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■これまでの功績を鑑み、本辞令の受領をもって両名を大尉に任命する。
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リザちゃんが読み上げた辞令の中身は、確かに管制官がおっしゃっていた内容とほとんど変わりがなかった。彼女のベッドに並んで座って、お互いの名前を呼び合ってみた。
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「リザ大尉」
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「マリエン大尉」
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「リザ大尉っ」
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「マリエン大尉っ」
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「ふふ」
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大尉といったら数百人からなる中隊を束ねるほどの役職だ。歩く速度も戦う道具も異なる魔法能力行使者に配下は付かないけれど、偉くなったことに違いはない。
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隣に振り向くと、お人形さんのように華奢な輪郭が映った。
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「大切なものだけ持っていけばいいよ。戦場に花瓶なんて持っていっても役に立たないもの」
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とはいうものの、目の見えない私と小物を拾うのが苦手なリザちゃんの引っ越し作業はだいぶ難航した。手に取ったものがなにか分かるまで何秒もかかってしまう。しまいにはリザちゃんが「紅茶を淹れるわ」といって中座して、ラジオまでかけはじめたものだから完全に手が止まった。
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四角くてのっぺりとした手触りの国民受信機から、勇ましい軍歌と入れ替わりに宣伝省の録音演説が流れはじめる。手渡された紅茶を飲みながら耳を傾けた。
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何度も聴いた覚えのあるその演説では、かつて神聖ローマ帝国で外敵を払う役目を担っていたとされる魔法の使い手になぞらえて、魔法能力行使者は「魔法戦士」と呼称されている。ローマ帝国の後継者である私たちにとってそれはとても正当なことに違いなかった。
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何度も聴いたその演説では、かつて神聖ローマ帝国で外敵を払う役目を担っていたとされる魔法の使い手になぞらえて、魔法能力行使者を「魔法戦士」と呼んでいる。帝国の後継者である私たちにとってそれはとても正当なことに違いなかった。
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ただ、男子の魔法能力行使者が魔法戦士として高らかに称揚されるのに対して、女子はただの「魔法少女」と呼ばれているのはちょっぴり納得がいかなかった。
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どうして私たちは「戦士」と呼ばれないのだろう? 魔法能力は性別とは関係ないはずなのに。
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そんな考え事をしているうちに厳かな調べに包まれたゲッベルス宣伝大臣の演説(帝国<ライヒ>の空を守る魔法戦士たち)がつつがなく終わり、ラジオ放送の内容はまた軍歌に切り替わった。
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どうして私たちは「戦士」と呼んでくれないのだろう。魔法能力は性別とは関係ないはずなのに。
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そんな考えごとをしているうちに厳かな調べに包まれたゲッベルス宣伝大臣の演説(帝国<ライヒ>の空を守る魔法戦士たち)がつつがなく終わり、ラジオ放送の内容はまた軍歌に切り替わった。
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とはいえ、大臣の演説はいつ聴いてもすばらしい。どんなお姿をしているのか私には分からないけど、きっとその美声にたがわぬ模範的アーリア民族らしい見た目を備えているのだろう。
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お砂糖の入った紅茶をたっぷり二杯も呑んだおかげか、その後の作業はそれなりに捗った。途中、タイプライターを持っていくかどうかで散々揉めたが――すぐに前線に行くのにタイプライターなんて!――だって、お父さんにお手紙を書くんだもん!――最終的には携行を認めてくれた。ずいぶん大荷物になってしまったけど、大丈夫、私は力持ちだ。
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”たいぴすと”になるのなら時間の許す限り練習しなくちゃいけない。
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替えのドレスも詰めた。収容所では毎日同じ服を着せられていたから、あの運命の日の後にも「ご褒美をあげよう」と言われた時に「きれいなお洋服を着たい」と即答したのだった。以来、私の戦闘服はフリルの着いたオーバードレスということになった。
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そして最後に、取り出しやすい位置にチョコレートの紙袋を入れる。こうして出来上がった大きな旅行鞄と、タイプライターが収まった箱を持つといかにも遠征気分が高まってくる。
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お砂糖の入った紅茶をたっぷり二杯も飲んだおかげか、その後の作業はそれなりに捗った。途中、タイプライターを持っていくかどうかで散々揉めたが――すぐに前線に行くのにタイプライターなんて!――だって、お父さんにお手紙を書くんだもん!――最終的には携行を認めてくれた。ずいぶん大荷物になってしまったけど、大丈夫。私は力持ちだ。
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”たいぴすと”になるのなら、時間の許す限り練習しなくちゃいけない。
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替えのドレスも詰めた。収容所では毎日同じ服を着せられていたから、あの運命の日の後にも「ご褒美をあげよう」と言われた時に「きれいなお洋服を着たい」と即答したのだった。以来、私の軍服はフリルのついたオーバードレスということになった。
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最後に取り出しやすい位置にチョコレートの紙袋を入れる。こうして出来上がった大きな鞄と、タイプライターが収まった箱を持つとなんだか旅行気分が高まってくる。
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「ねえ、そんなにあるんならチョコレート一個ちょうだい」
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「やだ、私がもらったんだもの」
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「なによ、ケチ」
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歩幅を揃えて部屋に戻った私は、ドアを開けて前に三歩、左に二歩動いて壁にかかっていたポシェットを手に取る。この中に私のお財布と身分証明証が入っている。すぐ下の杖も忘れずに持っていかなくちゃならない。地面は障害物でいっぱいだから。
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右に二歩、後ろに三歩後ずさって扉を閉めた。せっかく部屋の間取りを覚えたのに、たぶんここには戻ってこられないだろう。この家も、前の家も、その前の家も、元は別の人の持ち主がいたらしい。その人たちはいまどこに住んでいるのかしら。
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歩幅を揃えて部屋に戻った私は、ドアを開けて前に三歩、左に二歩動いて壁にかかっていたポシェットを手に取る。この中に私のお財布と身分証明証が入っている。すぐ下の杖も忘れずに持っていかなくちゃならない。街は障害物でいっぱいだから。
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右に二歩、後ろに三歩後ずさって扉を閉めた。せっかく部屋の間取りを覚えたのに、たぶんここには戻ってこられないだろう。この家も、前の家も、その前の家も、元は別の人の持ち主がいたらしい。その人たちは今どこに住んでいるのかしら。
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大荷物を抱えてリザちゃんと家から出た後、なんとなく私はそれのある方向に一礼した。
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まだお日さまの熱を感じる時間なのに、外はずいぶん肌寒かった。じきに雪解けの季節なのに厚手の手袋も外套も相変わらず手放せない。せっかくのドレスが台無しだ。でも、杖の先っぽで石畳をこつ、こつと叩きながら道を歩いているうちに、だんだんと身体が暖まってきた。
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まだお日さまの熱を感じる時間なのに、外はずいぶん肌寒かった。相変わらず厚手の手袋も外套も手放せない。せっかくのドレスが台無しだ。でも、杖の先っぽで石畳をこつこつと叩きながら道を歩いているうちに、だんだんと身体が暖まってきた。
