山あいにふうっ、と風が吹き込んで床に散乱したパソコン雑誌がぱらぱらとめくれた。すると、彼女はまるで風に負けたかのようにふらついて、電話ボックスにもたれかかる格好になった。
「あたし、家に帰らなきゃ」
 さっきまでの勝ち気な声色とはうってかわって小さい声でそうつぶやくと、僕の返事を待たずに彼女は踵を返した。
 さっきまでの勝ち気な態度とはうってかわって小さい声でそうつぶやくと、僕の返事を待たずに彼女は踵を返した。
 そう、あの彼女だ。僕の頭の片隅で並走していた回想が終了した頃にはもうとっくに保健の学年合同授業は終わっていて、身体は総合室からに教室に、授業は算数に変わっていた。それでも彼女のか細い心臓の震えと、鞭で打つような鋭い声のコントラストはしっかりと脳裏に焼きついていた。
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 それからというもの、ことあるごとに彼女は僕を虐げるようになった。たとえば、今日は交換日記用のノートをひったくられた。「交換日記ってこんな感じのこと書くんだ」と感心しきりに言う彼女だが、ここは六年二組の教室で彼女は一組だ。他クラス侵入は星の数ほどもある校則違反のうちで下の下から上の上に重いとされている。
 というのも、担任の先生によって注意の度合いが大幅に異なるからだ。怒り狂って違反者を定規で叩きのめす恐ろしい先生もいれば、めそめそと泣き出して後の授業を放棄する先生もいる。後者の方はおのずと自習時間に振り替えられるため、当事者でなければむしろウェルカムだったりする。幸か不幸か六学年の担任の先生はいずれも下の下派で、そんな校則などもともと存在していないかのように振る舞っていた。だから僕が交換日記用のノートを奪われてあわあわしていても、彼女を止めてくれる人はどこにもいない。
 いや、いないことはなかった。たった今、千佳ちゃんを筆頭に模範的な子たちが勇気を振り絞って「あのう、ここは二組だよ?」と迂遠に注意してくれた。だが、彼女がひと睨みすると結局はみんな黙らされた
 いや、いないことはなかった。たった今、千佳ちゃんを筆頭に模範的な子たちが勇気を振り絞って「あのう、ここは二組だよ?」と迂遠に注意してくれた。もっとも、彼女がひと睨みすると結局はみんな黙らされるのだが
 ただ、恩恵も一つあった。取り巻きたちが近寄ってこない。大柄で不良のバイソンはなにもしなくても先生が目を光らせているので、学校では特になにもしてこない。片や、力強さはなくても狡猾さに長けた取り巻き連中は厄介だった。すれ違いざまにすねを蹴ったり、バケツに汲んだ水をひっかけてくるのが彼らのやり口だった。
 しかしそんな彼らも彼女が僕にまとわりついていると手の出しようがない。実際、一度いつの間にか逆にすねを蹴り返して撃退していたらしい。おかげで取り巻きたちはずいぶんおとなしくなった。でもこれはよく考えると、ハイエナに追われなくなった代わりにライオンに捕まったような状況だ。
 この日もどんな目に遭わされるのかと恐れをなしていたら、出し抜けに彼女はこう言った。
@ -114,30 +114,30 @@ tags: ['novel']
「八時!? 今日の? 無理だよ!」
 僕は思わず叫んだ。
「なんで? ああ、あれは家族共用のパソコン?」
 文脈からすると「あれ」とは電話ボックスで見たノートパソコンのことだろう。だけども、彼女の誤解はもっと根が深い。まず第一に家族共用ではなく勝手に持ち出しているだけだし、第二に、家にインターネット回線は通っていない。第三に、いくらなんでも夜遅くにグレーの公衆電話ボックスに行ってインターネットをするのは叱られるどころでは済まない。たとえ彼女に脅されたって無理なものは無理だ。インターネットに接続できる日は土日の昼間しかない。
 文脈からすると「あれ」とは電話ボックスで見たノートパソコンのことだろう。だけども、彼女の誤解は根が深い。まず第一に家族共用ではなく勝手に持ち出しているだけだし、第二に、家にインターネット回線は通っていない。第三に、いくらなんでも夜遅くにグレーの公衆電話ボックスに行ってインターネットをするのは叱られるどころでは済まない。たとえ彼女に脅されたって無理なものは無理だ。インターネットに接続できる日は土日の昼間しかない。
 ……という事情を説明すると、彼女は妙に納得したふうにうなずいた。
「へえ、そういうキャラとかじゃなかったんだあれ」
「そういうキャラってどういうキャラ?」
「教室の隅でこれみよがしに難しい本を読むような感じ」
「そんなつもりは……そもそもあの辺には誰も人なんて来たことなかったんだよ。ましてやあいつらが来るなんてありえなかった。いつもゲーセンに入り浸ってるのに」
 そう、あの日以来、またぞろバイソンたちが襲ってくるのではと怯えて僕は先週インターネットをやっていない。彼らが山あいに来た時に僕の姿がなければ、まさか毎週いるとは思われないだろう。二週間前に保存したウェブページをちまちまと控えめに閲覧するのは、なんだか父さんがタバコを半分に切って一本分のつもりで吸っている様子と被って嫌な気持ちになる。でもしょうがない。母さんは口うるさく言っている。「不景気だから貯金しないと」とは言うものの、僕の「貯金」はもはやからっけつだ。
