10話から
All checks were successful
ci/woodpecker/push/woodpecker Pipeline was successful

This commit is contained in:
Rikuoh Tsujitani 2024-01-27 21:21:46 +09:00
parent 8331fb2f7f
commit a927c35fcd
Signed by: riq0h
GPG key ID: 010F09DEA298C717

View file

@ -588,34 +588,99 @@ tags: ['novel']
 とはいえ、そんなこだわりもうっかり捨てたくなるほどにコーヒーは苦い。なんで大人の人たちはこんな苦いものをわざわざ飲んでいるのだろう。実はみんな我慢して飲んでいて、ただかっこつけているだけなんじゃないだろうか。お酒もタバコもきっとそうだ。みんなかっこつけだ。  とはいえ、そんなこだわりもうっかり捨てたくなるほどにコーヒーは苦い。なんで大人の人たちはこんな苦いものをわざわざ飲んでいるのだろう。実はみんな我慢して飲んでいて、ただかっこつけているだけなんじゃないだろうか。お酒もタバコもきっとそうだ。みんなかっこつけだ。
 私は頭の中で必死にコーヒーと闘争するための理論武装を組み立てていった。さもなければ一向に軽くならないコップを両手で握り続ける気力を失いかねなかった。落としたふりをして地面に飲ませようかな、と本気で考えたりもした。  私は頭の中で必死にコーヒーと闘争するための理論武装を組み立てていった。さもなければ一向に軽くならないコップを両手で握り続ける気力を失いかねなかった。落としたふりをして地面に飲ませようかな、と本気で考えたりもした。
 確かに、チョコレートの甘さを噛み締めながらだったら、確かになんとか我慢できそうな気はしないでもない。  確かに、チョコレートの甘さを噛み締めながらだったら、確かになんとか我慢できそうな気はしないでもない。
 そうして旅行鞄の方に伸ばしかけた手を、もう一人の自分が強く制する。こんなことのためにベルギーチョコレートを食べてしまうなんて神への冒涜だわ。決して許されない。でも、でも、もしかしたらコーヒーが飲めるようになるかも……。いいえ、ありえないわ。コーヒーの苦さは神にも救えない。そんな……。  そうして旅行鞄の方に伸ばしかけた手を、もう一人の自分が強く制する。こんなことのためにベルギーチョコレートを食べてしまうなんて神への冒涜だわ。決して許されない。でも、でも、もしかしたらコーヒーが飲めるようになるかも……。いいえ、ありえないわ。コーヒーの苦さは神にも救えない。ええ、そんな……。
 結局、私は水筒の水と交互に飲むことでなんとかコーヒーのコップを空にした。いよいよ寝る直前になって、リザちゃんは思い出したように言った。  結局、私は水筒の水と交互に飲むことでなんとかコーヒーのコップを空にした。いよいよ寝る直前になって、リザちゃんは思い出したように言った。
「ウィスキーもチョコレートと一緒に飲むとおいしいらしいわ。大人の人はみんなやってるそうよ」 「ウィスキーもチョコレートと一緒に飲むとおいしいらしいわ。大人の人はみんなやってるそうよ」
 大人って最低だ。かっこつけのためにチョコレートを浪費しないでほしい。  すっかりふてくされて寝袋にくるまっている間に、地球がぐるりと回って私の顔にお日さまの光が当たった。
 すっかりふてくされて寝袋にくるまっている間に、太陽の光が顔に当たって朝が訪れていた。
---
 リザちゃんに急かされて半分寝たまま朝の支度をさせられる。文字通り、させられている。手渡されたものを食べて、飲んで、服を脱がされて、濡らした布で拭かれて、着せられる。うんと時間をかければ自分でもできないことはないし、家にいる時はなるべくやっていたけれど作戦行動中はそういうわけにもいかない。
「あら、月のものが来ているのね」
「え、そうなんだ」
 どうりで股の辺りがむずむずすると思った。いつもだったらあの独特な匂いで嫌でも気付かされるけど、こんなに長くお風呂に入っていないと鼻が全然効かなくなる。本当だったら入りたくてたまらないはずなのに意外にそうでもないのは、お腹が空いているとか喉が乾いているとか、他にしたいことが多すぎて身体が忘れてしまっているのだと思う。もし、息ができなかったら息をしたい以外にはきっとなにも考えられない。
