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「そうね」
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それきり、会話はぶつ切りに途絶えてぬかるんだ土を踏む音が続いた。たまに、遠く彼方の方角にプロペラの高周波音と、戦車のキャタピラが草木をすり潰す重低音が聞こえた。
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私たちは黙々と行軍して、時折、隙を見ては川の水を飲み、再び歩いた。相変わらずお腹は鳴っていても、ポーランドが川の多い国だったおかげでなんとか我慢できている。人はなにも食べていないと三日くらいで死んでしまうのに、水を飲んでいれば二週間は生きられるらしい。
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夕方、草木に空が覆われている手頃な箇所を見繕って野宿の支度をする。暗くなってからだと薪を集めるにも苦労するので明るいうちにしないといけない。もともと目の前が暗い私には関係なくても、目で見て手頃な木を探せるリザちゃんには大いにある。
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夕方、空が草木に覆われている手頃な箇所を見繕って野宿の支度をする。暗くなってからだと薪を集めるにも苦労するので明るいうちにしないといけない。もともと目の前が暗い私には関係なくても、目で見て手頃な木を探せるリザちゃんには大いにある。
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「そう、そこよ」
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彼女が声で示した位置でぴたり、と人差し指を止めて「ぼっ」とつぶやくと、魔法が指先で爆ぜて集めた薪がぱちぱちと言う。灯りのありがたみが分からない私でも、焚き火の温かみはよく分かる。こんな的外れな位置にはさすがのソ連兵は来ないと願うしかない。
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彼女が声で示した位置でぴたり、と人差し指を止めて「ぼっ」とつぶやくと、魔法が指先で爆ぜて集めた薪がぱちぱちと言う。灯りのありがたみが分からない私でも、焚き火の温かみはよく分かる。こんな的外れな位置にはさすがのソ連兵も来ないと願うしかない。
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「そういえば、コーヒーがあったわ」
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「えー、コーヒー飲むの」
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「飲むと温まるし空腹も紛れるから。あんたも飲むのよ」
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リザちゃんはなにやらごそごそと音をたてて、焚き火でインスタントコーヒーを作りはじめた。ぶくぶくとお湯が湧く音が聞こえる。私の抗議は再三にわたったが徹頭徹尾、無視され続けた。
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空いた手に熱いコップがあてがわれる。顔にあたるゆげを吸い込むと香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
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「そう、匂いはいいのに……でも」
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試すようにして慎重に口を含むと、たちまち言葉ではとても言い表せない強烈な苦味が舌の上に広がった。
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リザちゃんはなにやらごそごそと音をたてて、焚き火でインスタントコーヒーを作りはじめたようだった。ぶくぶくとお湯が沸く音が聞こえる。私の抗議は再三にわたったが徹頭徹尾、無視され続けた。
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空いた手に熱いコップがあてがわれる。顔にあたる湯気を吸い込むと香ばしい香りが鼻をくすぐった。
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試すようにして慎重に口に含むと、たちまち言葉では言い表せない強烈な苦味が舌の上に広がった。
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「うええ……コーヒーってとっても美味しそうな匂いがするのに、どうしてこんなにまずいんだろう」
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焚き火が爆ぜる音の向こう側でコーヒーをすする音がした。私と違ってずいぶん慣れた感じだった。
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「そのうち慣れるわよ。ちゃんと飲みなさい」
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ぴしゃりと命令口調で言われて、リザちゃんはやっぱり威張りんぼだと思った。
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しかし、ぐいぐいと飲み進める彼女とは対照的に私のコップはいつまでも空かなかった。ちまちまと飲んでいるうちにどんどんコーヒーは冷めていき、ますます苦味が強く際立つ。そうなると、ますます飲み進められない。
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しかし、ぐいぐいと飲み進める彼女とは対照的に私のコップはいつまでも空かなかった。ちまちまと飲んでいるうちにどんどんコーヒーは冷めていき、ますます苦味が強く際立つ。そうなるとなおさら手が止まる。
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私は必死にコーヒーと闘争するための戦意を振り絞り続けた。さもなければ一向に軽くならないコップを両手で握りしめる気力を失いかねなかった。いっそ落としたふりをして地面に飲ませようかな、などと考えたりもした。
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とうとう呆れたのかリザちゃんは打開策を提案した。
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とうとう呆れたのかリザちゃんは打開策を提案した。
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「コーヒーってチョコレートと一緒に飲むと美味しいんだって」
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「えっ、そうなんだ……」
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外套の中にひとにぎり押し込んであったチョコレートの存在が思い起こされた。どれだけ食糧を切り詰めようとも、これにはまだ一口も手をつけていない。チョコレートが一番美味しいのはお腹が空いている時でも、空いていない時でもなく、その中間くらいの時なのだ。
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とはいえ、とはいえ……リザちゃんから聞いた話はとても魅力的に感じられた。
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チョコレートの食べ時を諦めざるをえないくらい、コーヒーは苦い。
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意を決していそいそと外套の奥底をまさぐり、できるだけ小さいチョコレートの包みを取り出す。口に含んで訪れた幸福を味わうのもそこそこに、救いがたき苦味をざっと流し込んでやる。
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確かに、鋭い苦味が甘さに包まれて幾分和らいだようだった。もう一個、またなるべく小さいのを取り出して入れ違いにコーヒーを含む。後味が不思議にすっきりとして、案外悪くない。
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外套の中にひとにぎり押し込んであったチョコレートの存在が思い起こされた。どれほど食糧を切り詰めようとも、これにはまだ一口も手をつけていない。チョコレートが一番美味しいのはお腹が空いている時でも、空いていない時でもなく、その中間くらいの時なのだ。
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とはいえ、とはいえ……リザちゃんの話はとても魅力的に感じられた。
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チョコレートの食べ頃を諦めざるをえないくらい、コーヒーは苦い。
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意を決していそいそと外套の奥底をまさぐり、なるべく小さいチョコレートの包みを取り出す。口に含んで訪れた幸福を味わうのもそこそこに、救いがたき苦味をざっと流し込んでやる。
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確かに、鋭い苦味が甘さに包まれて幾分和らいだようだった。もう一個、また小さいのを取り出して互い違いにコーヒーを飲む。後味が不思議とすっきりとして、案外悪くない。
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「どう?」
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「まあまあかな」
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「私も試そうかしら」
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「ダメ」
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気づけばコップの中身はあっという間に空になっていた。
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気がつくとコップの中身は空になっていた。
