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@ -32,7 +32,7 @@ tags: ['novel']
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父さんが持ち帰るどんなパソコン雑誌にもその単語はしかと記されていた。漢字を覚えて雑誌を読むのにさほど不自由しなくなってきた年頃には、頭の中で膨れあがったインターネット像はまるで大銀河のようであり、テレビを通してしか見たことがない東京やアメリカでもあった。要するにそこが世界の中心で、すべてで、尊敬すべき先人たちがいて、自分ひとりが取り残されているに違いないという観念に囚われていた。
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にも拘らず、いつ打診しても父さんはてんで取りつく島がなかった。「金がかかる」の一言で僕の願いは退けられ、しゅわしゅわと鳴る発泡酒とそれをごくごくと飲み干す父さんの喉仏を恨めしげに睨むしかなかった。だが、本棚の片隅に使いさしのテレホンカードを溜める専用の箱ができて、パソコン雑誌の束が塔を形成するに至った頃、僕はついに見つけた。
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**『ISDN公衆電話』**
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グレーの公衆電話ボックスにはそう刻まれていた。ある日「たまには外で遊べ」の一言で家を追い出された僕は、行くあてもなくバイソンの行動範囲を避けて街とは反対方向の窪んだ山を目指した。陽の光を照り返す田んぼの水面が僕の退屈を見計らったように断ち切れて、急勾配のあぜ道へと変化した先にそれはあった。あぜ道から外れて雑木林の始端に佇む、異様な色合いの公衆電話ボックスに僕はたちまち吸い寄せられた。
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グレーの公衆電話ボックスにはそう刻まれていた。ある日「たまには外で遊べ」の一言で家を追い出された僕は、行くあてもなくバイソンの行動範囲を避けて街とは反対方向の窪んだ山を目指した。陽の光を照り返す田んぼの水面が僕の退屈を見計らったように断ち切れて、急勾配のあぜ道へと変化した先にそれはあった。あぜ道から外れて雑木林の始端に佇む、異様な色合いの公衆電話ボックスに僕は吸い寄せられた。
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ISDNのアルファベット四文字はすでに頭に染み込んでいた。ISDNはNTT。インターネットはNTT。パソコン雑誌でも繰り返し出てきたし、テレビのコマーシャルでも繰り返し聞かされたフレーズだ。兎にも角にも明確なのはISDNとやらがあればインターネットができるという事実だった。僕は全速力で引き返してノートパソコンをこっそり取りに戻った。
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三キログラムもあるノートパソコンの角が背中に突き刺さり、バンドが両肩にめりこむ辛さもインターネットができる興奮の前には気にならなかった。財布にぎっしり詰めた使いさしのテレホンカードは他にも大量に箱の中にある。どうせ補充されるから気づかれる心配もない。万が一気づかれたとしても、大した咎めは受けないだろう。父さんはお金がかからないぶんには大抵のことに寛容だった。
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この日も半ドンの土曜授業を終えるやいなやダッシュで帰り五分で昼食を済ませて、そそくさと家を出てきた。このところ積極的に外出する僕の姿に母さんは目に見えて安心しきっていたが、僕の行き先は街ではなく、バイソンたちがたむろしているゲーセンでもなく、スーパーストリートファイターⅡでもなかった。リュックの中には大銀河を征く宇宙船があった。
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@ -178,7 +178,7 @@ tags: ['novel']
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誠>こんなのパソコン雑誌でも見たことないや
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梨花>ようやくまともなバージョンが出たばかりだから。日本語版の制作ソフトもまだ発売されていないはず
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彼女の得意げな顔がディスプレイを通して浮かんでくるようだった。
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チャットは毎回、僕のノートパソコンがバッテリー切れを予告するタイミングでお開きとなった。それでも僕たちは毎週末の決まった時間、わずか二時間にも満たない中でそれぞれの大銀河を共有した。遠く離れた星系から出発した宇宙船同士が出会ったように、広大な銀河の全貌を探るべく互いに星図を描きこんだ。
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チャットは毎回、僕のノートパソコンがバッテリー切れを予告するタイミングでお開きとなった。それでも僕たちは毎週末の決まった時刻、二時間にも満たない中でそれぞれの大銀河を共有した。遠く離れた星系から出発した宇宙船同士が出会ったように、広大な銀河の全貌を探るべく互いに星図を描きこんだ。
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二百五十六色のディスプレイに映るフォントの粒立ちが見える。ドットの一つ一つに宇宙の砂塵を感じる。その砂塵の一つ一つが礫岩や小惑星群を構成している……。
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僕は一生このままが良かった。初めて気持ちの通じ合う友達ができた気がした。
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@ -198,7 +198,7 @@ tags: ['novel']
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どうやらノートパソコンを取り上げるだけでは飽き足らず、僕を家から追い出したいようだった。こうして僕はパソコンを持たず、財布とパソコン雑誌が詰め込まれた虚無のリュックを片手に灼熱の太陽の下へと放逐された。