 撤収が済んで私たちの進軍が再開されると、股にあたるやたらごわごわとした布の感触が気になった。なんとかうまく歩こうとして大股歩きにすると、今度は慣れない歩き方をしているせいで余計に疲れる。ただでさえ女の子は月のものが始まっている最中は元気がなくなる。つまり、お腹が空いていて、お風呂に入れなくて、月のものが始まっていて、チョコレートを食べていない私は今、ものすごく元気がない。
 足が草木をかき分ける音が減って、全身に熱を感じはじめたので森林を抜けたのだと分かった。朝から無言で歩いていたリザちゃんが「あっ、あそこ」と急に叫んだので、頭をあげて見えない視界になにかを見出そうとした。「家があるわ、とても大きい」と彼女が言ったので、途端に萎みきっていた心臓が高鳴る。
「どれくらい、大きそう?」
「近づかないと分からないけど、たぶん納屋があるわ。養牧をしているのかもしれない」
 今日の夜には屋根のついた家で眠れる可能性がいっそう高まった。家のご主人が気難しい人だったらどうしようと心配していたけど、納屋でなら一晩寝させてもらえるはず。なんだったらついでに牛さんのお世話をしてもいい。ついでにミルクも飲めたら嬉しい。むくむくと膨らむ妄想が止まらなくなって、鉛の重さだった足取りが空を飛んでいるように軽い。
「本当に牧場だった、牛もいる」
 さらに歩いた後、リザちゃんが感慨深そうにつぶやいた。手をのばすと乾いた薄い木の感触が伝わる。ぺたぺたと手を動かすと輪郭が分かる。これは、ゲージだ。
「ミルク、分けてくれるといいな」
 のんきなお願いに最初は朗らかに応じていた彼女が、家の近くにまで足を伸ばした途端に声をこわばらせる。「いえ、それは無理そうね」首を傾げて「どうして」と問うと、質問には答えず「いつでも飛べるようにして」とだけ答えた。もう家はすぐそこなのに。だって、ほら、家の中から男の人たちの楽しそうな声が聞こえる。
 男の人たち?
 次第に、リザちゃんが心配していることが分かった。彼女のオーク材の手が木でできた扉を強く叩くと、ちょっと変な響いて家の中の男の人たちの声も止んだ。ぼそりと私に告げてから――「もしソ連兵がたくさんいたら、即離脱よ」――家の中に向かって叫んだ。言われた通りに私は踵をわずかに浮かせる。
「あの! すいません! 食糧を分けてもらえませんか!」
 潜めた息が次々と吐き出される音がする。ややあって、のしのしと重い足音がして声が返ってきた。扉は開いていない。
「どちらさんかね」
 変に演技したような声色だけど、言葉はれっきとしたドイツ語だった。
 リザちゃんは一瞬、口をもごもごさせていたがすぐに決心した様子で叫んだ。ただし、一歩半ぶん、扉から左に身体をずらして。
「……私たちはドイツ国軍所属の軍人です。その、作戦行動中に糧秣が不足しまして、よろしければ少々分けて頂けないかと」
 また声が途絶えた。私の踵はほとんどつま先立ちに近い高さまで上がっている。ここで食糧を得られなかったらとても困る。でも、うっかり深手を負ったら作戦自体が危うくなる。
 幸い、扉の向こうにいる男の人は純粋なドイツ語の発音で厳かに話しはじめた。
「我々もドイツ軍人だ。部隊、所属、名前を言え」
 ほっと息をなでおろして、私たちは顔を見合わせる。浮いた踵が地面にぺたりとくっついた。
「部隊には所属してないわ。私たちは国家魔法少女よ」
 直後、木の扉がぶわっと開いて大柄な男の人の白線がじわじわと模られはじめた。手には小銃が握られている。どやどやと奥の方で騒ぐ声の感じからして、分隊規模の人数がいるようだった。
「国家魔法少女だと? 噂には聞いていたが……そんなものが実在するとは」
 リザちゃんも本当は疲れているのだろう。丁寧に教えるのをいい加減におしまいにして、男の人の目の前で指を「ぱっちん」した。すると、激しく火花が散る音がして奥の人たちをざわめかせた。特に男の人は驚いて、どたんと尻もちをついて倒れこむほとだった。痛くはなくとも間近でやられるとけっこうびっくりする。肌がぴりっとするからだ。
 魔法の力を直に見て、鞄の中の身分証も見た彼らは一転、私たちを文字通りの上官待遇で出迎えてくれた。扉を開けた男の人が彼らの中では一番偉く、ウルリヒ伍長と名乗った。本隊からはぐれて撤退を模索するも、あちこちにいるソ連兵に阻まれて立ち往生していたところ、ちょうどこの民家を見つけたので「セッシュウ」したのだという。セッシュウ。じゃあ、ここはもうポーランドじゃなくてドイツのものなんだ、と私は納得した。