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その日、眠りにつくまでの数時間、私はちょっぴり大人になった気がした。
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リザちゃんに急かされて半分寝たまま朝の支度をさせられる。文字通り、させられている。手渡された最後の食糧を食べて、最後の水を飲んで、服を脱がされて、濡らした布で身体を拭かれて、着せられる。
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とても時間をかければ自分でもできないことないし、家にいる時はそうしていたけど作戦行動中はそういうわけにもいかない。
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うんと時間をかければ自分でもできないことないし、普段はそうしていたけれど作戦行動中はそういうわけにもいかない。
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「あら、月のものが来ているのね」
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「え、そうなんだ」
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どうりで股の辺りがむずむずすると思った。いつもだったらあの独特の嫌な匂いで気づくけど、こんなに長くお風呂に入っていないと鼻がほとんど効かなくなる。本当だったら入りたくてたまらないはずなのに意外とそうでもないのは、お腹が空いているとか喉が乾いているとか、他にしたいことが多すぎて身体が忘れてしまっているのだと思う。もし、息ができなかったら息をしたい以外にはきっとなにも考えられない。
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しかし、いざ行軍が再開されると股に当てられたやたらごわごわする布切れの感触が気になった。なんとかうまく歩こうとして大股歩きになると、今度は慣れない歩き方をしているせいで動きがぎくしゃくする。ただでさえ女の子は月のものの最中は元気がなくなる。
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ただでさえお腹が空いていて、喉も乾いていて、お風呂にも入れていないのに、これからもっと元気じゃなくなるのだ。
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しかし、いざ行軍を再開すると股にあてがわれたやたらごわごわする布切れの感触が気になった。なんとかうまく歩こうとして大股歩きになると、今度は慣れない歩き方をしているせいで動きがぎくしゃくする。
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月のものの最中は元気がなくなる。ただでさえお腹が空いていて、喉も乾いていて、お風呂にも入れていないのに、これからもっと元気じゃなくなるのだ。
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「あら、雪が降ってきたわ」
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リザちゃんがそう言うか言わないか、頬にひんやりとしたなにかが触れた。途端に寒さが増した気がして、外套のボタンを全部留めて歩く。
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「積もれば水には困らなくなるね」
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ここにタイプライタはないけれど、もしお手紙を書くならきっとこんな感じになるだろう。
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||||
”一九四六年三月二〇日。親愛なるお父さんへ。このお手紙はお父さんのお手元に届く頃には少し湿っているかもしれません。というのも、今まさに雪が降っているからです。もちろん音もなく降りしきる雪の姿は私の目には映りません。肌をなでる冷たい感触が私に雪を感じさせます。昔、たくさん積もった雪をすくって食べていたらお父さんに叱られましたね。案の定、あの後にお腹を壊してトイレから出られなくなったのを覚えています。行軍中にそうなったら大変ですが、今では私もお姉さんなのでもうそんなことはしません。……”
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||||
どこかで、チーン、と改行音が鳴ったような気がした。いやしかし、それにしては音程が変だ。そもそもこれは頭の中で書いているお手紙であって本当にタイプライタを叩いているわけでは……。
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私はすぐに他にも聞き慣れた音があったのを思い出した。これは銃弾が空気を切り裂く音だ。
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ここにタイプライタはないけど、もしお手紙を書くならきっとこんな感じになるだろう。
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”一九四六年三月二一日。親愛なるお父さんへ。このお手紙はお父さんのお手元に届く頃には少し湿っているかもしれません。というのも、今まさに雪が降っているからです。もちろん音もなく降り積もる雪の姿は私の目には映りません。肌をなでる冷たい感触だけが私に雪を感じさせます。昔、たくさん積もった雪をすくって食べていたらお父さんに叱られましたね。案の定、お腹を壊してトイレから出られなくなったのを覚えています。行軍中にそうなったら大変ですが、今では私もお姉さんなのでもうそんなことはしません。……”
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どこかで、チーン、と改行音が鳴ったような気がした。いやしかし、それにしては音程が変だ。そもそもこれは頭の中で書いているお手紙であって本当にタイプライタを叩いているわけでは……。
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私はすぐに他にも聞き慣れた音があったのを思い出した。
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これは銃弾が空気を切り裂く音だ。
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「敵だ」
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私がつぶやくと、彼女が息を呑んだ。「え、どこに」「まだ遠い。銃声、二時の方向、私たちに向けてじゃない」
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私がつぶやくと、リザちゃんが息を呑んだ。「え、どこに」「まだ遠い。銃声、二時の方向、私たちに向けてじゃない」
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「一体どこに向かって……?」
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耳を研ぎ澄ませて銃声の残響を追う。
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聴覚を研ぎ澄ませて銃声の残響を追う。
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「少なくとも水平に飛んでいる。地面に向かってでも、空に向かってでもない。誤射や祝砲ではなさそう」
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「じゃあ、もしかして」
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「友軍が撃たれてるんだ」
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瞬間、私たちの歩幅はメートル単位で変化した。繰り返し聞こえる銃声を目指して、短い跳躍を繰り返す。何歩目かで木々に飛び移り、幹から幹へ、足で軽く蹴って立体的に移動する。
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しばし位置を離れた彼女が無線機越しにしゃべると、電波を示す白線がぎざぎざに揺れて視界に波を打つ。
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瞬間、私たちの歩幅はメートル単位で変化した。だんだんと明瞭に聞こえる銃声を目指して、短い跳躍を繰り返す。何歩目かで木々に飛び移り、幹から幹へ、足で軽く蹴って立体的に移動する。
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リザちゃんが無線機越しにしゃべると、電波を表す白線がぎざぎざに揺れて視界に波を打つ。
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<見つけた。敵。小隊規模、車輌はなし。やれるわ>
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ごく簡潔な状況報告の後に炸裂音が響いた。私も白線を辿り木から鋭角に飛び出して地面に降り立つ。全身に陽の光を感じる――ここは平地だ――応射がリザちゃんに集中することを避けるために、未だ像を結べていない雑然とした暗闇へ、すばやくステッキを振りかざした。悲鳴。さらなる轟音。敵が叫べば叫ぶほど、だんだんと私にははっきりと見えるようになる。
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ごく簡潔な状況報告の後に炸裂音が響いた。私も白線を辿り木から鋭角に飛び出して地面に降り立つ。全身に陽の光を感じる――ここは平地だ――応射がリザちゃんに集中することを避けるために、未だ像を結べていない雑然とした暗闇へ、すばやくステッキを振りかざした。悲鳴。さらなる轟音。敵が叫べば叫ぶほど、私にははっきりと見えるようになる。
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お人形さんみたいに並ぶ敵たちがいよいよ銃口をこちらに揃えた。
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横殴りの銃弾の雨を避けて真横に飛び、さらに接近する。距離にして十メートルもあるかないかに迫った状況では、ステッキの口径だと釣り合わない。ホルスターにしまい込みながら逆の手で咄嗟に拳銃を模る。