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行くあてのない足は半ば習慣的に山あいに向く。浮くように軽いリュックと重く沈んだ気持ちを抱えながら、土と木の匂いでむせそうな森林に入って、グレーの電話ボックスの中に腰を落ち着けた。変わらずそこに鎮座する電話機は、宇宙船に乗らずして現れた僕にワープゲートの入場口を固く閉ざしている。
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仕方がなくリュックを開けて比較的読み込んでいない号の再読を始めた。やがて約束の時間が訪れて、淡々と五分が過ぎ、十分が過ぎた。パソコンの前で静かに怒りを燃やす梨花ちゃんを想像する。殺すと言ってもまさか文字通り殺されはしないと思うが、どつかれる覚悟くらいはした方がいいかもしれない。
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三十分が過ぎた頃、前触れなくどん、と電話ボックスが叩かれたので僕はパソコン雑誌から顔をあげた。最初は全然集中できなかったが、いざ腹をくくると妙に気持ちが落ち着いて読み進められた。それが梨花ちゃんの顔――普段は一文字に結ばれた口元がへの字に曲がっている――を目の当たりにするやいなや崩壊して、たちまち僕はボックス内の隅に身を縮めた。まもなくドアが開けられて、湿った空気とともに彼女が踏み込んできた。
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三十分が過ぎた頃、前触れなくどん、と電話ボックスが叩かれたので僕はパソコン雑誌から顔をあげた。最初は全然集中できなかったが、いざ腹をくくると妙に気持ちが落ち着いて読み進められた。それが梨花ちゃんの顔――普段は一文字に結ばれた口元がへの字に曲がっている――を目の当たりにするやいなや崩壊して、たちまち僕はボックス内の隅に身を縮めた。勢いよくドアが開けられて、湿った空気とともに彼女が踏み込んできた。
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「とりあえず殺すつもりだけど一応言い訳を聞いてあげる」
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「……父さんにノートパソコンを取られちゃったんだ。もともと僕のじゃないって言ったろ」
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おそるおそる口上を述べると、彼女は仁王立ちのまま片方の眉を釣り上げてふうん、と唸った。
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@ -344,7 +344,7 @@ tags: ['novel']
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えーっと教室じゅうから大声があがった。口々に、帰ったら遊ぼうと思ってたのに、とか、じゃああいつん家でロクヨンできないじゃん、とか、塾が、クラブが、といった不平不満が噴出した。それらの声に被せるように指導教員が声を張った。
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「でも仕方がありませんよね? お二人が謝らないのであれば、これはもう六年二組の連帯責任ということです。皆さんもお二人の罪を見過ごした罰を受けなければなりません。それが社会なのです」
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たちまち場の空気が凍った――そして、取り巻き二人に対する視線が興味本位から、ゆっくりと、しかし加速的に、敵意へと変遷していく過程が感じとれた。
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クラスメイトの中から誰かがぼそりと「謝れよ」と言った。「謝ればいいじゃん」とさらにもう一人。趨勢は決定づけられた。二人への謝罪要求は波紋を打つように徐々に広がり、やがて糾弾の大波を象って氾濫した。
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クラスメイトの中から誰かがぼそりと「謝れよ」と言った。「謝ればいいじゃん」とさらにもう一人。趨勢は決定づけられた。二人への謝罪要求は波紋を打つように徐々に広がり、じきに糾弾の大波を象って氾濫した。
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**「あーやまれ! あーやまれ!」**
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さしものバイソンの尖兵も、これにはひとたまりもない。バイソンは別のクラスにいて、彼らは孤立無援だった。多勢に無勢だ。二人は顔を青ざめさせながらきょろきょろと視線を泳がせて、それから互いに顔を見合わせた。そうして二人の口から、ぼそぼそと謝罪めいた文言が出るまでにもう何分も経過していた。だが、指導教員は恍惚とした表情でなおも二人を追い詰めた。
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「わたくしは真摯に、と言いました。真摯というのは、真心を込める、本気で、という意味です。今のお二人の謝罪は真心がこもっていましたか? わたくしにはそうは見えません」
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@ -436,7 +436,7 @@ tags: ['novel']
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太ももまで丈がある長靴の大部分が泥に汚れた辺りで、グレーの公衆電話ボックスにたどり着いた。雨はもう止んでいた。内側に貼られたダンボール板の遮蔽は変わらず、外側のプラスチックの表面が雨で濡れて水滴がこびりついている。
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中に足を踏み入れようとして、考え直した。僕の世界を泥で汚したくない。やむをえずダンボール板の一部をちぎって床に置き、そこに脱いだ長靴を立てた。
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濡れたかっぱを電話ボックスの内側から外に向かって脱いで、水分を入念に払ってから折りたたんだ。そうしてから電話機本体と金具の隙間に差し込んでおいた。次にインターネット接続の準備に取り掛かる。微かに抱いていた心配はどうやら杞憂だったらしく、ノートパソコンはもちろんパソコン雑誌も全然濡れていなかった。いつも通りに電源を入れて、モジュラーケーブルを接続して、電話機にテレホンカードを読み取らせた。
