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Rikuoh Tsujitani 2023-09-15 22:52:10 +09:00
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 会計を代理した看護婦から手渡された領収書によると、まるでヒロポン代で帳尻を合わせたかのようにぴったり十萬円が徴収されていた。下には赤文字で『緊急ヲ要スル事態ニ附キ除倦覺醒劑ヲ処方ス』と記されてあった。自動扉の前で深々とお辞儀をしてから帰り道もユンを後ろに乗せて行こうとすると、彼は目の前で屈伸を始めて徒競走の構えをとった。  精算を代理した看護婦から手渡された領収書によると、ヒロポン代で帳尻を合わせたかのようにぴったり十萬円が徴収されていた。下には赤文字で『緊急ヲ要スル事態ニ附キ除倦覺醒劑ヲ処方ス』と記されてあった。自動扉の前で深々とお辞儀をして、帰り道もユンを後ろに乗せて行こうとしたが、彼は目の前で屈伸を始めて全力疾走の構えをとった。
「おれは走って家に帰る。準備運動の代わりだ」 「おれは走っていく。準備運動の代わりだ」
 勇が自転車に乗りきらないうちにユンはついさっきまで病人だったとは思えない加速で大通りを駆け抜けていった。呆気にとられた勇も遅れて後を追おうとしたが、かなり真面目に漕いでも初速で距離を開けられたユンに追いつくのにはかなり時間がかかった。人通りがほとんどない歩道を独占して、二人並んで並走しながら勇が隣の彼に向かって叫ぶ。  勇が自転車に乗りきらないうちにユンはついさっきまで病人だったとは思えない初速で大通りを駆け抜けていった。呆気にとられた勇も遅れて後を追おうとしたが、かなり真面目に漕いでも出だしで距離を開けられたユンに追いつくのにはかなり時間がかかった。
 道すがら、別の高校の硬戦部が隊列を組んで持久走をしている場面に出くわした。顔にドーランを塗って戦闘服と小銃を完全装備していた男たちは、背後から肉食獣の速度で迫るユンに慄いてしばし足を止めた。
 じきに追いついて真横に並んだ勇が隣の彼に向かって叫ぶ。
「えらく調子がよさそうだな!」 「えらく調子がよさそうだな!」
 ユンも叫んだ。  ユンも叫んだ。
「調子がいいどころじゃねえ! 痛みも疲れもなにも感じられねえ! 今のおれが一番強い!」 「調子がいいどころじゃねえ! 痛みも疲れも吹っ飛んじまった! 今のおれが一番強い!」
 数分後、家に戻った彼はあまりにも早変わりした姿に驚く祖母に朝食の仕切り直しを要求して、今度こそ米びつを平らげる勢いで食事を済ませた。部屋で各々戦闘服に着替えて出陣の準備を済ませる。試合当日は公死園戦場に現地集合という手はずになっていた。居間の時計を見やると、まだ多少の余裕があった。それに気づいたのか、ユンが言う。  数分後、家に戻った彼はあまりにも早変わりした姿に驚く祖母に朝食の仕切り直しを要求して、今度こそお櫃を空にせしめる勢いで食事を済ませた。部屋で各々戦闘服に着替えて出陣の準備を済ませる。試合当日は公死園戦場に現地集合する手はずになっていた。居間の時計を見やると、まだ多少の余裕があった。それに気づいユンが言う。
「お前、とりあえず家に帰れよ。テレビの連中も落ち着いた頃合いだろ。おれは先に現地に行ってるからよ。それにしても――」 「お前、とりあえず家に帰れよ。テレビの連中も落ち着いた頃合いだろ。おれは先に現地に行ってるからよ。それにしても――」
 彼は急に顔を祖母に向けた  彼は祖母を軽く睨んだ
「いつも金がないないって言ってたくせに、あったじゃねえか。まさか手術まで受けられるとは思ってなかったぜ」 「いつも金がないないって言ってたくせに、あったじゃねえか。まさか手術まで受けられるとは思ってなかったぜ」
「あんたに渡したってろくなことに使わないよ。でも、なんとか足りてよかったわねえ。勇さんもこんなのを病院に連れていって大変だったでしょう」 「あんたに渡したってろくなことにならないよ。でも、あれで足りてよかったわねえ。勇さんもこんなのを病院に連れていって大変だったでしょう」
 顔じゅうに皺が刻まれた彼の祖母の顔がさらにくしゃっと丸まって勇に笑顔を向けた。  深い皺が刻まれた彼の祖母の顔がさらにくしゃっと丸まって勇に笑顔を向けた。
「……ええ、自転車が折れるかと思いましたよ。頂いたお金が間に合ってよかったです。二度と往復したくありませんからね」 「……ええ、自転車が折れるかと思いましたよ。頂いたお金が間に合ってよかったです。二度と往復したくありませんからね」
 二人は壺に入った朝鮮漬けなどが陳列する店先の前で一旦別れた。大阪城を通り過ぎて帝國実業の校舎を脇目に、一日ぶりに帰路へと着く。昨日送った電文の返事は結局来なかった。朝方には無人航空機の往来もまばらで勇は以前ほどの恐怖を感じずに自宅まで辿り着くことができた。鍵を差して家の扉を開けて「ただいま帰りました」と報告する。返事がない。家の中は静まり返っている。疲れて寝ているのだろうか。  二人は漬物樽が陳列している店先の前で一旦別れた。帝國実業の校舎を通り過ぎて一日ぶりに帰路へとつく。昨日送った電文の返事は結局来なかった。朝方は無人航空機の往来も少なく勇は以前ほどの恐怖を感じずに自宅まで辿り着くことができた。鍵を差して家の扉を開けて「ただいま帰りました」と報告する。反応がない。家の中は静まりかえっている。疲れて寝ているのだろうか。
 いないものと思って油断して居間を通り過ぎかけたので、そこに父が座っているのを見つけて勇は驚いた。その背中はいつもよりだいぶ小さく衰えて映った。  いないものと思って居間を通り過ぎかけたので、そこに父が座っているのを見つけて勇は驚いた。その背中はいつもよりだいぶく衰えて映った。
 改めて父の背中に呼びかけると、当の本人は力なく振り返った。目に隈ができていて表情に生気がない。いつもならとっくに出勤している時間なのに父は寝間着のままで、ちゃぶ台の上には日本酒と切子が並んでいた。  改めて父の背中に呼びかけると、当の本人は緩慢に振り返った。目に隈ができていて表情に生気がない。普段ならとっくに出勤している時間なのに父は寝間着のままで、ちゃぶ台の上には日本酒と切子が並んでいた。
「おお……帰ったか」 「おお……帰ったか」
 父の声には威厳のかけらもなかった。半分死んでいるような声色だった。  父の声には威厳のかけらもなかった。半分死んでいるような声色だった。
「職場からな、電話があった。当分休めと。まあ、クビだろうな。今度こそ 「職場からな、電話があった。当分休めと。まあ、クビだろうな」
 そう言うと、父は背中を向けて切子の中の日本酒を呷った。たん、と強く置いて、自ら次を注ぐ。  そう言うと、父は背中を向けて切子の中の日本酒を呷った。
「あいつは――お前の母さんは実家に帰ったよ。身内から二人も不穏分子を出した家に娘を置いておけないと言われたそうだ。まあ、その通りだな」 「あいつは――お前の母さんは実家に帰ったよ。身内から二人も不穏分子を出した家に娘を置いておけないと言われたそうだ。まあ、その通りだな」
 また日本酒を呷る。習慣的に勇が酌をしようと前に進み出たが、それよりも早く父が次を注いだ。手持ち無沙汰になったがなにも言うことは思いつかなかった。  また日本酒を呷る。習慣的に勇が酌をしようと前に進み出たが、それよりも早く父が自ら次を注いだ。手持ち無沙汰になったがなにも言うことは浮かばなかった。
「俺は一体どこで間違えたんだ……。十分にやってきたはずだ。過ぎた出来の息子を二人も授かったと思っていたのに」 「俺は一体どこで間違えたんだ……。十分にやってきたはずだ。過ぎた出来の息子を二人も授かったと思っていたのに」
「父さんは立派です」 「父さんは立派です」
 出し抜けに、なんとかそれだけ言えた。だが、父は力なく笑うだけだった。  咄嗟に、それだけは言えた。だが、父は力なく笑うだけだった。