 そして、待ちに待った温かい食事がやってきた。彼らはすでに食事を終えていたらしく、私たちのために大きい身体をあくせくと動かしてシチューと黒パンをたんまりと振る舞ってくれた。私のぶんはまずリザちゃんに渡されて、彼女から私にそっと手渡された。やけどしそうなほど熱いシチューがお腹の中にすとんと落ちていって、じんわりと体中が温まった。あっという間に食べ尽くした後に冗談めかしておかわりを要求すると、すぐさまなみなみと注がれたシチューと、追加の黒パンがやってきた。私たちって本当に偉いんだ、と階級章のありがたみを初めて実感した。
「でも、リザちゃん、よく気づいたね」
 シチューと黒パンを同時に口いっぱいに頬張りながら、ひと心地ついた安心感でふとした疑問が頭に舞い戻ってくる。
「なにに?」
「男の人たちが中にいるってこと。耳がいい私でももう少し近づかないと分からなかったのに」
 ややあってリザちゃんは静かに「別に、ただの勘よ」と答えた。「ふうん。ソ連兵じゃなくてよかったね」と私も返す。
 食事が済むと、ウルリヒ伍長がのしのしと近づいてきた。私たちの目的を知りたいみたいだった。「えっとね、ポーゼンにある研究施設を壊さないといけないんだって」と言うと、伍長さんは「ポーゼンか」とつぶやいて、しばらく黙りこくった。「貴殿らの魔法で、施設と言わずポーゼンの拠点全体を破壊できないか? 後方を撹乱してソ連兵の進軍を遅らせたい」この提案にはリザちゃんが応じた。「どうかしら。私たちの力は無限ではないの。傷を負ったり疲れると徐々に失われる。ソ連兵の規模によるわ」伍長さんは、またうなった。「もちろん、我々も随伴する。このままおめおめとベルリンに逃げ帰っても状況は良くならない」同じ部屋にいるであろう兵士たちがざわめいたが、伍長さんは無視して続けた。「どうか、頼む。その研究施設とやらの破壊にもぜひ協力しよう。長くいすぎたせいで少々、土地勘もあるしな」
 今度こそ、私が先に答える。
「いいと思う。たくさん味方がいた方が有利になるよ。ご飯を食べたから私たちも元気になったし」
 お父さんほど歳が離れていそうな男の人に深々と頭を下げられるのは慣れないけど、初めて自分に部下ができたような気がしてちょっぴり誇らしい気持ちになった。
 さっそく、伍長さんは分隊員を呼んで私たちの前に整列させた。それぞれ、アルベルト、エルマー、ハンス、クルツ、オットー、パウルと自己紹介した。できるだけ上官らしさを意識した態度で、顔をつんとあげて「ひざまずいてちょうだい」と言うと、三フィート以上も背の高い男の人たちがさっと腰を落とした。一人一人の顔をぺたぺたと触っていくと、私の視界の中の白線が細かい輪郭を描き出す。
「マーリア臨時大尉どのは目が見えないでございますか」
 芝居めかした口調でパウルが言った。さすがの私でも馬鹿にされていると分かる態度だったので、ちょっとムッとした。
「そうよ、でもあなたよりずっと強いんだから」
「おや、それはたいへん恐ろしゅうございますな、大尉どの」
 にたにたと笑うパウル一等兵の顔の輪郭が、声の調子に合わせてゆらゆらと動く。こういう時って大声で怒鳴ったりしないといけないのかな、と考えていたあたりで、横から伍長さんが「上官にその口の聞き方はなんだ」とたしなめると彼はすぐに直立不動の姿勢になおった。
「申し訳ない、こいつらは国民突撃隊上がりで」
 国民突撃隊、と聞くとケルンの街角で管制官に叱られていた男の子たちを思い出す。彼らもそのうちこうやって兵士になっていくのだろうか。この兵士たちも昔はああいう感じだったのだろうか。大人の男の人はみんな紳士なのに、男の子はどうしてあんなに乱暴なんだろう。男の子はいつ、どこで急に「紳士」に早変わりするんだろう。
 暖炉の火の灯った温かい部屋でうたた寝をしていると、夜が来るのも早かった。作戦行動の細かい指示はリザちゃんが伍長さんと相談して決めていたので、私がすべき仕事は特になにもなかった。アルベルト一等兵が沸かしたお風呂に入って、エルマー一等兵が作った夕飯を食べ、クルツ一等兵にトイレを案内してもらい、オットー一等兵が整えた客室のベッドで眠ればよかった。最後に、パウル一等兵がのそのそと近づいてきて、私のそばに座った。吐く息がお酒くさかったので、手には酒瓶かなにかが握られているに違いなかった。
「よう、臨時大尉どの」
「なによ」