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「ぱん!」撃つ。「ぱん!」お人形さんの頭が割れた風船のように弾けて地面に崩折れていった。 私たちとの戦力差を認めて撤退を始めた残党に、リザちゃんがとどめの光線を放つ。遠ざかる人影が白い靄に包まれて跡もなく消え去った。たちどころに銃声が止んで、しばしの静寂が訪れる。
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横殴りの銃弾の雨を避けて軽く飛び、さらに接近する。距離にして十メートルもあるかないかに迫った状況では、ステッキの口径だと釣り合わない。ホルスターにしまい込みながら逆の手でとっさに拳銃を模る。
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「ぱん!」撃つ。「ぱん!」お人形さんの頭が割れた風船のように弾けて地面に崩折れていった。
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私たちとの戦力差を認めて撤退を始めた残党に、リザちゃんがとどめの光線を放つ。遠ざかる人影が白い靄に包まれて跡形もなく消え去った。たちどころに銃声が止んで、しばしの静寂が訪れる。
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「もしやあれは――」
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「魔法を操る特別な兵士がいるという……」
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後方でざわざわと声がした。ドイツ語だ。振り返るとあやふやな輪郭が三、四、五、続く声に応じて描かれた。
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ソ連兵だらけの敵地で出会った友軍に、私は泥と雪で濡れたドレスの裾を伸ばして応じる。
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「ええ。私たちは帝国航空艦隊所属の魔法能力行使者です。あなたがたの援護に参りました」
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「私たちは魔法能力行使者です。あなたがたの援護に参りました」
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「おお……」
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直後、視界に広がるいくつもの輪郭が急にぺしゃんこに潰れたのかと思った。
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そうではなかった。
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私よりも三十センチも高い大柄な男の人たちが一斉に跪いたのだ。
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私より三十センチ近くも高い大柄な男の人たちが一斉に跪いたのだ。
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先頭にいる人が低い声で言った。
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「我々は第二二一保安師団、第三一三警察大隊隷下の残存兵どもでございます。ポーゼンに駐屯していましたが、指揮官を失い寄る辺もありません。どうかご指揮を」
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奥の木陰からもわらわらと人影が出てくる。リザちゃんが言う。
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「我々は第二二一保安師団、第三一三警察大隊隷下の残存兵どもでございます。ポーゼンに駐屯していましたが、指揮官を失い寄る辺もありません。どうかご助力を」
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奥の木陰からもわらわらと人影が出てくる。リザちゃんが言う。
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「あそこにある民家はあなたたちが検分したのかしら」
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私の視界にはなにも映っていないが、どうやら民家があるらしい。先頭の男の人が答える。
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「さようでございます。あの家々から物資を接収した後に、運悪くソ連兵とかち合って戦闘になりました」
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「さようでございます。あの家々から物資をセッシュウした後に、運悪くソ連兵とかち合って戦闘になりました」
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「じゃあ、今は食糧を持っているの?」
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「それなりには」
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リザちゃんが私の肩を叩いた。表情は分からないけど、声の弾み方からきっと笑っているのだと思う。
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空腹である旨を伝えると、大尉の階級章は存分にものを言った。
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私たちは木陰の比較的清潔そうな場所に案内されて、そこに敷かれた風呂敷の上に座った。ただ待っている間に白線のお人形さんたちがせわしなく働いて、回収した食材を元に料理が作られていく。やがて、ブラウンソースとよく煮込まれたお肉の良い匂いが漂ってきた。
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リザちゃんが私の肩を叩いた。表情は分からないけど、声の弾み方からきっと微笑んでいるのだと思う。
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空腹である旨を伝えると、大尉の階級は存分にものを言った。
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私たちは木陰の比較的清潔そうな場所に案内されて、そこに敷かれた風呂敷の上に座った。のんびりと待っている間に白線のお人形さんたちがせわしなく働いて、回収した食材を元に料理が作られていく。
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やがて、ブラウンソースとよく煮込まれたお肉の良い匂いが漂ってきた。
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これはビーフシチューの匂いだ。
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「あんた、よだれが出てるわよ」
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「嘘でしょ」
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「いや、今度は本当」
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本当だった。三、四日もろくに食べていないとさすがにはしたなさが勝ってしまう。
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「どうぞ、大尉どの」
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兵士の誰かが差し出した皿を、リザちゃんが一旦受け取って私に手渡す。続けてスプーンももらい、いよいよ待ち焦がれた食事の時間が訪れた。
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一口目を食べてからの事はあまり記憶に残っていない。この時の私は脳みそではなく舌が本体になっていた。皿に残ったソースまで舐め回しかけたところで「ちょっと、お代わりを貰えばいいじゃないの」と制止されて、ようやく我に返った。間を置かずにやってきた二皿目もほとんど飲むかの勢いだった。三皿目、四皿目と食べ尽くしていくにつれて次第に人間らしさを取り戻して、もしかするとこれは部隊全員ぶんの食事だったのでは、と思い至った。
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「お待たせしました、大尉どの」
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兵士の誰かが差し出した皿とスプーンを、リザちゃんが一旦受け取って私に手渡す。いよいよ待ち焦がれた食事の時間が訪れた。
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一口目を食べてからの事はあまり記憶に残っていない。この時の私は脳みそではなく舌が本体になっていた。皿に残ったソースまで舐め回しかけたところで「ちょっと、お代わりを貰えばいいじゃないの」と制止されて、ようやく我に返った。間を置かずやってきた二皿目もほとんど飲み干すかの勢いだった。三皿目の途中から次第に人間らしさを取り戻して、もしかするとこれは部隊全員ぶんの食事だったのでは、と思い至った。
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「食べ過ぎちゃったかも」
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「今更気づいたの?」
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そういうリザちゃんだって二皿は食べている。まさかこんな敵に囲まれた戦場でビーフシチューにありつけるとは思わなかった。
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「よく気づいたわね」
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彼女の皮肉が膨れたお腹に突き刺さる。