「テレビ、観たか。誰もそう思っちゃいない。これからどうやって暮せばいいのかも分からない……」 「テレビ、観たか。誰もそう思っちゃいない。これからどうやって暮せばいいのかも分からない……」
 ふと、思いついたように父はまた振り返った。  ふと、思い出したように父はまた振り返った。
「そういえばお前、あの十萬円、どうした。一度やった褒美を返せと言うのは苦しいが、今はとにかく金がいるんだ」 「そういえばお前、あの十萬円、どうした。一度やった褒美を返せと言うのは苦しいが、今はとにかく金がいるんだ」
「あれは……もう使ってしまいました」 「あれは……もう使ってしまいました」
 瞬間、生気の薄い父の顔に怒気が宿った。釣り上がった目が勇を睨む。  直後、生気の薄い父の顔に怒気が宿った。釣り上がった目が勇を睨む。
「なんだと? 一昨日にやったばかりじゃないか。なにに十萬円も使ったんだ。ろくでもないことじゃないだろうな!」 「なんだと? 一昨日にやったばかりじゃないか。なにに十萬円も使ったんだ。ろくでもないことじゃないだろうな!」
「違います」 「違います」
 酩酊した父は急に立ち上がるとふらつきながら勇に押し迫った。酒臭い息が鼻腔を強く刺激した。  酩酊した父は急に立ち上がるとふらつきながら勇に押し迫った。酒臭い息が鼻腔を強く刺激した。
「お前までつまらんことで捕まったら俺はもうどうしようもないんだ。なんだ、一体なにに使った。言ってみろ! 子供が一晩二晩で十萬円も使えるか! 「お前までつまらんことで捕まったら俺はもうどうしようもないんだ。じゃあなんだ、一体なにに使った。言ってみろ!」
 父のあまりの変わりように勇は拒絶感が勝り、迫る父の手を強く振り払った。そして、開き直った態度で彼は叫んだ。  父のあまりの変わりようについに反抗心が勝り、勇は迫る父の手を強く振り払った。そして、開き直った態度で彼は叫んだ。
ああ、そうだよ! 朝鮮人の歯を治してやるのに十萬円を全部使ったんだ! あいつの家は貧乏だから……それが悪いとでも言うのかよ!」 「朝鮮人の歯を治してやるのに十萬円を全部使ったんだ! あいつの家は貧乏だから……それが悪いとでも言うのかよ!」
 虚を突かれたように父はおとなしく静まった。ややあって、口を開く。  虚を突かれたように父はおとなしくった。ややあって、口を開く。
の試合で軍刀を振っていた子のことか」 お前の試合で軍刀を振っていた子のことか」
「そうだ、あいつはあれで歯を折ったんだ。危険だったけれど、ああしなければ勝てなかったかもしれない」 「そうだ、あいつはあれで歯を折ったんだ。危険だったけれど、ああしなければ勝てなかったかもしれない」
 気まずく沈黙する縮んだ父に向かって、勇はさらに言う。  気まずく沈黙する縮んだ父に向かって、勇はさらに言う。
「あいつも、今となってはおれも、公死園の決勝がすべてなんだ。これに勝てばどいつもこいつも黙らせられる。朝鮮人だろうが、不穏分子の兄だろうが――」 「あいつも、今となっては俺も、公死園の決勝がすべてなんだ。勝てばどいつもこいつも黙らせられる。朝鮮人だろうが、不穏分子の兄だろうが――」
 言い切ろうとして、一瞬、言葉を切った。父はまだ黙ったままだった。  言い切ろうとして、一瞬、言葉を切った。父はまだ黙ったままだった。
「――だから十萬円を使った。今のおれに、他にほしいものなんて一つもなかったから」 「――だから十萬円を使った。今の俺に、他に欲しいものなんて一つもなかったから」
 勇はなにも言えないでいる父を置いて家を出た。  勇は最後までなにも言えないでいた父を置いて家を出た。
 銀色の刺繍が胸元に光る帝國実業の戦闘服を着た彼は、自転車を駆って桜ノ宮駅へ行った。桜ノ宮駅から電車に乗って大阪駅乗り換え、大阪梅田駅から公死園駅へと進路をとる。車内の液晶に映る代わり映えしない電子公告が数巡すると、目的地にたどり着いた。確かな歩みで駅から戦場の施設まで進んで、帝國実業の控室に入る。そこでは分隊員と、ユン、と監督がすでに待っていた。彼が入るやいなや全員の視線が集中した。  銀色の刺繍が胸元に光る帝國実業の戦闘服を着た彼は、自転車を駆って桜ノ宮駅へ行った。桜ノ宮駅から電車に乗って大阪駅乗り換え、大阪梅田駅から公死園駅へと進路をとる。車内の液晶に映る代わり映えしない電子公告が数巡すると、目的地にたどり着いた。確かな歩みで駅から戦場の施設に進んで、帝國実業の控室へと入る。そこでは分隊員と、ユン、と監督がすでに待っていた。彼が入るやいなや全員の視線が集中した。
 勇は軍靴の底を互いに弾き鳴らし直立不動の敬礼姿勢をとって、叫んだ。  勇は軍靴の底を互いに弾き鳴らし直立不動の敬礼姿勢をとって、叫んだ。
「帝國実業三年、主将、葛飾勇、ただいま帰りました!」 「帝國実業三年、主将、葛飾勇、ただいま帰りました!」
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 公死園の運営関係者が控室に現れてまもなく出場だと告げてきたので、一同は同時に支給された衝突判定用の電子肌着を戦闘服の下に着込んだ。この厚さ三寸ほどの灰色の服が対応する衝撃を仔細に検知する。選手の片耳には一度押し込むと鉗子でなければ取れない癒着性の通信機も装着される。耳の穴が半球面の筐体で埋まったように見えるが、外音は精密に取り込まれており聴力や空間把握能力が低下する懸念はない。
 公死園の運営関係者が控室に顔を出してまもなく出場だと告げてきたので、一同は同時に支給された電子判定用の肌着を戦闘服の下に着込んだ。この厚さ三寸ほどの灰色の服が対応する衝撃を検知する。選手の片耳には一度押し込むと鉗子でなければ取れない癒着性のイヤホンも装着される。耳の表面が半球面で埋まったように見えるが、外音は精密に取り込まれていて聴力や空間把握能力が低下する懸念はない。  各通信機は検知した衝撃判定を選手自身に伝えるほか、試合を管制する電子計算機にも情報を送信する。二〇年前に移行が決まった仮想体力制度は名だたる財閥企業の強力な後押しによって、西洋先進国にも引けをとらない科学技術力の結晶で作られている。
 この器具が検知した全身の衝撃判定を選手自身に伝えるほか、試合を管制する電子計算機にも情報を送信している。二〇年前に移行が決まった仮想体力制度は名だたる財閥企業の強力な後押しによって、西洋先進国にも引けをとらない科学技術力の結晶で作られている。 「入念に起動を確認しろ。試合開始までに判定が有効でなければ即失格だ」
「入念に起動を確認しろ。試合開始までに判定が有効でなければ失格だ」  大会の駒を進めるたびに言ってきたことを勇が今日も言う。分隊員たちは力強く頷いて通信機を長押しした。勇も押したので、耳元で人工的な音声が<起動確認。本日は昭和九八年八月二三日、晴天なり>と言うのが聞こえた。
 大会の駒を進めるたびに言ってきたことを勇が今日も言う。分隊員は頷いて判定服の裏地に備わった通信確認用のボタンを押す。勇も押したので、耳元で人工的な音声が「起動確認。本日は昭和九八年八月二三日」と言うのが聞こえた。  最後に装備品の点検を行う。ユンは当然、予備弾倉ではなく軍刀を手に取ったが、他の隊員にも思うところがあったらしい。同じく軍刀を仕込む者もいれば、拳銃に持ち替える者もいた。本来なら浮ついた装備の変更はご法度だが、相手が相手なので定石に縛られるべきではない。
 最後に装備品の確認を行う。ユンは当然、予備弾倉ではなく軍刀を手に取ったが、他の隊員にも思うところがあったらしい。同じく軍刀を仕込む者もいれば、拳銃に持ち替える者もいた。本来なら浮ついた装備の変更はご法度だったが、相手が相手なので定石に縛られるべきではない。  勇も迷った末に予備弾倉を脇に寄せて硬式拳銃を腰に収めた。
