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Rikuoh Tsujitani 2023-10-10 22:24:17 +09:00
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 そんな彼女と出会ったのは、などと頭の片隅で回想を並走させながら、僕は鞭で打つようなぴしゃりとした声に急かされて胸を張る彼女に聴診器をあてがった。すると、耳に伝わってきたのは意外にもか細い心臓の鼓動だった。驚いて目を上げると尊大そうな一文字の口元が映ったが、やはり心拍は弱々しかった。
「ちょっと、なんとか言ったらどうなの」
 片耳で微かな鼓動、もう片方の耳で鞭で打つような声を聴いた刹那に、僕はどうしようもなく形容しがたい感情に侵された。答えあぐねているうちにその子は「あーもういい!」と座った時と同じ勢いで立ちあがり、ずかずかと遠ざかっていった。まだ僕はなんらかの未知の感情に侵襲された感覚を味わっていて、我に返ったのは千佳ちゃんに「ねえ、大丈夫?」と声をかけられた時だった。
 ほどなくして千佳ちゃんの心臓の音も聴くと、たちまち力強い和太鼓のごとき響鳴が頭蓋を満たした。目をやると彼女は鮮やかな緑のスカートの両端を手でぎゅっと掴んで、恥ずかしげに笑みを浮かべている。なぜだか僕はこの瞬間、千佳ちゃんに対する関心が薄れていくのを感じた。
 ほどなくして千佳ちゃんの心臓の音も聴くと、たちまち力強い和太鼓のごとき響鳴が頭蓋を満たした。目をやると彼女は鮮やかな緑のスカートの両端を手でぎゅっと掴んで、恥ずかしげに笑みを浮かべている。なぜだか僕はこの瞬間、千佳ちゃんに対する関心が急速に薄れていくのを感じた。
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「教室の隅でこれみよがしに難しい本を読むような感じ」
「そんなつもりは……そもそもあの辺には誰も人なんて来たことなかったんだよ。ましてやあいつらが来るなんてありえなかった。いつもゲーセンに入り浸ってるのに」
 そう、あの日以来、またぞろバイソンたちが襲ってくるのではと怯えて僕は先週インターネットをやっていない。彼らが山あいに来た時に僕の姿がなければ、まさか毎週いるとは思われないだろう。二週間前に保存したウェブページをちまちまと控えめに閲覧するのは、なんだか父さんがタバコを半分に切って一本分のつもりで吸っている様子と被って嫌な気持ちになる。でもしょうがない。母さんは口うるさく言っている。「不景気だから貯金しないと」とは言うものの、僕の「貯金」はもはやからっけつだ。
「知らないの? いま先生とかPTAの人とかが街を見回ってるんだよ。特にゲーセンは親と一緒じゃないと小学生は禁止だって」
 知らなかった。ストⅡの全キャラクリアが間に合ってよかった。ゲーム機を許されていない僕がやれるゲームといったら街のゲーセンにある限られたゲームぐらいだ。以前は一体いつになったらⅢに入れ替わるのかとやきもきしていたが、今となっては割とどうでもいい。だから事実上の「ゲーセン禁止」を寝耳に水の形で知らされても思いのほかショックは少なかった。
「知らないの? だいぶ前から先生とかPTAの人とかが街を見回ってるんだよ。特にゲーセンは物騒だから親と一緒じゃないと小学生は禁止だって」
 知らなかった。ストⅡの全キャラクリアが間に合ってよかった。ゲーム機を許されていない僕がやれるゲームといったら街のゲーセンにある限られたゲームぐらいだ。以前は一体いつになったらⅢに入れ替わるのかとやきもきしていたが、今となっては割とどうでもいい。親戚の子にせがまれてごくたまに行くぐらいだ。だから事実上の「ゲーセン禁止」を寝耳に水の形で知らされても思いのほかショックは少なかった。
 予鈴が鳴ると、彼女は紙片を押しつけて新しい日時を指定した。
「じゃあ、日曜日の午後一時にアクセスして。来なかったら殺すから」
 押しつけられた紙片を裏返すと千佳ちゃんの書いた日記が載っている部分だった。表の方にはでかでかとURLが書かれているため、僕のぶんの日記を書くこともできない。しかも、紙片は一枚まるごとではなく斜めに袈裟切りで破られていた。僕は千佳ちゃんの日記をまだ読んでいない。
@ -184,140 +184,137 @@ tags: ['novel']
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 そういえば、こんな日もあった。いつものように外出の準備を始めると定位置に置かれてあったノートパソコンが失くなっていたのだ。居間にもなく、自室にもない。もしやと思って父さんの部屋を覗くと、机の上に積まれた大量のフロッピーディスクの横にそれが見えた。父さんは懸命にそのフロッピーディスクを抜き差ししていて、僕が部屋に入ってきたのに気づくと大げさに驚いた。
「おいっ、なんで部屋に入ってくるんだ」
 そういえば、こんな日もあった。いつものように外出の準備を始めると定位置に置かれてあったノートパソコンが失くなっていたのだ。居間にもなく、自室にもない。もしやと思って父さんの部屋を覗くと、机の上に積まれた大量のフロッピーディスクの隣にあった。父さんは懸命にそのフロッピーディスクを抜き差ししていて、僕が部屋に入ってきたのに気づくと大げさに驚いた。
あっ、おいっ、なんで部屋に入ってくるんだ」
「いや、あの……パソコンを使いたくて」
「今日はだめだ」
 父さんはきっぱりと言って何枚目かのフロッピーディスクを抜いて脇に置き、また積まれた山のてっぺんの一枚を手に取った。
 本当のことは言えない。でも、今日は特にパソコンが必要な日だった。なぜなら休日であり、日曜日であり、すなわち梨花ちゃんとの待ち合わせをすっぽかすわけにはいかないからだ。今まで一度も行かなかったことはないが、彼女の言によると約束を破ったら殺される手はずになっている。結局、うまい説得は思いつかずに子どもっぽい駄々だけが口から漏れた。
