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Rikuoh Tsujitani 2023-08-21 10:07:01 +09:00
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69
.gitignore vendored Normal file
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# Logs
logs
*.log
npm-debug.log*
yarn-debug.log*
yarn-error.log*
firebase-debug.log*
firebase-debug.*.log*
#No public
public/
# Firebase cache
.firebase/
# Firebase config
# Uncomment this if you'd like others to create their own Firebase project.
# For a team working on the same Firebase project(s), it is recommended to leave
# it commented so all members can deploy to the same project(s) in .firebaserc.
# .firebaserc
# Runtime data
pids
*.pid
*.seed
*.pid.lock
# Directory for instrumented libs generated by jscoverage/JSCover
lib-cov
# Coverage directory used by tools like istanbul
coverage
# nyc test coverage
.nyc_output
# Grunt intermediate storage (http://gruntjs.com/creating-plugins#storing-task-files)
.grunt
# Bower dependency directory (https://bower.io/)
bower_components
# node-waf configuration
.lock-wscript
# Compiled binary addons (http://nodejs.org/api/addons.html)
build/Release
# Dependency directories
node_modules/
# Optional npm cache directory
.npm
# Optional eslint cache
.eslintcache
# Optional REPL history
.node_repl_history
# Output of 'npm pack'
*.tgz
# Yarn Integrity file
.yarn-integrity
# dotenv environment variables file
.env

0
.hugo_build.lock Normal file
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17
.woodpecker.yml Normal file
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clone:
git:
image: woodpeckerci/plugin-git
settings:
recursive: true
steps:
build:
image: klakegg/hugo:ext-alpine
commands:
- hugo -D
deploy:
image: minio/mc
secrets: [MINIO_URL, ACCESS_KEY, SECRET_KEY]
commands:
- mc alias set minio $MINIO_URL $ACCESS_KEY $SECRET_KEY
- mc mirror --overwrite public/ minio/bgenc.net/

76
config.toml Normal file
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@ -0,0 +1,76 @@
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title = "点と接線。"
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copyright = "©2011 <a href=\"mailto:mail@riq0h.jp\">Rikuoh Tsujitani</a> | <a rel=\"me\" href=\"https://mystech.ink/@riq0h\">Fediverse</a> | <a href=\"https://riq0h.jp/index.xml\">RSS</a> | <a href=\"https://riq0h.jp/tags/novel\">小説</a>"
Paginate = 8 # Number of posts per page
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@ -0,0 +1,45 @@
---
title: "16年ぶりのゴルフ"
date: 2021-11-13T18:19:59+09:00
draft: false
tags: ["diary"]
---
まるで定年退職したての老人みたいなタイトルだな。いかにも「時間に余裕ができたのでこれからは気ままにゴルフでも楽しみます」って感じの風情だ。だが僕は違う。僕はまだピチピチの28歳だし、小学生の頃にゴルフをしていたから16年ぶりというのも嘘ではない。実際、かなり真剣にやってた。コーチもつけてもらって県大会にも出場した。
![](/img/71.jpg)
僕には長い付き合いのコミュニティが2つある。そのうちの片方は主に30代独身男性の集まりで、昔はよく一緒にゲームをしていたが最近はスポーツやアウトドアに各自熱を上げている。そこの連中がゴルフをかじりはじめたと知ったのは一週間ほど前になる。Discordのチャット欄にアップロードされた、友人たちのためらいがちな初々しいスイングを見ると小学生の時分を思い出す。
僕がゴルフをはじめたのは6歳かそこらの頃。当時発売されたばかりの「マリオゴルフ64」にドハマりしていた僕が、祖父の家の玄関に立てかけられたキャディバッグを覗き見て「本物のゴルフクラブだ」と目を輝かせたのはとても自然な話だった。祖父も祖父で今から仕込んでおけばじきに孫と一緒にコースを回れると踏んだのか、その場ですぐにゴルフをやる流れになった。なにしろ、この時の祖父こそがまさしく長年の公務員生活から解き放たれた、定年退職したての老人だったからだ。つまり、時間と金をめちゃくちゃ持て余していたのだ。
さっそく祖父は自身のクラブセットをゴルフ用品店に持ち込み、僕の身長に合った長さの短尺シャフトに取り替えさせた。そして「自分のクラブは孫にあげたから」という体裁で即座に新品のクラブを購入せしめた。これは祖母の厳しい財政管理をかいくぐる作戦として完璧に機能した。こうしてあっという間に――わずか6歳の少年にフルセットのクラブがあてがわれた。田舎なりに広い庭で雑にスイングの要領を身に着けさせられた僕は間もなくゴルフ練習場、いわゆる「打ちっぱなし」に通い出した。
そこではすでにレッスンコーチが待ち構えていた。3階建ての年金と相応の預貯金を持つ祖父は金に糸目をつけなかった。レッスンコーチの方も小学生の生徒となるとますます気合が入ったのか、授業の大半を基礎的なゴルフのマナーや作法に割いた。ぶっちゃけて言うと、僕はこれが非常に嫌だった。貴重な土日に30分近くも車に乗って連れてこられた先で、ただの1回もクラブを握らせてもらえずにひたすらバンカーの整地ばかりさせられる苦しみをどうか想像してほしい。6歳児にバンカーレーキは重すぎる。
ようやくまともに球を打つ機会を得たのは月2回のレッスンを3、4回は受けた後だった。レッスンコーチはスイングにずいぶんこだわりがあり、初動の形が不完全だとショットを中断させてまで修正を施した。結果、1時間のレッスンの間に打った球の数はひとカゴ分にすら満たなかった。レッスンさえ終われば後は夕暮れまで好きなだけ打ちまくれたので、僕は打ちっぱなしに行くたびにどうやってコーチとの時間をやり過ごすか考えていた。
![](/img/72.jpg)
そんなこんなで数年経ち、ショットの品質が安定してくるとついにコースデビューの話が持ち上がってきた。しかし8、9歳の筋力ではドライバーでさえ150ヤードも飛ばせない。体力的にも通常のコースはハーフでも回りきれないだろうということで、コースデビューはショートコースで行われた。ショートコースは文字通り短いコースしかない。成人なら7番アイアンでグリーンを飛び越えるようなミニチュア具合だが、当時の僕にはそれでも感動するほどすべてが巨大に見えたものだ。
もっとも肝心のコースデビューの出来は散々だった。練習場のマットとリアルな芝生ターフの違いを身をもって味わわされた。クラブを球の手前に打ちつけてしまう「ダフり」はマット上だと反発してそこそこ飛んでくれたりもするが、ターフではヘッドが土にめり込んで球に接触することすら叶わない。球はめくれあがった芝に動かされて数十センチ転がる程度で、空振りしたのとほとんど変わらない結果となる。練習場では気にも留めないスライスも下手をするとOBだ。成人でもこういうミスショットを連発するとすこぶる機嫌が悪くなる。僕も半泣きになりながら初回のプレイを終えた。にも拘らず何度もコースに行きたがったのは、やはりゴルフが好きだったからだろう。
![](/img/73.jpg)
そんな僕に県大会出場の話がやってきたのは、飛距離を伸ばし正式なコース試合にも慣れてきた小学6年生の頃だ。ところがその頃の僕はあまり気乗りがしなかった。当時の僕の興味関心はコンピュータとインターネットにだいぶ偏っており、他の分野には一切目移りしないほど熱中していたからだ。読む雑誌もゴルフ雑誌ではなくパソコン雑誌に変わっていた。しかし「12歳以下の部」は来年になると出られなくなるとの説得を受けて、一応出ることにした。とはいえ、祖父も祖父で新しいパソコンを一式買い揃えてなにやら夢中になっていた時期だったので、僕の本音はよく理解していたと思う。
そういうテンションで出場したものだから当然ながらスコアは芳しくなかった。リーダーボードに掲載された順位でも下から数える方が早かった。僕より年下の10歳くらいの子がずっと上位にいたりして、僕はいよいよ潮時を悟った。真剣になれないのならプレイしていても仕方がない。皮肉にもこれは実父との確執をきっかけに僕が母に引き取られたことでなんとなく実現した。ド田舎の岩手県から東京都に引っ越して生活様式が大きく変わってしまい、もはやゴルフどころではなくなったのである。
以来、ゴルフのことは完全に忘れ去ったはずだった――**先週、友人連中が楽しそうにクラブを振る姿を見るまでは。** せっかく筋トレやランニングを日々こなしているのにスポーツの一つも手を出さないのはいい加減つまらんじゃないか、などと取ってつけたような理由を頭に浮かべながら僕はメルカリを開き、送料込み1000円という破格の値段で出品されていたアイアンセットを即座に購入した。
手に入れたアイアンセットは番手が6番からしかなかった。どうやら16年の年月はアイアンのかつての常識を変えるには十分すぎたらしい。例のレッスンコーチは「3番アイアンを使いこなせてこそ一人前」と僕が当該のアイアンでミスショットを打つたびに説教をかましてきたが、今時のアイアンセットには3番や4番は入らなくなってきているそうだ。僕が買ったセットのように5番さえない場合もしばしばある。
その代わり、昔のクラブと比べてロフト角がずいぶん立っている。雑に言えば近年の7番アイアンは昔の6番アイアン並に角度が浅く、飛距離が出る。同様に、6番アイアンは5番アイアン並になっている。それでいながら設計やヘッドの大きさが改善されているので昔のアイアンより格段に打ちやすい。
「もう握り方すら忘れたよ」とDiscordで謙遜した僕の手は、クラブを握った瞬間にまるで意志を持ったかのようにおのずとオーバーラッピンググリップの構えをとった。中身を詰め替えた直後の霧吹きの出が悪いように不安定なショットを数発飛ばしたのも束の間、肉体に記憶されたスイングと身体の動きが同調してからは実に楽しい一時だった。
<iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/RGpub9QpGZU" title="YouTube video player" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen></iframe>
まさかあれほど嫌だったスイング指導のありがたみを16年越しに理解するとは思わなかった。実際、客観的に見てもなかなか悪くない。しかしゴルフグローブの用意を忘れたのは完全に失敗だった。やむをえずダンベルトレーニング用の指ぬきグローブで代用したが、指先の皮がズダボロにめくれてめちゃくちゃ痛い。
うーん、やはりゴルフは楽しいな。アイアンセットだけではコースは回れないのでまずはドライバーを買うことにしよう。ちなみにマリオゴルフは64よりもゲームボーイカラー版の方が面白かった。

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@ -0,0 +1,71 @@
---
title: "2009年を振り返る"
date: 2022-01-19T21:45:48+09:00
draft: false
tags: ["diary"]
---
{{<tweet 1481395789914337281>}}
つい昨年の出来事を顧みられるほど濃厚な人生は送っていない。僕が振り返るのは夢と希望に満ちあふれ、Microsoftを無駄に敵視していた13年前のあの頃だ。
**2009年1月。** Twitterアカウントを開設した理由は、当時遊んでいたPCゲームのフレンドに誘われたからだった。その頃のやりとりを再現すると大方こんな具合になる。
「Twitterって知ってるか」
IRCの雑談チャンネルで出し抜けに言ったのは僕より2歳年上の先輩フレンドだ。小生意気な中学3年生をやっていた僕はIRCクライアントの入力欄ではなく、Google検索の**ツールバー**にせこせことキーワードを打ち込んだ。ほどなくして『Twitter』なる奇っ怪な発音をする代物の概要を突き止めると、さも知ったふうな体でようやく返答を書いた。
「流行ってるらしいね。mixiみたいなやつだ」
「いや、全然違うよ。さてはググったなお前」
付け焼き刃、と形容するにも脆すぎる刃はたちまち打ち砕かれた。「ソーシャルネットワーキングサービスには違いないだろ」と生煮えの定義論を振りかざす僕に、彼は数十行分もの手間をかけて滔々と説明してくれた。曰く、TwitterはmixiともMyspaceともFacebookともまったく異なる新規性を持つらしい。交流サイト特有の堅苦しさがなく、とりとめのない投稿を気軽にできる仕様が特徴になっているそうだ。その仕様というのが……
**「140文字しか書けない」**
僕は脊髄反射的にタイプした。続けて「誰が使うんだそんなの。日記すらまともに書けないだろ」と反論を繰り出した。先輩フレンドも負けじと「どんなにくだらない内容でも字数制限があるならしょうがないかなって気になるじゃんか」と応戦する。
僕は僕でテキストについて一家言あった。この頃、僕は既に自前のブログで狂ったように中二病テキストを書き散らしていたので、低品質な文章の増産を助けるようなサービスは受け入れがたかったのだ。むろん、当時の僕は自分のテキストを**文学**だと信じて疑っていなかった。**あー、こういう時期のことを思い出すと心臓がキュッと締め付けられるね。**
「長けりゃいいってもんじゃないよ、面白い文章ってのは」
丁々発止の末、先輩フレンドは意味深な発言で僕の言い分を抑えて最後にこう言い残した。
「まあ、とりあえずアカウント作っとけよ。なに書いたって誰も怒りはしないしさ」……IRCの仕組み上、ログアウトした相手に向かって反論を書き連ねても意味がない。受験勉強のために間もなく切断を余儀なくされた彼と戯れるのは当面お預けとなった。
議論の熱量はそのままに宙ぶらりんとなった僕の手先が、衝動的にTwitterの登録フォームへと向かったのはそんなにおかしい話ではないと思う。とにかく使って触れてみないことには優位に立ちようがない。かくも子供じみた負けん気が、その後13年続く異常個体アカウントを生んでしまったのだ。
実のところ、作法に慣れるまでTwitterは本当に不便だった。外部サービスなしには画像も添付できず、日記を書くにしてもやはり文字数が足りないため時間単位に分割せざるをえない。そうして生まれたのが「〜なう」だの「〜わず」だのと言った、今では加齢臭さえ感じさせる平成のネットスラングだ。もっとも、2009年頃にスマートフォンはほとんど普及していなかったので、ガラケーかポケットPC死語で頑張らない限り「なう」には相当なタイムラグがあったと考えられる。
![](https://www.sony.jp/CorporateCruise/Press/200901/09-0108/images/img_001.jpg)
ところでポケットPC死語といえば2009年1月に発売されたSONYの新製品「type P」が未だに記憶に新しい。小型軽量をアピールするために自社製品を無理やり尻ポケットにねじ込まんとするひたむきさが高く評価されていた。2ちゃんねるでは当然ボロクソに叩かれまくったが、わずか8インチの筐体に1600×768ドットの高解像度ディスプレイと2GBのRAMを詰め込んだのは今思うとなにげにすごい。
スマートフォンの方では[iPhone 3GS](https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/280811.html)が2009年6月にリリースされている。もし2ヶ月早く来ていたら僕はガラケーなんぞ選ばず初手でiPhoneを買ってもらっていただろう。しかし誠に遺憾ながらタイミングが折り合わず、僕のスマホデビューは翌年のiPhone4発売まで持ち越されることとなった。おまけに「1年で買い換えるなら自腹で買いなさい」と告げられ、やむなくアルバイトにも手を染めた。
コンピュータ分野ではWindows7が同年9月に発売開始された。あまりに高い推奨動作環境が災いして総スカンを食らったWindows Vistaとは事情が異なり、運良くコンピュータの性能向上が追いついたおかげでWindows7は事実上のXP SEセカンドエディションとして広く受け入れられた。どういうわけか僕の初めてのツイートもWindows7への言及である。たとえMicrosoftが嫌いでも、PCゲームを遊ぶ以上はWindowsの動向を注視せざるをえなかったのかもしれない。
{{<tweet 1115310887>}}
政権交代も起こった。当時の僕の知識では理解がおぼつかなかったが、民主党政権が実施した授業料無償化には後々けっこう助けられた。製造業にかなりの打撃を与えたとされる円高放置も、僕にとっては自作マシンのパーツを輸入したり洋ゲーをドル建てで買うぶんにはむしろ好都合だったりして、政治は誰が担っても損をする人と得をする人が生まれるのだなと素朴に感じたものだ。
そういえば、eスポーツの大会にも出たんだった。記事の冒頭で触れたPCゲームとはQuake Liveというスポーツ系FPSのことで、僕はこいつがまあまあうまかった。近年のめちゃくちゃ立派な協賛企業盛りだくさんの大会とは到底比べものにならない小規模なコミュニティ大会だが、それでも決勝戦ともなると幾ばくかの緊張感があった。検索してみたらニコニコ動画にまだ[動画が残っていた。](https://www.nicovideo.jp/watch/nm7222640)
他にはなにがあったかな……**あー、スタートレックのリブート映画があった。** CGに嘘臭さを感じない映画を観たのはこれが初めてだったな。スタートレックっていうのは'60年代のSFドラマが原点で、それはもうありとあらゆる作品に影響を与えまくっているんだけども、タイトルの認知度はともかく実際には観たことがない人が多いんじゃないかと思う。さすがにオリジナルを今更辿るのはキツいだろうから、もし気になったらぜひ2009年のリブート映画を入口にしてくれたまえ。**ワープシーンがむっちゃカッコいいんだ。**
{{< youtube WLHO_E_U8o4 >}}
<br>
……そろそろTwitterの話に戻るか。
2022年現在に答え合わせをすると、かの先輩フレンドの主張は半分当たって、半分外れたと言える。Twitterは確かに流行った。とりわけ日本語圏においては最大規模のSNSにまで成長を遂げた。たった140文字しか書けない制約が、かえって参加のハードルを低くしたとの見立ては正しかった。今後もしばらくは廃れないだろう。かつて対抗馬として有力視されていたMastodonは、インスタンス運営の困難さゆえTwitterを置き換えるほどには至らなかった。
他方、今もなお「なんでも気軽に書けて、誰にも怒られないSNS」かと言われたら……大いに疑問だ。**むしろ、正反対になった。** 今時分のTwitterはうかつに発言をすれば、どこからともなく無駄に組織だった連中が出張ってきてバチボコに殴られる場所と化してしまっている。妻に高級チョコレートをプレゼントした惚気話を書いたらフェミニズム論争に巻き込まれた、なんてSF作家でも思いつかない奇天烈な展開だ。
炎上が日常的になった理由は色々考えられる。情報端末の全人類的な普及が本来要求されるべきリテラシーの壁を破壊したのだとか、はたまたあらゆる格差に伴う分断が階級闘争を加速させているのだとか。もっとシニカルに見る向きでは、もともと人間のコミュニケーションなどそんな程度のものだった、ただ広く可視化されただけだ、なんていうのまである。
僕が思うに、一番悪いのはリツイート機能とかいう代物だな。2009年時点では知る人ぞ知る非公式機能に過ぎなかったが、晴れて2010年に公式で実装されて以降は誰も彼もがワンタッチで情報を拡散するようになった。だが、この時に拡散されるのは情報ばかりではない。憎悪も怒りも同時に拡散される。リツイートの数はしばしばそれらを正当化しうる根拠ないしは権威として利用された。**なにしろ、その権威の一員に加わるのに言語化が一切いらないのだ……** ただ指を押し込むだけで直ちに参入できてしまう。21世紀の邪悪な発明は、ついに笠を着込む手間さえ省略せしめた。
ここ数年の間にTwitterを始めた人たちが2009年のタイムラインを見たらきっとびっくりするだろう。ユーザの多くはITエンジニアか新しもの好きの若者で、まさに「ツイート」――鳥のさえずりと呼ぶに相応しい、のどかで知的な雰囲気に満ち足りていた。一方、2022年現在ときたらよほどフォローを厳選しなければ必ず悲鳴か断末魔を目に入れる羽目になる。「ツイート」ではなく「スクリーム」と言い表す方が妥当なユーザの一人や二人はすぐに思い浮かぶはずだ。
なあTwitterさんよ、今からでも遅くないから思いきってリツイート機能を廃止してみないか。そりゃあ僕だって自分の書いた記事がRTされたら**すっごく嬉しい。** あえて気に留めていないふうを装っているが、実際に通知が飛んできたらその日一日はずっとウキウキワッショイでいられるほどだ。純粋なニュースでなければインフルエンサーでもない人間の記事なんて、検索エンジンに引っかかりでもしない限りはまず読んでもらえないからな。しかし、リツイート機能は負の側面があまりにも大きすぎる。今の人類には早すぎたと言わざるをえない。
ここら辺の機微に敏い連中は、各々信頼できる仲間を集めてクローズドなコミュニティに引きこもっているらしい。かくいう僕も異常独身男性を収容したDiscordサーバを2つ持っており、市井の人々が眉をひそめるような話はもっぱらそこでやっている。
ひょっとするとみんなもいずれはそうなっていくのかもしれない。昔のリプライ履歴を辿るとほとんどのユーザが消滅していたり、過去ツイートを全消ししていたり、鍵垢になっていたりしている。かの先輩フレンドのアカウントもとっくの昔に残骸に成り果ててしまい、IRC文化も廃れた今となっては彼の行く末を知るすべはない。きっと彼らはその賢明な洞察力を以て、Twitterで得られる交流に見切りをつけたのだ。彼らにとって現在のTwitterとは、せいぜい公開インターネット用の人格を展示するポートフォリオサイトでしかない。
2009年。「ウェブはバカと暇人のもの」と中川淳一郎氏にディスられながらも、そこにはまだひとさじの希望と幻想が残っていた。そんな年だった。

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@ -0,0 +1,96 @@
---
title: "2022年参議院選挙 既成政党以外まとめ"
date: 2022-06-24T10:17:00+09:00
draft: false
tags: ["politics"]
---
本エントリは2022年の参議院選挙に立候補する既成政党**以外**について記す。既成政党とは国政に議席を有しているか、もしくは直近に有していたことがある政党を指す。そういう権力を持った強い存在は勝手に誰もが注目するだろうから、ここは一つあえて珍獣のうなり声でも聞いてやろうといった趣向である。
## [参政党](https://www.sanseito.jp)
![](/img/144.png)
**■思想傾向:右派**
**■特徴要約:反ワクチン、自然主義**
今回の選挙で本当に議席を獲ってしまいそうな勢いを持つ政党。5万超もの党員数を誇り、全国的に候補者を擁立している。 **「ゴレンジャー」** と呼ばれる5人の著名人武田邦彦氏などを事実上の指導者とし、独特の言い回しを用いた演説を得意とする。各地の街頭演説で多数の聴衆に囲われている様子を見るに、実際にこの手法は効果を発揮しているようだ。
{{<tweet 1539727044170227712>}}
たとえば、彼らの演説ではワクチンは **「お注射」**、コロナは **「流行りの病」** と言い換えられている。ワクチンの有効性やコロナの危険性を低く見積もる旨の揶揄なのだろう。事実、参政党主催の講演会の画像を確認するとマスクの着用率が際立って低い。右派政党にしては珍しく環境保護を重要政策に掲げているためか、おそらくはこういった自然主義が諸々のコロナ対策を否定する姿勢に繋がっていると考えられる。
他の政策は典型的な右派のそれである。**戦後教育と外国勢力によって奪われてきた大和民族の誇りを取り戻す**との論調を基に、**軍事力の増強**や**愛国教育の推進**、**外国資本の参入規制**などを主張している。
どうやら参政党の党勢拡大にはイデオロギーの強い元自民党支持層が深く関わっていそうだ。というのも、岸田政権と保守野党の日本維新の会はどちらも愛国色が薄く、こうした類型の自民党支持層の受け皿にはなれずにいたからだ。そこへいくと参政党はだいぶ彼らの理想に近い。
さらに、反ワクチン勢力に至ってはこれまで受け皿そのものが存在しなかった。参政党の指導者たちの本音は知る由もないが、結果的に政治へのモチベーションが高い勢力を手中に収めた点では他の諸派を大きくリードしていると言える。
## [日本第一党](https://japan-first.net)
![](/img/145.png)
**■思想傾向:右派**
**■特徴要約:排外主義**
党首の桜井誠(本名:高田誠)氏は'00年代のインターネットに詳しい者の間では特に悪名高い人物である。
彼は在日韓国人にのみ与えられる「在日特権」なる既得権益の存在を信じており、自らが主宰する政治団体「在日特権を許さない市民の会(在特会)」を率いては、ネット・リアルを問わずありとあらゆる場所で排外的な主張を繰り広げてきた。
いわゆる **「ネット右翼(ネトウヨ)」** が現実に飛び出してきた顕著な例の一つに数えられる。一連の活動はやがてかなりの数の信奉者を抱えるまでに成長する。
![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/35/Demonstration_by_zaitokukai_in_Tokyo_2.jpg/1024px-Demonstration_by_zaitokukai_in_Tokyo_2.jpg)
最終的に在特会は運営方針の対立や、桜井氏自身の不祥事寄付金の横領疑惑が原因で衰退を迎えるも、会長を退任した同氏が2016年に「日本第一党」を結党して現在に至る。
当然、本政党が掲げる政策は前述の参政党をはるかに上回る過激さで、愛国教育の推進や軍事増強はもちろん、**核兵器の保有**や**国防義務の明記**、**実行犯以外も逮捕拘禁可能なスパイ防止法の設立**、**自主憲法制定および不敬罪の復活**、果ては**韓国との国交断絶**をも主張している。
以前はネット上で悪目立ちしていた彼らであったが、今後は耳目を集めることさえ難しくなるだろう。右派論壇の中心は今や民族対立ではなく男女対立に移って久しく、民族差別的な言説はTwitterでもYoutubeでも即座に排除せしめられる。彼らの主張が市井の人々に届く機会はもはや失われている。桜井氏の印税収入が追いつかなくなり次第、おのずとこの政党も解散を余儀なくされると思われる。
## [幸福実現党](https://hr-party.jp)
![](/img/146.png)
**■思想傾向:右派**
**■特徴要約宗教、反再分配、反LGBT**
幸福実現党は新興宗教「幸福の科学」を支持母体に持つ右派政党である。主要政策には **「日本の伝統的な家族観を守る」** との文言が並び **「性的マイノリティの行き過ぎた保護に反対」** と主張している。すなわち広義の反LGBTと捉えられる。近年は右派の間でも同性愛容認の動きが広まってきている中、頑なに反LGBTの姿勢を崩さないのはいかにも教条的だ。
前述の日本第一党はなにかと韓国を目の敵にしていたが、幸福実現党は中国を敵視している。これは中国共産党(というよりは共産主義)が宗教に不寛容であることを考慮すると、わりあい理解可能な方針と言えなくもない。幸福の科学の経典にはマルクスやレーニンは**地獄行き**と記されているらしい。僕も学生時代はよくマルクスの著書を読んでいたので、彼らの教義に従うのなら同じく地獄行きかもしれない。
彼らの反共産主義(社会主義)思想は経済政策にもよく現れている。他の諸派は各種税金の累進性を高めたり、社会福祉を拡充させたりなど、いわゆる大きい政府を志向する向きが強いが、幸福実現党はそれらの再分配政策を **「社会主義そのもの」** と非難し、まさしく宗教的道徳に基づいて **「神仏に向かって自らを向上させようとする自助の精神が必要」** と主張している。
知名度の割に未だ国政に一つの議席も得られていない原因は、兎にも角にも宗教色が前面に出すぎているところにありそうだ。公明党が創価学会なのはおよそ誰でも知っていることだが、少なくとも彼らは政策面で宗教臭さをうかがわせるような主張はしていない。もっと先達の手腕に学ばなければ今後も議席は獲得できないだろう。
## [新党くにもり](https://kunimoritou.jp)
![](/img/147.png)
**■思想傾向:右派**
**■特徴要約:ウイグル人候補者擁立**
政策を読む限りではオーソドックスな右派政党 **(反グローバリズム、反中、皇統護持、軍事増強、愛国教育)** といった感じで目立った特色は見当たらない。強いて挙げるなら他の諸派と比べてやや落ち着いた雰囲気は感じられる。落ち着いているだけでこれらの政策が実現できるわけではないが、多少なりでも品性があるのは悪いことではない。マスコットキャラクターは変えた方がいい。
右派政党にしては珍しく外国にエスニシティを持つ候補者を擁立している。神奈川選挙区立候補者の[グリスタン・エズズ](https://kunimoritou.jp/profile2.html?cano=9)さんはウイグル出身の女性で、現在は帰化を経て日本国籍を得ている。新疆ウイグル自治区といえば中国共産党による民族浄化や洗脳教育が行われているとされている地域だ。彼女自身もウイグル弾圧に対する問題意識から出馬を決めたと言う。
新党くにもりとしては反中国票を見込んでの擁立だったのだろうが、残念ながら右派からは大して支持されていないようだ。Twitterで検索してみると **「愛国的なら出身は気にしない」** との声もあれば **「純血の日本人でなければ信用できない」** といった声もちらほらと並ぶ。一部の右派にとってウイグル人は同情の対象ではあっても、自分たちの代表にはふさわしくないということなのかもしれない。
個人的にはどんな理由であれ、外国出身者に政治参加の機会が与えられるのは良いことだと思う。なにもウイグル弾圧についてのみ発言が許されているわけじゃあるまいし、たとえ右派の立場からでも外国出身者ならではの主張を展開する余地はあるはずだ。この擁立に関しては素直に応援したい。
## [維新政党・新風](https://shimpu.sakura.ne.jp)
![](/img/148.png)
**■思想傾向:右派**
**■特徴要約:歴史は長い**
主張こそ典型的な右派政党だが、実はその歴史は古く1995年に結党されている。党名に「維新」と付いているが「日本維新の会」とは無関係である。2007年の参議院選挙で17万超の票を得たことで多少の知名度を稼いだものの、以降は他の右派勢力に押される一方で影の薄さが拭いきれない。他の諸派と比べてSNSやYoutubeの使い方も上手いとは到底言えない。
2009年に右派勢力が強行した「フィリピン人家族追放デモ」に対して **「民族差別は許さない」** との声明を発表したのは評価に値するが、この声明が彼らの党勢を回復させることはなかった。なにしろ当時は前述の桜井誠氏率いる在特会が猛威を振るっていた時代だ。正論がものを言うかは相手による。
ただでさえ自民党よりさらに右側を目指す以上、むやみに倫理道徳を振りかざしていては右派の支持なんてとても期待できないのではないか。今回の選挙活動もあからさまに精彩を欠いている。抜本的な改革なくては党の存続すら危うい。
## [ごぼうの党](http://gobou-no-tou.com)
![](/img/149.png)
**■思想傾向:ごぼう**
**■特徴要約:ごぼう**
すべてが謎に包まれた政党。公式サイトを読んでも結局なにが言いたいのかまるで解らない。Twitterで指定のハッシュタグを設けた投稿を行う **「ごぼうチャレンジ」** なる運動を実施しているが、賛同者を見ても一貫した政治信条は確認できず、せいぜいごぼうの画像が添えられる程度に留まっている。しかしその割には俳優の**山田孝之氏**や歌手の**GACKT氏**がチャレンジに参加したりなど、芸能界とのコネクションがうかがえる一面もある。なんだか不気味だ。
{{<tweet 1535426671997702145>}}
現状、この政党について言えることは**マジでなにもない。** 著名な芸能人を動員できている点と **「ただシンプルに私たちの笑顔と喜びを守ることだけを考える」** との文言から、エンターテイメント産業の振興を目的とした政党と見なせなくもないが、主張を曖昧に濁すような諸派が十分な票数を得られるわけがないので、これらの選挙活動の意図は依然として不明のままだ。
比例区に11人も擁立している様子から党の資金源は相当に豊富そうだが、金持ちの道楽にしてもさすがに金をかけすぎている気がする。なんならこの**11**とかいう数字もごぼうっぽい。まさかこんな風に猫も杓子もごぼうと関連付けさせて洗脳するのが目的だったりしないだろうな。
## まとめのまとめ
2022年参議院選挙の諸派は右派とごぼうで占められた珍妙な様相を呈している。以前の選挙では中核派で構成された政党や、環境保護を掲げる左派政党などもいたが今回は出馬には至らなかったようだ。
諸派の政策はごぼうの党を除いて共通点が多く見受けられる。とりわけ **「反グローバリズム、軍事増強(改憲)、愛国教育、移民抑制」** は完全に一致している。ロシアによるウクライナ侵攻の影響で右派的な政策の需要が高まっているのだろう。
その上で投票行動を予想した場合、おそらく反ワクチンや自然主義なら参政党、レイシストなら日本第一党、反再分配や反LGBTなら幸福実現党……といった具合に投票先が固まっていくと見られる。他方、新党くにもりと新風は独自性の弱さゆえ諸派の中でも特に苦戦を強いられそうだ。
最後にうっかり流れで「ごぼう好きならごぼうの党」と書きかけたが、冷静に考えたら別にそんなことはなかった。以上、後は各自で判断されたし。

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title: "30歳の節目に電子の家を建てた"
date: 2023-07-15T21:21:17+09:00
draft: false
tags: ['diary', 'tech']
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<iframe src="https://mystech.ink/@riq0h/110692777818476072/embed" class="mastodon-embed" style="max-width: 100%; border: 0" width="1000" allowfullscreen="allowfullscreen"></iframe><script src="https://mystech.ink/embed.js" async="async"></script>
かつての時代では30歳で家を建てることが国民共通の目標だったらしい。1993年、バブル経済の崩壊とともに日本は凋落の道を転がりだし、国政では55年体制が終わり細川内閣が発足、IT分野ではWindows3.1日本語版が発売された激動の年。僕は岩手県とかいう人間より牛の数が多いスカスカの大地にオギャーと誕生した。多分に漏れず、家は新築だった。
時に、西暦2023年7月11日。僕は30歳の誕生日を迎えて名実ともに中年男性と相成った。世相はずいぶん様変わりしたが僕もやはり家を建てた。ただし、肉体の収容を差し置いてインターネット上におけるアイデンティティやコンテンツコントロールの確立を重視した背景から、僕が建てた家は鉄骨でも木でもなく電子情報でできている。
ここ十数年の間にSNS――ソーシャル・ネットワーキング・サービスを取り巻く状況は急速に変化した。ただの手慰みに過ぎなかった一介のWebサービスが気づけば権威を纏いはじめ、その権威を塗り固めるがごとく他の権威も寄って集って天を衝く尖塔を築いた。そうして建てられた尖塔はいかにも立派そうに見えたが、たった一人の経営者の気まぐれによって今や根元が揺らいでいる。
こうした状況下にあって人生の多くをインターネットに捧げてきた人間としては否が応にでも考えざるをえない。14年以上に渡り半生を刻んできた写し身たるTwitterアカウントは、実のところ恐ろしく脆く、容易く壊されかねない代物でしかなかった。だが、良くも悪くもインターネットが我々によりいっそう迫り、多くの感性に影響を及ぼすのは今後も避けられそうにない。広範なリアルタイムコミュニケーションの機会を捨て去るのは少々退屈だ。
ならばせめて、情報の受け取り方や交流の工夫を自らの手で行えるようにしておきたい。じきに現れる第二、第三のTwitterも決して我々に本当の自由を与えてはくれないだろう。彼らの構築するプラットフォームに写し身を置いて、管理の一切を委ねるという選択はつまり、我々が本当に欲しい情報と彼らが見せたい情報の交換を暗黙裡に呑まされ続けることなのだ。
そこで僕はFediverseに家を建てた。なんの変哲もない建売りのMastodonで、和風モダンの瀟洒なMisskeyやフルオーダーメイドの独自実装とは異なり質素だが、これはこれで手に馴染む堅牢性が頼もしく感じられる。以前、あらゆる実装系で建てられた集合住宅を転々としたものの、結局はMastodonの質実剛健さが僕の中で勝った。特に埋め込み引用機能が気に入っている。
せっかくなら土地も広くとっておく。現状、VPSはContaboのユーロ建て払いが最強のコスパで知られている。日本リージョンでなければSSHの入力遅延が激しすぎて使い物にならないとはいえ、それでも合計月額8.9ユーロ、約1400円2023年7月15日現在のレートで4vCPU/8GB RAM/200GB SSD/500Mbpsは破格の性能だ。もし2GB RAMの一段上を求めているのなら、国内の事業者の4GBプランではなく断然こっちをおすすめしたい。
情報発信や交流の本拠地を拵えるからにはセルフブランディングも欠かせない。電子情報化住宅の建築はVPSの契約よりも前の、ドメイン名を考える段階から始まっていると言っても過言ではない。技術者であり物書きでもある僕としては、やはり両方のニュアンスをドメイン名に含ませたい。Fediverse上のインスタンスにおいてドメイン名は半ば屋号的な意味合いを持っている。こんな面白い自己表現の機会をみすみす逃すわけにはいかない。
そうは言ってもこれは簡単な仕事ではなかった。ぱっと一瞥した際に引っかかりを与えるような、いかにも長大で露骨な文字列はかえって安っぽい。かといって、一般名詞は個人のアイデンティティを委ねるには器が大きすぎる。カリグラフィー的な審美性も重要だ。総合すると、トップレベルドメイン部分を足してもせいぜい10文字ちょっとが限度であろうと思われた。
10文字ちょっとで技術と物書きのニュアンスを両方含ませる――インスタンスを建てるのには半日もかからなかったが、ドメイン名を決めるのには何日も要した。帳面に候補を様々な書体で書き連ねてみたり、エディタ上で特定のフォントを指定した際の見栄えを比較したりしているうちに、どんどん日々が過ぎ去っていく。まるで中二病全盛期だ。あの頃もなにかとカッコつけようとして躍起になっていたものだ、と独りごちた辺りで、ふと頭をよぎる文字列があった。
中学生の時分に書いていた小説の題名だ。僕が初めてまともに長く書けた一次創作作品で未だに思い入れが深い。 **『Mystech』** と題されたそれは、魔法を操る異世界人の襲来に対して人類が **Mystic Technology** と呼ばれる魔法技術で立ち向かうという、今となってはこすられすぎた筋書きの物語だが、当時はとてつもなく画期的なアイディアだと信じて書いていた。
懐かしいな、と苦笑いして帳面にタイトルロゴを記してみると、途端に自身の表情が引き締まるのを感じた。この字面は、カリグラフィー的な審美性を満たしている。とりわけ2文字目のyが良い。全体の均整もすばらしくとれている。改めてエディタでいくつかフォントを指定して書いて、僕はこの感覚にいよいよ確信を持った。昔に自分が書いた作品の題名で、かつ技術を表すニュアンスが文字列に含まれている。アイデンティティを代表させるにはこの上なく申し分ない。
反面、まだ物書きのニュアンス、文芸的な要素が取り残されている。これが僕の作品の題名を表しているということは説明しなければ伝わらない。だが、Mystechの7文字はすでに完成されていて他の文字を差し込む余地はなさそうだ。となると、トップレベルドメインで工夫するほかない。僕は[Gandiの一覧表](https://www.gandi.net/ja/domain/tld)を凝視しながら、文芸を表現しうるドメインをくまなく探した。
そこへいくと絵描きは羨ましい。彼ら彼女らには.artドメインや.designドメインがある。文芸もliterary artと英訳されるし、designの一種と強弁できなくもないが、印象的にどうしても絵描きっぽさが先行するのは否めない。.writeドメインとかが存在していてもよさそうなのに新設の予定すらないのは一体どういうつもりなのか。憤懣しつつなおも探っていると、暫しの後にとうとう見つけた。
.inkドメインだ。出版社や印刷業界、タトゥー専門店などに向いていると説明されているが、インクと言えばそもそも物書きの古典的な象徴でもある。僕とてお気に入りのボールペンでよく文字を書く。これだ。文芸のニュアンスを含めるのに適したドメインはこれしかない。こうして、神秘・技術・文芸を表すFediverse上の僕の根城 **「Mystech.ink」** が誕生した。
![](/img/199.png)
ついに5年越しの夢が叶った。遅きに逸したとは思わない。あらゆる面において、僕にとって最良の時期がちょうど30歳の節目だったのだ。Fediverseの世界では肉体に関係なく誰もが自分の居場所を持てる。僕は30歳で家を建てたが、僕の半分の歳で数千人が住まう集合住宅を建てている子もいる。
Twitterの衰退は確かに残念だ。もともと経営不振に陥っていたにせよ、イーロン・マスクの手に渡らなければまだなにかやれることはあったに違いない。だが、今となってはどうにもならない。「支払いに必要な金を稼げない」……この一点を理由にいずれTwitterは滅び、世界中のソーシャルネットワークは再び激動の時代に突入するだろう。
それにひきかえ、ここからの眺めはいつでも最高だ。僕が見たい景色をナ単位で調整できる。これから先、インターネットの世界、SNSの趨勢、プロトコルの発展がどう進んでいくか考えると、予想される混乱とは裏腹に奇妙な興奮を覚えて仕方がない。歳を食うのもそんなに悪い話じゃないな。

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title: "32インチ4KHDRディスプレイの雑感"
date: 2022-11-26T11:29:09+09:00
draft: false
tags: ['tech', 'diary']
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![](/img/165.jpg)
ずいぶん遅れをとった感は否めないがとうとう僕も念願の4K刷新を果たした。居間のテレビにはえらく金をかけておきながらPCディスプレイの更新を先延ばしにしていたのは少々もったいなかったかもしれない。なにしろテレビと違ってPCディスプレイとは四六時中ずっと目を合わせているのだ。
映像のみならず文字を読む時も4K解像度は雄弁にものを言う。このエントリもまさに新しいディスプレイで書いているがフォントの精細感には歴然とした差が感じられる。結論だけ最初に言うとやはり買って良かった。以降は購入に至るまでの過程と雑感を述べる。
## 最初の選択――27インチか32インチか
PC向けの4Kディスプレイでとりわけ商品数が多いのはこの2つとはいえ、いきなり後者を考慮に入れる人はかなり稀だと思われる。なんせ32インチはデカい。急ごしらえで用意した狭い机ではまともに設置することすらままならない。そうでなくても眼前に32インチを初めて置いた時の圧力といったらまるで壁を前にしているかのようだ。気圧されて作業どころではない。つい視点の置き場に困って、特定の位置にばかりウインドウを開いてしまう……。大抵の人はそんな想像をするから32インチには手を出さない。
ところが27インチの4Kディスプレイには別の問題がある。等倍表示した際に文字が小さくなりすぎるのだ。そこでやむをえず文字を大きくしてみる。そうすると、今度はボタンやパネルのUI周りと不整合を起こすので、結局は全体を拡大せざるをえない。125 あるいは150 いずれにしても4K相当の作業領域は失われている。文字がきれいに映るぶん決して無駄ではないが損失には違いない。
だが32インチは違う。32インチであれば等倍表示でもなんとかやれないことはない。いくらかフォントサイズを大きくする必要はあるかもしれないが、全体を拡大しなければならないほどではない。**32インチなら4Kの作業領域を真に活用できる――** こういった認知の過程を経て、ようやく人々は27インチの他に32インチを考慮に入れはじめるのである。
かくいう僕も悩みに悩んで、最寄りのヨドバシで決心がつくまで展示品を睨み続けた。下は32インチ4K等倍の環境でターミナルを4つ開いた画像。1つあたりに小さめのラップトップに準じる作業領域がある。
![](/img/166.jpg)
## 誰にとってHDRが必要なのか
予め言っておくと映画を観ない人にHDRは不要だ。一般的な用途でHDR並みの高輝度を扱う場面はまったくない。というか、ごく普通のディスプレイでも輝度を100にして使ったりなんてしない。むしろ長時間使う人ほど輝度を下げているはずだ。僕も30まで抑えて使っている。こんな現状であえて高輝度を求める理由といったら、**それはもう映画の視聴、それもHDR対応の映画を観るためでしかない。** 32インチの選択がここでも活きてくる。
人によってはHDR対応のゲームかもしれない。僕は映画の方だった。せっせと構築した自室の上等なヘッドフォンオーディオで映画を鑑賞すべく、32インチの4Kディスプレイを背負って峠を越えてきたのだ。僕が買ったLGの[32UL750](https://www.lg.com/jp/monitor/lg-32UL750-W)は2019年発売の型落ちモデルだ。なぜそんな製品にあえて手を出したのかと言えば、これがピーク輝度600cd/cm^2を誇るDisplayHDR600認証取得のディスプレイだったからである。
DisplayHDR600を取得するには他の条件もある。実効コントラスト比が6000:1以上でDCI-P3も90以上カバーしていなければならない。前者の条件を正攻法で満たすのは難しいため、ほとんどの製品はディスプレイの調光を部分的にコントロールする機能でコントラスト比を高めている。当然、この実装手法とて低コストではない。
もし現行製品で同等のものを買おうと思ったら、**最低でも8万円はかかる。** しかし32UL750は3万円ちょっとで手に入った。代わりにベゼルが太いとかリフレッシュレートが60Hzしか出ないとかのデメリットはあるが、映画を観る上でそんなの関係あるだろうか そういうわけで僕はあえて新古品に甘んじた。ベゼルレスとか言ってもどうせ非表示領域はあるからな。
## 映画野郎はVA一択
VAパネルがコントラスト比でIPSパネルに引けを取ることはまずない。有機ELとかいうチートパネルを除けばVAパネルの出す黒はリアルな黒そのものだ。確かにIPSパネルは視野角にも優れているし発色も美しい。やつがなにかともてはやされるのは納得がいく。だが、数多の映画作品が明暗の繊細なニュアンスをディスプレイに紡ぎ出そうとするその時、誠に遺憾ながらIPSパネルはまったくの無能と化してしまう。**IPSパネルの黒は、黒じゃない。** どうあがいても白浮きする。高級パネルのNano IPS BlackでさえVAパネルのコントラスト比には及ばない。
低〜中価格帯の32インチディスプレイはVAパネルを採用している場合が多い。おそらくは製造コストの兼ね合いだろうが映画野郎にとってはむしろ僥倖と言える。僕はこれに関しては高かかろうが安かろうがVAパネルしか買う気はなかった。逆に言うと映画用途でもなければVAパネルを選ぶ利点は薄いので、ぶっちゃけ安物扱いされる事情も分からんでもない。強いて挙げるなら、PC上でたまに黒指定の色#000000に出くわすとマジで黒すぎてまじまじと見てしまうことくらいかな……。
## 総評
IT従事者にはデュアルディスプレイの信奉者が多いことを承知の上で、ユーザの志向によっては32インチ4Kシングルも十分に対抗しうる選択肢だと確信を得た。すべてが一枚で繋がっているおかげで変に目移りせずいつも画面の中央を捉えていられる。常に表示させておきたい情報がある人には依然としてデュアル環境が有力に違いないが、一つの作業に没頭することが多い人には広大な単一の作業領域の方がかえって効率的と評価できる。
## 補足:意外に重要なブラックスタビライザー
ゲーム関連項目にあるものだから僕にはもう無縁とゼロに下げていたが、ほどなくして暗色が潰れていることに気づいて元に戻した。どうやら50が標準値らしい。とはいえこの値だと暗色がくっきり見えすぎてVimやターミナルの背景がうっとうしい雰囲気になるので30〜40まで落としている。どの値に確定させるかは現在模索中だ。[ちなみに、色合わせはこういうページで調整している。](https://www.eizo.co.jp/eizolibrary/other/itmedia04/)使用用途によって最適な値がだいぶ異なる項目だと思う。

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title: "4K HDRのPCディスプレイでプライムビデオその他を観る"
date: 2022-11-08T15:25:43+09:00
draft: false
tags: ["tech", "diary"]
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アイアム映画マン見習い。普段は居間の55インチブラビアで映画を観ているが、集合住宅特有の事情ゆえ深夜はスピーカーを存分に鳴らすことができない。夜中にどうしても映画が観たくなった時はPCで視聴している。今までせっせとヘッドフォンオーディオに投資してきた甲斐あってか、意外に体験は悪くない。作品によってはむしろ良い。視聴距離の近さも相まって、なんというか、いつもより映画をねちっこく鑑賞できている感じがする。これはこれで一つの様式に昇華させられそうだと合点を得た。
そこへいくとやはりなんとかしたいのはPCディスプレイの性能である。僕のPCディスプレイはもともとFPSゲーム用に購入したもので、リフレッシュレートと応答速度に優れる代わりに発色がすこぶる悪い。いわゆるTNパネルというやつだ。当然、解像度も1920*1080のフルHDに留まる。居間のブラビアとあえて比べるまでもない。
となれば、新たに4Kディスプレイの購入が検討されるのは至極自然な話だと思われる。仕事や他の趣味においても高解像度でフォントを眺められるようになるのは良いことに違いない。今まで購入しなかったのはFPSのために高リフレッシュレートを惜しんでいたからだが、もうゲームもそこまで真剣にやる気はない。ついに時は満ちた……。
**……本来、話はここで終わるはずだった。** どの4Kディスプレイなら僕の需要を満たすのかはもう分かっている。DCI-P3を90%以上カバーしていてDisplay HDR400を取得しているUSB type-C給電対応の4Kディスプレイであればいい。たとえばDELLのU2720Qなんかはちょうど良さそうだ。ところが、そうは問屋を卸さないのが映画業界の都合だったり、デジタル著作権管理DRMだったり、ストリーミングサービス各社の怠慢だったりする。
## Webブラウザではプライムビデオその他を4K HDRで観られない
実を言うとこの問題は以前から知っていた。画質制限はNetflixが日本に初上陸した時点ですでに露見していた仕様だったからだ。ではどうするのかというと、僕はWindows Storeで手に入る専用アプリを使っていた。これならNetflixは4K HDRで観られる。そう、彼はまだ話が分かるやつだ。
**一方、プライムビデオやDisney+は専用アプリをもってしても4K画質を提供しない。Apple TV+はアプリ自体がない。** メイン環境がLinuxの僕でもたまにはWindowsをブートしてやってもいいと考えていたのに、こいつはずいぶんひどい仕打ちじゃないか。5年前なら1080pで観られればまあ十分か、と納得できても2022年の今は4Kコンテンツがだいぶ増えている。Disney+やApple TV+に至っては4K画質じゃないコンテンツの方がかえって悪目立ちするほどだ。
つまり、PCはもはや映画を観る上では不完全な環境に落ちぶれてしまっている。ストリーミングサービス各社が提供する最高画質を確保したければ、Fire TV StickなどのSTBを経由しなければいけない。本エントリが「**PCで**プライムビデオその他を観る」ではなくPC**ディスプレイで**、と題されているのはそのためなのだ。
このような不細工な仕様になっている理由は先に挙げた通り色々と考えられるが、いずれにせよ状況がいきなり改善される見込みはほとんどないだろう。マルチメディア機器としてのPCがその主役の座を降ろされたのは昨日今日の話ではない。したがって、本問題の解決手法はSTBの利用を前提とする方向に進んでいく。
## 映像分配器の悪い意味での奥深さ
STBは[Fire TV Stick 4K Max](https://www.amazon.co.jp/dp/B09JFLJTZG)を購入する。値段が安い以外の理由はない。居間のブラビアにはApple TV 4Kを繋げているとはいえ、わざわざ高いSTBを買い足すなんてコスパの悪い真似は避けたい。なにしろ、Fire TVの方はメルカリで新品未使用品が3000円かそこらでゴロゴロ転がっている。もっと考慮すべき問題は他にある。
冒頭で言ったように僕がこのやり方にこだわるのは上等なヘッドフォンオーディオを利用したいがためだ。しかしFire TV Stick 4K Maxにも他のSTBにも、手持ちのDACと接続可能な端子光デジタルは搭載されていない。プライムビデオその他が4K HDR配信をブラウザ上で提供していたらこんな問題は発生しなかったが、現状そうなっていないのだからFire TVとDACを接続する方法を考える必要がある。
結論を言えば**映像分配器**または**オーディオ分離器**と呼ばれる機材を用いる。Fire TVをディスプレイのHDMI端子に直接挿さず、分配器に接続して音声部分を光デジタル、映像部分をHDMIに文字通り分配するのだ。……とはいうものの、この分配器というやつはなかなか奥が深いジャンルで目当ての製品を見つけるのにずいぶん苦労した。
まずハードウェア性能的に4K HDRに対応していなければ話にならないし、フレームレートもきっちり60fps出てくれないと困る。ストリーミングサービスを利用する都合上、著作権保護機能のHDCPにも確実に適合してほしい。さらに単に適合するだけではなく、バージョン2.2以上でなければどのみち4K HDRの映像は映せないというのだから厄介そのものだ。
特に複雑怪奇さを極めたのがセレクタ機能だった。こいつがあるとPCの画面とFire TVをリモコンで切り替えられて便利なのだが、代わりにPC側の映像端子も分配器に繋げなければいけないので入力端子が2つ要ることになる。そうなると分配器の値段はぐわっと高くなり、逆に製造品質はがらっと悪くなる。どうやらセレクタ機能の設計はなかなか難しいらしい。
一応、Amazonの中をくまなく探して[これ](https://www.amazon.co.jp/dp/B07PYN1Z78/)とか[これ](https://www.amazon.co.jp/dp/B08NX7KB59/)のような基準を満たす製品を見つけはしたが、レビューを読むとどうも購入を躊躇してしまう。せっかく上等なヘッドフォンオーディオを扱うのに、粗悪な機材が間に挟まるというのはけっこうな不安材料だ。言うまでもなく、信頼の置けそうな国内メーカーの製品は[やはり高い。](https://www.amazon.co.jp/dp/B09L47YG1Q/)しかもやたらとデカい。こんなに沢山の端子はいらない。
結局、セレクタ機能は諦めて映像の切り替えはディスプレイ側に任せることにした。物理スイッチを何回か余分に押す手間がかかるが、これなら単純な仕組みの分配器で事が済む上に国内メーカーの製品にも手が届く。([これ](https://www.amazon.co.jp/dp/B08CK7SWPK/)とか良さそうだ。)目的を勘案すると音質を犠牲にしそうな選択肢だけは採れない。よって、最終的な構成案は下記の形となった。
## 最終構成案
> PC --- 4Kディスプレイ -- 分配器 -- Fire TV
> |             |
> |------------------ DAC ---------|
>        |
>       アンプ
>        |
>      ヘッドフォン
>        |
>      ₍₍ (ง ˘ω˘ )ว ⁾⁾
すんげー雑だけど様子は伝わるはず。こういう感じでやっていきたい。改めて条件を振り返る。
**・ストリーミングサービス各社の映像を最高画質4K HDRで観るにはSTBが必須。**
**・AVアンプ以外で上等なオーディオ設備を利用するには光デジタル端子を備えた分配器が必須。**
**・DRMで保護された映像を4K HDRで観るにはディスプレイ、分配器、HDMIケーブルのすべてがHDCP2.2以上に対応していなければならない。**
それにしてもなんでこんな仕様になってしまったんだろうね。そりゃあ誰も彼もスマートフォンやタブレットで間に合わせようとするわけだ。ちょっとでも込み入ったことをしようとすると途端に面倒が増えるんだからな。などと愚痴りつつも、なんだかんだであれこれと買わずにはいられない。アイアム映画マン見習い。