 そう、あの日以来、またぞろバイソンたちが襲ってくるのではと怯えて先週インターネットをやっていない。彼らが山あいに来た時に僕の姿がなければ、まさか毎週いるとは思われないだろう。二週間前に保存したウェブページをちまちまと控えめに閲覧するのは、なんだか父さんがタバコを半分に切って一本分のつもりで吸っている様子と被って嫌な気持ちになる。でもしょうがない。母さんは口うるさく言っている。「不景気だから貯金しないと」とは言うものの、僕の「貯金」はもはやからっけつだ。
「知らないの だいぶ前から先生とかPTAの人とかが街を見回ってるんだよ。特にゲーセンは物騒だから親と一緒じゃないと小学生は禁止だって」
 知らなかった。ストⅡの全キャラクリアが間に合ってよかった。ゲーム機を許されていない僕がやれるゲームといったら街のゲーセンにある限られたゲームぐらいだ。以前は一体いつになったらⅢに入れ替わるのかとやきもきしていたが、今となっては割とどうでもいい。親戚の子にせがまれてごくたまに行くぐらいだ。だから事実上の「ゲーセン禁止」を寝耳に水の形で知らされても思いのほかショックは少なかった。
 予鈴が鳴ると、彼女は紙片を押しつけて新しい日時を指定した。
「じゃあ、日曜日の午後一時にアクセスして。来なかったら殺すから」
 押しつけられた紙片を裏返すと千佳ちゃんの書いた日記が載っている部分だった。表の方にはでかでかとURLが書かれているため、僕のぶんの日記を書くこともできない。しかも、紙片は一枚まるごとではなく斜めに袈裟切りで破られていた。僕は千佳ちゃんの日記をまだ読んでいない。
 押しつけられた紙片を裏返すと千佳ちゃんの書いた日記が載っていた。表の方にはでかでかとURLが書かれているため、僕のぶんの日記を書くこともできない。しかも、紙片は一枚まるごとではなく斜めに袈裟切りで破られていた。僕は千佳ちゃんの日記をまだ読んでいない。
 帰ったらセロテープでページをくっつけて日記を読んで、URLを書き写して、元のを修正液で消して、日記を書いて……。週末は、バイソンたちに出くわさないことを祈りつつ彼女の言う通りにしなきゃならない。想像するだけでもどっと気疲れした。
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 日曜日、僕は所定の荷物に加えて大きなダンボールの板をたくさん持っていった。思うに、あの件は遠目から見つかってしまったのが失敗だったのだ。バイソンたちは僕が公衆電話ボックスでなにをしていたのかなんて知る由もない。パソコンとテレビの見分けが付くのかも怪しい。ましてやインターネットなど理解できないだろう。電話ボックスはとりたてて彼らの関心を惹いたりはしない。壊したり倒したりするには頑丈すぎるからだ。
 そこで僕は黒ゴシックペンで塗りつぶしたダンボールの板を電話ボックスの四面に貼りつけることにした。こんなところで本当に公衆電話が必要になる人なんてどうせいない。僕は僕の世界を守らなくちゃいけない。空腹を装って十一時前には昼食を済ませ、僕は約束よりずっと早い時間に現地へ赴いた。ダンボール板をハサミで適当なサイズに切り取り、電話ボックスの面に沿う形にガムテープで貼りつけた。外から眺めるとただでさえグレーの公衆電話ボックスが陰に溶け込んだように見えて、自分の世界がより強固になった気がした。
 改造された電話ボックスの中は虫の音のみならず陽の光も遮断されて、まさしく宇宙らしい風情を醸し出している。もっと早くこうするべきだったと自画自賛もほどほどに所定の作業をはじめた。約束の時間にはまだ三十分もある……。お気に入りのウェブページに絞れば一週間分の分量を確保するのは難しくない。
 改造された電話ボックスの中は虫の音のみならず陽の光も遮断されて、まさしく宇宙らしい風情を醸し出している。もっと早くこうするべきだったと自画自賛もほどほどに所定の作業をめた。約束の時間にはまだ三十分もある……。お気に入りのウェブページに絞れば一週間分の分量を確保するのは難しくない。
 つつがなく蒐集を終えたところで僕は例のURLを打ち込んだ。時刻は午後一時の五分前。軽快にキーボードを叩いて最後の一文字を埋めて、なんだかんだで期待を抱きつつエンターキーを強く押した。強引に約束させられたとはいえウェブページには違いない。がりがりがりとハードディスクがうなり、上から下に向かって鈍い青色のウェブページが描写されていった。
 だが、そのページには空白のテキストボックスと「更新」と書かれたボタン以外にはなにも情報が載っていなかった。ページ一面が凪いだ海みたいに閑散としている。
 しかし、そのページには空白のテキストボックスと「更新」と書かれたボタン以外にはなにも情報が載っていなかった。ページ一面が凪いだ海みたいに閑散としている。
 もしかするとURLの入力を誤ったのかもしれない。以前にも、タイプミスをしたのに違うページに偶然繋がってしまって気づくのに遅れたことがある。URLを書き写した紙片をディスプレイ脇に寄せて、インターネットエクスプローラーのアドレス欄と見比べる。間違いはなかった。
 とすると、このウェブページの唯一の仕掛けは「更新」ボタンのみという話になる。彼女は僕を騙したのだろうか。これまでの嗜虐的な態度を踏まえると大いにありえる。
 手持ち無沙汰を紛らわせたくて「更新」ボタンをクリックすると、青い背景に日本語の文字列が追加された。
 手持ち無沙汰を紛らわせたくて手元の「更新」ボタンをクリックしてみると、青い背景に日本語の文字列が追加された。
**『梨花 さんが入室しました』**
 入室?