「どうしても使いたいんだけど……」
「どうしてだ。別に明日でも明後日でもいいだろう」
 本当の理由は言えない。でも、今日は特にパソコンが必要な日だった。なぜなら休日であり、日曜日であり、すなわち梨花ちゃんとの待ち合わせの日だからだ。彼女の言によると約束を破ったら殺される手はずになっている。結局、うまい説得は思いつかずに子どもっぽい駄々だけが口から漏れた。
「えー……」
 父さんはじれったそうに振り返って、片手でフロッピーディスクを入れ替えながら追い打ちをかけた。
 父さんはじれったそうに振り返って、片手でフロッピーディスクを入れ替えながら無慈悲に告げた。
「いつもみたいに外で遊んでいればいいじゃないか。そうだ、そうしなさい」
 どうやら、なにがなんでも僕を家から追い出したいようだった。僕はノートパソコンを持たず、財布とパソコン雑誌だけが詰め込まれた虚無のリュックを手に灼熱の太陽の下へと放逐された。
 どちらにせよ行くあてのない足は半ば習慣的に山あいへと向かう。いつもよりだいぶ軽いリュックに沈んだ気持ちを背と腹に抱えながら、むせ返るような土と木の匂いが立ち込める森林に入って、いつもの電話ボックスの中に腰を落ち着けた。変わらずそこに鎮座するグレーの公衆電話は、宇宙船に乗らずして現れた僕にワープゲートの入場口を固く閉ざしている。
 やむをえずリュックを開けて比較的読み込んでいない号の再読を始めた。やがて約束の時間が訪れて、淡々と五分が過ぎ、十分が過ぎた。パソコンの前で静かに怒りを燃やす梨花ちゃんの顔が浮かんだ。殺すと言ってもまさか本当に文字通り殺されはしないと思うが、どつかれる覚悟くらいはした方がいいかもしれない。
 三十分が過ぎた頃、何の前触れなくどん、と電話ボックスが叩かれたので僕はパソコン雑誌から顔をあげた。最初は全然集中できなかったが、いざ腹をくくると妙に気持ちが落ち着いて集中できるようになっていた。それが梨花ちゃんの顔――普段は一文字に結ばれた口元がへの字に曲がっている――を目の当たりにするやいなや、急速に萎んでいって僕は雑誌を投げ出してボックスの隅に身を縮めた。まもなくドアが開けられて、湿った空気とともに彼女が踏み込んできた。
 どうやら、なにがなんでも僕を家から追い出したいようだった。こうして僕はノートパソコンを持たず、財布とパソコン雑誌だけが詰め込まれた虚無のリュックを手に灼熱の太陽の下へと放逐された。
 行くあてのない足は半ば習慣的に山あいに向く。いつもより大幅に軽いリュックと沈んだ気持ちを抱えながら、むせ返る土と木の匂いがする森林に入って、グレーの電話ボックスの中に腰を落ち着けた。変わらずそこに鎮座する公衆電話は、宇宙船に乗らずして現れた僕にワープゲートの入場口を固く閉ざしている。恨めしげに睨んでもこればかりはどうにもならない
 やむをえずリュックを開けて比較的読み込んでいない号の再読を始めた。やがて約束の時間が訪れて、淡々と五分が過ぎ、十分が過ぎた。パソコンの前で静かに怒りを燃やす梨花ちゃんの顔が浮かんだ。殺すと言ってもまさか文字通り殺されはしないと思うが、どつかれる覚悟くらいはした方がいいかもしれない。
 三十分が過ぎた頃、前触れなくどん、と電話ボックスが叩かれたので僕はパソコン雑誌から顔をあげた。最初は全然集中できなかったが、いざ腹をくくると妙に気持ちが落ち着いて読み進められた。それが梨花ちゃんの顔――普段は一文字に結ばれた口元がへの字に曲がっている――を目の当たりにするやいなや、たちまち僕は雑誌を投げ出してボックスの隅に身を縮めた。まもなくドアが開けられて、湿った空気とともに彼女が踏み込んできた。
「とりあえず殺すつもりだけど一応言い訳を聞いてあげる」
 電話ボックスの中央で仁王立ちになった彼女による、死刑前提の人民裁判が始まった。
 電話ボックスの中央で仁王立ちになった彼女による、死刑前提の人民裁判が幕を開けた。
「……父さんにノートパソコンを取られちゃったんだ。もともと僕のじゃないって言ったろ」
 おそるおそる抗弁を述べると、彼女は片方の眉を釣り上げてふうん、と唸った。
「わざとすっぽかしたとか忘れてたわけじゃあないって言いたいわけね。まあ、ここには来てたわけだし……けど
 妙に芝居がかった声色でぐるりと電話ボックスを見回すと、急に手を伸ばして僕の腕を掴んだ。やはり、死刑か。
 おそるおそる口上を述べると、彼女は片方の眉を釣り上げてふうん、と唸った。
「わざとでも忘れてたわけでもないって言いたいわけね。まあ、ここには来てたわけだし……まだぎりぎり間に合うかな
 妙に芝居がかった声色で腕時計を見やると、急に手を伸ばして僕の腕を掴んだ。やはり、死刑か。
「どうせ暇でしょ。街に行こう」
「え!」
 梨花ちゃんに引っ張り上げられる形で立ち上がりつつ僕は変な声を出した。
「えーっ!」
 梨花ちゃんに引っ張り上げられながら僕は変な声を出した。
「なに、約束を破ったくせに埋め合わせもしないつもりなの?」
「でも街って子どもだけで行ったらいけないんじゃ……バイソンとかもいるし……」
 もじもじしていると彼女は胸を張って自慢げに言い切った。
「あたし、見かけは中学生に見えるってよく言われるんだ。やつらと鉢合ったらまたぶっ飛ばすよ」
 引きずられるようにして反対側の街に赴く道すがら、僕たちの会話はあまり弾まなかった。時々、降り注ぐ陽の光の熱さに文句を言って、飲み物を持ってこなかったことに文句を言って、他にも親のこととか、学校の規則とか、あらかた文句を言い尽くすと彼女はだんだん口数が少なくなって、ただ応じていた僕も次第に口を閉ざした。
 インターネットを通じて会話をしている時はニ時間あっても全然足りないくらい大はしゃぎできるのに、現実では会話の糸口がてんで見つからない。ずんずんと堂々たる足取りで進む彼女の影に入り込むような形で後をついていくしかなかった。