 勇も迷った末に予備弾倉を脇に寄せて硬式拳銃を手に取った。  控室の私物入れに携帯電話を置こうとした時、ぶるぶるとそれが震えた。手に取って開くと和子から電文が届いていた。内容はごく短く「死なないでね」とだけ記されている。きっと本当はもっと言いたいことがあったに違いない。良家の娘である彼女は葛飾家との付き合いを絶つよう両親に命じられているのだろう。この短い電文は長い交渉の末に勝ち取った一言なのかもしれない。
 この選択が吉と出るか凶と出るか。
 控室の私物入れに携帯電話を置こうとした時、ぶるぶるとそれが震えた。手に取って開くと和子から電文が届いていた。内容はごく短く「死なないでね」とだけ記されている。雄弁な彼女のことだから、きっと本当はもっと言いたいことがあったに違いない。良家の娘である彼女は言うまでもなく付き合いを絶つよう両親に命じられているのだろう。この電文は長い交渉の末に勝ち取った一言なのかもしれない。
 勇は返信せずに携帯電話を私物入れに突っ込んだ。  勇は返信せずに携帯電話を私物入れに突っ込んだ。
 総員は各々の装備品を手に、肩にかけて控室から入場口手前の休憩室まで赴いた。そこには長いベンチや壁に備え付けられたテレビ、便所が備わっている。時計を見たところ、まだ入場までには一〇分ほどの猶予が残されていた。試合前にユンとなにかすり合わせをしておくつもり後を追ったが、彼はベンチには座らず休憩室の奥に行ってしまった。  分隊員たちは硬式小銃を肩に回して控室から入場口手前の待機所まで赴いた。そこには長いベンチや壁に備え付けられたテレビ、便所などが備わっている。時計を見たところ、入場までにはまだ一〇分ほどの猶予が残されていた。試合前にユンと雑談するつもりで後を追ったが、彼はベンチには座らず待機所の奥に行ってしまった。
「おい、どこくんだ」 「おい、どこくんだ」
うるせえな、便所だ。すぐ戻る」 「便所だ。すぐ戻る」
 やむをえず手近なベンチに座って、手持ち無沙汰のままテレビを観ると、ほとんど無音まで音量が絞られた状態でも試合開始前の司会がなにを説しているのか判った。功のアルバム写真が映し出され、続いて勇の試合の録画が流されている。思わず、視線をそらすと、真横に監督がどかっと座った。不可抗力的に視線が合う。なにか言おうとしたが、先に監督が口を開いた。  やむをえず手近なベンチに座って手持ち無沙汰のままテレビに目を向ける。ほとんど無音に音量が絞られた状態でも試合開始前の司会がなにを説しているのか判った。功のアルバム写真が映し出され、続いて勇の試合の録画が流されている。にわかに恐怖を感じて視線をそらすと、隣に監督がどかっと座った。不可抗力的に視線が合う。なにか言おうとしたが、先に監督が口を開いた。
「やつらな、学校にも来たぞ。不穏分子の兄を公死園に出していいのか、と……。我が校は強ければ出すのが伝統だと言ってやった」 「やつらな、学校にも来たぞ。不穏分子の兄を公死園に出していいのか、と……。我が校は強ければ出すのが伝統だと言ってやった」
おれはそんなに強いですかね」 はそんなに強いですかね」
 勇は自嘲気味に笑った。すると、監督が真顔で答える。  勇は自嘲気味に笑った。すると、監督が真顔で答える。
「いや、弱い。貴様など吹けば飛ぶような存在だ」 「いや、弱い。貴様など吹けば飛ぶような存在だ」
「じゃあ、なぜ試合に?」 「じゃあ、なぜ試合に?」
 監督は質問には答えずにテレビ画面をあごでしゃくった。  監督は質問には答えずにテレビ画面をでしゃくった。
「世の中にはいくらでも悪人はいる。立派そうな連中の中にも。銀座で飲み歩く御大尽にも、帝國議会でふんぞりかえっている代議士にもな。だが、やつらがこうして報道機関の槍玉に挙がることはない。なぜだ?」 「世の中に悪人はいくらでもいる。さも立派そうな連中の中にも。銀座で飲み歩く御大尽にも、帝國議会でふんぞりかえっている代議士にもな。だが、そいつらがこうして槍玉に挙がることはない。なぜだ?」
「……政治のことはおれにはよく解りません」 「……政治のことはにはよく解りません」
よく解らないのは、単に知らなくても損をしなかったからだ。貴様のようなやつはな……。今日からは違う」 「解らないのは、単に知らなくても損をしてこなかったからだ。貴様のようなやつはな……。今日からは違う」
 鬼のような険しい顔の監督が睨みを効かせる。ただし怒りではなくそこには神妙さが宿っていた。  監督が勇を睨みつけた。ただし、そこには怒りや厳しさばかりではなく神妙さが潜んでいた。
「解らないなら教えてやろう。そいつらは強いからだ。お前が少々、硬式戦争で腕を鳴らして――あるいは本当の帝國軍人に成り上がったとしても、そいつらの曲げた指先一つにも敵わない。だからみんな畏れ、敬う」 「解らないなら教えてやろう。そいつらは強いからだ。貴様が少々、硬戦で腕を鳴らして――あるいは本物の帝國軍人に成り上がったとしても――そいつらの曲げた指先一つにも敵わない。だからどいつもこいつも畏れ、敬う」
「正しさ――正義はそこにはないんですか」 「正しさ――正義はそこにはないんですか」
 勇は口を滑らせた。これは口ごたえにあたるかもしれない。だが、英語で計算機の情報を調べていただけの弟を、こんなにまで晒し者にして、家族まで犠牲にする有様がふさわしい処罰とは到底思えなかった。監督は怒らず、ただ小馬鹿にしたふうに笑った。  勇は口を滑らせた。これは口ごたえにあたるかもしれない。だが、英語で計算機の情報を調べていただけの弟を、こんなにまで晒し者にして、家族まで犠牲にする有様がふさわしい処罰とは到底思えなかった。意外にも監督は怒らず、ただ小馬鹿にしたふうに笑った。
「正義は人の数だけある。貴様の方が正しいと信じるなら証明してみせろ。今日がその最初の日だ」 「正義は人の数だけある。貴様の方が正しいと信じるなら証明してみせろ。今日がその最初の日だ」
 ユンが便所から帰ってくると監督はベンチから立ち上がって全員に向かって声を張った。一瞬の間に彼は元の獰猛な顔つきに戻っていた。  ユンが便所から帰ってくると監督はベンチから立ち上がって全員に大声を張った。一瞬の間に彼は元の邪悪な顔貌に戻っていた。
「さあ、決勝だ。支那人どもを蹴散らしてこい」 「さあ、決勝だ。支那人どもを蹴散らしてこい」
「押忍!」 「押忍!」
 休憩室を出て、電燈の眩い光が差し込む入場口に向かって分隊員は一列に並んで行進した。戦場から流れ込んでくる威勢のよいラッパの音色と同期して、一糸乱れぬ連携と調和を演出する。戦場に入ると目のくらむ光が融けて、配置の変わった朽ちた市街地が眼前に飛び込んできた。円形の観客席から盛大な拍手とそれに負けず劣らずの罵声が飛び交う。真後ろのユンが声を漏らした。  待機所を出て、太陽の眩い光が差し込む入場口へ分隊は一列に並んで行進した。流れ込んでくる応援団の威勢のよいラッパの音色と同期して、一糸乱れぬ連携と調和を演出する。戦場に入ると目のくらむ光が融けて、配置の変わった市街地の建物が眼前に飛び込んできた。円形の観客席から盛大な拍手とそれに負けず劣らずの罵声が飛び交う。真後ろのユンが声を漏らした。
「ああ、おれが一町もある巨大な怪物だったら全員踏み潰したのにな」 「ああ、おれが一町もある巨大な怪物だったら全員踏み潰したのにな」
「今に思い知らせるさ」 「今に思い知らせるさ」
 図らずも監督の言葉に勇気を得た勇は振り返らず、あたかも独り言のように答えた。  慣例に倣って横一列に広がった分隊は、厳かに演奏がはじまった国歌の調べに身を委ねた。次に、皇居に向かって深々と一礼をする。騒ぎ立てていた観客たちもこの瞬間だけは水を打ったように静まる。
 慣習に倣って横一列に広がった分隊は、厳かに演奏がはじまった国歌の調べに身を委ねた。次に、皇居に向かって一斉に深々とお辞儀をする。あれほど騒ぎ立てていた観客たちもこの瞬間だけは静まり返る。  直線で三町半離れた戦場の向こう側では、臣民第一八高等学校の選手たちが同じように並んでいるのだろう。
 直線で五町離れた戦場の向こう側では、臣民第一八高等学校の選手たちが同じように並んでいるのだろう。 <選手は初期配置についてください>