 いまいち要領を得ない文言だが、先のボタンを押下してウェブページの情報が書き換わったのは事実だった。僕はもう一回「更新」をクリックした。すると、やはりウェブページが書き換わって、新たな文字列が上に追加された。
@ -178,33 +178,32 @@ tags: ['novel']
誠>こんなのパソコン雑誌でも見たことないや
梨花>ようやくまともなバージョンが出たばかりだから。日本語版の制作ソフトもまだ発売されていないはず
 彼女の得意げな顔がディスプレイを通して浮かんでくるようだった。
 チャットは毎回、僕のノートパソコンがバッテリー切れを予告するタイミングでお開きとなった。それでも僕たちは毎週末の決まった時間、わずか二時間にも満たない中でそれぞれの大銀河を共有した。まるで遠く離れた星系から出発した宇宙船同士が出会ったように、広大な宇宙の全貌を探るべく互いに星図を描きこんだ。
 チャットは毎回、僕のノートパソコンがバッテリー切れを予告するタイミングでお開きとなった。それでも僕たちは毎週末の決まった時間、わずか二時間にも満たない中でそれぞれの大銀河を共有した。遠く離れた星系から出発した宇宙船同士が出会ったように、広大な銀河の全貌を探るべく互いに星図を描きこんだ。
 二百五十六色のディスプレイに映るフォントの粒立ちが見える。ドットの一つ一つに宇宙の砂塵を感じる。その砂塵の一つ一つが礫岩や小惑星群を構成している……。
 僕は一生このままが良かった。初めて気持ちの通じ合う友達ができた気がした。
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 そういえば、こんな日もあった。いつものように外出の準備を始めると定位置に置かれてあったノートパソコンが失くなっていたのだ。居間にもなく、自室にもない。もしやと思って父さんの部屋を覗くと、机の上に積まれた大量のフロッピーディスクの隣にあった。父さんは懸命にそのフロッピーディスクを抜き差ししていて、僕が部屋に入ってきたのに気づくと大げさに驚いた。
 そういえば、こんな日もあった。いつものように外出の準備を始めると定位置に置かれてあるはずのノートパソコンが失くなっていたのだ。居間にもなく、自室にもない。もしやと思って父さんの部屋を覗くと、机の上に積まれた大量のフロッピーディスクの隣にあった。父さんは懸命にそのフロッピーディスクを抜き差ししていて、僕が部屋に入ってきたのに気づくと大げさに驚いた。
「あっ、おいっ、なんで部屋に入ってくるんだ」
「いや、あの……パソコンを使いたくて」
「今日はだめだ」
 父さんはきっぱりと言って何枚目かのフロッピーディスクを抜いて脇に置き、また積まれた山のてっぺんの一枚を手に取った。
「どうしても使いたいんだけど……」
「どうしてだ。別に明日でも明後日でもいいだろう」
 本当の理由は言えない。でも、今日は特にパソコンが必要な日だった。なぜなら休日であり、日曜日であり、すなわち梨花ちゃんとの待ち合わせの日だからだ。彼女の言によると約束を破ったら殺される手はずになっている。結局、うまい説得は思いつかずに子どもっぽい駄々だけが口から漏れた。
「どうしてだ。別に今日じゃなくてもいいだろう」
 本当の理由は言えない。でも、まさに今日こそ絶対にパソコンが必要な日だった。なぜなら休日であり、日曜日であり、すなわち梨花ちゃんとの待ち合わせの日だからだ。彼女の言によると約束を破ったら殺される手はずになっている。結局、うまい説得は思いつかずに子どもっぽい駄々だけが口から漏れた。
「えー……」
 父さんはじれったそうに振り返って、片手でフロッピーディスクを入れ替えながら無慈悲に告げた。
「いつもみたいに外で遊んでいればいいじゃないか。そうだ、そうしなさい」
 どうやら、なにがなんでも僕を家から追い出したいようだった。こうして僕はノートパソコンを持たず、財布とパソコン雑誌だけが詰め込まれた虚無のリュックを片手に灼熱の太陽の下へと放逐された。
 行くあてのない足は半ば習慣的に山あいに向く。いつもより大幅に軽いリュックと沈んだ気持ちを抱えながら、むせ返る土と木の匂いがする森林に入って、グレーの電話ボックスの中に腰を落ち着けた。変わらずそこに鎮座する公衆電話機は、宇宙船に乗らずして現れた僕にワープゲートの入場口を固く閉ざしている。恨めしげに睨んでもこればかりはどうにもならない
 やむをえずリュックを開けて比較的読み込んでいない号の再読を始めた。やがて約束の時間が訪れて、淡々と五分が過ぎ、十分が過ぎた。パソコンの前で静かに怒りを燃やす梨花ちゃんの顔が浮かんだ。殺すと言ってもまさか文字通り殺されはしないと思うが、どつかれる覚悟くらいはした方がいいかもしれない。
 三十分が過ぎた頃、前触れなくどん、と電話ボックスが叩かれたので僕はパソコン雑誌から顔をあげた。最初は全然集中できなかったが、いざ腹をくくると妙に気持ちが落ち着いて読み進められた。それが梨花ちゃんの顔――普段は一文字に結ばれた口元がへの字に曲がっている――を目の当たりにするやいなや、たちまち僕は雑誌を投げ出してボックスの隅に身を縮めた。まもなくドアが開けられて、湿った空気とともに彼女が踏み込んできた。