 幸いにも、街に辿り着いて休日の賑わいに紛れると梨花ちゃんの口数はにわかに復活した。僕の手をぐいぐい引っ張って入った書店の少女漫画コーナーで、あれやこれやと物語のあらすじを語りだした。錆びかかった歯車に油が染み込んだかのように、そのおかげで僕も会話の調子を取り戻した。
 目当ての漫画本を手に入れてご満悦の彼女は、通りかかった店の前でいきなり立ち止まった。でも、たぶん僕もいずれ立ち止まっていたに違いない。そこはゲームセンターだった。ニ階建ての手狭な店で、ビルを貸し切ったような大都会のそれとは及びもつかないが、市内の子どもたちにとってはこれが身近で唯一の娯楽施設だ。うっかり気を抜いていた僕もついに恐怖心を思い出した。
まずいよ、ここはバイソンたちがいつもいるんだ。早く離れよう」
 おろおろしていると彼女は胸を張って自慢げに言い切った。
「あたし、中学生に見えるってよく言われるんだ。やつらと鉢合ったらまたぶっ飛ばすよ」
 反対側の街に赴く長い道すがら、僕たちの会話はあまり弾まなかった。時折、降り注ぐ太陽の光の熱さに文句を言って、飲み物を持ってこなかったことに文句を言って、他にも親のこととか、学校の規則とか、あらかたの物事に文句を言い尽くすと彼女はだんだん口数が少なくなって、ただ応じていた僕もおのずと口を閉ざした。
 インターネットを通している時はニ時間あっても全然足りないくらい大はしゃぎできるのに、現実では会話の糸口がてんで見つからない。ずんずんと堂々たる足取りで進む彼女の影に入り込むようにして、ひたすら後をついていくしかなかった。
 幸いにも、街に辿り着いて雑踏に紛れると梨花ちゃんの口数はにわかに復活した。まずは二人して自販機でジュースを買って飲んだ。それから僕の手を引っ張って入った書店の少女漫画コーナーで、あれやこれやと物語のあらすじを教えてくれた。錆びついた歯車に油が染み込むように、おかげで僕も会話の調子を取り戻した。
 目当ての漫画本を手に入れて上機嫌の彼女は、通りかかった店の前でいきなり立ち止まった。見上げると、そこはゲームセンターだった。ニ階建ての手狭な店で、ビルを貸し切ったような大都会のそれとは及びもつかないが、市内の子どもたちにとってはここが手に届く唯一の娯楽施設だ。うっかり気を抜いていた僕はそこでようやく恐怖心を思い出した。
バイソンたちがいるかもしれない。早く離れよう」
「へえ、でもあたしは入ってみたいな。一度も行ったことないし」
 僕はぶんぶんと首を振った。執行猶予中の身でも抗弁の権利はある。
「いくらなんでも危険すぎるよ。前にバイソンのやつは中学生とやりあったんだから」
「じゃあ、まずあたしが偵察するから、やばそうなのがいなかったら入ろう。そこで待ってて」
 僕の意思表示を待たず梨花ちゃんはゲーセンの自動ドアをくぐって硝煙の立ち込める世界に溶け込んでいった。ここで逃げたら間違いなく死刑なのだろう。足元を熱気で包むコンクリートの上で、まるで僕は忠犬よろしく佇まいで額に汗を浮かせながら彼女を待った。けれども、先に声をかけてきた女の子は彼女ではなかった。
「いくらなんでも危険すぎるよ。前にバイソンは中学生とやりあったんだから」
「じゃあ、先にあたしが偵察してくるから、やばそうなのがいなかったら入ろう。そこで待ってて」
 僕の意思表示を待たず梨花ちゃんはゲーセンの自動ドアをくぐっていってしまった。恐れをなして逃げたら間違いなく死刑なのだろう。足元を熱気で包むコンクリートの上で、まるで僕は忠犬よろしく額に汗を浮かせながら棒立ちで彼女を待った。数分の後に、先に声をかけてきたのは別の女の子だった。
「あーっ、田宮くんだ」
 大きい目を見開いて、口に手をあてて道路の反対側から声をかけてきたのは千佳ちゃんだった。いつもより明るい色のワンピースを着て、頭にカチューシャをしている。道路の向こうで千佳ちゃんは両脇に立つ両親になにかを告げた後、一人で道路をまたいで近寄ってきた。
奇遇だね」
 大きい目を見開いて、口に手をあてて道路の反対側から千佳ちゃんが声をかけてきた。いつもより明るい色のワンピースを着て、頭にカチューシャをしている。道路の向こうで千佳ちゃんは隣に立つ両親になにかを言って、一人で道路をまたいで駆け寄ってきた。
偶然だね」
「あーうん、そうだね、本当に」
 高い声を弾ませて気さくに話しかける千佳ちゃんと対照的に、僕の応対はあからさまに不審者感が丸出しで自分でも目線が泳いでいるのが判った。
 高い声を弾ませて気さくに笑顔を振りまく千佳ちゃんとは対照的に、僕の応対はあからさまに不審者そのもので自分でも目線が泳いでいるのが判った。
「えっとね、この前の日記! とっても面白かった! 三回も読み直しちゃった」
「そ、そう? それは……よかった」
 実のところ、僕は交換日記になにを書いたか具体的にはあまり覚えていない。千佳ちゃんが日々繰り出す膨大な文章を打ち返すのに躍起になっていたからだ。面白いと言われれば嬉しい気もするが、よく考えたらほどほどに退屈させる方がむしろ簡単に日記を済ませられるのではないか。そんな邪な考えが頭をよぎった。
 実のところ、僕は交換日記になにを書いたか具体的には覚えていない。千佳ちゃんが日々繰り出す膨大な文章を打ち返すのに躍起になっていたからだ。面白いと言われれば嬉しい気もするが、よく考えたらほどほどに退屈させた方がむしろ簡単に交換日記を済ませられるのではないか。そんな邪な考えが頭をよぎった。
「ところで、田宮くんのご両親は? 私、まだ挨拶したことなくて」
 いよいよ言葉に詰まった。少なくとも両親の片方は部屋でフロッピーディスクを差し替えている。今頃はその作業も終わったと思うが、それにしてもとっくにパソコンを諦めたはずの父さんがあそこまで熱心になっていたのはなぜだろう。そんなに楽しいものがあのフロッピーディスクに入っているのなら僕にも見せてほしかった。いや、そういう願いが叶うのなら今すぐここにワープしてきてほしい。
