初稿完成
All checks were successful
ci/woodpecker/push/woodpecker Pipeline was successful

This commit is contained in:
Rikuoh Tsujitani 2023-09-09 09:36:18 +09:00
parent e3b39b36f8
commit 589ffa1ef6
Signed by: riq0h
GPG key ID: 010F09DEA298C717

View file

@ -784,9 +784,37 @@ tags: ['novel']
 さながら台風の目――司会も観客も、おそらくは地元の後援会も、ひょっとすると帝国じゅうの人々が壮大な感動物語に酔いしれている最中、その中心にただ一人いる勇の気持ちは、どこまでも冷たく醒めきっていた。
 この戦いは、初めからおれのものじゃなかった。
 喰まれている、と勇は思った。自分自身の人生、弟、家族、してきたこと、されてきたことが一つの演目を形成して、この瞬間、あらゆる人々に消費されている。そこでは勇自身ですら、舞台の上で滑稽に踊る役者でしかない。
 間を置かず入場口の手前で開かれた授与式では、あれほど欲してやまなかった記念杯が毒々しく輝く呪いの愚物にしか見えなくなっていた。
 間を置かず入場口の手前で開かれた授与式では、あれほど欲してやまなかった記念杯が毒々しく輝く忌まわしい足枷にしか見えなくなっていた。
「groteskだ」
 ぽつり、と勇はつぶやいた。依然として意味は理解していなかったが、現状を現す単語としてこれ以上にふさわしいものはないと彼は直感した。
「お前、横文字なんて使えたのか」
 隣のユンが反応を示す。
「ドイツ語だ、たぶん」
「なるほどな」
 なにがなるほどなのか、と勇が問うと、ユンは遠くから観客の注目を浴びながら運ばれてくる記念杯を指差して言った。
「お前にどう見えているのか知らないが、おれにはあれは記念杯ではなく踏み台に見える」
「踏み台だと?」
 驚いて横を向くと、ユンの衰えてもなお滾った表情が見えた。
「昔、死んだお袋がおれによく絵本を読ませた。なんとかして学を身に着けさせようとしたんだろうな……そいつは無駄骨だったわけだが、その中に、手に入れた翼で太陽に近づきすぎて死んだやつの話がある」
 全身で荒く息を弾ませながら彼は話し続ける。
「おれはずっと考えていたんだ。この国とそっくりじゃねえか……と。おとなしく地に伏しているうちは暖かさを感じる時もあるが、近づくと焼き払おうとする」
 観客席の至るところで大小の日の丸が振られ、辺り一面に白と赤の乱雑な模様が波打っている。記念杯が近づいてくる。
「だが所詮、国は人でできてるもんだ。壊せないということはない。だから、おれが燃やされるか、おれが燃え尽きる前に太陽を手に入れられるか、そういう戦いをしているんだ」
 滔々と語るユンを見て、こいつはまだヒロポンに酔っているんじゃないか、と勇は思った。けれども今の勇にはユンがただの妄想を言っているようには思われなかった。帝国じゅうに啄まれた自身の物語の中で、それはいっそう魅力を帯びて聞こえた。
「おれは、おれを侮辱した連中を絶対に許さない。たとえ何年かかっても……」
 ユンと目が合った。瞳孔の開ききった目が、恒星をも飲み込むとされる宇宙の黒く虚ろな天体を思わせた。その瞬間、勇はあの夜に彼が並べていた人名の一覧が、どのような意味を持っているのか悟った。
「なるほどな」
 勇もユンと同じ反応を示した。
「それが、お前の目標だったのか」
「これでおれたちはめでたく幹部候補生待遇で徴兵だ。その後、おれは軍人になる。あれはそのためになんとしても欲しかった踏み台だ」
 記念杯が目前に迫ってきた。観客の注目が記念杯から横一列に並ぶ帝國実業の選手たちへ向けられる。勇の目には、記念杯が高速で入れ替わって見えた。自身の家族の尊厳を回復させる希望か、演目上の自身の役割を定める忌まわしき足枷か、それとも、踏み台か。踏み台で飛んだ先には太陽がある。
 手にする記念杯は変わらないが、どの態度で受け入れるべきか勇は吟味した。その瞬間に、自分の将来が決定すると思った。
 名も知らぬ初老の男性が公死園の関係者から恭しく記念杯を受け取り、わずか十数歩に満たない道のりをのろのろと歩いて勇の方へと向かう。一歩歩むごとに大きな記念杯の輝きが戦場の電燈を乱反射して、目に光が入るたびに三つの解釈が交互に入れ替わる。
「なあ、ユン」
 勇は主将として、記念杯を受け取るにふさわしい直立の姿勢を保ち、目は名も知らぬ初老の男性に合わせたまま、横のユンに言った。
「おれにも踏み台が見えた」
 ついに目前に初老の男性が辿り着いた。観客という観客、カメラというカメラが勇を観ている。帝国じゅうが観ている。差し出された記念杯を、勇は今にもむせび泣きそうな顔をして慇懃に受け取った。近場でも遠くでもカメラのシャッターが切られる音がぱちぱちと鳴って、自分自身が光に包まれたように感じた。
 昭和九八年八月、帝国臣民を比類なき感動にもたらした歴史的な夏の公死園決勝戦の裏で、ひそかに革命の火が灯された。老いさばらえた帝国の乾いた皮膚に塗られた一縷の脂へ灯された火は、ゆっくりと、しかし着実に炎として広がり、やがてその臓腑と骨をもことごとく燃やし尽くすであろう。