 どうやらノートパソコンを取り上げるだけでは飽き足らず、僕を家から追い出したいようだった。こうして僕はパソコンを持たず、財布とパソコン雑誌が詰め込まれた虚無のリュックを片手に灼熱の太陽の下へと放逐された。
 行くあてのない足は半ば習慣的に山あいに向く。浮くように軽いリュックと重く沈んだ気持ちを抱えながら、土と木の匂いでむせそうな森林に入って、グレーの電話ボックスの中に腰を落ち着けた。変わらずそこに鎮座する電話機は、宇宙船に乗らずして現れた僕にワープゲートの入場口を固く閉ざしている。
 仕方がなくリュックを開けて比較的読み込んでいない号の再読を始めた。やがて約束の時間が訪れて、淡々と五分が過ぎ、十分が過ぎた。パソコンの前で静かに怒りを燃やす梨花ちゃんを想像する。殺すと言ってもまさか文字通り殺されはしないと思うが、どつかれる覚悟くらいはした方がいいかもしれない。
 三十分が過ぎた頃、前触れなくどん、と電話ボックスが叩かれたので僕はパソコン雑誌から顔をあげた。最初は全然集中できなかったが、いざ腹をくくると妙に気持ちが落ち着いて読み進められた。それが梨花ちゃんの顔――普段は一文字に結ばれた口元がへの字に曲がっている――を目の当たりにするやいなや崩壊して、たちまち僕はボックスの隅に身を縮めた。まもなくドアが開けられて、湿った空気とともに彼女が踏み込んできた。
「とりあえず殺すつもりだけど一応言い訳を聞いてあげる」
 電話ボックスの中央で仁王立ちになった彼女による、死刑前提の人民裁判が幕を開けた。
「……父さんにノートパソコンを取られちゃったんだ。もともと僕のじゃないって言ったろ」
 おそるおそる口上を述べると、彼女は片方の眉を釣り上げてふうん、と唸った。
わざとでも忘れてたわけでもないって言いたいわけね。まあ、ここには来てたわけだし……まだぎりぎり間に合うかな」
 妙に芝居がかった声色で腕時計を見やると、急に手を伸ばして僕の腕を掴んだ。やはり、死刑か。
 おそるおそる口上を述べると、彼女は仁王立ちのまま片方の眉を釣り上げてふうん、と唸った。
忘れてないしわざとでもないって言いたいわけね。まあ、ここには来てたし……まだぎりぎり間に合うかな」
 妙に芝居がかった声色で腕時計を見やると、急に手を伸ばして僕の腕を掴んだ。やはり、死刑か。目を瞑っていると、思いがけない提案が降って湧いた。
「どうせ暇でしょ。街に行こう」
「えーっ!」
 梨花ちゃんに引っ張り上げられながら僕は変な声を出した。
@ -212,79 +211,80 @@ tags: ['novel']
「でも街って子どもだけで行ったらいけないんじゃ……バイソンとかもいるし……」
 おろおろしていると彼女は胸を張って自慢げに言い切った。
「あたし、中学生に見えるってよく言われるんだ。やつらと鉢合ったらまたぶっ飛ばすよ」
 反対側の街に赴く長い道すがら、僕たちの会話はあまり弾まなかった。時折、降り注ぐ太陽の光の熱さに文句を言って、飲み物を持ってこなかったことに文句を言って、他にも親のこととか、学校の規則とか、あらかたの物事に文句を言い尽くすと彼女はだんだん口数が少なくなって、ただ応じていた僕もおのずと口を閉ざした。
 インターネットをしている時はニ時間あっても全然足りないくらい大はしゃぎできるのに、現実では会話の糸口がてんで見つからない。ずんずんと堂々たる足取りで進む彼女の影に入り込むようにして、ひたすら後をついていくしかなかった。
 幸いにも、街に辿り着いて雑踏に紛れると梨花ちゃんの口数はにわかに復活した。まずは二人して自販機でジュースを買って飲んだ。それから僕の手を引っ張って入った書店の少女漫画コーナーで、あれやこれやと物語のあらすじを教えてくれた。錆びついた歯車に油が染み込むように、おかげで僕も会話の調子を取り戻した。
 目当ての漫画本を手に入れて上機嫌の彼女は、通りかかった店の前でいきなり立ち止まった。見上げると、そこはゲームセンターだった。ニ階建ての手狭な店舗で、ビルを貸し切ったような大都会のそれとは及びもつかないが、市内の子どもたちにとってはここが手に届く唯一の娯楽施設だ。うっかり気を抜いていた僕はそこでようやく恐怖心を思い出した。
 反対側の街に赴く道すがら、僕たちの会話はあまり弾まなかった。時折、降り注ぐ直射日光の熱さに文句を言って、飲み物を持ってこなかったことに文句を言って、他にも親のこととか、学校の規則とか、あらかたの物事に文句を言い尽くすと彼女はだんだん口数が少なくなって、ただ応じていた僕もおのずと口を閉ざした。
 インターネットをしている時はニ時間あっても全然足りないくらい大はしゃぎできるのに、現実では会話の糸口がてんで見つからない。ずんずんと堂々たる足取りで進む彼女の影に入り込むようにして、ひたすら後をついていくしかなかった。
 街に辿り着いて雑踏に紛れると梨花ちゃんの口数は復活した。まずは自販機でジュースを買って飲んだ。それから僕の手を引っ張って入った書店の少女漫画コーナーで、あれやこれやと物語のあらすじを教えてくれた。錆びついた歯車に油が染み込むように、おかげで僕も会話の調子を取り戻した。