 いよいよ言葉に詰まった。少なくとも両親の片方は部屋でフロッピーディスクを差し替えている。今頃はその作業も終わったと思うが、それにしてもとっくにパソコンを諦めたはずの父さんがあそこまで熱心になっていたのはなぜだろう。そんなに楽しいものがあのフロッピーディスクに入っているのなら僕にも見せてほしかった。いや、そういう願いが叶うのなら今すぐここにワープしてきてほしい。
「あー、僕の父さんはそのう、あの」
 その時、背後の自動ドアが開いて梨花ちゃんが姿を現した。
「ねえ、おじさんしかいなかったよ。誰も――」
「堺さん?」
 彼女の苗字を呼ぶ千佳ちゃんは幾分驚きに包まれていたものの、それでも寒気を覚えるほど低い音程だった。このほど僕が理解を得たのは、女の子が発する声は我々が思っているよりずっと自由自在という事実だ。対する彼女は少し眉を釣り上げてから「ん? どちらさんだっけ?」とあくまで飄々と、しかしなんらかの圧力を弾き返そうとする意図を持った声色で応じた。
 一瞬の沈黙の間に、僕はかいた汗が全部冷水に変わったと錯覚を覚えた。夏の暑さも二人が無言で発する冷気の前には敵わない。
「堺さんは田宮くんと二人で街に来ていの?」
 彼女の苗字を呼ぶ千佳ちゃんの声は幾分驚きを反映していたものの、それでも寒気がするほど低い音程だった。このほど僕が理解を得たのは、女の子が発する声は我々が思っているよりずっと自由自在という事実だ。対する彼女は少し眉を釣り上げてから「ん? どちらさんだっけ?」とあくまで飄々と、しかしなんらかの圧力を弾き返そうとする意図を持った声色で応じた。
 かすかな沈黙の間に、僕はかいた汗が全部冷水に変わった気がした。夏の暑さも二人が無言で発する冷気の前には敵わない。
「堺さんは田宮くんと二人で街に来ていの?」
 千佳ちゃんは取り合わず完全に問い詰める態度で鋭く声を張って訊ねた。
「うーん……いや」
 さしもの梨花ちゃんも逃げ場のないストレートな詰問にわずかに声を濁らせたが、わずか二秒のうちに有効な回答を絞り出した。
 さしもの梨花ちゃんも逃げ場のないストレートな詰問に声を濁らせたが、わずか三秒のうちに有効な回答を打ち返した。
「あたしと田宮……くんのママがお茶会をしたいっていうから、この辺で遊んでなさいって言われたの」
「ああ、そうなんだ。私、てっきり
 険しくなりかけた千佳ちゃんの表情が、花が咲いたようにぱっと明るくなる。つられて、梨花ちゃんもやや不自然な引きつった笑顔を作った。
「ああ、そうなんだ! 私、てっきり……
 険しくなりかけた千佳ちゃんの表情が一転、花が咲いたようにぱっと明るくなる。梨花ちゃんもやや不自然に引きつった笑顔を作った。
 通りの向こうから大人の声がした。千佳ちゃんが振り返って「はーい、今行きます」と返して、二人に告げる。
「でもゲームセンターは危ないから気をつけてね。田宮くんも」
「ああ……うん。どうもありがとう」
 足早に立ち去っていく千佳ちゃんが通りの角を曲がるまで目で追ってから、は深いため息を吐いた。
 千佳ちゃん一家が通りの角を曲がるまで目で追ってから、二人は深いため息を吐いた。
「とってもいい子だね。仲良くなれそう」
 サボテンでできた惑星くらい棘のある声で彼女はそう言うと、僕の腕をむんずと掴んでゲームセンターの中に引きずっていった。
 タバコの煙がもくもくと立ち込める独特の空気はゲームが好きでも一生慣れそうにはない。シューティングゲームやアーケードゲーム、レースゲームの台が所狭しと並ぶ中で、意外にも梨花ちゃんはどれを遊ぶが決めあぐねている様子だった。無理もない。一ゲーム百円のプレイ料金は小学生には重い。どれが面白いのか判らないのにおいそれとお金は賭けられない。
 タバコの煙がもくもくとたちこめる独特の空気はゲームが好きでも一生馴染めそうにはない。シューティングゲームやアーケードゲーム、レースゲームの台が所狭しと並ぶ中で、梨花ちゃんはどれを遊ぶか決めあぐねている様子だった。無理もない。一ゲーム百円のプレイ料金は小学生には重い。どれが面白いのか判らないのにおいそれとお金は費やせない。
「ねえ、あんたはどれ遊んでるの」
 ここへきて、ようやく僕の出番が巡ってきた。幸い、こんな田舎町のゲームセンターは僕が足を洗った時からほとんど台が変わっていない。僕がいつになく堂々と言った。
 ここへきてようやく出番が巡ってきた。幸い、田舎町のゲームセンターなだけあってろくに台が入れ替わっていない。僕はいつになく堂々と言った。
「ストⅡかな、やっぱ」
 慣れた足取りで狭い通路内を進む僕の後を梨花ちゃんがついてくる。こんなことって今後は滅多にないかもしれない。
 ところが、ゲームの攻略方法をよく知っていても素人に楽しさを教えられるとは限らないとたちまち思い知らされた。彼女はてんで格闘ゲームのセンスがなかった。CPUのダルシムが放つベタ打ちのズームパンチを一向にくぐり抜けられず。負け続けることゆうに三回。腹立ち紛れに台を蹴飛ばしてから勢いよく立ち上がった。
「あーっ、つまんなすぎ、もっと他のないの」
 悪い予感は当たった。シューティングゲームは序盤で撃墜、レースゲームは一周目でコースアウト。現実では男の子をグーで殴り倒せるのにゲーム内ではボコボコにされて手も足も出ない。彼女は明らかに苛立ちを募らせていた。このままだと代わりに僕でストレスを解消する、という話になりかねない雰囲気を放ちつつあった。
 たまらず、僕は奥の手を繰り出した。むすっと唇を「へ」どころか集合記号並に曲げた彼女を先導して、二階へと上がった。雑然とぬいぐるみが積まれたUFOキャッチャーの前に立ち止まると躊躇なく二百円を擲つ。梨花ちゃんは尖った目を丸くした。