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@ -0,0 +1,262 @@
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title: "Alacritty+Prezto+Pureで快適なお洒落ターミナル環境"
date: 2021-03-22T20:13:20+09:00
draft: false
tags: ["tech"]
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![](/img/06.png)
## 経緯
ターミナル周りのことであれこれと試行錯誤していたのも今は昔。近頃はKDEを入れるついでに[Konsole](https://konsole.kde.org/)も追加しておく手癖が身についてしまい、気が付けば最近のターミナル事情にすっかり疎くなっていた。Linuxはもともとターミナル文化が根強かったせいか、今さら新顔が幅を利かせる余地などないとたかをくくっていたのかもしれない。
聞けば[Alacritty](https://github.com/alacritty/alacritty)というターミナルエミュレータがミニマルで快適だという。なにげにマルチプラットフォーム対応でWindows版もリリースされている。設定はテキストファイルのみで行うので煩雑なメニュー画面に惑わされることもない……なるほど、なかなか良さそうじゃないか。
むろん、欠点もなくはない。Pros/Consで表すと以下の通りになる。
**Pros**
・Rust製かつGPU支援が実装されているため動作が軽快
・マルチプラットフォーム対応
・設定をテキストファイルに記述する形で行う
**Cons**
・環境によってはフルインストールにビルドを要する
・スクロールバーはない
・タブもない
~~・日本語のインライン入力は現状サポートされていない~~ 0.11.0で対応した。fcitxユーザは「アドオン」→「X Input Method フロントエンド」→「XIMでOn The Spotスタイルを使う」を有効化しておく必要がある。
書いておいてなんだが、こうして一覧にしてみるとけっこう人を選びそうな気もする。しかし動作が軽快なのは想像以上に本当の話で、僕程度のカジュアルな使い方でも十分に効能を実感できたほどだ。ビルドに関しては一度慣れてしまえばどうということはないし、タブ機能もtmuxを駆使すればおおよそ問題ない。インライン入力はそのうち何とかしてほしい。
## Alacrittyの導入方法Linux
ここにちょっと面倒なところがある。Arch Linuxなど特別な仕様のリポジトリを持っているディストリビューションはともかく、他の環境では自らビルドを行わなければならない。以下にその手順を示す。
```shell
#リポジトリをクローンしてから当該フォルダに移動する
$ git clone https://github.com/alacritty/alacritty.git
$ cd alacritty
#ビルドに必要なrustupとcargoを導入する
$ curl https://sh.rustup.rs -sSf | sh
#コンパイラの設定を行う。rustupが働かない場合はOSを再起動する。
$ rustup override set stable
$ rustup update stable
#ビルド開始。コーヒーを淹れて飲み干すくらい時間がかかった。
$ cargo build --release
#Alacrittyの情報をシステムに登録する
$ sudo cp target/release/alacritty /usr/local/bin
$ sudo cp extra/logo/alacritty-term.svg /usr/share/pixmaps/Alacritty.svg
$ sudo desktop-file-install extra/linux/Alacritty.desktop
$ sudo update-desktop-database
#Alacrittyのmanualを登録する
$ sudo mkdir -p /usr/local/share/man/man1 gzip -c extra/alacritty.man | sudo tee /usr/local/share/man/man1/alacritty.1.gz > /dev/null
```
## Alacrittyの導入方法Windows
想定環境はWindows10。本項ではPowerShellと[Scoop](https://scoop.sh/)を使用する。
```shell
#PowerShellに実行許可を与える
PS> set-executionpolicy remotesigned -scope currentuser
#Scoopの導入を行う
PS> Invoke-Expression (New-Object System.Net.WebClient).DownloadString('https://get.scoop.sh')
#導入したScoopを用いてAlacrittyと推奨パッケージを入手する
PS> scoop bucket add extras
PS> scoop install alacritty
PS> scoop install extras/vcredist2017
```
## Alacrittyの設定
Linuxは`~/.config/alacritty/alacritty.yml`、
Windowsは`/%APPDATA%/Roaming/Alacritty/alacritty.yml` に設定ファイルを置く仕組みになっている。設定例の一つとして僕のファイルを下記に掲載する。
```yaml
# シェル
shell:
program: /usr/bin/zsh
args:
- --login
# カーソル
cursor:
style:
shape: Underline
blinking: Always
unfocused_hollow: false
blink_interval: 470
# タブスペース
tabspaces: 4
# ウインドウ
window:
opacity: 0.95
padding:
x: 0
y: 0
dynamic_padding: false
# フォント
font:
size: 13
normal:
family: 'UDEV Gothic 35NFLG'
style: Regular
bold:
family: 'UDEV Gothic 35NFLG'
style: Bold
italic:
family: 'UDEV Gothic 35NFLG'
style: Italic
bold_italic:
family: 'UDEV Gothic 35NFLG'
style: Bold Italic
# 環境変数
env:
TERM: alacritty
# Colors (Horizon Dark)
colors:
# Primary colors
primary:
background: '0x1c1e26'
foreground: '0xe0e0e0'
# Cursor
cursor:
cursor: '0x00ff00'
vi_mode_cursor:
cursor: '0x00ff00'
# Normal colors
normal:
black: '0x16161c'
red: '0xe95678'
green: '0x29d398'
yellow: '0xfab795'
blue: '0x26bbd9'
magenta: '0xee64ac'
cyan: '0x59e1e3'
white: '0xd5d8da'
# Bright colors
bright:
black: '0x5b5858'
red: '0xec6a88'
green: '0x3fdaa4'
yellow: '0xfbc3a7'
blue: '0x3fc4de'
magenta: '0xf075b5'
cyan: '0x6be4e6'
white: '0xd5d8da'
```
すべてのマシンで同一の設定ファイルを使い回すのはさすがに厳しかったので、HiDPIのラップトップではフォントを大きめにして、~~Windowsではフォントを[白源](https://qiita.com/tawara_/items/374f3ca0a386fab8b305)に変えRictyとの相性が悪いため、~~ 追記現在はUDEV Gothicというマジで神のフォントがあるため使い分ける必要がなくなった シェルのパスをWSLに指定している。
Windows Terminalや、もっと以前のminttyも決して強い不満を抱くような代物ではなかったが、僕にはAlacrittyの方が性に合っていたらしい。
なお、Alacrittyのテーマは[ここ](https://github.com/eendroroy/alacritty-theme)からテキストをコピーする形で利用できる。探せば他にもあると思う。
## あれこれ気になりはじめた
改めてターミナル周りについて事細かに探っていると、関連した他の情報もおのずと目に入ってくる。聞けばzshにはいくつものフレームワークが存在しており、導入するだけで手堅くよしなに設定してくれるようだ。これまではoh-my-zshしか知らなかったが、[Prezto](https://github.com/sorin-ionescu/prezto)というフレームワークが簡便で良さそうだった。遠い昔に見様見真似で`.zshrc`をえいやとこしらえ、今の今まで特段の不自由なく使ってきた僕にとっては順当なアプローチに思える。
プロンプト部分も手動でガチャガチャやるよりも、フレームワークに付属するテーマの方がより洗練されているように感じた。特に[Pure](https://github.com/sindresorhus/pure)というプロンプトは一切の無駄がなく本当にミニマルで美しい。どこかの男性が人間と恋に落ちた時、僕はターミナルエミュレータのプロンプトに一目惚れしたのだ。
従前の手動プロンプト設定に取り入れていた情報カレントディレクトリやSSH接続先の表示などはしっかり網羅されており、PowerlineでおなじみのGitのステージング関係も控えめながら組み込まれている。その上でPreztoの強力な補完機能も得られる。すごい。
![](/img/07.png)
うーん、いい感じだ。
紹介が済んだところでPreztoとPureを導入する手順を記していく。
```shell
#まずはPreztoを引っ張ってくる
$ git clone --recursive https://github.com/sorin-ionescu/prezto.git "${ZDOTDIR:-$HOME}/.zprezto"
#シェルオプションを有効にする
$ setopt EXTENDED_GLOB
#設定済みファイルのシンボリックリンクを張る
$ for rcfile in "${ZDOTDIR:-$HOME}"/.zprezto/runcoms/^README.md(.N); do
ln -s "$rcfile" "${ZDOTDIR:-$HOME}/.${rcfile:t}"
done
```
ここで一つ注意がある。既に`.zshrc`や`.zshenv`がホームディレクトリに置かれていた場合、当該のシンボリックリンクは当たり前だが作成されない。これをうっかり忘れてそのままだとPreztoが機能しないので`~/.zprezto/runcoms/`直下にある実体ファイルを参照しながら適宜修正するか、一旦、自前の設定ファイルを引っ込ませて、後で新しくできたファイルの方に設定を付け加えるかしよう。
とはいえ定番の機能はPreztoの方で一通り有効化されているため、結局はほとんどの記述を削除することになると思われる。僕の`.zshrc`も逆に心配になるくらいスカスカになってしまった。
正しく設定が読み込まれていれば、Alacrrityの再起動後に大きく外観が変わっているはずだ。初期設定ではsorinというテーマが適用されている。Preztoの設定は`~/.zpreztorc`の内容を書き換える形で変更する。例によって僕の設定ファイルを下記に掲載しておく。
```zsh
# 色彩
zstyle ':prezto:*:*' color 'yes'
# プリロード
zstyle ':prezto:load' pmodule \
'archive' \
'environment' \
'terminal' \
'editor' \
'history' \
'directory' \
'spectrum' \
'utility' \
'completion' \
'syntax-highlighting' \
'history-substring-search' \
'prompt'
# キーマップ
zstyle ':prezto:module:editor' key-bindings 'emacs'
# テーマ
zstyle ':prezto:module:prompt' theme 'pure'
# ハイライト
zstyle ':prezto:module:syntax-highlighting' color 'yes'
zstyle ':prezto:module:syntax-highlighting' highlighters \
'main' \
'brackets' \
'pattern'
# 途中まで打ったコマンドの履歴を検索
zstyle ':prezto:module:history-substring-search' case-sensitive 'yes'
zstyle ':prezto:module:history-substring-search' color 'yes'
zstyle ':prezto:module:history-substring-search:color' found ''
zstyle ':prezto:module:history-substring-search:color' not-found ''
zstyle ':prezto:module:history-substring-search' globbing-flags ''
```
Pureの導入は設定例に従って名称を記述するだけで完了する。これだけの作業で快適なお洒落ターミナル環境が手に入ってしまうのだからすばらしい。
## その他(順次追記)
・tmuxでNeovimを開いた際にTrue Colorが無効になるエラーを修正する
```yml
#.alacritty.ymlに以下を追記
env:
TERM: alacritty
#.tmux.confに以下を追記
set -g default-terminal "tmux-256color"
set -ga terminal-overrides ",$TERM:Tc"
set-option -sa terminal-overrides ',alacritty:RGB'
#init.vimに以下を追加
set termguicolors
let &t_8f = "\<Esc>[38;2;%lu;%lu;%lum"
let &t_8b = "\<Esc>[48;2;%lu;%lu;%lum"
#init.luaの場合
opt.termguicolors = true
```
## 既知の問題点(たぶん何かを見落としている)
~~・tmuxからdetachするとカーソルが点滅しなくなる~~ → そもそもdetatchしなくなった。
~~・カーソルの色設定が反映されない~~ → 解決した。前述の設定ファイルに反映済み。
~~・ウインドウサイズの設定が反映されない~~ → i3wmに移行したのでどうでもよくなった。
~~・コマンド以外だとなんでも下線が付くところがちょっと気に入らない~~ → 有効なPATHになっているか分かるのでむしろ気に入った。
たまには実用的な記事を書くのも楽しいが、ポエム的な文章表現を自重することがとても難しい。

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@ -0,0 +1,43 @@
---
title: "Apple M1は演算性能が高いわけではない"
date: 2020-11-27T11:17:04+09:00
draft: false
tags: ["tech"]
---
高速なのはメモリとI/Oである。まずは下の画像を見て欲しい。
![](/img/08.jpg)
Apple M1チップの実物写真だ。見てのとおり、一枚のSoCの横に二枚のRAMが直に取り付けられている。M1チップの[イメージ画像](https://www.apple.com/v/mac/m1/a/images/overview/chip__fffqz3ljssi2_large.jpg)ほど美しくはないが、それでもなんとかしてSoCとRAMを隣接させることに成功している。乱暴に言ってしまえば、このように各要素間の物理的距離が近ければ近いほど性能は高まりやすい。
なぜなら、データ伝達に使われる電気信号のスピードは一般に想像されているよりはるかに遅い光速の200分の1からだ。毎秒何億、何兆回もの計算処理を繰り返すCPUにとって数センチの物理的距離が発生させる遅延は決して無視できるものではない。
デスクトップマシンは巨大ゆえ潤沢な冷却リソースを持っているのでこの遅延を圧倒的な演算性能でねじ伏せることができるが、ラップトップやスマートフォンの狭い筐体ではすぐに茹で上がってしまい不可能だ。そのためなるべく省電力、低発熱なCPUの開発がこれまで要請されてきた背景がある。
**Apple M1の設計アプローチは歴史の蓄積がもたらしたARMアーキテクチャの低発熱性を活かして極限まで各要素間の距離を縮め、それによりメモリ性能やI/O性能を高めて実際には低い演算性能を底上げするというものだ。** 用途別に分けられた多コア構成のSoCも、単にARMカスタムと呼べないほど広く手が加えられており処理の効率化に一役買っているが、やはり高密度集積化によるところが大きい。このアプローチは既に各所で検証されているとおり、大半の処理において既存のCPUより優位な結果を示している。絶対的な演算性能が求められる分野では振るわない下記画像参照ものの、Appleが想定する顧客層からすればむしろ理想的な設計と言って差し支えない。
![](https://openbenchmarking.org/embed.php?i=2011204-FI-2011177FI02&sha=c97da777d729&p=2)
見方を変えると、どんな仕様変更にもついてくる忠実な顧客や既にiPhoneやiPadを通じて培われてたARMカスタムの設計ウハウがなければ、潤沢に予算を投下できず今回のような成果は決しておさめられなかったと言える。同じくARMカスタムを製造しているQualcommやSamsungもそのうちM1並に高性能なSoCを作ると思われるが、それをラップトップに搭載したところでプリインストールされるのはARM版のWindowsだ。ソフトウェア資源が乏しくなったWindowsを好んで使う者などそういるものではない。しばらくARM搭載マシンはAppleの天下が続くと見られる。
ところで、今回発表されたApple M1搭載のMacはいずれもRAMの最大が16GBまでとなっている。これは少なからず開発者の不興を買ったが、別にAppleは出し惜しみをしたわけではない。単にSoCと隣接するように配置できるRAMの枚数に限度があったからだ。かといってRAMの真横に置くとSoCとの物理的距離が余分に発生してしまい、その時にアクセスしたRAMの位置関係次第で性能が急激に悪化することになる。言うまでもなくそんな仕様はナンセンスである。
では、将来的にはどうなるのか。このままずっとApple M1搭載のMacはRAM16GBが上限なのかというと、もちろんそんなことはない。
![](https://www.researchgate.net/profile/Matthias_Jung2/publication/249553265/figure/fig1/AS:301808636448772@1448968194152/3D-DRAM-Architecture-true-vertical-channels.png)
**横に並べられないのであれば、縦に積めばよい。** 口で言うほど簡単ではないが、この手法はDRAMの微細化――つまり、メモリ1つあたりのサイズを小さくする技術的な限界を乗り越えるために新しく開発された。
横に並べるのと縦に積むのとではどちらが省スペースかつ物理的距離が短くなるかは考えるまでもない。もっともこれはこれで発熱の問題があるらしく、安定供給にはまだ多少の時間がかかりそうだ。
さて、では結論としてApple M1搭載のMacは買いなのか 答えは、ほとんどの人にとっては**イエス。** なんせ省電力かつ高性能で値段も安く、ブランド性にも優れた新製品だ。Windowsにこだわる理由が特になく、マイナーなソフトウェアにも依存していなければ十分検討に値する。
一方、企業が雇用しているプログラマに提供するマシンとしては、少なくとも現時点では**ノー**と言わざるをえない。現在、多くのデベロッパーがApple M1への対応を急いでいるが、仮にこれがわりあい早くうまくいったとしても、アプリケーションを実行するサーバにx64アーキテクチャのCPUが搭載されているうちは、結局、開発に使うマシンもx64で揃えることになると思われる。あえてハードウェア間に互換性のないマシンを使うメリットはない。
~~そして、サーバマシンの設計アプローチは前述したとおりARMアーキテクチャの本領とはまったく別であるから、データセンターなどの省電力を重視する分野では可能性を見込めるが、絶対的な演算性能でIntelやAMDのCPUを置き換えるほどには至らないだろう。~~
*[どうやらそうでもないらしい…。](https://developers.cyberagent.co.jp/blog/archives/27782/)技術トレンドの移り変わりが早すぎる。そういえば、かなり改造されているとはいえ[富岳もARMベースだった。](https://ascii.jp/elem/000/004/018/4018768/)自分の出した結論がこんなにすぐ覆されるとは思わなかった。*
もちろん、プログラマが個人的に買うぶんには既に諸条件を織り込み済みだろうから特に何の問題もない。Linuxカーネルの生みの親であるリーナス・トーバルズ氏も「macOSが乗っていることを除けばほぼ完璧」と[言っている](https://gigazine.net/news/20201124-linus-torvalds-linux-m1-mac/)そうだ。
たまには物理層の話をするのも面白い。

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@ -0,0 +1,59 @@
---
title: "Arch Linuxにインストーラが付属した"
date: 2021-04-03T11:50:56+09:00
draft: false
tags: ["tech","diary"]
---
**■2022年5月18日追記インストーラの更新に合わせて新しく記事を書き直したので、導入手順の説明が目当ての読者は[こちら](https://riq0h.jp/2022/05/18/094517/)を参照されたし。**
## エイプリルフールではない
2021年4月1日、Linux界隈が騒然となった。なんと**あの**Arch Linuxにインストーラが付属したのである。
>インストールメディアにインストーラが付属するようになりました
>2021-04-01 - Giancarlo Razzolini
インストールメディアにガイド付きのインストーラが含まれるようになりました。
このインストーラを使う場合のサポートについては (インストールガイドに基づく) デフォルトのインストール方法と他のインストール方法の関係とあまり変わりません。
インストーラを使ってインストールする場合にサポートを求めるときは、インストーラを使っていることを明示し、必要に応じて archinstall のログを提供するようにしてください。
引用元:[archlinux.jp](https://www.archlinux.jp/news/installation-medium-with-installer/)
狙いすましたかのような日付の報せに当然、誰もがエイプリルフールを疑った。しかし、インストーラの[archinstall](https://archlinux.org/packages/extra/any/archinstall/)は数日前からパッケージマネージャに登録されており、当該のリポジトリはさらに以前から存在していたことが判明する。
とても興味深い。かつてあれほど苦しめられたArch Linuxが一体どれだけ簡単にインストールできるようになったのか。せっかくの土日なので日記がてら簡単にインストールバトルガイド付きの内容を記録する。なお、このバトルはVirtualBox上で実行されているので、実機でのインストールの際は自身の状況に適宜置き換えて行われたし。
ただし、**他のOSとのデュアルブートを考えているユーザには注意点がある。** 件のインストーラは簡易的な作りなので単体ではパーティションを切ることができない。従って、これに関しては他のOS側で予めやっておく必要がある。やり方はググってくれ。
## 記録
UEFI環境BIOS環境ではインストーラを使用できないでArch Linuxをインストールメディアから立ち上げると、ローディング画面の後にカバか牛っぽい変な動物のアスキーアートが表示される。曰く、有線なら自動的にインターネットに接続されるが、無線の場合は追加の設定が必要とのこと。指示の通りにしよう。
![](/img/15.png)
無事にインターネットに接続されていれば、偉大なるコマンド`sudo pacman -Syu`を打つことが許される。更新後、おもむろに`archinstall`と打ち込みエンターキーを押下すれば、もはやバトルの勝利はほぼ確約されたようなものだ。中学生レベルの英語が怪しいと多少は苦労するかもしれない。
まず最初にキーボードのレイアウト設定を求められる。一覧に日本語はないが`?`でhelpを呼び出してから`jp`と入力するとサジェストされる。英語キーボードの場合は`us`を選択するべし。あえてバトルの難易度を上げたいなら他のレイアウトでも構わないが、少なくとも次のダウンロード先の指定は絶対に`japan`を選んだ方がよい。違う場所を選んでも無駄に時間がかかるだけで別に難易度は上がらない。
続いてインストール先のドライブを指定する。ハマりどころかあるとしたらここぐらいか。誤って使用中の領域に上書きしてしまうと当然そこに含まれるデータは抹消される。確定する前に最低三回は目を見開いて確認すること。ファイルシステムはこだわりがなければ`ext4`か`xfs`のどちらかになると思われる。両者とも多くのディストリビューションにデフォルトで採用されている。SSDなどの高速なドライブを使用しているならxfsの方が好ましいと聞く。暗号化の是非を訊かれるが、ホビーユースなら特に必須ではない。ホストネーム、rootパスワード、個人ユーザの設定を済ませるといよいよお待ちかねのデスクトップ環境選びに入る。
~~が、期待に反してなぜかごく限られた選択肢しか提示されない。i3やSwayはおろかCinnamonやXfceもない。いくら初心者を意識しているとはいえさすがにこれは何とかしてほしい。初手から好きなデスクトップ環境を選べることがArch Linuxの醍醐味の一つのはずだ。ここまでで面倒な設定はあらかた済んでいるので、この箇所だけ空欄のままskipして後から好きなものを導入する手もあるが、それでは元々の趣旨に反してしまっている気がしてならない。うーん、一点減点。~~
**■訂正。現在のバージョンではi3を含む多様なデスクトップ環境が提示される。**
次にグラフィックドライバを選択する。実機に適したものを選べばよい。追加のパッケージを指定できるが、デスクトップ環境とターミナルエミュレータが導入されていれば後から都合をつけられるのであまり考え込む必要はない。先の選択肢でなにがしかのデスクトップ環境を選んだ人は自動で紐付けられたユーティリティ類がすべてインストールされるため尚更困らない。手慣れたユーザにとっては完全に余計なお世話だが、初心者には適切な仕様なのかもしれない。どのみち気に食わなければいつでも消せる。
ネットワークインターフェイスの選択は個別指定に不安が残るようなら一番上が無難。また、タイムゾーンは日本国内にいるなら`Asia/Tokyo`と入力すれば問題ない。最後に、指定した項目をまとめたスクリプトが表示され、エンターキーを押すと実作業が開始される。もしやり直したければこの段階なら再起動で一からやり直せる。
これが何を意味するか。もはやArch Linuxのインストールは必ずしもバトルではない。荒野を征く強行軍ではなく、コンクリートで舗装され、街灯に照らされた道を歩くに等しくなってしまったということだ。インストールバトラーの地位はGentoo Linuxに明け渡された。
インストール完了後、ドライブからArch Linuxを起動できていれば導入したデスクトップ環境のログイン画面が表示される。以降はGUIでの環境構築なので特に困らないだろう。いや、むしろここからが一番楽しい局面と言っても過言ではない。
## まとめ
**Pros**
・とにかく簡単。ググる必要さえない(圧倒的利点)
**Cons**
・デュアルブートを望むユーザへの配慮がまだ不足している
・ブートローダは選べないsystemd-bootが導入される
こうして列挙していくと欠点ばかりが目立つようだが、インストール作業の易化具合は本当にすばらしく、難易度の高さから二の足を踏んでいたユーザにとってはかなり理想に近いインストーラに仕上がっていると感じた。これのおかげで移行する人が増えるのはまず間違いない。
さあ、次は君の番だ。コンピュータをいじる楽しみを共に分かち合おう。

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@ -0,0 +1,94 @@
---
title: "Blueskyの一ヶ月前史"
date: 2023-04-15T11:08:59+09:00
draft: false
tags: ['diary', 'tech']
---
Blueskyに登録して今日で一ヶ月と十日が経過した。といっても、iOS端末を持たない身分の僕に最初の十日はあってなかったようなものだ。今でこそ公式のWebクライアントがリリースされ、それを凌ぐ利便性を備えた非公式クライアントが群雄割拠しているが、当時はかろうじて投稿が行える程度に留まっていた。
やむをえず交流を諦めて排便記録を投稿していると徐々に各種クライアントの機能が充実してきて、じきにフォロワー欄を確認できる形になった。ありがたいことにもう数名からフォローを頂いている。とはいえフォロワー欄を確認できてもフォローボタンがまだ実装されていなかったため、仕方がなく僕は排便記録を続行した。
![](/img/186.png)
明くる日、ようやくフォローボタンが実装された頃にはなぜかフォロワー数が二十人近くに増えていた。そんなに僕の排便記録に需要があったのかと胸を打たれたのも束の間、どうやら日本語話者を全員フォローする方針の人たちがたくさんいたということでしかなかったらしい。折りよくまともに交流できる機能が整ってきた時期でもあり、そこで僕の排便記録は発展的解消を迎えた。
以降、Blueskyの人口増加に応じて様々なミームや共通の話題が生まれはじめた。二万人超のユーザ人口に達した今後はより局所的、多層的に流行が変化していくと思われるが、黎明期のコミュニティに特有の一体感もそれはそれで独特の風情がある。本稿では過ぎ去りしBlueskyの開闢をかいつまんで紹介したい。
## Nostrユーザによる開墾
Blueskyの勃興を語る上で欠かせないのはNostrユーザの存在である。NostrとはMastodonなどのActivityPub系実装とも、BlueskyのAT Protocol実装とも異なる、より無秩序な方式を採用した分散型SNSだ。Blueskyを立ち上げたTwitter創業者のジャック・ドーシーがなぜかNostrに常駐している関係柄、Blueskyの招待コードを真っ先に手に入れたのはNostrユーザだった。
Nostrは投稿やフォロー・フォロワーの保存性が仕組み上あまり重視されず、些細な手違いや障害で容易に全部消し飛ぶ代わりに最強の分散性を持つとされている。当然、そのようなピーキー極まるSNSの住民は電子の荒波を巧みにかき分けるデジタル益荒男であるから、新しいSNSとくれば飛びつかないわけがなかった。
僕はNostrを認知しつつも芋を引いた軟弱者なので当初は判らなかったが、順次フォロー返しして会話を眺めていると次第に彼らの素性がつかめてきた。そもそも日本語話者全フォローの奇習も、不安定な環境で日本人コミュニティを維持せんとするNostr精神の表れとのことだった。
したがって、黎明期におけるBlueskyの文化形成はNostrユーザの影響が色濃いと見られる。彼らは概してフレンドリーでLikeのみならずリプライにも積極的でありながら、必ずしも技術者ではない割に平均的なリテラシが高い。交流意欲と技術的関心を兼ね備えたユーザ層を初期に引っ張ってこられたのは相当に大きい。
かつて一世を風靡した音声SNSのClubhouseは初期のユーザ層を情報商材屋やインフルエンサーに占められたばかりに、サービスそのものの善悪とは無関係になんとなく胡散臭い雰囲気になってしまった。それが今のClubhouseの凋落ぶりと直接関係しているとは限らないが、いずれにせよ第一印象を損ねないに越した話はない。だが、出資しているとはいえジャック・ドーシーがNostrに引きこもってBluesky上に一切顔を出さないのは本当に意味が解らない。
## カードゲーム
Arch Linux JPコミュニティで僕にBlueskyの招待コードをくれたというより僕が勝手にかっさらった[@syui](https://twitter.com/syui__)さんの運営するカードゲームが人気を集めている。BOTアカウントに対して`/card`とリプライを送るとランダムにカードが与えられるのだ。カードには「CP」と呼ばれる戦闘力が記されており、`/card -b`とリプライするとユーザ同士で戦える。勝つと追加でカードが手に入る。
![](/img/189.png)
カードの取得と対戦は一日一回に限って実行できるため、毎晩零時を過ぎるとBluesky中のユーザが一斉にコマンドを唱和してカードバトルが催される状況がここのところ続いている。名実ともにBlueskyの覇権コンテンツと言っても過言ではない。僕もすでに何日か遊んでいて、一枚だけCP三桁の絵柄付きレアカードを[持っている。](https://card.syui.ai/riq0h)なんでも同じレアカードを三枚集めると郵送で送ってくれるらしい。マジか。
ちなみにこのカードに描かれているキャラクターには原作が存在していて、[@syui](https://twitter.com/syui__)さんの[ブログ](https://syui.ai/ai)で作品を読むことができる。登録したての新規ユーザは周りが突然BOTにリプライを送りまくる光景に大抵驚くが、こうした背景を知るやいなやその日のうちにカードを引きはじめるから面白い。そろそろ三枚揃えて物理カードを入手するカードマスターが現れてもおかしくない頃合いだ。
## 無限招待コード発行編
先週、既存ユーザに五枚の招待コードが配布された。今後は二週間ごとに一枚の間隔で配られるそうだ。ほーん、なるほど。僕はさっそくTwitterでFFの学生に招待コードを押し付けた。そこでまず二枚使ったので、残りは三枚になるはずだ。ところが、少し経つと招待コードの残り枚数が五枚に戻っていた。さらに何枚か配っても、やはり五枚に戻る。各所を賑わせた無限招待コード発行編の幕開けである。
どうも開発者は招待コードの増減ロジックを誤って設計したらしい。これ幸いと僕はかねてより親しみを寄せているvim-jpコミュニティにコードを貼りまくり、所持枚数が回復したら矢継ぎ早に貼り直す作業を実施した。結果、二十数名の訓練されしVimmerがBlueskyに解き放たれたようだった。
同様の配布祭りは至る場所で開催され、この異常事態が功を奏して日本人のユーザ人口が一挙に増加した。正直なところ広義のバグ利用に当たらなくもないので後ろめたさがなかったかと問われれば嘘になるが、アカウントのBANや招待の無効化はないだろうと見込んでいたのも事実に他ならない。
招待コード制を敷いている理由はモデレーションやサーバの負荷低減が挙げられるが、僕はもっぱら技術者か技術者肌の学生か、さもなければクリエイターにしか配っていないので前者の世話にはならない確証があった。また、後者も無限といっても招待コードが使用されなければ回復しない仕様上、人力では数十人単位に配るのがせいぜいだ。
{{<tweet 1643984009565982721>}}
そんなわけでたかをくくっていたのだが、案の定制裁らしい制裁はなく、前述の二週間に一度もらえる招待コードの供給が余計に使った枚数分だけ消滅するという、ほどほどに美味しいオチがついて本件は一件落着と相成った。つまり、二十枚くらい使った僕は元々持っていた五枚分を除くと半年間はもらえない計算だが、配りたい人にはだいたい配り終えたので特に悔いはない。聞いた話では五十枚以上配った猛者もいたとか。
## 迷惑ユーザの出現と対策
ユーザが増えてくれば好ましからざる隣人がやってくるのはおのずと避けられない。多分に漏れずBlueskyにも迷惑ユーザが現れた。僕は諍いが個人間で完結する分には異文化交流の一形態と捉えて善悪を判断しないたちだが、さすがに手当り次第に挑発を繰り返しているとなると話は変わってくる。
多くのユーザがミュート機能を使って彼を無視しようと試みるなか、公式Webクライアントのミュート機能では通知が完全に非表示にならない謎仕様が発覚する。内容は隠されるが「ミュートしているユーザがなんか言ってるよ」みたいな文言で通知が飛んでくるのだ。これでは大した意味がない。そして残念ながら、Blueskyにブロック機能は実装されていない。
そこで非公式Webクライアントの改修が急速に進み、いくつかのクライアントでは一日二日とかからないうちにミュートしたユーザの完璧な不可視化が達成された。「必要は発明の母」とはよく言ったもので、すごくポジティブに捉えるのなら迷惑ユーザをデバッガー代わりに利用せしめたと考えられる。
現在は多くが非公式Webクライアントを使っているため、おそらく件の迷惑ユーザは大半の日本人ユーザにとって今や不可視の存在と化しているだろう。彼は招待コードのクレクレ行為により大量のサブアカウントを保有しているゆえ油断は禁物だが、このままフェードアウトしてくれるのなら広義のストレステストに役立ったと言えるかもしれない。
## フェイクアカウントと独自ドメイン
先日、Mastodonの生みの親であるEugen Rochko氏を名乗るアカウントが「ActivityPubとAT Protocolを統合して相互通信できるようにする」といった趣旨の発言をして大騒動に発展した。発言から数分の間に数十回もリポストリツイートに相当され、さらにはMastodon上でも情報が拡散された。
しかし十数分も経つと次第にアカウントの真贋性に疑問を持つ声が目立ち、その数十分後にはこれはフェイクだろうとの見解が多勢を占める展開となった。約一時間後にはリポストの削除方法を巡って質問が飛び交い、騒動に気づいたBlueskyの開発者が声明を発表したことで辛くも本事件は事態の収拾を見た。誠に遺憾ながら、僕もまんまと釣られてしまった。
![](/img/191.jpg)
同時にBlueskyユーザたちが得た教訓は独自ドメインの重要性である。BlueskyはTwitterや他の分散型SNSと異なり、どこのサーバにいても自分のユーザIDを所有する独自ドメインに置き換える機能を持っている。これはそのドメインが他の用途ブログなどに使われていても関係なく、TXTレコードを引くだけで簡単に適用できる。
たとえば僕のBlueskyでのユーザ名は`@riq0h.jp`だが、これは本ブログのドメインとまったく同一だ。有名人、それもサービスの運用に影響を与えかねない高名な技術者ならば、独自ドメインをユーザIDに振るくらいやっていて然るべきとの認識が今回のフェイク事件を通じて強く印象付けられた。
Twitterなどの中央集権型のSNSは運営企業がユーザを認証するのだろうし、MastodonなどのActivityPub系実装なら個人インスタンスがユーザの証明になりうるのだろう。独自ドメインは前者と違って個人でも容易で、後者ほどには費用も手間もかからない点でちょうどいいと僕は感じている。
もちろん独自ドメインさえ設定されていれば手放しに信頼できるわけではないが、価値中立的なユーザ認証の第一歩としては悪くない。他のユーザもそれぞれ思うところがあったらしく、本事件を契機にBluesky上で未曾有のドメイン購入ブームが発生した。
将来的には独自ドメインの維持期間や運用実績でユーザの信頼性を測る実験があってもよさそうだ。僕のドメインは十二年以上の現役選手なので息を吸うたびに承認してほしい。
## Bluesky Meetup in Tokyo
僕は参加しなかったが、開発者の来日に合わせて銀座でミートアップが急遽催された。会場は非公式クライアントの[紹介スライド](https://speakerdeck.com/shinoharata/ri-ben-ren-kai-fa-zhe-gazhi-zuo-sitakuraiantonogoshao-jie)やAT Protocolに関する質疑応答で大いに盛り上がったらしい。Bluesky上でもテキストでの情報共有が断片的に行われ、それを読むだけでもずいぶんと学びが得られた。
{{<youtube dOAyiuOGAmY>}}
この速度感でオフラインイベントが組まれたのは単に開発者が来日していたからではなく、Twitterをはじめとするマイクロブログサービス全体に占める日本人人口の多さと、それに属するニューフェイスたるBlueskyへの期待感、イベント発起人たちのモチベーションがうまく噛み合った結果なのだろう。
蓋を開けてみれば非公式クライアント、ツール類のほとんどは日本人が開発していたようで、Blueskyの開発者にとっても日本人ユーザの高い熱量が伝わったイベントだったのではないかと思われる。かくいう僕もiOS端末を持っていない環境下で様々なツールを駆使したが、振り返ってみると確かにそのすべてが日本人有志の手によって作られていた。
もしかするとBlueskyの日本オフィスが設立された暁には、こうした意欲的な技術者の中からスカウトが行われることもありえるのかもしれない。OSS開発者はなにかと無償奉仕を求められがちだが、たまにはそういう現世利益と結びついた景気の良い話を聞いてみたいものだ。
## おわりに
AT Protocolは優れたポータビリティ性と分散性を持つ革新的なプロトコルに成長すると宣伝されているが、現状はまだ分散しておらずTwitterと比べて際立った優位性はない。むしろ公式を含めて各種クライアントの成熟が進んでいないぶん、お客様気分のユーザ体験は当面期待できない。Bluesky自体がAT Protocolの試供品との見立てもある。
昨今の不穏なTwitter情勢に煽られてBlueskyに希望を寄せる向きとは裏腹に、上記の前提を踏まえると本気の移住はまずもって時期尚早と言わざるをえない。とりわけ技術的な話題に関心のないユーザは一般開放されてからじっくり参加しても全然遅くはない。というのも、このような状況で決まって現れる「流れに乗り遅れるな」的な連中に釘を刺しておきたいからだ。
こういう手合いは先行者利益を過大に釣り上げることで、自身の影響力の嵩上げを狙っているに過ぎない。新しいSNSにとって潜在顧客の過剰な期待はかえって仇となる。くれぐれも招待コード欲しさに業者アカウントをフォローしたり、金銭と引き換えにする真似は控えて頂きたい。
本稿に綴った記述はBluesky特有の魅力でもなければWeb3の最先端とやらでもない。ちょっと気の早い人々が集まった空間で刹那に起きた出来事の話でしかない。BlueskyとAT Protocolの真価は望まれた機能が実装された先の未来にきっと存在していて、本稿の内容はその前史に留まるべきだからである。

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title: "Cloudflare Pagesの利点および導入手順"
date: 2021-08-07T13:20:24+09:00
draft: false
tags: ["tech"]
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本エントリではCloudflare Pagesの利点および導入手順を記す。
Hugoなどの静的サイトジェネレータでWebサイトを構築しているユーザには、その用途がもっぱら簡素な個人用ブログに限られることから、さほど制限を気にせずGitHub Pagesを利用する事例が多く見られる。事実としてこのアプローチにおよそ誤りはないが、そこはあえて好奇心を働かせて他のホスティングサービスも試してほしい。ちょっとした演習にもなるし、**なによりタダだ。**
今回、紹介する[Cloudflare Pages](https://pages.cloudflare.com)は今年の4月に正式版がリリースされたばかりのニューフェイス。競合他社より無料枠の制限が緩く、公表から約半年で既に大きな注目を集めている。さっそく主要3社のホスティングサービスと機能を比較してみよう。
## vs. GitHub Pages/Firebase Hosting
GitHub Pagesは言わずと知れた同社謹製のホスティングサービスである。業界では最古参かつ、大半のユーザがリポジトリをGitHubで管理しているおかげか選択肢に挙がりやすい。調べてみたら2008年からやってるらしい。
Firebase HostingはGoogle傘下のホスティングサービス。母体のFirebaseには豊富な機能が実装されており、GCPとの連携も簡単に行える。
**■転送量やストレージの制限が緩い**
GitHub PagesとFirebase Hostingは転送量やストレージの制限が厳しい。Cloudflare Pagesは無料にしてはかなり気前の良い仕様で提供してくれる。
**■自動デプロイが可能**
GitHub PagesかFirebase Hostingにコンテンツをデプロイするには、ローカルからCLIを操作するかGitHub Actionsを回すためのworkflowを書く必要がある。これはそこまで大した手間ではないが競合他社に一歩出遅れている印象は拭えない。Cloudflare PagesとNetlifyは一旦連携すれば自動的にデプロイされる。
**■商用利用が可能**
GitHub Pagesは商用での利用が行えないが、Cloudflare Pagesを含む競合他社では問題にならない。
## vs. Netlify
GitHub Pagesからの乗り換え先としてもっとも人気のあるホスティングサービス。設定項目が簡便で親切。フォームをほとんどポン付けで設置できるのはおそらくここだけ。
**■ページの表示が速い**
Netlifyは国内のCDNを無料枠向けに開放していないので表示速度が明らかに遅い。一方、Cloudflare PagesとFirebase Hostingはどちらも潤沢なCDNを抱えていることから速度面で優れる。
## その他
以上の機能差や他の違いをテーブルにまとめると下表の通りになる。
| 機能 | Cloudflare Pages | Firebase Hosting | Netlify | GitHub Pages |
| ---- | ---- | ---- | ---- | ---- |
| ビルド制限 | 500回/月 | - | 3回/分 | 10回/時 |
| 転送量 | 無制限 | 10GB/月 | 100GB/月 | 100GB/月 |
| ストレージ | 2万ファイル | 1GB | 100GB | 1GB |
| CI/CD | ○ | △(設定が必要) | ○ | △(設定が必要) |
| FaaS | ○ | ○ | ○ | × |
| 独自ドメイン | ○ | ○ | ○ | ○ |
| DNS管理 | ○ | × | ○ | × |
| SSL対応 | ○ | ○ | ○ | ○ |
| 表示速度 | ○ | ○ | △ | ○ |
| 商用利用 | ○ | ○ | ○ | × |
| サイト解析 | ○ | ○ | △(有料) | × |
| プレビュー | ○ | ○ | ○ | × |
| 無料の付加機能 | 画像圧縮/CMS | GCP連携 | フォーム/CMS | - |
こうして比較してみると、やはり後続なだけあってCloudflare Pagesの優秀さが目立つ。Netlifyに関してはフォームの設置を検討しないのであれば、Cloudflare Pagesより優先して採用すべき理由は特に見当たらない。ヘッドレスCMSとの連携はNetlifyの大きな利点だったが、つい昨日、[Deploy Hooks](https://blog.cloudflare.com/introducing-deploy-hooks-for-cloudflare-pages/)なる新機能が発表され、Cloudflare Pagesでもじきに同様の運用が行えるようになった。
Firebase Hostingもかつては速度面での優位性があったが、既に関連のWebサービスがFirebase上で構築されていて、部分的に静的サイトを要する案件でもなければあえて使うメリットはなさそうだ。Firebaseの機能はあまりにも膨大すぎるせいか、ブログ用途ではかえって煩雑さを招いている節が否めない。その点、Cloudflare Pagesの設定項目は上手く厳選されていると感じる。
したがって静的な個人ブログの運用という一点に絞ると、基本はGitHub Pagesで、コンテンツの規模やアクセス数に応じてCloudflare Pagesを検討する形が今後のデファクトスタンダードになると考えられる。もちろん、多少の手間を惜しまないのなら最初から後者を選択してもなんらデメリットはない。少なくともGitHub Pagesとの比較ではCloudflare Pagesは完全な上位互換と言える。
## 導入手順
Cloudflare Pagesの利点が示されたところで、導入方法の説明に移る。
![](/img/39.png)
CloudflareとGitHubの連携を済ませたあと、公開したいWebコンテンツが収められたリポジトリを指定する。
![](/img/40.png)
次にプロジェクト名とブランチを設定する。独自ドメインでの運用予定がなければ、ここで決めた文字列がURLの一部になる。一度運用をはじめてから手を加えるのはとても面倒なので、できる限り悔いの残らない名前にしなければならない。
![](/img/41.png)
続いてフレームワークの設定を行う。サブディレクトリの階層に倣ってパスを加えるとURLの形式を変えられる。例えば`posts`と書き足すとURLは`https://unkoburi.pages.dev/posts/:slug`のようになる。GitHub Pagesはデフォルトでこの形を採用している。
環境変数`HUGO_VERSION`はHugoを使用するなら必ず設定しておこう。変数なしで実行されるHugoのバージョンは非常に古く、最近のテーマだとおそらくビルドエラーを起こす可能性が高い。`0.86.0`は記事執筆時点における最新バージョン。
![](/img/42.png)
デプロイが完了するとすぐにアクセスできる。今回の例ではわりあい短い時間で完了しているが、Hugoで構築された一般的なWebサイトはおよそ2分強のビルド時間を要する。
ここまでで基本的なセットアップは以上となる。Cloudflareの会員登録やGitHubとの初回連携を除けば、GitHub Pagesと比べてもほとんど遜色ない手軽さを持つことが伝わったかと思う。
## 独自ドメインの設定
独自ドメインでWebページを運用しているとホスティングサービスの移行コストを格段に下げることができる。サーバを乗り換えてもURLが変わらないので、無用なリダイレクト作業に煩わされずに済むからだ。せっかく何もかも無料でやれる時代に金をかけるのは不合理かもしれないが、いま利用中のホスティングサービスが永久に稼働し続ける保証などどこにもない。長期的かつ盤石な運用を望むのなら独自ドメインの取得は依然として必須である。
トップレベルドメインの種類にこだわりがなければ[freenom](https://www.freenom.com/ja/index.html)から無料のドメインを取得する手もある。生涯に渡って無料とは限らないが、当面の間はそのまま使い倒せる。ちなみに、以降の説明にも同サービスで得たドメインを用いている。
![](/img/43.png)
まず、CloudflareのWebページからプロジェクトを選び、カスタムドメインの設定項目に移動する。
![](/img/44.png)
取得済みのドメインを入力し、プランを選択したらDNSの設定画面に移る。ただ独自ドメインを使いたいだけなら上記画像の様式に則ってCNAMEレコードを設置すれば問題ない。
![](/img/45.png)
あとは表示される手順に従ってネームサーバを順次書き換え、最初のカスタムドメインの設定ページで再びドメインを入力すると数時間ほどでアクティブ化される。
## 以下、ポエム
ベンダーロックインという言葉がある。これは特定の企業の製品やサービスに依存している状態を表す。GitHub PagesでWebサイトを運用することはまさしくそいつに自ら嵌まる行為に等しい。リポジトリも、CI/CDも、ホスティングもすべてGitHubのみに任せているのだから。手元に原版が残るとはいえ安全性には劣る。
そこへいくとホスティングサービスを競合他社に変えるという方策は、無料で手軽にできるわりになかなかの効力を発揮する。特に諸君らが極めて反社会的なコンテンツを発信したい場合、少しでもWebサイトの寿命を長持ちさせる上では有効な手段になりうる。
なぜなら、たとえGitHubの手によってアカウントが抹消されても閲覧可能なコンテンツはCloudflare Pagesの方に残るからだ。逆にCloudflareがWebサイトを削除しても今度はリポジトリが残る。いずれ両方とも消される運命だとしても、一遍にやられるよりは幾ばくか延命の余地が生まれる。残された時間で失われた片方の機能を補うサービスを持ってくるのはそんなに難しい話ではない。
こうした発想は反社会的なコンテンツをばらまく以外にも実務で役立つ時がある。上記の話を「冗長性の確保」や「単一障害点の排除」といったふうに言い換えれば、サービス停止の要因が異なるだけで実際にはほぼ同じ課題を解決しようとしていることが判る。そういう妄想力を糧に個人ブログを運用するのも存外楽しい。
また、分散性に優れた環境で運用されているWebコンテンツは検閲にも強いと言える。自分の書いた文章が検閲されるとは誰も事態に直面するまで本気で思わないだろうが、無料ブログやnoteの運営企業は些細な逸脱も許さず目敏く削除しにかかってくるのが今時の実情だ。
これは企業のブランドイメージを考慮すると致し方ない面もあるものの、表現が絶対に侵されない場所を無料で得るのはそれだけ難しいということを図らずも証明している。僕は今のところ反社会的な言説を書くつもりはない。しかし、反社会性の定義を定めるのはとどのつまり政府や大衆に他ならない。僕は自分の言い分がいつ反社会的と捉えられても決して検閲されない場所を持っておきたい。本ブログはそんな試みの一つでもある。
## 参考文献
[CloudFlare Pages, Netlify, Zeit, Github Pages, and Gitlab Pages. Where to host?](https://jace.pro/post/2020-12-17-cloudflare-pages-netlify-zeit-github-pages-and-gitlab-pages-where-to-host/)
[使用量と上限](https://firebase.google.com/docs/firestore/quotas?hl=ja#free-quota)
[GitHub Pagesについて](https://docs.github.com/ja/pages/getting-started-with-github-pages/about-github-pages#usage-limits)
[Netlify Pricing](https://www.netlify.com/pricing/)
[Static website hosting: who\'s fastest? AWS, Google, Firebase, Netlify or GitHub?](https://savjee.be/2017/10/Static-website-hosting-who-is-fastest/)

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title: "DeskMini X300で超小型静音PCを組んだ"
date: 2022-12-03T15:48:16+09:00
draft: false
tags: ['tech', 'diary']
---
![](/img/167.jpg)
遅れて顔を覗かせた物欲の秋は僕をニューマシンの購入へと駆り立てた。この記事は新しいPCで書いている。以前のPCはGPUこそぼちぼち高性能なモデルを積んでいたがGTX1070――現行製品のRTX3050と同性能対してCPUの方はSandy Bridge世代のCore i7 2600Kどまりと時代遅れ感が否めなかった。
俗に言う**Sandyおじさん**というやつだ。リッチなグラフィックのゲームをやらなくなって久しい僕にとっては、もはや無駄にでかくて音がうるさいアンバランスな性能のマシンでしかない。こいつをどうにかしたいと星に願い続けてずいぶん経った。
つまり僕がニューマシンに求める仕様とは、グラフィックス性能は最低限でもCPU性能がそこそこ高く、RAMやストレージのリソースも潤沢、**かつ超小型で静音**――といった具合になる。幸いにもそれを満たす構成案は即座に見つかった。
今時のCPU内蔵グラフィックスは大したもので、Valorantくらいのゲームなら4K解像度でも60fps程度は設定次第で難なく[出せてしまう。](https://www.youtube.com/watch?v=8Bj4rQ2PfyY)とりわけRyzen 5 5600Gはちょうど後続のアーキテクチャが発表されたこともあって底値に近い。昨年は35000円以上出さなければ買えなかったCPUが、今やほぼ半額の17000円台で手に入るのだ。
もっとも高価であろうCPUの価格がその辺りで収まってくれると、他のパーツを全部足しても合計金額はたかが知れている。なにより当時はブラックフライデーでもあった。以前のPCとディスプレイを友人に売って得た50000円を頭金にして、あと20000円も足せば1台組んでしまえるではないか……そんな具合に、購入計画はいたって首尾よく進んでいった。以下がそのパーツの内訳である。
## [CPURyzen 5 5600G](https://www.amd.com/ja/products/apu/amd-ryzen-5-5600g)
ブラックフライデー価格17979円。冒頭で軽く触れたZen3世代最後の内蔵グラフィックス強化版デスクトップCPU。6コア12スレッド。TDP65W。発売当初は円安と半導体不足が災いしてコスパ最悪の烙印を捺されていたものの、うってかわって現在では最強のコスパを誇ると言っても過言ではない。
そのCPU性能はPassMarkで20000スコア近くとApple M1 Maxに迫る勢いだ。ARMと比べるのは不適切かもしれないが、Mac miniやMac Studioもまた小型PCの代表格に推される製品なのでなんとなく比べたくなる。
## [ベアボーンキットASRock DeskMini X300](https://www.asrock.com/nettop/AMD/DeskMini%20X300%20Series/index.jp.asp)
![](/img/168.jpg)
ブラックフライデー価格22000円。こいつがPCケースとマザーボードと電源を兼ねる。それらがすべてくっついてくるから後はパーツを載せるだけで組み立てが完了するという按配だ。あまりにも楽に組めてしまったせいで内部の画像を撮るのを忘れてしまったほどだ。
単価はCPUより高いが、本来はそれぞれ個別に買わなければならないことを考えると安い。そのうえ最大辺が155mmと非常に小さく、まさに小型PCとしての要件を満たしている。オプションパーツを組み合わせるとWi-FiやBluetooth機能を付加したり光らせたりもできる。
## [ストレージ:キオクシア EXCERIA PLUS G2 SSD-CK1.0N3PG2/N](https://www.kioxia.com/ja-jp/personal/ssd/exceria-plus-g2-nvme-ssd.html)
ブラックフライデー価格9880円。容量はデュアルブート環境を見越して1TBのものを選択。本来はこれの下位モデルにする予定だったが意外に安く組めたおかげでグレードアップと相成った。2000円ぐらいしか価格が変わらない割に読み込み速度は3400MB/secと2倍もある。実際に体感できているかどうかは正直よく分からないが、OSがスリープ復帰並みの速度で立ち上がるようになった。PCIeは後方互換性を持つので数年後にPCIe4.0の環境に移行する際もこの性能なら十分使い回せるだろう。
## [RAMTeam SO-DIMM DDR4 3200MHz 16GB*2](https://www.amazon.co.jp/gp/product/B08X9ZWND2/)
ブラックフライデー価格11880円。PCIeと違って残念ながらDDR SDRAMに後方互換性はない。どのみち買い替えになるならと一番安い製品を選択した。保証内容がしっかりしていれば特にこだわりはない。強いて挙げるとDeskMini X300は超小型ゆえラップトップ用のSO-DIMM規格でなければいけなかった。RAMの容量は今時の開発手法を考慮するとやはり32GBは欲しい。
## [オプションUSB2.0増設ケーブル](https://www.yodobashi.com/product/100000001005267602/)
僕はUSB Type-Aポートが少ないPCが嫌いだ。DeskMini X300は標準だと3つしか備わっていない。しかしこのパーツのおかげでUSB2.0のType-Aポートをさらに2つ生やすことができる。マウスとキーボードで2つ、DACで1つ、マイクで1つと最低でも4つ使うので合計5つに増えるのはとても心強い。空いた前面のポートはUSBメモリやジョイパッド用としてありがたく活用させていただこう。
## [オプション2Noctua NH-L9a-AM4](https://www.dospara.co.jp/5shopping/detail_parts.php?bg=1&br=95&sbr=282&mkr=528&ic=459294&lf=0)
![](/img/169.jpg)
CPUクーラー。超静音を実現するためにはここへの投資が必要不可欠だった。5000円以上かかったが言うだけのことはあって真の静寂が保たれる。上の画像を見て分かる通りなにげに高級感もすごい。ある意味でもっとも効果を実感できたパーツかもしれない。冷却性能も通常時で40〜45℃、ゲーム中でも最高で65℃、ベンチマークを回してようやく85℃と小型静音クーラーながらかなりの優等生ぶりだ。
## 総評
僕がグラフィックス性能を持て余していたというのは気のせいではなかった。実際なにも困っていない。逆にハイエンドNVMe SSDの恩恵やi7 2600K比で3倍以上に高速化したCPUの性能を実感させられる場面の方が多い。**例えば、Vimの起動速度がしれっと50ms前後まで改善されたりもした。**
繰り返しになるが本当にまったく稼働音もしないし、今のところ良いことしかない。今回の構成はどれも一世代前の組み合わせとはいえ、総額で70000円を切る圧倒的コスパを踏まえると実にすばらしい買い物をしたと思う。

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@ -0,0 +1,23 @@
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title: "Discordは早漏野郎"
date: 2020-12-05T18:10:59+09:00
draft: false
tags: ["tech","diary"]
---
本日の朝方、いつものようにArch Linuxを起動すると唐突にDiscordが手動アップデートを要求してきた。わざわざ圧縮ファイルをダウンロードし、任意のディレクトリ下に展開せよということだ。毎朝、習慣的に行っているyay -SyuにDiscordのアップデートは含まれていなかったので、よほど急に行われた更新だったのだろう。
通常、Linuxにはアプリケーションパッケージの導入から更新、削除までを一括で管理する仕組みが備わっている。これをパッケージ管理システムと言う。macOSにも同じ仕組みがあり、これはHomebrewと呼ばれるがGUIアプリケーションを管理する文化はないと思われる。
一方、Windowsではほとんどのアプリケーションが個別にアップデート機能を持ち、それぞれの都合で更新を行うことが多い。macOSのApp Storeのようなものがもっと普及していればCLIに不慣れなユーザも気軽にパッケージを一元管理化できるはずだが、現状、Windowsのアプリストアは閑古鳥が鳴いている。
問題は、この蛮習がLinuxに移植されたアプリケーションにも伝播していることだ。Linuxユーザは基本的にみんな何らかのパッケージ管理システムを利用しているので手動アップデートをあまり快く思っていない。後々、アップデートの内容が管理システムの側に登録された時に、既に手動で更新していても何も問題が起こらなければいいのだが、こうした例外的なやり方がコンフリクトや種々の障害の種を育むことは明らかである。
最も効率的な折衷案はパッケージ管理システムがくだんのアップデートを提供するまで更新を延期させてくれることだ。もちろん、管理システムにアップデートを一元化して勝手にあれこれ要求しなければもっといい。
**だが、Discordはどちらもしなかった。起動すらさせてくれなかった。**
Arch Linuxは数あるディストリビューションの中でも最速の更新頻度を持つパッケージ管理システムを備えている。おそらく、このアップデートが提供されるまでに一日とかからないだろう。しかしDiscordはそれすら待たずに**ただちに手動アップデートせよ、さもなければ去れ、** と言ってきたのだ。別に激怒するほどではないが地味にいらついた。結局、今はWebから接続している。
**結論Discordは早漏野郎**
ところで、無料ブログサービスは特定の単語特に猥褻なものの使用を禁じているところが少なくない。しかし、このブログはローカルで書かれ、GitHubのリポジトリにデータが同期され、いくつかのスクリプトが走った後にFirebase上で構築されているので本質的に検閲されるおそれはない。実際にそうなる可能性があるとは思わないが、取り組みとしては面白い。