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だって、まさかこんな敵に囲まれた戦場でビーフシチューにありつけるとは思わなかったんだもの。今さら反省しても貴重な糧秣はもうすでに私の胃袋の奥底だった。
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「あのう」
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近くを通りかかった兵士の足音に向かって呼びかけて、食べ過ぎを謝罪すると彼はからからと笑った。
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「多少は構いませんよ。民家にいた牛を一頭潰したんです」
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そんなにたくさん作ったのか、と安心して文字通り腹落ちしたところで、別の疑問も湧いた。
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そんなにたくさん作ったのか、と安心して文字通り腹落ちしたところで、別の疑問も浮かんだ。
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「そこに住んでいた人はよく牛さんをくれたね」
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牛さんは牛乳をくれる。牛乳からチーズも作れる。世話をしているだけでずいぶん役に立つから、潰すとしたら本当に最後の最後だ。たまたまそういう牛がいたのだろうか、それとも特別に協力してくれたのだろうか。いずれにしてもありがたいことだ。
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しかし、兵士はあくまで笑うばかりだった。
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牛さんは牛乳をくれる。牛乳からチーズも作れる。世話をしているだけでずいぶん役に立つから、潰すとしたら本当に最後の最後だ。たまたま年寄りの牛がいたのだろうか、それとも特別に協力してくれたのだろうか。いずれにしてもありがたいことだ。
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しかし、兵士はただ笑うばかりだった。
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「他にも色々くれましたよ。まあ多少は手こずりましたがね」
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「ねえ、あなたたちの中で一番偉かった人を呼んできてくれないかしら。ポーゼン奪還の話をしたいの」
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そこへ、唐突にリザちゃんが割って入り兵士に言いつけた。言われてみれば確かにそうだ。食糧探しのためにだいぶそれてしまったけれど、ここまでソ連兵に見つからずにポーゼンから逃げてきたのならきっと良い道を知っているのだろう。
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たいへんな戦争を戦っているはずなのに、私はふわふわとした気持ちで満たされていた。相変わらず股の辺りがごわごわしているけれど、美味しいビーフシチューをお腹いっぱい食べて、大勢の部下までできた。なにもかもうまくいきそうな感じがした。
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そこへ、唐突にリザちゃんが割って入り兵士に言いつけた。言われてみれば確かにそうだ。食べ物探しのためにだいぶそれてしまったけれど、ここまでソ連兵に見つからずにポーゼンから逃げてきたのならきっと良い通り道を知っているのだろう。
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たいへんな戦争を戦っているはずなのに、なんだかふわふわとした気持ちで満たされていた。きっとここから私たちの反撃が始まるんだ。
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部隊の中で一番偉かった人――ウルリヒ伍長の道案内は慎重さを極めた。私たちと違って普通の人間は一発の流れ弾で死にかねないのだから、接敵を恐れるのは仕方がない。あれほどあったはずの糧秣は三日ほどで尽きて、私たちはまた腹ぺこに舞い戻った。一方で、月のものの痛みは日増しにどんどん強まり、眠いはずなのに眠れない日々が続いた。
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それでも部隊はたっぷり時間をかけてシュナイデミュール付近まで回り込み、そこから北側からポーゼンに到達した。少なくとも出発から一週間近くは経過している。股にあてがう布切れにもそろそろ事欠くようになってきた。
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辺りに並ぶ兵士たちの声を聴くかぎり、街と呼ぶにはあまりにも悲惨な光景が広がっているらしい。一ヶ月前まではちょうどこの辺りで我が軍の精鋭が物量に勝るソ連軍を抑えていたはずだ。それが今では不気味な静寂に満ちている。音がしないから私の目にはなにも映らない。
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部隊の中で一番偉かった人――ウルリヒ伍長の道案内は慎重さを極めた。普通の人間は一発の流れ弾で死にかねないのだから、接敵を恐れるのは仕方がない。あれほどあったはずの食べ物は三日ほどで尽きて、私たちはまた腹ぺこに舞い戻った。一方で、月のものの痛みは日増しにどんどん強まり、眠いはずなのに眠れない日々が続いた。
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||||
それでも部隊はたっぷり時間をかけてシュナイデミュール付近まで回り込み、その北側からポーゼンに接近した。少なくとも出発から一週間近くは経過している。股にあてがう布切れにもそろそろ事欠くようになってきた。
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辺りに並ぶ兵士たちの声を聞くかぎり、街と呼ぶにはあまりにも悲惨な光景が広がっているらしい。一ヶ月前まではちょうどこの辺りでドイツ軍の精鋭が物量に勝るソ連軍を抑えていたはずだ。それが今では不気味な静寂に満ちている。音がしないから私の目にはなにも映らない。
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「夜を狙う。まず大尉どのに奇襲を仕掛けてもらい、連中が慌てているところで我々が街に」
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ウルリヒ伍長の低く落ち着いた号令が寒空に吸い込まれていく。雪はあれから降ったり止んだりを繰り返している。一度よく晴れた日に乾かしたはずのドレスはもう湿りきっている。
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ウルリヒ伍長の低く落ち着いた指示が寒空に吸い込まれていく。雪はあれから降ったり止んだりを繰り返している。一度よく晴れた日に乾かしたはずのドレスはまた湿り気を帯びはじめた。
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「でも、敵はどこにいるのかしら」
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「見れば分かります。あそこにはもうまともに建っている建物の方が少ないですから」
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数時間後、私たちは部隊から離れて空を飛んだ。久しぶりの飛行に全身の筋肉がぎくしゃくとする。澄んだ空気に満ちた夜空の中では、無線機越しの声も心なしかはっきりと聴こえる。
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||||
数時間後、私たちは部隊から離れて空を飛んだ。澄んだ空気に満ちた夜空の中では、無線機越しの声も心なしかはっきりと聴こえる。
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||||
<あったわ、灯りがついている。私の後に続いて撃って>
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||||
まもなく、視界の端から中心に向かって白い塊が横切っていった。爆発音。私も急いで魔法を放つ。爆発音が二重に響く。
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||||
<あっ、いけない、高射砲!>
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||||
リザちゃんの注意とほぼ同時に、ヒュンッと甲高い音をたてて私の横をなにかが通り過ぎていった。後方で起こった爆発の熱風が私のスカートを激しくたなびかせる。
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||||
砲撃音に応じて下の方にぽつぽつと白い点が灯る。左右に蛇行しながら空を切り裂き、私は白い点に向かって降下を開始する。その点がほのかな輪郭を模ったあたりで魔法の砲弾をお見舞いした。
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||||
続けて、他の点にもそれぞれお返しを放っていく。見たところ、この街に戦闘機は配備されていないようだった。もう占領しきったと安心してすべての戦力はベルリンに向かっているのだろう。
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||||
まもなく、視界の端から中心に向かって白い塊が横切っていった。リザちゃんの魔法だ。爆発音。私も急いで魔法を放つ。爆発音が二重に響く。
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||||
<あっ、いけない! 高射砲!>
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||||
彼女の注意とほぼ同時に、ヒュンッと甲高い音をたてて私の横をなにかが通り過ぎていった。後方で起こった爆発の熱風が私のスカートを激しく揺らす。
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砲撃音に応じて下の方にぽつぽつと白い点が灯る。左右に蛇行しながら空気をかき分け、私は白い点に向かって降下を開始する。その点がほのかな輪郭を模った辺りで魔法の砲弾をお見舞いした。
