第十三幕の途中
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 鶴橋に向かう途中、無人偵察機の数は増える一方だった。さっきのと違って明確な指向性を持って飛んでいるわけではないと判っているのに、勇にはなぜか自分がつけ回されているような気がしてならなかった。大阪城を通り過ぎて目的に近づくにつれ、高層のマンションや建築物は鳴りを潜め、年季の入った風合いの木造住宅が目立ってきた。そのぶん空の境界が低くなり無人航空機のちかちか光るカメラがいっそう悪目立ちした。だが、ぶんぶんと飛び回るそれらは鶴橋駅にたどり着いた途端に姿が見えなくなった。
 駅の出口には待ち合わせ場所によく使われる石像が置かれてある。雛壇を模した段差の下に、様々な出で立ちの民族衣装に身を包んだ複数の男女が笑顔で座り、一段高いところに和服を着た男が座っている。石像の側面には『八紘一宇の 〜みなさん仲良くしませう〜』と刻まれていた。
 駅の出口には待ち合わせ場所によく使われる石像が置かれてある。雛壇を模した段差の下に、様々な出で立ちの民族衣装に身を包んだ複数の男女が笑顔で座り、一段高いところに和服を着た男が座っている。石像の側面には『八紘一宇の精神 〜みなさん仲良くしませう〜』と刻まれていた。
 ユンの家は鶴橋商店街の中にある。引きめき合う店の合間に佇む二階建て木造住宅は、一階が露店と居間と兼ねている。店の前で投げ出すように自転車を置いた勇を、露店で漬物を売っているユンの祖母が見るといつもの調子で二階の階段に向かって叫んだ。
「ウヌ、あんたのチョルチンが来たよ!」
 チョルチンとは”親友”を意味する朝鮮語である。来るたびにそう言われるので意味を調べたら気恥ずかしくなってしまい、勇はむしろ知らないふりをしている。
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 旅行鞄を手にぶら下げながら言い淀んでいると、ユンははっきりと応じた。
「テレビを観た。事情は判っている。早く家に入れ」
 ほっ、と安堵して勇は祖母に深くお辞儀をして、軒先で靴を脱いで居間をまたぎ、今にも崩れそうな階段をユンの後に続いて上った。
 二階にある四畳半の部屋がユンの根城だ。薄汚れた畳の上に万年床の布団、まるで使った形跡のない古びた勉強机には埃が積もり、さらにその上には読みかけの雑誌や紙切れや学校から支給された用紙などが堆積している。畳の上にさえ紙がいくつも落ちている。一方、部屋の片隅に置かれた旧式のテレビにはそれなりの手入れが施されている様子が見て取れた。テレビの画面では、今まさに勇の家が映し出されていた。彼は急速に、とんでもない異常事態が起きつつあることを悟った。
 テレビの右上には『北野高の首席入学生 治安維持法違反で逮捕さる!』と題する字幕が目立つ。さらにその下には『兄は硬式戦争部の主将』と丁寧な補足情報まで記されてあった。
 二階にある四畳半の部屋がユンの根城だ。薄汚れた畳の上に万年床の布団、まるで使った形跡のない古びた勉強机には埃が積もり、さらにその上には読みかけの雑誌や紙切れや学校から支給された用紙などが堆積している。畳の上にさえ紙がいくつも落ちている。部屋の片隅に置かれた小さな本棚には絵本らしき書籍が雑然と並んでいて、内容が幼稚園以来一度も更新されていない様子がうかがえた。
 一方、壁際の旧式のテレビにはそれなりの手入れが施されているようだった。テレビの画面では、今まさに勇の家が映し出されていた。彼は急速に、とんでもない異常事態が起きつつあることを悟った。