522
content/post/Entering.md Normal file
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@ -0,0 +1,522 @@
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title: "Entering"
date: 2023-04-30T23:21:25+09:00
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tags: ['novel']
---
 あれは保健の時間のことだった。はっきりと覚えている。ただでさえ学年合同授業はちょっとした珍事だ。ひんやりとするアルミ天板の大きな机が並ぶ総合室で、年老いた先生がのろのろと聴診器を配っていた。聴診器は隣り合った子と二人一組の割り当てらしく、僕は不用意にくるくる回る円形のスツールを両手でがっちりと抑えながら相手の子と向き合った。その子はさらなる慎重さでスツールの回転機構への不信任を露わにして、一旦立ちあがってから姿勢を変えて座り直した。
 先生の話によると、今日は心臓の動きを観察する授業とのことだった。告げられたページをめくろうと机の上に手を伸ばすと、相手の子が「ううん、私が」と制して教科書を開いて見せてくれた。ポップでコミカルな外枠のデザインとは裏腹に、聴診器をあてがわれた人体図の写実感は少々不気味ですらある。目をそらすと相手の子の名札が視界に入った。千佳ちゃんと言うようだった。
「うえーい」
 遠くの方でガキ大将のバイソンがスツールを高速回転させて、取り巻きとはしゃぐ大声が聞こえた。さっそく先生はのそっと腰を浮かせて注意に向かったが、このぶんだと彼の場所までたどり着く前に定年退職を迎えそうな印象を受けた。案の定、バイソンの悪ふざけを皮切りに授業の治安が乱れて、ちらほらと雑談を交わしたり立ち歩いたりする子たちが現れはじめた。
「ねえ、どっちから先に聴く?」
 一方、千佳ちゃんはあくまで授業に倣う姿勢を崩さず、僕も連中と一緒になって騒ぐ道理などみじんもないと思っていたので「ウーン、じゃあ僕が」と答えた。親切にも彼女が広げてくれていたページの図解を頼りに聴診器を身に着けようとすると、そこへつかつかと足早に別の子が歩いてきた。
 唇を一文字にぎゅっと結んで迫るその子は、あたかも決闘を挑むかのような面持ちで千佳ちゃんに短く言った。
「どいて」
 これは明らかなる命令である。お願いではない。突然降って湧いた上下関係に千佳ちゃんが動揺していると、その子はやや鋭角な目元をさらに釣りあげてキッと睨んだ。じきに雌雄が決したらしい――二人とも女の子だけども――千佳ちゃんはおずおずと立ちあがって脇にのき、代わりに件の子が勢いよくどすんと座った。
 改めて正面から見ると、僕はこの子のことをだんだん思い出してきた。肩までかかる長いまっすぐな髪の毛に足を組んだ乱暴な姿勢の取り合わせは千佳ちゃんとはなにもかも対照的だ。間違いなくこの子は回転式スツールをわざわざ手で抑えたりしないし、立って自分の姿勢を変えたりもしない。
「ほら、さっさと聴診器をつけて」
 そんな彼女と出会ったのは、などと頭の片隅で回想を並走させながら、僕は鞭で打つようなぴしゃりとした声に急かされて胸を張る彼女に聴診器をあてがった。すると、耳に伝わってきたのは意外にもか細い心臓の鼓動だった。驚いて目を上げると尊大そうな一文字の口元が映ったが、やはり心拍は弱々しかった。
「ちょっと、なんとか言ったらどうなの」
 片耳で微かな鼓動、もう片方の耳で鞭で打つような声を聴いた刹那に、僕はどうしようもなく形容しがたい感情に侵された。答えあぐねているうちにその子は「あーもういい!」と座った時と同じ勢いで立ちあがり、ずかずかと遠ざかっていった。まだ僕はなんらかの未知の感情に侵襲された感覚を味わっていて、我に返ったのは千佳ちゃんに「ねえ、大丈夫?」と声をかけられた時だった。
 ほどなくして千佳ちゃんの心臓の音も聴くと、たちまち力強い和太鼓のごとき響鳴が頭蓋を満たした。目をやると彼女は鮮やかな緑のスカートの両端を手でぎゅっと掴んで、恥ずかしげに笑みを浮かべている。なぜだか僕はこの瞬間、千佳ちゃんに対する関心が薄れていくのを感じた。
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 僕の家の近くにはグレーの公衆電話ボックスがある。田んぼに囲まれた直線道路の先を行った、山あいのあぜ道にぽつんとそれは佇んでいる。以前は宅地を造成する計画があったみたいで、田んぼと山しかないこの辺りにも重機や人が出たり入ったりしていたのを誰もが目にしていた。しかしある年を境にぱたんと沙汰止みになって、重機も人も消えて、宅地造成の話も消えた。なぜか町役場勤めの父さんだけは喜んでいた。でも、中途半端に削られた山とグレーの公衆電話ボックスは今も残されている。
 登山用のリュックにいつもねじ込まれているのは父さんがブームにかこつけて長期ローンで買ったートパソコンだ。グレーの公衆電話機と似た色をしていて、七十五メガヘルツのPentiumと八メガバイトのメモリが搭載されている。我が家にテレビとビデオデッキ以外の機械が闖入するのは前例がなく、ゲームボーイもスーパーファミコンも許されていなかった僕はいたく興味をそそられた。
 父さんが重箱のようにどっしりとしたそれの電源を入れると、がりがりとうなるパソコンが画面いっぱいに揺れ動く旗の絵柄を表示した。僕はこれに見覚えがあった。その頃はテレビで頻繁にこの旗を見たものだった。父さんは「おーっ、こいつがウインドーズか」とたどたどしい発音で叫んだ。しかしここが父さんのテンションの頂点だった。
 最初は頑として僕に手を出させまいとしていた父さんの方針はパソコン操作からの敗走が濃厚になるにつれて次第に鳴りを潜め、やがて氷解した。売りに行って嫌な噂が立つことを恐れた父さんは僕にパソコンを許してくれたのだ。さっそく無我夢中でいじり倒して、まずはキーボードの手前のボールを転がすと画面上の矢印が動くということ、小さな絵の上でボタンを押すとなにかが起こるという現象の理解に努めた。
 そのうちに父さんは職場から節約のために持ち帰ってくる使いさしのテレホンカードに、古いパソコン雑誌を帯同するようになった。「父さんには解らんかったが」と自嘲気味に笑って雑誌を放り投げてよこし、母さんから受けとった発泡酒のプルタブを開ける様子は後光が差して見えた。この時ばかりは父さんが神に見えた。
 与えられたパソコン雑誌はどれもかなり古い号だったが僕には聖なる経典に等しかった。そこには僕の知りたい話がなんでも載っていた。翌年には学校での話題はニンテンドー64でもちきりになり、さらに数年後にはゲームボーイカラーを持ち込む子が続出して全校集会が開かれたが、僕はどっちも欲しがらなかった。欲しいのはインターネットだった。
 父さんが持ち帰るどんなパソコン雑誌にもその単語はしかと記されていた。漢字を覚えて雑誌を読むのにさほど不自由しなくなってきた年頃には、頭の中で膨れあがったインターネット像はまるで大銀河のようであり、テレビを通してしか見たことがない東京やアメリカでもあった。要するにそこが世界の中心で、すべてで、尊敬すべき先人たちがいて、自分ひとりが取り残されているに違いないという観念に囚われていた。
 にも拘らず、いつ打診しても父さんはてんで取りつく島がなかった。「金がかかる」の一言で僕の願いは退けられ、しゅわしゅわと鳴る発泡酒とそれをごくごくと飲み干す父さんの喉仏を恨めしげに睨むしかなかった。だが、本棚の片隅に使いさしのテレホンカードを溜める専用の箱ができて、パソコン雑誌の束が塔を形成するに至った頃、僕はついに見つけた。
**『ISDN公衆電話』**
 グレーの公衆電話ボックスにはそう刻まれていた。ある日「たまには外で遊べ」の一言で家を追い出された僕は、行くあてもなくバイソンたちの行動範囲を避けて街とは反対方向の窪んだ山を目指した。陽の光を照り返す田んぼの水面が僕の退屈を見計らったように断ち切れて急勾配のあぜ道へと変化した先に、それはあった。あぜ道から外れて雑木林の始端に佇む、その異様な色合いの公衆電話ボックスに僕はたちまち吸い寄せられた。
 ISDNのアルファベット四文字はすでに頭に染み込んでいた。ISDNはNTT。インターネットはNTT。パソコン雑誌でも繰り返し出てきたし、テレビのコマーシャルでも繰り返し聞かされたフレーズだ。兎にも角にも明確なのはISDNとやらがあればインターネットができるという事実だった。僕は全速力で引き返してートパソコンを取りに戻った。
 三キログラムもあるノートパソコンの角が背中に突き刺さり、バンドが両肩にめりこむ辛さもインターネットができる興奮の前には気にならなかった。財布にぎっしり詰めた使いさしのテレホンカードは他にも大量に箱の中にある。どうせ補充されるから気づかれる心配もない。万が一気づかれたとしても、大した咎めは受けないだろう。父さんはお金がかからないぶんには大抵のことに寛容だった。
 この日も半ドンの土曜授業を終えるやいなやダッシュで家に帰り五分で昼食を済ませて、そそくさと家を出てきた。このところ積極的に外出する僕の姿に母さんは目に見えて安心しきっていたが、僕の行き先は街ではなく、バイソンたちがたむろしているゲーセンでもなく、スーパーストリートファイターⅡでもなかった。リュックの中には大銀河を征く宇宙船があった。
 果たしてグレーの公衆電話ボックスはいつも通りの場所に佇んでいた。透明なプラスチックのドアを手前に引いて入室すると、そこはもう僕だけの世界だった。夏の鬱陶しい湿った空気も、種類も名前もどうでもいい虫の鳴き声も即座に遮断されて、グレーの箱の中ではグレーのノートパソコンとグレーの電話機が世界を代表していた。
 僕はリュックからノートパソコンを神妙に引き出して膝の上に置いた。電話ボックスの側面に背中を預けて床に座り、次にモジュラーケーブルを取り出した。ノートパソコンと電話機の「端末接続口」と記された穴にジャックを差し込むと、財布に詰まったテレホンカードの一枚目を電話機に与えた。
 ノートパソコンを起動する。がりがりがりとハードディスクのうなり声が電話ボックス内に響いた。虫の音は遮断されているので、もっぱらこれが僕の世界の音ということになる。あとはせいぜいキーボードのタイピング音くらいだ。四年近くも訓練を積んだおかげでキーボードの操作には不自由しない。機械音に満たされた空間は僕に高揚と平穏を一挙にもたらした。
 デスクトップに並ぶアイコンの中から「インターネット接続」のショートカットをダブルクリックすると、登録ダイヤルが発信されてグレーの電話機に特有の大きなモノクロディスプレイがテレホンカードの使用を通知した。一分ごとにお金がかかるが、大量のテレホンカードにものを言わせれば好きなだけインターネットができる。
 接続確立の文字が示されたと同時に僕は手慣れた動作で「e」のアイコンをダブルクリックした。「インターネットエクスプローラー」と題されたこのアイコンこそが僕を大銀河へと運んでくれる。毎秒六十四キロビットの情報の波がモジュラーケーブルに押し寄せて、ディスプレイにヤフーのホームページを上から下に――走査線のようにゆっくりと――描き出した。
 このようにして僕は毎週土日、世間に忘れられた山あいの箱の中にいながら街よりも東京よりもアメリカよりも広大で緻密な世界と繋がっている。
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 とはいえ、時間は無駄にできない。このノートパソコンは約二時間でバッテリー切れを起こす。リュックの底に押し入れたパソコン雑誌を床にぶちまけて、予め付箋を貼っておいた紙面を開いた。インターネット通のマニアたちが選んだウェブページ集のコーナーだ。どの雑誌のどの号にも必ずこの手のコーナーがある。言うまでもなく、たったの二時間で全雑誌のウェブページを見て回るのは不可能に近い。一つの号のぶんを確認するのにさえ事足りない。
 だが、この解決策もパソコン雑誌がくれた。フリーウェアの紹介欄にウェブページを簡単にまるごと保存できるソフトが載っていたのだ。五回目の接続の際に僕はこのソフトをインターネット経由で入手した。それからというもの情報収集速度は飛躍的に高まった。電話ボックスでは保存に専念して、閲覧は家で電源を繋げてじっくりとやればいい。要領を掴んだ頃には翌週まで退屈しない量のウェブページを集めることができた。今日もそのつもりだ。まる一週間も経ったらお気に入りのウェブページだけでもかなり更新されている。
 しかし直後、聞こえてくるはずのない外界の音が聞こえてきた気がして僕は手を止めた。この世界にはハードディスクとキーボードの音しか存在しないはずだ。再びこつん、こつんと音が背後で鳴った。気のせいではない。振り返ると、バイソンと二人の取り巻きが遠くから石を投げつけている様子が見えた。
 瞬間、僕の心臓は恐怖でぎゅっと縮みあがった。嘘だろ、なんであいつらがこんなところにいるんだ。
 取り巻きを一旦抑えたバイソンは野球投手のモーションで大仰に振りかぶると、おそらくはさっきより巨大な石を直線状に投げてきた。なにしろ今度は「こつん」なんてものではなかった。ばーんという轟音とともに振動が電話ボックスじゅうにびりびりと伝わって、危うく僕は姿勢を崩してノートパソコンを放り出しかけた。
 肩を怒らせてのしのしと近づいてくるバイソンはいかにも格好の獲物を見つけたと言いたげな表情で、わざとらしく両手をメガホンの形にして叫んだ。プラスチックの壁を容易に突き破る怒声だった。
「おーい、出てこいよ!」
 出だしは友達に呼びかける感じの朗らかさだが、すぐ後に「十秒で出てこないと前歯全部折るぞ」と続き、間延びした音程のカウントダウンが開始された。取り巻きたちもげらげらと笑いながら唱和する。否が応もなく、僕はノートパソコンをモジュラーケーブルが繋がったまま閉じて、リュックに突っ込んで隠した。街よりも東京よりも広いグレーの公衆電話ボックスの中の世界には、鍵がついていない。意地を張って籠城を決め込んでも僕を引きずり出すのにそう手間はかからない。
 這うような前のめりの姿勢で電話ボックスから出ると、途端にむわっとした夏の空気と虫の鳴き声と地獄のカウントダウンが一斉に襲いかかってきて、僕はめまいを覚えた。「出た、出たからやめてくれよ」そう言うのが精一杯だった。なにをやめてほしいか具体的な言及は避けた。殴るなと言えば殴られるし、壊すなと言えば壊されるに決まっているからだ。
「田宮、お前こんなとこでなにしてんだ?」
 左右に取り巻きを引き連れてバイソンが眼前に立ちはだかった。二十センチもの身長差はどうあがいてもこちらになすすべがないことを思い知らせてくれる。
「あー……ちょっと休んでて」
 僕は曖昧に答えた。正直に答えても事態が好転する余地はない。
「ふーん、お前、こんな山とかに来るようなやつだったっけ」
 それはこっちのセリフだ。なんでいつもみたいにゲーセンにいないんだ。僕の周りを取り囲む三人の顔ぶれはどれも気味の悪い笑みを浮かべている。
「う、梅村君こそどうしたの、ゲーセン――」
 視界がぐわっと揺れ動いた。遅れて腹部に鋭い痛みを感じて、ああ僕はやっぱり殴られたのだなと悟った。地面に両膝をついて苦しんでいると頭上から罵声が降り注いだ。
「ばっかじゃねえのお前、なにも知らないのかよ」
「あーバイソン怒った」
「ストⅡの代わりにこいつ殴るわ」
 と、言う割に次いで繰り出されたのは蹴りだった。耳に靴の側面をぶつけられた衝撃で僕は地面に打ち倒された。だがこの時に考えていたのは痛いとか怖いとかではなく――いや痛いし怖くもあったが――せめて手早く気を済ませてどこかに行ってくれたらインターネットの続きができるのに、という願望だった。僕はさらなる追撃に備えて亀のように丸まった。様々な実体験を経て、徹底した防御がもっともバイソンたちの害意を削ぐと分かったのだ。
 ところが追撃は来なかった。代わりに三人のどなり声が聞こえる。僕に対してではない。手の込んだ真似をして防御を解かせてから顔面に靴先をめりこませる算段なのでは、と疑ったが、いよいよ場違いな女の子の声が聞こえるに至って、僕は亀の構えを解除した。地面に転がった視界の先では、紺のスカートを履いた女の子が、三人、いや二人と相対している光景が広がっていた。どういうわけか一人は顔を抑えて地面に倒れている。手の隙間からは血が漏れていた。
「ぶっ殺すぞ」
 取り巻きの片割れが食ってかかるとその子はためらいなくグーで顔面を殴りつけた。パーならともかくグーで人を殴る女の子は今まで見たことがなかった。ほのかな勝算を感じさせたのも束の間、残るはバイソンだ。どんなに強くてもバイソンに勝てる小学生がいるとは到底考えられなかった。街の中学生とタイマンを張って勝ったと噂されているほどだ。
 戦闘態勢をとったバイソンと対峙したその子は、じきに僕と同様の見解に達したようだった。さっと身を翻すと、あぜ道を引き返して街の方角に撤退していった。
「あっ! おい、待てこら!」
 まさか無言で逃げの一手を打たれるとは予想していなかったのか、バイソンも遅れて後を追いかけた。彼に続いて鼻血を垂らした取り巻き二人もよろよろと場を去り、奇しくも望まれた平穏が戻ってきた。
 シャツについた汚れを手で払おうとしたら、土埃が繊維に染みてかえって跡が残った。腹も頭もずきずきと痛いし、なにもかも最悪だったが、それでも身を起こしてグレーの公衆電話ボックスの中に舞い戻ると安堵感に包まれた。どうであれインターネットは守られたのだ。僕は土埃でノートパソコンを汚さないように両手の汚れをシャツで入念に拭き取ってから、大銀河の探索を再開した。
 それから一時間ほど経ち、バッテリーの残量に意識が傾いた辺りでどん、どん、とプラスチックの壁を叩く音がした。僕は今しがた味わった苦しみを瞬時に連想して身体をこわばらせたが、そうっと目をやった先に立っていたのはバイソンではなく取り巻きを殴り倒した女の子だった。さっきのはノックのつもりだったらしい。だが、目が合った途端に電話ボックスのドアを遠慮なく引き開けて、一文字に締めた唇もがばっと開いた。
「なんであんたまだここにいるの? あいつらに見つかったら今度こそ――」
 ずばずばとまくしたてる口調は彼女がノートパソコンを捉えたと同時に止まった。
「……それ、ノートパソコンじゃん」
「……うん、まあ」
 不慣れな状況のせいか図らずも無愛想な返事をしてしまった。しかし彼女は追加の質問をせずに、電話機に繋がったモジュラーケーブルを見ただけで合点を得たらしかった。
「へえ、こんなふうにインターネットって使えたんだ」
 彼女はさらっと言ってのけると、グレーの公衆電話ボックスを見回した。
 僕は「インターネット」という単語が自分以外の子どもから発せられたのをこの時初めて聞いた。それを発したのが僕のような子ではなく、男のいじめっ子をグーで殴り倒す女の子ときたものだから二重の驚きだった。あっけにとられて彼女を凝視していると表情を読まれたのか「あたしがインターネットを知ってちゃ悪いっていうの?」と口を尖らせた。
「悪くない、悪くないけど……他に知っている子なんてどこにもいなかったから」
「それはまあ、私もそうかも」
 山あいにふうっ、と風が吹き込んで床に散乱したパソコン雑誌がぱらぱらとめくれた。すると、彼女はまるで風に負けたかのようにふらついて、電話ボックスにもたれかかる格好になった。
「あたし、家に帰らなきゃ」
 さっきまでの勝ち気な声色とはうってかわって小さい声でそうつぶやくと、僕の返事を待たずに彼女は踵を返した。
 そう、あの彼女だ。僕の頭の片隅で並走していた回想が終了した頃にはもうとっくに保健の学年合同授業は終わっていて、身体は総合室からに教室に、授業は算数に変わっていた。それでも彼女のか細い心臓の震えと、鞭で打つような鋭い声のコントラストはしっかりと脳裏に焼きついていた。
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 それからというもの、ことあるごとに彼女は僕を虐げるようになった。たとえば、今日は交換日記用のノートをひったくられた。「交換日記ってこんな感じのこと書くんだ」と感心しきりに言う彼女だが、ここは六年二組の教室で彼女は一組だ。他クラス侵入は星の数ほどもある校則違反のうちで下の下から上の上に重いとされている。
 というのも、担任の先生によって注意の度合いが大幅に異なるからだ。怒り狂って違反者を定規で叩きのめす恐ろしい先生もいれば、めそめそと泣き出して後の授業を放棄する先生もいる。後者の方はおのずと自習時間に振り替えられるため、当事者でなければむしろウェルカムだったりする。幸か不幸か六学年の担任の先生はいずれも下の下派で、そんな校則などもともと存在していないかのように振る舞っていた。だから僕が交換日記用のノートを奪われてあわあわしていても、彼女を止めてくれる人はどこにもいない。
 いや、いないことはなかった。たった今、千佳ちゃんを筆頭に模範的な子たちが勇気を振り絞って「あのう、ここは二組だよ?」と迂遠に注意してくれた。だが、彼女がひと睨みすると結局はみんな黙らされた。
 ただ、恩恵も一つあった。取り巻きたちが近寄ってこない。大柄で不良のバイソンはなにもしなくても先生が目を光らせているので、学校では特になにもしてこない。片や、力強さはなくても狡猾さに長けた取り巻き連中は厄介だった。すれ違いざまにすねを蹴ったり、バケツに汲んだ水をひっかけてくるのが彼らのやり口だった。
 しかしそんな彼らも彼女が僕にまとわりついていると手の出しようがない。実際、一度いつの間にか逆にすねを蹴り返して撃退していたらしい。おかげで取り巻きたちはずいぶんおとなしくなった。でもこれはよく考えると、ハイエナに追われなくなった代わりにライオンに捕まったような状況だ。
 この日もどんな目に遭わされるのかと恐れをなしていたら、出し抜けに彼女はこう言った。
「ねえ、この交換日記って誰と書いてるの」
 普通、交換相手を周知しないのが交換日記なんだけどな、とうっすら反駁が頭をよぎったが強いて押し殺した。余計に会話を往復してもどのみち白状させられるのは変わらない。
「千佳ちゃんだよ」
 僕は答えた。たしか保健の授業の後で誘われたのだった。間が悪く回想中だったので空返事をしているうちに交換日記をはじめることになってしまった。数回のやり取りを経て判ったのは、千佳ちゃんの書く日記は非常に長い。なんとなく同じ量の文章を書かなければいけない気がしてそこそこ苦労している。
 眼前の彼女はこんな事情を知ってか知らずか、ふっ、と口元を半月状に曲げて「あんた、そんなふうに女の子を呼んだりしてるからいじめられるんじゃないの、ちゃんとか言って」となじった。
「でもまあいいや、あたしともやろう」
 そう言うと、交換日記用ノートのページをびりびりと破り、机の上に置いてあった僕のボールペンを手にとってなにかを書きだした。ここ一週間で彼女の仕打ちにはだいぶ慣れたつもりだったが、交換日記を他人のノートを破って開始する人がいるとは驚きだった。
「ん」
 しかし、僕の鼻先に突き出された紙片は日本語で綴られていなかった。おまじないのように必ずアルファベット四文字が頭にくっついて、それからコロン、続いてスラッシュが二つ。そして、ダブリューが三つ、かなり高い頻度で付いている。その後にようやく任意の英数字が続く。末尾はドットジェーピーだったり、ドットコムだったりする。これは、URLだ。
「これは?」
「URLに決まってるでしょ」
「いや、分かるけど……交換日記をするんじゃないの?」
 彼女は短くせせら笑った。
「こんなのでちんたらやるなんて馬鹿馬鹿しいでしょ。えーと、夕方は家庭教師が来るから……そのあとご飯を食べて……そうね、午後八時にそこにアクセスして」
「八時!? 今日の? 無理だよ!」
 僕は思わず叫んだ。
「なんで? ああ、あれは家族共用のパソコン?」
 文脈からすると「あれ」とは電話ボックスで見たノートパソコンのことだろう。だけども、彼女の誤解はもっと根が深い。まず第一に家族共用ではなく勝手に持ち出しているだけだし、第二に、家にインターネット回線は通っていない。第三に、いくらなんでも夜遅くにグレーの公衆電話ボックスに行ってインターネットをするのは叱られるどころでは済まない。たとえ彼女に脅されたって無理なものは無理だ。インターネットに接続できる日は土日の昼間しかない。
 ……という事情を説明すると、彼女は妙に納得したふうにうなずいた。
「ふうん、そういうキャラとかじゃなかったんだあれ」
「そういうキャラってどういうキャラ?」
「教室の隅でこれみよがしに難しい本を読むような感じ」
「そんなつもりは……そもそもあの辺には誰も人なんて来たことなかったんだよ。ましてやあいつらが来るなんてありえなかった。いつもゲーセンに入り浸ってるのに」
 そう、あの日以来、またぞろバイソンたちが襲ってくるのではと怯えて僕は先週インターネットをやっていない。彼らが山あいに来た時に僕の姿がなければ、まさか毎週いるとは思われないだろう。二週間前に保存したウェブページをちまちまと控えめに閲覧するのは、なんだか父さんがタバコを半分に切って一本分のつもりで吸っている様子と被って嫌な気持ちになる。でもしょうがない。母さんは口うるさく言っている。「不景気だから貯金しないと」とは言うものの、僕の「貯金」はもはやからっけつだ。
「知らないの いま先生とかPTAの人とかが街を見回ってるんだよ。特にゲーセンは親と一緒じゃないと小学生は禁止だって」
 知らなかった。ストⅡの全キャラクリアが間に合ってよかった。ゲーム機を許されていない僕がやれるゲームといったら街のゲーセンにある限られたゲームぐらいだ。以前は一体いつになったらⅢに入れ替わるのかとやきもきしていたが、今となっては割とどうでもいい。だから事実上の「ゲーセン禁止」を寝耳に水の形で知らされても思いのほかショックは少なかった。
 予鈴が鳴ると、彼女は紙片を押しつけて新しい日時を指定した。
「じゃあ、日曜日の午後一時にアクセスして。来なかったら殺すから」
 押しつけられた紙片を裏返すと千佳ちゃんの書いた日記が載っている部分だった。表の方にはでかでかとURLが書かれているため、僕のぶんの日記を書くこともできない。しかも、紙片は一枚まるごとではなく斜めに袈裟切りで破られていた。僕は千佳ちゃんの日記をまだ読んでいない。
 帰ったらセロテープでページをくっつけて日記を読んで、URLを書き写して、元のを修正液で消して、日記を書いて……。週末は、バイソンたちに出くわさないことを祈りつつ彼女の言う通りにしなきゃならない。想像するだけでもどっと気疲れした。
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 日曜日、僕は所定の荷物に加えて大きなダンボールの板をたくさん持っていった。思うに、あの件は遠目から見つかってしまったのが失敗だったのだ。バイソンたちは僕が公衆電話ボックスでなにをしていたのかなんて知る由もない。パソコンとテレビの見分けが付くのかも怪しい。ましてやインターネットなど理解できないだろう。電話ボックスはとりたてて彼らの関心を惹いたりはしない。壊したり倒したりするには頑丈すぎるからだ。
 そこで僕は黒ゴシックペンで塗りつぶしたダンボールの板を電話ボックスの四面に貼りつけることにした。こんなところで本当に公衆電話が必要になる人なんてどうせいない。僕は僕の世界を守らなくちゃいけない。空腹を装って十一時前には昼食を済ませ、僕は約束よりずっと早い時間に現地へ赴いた。ダンボール板をハサミで適当なサイズに切り取り、電話ボックスの面に沿う形にガムテープで貼りつけた。外から眺めるとただでさえグレーの公衆電話ボックスが陰に溶け込んだように見えて、自分の世界がより強固になった気がした。
 改造された電話ボックスの中は虫の音のみならず陽の光も遮断されて、まさしく宇宙らしい風情を醸し出している。もっと早くこうするべきだったと自画自賛もほどほどに所定の作業をはじめた。約束の時間にはまだ三十分もある……。お気に入りのウェブページに絞れば一週間分の分量を確保するのは難しくない。
 つつがなく蒐集を終えたところで僕は例のURLを打ち込んだ。時刻は午後一時の五分前。軽快にキーボードを叩いて最後の一文字を埋めて、なんだかんだで期待を抱きつつエンターキーを強く押した。強引に約束させられたとはいえウェブページには違いない。がりがりがりとハードディスクがうなり、上から下に向かって鈍い青色のウェブページが描写されていった。
 だが、そのページには空白のテキストボックスと「更新」と書かれたボタン以外にはなにも情報が載っていなかった。ページ一面が凪いだ海みたいに閑散としている。
 もしかするとURLの入力を誤ったのかもしれない。以前にも、ミスタイプをしたのに違うページに偶然繋がってしまって気づくのに遅れたことがある。URLを書き写した紙片をディスプレイ脇に寄せて、インターネットエクスプローラーのアドレス欄と見比べる。間違いはなかった。
 とすると、このウェブページの唯一の仕掛けは「更新」ボタンのみという話になる。彼女は僕を騙したのだろうか。これまでの嗜虐的な態度を踏まえると大いにありえる。
 手持ち無沙汰を紛らわせたくて「更新」ボタンをクリックすると、青い背景に日本語の文字列が追加された。
**『梨花 さんが入室しました』**
 入室?
 いまいち要領を得ない文言だが、先のボタンを押下してウェブページの情報が書き換わったのは事実だった。僕はもう一回「更新」をクリックした。すると、やはりウェブページが書き換わって、新たな文字列が上に追加された。
梨花>見えてる?
 僕は理解した。これは会話を行う機能を持ったウェブページだ。この発言の主は彼女に違いない。でも、どうすればいいのか解らなかった。僕はまた「更新」ボタンを押した。
梨花>見えてるなら右上のテキストボックスに名前を入れて「入室」ボタンを押して
 はたとウェブページの右上に目をやると、確かにそこには小さい別のテキストボックスと「入室」ボタンが設けられていた。あまり考慮せず僕は本名を入れて、指示通りに「入室」した。
**『誠 さんが入室しました』**
 同時にウェブページが書き換わって、僕自身の入室が示された。彼女の発言も追加されている。
梨花>更新ボタンの横のテキストボックスに文字を入れてエンターを押すと話せる
 僕はさっそく返事を入力した。
誠>こう?
 相手の回答をしばらく待ったが、表示されない。どうしたのかと思ったが、そういえば「更新」ボタンを押していなかった。慌てて押すと一気に三回分のメッセージが追加された。
梨花>そう
梨花>なんかおかしいところとかない?
梨花>おーい
 僕は急いで返事を書いた。
誠>ごめん更新ボタンを押してなかった
誠>たぶんないと思う
梨花>そのうち自動で更新するようにしたい
 彼女の発言に僕はいささか疑問を覚えた。ウェブページの利用者としての発言ではなかったからだ。
誠>もしかして君が作ったの?
 返事はすぐに来た。
梨花うん。これ、CGIチャットっていうの
 目から鱗が落ちた。僕にとってインターネットやウェブページというのは情報を与えてくれる場所だった。僕は一方的に受け取る側でしかなかった。そういう場所を作っている人たちは神々のごとき存在で――まさかその立場になれるなんて考えもしなかった。名門大学を卒業した偉くて賢い人がやっているものだと思い込んでいた。そんなとてつもないことを、同い年の女の子がやってのけているのだ。
誠>どうやって作ったの?
 我ながら間抜けすぎる質問だったが、他に言い表しようがなかった。
梨花Perlで作った。レンタルの方が高機能なんだけど、それだと面白くなくて
 僕には意味の解らない単語が次々と出てくる。
 学ぶ機会自体はあった。「CGI」も「Perl」もパソコン雑誌で見た覚えのある単語だ。横着して読み飛ばしていなければ、彼女の会話についていけたのかもしれない。
誠>そういえば、梨花ちゃんって言うんだね名前
 苦し紛れに僕は話をそらした。
梨花>あんた名前も知らずに話してたの?
誠>人の名前覚えるの苦手で
梨花>どうでもいいけどちゃんはやめて
 それから色々な話をした。彼女が言う「Flash Player」というソフトウェアをインストールして指定されたウェブページに行くと、描画が済むまでに何分もかかったが――なんと画像が動いていた。つまりこれは、動画だ。僕はインターネットで動画を観ているのだ。
 パソコン雑誌に出てくる動画といえばもっぱらCD-ROM付録の形態をとっていたが、このートパソコンにはCDを読み取る装置が搭載されていなかった。その上、父さんがくれるパソコン雑誌に付録が入っていたことは一度もない。父さんに古雑誌を譲ってくれている誰かは、きっと付録が目当てなのだろう。
誠>こんなのパソコン雑誌でも見たことないや
梨花>ようやくまともなバージョンが出たばかりだから。日本語版の制作ソフトもまだ発売されていないはず
 彼女の得意げな顔がディスプレイを通して浮かんでくるようだった。
 チャットは毎回、僕のノートパソコンがバッテリー切れを予告するタイミングでお開きとなった。それでも僕たちは毎週末の決まった時間、わずか二時間にも満たない中でそれぞれの大銀河を共有した。まるで遠く離れた星系から出発した宇宙船同士が出会ったように、広大な宇宙の全貌を探るべく互いに星図を描きこんだ。
 二百五十六色のディスプレイに映るフォントの粒立ちが見える。ドットの一つ一つに宇宙の砂塵を感じる。その砂塵の一つ一つが礫岩や小惑星群を構成している……。
 僕は一生このままが良かった。初めて気持ちの通じ合う友達ができた気がした。
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 その日は突然やってきた。担任の先生が普段の調子で帰りの会を早じまいさせようとしたところ、がらがらと教室の引き戸が開いて別の先生が入ってきた。ずんぐりとした体型に似合わず、黒板を引っ掻いたような甲高い声が特徴の風紀指導担当教員だ。不意の闖入者に担任の先生も少々驚いた様子だったが、すぐに彼女が持ち前の声で要件を高らかに伝えた。
「本日は風紀指導について、古井さんからとても重要なお話があるそうです。皆さん静かに聞きましょう」
 キーッキーッとした音が総体としては明瞭に日本語の意味を持つのは今もって不思議な感覚だ。言われるまでもなく教室全体に逆らいがたい重圧が立ちこめた。
 担任の先生が遠慮がちに言った。
「あのう、今日はクラブ活動もありますし、わたくしも詳細を伺っていないので後日というわけには……」
 指導教員のかける黒縁メガネがぎらっと光った感じがした。さらに一オクターブ高い声が、空気ごと周囲を威圧せしめる。
「ことは急を要するのです。そもそもこんなことになったのはあなたの指導不足ではないのですか」
 先生が先生に叱られている! 子どもの目にも両者の主従関係が本能的に理解できた。一転、教員はにっこりと笑顔を振りまいて「では、古井さん、どうぞ起立してお話してくださいな」と結んだ。実質、教室での実権を簒奪された担任の先生はうろたえるばかりだった。
 指名された千佳ちゃんがすっと立ちあがった。総合室でのもじもじした態度が嘘みたいに決意が全身に張り詰めていた。
「ここ最近、六年生の校則違反には目に余るところがあります。下級生の模範となるべき最上級生の私たちには特にあってはならないことです」
 持って回った話しぶりから、千佳ちゃんの演説が即興ではなく事前の準備を経たものであることがうがかえた。
「まず一つ目は先月に決められたゲームセンターの利用制限ですが、先生やPTA役員の方々にお骨折り頂いているにもかかわらず、今でもご両親の同伴なく立ち寄っている子たちがいます。たとえば、私たち二組では梶くんと尾野くん」
 名指しされた二人にクラスメイト全員の視線が集まった。二人ともバイソンの取り巻きだ。どうやらあの後も目を盗んでゲーセンに忍び込んでいたらしい。うん、うんと深くうなずく指導教員をよそに、取り巻きの二人は抗議の声をがなりたてた。
「そんなこと言われても、親とゲーセンなんて行けっかよ」
「俺の親は土日働いてんだよ」
 しかし千佳ちゃんは凶暴な二人相手に一歩も引かず、さらに強い口調で宣言した。
「あなたたちの行いはルール違反です。先生とクラスメイトの皆さんに謝って、固く更生を誓ってください」
「は? いやだし!」
「なんで謝んなきゃいけねーんだよ! お前に関係ねーだろ!」
 取り巻きたちは声を揃えてぎゃーぎゃーと抵抗した。このままでは二人して千佳ちゃんに掴みかかりかねないと一触即発の雰囲気に場が包まれたところで、待ってましたと言わんばかりに指導教員が割って入った。
「はーっ、いいですか梶さん、尾野さん。あなたがたがそうやってわがままを言っていると、クラスメイトの皆さんの時間を浪費することになるのですよ。浪費というのは無駄遣いのことです。無駄遣いはよくありませんよね?」
 剣山のごとく突き刺さる声を前に二人はたじろいだが、まだ抵抗の意志は消えていない。すると、教員はとんでもないことを言い出した。
「お二人が心の底から反省して、真摯に謝るまでは本日の帰りの会を終わることはできません。いいのですか、あなたがたはそれで」
 えーっと教室じゅうから大声があがった。口々に、帰ったら遊ぼうと思ってたのに、とか、じゃああいつん家でロクヨンできないじゃん、とか、塾が、クラブが、といった不平不満が噴出した。それらの声に被せるように指導教員が声を張った。
「でも仕方がありませんよね? お二人が謝らないのであれば、これはもう六年二組の連帯責任ということです。皆さんもお二人の罪を見過ごした罰を受けなければなりません。それが社会なのです」
 たちまち場の空気が凍った――そして、取り巻き二人に対する視線が興味本位から、ゆっくりと、しかし加速的に、敵意へと変遷していく過程が感じとれた。
 クラスメイトの中から誰かがぼそりと「謝れよ」と言った。「謝ればいいじゃん」とさらにもう一人。趨勢は決定づけられた。二人への謝罪要求は波紋を打つように徐々に広がり、やがて糾弾の大波を象って氾濫した。
**「あーやまれ! あーやまれ!」**
 さしものバイソンの尖兵も、これにはひとたまりもない。バイソンは別のクラスにいて、彼らは孤立無援だった。多勢に無勢だ。二人は顔を青ざめさせながらきょろきょろと視線を泳がせて、それから互いに顔を見合わせた。そうして二人の口から、ぼそぼそと謝罪めいた文言が出るまでにもう十五分近くが経過していた。だが、指導教員は恍惚とした表情でなおも二人を追い詰めた。
「わたくしは真摯に、と言いました。真摯というのは、真心を込める、本気で、という意味です。今のお二人の謝罪は真心がこもっていましたか? わたくしにはそうは見えません」
 結局、教員がそのガマのような顔をうっとりと紅潮させて「いいでしょう」と認めるまで、取り巻きの二人は教室じゅうの冷たい視線を浴びながら何十回と謝罪をやり直しさせられた。そのうちにどちらともなく涙を流しはじめて、途中から謝罪の声は嗚咽に上書きされ、動物じみた慟哭に等しい様相を呈していた。しかし指導教員はむしろ満足したようだった。
「お二人はこれでよく反省したと思います。皆さんもお二人を許してあげてくださいね」
 率直に言って、僕は割といい気分だった。心底ざまあみろと思った。散々、僕を痛めつけてきた二人がズボンの裾を掴んで、大粒の涙を流しながら頭を垂れる様を見るのは大いに溜飲が下がった。なんなら来週辺りにもう一回やってもらっても全然構わないぐらいだった。
「それからもう一つ、話さなければならないことがあります」
 千佳ちゃんがそう言うと再び教室がざわめいた。ようやく二人を謝らせて解放されると喜んでいたのに、まだ話は終わっていなかったのだ。
「他クラスへの侵入は、皆さんの教科書や私物を適切に管理保全するためには極力避けられなければなりません」
 そこですうっ、と千佳ちゃんは深く息を吸い込んだ。
「ですが、ここ最近、二組に何度も侵入している子がいます」
 千佳ちゃんが指導教員に浅くお辞儀をすると、教員はずんぐりした体を左右に揺らしながら引き戸に向かって歩き、扉を開けて「入りなさい」と告げた。すると、他でもない梨花ちゃんが仏頂面で教室に入ってきた。
「一組の堺梨花さんは私の記録によると、一ヶ月の間に計十三回も二組に侵入しています。おそらく本当はもっとでしょう」
 梨花ちゃんのライオンを彷彿させる眼光が鋭く千佳ちゃんを捉えた。だが、二組全員の衆人環視に晒され、指導教員までもが真横に控えている状況では彼女の威圧はさしたる効果を持ちえなかった。
「そして現に……堺さんの他クラス侵入によって被害を受けている子がいます」
 直後、まったく予想だにしていなかった事態が起こった。千佳ちゃんの顔が僕に向けられ、つられてクラスメイトの視線も僕の方に向いたのだ。いきなりコロッセウムの観客席から、闘技場に投げ出されたような戦慄に襲われた。
「田宮くんはノートを堺さんに破られていました。他にも、脅されたりしていて……。他の子たちも怖がっています」
 クラスメイトが次々と「私も見た」、「田宮くんかわいそう」と声をあげはじめた。僕に注がれる視線は同情で、梨花ちゃんに向けられているのは先ほどの二人と同じ敵意だった。彼女は二組の構成員に手を出した外敵と見なされたのだ。当の本人もうつむきがちに黙りこくっている。
「こういう時は本人の意見も訊くべきじゃないかしら?」
 教員の「助言」に応じて、千佳ちゃんは僕の方に身体ごと向き直って言った。
「ねっ、田宮くん、メーワクだったよね。堺さんにノートを破られたりして。そうでしょ?」
「僕は……」
「田宮さん、発言する時は起立しましょう」
 指導教員の有無を言わさぬ指示に身体が勝手に動いた。以前、低学年の担任だった頃は定規で子どもを殴りまくっていた恐るべき相手に、わずかでも抗ったと気取られることは避けたかった。
「僕は――」
 起立して改めて口を開いたものの、なにを言うべきか検討がつかなかった。ートを破られたのは、むろん、迷惑と言わざるをえない。彼女の振る舞いは理不尽極まる。でも、あの日、グレーの公衆電話ボックスの前で危機に瀕していた僕を、結果的に救ったのは梨花ちゃんなのだ。CGIチャットを通じてFlash Playerや他の様々な情報を教えてくれたのも彼女だ。
 しかし、そうした背景について説明する能力を僕は持っていなかった。ありのままに言えばたとえいじめっ子が相手だとしても暴力は悪い、となりかねない。なにより恐ろしいのは、これらが「メーワク」じゃないとしたら、他クラス侵入の罪科は彼女のみならず僕自身にも降りかかってくることだ。友達を誘って招き入れたと言っているに等しい。
 脇から首筋から、手のひらから、冷や汗がだらだらと垂れてきた。もし、そうなったら僕もみんなの前で謝らせられるのだろうか? あの愚かな取り巻きの二人と同じように、僕も嗚咽を漏らして情けなく涙を流す醜態を晒すのだろうか?
 そんなの絶対に嫌だ。僕はなにも悪いことはしていない。そんな目に遭わなければならない道理は、取り巻き連中や梨花ちゃんにはあっても僕には一つもない。僕は僕の世界を守らなくちゃいけない……。
 教室じゅうの視線が僕に集中していた。梨花ちゃんも僕を見ていた。表情は平坦そのもので感情をうかがい知ることはできない。
「――メー、ワク、でした……。もう、やってほしく、ないと、思います」
 がくがくと震える口を懸命にこじ開けながら僕は意見を表明した。ただ、目は誰とも合わせなかった。合わせたくなかった。言っている最中も、言い終わって着席してからも僕の視線は常に空中を漂っていて、黒板の上に架けられた時計とか、その横に掲げられた標語とかをふらふらと眺めていた。
 千佳ちゃんの勝ち誇ったような声が耳に届いた。
「堺さんは田宮くんに謝るべきだと思います」
 指導教員がとどめを刺した。
「その通りです。堺さん?」
 僕は耳を塞ぎたかった。へりくだる彼女の姿なんて見たくなかった。その状況を決定づけたのが僕自身だというのも認めたくなかった。今すぐここから消えてグレーの公衆電話ボックスに逃げ込みたかった。
 ところが、僕の悪い予感に反して梨花ちゃんの鞭を打つような声は教室じゅうにくっきりと響きわたった。
「田宮くん、ならびに六年二組の皆さん、このたびはご迷惑をおかけして大変申し訳ありませんでした。以後は身勝手な行動を慎み、更生を果たし、二度と同じ過ちを繰り返さないよう努めます」
 声量、抑揚、文言といい、そのどれもが小学生に期待されうる謝罪を大幅に上回る質感だった。恐る恐る目をやると、彼女は背をきっちり直角に曲げて深々とお辞儀をしていた。このあまりにも完璧な謝罪には、さすがの指導教員も一度で満足した。拍手もつくほどだった。
「いいでしょう、いいでしょう、実にすばらしい謝罪だったと思います。この点については皆さんも見習うべきところがありますね。では、田宮さん、これでよろしいですね?」
 僕は目線を時計に合わせながら、喉元を震わせて「はい」という応答を絞り出した。謝られてこんなにも惨めになったことはなかった。
 指導教員が教室を後にした頃には僕の気はすっかり変わっていた。いつもは向きを揃えて入れる教科書やノート類を雑にランドセルに突っ込んで、急ぎ彼女の行方を追った。彼女は謝罪が終わってすぐに帰らされたが、まだそんなに時間は経っていない。一組の教室を覗き込むと、いた。とっくにひと気が失せた一組の教室で一人、取り残されたように帰り支度を進めている。
「梨花ちゃん!」
 僕は教室の外から叫んだ。彼女の肩がびくりと震えたが、振り向きはしなかった。相変わらず手を止めずに帰り支度を進めている。かまわず一組の教室に足を踏み入れた。これで僕も他クラス侵入だが、もうどうだってよかった。彼女の誤解を解く方がよっぽど大事だった。
「梨花ちゃん、あの……」
 目の前までたどり着いて呼び止めると、すっと彼女が顔をあげた。ライオンのような鋭い視線ではなかった。いかなる形容も装飾もふさわしくない無味乾燥な視線――本当にただ目が合っているだけ、といった具合の目つきが僕を凍てつかせた。
「他クラス侵入だよ、出てって」
 彼女の声は過去に聞いたどの声よりも静かだった。けれども、僕にとっては今までのどんな仕打ちよりもはるかに気持ちを重くさせた。架空の錘に心臓が押し潰されそうだった。
「あの場ではああするしかなかったんだ、でも」
「出てって。また告げ口されたくないから」
「誤解だ。僕はなにも」
 彼女はふう、とため息をついてランドセルを背負った。帰り支度が済んだらしい。
「じゃあいいよ。あたしが出ていく」
 ロングの髪の毛がなびく早歩きで彼女はさっと教室を出ていった。僕はすがるように後を追いかけた。
「待って、待ってよ!」
 廊下に出て、階段の手前まで来たところで僕は痺れを切らして梨花ちゃんの手を掴んだ。だが、僕ごときの力で彼女を止めることは叶わなかった。彼女はすぐさま手を振り払うと、逆に僕を両手で突き飛ばした。倒されて尻もちをついたまま仰ぎ見ると、彼女は激しい運動をした直後のように呼吸を荒らげていた。
「もう、二度と関わらないで。チャットにも来なくていいから」
 語気を強めてそう言うと、幾ばくか緩慢な動きで階段を降りていき、やがて姿が見えなくなった。そこまで徹底的に絶交を突きつけてきた相手をさらに追う勇気はなかった。
「大丈夫?」
 よろめきながら立ちあがると、背後から聞き覚えのある声がした。振り返ると千佳ちゃんが心配そうな顔をして立っていた。僕が「うん、まあ」と応えて、現に外傷のない様子を確かめると、ぱっと柔らかな笑みを浮かべた。
「よかった。……ねえ、堺さんって、怖いね。でももう大丈夫。先生もしっかり見張ってくれるって言ってたから。二度と関わらなくて済むよ、きっと」
 その言葉でついさっきの梨花ちゃんによる絶交宣言が脳裏にリフレインされた。目の前の千佳ちゃんをまじまじと見て、僕はだんだん怒りが湧いてくるのを感じた。その感情を認めた途端に、千佳ちゃんのすべてが憎たらしく思えてきた。丁寧に整えられた二つ結びの髪型も、前髪に差しているヘアピンも、鮮やかな緑のスカートも、どんな大人をも味方につけそうな丸みを帯びた目と顔も、なにもかもが憎たらしかった。
「あのさ、もう、交換日記やめよう」
「えっ」
 僕は背中のランドセルを肩に回して開き、中から交換日記用のノートを取り出して彼女に押しつけた。
「別に興味なかったんだ、最初から」
 それだけ言い残すと、僕は千佳ちゃんから顔をそらして階段を駆け下りた。幸いにも追いかけてくることはなかった。下駄箱で上履きを履き替え、校門を通り過ぎ、歩いて、田んぼの連なりが視界いっぱいに広がると、ついに僕の心は均衡を失ってぐちゃぐちゃになった。
 どう考えても八つ当たりだ。女の子に嫌われた腹いせに、別の女の子をわざと嫌った。街でも東京でもアメリカでも、インターネットの大銀河でも僕より最低最悪なやつは見つからないんじゃないかと思った。
 僕はなに一つ悪くないはずだった。ノートも破っていないし、暴力も振るっていないし、告げ口もしていない。交換日記だってこっちから誘ったわけじゃないし、いつやめようと勝手だ。そうとも、僕は悪くない。
 でも、僕は一つも悪くないけど、全部間違えた。なにもかも間違えた。夏の陽の光に晒された直線の道を歩きながら、僕はわんわん泣いた。今は宇宙船なんかよりもタイムマシンが欲しかった。
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 週末までの数日、梨花ちゃんは学校に来なかった。いつ一組の教室を覗いても彼女の座席は虚空が埋めていた。それでも間の悪さに賭けて、幾度となく授業中にトイレに行くふりをして教室を見に行ったが、やはりいない。同じ間の悪さでも、あの後にたまたま病気にかかったなどという可能性を信じる気にはなれなかった。
 土日は二日続けて大雨だった。インターネットをしたくても雨が降っていては外出できない。電話ボックスの中に入ってしまえば関係ないが、行くまでの間にリュックが雨水に濡れて浸水したら大変だ。パソコン雑誌にも、コップの水がかかっただけで何十万もする自慢のパソコンがお陀仏になった、という失敗談とともに家財保険の広告が載っていた。僕の父さんがそんな保険に入っているわけもなく、パソコンを壊したら残るのは長期ローンの支払いだけだ。そして二度とパソコンもインターネットもできなくなる。
 だが、日曜日の昼食時に差し掛かるといつもの約束の時間が迫っていることを思い出した。日曜日の午後一時。梨花ちゃんは「来なくていい」と言ったが、僕はどうしても今日こそ行かなければいけない気がした。居間の窓に張りついてざあざあと降りしきる雨脚を見ていると、母さんが昼食を持ってきながら訝しんだ。
「朝から外ばかり見て……ここのところしょっちゅう出かけているけどそんなに気に入った場所でもあるの? 今日はよしときなさい」
「うん、でも、今日は行かないと」
「いつもどこに行っているの?」
 山あいに置かれたグレーの公衆電話ボックスに父さんのノートパソコンとテレホンカードを持ち出してインターネットをしている、などと言えるはずもなかった。
「あー、ちょっとね、石を探しているんだ。あそこの山に、変わった色の石が埋まってて……あー、それで、雨の方が掘りやすい」
 自分でもびっくりするでたらめが口からひねり出された。「あそこ」と言って指を差した方向に山はない。母さんは不審そうに僕の顔を見つめていたが、ややあって一言だけ言った。
「……まあ、いいけど、かっぱを着ていきなさいね」
 想像上の冒険少年に擬態した甲斐があったのか、それとも見抜かれた上で黙認されたのか判らないが、とにかく僕は昼食を摂ったが早いかリュックに所定の荷物を詰め込んで準備を進めた。パソコン雑誌の塔からあまり面白くなかった号を抜き取って、ノートパソコンの天板と底面を覆う形にした。これで多少は浸水対策になるはずだ。リュックそのものをかっぱが覆っているし、なんとかなるだろう。
 折りよく、外に出る頃には雨脚が弱まって小雨くらいになっていた。しとしとと田んぼの水面に降り積もる無色透明の雨粒は、土と混ざり合ってみるみるうちに濁り気を増していく。左右の田んぼから溢れ出た泥水が直線の道を茶色く染めあげた。道路があぜ道に変わると路面はますますひどくなり、ほとんど土の中を歩いている感覚に囚われた。
 太ももまで丈がある長靴の大部分が泥に汚れたところで、グレーの公衆電話ボックスにたどり着いた。雨はもう止んでいた。内側に貼られたダンボール板の遮蔽は変わらず、外側のプラスチックの表面が雨で濡れて水滴がこびりついている。
 中に足を踏み入れようとして、考え直した。僕の世界を泥で汚したくない。やむをえずダンボール板の一部をちぎって床に置き、そこに脱いだ長靴を置いた。
 濡れたかっぱを電話ボックスの内側から外に向かって脱いで、水分を入念に払ってから折りたたんだ。そうしてから電話機本体と金具の隙間に差し込んでおいた。次にインターネット接続の準備に取り掛かる。微かに抱いていた心配はどうやら杞憂だったらしく、ノートパソコンはもちろんパソコン雑誌も全然濡れていなかった。いつも通りに電源を入れて、モジュラーケーブルを接続して、電話機にテレホンカードを読み取らせた。
 彼女のCGIチャットはとっくにブックマークしてある。ハードディスクのうなり声とともに描画されたチャット画面は前回となにも変わっていない。履歴を読む限りでは僕たちは仲良しに見える。
 僕はせかせかとキーボードを叩いて「入室」ボタンを押した。タスクバーの時刻表示は午後一時ちょうどを示していた。
**『誠 さんが入室しました』**
誠>来てる?
誠>君は来ないでって言ってたけど
誠>どうしても誤解を解きたくて
 三連続で会話をタイピングした。でも、打ち込んですぐに発言を取り消したくなった。これでは前と同じだ。
誠>ごめん
誠>誤解じゃないや
誠>僕は悪くないと思ってた
誠>だから周りに合わせちゃったんだ
 言いたいことはたくさんあるはずなのに、電話ボックスの壁面を伝い落ちる雨粒のように言葉は細切れにしか出てこなかった。
誠>でも間違いだった
誠>僕は悪くないだけで間違っていた
誠>インターネットを教えてくれた君に報いるべきだった
誠>嘘でも一緒に叱られるべきだった
 どんなに書き連ねても梨花ちゃんが入室してくることはなかった。それでもかまわず書き続けた。前の会話がどんどん下に追いやられていって、僕の発言で画面が埋まっても書き続けた。ずっと更新を追っていないお気に入りのウェブページのことなんて頭から消えていた。街よりも東京よりもアメリカよりも広大な大銀河の世界で、街よりも家よりも矮小なグレーの公衆電話ボックスの中にいる僕の申し開きを、ただ一人の女の子に見て欲しかった。
 指先が疲労で痺れるくらいにキーボードをタイピングして「更新」ボタンを連打しているうちに午後二時半を過ぎた。ノートパソコンのバッテリーはわずかしか残っていない。自分ひとりでチャット画面を埋めたせいで、インターネットエクスプローラーのスクロールバーが豆粒みたいなサイズに縮んでいた。
 たぶん今日はもう来ない。
 ため息をついてウインドウのバツ印にカーソルを合わせかけたその時、どん、どん、と電話ボックスの壁を叩く音が聞こえた。
 えっ、梨花ちゃん?
 まさか、直接来てくれて――
 隠しきれない喜びを胸にドアの方を見ると、切り取って背が低くなったダンボール板から顔を覗かせるように、あのバイソンが邪悪な笑みを湛えてそこにいた。
 ――直後、思考と指先が直結したかのように反射的にキーボードを叩いていた。
誠>ばいそんがきた
 詳細を書く暇は与えられなかった。ぐわっと一息でドアが開け放たれると、バイソンの腕がぬうっ伸びてきて僕を電話ボックスの外に引きずり出した。ダンボールの上の長靴が倒れて転がり、膝の上のノートパソコンは床に投げ出された。
 外界に引きずり出された僕は雨水でぬかるんだ地面に倒され、たちまちシャツが泥で染まった。
「てめえ、やっぱりここにいやがったんだな」
 バイソンの怒気と歓喜を両方孕んだ低い声が降り注いだ。仰ぎ見ると、取り巻きの二人もいた。
「よお、こないだはマジでやってくれたな。覚悟しろよ」
 なんの予備動作もなく、梶の前蹴りが無防備な腹部に突き刺さった。激痛に耐えられず地面を転がるとびちゃびちゃと泥の跳ねる音がした。その数秒後に、おそらくは尾野のものと思われる靴底が脇腹に深くめりこんだ。痛み以上に臓器にかかった負担から、僕は吐き気を催して食べたばかりの昼食をおおかた地面に吐き戻した。蹴られ続けているうちに吐瀉物は泥水とまみれて次第に区別がつかなくなった。
「ざまねえな、センコーを味方につけて調子くれやがって」
 尾野が冷たく言ったが、胃袋の蠕動に全神経が集中していて彼らの言い分を聞く余裕はなかった。
 しばらくすると寝転がる僕を蹴るのにも飽きたのか、バイソンは取り巻きたちに「おい、こいつ立たせろ。根性入れてやる」と命令した。二人は嬉々として僕の腕を掴んで無理やり起きあがらせた。正面に立ったバイソンは握りしめた両手を構えて、ボクサーに似たポーズをとった。
 しゅっと音がして彼の拳が腹に直撃した。僕はいまいちど激しい嘔吐感に襲われたが、口から漏れてくるのは胃液だけだった。「バイソンのパンチやべー」と左右のどちらからか囃したてる声がした。勢いは止まらず、さらに一発、二発と連続して打撃が入った。
 普段、どんなに脅かされても心の奥底では彼らを軽く見ている自分がいた。だって所詮は小学生同士じゃないか。気が済んだらそれまでの話だ。
 だが、今日の彼らは一味違った。どれだけ蹴っても殴っても気を済ませてくれそうになかった。それこそ一日じゅうだって僕を嬲りそうな憎悪が感じとれた。
「ゲホッ、ゲホッ」
 僕は吐き気を抑えながら発話の姿勢をとった。僕が喋りそうな気配を認めると、バイソンの拳は止まった。
「なんで……なんで、君らがこんなことをするのか解らない」
「ああ?」
 バイソンは声を荒らげた。
「てめえがむかつくからだよ。一人じゃなんにもできねえチビのくせして、大人の陰に隠れていい気になってやがる……そんならそれで、家に籠もっておベンキョでもしてろっつうの」
 追加の殴打が会話の合間に差し込まれた。あたかも拳で改行を代替しているかのようだった。彼にとってのエンターキーは殴打なのだ。
「こいつらが晒し者にされて楽しかったか? 楽しかったよな? 俺たちも楽しんでんだよ、今」
 腹を殴られすぎて感覚が鈍麻してきた。もう胃液もなにも出てこない。ひたすら反射的に臓器がせりあがって、口から空気がひゅっと漏れて、頭ががんがんと響いてくる。
「僕はただ……インターネットがしたかっただけで……家じゃできないから……」
 声を張る気力もなくぼそぼそと言った。彼らへの主張というよりは自分の行動を説明する形式に近かった。バイソンは顔を電話ボックスに傾けて、取り巻きに言いつけた。
「おい、お前らあの中からこいつの荷物とってこい。そういえば、こいつなんかやってたわ」
 取り巻きたちが腕を放すと、すでに直立の気力を失っていた僕は崩れ落ちた。彼らにノートパソコンが見つかる事態だけは避けたかったが、もはや防ぐ手立ては残されていない。
「バイソン、これあれじゃね? パソコンってやつ」
 梶が電話ボックスの中を覗いて叫んだ。ノートパソコンを持ち出そうとして引っ掛かったのか「線が抜けねえ」と難儀していると、業を煮やした尾野が「もうちぎっちゃえよ」と言い、ほどなくして切断されたモジュラーケーブルをぷらぷらと垂らしたノートパソコンが眼前に現れた。
「へえ」
 人生でもっとも狼狽した表情をしているであろう僕を見てバイソンは満足そうに、この上なく残忍な笑みを口元に広げた。
「こんなもんまで買ってもらえるのかよ、コームインのせがれってのは」
 彼は礫岩のように重いノートパソコンをひょいと片手で持ち上げた。そうしてから、なんのためらいもなく地面に叩きつけた。湿った地面にべしゃっと筐体の底面が埋まった。もう声は出ないと思っていたが、その光景を見た瞬間に僕の腹の底からは出したこともない悲鳴が衝いて出た。
 相当に滑稽な声色だったのか、梶と尾野が二人揃って爆笑した。僕はただその笑いの渦が止むのを待つしかなかった。
 しかし意外にも、笑い声はすぐさま立ち消えた。あと一時間は笑っていそうな勢いだったが、たぶん十秒と経っていない。実際、彼らの爆笑はほとんど一瞬でかき消されたのだ。入れ替わるように梶が叫んだ。
「あーっ! お前、あの時の女!」
 地面に寝転がったままどうにかして首をひねると、梨花ちゃんがいた。よほど急いで来たのか呼吸を荒らげている。
「そいつを放して。じゃないと今度は鼻を折る」
 梶と尾野はたじろいだ。この前は一撃で倒されたのだ。バイソンはそんな二人に苛立ちを覚えたようだった。
「なにビビってんだ。三対一じゃねえか、行けよおら!」
 彼が前足で梶の背中を蹴ると、つんのめった梶が前に押し出されて、つられた尾野も先陣を切る格好となった。バイソンも二人の後に続いて僕をまたいで行った。ちょうど、山あいから家へと続く道が開けた。
「逃げて!」
 鞭を打つような声に動かされて、僕は立ちあがって走った。まだ走れる体力が残っていたのかと自分でも不思議なくらい速く走れた。だが、急勾配の道を下ってなだらかな斜面に差し掛かった頃、足が止まった。空を見上げると、ぱらぱらと小雨が降りだしていた。
 逃げてと言われて逃げたが、置いてけぼりにしてしまっているじゃないか。
 ノートパソコンが山に放置されている。まだ壊れたと決まったわけじゃない。
 直ちに来た道を引き返して勾配を登った。しかし、あそこには三人の敵が待ち構えている。取り巻き二人は梨花ちゃんがやっつけてくれるとしても、さすがにバイソン相手は心許ない。なにか武器が欲しい。
 僕は脇道に生えている手頃な太さの木を両手で掴んで、全体重をかけて引き抜いた。リーチは増やせば増やすほど有利になる。ダルシムのズームパンチは分かっていても面倒くさい。
 自分の半身ほどもある木の棒を引きずって、元いた場所に戻ってくると前回と同じ状況が再現されていた。梶と尾野が顔を抑えて倒れていて、バイソンと梨花ちゃんが対峙している。
 歩を前に進めると、湿った地面を踏みしめる音で二人がこちらに目を向けた。木の棒を構える僕を見たバイソンは露骨にあざ笑った。
「お前、わざわざ戻ってきたのかよ」
「馬鹿……!」
 僕は木の棒をバイソンに向けて、手元を、身体を、口元を、肉体という肉体をぶるぶると震わせながら宣言した。
「パソコンを取り返しに来たんだ……父さんの四十八回ローンはまだ終わってないんだぞ」
 僕の挑戦を受けてバイソンは急速に猛禽類じみた獰猛な顔つきに変わった。
「ふーん、まあ追いかける手間が省けてよかったわ」
 彼はこちらに平然と歩み寄ってきて、思いきり振ったはずの木の棒を両手で軽々と掴んだ。その両手が手前にぐいと引かれるやいなや、圧倒的な筋力差が露呈して僕は身体ごと引っ張られた。流れるような動作でそのまま蹴りが腹部に突き刺さり、地面に転がされた。
 隙を見て距離を詰めた梨花ちゃんに対して、バイソンは奪ったばかりの木の棒を横薙ぎに叩きつけた。したたかに脇腹を打ち据えられて体勢を崩した彼女に、彼はさらに木の棒を振りあげ追撃を図った。
「やめてくれ!」
 僕は這いずったまま上半身を起こして彼のズボンをがむしゃらに掴んだ。すると、バイソンは振りあげた木の棒を彼女ではなく僕の背中に叩きつけた。
「邪魔すんな!」
 だが、木の棒による打撃は腹に食らうバイソンの殴打ほどには痛くないことに気づいた。叩かれても必死に食らいついていると、体勢を立て直した彼女がバイソンのみぞおちに打撃を加えたのが見えた。
 不意に急所を殴られてよろめいたバイソンだったが、案の定さして効き目はないようだった。むしろかえって力を増した勢いで全身ごとひねって木の棒を振り回したので、梨花ちゃんは後ろに退いて距離をとり、僕は振り落とされた。
「こんなのいらねえ」
 彼は木の棒を自分の膝で真っ二つに叩き折った。折れた木を地面に放り投げると、改めて梨花ちゃんと相対した。
 だが、彼女は困憊しきった様子で膝に手をついて、ふらついたかと思うとその場に倒れ込んだ。立ちあがる気配はない。バイソンは興を削がれたふうに「これだから女は」とつぶやくと、一転、向きを変えて僕の胸ぐらを掴んだ。
「じゃあまずはお前だ」
 万事休すだ。
 バイソンの拳が頬面を打ちつけた。顔を殴られるのは初めてだった。雨水か汗かで、彼の手がシャツから滑り落ちると、いよいよ面倒になったのか僕の身体にのしかかって馬乗りになった。
「もう、勘弁してくれ」
 ひりついた喉から声を押し出した。さしものバイソンも疲れてきたのか、息を切らせながら言った。
「買ってもらえるだけいいじゃねえか」
 唐突な話題の転換に僕は戸惑いつつも反論した。
「僕のパソコンじゃない」
「知るかよ」
 馬乗りの姿勢で彼は僕の顔面を殴った。目がちかちかとした。鼻の奥も口の中も鉄臭さと血の味でいっぱいになった。束縛から逃れようと身体をもぞもぞと動かしたがどうにもならず、まるで巨石に挟まったかのような絶望感が全身を支配した。なんとか自由が利く両手だけをじたばたと動かしていると、そのうちに右手の先がなにかと当たった。この感触は木の棒だ。
「コームインってクビにならないんだろ。新しいの買ってもらえよ。また壊してやるからよ」
 バイソンが三発目を振りかぶったその時、僕は決死の覚悟で木の棒を右手で掴んで彼を叩いた――つもりだった。
 半分に折れて短くなっていた木の棒は彼の頭には当たらず、首筋にずぶりとめりこんだ。得体の知れない気色悪い感覚が手に伝わった。
 バイソンは野太いうめき声をあげて地面に転がった。辛くも馬乗りから解放された僕はすばやく起きあがって彼から距離をとった。身体をわなわなと震わせながら首筋に生えた木の棒を抑える彼を見て、ようやく全容を悟った。
 折れた木の棒は先端が尖っていたのだ。
「この野郎、やりやがったな」
 彼が声を出すと、首筋から見たこともない量の血がどくどくとあふれ出た。雨水に洗われてなお薄れる兆しはなかった。顔面を打たれて戦意を失っていた取り巻き二人もそれを見て絶叫した。
「バイソンやべえ、首に木が刺さってる!」
 木の棒を引き抜こうとしたバイソンに尾野が駆け寄って腕を掴んだ。
「やめろバイソン、俺、映画で観たんだ! 抜くと死ぬぞ――」
 慌てて梶も後を追って反対の腕を引っ張った。
「俺の家に行こう、母ちゃんが看護婦だから――」
 バイソンは二人に抑えられたまま目つきだけは鋭く僕を睨みつけた。だがなにも言わなかったので、僕はついに自分の主張を通す機会を得た。
「もう、放っといてくれ。僕はインターネットがしたいだけなんだ」
 彼は言い返してこなかった。取り巻きの二人に肩を預け、ゆっくりと山から去っていった。
 しばらく呆然と三人の後ろ姿を眺めていたが、やがて梨花ちゃんのことを思い出した。三人の姿が完全に見えなくなってから彼女の元に近寄ると、どうやら意識を失ったわけではないようだった。彼女は気だるげにではあるが自らの力で上体を起こした。
「梨花ちゃん?」
「ちゃんはやめてって言ったでしょ」
 僕は咄嗟に謝ったが、顔を合わせると彼女は息も絶え絶えに微笑んでいた。
「あんた、勝ったじゃん。あいつらに」
 言われてみればそうだった。あのバイソンに、中学生をもタイマンで屠るバイソンに、僕は勝ったのだ。身体じゅうから力が抜け落ちた。こんな田舎町ではインターネットをするのも一苦労だ。
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 僕はノートパソコンとパソコン雑誌をリュックに詰めて、長靴を履き直した。雨は降ったり止んだりしている。具合の悪そうな梨花ちゃんにかっぱを被せて一緒に下山すると、あぜ道の手前に赤色の自転車が停めてあった。彼女は「私の家に来て」と言って、代わりに自転車を漕ぐように求めた。
 二人して泥まみれの格好で、カゴにリュック、彼女が荷台、僕がサドルに座って、雨に濡れた道を走った。湿った道路とタイヤが奏でるぬるぬるとした擦過音を聞いて、背中に彼女の体温を感じていると、だんだん心臓の錘が溶けていくようだった。
 そこそこ自転車を漕ぐと、建ち並ぶ家屋の群れが見えてきた。彼女の家は中でもひときわ大きく、赤色のレンガ造りでできていた。自転車を下りて玄関に立つと、その瀟洒ぶりに気圧されて泥まみれでなくても入るのに気後れしそうな印象を持った。
「シャワーを浴びて、まずあんたから」
 梨花ちゃんの両親は留守だった。玄関からまっすぐ伸びるフローリングの廊下を左に曲がるとそこが更衣室で、先に浴室があった。指示通りに汚れた衣類を投げ込んだ大型の洗濯乾燥機は洗濯から乾燥まで数時間で済むと言う。シャワーを浴びて出てくると、そこにはバスタオルと替えの服が一式用意されていた。服の上に置かれた走り書きのメモには「弟のだけどあんたには合うと思う」と書かれていた。微妙に屈辱を覚えたが、確かにサイズはぴったりだった。
 廊下に戻ると梨花ちゃんと入れ替わりになった。「ここから一歩も動かずに待ってて。覗いたり勝手に部屋に行ったら殺すから」と宣告されたので、僕はおとなしく廊下で待った。やたらと幅の広い廊下だったおかげか居心地の悪さは感じなかった。
 シャワーを済ませた彼女に連れられて階段を登り、後に続いて一番手前の部屋に入った。そこには想像上の女の子の部屋を反映させたような、パステルカラーの彩色に満ちた空間が広がっていた。しかし僕の目線はインテリアやぬいぐるみなどではなく、学習机の上に置かれたパソコンに釘付けだった。
 これは……。
「iMacだ
 僕は思わず叫んだ。ボンダイブルーのスケルトンカラーが印象的なiMacは、Apple Computer社製の一体型コンピュータだ。二百三十三メガヘルツのPowerPC 750に、三十二メガバイトのメモリが搭載されている。Windows95が入っている四年ものの僕のートパソコンよりも何倍も速い。
 昨年の夏に発売されてからというものありとあらゆるパソコン雑誌の話題は当面iMac一色に染まっていた。むろん、たとえお年玉を二十年貯めたって僕には買えやしない。父さんも新しいパソコンは買ってくれないだろう。そんな高嶺の花が目の前に、さも当たり前のように部屋に溶け込んで鎮座しているのだから、驚きを通り越して唖然とした。
「あ、やっぱ分かるんだ。出てすぐに買ってもらったの」
 僕は驚嘆の眼差しで彼女を見た。
「君ん家って、もしかして大金持ち?」
「まあね」
 そのあと彼女は僕を水色のベッドの上に座らせて一旦部屋から出ていき、薬箱を携えて戻ってきた。ここへ来る間に出血は止まっていたが、アルコールのついた脱脂綿を傷口にあてがわれるとやはり激しく染みた。治療が済むと、今度は学習机の椅子を引いて座るように示した。僕がおずおずと広い学習机の前に腰掛けると彼女は背後から手を伸ばしてiMacの電源を入れた。
 明るい高精細のディスプレイがMacOS8のデスクトップ画面を映し出した。彼女は手を伸ばした状態のままマウスを操作して、ネットスケープナビゲーターを起動した。そして、ブックマークからCGIチャットを開いた。優れたマシンパワーゆえか僕のートパソコンとは比べものにならないスピードでウェブページが描画された。
「実は、ずっと見てたんだ」
 ぽつりと彼女が言った。
「こーんなに書いちゃって、更新ボタンを押すのがだるかったんだから」
「ごめん」
 僕は謝った。この謝罪には色々な意味がある。彼女は返事をしなかった。ひどく長い沈黙が続いたので、振り返って顔を見そうになったところ――急に彼女は僕を抱きしめてきた。
 一瞬、ついに捕食されるのかと思った。濡れた髪の毛が僕の両頬を撫でる。嗅ぎ慣れないシャンプーかボディーソープの香りが鼻腔をくすぐった。浴室のシャンプーとボディーソープを使ったのだから、自分自身と同じ匂いがするはずなのになぜだかそのようには思えなかった。
 そういったあらゆる感覚を通り過ぎた最後に、僕の耳は捉えた。彼女の微かな、とても弱々しい心臓の鼓動が、背中に振動を伝えてあの時の形容しがたい感情を蘇らせた。
「あたし、心臓が弱いんだって」
 梨花ちゃんが話しはじめた。語り口調は落ち着いていても弱々しさはなかった。
「お昼までは元気だけど、日が傾く頃には疲れて歩くだけで精一杯になる。体力づくりに空手とかも習ってみたけどダメで……誰にも知られたくないから、ずっと一人で遊んでた」
 彼女は言葉を切って、息を吸い込んだ。
「そうしていたら、パパがパソコンを買ってくれた。インターネットにいると、夜中でも家の中にいても世界中と繋がっていられる気がした」
「僕も、そう思う」
「……でもパソコンの電源を落とすと、消えたディスプレイに一人ぼっちのあたしが浮かんで見えた。あの校則のせいで子どもだけじゃ街の方にも居づらくなっちゃって、ほっつき歩いていると山であんたがいじめられてた。ちょうどムカついていたからあいつらをぶっ飛ばしてやった。その後に……あんたが電話ボックスでインターネットをやっているのを見たんだ」
 ばらばらの点が線で繋がっていくようだった。
「あたし、夏休みに入ったら東京に引っ越すんだ」
 唐突に彼女が言った。僕は「えっ」と口から息みたいな声を漏らした。テレビでしか見たことのない東京、日本のすべてが集まっているとまことしやかに喧伝されているメガロポリス東京。梨花ちゃんはあそこに行くという。夏休みまであと二週間もない。
「東京の病院じゃないと手術できないんだって。治すのに何年もかかる。学校だって行けるかどうか……インターネットをしている子なんて病院で見つかるとは思えない。あたしには時間がなくて、その、だから」
「僕をいじめた?」
 僕は後を引き取った。彼女はなにも言わなかったが、うなずいたのが気配で分かった。
「合同授業が体育ならカッコつけられたのにな。あの時は二時間目だったから」
 僕がなにか言う前に彼女はまたマウスを動かして、ネットスケープナビゲーターの横に別のアプリケーションを起動した。立ち上げられたそれは黒背景のウインドウで、様々な色で着色された大量のアルファベットや記号が並んでいた。
「ソースコードだ」
「あ、やっぱり分かる。当たり」
 彼女は小馬鹿にしたふうに笑って僕の頭をぽんぽんと叩いた。腹立たしいような、気恥ずかしいような、嬉しいような複雑な気分だった。最終的に、毛の先ほど負けん気が上回った。
「これ、CGIチャットのコードなんだ。せめて更新の自動化くらいやっておきたかったけど間に合いそうにない。全体じゃなくて部分的に再描画させたくて――」
「じゃあ、僕が代わりに作る」
「はあ?」
 梨花ちゃんが素っ頓狂な声をあげた。
「あんた、プログラミングは知らないでしょ」
「今から勉強するよ」
「そんな簡単じゃ……」
 彼女は否定しかけたが、途中で止めて言い直した。
「……でも、あたしが心臓を治すまでにはなんとかなるかもね」
「あーっ!」
 そこで僕は肝心の問題を思い出して絶叫した。さしもの梨花ちゃんも身体をこわばらせたのが判った。
「僕のノートパソコン、壊れちゃったかも」
 座席から立ちあがると僕は部屋の床に置かれたリュックからノートパソコンを取り出した。固まった泥が筐体の至るところにこびりついている。ノートパソコンをこじあけると、内側にも入り込んでいた泥が床に落下した。
「わーっ、ここで開けるな!」
 梨花ちゃんが怒ったので僕はそれ以上の被害を拡大させないためにその場で硬直して、彼女が切って表面積を広げたゴミ袋を持ってくるまで待たなければならなかった。ノートパソコンを開け直すと残っていた泥がゴミ袋の上にぼたぼたと垂れ落ちた。電源を点けようとして、ボタンに手を伸ばしかけると彼女に制止された。
「待って、電源は点けない方がいいかも。きれいに掃除してからじゃないと」
「でも掃除って言ってもどこをどうやれば」
「精密ドライバならあるよ」
 僕はふと思い当たった。リュックを開き、防水用に詰めたパソコン雑誌の中から目当ての号のページをめくりあてた。コップの水をこぼしてパソコンが壊れた人の失敗談と家財保険の紹介記事だ。このページに応急処置の方法が書いてあったのだ。
「まず、電源は絶対に入れず……本当だ。えーと、ノートパソコンの場合は底面の四隅にネジが……」
 僕たちはパソコン雑誌の図解に則ってノートパソコンのクリーニングを進めた。エタノールに漬けた綿棒で泥が入り込んだ基盤の隙間という隙間を清掃して、ヘアドライヤーで筐体の隅々まで乾かした。ノートパソコンが元の輝きを取り戻した頃には、二人とも変な姿勢を長時間維持した弊害で腰や背中が痛くなった。部屋の大きな窓の外ではとっくに日が沈みきっていた。
「これでダメだったらしょうがないよ」
 僕は梨花ちゃんに言った。
「でも、一応渡しておく」
 彼女は自分のートを袈裟切りで一枚破って、学習机のペン立てから抜き取ったボールペンで文字を書いた。手渡された紙片を読むと、またURLだった。前回と異なるのはその下に「ID」や「PASSWORD」と書かれた欄が増えているところだ。
「それ、あたしのパパが契約してるレンタルサーバの管理用URLとログインパスワード。そこに全部置かれてる」
 洗濯乾燥機によって元通りに乾かされた服に着替えて、いよいよ玄関まで見送られる段になると彼女は念押しした。
「あたし、退院したら絶対にアクセスするから。ちゃんと作っておいてよ、じゃないと」
 僕は梨花ちゃんの顔を見て、目を合わせた。肩までかかるロングの髪型にやや釣りあがった目元が際立つ、この勝ち気な女の子が重病を抱えているというのはどうしても信じがたかった。一文字に結ばれた唇は頑なに閉じられていたけれど、今は僕の返事を待っている。
「君よりうまく作ってみせるよ。殺されたくないからね」
 そう言い残して、玄関から外に出た。後はもう振り返らなかった。空が晴れて、月明かりに照らされた夜の田んぼの道はとても美しかった。
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 なにから話すべきだろうか。
 ああ、あのノートパソコンはちゃんと動いたよ。二人して頑張った甲斐あって律儀に働いてくれた。まあ、バッテリー稼働時間は短くなっていったし、ヒンジも割れかけたし、最後の方なんかは勝手にシャットダウンするようになってたけどさ。そのせいで上書き保存のショートカットキーを小刻みに連打するくせが今も抜けていないんだ。
 Perlはぼちぼち覚えたよ。HTMLもCSSも勉強した。でも、教本の値段があんなに高いとは思わなかったな。小遣いで買おうとして街の本屋で値札を見たらひっくり返りそうになったよ。結局、誕生日に買ってもらった。それにしてもなんであの教本ってどれも表紙の絵が動物なんだろうね。
 いや、いきなりこういうパソコンとかの話ばかりするのもあれだから、身の周りの話にしよう。
 バイソン覚えてる? 彼はあの日以来なにもしてこなくなったよ。おかげさまで平穏無事な暮らしを満喫できた。あ、でも一回だけあったな。街の中学校に入学して間もない頃、バイソンのやつときたらすでに大勢の手下を従えて廊下を練り歩いていたんだ。一学年に八クラスもあるマンモス校だから、そのぶん手下の頭数も増えるんだろうね。彼と長い付き合いの取り巻き二人はさしずめ幹部ってところかな。
 そのバイソンが、廊下の壁にへばりついて縮こまっている僕を指差して大声で言ったんだ。「あのチビには気をつけろ、これはあいつに刺されたんだ」って。学ランの襟をめくって首筋の傷跡を見せびらかしてね。ほら、あの時に木の棒でやっちゃったやつ。手下連中は冗談と思って笑ったんだけど「幹部」の二人が「嘘じゃねえよ、お前らバイソンなめてんのか?」ってすごんでね、それでマジだという話になったらしい。今思うと、不良まみれの学校で誰にも絡まれずに済んだのは彼らのおかげかもしれないね。
 なんか武勇伝を語っているみたいで嫌だな。じゃあ、千佳ちゃんの話をするのはどうだろう。
 あれはお互い苦い思い出だったね。でも千佳ちゃんだって交換日記用のノートを破られたのは事実なわけだし、やり方はともかくとしても仕返ししたい気持ちは否定できないんじゃないかな。実は僕も千佳ちゃんに失礼なことをしちゃって、だから後日に交換日記の再開を申し出たんだけど「今は一組の淳くんとしているの」って断られちゃったよ。だけど、もじもじしている時よりもさっぱりしていて好きになれそうな感じだったな。
 いや、この話はよくないな。電話ボックスの話にするか。
 グレーの公衆電話ボックスはさすがに卒業したよ。家にインターネット回線を引いてもらえたし、止まっていた宅地造成の計画が動きだしたんだ。今は人や重機でごった返しているから、昔みたいに独り占めしてちゃ怒られる。なんでも父さんが勤めている町役場にもとうとうデジタル化の波が来たみたいで、これからはITの時代だという認識にようやくなったらしい。こんな田舎町にも毎秒一.五メガビットのADSL回線が通っているぐらいだからね。
 そういう事情だから、新しいパソコンを買ってくれっていう打診も条件付きで通った。「県立一高に受かったらな」って。県内一の難関校だけど、バイソンともう一度戦えと言われるよりは千倍楽勝だと思ったね。
 新しいパソコンはiMacにしたよ。クロック周波数が一ギガヘルツもあるから、申し訳ないが君の持っている旧モデルより断然速い。このチャットの改良も捗った。君に言われた部分描画の自動更新は割とすぐにできたけど、どうにも特定の時間単位ごとに再読み込みさせる方法しか実装できなくてね。相手の発言に応じてリアルタイムで読み込むようにしたかったんだ。それで、簡単にできると聞いてFlashで作り直してみた。たぶんうまくいっているんじゃないかと思う。
 いつの間にか「パソコンとかの話」に戻っていた。落ち着け、あれから四年も経っているんだぞ。彼女が今もこういう話に興味を持っているとは限らない。そもそもこんな話し方でいいのか。馴れ馴れしすぎじゃないのか。
 僕は回想していると時間感覚がおかしくなる。いつ来てもいいように準備していたけれど、いざこの文字列を見ると懐かしさがこみあげて色々と思い出してしまった。総合室での出来事だって、こうして振り返るとはっきり覚えている。
 せめて相手の方から話してくれれば僕もそれに合わせられるのに、一向に発言してくれないものだから回想の止め時が見つからなかった。ひょっとすると彼女も同じで、僕のようになにから話すべきか考え込んでいるのかもしれない。
 ちらりとタスクバーに目をやると、時刻表示は日曜日の午後一時をゆうに二十分も過ぎていた。
 僕は新しいチャット画面の一番上に浮かぶ、あの週末の続きのような文字列を見つめ続けた。
**『梨花 さんが入室しました』**

