8話から
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Rikuoh Tsujitani 2024-01-23 22:19:46 +09:00
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@ -206,7 +206,7 @@ tags: ['novel']
 管制官はひとしきりの賛辞を私に送ると「そろそろ時間だ」と告げ、今日一日はドレスを着たまま楽しんでいていいと許可を与えてくれた。彼が手紙を持って部屋から去った後、すっかり調子に乗った私は床を静かに蹴って宙に浮かんだ。
 あまりにも軽く薄いオーバードレスの生地がふわりとたなびいた。漆黒の世界でも思い描けば私は部屋に咲く一輪の花だった。
 固い木材の天井に、おでこがこつんと当たった。
 リザが遅い昼食の時間を告げに部屋に来るまで、私はそのままでいた。
 リザちゃんが遅い昼食の時間を告げに部屋に来るまで、私はそのままでいた。
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@ -409,7 +409,7 @@ tags: ['novel']
 私はまたこくりとうなずいて、それから遠出の準備に取り掛かった。
 自分の身体がまるまる折りたたんで入りそうな大きさの旅行鞄に、持っているお洋服をどんどん詰め込んでいく。干し肉とか、炒ったスイートコーンとか、豆の缶詰も入れる。ピクニックの時期からはだいぶ離れているのに、こうして荷造りをしていると小さい頃を思い出す。初めから終わりまでお父さんに手を引かれていたのに途中で疲れてしまって、帰り道はおんぶをねだったのだった。
 外套の下にも重ね着をして厚手の手袋をはめた。そして最後の最後に、旅行鞄の一番上に、私たちの勝負服であり、軍服であり、戦闘服でもあるオーバードレスを飾るように畳み入れる。どんな時でも作戦行動中は軍規に則らなければならない。
 でも今は、規則を破って裏庭から空を飛ぼうとする、もこもこしたただの魔法少女だ。
 でも今は、規則を破って裏庭から空を飛ぼうとする、もこもこしたただの魔法少女だ。タイプライタを担いで持っていこうとしてリザちゃんと散々揉めた後、手紙を書く時は彼女に代筆してもらう約束を取り付けてなんとか家に捨てていく決心がついた。
「曇ってるわね」
「滑走路じゃないところで飛ぶのって久しぶり」
 曇っているらしい空を仰ぎ見て言う。晴れていないのは好都合。今回は友軍の機体にも見つけてほしくない。
@ -425,8 +425,55 @@ tags: ['novel']
 風切り音に負けない大声で呼びかける。返事も負けず劣らずの大声で返ってきた。
「人が全然いない! どうしてかしら!」
「降りて探してみよう!」
 彼女の先導に従って石畳の上に降り立った。足を二回、かつん、かつん、と強く踏み鳴らして白線のさざなみを立てると、視界の中にぼんやりと粗く狭くブリュッセルの大通りが描かれた。十歩も進んだらまた踏み鳴らさないといけない。ただでさえ大きな旅行鞄を片手に持っているのに、長細い杖でもう片方の手を塞ぐ危険は冒せなかった。
 確かに、街の中は嘘みたいに静まりかえっていた。人の気配もしない。
 彼女の先導に従って石畳の上に降り立った。踵を二回、かつん、かつん、と強く踏み鳴らして白線のさざ波を立てると、視界の中にぼんやりと粗く狭くブリュッセルの大通りが描かれた。十歩も進んだらまた踏み鳴らさないといけない。ただでさえ大きな旅行鞄を片手に持っているのに、長細い杖でもう片方の手を塞ぐ危険は冒せなかった。
 街の中は本当に人の気配がみじんもしなかった。吹きすさぶ冬の風が窓を不躾に叩く音がするだけ。ブリュッセルの人たちはみんなして家に閉じこもっているのか、それともどこかへ行ってしまったのだろうか。
 踵をかつかつと鳴らしながらちょっとずつ視界の中に街の風景を作り出していく。普段は人の足音や話し声に呼応して泡立つ白点も、この時は平坦な石畳の地面をつらつらと刻むばかりでにべもない。横を歩くリザちゃんも「本当に誰もいない」とつぶやいているので、私の能力が衰えたわけでもない。
 大通りの端にたどり着いた時、聴覚ではなく私の嗅覚が異変をとらえた。思わず、少しも嗅ぎ漏らすまいとして顔を上げて鼻をくんくんと鳴らす。
 この匂いは……!