「選手は初期配置についてください」  耳元の通信機が指示を出す。分隊員たちは互いに目配せをして芝生から市街地を模したコンクリートの境目を乗り越えて、戦場区画内に入っていく。戦闘服の小嚢から主弾倉を取り出すと、勇は昭和八九式硬式小銃に装着した。カチッと小気味のよい音が彼に闘志を与える。
 耳元のイヤホンが指示を出す。各々の分隊員は互いに目配せをして芝生から市街地を模したコンクリートの境目を乗り越えて、戦場に入っていく。戦闘服の小袋から主弾倉を取り出すと、勇は八九式硬式小銃に取りつけた。カチッと小気味のよい音が彼に闘志を与える。  二車線道路の対面に早くも第一八高の選手たちが姿を現した。通信機能を使って他の分隊員が言う。
 二車線道路の端に早くも第一八高の選手たちが姿を現した。通信機能を使って他の分隊員が言う。 「あいつら、小銃を装備すらしていない」
「あいつら小銃を装備すらしていない」
「なめやがって、本当に軍刀だけで戦うつもりか」 「なめやがって、本当に軍刀だけで戦うつもりか」
 そこへ、勇が割って入る。  声を荒らげる隊員たちの会話に勇が割って入る。
「油断するな。小銃を持たなければやつらはさらに速くなる」 「油断するな。小銃を持たなければやつらはさらに身軽になる」
「上等じゃねえか、全員ぶっ殺してやる」 「上等じゃねえか、全員ぶっ殺してやる」
 たぎったユンの声が耳の奥底まで響く。  ったユンの声が耳の奥底まで響く。
 視界の先では隠れもせずに十名の選手が軍刀に手をかけて試合開始の笛を待っている。微動だにせず、その眼差しはこちらを射抜かんばかりだった。  視界の先では隠れもせずに十名の選手が腰の軍刀に手をかけて試合開始の笛を待っている。ただの一人も微動だにせず、その眼差しはこちらを射抜かんばかりだった。
 そっちがその気ならこちらも容赦はしない。三秒で試合を終わらせてやる。  そっちがその気ならこちらも容赦はしない。三秒で試合を終わらせてやる。
 勇は小銃を腰だめで構えた。  勇は小銃を両手でしかと握った。
 やけに静かだった。  やけに静かだった。自分の息遣いだけが強調されて辺りに漂う。
 あれほど勇を突き刺してきた罵声も、囃し立てる歓声も、戦場の空気がすべて飲み干してしまったかのようだ。司会の解説音声は選手たちには聞こえない。  あれほど勇を突き刺してきた罵声も、囃し立てる歓声も、戦場の圧力がすべてを覆い尽くしてしまったかのようだ。元より司会の解説音声は選手には聞こえない。
 筋肉が硬直を覚えはじめた矢先、唐突に笛が鳴り響いた。同時に、耳元の声が言う。  筋肉が硬直を覚えはじめた矢先、唐突に笛が鳴り響いた。耳元の声が言う。
「試合、開始」 **<試合、開始>**
 全国高等学校硬式戦争選手権大会の決勝、大阪、帝國実業高等学校、対、台北、臣民第一八高等学校の戦いが幕を開けた。  全国高等学校硬式戦争選手権大会の決勝戦、大阪、帝國実業高等学校、対、台北、臣民第一八高等学校の戦いが幕を開けた。
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 勇は小銃を精密射撃に構えて撃ち放った。何万回と繰り返してきた動作が公死園の決勝で滑らかに実践される。帝國実業ではたとえ”洗礼”をくぐり抜けても基本動作が身につくまで一発も弾を撃たせてもらえない。その基準は強豪の名にふさわしく高い。一寸のズレや揺らぎも許さない絶え間ない反復が、軟式戦争で芽生えた自信を無慈悲に押し潰す。まるで鉄を折り曲げるよう――それでも撓まず折れずまっすぐに伸びる人間のみが、帝國実業の分隊員として選ばれる。
 勇は小銃を腰だめから精密射撃に切り替えて撃ち放った。何万回と繰り返してきた動作が公死園の決勝で滑らかに実践される。帝國実業ではたとえ”洗礼”をくぐり抜けても基本動作が身につくまで一発も弾を撃たせてもらえない。その基準は強豪の名にふさわしく高い。一寸のズレや揺れも許さない絶え間ない反復運動が、軟式戦争で芽生えた自信を木っ端微塵に打ち砕く。まるで鉄を折り曲げるよう――それでも撓まず折れずまっすぐに戻る人間のみが、帝國実業の分隊員として選ばれる。  笛が鳴った直後に放たれた六発の鋭い銃弾は二人の敵に向かって狙い通り飛んだ。並大抵の相手なら、なすすべもなく全弾を胸部に食らって即刻退場を余儀なくされていただろう。だが、第一八高の手練たちは目を見張る機敏さで全身を横転させて軽やかに弾をかわした。耳元の人工音声がなにも通知しないということは、一発も当たっていない事実を意味する。
 笛が鳴った直後に放たれた六発の鋭い銃弾は二人の敵に向かって狙い通り飛んだ。並大抵の相手なら、なすすべもなく全弾を胸部に食らって即刻退場を余儀なくされていただろう。だが、第一八高の手練たちは目を張る機敏さで全身を横転させて軽やかに弾をかわした。耳元の人工音声がなにも通知しないということは、一発も当たっていない事実を意味する。  若干遅れて他の分隊員が銃撃を重ねるも、敵はもう左右に散って市街地の各方面へ紛れていった。迂回路から攻めて距離を縮める作戦と思われた。
 やや遅れて他の分隊員も銃撃を重ねるも敵はもう左右に散って市街地の各方面に紛れていった。通路から攻めて距離を縮める作戦と思われた。
 こちらも分散して広く陣を張るべきか……あるいは固まって迎撃すべきか……。  こちらも分散して広く陣を張るべきか……あるいは固まって迎撃すべきか……。
 勇は考えた。敵のいる範囲を掴まれると行動を予想される。とりわけ相手は銃弾をかわす手合いだ。迎撃に専念して一人、二人仕留めたとしても、後は消耗する一方の銃弾とともに追い詰められていく恐れが否めない。一度固まって移動範囲を絞られると待ち伏せも追い打ちも相手はなんでも仕掛けられる  勇は考えた。展開範囲を掴まれると行動を予想される。とりわけ相手は銃弾をかわす手合いだ。迎撃に専念して一人、二人仕留めたとしても、以降は消耗する一方の銃弾と共に追い詰められていく懸念が拭えない。後になって退いたところで相手は待ち伏せも追い打ちも自由に仕掛けられる。公死園の戦場には基地も回収地点も存在しない
 散開するしかない。各個撃破される危険は承知の上だ。  散開するしかない。各個撃破される危険は承知の上だ。
「二人ずつ固まって展開しろ! ユン、お前は林と行け、おれは田中と行く」 「二人ずつ固まって展開しろ! ユン、お前は林と行け、は田中と行く」
 各々、手近な味方と別れて狭い街の隙間に消えていった。上空から見た時、この戦場の盤面は将棋の駒のように上下を二分しているだろう。今、互いに歩が前に出て角行の通り道ができた。ただし敵の歩はこちらが一歩進むたびに三つは進む。勝手の変わった街並みを警戒して進み、道中に現れた二階以上の建物の配置を頭に刻み込んだ  各々、手近な味方を伴って狭い街の隙間に消えていった。上空から見た時、この戦場は将棋の盤面のように上下を二分しているだろう。今、互いに歩が前に出て角行の通り道ができた。ただし敵の歩はこちらが一歩進むたびに三つは進む。敵に遅れをとらぬよう前へ前へと出なければならない
「田中、ここからは手信号だ。話で気づかれたくない」 「田中、ここからは手信号だ。話し声で気づかれたくない」
 横の田中は頷いて帝國実業独自の手信号で「了解」の合図を送った。  横の田中は頷いて帝國実業独自の手信号で「了解」の合図を送った。
 市街地の戦場にいるとまるで家の近所で戦闘しているような錯覚を覚える。石垣に囲われた一戸建てが整然と並ぶ家々を模したこの通りは、実際の住宅街となんら大差がない。そのぶん、崩れた風景の区間と違って隠れやすく遮蔽物も多い。近接戦闘を行うにはうってつけの場所だが、同時に逃げやすい空間でもある。  市街地の戦場にいるとまるで家の近所で戦闘しているような錯覚を覚える。石垣に囲われた一戸建てが整然と並ぶ家々を模したこの通りは、実際の住宅街となんら大差がない。そのぶん、朽ちた街並みの区画と違って隠れやすく遮蔽物も多い。近接戦闘を行うにはうってつけの場所だが、同時に逃げやすい空間でもある。