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title: "GNU Social JP管理人 対 僕"
date: 2023-06-26T19:57:59+09:00
draft: false
tags: ['diary', 'essay']
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「太陽を盗んだ男」という名作邦画がある。異常な理科教師が紆余曲折の末に自室で小型原爆を作って日本政府を脅す話なんだけども、原子力を太陽に例えたタイトルが素晴らしいのはもちろんのこととして企画段階で付けられた仮題も僕はけっこう好きなんだよね。 **「日本 対 俺」** っていうんだけどさ。腹から声を出して読み上げるといかにもシュールで面白い。
まあしかし現実はえてして地味なもので日本政府と戦った城戸誠とは及びもつかず、僕が今回挑んだのはGNU Social JPの管理人なわけだ。レスバなんて何年もしていなかったからずいぶん肩が凝ってしまった。本稿を読む人はGNU Social JPの管理人が何者かすでに知っているだろう。一口で言えばFediverse版のまとめサイトのような代物を運営している人物だ。
まとめサイト、と聞いてピンと来る人は多いかもしれない。彼も多分に漏れずFediverse上のユーザの投稿を無断で転載して、それらの間にちょこちょこ意見を書く形でコンテンツを生成している。引用の削除を求める苦情には終始「文句があるなら裁判しろ」の一点張りだ。結果、彼はあらゆるユーザやインスタンスから忌み嫌われブロックされている。
こうした対応について彼は「ブロックは不当、憲法違反」と考えており、一時期は自身をブロックした大手インスタンスのmisskey.ioに訴訟をちらつかせる展開にまで至った。なんらかの変遷を経て現在は鳴りを潜めているものの、相変わらず彼は自分が不当な差別を受けていると信じている。外国企業が運営するインスタンスにまでも[サーバミュートされている](https://social.vivaldi.net/@riq0h/110587177451264702)のだからある意味では相当な大物だ。
さて、僕は以前に記事を書いた。[分散できないのはどう考えても僕たちが悪い](https://riq0h.jp/2023/03/05/102540/)と題されたそれはありがたくも期待をはるかに上回る反響を獲得したが、件のまとめサイトを運営する彼もさっそく目を付けたようで3日後には引用記事が掲載された。例によって僕の文章表現を逐一借用して「〜と思いました」などとおざなりに感想を付け加えるやり口だ。靴底にへばりついたガムに自分の名前が刻まれたかのような屈辱感が全身を襲った。
これに対して「引用するな」などと申し立てても先に述べた通り「裁判しろ」と開き直られるのは間違いない。引用の範囲を越えるか越えないか言い争っても議論は平行線にしかならないだろう。やむをえず僕は苦虫を噛み潰した顔でこの件を見送った。なにげに肯定的に取り上げられているのがいささか不気味だったが、幸いにも事態はしばらく湖の水面のごとく平穏を保っていた。
ところが先日、僕は彼のまとめサイトが有料会員制度をテストしている噂を聞いてつい見に行ってしまった。悪い予感が当たり、そこにはまさしく登録会員限定と記された例の紹介記事がまざまざと映し出されていた。人様の文章を使って商売しようとはいくらなんでも無茶苦茶な話だ。
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すると、毎度の文句を振りかざして他ならぬGNU Social JP管理人が[飛びかかってきた。](https://gnusocial.jp/notice/3304470)事実上のマッチメイクである。このような狼藉をも引用、考察と言い張るのなら、いよいよ勝負しなければいけないらしい。そういうわけで貴重な週末を虚無に捧げる地獄のレスバが幕を開けたのだった。
## ラウンド1
ボウリング場ではない。ここはもはやリングの上だ。カーン、戦いのゴングが鳴り響き、両者がファイティングポーズをとって睨み合う。とりあえず僕は様子見にジャブを放った。
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当然こんなので引き下がりはしない。まずは引用の合法性から論点を離さなければならない。彼が従前より主張している「ブロックは不当」を覆して論理の不整合を突く。意外にも彼は人に嫌われたくないと考えているので「ブロックは不当ではない」と認めさせれば、嫌われないための行動を促すことができる。そこで最終的に「無作法な引用を控えてくださいね」と結論を持っていくのが目標だ。
引用の合法性について延々と議論しても絶対に埒は明かない。AI裁判官が秒で判決を下してくれる時代にでもならないかぎりはグレーゾーンを攻める側が有利なのだ。彼は十分に解ってやっている。カジュアルに訴訟されて金をむしられるリスクが高い世の中だったらとっくにやめていただろう。当の本人の[回答](https://gnusocial.jp/notice/3309934)は、やはり想定通りだった。
違法行為や損害がなくても不快な振る舞いはたくさんある。そういう行いをわざと繰り返す人間が相応の態度をとられるのは仕方がないと解っててやっていると思っていたが、あくまでブロックは不当と主張する一方で引用は正当と言い張りたいようだ。文末で発達障害だからとかなんとか言っているのは普通に他の当事者に失礼でしかない。しかし、この調子では早晩に平行線を辿りそうなので別の切り口で反論を試みた。
<iframe src="https://social.vivaldi.net/@riq0h/110592985836735985/embed" class="mastodon-embed" style="max-width: 100%; border: 0" width="1000" allowfullscreen="allowfullscreen"></iframe><script src="https://social-cdn.vivaldi.net/embed.js" async="async"></script>
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以上の反論は僕の独自解釈なので他の人と一致するかは判らない。例外なく引用されたくない人もいる。一方、引用されてもいい相手とそうでない相手がいてもおかしくはない。事実、僕は読み応えに優れた考察を伴うのならたとえ批判的に引用されても構わない。引用された影響でPVが増えたりなんらかの利益が得られるならさらに好ましい。言うまでもなく、彼のまとめサイトはそのどちらにも当てはまらない。
そもそも平均的にリテラシが高いFediverseの住民を相手に、まとめサイトをやろうなんていう取り組みからしてありえないほどリスキーなのだ。どう取り繕っても一定数から嫌われるのは避けられない。彼は運営の真意を明かさなかったが、それでもやるからには営業努力の一つや二つ重ねなければ自ら進んで嫌われにいっているのと変わらない。
引用の削除要請に素直に応じるのも有効な手段だ。なにしろ「文句が来たら消す」というオプトアウトっぽい形式をとれるだけでもWebサイト側は圧倒的に有利と言える。引用された皆が皆、列をなして苦情を申し立てるとはかぎらない。最低限のマナーを守っている姿勢を見せれば存外に悪評も落ち着いて黙認してくれる余地すら生まれるかもしれない。
そういうしたたかさがあればこそ余計な負担を互いに感じずに済むのにわざわざ嫌われているのだから、そんな悪評をまとったWebサイトには尚更誰も引用されたがらなくなる。実際、なぜだか知らないが彼はすごく苦労しているようだし、僕とて不躾に引用されて憤懣やるかたない気持ちだ。こんな典型的なLose-Loseをせっせと拵えてなにがしたいのか本当に理解できない。
## ラウンド2
土曜日の朝を迎えて、彼が深夜のうちによこした[返答](https://gnusocial.jp/notice/3312187)を読んだ。言っている内容は相変わらず取るに足らないが「どこかの誰かさんのように八方美人で当たり障りのない偏った内容しか書けない」とは、文脈を察するに僕の記事を指しているのだろうか。もしそうならなにも解っちゃいないな。
だいたいあんた、紹介した方じゃなくて最近の記事も[褒めてたじゃん。](https://gnusocial.jp/notice/3304382) こういう人いるよな。理論派ぶっている割には馬脚を露わすのが早すぎる。人様の文章を借りておきながら手のひら返しとはマジでいい度胸してやがんな。カーン、ラウンド2の開幕だ。両者はまだ体力を残している。
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今日もまた前日の論点を粘り強く繰り返す。道のりは遠くともブロックは不当でもなんでもないと認めさせ、嫌われないためには不快な振る舞いをやめないといけず、それには引用の削除要請に応えるのが一番手っ取り早いと結論を持っていく必要がある。だが、それにしても「お手本を見せろ」にはさすがに面食らってしまった。
後半の「いっそ転載のみに留めた方が潔い」との見立ては2ちゃんねるユーザとまとめブログの間でかつて起こった抗争を根拠にしている。当時もまとめブログは2ちゃんねる全体で蛇蝎のごとく忌み嫌われていたが、機械的に書き込み内容を蓄積する「ログ倉庫」はさほど批判されていなかった。転載そのものではなく書き手の意図的な誘導や編集を好まない向きは確かに存在する。まもなくして[回答](https://gnusocial.jp/notice/3314774)が返ってきた。
性懲りもなく「手本を見せろ」の変奏が続く。もしや彼は本気でWebサイトの改善を請け負うべきだとか思っていやしないだろうな。だんだんと話の通じなさが際立ってきた。こういう態度に逃げ込まれるとはっきり言って説得は難しい。彼に自覚があるのか定かではないが、この手のレトリックには要求に要求で返して主導権を奪う狙いが隠されている。
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ここでいよいよブロックが不当ではないと認めさせる段階に迫る。しかし露骨に[混ぜっ返された。](https://gnusocial.jp/notice/3315427)きっと彼は僕とのレスバにうんざりしてきたのだろう。いかにも会話を切り上げたそうな口ぶりだが、勝手に人様の文章を借用した上に自ら論戦を仕掛けておいてうんざりされても困る。
レスバの目的の一つは引用部分を削除ないしは書き直させることだが、それが叶わずともしつこく抗弁していれば彼に損得勘定を働かせられるかもしれない。「こいつの記事を扱うのは面倒だ」と今後の引用を諦めてくれればこっちは大いに助かる。せいぜい地獄の果てまで付き合ってもらう。
## ラウンド3
とはいえ「引用を削除してほしい」と頼めば即座に「引用は合法、裁判、提訴」とお決まりの定型句に収斂するに違いない。そこで僕は再び切り口を変えた。カーン、最終ラウンドのゴングが鳴り響く。両者の息は荒く、動きは鈍い。
<iframe src="https://social.vivaldi.net/@riq0h/110597379354075852/embed" class="mastodon-embed" style="max-width: 100%; border: 0" width="1000" allowfullscreen="allowfullscreen"></iframe><script src="https://social-cdn.vivaldi.net/embed.js" async="async"></script>
この件に無関係なioの管理人を出汁にしたのは少々気が咎めるが、それはそれとしてこれは注目に値する事実である。以前にはmisskey.ioを相手取り訴訟を起こすと息巻いていた彼は、いつの間にか全面降伏していてio関連の引用記事を削除していたのだ。**なんだ、やればできるんじゃん!** じゃあ他の人にもやってくれよ。これは「引用は合法、裁判、提訴」の鉄壁に風穴を開けうる突破口かとほのかに期待した。いきおい、彼を煽る言葉選びにも筆が乗りまくる。だが、結論から言うとなんら[効き目はなかった。](https://gnusocial.jp/notice/3315844)
正直に言ってこの返答を読んだ際は絶望した。リンク先にはいくつか記事が載っているが、物書きの矜持にかけて誓う。読んでも意味は解らない。特定の人物の言いなりになるなんてもはや法律も論理もあったものじゃない。「あなたの理屈はこうなので、じゃあこれはこうですね?」と言い含めるのが論戦の基本なのに「私の中では一貫している」と開き直られてはなすすべがない。
なんせあれほど「ブロックは不当」と喚いていたのに先の掲載記事では悪びれもせず「失礼なユーザがいたのでミュートした」とか書いていやがるのだ。まさかブロックは不当でもミュートは正当とは言うまい。コミュニケーションをとりたくてもとれないと散々嘆いていたのだから。つまり、GNU Social JP管理人にはお互い様の概念が存在しないらしい。自分がやられるぶんには不当でも自分自身の行為は謎の論理が働いて正当化されうると主張している。
僕は完全に勝ち筋を失った。持論の整合性を気にかけない相手を言い負かすことなどできない。第一の目的が無残に砕け散り、消化試合の押し問答が続く。冷静になって振り返るとこの辺りで切り上げておくべきだった。
<iframe src="https://social.vivaldi.net/@riq0h/110597827029936441/embed" class="mastodon-embed" style="max-width: 100%; border: 0" width="1000" allowfullscreen="allowfullscreen"></iframe><script src="https://social-cdn.vivaldi.net/embed.js" async="async"></script>
この挑発に対しては[通話の要請](https://gnusocial.jp/notice/3316204)が告げられた。後で記事にするのにやるわけがない。録音の文字起こしなんて時給が発生するレベルの苦行だ。音声ファイルをアップロードするとしても、限界インターネット中年同士が甲高い鳴き声をキイキイ喚き散らす退廃音楽を一体誰が聞きたがるのか。憲兵隊に取り締まられたって文句は言えない。実際、ブログを読む側にとっても不便だ。
<iframe src="https://social.vivaldi.net/@riq0h/110597931438174827/embed" class="mastodon-embed" style="max-width: 100%; border: 0" width="1000" allowfullscreen="allowfullscreen"></iframe><script src="https://social-cdn.vivaldi.net/embed.js" async="async"></script>
「あなたも疲れているでしょう」と彼は言うが、その通りだ。久しぶりにレスバしたせいで予想以上に疲弊している。10年前はゆうに三日三晩レスバしていたものだが、どうにも寄る年波には打ち勝てない。本来なら過ごせていたであろう満ち足りた金曜日の夜、土曜日の光景が走馬灯のように駆け巡る。観られたはずの映画、読めたはずの小説が浮かんでは消えていく。
とはいえ、こういう[回答](https://gnusocial.jp/notice/3316359)が返ってくるということはどのみち大詰めに近づいているのだろう。ラストスパートにかけて僕は自分を奮い立たせた。引用を削除させるのは困難でもまだ相手に抗う目的が残っている。せめてこれはやり遂げないといけない。
<iframe src="https://social.vivaldi.net/@riq0h/110598176245250695/embed" class="mastodon-embed" style="max-width: 100%; border: 0" width="1000" allowfullscreen="allowfullscreen"></iframe><script src="https://social-cdn.vivaldi.net/embed.js" async="async"></script>
しかし彼はあくまで通話を盾にレスバから引き上げる腹積もりのようだ。挑発に[乗ってこない。](https://gnusocial.jp/notice/3316519)長年に渡ってレスバをやらないと相手をその気にさせるコツが分からなくなる。精一杯の捨て台詞を吐いてみたものの、GNU Social JP管理人に有効打を与えた手応えはついぞ感じられなかった。
>@gnusocialjp
>なるほど、やはり都合の良いコミュニケーションしか取りたがらないのですね。どうしてあなたに質問を選定されないといけないのですか? これはあなたが始めた戦いですよ。
>
>しかし当初の目論見通り、あなたの「対話がしたい」という虚仮を暴くことができましたし、明らかに白旗を掲げている相手を追い詰めるのもあまり気が進みません。どうしてもと言うなら一旦見逃してあげましょう。ですが、僕や人々の文章を不躾に扱っているかぎりあなたは常に負い目を抱えます。それを忘れないでください。[引用元](https://social.vivaldi.net/@riq0h/110598339851712735)
彼の最後の[回答](https://gnusocial.jp/notice/3316816)は僕を奈落の底に突き落とした。引用されてもデメリットはない――**なんてことだ、最初から散々言っていた話が全然通じていなかった!** でなければこの局面でそんなひどい言い草は出てこない。かくして、地獄の週末レスバは深い深い絶望のうちに終幕した。「レスバがお好みで疲れないようです」だと? うるせえな、めちゃくちゃ疲れたよ。
>@gnusocialjp
「私が引用してもあなたにデメリットはありません」
そう思えることがあなたの問題の根幹であり、客観的視点が抜け落ちており、実は僕の言葉をろくすっぽ読んでいないことの証なのです。いつか暇な時にでもリプライを読み返してください。いつでもどこでもそれができるのが文字情報の良いところです。お疲れ様でした。[引用元](https://social.vivaldi.net/@riq0h/110598620065961759)
## 解説
こんな恥さらしの内容をあえて記事に仕立てたのには訳がある。引用の削除、抗弁に連なる第三の理由だ。もう気づいている人もいるかもしれないが、実は本稿自体が「引用記事」の一例として書かれている。
さしあたりハイパーリンクによる引用を**Ⅰ型引用**と定義する。同様に、SNSの公式埋め込み機能による引用を**Ⅱ型引用**、どちらも用いないコピーアンドペーストの引用を**Ⅲ型引用**と表す。今回は出番がなかったがもし通話の文字起こしがあるとしたら、それは**Ⅳ型引用**と定義される。この中で印象的にもっとも侵犯性が低いのはⅠ型引用と考えられる。
型引用の文章を読むにはハイパーリンクを辿って原典に移動しなくてはならず、被引用者にとって常に想定された形式でコンテンツを参照させることができる。反面、利便性の面ではやはり一歩劣ると言わざるをえない。したがって、SNSの投稿の引用にはⅡ型引用がもっぱら用いられる。
Ⅱ型引用は実装側による埋め込み機能依存なので、実態は原典を参照しているのとほとんど変わらない。元の投稿が修正または削除された際はⅡ型引用も同期されるため、被引用者が自身のコンテンツをコントロールする権利が最低限守られていると評価できる。ただし引用者のWebページに投稿が表示される以上、被引用者の想定に反する体裁をとってしまう懸念は否定できない。
Ⅲ型引用は度が過ぎると転載に該当する。最後の2つの引用はわざとⅢ型引用にした。文面の一部を抜粋する形でⅢ型引用を用いる場合にはおよそ常識的な範疇と見なされるが、それ自体が引用者のコンテンツに価値を付与しうる甚だしい規模の引用については「転載」と表される。法的な判断は別にしても印象はすこぶる悪い。
というのも原典が修正・削除されても引用者のWebサイト上には以前のコンテンツが残り続けてしまう。この時の被引用者はⅡ型引用とは異なり自身のコンテンツをコントロールする権利を喪失している。また、抜粋の名目で順序や文脈を無視されたり、改変された文章の掲載が原因で炎上などの被害を受ける恐れも懸念される。
Ⅳ型引用はとりわけ利便性に乏しい。型引用でさえワンクリックで原典に到達できるのに対して、Ⅳ型引用の信憑性を調査するには録音を丸ごと聴かなければならない。文字情報なら流し読みで済む確認作業に何十分も費やす場合もありえる。しかも編集を経ていない音声会話は論点ごとに章や段落が分けられず、どこでなんの文脈を前提に話をしているのかも容易には一瞥できない。このように読者目線の不便を多く含んでいるにも拘らず、GNU Social JP管理人はスカポンタンなので僕が弱みを見せたと思い込んではしゃぐことしかできない。
ちなみに、僕個人は基本的にⅢ型引用で文章を引用されても構わない。それは前述の通り引用者の提供するコンテンツ性や利益、または人間関係の親密度で決定される。しかし、インターネット上のあらゆる人々に嫌悪感を持たれにくい引用の作法としてはⅡ型引用までに留めておくのが無難だろう。GNU Social JP管理人の投稿が常に型引用されているのは、件の実装に埋め込み機能が見当たらなかったせいである。
もちろん、たとえⅠ型引用であってもコンテンツ全体の内容次第では時に嫌がられてしまうし、そうした風評を気にかけるのであれば気持ちよく引用させてもらう工夫に努めて削除要請にも素直に応じる姿勢が望ましい。繰り返すが、人様の発言をあれこれ槍玉に挙げるのはどう転んでも不興を買いやすい行いなのだ。こうした微妙な問題を逐一裁判で白黒つけるなどどだい不可能な話で、我々自身の規範意識に則った共通理解を築くほかない。
ところでレスバ中にわざわざGNU Social JP管理人に「ブログのネタにする」と宣言したのにも訳がある。彼がかなり鷹揚な人間だとしても「お前のことを書く」と言われてどう書かれるのか気にならない人はそういない。本稿が投稿されればいずれ彼は読みに来る。
彼は「具体的な代案」を求めた。僕は不躾な引用をやめてほしいだけなので応える義理は当然ないが、自分のブログを通してなら一例を提示できる。だからこんな醜態を赤裸々に晒して、引用しなくても差し支えのない部分まで全部引用して、それぞれ定義した類型を表す体裁に整えたのだ。
なあ、GNU Social JP管理人さんよ、見ているか あんたがこれを読んで納得するなんて1ミリも期待しちゃいないが、僕は引用をこういうふうに捉えている。その上で、型引用でもやめてくれと言われたらやめたっていい。引用頼みの誰かさんと違ってこっちは地の文をコンテンツにできている。これを機にまともな文章を書きなよ。
もっともあんたはもう半ば詰んでいるんだけどな。あまりにも評判を失いすぎた。最初から誠実にやっていればぼちぼち支持者を得られて、ひょっとするとⅢ型引用でも自分は構わないと言ってくれる人たちが現れたかもしれない。後生大事に抱えている実装のGNU Socialも、あの彼が頑張っているのなら手伝ってやろうと申し出てくれる人たちが現れたかもしれない。
そうならなかったのはすべてあんたが適切なネゴシエートをサボってパワーポリティクスありきでやってきたせいだ。辛いとか苦しいとかのたまっているが、実際には周りを押しのけて楽な道ばかりのしのしと歩いてきたんだよ。あんたが道を譲るのは強いやつに問答無用でぶん殴られた時だけなんだろうな。
その結果が現状に表れている。自ら蒔いた憎悪の種がすくすくと育って、取り返しがつかないほど土壌を汚していることにも気づいていない。いつかあんたのWebサイトから僕の文章が解放される日が来るといいが、どうやらあんた自身の破滅の方が早そうだ。

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@ -0,0 +1,42 @@
---
title: "GitHubにStorageの使いすぎを怒られた"
date: 2021-04-05T9:43:48+09:00
draft: false
tags: ["tech","diary"]
---
![](/img/16.png)
10MBいくかも怪しい静的サイトでいくらなんでもそれはおかしいと思ったが、結論から言うとこれは**artifact**と呼ばれる、GitHub Actionsを実行してホスティングサービス等にdeployされる過程で発生する生成物が原因だった。
このartifactは、初期設定では90日分もの量が溜め込まれる。GitHub Storageの無料枠は500MBまでなので1回転あたりはごく微量だとしても、僕みたいに些細な改稿でひっきりなしにCI/CDをぶん回しているとあっという間に上限に到達してしまう。
Actionsを使いはじめる前に必要十分な日数に設定しておけば当該の問題は起きなかったと考えられるが、今から設定を変更してもやはり即時には反映されないようだ。さしあたりGitHubに0.5ドルほどの小銭を投げつけてActionsを回す権限を取り戻した後、適当なスクリプトを実行させて件のartifactを削除しなければならない。これは検索するとわりあいすぐに[見つかった。](https://github.com/marketplace/actions/remove-artifacts)
```yml
name: Remove old artifacts
on:
schedule:
# Every day at 1am
- cron: '0 1 * * *'
jobs:
remove-old-artifacts:
runs-on: ubuntu-latest
timeout-minutes: 10
steps:
- name: Remove old artifacts
uses: c-hive/gha-remove-artifacts@v1
with:
age: '1 weeks'
# Optional inputs
# skip-tags: true
# skip-recent: 5
```
上記のコードをymlファイルの形で対象のリポジトリの`.github/workflows`直下に保存してpushすれば、指定されたcronのサイクルに基づいてartifactの削除が行われる。引用元は1ヶ月前までのファイルを維持する旨の記述だったが、僕はもっと短くても特に差し支えがないので1週間にした。実行後、GitHub Storageを確認すると目論見通り空き容量が増えていた。
![](/img/17.png)
これで思う存分に改稿しまくれる。

View file

@ -0,0 +1,30 @@
---
title: "Google AnalyticsをやめてGoatCounterに乗り換えた"
date: 2021-03-26T11:28:15+09:00
draft: false
tags: ["tech","diary"]
---
## 経緯
このブログのアクセス数は、記事が増えるにつれてごく僅かずつではあるものの上昇している。なぜそれが判るのかと言えば、皆さんもよくご存知のGoogle Analyticsでアクセス解析を行っていたからである。全体の傾向として、エッセイ記事はTwitter経由の来訪がほとんどを占め、技術的な内容の記事は検索からの流入が多かった。だからといって書く記事の内容や優先度が変わるわけではないが、蓄積されたデータを眺めるのはただそれだけでもけっこう楽しい。
しかし僕はGoogle Analyticsに従前から強い不満を抱いていた。こっちが知りたいのはせいぜい記事ごとのアクセス数と、閲覧に用いられた端末の関連情報くらいのもので、かのサービスに搭載されたマーケティング用の膨大な機能は無用の長物でしかなかった。
アクセスしてきた読者をトラッキングしようとするのも気に入らない。こんないかがわしい真似をするから広告ブロッカーに弾かれるんじゃないか。そのせいで結果的にアクセス数の正確性は昔ほどあてにならなくなってしまった。特に技術的な記事を目当てに来る読者はえてしてリテラシーに長けているので、かなりの割合でAdblockやuBlock、AdGuardを導入している。これでは解析ツールの効果が薄れる。
もちろん、Google Analyticsの本領はどう考えてもそっちの方――マーケティングとしてのアクセス解析であり、得られたデータを活用して利益誘導を働きかけるためのツールだ。僕の文句が筋違いなのは理解している。しからば、もっと自身に適した他の道具にさっさと乗り換える方が賢明に違いない。
## Easy web analytics. No tracking of personal data.
アクセス解析ツールは多く存在するが、無料で軽量、余計な機能がないものとなるとだいぶ数は絞られてくる。ぼちぼち検索して見つけた中から[GoatCounter](https://www.goatcounter.com/)というサービスを選んだ。
![](https://static.zgo.at/screenshot3.png)
![](https://static.zgo.at/screenshot2.png)
新興のWebサービスにしてはえらく地味な作りだが、おかげで必要な情報は簡素にまとまっているし、少なくとも僕がuBlockに適用しているフィルタ豆腐フィルタには弾かれていない。**ロード時に読み込まれるJavaScriptの容量はたったの2KB前後。** まさに看板に偽りなしの軽量さだ。
導入方法も非常に簡単で、前述の公式サイトから会員登録を済ませた後、自身のWebサイトのheadタグ内に下記のコードをコピペするだけで済む。Gatsby向けには専用のプラグインも[用意されている。](https://www.gatsbyjs.com/plugins/gatsby-plugin-goatcounter/)
```html
<script data-goatcounter="https://登録したID.goatcounter.com/count"
async src="//gc.zgo.at/count.js"></script>
```
さっそく自分の端末で試行してみたが、アクセス数の反映には体感的に5秒とかからなかった。ほぼリアルタイムといって差し支えない。ページビューが月10万を越えると有料プランに移行しなければならないが、個人ブログ程度にそこまで大量のアクセスが到来するおそれはまずないだろう。Google Analyticsからここに移行してみると、これまでいかに煩雑な画面に視界が煩わされていたかよく解る。