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彼女のCGIチャットはとっくにブックマークしてある。ハードディスクのうなり声とともに描画されたチャット画面は前回となにも変わっていない。履歴を読む限りでは僕たちはまだ仲良しに見える。
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彼女のCGIチャットはとっくにブックマークしてある。ハードディスクのうなり声に合わせて描画されたチャット画面は前回となにも変わっていない。履歴を読む限りでは僕たちはまだ仲良しに見える。
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僕はせかせかとキーボードを叩いて「入室」ボタンを押した。タスクバーの時刻表示は午後一時ちょうどを示していた。
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**『誠 さんが入室しました』**
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誠>来てる?
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これは……。
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「iMacだ!」
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僕は思わず叫んだ。ボンダイブルーのスケルトンカラーが印象的なiMacは、Apple Computer社製の一体型コンピュータだ。二百三十三メガヘルツのPowerPC 750に、三十二メガバイトのメモリが搭載されている。Windows95が入っている四年ものの僕のノートパソコンよりも何倍も速い。
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昨年の夏に発売されてからというものありとあらゆるパソコン雑誌の話題は当面iMac一色に染まっていた。むろん、たとえお年玉を二十年貯めたって僕には買えやしない。父さんも新しいパソコンは買ってくれないだろう。そんな高嶺の花が目の前に、さも当たり前のように部屋に溶け込んで鎮座しているのだから、驚きを通り越して唖然とした。
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昨年の夏に発売されてからというもの各社パソコン雑誌の話題は当面iMac一色に染まっていた。むろん、たとえお年玉を二十年貯めたって僕には買えやしない。父さんも新しいパソコンは買ってくれないだろう。そんな高嶺の花が目の前に、さも当たり前のように部屋に溶け込んで鎮座しているのだから、驚きを通り越して唖然とした。
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「あ、やっぱ分かるんだ。出てすぐに買ってもらったの」
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僕は驚嘆の眼差しで彼女を見た。
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「君ん家って、もしかして大金持ち?」
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「君ん家って、もしかして金持ち?」
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「まあね」
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そのあと彼女は僕を水色のベッドの上に座らせて一旦部屋から出ていき、薬箱を携えて戻ってきた。ここへ来る間に出血は止まっていたが、アルコールのついた脱脂綿を傷口にあてがわれるとやはり激しく染みた。治療が済むと、今度は学習机の椅子を引いて座るように示した。僕がおずおずと広い学習机の前に腰掛けると彼女は背後から手を伸ばしてiMacの電源を入れた。
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明るい高精細のディスプレイがMacOS8のデスクトップ画面を映し出した。彼女は手を伸ばした状態のままマウスを操作して、ネットスケープナビゲーターを起動した。そして、ブックマークからCGIチャットを開いた。優れたマシンパワーゆえか僕のノートパソコンとは比べものにならないスピードでウェブページが描画された。
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明るい高精細のディスプレイがMacOS8のデスクトップ画面を映し出した。彼女は手を伸ばした状態でマウスを操作して、ネットスケープナビゲーターを起動した。そして、ブックマークからCGIチャットを開いた。優れたマシンパワーゆえか僕のノートパソコンとは比べものにならないスピードでウェブページが描画された。
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「実は、ずっと見てたんだ」
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ぽつりと彼女が言った。
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「こーんなに書いちゃって、更新ボタンを押すのがだるかったんだから」
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「こーんなに書いちゃって、更新ボタンを押すのが面倒だったんだから」
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「ごめん」
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僕は謝った。この謝罪には色々な意味がある。彼女は返事をしなかった。ひどく長い沈黙が続いたので、振り返って顔を見そうになったところ――急に彼女は僕を抱きしめてきた。
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一瞬、ついに捕食されるのかと思った。濡れた髪の毛が僕の両頬を撫でる。嗅ぎ慣れないシャンプーかボディーソープの香りが鼻腔をくすぐった。浴室のシャンプーとボディーソープを使ったのだから、自分自身と同じ匂いがするはずなのになぜだかそのようには思えなかった。