 目当ての漫画本を手に入れて上機嫌の彼女は、通りかかった店の前でいきなり立ち止まった。見上げると、そこはゲームセンターだった。ニ階建ての手狭な店舗で、ビルを貸し切ったような大都会のそれとは及びもつかないが、市内の子どもたちにとってはここが手に届く唯一の娯楽施設だ。うっかり気を抜いていた僕はそこでようやく原初の恐怖心を思い出した。
「バイソンたちがいるかもしれない。早く離れよう」
「へえ、でもあたしは入ってみたいな。一度も行ったことないし」
 僕はぶんぶんと首を振った。執行猶予中の身でも抗弁の権利はある。
「いくらなんでも危険すぎるよ。前にバイソンは中学生とやりあったんだから」
「じゃあ、先にあたしが偵察してくるから、やばそうなのがいなかったら入ろう。そこで待ってて」
 僕の意思表示を待たず梨花ちゃんはゲーセンの自動ドアをくぐっていってしまった。恐れをなして逃げたら間違いなく死刑なのだろう。足元を熱気で包むコンクリートの上で、まるで僕は忠犬よろしく額に汗を浮かせながら棒立ちで彼女を待った。数分の後に、先に声をかけてきたのは別の女の子だった。
 僕の意思表示を待たず梨花ちゃんはゲーセンの自動ドアをくぐって行ってしまった。恐れをなして勝手に逃げたら間違いなく死刑なのだろう。足元を熱気で包むコンクリートの上で、僕は忠犬よろしく額に汗を滲ませて棒立ちで彼女を待った。数分の後に、先に声をかけてきたのは別の女の子だった。
「あーっ、田宮くんだ」
 大きい目を見開いて、口に手をあてて道路の反対側から千佳ちゃんが声をかけてきた。いつもより明るい色のワンピースを着て、頭にカチューシャをしている。道路の向こうで千佳ちゃんは隣に立つ両親になにかを言って、一人で道路をまたいで駆け寄ってきた。
 大きい目を丸く見開いて、道路の反対側から千佳ちゃんが声をかけてきた。明るい色のワンピースを着て、頭にカチューシャをしている。千佳ちゃんは隣に立つ両親になにかを言、一人で道路をまたいで駆け寄ってきた。
「偶然だね」
「あーうん、そうだね、本当に」
 高い声を弾ませて気さくに笑顔を振りまく千佳ちゃんとは対照的に、僕の応対はあからさまに不審者そのもので自分でも目線が泳いでいるのが判った。
「えっとね、この前の日記! とっても面白かった! 三回も読み直しちゃった」
 高い声を弾ませて気さくに笑顔を振りまく千佳ちゃんとは対照的に、僕の応対は挙動不審そのもので自分でも目線が泳いでいるのが判った。
「えっとね、この前の日記! とっても面白かった! 何度も読み返しちゃった」
「そ、そう? それは……よかった」
 実のところ、僕は交換日記になにを書いたか具体的には覚えていない。千佳ちゃんが日々繰り出す膨大な文章を打ち返すのに躍起になっていたからだ。面白いと言われれば嬉しい気もするが、よく考えたらほどほどに退屈させた方がむしろ簡単に交換日記を済ませられるのではないか。そんな邪な考えが頭をよぎった。
「ところで、田宮くんのご両親は? 私、まだ挨拶したことなくて」
 いよいよ言葉に詰まった。少なくとも両親の片方は部屋でフロッピーディスクを差し替えている。今頃はその作業も終わったと思うが、それにしてもとっくにパソコンを諦めたはずの父さんがあそこまで熱心になっていたのはなぜだろう。そんなに楽しいものがあのフロッピーディスクに入っているのなら僕にも見せてほしかった。いや、そういう願いが叶うのなら今すぐここにワープしてきてほしい。
 実のところ、僕は交換日記になにを書いたか具体的には覚えていない。千佳ちゃんが日々繰り出す膨大な文章と釣り合わせるのに必死になっていたからだ。面白いと言われれば嬉しい気もするが、よく考えたらほどほどに退屈させた方がむしろ簡単に交換日記を済ませられるのではないか。そんな邪な考えが頭をよぎった。
「ところで、田宮くんのご両親は? 私、まだ挨拶したことなくて」
 いよいよ言葉に詰まった。少なくとも両親の片方は部屋でフロッピーディスクを差し替えている。今頃はその作業も終わったと思うが、それにしてもとっくにパソコンを諦めたはずの父さんがあそこまで熱心になっていたのはなぜだろう。そんなに楽しいものがあのフロッピーディスクに入っているのなら僕にも見せてほしかった。いや、願いが叶うのなら今すぐここにテレポートしてきてほしい。
「あー、僕の父さんはそのう、あの」
 その時、背後の自動ドアが開いて梨花ちゃんが姿を現した。
「ねえ、おじさんしかいなかったよ。誰も――」
「堺さん?」
 彼女の苗字を呼ぶ千佳ちゃんの声は幾分驚きを反映していたものの、それでも寒気がするほど低い音程だった。このほど僕が理解を得たのは、女の子が発する声は我々が思っているよりずっと自由自在という事実だ。対する彼女は少し眉を釣り上げてから「ん? どちらさんだっけ?」とあくまで飄々と、しかしなんらかの圧力を弾き返そうとする意図を持った声色で応じた。
 かすかな沈黙の間に、僕はかいた汗が全部冷水に変わった気がした。夏の暑さも二人が無言で発する冷気の前には敵わない。
 彼女の苗字を呼ぶ千佳ちゃんの声は幾分驚きを反映していたものの、それでも寒気がするほど低い音程だった。このほど僕が理解を得たのは、女の子が発する声は我々が思っているよりずっと自由自在という事実だ。対する彼女は「ん? どちらさんだっけ?」とあくまで飄々と、しかしなんらかの圧力を弾き返そうとする意図を持った声色で応じた。