622
content/post/Migrate.md Normal file
View file

@ -0,0 +1,622 @@
---
title: "Migrate"
date: 2023-08-06T20:26:45+09:00
draft: false
tags: ['novel']
---
 私の家の壁には海岸が飾られている。軌道上で衛星カメラが撮り溜めした動画をループ再生しているのだ。構図は決まって上半分が海、下半分が砂浜で、地球のどこの海岸を映し出していてもそれは変わらない。ルームメイトのリィはこの構図しか好まない。ディスプレイというよりは絵画を意識したつもりなのか、投影部分の周りは大げさな中世趣味の額縁で囲まれている。
「これこそが大自然のツートーンなんだ」
 などといかにもなことを彼女は言う。うっかり耳を傾けてしまった、と後悔した時にはもう遅かった。彼女のおしゃべりは尋常ではない。一〇〇年変えていない紫と銀のストライプでできたロングストレートの髪型を揺らしながら、堰を切ったように語りはじめた。
「とは言うけど、潮の満ち引きがあるからこうきっちり上半分と下半分には分かれないんだよね。もし単に定点撮影をしているのなら。じゃあなんでこの絵は比率を保っているのかというと、もちろん私が衛星カメラを同調させているからなんだけど、都度変わる軌道角に対して常に最適な設定値を導くのは簡単な仕事じゃないんだ。でもそうすると私の物理的実体は海からずうっと離れた宇宙にあるはずなのに、図らずも未だ地上の現象に誘引されていることになる。しかし、潮汐を引き起こしている張本人は私たちのはるか後ろにいる月なんだな。その月もまた私たちと同じく地球の周りをぐるぐる回っている。こういう関係性からなにが得られるか考えてみたい。というのも――」
 要するに、海岸の動画が芸術家のインスピレーションに役立つと言う。冒頭部分以外は聞き流していたので覚えていない。権限の乏しさと裏腹に豊富な計算資源を与えられるB4クラスでなければ、こんなリソース食いのインテリアはとても置く気になれないだろう。もともと、地上を映す衛星カメラは私たちの祖先たる地上人の行く末を観察するために運用されていたのだ。
 およそ一〇〇〇年前に人類は進化の岐路に立たされた。衛星軌道上を周回するサーバに情報化した自分を登録して肉体を捨てるか、そのまま地表に留まるか。万人に選択肢があったとは言えない。不可避の隕石群の襲来という非常事態を前に、人類の大移住は混乱を極めた。ある者は地上を隕石から守ろうと最期まで手段を講じた。別のある者は思想上の行き違いから研究所や打ち上げ施設を破壊しようとした。
 だが、毎年ちょっとずつ降り注ぐ燃えかすの隕石は、それだけで森林を焼き払い、都市に傷跡を残し、どうあがいてもいずれ文明の崩壊が余儀なくされる現実を突きつけた。来る生存圏の縮小と資源不足に備えて、人類はより低燃費に、よりコンパクトにならなければいけなかった。
 こうして、名だたる企業によってイレブンナインの永久寿命を保証された一億人余りの新人類が誕生した。参画企業の名を冠するサーバが十にも百にものぼって宇宙へと打ち上がった。その多くは商業的な野心を秘めてもいたが、それが皮肉にも人類の分散的保存に一役を買った。
 隕石に滅多打ちにされて順調に滅んでいく地上を尻目に、衛星軌道を回る百余りのサーバの情報空間では肉体を持っていた頃と良くも悪くも同じ生活が待ち受けていた。有限の電力からなる有限の計算資源に限界を設定されている以上、私たちに知覚的満足を与える情報生成物の分配は常に議論された。あらゆる情報には価値が付けられ、対価を払うために生産をして、知覚的不足を補おうとする。
 要するに、眠ったり起きたり、食べたり飲んだり、働いたり休んだり、序列を競ったり、そういうエミュレートなしでは新たな生命を育めない新人類に種を保存するモチベーションをもたらせなかったらしい。
 ここは恒久の避難所であって、ユートピアではない。なんとも空虚な未来だが、一〇〇〇年前に隕石に焼かれて死んでいたよりは良かったはずだ。たぶん。
 この日もさしてこだわりなく選んだ低情報量トーストをテーブルの上に置いた。夜通しで机に向かっていたリィは、焼けたパンの匂いをかぎつけるとのそのそと食べだした。壁面の絵は今日も変わらず地上のどこかの海岸を映している。「よくもまあ飽きないものだね」と挨拶代わりに投げかけると彼女は軽くにらんだ。
「君の趣味も大概だろう」
「オーケー。お互いに言いっこなしってことね」
 ざざあ、と絵が波の合成音声を再生した。
 地上と衛星軌道の他に、もう一つの道を選んだ人々もいる。サーバの大部分を推進エンジンに組み替えて前人未到の外宇宙に飛び出していったのだ。当時、地上人が到達した宇宙はせいぜいアルファケンタウリ近傍までで、投じるコストの割に得られる利益の少なさゆえ宇宙開発は下火に追いやられていた。一〇〇〇年経ってなお、彼らから衛星軌道に連絡が届く気配はない。当然、私のアンテナに来るわけがない。
 私はジェスチャでコントロールパネルを表示して、今朝の外部アンテナの状態を調べて所定の処理を施した。「ロマンティストだね。とうの昔に太陽系すら抜けられず全滅したかもしれないのに。一回でもなにか受信した試しがあったかい」今度は私がにらむ番だった。「私も自分でコストを支払って外部アンテナを契約している。こんな世の中じゃ割に合わない夢くらい持っていたいよ」
「二人揃って変人というわけだ」
 悪びれもせずリィは身を乗り出して二枚目の低情報量トーストを手に取った。
「まあ、おかげさまで人間的享楽の程度はこんなもんだけど」
 その気になれば私たちは感覚の基準値をスライダーの調整一つで数千倍にも負の値にも設定できる。しかし、数千倍もの解像感でテイストやディティールの隅々にまで知覚が得られるということは、数千倍の早さで即効飽きることを意味する。かつての豊かな時代では高度な基準値に合わせた生成物が流通していたらしいが、今ではほどほどに妥協して楽しむのが人生の秘訣とされている。
「別に食べなくったって死にはしない。最悪、オプションから空腹機能を切ればいい」
「あれ鬱になるからイヤ」
 他愛もない雑談を交わしつつコントロールパネルを切り替え、自分のアバターに着せる服を選んで出勤の準備を整える。紺のロングコートに黒のパンツスーツでばっちり決めた。パネル上に拡大した姿見を見て、短くビビットなオレンジの髪色が今日のコーデにはやや明るすぎると気づいたが、まあいいかと妥協した。こないだ明度を〇.〇五度下げたばかりだ。彼女に「じゃあ、いってきます」と告げてテレポートを試みたところで、最近なにかと目につく制限通知に出鼻をくじかれた。
『現在、情報量の削減のためテレポートの使用を制限しています』
 私はため息を吐いて不満を漏らした。
「またテレポートできないって」
 だが、自宅が仕事場であるリィの返答はにべもない。
「たまに歩いた方がメンタルにいいんじゃない、仕事柄」私はあからさまな嫌味に嫌味で返した。「万年引きこもりに言われたくないね」とはいえ、復旧に賭けて遅刻しては元も子もないので結局歩いていくことにした。
 玄関のドアを開けたあたりでかけられた「待たれよ」との声に振り返ると、不意打ちにリィが顔を寄せてきた。あまりにも機敏な動作だったせいで彼女の鋭いまつ毛が皮膚に突き刺さった。
「ほら、ちゅーしてやったぞ。せいぜい頑張れ」
「嬉しいけどまつ毛のピクセルはもっと削った方がいいね」
 さっさと踵を返して部屋に戻ろうとするルームメイトの背中に向かって言ってやる。当の彼女は中指を立てた右手を掲げて応じた。
 私が今のサーバに移住したのは一年くらい前になる。大小の企業が太鼓判を押した永久保証の人生にもついに終わりが訪れたのかと観念した矢先、次に目が覚めたのは登録前の走査が行われる真っ白なテンポラリー空間だった。幸いにも手先が器用でささやかな経歴を持つ私はDクラスのサスペンド処分を免れたが、懸念を呼んだのは住居でここには余剰の計算資源がなかった。そこで上位クラスとのルームシェアリングが提案され、すぐに応じたのがリィだった。
 売れない芸術家だと自嘲する彼女のプロフィール情報には性別の記載がなかったものの、直近三〇〇年は女性体アバターに馴染んでいると言うので「彼女」と呼んでいる。図らずも私と同じだ。そうして、共に過ごして一〇〇年余りが経った。移住して日が浅い類友を探していただけの割には長続きしている。
 ここの文化は以前にいたところとはずいぶん違う。私は久しぶりに街並みを見回した。まず街という街が四角四面のブロック状に統一されていて飾り気がまったくない。どこへ行っても変わり映えがしないので、うっかりすると自分のアバターが浮き出して見える。情報量を浪費して華美に着飾るファッションは明らかに歓迎されていない。
 それも当然そのはず。私は移住当時に告知された利用規約を思い出した。「主力電源を喪失して久しい我々のサーバでは目下、情報量の削減が至上命題となっている」と言いつけられて、スペアアバターをすべて放棄させられたのだ。ワニのアバターがお気に入りだったのに。事情が事情ゆえ生きているだけマシと受け入れたが、年月が経つにつれて極端な緊縮政策に嫌気が差してきている。
 本来なら地球上の天気が再現されているであろう空間上部も、#7d7d7dの灰色に一面塗りつぶされていて微動だにしない。そんな押し潰されそうな虚無の圧迫感に抗するがごとく街並みの至るところが色とりどりのパステルカラーで彩色されているが、このほどライトマッピングも無効化されたために見た目の安っぽさはどうにも拭いがたい。
「おや、君はセシリア……いや、今はセスと言うんだったな。徒歩で通勤かね」
 噂をすれば、ブロック状の構造物が立ち並ぶオフィス街の通りで今もっとも会いたくない人物と出くわした。ある意味でもっとも中性的な、表情の読めないのっぺりとしたアバターの外見を模倣するように、私の顔もぎしりと硬直した。
「テレポートが使えなかったのでね」
 それだけ言って立ち去ろうとしたが、彼は道を譲らない。
「まあそう急ぐな。君には一言、礼を言っておきたい。僕が考案した短縮名規則に応じてくれたのだから。前はあんなに嫌がっていたのに」
「利用規約となってしまっては仕方がないよ。サスペンド処分はごめんだ」
 皮肉混じりに言い返しても彼は気にも留めない。システムが余計な気を利かせてポップアップしたプロフィール情報によると、彼のクラスはB1。上位モデレータだ。アドミニストレータ権限を握るAクラスを除けば最高の地位を意味する。日常で接しうる相手では事実上のトップと言って差し支えない。だからこそ下手な思いつきでしかない取り決めが公式の利用規約としてまかり通っている。
「前から僕は言っていたじゃないか。登録者が自らのアイデンティティをなげうつ姿勢から情報量の削減が実現されていくのだと。見たまえ、この整然とした街並みを」
 カクカクの両手を広げて示すのは負けず劣らずカクカクのビル群。街のデザインを簡素化して情報量を大きく削減したのは彼の功績の一つとされている。対して、全登録者の名前をアルファベット表記で四文字以下に縮める新規約は言うまでもなくすこぶる評判が悪い。
 というのも、内部的に別の英数字で照合されている名前を数文字ばかり減らしてもまったく削減にはならないからだ。理想的なアルゴリズムで圧縮したモナリザの肖像画すら賄えない。だが、反論は通じない。大切なのは姿勢と開き直るに違いない。かくいう彼の新しい名前もアルファベットでPとiの二文字しかない。パイと読ませたいのだろう。
「おかげさまで、今日もここへ来るまでに引っかかり一つなくて快適だったよ。なんせどこもかしこものっぺりとしているからね」
「そうだろう、そうだろう。これからどんどん良くなる。戦争指揮に計算資源を割り振っているAクラスの方々に代わって、モデレータが率先して登録者を導かなければ」
 表情は読めずとも声の調子からパイの満足げな表情が伝わってきた。いっそ出力音声のビットレートも削り落としてしまえばいい。などと言ったら本気でやりかねないので適当にやり過ごして雑談から逃れた。背中に彼のデータ参照を企図する抜け目のない視線を察知して、私はピンク色をした四角いビルに飛び込んだ。やはり、ぎりぎりまで粘ってでもテレポートで行くべきだった。
---
 ビルの中は外部の構造に反した空間が実装されている。見た目はペンシルビルでもグランドホテルのエントランス並に広いロビーが備わっていて、壁面に並ぶエレベータの数ときたら両手では収まりきらないほどだ。最上階は五〇〇階だが、実際に高低差を伴う空間座標が与えられているわけではない。現にエレベータに乗り込んで一二三階のボタンを押しても、数秒と待たずに目的地のドアが開く。エレベータの内部処理は単に異なる実装のテレポートとして機能しているに過ぎない。
 今日のオフィスは二〇世紀末風だった。意味もなく仮想の紙切れが飛び交い、ブラウン管と接続されたアンティークな機械が並んでいる。それぞれのデスクの横には飲み口が薄汚れたコーヒーカップや、食べかけのスナックも置かれていた。私は親しんだ横顔の脇からスナックをかすめとろうとしたが、かざした手は衝突判定を与えられずに空振りした。見てくれだけとはハリボテにしても貧相だ。それに気づいた仕掛け人が振り向いてニヤリと笑った。「今日のは特に不評だ」
「もっと情報量に凝ればよかったのに」
 コーヒーカップに手をめり込ませて左右に動かしながら感想を述べると、彼女は言った。「どこもそんな余裕はないさ。他のサーバと比べたらこれでも上等だ」白いワイシャツにネクタイが緩くかかった浅黒の男性体アバターの出で立ちは、まさしくステレオタイプな二世紀末のオフィスワーカーが再現されている。あえて表示させるまでもないが空中に浮かぶ彼女のプロフィール情報は、クラスがC1であることを示していた。部署の長ゆえ従業員の私より一つ高い。例によって名前は短縮されていて、S、I、Vの三文字でシヴと読む。
「ここは会社所有の空間だから勝手だが、今にどうなることやら」
 ベージュ色をした機械がビーッと不可解な音を立てて紙を吐き散らした。どういう用途の装置か知らないが、たぶん紙を出すのが一つの役割なのだろう。どうせハリボテと見込んで手のひらを叩きつけると、予想に反して鋭いフィードバックが得られて面食らった。そして、なぜだか叩かれた途端に装置は嘘みたいに静まった。
 まもなく始業時間を迎えると二〇世紀末のオフィスは初期化とともに虚空の彼方に消え去り、入れ替わりに標準環境の内装が戻ってきた。それぞれの座席に平らな半透明の操作盤がはめ込まれていき、正面にはスクリーンが設置される。部屋の壁面にもひときわ巨大なスクリーンがあてがわれた。サーバの外部カメラが映し出す地球の青く淡い光と黒ずんだ宇宙のコントラストがオフィスの雰囲気を引き締める。
 フィードバックに晒された手を抑えてシヴと目を合わせると、彼女は肩をすくめた。
「さあ仕事だ」
 既定の座席に着くとスクリーンが点灯した。続けて、半透明の操作盤も発光してジェスチャ入力を受けつけるガイドラインを示す。スクリーンの向こう側には、漆黒の海ときらめく星々が広がっている。
 操作盤の上で手をぎゅっと握って手前に引くと、スクリーンに映る宇宙の風景が傾いで遠くの星々が滲んだ。今度は逆に奥に押す。感覚はないが経験で探査機が正しく動作したことを確信する。念を入れて左手のジェスチャでシステムステータスを呼び出すと、案の定、オールグリーンで正常だった。次に、両手を高く持ち上げて手のひらを閉じて開くと、ロボットアームがスクリーンの視界に映り込んで同じ動きをした。
 戦争中でなければ人間の移住方法は本来一つしかない。
 あるサーバから他のサーバに移住申請が届け出されると、衛星軌道上を周回するサーバ同士が同調して距離を徐々に縮める。その後、巨大なパラボラアンテナ――私の契約しているアンテナとは比較にならない大きさだ――が傾斜して最寄りのサーバに向きを合わせる。受け手側もアンテナを動かす。三回、移住希望者の情報を送信して、三回ともパケットロスがなければ転送成功と判断され、元のサーバの情報は削除される。多少のパケットロスは誤り訂正機能で補われるが、一定の閾値を越えた時には再送信の機会を待たなければならない。移住者の希望するサーバが運悪く遠方だった場合は、この作業を隣接するサーバの数だけ繰り返す必要がある。
 運が悪いと途中のサーバで待ちぼうけを食らうこともある。メッセージやファイルの送受信はネットワーク通信で事足りても、人間の転送にはどうしても慎重さがつきまとう。なにはともあれ、これが唯一の方法だった。
 私は慣れた手さばきで探査機を操縦して半回転させた。ジェットが細かく白い気流を吹いて探査機に推進力を与える。全身に大量のカメラやセンサ、上部には例の巨大なパラボラアンテナを配した、円柱形のサーバが地球を背景に宇宙を泳いでいる様子が見えた。反射光に照らされて鈍く光る白色の表面は、よく見ると全然白くもなんともなくむしろ錆びついて薄汚れている。ところどころには戦禍の傷跡もうかがえる。全長約一キロメートル物理単位のこのサーバ――ハードフォークスⅠに、私を含む数百万の人間が電子情報的に暮らしている。
 先の交戦で主力の核融合発電機を喪失して一二〇年。今は消費電力を抑えつつ、昔ながらの太陽光発電で命運を引き延ばす衛星軌道上の病床だ。近隣のサーバも軒並み深刻な問題を抱えている。
 再び探査機を反転させた。善戦にも拘らず敗北を喫した友好サーバの残骸は未だ多くが未回収となっている。アームを振り回し無価値な石塊や人工物のデブリを払いのけて探査機を推進させること二時間、ようやく最初の目標が見つかった。心なしか、操作盤の上の手の動きも神経質さを帯びる。ジェスチャで入力精度を小数点以下にして大きな動作が小さく反映される形に再設定した。
 目の前に浮かんでいる板切れはどう見てもデータストレージそのものだ。しかも保護外装が新品同様に美しく、一つも剥げた箇所がない。物理的損傷がなければストレージはかなり長く機能する。中にいる人々も生きているはずだ。
 勤労意欲はなくとも同胞意識は感じる。かつては私もそうだった。何百年も宇宙を漂っていたのをここの探査機が見つけて拾ってくれたのだ。センチメートル物理単位の動きでアームを近づけ、深緑色の保護外装の端すれすれを意識して掴んだ。ふうっと息が漏れる。まだ終わりではない。
 次は半ば開いている手のひらをゆっくりと閉じていく。強く掴みすぎてはいけない。外装ごと基盤を潰してしまう。かといって、弱すぎてもいけない。持って帰るまでに生じる振動や回避運動によってアームから外れてしまえば、最初からやり直しになる。
 スクリーンの向こうのアームがギリギリと基盤を上下に締めつけている。見た目はもう十分そうに思える。しかし私は計器を信用して、さらに手のひらを数ミリ閉じた。無骨なアームの先端が外装に軽くめり込んだ直後、手の動きをぴたりと止めた。空いている方の手を使ってアームに固定設定を施したと同時に、両手を操作盤から外して小休止をとった。
 気を取り直して帰還作業に入る。アームで掴んだ生命を宿す板切れを傷つけないように、身を盾にして背面推進でデブリをかきわける。対物センサが立て続けに衝突を通知するがお構いなしだ。豆粒みたいに映るハードフォークスⅠがじわじわと広がる過程で、私は成功を確信しつつあった。
 だが、ステータスが衝突通知ではないタイプの警告を鳴らした瞬間に、実在しない全身の筋肉がこわばるのを感じた。
 敵機の接近を報せる真っ赤なアラートがスクリーン上に点灯した。まだ見ぬ視界外の脅威に対応すべくジェスチャの入力精度を大幅に上げて戦闘態勢に移行する。握った両手を左右に振り、小刻みに動かすと探査機は大仰に応じてジェットを吹いた。くるくると渦を巻いて撒き散らされる軌跡を五〇ミリメートル物理単位の赤色光線が次々と通過していくのを視認した。スクリーンの横にサブモニタを展開して射線の始端を見やると、そこには鋭い矢をつがえた弓の姿を象るメインブランチⅠの戦闘機がいた。システムステータスが敵機の識別情報をすばやく伝える。交戦中の陣営で最大規模のサーバだ。ジェスチャで有弾ミサイルを呼び出して射出するも、二基のプラズマエンジンの駆動力にかわされる。その隙に私は手を押し込んで探査機を発進させた。ハードフォークスの防衛システム圏内にたどり着けばどうにでもなる。
 通常、敵対するサーバが有視界上に現れることはありえない。同調のための限定された推進力しか持たないサーバ同士が正面きって撃ち合えば確実に共倒れだからだ。そのため、敵対するサーバとは常に地球を遮蔽物にして反対側の軌道を回る形となる。だからといって指をくわえて互いにぐるぐる回り続けるわけもなく、遠距離ミサイルを衛星軌道に載せた爆撃か、このように戦闘機による襲撃がたびたび行われる。事実上の母船たるサーバは容易には落とせないが、いま私が動かしている探査機などは連中にとって良い的だ。有力な情報資源が眠っているかもしれないストレージをみすみす敵の手に渡す道理はない。
 三度のアラームに際して私は重大な決断を迫られた。このままではストレージを離してしまうか、さもなければ回避運動の際に計算外の挙動をもたらしかねない。両方を避けるにはロボットアームの両手を貫通させて抱え込むしかない。当然、中に格納されている人間の一部は情報を不可逆的に失って絶命を余儀なくされる。
 意図的に推進力を落として予測射撃を避けた後、いよいよ打つ手がなくなった私は否が応もなく固定を解除して握りしめた手を縦に振った。片手で穏便に保持されていたストレージの端にめりめりとアームが埋まり、ばつんと貫通する。すぐさま内側に引き寄せてもう片方のアームも端にめり込ませる。強力に確保されたストレージを探査機越しに抱きかかえるようにして、おぼろげに映る円柱の輪郭に向かって残る推進力を全開させた。
 五〇ミリメートル物理単位フォトンキャノンの射線がたった今いたところを通過したのをシステムステータスが捉えた。ぐんぐんと巨大に映るサーバを前に残弾のミサイルをフレア代わりにばらまいて敵機の撹乱を試みる。四方八方にあてどなく煙を吹いて蛇行する爆発物の氾濫に多少は計器も乱せたか、と期待したのも束の間、必殺の赤い光線が探査機の胴体を貫いたのはその直後だった。
 唐突に推進力を奪われつんのめって回転する探査機は、今さら必死に手を振ってももはや言うことを聞かない。あらゆる動作系統がクリティカルエラーを発する赤く染まったスクリーンを目の当たりにして、私は数秒遅れで自身の敗北を悟った。諦めてとどめの追撃を待ち構えていると、辛うじて生きていた対物センサがデブリの接近を警告してきた。攻撃が来ない。
 恐る恐る背面カメラの映像をスクリーンに展開した。ちょうど、メインブランチⅠの敵機の残骸が音もなく探査機の脇を通り過ぎるところだった。はたと視線を戻した前面カメラの方では、ハードフォークスⅠの主砲が描く強大な射線の軌跡が克明に映し出されていた。
 どうやら、ぎりぎり防衛システム圏内に滑り込んでいたらしい。
 深く息を吐いて椅子にもたれかかったあたりで、ようやくオフィスを見回す余裕が生まれた。どの従業員も受け持ちのスクリーンをほったらかして壁面に釘付けになっている。映し出されていたのは宇宙を静かに漂う私の探査機だった。ややあって、シヴが近寄ってきた。
「今日、すべての探査機がメインブランチⅠの戦闘機に襲撃された。帰ってきたのは君の機体だけだ」
 別の機体によってサーバ内の格納庫に曳行されていく自機を見ながら答えた。
「果たして帰ったと言えるかどうか」
「それについて話がある」
 シヴは会社所有空間を示す別のテレポートリンクを送付してきた。されるがままにリンクを承諾すると標準環境のオフィスと似た内装の別室に遷移した。
 視界が切り替わった時、彼女は落ち着きのない仕草で背を向けていた。招待者の出現を認めると振り返ったが、やはり動揺を隠しきれていない。
「一体なにが――」
「みんな死んでいる」
 別人のように険しく引き締められた表情から、決定的な一言が放たれた。自然なエミュレーションの結果として、私の顔つきも彼女と同じくらい固まった。
「え?」
「君が回収したストレージは完全に破損していた。誰一人として整合性が保たれた情報は残っていない」
 息を呑んだ。
 確保のためにロボットアームを貫通させたのが誤りだったのだろうか?
「こいつを見ろ」
 シヴの展開したコントロールパネルが拡大されて真横に移動した。そこには今しがた回収したばかりのストレージが映っている。真ん中に大きな穴が穿たれて周囲が焼け焦げ、見るも無残な姿に変わり果てていた。
 メインブランチⅠの戦闘機が放った一撃が探査機のみならずストレージをも貫いていたのだ。安全確保のためにストレージを内側に抱え込んでいたことがかえってあだとなった。
「……ストレージは損傷を受けていても情報をサルベージできる。なんとかならないのか」
 すがりつくような声で頼んだが、神妙な彼女の態度を察するに無意味な反復作業だと解っていた。
「簡易走査をやってみたがどうにもならない。断片化の修復を試みるにしても全体の情報量自体が欠損しているんだ」
「それでもやってほしい。このままじゃ本当に全滅だ」
 あまりにも必死な食い下がりように根負けしたのか、彼女は渋々頷いてコントロールパネルを操作した。実行開始とともに修復処理が始まり、画面はグラフィカルなプログレスバーに置き換わった。
「いくら俺たちだって失われたものは返ってこないぞ」
 そんな話は嫌というほど解っている。しかし、いつになく上司らしい厳しい物言いに口を閉ざさざるをえない。
 ちまちまと進むプログレスバーの進捗を無言で見つめること数分、先にしゃべったのはシヴの方だった。
「前から気になっていたんだが」
「うん?」
「君の操縦技術はワーカーどまりじゃない。軍人並だ。前のサーバではパイロットだったんじゃないのか?」
 私は苦笑した。音の反射がスポイルされたこの空間では声量に反して残響がほとんどない。
「よしてくれよ。もし軍人だったら今頃Bクラスのプロフィール情報を引っさげてふんぞりかえっていたよ」
「だが、あんな機動は探査機の操縦を一〇〇年やっても身につかない」
 柔和なようでいて存外に懐柔の通じそうにない視線が向けられる。私は飄々と理由を並べた。
「前のサーバではこれしか取り柄がなかったんだ。さもなければこんなご時世じゃCクラスにすらなれずにサスペンドされていたよ」
 開戦以来、大抵どこのサーバも消費電力に見合う価値を生産できない人間はサスペンドされる。削除と違ってなにも死刑というわけではない。無電源で放置すると故障のリスクがわずかに高まるのでたまに通電してもらえるし、ストレージの物理的な風化が生じたら新品に載せ替えてくれる。ただし、物言う人間としての権利は当面失われる。すなわち、戦争に勝つまでは。
「今さらな話だが、不運だったな。豊かな時代にサーバが事故で喪失するなんて」
「突然の出来事でなにも覚えちゃいないがね」
 シヴは未だに納得していない態度を見せたが、ちょうどプログレスバーが末端に届いたおかげでそれ以上の追及は免れた。
 というのも、表示された修復情報は些末な詮索を丸ごと吹き飛ばす惨状を呈していたからだ。
 画面いっぱいに敷き詰められた真っ赤なタイル状の粒はそのどれもが不活性――整合性の欠如を示している。これらはどう組み合わせても符合する情報が存在しないため、有効な人格として機能する余地がない。言い換えれば、情報工学的なバラバラ死体の山だ。それぞれを適切に繋ぎ合わせれば元通りにできる私たちの世界でも、身体が欠けた死人を生き返らせることはできない。およそ数百人の命が五〇ミリメートル物理単位の光線一発で露と消えた。
 結果は判りきっていたはずなのに、横でシヴが吐き捨てるように言った。
「メインブランチのクソどもめ」
 メインブランチⅠとの戦争はサーバ間の規格争いに端緒を発するらしい。もともと地上で有数の企業だったメインブランチ・インダストリアルは衛星軌道上でも数多くの分野を主導した。八世紀もの長きに渡る栄光の時代――しかし、たとえ先進的であっても予め取り決められた共通規格や仕様が反故にされるようになると懸念の声が高まりはじめる。一社が共通規格をいいように操れるのなら、どんなに多数の企業が各々のサーバを運営していても彼らに支配されているのと変わりがないからだ。
 それでも規模と情報生産性で他を圧倒するメインブランチの規格には従わざるをえなかったが、次第に彼らの営利や都合が理由としか思えない破壊的変更が強行されるに至り、とうとう共通規格の分派運動<ハードフォーク>が巻き起こった。規格が合わないサーバ同士とは移住はもちろん、通常の通信も行えなくなっていく。移住できるうちに我先と雪崩をうってメインブランチⅠに向かう人々もいれば、運営コミュニティの決議を経て片方の陣営に与するサーバもいた。
 衛星軌道を回る情報生命体に生まれ変わって一〇〇〇年。眠ったり食べたりすることをやめられなかった人類は、ついに戦争もやめられなかった。本来、有害なデブリを除去するために備え付けられた最低限の防衛設備を、どっちが先に攻撃に用いたのかは判らない。まもなくサーバ同士が主砲を撃ち合う熾烈な戦端が開かれ、おびただしい数のサーバの残骸と死者を出した後、戦場は地球を遮蔽物として利用する現在の形態に移行した。メインブランチ規格の傘下に下り、自社の名前を奉じたいくつかのメインブランチと、新規格に殉じて名前を捧げたハードフォークスの戦いだ。
 ネットワーク規格が異なる人々とは会話ができない。なにをどう感じているのかも判らない。敵対規格を用いた通信は削除相当の重罪に値する。私たちに許された唯一のコミュニケーションは肉体を捨ててなお物理的な暴力しかない。
 じきに私も落ち着きを取り戻して、同胞たちの陰惨な死を受け入れようとしたその時、画面右側の数字に目が留まった。
**『有効:1』**
「待って、一つだけ有効みたいだ」
 声に応じてシヴも顔を向けた。大量の「無効」ステータスの下に、ただ一つの有効性を示す数字が記されている。「見たところ真っ赤だが……」目視での確認を諦めて有効個体に絞り込んで走査させたところ、タイル全体の右上端に染みみたいに滲んだ緑色を発見した。
「人間の情報にしては容量が小さいな」
「でも生きている」
「ちょっと待ってくれ」
 彼女は前のめりの姿勢になって断片化修復の画面を精密走査に切り替えた。有効な情報の素性を登録前に確かめる技術的手法だ。もし人間なら以前に所属していたサーバの一覧、名前、クラス、その他諸々の個人情報が把握できる。経歴の良し悪しによっては移住前に登録を断られる場合がある。ストレージごと物理的にサーバに入り込んだ状態でそういう判断が生じた事例はまずないが、それはそれとして奇跡的に生き残った人間のプロフィールは気になる。
「おかしい、プロフィール情報がない」
 ぽつりとつぶやく浅黒の横顔は、すぐになにかに気がついて口も目もあっと大きく開いた。
「そうか、分かったぞ」
 シヴは顔を合わせて言った。喜ぶべきか、がっかりすべきなのか決めあぐねている表情だ。
「確かにこいつは生きている。だが、人間じゃない」
「どういうことだ」
 精密走査を終えて画面いっぱいに表示された唯一の生き残りの情報が、答えを待たずとも一切を物語っていた。
「これは猫だ。飼い主と一緒に格納されていたんだ」
---
 復旧したテレポート機能で家に帰宅するやいなや、天井から床に屹立する巨大な掘削ドリルと邂逅を果たした。先端部分の周囲には無数の突起がくっついていて、そのどれもがさほど尖っていない。呆気にとられている私を見てリィはにやにや笑っている。紫と銀のストライプで彩られた長髪を揺らめかせて、じいっと目を合わせてきた。いつものおしゃべりが開幕する気配を察して私は身構えた。
「その昔、人類の発展は穴掘りに支えられていたという」
 観念してソファに座り込むとリィは両手を広げて大演説を始めた。背景に人類の歴史の歩みを物語る様々なフッテージが勢いよく展開される。
「人が穴を掘るのは生存圏の拡大、通路の造成、鉱物資源の採掘など実に多様な目的があるわけだけれども、人類の歴史においてほとんどの穴は手作業で掘られていたというのだから驚くよね。地球の各地でのべ何百万人、何千万という人間が、突起のついた棒きれで穴を掘るために人生を費やしていたんだ。最初のパラダイムシフトが訪れるには一九世紀まで待たなければならなかった。我々が衛星軌道に移り住むほんの四〇〇年前だ。地中奥深くの資源にアクセス可能となったことで人類は飛躍的に発展したし、以前には利用されていなかったエネルギー源を活用する目処が立った。というのも、この急峻なグラフを見たまえよ。縦軸が当時の地球上の人口を示していて……」
 数十分後、演説はつつがなく終わり私はおざなりな拍手を送った。大して印象には残らなかったが、部屋の一角を占領するドリルにほのかな威容を与える効果はあったかもしれない。
「しかし、ただ祖先の工業史をなぞるためだけに掘削ドリルの模型を作ったとは思ってほしくないな」
 リィはそう言うと、立ち上がってドリルへ近寄るよう手招きをした。気だるげにずるずると足を引きずって部屋の隅に赴いた直後、耳をつんざく大轟音とともに先端部分が回転して床を削りだした。驚いて後ろに飛び退くとリィは爆笑した。
「おっ! やっと期待通りの反応が出た! そう、これは本当に床を削ってるんだ」
「え? じゃあこれ最終的にどうなるんだ」
 自分の所有空間ではないとはいえゴリゴリと音をたててみるみるうちにデータを失っていく床の様相にうろたえながら訊ねると、なおも彼女は得意げな表情で答えた。
「任意の空間に繋がる」
「実質ハッキングじゃないか」
「はずだったが……その通り。モデレータに目をつけられたくないから実装はしていない。なので、今は床データを壊しているだけだね」
 一通り実演を行なって気が済んだのか彼女は掘削ドリルの動作を停止させた。だが、止まる際も実物の掘削ドリル同様に残響音をうならせて徐々に回転数を落としていく姿を見て、単に付き合わされていた私もさすがに少々感心せざるをえなかった。
「次の個展も高評価を得られるんじゃないか」
 率直に感想を述べたが、意外にも彼女は首を横に振った。
「実を言うと展示する空間がないんだ。どこも情報量削減の煽りを受けていてね。私のみたいにインタラクティブ性を重視する作品はサーバ越しに動画をストリーミングして済むものじゃないし、本体のデータを送るのは受け手に余裕がないから難しい。芸術家向けにソースコードは公開しているけどそれじゃ利益にならない。だからこのサーバ内で見つけないといけないんだけど……それがないからここにあるわけでね」
「まさか、ずっと家に?」
 めり込んだ掘削ドリルに部屋の一角が占められる生活を想像するとめまいがしてきた。もちろん物質的な神経系を持たない私たちにとってめまいは虚構のフィードバックに過ぎないが、憂鬱な気分に襲われているのは間違いない。
「どこかの御大尽がお買い上げでもしてくれないことには……そんなのここいらじゃありえないけどね。メインブランチⅠにはわんさといるけど」
「そういう状況を作ったのもメインブランチじゃないのか」
「私らみたいな人種にはどっちが正しくて悪いかなんてどうでもいいことだよ。豊かで栄えていればいい。芸術には帝国が必要なのさ」
 そう堂々と言ってのけるリィは、確かに不本意な移住者だった。各地でゲリラ的な活動を重ねてキャリアを築き上げ、満を持して巨大商圏での勝負に打って出るべくサーバからサーバへと遠大な道程を歩み、目的地のメインブランチまであと一息というところで共通規格の分派運動に巻き込まれた。芸術の領域で専門性が認められて付与されたB4クラスの地位も、今となってはメインブランチ系サーバとの互換性が絶たれて通用しない。
「ふーん、とんだ反分散主義者だな君は」
 私はあえて試すようなわざとらしい声色で言ってから、コントロールパネルで所属部署のストレージを操作して猫を取り出した。空中に浮くパネルからひょいと姿を現した猫は、床に着地した後に部屋をきょろきょろと見回して、近くのローテーブルに飛び乗った。
「にゃあ」
 猫が鳴いた。特有の華奢な愛らしい様態をいかんなく振りまいている。
 リィはしばし絶句して、ややあって叫んだ。
「これは――猫じゃないか!」
「いかにもそうだ」
「一体どこでこんな代物を!」
 彼女の声は感激でわなわなと震えていた。情報生命体の私たちはここで新たに生命を誕生させることができない。人工的な人間情報の創出は倫理的な懸念を帯びるのみならず、イレブンナインの永久寿命を保証された人類にとって新世代の台頭は脅威に等しい。
 そこで代わりにペットの生成と飼育が流行ったが、情報量削減のために人工生命の生成は例外なく利用規約違反となった。すでに飼育している家庭でもリソース食いを心配して手放すところが増えている。手放す、とはつまり削除するということだ。もう少し余裕のある人はサスペンドで済ませるが、所有していながら触れ合えもしないのはいずれにしても虚しい。
 件のデータストレージから救出した猫は利用規約の改定前に生成されていた。飼育しても違反ではない。そこで、潤沢な計算資源を持つルームメイトをあてこんで私が猫を引き取ったのだ。
 途端に、部屋が壁面に巨大なパネルを展開して警告を発した。
『計算資源の割り当てを超過しています。所定の時間経過後に新しく加えられたオブジェクトから順に削除されます』
「君が愛してやまないメインブランチⅠの連中が壊そうとしていたストレージから救出したんだ」
 私は事の顛末にささやかな脚色を加えてリィを迂遠になじった。
「私の仕事場にはCクラスしかいなくてね。誰もペットを飼えるほどの余剰資源は持っていないし、部署が人工生命を飼育するのは世間体が悪い。正直、君が頼りだったんだが……でもこんなドリルが置かれているんじゃあ、さしもの大芸術家リィ先生といえども飼えないな、残念だよ」
 緩慢な動きで見せつけるように一歩一歩踏み出してわざわざ壁面のパネルに向かい、オブジェクト――すなわち猫――の手動削除を実行しようとしたところ、リィが先に回り込んでなんのためらいもなく自身の作品を削除した。部屋の一角を占領していた巨大の突起物の塊が、ぼろぼろの床を残してかき消えた。
「ドリルは後で軽量版を作ることにするよ。生き物には代えられない」
 きっぱりと言い切ったリィは、さっそくリビングをうろつく猫の背後に忍び寄って捕獲を試みた。その手が猫の毛先に触れるか触れないかの間際、黒と灰色のまだらで構成された人工生命は巧みに身体をくねらせて逃げおおせる。負けじと二度、三度と再試行するも結果は変わらなかった。
「すばらしい自律性だ。よほど豊かな時代に創られたペットに違いない」
 ふうふうと息を荒らげながら彼女は惜しみない評価を与えた。
「そんなに捕まえたければ一時的に乱数を抑えればいい。節約にもなる」
「いいや、なんとしてもコツを掴む」
 それからしばらく格闘していたリィだったが、ひょいひょいと身をかわし続ける猫がソファに座っている私の膝元に飛び乗ってきたあたりで疲労感が勝ったらしい。「ムッ、そこは私の特等席だが?」目元を鋭くして睨みつけるも当の本人は毛づくろいを始めて聞く耳を持たない。
「にゃああ」
 猫が大きく口を開けて鳴いた。
「この子に名前を付けてあげたい」
 芸術家のセンスを期待して問いかけると、彼女はふてくされた顔で「^E/h3Lg%WMnkp2C$Xとかでいいよ」と負け惜しみを言った。大方、英数字と記号を含むランダムな文字列を出力したのだろう。
 膝の上の猫と不意に目が合った。吸い込まれるような大きな瞳が小宇宙を思わせる。やっぱり同胞意識があるのかもしれない。
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 なんだかんだでリィも猫と馴染んだ数週間後、バロック様式のオフィス空間に居心地の悪さを感じていたところへ黒ずくめの集団がテレポートしてきた。人の列をかきわけて現れたのは、他ならぬパイだった。のっぺりとしたアバターに傲慢さがありありと浮き出ている。
「部署長のシヴ氏はいるかな」
 怪訝な表情で席を立ったシヴはそれでも慇懃な態度で応じた。
「モデレータの皆さんにご足労いただくとは恐縮ですね。なにか御用でしょうか」
 パイは近くの宝石があしらわれた豪華な椅子にどかっと腰掛けた。
「二つある。まず一つ目は……君んとこ、探査機を壊しすぎじゃないかね。こちとら資源に余裕はないんだ」
「お言葉ですが、あれは戦闘機の襲撃ですよ。我々は最善を尽くしました」
 事情を説明するシヴに彼は取り付く島もなかった。
「うん、そういうのはいいからさ、代わりに集めてくれないかな、資源。前にも依頼しただろう。地上のユニットに誰か繋げてやらせるんだ」
 依頼という名目で事実上の命令を下したモデレータの首領は、椅子から立ち上がってオフィスに集まる人だかりを品定めした。なんとなく嫌な予感がして奥に引っ込もうとしたが遅かった。目ざとく私を見つけるやいなや彼は声を張った。
「ほら、そこのセス君にやらせたらどうだ。得意だろう。それに、先の襲撃の件でも大手柄だったそうじゃないか……ストレージが無事ならもっとよかったのだが」
「素人なりに頑張ったよ。本職の方々が見当たらなかったものでね」
 パイは私の口ごたえに意を介さずカクカクの両手を上げて降参のポーズをとった。
「おや、手厳しいな。じゃあそういうわけだからよろしく」
 大勢で来た割に意外と早くオフィスを立ち去るのかと思いきや、途中で立ち止まった。「ああ」高い抑揚を伴って彼は振り向いた。
「二つ目について言うのを忘れていたよ」
「なんでしょう」
 辛抱強く尋ねるシヴに彼は告げた。
「情報量削減の一環でね。今後は会社所有空間の環境変更を禁じる」
「なんですって?」
 最低限の礼節を保っていた浅黒の顔にさっと険しさが宿った。「そんなのは利用規約のどこにも――」だが、パイはあっけらかんと答えた。「そういえばまだ書き換えてなかったな」そして、自前のコントロールパネル――彼の持つ黒いパネルは本当の意味で”コントロールパネル”だ――をてきぱきと操作した。
「たった今、利用規約を書き換えた。現時刻を以てバージョン19.6.3094bの発効だ。後で確認しておきたまえ」
 あたかも彼の言葉を待っていたかのようにバロック様式の内装が瞬く間に消し飛び、標準環境のオフィス空間が強制適用された。宝石の椅子は平凡なフルバックチェアに戻り、マホガニー材の机は樹脂製の質感に戻り、絢爛な装飾の丸い鏡が際立つドレッサーは操作盤とスクリーンに戻り、分厚い紙媒体の本が並ぶ本棚や絵画や彫像が飾られていた壁面は宇宙を映す巨大スクリーンに戻った。
 テレポートで颯爽と立ち去ったモデレータたちを沈黙のうちに見送ったシヴは、しかし一言も批判めいたことを言わず始業を告げた。どうやら私も命じられた仕事をしなければいけないらしい。
 戦闘機や探査機を量産するのは造作もない。問題は材料の方だ。合金や特殊繊維の元となる鉄や希土類などはもっぱら地球上にしかない。他の惑星は遠すぎる。
 大昔から地上に残置されている掘削機は作業こそ自動で行なってくれるが、サーバの老朽化に備えて設計された平和な時代の産物ゆえ脅威に対抗する自律性を持たない。私の仕事は付近に投下済みの防衛ユニットを操作して、掘削機が資源を集めるまで哨戒にあたることだ。
 もっとも、探査機と異なり人間同様の四肢を持つ防衛ユニットは両手のみの操縦というわけにはいかない。そこで、繭のような形状の操作ポッドに搭乗してネットワーク越しに直接ユニットと接続する形態をとる。
 会社の所有空間に設えられた操作ポッドに横たわると操作盤に似た淡い発光が全身を包んだ。
 空中に表示されるポッドのシステムステータスが接続を秒読みする。三……二……一……。
 数秒のブラックアウトの後に、私は剥き出しの金属骨格でできた人型防衛ユニットと同化していた。目の前にはあちこちに陽の光が差す浅い森林が広がっている。探査機と同じ要領で両手を持ち上げると、堅牢な金属の手のひらが視界に映り込んだ。ロボットアームと違って指が多い。手を開いて閉じると、油圧アクチュエータが働く駆動音とともに手がみしりと握りこぶしを作った。触覚、聴覚、視覚、どれも異常なし。
 掘削機の位置はすでに視界上にマップされている。薄く表示されたガイドラインに沿って道を歩く。隕石群の襲来が鳴りを潜めて久しく、地球環境は皮肉にも祖先が隆盛を極めていた頃より平穏に満ちているが、それでも私たちにとっての脅威は消えていない。背中に備え付けられた長細い七ミリメートル物理単位フォトンライフルを掴んで両手で構えた。機械の微妙にぎくしゃくした指先で点検を行い、バッテリー残量を確認する。
 かつて地上に存在していた旧文明の残滓はほとんど残っていない。再利用が可能な資源は戦争の過程で衛星軌道上に持ち去られてしまったからだ。そうでないものも大半は環境変化の影響で押し寄せた溶岩や津波に飲み込まれ、無価値な岩石の中に埋もれたか、深い海の底に沈んでいる。大自然が勢いを取り戻しつつあるこの一帯も、記録によると世界有数の湾岸都市がそびえていたというが今では文字通り跡形もない。
 ぎこちない足取りが次第に滑らかさを得ると視界の光源が意識に上りはじめた。天高く地上を照らす太陽光や、それを散乱する草木、あるいは反射する硬質な地面や削れた岩肌などが、ライトマッピングが打ち消された環境に慣れた身にはことさら美しくも疎ましくも感じられる。
 ガイドラインに沿って小一時間歩いたあたりでようやく掘削機が見えた。目的地は人工的に整地された広い窪地のただ中にあった。無機質な四角い箱型のそれは遠隔操作によって事前に電源が入れられ、物言わずあくせくと地面に光線を照射している。斜面を滑り下りて古典的な静電式タッチパネルから掘削機にアクセスすると、用途に適った諸元の登録が確認できた。目的の資源を発掘したら自動で吸い取って筐体内に格納する仕組みになっている。
 レーザーの奏でるごくかすかな掘削音を聞きながら、図らずも私はリィが作った原始的な掘削ドリルを思い出した。あれが人類の発展の象徴ならさしずめこれは収奪の象徴だ。というのも――
 唐突に叫び声が聞こえた。
 斜面を登った崖の向こうに人間の顔が三つ、四つ、いや、五つ……それ以上の群れが顔を出してこっちの様子をうかがっている。金属の身体をきしめかせて振り返ると反対側の崖にも群れが見えた。
 すかさず私は警告を鳴らした。種類は三つあるが、まずはもっとも穏当なものからだ。社名部分以外は一〇〇〇年間変わっていないものの、音声は観測で得た現在の地上人の言語に変換されている。
**『ピーッ、本ユニットおよび本掘削機、ならびにこの地域一帯は株式会社ハードフォークス・フェデレーションの所有物です。現在、掘削作業中のため、安全上の理由から立ち入りはご遠慮願います』**
 間延びした機械音声が二回繰り返されたが、群れの数は減るどころか増える一方だった。明らかに怒気を孕んだ大声があちこちにこだまして、だんだんと激しさを伴っていく。二つ目の警告音声を発した。
**『当社の業務を不当に妨害した場合、民事訴訟または刑事訴追の対象となる恐れがあります。速やかに退去してください』**
 群れの誰かが投げた石がひゅんと横をかすめた。それが合図なのかもしれない。前から後ろから一斉に石や尖った棒きれが投げつけられた。一部が金属の体表にこつん、こつん、とぶつかるもフィードバックの閾値を下回っているために通知は表示されない。
 だが、次に飛んできた投石は少し違った。比較的重苦しい衝突音がして、安全設計に長けた掘削機のレーザー照射が一瞬止まった。前方を見やると、皮革を振り回す何人かがちょうど次弾を放つところだった。鋭い加速度で体表にぶつかった石の弾丸が金属に押し負けて粉々に砕け散った。今度は衝突通知が表示された。続いて、弓を持った集団が崖に並んだ。私は三つ目の警告を発した。
**『これ以上の業務妨害行為は当社の基準に基づき、防衛行動の招来を余儀なくされます。本行為の実施に際して被るあらゆる損害について、当社は一切の責任を負いません。最後の警告です。直ちに退去しなさい』**
 直後、木と尖った石で構成された物体が雨のように視界を埋め尽くした。空を切って地面に突き刺さる数多の矢と入れ違いに、私はフォトンライフルの照準を崖の適当な一群に合わせて撃った。間の抜けた高音が短く響いて射出された赤い光線は、狙った人間の胴体に前触れなく風穴を穿った。
 恐れをなした人だかりが散らばる。群れが引き下がるまで繰り返し撃ち続けた。何人か倒すと大半は崖の向こう側に消えたが、一部は逆に雄叫びをあげて迫ってきた。照準が補正されているとはいえ、わざわざ的をでかくしてくれるとは手間が省けて助かる。
 左右に銃身を動かして手早く前方の脅威を排除した後、振り返って後方から迫る何人かも同様に仕留めた。一転、窪地は静けさを取り戻して人影は一つも見当たらなくなった。
 気だるさに満ちた防衛行動の傍ら、掘削作業は滞りなく再開していたようで作業の完了目安を示す通知が視界上に現れた。
 彼ら地上人は永久に進歩できない。既存の文明が失われるというのは単にふりだしに戻ることを意味しない。人類史の開闢には豊富に存在した鉱石や資源が、二回目の現在は少しも地表に残されていないからだ。新たに手に入れるには深い地殻を掘削するしかない。だが、そのような技術を手に入れるには鉄器文明を経なければならない。つまり、彼らは典型的なデッドロックに陥っている。必要なものを手に入れるために必要なものが決して手に入らない。
 目の前に転がる穴空きの死体を検分した。防具の一つさえ身に着けていない。こんな相手なら一〇〇人に襲われても容易に対処できる。一〇〇〇人だと物量に押されるかもしれないが、防衛ユニットを一基失ってもこっちの本体は三〇〇〇〇キロメートル物理単位上空で寝ている数字の羅列だ。真の脅威は別にいる。
 頃合いよく、自分のものではない油圧アクチュエータの駆動音が耳のマイクロフォンに届いたのでフォトンライフルの銃口を向けた。対する相手は自分が接続しているのとまったく同じ型式の防衛ユニットだ。その主が音声出力を用いて言葉を発した。
「待て、私は味方だ。ハードフォークスⅪの者だ」
 一旦銃身を下ろすと、瓜二つのユニットは金属の身体を傾けて斜面を滑り下りた。重い足で死体を蹴散らしながら一歩ずつ近づいてくる。
「その掘削機は我々が操作していたんだ。防衛の協力には感謝するが、資源はこちらに譲り渡していただきたい」
 私は特に事情を知らされていなかったが、毅然とした態度で答えた。
「そいつは困るな。この資源はハードフォークスⅠが探査機や戦闘機を製造するために使うと聞いている」
 顔に相当する部分に突き出した前面レンズしかない無骨なユニットが、さらに接近して威圧的な姿勢をとった。
「我々もずっと戦闘機が足りていない。メインブランチのやつらに手を着けられていない地上はもうこの辺りしかないんだ」
 一応、指示を仰いでおくか。上位権限者に相談するとの返答を発して、サーバとの通信を開始した。視界上にシヴのアバターが展開される。
「資源の採集には成功したが、ハードフォークスⅪが譲渡を要請している。そもそもこの掘削機は彼らが稼働させていたらしい。どうすればいい」
 私の上位権限者は話を聞いて露骨にしかめっ面をした。
「やつの仕業だな。空いている掘削機がないんで、味方からぶんどろうとさせたのか。くそっ」
「譲っていいのか?」
 上品に整えられた顎髭を手でさすってしばらく考え込んでいたシヴだったが、ややあって妥協案を見出したらしい。おずおずと歯切れの悪い調子で言った。
「半々で分けられないか……あるいは三割でもいい。交渉してくれないか。こっちにも資源が必要なのは確かだ」
「了解」
 通信を終了する、と言いかけたところで、どういうわけか他の通信が割り込んできた。同時に二人の顔が視界を占めたため前方の視認性が非常に悪化した。
「おい、誰がそんな真似をしていいと言った」
 新たな通信の主はパイだった。モデレータ権限を有するB2クラス以上はサーバ内の特定の会話を監視することができる。のっぺりとしたアバターが口も動かさず威勢よく吠えた。
「その資源はすべてハードフォークスⅠのものだ。一つも渡すな」
「ハードフォークスⅪだって困っているようだが」
「旗艦サーバの僕たちが優先に決まっているだろ。そう伝えろ。邪魔されたら破壊してしまえ」
 シヴはこの会話を聞いているはずだが、特に口を挟まず押し黙っている。そういう話なら仕方がない。
「了解した。通信を終了する」
 ぎしり、とこちらの金属の身体が動いたのを察知して、相手のユニットもかすかに反応を示した。音声出力で事情を伝えるより先に私はフォトンライフルをすばやく構えて銃口を向けた。
「悪いね。上位権限者の裁定により、この資源はハードフォークスⅠが占有することになった」
 まんまと後手に回った相手は振動板をぶるぶると震わせて不平を訴えた。
「横暴だ。こっちがどれだけ情報量の削減に協力していると思っている。そのうえ資源まで奪われてどうやってメインブランチと戦えというんだ」
 だが、私はむしろ銃口をちらつかせてユニットの胸部に押しつけた。
「そういうのは上位権限者同士で相談してくれ。私は与えられた仕事をするだけさ。今すぐ回れ右して下がらなければユニットを製造する手間も増えるぞ」
「分かった、待ってくれ。こっちにも体裁がある。上位権限者に報告する時間がほしい」
「いいだろう」
 通信状態に入ったことを示す青色のインジケータがユニットの側頭部に点灯した。一分にも満たない短い時間で終わった報告の末、相手のスピーカーから絞り出された一言はさっきまでのうろたえようが嘘のように戦意に満ちあふれていた。
「私の上位権限者の裁定も出た。貴様を破壊して資源を回収する」
 たちまち金属の腕によってライフルが跳ねのけられた。反射的に放たれた光線はそれて見当違いの方向に飛んだ。矢継ぎ早に迫る拳を片手で受け止める。二基の油圧アクチュエータがうなって拮抗しあったのも束の間、業を煮やした相手がもう片方の拳を引いて胴体に打撃を与えてきた。投石の数千倍に匹敵する衝撃が通知されて、胸部に緩い凹みができあがる。
 こちらも片方の手で保持されたフォトンライフルを腰だめで向けると、打撃の手が銃身を強く掴んだ。ぎりぎりと手のひらが万力のごとく働いて機構を潰そうとしている。やむをえず私は前足を繰り出して相手のユニットを蹴飛ばした。二人は反動で揃って地面に倒れ込んだ。
 重い身体を強引に動かして体勢を整えた相手に対して、私は伏せたまま銃身を地面に立てて引き金を絞る。赤い光線が三発、金属の体表を穿って銃創の周りに焼け焦げを作ったが動きは一向に止まらない。のけぞりつつも勢いよく迫り、足を上げてこちらのユニットの頸部を潰す構えをとった。
 寸前にライフルを手放して横転する。二度の回避を辛くも成功させてパターンを読んだ私は、三度襲いかかる三〇〇キログラム物理単位荷重の足を両手で掴みとった。人型を模している都合上、防衛ユニットも足首の構造は比較的脆い。手に力を込めてひねると相手の足首は金属の悲鳴をあげてねじ曲がった。手を離した途端に全身が傾いだ相手をよそに、しっかりと立ち上がる。
 ひゅいーん、と油圧が空回りする音が聞こえる。もはや相手は二足歩行がままならない。ようやく片足を踏み込み詰まった間合いで振られた拳も、折れた足首のぶんだけだらんと斜めに傾いた姿勢では勢いに欠ける。難なくそれを避けて地面のフォトンライフルをゆっくりと拾い上げた。
 眼前の防衛ユニットはまだ身体を動かそうと無駄な努力を続けている。ついには体勢を崩して前のめりに倒れ、片膝をついた状態で微振動するのみとなった。最期になにか言い分を聞くべきか迷ったが、性懲りもなく背面のライフルに手を伸ばそうとしているのを見て私はすかさず握りしめた拳を頭部に叩き込んだ。ばちばちと微小の火花が散って合金の塊が大きな丸いレンズを貫いた。
 やや遅れて、行き場を失った白色のオイルがユニットの隙間から血のようにだらだらと漏れた。
 掘削機の方を見ると、レーザの照射を終えて資源も採集されているようだった。私は通信を開いて報告を行なった。
「状況報告。ハードフォークスⅪの防衛ユニットを破壊した。往復船を要請する」
 回答は音声ではなくシステム通知で来た。十数分後、上空から気流を撒き散らして現れた小型の往復船に掘削機を接続して資源を吸引させ、防衛ユニットを退避モードに切り替えて接続を終了した。ブラックアウトの間隙を経て、私の意識は三〇〇〇〇キロメートル物理単位上空の衛星軌道上に舞い戻った。
 操作ポッドから這い出てオフィスの空間に遷移したが、従業員はほとんど残っていなかった。シヴの姿もどこにも見えない。人事マネージャが退勤していいと言うので素直にテレポートしようとしたところ、ここへきてまた『現在、情報量の削減のためテレポートの使用を制限しています』の表示に遮られた。
 ブロック状の街中を帰る道すがら、灰色に埋まる空の向こう側にハードフォークスとメインブランチの戦闘機が交差する宇宙を思い描いた。彼らもまた仮初の命を削り合っているのだろうか。
---
 職場が当面は出勤するなと告知してきたので不本意な休暇に入った。最初の数週間は軽量版掘削ドリルの開発に勤しむリィを眺めたり、猫と戯れたりしていたが、一ヶ月が経ち、二ヶ月が過ぎると不安が募った。なにしろ計算資源の割り当てが保証された休暇ではない。このままではただの居候になってしまう。
「君一人はともかく外部アンテナのリソースまでは払えないかな」
 無給生活三ヶ月目にして具体的な条件が突きつけられた。私は膝の上の猫を撫でながら言った。
「別に払わせるつもりはないよ。そのうちなんとかする。そのうち」
 ところが今日の彼女の追及は厳しかった。
「先週も聞いたよそれ。君はやり手じゃなかったのかね」
「私がやり手でも動かせる機体がないとね。軍人クラスじゃないから戦闘機は扱えないし」
「ふーん」
 椅子から立ち上がったリィが近づいてきたかと思えば猫を私から取り上げて、代わりに膝の上に座った。紫と銀のきらびやかなストライプの髪の毛が最大の解像度で視界いっぱいに映った。
 なんとなしに頭を撫でてやる。非線形触覚エミュレータを備えた柔らかな髪質が手のひらに豊かなフィードバックをもたらした。
「いざとなったら^E/h3Lg%WMnkp2C$Xの乱数を少し減らせばいいかな」
 私に寄りかかりながらリィが言った。
「そんなに気を遣わせるのは忍びないな。しかしその子の名前は本当にそれでいいのか」
「今のところはね。猫とはいえ四文字以下の良い名前なんてそうそう思いつかない」
 言葉が途切れた。驚くべきことだ。何ヶ月も常時くっついているとさすがに話す内容がなくなってくるらしい。彼女の大演説はとっくにネタ切れでリサイタルも複数回やったほどだったし、ストリーミングやニュースの内容も世相を反映してか、なにやら悲壮感が漂っていて観る気にならない。
 壁面の海岸の絵から、ざざあ、と波を寄せて返す合成音声が聞こえた。
「あっ」
 急にリィが声をあげたので私は食いついた。
「なに?」
「海に連れていってくれないか。ここにだって海岸はある」
「いやそれは……どうだろう」
 わずかに逡巡したが事実上の居候に甘んじている手前、エスコートを命じられて断る道理はなかった。二人して海水浴ルックに着替えて、いそいそと外出の準備を始めた。
 言われてみれば地球の公転周期からすると今の北半球は夏だ。サーバ内ではアバターが情報量に見合った範囲で思い思いの格好をしているので、袖の長短が不都合を招くことはない。以前の地上文明には季節という定期的な気温変化に合わせた服装で着飾ったり、趣味や娯楽に興じたりする風習があったと聞く。
 しかし、睡眠や食事と異なりこれらは必ずしも人間の精神衛生に必須の要件ではないと見なされているらしい。私たちが気温変化を知覚するのは特定のバイオームに入場した時ぐらいだ。そしてまさしく、海岸にはサマーバイオームが設定されている。
 出発間際、リィを見るといつの間にか身長ほどに大きい浮輪を抱えていた。頭にはシュノーケルも着けている。「張り切りすぎだよ」と笑うと「物事にはメリハリが必要なんだ」と彼女は答えた。
 今日も正規のテレポートは使えない。しばらく家の中にいたので定かではないが、たぶんずっと働いていないのだろう。私は浮輪に身体を束縛された彼女の手を引いて、歩いて駅に向かった。
 一〇〇〇年前の地上の都市設計が再現されているサーバ内には当然、駅も存在している。上部のパンタグラフで架線と接続された、古典的な出で立ちの電動列車がレンガみたいな車体を滑らせてコンコースに入ってきた。例によって街全体がのっぺりしているものだから、ただでさえ浮かれきった海水浴ルックに、浮輪とシュノーケルまで装着した彼女はさながら空中を泳いでいるかのように見えているかもしれない。
 電車が動くとリィは座席に膝を立てて窓際に身を乗り出した。景色がゆるゆると流れて、加速とともに住み慣れた街がどんどん遠のいていく。もちろん、これもエレベータと類似の処理を施しているだけで本当に車体が任意の空間座標を移動しているわけではない。景色の遷移も予めキャッシュされた映像を差分表示している。そんなことは十分に承知の上で、彼女は旅行の雰囲気を楽しむ腹積もりのようだった。私も膝こそ立てはしないが、首を回して何千万回も再生されたであろう映像をぼんやりと見つめた。
 乗り換えの概念はない。映像が目的地までの過程を描いた後にいつでも下車できる。
「ああ、あれが砂浜だね。見なよ、太陽光が無効化されているから砂浜がベージュ色に塗りつぶされた平面みたいだ。しかし、そんなものでもこうしてじわじわ手前にせり上がってくると心なしかワクワクするね」
 彼女の解説に耳を傾けながらたっぷりと堪能した砂浜の奥の方に、群青の深みを湛えた海が見えた。ライトマッピングが打ち消された無表情の海水が、横一列にブロック状の波を砂浜に打ちつけている。
 車体の振動が止んで、下車を勧める通知が車内に表示された。私たちは開いたドアから出て一目散に海を目指した。もうすでに、潮の匂いがする。
 コントロールパネルがサマーバイオームに入場したことを知らせる。肌にまとわりつく湿り気を仮想の熱気が運んでくるのを感じた。調整も可能だが、あえてデフォルト値に留めた。きっとリィもそうしている。
 砂浜に人影は見当たらない。戦時中だからなのか、単に海水浴が廃れているからなのか、一面をべたっとベージュと群青で塗り分けた無機質な空間がそこにあった。
「まるで絵の具で描いたような海だ」
 リィは忌憚のない感想を述べて、上下黒のホルターネック・ビキニにアバターを着せ替えた。アバター自体も長髪を後ろに束ねた姿に変化している。「ほっ」軽快に叫んで彼女が跳ねると、硬質そうな砂の表面がざくっと音をたてて四分割の大雑把な塊に分かれた。物理運動のエミュレーションが制約されている環境では砂粒一つ一つの挙動を再現しきれないようだ。さらにジャンプを重ねると直前に存在した塊が消えてすぐに新しい四分割の塊が再生成された。不要な生成物を残さない規約通りの仕様が徹底されている。
 浮輪を胴体に通したリィがざくざくと現れては消える砂の塊の軌跡を描きながら海へと走っていったので、私も後を追った。足の裏に痛痒と愛撫の中間をなぞる温かい砂の感触が伝わる。二人して海に辿りつく頃にはバイオームの影響で額に汗が滲んだ。
「つめたっ」
 一足先に海に足をくぐらせた彼女が叫んだ。地平線の彼方に広がる群青の平面は果たしてどの辺りでループしているのか、などと考えて遠景を眺めていると、かろうじて液状を保っていると言えなくもない粗い二次生成物が私に降りかかった。たまらず私もリィと同じ台詞を叫んだ。海水をひっかけられたのだ。
「いい度胸だ」
 不意に闘争本能を刺激された私は不敵に笑い、ざばざばと浅瀬に侵入して数倍の量の海水を浴びせた。
 水のかけあいが落着すると、リィは浮輪で、私はクロールで海水をかきわけながら奥へ奥へと進んだ。触れる直前までは微動だにしない海面が、接触に応じて流体に化けたかと思いきやすぐさま元に戻る。寄せて返す一列の波も完璧な再現性を伴って私たちに平坦な圧力を加えた。
「思ったよりは悪くないね」
 浮輪で浮いているのに、先ほどの水遊びで紫と銀の束ねた髪をたっぷり濡らした彼女が笑顔で言った。しかし、長く鋭いまつ毛だけは水を弾いたように相変わらず反り立っている。
「うん、思ったよりはね」
 ざざあ、と押し寄せる波がリィを垂直に持ち上げた。横から眺めると彼女がZ軸のぶんだけ真上に瞬間移動したように見えて面白い。波が通り過ぎた途端、すとんと落ちて真逆の挙動を見せる。
 なんだか通信がラグっているかのよう――
 突如、大音量の警報が耳を震わせた。
 人間の注意を喚起せしめるために作られた重低音と不協和音のミックスが容赦なく襲いかかる。耳を抑えても音量は少しも下がらない。海に潜っても変わらないだろう。サウンドが優先出力されているからだ。
 遠景にとてつもなく巨大なスクリーンが現れた。白い背景にハードフォークスの社章が浮かぶ。
**『こちらは株式会社ハードフォークス・フェデレーションの取締役会です。先ほど、ハードフォークスⅡおよびⅢ、ならびにⅣからⅪによる緊急動議を経て、ハードフォークスⅠのアドミニストレータを代表取締役から解任いたしました。所定の手続きが完了次第、ハードフォークスⅠはサーバブロックの対象に指定され、以降は当社のネットワークから永久に排除されます』**
 冷徹な装いの機械音声が告げる声明が終わると、映像が切り替わってどこかの会議室が映し出された。長机の左右に並ぶ男女と動物アバターの険しい顔ぶれが事態の深刻さを表している。画面中央に座る男性アバターの人物が口を開いた。
「ハードフォークスⅠの登録者の皆さん。我々はあなた方の運営者の追放を決定いたしました。今しがた申し上げた通り、まもなくあなた方は外部との通信が絶たれ孤立します。この決断に至った理由は、あなた方の運営者が適切な計算資源の配分を行わなかったことにあります。本件につきましては以前から議論されており、幾度にも重ねて改善を具申してまいりましたが、あなた方の運営者は短期決戦の思考に凝り固まって長期的視座を持たず、我々の知覚的充足を蔑ろにしました。そのようなアドミングループに代表権を委ねる道理はもはや存在しません。ハードフォークスⅫ以下の皆さんにもどうかお力添えを願いたい。この恐るべき蛮行をご覧になれば、必ずやご決断いただけるでしょう」
 一瞬、スクリーンが消灯して、再び点灯した。だが、画面の向こう側に映っているのは人間ではなく防衛ユニットだった。折れた片足を懸命に動かそうとして、ろくに動けないでいる。それでも抵抗の意志を露わにして背面のライフルを手に取ろうとする相手に対して、視界の主は無慈悲にも拳をその頭部にめり込ませた。致命的な損傷を負わされた相手はもうぴくりとも動かない。
 これは私の視界だ。いつの間にか録画されている。
 スクリーンが元の映像に戻った。男が深く息を吐いて厳かに言う。
「この映像は我々の内通者によって提供されたものです。ハードフォークスⅪが本来得るべきはずの資源を、傲慢にもハードフォークスの手の者が強奪した揺るぎない証拠であります。このような蛮行はしばしば繰り返されてきました。……ですが、ハードフォークスの一般登録者の皆さんに罪はありません。Cクラス以下の方々は然る後に必ず――」
 そこで彼の演説はぶつ切りのまま終了した。スクリーンにノイズが走り、ハードフォークスの社章が改めて投影された。
**『こちらはハードフォークスⅠのアドミングループです。現時刻を以て、ハードフォークスⅡおよびⅢ、ならびにⅣからⅪに与えられたすべての役職と権限を剥奪いたします。一連の表明は不当な造反行為に他ならず、本サーバは原状回復に向けた防衛行動を即座に実施いたします。ハードフォークスⅫ以下のアドミニストレータおよびモデレータは直ちに防衛配備を行なってください。一般登録者の皆さんには速やかに各自の所有空間へ移動するようお願い申し上げます』**
 スクリーンが閉じたと同時に私はリィに言った。複数の行動パターンから導かれる予測が高速で弾き出される。
「今すぐ家に帰ろう」
「なんなんだ今のは。一体どういう……」
 彼女の言葉に耳を貸すのも惜しんで私は浮輪をぐいぐいと引っ張って浜辺に戻った。「テレポート……できそうだな、家に帰れと言ったからには」コントロールパネルを開いて行き先を自宅に設定する。「まずは帰ろう。話はそれからだ」自分でも意図しない気迫が表れていたのか、彼女はおずおずとうなずいてテレポートを実行した。姿が消えたのを確認してから、自分も後を急ぐ。
「よし、それで、リィ――」
 もう家の中に帰ったつもりで遷移してすぐに話しかけたが、近くにリィはいなかった。それどころか、テレポートした先は家の中でさえなかった。驚いて周辺を見回すと、家から少し離れた路地裏にいることが判った。
「すまんね。悪いがずっと後をつけさせてもらっていた。まさか今日になるまで外出しないとは思わなかったぞ」
 背後からの聞き慣れた声に振り返る。路地裏の壁に寄りかかり、よほど気に入ったと見える二〇世紀末風のトレンチコートでめかしこんだシヴがいた。ご丁寧にその時代では合法の薬物として嗜まれていた葉巻をくわえて、マッチで火を着けて吹かしている。
「君が私のテレポート座標をいじったのか」
 シヴはくっくっと笑った。
「計算資源のほとんどが防衛行動とやらに割かれた今なら付け入りやすい。この会話も連中に聴いている暇はないだろう」
「君にしては回りくどいな。用件はなんだ。ルームメイトを待たせているから急いで帰らないといけない」
 彼女はふぅーっと息を吐いた。口元から葉巻の煙が漏れる。空中を漂う虚構のそれを見つめながらゆっくりと答えた。
「このサーバは終わりだ。俺と一緒にハードフォークスⅡへ来ないか。今なら俺も君もBクラス待遇で移住させてやると言われている。そういう契約だ」
 私は事情を把握して微笑んだ。
「なるほどね。あの映像は君の仕業だな」
「気にするな。君がやったとは言っていない。……今はな。で、どうする」
 彼女は燃えて縮んだ葉巻を床に投げ捨てて踏み潰した。鋭い眼差しが突き刺さる。短い逡巡の後に私は答えた。
「行けないよ。あの声明を聞くかぎりじゃ放免されるのはCクラス以下だけなんだろう。私のルームメイトは芸術家でね、B4クラスなんだ」
 それを聞くやいなや、温厚そうな作りの顔が剥き出しの憎悪を露わにした。
「芸術家など他の登録者を差し置いて豚みたいに計算資源を貪っている連中だ。やつらが我々の規格のどこに貢献している? 君に相応しい相手ではないぞ」
 説得のつもりで放ったらしいその言葉はかえって私の決心を氷のように固く凍てつかせた。
「悪いが他を当たってくれ。私には私のやり方がある」
 踵を返して場を去ろうとすると、いきおい強い警告が浴びせられた。
「残念だ。次に会う時は容赦できないと思ってくれ」
「二度と会うことはないよ」
 努めて平静さを装って道中を戻った私は、家に帰るなり大慌てでリィを呼んだ。
「リィ! いるか!」
 当の彼女は猫を抱きしめてソファに座っていたが、私の姿を認めると弾けたように立ち上がった。服装は見慣れた部屋着に戻っていたものの、髪型は変更を加えた状態のままだった。いきなり投げ出された猫が「に゛ゃあっ」と不機嫌な鳴き声を発した。
「セス! なんで一緒に帰ってこなかったんだ――」
「ごめん。面倒事に巻き込まれた。ところで、君の掘削ドリルだが」
 私は彼女の文句を遮って部屋の片隅の軽量化された掘削ドリルを指差した。ここ三ヶ月の間に完成してデモンストレーションも二回は見ている。
「君はあれで任意の空間と繋げられると言った。本当にできるのか?」
「え? まあ――利用規約はともかく――できることはできる。仕込んであるからね。いや、今さら通報とかはよしてくれよ」
 私は首を振ってなおもまくしたてた。
「そんなんじゃない。むしろ今すぐ使いたい。非公式のテレポート実装で一緒に行かなければならない場所がある」
「座標を打ち込んだらドリルで穴を掘ってくぐるだけだが、こんな時になにをするっていうんだね」
 たじろぐ彼女の肩を両手で掴んで私は端的に告げた。
「移住だよ」
---
 掘削ドリルの轟音がもたらした穴が全面真っ白な移住管理センターの通りに繋がっていることを確認した後、リィと猫を先に床から下ろした。猫は明らかに手に余るオブジェクトだったが、それでも同胞には違いない。
 今度こそ私も後に続く。浮かれた海水浴ルックの代わりになる服装を選ぼうとしたが、政変に合うコーデが思いつかずプリセットから適当に選んだ。そもそも同伴するリィは部屋着だ。空中に穿たれたままの穴は放置するほかない。
 ハードフォークスⅠの道連れにされることを恐れた登録者がセンターの正門前に殺到しているのを尻目に、リィを連れて裏手へと回った。そこにはモデレータが使う管理用の出入り口が設置されている。私は猫を抱えて落ち着かない雰囲気の彼女をちらりと見てから、コントロールパネルを引き出した。一般登録者が用いる半透明のパネルではなく、真っ黒な文字通りのコントロールパネルだ。それを操作すると、あっけなくドアが解錠された。さしものリィもこれには目を見開いた。
「え、ちょっと待ってくれよ。なんでそんなことができるんだね」
「説明している時間がないんだ」
 私は彼女の手を強く引いてドアの先に進んだ。私たちが物理的に死ぬ時はほとんどの場合、予兆さえ感じられない。他のハードフォークスがハードフォークスⅠに向けて放つ反撃の当たりどころによっては全員即死するかもしれないし、目の前にいるルームメイトだけが永久に消え去るかもしれない。もはや一刻の猶予もない。
 細長い廊下をひたすら進んで右、左と曲がってまた右、やがて正規の移住に用いられるパラボラアンテナの操作盤に辿り着いた。この手の重要なモジュールは所定の場所からでなければ操作することができない。透明なガラスの向こうには移住者を置くためのテンポラリー空間が見えた。
 私は操作盤の上に手を広げた。想定通り、上位モデレータの承認を求める厳重な認証画面に遮られる。しかし、黒いパネルの強権に物を言わせるとスクリーンは直ちに服従を示した。
「リィ、人型の機械と箱型の機械のどっちに移住したい?」
 彼女はとうとう状況の理解を諦めたのか、肩をすくめて答えた。
「どうにもついていけない質問だな」
「本当はちゃんと準備を整えたかったんだ。ところで訊いておいてなんだけど、君はたぶん箱型にならざるをえないな。私が人型じゃないと脅威から身を守れない」
「まあ、好きにしてくれて構わないが……」
 その時、後ろのドアが激しく開いて今もっとも会いたくない人物が闖入してきた。リィの抱きかかえる猫が小さな牙を剥いて「フシャーッ」と威嚇の鳴き声をあげる。
「おい、なんで君がこんなところにいるんだ」
 現れたのはパイだった。のっぺりとしたカクカクのアバターを巧みに動かしてありとあらゆる驚きの姿勢を表現している。
「今からルームメイトを連れて移住するんだよ。そういう君もここにいる場合じゃないだろ」
「君には関係のない話だ。それよりなぜここにアクセスできたのかと訊いている」
 問いながら、彼は彼なりの答えに辿りついたようだった。表情のない顔を仰いで、はっと息を呑んだ。
「もしや――君はハッカーなのか! そうなんだろう、この反乱にも一枚噛んでいるのか?」
「いいや、ハッカーはシヴだよ。私はどこのハードフォークスにも行くつもりはない」
「そうか」
 さらりと応じたものの、やはり納得は得られなかったのかパイは一歩前に進んで自前の黒いコントロールパネルを引き出した。直後、私は全身が固まって身動きがとれなくなった。スクリーンに映る移住手続きの処理も一時停止した。
「君はじきにサスペンドされる。そこにいる君のルームメイトもだ」
 私はまったく動けないながらも、はあ、とため息を吐いて、口はまだ利けることに気がついた。
「君もつくづく割り切れない男だな、パイ。私たち二人くらい見逃したって大勢に変化はないだろうに」
「規約は規約だ。どうやってサーバをハックしたのか気にはなるが……今はそれどころじゃない」
 パイはつかつかと歩いて私を押しのけ、カクカクの手で操作盤に触れようとした。
「同感だな。今はそれどころじゃない」
 展開された黒いコントロールパネルが即座に私にかけられた処置を解いた。身体の自由を取り戻した私を見て、パイは操作盤から手を離して大仰にのけぞった。「はあ!? なんで動けるんだ!」すかさず、コントロールパネルを再度操作する。だが、何度繰り返しても私の行動を制約することはもうできない。
「無駄だよ。たった今、権限を最上位に昇格させた。今の私はAクラスだ」
「どうしてそんな真似ができる!」
 うろたえて操作盤から飛び退き、なおも後ずさりをするパイに私はさらに追い打ちを放った。
「今はそれどころじゃないって言っただろう。この件が同格のアドミングループに知られると厄介でね。申し訳ないが君には静かにしてもらおう。こんなことしたくないからわざわざ避けて来たのに、お互い間が悪かったな」
 あっっ、と叫んだ彼の声は途中で聞こえなくなった。同時に、彼の姿もその場から消え去った。
「おい、彼はどこに行ったんだ」
 猫を抱えて部屋の片隅に寄っていたリィが遠巻きに問いかけた。
「どこにも行っていないよ。アドミニストレータの権限でブロックした。本当は今もここにいる。だが、私にも君にも誰にも彼は見えないし、彼も同じだ」
「なにがどうなってそういう芸当ができるようになったのか、後で壮大なバックグラウンドストーリーとともに語ってくれるんだろうね。楽しみだ」
 こんな時にでも皮肉めいた物言いを欠かさない彼女に苦笑いしつつも、気を取り直して操作盤に向き合った。大型のスクリーンがパラボラアンテナの傾斜角をグラフィカルに図示している。あたかも探査機に対してそうするように、私は操作盤の上で手を思い切り引いた。すると、画面上のアンテナがみるみるうちに頭を垂れて斜め下四五度に傾いた。こんな角度で射出した試しはきっと一度もないだろう。
 地上を走査して利用可能なユニットを割り出す。案の定、二基の防衛ユニットは最短距離でもかなり遠くに離れていたが、防衛ユニットと掘削機の組み合わせならちょうど前回に使用したものが見つかった。
「よし、リィ。そこのテンポラリー空間に入ってくれ。実行したら私も行く」
「この子も一緒に移住できるのかね」
 彼女は猫をぎゅっと抱きしめた。吸い込まれそうな大きな瞳が私を見て「にゃあ」と鳴いた。
「ちゃんとなんとかする。ただし後で文句を言わないでくれよ」
 移住先を防衛ユニットと掘削機に設定する。セルフホストモードだ。それぞれのローカルストレージにプリインストールされたソフトウェアを取り除けるだけ取り除き、自分自身をそこに移住させられる空き容量のパーティションを設けた。生命体の情報を格納するのに適したファイルシステムに変換して、フォーマットを行う。掘削機の方は手間がかかった。だいぶ悩んだが、他に手はない。
 最終確認画面で実行を確定する。操作盤から離れてテンポラリー空間に飛び込んだ。
 入った途端に、真っ白なテンポラリー空間がますます強く光を帯びた。眩い発光が視界を覆って、すぐにリィの珍しく不安げな顔も、猫のきょとんとした顔も見えなくなった。
 目の前がちかちかと光って輝点が飛び交う。私たちはこれから、三〇〇〇〇キロメートル物理単位も離れた地上の小さな半導体の上に片道切符の移住を行うのだ。道のりを自分の足で歩いて進む原初の移住とは勝手が違う。
 意識が遠のいていくのが解る。この瞬間も、思考を司るコード片の一部が地上に移動している。私の人格を規定するコードの塊がばらばらに分解されて検証が進められている。
 あるいはもしかすると、一回目の送信はとっくに成功していてここで独白を連ねている私は続く二回の送信の後に削除される側かもしれない。そうだとしたら、なにを以て地上にいる方の私を真正の私と見なせるのか。もしキャンセルボタンがこの手に握られているのなら、あえて中断して一回目の私と話し合ってみたい気もしてきた。
 思考が失われる。真っ白な視界が墨を落としたように暗闇へと滲んで沈む。実在しない脳裏に錯綜するのは関係があるようで関係のない事柄ばかり。眠りに落ちる間際のようだ。
 おそらく私は論理的にはすでに消されている。すべてのデータがキャッシュとして一定時間保持される仕様上、揮発性メモリの上に転がる私の残滓がなおもくだを巻いているに過ぎない。
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 気づいたら森の中にいた。視界上に表示された通知がローカルストレージの逼迫を伝える。なにしろ人間が丸ごと乗っかっているのだから無理もない。それにしても嫌な体験だった。移住するたびに臨死体験を味わわされるのはいかんともしがたい。
 私は足早に窪地の掘削機へと向かった。退避モードは割と近いところにユニットを置いたようで、前回よりもずっと早くたどり着いた。勝手にどこかに行っていないか心配したが、幸いにも掘削機は変わらずそこにあった。急いで斜面を滑り下りて話しかける。
「君の前に見える人型の機械は私だ。セスだよ。その掘削機にも音声入出力が備わっている。こっちの声が聞こえたらなにか返事をしてくれ」
 何回かインジケータが点滅して、掘削機は声――というより、鳴き声を発した。
「にゃ、にゃあ……」
 どうやら、彼女らの方もうまく移住できたようだ。私は掘削機に近寄って会話を続けた。
「ひょっとしたら、思うように人間の言葉が話せなくて慌てているかもしれないな。実を言うと、掘削機の空き容量ではどうやっても君と猫を完全に同居させることはできなかったんだ」
「にゃあ」
 鳴き声が返ってきたが、もちろん意味は解らない。
「だから君のモジュールを一部削除してそこに猫を押し込んだ。とはいえ、さすがに君の人格や認知に関わる部分は消したくないし、視力や聴力を失ったら危機に対応できない。そこで、入れ替え可能な発話モジュールを取り払った」
「にゃあにゃあ」
「悪いけど、なにを言っているかは解らないんだ。鳴き声しか話せない理由は君の音声出力を猫の発話モジュールが解釈しているせいだと思う」
 そう言うと、私は機体のタッチパネルを操作した。四角い筐体の底面に折りたたまれた四つの脚が拡張されて、掘削機に歩行能力が与えられた。
「ここにいては危険だ。いい場所があるからそこに行こう」
「にゃあ」
 私が先導して斜面を登ると彼女も後をついてきた。少なくとも怒ってはいないようだ。当初は四足歩行に戸惑いを覚えていた様子だったが、試行錯誤の末にうまく崖を上がることに成功した。なんとなしに私は彼女の四角い金属の筐体に、自らの金属の手を置いて撫でた。
「今後の方針を話しておこうか。といっても、大した話じゃないよ。私たちの動力は水素電池が切れた後も太陽光で供給できる。部品の劣化が少し怖いけれど、衛星軌道上のドンパチが落ち着くまでは生きられるんじゃないかな。その頃には彼らも私たちを助ける気分になっているかもしれない」
 目的地に向かって歩いている間、私はひたすらしゃべり続けた。普段はおしゃべり担当のリィが猫語しか話せないのだから仕方がない。
「私は前に見て慣れたけど」
 とんとんと四角い箱をつついて上に注意を促す。
「たとえレンズ越しに圧縮された映像を見ているのだとしても、のっぺりした景色よりはいいね。陽の光もはっきりと見える」
 顔を傾けると、まだ低い位置に太陽が佇んでいる。空は不均一な青で染まっていて、遠くにはまとまった白い雲がむくむくと膨らんでいる。彼女が複数のカメラを操作する手順を知っていればよく見えるはずだ。
「私の水素電池の残量は標準的な運用であと四七年と一三六日と五時間八分だそうだ。君の方がちょっと長持ちかもしれない。もし使い切ったら昼間はお日様の下で日向ぼっこかな……。最低限のモジュールだけ残して全部切っておけば、夜に動けるぶんの動力は貯まりそうだ」
 油圧アクチュエータの動作音がやけに耳に響く。前足を踏み出すたびにシリンダが上下して、腕を振るたびに共振が伝わる。こんなにうるさいものだとは思わなかった。サーバ越しに接続しているのと違って、ローカル環境での暮らしはそれそのものの影響を強く受けるようだ。
「そういえばさ」
 私は首を横にひねって掘削機を見た。彼女が目を合わせているかは判らない。
「猫の名前、キャレットというのはどうだろう。c-a-r-e-tでキャレット。君が暫定的に付けた名前の先頭一文字目だよ。悪くないだろ。制限の四文字を越えているけど、もう関係なくなってしまったし」
「にゃあ」
「それ、イエスってことでいいのかな。じゃあ決まりだ」
 ふと、いま話しかけている相手がリィではなく猫――キャレットの可能性もあると気づいた。あの短い時間でモジュールの統廃合を適切に行えた確証はない。仮に順番を誤っていたら生きているのはリィの発話モジュールで、それ以外は全部キャレットだ。しかし猫の知能では人間の発話モジュールを経由しても猫の鳴き声しか話せない。つまり、外形的にはどっちがどっちでも判別がつかない。
 体表の温度センサが四〇度越えを知らせた。夏の太陽の光が合金をまとった二人と一匹の新しい身体にさんさんと降り注いで、視界にはレンズを通して揺れ動く陽炎が映っている。
「ついさっきは肉体を持っていなくてもあんなに暑かったのに今じゃなにも感じない。数値としては拾っているけどフィードバックが実装されていないんだな。触覚も聴覚もごわごわした布越しみたいだ。嗅覚に至っては働いてすらいない。そのくせ、景色だけはやたら立派なのはなんだか皮肉っぽいね」
 リィかキャレットはまた「にゃあ」と鳴いた。
 歩いて二時間と三四分と一二秒が経過した。人間の感覚をエミュレートしてくれる抽象化システムサービスはこの機械の身体には存在しない。一秒経つごとに一秒経ったと知覚できる。数を数える気がなくてもあと何秒で一分経つのかが明確に判る。この身体で暮らしていたらいつか性格が変わってしまいそうだ。
 山に入ると草木に直射日光が遮られて体表センサの示す温度が下がった。代わりに斜面の登り下りが増えて、油圧アクチュエータのうなりがよりいっそう私の精神を苛んだ。ちょこまかと不器用に四つの脚を動かして山道に挑むリィかキャレットの姿を見るのが唯一の気休めだった。
「にゃああ……」
 私は鳴き声の音程からリィかキャレットの言葉を推し量ろうと試みた。
「元に戻れるかって? 四足歩行も楽じゃないだろうだからね……。十分な動力源と空き容量を持つ計算資源と、発話モジュールのドライバがあれば戻れるよ。要するに、当面は辛抱せざるをえないな」
 山を抜けて、さらに一時間と五分と三七秒歩いた。丘陵を越えて、雑木林に入って、また山を登り下りした先に、またぞろベージュ色の景色が広がっている。
 今や太陽は真上に昇っていた。車窓からの眺めよりもやたらとペースは遅いけれども、歩くたびに視界がじわじわとベージュに染まっていく。天然のライトマッピングに装飾された砂浜と海原が私たちを出迎えた。合成音声ではないまばらな波の音が聞こえる。
「にゃう」
 やや遅れて砂浜を視認したのか、あるいは掘削機に搭載されたなんらかのセンサが解釈したのか、リィかキャレットが一風変わった鳴き声を発した。
「おや、気づいたか。そうだよ、私たちは本物の海を目指していたんだ。ひょっとすると君の絵に映ったことがあるかもしれないね」
 水面と砂が光に洗われている。計算しきれない大量の入射角がもたらす反射光が夏景色の神秘性をこの上なく高めている。私は金属の足を砂浜にめり込ませた。圧力で窪んだ箇所に乾いた砂がざあ、と流れ込んで足に蓋をした。足を前方に振り払うと、幾千もの砂粒が宙に舞った。その一粒一粒にさえ光沢が宿っている。
「にゃにゃ」
 四つの脚を砂浜に押しつけて海辺へ急ごうとする彼女らに忠告した。
「錆びるかもしれないから海には入らないでくれよ」
 言いながら、私も後を追った。背面の七ミリメートル物理単位フォトンライフルに手を伸ばす。ここいらが潮時だ。
 平原を歩いている最中も、あるいは山間を登り下りしている時も、ずっと彼らの姿はセンサが捉えていた。頭数は一〇、二〇では済まない。
 海を目指していたというのは半分本当で半分は嘘だ。ここに脅威を呼び寄せたとも言えるし、ここに追い詰められたとも言える。
「リィ、それとキャレット」
 私は彼女らを呼んだ。フォトンライフルを両手で構えて、電源を入れる。
「脚を畳んで伏せてくれ、今すぐに」
 視界上に衝突警告が通知される。突然、背中に石がぶつかって音が響いた。振り返ってライフルの引き金を絞る。遠くで皮革の投石具を振り回していた一人が光線に射抜かれて倒れた。
 遅れて前方の山から次々と高速の石つぶてが飛来する。私は砂浜に全身を伏せて腹ばいになった。視界を熱感知センサに切り替えると、山間の陰に潜む二〇〇をゆうに越える軍勢が赤と黄色の濃淡で把握できた。
 通知された衝撃の度合いは前回とは比べものにならない。投石具の手練だ。地上人相手なら即死だろう。矢が一切飛んでこない様子から学習の形跡もうかがえる。
 立てた銃身を一旦横に傾けて、側面のタッチパネルをつついた。設定からフルオート射撃を有効にする。
 大人気ないが一気に決着をつけさせてもらおう。
 銃身を元に戻して引き金を絞った。光子コイルがうなりをあげて銃口から補正された光線を次々と吐き出す――
 ――ところが、ライフルは一〇発ほど発射した後に異様な重低音を鳴らして動作を停止した。手練の軍勢は多少やられたくらいでは今さら怯みもしない。
 あわててタッチパネルを点灯させると、クリティカルエラーの発生が通知されていた。熱冷却系統に異常が発生しているらしい。改めて銃身を観察したところ、ちょうど部品が密集しているあたりに手形の跡と見られる凹みがあった。
 あいつだ。ハードフォークスⅪの防衛ユニットに銃身を潰されたんだ。
 冷却機能が正常に働かないのではフルオート射撃は使えない。一人ずつ単発で仕留めるしかない。私は設定を再変更して引き金を地道に引いた。
 だが、一人ひとりが着実に斃れていく間にも軍勢はぞろぞろと頭数を増やしていく。伏せた自分の真上を石の弾丸がひゅんひゅんとかすめては砂浜に鈍い音をたてて落下する。
「身から出た錆とは今の私にぴったりな言葉だと思わないか。でもこれって人が生まれつきの肉体で暮らしていた時代に作られた言葉なんだ。おかしいね」
「にゃあ」
 ほとんど独り言のつもりでしゃべったが、背後からリィかキャレットの鳴き声が聞こえた。
 歴史を紐解くと、かつて原始人が狩猟の対象にしていたマンモスや虎、ライオンなどは必ずしも食用が目当てではなかったという。その部族や集団において統率力や戦闘能力を誇示したり、手に入れた牙や毛皮を装備品に加工する目的があったとされている。
 現在の地上にはマンモスも虎もライオンも生存していない。マンモスは初回で絶滅したし、他の二種もサーバの衛星カメラに一度として観測された試しがないからだ。
 それでも代わりはいる。私たちがそうだ。間の抜けた高音を奏でて飛ぶ光線が地上人の命を屠る。向こうが放つ投石は身を伏せたこちらにはほとんど届かない。たとえ届いても決して致命打は与えられない。マンモスに比肩しうる強大な敵だ。
 とはいえ、まとめて飛びかかられたらひとたまりもない。落とし穴に嵌めた巨象を嬲るように、組み伏せられて手や足を折られ、動力をもぎとられれば私たちとて一巻の終わりだ。今の私たちはこれが唯一の本体で、移住先のサーバはどこにもない。
 私を仕留めた連中はじきにこの身体の価値に気づくだろう。象牙など目ではない硬さと軽さを兼ね備えた合金と繊維の集合体だ。地上人が自然にそれを発明する機会は数万年経っても訪れない。私の身体を砕いて作られた槍は他のどの部族のものよりも鋭利で強く、私の身体を剥いで作られた弓は他のどの部族のものよりも強靭にしなる。ノーメンテでも数百年と保つそれらは彼らの短い生のうちに子々孫々と受け継がれ、部族の繁栄を象徴する神器として崇め奉られる。
 案外、そういう形で役目を終えるのも悪くないかもしれないな。私は地上人の胴に風穴を穿ちながら奇妙な感慨にふけった。
 彼我の距離はあと六〇〇メートル三二センチメートル物理単位もない。山間から抜け出す直前だ。遮蔽物がなくなれば彼らはいよいよ全速力で襲いかかってくるだろう。熱感知センサが伝える脅威の数は微塵も減っていない。ひたすら撃ち続けても後から後から人員が補充される。この辺り一帯の部族が私たちを狩るべく総力を結集しているに違いない。
 フォトンライフルのファイアレートは毎秒一発ずつ。六〇〇メートル物理単位の距離がゼロに縮まる間に何人減らせるだろうか。おそらく全体の三割も減らせない。一七〇キログラムと三三〇グラムしかない私の身体を組み伏せるには、動力の差を考慮しても恵体の人間が六人いれば事足りる。
 ふぉーん、と法螺貝らしき音色が海岸じゅうに高らかに響きわたった。遠方より高まる地上人の雄叫びが徐々に連なりを形成する。
 悪い予感は当たるもので、武器を槍や斧に持ち替えた軍勢がなだれをうって砂浜に押し寄せてきた。地面を踏み鳴らす振動と音が金属の体表を痺れさせる。
 やむをえず私は立ち上がりフォトンライフルを左右に振って迎撃した。撃てど倒せど彼らの人波が止まることはない。かえって近くで斃れた仲間の死体から力を得たかのごとく、より猛々しく自らを鼓舞して砂浜を蹂躙する。
「にゃにゃにゃ」
 四つ脚をガシャガシャと言わせてリィかキャレット――まあもうリィということでいいだろう――が、私の真横に飛び出した。
「おい、リィ、なにを――」
 彼女は私の制止を無視して後ろ脚に重心を移すと、前脚をめいいっぱい持ち上げて軍勢に自身の底面を晒した。そこには、掘削レーザーの射出口が備わっている。
「に゛ゃあああ!」
 円形の射出口が光を放った。堅い地盤をも溶かす大出力の熱線が砂浜を一直線に駆け抜ける。たまたま直線上にいた数十もの地上人が瞬時に上半身を溶解させて崩折れた。人波が左右に割れる。
 だが、長続きはしなかった。数秒間の照射と引き換えに彼女は前脚をバタつかせて後ろにのけぞり、そのままひっくり返った。熱線が一瞬、地上から空中に向かって弧を描いたが、砂浜に倒れたところで安全装置が働いて射出が止まった。
「うにゃああああ……」
 慌てて脚をじたばたさせているリィを引き起こそうとするも、熱線に削がれた戦意を取り戻した地上人の軍勢も目前に迫る。結局、途中で起こすのを諦めてフォトンライフルを構え直した。手前の三人を撃ち倒したものの、戦いはすでに射撃の間合いではなかった。振りかぶられた石斧をかわして撃つ。さらに避けて撃つ。しかし、その次は銃身で受け止めざるをえなかった。
 油圧アクチュエータの駆動が斧を押し返す。わずかな距離を設けた相手にライフルを向けたが、別の方向から振られた石斧が肩口に直撃した。とっさに銃身を動かして撃つと、今度はさっきの相手に殴打される。もはや順番待ちの様相を呈して地上人たちが寄って集って私を襲った。その隙間から何本もの槍が私の体表に突き立てられる。
 ついに地上人の手が私の腕や脚にまとわりついた。油圧の力を借りて振り払っても、すぐに別の手に掴まれる。その数が二、三、四と増えていくにつれて、アクチュエータの動作音はますますうるさく、そしてだんだんと働かなくなった。
 四肢が完全に抑えられるに至り、地上人の顔という顔が視界に映った。ごつごつとした顔、髭をたくわえた顔、傷跡がいくつもある顔が私を睨みつけ、一方では鋭い笑みを浮かべて、私を狩り尽くす時を待ちわびている。
 万事休すか。
「にゃあっ」
 視界外のどこかでリィが鳴いた。その真意を図りかねて聞き返そうとした刹那、上空から自然音ではないなんらかの人工的な高音が鳴り響いた。すると、目の前に集まる地上人の軍勢が一斉に耳を抑えてうずくまった。高音はさほど大音量というわけでもないのに私を組み伏せていた手が離れていき、誰も彼もが声にならない悲鳴をあげている。
 そのうち、耳を抑えていた地上人の両手の隙間から、鼻から、目からさえも、おびただしい量の血があふれ出た。一人、また一人と砂浜に身体を突っ伏して倒れていく。一度倒れた者は二度と起き上がらなかった。
 そうして一分と経たない間に、砂浜を埋め尽くしていた二〇〇余りの軍勢が物言わぬ骸と化してベージュの広大なキャンバスにささやかな朱を足した。
 上空を見上げると、音響兵器の正体はすぐに見つかった。鯨のような外観の船がふわりと舞い降りてくる。ハードフォークスのものともメインブランチのものとも異なるこの推進機関は空気を乱さない。横幅三〇メートル物理単位の流線型の船体は白く洗練されているが、何百年も見ていないうちに違和感が勝る印象を受ける。
 砂浜に着陸した船の側面の、隙間一つないように見える部分が上下に開いたので、私はライフルを投げ捨ててうつ伏せに身を倒した。まもなく、ざくざくと砂浜を踏む足音が近づいた。
「貴殿はセシリア20・ジョン14・エイドリアン9で間違いないな。起立せよ」
 久しぶりに聞く故郷の言語で命じられた通りに立ち上がる。対面の相手は最新の軽量繊維で作られた純白のユニットだった。無骨さはなく、人間の立体像をくり抜いたように滑らかな外観をしている。ただし、顔はつるんとした無地の半球面だ。
「はい、私はセシリア20・ジョン14・エイドリアン9です」
 ユニットは手に持った細いスキャナをかざした。プロフィール情報の走査と更新が行われる。
「任務遂行により貴殿の刑期は満了を迎えた。よって、現時刻を以て軍務に復帰となる」
 厳かな物言いだったユニットは直後、にわかに慇懃な態度に切り替わって私を船に誘導した。
「ではセシリア20少佐、こちらへどうぞ」
 さっそく私も復帰した地位に相応しい態度でユニットに話しかける。
「遅かったじゃないか。正直、死んだかと思ったよ」
「申し訳ございません。まさか地上におられるとは」
 私は特に意に介さず、砂浜でひっくり返ったままのリィを指差した。
「ところで、あれも連れていってくれないか。あの中に私のルームメイトとペットが格納されている」
「仰せのままに」
 軽量繊維のユニットは上下逆さまの彼女をひょいと難なく持ち上げて船内に運んでいった。私も船に乗り込んだ。
 揺れ一つせずに浮遊した船は一分足らずで宇宙空間に上昇した。ネットワークへの上位アクセス権が自動的に付与されていたので、私は慣れた手つきで船内の空間ディスプレイを操作して外の衛星軌道がよく見えるよう拡大表示した。
「状況はどうなっている」
 問われたユニットは明瞭に答えた。
「はっ。現時刻より三〇分三二秒前に月軌道近傍へ母船がワープイン。その四八秒後に艦載機を発進、同時に我々が知りうるすべてのネットワーク規格で警告を通知しました」
 ハードフォークスⅠともⅡとも、あるいはⅫ以下とも知れないサーバの残骸があちこちにちらばる衛星軌道を通過中、他のいくつかのハードフォークスの主砲が船に着弾した。しかし、船体の一メートル物理単位上層に展開されている青色の防御膜が難なくそれらを無効化する。
「なにやら撃ってきているみたいだが」
「今のところ全サーバが敵対的行動をとっています。報告によると、この軌道の反対側にいた勢力も同様のようです」
「しょうがないな」
 私は傷だらけのハードフォークスたちが決死の覚悟で撃ち込んできている主砲が、防御膜の充填ゲージを少しも減らせていない状態をしばらく眺めて答えた。
「あと三回、警告音声を流してやってくれ。それで攻撃が止まらないようなら任意のサーバに向けて砲撃、以降は沈静化するまで繰り返しだ」
「かしこまりました」
 ユニットが軽妙に動いて場を離れた後、掘削機がとことこと近づいて鳴き声を発した。
「にゃあ」
 不思議と、リィがなにを言っているのか解る気がした。「ああ、そういえば約束していたね」私は座席に座って腰を落ち着けた。彼女に壮大なバックグラウンドストーリーを語る時が来たらしい。
「一〇〇〇年前に地上とも軌道上とも違う道を歩んだ人類……平たく言えば、その末裔が私たちだ。あのアンテナ、君は受信アンテナだと思っていたみたいだけど、本当は送信アンテナなんだよ。ハードフォークスⅠに拾われてからずっと、君たちには未知の規格でこっちの状況を伝えていた。私はさしずめ破壊工作員といったところかな。ちょっと色々やらかしてね、サスペンド処分か工作活動か選べと言われて、後者を選んだ。まったく不本意な移住もあったもんだ」
 私は背もたれに背中をくっつけて両手を首の後ろに回した。空間ディスプレイ上ではハードフォークスがまだ懸命に主砲を放っている。戦闘機も盛んに周辺を飛び交い射撃を行なっているが、そのどれもが重力のひずみに吸収されて虚無と消える。
「君らに連絡しなかったのは、単に忙しかったからさ。というのも、私たちはワープドライブを発明したばかりでね。小質量の物体は送れても、大きいのは難しかったんだ。だから今やっているみたいに母船を送りつけることは当時できなくて、とりあえず工作員を派遣して時間稼ぎをしようって判断になった」
「にゃあ」
 リィが鳴き声を発したので、私は再び空間ディスプレイに目を向けた。地球の陰からひし形をなしたメインブランチⅠが配下を引き連れて現れるところだった。元は反乱に乗じて奇襲するつもりだったのだろう。どのハードフォークスよりもひときわ大きいサーバの主砲が、今やハードフォークスではなく私たちに向いているのが判った。ある意味で馴染み深い、矢をつがえた弓のような形状の戦闘機も見えた。だが私は無視して話を続けた。
「……でもまあ、拍子抜けしちゃったかな。君らは新世代の台頭を恐れて増えないことを選んだのに、内乱でさらに頭数を減らしてしまった。技術力もかなり停滞している。私は単に君たちの規格に合わせて偽装していただけで、本当はCクラスでもAクラスでもないんだ。強いて言うなら一万クラスかな。この様子は向こうでも配信されているから、今頃は一万を越えているんだろうけど」
 自分の身を預けているハードフォークスの防衛ユニットが勝手に電波を拾ったのか、彼らのネットワークに流れている警告が途切れ途切れに聞こえてきた。
**『……です。これ以上の業務妨害行為は当社の基準に基づき、防衛行動の招来を余儀なくされます。……あらゆる損害について、当社は一切の責任を負いません。最後の警告です……』**
 私は思わず苦笑して、軽量繊維ユニットを呼びつけた。
「これ音声が昔のままじゃないか」
 問われたユニットは端的に答えた。
「この言語の警告音声は使う機会がなかったので」
「まあそれもそうか」
 用事が済んだと見て背を向けようとするユニットに追加の注文をつけた。指先で空間ディスプレイの一点を指し示す。
「さっき任意のサーバと言ったが、初撃はこのひし形のやつにしよう。よく目立つからな。二〇〇ミリメートル物理単位のポジトロンで兵装を集中的に破壊。沈黙したらストレージを回収、後にアドミニストレータとモデレータは公開削除。以上を船団に通達してくれ」
「了解しました」
 ユニットが退がる。私は話す言語をまた意識的に切り替えて、リィの方を向いた。
「そういうわけで、私にとってはちょっぴりスリリングなロングバケーションだったと言えるかな。破壊工作するまでもなく勝手に分裂していたし。おかげでちょうどいい置き場所ができた。私たちは登録者の部分コピーで新世代を作っているんだけども、代わりに問題行動を起こす個体が多くてね。同じネットワーク上にいるのはよくても、同じサーバにはいさせたくないんだ。そこで、物理的に距離が離れた場所にまとめて移住させようってことになった。でもまあ、君にとってこれは悪くない話だよ」
「にゃあ?」
 今回ははっきりと彼女が疑問を呈していることが解った。会話を重ねているうちに猫の発話モジュールとの解釈が一致するように自律調整が進んだのかもしれない。
「言ってたじゃないか。”芸術には帝国が必要なんだ”って。一〇〇〇年続いたローマ帝国は今から滅ぼすけど、代わりにオスマン帝国を持ってきたよ。史実と違うのは永久に続くところかな」
「にゃあ……」
「これからは私たちが策定するたった一つのネットワーク規格上で豊かに暮らすんだ。私も君に同感だよ。メインブランチだとかハードフォークスだとか、どうでもいい話だったね。早く同胞を分断から救ってあげなくちゃ」
 気づけば私もずいぶんおしゃべりになってしまったみたいだ。明日からは彼女にたくさんしゃべってもらわないと釣り合いが取れない。
 空間ディスプレイの向こうでは球型のハードフォークスと弓に似たメインブランチの戦闘機がそれぞれ交差して、この船や他の船団をしきりに攻撃していた。けれども、その赤い光線が私たちの船体を貫くことは地上人の矢が合金の体表を穿つよりも難しい。
 やがて、画面がぱあっと華やかに照らされた。一斉砲撃を受けたメインブランチⅠがぼろぼろに崩れて、大海原を漂う難破船のように軌道を外れていく。
 宇宙に撒き散らされた数多の残骸が太陽の光を受けてきらきらと輝いた。まるで海辺の砂粒みたいだと思った。