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杖の先端で固い地面を叩くと甲高い音が鳴って、衝撃が指先に伝わる。すると、私の真っ暗な視界の中に白線の波がざざあ、と描かれていく。反響の具合であと何歩歩くと壁があるのか、どの辺りに他の人が立っているのかだいたい分かる。
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今しがた、目の前に白線の壁の輪郭ができあがったので、私はそれをひょいとよけて道を曲がった。リザちゃんとおしゃべりをしながらでもこれくらいのことはできるようになった。
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今しがた、目の前に白線の壁の輪郭が浮かんだので、私はひょいとよけて道を曲がった。リザちゃんとおしゃべりをしていてもこれくらいのことはできるようになった。
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管制官は「まるでコウモリみたいだな」と仰っていた。聞いた話では、コウモリさんは目はほとんど見えないのだけれど、代わりに壁とおしゃべりをして居場所を教えてもらうんだそう。一体、どんなふうにお話をしているのかな。
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でも、確かに私とそっくりだ。杖でこつこつと叩くと地面が壁やお店の場所を教えてくれる。きっと私はコウモリとして生まれるはずだったのに、間違えて人間に生まれてきてしまったんだ。
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でも、確かに私とそっくりだ。杖でこつこつと叩くと地面が色々と教えてくれる。きっと私はコウモリとして生まれるはずだったのに、間違えて人間に生まれてきてしまったんだ。
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だとしたら、なんて運の良いことだろう。だって、人間じゃなかったらチョコレートは食べられない。
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「ねえ、口からよだれが垂れているわよ」
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「え、うそ」
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慌ててハンカチで口元を拭おうとしたが、ポケットに向かう手を押し止められた。
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慌ててハンカチで口元を拭おうとしたが、ポケットに向かう手を押し留められた。
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「ごめん、うそ。なんか顔が緩んでたから」
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そんなにだらしない顔をしていたのか。チョコレートの話はあまり考えないようにしなくちゃ。
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あの後、お腹いっぱいになるまでチョコレートを頬張ったのに袋の中にはまだたくさん残っている。大切に食べないといけない。
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そんなにだらしない顔をしていたのか。チョコレートのことはなるべく考えないようにしなくちゃ。
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あの後、お腹いっぱいになるまでチョコレートを頬張ったので袋の中身はだいぶ心もとない。これからは大切に食べないといけない。
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「あら、火事じゃない?」
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言われてみれば、もくもくとした煙くさい匂いが漂ってきていた。先の空襲から一週間近く経っているのに消火が済んでいないのはおかしい。杖をコツコツ、と強く叩くと、視界の中に雑然とした人々の姿が描かれた。街の人たちも火事が気になっているようだ。
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おのずと、私たちの足取りも人波に合わせて炎の気配が強まる方向に進んだ。
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どやどやと行き交う野次馬の騒ぐ声をかき分けて、たどり着いた先では音と熱だけでもはっきりと分かるほどの火柱が上がっていた。なにやら肉が焼ける匂いもする。それに、すっかり嗅ぎ慣れた血の匂いも。
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熱を帯びる火柱の前で、何者かが声を張り上げていた。
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言われてみれば、もくもくとした煙くさい匂いが漂ってきていた。先の空襲から一週間近く経っているのに消火が済んでいないのはおかしい。杖を繰り返し強く叩くと、視界の中に雑然とした人影の群れが現れた。街の人たちも火事が気になっているようだ。おのずと、私たちの足取りも人波に合わせて炎の気配が強まる方向へと進む。
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どやどやと行き交う野次馬の騒ぐ声をかき分けてたどり着いた先では、音と熱だけでもはっきりと分かるほどの火柱が上がっていた。なにやら肉が焼ける匂いもする。それに、すっかり嗅ぎ慣れた血の匂いも。
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熱を帯びる空気の前で、何者かが声を張り上げていた。
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「――もしやつらが我々の街を燃やすのなら! 我々もこいつらの家を燃やすだろう! もしやつらが、我々の身を焼き焦がすのなら! 我々もこいつらの身を焼き焦がすだろう!」
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演説調の節をつけてがなりたてる男の人、左右に集まった人だかりが歓声を上げて応じる。
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演説調の節をつけてがなりたてる男の人に、左右に集まった人だかりが歓声を上げて応じる。
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「またユダヤ人が見つかったのね」
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淡々とリザちゃんが言った。どうやらユダヤ人の隠れ家が燃やされていたようだった。
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淡々とリザちゃんが言った。どうやらユダヤ人の隠れ家が燃やされているようだった。
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管制官が言うには、ここミュンヘンにも、ドイツ国内の至るところにも、まだまだユダヤ人たちがたくさん隠れ潜んでいてイギリスやアメリカに情報を送っているという。劣勢に立たされた私たちの首元に刃をかける隙をうかがっているのだ。
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とはいえ少なくとも、これでそのうちの一つの拠点は滅ぼされたと言える。私はほっ、と胸をなでおろした。
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「これで空爆が来なくなるといいね」
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「……そうね」
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吹き上がる火柱の前に際限なく盛り上がる群衆の熱を後して、私たちはミュンヘン中央駅に向かった。
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吹き上がる火柱の前で盛る群衆を後にして、私たちはミュンヘン中央駅に向かった。
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それにしてもユダヤ人ってどんな人たちなんだろう。直接触れたことがないからどういう顔をしているのか分からない。みんな悪魔みたいだって言うから、私も頭の中で一生懸命に「悪魔」の姿を思い描いてみる。
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切符を買って、汽車に乗り込むまでひたすら考えてみたけれど、あまりうまくはいかなかった。
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”一九四六年三月一七日。親愛なるお父さんへ。辞令でベルリンに移って三日が経ちました。まもなく東部戦線に行って参ります。ついこないだ中尉になったかと思えば、もう大尉になってしまいました。ベルリンに着任した管制官は、大佐だったのに今はもう准将です。相変わらず厳しい情勢ですが、頑張りが報われるのは嬉しいです。お父さんもきっと、ブリュッセルでイギリス軍やアメリカ軍を食い止めてくれているのでしょう。でも、くれぐれも銃弾には当たらないでくださいね。私と違って普通の人は治りが遅いですから。”
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”一九四六年三月一七日。親愛なるお父さんへ。まもなく東部戦線に行って参ります。ついこないだ中尉になったかと思えば、もう大尉になってしまいました。ベルリンに着任した管制官は、大佐だったのに今は准将です。相変わらず厳しい情勢ですが、頑張りが報われるのは嬉しいです。お父さんもきっと、ブリュッセルでイギリス軍やアメリカ軍を懸命に食い止めてくれているのでしょう。でも、くれぐれも銃弾には当たらないでくださいね。私たちと違って普通の人は治りが遅いですから。”
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チーン。二段ベッドと小さな机と椅子しかない手狭な空間に、タイプライタの改行音が響く。