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||||
続けて、他の点にもそれぞれお返しを放っていく。見たところ、この街に戦闘機は配備されていないようだった。占領しきったと安心してどれもベルリンに向かっているのだろう。
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||||
脇が甘かったね。
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||||
あらかた敵の対空能力の殲滅が済むと、私たちは合図を交わして高度を下げた。リザちゃんの放つ魔法に合わせて要領よく建物を破壊する。飛ぶ位置が低くなると、ロシア語の悲鳴がよく聞こえた。
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||||
しばらくするとウルリヒ伍長率いる部隊の突入も追いついた。交錯する銃声を頼りに、手のひらを中口径のステッキに代えて歩兵の隊列を崩し続ける。誰かが叫んだ歓声に向かって私はそれとなく敬礼のサインを送った。
|
||||
やがて敵の抵抗は収まり、わずか二個小隊規模の私たちの前に中隊相当の人の群れが手を頭の後ろに組んで並んだ。ウルリヒ伍長がロシア語を話せる兵士伝いにあれこれとやり取りをして、まとまった内容が私たちにも伝えられた。
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||||
あらかた敵の対空戦力の殲滅が済むと、私たちは合図を交わして高度を下げた。リザちゃんの放つ魔法に合わせて要領よく建物を破壊する。飛ぶ位置が低くなると、ロシア語の悲鳴がよく聞こえた。
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||||
しばらくするとウルリヒ伍長率いる部隊の突入も追いついた。交錯する銃声を頼りに、手のひらを中口径のステッキに代えて歩兵の隊列を崩していく。誰かが叫んだ歓声に向かって私は敬礼のサインを送った。
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||||
やがて敵の抵抗は収まり、わずか二個小隊規模の私たちの前に中隊相当の残党が両手を組んで並んだ。ウルリヒ伍長がロシア語を話せる兵士伝いにあれこれとやり取りをして、まとまった内容が私たちにも伝えられた。
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||||
「大尉どの。この街で作戦司令所として使われていた建物はすでに崩れてしまったようです。中にいた指揮官ごと」
|
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どうやら戦闘中に破壊した建物の中に含まれていたらしい。うまく再利用できたら強力な無線機も使えて便利だったが、この状況ではやむを得ない。
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どうやら戦闘中に破壊した建物の中の一つが拠点だったらしい。うまく再利用できたら強力な無線機も使えて便利だったが、この状況ではやむを得ない。
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「しかしまだ生き残っている建物がいくつかございましたので、それらを利用するつもりです」
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「そうね」
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「それからそこの地下室に未使用の地雷があったので明日にでも施設します。敵車輌の侵入をある程度は食い止められるでしょう」
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「それからそこの地下室に未使用の地雷があったので後で施設します。敵車輌の侵入をある程度は食い止められるでしょう」
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「ええ」
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「それで、ここに並んでるソ連兵の処刑についてですが」
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「処刑――殺しちゃうの?」
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ここではじめて、リザちゃんの代わりに口を挟んだ。
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「はい。捕虜を監視する人手も糧秣も不足していますゆえ」
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「でも戦いは終わったよ、降参したんでしょ」
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「でも戦いは終わったよ。降参したんでしょ」
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壁際で一列に並ぶソ連兵たちの輪郭が見える。誰も銃は手に持っていない。
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「ロシアの人たちは私たちが東方生存圏を確立した後に大切な働き手になるんだから、殺すのはよくないよ」
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以前にラジオで聴いた宣伝省の録音演説をほとんどそっくりそのまま言う。
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なんでもフューラーの考えでは、ロシアの地から共産主義者を追い出した後に新しい国を作るつもりらしい。そこではアーリア民族ではないものの善良な人々が帝国の恩恵を受けて平和に暮らしていくという。
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「ロシアの人たちは私たちが東方生存圏を確立した後で大切な働き手になるんだから、殺すのはよくないよ」
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以前にラジオで聴いた録音演説の内容をほとんどそっくりそのまま教えてあげた。
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なんでもフューラーの考えでは、ロシアの地から共産主義者を追い出した後に新しい国を作るつもりらしい。そこではアーリア民族ではないものの善良な人々が帝国<ライヒ>の恩恵を受けて平和に暮らしていくという。
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「しかし――」
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珍しく抗うそぶりを見せる伍長に、リザちゃんが遮るようにして命じる。
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「残った建物を全部使ってもいいから収容して。見張りは少しでいい。もし逃げ出したら私たちが責任を持つわ」
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伍長は渋々とではあるものの受け入れてくれた。それぞれの建物に分かれて収容されていくソ連兵たちの人影を見送った後、私たちも残った建物の一角に専用の寝室を構えた。必要な準備は部下が全部やってくれた。
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「これから大変よ」
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珍しくためらうそぶりを見せる伍長に、リザちゃんが声を被せて命じる。
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「残った建物を全部使ってもいいから捕虜にして。見張りは少しでいい。もし逃げ出したら私たちが責任を持つわ」
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伍長は渋々とではあるものの命令を受け入れてくれた。それぞれの建物に分かれて収容されていくソ連兵の人影を見送った後、私たちも残った建物の一角に専用の寝室を構えた。必要な準備は部下が全部やってくれた。
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「これからが大変よ」
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寝る前に、私の背中を濡れた布で拭きながらリザちゃんが言った。
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「たぶんもう、ベルリンに向かったソ連軍にも、奥にいる敵にもここが獲られたことは知られてしまったはず」
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「でもきっと、しばらく耐えていれば味方の増援が来てくれるよ」
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背中を拭き終えた後は例によって股の布を取り替える。下腹部の鈍痛は顔をしかめたくなるほどに達していた。
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「たぶんもう、ベルリンに向かったソ連軍にここが獲られたことは知られてしまったはず」
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「でもきっと、しばらく耐えていれば増援が来てくれるよ」
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背中を拭き終えた後は例によって股の布切れを取り替える。下腹部の鈍痛は今や顔をしかめたくなるほどに達していた。
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「まだ痛むの?」
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「うん」
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「日が経ったらじきに収まるはずよ」