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@ -615,7 +615,7 @@ tags: ['novel']
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彼女は否定しかけたが、途中で止めて言い直した。
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「……でも、あたしが心臓を治すまでにはなんとかなるかもね」
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「あーっ!」
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そこで僕は肝心の問題を思い出して絶叫した。さしもの梨花ちゃんも身体をこわばらせたのが判った。
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そこで僕は肝心の問題を思い出して絶叫した。
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「僕のノートパソコン、壊れちゃったかも」
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座席から立ちあがると僕は部屋の床に置かれたリュックからノートパソコンを取り出した。固まった泥が筐体の至るところにこびりついている。ノートパソコンをこじあけると、内側にも入り込んでいた泥が床に落下した。
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「わーっ、ここで開けるな!」
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@ -623,16 +623,16 @@ tags: ['novel']
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「待って、電源は点けない方がいいかも。きれいに掃除してからじゃないと」
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「でも掃除って言ってもどこをどうやれば」
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「精密ドライバならあるよ」
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僕はふと思い当たった。リュックを開き、防水用に詰めたパソコン雑誌の中から目当ての号のページをめくりあてた。コップの水をこぼしてパソコンが壊れた人の失敗談と家財保険の紹介記事だ。このページに応急処置の方法が書いてあったのだ。
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僕はふと思い当たった。リュックを開き、防水用に詰めたパソコン雑誌の中から目当ての号のページをめくりあてた。コップの水をこぼしてパソコンを壊した人の失敗談と家財保険の紹介記事だ。このページに応急処置の方法が書いてあったのだ。
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「まず、電源は絶対に入れず……本当だ。えーと、ノートパソコンの場合は底面の四隅にネジが……」
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僕たちはパソコン雑誌の図解に則ってノートパソコンのクリーニングを進めた。エタノールに漬けた綿棒で泥が入り込んだ基盤の隙間という隙間を清掃して、ヘアドライヤーで筐体の隅々まで乾かした。ノートパソコンが元の輝きを取り戻した頃には、二人とも変な姿勢を長時間維持した弊害で腰や背中が痛くなった。部屋の大きな窓の外ではとっくに日が沈みきっていた。
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「これでダメだったらしょうがないよ」
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僕は梨花ちゃんに言った。
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「でも、一応渡しておく」
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彼女は自分のノートを袈裟切りで一枚破って、学習机のペン立てから抜き取ったボールペンで文字を書いた。手渡された紙片を読むと、またURLだった。前回と異なるのはその下に「ID」や「PASSWORD」と書かれた欄が増えているところだ。
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「それ、あたしのパパが契約してるレンタルサーバの管理用URLとログインパスワード。そこに全部置かれてる」
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「それ、レンタルサーバの管理用URLとログインパスワード。そこに全部置かれてる」
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洗濯乾燥機によって元通りに乾かされた服に着替えて、いよいよ玄関まで見送られる段になると彼女は念押しした。
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「あたし、退院したら絶対にアクセスするから。ちゃんと作っておいてよ、じゃないと」
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「あたし、治ったら絶対にアクセスするから。ちゃんと作っておいてよ、じゃないと」
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僕は梨花ちゃんの顔を見て、目を合わせた。肩までかかるロングの髪型にやや釣りあがった目元が際立つ、この勝ち気な女の子が重病を抱えているというのはどうしても信じがたかった。一文字に結ばれた唇は頑なに閉じられていて、今は僕の返事を待っている。
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「君よりうまく作ってみせるよ。殺されたくないからね」
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そう言い残して、玄関から外に出た。後はもう振り返らなかった。空が晴れて、月明かりに照らされた夜の田んぼの道はとても美しかった。
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@ -648,15 +648,15 @@ tags: ['novel']