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”今日は、同僚のリザちゃんのお話を書こうと思います。彼女は私より一つ歳上のお姉さんで、イタリア人です。威張りんぼなところがありますがとてもいい子です。私と同じ、役目を持って生まれた子どもでした。私の目が光を映さないように、彼女は自分の手足が一つもありません。せめて格好だけでも普通にさせようとして家具職人の父が敷地に生えている木で義足をこしらえたそうですが、あいにくどんなに力を込めても動かすことはできません。”
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チーン。リザちゃんはまだ寝ている。二段ベッドの上の方ですやすやを寝息を立てている。私はむしろ下の方がよかったのだけれど、居室に着くなり彼女ときたら「私が上ね!」と宣言して梯子を昇っていったのだった。
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”彼女は昔、近所の子たちにピノッキオと呼ばれていました。身体の一部が松の木でできているからです。お父さんに読み聞かせてもらったので、私もお話はよく覚えています。ですが、彼女はこのあだ名がとっても気に入りませんでした。それはピノッキオのことが嫌いだからではありません。ピノッキオは自由に身体を動かしていろんな冒険ができるのに、彼女は車椅子を引いてもらわないと自分の部屋からさえ出られなかったからです”
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うーん、とリザちゃんがうなり声をあげて寝返りを打った。改行やタイプの音が耳に障るのかもしれない。でも、今日を逃したらしばらく書けないのだから我慢してもらうしかない。さすがに戦場のまっただ中にタイプライタは持っていけない。
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”そんな彼女に転機が訪れたのは私と同じく、役目を果たすための収容所が外国にもできたおかげです。魔法能力を授かった彼女は、あたかも本物の手足が生えたかのように木でできた義肢を動かすことができます。魔法も、私よりうんと強く放てます。その代わりに、狙いを定めるのはちょっぴり下手です。”
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”今日は改めて、友達のリザちゃんのお話をきちんと書こうと思います。彼女は私より一つ歳上のお姉さんで、イタリア人です。威張りんぼなところがありますがとてもいい子です。私と同じ、役目を持って生まれた子どもでした。私の目が光を映さないように、彼女は自分の手足が一つもありません。せめて格好だけでも普通にさせようとして家具職人の父が敷地に生えている木で義肢をこしらえたそうですが、あいにくどんなに力を込めても動かすことはできません。”
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チーン。リザちゃんはまだ寝ている。二段ベッドの上の方ですやすやと寝息を立てている。私はむしろ下の方がよかったのだけれど、居室に着くなり彼女ときたら「私が上ね!」と宣言して梯子を上っていったのだった。
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”彼女は昔、近所の子たちにピノッキオと呼ばれていました。手足が松の木でできているからです。お父さんに読み聞かせてもらったので、私もお話はよく覚えています。ですが、彼女はこのあだ名がとても気に入りませんでした。それはピノッキオのことが嫌いだからではありません。ピノッキオは自由に身体を動かしていろんな冒険ができるのに、彼女は車椅子を引いてもらわないと自分の部屋からさえ出られなかったからです”
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うーん、とリザちゃんがうなり声をあげて寝返りを打った。改行やタイプの音が耳に障るのかもしれない。でも、今日を逃したらしばらく書けないのだから我慢してもらうしかない。さすがに戦場のまっただ中にタイプライターは持っていけない。
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”そんな彼女に祝福がもたらされたのは役目を果たすための収容所が外国にもできたおかげです。魔法能力を授かった彼女は、あたかも本物の手足が生えたかのように木でできた義肢を動かすことができます。魔法も私よりうんと強く放てます。その代わりに、狙いを定めるのはちょっぴり下手です。”
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キータイプの手を一旦止めて、神から祝福されたリザちゃんがどんな気持ちだったのか想像しようとした。けれど、湧き出てくるのは自分自身の記憶ばかりだった。
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そこは「収容所」と呼ばれていた。ずっとそこに住んでいた私でも、あまり良い場所とは思えなかった。ご飯の量は小さい私にとっても明らかに物足りなく、新しく連れてこられた大人の人たちが大声を出して怒ると看守の人はもっと怒って彼らを散々にぶった。中でもひどくぶたれた人とは二度と会えなかった。その時、収容所で一番偉い人だった管制官は私に「彼はちょっと早めに役目を果たしたんだよ」と教えてくれた。
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収容所からほとんど誰もいなくなった頃、ついに私の番が回ってきた。身体じゅうにぺたぺたとなにかを貼り付けられたかと思いきや、すごい痛みが走って、次に目が覚めた時には全身がべとべとしていた。どこもかしこも鉄臭い匂いが立ち込めていたので、私は血を流しているのだと分かった。
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そんなに血が出ているのなら、きっと大怪我をしているに違いない。私はすぐに部屋を出て、大人の人に怪我を治してもらおうとした。でも、手探りで見つけたドアは押しても引いても開かなかった。
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収容所はあまり良い場所とは言えなかった。ご飯の量は小さい私にとっても明らかに物足りなく、新しく連れてこられた男の人たちが大声を出して怒ると看守の人はもっと怒って彼らを散々にぶった。中でもひどくぶたれた人とは二度と会えなかった。その時、収容所で一番偉い人だった管制官は私に「彼はちょっと早めに役目を果たしたんだよ」と教えてくれた。
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収容所からほとんど誰もいなくなった頃、ついに私の番が回ってきた。身体じゅうにぺたぺたとなにかを貼り付けられたかと思いきや急にすごい痛みが走って、次に目が覚めると全身がべとべとしていた。どこもかしこも鉄臭い匂いが立ち込めていたので、私は血を流しているのだと分かった。
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そんなに血が出ているのならきっと大怪我をしているに違いない。私はすぐに部屋を出て、誰かに怪我を治してもらおうとした。でも、手探りで見つけたドアは押しても引いても開かなかった。
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何回叫んでもどこからも返事はない。私はとうとう怒って、力任せにドアを両手で押した。
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すると、ドアはすごい音をたてて壊れた。薄いブリキの板みたいに、ひどく折れ曲がっているようだった。もっと押し続けるとドアはぺしゃんこに潰れて、通り道ができた。
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すると、ドアはべきべきと音をたてて壊れた。薄いブリキの板みたいに、ひどく折れ曲がっているようだった。もっと押し続けるとドアはぺしゃんこに潰れて、通り道ができた。
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「動くな!」
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道の先を歩いていると、突然、男の人たちがそう口々に叫ぶ声が聞こえた。かちゃかちゃと金属が鳴り響く音がとてもうるさかった。
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「だあれ?」と聞くとまた「動くな!」と怒られた。不思議なことに、男の人が叫べば叫ぶほど、なにも映さないはずの私の真っ暗な視界の中に、白い線が波打って角ばったお人形のような像を作り出した。どうやら男の人たちはみんなお人形さんで、手にお揃いのなにかを持っているみたいだった。私はそれがなんなのか知りたかった。
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道の先を歩いていると、突然、男の人たちがそう口々に叫ぶ声が聞こえた。かちゃかちゃとなにかが鳴り響く音がとてもうるさかった。
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「だあれ?」と聞くとまた「動くな!」と怒られた。不思議なことに、男の人が叫べば叫ぶほど、なにも映さないはずの私の真っ暗な視界の中に、白い線が波打って角ばったお人形のような像を作り出した。どうやら男の人たちはみんなお人形さんで、手にお揃いのものを持っているみたいだった。私はそれがなんなのか知りたかった。
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「それ、なにを持っているの?」
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前に歩いて手を差し出そうとすると、直後に、ぱん、と乾いた音がして、私は後ろに押し倒された。お腹の辺りがじんじんとしたので、手でまさぐると石ころのようなものが見つかった。
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前に歩いて手を差し出そうとすると、直後に、ぱん、と乾いた音がして、私は後ろに押し倒された。お腹の辺りがじんじんとしたので、手でまさぐると石ころのような塊が見つかった。
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「えいっ」