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銃弾で身体の至るところに穴が空いてもそれほど痛くはないのに、こっちの痛みときたらまるで全身が蝕まれるかのように思われた。初めて月のものが訪れた時、管制官は「それが女の役目だ」と仰っしゃられた。男の役目が敵と戦うことなら、女の役目は元気な赤ちゃんを生むことだと教わった。月のものはそのための準備だという話だった。
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魔法能力がない普通の女の人でも、この痛みに耐えているんだ。
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そう思うと、心なしか鈍痛がほんの少し和らいだ。
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服を着直すと、私は備え付けの机の前に座った。目の前にはタイプライタが用意されている。無事だった建物の一つで見つかったものを「セッシュウ」したのだ。使い慣れたものとは異なるメーカーだったが、何度か試し打ちしているうちにすぐ馴染んだ。
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「そろそろ収まるはずよ」
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銃で撃たれてもそれほど痛くはないのに、こっちの痛みときたらまるで全身が押し潰されるみたいだ。
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初めて月のものが訪れた時、管制官は「それが女の役目だ」と仰っしゃられた。男の役目が敵と戦うことなら、女の役目は元気な赤ちゃんを産むことだと教わった。月のものはそのための準備だという話だった。
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国家への忠誠を念じているうちに、心なしか鈍痛がほんの少し和らいだ。
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服を着直すと、私は備え付けの机の前に座った。目の前にはタイプライタが用意されている。無事だった建物の一つで見つかったものを「セッシュウ」したのだ。使い慣れたものとは違う形だったけど、これでお手紙を書くことができる。
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「ずいぶん熱心なのね」
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半ば呆れた調子で言うリザちゃんに私は自信満々に答えた。
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半ば呆れた調子で言うリザちゃんに私は自信満々に答えた。
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「うん、戦争が終わったら”たいぴすと”になるの。だからいっぱい練習しないと」
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「……そう」
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”一九四六年三月二九日。親愛なるお父さんへ。聞いてください。ついに私たちはやりました。見事、ソ連兵を打ち負かしてポーゼンの地を解放したのです。途中で初めての部下もできました。たくさん捕まえた捕虜も今は空いた建物に閉じ込めておとなしくさせています。今頃、ベルリンに向かっている他のソ連兵たちも、モスクワにいる共産主義者たちも大慌てしているに違いありません。私たちがここでひたすら持ちこたえていれば、必ずや他の魔法能力行使者や兵隊さんたちが反転攻勢を成し遂げてくれるでしょう。”
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「そう」
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”一九四六年三月二九日。親愛なるお父さんへ。聞いてください。ついに私たちはやりました。見事、ソ連兵を打ち負かしてポーゼンを解放したのです。途中で初めての部下もできました。たくさんの捕虜も今は空いた建物に閉じ込めておとなしくさせています。今頃、ベルリンに向かっているソ連軍も大慌てしているに違いありません。私たちがここでひたすら持ちこたえていれば、必ずや他の魔法能力行使者や兵隊さんたちが反転攻勢を成し遂げてくれるでしょう。”
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チーン。ほんの少しだけ音程の違う改行音が部屋中に響く。
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長かった作戦を無事に終えたご褒美に、私は外套の奥底からチョコレートを取り出して口に含んだ。じわじわと溶けだす甘みが私に束の間の幸福をもたらした。
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長かった作戦を無事に終えたご褒美に、外套の奥底からチョコレートを取り出して口に含んだ。じわじわと溶けだす甘みが私に束の間の幸福をもたらした。
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ガンガンと部屋のドアを激しく打ち鳴らす音で目が覚めた。肌に触れる空気の感覚からして朝にはまだ早いはずだ。ちょっぴり苛立った声でリザちゃんがドアの向こう側に応じる。相手の返事はもはや悲鳴に近かった。
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「大尉どの! 大尉どの! どうか、今すぐやつらを――ソ連兵どもを――我々には手が――」
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ガンガンと部屋のドアを激しく打ち鳴らす音で目が覚めた。肌に触れる空気の感覚からして朝にはまだ早いはずだ。少し苛立った声でリザちゃんがドアの向こう側に応じる。相手の返事は悲鳴に近かった。
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「大尉どの! 大尉どの! どうか、今すぐやつを――ソ連兵を――我々にはどうしようも――」
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二人して急いで跳ね起きる。半ばリザちゃんに引っ張られるようにして外に向かう。
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踏み出した瞬間、ロングブーツの底に奇妙な感触がまとわりついた。同時に頬を頭を首筋を、冷たいなにかが打ち付けてくる。「吹雪だわ」リザちゃんがつぶやく。寝ている間に雪が降っていたらしい。外套を忘れてしまったので、あっという間にドレスに水分が染み込んでいく。
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踏み出した瞬間、ロングブーツの底に奇妙な感触がまとわりついた。同時に頬を頭を首筋を、冷たいなにかが打ち付けてくる。「吹雪だわ」リザちゃんがつぶやく。寝ている間に大雪が降っていたらしい。外套を忘れてしまったので、あっという間にドレスに水分が染み込んでいく。
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「こちらです! 大尉!」
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||||
兵士の声に従って後を追う。雪を踏み鳴らす音は方向性が掴みづらく、私の視界には白い靄としてしか映らない。声がした瞬間だけ靄が淡い輪郭をまとう。そんなに遠くないはずの距離を吹雪と積雪の抵抗を受けながら進むにつれて、分厚い空気の層を切り裂くように兵士たちの悲鳴が漏れ聞こえた。
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ロングブーツの底に魔法を込めて雪から足を引き抜くと、一直線に声の方向に滑空した。銃声。また、銃声。靄から伸びる鋭い白線が銃弾の軌跡をかたどっている。その先にいるのがソ連兵なのだろう。
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大切な労働力を殺すのはためらわれるが暴れているのなら仕方がない。ホルスターから引き抜いたステッキから魔法の刃を繰り出して、軌跡の末端へと振りかぶる。鉄でできた戦闘機をバターのごとく切り裂くこの刃は、人体をえぐるのに手応えさえ与えてくれない。
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兵士の声に従って後を追う。雪を踏み鳴らす音は感覚が掴みづらく、私の視界には白い靄としてしか映らない。声がした瞬間だけ靄が淡い輪郭をまとう。そんなに遠くないはずの距離を吹雪と積雪の抵抗を受けながら進むにつれて、分厚い空気の層から滲むように兵士たちの悲鳴が漏れ聞こえた。
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ロングブーツの底に魔法の力を込めて雪から足を引き抜くと、一直線に声の方向に滑空した。銃声。また、銃声。靄から伸びる鋭い白線が銃弾の軌跡を模っている。その先にいるのがソ連兵なのだろう。
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大切な労働力を殺すのはためらわれるが秩序を乱すのなら仕方がない。ホルスターから引き抜いたステッキの先に魔法の刃を繰り出して、軌跡の末端へと振りかぶる。鉄でできた戦闘機をバターのごとく切り裂くこの刃は、人体をえぐる時には手応えさえ与えてくれない。
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はずだった。
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これまでに一度として途中で止まったことのない魔法の刃が、私の自重ごと空中で押し留められた。相手が固すぎるのではない。掴まれている。
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これまでに一度として止まったことのない魔法の刃が、私の自重ごと空中で押し留められた。
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掴まれている。
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ステッキではなく、魔法の刀身が。