 テレビの右上には『北野高の首席入学生 治安維持法違反で逮捕さる!』と題する字幕が目立つ。さらにその下には『兄は帝國実業硬式戦争部の主将』と丁寧な補足情報まで記されてあった。
「治安維持法違反だと? 功のやつ、捕まらんと言ってたじゃないか!」
 勇は思わず大声をあげた。ユンは万年床にあぐらをかいて座って、腕組みをした。
「身に覚えはあるようだな。お前の弟は計算機に詳しかった」
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「それは一体なんなんです」
 なんとなく不審さを覚えた勇が尋ねると、彼は神妙に答えた。
「Methamphetamin……巷ではヒロポンと言う。本来は前線の兵士に配られる代物だが……明日からはきっちり休むというのならこいつを処方してやろう」
 ヒロポン。聞いたことがある、と勇は記憶を掘り起こした。昔は合法だったが、中毒症状のあまりの強さに現在では帝国軍人でなければ買えない薬だ。不良学生が帰国した負傷兵と結託してヒロポンを入手しているとの噂をよく耳にする。たとえ五体満足の健康体でもすさまじい幸福感が得られるという。
 ヒロポン。聞いたことがある、と勇は記憶を掘り起こした。昔は合法だったが、中毒症状のあまりの強さに現在では帝国軍人でなければ買えない薬だ。不良学生が帰国した負傷兵と結託してヒロポンを入手しているとの噂をよく耳にする。数時間持続する痛みや不安からの解放の後、使用者はさらに厳しい苦しみを背負う。耐えきれず、その苦痛をさらにヒロポンの快楽で補おうとした一部の者には地獄が待っているという。
 勇が言い淀んでいると、横からユンが弛緩した口元を懸命に動かして叫んだ。
「うってくえ、早く」
 遅れて、勇も言う。
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 気を休める暇はなかった。隣から銃声が聞こえたので勇は向き直った。石垣から飛び出してきた敵は一人ではなかった。しかし、田中の反応は勇よりわずかに遅れたばかりに機を逸して、彼の放った銃弾はいずれも外れ敵に二度目の跳躍の余地を与えた。鋭角にまっすぐ飛びかかってきた敵は居合の要領で腰から軍刀を抜くと、すれ違いざまに田中の胴体を一閃した。あっ、と声をあげたのは人工音声がさらなる退場を通告した後だった。
<選手四番、仮想体力喪失。退場>
 呆然と立ち尽くす田中をよそに敵は軍刀を勇に振りかぶった。この刹那、勇は以前には見えなかった剣筋の軌跡がなんとか視認できるようになったことに気がついた。身体を横にかたむけて最小限の動きで軌跡から遠ざかる。おそらくかわされるとは思っていなかったのだろう――わずか二、三秒にも満たない攻防――勢い余って前傾に姿勢を崩した相手の頭部に銃床を叩きつけた。
<選手十二番、仮想体力三分の一減少>
 だが、仮想体力がどうでも獲物で殴られては動けない。勇は昏倒した相手にすかさず硬式弾を当てて退場を確定させた。
<選手十二番、仮想体力一減少、残り九割
 電子部品が内蔵されていない銃床による打撃は衝撃判定が緩い。だが、仮想体力がどうでも頭を殴られてはまともに動けない。勇は昏倒した相手にすかさず硬式弾を当てて退場を確定させた。
 ほどなくして退場を宣告された三名の敵味方は両手を頭の後ろに回して互い違いに戦場を離脱していった。
 一人と引き換えに二人を仕留めたのなら幸先の良い出だしと言わなくてはならない。勇は小銃を構え直して片耳のイヤホンを指で押した。通信機が起動する。
「田中がやられたが二人倒した」