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投げつけられた石ころを投げ返すと、鋭い悲鳴が辺りにこだました。男の人がそういうふうに叫ぶのを初めて聞いたので、私はとてもびっくりした。どんどん石ころが投げつけられたので、私も躍起になって投げ返した。白い線でできたお人形さんがいなくなって、最後の一つがくしゃりと小さく丸まったので、遊びはもうおしまいかと思いきや管制官が部屋に入ってきた。
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「楽しかったかい」彼に訊かれたので、当時の私は無邪気に「ううん、あんまり」と答えた。
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「楽しかったかい」彼に訊かれたので、当時の私は素直に「ううん、あんまり」と答えた。
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「じゃあ、こうしてみよう」
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管制官は私の小さな手を握って、人差し指を伸ばさせ、親指を突き立たせ、残りは丸めるように指南した。そしてされるがままに腕をまっすぐにすると、丸まったお人形さんに人差し指が向いた。お人形さんはすごい悲鳴を叫んで遠ざかっていった――管制官は構わず「さっき聞こえた音を真似してごらん」と言ったので、私は「ぱん」と言ってみた。
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管制官は私の小さな手を握って、人差し指を伸ばさせ、親指を突き立たせ、残りを折りたたんだ。されるがままに腕をまっすぐにすると、丸まったお人形さんに人差し指が向いた。お人形さんは泣き叫んだ――管制官は構わず「さっき聞こえた音を真似してごらん」と言ったので、私は「ぱん」と言ってみた。
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もう悲鳴は聞こえなかった。
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血の匂いは、久しぶりにお風呂に浸かる許しを得てからもしばらくとれなかった。
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血の匂いは、久しぶりにお風呂に入る許しを得てからもしばらくとれなかった。
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私が魔法能力行使者として正式に階級章を授けられたのは、その日から始まった訓練を終えたさらに半年後の話になる。
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リザちゃんも同じような訓練をしたのかな。
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”ムッソリーニ首相が王様に叱られて以来、イタリアのほとんどの土地はずっと敵にとられたままになっています。イタリア人の彼女はたまたま難を逃れていましたが、ドイツ軍に「セッシュウ」されたので今はここで戦っています。なんでも「セッシュウ」されると、別の国の人でもその国のきまりに従わなければいけないのだそうです。難しいことは私にはよくわかりません。いつか故郷に帰してもらえるといいと思います。イタリアはドイツの大切な同盟国なので、フューラーも色々考えてくれているでしょう。お父さんも、祖国に勝利をもたらすその日まで、どうかお元気で。ハイル・ヒトラー”
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手紙を書き終えると私は杖を握って居室を出た。ベルリンの大きな基地は大きいだけあって基地の中に郵便局がある。壁伝いに身体を預けつつ杖をこつこつと叩いているうちに、窓口に着いてしまう。口数が少ない郵便局員の人に便箋と身分証明書と小銭を手渡すと、いつもの調子で鼻を鳴らした。私の中ではこれが受領完了の合図ということになっている。すぐに判をつく音がして、身分証明書が突き返された。十日に着いてから毎日送っているので愛想の悪さにはもう慣れた。それも、今日までだ。
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||||
往路を同じ要領で戻ると、いつの間にかリザちゃんが起きて髪を梳かしていた。一定の感覚で刻まれる音の感じで、彼女の髪の長さが分かる。
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||||
”ムッソリーニ首相が王様に叱られて以来、イタリアのほとんどの土地はずっと敵にとられたままです。ですが、リザちゃんはたまたまドイツ軍に「セッシュウ」されたので今はここで一緒に戦っています。なんでも「セッシュウ」されると、別の国の人でもその国のきまりに従わなければいけないのだそうです。難しいことは私にはよくわかりません。いつか故郷に帰してもらえるといいと思います。イタリアはドイツの大切な同盟国なので、フューラーも色々考えてくれているでしょう。お父さんも、祖国に勝利をもたらすその日までどうかお元気で。ハイル・ヒトラー”
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||||
手紙を書き終えると私は杖を握って居室を出た。ベルリンの基地は大きいだけあって基地の中に郵便局がある。壁伝いに身体を預けつつ杖をこつこつと叩いているうちに、窓口に着いてしまう。口数が少ない郵便局員の人に便箋と身分証明書と小銭を手渡すと、彼女はいつもの調子で鼻を鳴らした。私の中ではこれが受領完了の合図ということになっている。しばらく待つと判をつく音がして、身分証明書が突き返された。ここに来てから毎日送っているので愛想の悪さには慣れたけど、それも今日までだ。
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||||
往路を同じ要領で戻ると、いつの間にかリザちゃんが起きて髪を梳かしていた。一定の間隔で刻まれる音のリズムで、彼女の髪の長さが分かる。
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||||
「おはよう、リザちゃん」
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||||
「ん」
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||||
ぶっきらぼうに答えたかと思えば、彼女はなにも言わずに手を引いて私を椅子に座らせた。ぎしぎしした私の髪の毛に櫛が通されて不気味な音をたてる。
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||||
「ちょっと傷んでるわね」
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||||
ぶっきらぼうに答えたかと思えば、彼女はなにも言わずに手を引いて私を椅子に座らせた。私の髪の毛に櫛が通されるやいなや、たちまち不気味な音が走った。
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||||
「かなり傷んでるわね」
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||||
「そうなんだ」
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||||
私の髪の毛って金色らしい。金色ってどんな色か分からないけれど、光に似ているという人もいれば、価値が高い鉱物と同じ色だという人もいる。いずれにしてもめでたい話には違いない。
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||||
私の髪の毛は金色らしい。金色ってどんな色か分からないけれど、光に似ているという人もいれば、価値が高い宝石と同じ色だという人もいる。
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||||
「そろそろ出撃の時間じゃないかしら」
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||||
「朝ごはんを食べそこねちゃったわね」
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||||
「もう、リザちゃんが起きるの遅いから」
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||||
ため息をついて苦言を漏らすと、彼女は首の後ろをオーク材の指でなぞりながら告げた。
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||||
ため息を吐いて苦言を漏らすと、彼女は私の首をオーク材の指でなぞりながら告げた。
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||||
「そういうけど、あんただってドレスの後ろ前が逆よ」
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||||
「えっ!?」
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||||
結局、ドレスを着直して、携行物の確認もして管制官のいる執務室に出頭する頃にはほとんど遅刻寸前の時刻になっていた。
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最後に外套の奥に丸ごと押し込んだチョコレートはだいぶ量が減っていた。出撃先では大切に食べなければならない。
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||||
結局、ドレスを着直して、携行物の確認もして――外套にチョコレートの残りを全部押し込む――管制官のいる執務室に出頭する頃には、ほとんど遅刻寸前の時刻になっていた。
|
||||
「ジーク・ハイル!」
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||||
二人してピンと声を張って敬礼する。ロングブーツの踵が鈍い音をたてた。
|
||||
二人揃って声を張って敬礼する。ロングブーツの踵が鈍い音をたてた。
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||||
「いよいよ出撃だ。準備はいいかね」
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||||