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||||
予想を越える力が刀身ごと私を積もった雪の上に投げ出した。しばし、されるがままに埋もれていった身体はしかし、追撃の兆しを察してすぐさま中空に浮き上がる。直後、ドーン、と重低音が響いて雪が舞い上り、あたかも返り血のようにドレスに降り掛かった。
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「ゔゔゔゔゔゔゔゔゔ」
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ここへきて、私の視界はようやく敵の輪郭を正確に捉えることができた。獣同然の唸り声を上げ、身を激しくよじり頭を抱えるその様は、およそ人間離れしていた。暴力と絶望が綯い交ぜになった様相に誰もが絶句を余儀なくされた。
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予想を越える力が刀身ごと私を積もった雪の上に投げ出した。されるがままに埋もれていく身体はしかし、追撃の兆しを察してすぐさま中空に飛ぶ。直後、ドーン、と重低音が響いて雪が舞い上がり、さながら返り血のようにドレスに降り掛かった。
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||||
「ゔゔゔゔゔゔゔゔゔ〜」
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ここへきて、私の視界はようやく敵の輪郭を正確に捉えた。獣同然の唸り声を上げ、身を激しくよじり頭を抱えるその様は、およそ人間とは思えなかった。暴力と絶望が綯い交ぜになった様相に誰もが絶句を余儀なくされた。
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「なん、なの、こいつ」
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||||
ようやくリザちゃんが一言だけ漏らす。先の兵士が息を切らしながら言う。
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「俺が見張りを代わる前までは普通だったんです――でも気づいたら――こいつ、見張りも、仲間の捕虜も殺して――急にこんな有様に――」
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不審な挙動を見せつつも雪の上で立ち往生する化け物に対して、兵士が装填したライフルを向ける。
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「俺が見張りを代わる前までは普通だったんです――でも気づいたら――こいつ、見張りも、捕虜も殺して――急にこんな有様に――」
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不審な挙動を見せつつも雪の上で立ち往生するソ連兵に対して、兵士がライフル銃を向ける。
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「たぶん意味ないよ。さっき私の魔法を掴まれた。魔法に触れるってことは」
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「魔法能力行使者なの?」
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「そうだと思う。隠していたのか、もしかすると今日になって発現したのかも」
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「ソ連にもいたのね」
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突如、なにに反応したのか――化け物は空に向かって鋭く絶叫して――一目散に兵士の方へと駆け出した。
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恐怖の声とともに兵士もライフル銃を放つも、私たちがそうであるように化け物が止まることはなかった。真横から私とリザちゃんが魔法を放つと、醜くわめきながら雪の上を転がっていった。
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四方八方から増援の兵士たちが駆けつけてきた。雪を踏みしめる音がしばし空気を満たして、闇夜に紛れた白銀の先へと一斉に小銃が構えられる。
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突如、なにに反応したのか――ソ連兵は鋭く絶叫して――一目散に兵士の方へと駆け出した。
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恐怖の声とともに兵士もライフル銃の引き金を引くも、私たちがそうであるように彼が止まることはやはりなかった。真横から私とリザちゃんが魔法を放つと、醜くわめきながら雪の上を転がっていった。
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四方八方から兵士たちが駆けつけてきた。雪を踏みしめる音がしばし空気を満たして、闇夜に紛れた靄の先へと一斉に小銃が構えられる。
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「見えたらすぐに撃て!」
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後ろの方でウルリヒ伍長の号令が聞こえた。
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この時、私の目にはみんなとは違うものが映っていたと思う。
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相変わらず真っ暗な視界の奥に、支えもなしに仰向けからゆっくりと起き上がる人影が一つ。その輪郭は今までのどれとも違っていて、輪郭を構成する糸の一本一本が、粒の一つ一つが、あたかも脈打っているように見えた。
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それらの絶え間なく動く脈動がみるみるうちに勢いをつけて、あたかも膨れ上がった様子で威圧感を増していく。とめどなく、再現なく、もはや自分自身の存在にすら気を払っていないかのように思われた。
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それらの絶え間ない脈動がみるみるうちに膨れ上がり、威圧感を増していく。とめどなく、際限なく、自分自身の存在にすら気を払っていないかのようだった。
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||||
「逃げて!」
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||||
化け物の思惑に悟った刹那、とてつもない爆発が起こった。反射的に大口径の魔法をぶつけて相殺を試みる――が、襲いかかる衝撃はは左右に分かれて辺りにことごとく破滅を撒き散らした。束の間、爆風の隙間を縫って耳に届いた悲鳴は殺人の波に包まれてたちまち消し飛んだ。
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季節外れの雪の夜に再び静けさが訪れた時、化け物の姿はどこにもなかった。
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ソ連兵の思惑を悟った刹那、とてつもない爆発が起こった。とっさに大口径の魔法をぶつけて相殺を試みる――が、襲いかかる衝撃は左右に散って辺りにことごとく破滅をもたらした。爆風の隙間を縫って耳に届いた悲鳴は、殺人の波に包まれてたちまち消し飛んだ。
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季節外れの吹雪の夜に再び静けさが訪れた時、彼の姿はどこにもなかった。
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「ごほっ、自爆――したのか?」
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しばらくすると後ろから生き残りの兵士たちが雪をかき分けて起き上がった。ウルリヒ伍長が、もう存在しない部下に向かって声を震わせる。
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しばらくすると後ろから生き残りの兵士たちが雪を押しのけて起き上がった。ウルリヒ伍長が、もう存在しない部下に向かって声を震わせる。
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||||
「おい、どうした――どこへいったんだ、お前ら」
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||||
「爆風に巻き込まれて死んだのよ。生き残ったのは私たちの魔法の真後ろにいた人だけ」
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「爆風に巻き込まれて死んだのよ。今ここにいるのは――たまたま魔法に当たらなかった人だけ」
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「そんな無体な、ついさっきまで――死体さえも――」
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がさっ、と雪の上に膝をつく音がした。声や身じろぎの数から、およそ半数の兵力がまたたく間に失われてしまったのだろう。あまりにも強力な魔法は灼熱の業火をも上回る。物や人を破壊した痕跡さえも残さない。すべては虚空の彼方へと消えゆく。
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がさっ、と雪の上に膝をつく音がした。声や身じろぎの数から、およそ半数の兵力が瞬く間に失われてしまったのだろう。強力な魔法の威力は灼熱の業火をも上回る。物や人を破壊した痕跡さえも残さない。すべては虚空の彼方へと消えゆく。
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||||
「……あなたのせいですぞ、大尉どの」
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||||
普段の落ち着いた口調が嘘みたいに刺々しい声色で伍長が私に食ってかかった。
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普段の落ち着いた口調が嘘みたいに、刺々しい声色で伍長が私に食ってかかった。