 遠くから散発的に銃声が聞こえた。戦いが始まったようだ。  遠くから散発的に銃声が聞こえた。戦いが始まったようだ。
 横の田中に新たな手信号を送ろうとして顔を向けた、反対側の石垣からかすかに足音が聞こえたのを勇は逃さなかった。手信号を中断して勇は小銃を構えながら振り返り、ほとんど相手を見る間もなく反射的な挙動で石垣の上を射撃した。  横の田中に新たな手信号を送ろうとして顔を向けた、反対側の石垣からかすかに足音が聞こえたのを勇は逃さなかった。手信号を中断して勇は小銃を構えながら振り返り、ほとんど相手を見反射的な挙動で石垣の上を射撃した。
 果たしてそれは功を奏し、ちょうど石垣に飛び上がった一人は胴体にまともに銃撃を食らって向こう側に倒れ込んだ。耳元で人工音声が通知する。  果たしてそれは功を奏し、ちょうど石垣に飛び上がった一人は胴体にまともに銃撃を食らって奥にに倒れ込んだ。耳元で人工音声が通知する。
<選手八番、仮想体力喪失。退場> <選手八番、仮想体力喪失。退場>
 気を休める暇はなかった。隣から銃声が聞こえたので勇は向き直った。石垣から飛び出してきた敵は一人ではなかった。しかし、田中の反応は勇よりわずかに遅れたばかりに機を逸し、彼の放った銃弾はいずれも外れ敵に二度目の跳躍の余地を与えた。鋭角にまっすぐ飛びかかってきた敵は居合の要領で腰から軍刀を抜くと、すれ違いざまに田中の胴体を一閃した。あっ、と声をあげたのは人工音声がさらなる退場を通した後だった。  気を休める暇はなかった。隣から銃声が聞こえたので勇は向き直った。石垣から飛び出してきた敵は一人ではなかった。しかし、田中の反応は勇よりわずかに遅れたばかりに機を逸し、彼の放った銃弾はいずれも外れ敵に二度目の跳躍の余地を与えた。鋭角に飛びかかってきた敵は居合の要領で腰から軍刀を抜くと、すれ違いざまに田中の胴体を一閃した。あっ、と声をあげたのは人工音声がさらなる退場を通した後だった。
<選手番、仮想体力喪失。退場> <選手番、仮想体力喪失。退場>
 呆然と立ち尽くす田中をよそに敵は軍刀を勇に振りかぶった。この刹那、勇は以前には見えなかった剣筋の軌跡がなんとか視認できるようになったことに気がついた。身体を横にかたむけて最小限の動きで軌跡から遠ざかる。おそらくかわされるとは思っていなかったのだろう――わずか二、三秒にも満たない攻防――勢い余って前傾に姿勢を崩した相手の頭部に銃床を叩きつけた。  呆然と立ち尽くす田中をよそに敵は軍刀を勇に振りかぶった。この刹那、勇は以前には見えなかった剣撃が辛うじて視認できることに気がついた。身体を横にかたむけて最小限の動きで軌跡から遠ざかる。おそらくかわされるとは思っていなかったのだろう――わずか二、三秒にも満たない攻防――勢い余って前傾に姿勢を崩した相手の頭部に銃床を叩きつけた。
<選手十二番、仮想体力一割減少、残り九割> <選手十二番、仮想体力一割減少、残り九割>
 電子部品が内蔵されていない銃床による打撃は衝撃判定が緩い。だが、仮想体力がどうでも頭を殴られてはまともに動けない。勇は昏倒した相手にすかさず硬式弾を当てて退場を確定させた。  電子部品が内蔵されていない銃床による打撃は衝撃判定が緩い。だが、仮想体力がどうでも頭を殴られてはまともに動けない。勇は昏倒した相手にすかさず硬式弾を当てて退場を確定させた。
 ほどなくして退場を宣告された三名の敵味方は両手を頭の後ろに回して互い違いに戦場を離脱していった。  ほどなくして退場を宣告された三名の敵味方は両手を頭の後ろに回して互い違いに戦場を離脱していった。
 一人と引き換えに二人を仕留めたのなら幸先の良い出だしと言わなくてはならない。勇は小銃を構え直して片耳のイヤホンを指で押した。通信機が起動する  一人と引き換えに二人を仕留めたのなら幸先の良い出だしと言わなくてはならない。勇は片耳の通信機を指で押した
「田中がやられたが二人倒した」 「田中がやられたが二人倒した」
 手短に伝える。小刻みに戦闘が起きる硬戦では双方向の通信はあまり成り立たない。しかし今回はがさがさとした雑音とともに分隊員の息切れした声が返ってきた。  手短に伝える。小刻みに戦闘が起きる硬戦では双方向の通信はあまり成り立たない。運良く今回はがさがさとした雑音とともに分隊員の息切れした声が返ってきた。
「入場場所を背に西側に逃げている! 至急応援求む!」 「入場場所を背に西側に逃げている! 至急応援求む!」
 西側、といえば勇たちが来た場所の方角だった。「葛飾だ。今すぐ向かう」と返答して彼は近辺を石垣伝いに移動しはじめた。曲がり角を二つ折れて、二車線道路寄りに近づいたあたりで人の足音が聞こえてきた。位置取りを調整して迎撃の構えをとる。塀の脇に隠れて姿を現すのを待ったが、すぐにそれでは不足だと気づいた。追う側が迎撃を警戒していないはずがない。  西側、といえば勇たちが来た場所の方角だった。「葛飾だ。今すぐ向かう」と返答して彼は近辺を石垣伝いに移動しはじめた。曲がり角を二つ折れて、二車線道路寄りに近づいたあたりで人の足音が聞こえた。位置取りを調整して迎撃の構えをとる。塀の脇に隠れて姿を現すのを待ったが、すぐにそれでは不足だと悟った。追う側が迎撃を警戒していないはずがない。
 近づいてくる足音に急き立てられつつも、勇は目の前の塀をよじ登った。そこから隣接した一戸建ての二階部分の縁に飛び移り、さらに屋根へと自身を持ち上げる。緩く傾斜した屋根に腹ばいに寝て小銃を底面に立てかけた。所詮は模型ゆえ実際の二階建て住宅より小さく作られているとはいえ、それでも十メートル先の道路を走る二人の姿を垣間見るには十分な高さが得られた。改めて通信機を起動する。  近づいてくる足音に急き立てられつつも、勇は目の前の塀をよじ登った。そこから隣接した一戸建ての二階部分の縁に飛び移り、さらに屋根へとる。緩く傾斜した屋根に腹ばいに寝て小銃を底面に立てかけた。所詮は模型ゆえ実際の二階建て住宅より小さく作られているとはいえ、それでも十メートル先の道路を走る二人の姿を垣間見るには十分な高さが得られた。改めて通信機を起動する。
「押山、その角を曲がれ」 「押山、その角を曲がれ」
 まもなく押山と呼ばれた分隊員は指示通りに角を曲がって勇の視点の直線上に現れた。数秒後、敵が軍刀を片手に追いすがってきた時にはすでに勇の引き金は絞られていた。  まもなく押山と呼ばれた分隊員は指示通りに角を曲がって勇の視点の直線上に現れた。数秒後、敵が軍刀を片手に追いすがってきた時にはすでに彼の引き金は絞られていた。
 たった一発の硬式弾が敵の頭を正確に撃ち抜いた。予測射撃に加えて高台からの狙撃。反射的に頭を抑えてよろけた敵は、直後に退場を悟って軍刀を手放した。走っていた押山も振り返って敵を見て、それから屋根の上の勇を見上げて手信号を送る。  たった一発の硬式弾が敵の額に正確に命中した。予測射撃に加えて高台からの狙撃。反射的に頭を抑えてよろけた敵は、直後に退場を悟って軍刀を手放した。走っていた押山も振り返って敵を見て、それから屋根の上の勇を見上げて感謝の手信号を送る。
 勇は屋根から滑り降りて地面に着地した。今度は押山を背後に回して二人で敵方への前進を試みる。機動力に長ける敵の頭を抑えられたら状況は俄然有利だ。いかに軍刀の手練でも射程が一町に伸びたりはしない。本来、追い込まれるのは飛び道具を持たない方でなければならない。  勇は屋根から滑り降りて地面に着地した。ここまでの首尾は良好。勝利へのささやかな期待感に胸が膨らむ。