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なんか武勇伝を語っているみたいで嫌だな。じゃあ、千佳ちゃんの話をするのはどうだろう。
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あれはお互い苦い思い出だったね。でも千佳ちゃんだって交換日記用のノートを破られたのは事実なわけだし、やり方はともかくとしても仕返ししたい気持ちは否定できないんじゃないかな。実は僕も千佳ちゃんに失礼なことをしちゃって、だから後日に交換日記の再開を申し出たんだけど「今は一組の淳くんとしているの」って断られちゃったよ。だけど、もじもじしている時よりもさっぱりしていて好きになれそうな感じだったな。
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いや、この話はよくないな。プリクラの話にするか。
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あの後にプリクラ帳っていうのを作ってみたんだ。でも、君と撮ったやつしか貼っていない。ゲーセンのプリクラが二台に増えて、三台に増えて、今じゃ専用コーナーと化しているほど盛況なのに、なんだかんだで誰とも撮る機械がなかったんだ。言葉には表しづらいけど……なんか違う気がしてね。
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それで、もし君がよければ、次に会った時に一緒に撮らないか。UFOキャッチャーのぬいぐるみはたぶんもう一発では取れないから勘弁してほしい。
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あの後にプリクラ帳っていうのを作ってみたんだ。でも、君と撮ったやつしか貼っていない。ゲーセンのプリクラが二台に増えて、三台に増えて、今じゃ専用コーナーと化しているほど盛況なのに、なんだかんだで誰とも撮る機会がなかったんだ。言葉には表しづらいけど……なんか違う気がして。
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だから、もし君がよければ次に会った時に一緒に撮らないか。UFOキャッチャーのぬいぐるみはたぶんもう一発では取れないから勘弁してほしい。
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うーん、この話題は悪くなさそうだけど後に回した方が格好がつきそうだ。最初にするなら電話ボックスの話がいいかもしれない。
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グレーの公衆電話ボックスはさすがに卒業したよ。家にインターネット回線を引いてもらえたし、止まっていた宅地造成の計画が動きだしたんだ。今は人や重機でごった返しているから、昔みたいに独り占めしてちゃ怒られる。なんでも父さんが勤めている町役場にもとうとうデジタル化の波が来たみたいで、これからはITの時代だという認識にようやくなったらしい。こんな田舎町にも毎秒一.五メガビットのADSL回線が通っているぐらいだからね。
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そういう事情だから、新しいパソコンを買ってくれっていう打診も条件付きで通った。「県立一高に受かったらな」って。県内一の難関校だけど、バイソンともう一度戦えと言われるよりは千倍楽勝だと思ったね。
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新しいパソコンはiMacにしたよ。クロック周波数が一ギガヘルツもあるから、申し訳ないが君の持っている旧モデルより断然速い。このチャットの改良も捗った。君に言われた部分描画の自動更新は割とすぐにできたけど、どうにも特定の時間単位ごとに再読み込みさせる方法しか実装できなくてね。相手の発言に応じてリアルタイムで読み込むようにしたかったんだ。それで、簡単にできると聞いてFlashで作り直してみた。たぶんうまくいっているんじゃないかと思う。
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新しいパソコンはiMacにしたよ。クロック周波数が一ギガヘルツもあるから、申し訳ないが君の持っている旧モデルより断然速い。このチャットの改良も捗った。君に言われた部分描画の自動更新は割とすぐにできたけど、どうにも特定の時間単位ごとに再読み込みさせる方法しか実装できなくてね。相手の発言に応じてリアルタイムで読み込むようにしたかったんだ。それで、Flashで作り直してみた。我ながらうまくいっているんじゃないかと思う。
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いつの間にか「パソコンとかの話」に戻っていた。落ち着け、あれから四年も経っているんだぞ。彼女が今もこういう話に興味を持っているとは限らない。そもそもこんな話し方でいいのか。馴れ馴れしすぎじゃないのか。
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僕は回想していると時間感覚がおかしくなる。いつ来てもいいように準備していたけれど、いざこの文字列を見ると懐かしさがこみあげて色々と思い出してしまった。総合室での出来事だって、こうして振り返るとはっきり覚えている。
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せめて相手の方から話してくれれば僕もそれに合わせられるのに、一向に発言してくれないものだから回想の止め時が見つからなかった。ひょっとすると彼女も同じで、僕のように昔を振り返っているのかもしれない。
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せめて相手の方から話してくれれば僕もそれに合わせられるのに、一向に発言してくれないものだから回想の止め時が見つからなかった。ひょっとすると彼女も同じで、僕のように昔を思い出しているのかもしれない。
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ちらりとメニューバーに目をやると、時刻表示は日曜日の午後一時をゆうに十分も過ぎていた。
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僕は真新しいチャット画面の一番上に浮かぶ、あの週末の続きのような文字列を見つめ続けた。
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