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「前もってソ連兵どもを皆殺しにしていれば!」
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「でも、彼らは東方生存圏の――」
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「でも、あの人たちは東方生存圏の――」
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「なにが生存圏! あなががたは――総統閣下も――我が軍の実情をご存知なのですか?」
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雪をかき分けてずんずんと迫るウルリヒ伍長の手が、私の胸ぐらを掴む。しかしそれは「胸ぐらを掴まれている」というよりはすがりつかれているような感じがした。
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「ちょっと、伍長、あんた――」
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||||
ずんずんと迫るウルリヒ伍長の手が、私の襟元を掴む。しかしそれは「胸ぐらを掴まれている」というよりは、むしろすがりつかれているような感じがした。
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||||
「ちょっと、あんた――」
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「いや、待って。伍長さん、我が軍の実情ってなに?」
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||||
揺れ動く白線で縁取られた顔の輪郭がしばし俯く。
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白線で縁取られた四角い顔の輪郭がしばし俯く。
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||||
「我が軍は、ドイツ国は、このままだと確実に」
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直後、遠方で爆発音が響いた。一発や二発ではない。何十もの火薬が炸裂した音がとめどなく続く。伍長の手が襟元から離れて、身体ごと音のする方向に傾ぐ。
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直後、遠方でも爆発音が響いた。一発や二発ではない。何十もの火薬が炸裂した音がとめどなく続く。伍長の手が襟元から離れて、身体ごと音のする方向に傾ぐ。
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「撒いておいた地雷が爆発した」
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まもなく私たちの認識は一点に集中した。
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すぐさま私たちの認識は一点に集中した。
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「ソ連軍が来る」
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いつもの要領で上空から奇襲を仕掛ける。きゅらきゅらとキャタピラで固い土を踏み鳴らして進む重戦車と、遠慮なしに金属音を立てる随伴歩兵らしき集団の輪郭が急降下に伴い明瞭に映り込む。魔法の砲弾を放ったと同時にUターンして空へ舞い戻る。地雷原で損耗した戦車の数を念頭に入れると、敵方の車輌はそう多くはないはずだ。
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いつもの要領で上空から奇襲を仕掛ける。キャタピラで固い土を踏み鳴らして進む重戦車と、遠慮なしに金属音をがなりたてる随伴歩兵らしき集団の輪郭が、急降下に伴って明瞭に映り込む。魔法の砲弾を放ったと同時に反転して空へ舞い戻る。地雷原で損耗した戦車の数を念頭に入れると、敵方の車輌はそう多くはないはずだ。
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<南側からも来るわ>
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「そっちはお願い>
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短く無線通信を交わして目の前の戦場と向き合う。ただひたすら、被弾を最小限に、応射を最大限に。一見、際限なく現れるように思われたソ連兵たちにも限りはある。上空からの砲撃に一段落を見出した後、四方に分散したであろう小隊の位置取りに見当をつける。今、私の右斜め後方で音がした。
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速やかに建物の縁から飛び立つと、入れ替わるように銃弾が元いた位置を掠めていった。軌跡を辿ったその先にステッキを振り抜く。帯状に展開された魔法の波が、確かに人体を両断した手応えを得る。死に様に放たれた応射の弾が気安く私の肉体をえぐる。
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リザちゃんがいる方向からも景気の良い爆発音が聞こえてきた。どうやらなんとかうまくいっているようだ。事態はすでに残存兵力の掃討に切り替わっている。
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||||
ふわりと地面に降り立つ。遁走をはじめた背中に人差し指を突き立てて一人ひとり、順番に始末していく。破損した戦車の陰を覗くと、逃げ遅れた若いソ連兵の泣きじゃくる声が耳に入ってきた。
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||||
短く無線通信を交わして目の前の戦場と向き合う。ただひたすら、被弾を最小限に、攻撃を最大限に。続々と現れるソ連兵たちにも限りはある。上空からの砲撃に一段落を見出した後、四方に分散したであろう小隊の位置取りに見当をつける。今、私の右斜め後方で音がした。
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||||
速やかに建物の縁から飛び立つと、入れ替わるように銃弾が元いた位置を掠めていった。軌跡を辿ったその先にステッキを振り抜く。帯状に展開された魔法の波動が、通り過ぎた物体を無慈悲に切断していく。敵の死に様に放たれた応射の銃弾が私の肉体をえぐる。
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||||
リザちゃんがいる方向からも景気の良い爆発音が聞こえてきた。どうやらなんとかうまくいっているようだ。事態はすでに残党の掃討に切り替わっている。
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ふわりと地面に降り立つ。各個遁走を始めた背中に人差し指を突き立てて一人ひとり、順番に始末していく。破損した戦車の陰を覗くと、逃げ遅れた若いソ連兵の泣きじゃくる声が耳に入ってきた。
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もし口を閉じて黙っていたら気づかなかったかもしれないのに、甲高い泣き声のせいで私の目には敵を仕留めるのに十分な情報量が描き出される。相変わらずロシア語は分からない。
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「ぱん」
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人影の輪郭が弾けて消えた。
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@ -625,7 +629,7 @@ tags: ['novel']
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なんとなしに空を仰ぐと頬を生温かい風が撫でた。
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あの日、最初の襲撃を経て私たちの部下は全員が戦死した。結局、ウルリヒ伍長から話は聞けないままだった。
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でも私たちは生きている。めでたい春を迎えて久しいこの地で、長く続いた雪の代わりに銃弾を浴びながらライヒのために戦い続けている。
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”**一九四六年四月三〇日** 親愛なるお父さんへ。紙がなくなりそうなのでしばらくお手紙を書けなくなるかもしれません。この地に来てからもう一ヶ月余りが経過しました。身体に空いた穴が二桁を越えてからは数えるのを諦めています。放っておけばそのうち塞がるけど、戦うたび穴が空くので実際のところいくつあるのか分からないのです。こないだ、ようやく戦死した人たちの埋葬を全員分終えました。得体の知れない化け物に殺されてしまった捕虜の皆さんも今では土の下で一緒になっています。”
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”**一九四六年四月三〇日** 親愛なるお父さんへ。紙がなくなりそうなのでしばらくお手紙を書けなくなるかもしれません。この地に来てからもう一ヶ月余りが経過しました。身体に空いた穴が二桁を越えてからは数えるのを諦めています。放っておけばそのうち塞がるけど、戦うたび穴が空くので実際のところいくつあるのか分からないのです。こないだ、ようやく戦死した人たちの埋葬を全員分終えました。ソ連兵の魔法能力行使者に殺されてしまった捕虜の皆さんも今では土の下で一緒になっています。”
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改行音が鳴らない。また故障したみたいだ。慣れた手つきでアームの位置を無理やり下げて、続きを書き進める。
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「食糧、そこそこ手に入ったわ。またしばらくは持つと思う」
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「うん」
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