 わずかな沈黙の間に、かいた汗が全部冷水に変わった気がした。夏の暑さも二人が無言で発する冷気の前には敵わない。
「堺さんは田宮くんと二人で街に来ているの?」
 千佳ちゃんは取り合わず完全に問い詰める態度で鋭く声を張って訊ねた。
 千佳ちゃんは完全に問い詰める態度で鋭く声を張って訊ねた。
「うーん……いや」
 さしもの梨花ちゃんも逃げ場のないストレートな詰問に声を濁らせたが、わずか三秒のうちに有効な回答を打ち返した。
「あたしと田宮……くんのママがお茶会をしたいっていうから、この辺で遊んでなさいって言われたの」
「ああ、そうなんだ! 私、てっきり……」
 さしもの梨花ちゃんも逃げ場のないストレートな詰問に声を濁らせたが、かろうじて有効な回答をひねり出した。
「あたしと田宮……くんのママがお茶会をするから、この辺で遊んでなさいって言われたの」
 険しくなりかけた千佳ちゃんの表情が一転、花が咲いたようにぱっと明るくなる。梨花ちゃんもやや不自然に引きつった笑顔を作った。
 通りの向こうから大人の声がした。千佳ちゃんが振り返って「はーい、今行きます」と返して、二人に告げる。
「へえ、そうなんだ! 私、てっきり……」
 通りの向こうから大人の声がした。千佳ちゃんが振り返って「はーい、今行きます」と返す。別れ際には親切な忠告がもたらされた。
「でもゲームセンターは危ないから気をつけてね。田宮くんも」
「ああ……うん。どうもありがとう」
 千佳ちゃん一家が通りの角を曲がるまで目で追ってから、二人深いため息を吐いた。
 千佳ちゃん一家が通りの角を曲がるまで目で追ってから、二人して深いため息を吐いた。
「とってもいい子だね。仲良くなれそう」
 サボテンでできた惑星くらい棘のある声で彼女はそう言うと、僕の腕をむんずと掴んでゲームセンターの中に引きずっていった。
 サボテンでできた惑星くらい棘のある声で彼女はそう言うと、僕の腕をむんずと掴んでゲームセンターに引きずっていった。
 タバコの煙がもくもくとたちこめる独特の空気はゲームが好きでも一生馴染めそうにはない。シューティングゲームやアーケードゲーム、レースゲームの台が所狭しと並ぶ中で、梨花ちゃんはどれを遊ぶか決めあぐねている様子だった。無理もない。一ゲーム百円のプレイ料金は小学生には重い。どれが面白いのか判らないのにおいそれとお金は費やせない。
「ねえ、あんたはどれ遊んでるの」
 ここへきてようやく出番が巡ってきた。幸い、田舎町のゲームセンターなだけあってろくに台が入れ替わっていない。僕はいつになく堂々と言った。
 ここへきてようやく出番が巡ってきた。幸い、田舎町のゲームセンターなだけあって台はろくに入れ替わっていない。僕はいつになく堂々と言った。
「ストⅡかな、やっぱ」
 慣れた足取りで狭い通路内を突き進む僕の後を梨花ちゃんがついてくる。こんなことは今後一度もないかもしれない。
 ところが、ゲームの攻略方法を知っていても人に楽しさを教えられるとは限らないとつくづく思い知らされた。彼女はてんでゲームのセンスがなかった。CPUのダルシムが放つベタ打ちのズームパンチを一向にくぐり抜けられず負け続けることゆうに三回。たまらず交代を申し出た僕がほとんどダメージを食らわず最終面のベガ戦をあっけなく制すると、得意げな顔を晒した僕の頭に平手打ちが見舞われた。
 ところが、ゲームの攻略方法を知っていても人に楽しさを教えられるとは限らないとつくづく思い知らされた。彼女はてんでゲームの心得がなかった。CPUのダルシムが放つベタ打ちのズームパンチを一向にくぐり抜けられず負け続けることゆうに三回。たまらず交代を申し出た僕がほとんどダメージを食らわず最終面のベガ戦をあっけなく制すると、自慢げな顔を晒した僕の頭に平手打ちが見舞われた。
「いたっ」
「つまんなすぎ。もっと他のないの?」
 なかった。シューティングゲームは序盤で撃墜、レースゲームは一周目でコースアウト。現実では男の子をグーで殴り倒せるのにゲーム内では手も足も出ない。彼女は明らかに苛立ちを募らせていた。このままだと代わり僕を痛めつけて遊ぶ、という話になりかねない気を放っていた。
 やむをえず、僕は奥の手を繰り出した。むすっと唇を「へ」どころか集合記号並に曲げた彼女を先導して、二階へと上がった。雑然とぬいぐるみが積まれたUFOキャッチャーの前に立ち止まると躊躇なく二百円をなげう。梨花ちゃんは尖った目を丸くした。
 なかった。シューティングゲームは序盤で撃墜、レースゲームは一周目でコースアウト。現実では男の子をグーで殴り倒せるのにゲーム内では手も足も出ない。彼女は明らかに苛立ちを募らせていた。このままだと代わり僕を痛めつけて遊ぶ、という話になりかねない気を放っていた。
 やむをえず、僕は奥の手を繰り出した。むすっと唇を「へ」どころか集合記号並に曲げた彼女を誘導して、二階へと上がる。雑然とぬいぐるみが積まれたUFOキャッチャーの前に立ち止まると躊躇なく二百円をなげうった。梨花ちゃんは尖った目を丸くした。
「見てて、あれを獲るから」