「お休みになられている先輩方の穴を埋められるよう努力します」
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||||
「頼もしい言葉だ。期待しているぞ、大尉」
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||||
そのまま、私たちは管制官の先導に従って基地の発着場に向かった。ごわごわした分厚い外套が早朝の切り裂くような寒さを一身に受け止めている。空を飛ぶのは気持ちがいいけど、冬はやっぱり寒い。
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「なるべく早く応援を向かわせる。それまで耐えてくれ。期待しているぞ、大尉」
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||||
「はっ」
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||||
そのまま、私たちは管制官の先導に従って基地の滑走路に向かった。ごわごわした分厚い外套が早朝の切り裂くような風を一身に受け止めている。空を飛ぶのは気持ちがいいけど、冬は厚着しないとやっぱり寒い。
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幸いにも降雪の気配はない。陽光に照らされて雪も溶けている。
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発着場では私たちの他に、ドイツ空軍の戦闘機たちが勇ましい唸り声をあげて出撃の時を待っていた。その音を聴いているうちに、淡い白線が視界の左右に戦闘機の輪郭を描きはじめる。フォッケウルフもアラドも、訓練のたびに何度もぺたぺたと丁寧に触ってきたからどんな形をしているのか私にはよく分かる。
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発着場では私たちの他に、ドイツ空軍の戦闘機が勇ましい唸り声をあげて出撃の時を待っていた。その音を聴いているうちに、淡い白線が視界の左右に戦闘機の輪郭を描きはじめる。フォッケウルフもアラドも、訓練のたびに何度もぺたぺたと触ったからどんな形をしているのかよく分かる。
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滑走路の上に立った管制官が、プロペラ音に負けない大音声を張り上げる。
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「私、アルベルト・ウェーバー管制官准将の権限により、マリエン・クラッセ大尉、およびリザ・エルマンノ大尉両名に魔法能力の行使を許可する」
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この瞬間、私たちは法的に魔法能力の行使が認められた。
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いよいよ付き添いの兵隊さんが私たちの背中に角ばった無線機を背負わせた。頭には耳をすっぽりと覆うインカム。私はいつか着けたカチューシャのようなものだと思うことにしている。ドレスにはそっちの方が似合う。
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耳に当たるところから流れる、さざ波に似たハムノイズの音が出撃の開始を強く印象づける。
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滑走路の前に立つ。
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この瞬間、私たちは法的に魔法を使うことが許された。
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いよいよ周りの兵隊さんが私たちの背中に無線機を背負わせた。頭には両耳をすっぽりと覆うインカム。私はいつか着けたカチューシャのようなものだと思うことにしている。ドレスにはそっちの方が似合う。
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耳に当たるところから流れる、さざ波に似たハムノイズの音が作戦行動の開始を強く印象づける。
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私たちは滑走路の前に並んで立ち、高らかに叫んだ。
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「マリエン・クラッセ、出撃します」
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「リザ・エルマンノ、出撃します」
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あたかも戦闘機がそうするように、数メートルほど助走を経てから魔法の力を踵に強く込めた。ふわ、と身体が柔らかく浮かんだのも束の間、私たちの身体はぐんぐん空へと舞い上がって戦闘機の唸りも滑走路の感触も、白い線でできた淡い輪郭も、遠く彼方へと沈んでいった。
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あたかも戦闘機がそうするように、数十メートルほど助走を経てから踵に魔法の力を強く込めた。ふわ、と身体が柔らかく浮かんだのも束の間、私の身体はぐんぐんと空へ舞い上がって戦闘機の唸りも滑走路の感触も、白い線でできた淡い輪郭も、遠く彼方に沈んでいった。
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静かな空の旅は突然に破られた。ベルリンから国境を越えてまもなく、ソ連の戦闘機が白い点描を模って姿を現した。その数はイギリスやアメリカの空襲とは比べ物にならなかった。
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静かな空の旅は突然に破られた。国境を越えてまもなく、ソ連の戦闘機が白い点描を模って姿を現した。その数はイギリスやアメリカの空襲とは比べ物にならなかった。
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<退避! 退避!>
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後方を飛ぶ友軍の戦闘機から漏れた無線の音が、インカムを通して私の耳に入る。直後、爆発音がして鋭く上がった煙が鼻をつく。どこからか放たれた奇襲攻撃がさっそく友軍を撃墜したのだ。
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<旋回!><――マリエン、私たちが先行しないと!><退避!>まずは混線した無線をなんとかしなくちゃいけない。事前の取り決め通り、背中のダイヤルに手を回して周波数を変えた。兵士たちの絶叫がノイズの向こうにかき消えて、すぐにリザちゃんの声だけがはっきり聞こえるようになった。
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後方を飛ぶ友軍の戦闘機から漏れた無線の音が、インカムを通して私の耳に入る。直後、爆発音がして鋭く上がった煙が鼻を覆った。どこからか放たれた奇襲攻撃がさっそく友軍機を撃墜したのだ。
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<旋回!><――マリエン、私たちが先行しないと!><退避!>まずは混線した無線をなんとかしなくちゃいけない。事前の取り決め通り、背中のダイヤルに手を回して周波数を変えた。兵士たちの絶叫がノイズの断面に遮られて、リザちゃんの声だけがはっきり聞こえるようになった。
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<マリエン!>
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「うん、分かってる。行こう」
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急加速して点描の群れを十分に視界に収められる上方を陣取った後、私たちは一斉に両方の手のひらから魔法を放った。
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急加速して点描の群れが視界に収まる上方を陣取った後、私たちは一斉に両方の手のひらから魔法を放った。
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「びーっ!」
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二人合わせての広範囲魔法はそれなりの成果をもたらした様子だった。熱風と凄まじい轟音から全機撃墜の手応えを得る。
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二人合わせての広範囲魔法は相応の成果をもたらした様子だった。熱風と凄まじい轟音から全機撃墜の手応えを得る。
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だが、
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<まだまだ来るわ>
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けたたましいプロペラ音が止む気配は訪れない。遠目に映っていた点描はいつしか、それぞれを見分けられるほどの輪郭を伴って私たちに迫ってきた。
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鋭い機銃の銃弾をくるくると回って回避するも、次から次へとやってくる戦闘機の群れが左右上下を陣取って牽制する。まるで頭を抑えつけられたかのようだ。次第に避ける手段は減っていき、その間にも圧倒的物量の前に友軍の戦闘機が落とされていく。
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「いたっ」
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上から降り注ぐ銃弾の雨が身体を貫いた。ふと、力が抜けて私は地面に急降下を余儀なくされる。ちながら見据えた漆黒の視界の奥から、抜きん出た一機が追撃を試みて追いすがってくる。
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すかさず、ドレスをめくって脚のホルスターからステッキを取り出した。魔法の力を手の先と、脚の両方に込める。