 慣れた足取りで狭い通路内を突き進む僕の後を梨花ちゃんがついてくる。こんなことは今後一度もないかもしれない。
 ところが、ゲームの攻略方法を知っていても人に楽しさを教えられるとは限らないとつくづく思い知らされた。彼女はてんでゲームのセンスがなかった。CPUのダルシムが放つベタ打ちのズームパンチを一向にくぐり抜けられず。負け続けることゆうに三回。たまらず交代を申し出た僕がほとんどダメージを食らわず最終面のベガ戦をあっけなく制すると、得意げな顔を晒した僕の頭に平手打ちが見舞われた。
「いたっ」
「つまんなすぎ。もっと他のないの?」
 なかった。シューティングゲームは序盤で撃墜、レースゲームは一周目でコースアウト。現実では男の子をグーで殴り倒せるのにゲーム内では手も足も出ない。彼女は明らかに苛立ちを募らせていた。このままだと代わり僕を痛めつけて遊ぶ、という話になりかねない怒気を放っていた。
 やむをえず、僕は奥の手を繰り出した。むすっと唇を「へ」どころか集合記号並に曲げた彼女を先導して、二階へと上がった。雑然とぬいぐるみが積まれたUFOキャッチャーの前に立ち止まると躊躇なく二百円をなげうつ。梨花ちゃんは尖った目を丸くした。
「見てて、あれを獲るから」
 操作に合わせてぐいーんと動くクレーンを見て「あ、動いた」と彼女は言った。直線状の確信を帯びた挙動で目標に進むアームはまもなく指差した亀のぬいぐるみの甲羅をしかと掴み、来た経路を悠然と戻って穴の上に落とした。ごとん、と音をたてて樹脂製の壁からこちらの世界に転がってきた「あれ」を取ると、彼女に手渡した。
 操作に合わせて動くクレーンを見て「あ、動いた」と彼女は言った。直線状の確信を帯びた挙動で目標に進むアームはまもなく指差した亀のぬいぐるみの甲羅をしかと掴み、来た経路を悠然と戻って穴の上に落とした。ごとん、と音をたてて樹脂製の壁の向こうからこちらの世界に転がってきた景品を取ると、彼女に手渡した。
「あげる。良かったらだけど」
 実を言うと、この一連の動作にはかなりの修練を積んでいる。遠方から歳の離れた親戚の子から来るたびにうやって機嫌をとっていたのだ。あえて亀のぬいぐるみを指定してみせたのも、甲羅の部分がアームとうまくフィットしていて格段に掴みやすいためだった。この時ばかりは何年間も代わり映えしない景品を並べる街のゲーセンに感謝した。
 実を言うと、この一連の動作にはかなりの修練を積んでいる。遠方から歳の離れた親戚の子から来るたびにうやって機嫌をとっていたのだ。あえて亀のぬいぐるみを指定してみせたのも、甲羅の部分がアームフィットしていて格段に掴みやすいためだった。この時ばかりは何年間も代わり映えしない景品を並べている街のゲーセンに感謝した。
「まあ……一応もらっておいてあげる」
 梨花ちゃんは亀の甲羅の部分を抱き締めながら言った。それからはすべてが順調に進んだ。二階に並ぶメダルゲーム類は彼女に向いていたらしく、ついには財布から取り出した千円札を丸ごとメダルに替えてしまうほどだった。「借りを作るのも癪だから」と気前よくメダルをくれたので、そのぬいぐるみはプレゼントなんだけど、と微かな反駁を胸に秘めつつも二人してメダルゲームに興じた。享楽的に遊んだせいか夕方までにメダルの枚数は順調に減っていった。それでも、彼女は上機嫌を保っていた。
 梨花ちゃんは亀の甲羅の部分を抱き締めて言った。それからはすべてが順調に進んだ。二階に陣取るメダルゲーム類は彼女に向いていたらしく、しまいには財布から取り出した千円札を丸ごとメダルに替えてしまうほどだった。「借りを作るのも癪だから」と気前よくメダルをくれたので、そのぬいぐるみはプレゼントなんだけど、と微かな反駁を胸に秘めつつも二人してメダルゲームに興じた。豪勢に遊んだせいか夕方までにメダルの枚数は着実に減っていった。しかし、彼女は上機嫌を保っていた。
「ねえ、ちょっと」
 二階のメダルゲームを遊び尽くした辺りで、梨花ちゃんは僕手招きして奥まった位置に置かれた機械を指差した。従業員の手製と思しきカラフルな装飾文字が周囲に施されている。やたらとポップなそれは「ご期待に応えてついに登場!」と描かれていた。
 二階のメダルゲームを何周分も遊び尽くした辺りで、梨花ちゃんは僕手招きして奥まった位置に置かれた機械を指差した。従業員の手製と思しきカラフルな装飾文字が周囲に施されている。やたらポップな字体で「ご期待に応えてついに新登場!」と描かれていた。
「あれ、プリクラじゃない?」
「ぷりくら?」
 まるで連想のしようのない四文字のひらがなの羅列が頭に浮かんで消えた。
 連想のしようのない四文字のひらがなの連なりが頭に浮かんで消えた。
「プリクラ、知らないの?」
「ウーン、知らないな……どんなジャンルのゲーム?」
 彼女はふふと笑った。そういう笑い方もできるのか、と僕はちょっと驚いた。
「私も撮ったことはないけど……一緒に入ってみれば分かるよ」
 とる とるって何を取るんだろう。UFOキャッチャーのようなものなのか……湧き出す疑問をよそに誘われるまま、僕は外側が赤い天幕で覆われた機械の内側に入った。台の上部に「プリント倶楽部」と記されていたのでこれが「ぷりくら」が略語であることが察せられた。お金を投入した後、梨花ちゃんが記憶を探るような不安定な手つきでボタンを押すと、目の前のモニタに僕と彼女の顔が映り込んだ。僕はあっと声をあげた。なんか今日は声をあげてばかりだなと思った。
「ほら、ポーズしてポーズ」
 
「ウーン、知らないな……どんなゲーム?」
 彼女はふふと笑った。そういう笑い方もできるんだ、と僕は少し驚いた。
「あたしも撮ったことはないけど……やってみれば分かるよ。ほら、あたしが出すから」