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 はっ、と振り返ると今まさに、高層建築物が立ち並ぶ区画を模した二車線道路沿いの屋根、実物の三階建て、いや四階建てはあろうかと思われる高台から敵がすさまじい助走とともに飛び込んでくるところだった。
 残る敵はずっと高台から高台に移動していたのだ。
「押山、撃てえ!」
 仰角を上にあげて敵を狙うも、公死園戦場を煌々を照らす電燈の逆光が彼らの実像を黒く覆い隠す。あてどなく放たれた弾は物量を尽くせどついに一発の判定ももたらすことなく空を切り、まもなく見慣れた軽業師の技で軽妙に着地を果たした敵は、すでに刀身の間合いにまで近づいていた。
 仰角を上にあげて敵を狙うも、公死園戦場を煌々を照らす電燈の逆光が彼らの実像を黒く覆い隠す。あてどなく放たれた弾は物量を尽くせどついに一発の判定ももたらすことなく空を切り、軽業師の技で軽妙に着地を果たした敵は、すでに刀身の間合いにまで近づいていた。
「くそっ!」
 捨て台詞の代償は大きい。その一息で敵は軍刀を振って勇に迫った。やむをえず小銃を盾に用いる愚策をなんとか割って入り防いだのは、押山の軍刀。金属と金属がぶつかり高音を奏でて弾く。追撃は横薙ぎだったがこれも押山は未然に防いで鍔迫り合いの状態に持ち込んだ。軍刀装備を選んだのも伊達ではなかったらしい。
 改めて間近で見ると敵の背丈は勇より頭一個分低かった。頑強な者が選ばれやすい硬戦の常道に反して、第一八高は体術に長けた者を選んでいると見える。すかさず勇も横に回って小銃にて援護を試みたが、相手の方が速かった。
 ここで勇が見たものは二つ目の判断の誤りである。
 勇の並外れた射撃速度よりもさらに上回るすばやさで敵は片手で腰――というより臀部――の拳銃嚢から引き抜いた硬式拳銃を押山の下顎に当て、引き金を絞った。
 硬式弾の直撃を食らい、痛みに苦しむ押山を敵は体格に似合わぬ膂力で引き倒して、まもなく迫った勇の放つ銃弾の盾に用いる。勇の硬式小銃はそこで撃鉄が反り返り、あえてなく弾切れが宣告される。
 ここで初めて戦況は対等と相成った。小銃を捨てて腰の拳銃を抜く勇――押山の身体を押しのけて拳銃を構え直す敵――二重に銃声が響く。
<選手七番、退場>
<選手一番、体力半減>
 第一八高は意味もなく小銃装備を捨てたのではなかった。機動性を重視して拳銃と置き換えていたのだ。
 硬式弾の直撃を食らい、痛みに苦しむ押山を敵は体格に似合わぬ膂力で引き倒して、放たれた銃弾の盾に用いる。勇の硬式小銃はそこで撃鉄が起き上がり、あえなく弾切れが宣告される。
 ここで初めて戦況は対等と相成った。小銃を捨てて腰の拳銃を抜く勇――押山の身体を押しのけて拳銃を構える敵――二重に銃声が響く。
 勇が一発撃つ間に相手は二発の硬式弾を放った。
 初めてはっきりと見た名も知れぬ支那人は瞳孔が開いた獣の目をしていた。
<選手七番、仮想体力喪失、退場>
<選手一番、仮想体力半減、残り五割>
 勇は間近で放たれた硬式弾の痛みに顔を歪めたが、同時にそれは不敵な笑みでもあった。
 頭じゃない。
 頭じゃない。
 対する敵は尻もちをついて倒れ込んだ。鼻先に当たっては起き上がる気力もないだろう。
 敵は残り三人。勇は痛みにうずくまる二人の装備を見て、小銃を投げ捨てた。押山も勇も主弾倉に残弾がほとんど残っていないのは明らかだった。代わりに電燈を受けて鈍く光る地面の模擬軍刀を拾いあげると、勇は通信の途絶えた味方を追うべく市街地の東側に潜っていった。
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 爆撃を受けたかのような荒廃ぶりが目立つ東側の区画は、西側と比べて身を隠せる場所が少ない。高台はより少なく、二車線道路沿いの建築物を除いては狙撃が有効な箇所はほとんどない。その建築物も意図して配置されたのであろう瓦礫の山によって射線が通らず、結果としてこの一帯は近中距離戦を強いられる構造を成している。