「チョコレートだ」
「どうして分かるの?」
 素っ頓狂な声をあげる彼女をよそに、鼻の穴をめいいっぱいに広げながら匂いの元を追った。
 もはや踵を踏み鳴らしていない視界はとうに真っ暗なのに、まるで匂いが軌跡を描いているかのように私の足取りは明確だった。お菓子屋さんのおじさんには悪いけれど、ベルギーのチョコレートはうんと美味しいに違いない。ラジオ番組では世界で一番美味しいチョコレートだと言っていた。世界で一番だ。お父さんが手を添えて教えてくれた世界地図の広さを思い起こすと、それがどんなに偉大なことなのか震えが止まらなくなる。
 果たして匂いの元はそこにあった。ぺたぺたと店先を手で触って確かめると、ガラス張りのようだった。
「わあ、ショーウインドウにチョコレートが飾られているわ」
 やや遅れてついてきたリザちゃんが素直に驚きの声をあげた。それを聞いて、私も驚いた。ベルギーではチョコレートをお洋服みたいにお客さんに見せているんだ。
「ノイハイス、ベルギー王室御用達、一八五七年創業」
 店先の看板かどこかに記されているのであろう文字を彼女が読み上げた。すごい、すごい。ベルギーでは王様も王女様もチョコレートを食べているんだ。それなのに、独り占めしないでこうやって街に店があって、ブリュッセルの人たちはみんなこのチョコレートを食べている。
「入ろう、すぐお店に入ろう」
 珍しくリザちゃんの手を引っ張り、片方の手をガラスの上でなぞってドアノブを掴んだ。が、しかし、開かなかった。
「開かない」
「だって店の中も静かだし、人もいないわ」
「チョコレートを置いてどこかへ行ってしまったの? そんなわけないよ」
 もう一回強くドアノブを回して引くと、明らかに金属がひしゃげる音がしてドアが開いた。「ほら、開いた、開いたよ」私はその異音を聞かなかったことにして店内に足を滑り込ませた。彼女がなにか言いたそうに口をもごもごと動かした音も聞こえていたが、これも聞かなかったことにした。
 店内は濃厚なチョコレートの匂いでいっぱいだった。まるでチョコレートの森林浴をしているように感じられた。すーっと肺の奥底にまで空気を吸い込むと、ただそれだけでチョコレートを食べている感じがした。
「誰か、どなたかいらっしゃいませんか?」
 最高のチョコレートを前にして、最大限の礼儀をわきまえた声色で店内に呼びかけた。数秒待ったが返事はないので、次はもっと大声で叫んだ。やはり返事はない。
「本当に誰もいなさそうね。たぶん、この店だけじゃなくてどこもかしこも」
「そんな……」
 店の人がいなければチョコレートを買うことはできない。歓喜に満ちあふれて風船のように膨れて浮きあがっていた心臓が、急速に鉛でできた文鎮と化して足元よりも奥底に沈んでいった。対するリザちゃんは朗らかな態度で言った。
「うーん、でもチョコレートはここにいくらでもあるし、一つか二つとっていってもバレないんじゃないの」
「ダメだよ、それは窃盗」
「なるほど、そこは即答なのね」
 たとえ死ぬほどチョコレートが欲しくても、私は誇り高き軍人だ。盗みを働いていいわけがない。
 とはいえ、結論が出ていても私はそこから微動だにできなかった。このままチョコレートの空気にしばらく浸っていたかった。とうとうリザちゃんが咳払いをして、折衷案を繰り出した。
「じゃあ、こうしましょう。あなたのお金をここに置いて、チョコレートを持っていく。値段は分からないけど多めに置いていけば店の人も困らない。どう?」
「それは……」
 とても、良い案に思える。店の人に直接渡してはいないけど、たぶん、窃盗ではない、はず。たくさんお金を払って困る人もいない、はず。彼女の意見を隅から隅まで検討して、反論の余地はなさそうだと納得するまでの間に、どういうわけか手は勝手に鞄を開けて財布の中のお金を台の上に全部ぶちまけていた。じゃらじゃらと盛大な音が鳴り響いて、何枚かの硬貨が床に落ちて転がった。
「これだけ払えばショーウインドウのチョコレートを全部持っていけそうね……」
 呆れた声で言うリザちゃんの姿勢が途中でぴたりと止まった。白線で描かれた彼女の手が床のなにかを拾い上げた仕草をした。続いて出た彼女の声はこわばっていた。
「この街に人がいない理由が分かったわ」
 ぐい、と私の手を引っ張って彼女が店を出ようとするので、私は全力で踵を地面にくっつけて抗った。
「なんで、どうして」
 その時、地鳴りのような振動が店の中を揺らした。きゅるきゅるという規則的な音までもが辺りに響き渡る。踵の力を緩めた瞬間、彼女の力が上回りつんのめるような形で二人して店の外に飛び出した。
 地鳴りは生き物のように道路を伝って移動して、私たちのすぐ近くで止まった。もう返事を待つまでもなく、私の視界はその嫌というほど聞き慣れた音を頼りに白線の輪郭を模っていた。
「この街はもう、敵に占領されようとしているんだわ」
 M26重戦車。
 敵国アメリカ合衆国の主力戦車が奏でる悪魔の調べだ。
 ごく数秒の間隙を置いて、それは主砲をまっすぐと私たちの方に傾けた。
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