 とる とるってなにを取るんだろう。UFOキャッチャーのようなものなのか……こんこんと湧き出る疑問をよそに誘われるまま、僕は外側が天幕で覆われた機械の内側に入った。上部に「プリント倶楽部」と記されていたのでこれが「ぷりくら」が略語に違いない。お金を投入した後、スピーカーから流れる甲高い音声案内に倣って梨花ちゃんがボタンを押していくと、目の前のモニタに僕と彼女の顔が映り込んだ。僕はあっと声をあげた。なんだか今日は声をあげてばかりだなと思った。
「ほら、チーズしてチーズ」
 二人の顔を取り囲むハート型の枠の下に『はい、チーズ!』とポップ体の文字が現れた。咄嗟に梨花ちゃんは顔の横にピースを掲げたが、僕は終始うろたえた表情の状態で固まり、それがそのまま写真と化して機械の下から吐き出された。やけに肌が白く見えるその写真を見て、彼女は苦笑した。
「捕まった人みたいだね」
 確かに、写真の中の僕はまるで罰を受けているかのようだった。
 遅れて「ぷりくら」を「とる」という言葉の意味が、加工写真を撮ることだと理解した。
「前に来た時はこんなのなかったけどな」
「最近、東京でブームだって雑誌で読んだの。もう一回やろう。今度はちゃんとしてよ」
 彼女は「¥300」と刻まれた硬貨の投入口に百円玉をざらざらと入れて再度の写真撮影に取り組んだ。不意打ちを食らったとはいえ三百円も無駄にしてしまった恐ろしい喪失感から、僕はハート型の枠の内側でこの上なく真剣な表情を決めた。出力された写真には、にたにたと笑う彼女と真顔の僕の奇妙なコントラストが映えていた。
「うーん、まあ、これはこれでありかも」
 謎の納得を得た彼女は「ぷりくら」の横のテーブルに置かれた小さいハサミで写真を切り取り、紙面に並ぶ同じ写真の列のうちの半分を僕によこした。
「はい」
「これ、どうするの?」
「ノートに貼ったりするらしいよ」
「そういうものなのか」
 ゲームセンターの眩い照明を受けて、ただでさえ白い肌をした写真の中の僕たちがいっそう輝いて見えた。
 午後五時を過ぎ、夏の長い夕方でも子どもが街にいるのは体裁が悪い時刻になった。ぬいぐるみを抱えながら通りを歩く彼女は、さすがに遊び疲れたのか僕でも追い越せそうな歩幅で伸びる自分の影の後を追っている。
「来週は……ちゃんと来てよね、チャット」
 僕はうん、と答えた。実際のところは父さんの裁量次第だが、なんとなくあのフロッピーディスクは今回限りで用が済むのではないかと直感していた。
「まずい、止まって」
 わずかに先行していた彼女の歩みがはたと止まった。言われるまでもなく僕も止まらざるをえなかった。テレビでしか見たことのない渋谷のスクランブル交差点を縮小したような街の交差点の反対側に、バイソンと二人の取り巻きが立っているのが見えた。彼らはもうこちらの姿を明確に認めていて、いつ襲いかかってきてもおかしくない獰猛な笑みを湛えていた。
「どうしよう」
 僕が情けない声を漏らすと彼女は言った。
「もし、やつらがまっすぐ来たらダッシュで逃げよう」
「えっ、ぶっ飛ばしてくれるんじゃないの?」
「今はもう無理」
 休日の浮かれ気分で満ち足りた喧騒が遠のいて、そこにはバイソンと取り巻きと僕たちしかいないような気がした。信号機が、青に変わる。
 ぞろぞろと人々が交差点を往来していく最中、刹那の空白の後にバイソンたちは横にそれて移動した。獣の視線は相変わらずこちらに向けられている。彼女に手を引かれるまま、僕たちも横にずれていった。互いに平行移動しながら徐々に遠ざかっていく。さながら見えない国境線を沿って歩く兵士を彷彿させた。
 たっぷり百メートルも距離を離すとバイソンたちはくるりと背を向けた。途端に、傾いた日差しの熱や人々の声、湿った空気などが全身に舞い戻ってくる。
「さすがにこんなところで暴れるわけないか」
 梨花ちゃんがぬいぐるみを抱きしめる腕を緩めて言った。
「そんなことないよ。バイソンのやつは絡んできた中学生をこの辺りでボコしたらしい」
「又聞きにしちゃ詳しいね」
「その時は一緒にいたんだよ。僕は大人を呼びにいって、すぐに帰らされたから勝敗は判らないけど……」
 思い起こしてみればそうだった。バイソンが僕をいじめだしたのはその後からだった。前はストⅡだってたまに遊んでいた。もちろん、ゲームでは一度も負けたことがなかった。
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 悲劇は突然やってきた。担任の先生が普段の調子で帰りの会を早じまいさせようとしたところ、がらがらと教室の引き戸が開いて別の先生が入ってきた。ずんぐりとした体型に似合わず、黒板を引っ掻いたような甲高い声が特徴の風紀指導担当教員だ。不意の闖入者に担任の先生も少々驚いた様子だったが、すぐに彼女が持ち前の声で要件を高らかに伝えた。
 悲劇は突然に訪れた。担任の先生が普段の調子で帰りの会を早じまいさせようとしたところ、がらがらと教室の引き戸が開いて別の先生が入ってきた。ずんぐりとした体型に似合わず、黒板を引っ掻いたような甲高い声が特徴の風紀指導担当教員だ。不意の闖入者に担任の先生も少々驚いた様子だったが、すぐに彼女が持ち前の声で要件を高らかに伝えた。
「本日は風紀指導について、古井さんからとても重要なお話があるそうです。皆さん静かに聞きましょう」
 キーッキーッとした音が総体としては明瞭に日本語の意味を持つのは今もって不思議な感覚だ。言われるまでもなく教室全体に逆らいがたい重圧が立ちこめた。
 担任の先生が遠慮がちに言った。
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 指名された千佳ちゃんがすっと立ちあがった。総合室でのもじもじした態度が嘘みたいに決意が全身に張り詰めていた。
「ここ最近、六年生の校則違反には目に余るところがあります。下級生の模範となるべき最上級生の私たちには特にあってはならないことです」
 持って回った話しぶりから、千佳ちゃんの演説が即興ではなく事前の準備を経たものであることがうがかえた。