 人数差が有利などという発想はすでに捨てた。条件が揃えば敵は一斉に形成を逆転させる。終盤戦に入りつつある今、それは着実に満たされつつある。
 主弾倉の弾切れだ。予備弾倉があっても交戦中なら交換の機会は連中へ決して与えない。予備弾倉がなければいっとう不慣れな拳銃や軍刀での戦いに持ち込まれ、立場がひっくり返る。市街地戦という今年度の演目を最大に活かした彼らの戦略は、表向きの勇ましさとは裏腹に冷徹な計算に裏付けられている。
 そういう心積もりでいたから、勇は次第に高まる怒号や銃声の聞こえる方向へ急接近している最中も、最悪の事態を想定する準備をすることができた。
 瓦礫の山を制して円形状にくり抜かれた空き地に辿り着くと、そこではすでに大方の決着がついていた。
 地面に横たわる退場者はいずれも帝國実業の戦闘服を着た者ばかり。敵は一人。軍刀を片手にくるくると振って新たな獲物の到来に薄く笑みを浮かべている。
 退場者との会話は規則違反ゆえ相手のやり口を知る余地はない。顔を見合わせてから三秒、四秒目にして、勇は意を決して拳銃を腰から引き放った。
 曲芸の身のこなしで相手は二発の速射を難なくかわす。これ以上、撃っても浪費にしかならないと引き金を緩めた途端に敵はいきおい距離を詰める。
 軍刀を振る。鍔迫り合いにはならず互いに薄い金属を弾き合って膠着を作らない。しかし激しい応酬の最中でも、勇は一度見た敵の共通の仕草を決して忘れてはいなかった。旺盛に刀身を薙ぐ傍ら、相手の左手が臀部の隠された拳銃嚢に回るのをしかと捉えた。この戦いでの勝敗を分けた要因は、実のところわずかな癖の差でしかなかったと言える。
 どんなに剣術に慣れた実力者でも空いた手で他のなにかを掴もうとする最中に膂力が弱まらない人間はいない。勇は敵が拳銃を掴むか掴まないかの瀬戸際に前に踏み出て無理やり鍔迫り合いに持ち込んだ。突然の定石外しに眼前の相手はしたたかに姿勢を後傾させて、本来ならば絶対にとるはずのない敗着の足取りに自ら後退を余儀なくされた。
 這わせた刀剣を強く弾くと、敵は防御を崩して胸元をがら空きにさせた。すかさずそこに切っ先を向けて突きを叩き込む。急所判定。人工音声が退場を報せる。敗北感と剣先に押し倒された相手は地面に尻をついた。
 いま一度戦場に転がる味方を検めると、数は三人。やはり有利は覆されている。味方は残り三人で、敵は残り二人。勇の動揺を察知してか、敵の口元が嘲笑に歪む。
「副主将が逃げたやつを追いかけている。じきに戻ってくるだろうよ……次に倒れるのは貴様の番だ」
「”死人”が口を開くな」
 不安を読まれた苛立ちからか、勇は冷徹に相手を一喝した。敵は立ち上がり勇を睨みつつも、両手を頭の後ろに回す退場用の姿勢をとって場を後にしようとした。
 ところが、すぐそこから迫りくる剣戟の金属音に呼応して勇も敵もしばし動きが止まった。音は急速に大きくなり、聞き馴染みのある怒号さえ聞こえる。じきに姿を現したのは第一八高の戦闘服の背中。それをとてつもない猛攻で押すのは他でもないユンだった。
「おらぁ! どうした! お得意の回避術はよ!」
 圧倒的な膂力に物を言わせたとめどない攻撃に、敵方の副主将と思われる相手は明らかに余裕を失っていた。後退する一方の剣戟は相手の実体力をみるみるうちに奪い去り、剣筋は衰え、勇が援護のために踏み出す頃には趨勢が決していた。ユンの得意とする大上段が防御の遅れた剣をすり抜け肩口に叩き込まれ、敵の副主将は尊厳の喪失からか、はたまた実際の苦痛からか膝を地面についた。すぐ後から、二年の椹木がかけつけてくる。