 閑散とした住宅街の区画を抜けると朽ちた街並みが見えてきた。石垣は崩れ、家々は倒壊しており、高台はほとんど見当たらない。全身を隠せる場所が少ないので奇襲には不向きの区間だが、同様に逃避や狙撃もできないので一概にどちらが有利とは言い切れない。近接武器しか持たない相手に接近しなければならないのは、公死園が長時間の待ち伏せを禁じる規則を定めているためだ。裁量はかつては審判、現在は電子計算機の動的な計測に委ねられているため、時間を測って計画的に居座ることもできない。この判定に引っかかり「不健全試合」の烙印が押されると、即座に全選手が退場を宣告される。  失った田中に代わり押山を背後に回して、二人で敵方への前進を試みた。機動力に長ける敵を移動を抑えつけられたら状況は俄然有利だ。いかに軍刀の手練でも射程が一町に伸びたりはしない。
 閑静な住宅街を抜けると朽ちた街並みが見えてきた。石垣は崩れ、家々は倒壊しており、高台はほとんど見当たらない。全身を隠せる場所が少ないので奇襲には不向きの区画だが、同様に退避や狙撃もできないので一概にどちらが有利とは言い切れない。近接武器しか持たない相手に接近しなければならないのは、公死園が長時間の待ち伏せを禁じる規則を定めているためだ。裁量はかつては審判、現在は電子計算機の動的な計測に委ねられているため、時間を測って計画的に居座ることもできない。この判定に引っかかり「不健全試合」の烙印が押されると、即座に全選手が退場を宣告される。
 大日本帝國の軍人に膠着は許されない。その精神は公死園にも息づいている。  大日本帝國の軍人に膠着は許されない。その精神は公死園にも息づいている。
 崩れた瓦礫が密集して視野が狭まる区間を通り過ぎる時、押山が横について腰の軍刀を抜いた。先の軍刀戦術に感銘を受けた一人らしい。勇が手信号で懸念を表明すると彼は”問題なし”の返事をよこしてきた。再び視界が開けるまで勇はすり足気味の足取りで、小銃と肩口が癒着するかと思うほどに神経を張り巡らせていたが、意外にも敵は一人も現れなかった。二人は瓦礫の山を通り過ぎて、朽ちた街並みの終端にたどり着いた。すれ違っていなければ二車線道路の西側の、三分の二を探索したことになる。  崩れた瓦礫が密集して視野が狭まる区間を通り過ぎる時、押山が横について腰の軍刀を抜いた。先の軍刀戦術に感銘を受けた一人らしい。勇が手信号で懸念を表明すると彼は”問題なし”の返事をよこしてきた。再び視界が開けるまで勇はすり足気味の足取りで、小銃と肩口が癒着するかと思うほどに神経を張り巡らせていたが、意外にも敵は一人も現れなかった。二人は瓦礫の山を通り過ぎて、朽ちた街並みの終端にたどり着いた。すれ違っていなければ二車線道路の西側の、三分の二を探索したことになる。
 ここに敵がいないとすると東側の状況が気がかりだった。勇は数少ないマシな形をしている石垣に背をつけて、押山を隣へ誘導した。慎重に声を落として会話をはじめる。  ここに敵がいないとすると東側の状況が気がかりだった。勇は数少ない上等な形をしている石垣に背をつけて、押山を隣へ誘導した。慎重に声を落として会話をはじめる。
「お前、東側から来たな。直前の状況を把握しているか」 「お前、東側から来たな。直前の状況を把握しているか」
「ユン先輩が二人やるのを見ました。林がられた後です」 「ユン先輩が二人やるのを見ました。林がられた後です」
 勇は頷いた。これで敵方の五人退場が確定した。試合はすでに中盤戦だ。  勇は頷いた。これで敵は五人が退場した。試合はすでに中盤戦だ。
「分かった。他には?」 「分かった。他には?」
「その時に俺も同伴の中島も敵に襲われて、一人はやりましたがそこで主弾倉が尽きて避を選びました」 「その時に俺も同伴の中島も敵に襲われて、一人はやりましたがそこで主弾倉が尽きて退避を選びました」
「それでこっちまで来たんだな」 「それでこっちまで来たんだな」
「はい。俺が見たのはそれで全部です」 「はい。俺が見たのはそれで全部です」
 敵は五人ではなくもう六人が退場していた。残り四人。こちらは中島、田中、林を失って残り七人。ここから状況が動いていなければ状況は圧倒的に有利と言える。定石通りなら集合して制圧戦に移行する段階に近い。  敵は五人ではなくもう六人が退場していた。残り四人。こちらは中島、田中、林を失って残り七人。ここから状況が動いていなければ状況は圧倒的に有利と言える。定石通りなら集合して制圧戦に移行する段階に近い。
 勇は耳のイヤホンを押して通信機を起動した。  勇は通信機を起動した。
「総員に告ぐ。現在、敵の最大人数は四人と判明した。各自、移動して入場側の二車線道路に集合せよ。可能な者は点呼を」 「総員に告ぐ。敵の最大人数は残り四人と判明した。各自、移動して入場側の二車線道路に集合せよ。可能な者は点呼を」
「押山、了解」 「押山、了解」
 まず、横の押山が通信機越しに言った。他の点呼も期待したが、数秒待っても一人も名乗りは上がらない。じわりと胸の奥に広がりはじめた懸念を、寸前のところでユンの声が押し留めた。  まず、横の押山が通信機越しに言った。他の分隊員の点呼も期待したが、数秒待っても一人も名乗りは上がらない。じわりと胸の奥に広がりだした恐怖を、寸前のところでユンの声が押し留めた。
「ユン、了解」 「ユン、了解」
「生きていたか」 「生きていたか」
「当たり前だろ」 「当たり前だろ」
 他の分隊員の反応はしばらく待機しても最後までなかった。やむをえず二人は壁を抜け出て二車線道路沿いに向かった。敵の数が限られているとなれば多少は速く移動できる。五分ほどかけて二車線道路沿いに顔を出すと、まだ通りは閑散としていた。遠距離戦の間合いをとれる者に圧倒的な安心感を与える視界の広さからか、思わず押山が軽口を叩く  他の分隊員の反応はしばらく待機してもなかった。やむをえず二人は壁を抜け出て先に二車線道路沿いへ向かった。敵の数が限られているとなれば多少は速く移動できる。五分ほどかけて二車線道路沿いに顔を出すと、まだ通りは閑散としていた。遠距離戦の間合いをとれる者に安心感を与える視界の広さゆえか、押山が呑気に軽口を叩く。あるいは、気持ちをほぐそうとする意図もあったのかもしれない
「そもそも二車線道路を前後に移動していれば楽に勝てたんじゃないすかね」 「そもそも二車線道路を前後に移動していれば楽に勝てたんじゃないすかね」
「あいつらが十人まとめて襲いかかってきたらすぐ混戦になるぞ。条件に限らずまともに弾が当たる相手と思うな」 「あいつらが十人まとめて襲いかかってきたらすぐ混戦になるぞ。条件に限らずまともに弾が当たる相手と思うな」
 事実、勇はなにかどこかに底知れぬ怯えを感じていた。  事実、勇はどこかに底知れぬ怯えを感じていた。
 どうにも妙に試合運びがすぎる。こんな手堅く勝てる相手ではないはずだ。  どうにも妙に試合運びが順調すぎる。こんな手堅く勝てる相手ではないはずだ。
 寒気がした。急速にその可能性に思い当たったからだ。  唐突に、寒気がした。急速にその可能性に思い当たったからだ。
 やつらが距離を詰めるのに必ずしも地面を走る必要はない。  やつらが距離を詰めるのに必ずしも地面を走る必要はない。
 はっ、と振り返ると今まさに、高層建築物が立ち並ぶ区画を模した二車線道路沿いの屋根、実物の三階建て、いや四階建てはあろうかと思われる高台から敵がすさまじい助走とともに飛び込んでくるところだった。  はっ、と全身ごと向き直ると今まさに、高層建築物が立ち並ぶ区画を模した二車線道路沿いの屋根、実物の三階建て、いや四階建てはあろうかと思われる高台から敵が飛び下りてくるところだった。
 残る敵はずっと高台から高台に移動していたのだ。  敵の一部は高台から高台に移動していたのだ。
「押山、撃てえ!」 「押山、撃てえ!」
 仰角を上にあげて敵を狙うも、公死園戦場を煌々を照らす電燈の逆光が彼らの実像を黒く覆い隠す。あてどなく放たれた弾は物量を尽くせどついに一発の判定ももたらすことなく空を切り、軽業師の技で軽妙に着地を果たした敵は、すでに刀身の間合いにまで近づいていた。  仰角を上にあげて敵を狙うも、公死園戦場を爛々を照らす直射日光が彼らの実像を黒く覆い隠す。あてどなく放たれた弾は物量を尽くせどついに一発の判定ももたらすことなく空を切り、軽業師の技で軽妙に着地を果たした敵は、すでに刀身の間合いにまで近づいていた。