「まず一つ目は先月に決められたゲームセンターの利用制限ですが、先生やPTA役員の方々にお骨折り頂いているにもかかわらず、今でもご両親の同伴なく立ち寄っている子たちがいます。たとえば、私たち二組では梶くんと尾野くん」
「まず一つ目は先月に決められたゲームセンターの利用制限ですが、先生やPTA役員の方々にお骨折り頂いているにもかかわらず、今でもご両親の同伴なく立ち寄っている子たちがいます」
 一瞬、ぎょっとしたが続く苗字に僕は含まれていなかった。
「たとえば、私たち二組では梶くんと尾野くん」
 名指しされた二人にクラスメイト全員の視線が集まった。二人ともバイソンの取り巻きだ。どうやらあの後も目を盗んでゲーセンに忍び込んでいたらしい。うん、うんと深くうなずく指導教員をよそに、取り巻きの二人は抗議の声をがなりたてた。
「そんなこと言われても、親とゲーセンなんて行けっかよ」
「俺の親は土日働いてんだよ」
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 詳細を書く暇は与えられなかった。ぐわっと一息でドアが開け放たれると、バイソンの腕がぬうっ伸びてきて僕を電話ボックスの外に引きずり出した。ダンボールの上の長靴が倒れて転がり、膝の上のノートパソコンは床に投げ出された。
 外界に引きずり出された僕は雨水でぬかるんだ地面に倒され、たちまちシャツが泥で染まった。
「てめえ、やっぱりここにいやがったんだな」
 バイソンの怒気と喜を両方孕んだ低い声が降り注いだ。仰ぎ見ると、取り巻きの二人もいた。
「よお、こないだはマジでやってくれたな。覚悟しろよ」
 バイソンの怒気と喜を両方孕んだ低い声が降り注いだ。仰ぎ見ると、取り巻きの二人もいた。
「よお、チクリ魔。今日という今日こそ覚悟しろよ」
 なんの予備動作もなく、梶の前蹴りが無防備な腹部に突き刺さった。激痛に耐えられず地面を転がるとびちゃびちゃと泥の跳ねる音がした。その数秒後に、おそらくは尾野のものと思われる靴底が脇腹に深くめりこんだ。痛み以上に臓器にかかった負担から、僕は吐き気を催して食べたばかりの昼食をおおかた地面に吐き戻した。蹴られ続けているうちに吐瀉物は泥水とまみれて次第に区別がつかなくなった。
「ざまねえな、センコーを味方につけて調子くれやがって」
 尾野が冷たく言ったが、胃袋の蠕動に全神経が集中していて彼らの言い分を聞く余裕はなかった。
 僕は萎縮する胃袋を御して手を虚空に掲げて釈明を試みた。
「違う、僕は関係ない。なにもっ、なにも言っていない」
「あの時にやられなかったのはてめえだけだろうが。チクリ野郎がよ」
 尾野が冷たく言って、さらに追撃を重ねた。
 しばらくすると寝転がる僕を蹴るのにも飽きたのか、バイソンは取り巻きたちに「おい、こいつ立たせろ。根性入れてやる」と命令した。二人は嬉々として僕の腕を掴んで無理やり起きあがらせた。正面に立ったバイソンは握りしめた両手を構えて、ボクサーに似たポーズをとった。
 しゅっと音がして彼の拳が腹に直撃した。僕はいまいちど激しい嘔吐感に襲われたが、口から漏れてくるのは胃液だけだった。「バイソンのパンチやべー」と左右のどちらからか囃したてる声がした。勢いは止まらず、さらに一発、二発と連続して打撃が入った。
 普段、どんなに脅かされても心の奥底では彼らを軽く見ている自分がいた。だって所詮は小学生同士じゃないか。気が済んだらそれまでの話だ。
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「なんで……なんで、君らがこんなことをするのか解らない」
「ああ?」
 バイソンは声を荒らげた。
「てめえがむかつくからだよ。一人じゃなんにもできねえチビのくせして、大人の陰に隠れていい気になってやがる……そんならそれで、家に籠もっておベンキョでもしてろっつうの
「てめえがむかつくからだよ。一人じゃなんにもできねえチビのくせして、大人の陰に隠れていい気になってやがる」
 追加の殴打が会話の合間に差し込まれた。あたかも拳で改行を代替しているかのようだった。彼にとってのエンターキーは殴打なのだ。
「こいつらが晒し者にされて楽しかったか? 楽しかったよな? 俺たちも楽しんでんだよ、今」
 腹を殴られすぎて感覚が鈍麻してきた。もう胃液もなにも出てこない。ひたすら反射的に臓器がせりあがって、口から空気がひゅっと漏れて、頭ががんがんと響いてくる。
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 直ちに来た道を引き返して勾配を登った。しかし、あそこには三人の敵が待ち構えている。取り巻き二人は梨花ちゃんがやっつけてくれるとしても、さすがにバイソン相手は心許ない。なにか武器が欲しい。
 僕は脇道に生えている手頃な太さの木を両手で掴んで、全体重をかけて引き抜いた。リーチは増やせば増やすほど有利になる。ダルシムのズームパンチは分かっていても面倒くさい。
 自分の半身ほどもある木の棒を引きずって、元いた場所に戻ってくると前回と同じ状況が再現されていた。梶と尾野が顔を抑えて倒れていて、バイソンと梨花ちゃんが対峙している。
 歩を前に進めると、湿った地面を踏みしめる音で二人がこちらに目を向けた。木の棒を構える僕を見たバイソンは露骨にあざ笑った。
 歩を前に進めると、湿った地面を踏みしめる音で二人がこちらに目を向けた。木の棒を構える僕を見たバイソンは露骨にあざ笑った。梨花ちゃんも悲鳴に近い罵声を飛ばした。
「お前、わざわざ戻ってきたのかよ」
「馬鹿……!」
 僕は木の棒をバイソンに向けて、手元を、身体を、口元を、肉体という肉体をぶるぶると震わせながら宣言した。
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 不意に急所を殴られてよろめいたバイソンだったが、案の定さして効き目はないようだった。むしろかえって力を増した勢いで全身ごとひねって木の棒を振り回したので、梨花ちゃんは後ろに退いて距離をとり、僕は振り落とされた。