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降下から一転、急上昇を果たした私と戦闘機が交差する。ステッキから伸びた魔法の刃が追い抜きざまに機体を両断した。
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突き刺すような機銃の銃弾を旋回して回避するも、次から次へとやってくる戦闘機の群体がたちまち左右上下を陣取って空を制圧する。まるで頭を抑えつけられたかのようだ。次第に避ける手段は減っていき、その間にも圧倒的物量の前になすすべなく友軍機が落とされていく。
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「いたた」
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上から降り注ぐ銃弾の雨がついに身体を貫いた。ふと、力が抜けて私は地面に降下を余儀なくされる。落ちながら見据えた漆黒の闇の奥から、抜きん出た一機が追撃を試みて追いすがってくる。
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すかさず、ドレスをめくって脚のホルスターからステッキを取り出した。魔法の力を手の先と、踵の両方に込める。
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墜落から一転、急上昇を果たした私と戦闘機が交差する。ステッキから伸びた魔法の刃がすれ違いざまに機体を両断した。
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「ふん、甘く見てもらっちゃ困るわ」
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精一杯の去勢を崩れ落ちていく戦闘機に張るも、灯る魔法の刃は危なげに揺らいでいる。そうして、四方八方からまた敵機が襲いかかってくる。
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もう空中では戦えない。
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「リザちゃん――地上に――降りよう――一旦」
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煙幕がてらステッキから乱雑に魔法を放ちつつ、私は草木の生い茂る地面に向かって急降下を始めた。戦闘機たちが輪郭が奥にすぼまって点描に戻っていく。
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木々が私を包み込むような素振りを見せたのは最初だけだった。加速した身体はすぐに森林を突き抜けて木や枝のあちこちにぶつかり、最後に湿り気のある地面にべしゃりと着地した。
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煙幕がてらステッキから乱雑に魔法を放ちつつ、私は草木の生い茂る森林に向かって急降下を始めた。戦闘機たちの輪郭が奥にすぼまって点描に戻っていく。
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木々が私を包み込むような素振りを見せたのは最初だけだった。加速した身体は葉を突き抜けて木や枝のあちこちにぶつかり、湿り気のある地面にべしゃりと着地した。
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慌てて起き上がり天を仰いでも、視界にはなにも映っていない。さすがに地面までは追いかけてこないらしい。
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「リザちゃん!」
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墜落で無線機が壊れていないか筐体を触りながら叫ぶと、すぐに応答があった。
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<あ、聞こえた。今、どこ?>
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予想外にあっけらかんとした返事に私はちょっとむっとして言い返す。
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予想外にあっけらかんとした返事に安堵と反感の両方を抱く。心配して損した。
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「そっちこそ、どこにいるの」
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<木の上にいる。地上は地上でソ連兵がわんさかいるんだもの。あんたも気をつけて>
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ざわざわとしたノイズ混じりの声と入れ替わりに、確かにあちこちから聞き慣れない言葉が聞こえてきた。
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言われるがままに私も飛び上がり、手頃な枝の上に乗った。
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柔らかな泥を数多の軍靴が無作法に押し潰しながらやってきたのは、それから割にすぐのことだった。ぐしゃ、ぐしゃ、とソ連兵たちが土に足跡を残すたび、私の視界に描かれる輪郭の細やかさが増していく。目下の敵は小隊規模と見られた。
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さっそく私も飛び上がり、手頃な枝の上に乗った。
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湿った泥を軍靴が十重二重に押し潰しながら近づいてきたのは、それからまもなくのことだった。ぐしゃ、ぐしゃ、とソ連兵たちが土に足跡を残すたび、私の視界に描かれる輪郭の細やかさが増していく。目下の敵は小隊規模と見られた。
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||||
大樹を掴む手に力がこもる。五つの指先が木の幹の奥に深くめり込んで、あたかも鉤爪のように機能する。私はコウモリだ。
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||||
被弾したとはいえ小隊程度の敵を滅するのは私でもあまり難しくはない。軍靴が泥に沈む音が後方に移ろいで、後続が途絶えたことが判ると私の鉤爪はますます鋭く尖った。
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||||
しかし、できない。
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||||
目下の敵は小隊規模でも、この一帯には間違いなく複数の大隊が展開されているはずだ。事を荒立てればすぐさま増援がやってくるだろう。どっちに逃避すれば友軍側に近づくのかも、今の私には分からない。空を飛ばなければ――だが、制空権はもはや敵方にある。
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||||
結局、小隊の進軍をただ黙って見送った。いずれ彼らがベルリンの街を焼き、銃弾を壁に穿つのかもしれない。
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被弾したとはいえ小隊程度の敵をやっつけるのは私でもあまり難しくはない。軍靴が泥に沈む音が奥に移ろいで、後続が途絶えたことが判ると私の鉤爪はますます鋭く尖った。
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||||
でも、できない。
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目下の敵は小隊規模でも、この一帯には間違いなく複数の大隊が展開されているはずだ。事を荒立てれば間違いなく増援がやってくるだろう。どっちに逃避すれば友軍に助けを求められるのかも、今の私には分からない。空を飛ばないことには――だが、制空権はもはや敵方にある。
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||||
結局、敵の進軍をただ黙って見送った。じきに彼らがベルリンの街を焼き、臣民に弾痕を穿つのかもしれない。
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||||
気づいたら、私の鉤爪は木の幹をえぐりとっていた。濡れぼそった木片を投げ捨てると、ややずれた位置の幹を優しく掴んで小隊とは反対方向の木々に乗り移った。
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「リザちゃん……」
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インカムに向かって小声で呼びかける。相手も小声で応じる。
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<敵が多すぎる。多勢に無勢ね>
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「でも」
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潜んだ声にも低く熱がこもる。
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潜めた声にも低く熱がこもる。
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「このままじゃ、ベルリンが――」
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今月最初のミュンヘン大空襲が脳裏に蘇った。そこかしこから火柱が上がり、人々が悲鳴を上げて逃げ惑い、建物が崩れ去っていく。それが第三帝国の帝都で再演されるのだ。
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今月最初のミュンヘン大空襲が脳裏に蘇った。そこかしこから火柱が上がり、人々が悲鳴を上げて逃げ惑い、いくつもの建物が崩れ去っていく。それが第三帝国の帝都で再演されるのだ。