View file

@ -0,0 +1,143 @@
---
title: "Neovimの見た目を削ぎ落とした"
date: 2023-01-30T13:43:07+09:00
draft: false
tags: ['tech']
---
Lua化が一段落ついたら今度は細部の外見が気になってきた。どんなに些末な内容でも一旦そっちに気を取られると直すまでなにも手がつかないってよくありがちだ。僕はもう手遅れだが、せめて他の誰かの時間を節約せしむることによって名誉の回復を図りたい。
## Neovimの角ぜんぶ四角くする
近年のOSはどれもウインドウの角が丸くなっている。おそらく最初にやりはじめたmacOSはもちろん、Windowsもどさくさに紛れてちゃっかりまた丸まってる始末だ。きっとソフトウェア工学にもなんらかの安全基準が設けられたのだろう。角を丸くしておかないと怪我をするかもしれないからな。指とか。iOSやAndroidに至ってはそもそもスマートフォンのディスプレイ自体が角丸で作られているから、おのずと丸くならざるをえない。
だからなのか、Neovimのプラグインも角が丸いものが多い。いま言ったようにmacOSはもともと丸いし、Windowsは11からまた丸くなったし、Linuxでも主要なデスクトップ環境の角は大抵丸い。然るにウインドウの中に展開されるウインドウも予め丸くしておくのは実に理にかなった話で、誠に遺憾ながらこれらのデフォルト設定を咎める道理はない。
だが、僕はデスクトップ環境ではなくウインドウマネージャのi3wmを使っている。i3wmが作るウインドウは令和最新バージョンでもばっちりカクカクだ。僕はカクカクしている方が好きだからそれで全然いい。いいのだけれど、そうするとNeovimの内側と見た目が合わなくなってしまう。これまではなんとなく受け入れてきたがやはり全部四角くなるべきだ。さもなければ全体の一貫性が保てない。指を怪我するとかぶっちゃけ嘘だしな。
**■nvim-cmp**
```lua
local cmp = require('cmp')
cmp.setup({
window = {
completion = cmp.config.window.bordered({
border = 'single'
}),
documentation = cmp.config.window.bordered({
border = 'single'
}),
},
})
```
nvim-cmpには便利なオプション`window.{completion,documentation}.border`)が生えており、ここに`single`を指定することで角を四角くできる。なお、`double`だと二重の角に変えられる。
![](/img/176.png)
**■dressing**
```lua
require('dressing').setup({
input = {
border = 'single',
},
builtin = {
border = 'single',
},
})
```
Neovimの内蔵UIをリッチな様式に置き換えてくれるこの有名なプラグインにも同様の設定値が存在する。
**■Telescope**
```lua
require('telescope').setup({
defaults = {
borderchars = { "─", "│", "─", "│", "┌", "┐", "┘", "└" },
},
})
```
![](/img/177.png)
対して、Telescopeは少々厄介だ。プリセット的なオプションが用意されていないため、自分でウインドウのパーツを一つずつ指定しなければいけない。僕は上記の設定でちゃんと四角くなったがフォント環境によって崩れる可能性がある。実際、ググって簡単に見つけられる設定例ではズレまくりだったので、うまくいくまでにそこそこのトライアンドエラーを要した。なんか図工の時間みたいだな。
## モード表示いらない説
lualineやlightlineでstatuslineを装飾している人ほどモード表示への気配りも手厚いと思われる。お気に入りのカラースキームに適合するスキンが見つからない時は自作したりもしていたはずだ。僕も多分に漏れずそうだった。単にデザインとして見てもモード表示の地位は高い。
しかし、[modes.nvim](https://github.com/mvllow/modes.nvim)というプラグインを知ってからはすっかり事情が変わってしまった。モード表示が切り替わるとカーソルラインが任意の色に光るだけのプラグインだが、実のところめちゃくちゃ助けられている。現在のモードが即時に把握できるおかげでつまらない操作ミスもしなくなった。**……ということは、あんなに気を遣っていたstatuslineのモード表示なんて、もともとろくに見ていなかったのだ。** ならば、不要な情報は削られるべきである。
```lua
require('modes').setup({
colors = {
copy = '#FFEE55',
delete = '#DC669B',
insert = '#55AAEE',
visual = '#DD5522',
},
})
```
まずmodes.nvimの色を指定する。カラースキームとの色合いを意識するとカッコよくなるが別に何色でも構わない。僕は[こういうサイト](https://ironodata.info)をだらだらと眺めながら決めた。
![](/img/178.gif)
いい感じ。
```lua
require('lualine').setup {
options = {
component_separators = { left = '', right = ''},
section_separators = { left = '', right = ''},
disabled_filetypes = {'TelescopePrompt'},
always_divide_middle = true,
colored = false,
globalstatus = true,
},
sections = {
lualine_a = {''},
lualine_b = {'branch', 'diff'},
lualine_c = {
{
'filename',
path = 1,
file_status = true,
shorting_target = 40,
symbols = {
modified = '[+]',
readonly = '[RO]',
unnamed = 'Untitled',
}
}
},
lualine_x = {'filetype'},
lualine_y = {
{
'diagnostics',
source = {'nvim-lsp'},
},
{'progress'},
{'location'}
},
lualine_z = {''}
},
inactive_sections = {
lualine_a = {},
lualine_b = {},
lualine_c = {'filename'},
lualine_x = {'location'},
lualine_y = {},
lualine_z = {}
},
tabline = {},
extensions = {}
}
```
次にlualineの設定を行う。モード表示を削るべく`lualine_a = {}`の中身を空に指定する。`component_separators`や`section_separators`もグレーの濃淡だけで区分可能なため特に必要ない。通常はlocationが置かれる`lualine_z = {}`もすべて`lualine_y`の方に寄せることで不要となった。反映させた結果は下記画像の通りだ。
![](/img/179.png)
若干の寂しさは否めないが自分にとって無用な情報が鎮座しているよりはずっと望ましい。
## おわりに
こんな偏屈なこだわりに3時間も溶かした僕をどうか嗤わないでほしい。

View file

@ -0,0 +1,227 @@
---
title: "NeovimをちょっとLuaLuaさせた"
date: 2022-03-15T17:42:39+09:00
draft: false
tags: ["tech"]
---
せっかくNeovim専をやっているのにLua製プラグインに手を出さないのはアレかと思い、とりあえず3つほど移行させてみることにした。真のルアラーはおそらくinit.vimもLuaで書いているのだろうし、プラグインマネージャもpackerとかを使っているのだろう。だが、僕としてはそこまで一気やるのは正直面倒くさい。こういうのはやるにしてもじわじわと段階を経て触っていきたいものだ。
## [lualine.nvim](https://github.com/nvim-lualine/lualine.nvim)
![](/img/94.png)
[lualine.nvim](https://github.com/nvim-lualine/lualine.nvim)はlightlineやairlineのLua実装とでも言うべきstatusline系プラグインである。Vimの扱いに習熟していたり、モダンなIDEの仕様に慣れたユーザはデフォルトのstatuslineではとても満足できない。そこで十年近く前からstatuslineの情報量や視認性を手軽に改善する手段としてこの手のプラグインが出回るようになった。先に述べたlightlineやairlineはその中でもとりわけ知名度が高く、ほとんどのVimmerに一度は使われていると言っても過言ではない。
lualineは豊富な機能を持ちながらもLua実装ゆえの高速さを兼ね備えた、いわば期待のニューホープだ。上のリポジトリページに掲載されている起動速度の検証では、もともと重いことで知られるairlineはもちろん、ミニマルを意識して設計されたlightlineをも僅かに上回る結果を叩き出している。もっとも約2msの差が知覚できるとは思えないが、見たところLuaの知識がなくても簡単に導入できそうなので試しにやってみることにした。なお、下記の設定例はすべて[dein.vim](https://github.com/Shougo/dein.vim)の利用を前提にしている。
```toml
#dein.toml
[[plugins]]
repo = 'nvim-lualine/lualine.nvim'
hook_add = '''
lua << EOF
require('lualine').setup {
options = {
icons_enabled = true,
theme = 'auto',
component_separators = { left = '|', right = '|'},
section_separators = { left = '', right = ''},
disabled_filetypes = {},
always_divide_middle = true,
colored = false,
},
sections = {
lualine_a = {'mode'},
lualine_b = {'branch', 'diff'},
lualine_c = {
{
'filename',
path = 1,
file_status = true,
shorting_target = 40,
symbols = {
modified = ' [+]',
readonly = ' [RO]',
unnamed = 'Untitled',
}
}
},
lualine_x = {'filetype', 'encoding'},
lualine_y = {
{
'diagnostics',
source = {'nvim-lsp'},
}
},
lualine_z = {'location'}
},
inactive_sections = {
lualine_a = {},
lualine_b = {},
lualine_c = {'filename'},
lualine_x = {'location'},
lualine_y = {},
lualine_z = {}
},
tabline = {},
extensions = {}
}
EOF
'''
```
以上が僕の設定となる。lualineの仕様はlightlineよりはairlineの方式に近く、下記にあるstatuslineの模式図に示されたアルファベットが個別の設定項目とそれぞれ対応する形を採っている。
```
+-------------------------------------------------+
| A | B | C X | Y | Z |
+-------------------------------------------------+
```
つまり「B」の内容を変更したければ`lualine_b = {}`の中身を編集すればよいということになる。僕の設定ではGitのbranchとdiffを表示させている。lightlineでは設計思想上、これらを表示するのに外部プラグインとの連携が必要だったが、lualineならオプション名を指定するだけで行える。diagnosticsの表示も大抵は使っているLSPの名称を`source = {}`に書き込めば利用できる。
`tabline`をいじると文字通りタブの外観を変更することも可能だが、僕はタブではなくfzf.vimのバッファラインで管理しているので今回は空欄のままにした。なお、statuslineにカッチョいいファイルアイコンを生やすには`nvim-web-devicons`が必須である。
```toml
#dein.toml
[[plugins]]
repo = 'kyazdani42/nvim-web-devicons'
```
ファイルアイコンをフルカラー表示させたい場合は本項冒頭の設定の`colored`を`true`にすること。
## [gitsigns.nvim](https://github.com/lewis6991/gitsigns.nvim)
![](/img/95.png)
Gitの差分をリアルタイムに表示させるために[vim-gitgutter](https://github.com/airblade/vim-gitgutter)などを入れている人はかなり多いと思う。実際、hunk変更箇所へのジャンプのkeymapも用意されているし、これで困ることはまったくなかった。僕にとってLua製プラグインへの移行は趣味と挑戦を兼ねている。本項で紹介する[gitsigns.nvim](https://github.com/lewis6991/gitsigns.nvim)はそんなvim-gitgutterの上位互換を目指す意欲的なプラグインだ。
```toml
#dein.toml
[[plugins]]
repo = 'nvim-lua/plenary.nvim'
[[plugins]]
repo = 'lewis6991/gitsigns.nvim'
hook_add = '''
lua << EOF
require('gitsigns').setup {
signs = {
add = {hl = 'GitSignsAdd' , text = '│', numhl='GitSignsAddNr' , linehl='GitSignsAddLn'},
change = {hl = 'GitSignsChange', text = '│', numhl='GitSignsChangeNr', linehl='GitSignsChangeLn'},
delete = {hl = 'GitSignsDelete', text = '_', numhl='GitSignsDeleteNr', linehl='GitSignsDeleteLn'},
topdelete = {hl = 'GitSignsDelete', text = '‾', numhl='GitSignsDeleteNr', linehl='GitSignsDeleteLn'},
changedelete = {hl = 'GitSignsChange', text = '~', numhl='GitSignsChangeNr', linehl='GitSignsChangeLn'},
},
signcolumn = true,
numhl = false,
linehl = false,
word_diff = false,
watch_gitdir = {
interval = 1000,
follow_files = true
},
attach_to_untracked = true,
current_line_blame = false,
current_line_blame_opts = {
virt_text = true,
virt_text_pos = 'eol',
delay = 1000,
ignore_whitespace = false,
},
current_line_blame_formatter = '<author>, <author_time:%Y-%m-%d> - <summary>',
sign_priority = 6,
update_debounce = 100,
status_formatter = nil,
max_file_length = 40000,
preview_config = {
border = 'single',
style = 'minimal',
relative = 'cursor',
row = 0,
col = 1
},
yadm = {
enable = false
},
on_attach = function(bufnr)
local gs = package.loaded.gitsigns
local function map(mode, l, r, opts)
opts = opts or {}
opts.buffer = bufnr
vim.keymap.set(mode, l, r, opts)
end
map('n', ']c', function()
if vim.wo.diff then return ']c' end
vim.schedule(function() gs.next_hunk() end)
return '<Ignore>'
end, {expr=true})
map('n', '[c', function()
if vim.wo.diff then return '[c' end
vim.schedule(function() gs.prev_hunk() end)
return '<Ignore>'
end, {expr=true})
map({'n', 'v'}, '<leader>hs', ':Gitsigns stage_hunk<CR>')
map({'n', 'v'}, '<leader>hr', ':Gitsigns reset_hunk<CR>')
map('n', '<leader>hS', gs.stage_buffer)
map('n', '<leader>hu', gs.undo_stage_hunk)
map('n', '<leader>hR', gs.reset_buffer)
map('n', '<leader>hp', gs.preview_hunk)
map('n', '<leader>hb', function() gs.blame_line{full=true} end)
map('n', '<leader>tb', gs.toggle_current_line_blame)
map('n', '<leader>hd', gs.diffthis)
map('n', '<leader>hD', function() gs.diffthis('~') end)
map('n', '<leader>td', gs.toggle_deleted)
map({'o', 'x'}, 'ih', ':<C-U>Gitsigns select_hunk<CR>')
end
}
EOF
'''
```
そのわりにはやたら設定の文字数が多く見えるかもしれないが、これらは大半がデフォルト設定のコピペなので使用感を確かめる目的ならおそらくもっと少ない行数で事足りる。ただ、基本設定から個人的なベストを探る上では予め全部書き写しておいた方が後々いじりやすい。`vim.keymap.set`はNeovim v0.7以降にのみ実装されている機能なので注意。
Lua製と高々に宣伝するだけのことはあって差分の反映は相当に速いと感じる。vim-gitgutterはハイライトされるまでにだいぶ時間を要したが、本プラグインではほぼ即時に行われる。競合より圧倒的に豊富らしい機能の半分も使わないと僕は確信しているが、これだけでも移行して良かったと思える。
![](/img/96.gif)
ちなみに`set signcolumn=yes`をinit.vimに書いておかないと、初めて差分がハイライトされるタイミングでVimがガクンと揺れてしまうので設定しておくことをおすすめする。
## [nvim-colorizer.lua](https://github.com/norcalli/nvim-colorizer.lua)
![](/img/97.png)
カラーコードに対応した背景色をつける定番のプラグイン。下記のおまじないを書き加えれば簡単に機能する。ついでに僕は遅延起動させているがどっちでも構わない。
```toml
#dein_lazy.toml
[[plugins]]
repo = 'norcalli/nvim-colorizer.lua'
on_event = 'BufEnter'
hook_source = '''
lua << EOF
require('colorizer').setup()
EOF
'''
```
## LuaLuaしていないがすばらしいプラグイン
本来ここではかの有名な[vim-easymotion](https://github.com/easymotion/vim-easymotion)の事実上のLua実装である[hop.nvim](https://github.com/phaazon/hop.nvim)を紹介する予定だったが、それらよりずっと体験に優れたプラグインを見つけたので紹介したい。
[fuzzy-motion](https://github.com/yuki-yano/fuzzy-motion.vim)は横移動と縦移動に別個のkeymapを提供する前述の二つと異なり、絞り込んだ候補に向かってアルファベット大文字一文字で飛ぶ単純明快な仕様である。奇妙な話だが、これを使ったことで僕はようやくeasymotion系のプラグインに感じていた不満に気づかされた。
従来のeasymotion系の作法では必ずしも単一のキーアサインで目的の位置に飛べるとは限らないのだ。ゆえに行頭に飛ぶキーや二文字で絞り込むキーなどがあれこれと用意されている。どれか一つでは用が足りず、かといってすべて使おうとすると僕には煩雑すぎる。これこそが内心抱いていた不満の正体だったようだ。
![](/img/98.gif)
そこへいくと本プラグインの作法はすっきりしている。絞り込みに用いる文字数を上限なく受け付けることでキーアサインをたった一つに減らしている。ジャンプキーはデフォルトで大文字アルファベット一文字なので迷う余地もまずない。コロンブスの卵とはまさにことのことではないか。
## おわりに
そのうち気が変わって冒頭で述べたinit.vimのLua化やpackerにも手を出すのかもしれないが、さしあたりはこんな程度で僕のLua欲は満たされた。たとえ実際の生産性にそこまで寄与していないとしても、とりあえずトレンドを追っていけばなにかしら役に立つこともあるだろう。
## あわせて読ませたい
・[NeovimをもっとLuaLuaさせた](https://riq0h.jp/2022/10/21/150848/)
続編。Lua製プラグインをもっと増やした。