 操作に合わせて動くクレーンを見て「あ、動いた」と彼女は言った。直線状の確信を帯びた動で目標に進むアームはまもなく指差した亀のぬいぐるみの甲羅をしかと掴み、来た経路を悠然と戻って穴の上に落とした。ごとん、と音をたてて樹脂製の壁の向こうからこちらの世界に転がってきた景品を取ると、彼女に手渡した。
 操作に合わせて動くクレーンを見て「あ、動いた」と彼女は言った。直線状の確信を帯びた動で目標に進むアームはまもなく指差した亀のぬいぐるみの甲羅をしかと掴み、来た経路を悠然と戻って穴の上に落とした。ごとん、と音をたてて樹脂製の壁のからこちらの世界に転がってきた景品を取ると、彼女に手渡した。
「あげる。良かったらだけど」
 実を言うと、この一連の動作にはかなりの修練を積んでいる。遠方から歳の離れた親戚の子から来るたびにこうやって機嫌をとっていたのだ。あえて亀のぬいぐるみを指定してみせたのも、甲羅の部分がアームにフィットしていて格段に掴みやすいためだった。この時ばかりは何年間も代わり映えしない景品を並べている街のゲーセンに感謝した。
 実を言うと、この一連の動作にはかなりの修練を積んでいる。遠方から歳の離れた親戚の子来るたびにこうやって機嫌をとっていたのだ。あえて亀のぬいぐるみを指定してみせたのも、甲羅の部分がアームにフィットしていて格段に掴みやすいためだった。この時ばかりは何年間も代わり映えしない景品を並べている街のゲーセンに感謝した。
「まあ……一応もらっておいてあげる」
 梨花ちゃんは亀の甲羅の部分を抱き締めて言った。それからはすべてが順調に進んだ。二階に陣取るメダルゲーム類は彼女に向いていたらしく、しまいには財布から取り出した千円札を丸ごとメダルに替えてしまうほどだった。「借りを作るのも癪だから」と気前よくメダルをくれたので、そのぬいぐるみはプレゼントなんだけど、とかな反駁を胸に秘めつつも二人してメダルゲームに興じた。豪勢に遊んだせいか夕方までにメダルの枚数は着実に減っていった。しかし、彼女は上機嫌を保っていた。
 梨花ちゃんは亀の甲羅の部分を抱き締めて言った。それからはすべてが順調に進んだ。二階のメダルゲームコーナーは彼女に向いていたらしく、しまいには財布から取り出した千円札をまるごとメダルに替えてしまうほどだった。「借りを作るのも癪だから」と気前よくメダルをくれたので、そのぬいぐるみはプレゼントなんだけど、とほのかな反駁を胸に秘めつつも二人してメダルゲームに興じた。豪勢に遊んだせいか夕方までにメダルの枚数は着実に減っていった。しかし、彼女は上機嫌を保っていた。
「ねえ、ちょっと」
 二階のメダルゲームを何周分も遊び尽くした辺りで、梨花ちゃんは僕を手招きして奥まった位置に置かれた機械を指差した。従業員の手製と思しきカラフルな装飾文字が周囲に施されている。やたらポップな字体で「ご期待に応えてついに新登場!」と描かれていた。
 二階のメダルゲームを何周分も遊び尽くした辺りで、梨花ちゃんは僕を手招きして奥まった位置に置かれた機械を指差した。従業員の手製と思しきカラフルな装飾文字が周囲に施されている。やたらポップな字体で『ご期待に応えてついに新登場!』と描かれていた。
「あれ、プリクラじゃない?」
「ぷりくら?」
 連想しようのない四文字のひらがなの連なりが頭に浮かんで消えた。
 連想しようのない四文字のひらがなの連なりが頭に浮かんで消えた。
「プリクラ、知らないの?」
「ウーン、知らないな……どんなゲーム?」
 彼女はふふと笑った。そういう笑い方もできるんだ、と僕は少し驚いた。
「あたしも撮ったことはないけど……やってみれば分かるよ。ほら、あたしが出すから」
 とる とるってなにを取るんだろう。UFOキャッチャーのようなものなのか……こんこんと湧き出る疑問をよそに誘われるまま、僕は外側が天幕で覆われた機械の内側に入った。上部に「プリント倶楽部」と記されていたのでこれが「ぷりくら」が略語に違いない。お金を投入した後、スピーカーから流れる甲高い音声案内に倣って梨花ちゃんがボタンを押していくと、目の前のモニタに僕と彼女の顔が映り込んだ。僕はあっと声をあげた。なんだか今日は声をあげてばかりだなと思った。
「ほら、チーズしてチーズ」
 二人の顔を取り囲むハート型の枠の下に『はい、チーズ!』とポップ体の文字が現れた。咄嗟に梨花ちゃんは顔の横にピースを掲げたが、僕は終始うろたえた表情の状態で固まり、それがそのまま写真と化して機械の下から吐き出された。やけに肌が白く見えるその写真を見て、彼女は苦笑した。
 とる とるってなにを取るんだろう。UFOキャッチャーのような代物なのか……こんこんと湧き出る疑問をよそに誘われるまま、僕は外側が天幕で覆われた機械の内側に入った。台の上部に「プリント倶楽部」と銘打たれている。これが「ぷりくら」が略語に違いない。
 お金を投入した後、スピーカーから流れる甲高い音声案内に倣って梨花ちゃんがボタンを押していくと、目の前のモニタに僕と彼女の顔が映り込んだ。僕はあっと声をあげた。
「やばっ、チーズしてチーズ」