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||||
<落ち着いて、考えがある>
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||||
「どうするの」
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||||
<このまま私たち二人でポーゼンまで行くの。もちろん大部隊が駐屯しているでしょうけど――私たちなら派手に撹乱ができる。そうしたら>
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||||
<このまま私たち二人でポーゼンまで行くの。もちろん部隊が駐屯しているでしょうけど――私たちなら派手に撹乱ができる。そうしたら>
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ざらざらとしたノイズ混じりの声にほのかな期待が乗る。
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「敵の進軍が止まるかもしれない」
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<そう。ただ、飛んでいくのはダメね。体力を消耗するし、戦闘機がうじゃうじゃいるから>
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これは、私たちにしかできない任務だ。またぞろ、私の手が幹にめりこみはじめた。もし前線の都市を制圧できれば、他の魔法能力行使者の戦線復帰が間に合うかもしれない。
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きっとベルリンを守りきっている間に、イギリスやアメリカに潜入しているという仲間たちがチャーチルの首を、トルーマンの首を、必ずや討ち取ってくれる。
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||||
なにも映さない私の目前に突如として現れた、戦争の趨勢を覆しかねない契機に身震いが止まらなかった。
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<そう。ただ、飛んでいくのは無理ね。体力を消耗するし、戦闘機がうじゃうじゃいるから>
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これは、私たちにしかできない任務だ。またぞろ、私の手が幹にめりこみはじめた。もし前線の都市を制圧できれば、他の魔法能力行使者たちが復帰するまでの時間稼ぎができるかもしれない。
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そして各々が陣地を守りきっている間に、イギリスやアメリカに潜入しているという仲間たちがチャーチルの首を、トルーマンの首を、必ずや討ち取ってくれる。
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なにも映さない私の目前に突如として現れた、戦争の趨勢をも覆しかねない契機に身震いが止まらなかった。
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私がいた収容所には変な部屋があった。ただの盲目の少女でしかなかった頃、帰り道で迷って階段をいくつも降りていった先に、それは広がっている。中にはほっそりとした、あるいはでっぷりとした壺ようなもの、細い棒切れのようなもの、ざらざらした手触りの、たぶん壁画かなにか――などが所狭しに置かれていた。
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中でも気を惹いたのは固くて重い、当時の私の背丈くらいある大きな円盤だった。一体、これはなにに使うものなんだろう。どうしてこんな形をしているんだろう。
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私がいた収容所には変な部屋があった。ただの盲目の少女でしかなかった頃、帰り道で迷って階段をいくつも降りていった先に、それは広がっている。中にはほっそりとした、あるいはでっぷりとした壺ようなもの、固いもの、柔らかいもの、ざらざらした手触りの、たぶん壁画かなにか――などが所狭しに置かれていた。
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特に気を惹いたのは固くて重い、当時の私の背丈くらいある大きな円盤だった。一体、これはなにに使うものなんだろう。どうしてこんな形をしているんだろう。
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金属質のつるつるしたそれの手触りを確かめていると、急にドアが激しく開いて看守の人たちが大騒ぎで入ってきた。
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その後、私はたっぷり叱られてただでさえ少ないその日の食事が全部抜きになった。
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「食料がないわね」
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出し抜けに、リザちゃんが言った。スプーンで缶詰の底をがりがりとこする音もする。私も同じことをしているのでちょっとうるさいくらいだ。
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出し抜けに、リザちゃんが言った。スプーンで缶詰の底をがりがりとこする音もする。私も同じことをしているのでソ連兵に見つからないか心配なくらいだ。
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ポーゼンに進みはじめてから早くも三日近くが経過した。外套に収まるだけの携行食糧は早くも底を尽きた。一時間おきに無線機の周波数を切り替えても友軍との連絡は一向につかない。ひょっとすると地上軍はもうベルリンまで撤退してしまったのだろうか。
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幾度となく、空を飛んで辺りを見渡したい衝動に駆られた。けど、どうしてもできなかった。バルバロッサ作戦以来、ソ連は五年間にわたり私たち魔法能力行使者と戦ってきている。一度でも発見されたら血眼になって追いかけてくるに違いない。そうなればポーゼンを奇襲するどころではない。
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私たちはひたすら平地や開けた場所、近隣の村などを避けて、敵兵との接触を最小限に抑えた。戦車の重苦しいキャタピラが地面を揺らすのが聞こえたら動き、歩兵たちのちょっとした声や足音にさえ敏感に反応した。そのどれもがベルリンを燃やしに向かっているという事実を前にしても、真の目標の前には耐えなければならなかった。
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でも、空腹は耐えがたい。
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「どこかから糧秣を調達しないと」
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こそげ落とした最後の豆を口に含みながら提案した。今や全土がソ連の支配下にあるとはいえ、ポーランドの西半分は私たちの味方のはずだ。こんなドレスを着た子どもが軍人だと言っても信じてもらえないかもしれないけど、外套には顔写真入りの身分証明書が入っている。そう、私たちはなんといっても大尉なのだ。
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幾度となく、空を飛んで辺りを見渡したい衝動に駆られた。けど、どうしてもできなかった。一度でも発見されたら血眼になって追いかけてくるに違いない。そうなったらポーゼンを奇襲するどころではなくなってしまう。
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私たちは開けた場所や近隣の村などをとにかく避けて通り、敵兵との接触を完璧に抑えた。戦車のキャタピラが地面を揺らすのを感じたら逃げ、歩兵たちのちょっとした声や足音にさえ敏感に反応した。そのどれもがベルリンを燃やしに向かっているという事実を前にしても、大義の前には耐えなければならなかった。
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それでも、空腹には耐えがたい。
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「どこかで食べ物を調達しないと」
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こそげ落とした最後の煮豆を口に含みながら言った。今や全土がソ連の支配下にあるとはいえ、ポーランドの西半分は私たちの味方のはずだ。こんなドレスを着た子どもが軍人だと言っても信じてもらえないかもしれないけど、外套には顔写真入りの身分証明書が入っている。そう、私たちはなんといっても大尉なのだ。
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||||
「でも、この有様じゃどの集落もソ連に占領されているんじゃないのかしら」
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白線で縁取られた横顔が空を仰ぐ。こんなにも大量のソ連兵が進軍してきているのなら、少なくとも街や村と呼べるような場所には私たちの鈎十字ではなく鎌と槌の旗が翻っているのだろう。
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「集落から離れたところに家を建てて住んでいる人たちもいるでしょ。まさか、そんなところにまでソ連兵は居座っていないはず」
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リザちゃんが「どうかしらね」と疑念を孕んだ声を投げかけるも、二人そろってお腹の虫がぎゅーっと鳴った。現地部隊との合流を前提に一日分しか携行していない食糧を三等分しているのだから、いつもお腹はぺこぺこだ。ご飯を食べながら、次のご飯のことを考えている。ちょうど雪解けの季節で川が流れていなければ飲み水にも苦労したかもしれない。
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||||