「くそっ!」 「くそっ!」
 捨て台詞の代償は大きい。その一息で敵は軍刀を振って勇に迫った。やむをえず小銃を盾に用いる愚策をなんとか割って入り防いだのは、押山の軍刀。金属と金属がぶつかり高音を奏でて弾く。追撃は横薙ぎだったがこれも押山は未然に防いで鍔迫り合いの状態に持ち込んだ。軍刀装備を選んだの伊達ではなかったらしい。  捨て台詞の代償は大きい。その一息の間に敵は軍刀を振って勇に迫った。やむをえず小銃を盾に用いる愚策を辛くも割って入り防いだのは、押山の軍刀。金属と金属がぶつかり高音を奏でて弾く。追撃は横薙ぎだったがこれも押山は未然に防いで鍔迫り合いの状態に持ち込んだ。軍刀装備を選んだの伊達ではなかったらしい。
 改めて間近で見ると敵の背丈は勇より頭一個分低かった。頑強な者が選ばれやすい硬戦の常道に反して、第一八高は体術に長けた者を選んでいると見える。すかさず勇も横に回って小銃にて援護を試みたが、相手の方が速かった。  敵の背丈は二人より頭一個分低かった。頑強な者が選ばれやすい硬戦の風潮に反して、第一八高は体術に長けた者を選んでいると見える。勇は横に回って小銃にて援護を試みたが、相手の方が速かった。
 ここで勇が見たものは二つ目の判断の誤りである。  ここで彼が見たものは二つ目の推測の誤りである。
 勇の並外れた射撃速度よりもさらに上回るすばやさで敵は片手で腰――というより臀部――の拳銃嚢から引き抜いた硬式拳銃を押山の下顎に当て、引き金を絞った。  帝國実業主将の並外れた射撃速度をさらに上回るすばやさで、敵は腰――というより臀部――の拳銃嚢から引き抜いた硬式拳銃を押山の下顎に当て、引き金を絞った。
 第一八高は意味もなく小銃装備を捨てたのではなかった。機動性を重視して拳銃と置き換えていたのだ。  第一八高は意味もなく小銃装備を捨てたのではなかった。機動性を重視して拳銃と置き換えていたのだ。
 硬式弾の直撃を食らい、痛みに苦しむ押山を敵は体格に似合わぬ膂力で引き倒して、放たれた銃弾の盾に用いる。勇の硬式小銃はそこで撃鉄が起き上がり、あえなく弾切れが宣告される  硬式弾の直撃を食らって昏倒しかけた押山を敵は体格に似合わぬ膂力で引き倒して、放たれた銃弾の盾に用いる。勇の硬式小銃はそこで弾切れを起こした
 ここで初めて戦況は対等と相成った。小銃を捨てて腰の拳銃を抜く勇――押山の身体を押しのけて拳銃を構える敵――二重に銃声が響く。  ここで初めて戦況は対等と相成った。小銃を捨てて腰の拳銃を抜く勇――押山の身体を放って拳銃を構える敵――二重に銃声が響く。
 勇が一発撃つ間に相手は二発の硬式弾を放った。  勇が一発撃つ間に相手は二発の硬式弾を放った。
 初めてはっきりと見た名も知れぬ支那人は瞳孔が開いた獣の目をしていた。  初めて顔を合わせた名も知らぬ支那人は、瞳孔が開ききった獣の目をしていた。
<選手七番、仮想体力喪失、退場> <選手七番、仮想体力喪失、退場>
<選手一番、仮想体力半減、残り五割> <選手一番、仮想体力半減、残り五割>
 勇は間近で放たれた硬式弾の痛みに顔を歪めたが、同時にそれは不敵な笑みでもあった。  間近で放たれた硬式弾の痛みに勇は顔を歪めたが、同時に笑みも含んでいた。
 頭部じゃない。  頭部じゃない。
 対する敵は尻もちをついて倒れ込んだ。鼻先に当たっては起き上がる気力もないだろう。  対する敵は尻もちをついて地面に倒れ込んだ。鼻先に当たっては起き上がる気力もないだろう。
 敵は残り三人。勇は痛みにうずくまる二人の装備を見て、小銃を投げ捨てた。押山も勇も主弾倉に残弾がほとんど残っていないのは明らかだった。代わりに電燈を受けて鈍く光る地面の模擬軍刀を拾いあげると、勇は通信の途絶えた味方を追うべく市街地の東側に潜っていった。  敵は残り三人。勇も押山も小銃の主弾倉に残弾がろくに残されていないのは明らかだった。代わりに太陽光を受けて鈍く光る模擬軍刀を拾いあげると、勇は通信の途絶えた味方を追うべく市街地の東側に潜っていった。
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 爆撃を受けたかのような荒廃ぶりが目立つ東側の区画は、西側と比べて身を隠せる場所が極めて少ない。高台はより少なく、二車線道路沿いの建築物を除いて狙撃が有効な箇所はまったくない。その建築物も意図して配置されたのであろう瓦礫の山によって射線が通らず、結果としてこの一帯は近中距離戦を強いられる構造を成している。
 爆撃を受けたかのような荒廃ぶりが目立つ東側の区画は、西側と比べて身を隠せる場所が少ない。高台はより少なく、二車線道路沿いの建築物を除いては狙撃が有効な箇所はほとんどない。その建築物も意図して配置されたのであろう瓦礫の山によって射線が通らず、結果としてこの一帯は近中距離戦を強いられる構造を成している。  勇は人数差で有利などという発想をとうに捨てていた。条件が揃えば敵は形成を一気に逆転させられる。終盤戦に入りつつある今、それは着実に満たされつつある。
 人数差が有利などという発想はすでに捨てた。条件が揃えば敵は一斉に形成を逆転させる。終盤戦に入りつつある今、それは着実に満たされつつある。  主弾倉の弾切れだ。予備弾倉があっても交戦中の交換はまず期待できない。なければ拳銃や軍刀での戦いに持ち込まれ、立場がひっくり返る。第一八高の立ち回りは表向きの勇ましさとは裏腹に冷徹な計算に裏付けられている。
 主弾倉の弾切れだ。予備弾倉があっても交戦中なら交換の機会は連中へ決して与えない。予備弾倉がなければいっとう不慣れな拳銃や軍刀での戦いに持ち込まれ、立場がひっくり返る。市街地戦という今年度の演目を最大に活かした彼らの戦略は、表向きの勇ましさとは裏腹に冷徹な計算に裏付けられている。
 そういう心積もりでいたから、勇は次第に高まる怒号や銃声の聞こえる方向へ急接近している最中も、最悪の事態を想定する準備をすることができた。  そういう心積もりでいたから、勇は次第に高まる怒号や銃声の聞こえる方向へ急接近している最中も、最悪の事態を想定する準備をすることができた。
 瓦礫の山を制して円形状にくり抜かれた空き地に辿り着くと、そこではすでに大方の決着がついていた。  瓦礫の山を制して円形状にくり抜かれた空き地に辿り着くと、そこでは大方の決着がついていた。
 地面に横たわる退場者はいずれも帝國実業の戦闘服を着た者ばかり。敵は一人。軍刀を片手にくるくると振って新たな獲物の到来に薄く笑みを浮かべている。  地面に倒れた退場者は帝國実業の戦闘服を着ている。敵は一人。軍刀を片手にくるくると振って新たな獲物の到来に薄く口角を広げている。
 退場者との会話は規則違反ゆえ相手のやり口を知る余地はない。顔を見合わせてから三秒、四秒目にして、勇は意を決して拳銃を腰から引き放った。  味方の退場者との会話は規則違反ゆえ相手のやり口を知る余地はない。顔を見合わせてから五秒、六秒目にして、勇は意を決して拳銃を腰から引き放った。
 曲芸身のこなしで相手は二発の速射を難なくかわす。これ以上、撃っても浪費にしかならないと引き金を緩めた途端に敵はいきおい距離を詰める。  曲芸的な身のこなしで相手は二発の速射を難なくかわす。これ以上、撃っても浪費にしかならないと引き金を緩めた途端に敵はいきおい距離を詰める。
 軍刀を振る。鍔迫り合いにはならず互いに薄い金属を弾き合って膠着を作らない。しかし激しい応酬の最中でも、勇は一度見た敵の共通の仕草を決して忘れてはいなかった。旺盛に刀身を薙ぐ傍ら、相手の左手が臀部の隠された拳銃嚢に回るのをしかと捉えた。この戦いで勝敗を分けた要因は、実のところわずかな癖の差でしかなかったと言える。  手持ちの軍刀を振る。鍔迫り合いにはならず互いに薄い金属を弾き合って膠着を作らない。しかし激しい応酬のでも、勇は一度見た敵の共通の仕草を決して忘れてはいなかった。旺盛に刀身を薙ぐ傍ら、相手の左手が臀部の隠された拳銃嚢に回るのをしかと捉えた。この戦いで勝敗を分けた要因は、実のところわずかな癖の差でしかなかったと考えられる。