「遅えぞ。もうやっちまったよ」
 ぎらついた目を辺りを見回すユンはまだ気力十分の顔つきで次の獲物を探っていた。副主将の敗北を目の当たりにして、退場姿勢を解きかけていた先ほどの敵に猛獣の眼差しが向けられる。敵は短く悲鳴を上げて頭部を後ろ手に回した。そこで、ユンは初めて勇の姿に気づいたようだった。彼は不満げに舌打ちをした。
「ちっ、もうお前がやったのか」
 敵と副主将はともども、ユンの放つ威圧感に気圧されて後ずさりながら退場していった。まだ身体が痛むであろう味方も、ぞろぞろと立ち上がって残された三人に目線で応援の合図を送って場を後にする。
「なんだ、あとは俺だけか」
 突然の声に三人が振り返ると、そこには臣民第一八高等学校硬式戦争部の主将――陳開一と名乗っていた――が堂々と立っていた。声を発するまで気配にさえ気づけなかった。
 反射的に勇が拳銃を向けて撃とうとするが、陳は片手を出して制止を呼びかけた。
「無駄な真似はやめろ。弾は大切にとっておけ」
 勇は引き金を引く気になれなかった。その発言がはったりでもなんでもない真実だと理解したからだ。
「自分、いきます!」
 椹木が軍刀を両手に握って陳に迫った。対する陳は気だるそうな表情のまま身動きもせず、椹木の二年にしては十分に熟達した剣筋が自身を触れる寸前に、ごく最小限の動きでそれをかわした。ひゅんっ、と鮮やかに振られたすばやい刀身がつんのめった椹木の喉元を捉えた。実際の急所を打たれた椹木は地面にもんどり打って倒れた。喉を抑えて小刻みに震える椹木は退場よりもさらに過酷な苦痛を味わっているように見えた。
「次は二人でかかってきても構わんぞ」
 軍刀をひと振りして気勢を整え、相変わらずの直立姿勢で二人を威圧する陳に勇は微笑む。
「そうしない理由などないからな」
 勇とユンは一瞬の目配せの後に左右に別れて陳に向かった。
 切り合ってすぐに、勇は陳が二本の刀を持っているのではないかと目を疑った。さながら千手観音のごとく――勇とユンの刀を片手の動きだけで捌いている。二人がかりで戦っている方がむしろ力んでいるせいで、たちどころに疲労感が募っていく。わずかに遅れた剣筋の隙を見抜けない陳ではなかった。
 横薙ぎの一閃――勝負はそれでついたと確信した陳だったが、勇は寸前のところでそれをかわした。本能的な察知に近い。ユンもまた、続けて振られた追撃をかわす。不利を悟って後ずさった二人へ、陳は淡々と告げた。
「意外と骨があるな」
 次に陳の口から放たれた言葉は勇をうろたえさせた。
「今日ほど仮想体力制を恨めしく思ったことはない……貴様だよ、葛飾勇。貴様のようなやつを思う存分打ちのめせないからな」
「ついにご贔屓までできたのか」
 横のユンが息を荒らげながら囃し立てるも、陳は笑わない。
「おれがどうしたというんだ」
「報道を観た。不穏分子を身内から出しておきながらおめおめとこの晴れ舞台に姿を現すなど許しがたい」
「なんッ――!」
 抗弁する余裕は与えられなかった。自ら一歩踏み出した陳の前進は地面に立っていながらにして空気を切り裂く機敏さを持ち合わせ、勇に向かって秒に三回の剣撃を浴びせた。すばやく、軽く、それでいて重い。
 辛くも勇が受けきれている間に背後からユンが襲撃を試みるも、風のようにさらりと横に身を逃してやはりかわされる。再び正面に相対して刀を前に突き出す陳が、ひときわ大きい声を張る。
「貴様は一八だ。すでに成人している。なぜ弟の罪を贖って腹を切らない」
 陳の滾った表情から、腹を切るというのがまさしく言葉通りの意味であることが察せられた。勇は始めはおずおずと、徐々にはっきりと答えた。