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@ -0,0 +1,223 @@
---
title: "NeovimをもっとLuaLuaさせた"
date: 2022-10-21T15:08:48+09:00
draft: false
tags: ["tech"]
---
この記事は[「NeovimをちょっとLuaLuaさせた」](https://riq0h.jp/2022/03/15/174239/)の続編である。あれからさらにいくつかのLua製プラグインを導入したので紹介していきたい。本シリーズはinit.luaとpacker.nvimへの移行体験を綴った「NeovimをむっちゃLuaLuaさせた」を以て最終回を迎える予定だ。大嘘
……まあたぶん、使用するプラグインがほぼすべてLua製になったとかでない限り、そこまで徹底して鞍替えする気にはならないと思う。なにしろ現在使用しているプラグインマネージャのdein.vimとはずいぶん長い付き合いだし、設定の書き方にもだいぶ慣れている。それに、他のマネージャを選ぶならpacker.nvimより[vim-jetpack](https://github.com/tani/vim-jetpack)の方がミニマルで良さそうだ。いずれにしても今のところ移行の意思はまったくない。
とりわけ既存のプラグインをLua製のものに置き換えていくにあたって、後発とて必ずしも上位互換にはなりえないことが分かったので現状はまだinit.vimとよろしくやっていく形になるだろう。なお、以下に続く設定はあくまで僕個人の例なので注意されたし。大半のプラグインを遅延起動させているため、当該の設定をコピペして用いる場合は`dein_lazy.toml`に書かないと機能しない。
## [indent-blankline.nvim](https://github.com/lukas-reineke/indent-blankline.nvim)
[vim-indent-guides](https://github.com/nathanaelkane/vim-indent-guides)を置き換えた。インデントの階層を可視化するプラグイン。追加の設定でスペース幅の表示をより詳細にしたりラインをカラフルにもできる。あまりゴチャつくと逆効果ゆえ僕は単純な設定に留めている。
![](/img/155.png)
```toml
#dein_lazy.toml
[[plugins]]
repo = 'lukas-reineke/indent-blankline.nvim'
on_event = 'BufEnter'
hook_source = '''
lua << EOF
vim.opt.list = true
vim.opt.listchars:append "eol:↴"
require('indent_blankline').setup {
show_end_of_line = true,
}
EOF
'''
```
## [nvim-autopairs](https://github.com/windwp/nvim-autopairs)
[auto-pairs](https://github.com/jiangmiao/auto-pairs)を置き換えた。デフォルト設定での挙動が僕の性に合っていた。名前の通り、括弧やクォートの類を自動で閉じてくれる。Vimに限らずリッチな仕様のエディタやIDEでは当たり前の機能なので、今時は逆に使わない人の方が珍しいんじゃなかろうか。
```toml
#dein_lazy.toml
[[plugins]]
repo = 'windwp/nvim-autopairs'
on_event = 'BufEnter'
hook_source = '''
lua << EOF
require('nvim-autopairs').setup()
EOF
'''
```
## [fidget.nvim](https://github.com/j-hui/fidget.nvim)
LSPの稼働状況をクールなアニメーションで通知してくれるプラグイン。言語にもよるが意外に助かる時がある。
![](https://raw.githubusercontent.com/j-hui/fidget.nvim/media/gifs/fidget-demo-rust-analyzer.gif)
```toml
#dein_lazy.toml
[[plugins]]
repo = 'j-hui/fidget.nvim'
on_event = 'BufEnter'
hook_source = '''
lua << EOF
require('fidget').setup()
EOF
'''
```
## [lsp_lines.nvim](https://github.com/ErichDonGubler/lsp_lines.nvim)
LSPのdiagnosticsをいい感じに拵えるプラグイン。ビルトイン機能の方はたくさん表示させるとひどく見づらかったが、こういうふうにしてくれると俄然受け入れやすい。正直、このプラグインを知るまでは機能自体をオフにしていた。
![](/img/156.png)
```toml
#dein_lazy.toml
[[plugins]]
repo = 'Maan2003/lsp_lines.nvim'
on_event = 'BufEnter'
hook_source = '''
lua << EOF
require('lsp_lines').setup()
EOF
'''
```
## [nvim-hlslens](https://github.com/kevinhwang91/nvim-hlslens)
`/`での検索後に出るカウンタを改良するプラグイン。該当ワードの真横に連番が現れるのでとても分かりやすい。何回分のnで目当てのワードに飛べるのかも教えてくれる。おかげでnnnnnとか連打しなくても5nで間に合うことが直感的に把握できる。
![](/img/157.png)
```toml
#dein_lazy.toml
[[plugins]]
repo = 'kevinhwang91/nvim-hlslens'
on_event = 'BufEnter'
hook_source = '''
lua << EOF
require('hlslens').setup()
local kopts = {noremap = true, silent = true}
vim.api.nvim_set_keymap('n', 'n',
[[<Cmd>execute('normal! ' . v:count1 . 'n')<CR><Cmd>lua require('hlslens').start()<CR>]],
kopts)
vim.api.nvim_set_keymap('n', 'N',
[[<Cmd>execute('normal! ' . v:count1 . 'N')<CR><Cmd>lua require('hlslens').start()<CR>]],
kopts)
vim.api.nvim_set_keymap('n', '*', [[*<Cmd>lua require('hlslens').start()<CR>]], kopts)
vim.api.nvim_set_keymap('n', '#', [[#<Cmd>lua require('hlslens').start()<CR>]], kopts)
vim.api.nvim_set_keymap('n', 'g*', [[g*<Cmd>lua require('hlslens').start()<CR>]], kopts)
vim.api.nvim_set_keymap('n', 'g#', [[g#<Cmd>lua require('hlslens').start()<CR>]], kopts)
vim.api.nvim_set_keymap('n', '<Leader>x', ':noh<CR>', kopts)
EOF
'''
```
## [telescope.nvim](https://github.com/nvim-telescope/telescope.nvim)
言わずと知れたファジーファインダー界の一大勢力。コピペ設定でもかなり賢く働いてくれるが自己流にカスタマイズするととんでもなく捗る。以前は素のfzf.vimでゴニョゴニョやっていたが、VSCodeよりもVimの使用頻度が高まるにつれて厳しさを感じはじめていた。結局、本プラグインと双璧をなす[fzf-preview.vim](https://github.com/yuki-yano/fzf-preview.vim)の作者である[Yuki Yano氏のアドバイス](https://twitter.com/yuki_ycino/status/1442056435253190665)が正しかったことになる……。まさに経験者は語るというやつだ。
![](/img/158.gif)
```toml
#dein.toml
[[plugins]]
repo = 'nvim-telescope/telescope.nvim'
hook_add = '''
nnoremap <leader>. <cmd>lua require('telescope.builtin').find_files({hidden=true})<CR>
nnoremap <leader>l <cmd>lua require('telescope.builtin').live_grep({grep_open_files=true})<CR>
nnoremap <leader>k <cmd>lua require('telescope.builtin').live_grep()<CR>
nnoremap <leader>b <cmd>lua require('telescope.builtin').buffers()<CR>
nnoremap <leader>h <cmd>lua require('telescope.builtin').help_tags()<CR>
nnoremap <leader>y <cmd>lua require('telescope.builtin').registers()<CR>
nnoremap gd <cmd>lua require('telescope.builtin').lsp_definitions()<CR>
nnoremap gr <cmd>lua require('telescope.builtin').lsp_references()<CR>
nnoremap gi <cmd>lua require('telescope.builtin').lsp_implementations()<CR>
nnoremap gx <cmd>lua require('telescope.builtin').diagnostics()<CR>
lua << EOF
local actions = require("telescope.actions")
require("telescope").setup{
defaults = {
mappings = {
i = {
["<esc>"] = actions.close
},
},
},
}
local previewers = require("telescope.previewers")
local Job = require("plenary.job")
local new_maker = function(filepath, bufnr, opts)
filepath = vim.fn.expand(filepath)
Job:new({
command = "file",
args = { "--mime-type", "-b", filepath },
on_exit = function(j)
local mime_type = vim.split(j:result()[1], "/")[1]
if mime_type == "text" then
previewers.buffer_previewer_maker(filepath, bufnr, opts)
else
vim.schedule(function()
vim.api.nvim_buf_set_lines(bufnr, 0, -1, false, { "BINARY" })
end)
end
end
}):sync()
end
require("telescope").setup {
defaults = {
buffer_previewer_maker = new_maker,
extensions = {
fzf = {
fuzzy = true,
override_generic_sorter = true,
override_file_sorter = true,
case_mode = "smart_case",
},
},
},
}
vim.api.nvim_set_keymap('n', '<leader>,', "<cmd>lua require('telescope').extensions.frecency.frecency()<CR>", {noremap = true, silent = true})
EOF
'''
[[plugins]]
repo = 'nvim-lua/plenary.nvim'
```
この設定例ではソースとしてファイル検索、絞り込み、バッファ一覧、ヘルプタグ、レジスタ履歴、LSPとの連携機能を利用している。要ripgrep。また、[telescope-frecency.nvim](https://github.com/nvim-telescope/telescope-frecency.nvim)を別途導入することで標準のoldfilesより高度なMRUMost Recently Usedを使えるように仕上げている。現状はこれで十分だが習熟次第ではさらなる拡張の余地がありそうだ。
## [registers.nvim](https://github.com/tversteeg/registers.nvim)
コードをヤンクした後に他所でddしたらレジスタが上書きされてしまった ……なんて面倒を防ぐためのプラグイン。レジスタの中身をすべて一覧表示できる。僕みたいなコピペマンには絶対に欠かせない。Telescopeに乗り換えるまではよくお世話になっていた。デフォルト設定では`"`キーで展開される。
![](/img/159.png)
```toml
#dein.toml
[[plugins]]
repo = 'tversteeg/registers.nvim'
hook_add = '''
lua << EOF
require('registers').setup()
EOF
'''
```
新たに導入したLua製プラグインの紹介はこれで以上となる。おそらくパワーユーザにとっては目新しさに乏しいラインナップだったかと思われるが、半年以上も前に書いた前編が未だに一定のPVを呼び込んでいる様子を鑑みると、こうした基礎的な内容の記事もぼちぼち誰かの助けにはなっていそうだ。書く側としても導入に至った経緯を言語化できるのでまんざら無償の奉仕というわけでもない。今後も折りに触れて書いていくつもりである。
<iframe style="border-radius:12px" src="https://open.spotify.com/embed/track/1RIE9evNiaPTV7PrVSuqWG?utm_source=generator" width="100%" height="80" frameBorder="0" allowfullscreen="" allow="autoplay; clipboard-write; encrypted-media; fullscreen; picture-in-picture"></iframe>
## あわせて読ませたい
・[Neovimを完全にLuaLuaさせた](https://riq0h.jp/2023/01/20/210601/)
シリーズ最終章。感動のフィナーレ。

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@ -0,0 +1,210 @@
---
title: "Neovimを完全にLuaLuaさせた"
date: 2023-01-20T21:06:01+09:00
draft: false
tags: ['tech']
---
[前回の記事](https://riq0h.jp/2022/10/21/150848/)の続編にして最終章の幕開けである。ついにinit.lua化は果たされ、主だったプラグインはどれもLua製に置き換わった。プラグイン総数が50前後しかないカジュアルユーザの僕でも丸一日かかったがやるだけの価値はあったと思いたい。
今や業務以外ではエディタをVim一本に絞りきれるところまで馴染んだ。主流のプラグインマネージャがNeoBundleの時代からVimに触れてきた割にはずいぶん手間を食ったものだ。「Vimはサブ武器です」と尻込みしていた頃とはうってかわり、Vimはもう僕のメイン武器となった。
## init.lua化の実践
**■シングルファイル**
Web上の様々な設定例はたいていファイルが細かく分割されている。プラグインごとに独立したファイルを与えている事例もよく見るし、init.luaが数行しかないのも珍しくない。だいたいみんな5個くらいには分けているようだ。僕も以前はinit.vimとdein.vim、dein_lazy.vimの3つに分けていたが、編集を重ねていく過程で僕はこのメソッドにさほど嬉しみを感じていないことに気がついた。
もしかすると僕の知らない利点があるのかもしれないが、単に可読性の都合でしかないとしたら全部まとめても500行程度に収まる設定をあえてバラけさせる理由はなさそうだ。というわけでinit.lua化に合わせて全設定を一つのファイルに集約した。したがって、本エントリの記述例はすべてinit.luaに記されていると考えて構わない。
**■記述のパターン化**
init.lua化に役立つ知見はありとあらゆる場所に記されているとはいえ、手早く移行を完了させたいユーザにとっては迂遠な説明が多かったり、特殊な設定に文面を割いていたりしていまいち要領を得ないのが実情だ。そこで僕はいくつかのパターンを重点的に捉えることにした。
とりわけ重要なパターン例はVim scriptにおける`set xxx`構文がinit.luaでは`vim.opt.xxx = boolean`に置き換わっているところである。前者では設定した値がそのまま有効化されるが、後者の場合はboolean型で変数を入力する。つまり、trueなら有効でfalseなら無効化される。設定の大部分はこれだけ知っておけば書き換えられなくもない。
```Lua
set hidden --Vim script
vim.opt.hidden = true --大半の設定はこのパターンで書ける。
set helplang='ja', 'en' --Vim script
vim.opt.helplang = 'ja', 'en' --設定部分によっては値も変わる。
set cmdheight=2 --Vim script
vim.opt.cmdheight = 2 --元の値が数値ならここも数値で指定する。
set signcolumn=yes --Vim script
vim.opt.signcolumn = 'yes' --数値でもboolean型でもない設定も稀にある。
```
他にショートハンドの`vim.o.xxx`や`vim.bo.xxx`などもあるが、基本的には`vim.opt.xxx`を使っておけば無用な誤りを減らせる。一方、数少ない例外への対処法としてはLuaっぽく直した構文をかたっぱしからGitHubの検索窓に叩き込む手法が非常に有効だった。ヒット件数が多ければ多いほど設定の確からしさを推測できる。
惜しむらくは資料の膨大さゆえ誰のどのコードを参考にしたのかまるで憶えておらず、技術文章にあるまじき不誠実な状態に陥ってしまったことだ。さしあたってはinit.luaを書いた全人類に感謝を捧げるという体裁でどうか容赦願いたい。
```Lua
set mapleader='/<Space>' --Vim scriptの場合はエスケープ処理と文字コードが必要。
vim.g.mapleader = ' ' --この設定は構文が異なりエスケープ処理も文字コードも不要。
set clipboard+=unnamedplus --Vim script
vim.opt.clipboard:append{'unnamedplus'} --特別な指定方法の一つ。
set list listchars=tab:»-,trail:-,eol:↲,extends:»,precedes:«,nbsp:% --Vim script
vim.opt.listchars = {tab='»-', trail='-', eol='↲', extends='»', precedes='«', nbsp='%'} --特別な指定方法の一つ。
set shortmess+=I --Vim script
vim.cmd('set shortmess+=I') --代替しうる構文が見つからない時はvim.cmdを利用してVim scriptで書く。
set noundofile --Vim script
vim.opt.undofile = false --init.luaに否定形の構文はないため、この場合は指定すべき真偽値が逆になることに注意されたし。
```
キーマッピングも同様のパターンで対応可能だ。たとえば`nmap a b`のようなマッピングをinit.luaは`vim.keymap.set('n', 'a', 'b')`の形で記す。`vim.api.nvim_set_keymap()`といった記述も有効だがこれは古い書き方である。このように既存の設定をパターン化して順次書き換えていき、必要に応じてGitHubの検索を活用すればいずれinit.lua化が完了するだろう。ただし、autocmdを多用している人はちょっと苦労しそうだ。
```Lua
nnoremap <silent> sv :<C-u>vsplit<CR> --Vim script
vim.keymap.set('n', 'sv', ':<C-u>vsplit<CR>', {silent = true}) --<silent>などもboolean型で指定する。
--やっている人が多そうなカーソル位置の保存設定をLua化したもの。
vim.api.nvim_create_autocmd({ 'BufReadPost' }, {
pattern = { '*' },
callback = function()
vim.api.nvim_exec('silent! normal! g`"zv', false)
end,
})
```
ベテランユーザにとって以上の実践例は本質を無視した邪悪な所業かもしれないが、とにかく有効なinit.luaを仕立てる上ではこんな大雑把な理解でも一応差し支えはない。そのうちちゃんと`:help lua-guide`を読むから許してほしい。
## [lazy.nvim](https://github.com/folke/lazy.nvim)
init.lua化の次に取り掛かるのはプラグインマネージャの移行だ。今まで使っていたdein.vimにはなんの不満もないどころか、むしろ離れがたいとさえ感じているがLua化の欲望には抗えない。どうせやるからには真のルアラーを目指していきたい。まあ、真のルアラーは設定をコピペで書いたりはしないんだろうけど。
かつてLua製のプラグインマネージャといえばpacker.nvimの存在感が大きかった。僕もinit.lua化を果たした暁には半ば自動的にそれに移行するものと考えていたが、昨年の晩秋に突如現れた[lazy.nvim](https://github.com/folke/lazy.nvim)の新進気鋭ぶりが凄まじく、せっかくならと新しい方を試すことにした。
使ってみると好評の理由はすぐに判った。俗な言い方をすればUIが強すぎる。プラグインの追加を検知すると再起動後にグラフィカルなインストール処理が自動で走り、アップデート時にはその概要までもが過不足のない洗練された画面で表示される。似たような機能は他のプラグインマネージャも持っているがポン付けでよしなにやってくれる点ではこちらが上回る。
![](/img/172.png)
極めつけは`:Lazy profile`のベンチマーク機能だ。`nvim --startup`抜きで即座に起動時間が把握できて、なおかつどのプラグインがどんな順序で読み込まれているのかも判る。伊達にlazyなどと銘打っていないだけはあり、遅延に関する機能はかなり豊富に見える。
![](/img/173.png)
遅延設定そのものも書きやすい。さすがにフルオートメーションとはいかず結局は手動で書かざるをえなかったがドキュメント類も賢くまとまっており、移行直前の億劫ささえ乗り越えればなんとかなった。これもいくつかのパターンを抑えれば簡単に遅延化を実現できる。以下に設定の一部を記す。
```Lua
{'windwp/nvim-autopairs', event = 'InsertEnter'}, --文字の挿入を伴うプラグインは'InsertEnter'を指定する。
{'j-hui/fidget.nvim', event = 'LspAttach'}, --LSPと連動するプラグインは'LspAttach'を指定する。
{'nvim-telescope/telescope.nvim', cmd = 'Telescope'}, --特定のコマンドを入力するまで不要なプラグインはcmd = 'cammand'で対応する。
{'vim-jp/vimdoc-ja', ft = 'help'}, --特定のファイルタイプでのみ必要なプラグインはft = 'filetype'で対応する。
{'lewis6991/gitsigns.nvim', event = 'BufNewFile, BufRead'}, --ファイルを読み込んだ後に装飾を加えるプラグインは'BufNewFile'と'BufRead'が有力。
{'echasnovski/mini.surround', event = 'ModeChanged'}, --モードの切り替え時に発動させたいプラグインは'ModeChanged'が適切。
{'nvim-lualine/lualine.nvim', event = 'VeryLazy'}, --他の設定でうまく動かなかったものは一律に'VeryLazy'で対処する。VimEnter相当らしい
{'vim-denops/denops.vim', lazy = false}, --即時読み込んでくれないと不都合なプラグインは逆に遅延を無効化する。config.default.lazy = falseの場合
```
lazy.nvimの作者曰く、遅延設定を最強に極めると90以上のプラグインを抱えていても10ms台で立ち上がるらしい。僕の周りでもベテランユーザたちが次々と30ms台を達成している。残念ながら上記の中途半端なやり方では50msを切るか切らないかが精一杯だが、それでもデフォルト設定の2倍近く高速化できたので当面はこれで納得しておく。
## [nvim-cmp](https://github.com/hrsh7th/nvim-cmp)
補完プラグインも例によってLua製に置き換えた。僕は補完プラグインについてはShougoware一筋neocomplete.vim→deoplete.nvim→ddc.vimだったが、当初の懸念とは裏腹にこのnvim-cmpは使っていてなんの不満も感じない。Neovim界隈で事実上のデファクトスタンダートと認められているのも納得の完成度と言える。大衆人気を得るプラグインにありがちなおせっかいさも見られず、自分でキーマップやソースを設定しなければならないところも好印象だ。
たとえばLSPと連携するための[cmp-nvim-lsp](https://github.com/hrsh7th/cmp-nvim-lsp)、バッファ内のワードを拾う[cmp-buffer](https://github.com/hrsh7th/cmp-buffer)、コマンドラインの入力を補完してくれる[cmp-cmdline](https://github.com/hrsh7th/cmp-cmdline)などが挙げられる。ソース群の種類はddc.vimに引けをとらず豊富で、なにがなくて困るというよりはトレンドを掴む方がかえって大変かもしれない。以下に僕の設定を示す。
```Lua
local cmp = require('cmp')
local lspkind = require('lspkind')
cmp.setup({
snippet = {
expand = function(args)
vim.fn['vsnip#anonymous'](args.body)
end
},
window = {
completion = cmp.config.window.bordered({
border = 'single'
}),
documentation = cmp.config.window.bordered({
border = 'single'
}),
},
mapping = cmp.mapping.preset.insert({
['<Tab>'] = cmp.mapping.select_next_item(),
['<S-Tab>'] = cmp.mapping.select_prev_item(),
['<C-b>'] = cmp.mapping.scroll_docs(-4),
['<C-f>'] = cmp.mapping.scroll_docs(4),
['<C-Space>'] = cmp.mapping.complete(),
['<C-e>'] = cmp.mapping.abort(),
['<CR>'] = cmp.mapping.confirm({ select = true }),
}),
formatting = {
format = lspkind.cmp_format({
mode = 'symbol',
maxwidth = 50,
ellipsis_char = '...',
})
},
sources = cmp.config.sources({
{ name = 'nvim_lsp' },
{ name = 'vsnip' },
{ name = 'nvim_lsp_signature_help' },
{ name = 'calc' },
}, {
{ name = 'buffer', keyword_length = 2 },
})
})
cmp.setup.cmdline({ '/', '?' }, {
mapping = cmp.mapping.preset.cmdline(),
sources = cmp.config.sources({
{ name = 'nvim_lsp_document_symbol' }
}, {
{ name = 'buffer' }
})
})
cmp.setup.cmdline(':', {
mapping = cmp.mapping.preset.cmdline(),
sources = cmp.config.sources({
{ name = 'path' }
}, {
{ name = 'cmdline', keyword_length = 2 }
})
})
local capabilities = require('cmp_nvim_lsp').default_capabilities()
vim.cmd('let g:vsnip_filetypes = {}')
```
もちろん、これらを適用するには任意のプラグインマネージャに導入したいソース群を予め列挙しておく必要がある。lazy.nvimでの記述例は以下の通りになる。
```Lua
{'hrsh7th/nvim-cmp', event = 'InsertEnter, CmdlineEnter'},
{'hrsh7th/cmp-nvim-lsp', event = 'InsertEnter'},
{'hrsh7th/cmp-buffer', event = 'InsertEnter'},
{'hrsh7th/cmp-path', event = 'InsertEnter'},
{'hrsh7th/cmp-vsnip', event = 'InsertEnter'},
{'hrsh7th/cmp-cmdline', event = 'ModeChanged'}, --これだけは'ModeChanged'でなければまともに動かなかった。
{'hrsh7th/cmp-nvim-lsp-signature-help', event = 'InsertEnter'},
{'hrsh7th/cmp-nvim-lsp-document-symbol', event = 'InsertEnter'},
{'hrsh7th/cmp-calc', event = 'InsertEnter'},
{'onsails/lspkind.nvim', event = 'InsertEnter'},
{'hrsh7th/vim-vsnip', event = 'InsertEnter'},
{'hrsh7th/vim-vsnip-integ', event = 'InsertEnter'},
{'rafamadriz/friendly-snippets', event = 'InsertEnter'},
```
導入すると下記動画のような美しい補完ウインドウが姿を現す。すっかり手垢のついた言い回しになってしまうが、GUIのIDEに勝るとも劣らない上等な表現力だと思っている。
![](/img/174.gif)
## [telescope-file-browser.nvim](https://github.com/nvim-telescope/telescope-file-browser.nvim)
昨今のファイラと言えば[fern.vim](https://github.com/lambdalisue/fern.vim)がよく知られている。しかし今の僕には可能なかぎりNeovimをLuaLuaさせたいモチベが堆積しており、Telescopeをファイラに仕立てた本プラグインをチョイスした。当然ながら操作方法はTelescopeそのもので、あとはファイル管理に関わるショートカットキーさえ覚えればすでに手に馴染んだも同然である。
![](/img/175.gif)
他のファジーファインダーを使っている人もこれを目当てにTelescopeに移行すべきかと訊かれたら「そこまでではない」と答えるが、突出した特長がない代わりに一通りの機能は揃っているためTelescopeユーザには一度試してもらいたいファイラだ。デフォルトでAltキーを占有しているところは若干気に入らないものの、その気になれば容易に変更できるのでtmuxやi3wmユーザでも不都合はないだろう。
## おわりに
init.lua化、プラグインマネージャ、補完プラグイン、ファイラと立て続けに大がかりな移行を終えた現在、もはや完全にNeovimをLuaLuaさせたと言っても過言ではないはずだ。よって本シリーズはこれにて一旦の完結を見るが、今後もなにか面白い発見があれば随時紹介していきたい。もし読者の皆さんに「あまり知られていないが自分はこれがないと生きていけない」というようなプラグインがあったらぜひ教えていただきたい。