そんな水筒の中身もソ連兵を避けながらの補給では頼りない。
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||||
結局、彼女は寄り道に同意してくれた。平地を離れ丘陵に近づくにつれて、心なしか張り詰めた神経が落ち着いてきた。そろそろ屋根のある場所で寝たいと思った。外套を深々と着込んで全部のボタンを留めても、夜の間は寒くて仕方がない。
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||||
リザちゃんが「どうかしらね」と疑念を孕んだ声を投げかけるも、二人そろってお腹の虫がぎゅーっと鳴った。現地部隊との合流を前提に一日分しか携行していない食糧を三等分しているのだから、いつもお腹はぺこぺこだ。ご飯を食べながら、次のご飯のことを考えている。ちょうど氷が溶けて川が流れていなければ飲み水にも苦労したかもしれない。
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||||
そんな水筒の中身もソ連兵を避けながらの補給では心もとない。
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||||
結局、彼女は寄り道に同意してくれた。平地を離れ丘陵に近づくにつれて、心なしか張り詰めた神経が落ち着いてきた。そろそろ屋根のある場所で寝たいと思った。外套を深々と着込んでボタンを全部留めても、夜の間は寒くて仕方がない。
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||||
「前にね、お父さんと一緒に住んでいた家でね、暖炉が壊れてしまったことがあるの」
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||||
一転、私は明るい調子で話しはじめた。漆黒の道のりを無言で歩き続けるのは退屈だった。
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||||
「あの時もちょうど冬の頃で、家じゅうのお洋服を着込んで、それでも寒かったからお父さんの膝の上に座ってた」
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||||
そこで読んでもらった絵本が当時の私の知っている世界のすべてで、そのうちの一冊がピノッキオだった。ピノッキオの冒険。何度もせかんで読んでもらったお気に入りの話だけど、結末だけは今もあまり好きじゃない。様々な困難を乗り越えたピノッキオは最後、妖精に認められて人間に生まれ変わるのだ。
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||||
どうして、木のままではいけなかったのだろう。ピノッキオは色んなことができて、苦しい試練があっても楽しく暮らしている。松の木でできているからこそ、あんなにどきどきするような大冒険の日々に恵まれている。人間に生まれ変わってしまったら、特別でもなんでもない普通の子だ。
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||||
そこで読んでもらった絵本が当時の私の知っている世界のすべてで、そのうちの一冊がピノッキオだった。ピノッキオの冒険。お気に入りの話だけど、結末だけは今もあまり好きじゃない。様々な困難を乗り越えたピノッキオは最後、妖精に認められて人間に生まれ変わるのだ。
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||||
どうして、木のままではいけなかったのだろう。ピノッキオは色んなことができて、たまに苦しい目に遭っても楽しく暮らしている。松の木でできているからこそ、あんなにどきどきするような大冒険の日々に恵まれている。人間に生まれ変わってしまったら、なんでもないただの普通の子だ。
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||||
”君は特別だ”
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||||
魔法能力を授けられてから私は口々にそう言われるようになった。もし私の目を普通の人と同じにできるとしても、代わりに魔法が使えなくなるのなら、私はずっと見えないままでいい。私には役目がある。
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||||
魔法能力を授けられてから私は収容所で口々にそう言われるようになった。もし目を普通の人と同じにできるとしても、代わりに魔法が使えなくなるのなら、私はずっと見えないままでいい。私には役目がある。
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||||
「あんたのお父さんってどんな人なの?」
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||||
私の数歩先を先導して歩きながらリザちゃんが言った。
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「えっとね、優しくて、賢くて、なんでも知ってるの。今はブリュッセルで戦ってる」
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@ -380,12 +379,12 @@ tags: ['novel']
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「リザちゃんのお父さんは?」
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「同じよ、たぶんね」
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「いつか会えるといいね」
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||||
彼女の歩行は淀みない。段差や障害物がある時だけ過不足なく歩幅が変わるから、まるで道標のように機能する。
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||||
イタリアも大変だと聞いていた。王様に嫌われたムッソリーニ首相が、フューラーに助けられて北の方に新しい国を作ったという。新しい国にはまだ兵士の数が足りないので、代わりにドイツ国防軍が居候している。イタリアとドイツは友達なので助け合わないといけない。
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||||
リザちゃんがドイツに「セッシュウ」されてきたのも同じ頃だ。できればイタリアで戦いたかったのだろうけど、偉い人たちはもっと難しい作戦を考えているのだと思う。実際、彼女がいなければドイツもどうなっていたか分からない。
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||||
「そうね……」
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||||
それきり、会話はぶつ切りに途絶えてぬかるんだ土を踏む音が続いた。たまに、遠く彼方の方角にプロペラの高周波音と、戦車のキャタピラが草木をすり潰す重低音が聞こえる。
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||||
私たちは黙々と行軍して、時折、隙を見ては川の水を飲み干し、再び歩いた。相変わらずお腹は鳴っていても、ポーランドが川の多い国だったおかげでなんとか我慢できている。人はなにも食べていないと三日くらいで死んでしまうのに、水を飲んでいれば二週間は生きられるらしい。
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||||
オーク材でできた彼女の両足は淀みなく動く。段差や障害物がある時だけ過不足なく歩幅が変わるから、まるで道標のように機能する。
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||||
イタリアも大変だと聞いている。王様に嫌われたムッソリーニ首相が、フューラーに助けられて北の方に新しい国を作ったという。新しい国にはまだ兵士の数が足りないので、代わりにドイツ軍が居候している。
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リザちゃんがドイツに「セッシュウ」されてきたのも同じ頃だ。できればイタリアで戦いたかったのだろうけど、偉い人たちはもっと難しい作戦を考えているのだと思う。実際、彼女がいなければ私もどうなっていたか分からない。
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「そうね」
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||||
それきり、会話はぶつ切りに途絶えてぬかるんだ土を踏む音が続いた。たまに、遠く彼方の方角にプロペラの高周波音と、戦車のキャタピラが草木をすり潰す重低音が聞こえた。
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||||
私たちは黙々と行軍して、時折、隙を見ては川の水を飲み、再び歩いた。相変わらずお腹は鳴っていても、ポーランドが川の多い国だったおかげでなんとか我慢できている。人はなにも食べていないと三日くらいで死んでしまうのに、水を飲んでいれば二週間は生きられるらしい。
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夕方、草木に空が覆われている手頃な箇所を見繕って野宿の支度をする。暗くなってからだと薪を集めるにも苦労するので明るいうちにしないといけない。もともと目の前が暗い私には関係なくても、目で見て手頃な木を探せるリザちゃんには大いにある。
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「そう、そこよ」
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彼女が声で示した位置でぴたり、と人差し指を止めて「ぼっ」とつぶやくと、魔法が指先で爆ぜて集めた薪がぱちぱちと言う。灯りのありがたみが分からない私でも、焚き火の温かみはよく分かる。こんな的外れな位置にはさすがのソ連兵は来ないと願うしかない。
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