 つん、とすました顔で応じたが、彼はまったく意に介さない様子で会話を続ける。
「目が見えないってどんな気分なんだい」
 また私を小馬鹿にしようとしている、とたちまち不機嫌になった私は質問には答えず「どうでもいいでしょ、あっち行って」と声を荒らげた。
「ちぇ、なんだよ、つれないな」
 意外にもパウル一等兵はつきまとうのでもなく、嫌味を繰り返すのでもなく、あっさりと引き下がった。ちゃぷちゃぷと液体が揺れる音を手元でたてながら、頼りない足取りで遠ざかっていく。身体は大きいのにまるで子どもみたいな人だと思った。
 入れ替わりにリザちゃんが部屋に入ってくる。石鹸のいい匂いがしたので、彼女もお風呂に入ったと分かった。昨日とはうってちがって、まるで高級ホテルに泊まったかのような変わりようだ。
「あのね、リザちゃん――」
「しっ、黙って聞いて」
 けれども、彼女の声は暗く沈んでいた。そういえば食事の時もその後も、あまり喋っていなかった。いくら私よりお姉さんでもお腹いっぱいに食べられて嬉しくないはずがないのに、どうしてこんなに怖い声を出すのだろう。私はふかふかのベッドに横たえていた身体を起こして、姿勢をしゃんと正さなければならないような気がした。
「話そうかどうかすごく迷ったんだけど、やっぱり話しておくべきだと思ったの。今後のためにも」
 案の定、リザちゃんの声は低いままだった。
「どうしたの……」
「昼に、なんで先に中に人がいるのか分かったかって、聞いたわね」
「うん」
「ゲージの近くには死体があったの、歳をとった男の人と女の人。きっと夫婦だわ」
「えっ」
 知らなかった。あの時はいろんな気持ちでいっぱいだったから、視界を白線で満たす努力を怠っていたのだ。とはいえ、踵をめいいっぱい踏み鳴らしたところで私には死体と麻袋の区別もつかない。となると、当然の疑問が口を衝いて出る。
「なんで教えてくれなかったの?」
「ごめんなさい」
 珍しく、ちょっぴり高飛車なお姉さんが素直に謝ったので、ぎょっとした。それから、せきを切ったように話しはじめる。
「こう言ったらなんだけど、むしろ、ソ連兵が二、三人だけいる方がずっと楽だった。それくらいなら簡単に倒せるもの。そして、素知らぬ顔で家の中のものを食べて、平然と寝ていられた。でも、ここにいたのはドイツ軍人だった。私たちの味方、友軍。あの死体は、まだ真新しかったわ」
 急に、ふかふかのベッドが石みたいに固く感じられた。おいしいご飯で満たされた胃袋がひっくり返って、浴びたお風呂のお湯が汚水に変わったようだった。
「殺したの、あの人たちが」
「それ以外に考えられる? 台所も見たけど、お料理をした様子はなかったわ。今日食べたシチューだって、外にある死体が生きていた時に作ったものなのよ」
 口の中いっぱいに、コーヒーよりもひどい苦味が押し寄せた。今すぐこれを取り払えるのなら、昨日のコーヒーを一パイントぶん飲んでも構わないと思った。
「なんで、なんで……」
「だから、ごめんなさい。私も限界だったの。もし、このことを事前に言っていたら、あなたはどんなにお腹が空いていても我慢したでしょう。誰もいない店のチョコレートを手に入れるのに財布を空っぽにするくらいだもの」
 彼女の輪郭を模る白線はわなわなと小刻みに震えていた。私はゆらめく曲線の軌跡を追いながら、考えた。前もって知っていたら、本当に彼女の心配する通りに私は我慢できただろうか。知っていても、やっぱり耐えられなくてシチューをもらったんじゃないだろうか。すっかりお腹が満たされて、お風呂を浴びて、ふかふかのベッドの上にいる今となっては、その時の自分がどうしていたかなんて全然分からない。
 分かっているのは、私も一緒に決めなきゃいけないことを、全部彼女が代わりに決めてくれたということだった。
「明日からは二人で用心しましょう。彼らは友軍だけど、人殺しよ。なるべく黙っていたかったけれど、今後のために、どうしても言わなくちゃいけなかったの」
「……ありがとう、私も、ごめんなさい」
 部屋がしん、と静まり返った。もし、私がもっと頼りがいのあるお姉さんだったら、彼女も遠慮なく私に相談できたのかもしれない。もし、私が意地っ張りじゃなかったら、彼女も一人で抱え込まずに一緒に罪を分け合えたかもしれない。
 ただ与えられるままにして食べるシチューは、とてもとてもおいしかった。人生で一番おいしかった。これからは、二度と味わえない。決して味わえない。
--- ---