 二人の顔を取り囲むハート型の枠の下に『はい、チーズ!』と文字が現れた。咄嗟に梨花ちゃんは顔の横にピースを掲げたが、僕は終始うろたえた状態で固まり、それがそのまま静止画と化して機械の下から吐き出された。やけに肌が白く見えるその写真を見て、彼女は苦笑した。
「捕まった人みたいだね」
 確かに、写真の中の僕はまるで罰を受けているかのようだった。
 確かに、写真の中の僕はまるで罰を受けているみたいだった。
 遅れて「ぷりくら」を「とる」という言葉の意味が、加工写真を撮ることだと理解した。
「前に来た時はこんなのなかったけどな」
「最近、東京でブームだって雑誌で読んだの。もう一回やろう。今度はちゃんとしてよ」
 彼女は「¥300」と刻まれた硬貨の投入口に百円玉をざらざらと入れて再度の写真撮影に取り組んだ。不意打ちを食らったとはいえ三百円も無駄にしてしまった恐ろしい喪失感から、僕はハート型の枠の内側でこの上なく真剣な表情を決めた。出力された写真には、にたにたと笑う彼女と真顔の僕の奇妙なコントラストが映えていた。
 彼女は『¥300』と刻まれた硬貨の投入口に百円玉をざらざらと入れて再度の写真撮影に取り組んだ。不意打ちを食らったとはいえ三百円も無駄にしてしまった恐ろしい喪失感から、僕はハート型の枠の内側でこの上なく真剣な表情を決めた。出力された写真には、にたにたと笑う彼女と真顔の僕の奇妙な共演が映えていた。
「うーん、まあ、これはこれでありかも」
 謎の納得を得た彼女は「ぷりくら」の横のテーブルに置かれた小さいハサミで写真を切り取り、紙面に並ぶ同じ写真の列のうちの半分を僕によこした。
「はい」
@ -296,21 +296,21 @@ tags: ['novel']
「来週は……ちゃんと来てよね、チャット」
 僕はうん、と答えた。実際のところは父さんの裁量次第だが、なんとなくあのフロッピーディスクは今回限りで用が済むのではないかと直感していた。
「まずい、止まって」
 わずかに先行していた彼女の歩みがはたと止まった。言われるまでもなく僕も止まらざるをえなかった。テレビでしか見たことのない渋谷のスクランブル交差点を縮小したような街の交差点の反対側に、バイソンと二人の取り巻きが立っているのが見えた。彼らはもうこちらの姿を明確に認めていて、いつ襲いかかってきてもおかしくない獰猛な笑みを湛えていた。
 数歩ぶん先行していた彼女の歩みがはたと止まった。言われるまでもなく僕も止まらざるをえなかった。テレビでしか見たことのない渋谷のスクランブル交差点を大幅に縮小したような街の交差点の反対側に、バイソンと二人の取り巻きが立っているのが見えた。彼らはもうこちらの姿を明確に捉えていて、いつ襲いかかってきてもおかしくない獰猛な笑みを湛えていた。
「どうしよう」
 僕が情けない声を漏らすと彼女は言った。
「もし、やつらがまっすぐ来たらダッシュで逃げよう」
「えっ、ぶっ飛ばしてくれるんじゃないの?」
「今はもう無理」
 休日の浮かれ気分で満ち足りた喧騒が遠のいて、そこにはバイソンと取り巻きと僕たちしかいないような気がした。信号機が、青に変わる。
 ぞろぞろと人々が交差点を往来していく最中、刹那の空白の後にバイソンたちは横にそれて移動した。獣の視線は相変わらずこちらに向けられている。彼女に手を引かれるまま、僕たちも横にずれていった。互いに平行移動しながら徐々に遠ざかっていく。さながら見えない国境線を沿って歩く兵士を彷彿させた。
 たっぷり百メートルも距離を離すとバイソンたちはくるりと背を向けた。途端に、傾いた日差しの熱や人々の声、湿った空気などが全身に舞い戻ってくる。
 ぞろぞろと人々が交差点を往来していく最中、刹那の空白の後にバイソンたちは横にそれて移動しはじめた。獣の視線は相変わらずこちらに向けられている。彼女に手を引かれるまま、僕も横にずれていった。互いに平行移動しながら徐々に遠ざかっていく。さながら見えない国境線を沿って歩く兵士を彷彿させた。
 たっぷり数十メートル単位も距離を離すとバイソンたちはくるりと背を向けた。途端に、傾いた日差しの熱や人々の声、湿った空気などが全身に舞い戻ってくる。
「さすがにこんなところで暴れるわけないか」
 梨花ちゃんがぬいぐるみを抱きしめる腕を緩めて言った。
「そんなことないよ。バイソンのやつは絡んできた中学生をこの辺りでボコしたらしい」
 梨花ちゃんがぬいぐるみを抱る腕を緩めて言った。
「そんなことないよ。バイソンのやつは絡んできた中学生をこの辺りでボコボコにしたらしい」
「又聞きにしちゃ詳しいね」
「その時は一緒にいたんだよ。僕は大人を呼びにいって、すぐに帰らされたから勝敗はらないけど……」
 思い起こしてみればそうだった。バイソンが僕をいじめだしたのはその後からだった。前はストⅡだってたまに遊んでいた。もちろん、ゲームでは一度も負けたことがなかった。
「その時は一緒にいたんだよ。僕は大人を呼びにいって、すぐに帰らされたから勝敗はらないけど……」
 思い起こしてみればそうだった。バイソンが僕をいじめだしたのはその後からだった。前はストⅡだってたまに遊んでいた。もちろん、彼の使うM・バイソンには一度だって負けたことはなかった。
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