「おれは……判らない。なにが正しいのか間違っているのか。弟は本当に罪を犯したのか」
「この期に及んで見苦しい言い逃れを重ねるか。死を以て償えないのならせめて敗北の汚辱に塗れるがいい」
 三度、陳の刀身が迫る。だが、それを切り返したのは勇ではなくユンの力任せの横薙ぎだった。陳も衝撃にたじろいで正面からは受けずに流して距離を取る。ユンは息も絶え絶えに言った。
「てめえ、さっきから聞いてりゃあ……他所の家の事情にいちいち口出すんじゃねえよ」
「他所の家の事情ではない。一人の不穏分子が一家を蝕み、やがて國體をも脅かすのだから」
 勇は二人の応酬の最中、ユンの呼吸の調子が明らかに異常をきたしていることに気づいた。それを知ってか知らずか、ユンが言う。
「てめえはそんなことを考えて刀を振っているのかよ。いい加減に口を閉じろ。決着をつけようぜ」
 勇が体勢を整える前にユンは陳に突進した。盛り上がる背筋から繰り出される怒涛の猛攻は頭一つどころか二つも低い陳を確実に追い詰めているはずだった。しかし、勇にはどうにもその剣筋は鈍く、剣撃を交わすたびに徐々に遅滞しているようにしか思われなかった。
「下がれ、ユン・ウヌ!」
 駆け出して援護にかけつける勇のすぐ目の前で、ユンは我も忘れて決死の攻撃に専念していたが、ついに最後の時は訪れた。気力が衰えつつも決して敗着とは言い難いごくわずかな刃の嵐をくぐりぬけて、陳の滑らかな剣筋がユンの脇腹をかすめた。急所でもなんでもない一撃の直後に、ユンの身体が硬直する。彼は息を荒らげたまま、持ち上げた剣を下ろして腕を垂らした。
「くそっ、終わりか」
 退場の間際、岩でできたかのようなごつごつの表情は「後は任せた」と無言で勇に告げていた。
「さあ、一騎打ちだ」
 とうとう戦場には誰も味方がいなくなった。それは敵も同じ。たった二人の生き残りが敵を目前にしながら軍刀を構えて対峙する姿は、まこと仮想体力制度導入以来の公死園ではかつてない狂態として映っているに相違ない。
 勇は言った。
「貴様は尻の拳銃を使わないのか」
 一瞬、虚を突かれた陳の顔に笑みが浮かぶ。
「知っていたか」
「貴様と違って俺は主将に恥じぬ働きをした」
「そうか。ならば――」
 軍刀を片手に両者は同時に拳銃を引き抜いた。最後の戦いの火蓋が切って落とされる。
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 二人は互いに並行して歩きながら拳銃を撃ち放った。ダンッ、ダンッ、と重苦しい硬式拳銃の銃声の直後に風切り音が耳先をかすめる。共に一撃必殺のみを狙った射撃は張り詰めた神経の加速によってごくわずかに逸れ続け、八発の応酬を経ても髪の毛より内側に弾が当たることはなかった。ほぼ同時に、二人の拳銃の遊底が引き下がる。弾切れだ。拳銃を投げ捨てて軍刀で先に打って出たのは陳だった。
 勇の刃がそれを受け止める。ぎりぎりと金属がひしめき合い、ここに初めての鍔迫り合いが実現する。当初の冷静な態度からは考えられない歯をむき出しにした陳の表情が間近に見えた。擦り切れた臣民第一八高等学校の刺繍に、よく見ればずいぶん着古して丈の余った戦闘服が視界に映る。
 その目はやはり、瞳孔が開ききった獰猛なぎらめきを帯びている。
 こいつら、まさか全員――
 勇は力任せに押しのけて膠着を解いた。三尺の間合いで再び距離が空く。
「あいつは”はじめて”だったようだな。反動に慣れていない」
「そういう貴様らは常習者か。将来が惜しくないのか」
 陳の顔に一筋の汗が垂れた。かすかにだが呼吸が荒くなっているのが間合いを取っていても判る。