 どんなに剣術に慣れた実力者でも空いた手で他のなにかを掴もうとする最中に膂力が弱まらない人間はいない。勇は敵が拳銃を掴むか掴まないかの瀬戸際に前に踏み出て無理やり鍔迫り合いに持ち込んだ。突然の定石外しに眼前の相手はしたたかに姿勢を後傾させて、本来ならば絶対にとるはずのない敗着の足取り自ら後退を余儀なくされた。  いかに剣術に長けた実力者でも空いた手で他のなにかを掴もうとする最中に膂力が弱まらない人間はいない。勇は敵が拳銃を掴むか掴まないかの瀬戸際に前に踏み出て無理やり鍔迫り合いに持ち込んだ。突然の定石外しに眼前の相手はしたたかに姿勢を後傾させて、本来ならば絶対にとるはずのない敗着の足取りへと自ら後退を余儀なくされた。
 這わせた刀剣を強く弾くと、敵は防御を崩して胸元をがら空きにさせた。すかさずそこに切っ先を向けて突きを叩き込む。急所判定。人工音声が退場を報せる。敗北感と剣先に押し倒された相手は地面に尻をついた。  滑らせた刀剣を強く弾くと、敵は防御を崩して胸元をがら空きにさせた。すかさずそこに切っ先を向けて渾身の突きを叩き込む。急所判定。人工音声が退場を報せる。敗北感と剣先に押し倒された相手は地面に尻をついた。
 いま一度戦場に転がる味方を検めると、数は三人。やはり有利は覆されている。味方は残り三人で、敵は残り二人。勇の動揺を察知してか、敵の口元が嘲笑に歪む。  予想が正しければ他の分隊員は二車線道路に出たところを高所から狙われたはずだ。うまく逃げおおせたか、それとも……。そんな勇の心配を察知してか、敵の口元が嘲笑に歪む。
副主将が逃げたやつを追いかけている。じきに戻ってくるだろうよ……次に倒れるのは貴様の番だ」 主将と副主将どのが直々に逃げたやつらを追いかけている。じきに戻ってくるだろうよ……次に倒れるのは貴様の番だ」
「”死人”が口を開くな」 「”死人”が口を開くな」
 不安を読まれた苛立ちからか、勇は冷徹に相手を一喝した。敵は立ち上がり勇を睨みつつも、両手を頭の後ろに回す退場用の姿勢をとって場を後にしようとした。  不安を読まれた焦燥からか、勇は冷徹に相手を一喝した。立ち上がった敵は勇を睨みながらも、両手を頭の後ろに回す退場用の姿勢をとって場を後にしようとした。
 ところが、すぐそこから迫りくる剣戟の金属音に呼応して勇も敵もしばし動きが止まった。音は急速に大きくなり、聞き馴染みのある怒号さえ聞こえる。じきに姿を現したのは第一八高の戦闘服の背中。それをとてつもない猛攻で押すのは他でもないユンだった。  ところが、すぐそこから迫りくる激しい剣撃の金属音に呼応して勇も敵もしばし動きが止まった。音は次第に大きくなり、聞き馴染みのある怒声さえ聞こえる。じきに姿を現したのは第一八高の戦闘服の背中。それをとてつもない猛攻で押すのは他でもないユンだった。
「おらぁ! どうした! お得意の回避術はよ!」 「おらぁ! どうした! お得意の回避術はよ!」
 圧倒的な膂力に物を言わせたとめどない攻撃に、敵方の副主将と思われる相手は明らかに余裕を失っていた。後退する一方の剣戟は相手の実体力をみるみるうちに奪い去り、剣筋は衰え、勇が援護のために踏み出す頃には趨勢が決していた。ユンの得意とする大上段が防御の遅れた剣をすり抜け肩口に叩き込まれ、敵の副主将は尊厳の喪失からか、はたまた実際の苦痛からか膝を地面についた。すぐ後から、二年の椹木がけつけてくる。  生来の怪力に物を言わせたとめどない攻撃に、敵方の副主将と思われる相手は明らかに余裕を失っていた。後退する一方の打ち合いは相手の実体力をみるみるうちに奪い去り、動きは衰え、勇が援護のために足を踏み出す頃には勝敗が決していた。ユンの得意とする大上段が防御の遅れた刀をすり抜け肩口に叩き込まれ、敵の副主将は尊厳の喪失からか、はたまた実際の苦痛からか膝を地面についた。すぐ後から、二年の椹木がけつけてくる。
「遅えぞ。もうやっちまったよ」 「遅えぞ。もうやっちまったよ」
 ぎらついた目を辺りを見回すユンはまだ気力十分の顔つきで次の獲物を探っていた。副主将の敗北を目の当たりにして退場姿勢を解きかけていた先ほどの敵に猛獣の眼差しが向けられる。敵は短く悲鳴を上げて頭部を後ろ手に回した。そこで、ユンは初めて勇の姿に気づいたようだった。彼は不満げに舌打ちをした。  ぎらついた目を周りに振りまくユンはまだ気力十分の顔つきで次の獲物を探っていた。副主将の敗北に呆然として退場姿勢を解きかけていた先ほどの敵に猛獣の眼差しが向けられる。敵は短く悲鳴を上げて頭部に後ろ手を回した。そこで、ユンは初めて勇の姿に気づいたようだった。彼は不満げに舌打ちをした。
「ちっ、もうお前がやったのか」 「ちっ、なんだお前がやってたのか」
 敵と副主将はともども、ユンの放つ威圧感に気圧されて後ずさりながら退場していった。まだ身体が痛むであろう味方も、ぞろぞろと立ち上がって残された三人に目線で応援の合図を送って場を後にする。  敵と副主将はともども、ユンの放つ威圧感に気圧されて後ずさりながら退場していった。まだ身体が痛むであろう味方も立ち上がって残された三人に応援の視線を送って場を後にする。
「なんだ、あとは俺だけか」 「なんだ、あとは俺だけか」
 突然の声に三人が振り返ると、そこには臣民第一八高等学校硬式戦争部の主将――陳開一と名乗っていた――が堂々と立っていた。声を発するまで気配にさえ気づけなかった。  突然の声に三人が振り返ると、そこには臣民第一八高等学校硬式戦争部の主将――陳開一と名乗っていた――が堂々と立っていた。声を発するまで三人のうちの誰一人も気配にさえ気づけなかった。
 反射的に勇が拳銃を向けて撃とうとするが、陳は片手を出して制止を呼びかけた。  反射的に勇が拳銃を向けて撃とうとしたが、陳は片手を出して制止を呼びかけた。
「無駄な真似はやめろ。弾は大切にとっておけ」 「無駄な真似はやめろ。弾は大切にとっておけ」
 勇は引き金を引く気になれなかった。その発言がはったりでもなんでもない真実だと理解したからだ。  勇は引き金を引く気になれなかった。その発言がはったりでもなんでもない本心だと理解したからだ。
「うちの連中はどうした。二人いたはずだが」
 ユンが軍刀を構えながら訊ねると、陳は端的に答えた。
「せめて一発は撃たせてやるべきだったかもな。三年だろうやつらは」
「自分、いきます!」 「自分、いきます!」
 椹木が軍刀を両手に握って陳に迫った。対する陳は気だるそうな表情のまま身動きもせず、椹木の二年にしては十分に熟達した剣筋が自身を触れる寸前に、ごく最小限の動きでそれをかわした。ひゅんっ、と鮮やかに振られたすばやい刀身がつんのめった椹木の喉元を捉えた。実際の急所を打たれた椹木は地面にもんどり打って倒れた。喉を抑えて小刻みに震える椹木は退場よりもさらに過酷な苦痛を味わっているように見えた。  椹木が軍刀を両手に握って陳に迫った。対する陳は無表情のまま身動きもせず、椹木の二年にしては十分に熟達した太刀筋が自身を触れる寸前に、ごく限られた動きでそれをかわした。入れ替わりに、ひゅんっ、と鮮やかに振られたすばやい刀身が椹木の喉元を捉えた。実際に急所を打たれた椹木は地面にもんどり打って倒れた。喉を抑えて小刻みに震える椹木は退場よりもさらに過酷な苦痛を味わっているように見えた。
「次は二人でかかってきても構わんぞ」 「次は二人でかかってきても構わんぞ」
 軍刀をひと振りして気勢を整え、相変わらずの直立姿勢で二人を威圧する陳に勇は微笑む。  軍刀をひと振りして気勢を整え、相変わらずの直立姿勢で二人を威圧する陳に勇は微笑む。
「そうしない理由などないからな」 「そうしない理由などないからな」