「こんなのいらねえ」
 彼は木の棒を自分の膝で真っ二つに叩き折った。折れた木を地面に放り投げると、改めて梨花ちゃんと相対した。
 しかし、彼女は困憊しきった様子で膝に手をついて、ふらついたかと思うとその場に倒れ込んだ。立ちあがる気配はない。バイソンは興を削がれたふうに「これだから女は」とつぶやくと、一転、向きを変えて僕の胸ぐらを掴んだ。
「じゃあまずはお前だ」
 しかし、彼女は困憊しきった様子で膝に手をついて、ふらついたかと思うとその場に倒れ込んだ。立ちあがる気配はない。バイソンは興を削がれたふうに「ちっ」と舌打ちをすると、一転、向きを変えて僕の胸ぐらを掴んだ。
「じゃあお前だ」
 万事休すだ。
 バイソンの拳が頬面を打ちつけた。顔を殴られるのは初めてだった。雨水か汗かで、彼の手がシャツから滑り落ちると、いよいよ面倒になったのか僕の身体にのしかかって馬乗りになった。
「もう、勘弁してくれ」
 ひりついた喉から声を押し出した。さしものバイソンも疲れてきたのか、息を切らせながら言った。
買ってもらえるだけいいじゃねえか
 唐突な話題の転換に僕は戸惑いつつも反論した。
僕のパソコンじゃない
知るかよ
 ひりついた喉から声を押し出した。さしものバイソンも疲れたのか、息を切らせながら言った。
てめえみたいな裏切り者は許しちゃおけねえ
 身に覚えのない濡れ衣に僕は戸惑いつつも反論した。
裏切り者ってなんだ
うるせえ
 馬乗りの姿勢で彼は僕の顔面を殴った。目がちかちかとした。鼻の奥も口の中も鉄臭さと血の味でいっぱいになった。束縛から逃れようと身体をもぞもぞと動かしたがどうにもならず、まるで巨石に挟まったかのような絶望感が全身を支配した。なんとか自由が利く両手だけをじたばたと動かしていると、そのうちに右手の先がなにかと当たった。この感触は木の棒だ。
コームインってクビにならないんだろ。新しいの買ってもらえよ。また壊してやるからよ
なにもかもお前のせいだ。てめえが――
 バイソンが三発目を振りかぶったその時、僕は決死の覚悟で木の棒を右手で掴んで彼を叩いた――つもりだった。
 半分に折れて短くなっていた木の棒は彼の頭には当たらず、首筋にずぶりとめりこんだ。得体の知れない気色悪い感覚が手に伝わった。
 バイソンは野太いうめき声をあげて地面に転がった。辛くも馬乗りから解放された僕はすばやく起きあがって彼から距離をとった。身体をわなわなと震わせながら首筋に生えた木の棒を抑える彼を見て、ようやく全容を悟った。
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 そのバイソンが、廊下の壁にへばりついて縮こまっている僕を指差して大声で言ったんだ。「あのチビには気をつけろ、これはあいつに刺されたんだ」って。学ランの襟をめくって首筋の傷跡を見せびらかしてね。ほら、あの時に木の棒でやっちゃったやつ。手下連中は冗談と思って笑ったんだけど”幹部”の二人が「嘘じゃねえよ、お前らバイソンなめてんのか?」ってすごんでね、それでマジだという話になったらしい。今思うと、不良まみれの学校で誰にも絡まれずに済んだのは彼らのおかげかもしれないね。
 なんか武勇伝を語っているみたいで嫌だな。じゃあ、千佳ちゃんの話をするのはどうだろう。
 あれはお互い苦い思い出だったね。でも千佳ちゃんだって交換日記用のノートを破られたのは事実なわけだし、やり方はともかくとしても仕返ししたい気持ちは否定できないんじゃないかな。実は僕も千佳ちゃんに失礼なことをしちゃって、だから後日に交換日記の再開を申し出たんだけど「今は一組の淳くんとしているの」って断られちゃったよ。だけど、もじもじしている時よりもさっぱりしていて好きになれそうな感じだったな。
 いや、この話はよくないな。電話ボックスの話にするか。
 いや、この話はよくないな。プリクラの話にするか。
 あの後にプリクラ帳っていうのを作ってみたんだ。でも、君と撮ったやつしか貼っていない。ゲーセンのプリクラが二台に増えて、三台に増えて、今じゃ専用コーナーと化しているほど盛況なのに、なんだかんだで誰とも撮る機械がなかったんだ。言葉には表しづらいけど……なんか違う気がしてね。
 それで、もし君がよければ、次に会った時に一緒に撮らないか。UFOキャッチャーのぬいぐるみはたぶんもう一発では取れないから勘弁してほしい。
 うーん、この話題は悪くなさそうだけど後に回した方が格好がつきそうだ。最初にするなら電話ボックスの話がいいかもしれない。
 グレーの公衆電話ボックスはさすがに卒業したよ。家にインターネット回線を引いてもらえたし、止まっていた宅地造成の計画が動きだしたんだ。今は人や重機でごった返しているから、昔みたいに独り占めしてちゃ怒られる。なんでも父さんが勤めている町役場にもとうとうデジタル化の波が来たみたいで、これからはITの時代だという認識にようやくなったらしい。こんな田舎町にも毎秒一.五メガビットのADSL回線が通っているぐらいだからね。
 そういう事情だから、新しいパソコンを買ってくれっていう打診も条件付きで通った。「県立一高に受かったらな」って。県内一の難関校だけど、バイソンともう一度戦えと言われるよりは千倍楽勝だと思ったね。
 新しいパソコンはiMacにしたよ。クロック周波数が一ギガヘルツもあるから、申し訳ないが君の持っている旧モデルより断然速い。このチャットの改良も捗った。君に言われた部分描画の自動更新は割とすぐにできたけど、どうにも特定の時間単位ごとに再読み込みさせる方法しか実装できなくてね。相手の発言に応じてリアルタイムで読み込むようにしたかったんだ。それで、簡単にできると聞いてFlashで作り直してみた。たぶんうまくいっているんじゃないかと思う。