「俺たちに将来などない。ここで勝たなければどうせ先は見えている」
 いつぞやの、ユンの言葉が脳裏に蘇った。勇は軍刀をしかと握り直して構えた。
「それはおれとて同じだ。勝つことで正しさを証明する」
「抜かせ! 腹も切れぬ不穏分子の兄に正しさなどあるものか!」
 振られた軍刀をここで初めて勇は受けずに身体を反ってかわした。がら空きの脇腹をめがけて剣撃を見舞う。が、さしもの軍刀集団の主将はそう簡単には切らせてくれない。すんでのところでかわされる。
「ハァッ……なるほど、意外に使うようだな……」
 さらに一筋の汗を垂らす陳の姿を見て、勇は次の剣撃もかわせると確信を得た。事実、間をおかずに振りかぶられた剣筋の軌跡が克明に見えた。二撃目は余裕をもって切り返す。陳の表情に狼狽が宿った。シュッと刀の切っ先が戦闘服の余った布をちぎり取る。
 自分が速くなっているのではない。
 相手が遅くなってきている。もし陳が万全なら勇の剣術では三回受ける前に急所を貫かれていただろう。
 怒声とともに繰り返される激しい剣戟も勝てるとまでは言わずとも負ける気配を感じさせない。ひたすら受け続けて、刻一刻と近づく陳の実質的な時間切れを待つことに勇は並ならぬ苛立ちを覚えつつあった。かといって、敵を一閃して試合を鮮やかに終わらせられるような剣術は勇にはない。
 勇の手が半ば学習的に陳の揺らぎを捉えた。後退の遅れた太ももに下段の切っ先が命中した。再び、両者は磁石のように弾き合って距離をとる。
<選手二番、仮想体力二割減少、残り八割>
「もし、貴様が正しいと言うのなら――」
 今や顔中に汗の粒をまとった陳が、息を切らせながら言う。
「――なぜ、俺の弟と父は死ななければならなかったんだ」
 要領を得ない突然の質問に勇は戸惑う。
「なんの話だ」
「俺の弟は盗みで憲兵に斬り殺された。父はその咎を受けて自ら腹を切って死んだ!」
 身体ごと迫って再度の膠着にぎりぎりと互いの刀身が震える。詰まった間合いで尚も陳が吠える。
「俺だって立派に切腹して死にたかったが、母に止められた。”お前はまだ幼い”と……後悔しなかった日はない。なのに、とうに成人の貴様が!」
 疲弊した身ではありえない鋭さで剣が弾かれる。うろたえた勇の胴が空き、まともに身をよじる暇もなくすかさず剣先が脇腹を撫でた。その結果を冷徹に人工音声が伝える。
<選手一番、仮想体力三割減少、残り二割>
 当然、相手にも同じ内容が伝わっている。陳は薄く笑った。
「どうだ。どこを打ってもあと一撃で貴様は終わりだ」
 なんら痛みのないはずの脇腹を抑えて、勇は言う。
「同情はせんぞ。おれにはおれの理合いがあり、勝って守るべき尊厳と家族がいる。だが……」
 同情はしない、と口に出して言ったことでかえって本音が漏れている理屈など、今の勇には理解する余裕がなかった。理解しているのは、次の剣戟が互いに最後だという確信。時間切れによる決着は両者ともに望んでいない。
「貴様とはいつか万全な時に相まみえたいものだ」
 陳は鼻を鳴らして答えた。
「世迷い言を。おとなしく沈んで一族と命運を共にしろ」
「おれは太陽よりも高く飛翔するつもりだ」
 最後は勇から仕掛けた。幾度も斬り結んで得た相手の挙動を彼は掴みつつあった。むろん、剣筋の理解には及ばない。長きに渡り剣術に身を費やした相手に俄仕込みの刀が通用する道理はない。ただ、どう押すとどう引いて、どう引くとどう押されるのかは判った。
 押した後に押し返される、その間際に勇は身体を傾がせた。そこへつけこんで陳が旺盛に斬りかかる。二度、三度、四度、斬り合い、勇が横に刀を薙ぐと相手の位置がずれる。またぞろ押し合い、前進、後退。そうして、勇は狙った場所に辿り着いた途端、陳の猛攻によってついに気力を使い果たして、身体を地面に押し倒された。
 機を得たと見た陳が仰向けに倒れた勇にのしかかる。首元まで迫る二振りの軍刀が鈍く光って金属音を嘶かせた。
「勝負あったな」
 全身で息をしながら苦悶の表情を湛え、それでも勝利を確信した口元に向かって勇は言ってやる。
「またいずれ戦おう」
 伸ばした右手に握られたのは、敵か味方か、どちらが落としたのかも判らない拳銃。一つ明らかなのは、遊底が引き下がっていない自動拳銃には最低一発以上の弾丸が込められているという事実だった。
 拳銃の獲得に力を割いた代償に、めりめりと首元の表皮にめりこんでいく刃のない自らの模擬軍刀を御し、勇は引き金を陳の側頭部に向かって放った。よけようがない、ほとんど密着した状態での射撃によって眼前の敵は弾き飛ばされたかのように横に倒れた。
<選手二番、仮想体力喪失、退場>
 副作用による過度の疲弊も相まってか、気絶した陳を勇は見て、それから電燈の反射に照らされる硬式拳銃を見た。遊底が引き下がっている。最後の一発だった。
 もし「判定」などない本当の戦闘だったなら、勇もまた自らの刃によって喉元がえぐられて絶命していただろう。仮想体力制度が衝突を基準に採用しているおかげで、彼の仮想的な生命は徐々に押し当てられる刃に虚無の判定を返したのである。
 試合終了の笛が鳴り響く。
 同時に、消音されていた戦場内のスピーカーから司会の音声が流れてきた。決着の刻を見守っていた観客もここぞとばかりに声をあげる。だが、それらの声は歓声でも罵声でもなく、しとしととしたすすり泣きの連なりをなしていた。やがて荘厳な声で司会が言う。
「……みなさん、しかとご覧になられたでしょうか。選手自らの口によって語られる勝利への渇望、期待、一族の咎を背負って戦う勇姿――共に犯罪者の弟を持った長兄同士が、刀と刀で己の正義を証明せんとする気迫――そのどれもが、かつてない感動を我々にもたらしたと言って過言ではないでしょう……。しかし今、命運は決定づけられました! 巧みな戦術で相手を破り、辛くも栄光を手にしたのは――葛飾勇選手であります! 大和民族の誇り高き血統が、それでもまだ外地人に優れることを見事に証明してくれました!」
 わああああああ、と一斉に円形の観客席から歓声と感涙の入り混じった大音声を鳴らした。今をもって人間、葛飾勇を不穏分子の兄と誹る者は一人もいそうには思われなかった。誰もが彼の戦いぶりに魅入られ、酔い、勝利の栄光を手にする大和民族の代表の地位を与えかねない勢いをまとっていた。
「昭和九八年度全国高等学校硬式戦争選手権大会の優勝校は、大阪、帝國実業高等学校です!」
 さながら台風の目――司会も観客も、おそらくは地元の後援会も、ひょっとすると帝国じゅうの人々が壮大な感動物語に酔いしれている最中、その中心にただ一人いる勇の気持ちは、どこまでも冷たく醒めきっていた。
 この戦いは、初めからおれのものじゃなかった。
 喰まれている、と勇は思った。自分自身の人生、弟、家族、してきたこと、されてきたことが一つの演目を形成して、この瞬間、あらゆる人々に消費されている。そこでは勇自身ですら、舞台の上で滑稽に踊る役者でしかない。
 間を置かず入場口の手前で開かれた授与式では、あれほど欲してやまなかった記念杯が毒々しく輝く呪いの愚物にしか見えなくなっていた。
「groteskだ」
 ぽつり、と勇はつぶやいた。依然として意味は理解していなかったが、現状を現す単語としてこれ以上にふさわしいものはないと彼は直感した。
「お前、横文字なんて使えたのか」
 隣のユンが反応を示す。
「ドイツ語だ、たぶん」