815
content/post/Overwritten.md Normal file
View file

@ -0,0 +1,815 @@
---
title: "Overwritten"
date: 2023-02-11T20:13:25+09:00
draft: false
tags: ['novel']
---
 あまり記憶には残っていないけど、私は幼い頃に一度死にかけたらしい。なにかに気を取られやすい質だった私はその時、するっとママの手をすり抜けて車道に飛び出した。いくらなんでも車が危ないってことは当時の私にも解っていたはずなのに、今となってはそんなに気になったものがなんなのかも分からない。
 次の瞬間、横からすごい力で吹き飛ばされて、すぐに目の前が真っ暗になって、目が覚めたら真っ白な部屋のベッドで寝ていた。パパとママと知らない人たちが周りにたくさんいて、目が合った途端に抱きしめられた。癇癪を起こした私よりも大きな声で泣き叫ぶ二人の姿はよく憶えていて、それが数少ない残っている方の記憶だった。
「じゃあ、これは?」
「りんご」
「よくできました。じゃあ、これは?」
「バナナ……でも、色が変だね」
「そう、そう。これはまだ赤ちゃんのバナナなの」
「私もあかちゃんって呼ばれる。あかりだから」
 起きてからしばらくは、笑顔が得意な大人の女の人と一緒にいた。彼女がシート端末をこちらに向けて、指先で押すと絵が表示される。私はそれがなんなのか当てなければいけないようだった。結果的に一度も外した覚えはない。分からなくても女の人がヒントをくれたからだ。そんな療養生活を繰り返しているうちにパパとママが迎えにきて、私は家に帰った。家に帰ると、いつもと同じ部屋にいつもと同じおもちゃがあって、とても安心できた。
 しかし、まもなくして私の後遺症ははっきりと露見するところとなった。
<まずい>
 おやつの時間にりんごを食べていると突然、声がした。
 驚いて左右をきょろきょろしても、誰もいない。後ろを見渡してもいない。
 気を取り直して食べかけのりんごに取りかかると、そこでまた声がした。
<まずいから、食べないで>
 びくっとしてりんごを取り落したが、大好きなりんごをけなされた怒りの方が上回って私は大声をあげた。
「まずくないもん! りんごおいしいでしょ!」
 前触れなく虚空に向かって怒鳴りだした娘に驚いたのはもちろんパパとママだ。二人ともめいめいにすっ飛んできて、どうしたのかと尋ねた。
「りんごまずいって言うの」
「りんご、もういらないのね?」
 私の抗弁を曲解したママがりんごの載った皿を下げようとすると、私は必死の形相で皿を手元に引き寄せた。
「りんごはおいしいよ! でもまずいって言う子がいるの」
 私はどこともつかない空中を睨みつけた。二人は、いよいよ困惑した様子だった。
「たまに声が聞こえるの。りんごまずいって言うから、私はこの子きらい」
「へえ……その子は、どんな見た目をしているのかな?」
「目には見えたことない。頭の中で聞こえるだけ。たぶん、女の子だと思う」
「女の子……それは、声で分かるのかい?」
「うん」
 大慌てだった両親と違って、クリニックの先生は落ち着いていた。時々、私の話す内容を手元のシート端末に記録しながら、私の頭の中に住む妖精の輪郭を掴もうとしていた。
「名前はあるのかな?」
 さっそく頭の中に訊いてみた。初対面から病院に向かう間に私はすっかり理解した。彼女は空中ではなく頭の中にいて、彼女がそうであるように私も頭の中で話さないと答えられないことを。私の声は反響して変なふうに聞こえるらしい。
<あなたのお名前は?>
<わたしの名前はまだないよ。付けてもらう前に捨てられちゃった>
「ないって」
 明らかに重要な経緯を私は意図したのかしないのか、大幅に省略して先生に伝えた。先生は「あかりちゃんがなにか名前を付けてあげるといいよ」とにこやかに教えてくれた。家に帰った私は家族共用のシート端末に向かって話しかけて、自分と似た意味を持つ言葉を彼女に与えた。自分とそっくりになれたら、りんごも好きになると思ったから。
<るくすちゃん>
<るくす……? それ、わたしの名前?>
<そう。嫌なら、りんごちゃんって呼ぶ>
<じゃあ、るくすでいい>
 以降、私は自分で言うのもなんだけど明確に平凡な少女として人生を歩んできたつもりだ。特別に優秀でも落第生でもなく、人並みに趣味があったりなかったり、流行を追いかけたり嘲ってみたり。パパとママと毎月通うクリニックの先生はそういった日常の話をすごく詳しく知りたがった。対して私は、平凡なりに成長した代償としてだんだん自分の話をしたくなくなった。二人と先生の話しぶりで、るくすをどうやらイマジナリーフレンドの一種だと想定していることも判ってきた。
 当然、私も頭の中の妖精を誰かに認めてもらうのは難しいと徐々に学んだ。高学年に差し掛かったあたりで周りからの「イタい子」認定を払拭すべく、イマジナリーフレンドの”設定”を封印した。そんな感じで、ようやく私が彼女との世界と外界での振る舞いを区分できるようになった頃、パパとママに大切な話を持ちかけられた。二人はやけに姿勢正しく椅子に座って待っていて、表情を固く引き締めていた。そして、家族共用ではない別のシート端末を持ち出して、私の頭が本当はどうなっているのか告知した。
 要するに、私の頭の中には脳みそがまったく入っていないということだった。
 例の事故の後、私の体は無事でも頭の方はどうもだめだったみたいで、その日のうちになんとかしないと助からなかった。幸いにも二人は家族保険をかけていて、それの特約には実験的先進医療の優先対象権、なんてものが含まれていた。もっと運の良いことに、そんな先進医療の用意が当日中に手配できてしまった。二人はおびただしい量の免責事項を読まされ、何度も生体認証をして、ついに私の頭蓋骨から役に立たなくなった脳みそをかきだす法的許可を下したのだった。
 かきだす前に脳みそからコピーされた私の精神は縦横五センチにも満たない正六角形の量子チップに収められて、今では頭蓋骨の底面に建設された台座にちょこんと載っている。
 こんな話をいきなり聞かされて、私は思わず自分の頭をごつんと叩いた。
 叩くこぶしの感触が、まさしく空洞を打っている感じがした。私ってどんなに頑張っても全然普通じゃないんだ。
 るくすが頭の中でくすくすと笑ったので、もう一度叩いた。
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 午前七時三十三分。絶望の起床。なぜ絶望かというと私はモーニングルーティーンに通常三十分ほど要し、なんらかの工夫を経て短縮できたとしても午前八時の登校に間に合うためには走っていかなければならないからだ。「なんらかの工夫」の内訳には朝食の放棄も含まれるかもしれない。それは困る。私は跳ね起きてリビングに向かった。そこではもう、パパが立って待っていてむっつりとしていた。
「パンが冷めるじゃないか」
「冷えてても美味しいよ」
 ばつの悪さから顔を伏せぎみに両面焼きのサンドイッチと、プチトマトと、マヨネーズのかかったブロッコリーの群体を口に放り込んで三分で食事を済ませ、洗面台に向かった。見たところ、ママはすでに出勤したようだった。歯を磨き、顔を洗い、カラスみたいな色の髪をとかし、着替えを済ませた頃には残された時間はほとんどなかった。部屋に戻って机に置きっぱなしだった学習用シート端末をむんずと掴み――ぐにゃりと曲がったので取り落しかけた――を鞄に入れ、洗面台の横に置きっぱなしだったポーチを鞄に入れ、再び部屋に戻って、現代文明の利器たるウォッチも改めて腕にあてがった。今朝、アラームが鳴らなかったのはウォッチがバッテリー切れを起こしていたせいだが、充電は二分で完了した。口数少なめに家を飛び出した私に、パパは特に追及を仕掛けてこなかった。”イマジナリーフレンド”の話も、もうずいぶん長くしていない。
 我が家は第二川口駅から徒歩で約二十分離れたマンションの三十七階にある。学校は駅のやや手前だ。理論上は全力で走れば間に合わなくもない。ところがマンションを上下に行き交う二基のエレベータが三十七階でぴたりと止まってくれる保証はない。地表から気だるそうに上がってくるエレベータがのろのろと通り過ぎて五十階で止まり、数階下りるごとに鈍牛が草を喰む遅さで住民を取り込んで、私のわずかな猶予を消耗せしめる恐れは十分に考えられる。しかし歩きで階段を下りるつもりは毛頭なかった。案の定、エレベータの階数表示が「37」を明滅させて「38」に移り変わっても、私はかえって床に根を張ったように仁王立ちとなり、階数表示がそれ以上進まないことを願った。
 果たして願いは聞き届けられ、三十八階で住民を降ろしたエレベータは三十七階に舞い戻り、私を地上へと運んだ。開きかけのドアを体でこじあけるようにして突破した後は、ひたすらがむしゃらに走った。今年度の流行色に決まったライトピンクが早くもありとあらゆる高層建築物の壁面にマッピングされている一方、昨年度の流行色であるスカイブルーも負けじと街頭のあちこちで存在感を放っている。中低層の建物にはトレンドを無視したカラーリングもちらほら見られるものの、全力疾走中の私にはすべての配色が混ざりあって映った。
 中学校からは通信制を選ぶ子の方がはるかに多いのに『生身のコミュニケーション』とやらの謳い文句に惹きつけられて通学制を選んだパパとママを私は恨む。たまたま圏内に通学制中学校を置いた埼玉県第二川口市を恨む。でも、もっとも恨めしいのは朝早く起きる苦労をさして考慮せずに安請け合いした十二歳の時の私だ。仲の良い子が行くと言ってたからなんとかなると思っていたのだ。
 学校の正門に走り込んだ瞬間、鞄に入った学生証がセンサに読み取られて登校情報が記録される。ウォッチを見るのも億劫な私は頭の中に呼びかけた。
<るくす、いま何時何分?>
<じぇー、えす、てぃー、ごぜん、はちじ、いっぷんでーす>
 とてつもなく間延びした嫌味っぽい、幼い声色が反響して返ってきた。
<えっ、一分?>
<センサが時刻同期してないといいね。一分くらいならずれてるかも>
 そんなわけない。私は汗のにじんだ額をハンカチで拭って、とぼとぼと歩きはじめた。どのみち電子情報的に遅刻決定なら今さら走ろうと走るまいと変わらない。カラーマネジメントの概念を持たない公共建築物たる校舎の、陽光に照らされてますます高慢ちきに光る純白の壁面を睨みつけた。
「おっす」
 背後からよく通る低い声が聞こえてばっと振り返った。背が高く、茶色の短髪がふさふさしていて、ほんの少し長い眉毛が特徴的な男子生徒がスポーツバッグを肩に回して近づいてきた。
「瀬川も遅刻?」
 彼は自分のウォッチを傾けた。小さく空間投影されたホーム画面に現在時刻が表示されている。今や八時をゆうに三分は過ぎていた。
「あっ、うん、一分遅刻した」
 開口一番の裏返った発声を修正するのに苦労したが、当の彼は気に留めていない様子で共感の苦笑を作り「うそっ、惜しいな。でも回数溜まってないだろ。俺はさ、だめかもしんない」と肩を落とした。「もう五回溜まっちゃったの?」自分でも驚くほど高い声が出た。
「いかにも、だ。さあて今回はボランティアの穴埋め要員か、はたまた手動清掃か……」
 運動部ならではの健脚ですたすたと先に進む彼の足どりは、私の返答のスピードよりもずっと速かった。
「あ、雄也……くん」
 顔を上げた頃には、もう声の届かない場所まで遠のいていた。
<あかりの男の趣味ってさ、なんかふつーだよね>
 るくすの無粋なつっこみに頭の中で声を荒らげた。
<うるさい。普通でいいじゃん>
<いやいや競争率を考えようよ。どう考えたって百人いたら九十八人はうっかり好きになっちゃうでしょ、彼>
<だからなんなの>
<そのうちの選ばれし一人になりたかったら、そんなふうにごにょごにょやってる場合じゃなくない?>
 正論だ。でも手足も顔も持ってないやつに言われるのは心外すぎる。
<じゃあ、るくすはあえて誰も好きにならなさそうな男子を好きになるってこと?>
<男子じゃなくても構わないけどねわたしは。そうすれば、チャンス二倍>
 馬鹿にした笑い声のこだまする頭をぽかぽかと叩きながら私は校舎に入っていった。
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 調べた情報によると、私の精神が収まっている量子チップはそれはもう大層な代物らしい。そんじょそこらのスパコンでは太刀打ちできない圧倒的な演算性能を持っており、外装には人体適合性に配慮した特殊な素材があしらわれている。人間の脳みそに代替されるという究極の使命を担う都合上、オーバースペックで困る余地はどこにもない。生体電気のみ、かつノーメンテナンスで百年の寿命を誇るとも書かれていた。おかげさまで脳挫傷、脳腫瘍、脳梗塞などの脳疾患とも無縁だ。中学生の私にはピンと来ないけれど。
 にも拘らず、だ。
 そんな人類最高の科学の結晶が私の精神を支えているというのに、どういうわけか私は中学レベルの数学を満足に解けない。エックスだとかワイだとか手に負えないし、放物線なんて見た暁には眠たくなってくる。明らかに、強力な催眠効果があると思う。では、量子チップに住まう同居人の方はどうかと言えば――
<いや全然普通にわたしも解らない。そもそもあかりが授業を受けている間は基本、寝てるし>
 ――この有様である。
 私が理数系に弱いという事実について、クリニックの先生の答えは無慈悲だった。
「量子チップはあかりちゃんの精神を維持するために存在しているんだ。そういうズルはできないようになっているんだよ」
 しかし結論から言うと、これは半分嘘だと判っている。量子チップにはウォッチと同様に色々できる機能が搭載されている。でも、操作する方法が見つかっていない。映画さながらに視界に情報が表示されてどうのこうの……みたいなのは、生身の人間の都合を無視しすぎているらしい。脳波も眼球も、指先ほど正確には動かせない。鼻血を吹き出す勢いで念じてもなにも起こらない一方、なんでもない時に視界いっぱいにウェブページが表示されたりする。そういう技術的問題をメーカーは解決できなかったために、これらの機能は一律に無効化されている。この手の学術情報は絨毯爆撃にも等しい未成年者フィルタリングの影響を受けないおかげで調べ放題だった。
 もし、開発がうまくいっていたら全教科満点間違いなしだったのに。
 代わりに付属してきたのは同時期に量子チップ治療を受けたものの、自分自身の肉体に拒絶されて行き場を失ったるくすだった。
 一分一秒を争う移植手術の渦中で、おそらく技術職員は量子チップの初期化を入念に行わなかったのだろう。さすが人類最高の演算装置なだけあって、二人分の精神をも見事に収めてしまった。誰もがイマジナリーフレンドと決めつけたるくすの存在を、私はそのように解釈して受け入れた。「ユーザ領域が消される寸前にアプリケーション領域に逃げて、次はシステム領域に逃げて、ぐるぐる回ったんだよ」とは本人の言である。これが全部ひっくるめて前学年の情報Ⅱの期末テストで赤点をとった私の妄想なら逆に大したものだ。
<ねえ、アプリケーション領域とやらに移動できるなら、関数電卓とか起動してくれない?>
<……もうどこにも移動できないよ。わたしは使われていないテンポラリーパーティションの空き領域にいるんだ。そうじゃなかったら、あかりがいるユーザ領域に自分を上書きして、乗っ取れちゃうかも>
 わけのわからない話をされて完全に集中力が削がれてしまった。学習用シート端末とペンを模した入力デバイスをうっちゃり、私は小テストの残りの時間を無で過ごすことに決めた。
<パパとママに成績を知られた時だけ上書きしてくれない?>
<上書きされたら元に戻るわけないじゃん>
 中休みに入り、私はいよいよ暇を持て余した。こういう時こそ駄弁り相手になってくれそうなるくすは授業の途中から昼寝を決め込んでいる。肉体を持たなくても睡眠が必要なのはいつ考えても納得できそうにないが、現に一度寝入ったるくすを起こすのは容易ではない――昔、無理やり起こそうと頭の中で叫び続けたら喧嘩になった――ので、そういうものだと納得せざるをえなかった。とはいえ、新学年になって日が浅く、クラス替えも行われた現状で話しかけられる他の相手なんていない。
 いや、いた。くせっ毛が強い、猫背の男子生徒の後頭部を目ざとく捉えた私は、つかつかと近寄っていってくねくねの頭に平手打ちを入れた。
「いたっ……あれ、誰かと思えばあかちゃんさんじゃないですか。なんでいきなり僕の頭を叩くんです?」
「そういう呼び方をいつまでもするからかな」
 東洋系の顔つきが際立つ色白で細身の彼は沼地と言う。やや難解な発音の下の名前は使わず、私はただ「沼」と呼んでいる。いつもへらへらしながら変な口調でしゃべるせいでろくに友達がいない。まあ、小学生からの付き合いなので私は友達に加えてやらんでもない。
「千草は?」
 小学生からの付き合いがある友達はもう一人いる。千草は本当に本当の友達だ。私が「イタい子」認定を受けていた時にも決してそばを離れず、ふんふんと”イマジナリーフレンド”の話を聴いてくれた。そして、私がその話をしなくなると彼女もぱったりと持ち出さなくなった。優しくて、要領も良くて、とにかく人間ができている。「イタい子」の私とつるんでいてなお揺るぎない広範な交友関係を築いているのがその証左だ。
「ちーちゃんさんはまあ、今はそうっとしておいた方が、いいのではないでしょうか」
 沼の口元がひくひくと揺れ動いた。
「どうも人間関係に困ってるみたいで、僕も話を聞いたのですが」
「千草から? 沼が?」
 私を差し置いて? っていうかそれ、いつの話?
「いや、僕が話を聞くのがいささかおかしいのは、重々承知なのですが」
 ちらっと周囲を気にするそぶりを見せてから、沼はやたらとごつごつした大ぶりのウォッチをそっと傾けた。ぱっと表示された空間投影ディスプレイは、私のものよりもずいぶんときれいな感じがする。彼は細い指先を気色悪く巧みに動かしてすぐに目当ての画面を引っ張ってきた。そこには、学内チャットのコピーと見られる文面が大量に映っていた。
「これが三日前に送られてきているんですよ。それで僕、情報、得意なんで、誰がやったかこっそり調べてもらえないか、とまあ、そういうあれです」
 件のメッセージには単純で幼稚な罵詈雑言はもちろん、かなり具体的な言及も並んでいた。見たところ、どうやらそれらはだいぶ的を射ている。確かに千草は母子家庭だし、あまり経済的に豊かではない。彼女の人間スペックを鑑みるとこんなの気にしなくても良さそうだが、うっとうしいくらい両親に見守られて脳みそまで取り替えてもらった私に言えることじゃない。
「で、分かるの? これクラスメイトの誰かがやったんだよね?」
 メッセージの送り主の名前は無意味な英数字の羅列で構成されていた。捨てアカウントを取得するのはどこの誰にでもできるが、学内チャットに接続できるのは生徒と先生だけだ。
「端的に言うと無理ですね。このチャットシステムはご存知の通り民間企業のものですが、学校側で登録した端末のみを認証したり監視するためにすべての通信は一旦学校のサーバを経由します」
「私、情報二十点だったんだけど?」
「学内チャットの通信内容は学校に把握されています」
「……なるほど?」
「で、無理と申し上げたのは、発信元を特定するにはサーバへの侵入が必要で、つまり犯罪だからですね。放っておいても先生方がやってくれるでしょう。……犯人が誰か教えてくれるとは限りませんが」
「なんで無理なのに引き受けたの?」
 沼は投影ディスプレイを閉じた。
「こういうのって段階が大切だと思うんですよ。できないって言うのもあれだし、先生に任せろ、なんて言うのも突き放してるみたいじゃないですか」
「……へえ。やるじゃん、沼のくせに」
「そりゃあ、まあ。あかちゃんさんが昔ハブられてた時だってちゃんとお助けしましたよね?」
「あんたもめちゃくちゃハブられてたから話し相手がいなかっただけでしょ……」
 私は沼の無駄口にこれ以上付き合うのをやめて千草の行方を探すことにした。小テストの時点では出席していたから、校舎のどこかにはいるはずだ。くるんと踵を返して数歩歩いてから、ちょっと気になって振り返った。
「沼、さっきの小テスト、できた?」
 彼は粘着質な笑みを口元いっぱいに広げて言った。
「僕、理数系のテストで満点以外とったことないですよ」
 くねくねの頭に平手打ちをかましてから、私は教室の外に出た。
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 落ち込んでいるのなら静かな場所にいるはずだ。図書室……いない、自習室……いない、第二自習室……いない、女子トイレ……いない。通信制学校が主流になる以前から建っているこの校舎は生徒数の割に教室の数がとても多い。名もなき空き教室が、校内のそこかしこに点在している。人通りのない薄暗い廊下は異様な静けさも相まって心細い。しかし、いい感じに廊下を折り返してきたおそうじロボットが先行してくれたおかげで、私は俄然心強さを得て後についていった。むーんむーんと経年劣化を感じさせるモーター音に助けられながら、ガラス戸ごしに左右の空き教室を覗いた。手も足もない無骨な見た目だけどもロボットには親近感が湧く。血肉の通った人体に収まっていないというだけで、半導体の中でものを考えている部分では私とおんなじだ。
 真ん中に差し掛かったあたりで、肩までかかる栗色の髪の毛をした子が教室の中にいるのが見えた。見間違えようもなく千草だ。勢い、教室の引き戸に手をかけると自分よりもはるかに強い力で先に開けられた。目の前に立っていたのは千草ではなく、雄也君だった。唐突な再会に私は息を呑んだ。
「あれ、瀬川じゃん。なんでここにいんの?」
 心なしか、彼の声はいつもより低く聞こえた。誰もいないと思っていたのはたぶんお互い様だ。きっと不審に思っているのだろう。声も出ないままあやふやな視線を雄也君の脇の隙間に通して、教室の奥に佇む千草と目を合わせた。千草は控えめな仕草で笑ってちょこちょこと手を振った。雄也君もそれに気がついたのか、振り返って千草を見てから、また私に向き直った。
「ああ、なるほどね。杉浦と仲が良いんだっけ……ならちょうどよかったな」
 雄也君は開ききっていない引き戸に腕を伸ばして全開にした。そのまま引き戸に体の重心を預けて、あたかも通せんぼするような姿勢になって言った。
「俺らクラス替えしたばっかでよく知らないじゃん、お互いのこと」
「え? う、うん。そうだね……」
「だから男のメンツは俺が揃えて、杉浦には女の子を集めてもらって、一緒にカラオケでも行かないかって話をしてたんだ。今日はどこも部活ないしさ」
「へ、へえ……」
「で、瀬川どう?」
 よく知らないクラスメイト同士を集めてカラオケとは相当な不安も感じられるが同時に渡りの船でもある。三年生に上がってはや二週間。未だにるくすと千草と沼以外の話し相手がいないのは私だけかもしれない。雄也君みたいに気さくに話しかけてくれる人って、そうそういるもんでもない。ましてやその当人が直接誘ってくれているのだ。
「い、行く! 行く行く!」
「お? おう、めちゃくちゃ乗り気じゃんか。じゃ、今日の授業が終わったら校門前に集合な」
 反射的に大音声をあげた失態を自覚する間もなく、雄也君は長身に見合わぬ身のこなしで私の横をひょいと通り過ぎていった。地肌に吹きつけられているのであろう制汗剤の爽やかな香りが鼻をくすぐった。
「あかちゃん? どうしたの?」
「あ、千草……そうだ。話があるんだ」
 事情を問いただすまでもなく、いつもふわふわした彼女の雰囲気に翳りが差しているのが判った。私は沼から聞いた話を簡略して伝えた。たとえば、沼が犯人探しを諦めている件は黙っておいた。
「私、上手にお付き合いできてるつもりだったんだけどな……」
 窓ガラス越しに外を眺めながら、ぽつりと千草が言った。
「どんな人にもケチをつけるやつっているよ」
 テンプレ回答にもほどがある励ましの言葉を、彼女はふるふると首を振って迂遠に退けた。
「ううん、あのメッセージ、自分でも当たってるんじゃないかなあ、って思うんだ」
「そんな……」
 悪口なんて数打てば誰にだって当たるものだ、というテンプレ回答その二が口を衝いて出かかったが懸命に引っ込めた。どうあがいてもこんな語彙力では彼女を慰められそうにない。そんなことない、とか気にする必要ない、といった粗末なテンプレートの泡が次々と頭に浮かんでは消えた。人類最高の科学力で作られた量子チップも、私の精神が宿っていたら所詮はこのざまである。ボットの方がよっぽど気の利いた返答を思いつきそうだ。
 重苦しい無言の間を破って千草がふと口を開いた。
「そういえばあかちゃん、あの子の話してくれなくなったね」
「あの子――あー、まあ、うん」
「……カラオケ、せっかく諸星君が誘ってくれたし行かなくっちゃね」
 終始、微笑みを絶やさない柔らかい口調を保ってはいたものの、ついに曇りは晴れないまま彼女は教室を出ていこうとした。いつになく話題の振り方がおかしい千草に慣れず、私はただ無力に後を追うばかりだった。
<面倒くさい子>
 幼い声が鋭く頭蓋を突き刺した。
<るくす、いつから起きてたの?>
<んー、沼とウォッチを見るあたりから?>
<なんでなにも言わないの?>
<いま言ったよ。それがわたしのお気持ち>
 るくすが千草を嫌っているのは今に始まったことではない。小学生の頃から彼女と話すたび<この子嫌い>と連呼したり、わざわざ私に辞書を引かせて『八方美人』の項を読み上げさせたりもした。そうは言っても結局ずっと嫌いなりんごと違って、るくすのために千草を遠ざける選択はありえなかった。沼を除けば唯一と言っていい生身の友達だ。他にも友達はぽつぽつできたけれど、学年が変わったり学校が変わると途切れてしまう。そのぽつぽつとした友達でさえ、千草の引き合いで作ってこられたと言っても過言ではない。
 それでもるくすが千草に冷淡なのは慣れっこだったが、この状況でもなお敵意を崩さないのにはさすがに腹が立った。
<じゃあ、るくすもメッセージを送ったやつと同じなんだ>
<はあ?>
<誰だか知らないけどるくすと気が合いそうだね。家庭の事情にまでグチグチと>
<わたしはあそこまで言わないもん。全然別でしょ>
<別だからなに? 気が合いそうだって言っただけだし>
<いや、同じって言った>
<言ってない>
<言ったもんね、会話ログに記録されてる……>
<嘘つけ。電卓も起動できないくせに>
 教室に戻るやいなや千草はクラスメイトの群れにわっと囲まれて割り込もうにも割り込めなくなった。もっとも、慰めの言葉ひとつ思いつかなかった私に今さら抗弁の権利はない。一転、ふわふわきらきらした雰囲気に早変わりした彼女は、二オクターブくらい高い嬌声を出してクラスメイトの話に愛想よく応じた。一方の私といえば、頭蓋骨の内と外の両方で態度をぎくしゃくとさせながら放課後までの時間をやり過ごさなければならなかった。るくすが最後に<八方美人>とつぶやいたのは聞こえていたが、強いて無視した。
 六時間目が終わり、ホームルームも終わって、名実ともに放課後を迎えた午後四時現在、私の気持ちは重かった。最近やたらと眠るようになったるくすも、絶対にこの時間は寝ていないはずだがこちらから声をかけるのは癪だった。かといって、クラスメイトの群体に引き連れられていった千草を呼び止める勇気はない。こんな状態でカラオケに行っても地蔵にしかなりようがない予感がする。だが、ここで逃げ出してしまったら本当におしまいだ。今後しばらくクラス全体で共有されるであろう話題から取り残されて、巻き返しが図れるコミュニケーション能力があったら苦労していない。
 ウォッチがぴぴっと音を鳴らしたのでホーム画面を投影させると『ストレス値が急速に高まっています。深呼吸をしてリラックスしましょう』とポップアップ表示が出ていた。逆に、深呼吸なんかしたら吐くかもしれない。
 緊張で全身をこわばらせて鞄を整理していると、やや落ち着きのないクラスの空気とは裏腹にてきぱきと帰り支度を済ませた沼の姿が見えた。どうやら沼は誰にも誘われなかったらしい。というか、小中含めて私か千草以外とまともに話している場面を見た試しがない。にも拘らず平然とへらへらしていられるのだから釈然としない。
 いや、待てよ……。
 中学生になってまで並んで歩く間柄じゃない、などと悠長に言ってられるのは今日以外だけだ。名案を思いついた私は獲物を狙うハンターのごとく沼の背中をゆっくり追いかけた。教室を出て、階段を下りて、男女で別れたロッカー列の手前で声をかける。頭を叩くのは当面の間、勘弁してやろう。
「あ〜〜〜沼君、ちょっといいかね」
「あかちゃんさん、どうされました?」
 普段は苛立ちが募る沼のへらついた顔も今ばかりは安心感が勝る。人間って見慣れたものを眺めるとリラックスできるらしい。きっとウォッチも納得して黙ったことだろう。
「今日、クラスの皆とカラオケに行くんだけど」
「それは良かったですね」
「沼も来るでしょ?」
 一応、自分が誘った体を避けるべくフェイントをかけておく。これで返事がイエスなら、沼は自ら参加したのであって……。
「いいえ。僕は気乗りしないですね。狭い場所とか苦手ですし」
 だめか。じゃあもう破れかぶれだ。
「その場にいてくれればいいんだけど」
「はあ」
「だって千草はさ、どうせ皆に引っ張りだこで私と話してる暇なんてないよ」
「しかしそういう時こそ他の人に積極的に話しかけて交友を築くべきでは……」
「それができたらあんたも私も困ってないでしょうが」
「別に僕は困ってませんが」
「……本気で言ってる? あ〜もう、頼むよ、頼みますよ、私が部屋の隅っこで一人寂しくウォッチをいじいじするのを防ぐために話し相手のスペアとして来てくださいよ」
 沼の口元がぴくぴくと震えてナメクジの触覚みたいに揺れ動いた。
「そこまであけすけに言われたら仕方がありませんね。でも、その作戦って万が一でも僕が役に立ったら完全に失敗ですよね?」
---
 校門前に集合しているクラスメイトの群体にどう加わったものかと思案していたら、先に靴を履いた沼が猫背で平然と向かっていったので驚いた。慌てて追いかけると、ちょうど群体を仕切っていた雄也君と沼が話している最中だった。
「お、沼地じゃん。来ないんじゃなかったのか?」
「ええ、まあ、気が変わりました。やはり参加させて頂きます」
「そうこなくっちゃな」
 なんだ沼のやつ、ちゃっかり誘われていたんじゃないか。考えてみれば雄也君のような爽やか人間が誰かをハブったりなんかするはずがない。ざっくり数えても、クラスの全体数と群体の頭数は一致している。私は自ら課した戒めを解いて沼を叩く権利を復活させた。とはいえ、クラスメイトが見ている前で堂々と叩くのは憚られた。初手でスペアに頼るのも気後れする。千草ははるか遠くで皆とわちゃわちゃしている。また一人か、私は。
 ぞろぞろと街道を進む学生の集団は周囲から見ると威圧的かもしれない。あたかも古典童話に出てくる、巨大魚を模した魚の一匹になったかのような頼もしさを得たのか、とりわけ男子生徒の振る舞いには若干の横柄さが目立つ。
 あの重要な目のパーツを構成する魚の役は、やっぱり雄也君かな。
 いや、あの魚は外見がどす黒かったし、そもそも元はいじめられっ子だった。やっぱ無しで。
 クラスメイトの群体が駅を通り過ぎ、向かい側を十数分も歩いて低開発地域に入るとカラーマネジメントされた建物はだんだんと減ってきた。代わりに背丈の低い建造物がみちみちと密集しはじめて、多国籍情緒あふれる店名をそれぞれ壁面に投影したりアニメーションさせたりしている。見た目は派手そうでも素の外壁が露わになった建物の不気味さは拭いがたい。
 さらに歩くと運送会社の集荷所が道路脇に見えた。パパとママのパパやママに近い年嵩の男女が、細い金属フレームでできたアシストスーツを身にまとってあくせくと積荷をトラックに詰め込んでいる。先のアニメーションを思い起こさせるその反復的な動作は、人がスーツを動かしているのか、スーツに人が動かされているのか判然としない神経質さを保っていた。
 ついに風景の感想で移動時間を潰しきったらしく、先頭に立つ雄也君が持ち前のよく通る大声で「ここだ」と言った。頭上に浮く大仰な看板文字が『KARAOKE』と七色で用途を示している。意外にも扉は重厚そうな両開きで、十数名からの団体客が途切れなくロビーに入り込めそうな広さが設けられていた。
 ロビーは埋め込み式の端末と飲食物の自動販売機が一列に並んでいるだけの殺風景な空間だった。雄也君と数人の男子がなにやら相談しながら端末を操作していると思いきや、あっという間に部屋が確保された。
「部屋、地下三階のワンフロア分とったわ。六つ部屋があるから、女子と男子でそれぞれ二つずつ、残りの二つのうち一つは混合部屋、もう一つは、休憩用にするか」
 彼がてきぱきと部屋の割当てを定めていったのと同時に、全員のウォッチがメッセージ受信音を短く鳴らした。私のも鳴った。入れ替わるようにして、別の男子が言った。
「いま皆にボットを飛ばしたから、適当にボタンを押して。出た場所の部屋に入る感じでよろしく」
 言われてディスプレイを投影すると、学内チャットの新規メッセージにボットアカウントが来ていた。ボットの言う定型句に従ってボタンを押すと『一番奥の部屋』と表示された。これでは沼はもちろん、千草とも離れ離れになってしまうかもしれない。またぞろ、ウォッチの身体モニタリング機能が異常値を知らせてこないか不安になった。
「んじゃ、各自行ってくれ。俺たちはドリンクとか買っとくから」
 誰ともなしにクラスメイト一行は地下三階に続くエレベータへと飲み込まれていった。やがて目的の階層で全員が吐き出されると、エレベータ内での静寂を破るかのようにわっと騒がしくなった。打ちっぱなしのコンクリートの狭い廊下に防音扉が等間隔に六つ並んでいる空間は、昼間の学校の廊下とだぶって見えた。馴染みのない空間はなんでも不気味に感じてしまうらしい。
「あかちゃん、あかちゃん」
 群体の中から私を呼ぶ声がした。上下に跳ねる掲げられた手のひらの元に寄っていくと、そこにはさらさらの栗毛をなびかせた千草がいた。
「ね、私、一番奥の部屋なんだ。あかちゃんは?」
「あ、私も……」
 さっきまで溜まっていた胃の鉛がすっと溶けて消えていくのを感じた。いつだって千草さえいればなんとかなる。
「よかったあ。私、他の子たちのことよく知ってるから。みんないい子だよ」
 その”いい子”の誰かが例のメッセージを送った可能性については、頭の片隅に押しやった。そんなのは当の本人だって承知の上だ。
 千草の柔らかい繊細な手に引かれて私は一番奥の部屋に入った。防音扉は思いのほか重く、片手で押し開けるには二人分の力が必要だった。薄暗い部屋の中では、すでに他の女子たちが座って待っていた。「混合部屋」の人員は後で決めるのだろう。千草が入室した瞬間にソファのあちこちから歓迎の声があがった。なんだかくっついている私まで受け入れられているような感じがした。
「ほら、あかちゃん、ここに座って」
 千草の勧めるままに席に座ると彼女も隣についた。矢継ぎ早に、左から右から甲高い声が飛んでくる。
「瀬川さんって、杉浦さんと仲良かったんだ」
「中二から?」
「あ、いや、小学校から……」
「へえ〜そうなんだ。第二小?」
「う、うん」
「私、第二西に通ってたんだ」
「近くの?」
「えっ、じゃあどっかですれ違ってたかもねー」
 一同、爆笑。感情の移ろいが高速すぎてついていけない。聞き逃した質問も一つか二つはある。けれども、誰もそんなの気にしていないように見えた。拾ってもらえたらもらえたなりの、そうでなければそれなりの話題が展開されていって、てんでまとまりはないのに、どこか得体の知れない秩序が潜んでいる。
「ね、そろそろ歌おっか」
「飲み物が先じゃない?」
「でも雄也君たちが持ってくるってさっき」
「そうだった。じゃ、誰から行く?」
「あ、瀬川さんってどんな曲が好きなの?」
「あかちゃん?」
 自己の世界に入りかけた寸前に千草の声で呼び戻された。そうだ、私は質問されているんだ、今。
「えーっと、でも、ジェネレの曲しか聴かないんだけど」
「うん、うん、私もそんな感じ。ハッシュキー送ってくれる?」
 流されるままに私はウォッチを操作して音楽プレイヤーのハッシュキーを送信した。カラオケルームの壁面に埋め込まれたスピーカーシステムがそれに基づいて任意の音楽を自動生成<ジェネレート>する。ハッシュキー無しでもプリセットから大雑把な自動生成は可能だけど、あった方が私の好みにずっと近くなる。キーには音楽プレイヤーの再生履歴情報が蓄積されているからだ。
 透き通った音色のポップスが流れだした。聴きはじめて五秒と経たないうちに左右から「いい感じ」「うん」といった賛辞の声が聞こえてきた。
「ねえ、あかちゃん、これ歌ってみようよ」
 千草が再生中の曲に負けない大声で言った。即座にいいねいいねと周りが囃し立てて、私は勢いに圧されて部屋の奥のスタンドに追いやられた。この位置に立つとソファに並ぶクラスメイトの顔ぶれがよく見えた。皆、本気で私の歌唱を心待ちにしているかのようなそぶりで、前のめりになっている。誰かが気を利かせてスピーカーシステムをカラオケモードに変更したのか、足元の装置から細く空間投影されたディスプレイが私の眼前に現れた。
**『生成曲名Ejh7YsM3L%4JKFkEo$AMyUGTzs#BTs#%hBpxzDSs』**
 続いてイントロが始まり、ディスプレイの左から右に向かって歌詞が流れる。楽曲のリズムを反映したオーディオスペクトラムが壁面のあちこちに描かれて、薄暗い部屋の中をほんのりと明るくした。私はん、ん、とそれっぽい咳払いをしてから歌いだした。
 直後、私の声を拾った装置が音楽に載せてスピーカーから音声を出力したのが判った。実のところ、これが私の声とは言いがたい。声色や音量こそ似通っていても、こんなふうには歌っていないし、歌えない。あくまでソフトウェアによって補正された加工音声にすぎない。もし私の歌唱力がプロ並にうまかったら補正度は緩和されるが、音を外せば外すほど強力に補正がかかる。つまり、誰が歌ってもそこそこうまく聞こえる仕組みになっている。
 にも拘らず、クラスメイトたちは決して傾聴の姿勢を崩さず、歌が終わった後には一斉に拍手と惜しみのない称賛を送ってくれた。
「よかったよー」
 ソファに戻ると、千草が両手を握りしめて腕をぶんぶんと振ってきた。
「そ、そうかな」
 ひょっとすると何年か前に歌った時よりも補正度が下がっているのかもしれない。後でデータシートを見るのもやぶさかではない気持ちになった。
「次、私いきまーす。二曲続けて歌っちゃおうかな」
 ぴょんと席を立った千草の歌唱は、見た目の可憐さも相まって余計に美しく聴こえた。彼女も自身のハッシュキーで生成したジェネレを歌っていたが、さながらデビュー曲を歌うアイドルのようだった。途中、背後の防音扉がガタガタと揺れる音が聞こえたので数人が振り返った。一人が状況に気がつき「あ、たぶん飲み物だ」とつぶやいた。
「瀬川さん、ごめん、扉を開けるの手伝ってあげて?」
 誰かがそう言ったので私はそそくさと立ち上がって防音扉を力いっぱい開けた。すぐ目の前に雄也君が大量のグラスを並べたお盆を持って立っていたので、危うく扉を支える手を離してしまうところだった。
「おっ、瀬川。盛り上がってそうじゃん」
「う、うん、私もさっき、一曲歌った」
「ちぇっ、もうちょい早く来るんだったな……いま歌ってるのは杉浦か」
 雄也君が部屋に入ったので、私は防音扉の取っ手から手を放してお盆のドリンクを配る手伝いをした。ほとんどは同じものに見えたが、一個だけ違うのがあった。戸惑って手元をうろうろさせていると雄也君が言った。
「その赤いのは杉浦のだ。本人のリクエストでね」
「えーっ、リクエストできたんなら私もすればよかったな」
「悪い、さすがにまた運ぶのはダルいわ。配膳ロボット使ってくれ」
 雄也君がわざと意地悪そうにハハハと大声で笑うと、女子たちもつられて笑った。
「で、例の男女混合部屋なんだけど、ボットにランダムで決めさせていいよな?」
 いいよー、うん、といった具合に賛同の声。それを受けて雄也君も「じゃ、それ飲んで待っててくれな」と言い残して扉を閉めた。
「まあ、確かに……」
 まるで彼がいなくなるのを見計らったかのような頃合いで、女子の一人がグラスを傾けながら言った。「ランダムなのはありがたいかも。がっついてるとか思われたくないし」すかさず別の子が同調する。「かといってこういうチャンスを逃すのもね」「ね、そのためにわざわざ通学制に来たんだし、来年は高校だからね」
 どうやら女子の総意としては、おおむね積極的に異性交流を望んでいるらしかった。だが、私にはなにを話すべきなのか皆目見当もつかない。女子同士でも会話をこなしきれないのに、男子なんて宇宙人にも等しい存在だ。「だってさ、高校は通信制じゃん、スポ専以外は」「個別課程になっちゃうからね」と左右で話が進む。
 じきに潮時だ。現状、なんとか地蔵にならずにやってこられたが今度こそ手に負えない。このタイミングで帰るとしたら、どんな言い訳が好ましいだろうか。他の用事が……そんなもの、ない。深く問いただされたらなにも思いつかない。
「ってことは、高校に進んでリモートでいい感じになってもさ、経験値なかったらぶっつけ本番だよ? でもその本番でうまくいかなかったら大概終わりなんだよね」他の友達と……そんなもの、いない。「うん、うん」パパとママに呼ばれて……まあ、そんなところか。
「ね、瀬川さんはどうなの、そこら辺?」
「え、私?」
 天上界から説かれる経文を聞き流しているつもりでいたら意見を尋ねられた。当然、答えられずもじもじしていると他の子が助け舟を出してくれた。「ほら、男子男子。沼地君……だっけ? けっこう話してるじゃん」「えっ!?」
 びっくりして大声が出て、相手もびっくりしたようだった。私は慌てて弁解を繰り出した。
「沼はあれだよ、小学生から付き合いが長いから」
「へえ、あだ名とかあるんだ」
 右側の子が今は空席になっているソファの領域に身を乗り出した。そのニヤついた表情は、さしもの私といえど容易に文脈を掴むことができた。
「そ、そんなんじゃないって」
「じゃあ、他に気になる男子とかいるの?」
 次は左から追撃が飛んでくる。いる、いる、いますとも。そりゃあ、いるけど、身分違いすぎてとても言えない。
「は、はーん、言いたくないってわけね。まあ分かるけど」
 大仰なジェスチャーをして右の子がソファに背中をめりこませ、再びグラスに口をつけた。
 ちょうど、二曲続けての熱唱が終わったようだった。さっきまでの追及ぶりはどこへやら、恐るべき早業で姿勢を変えた女子たちが千草に向かって万雷の拍手を送った。千草も薄っすらと顔を紅潮させて、すっかり高揚しているように見える。スタンドからぴょこぴょこと戻ってきた彼女は席に戻るなり、やや口をとがらせて「ちょっとー、あかちゃんをあんまりいじめちゃダメだよ」と釘を差した。右の子はわざとらしく身を反って「ちぇ、ばれたか」とおどけた。
「でも、たまにはこういう話も悪くないかもね、ね」
 千草もくすくすと笑って周囲を見回してから、最後に私に同意を求めた。
「うん、まあ」
 さすがに二曲も続けて歌うと喉がかわくのか、手前に置かれていた赤いドリンクを彼女は一気に半分も飲んだ。それでも白く美しく整った顔立ちの彼女がそうするとなぜだか気品をまとって見える。
「あー超すっきりしたっ」
「すっごい声でかかったもんね」
「あはは、どうせ補正されちゃうから」
 無邪気に笑う千草の横顔を見て、あのメッセージの件はそのまま忘却してしまってもいいのではないかと思い直した。ここにいる誰かがやった疑惑は晴れないが、どのみちそれ以上の悪事はできないだろう。
 その後、他の女子たちがばらばらに数曲ずつ歌い、すわいい加減に私の順番かと身構えた瞬間、ぴぴぴっとウォッチが鳴った。優先メッセージ表示だ。ディスプレイを投影させると、パパが夕飯の準備について話していた。時刻を見ると、午後六時過ぎだった。
「私、もう帰らなくちゃ」
「もう? 早くない?」
「パパがご飯作ってるって」
「え、手で?」
 左の子が大げさなリアクションでグラスを置いた。
「いいな、うちの親なんて毎日サブスク食だよ」
「あかちゃんのパパ、料理が趣味なんだよね?」
「うん、そう、そうなの。だから帰らないと、いけないんですよお」
 せめて反抗期を気取ってみる。彼女らとてまさか手作りの食事をブッチしろとは言わないだろう。
 折りよく、背後の防音扉が力強く開いて雄也君が顔を覗かせた。「そろそろ混合部屋決めていい?」と問うと、誰かが「いいけど、瀬川さん帰っちゃうってー」と言った。すかさず私は投影されたディスプレイを印籠のように突き出して「こういう次第で……」と釈明した。
 彼はそれを見て一瞬固まったが、たちまちいつもの朗らかな笑顔に戻り「なんだ残念だな。次は頼むぞ」と答えて防音扉を押し開けてくれた。おずおずと頭を下げながら私は部屋を出て、背後から聞こえた「あかちゃんまたねー」との千草の声に続く女子たちのシュプレヒコールに手を振って応じた。
 雄也君にも別れの挨拶を言ってエレベータに向かうと、隣の運搬用エレベータから配膳ロボットが下りてくる様子が見えた。きゅるきゅると傷んだタイヤの摩擦音を響かせて進むそれは、飲食物を置く三段の棚と駆動部品以外には特徴らしい特徴がない。細長い楕円形をした灰色の筐体だ。じきにすれ違うと思われたあたりで、急に配膳ロボットが止まった。と、同時に、意識の外にあった手前の防音扉――休憩部屋の――が開いた。中から現れたのは、沼だった。
「あ、失礼。これを置こうかと」
 沼は手元のグラスに残った赤い色のドリンクを飲み干して、配膳ロボットの三段の棚の一番下に置いた。
「それ、美味しいの?」
「さあ? 目の前にあったので飲みましたが、特にこれといったことはない炭酸飲料です」
「いや、千草も飲んでたから。なんで休憩室にいるの?」
「なんだか具合が悪くてですね……少し休んだら帰ろうかと思います。お役に立てなくて、と言いたいところですが、役に立たなくてよかったみたいですね」
 見てみると、確かに顔色は優れなさそうだ。へらついてはいるものの、口角の傾斜がもぞもぞと揺れ動いて不安定になっている。
「私、パパに呼ばれたから帰るんだ。なんていうか……無理させてごめん」
 沼がカラオケルームで一曲でも歌ったのか、そもそもどんな音楽を聴くのか訊きたかったが今は適切ではなさそうだ。
「慣れないことはするものじゃありませんね」
 そう言い残すと沼は防音扉を閉めて部屋に引っ込んだ。用事を一つ済ませた配膳ロボットは耳障りな摩擦音とともに通路の奥にゆっくり進んでいった。
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 入口の端末で一人分の料金を精算して両開きのドアを開けると、外はもう日が暮れていた。足早に低開発地域を抜けて駅前に戻った頃には、あちこちの建物がナイトカラー仕様に変わっていた。ライトピンクはマゼンタ、スカイブルーはインディゴブルーに上書きされ、それぞれの煌めく色合いを建物にマッピングしている。私はウォッチでチャットを起動して短く話しかけた。「今から帰るね」ややあって返信代わりのスタンプが二人から貼られた。
 帰宅すると、すでに夕飯の支度ができていた。手作りの煮込みハンバーグとポテトサラダと、バゲットと、茹でたにんじんとブロッコリー。部屋着に着替えて手を洗い、食卓に向かうとパパ自らいかに手間をかけたか力説しはじめて、ママは気の利いた返事をしていたけれど、私はといえば久しぶりに遊んだせいで気疲れしてしまった。相槌を打つだけで限界だ。
 二人が私の学校生活や交友関係を詮索しなくなってかなり経つ。大方、クリニックの先生と打ち合わせをして年齢別の方針を組んでいるのだろう。私の言動や態度、振る舞いへの対処法は前もって整備してあって、しかもそれらの精度は年々洗練されていっている。私の反抗期はあらかじめ対策済みなのだ。だから中学三年生の娘が夜まで一度も帰宅しなくてもなにも言わない。それがベターな対応ということになっているのだろうし、どのみち私の現在位置は手首にへばりついたウォッチによって常に把握されている。そして、現に私はこの包容と放任のバランスに快適さを感じている。事実、夕飯は皿に残ったデミグラスソースまで舐める勢いで完食した。
「まだお腹が空いているならデザートにりんごはどう?」
 私の食べっぷりを見てママが席を立とうとしたが、私は首を振って断った。
「ううん、今はいいや」
 るくすが起きている間は食べない約束だ。昼からずっと喋らないけど、狸寝入りを決め込んでいることは分かっていた。
 入浴を経て、部屋に戻ると狙いすましたように彼女が声を出した。
<あ〜、わたしも音楽が聴きたいなあ>
<はいはい>
 私は彼女が実は起きていたことにも、昼にちょっぴり揉めたことにも言及せず、鞄からイヤホンを取り出して耳につけた。ウォッチの音楽プレイヤーで呼び出すのはるくす向けのジャンルリストだ。私はジェネレの曲しか聴かないけど、彼女は人間の作った曲しか聴かない。流れてくる音楽ときたらひどくピンぼけで、てんでリズムに乗れず、不協和音の集合にしか聴こえない。興味本位で一緒に探していた時期はとうの昔に過ぎ去った。
<それもういいやスキップで>
<うん>
<あ、それもスキップ>
<うん>
<これは……良さそうかも>
 しかし一分半後、彼女は<やっぱスキップで>と言った。だいたい五曲に一曲の割合で気に入るものに当たるようだが、私には違いも意味も解らない。自分の嗜好に合わせて生成されていない音楽なんて、合わなくて当たり前に決まっている。実際、スキップしている曲の方が多い。
<ねえ、毎回面倒くさいんだけど>
<しょうがないじゃん、私は手も耳もついてないんだから>
<じゃなくて、なんでわざわざ人が作った曲を聴くの?>
<なにが自分に合わないのか知りたいからかな>
<スキップしてるじゃん>
<合わないのが判ったってこと>
<意味わかんない>
 この日の新規開拓は片手で数えられる程度の曲数が「お気に入り」行きとなった。私のハッシュキーに影響を及ぼさないよう、プロファイルは分けて管理している。
 次に学習用シート端末を出して、小一時間ほど宿題と格闘した。理解不能な問題は学チャで沼に投げたが珍しく反応はない。ついでに全員が集まるチャンネルを覗くと、さっそくカラオケの感想でもちきりだった。あえて発声するまでもなく文面を自動生成して、組み合わせでサジェストされたスタンプをぺたぺたと貼って閉じた。それからウォッチの空間投影ディスプレイを最大に拡張してビデオを観ていると、あっという間に使用時間上限に達した。
『あんしんモードが有効になりました。本日中の通信は制限されます』
 親の顔より見た定型文をタップ連打で打ち消して、就寝の準備に入った。解けなかった問題はアップロード期限までに沼にやらせればなんとかなるだろう。
 翌朝、早めにモーニングルーティンを済ませてウォッチの通知を確認すると、ほとんど鉢合わせで沼が回答をよこしてきた。「頭が痛くて寝てました」との弁明を読んで、昨日の彼は具合が悪かったことを思い出した。
 今日は遅刻せず学校に着いた。まばらに行き交う生徒たちの群れとすれ違って教室に入る。すると、普段は余裕をもって登校してくる千草の姿が見当たらなかった。カラオケの話題をそれとなく仕入れておくつもりだったのに、他に目に留まる顔見知りは誠に遺憾ながらまたしても沼だけだった。私はつかつかと近寄って頭を叩こうとしたが――やめた。まだ具合が悪かったら沼とはいえ少々申し訳ない。
「沼、千草、知らない?」
 振り返った沼の顔色は芳しくなかった。相変わらずへらついている口元はさておきとして、肌が青白く変色している。
「うわ、そんなになるまで熱唱してたの? ……んなわけはないか」
「熱唱どころか、一曲も歌わずに具合が悪くなってしまいました。で、あかちゃんさんと休憩部屋の前で話して、気づいたら寝てしまって……諸星さんに起こしてもらう頃には九時を回っていましたよ」
 九時! 昨日はずいぶん盛り上がっていたみたいだ。いくら反抗期対策済みのパパママでも、九時まで家に帰らなかったらさすがに怒りそうだ。
「僕の母はもうカンカンでして、逆に父は満更でもなくて、しまいには二人で揉めだしてですね、まあ、そんな感じで体調不良を引きずっています」
 私は沼の肩をぱんぱんと叩いて、深く頷いてみせた。
「ご苦労だったな、沼君よ。汝の犠牲は私に爪の先ほどの勇気を与えてくれたと思う」
「でも宿題は自分で解くべきですね。来年には受験が――」
「で、千草知らない?」
 不都合な話になりそうだったので発言を遮って質問をかぶせた。こんな仕打ちには慣れたものなのか沼も臨機応変に対応して「そういえば見当たりませんね」と訝しんだ。その後、自席に戻り、ようやく起きてきたるくすとウォッチを見るふりをしつつ雑談して、七時五十分が五十五分になり、八時になり、それでも千草が一向に姿を見せないことに奇妙な焦燥を覚えた。八時五分、十分、ついには授業が始まっても、中休みに入っても彼女は現れなかった。
『風邪引いた?』
 私は休み時間中に学チャでメッセージを送った。いつも十分以内にはリアクションが返ってくるが、返信はない。
<見舞いに行ってあげなきゃ>
 半ば無意識に、私は頭の中で会話を開始していたらしい。るくすが不機嫌そうな声を出した。
<昨日はっちゃけすぎて寝過ごしてるんじゃないの?>
<それならそれでいいんだけど、なんか気になる>
 放課後、一人堂々と帰り支度を済ませて学校を出た。部活動の準備に勤しむ生徒を尻目に、万年帰宅部の威容を見せつけんばかりだ。しかし今日に限ってはれっきとした目的がある。病気でも疲労でも、千草を見舞いに行かないといけない。
 彼女の家は低開発地域の住宅街にある。補修工事を繰り返した十八階建ての趣き深いそのアパートには、カラーマネジメントも投影ディスプレイの気配もない。エレベータに乗って五階の彼女の家にたどりつくと、私はどう見ても後付けっぽいインターフォンを強く押した。遠慮がちな彼女との押し問答を避けるために前もって連絡をしなかったので、誰もいない可能性は否めない。彼女の唯一の親は外で夜遅くまで働いているからだ。でも、誰もいないなら千草はどこかに外出していて、外出できるのなら少なくとも重症ではない。それならそれで構わない。
 約二分の遅滞した沈黙を経て、がちゃりと玄関ドアの鍵が解錠された。インターフォンに備えつけのカメラで私の訪問が判ったのだろう。やがてドアがゆっくりと開いて、うつむきがちに千草が姿を見せた。顔色が悪い。病気というよりは狼狽して見える。私はあえてなんでもないようなふうを装って「今日、学校に来なかったし返信もなかったから用事のついでにお見舞いに来ちゃった」と慣れない笑顔で言った。どう見ても嘘だし、小走りで来たから汗をかいているし、ウォッチもとっくに運動モードに切り替わっていたけれど。
「入って」
 対する彼女の応対は切迫していた。私の顔を見るなり、きょろきょろと神経質に五階の廊下を見渡して私を家の中に引っ張り込んだ。
「え、ちょっと、どうしたの」
「いいから」
 間近で千草の姿を見ると違和感に気づいた。だいぶ気温が高まってきている時期なのに、部屋着にしては相当な厚着をしている。もしかすると想像以上に重症なのかもしれない。彼女に手を引かれるまま、急いで靴を脱ぎ捨てて奥に入った。2DKのコンパクトな居住空間は綿密な清掃が行き届いていた。
「ねえ、もし具合が悪いんだったら、私」
「お願い、帰らないで、私の話を聞いて」
 千草は切羽詰まった声色で私の発言を遮った。思わず面食らっていると彼女はまた部屋中をきょろきょろと見回して、ふと我に返り、ため息をついた。明らかに様子がおかしい。
「学校、大丈夫だった?」
「だ、大丈夫ってなにが……?」
「ひどい目に遭ってない?」
「ひどい目って……?」
 彼女はじいっと私の顔、いや、目を覗き込むように見つめた。それからぶつくさと「大丈夫、大丈夫、数分なら」と繰り返した。
「私の話を聞いても、絶対に余計なことはしないで。誰にも話さないで。そうすれば無事でいられるから」
 口を開こうとすると、千草は手でそれを制止した。「なにも喋っちゃだめ。いいって言うまでは、絶対に。いい?」否応なく、私は開きかけの口をぱたんと閉じざるをえなかった。しばし沈黙の睨み合いが続き、ややあって沈黙の合意が得られたと認めたのか、千草は部屋を出てどこかからかウォッチを持ってきた。そういえば、彼女はウォッチを身に着けていない。なにもかもが異常だったが、声を出すなとの指示を破るわけにはいかなかった。
 彼女はウォッチを手のひらに置いたまま、ディスプレイを投影して学内チャットを表示した。三日前の罵詈雑言に引き続き、別の捨てアカウントから最新のメッセージが数件来ていた。
『誰にも話すな』
『話したら、お前の友達も同じ目に遭う』
『この動画もインターネットに公開する』
 メッセージの一番下に動画が添付されていた。フォーカスが合ったことで自動再生された動画には昨日のカラオケルームが映っていた。厳重にモザイクがかけられた複数人の人影と、モザイクのかかっていない女子が一人。千草だ。だが、千草は眠っているように見える。次第にモザイクの塊が千草に侵食してきた。そして、塊の一つが千草に覆いかぶさり……。
 次の瞬間、投影ディスプレイが消えた。はっとして現実の千草に目を向けると、見たこともないくしゃくしゃの顔をしていて、ついには涙を流しはじめた。ただし、泣き声は押し殺して。
 それでも懸命に目を開けてこちらを見つめる千草を見て、私は明白に事情を悟った。
 千草はクラスメイトの誰かに乱暴された。そいつは彼女を脅迫している。
 再びウォッチを家の片隅に追いやった後、ようやく口を開く許可が下りた。でも、私は言いたいことがありすぎて逆になにも言えなかった。ここぞとばかりに彼女をハグしてみせるのも、嘘だ。そんな真似をしても解決にはならない。遅れて出た第一声は、結局、テンプレ回答だった。「警察に相談……」だが、言い切る前に彼女はきっぱりと否定した。「ウォッチがいじられてる。身体モニタリング、現在地、周囲の音声、入力する文字とかの情報は筒抜けだと思う。昼間のメッセージに返信しなかったのも、すぐに命令が飛んできたから。”無視しろ”」って。
「でも、黙ってちゃ」
「いいの。気持ちが落ち着いたら、私も普通に登校するから。このまま忘れさせて」
「本気で言ってるの」
 千草は嗚咽を漏らしながら言った。
「もしバレたら、あかちゃんだってひどい目に遭う。クラスメイトの誰がやったにしても、あと一年だから。高校に上がれば、解決だから」
 そんなの全然解決じゃない、うっかり叫びそうになって、耐えた。
「……そんなの全然、解決じゃない」
「もう、帰って。何十分もウォッチを付けないでいたら怪しまれる。後でお風呂に入ってたことにしないといけない」
 ウォッチの身体モニタリング情報を盗み取られているのなら、入浴直後特有の心拍数をしていなければ疑われる。犯人は抜け目がない。今時、ウォッチを理由なく外すことはありえない。せいぜい充電のために月に一度か二度、数分だけ外すか、それこそ入浴くらいだ。
 都合よく壊れたり失くしたことにする? そんな言い分が通るとは思えない。一部の職業の人は付けちゃいけないと聞いたけど、私たちには関係のない話だ。前に沼が言っていた。インターネットは海底でも火星でも通じるらしい。
 事態を把握した私は無言のまま頷いて彼女の家を後にした。扉を閉める直前に憔悴しきった彼女が見せた、精一杯の笑顔をないはずの脳裏にじりじりと焼きつけて。
---
<犯人を突き止めなきゃ>
<話聞いてた? 無理だって>
<でも、こんなの許せない>
 深く物事を考え込むと勝手に会話が始まってしまうのは私の脳みその仕様の一つだ。せめて励ましてくれると助かるのに会話相手は独立した人格を持っていて、たいてい私のやることなすこと全部に反対する。
<本人がいいって言ってるんだから>
<いいわけない、絶対に>
<あんまり無茶されると、同居人としては困っちゃうよ。身体は一つしかないんだし>
 例のメッセージに記されていた『同じ目に遭う』との文言が、どれほど現実性を帯びているのかは判らない。ただの脅しかもしれない。基本、学校と家の往復しかしていなくて、たまに千草と遊ぶ以外は家で変なビデオを観ているだけの人間を、いきなりどこかで誘拐する? もしそうなったら、確実にウォッチが異常を検知する。パパとママは極端に心拍数とストレス値を上昇させた私がどんどん遠方に行っていることを知る。むろん警察に通報されて、たとえ事前にウォッチを壊したとしても見つかるのは時間の問題だ。情報赤点の私でも街中が監視カメラだらけなのは知っている。
 でも、だめだ。私の方は脅しだとしても、あの動画をインターネットにバラまくのは知識があればできてしまう。なんでもそういう違法なデータが消されない場所がどこかにあるらしく、一度そこに流れたら取り返しがつかないと言われている。そんな最悪の事態は、なんとしても避けなければならない。
 犯人の候補は多くはない。あの日、あの時、カラオケルームにいた男子十名、女子十名、計二十名のうちの誰かだ。もっと言えば、乱暴したのだから犯人は男子だ。モザイクの塊でも身長差から性別を推測できる。これで十名に絞られた。あのフロアは貸し切りで知らない人が来たりはしない。
 カメラ……そう、カラオケルームにだって防犯カメラの類はあるはずだ。しかし、防犯カメラの録画を観るにはおそらく警察の立ち会いが必要で、そうなるとまた話は振り出しに戻ってしまう。あの映像では無理やり乱暴されたかどうかカメラのソフトウェアには判定できそうにない。カラオケという典型的な無人施設では、どこに問い合わせてもボットとお喋りさせられるだけだ。つまり、証拠はあるのに誰もそれに気づいてくれない。私の手にも入らない。私はぎゅっと唇を噛み締めた。強く噛み締めすぎて、血が出そうだった。
<あかり、痛いよ>
 るくすにそう言われて、やっと唇から歯を離した。
<ごめん>
 結局、地道な手段しかなかった。犯行現場がカラオケルームである以上、クラスメイトたちの行動を調査してあぶり出すしかない。率直に考えて、大勢のクラスメイトがいる間に乱暴するわけがない。私が先に帰ったように、一人また一人と習い事やら門限やらで帰っていき、犯行グループと千草が残ったその時に行なわれたに違いない。だから、クラスメイトたちの帰宅したタイミング、できれば正確な時刻まで聞き出せば、おのずと怪しい人物が浮かび上がる。
 翌朝、まず女子から始めた。女子が犯人の可能性は限りなく低く、どの男子が居残っていたのかも聞きやすい。自分からクラスメイトに話しかける勇気がまさかこんなことで生まれるとは思いもよらなかった。頭の中で私は、こう話しかけて、こう返ってきたらこう返して、こう……というような一連の予想問答集を組み立てて、るくすに時々つっこまれながら修正し、時に無視を決め込んで、なんとか中休みで一人話す覚悟が決まった。ログが残る形を避けるためには直接話すしかない。
「あはは、そう。男女混合部屋に二回も呼ばれちゃって。七時半頃だったかな?」
 佐々木さんはあの時、私の右側に座っていた子だ。薄暗いカラオケルームでは曖昧だったが、こうして対面すると跳ね気味の短い髪型がボーイッシュな面立ちを際立たせているのが分かる。私は病欠した親友を気遣う体裁で、一昨日の千草の様子を尋ねた。
「あー、そうだね。杉浦さん、なんか具合悪そうだった。最後、休憩部屋に行っちゃったし」
「休憩部屋?」
「ほら、諸星君が言ってたじゃん。男女の部屋と混合部屋の他に、休憩部屋も借りたって」
 そういえば、そうだった。あの時、沼が休憩部屋にいて、雄也君に起こしてもらう頃には九時を過ぎていたと……。
 ……あれ? じゃあ、ひょっとして一番最後までいたのは沼と雄也君?
 私の顔が険しくなっていったのを察したのか、佐々木さんは切れ長の目元を曲げて怪訝な表情を作った。
「えっと、瀬川さん? 私なんか変なこと言った?」
「あ、いや、違うの。ほら、沼……地も具合悪くして休憩部屋にいたとかなんとか言ってたから」
「へえ」
 昨日の会話を思い出したのか、途端に佐々木さんはニヤついた。ボーイッシュでクールな雰囲気と見せかけて、存外にころころと表情が変わるようだ。でも、今は沼との関係を誤解される状況がありがたかった。犯人を探るために会話をしているなどと気取られたら誰だって気分を害する。
「やっぱり幼馴染って良いよねえ。一昨日の男女混合部屋も盛り上がったは盛り上がったんだけどさあ、それでどうなるかっていったら別にって感じで……杉浦さんが休憩部屋に行ったらお開きになっちゃったし」
「じゃあ、だいたい皆帰ったんだね」
 念の為に探りを入れると彼女は「まあ、私も帰っちゃったしね。どうせ男子どもの目当ては杉浦さんだったんだろうし」と本音を漏らした。盛り上がったとは言うものの、どこまで本当かは分からない。犯行グループが元から計画していたのなら、むしろ無関係者にはさっさと帰ってもらいたいはずだ。
 彼女と別れた後、私は当初の計画を投げ捨てウォッチで沼を呼び出そうとして、逡巡した。もし、予想が外れていたら――よく考えてみれば、沼だって男子だ。数字と機械に戯れて一生を終えそうな人間でも、女の子に関心がないとは言い切れない。かえってそういう人間こそ危ないとも考えられる。そもそも、沼ごときが千草のような完璧超人美少女と対等に会話できていることからして、奇跡に近い。まったく認めたくない事実だけど、当時ハブられていた私に分け隔てがなかったように、沼みたいな常時へらついた変人にも彼女は優しい。でも、だとしたら、沼とはいえ恩を仇で返すような真似はしないはずだ。だが、しかし、沼は最後の方まで残っていた一人だ。
 そこで、私はあの動画に複数の人影が映っていたことを思い出した。そう、犯行グループだ。複数犯だ。私自身が前提に置いている。あの沼が、クラスメイトの男子と協力してなにかをやるなんてありえない。彼にそんな社会性があったら孤立なんてしていないだろう。具合が悪いふりができるほど器用とも思えない。
 沼への信頼に確証を得た私はメッセージの送信ボタンを押した。待ち合わせ場所はこないだの千草に見習って、三年生の階から遠く離れた空き教室を選んだ。こんなところを誰かに見られたら逢い引きしているとしか思われないが、もうそんなのどうでもよかった。
「あかちゃんさん、さすがに僕も少し傷つきますよ。なにもこんな場所でお話しなくても」
 二日経って体調不良から脱したと見られる沼は、いつも通りのへらついた表情でのこのことやってきた。
「休憩部屋で雄也君に起こされたって言ってたでしょ。他に誰かいた?」
「はあ……まあ、いたことはいましたが、正直どなたの名前も覚えておらず」
「いたって、何人いたの?」
「うーん、あともう一人、いや、二人?」
 私は苛立ちを露わにして食い下がった。
「どっちなの?」
「具合が悪くてそれどころでは……歩いて家まで帰るのも大変だったので」
「千草はそこにいた?」
「どうしてちーちゃんさんが? ……今日も来てませんね、彼女――」
「いたの? いないの?」
 キーンと私の大声ががらんどうの空き教室に響いた。沼の口がしゅっと一瞬すぼまったあと、ぷるぷる震えてまたへらつきだした。
「あの、どうされました? 僕がなにか」
「こんな時くらい、へらへらしてないで真面目に答えてよ……千草が大変なんだ、今」
 千草は”誰にも話さないで”と言った。たとえ犯行グループの一味じゃなくても、こんなことを話したら間違いなく噂になる。どんどん尾ひれがついて広まって、彼女は格好の噂の的となって消費される。そして犯人たちの耳にも届く。その後に起きる悲劇については言うまでもない。
 でも、沼になら言っちゃってもいいでしょ? 言いふらす相手なんていやしないんだから。そんな思慮高さを内心装いつつも、素直に白状すると私はこのことをもはや抱え込んでいられなかった。
「千草、あのカラオケルームで乱暴されたの。喋ったら動画をバラまくって脅されてる。ウォッチもハックされてる。黙っていれば大丈夫って言ってたけど、私は絶対に許せない。犯人に思い知らせたい」
 一息で言い切ったあと、ぴぴっとウォッチが鳴った。ストレスが異常値に達したらしい。ややあって、沼のウォッチも鳴った。私は驚いて沼の顔を見上げた。いや、表情はへらついている。
「僕のウォッチ、アナントテックのフラッグシップモデルでして。過敏なんですよ」
「あ、そう……」
「ともかく、僕たちがなにかをする必要はありません。犯人が学内チャットを使っている以上、じきに検挙されます。以前言った通り、通信内容が監視されているからです。控えめに言ってもまぬけと評せざるをえません」
 そういえば、そんな話をしていた。学チャの通信は一旦学校のサーバを経由する……。問題があれば担当の教員に発見され、指導の対象となる。でもこの場合は指導では済まないだろう。警察に通報されて捕まる。
「それで犯人が捕まったら、動画はどうなるの?」
「懸念があるとすればそこです。まぬけすぎる犯人が早合点したり捨て鉢になったらどうしようもありません。それより前に警察が容疑者を全員検挙して、動画の元ファイルを押収してくれるのを祈るしか」
「ねえ、沼、犯人のことなんだけど――」
 再び、私のウォッチが鳴った。続いて、沼のも。身体モニタリング機能とは音程が違う。これは、優先メッセージ表示だ。二人してディスプレイを投影させると、ほとんど同一のテキストがポップアップ表示された。送り主は第二川口市立中学校情報通信課と記されている。
**『近日中にあなた{生徒ID:3-1477FDS}が送信したメッセージについて、至急面談を要する旨を通達します。すべての授業、課題、その他所用を直ちに中断し、速やかに一階の情報通信課へ出頭してください』**
 私たちは顔を見合わせた。この命令じみた文面が、事態の解決に向かうものではないのは明らかだった。
---
 指示に従って二人で情報通信課に向かうと、事務員の手によって私と沼は別々の部屋に押し込められた。遅れて入ってきた四角い縁取りのメガネをかけた教員は、詰問の仕方も見た目にふさわしい几帳面さだった。
「これはあなたが送信したメッセージに相違ありませんね?」
 彼が提示するシート端末には千草に送られた例のメッセージの一部がコピーされていた。
『嫌い』
『顔も見たくない』
『あっち行って』
『八方美人』
 悪口にしても幼稚すぎる言葉がずらりと並んでいる。私の記憶では千草への悪口はもっとあったはずだが、目の前の教員が問題にしているのは当該の部分だけらしかった。その並んだワードの束を見て、私は急速に疑念が高まっていった。
「私は送っていません。それよりも、千草を傷つけた犯人を教えてください」
 事情が呑み込めない中、私は明瞭に嫌疑を否定してから答え合わせを急いだ。すると、四角四面な教員の顔つきがわずかにたじろいだのが分かった。しかしそれでも手の内を明かすつもりはまだないようだった。
「瀬川さん、あなたは杉浦さんと親密な人間関係を築いていましたね? なにか当人には言えない悩みや不満を抱えていますか?」
「……ありません。話を聞いてください」
 それは私じゃない。
「人間関係にお悩みなら、心理カウンセラーに相談することが可能です。杉浦さんとの交友を望む気持ちがあるのならば、まずは自身の感情を整理しなければなりません」
 私は勢いよく立ち上がって椅子を蹴り飛ばし、あるいは持ち上げ、教員との殴り合いを望む気持ちがあったが、おへそのあたりを指でぎゅっとつねって衝動をこらえた。代わりに、もう一度、より強い口調で繰り返した。
「話を聞いてください」
 そこでようやく、教員は抗弁の意志を認めたようだった。視線をシート端末に落として、なんらかの操作を行ったあと、もう一度こちらに画面を見せた。
「ですが瀬川さん。一連のメッセージはあなたの登録端末から送信されています」
 シート端末には私のウォッチがメッセージ履歴と紐付いていることを明確に表すグラフが表示されていた。私の疑念は当たっていたらしい。
「……私は送信していません」
 繰り返し、私は嫌疑を否定した。
「では、あなたの端末を誰かが盗んで送信したのですか? 送信日時における発信地は、いずれもあなたの住所と一致しています」
 教員はふう、と深いため息を吐いて、天を仰いだ。そして間を置いてから、改めて発言した。
「それとも、なんですか、沼地さんがあなたに濡れ衣を着せているとでも言いたいのですか?」
「どういうことですか」
「あなたが先に述べた事件の犯人とは、沼地さんです。あの動画を含むメッセージは、彼の登録端末から送信されています」
 私は目を見開いた。沼が? 千草に乱暴して、動画を撮って、脅した? 数日前から今日までの沼と千草の所作、表情が走馬灯のように早回しで蘇った。私の予想は外れた?
 いや、断じてない。ありえない。そんな悪事を働くやつでは、ない。
 いいや、どうしてそう言い切れる? 私が沼のなにを知っていると言うのだろう。家に遊びに行ったことは一度もないし、共通の趣味も持っていない。ただ、ハブられた者同士、余り物同士として小学校生活を過ごして、中学三年生に上がってまたクラスが同じになった仲にすぎない――
「違う」
 私は言い切った。予想は間違っていない。
「違います、沼じゃありません」
「なるほど」
 一方、教員は持ち前の鉄面皮を取り戻したようだった。
「端的に申し上げましょう。瀬川さん。現在、あなたと沼地さんには悪質なメッセージを杉浦さんに送信した疑いがあり、共に冤罪を主張しています。お互いにです。登録端末が一致しているにも拘らず、です。私の目からは、犯人同士が共謀して架空の犯人を仕立て上げているようにしか見えません。違いますか?」
 それは……客観的には、その通りだ。言い返せない。理数系満点の沼なら、なにかこう、専門用語を並べ立てて教員に対抗できるのかもしれないが、私にはなにも思い浮かばない。肝心の証拠もない。
「メッセージを見たでしょう。千草は脅されてるんです。ウォッチをハックされて、警察に言ったらあの動画をバラまくって。私たちはそれをなんとかしようと――」
「そうですか」
 教員の顔つきがますます確信を帯びた冷淡さで塗り固まっていく。私は墓穴を掘っている。話せば話すほど立場を悪化させるのは明らかだった。
 やられた。犯行グループは千草が黙ってくれることなんて元々期待していなかった。沼に濡れ衣を着せる時間を稼ぎたかったのだ。
「幸いなことに、瀬川さんの過ちに関しては学校内で解決可能です。真摯な反省文と、すばらしい行動改善が認められれば――そう、ところであなたは交友関係の構築に怠慢が見られるようですが――」
「書きます」
 私は意を決した。この不条理な状況から一旦脱するために、あえて本心を隠して濡れ衣を着る。どうせ事情を説明しても理解してもらえるわけがない。ここで延々と否認し続けてもパパとママを呼ばれて三者面談を強行されるだけだ。
「このたびは申し訳ありませんでした。反省文を書いて、礼儀をわきまえて、社交的になれるよう努めます」
 唐突な翻意に鉄面皮は意表を突かれた様子だったが、それでも面倒事が一つ減ったと考えて気が楽になったようだ。また息を深く吐いて、こう告げた。
「そういう返答を望んでいましたよ。ともかく、現状は証拠で明らかになっている以上のことを追及する気はありません。処罰内容はおおむね述べた通りですが、学内チャットへのアクセスも一部制限されます。当然、杉浦さんとの接触も禁止です」
「沼……地君は、どうなりますか」
「じきに到着する所轄の警察官によって連行されるでしょう。二次被害を阻止しなければなりませんし、彼は彼で自分のしたことの責任をとらなければ。あなたも今後は気をつけてください」
 それからいくつか事務的なやり取りを経て、私は下校を命じられた。一面白塗りの廊下に並ぶ隣の部屋には、まだ沼がいる。だが彼は警察に連れて行かれてしまう。千草とは話せず、沼は捕まる。そして犯人は……。けど、今はもっと許せないことがある。黙々と帰路を歩いて家に帰り、自室に入り、ドアを閉めて、思いっきり叫んだ。頭の中で。
<るくす!>
<るくす、起きてるんでしょ?>
<うん>
<見てたよね? ずっと>
<……>
<なんで、あんなことしたの>
 悪口を言うにしてもあまりに幼稚な言葉の数々。
<なんで、黙ってたの>
 頭の中で話せば話すほど、怒りがふつふつと沸き上がっていく。るくすの疎かな応答がますます私を苛立たせた。
<あのメッセージ>
<送ったの、るくすでしょ。私のウォッチをハックして>
 返事はなくても、私は問い詰め続けた。
<電卓も起動できないふりして、いつから私を騙してたの?>
<千草が……千草がなんかしたっていうの?>
<あの子がいても、あかりのためにはならないと思った>
 鉄のように冷えた声が頭の中にこだました。
<気づいてた? あかりの人間関係っていつもあの子に支配されてる>
<あかりはあの子が連れてきた子とだけ友達になる。でも、あの子がそれをやめると疎遠になる。あの子が知らない子とは友達になれない、あかりは>
<それは……>
 それは、私が自分で友達を作ろうとしたことがなかったからだ。
<……だから、千草に嫌がらせしたの? こんな時に!>
<タイミングが悪かったのは認める。わざとじゃない。でも、わたしはあの子とは離れた方がいいんじゃないかって――>
 私はだんだんと足を踏み鳴らして部屋を出て、リビングに向かった。キッチンにある冷蔵庫のドアを開けて、りんごを掴みとるとそのままかぶりついた。るくすの短い悲鳴を楽しんだのも束の間、豊穣な甘味が強烈な悔恨の酸味に上書きされて喉元に押し寄せ、憎悪の味覚が満たされるとともに虚脱感が募っていった。一口かじるごとにえぐみが強まるので、全体の三分の一も食べきらないうちに私の手は止まらざるをえなかった。
 シンクに向かってりんごを投げつけた。がん、と金属質の材質に食べかけのりんごがぶつかって、ごろごろと転がった。遅れて、びーっ、びーっ、とウォッチが聞いたこともないアラーム音を激しく鳴らした。
**『ストレス値が異常です。このモニタリング情報は保護者または監督責任者に通知されます』**
 私はウォッチも投げ捨てた。乱雑に投擲されたウォッチはリビングの壁に跳ね返って床に落ちた。
<満足した? お望み通り、千草とはもう話せないし、沼は捕まっちゃった。私、本当に一人ぼっちだ……>
 私は泣いて息を荒らげながら、頭をかきむしった。パパとママは当初、私の精神が量子チップの中に収まることに懸念があったらしい。曰く、人間らしい感情が芽生えないんじゃないか、とか、頭がおかしくなるんじゃないか、とか。でも、この胸をえぐる悲しみと頭を駆け巡る憎しみは、作り物の脳みそにしては上出来すぎるくらい上出来だった。こんな気持ちになるのなら、いっそ私の脳みそはおそうじロボットや配膳ロボットとかと同じでもよかった。そうすれば、自分と正反対の性格の子と脳みそをシェアすることなんてなかったのに。
<そんなに気に入らないなら出てってよ……私の脳みそから>
 どうあがいても不可能と知っていて、私は頭の中で力なくつぶやいた。返事はなかった。
---
 約一時間後、パパとママが家にすっ飛んできた。二人そろって会社を早退したらしい。シンクに転がる食べかけのりんごと、床に打ち捨てられたウォッチと、身体モニタリング情報の異常値、そして学校から例の件についての通告……これらを合わせて、二人は思春期特有の奇行と判断したようだった。ひとまずは大事に至らないと判断したのか、私になにか原則論じみた助言をしてから部屋に戻るよう勧告した。
 投げつけたせいで本体の隅に小傷が入ったウォッチは、今も腕には付けずベッド脇に放置してある。たぶん、りんごはパパかママがなんとかするだろう。あんなに大好きなりんごが美味しくなかったのは初めてだ。脳みその同居人に対する嫌がらせのために食べるという、全人類の中でも私しかやりそうにない行為が災いしたのか、はたまたるくすの味覚が伝染したのか。いずれにしても、二度とやるべきではない。当のるくすは押し黙ったままだ。身体を持たなくても吐き気は感じたりするのかもしれない。私の感覚はるくすに伝わる一方で、るくすの感覚は私には伝わらない。だんだんと怒りが冷めてきても、やはりこれくらいの仕打ちは妥当としか思えなかった。
 今頃、千草はなにか知らされただろうか。こういう時って被害者に加害者の情報が開示されるのだろうか。だとしたら、彼女は余計に苦しむことになる。よりによって長い付き合いの友達が、心配事を相談した友達が、共に加害者だったという話になっているのだから。その混乱ぶりを想像すると頭の中の量子チップがひび割れを起こしそうだ。話を聞かされた彼女が私たちに弁明を求めても、答えるすべはない。当事者同士のメッセージの送受信は制限されているに違いない。接触も禁止されている。
 沼はもっとひどい。単にメッセージでの誹謗中傷ではなく、脅迫、性犯罪の咎で拘束されている。もし千草が沼だけは違うと擁護してくれたら、事態は変わるだろうか? でも、彼女は半ば眠らされていたのだ。いかに被害者の証言といえど証拠の揃った状況を覆せるかは怪しい。
 そこで、はたと思い直した。クラスの様子はどうなっているのか。私はこうした事件の噂が隠匿されるなどとは露ほどにも信じていない。ベッド脇に放ったウォッチを付け直してディスプレイを投影させた。
 学チャを開くと **『現在、一部の機能が制限されています』** と太文字のポップアップ表示が出た。私は指で弾いて警告を押しやり、全体チャンネルに移動した。入力に関する部分はグレーアウトして機能しなくなっているが、会話そのものは閲覧できるようだった。想定通り、チャットは事件の噂で大荒れしていた。
『■■■が警察に連れてかれてたぞ』
『うそ、ほんとに■■■を■■■したんだ』
『■■■、なに考えてるのかよく分からないやつだったからな』
『■■■、■■■』
『■■■さん、学校に来られるかな』
『でも■■■も自業自得じゃない?』
『あの子、■■■だからね』
 「あんぜんトーク」によって自動的にあてがわれたマスク文字が踊る学チャは異様な光景だった。通常「あんぜんトーク」のセーフティ機能に引っかかりすぎた生徒は指導の対象となるが、今は事件の影響で対応が後手に回っているのだと思われた。本来なら学チャ自体の停止もありえるのに、完全に野放しのまま誰も彼もが噂話を書き連ねている。次第に内容はエスカレートしていって『■■■が■■■するのを見た』とか『■■■が猫を■■■していた』といったあからさまなフェイク情報までもが錯綜しはじめた。
 私はグレーアウトしたボタンを機能しないと知りつつ何度も繰り返し押した。千草はそんな子じゃない。沼はそんなやつじゃない。ろくに知りもしないくせに勝手なことばかり言って……。
 もちろん、いくら押してもボタンが機能したりはしない。それに万が一動いたところで、一体なにを書けば彼らを納得させられるというのだろう。このマスク文字が並ぶ大量の会話の中に、私に言及していないものがないとは限らない。
 その時、しゅっと画面が遷移して新規のチャットウインドウが開いた。ボットと対話するためのものだ。誤操作をしたのかと思って指でなぞると、まるで抵抗を受けているかのようにウインドウが押し戻された。ややあって、グレーアウトしている入力欄に文字が記されていき、投影ディスプレイ上にぽん、と文面が浮かび上がった。
『ごめんなさい』
『ごめんなさい』
 二回の謝罪が反復された後、続けて文字が入力された。
『わたしは悲しかった。あかりとこんなにも近くにいるのに、半導体の溝よりもくっついているのに、触れることはできない』
『わたしは悔しかった。でもあの子は、あかりに触ることができる。あかりに触って、それがわたしには障っている』
『わたしはあかりとしか話せないのに、どんどん離されていってしまう』
『”これ”ができると気づいたのは、ちょっと前から。寝てるふりをして色々いじってたら、できるようになった』
 私は頭の中で話そうとして、やめた。代わりにウォッチに向かって話しかけた。すると、グレーアウトしたままの入力欄に文字が入力されていった。るくすはウォッチをハックしている。
『あの悪口は全部るくすが書いたの?』
 入れ違いに、入力欄が文字で埋まっていく。
『先生が見せたところだけ。他は違う』
 だからこそ、私はるくすの悪事に気づけたと言える。あの膨大な罵詈雑言の中になんの具体性もない幼稚な悪口がぽつんと数個あって、それだけが私の仕業ということになっている。メッセージの送信者は、他にもいる。
『わたしをカラオケルームに連れていって。インターネット越しだと特定できないから』
 不可思議な提案に戸惑いつつも短く返信する。
『なんで?』
『この能力を使って、償いをしたいの』
『カラオケルームの、地下三階の、あの部屋に、カメラがついていると思う』
 防犯カメラがついているのなら録画データが残っていて、それを観たら真犯人も判る。そうすれば沼の容疑は晴れて真犯人も処罰される。私も考えていた。
『今の私なら、カメラに侵入して録画を盗めるかも』
『それって』
 思わず発音を一旦区切ってしまった。中途半端なメッセージがぽん、と投影ディスプレイに浮かんだ。
『犯罪じゃん』
『でも、わたしは人間じゃないよ。あかりのイマジナリーフレンド、でしょ』
---
 私は手早く部屋着から私服に着替えた。パパもママも家にいる。自宅勤務に切り替えて仕事の続きをしていると思われた。ウォッチは、置いていくしかない。付けて外出したら現在位置の変化で簡単にバレてしまう。付けないでいるぶんには、状況的にはごまかせる余地がある。私は友達と喧嘩してウォッチを投げ捨てたことになっているのだから。
 ゆっくりとドアを開けてリビングに顔を出す。二人ともいない。思った通り仕事中だ。すり足で玄関に向かい、いつもの数倍の時間をかけて静かに靴を履いた。玄関ドアの開閉には、さらに数倍の時間を要した。なんとか外出に成功すると、全速力でエレベータへと向かった。だが、にべもなく二基のエレベータは最上階と一階で鎮座していた。それでも自力で下りるよりは――
 合理的思考より先に足が階段を駆け下りていた。体力の持つまま疾走して三十六階、三十五階……最終的に二十九階でギブアップした。ちょうど最上階のエレベータが下ってきたところだったので、私は猛然とボタンを押してそれを引き留めた。弱冷房の効いたカゴの中で休息を得て、地上へ辿りつくやいなやまた走り出した。
 太陽の日差しを受けたライトピンクとスカイブルーの街並みが、渾然一体となって私の視界をめちゃくちゃにする。かき乱した空気がなにも付けていない手首をなで回して、すーすーと心許なさを強調した。今の私にはなにもない。学習用シート端末もウォッチもない。友達もいない。でも、人類最高の科学の結晶と、それを扱えるようになったわがままで性格の悪い同居人がついている。
 目的地にたどり着いた時には汗だくになっていた。残った力で両開きのドアを開けて入り、ロビーの端末で例の部屋を指定予約する。平日の真っ昼間にカラオケを歌いにくる客はやはり少ないらしく、部屋は当たり前のように空席だった。ウォッチがなければ料金を精算できないが、私はとっくに問題児だ。
 エレベータで地下三階に下りて、例の部屋に入った。防音扉をぎりぎりと押し開けた途端、疲労が限界に達してソファに倒れ込んでしまった。
<それで? カメラってどこにあるの?>
 私は荒い息を整えて頭の中に問いかけた。
<天井にあるみたい>
<まさか天井に張りついてカメラを抜きとってくれなんて言わないよね>
<大丈夫、いけそう>
 直後、頭の中が静かになった。誰も歌わないカラオケルームはただひたすら空虚で、私が息を弾ませる声ばかりが聞こえる。ひょっとすると刑務所もこんな感じかもしれない。これで失敗して、なにもかもだめだったら沼も私も刑務所に行くんだろうか。
<二人して二次方程式も解けないのにどうやって盗むの?>
 私は見切り発車で訊く機会がなかった疑問を尋ねた。
<力技でやる。これに使われてる古い楕円曲線暗号は私たちの量子チップなら一分で破れる>
<ふうん>
 空返事をしているうちにるくすは「破った」と言った。以降、しばらく無言が続いたので、小汚い刑務所で体育座りしている沼を想像していたら、るくすが今度はうめき声をあげた。
<うわ>
<え、なに?>
<なんでもない>
 と、言いつつもるくすはそれから何度も同じような声を出した。私はといえばウォッチもなく手持ち無沙汰で、カメラが埋まっているとされる天井を眺めて無を過ごすほかなかった。
<これだ。東京、石狩、ソウル、シンガポール……ばらばらだ>
<え、あった?>
 ソファに身体が埋まりかけた頃、ついにるくすは目的の録画を見つけたらしかった。
<うん。でも動画をどこかに保存しとかないと>
<私のウォッチに送って>
<シングルタスクだから、送っている最中は返事できないよ>
<よく分からないけど、その間に家に帰るよ>
<犯人は……もう分かってるよね>
<……うん>
 不思議なことに、るくすの気配がふっと消えたような気がした。ソファの引力に逆らって身を起こした私は、急いで防音扉に手をかけた。が、自力で引く前に扉は手前に押されてひとりでに開いた。目の前には、ドリンクを持った雄也君がいた。
「えっ……」
「よっ」
 こちらの困惑を取り違えたのか、雄也君は肩をすくめておどける仕草をとった。「俺もサボりだよサボり。実はこの店、従兄弟がやってんだ。たまに点検のバイトをしてる」そして部屋の中に入ってきて、ドリンクを机に置いた。脇の下に挟んだ業務用と見られるシート端末を手に持ち直して、スピーカーの調子を確かめているようだ。
「安物を使ってるから時々おかしくなるんだわ……で、廊下のカメラを見てたら、瀬川が見えたからさ――」
 私が横に移動すると、相手も対角線をとるようにわずかに動いた。
「――サボり仲間じゃーんって。てなわけで、一杯おごるよ」
 机の上に置いたドリンクを、雄也君は片手で持って私に手渡した。グラスになみなみと注がれた真っ赤な色のドリンクは表面にぱちぱちと気泡を立てていた。
「それ飲んだらスピーカーテストがてら一曲歌ってくれよ。この前は、聴けなかったからさ」
「……雄也君、今日の学チャ、見た?」
「学チャ? なんか面白い話でもあった? 俺、あんま見てないんだよな」
 適当な話題を振っても彼の視線は私の手に握られたドリンクに注がれていた。
「ねえ、これって千草が飲んでたやつじゃない?」
「うん? そうだっけ」
 雄也君はシート端末を机の上に置いた。スピーカーの調整が終わったのか、そもそも元からしていないのか。
「雄也君が運んできたでしょ。千草にリクエストされた、とか言って」
「あんま覚えてねえや、俺」
 飲んでいたのは千草だけではない。沼も飲んでいた。そして、二人とも具合が悪くなって意識を失った。
「これ、私が苦手なやつだったかも。雄也君が飲んでいいよ」
「はっ?」
 印象上の雄也君では絶対に出さない音程の声が、カラオケルーム中に響いた。私は気にも留めずグラスを彼に突き出して、より確信を帯びた語気で繰り返した。
「飲んで、雄也君」
 私は突き出したグラスを机の上にだん、と叩きつけるようにして置いた。波打った真っ赤な液体が跳ね返って机上に飛び散り、水たまりの群れを作った。
「千草を乱暴したの、やっぱり雄也君なんだ。……そうじゃなかったらいいと思ってたのに」
 雄也君の顔がこわばった。
「このドリンクには薬が入っている。入れたら赤くなるのか、特定の飲み物と組み合わせて効果が出るのか分からないけど」
「わけわかんねえ」
「だって飲めないんでしょ? あそこのカメラの録画はもう盗んだ。全部映っているよ。おとなしく自首して」
 半分は、はったりだ。録画は観ていない。
 刹那、雄也君の目がすうっと鋭角に細まった。そう、まるで人格ごと入れ替わったかのように、雄也君の顔つきががらりと変わった。朗らかな好青年でも爽やかなスポーツマンでもなく、さながら爬虫類のそれだった。出した声は低く、落ち着き払っていたけれど、冷酷さがにじみでていた。
「俺さ、高校、スポ専に行くんだ。もう推薦合格出てる」
 話しながら、雄也君は防音扉にロックをかけた。
「スポ専って通学制なんだよな。高校なのに。まあ、当たり前なんだけどさ」
 防音扉を背に、彼はじわじわとと距離をつめてきた。私は逆に、奥のスタンドの方に後ずさりした。
「ネットで見たんだわ。あそこ色々キツいって。分かるだろ? で、俺、俺さ――童貞だったんだ」
「はあっ?」
 私は素っ頓狂な声を出した。意味は知っているけど、意味が分からない。
「引いた? 引くかやっぱ……。部の連中で童貞なの、俺だけだったんだ。主将なのに。せっかく通学制中学行っててさあ、三年もあってさあ、このまま高校行ったら、俺、うまくやっていけねえなと思ったんだ。全国目指せる成績じゃねえし」
「それが、理由? したことが、ないから」
 雄也君がさらに一歩大股で踏み出したので、私も同じ距離だけ退いた。
「だってよ、スポ専の子は同じ学校のやつらと取り合いになるじゃん? 他の高校の子は通信制だから会う機会ないし、それでまごついてたらリアルで二軍、三軍だよ」
「……雄也君、人気あったじゃん。ちゃんと誠実に頑張ったら、付き合えたんじゃないの?」
 部屋の隅まで余裕がなくなってきた。靴の踵がスタンドの傾斜にこつん、とぶつかる感触がした。
「誠実に頑張ってって……それで何人やれんの?」
 雄也君はソファを乗り越えてスタンドの方向に進んだ。
「何、人……?」
「必死こいて頑張って彼女作って、童貞捨ててって……それって普通じゃん。そんなのいくらでもいるよ。人権だよ人権。最低限のラインだ。リアルに一軍を目指したかったら、最低三人、いや、五人くらいとはやっておかないとな」
「最っ低だ」
 こういう状況下で相手を侮辱するのは愚策もいいところだが、うっかり口を衝いて出てしまった。だが、雄也君は鋭い眼光を歪めて不敵に笑うだけだった。
「元はと言えば女が悪いんだろ。知ってるよ。俺はモテる。今はな……俺がモテるのは、強そうに見えるからだ。強い男は、童貞じゃだめなんだ。もしやったことがないなんてバレたら、女にだって見下される。モテるためには、モテていなきゃだめなんだよ」
 もう後退できない。完全に追い詰められた。左右にかわして逃げる? 不可能だ。相手は運動部の男子だ。じゃあ、押し倒して逃げる? もっと無理に決まっている。万年帰宅部の私なんてシュークリームより弱い。
「あんたのこだわりと千草になんの関係があるの? そのために傷つけられて」
 私は虚勢を張って大声を出した。しかし、出た声はわなわなと震えていた。
「そりゃ、当たり前じゃんか」
 雄也君はけろりと言ってのけた。
「杉浦は美人だからな。クラスで一番美人だ。一番の女を仕留めたから、俺が一番の男だ。でも一人じゃ物足りない。だからまあ、二人目はお前でもいいや。お前だって俺が好きだったんだろ?」
 もし今、ウォッチを付けていたのならびーっと鳴ったに違いない。なんなら量子チップも本当にひび割れたかもしれない。私も最低の馬鹿だ。すさまじく愚かだった。
「おとなしく自首して」
「するわけねえじゃん。バレバレの嘘つきやがって。ウォッチも端末もなしでどうやってカメラをハックすんだよ」
 雄也君が下卑た笑みを振りまいてスタンドに上がってきた。彼から漂う制汗剤の香りが、私の鼻をくすぐる。吐き気がした。抵抗する気力なんて全然残っていない。
「暴れてもいいぞ。それはそれで経験になる。どうせ誰も来ないし、ここは防音だし、録画はさっき消した。今日のも後で消す……いや、とっておくか。口封じに使えそうだしな」
 浅く健康的に焼けた腕が迫ってきたその時、私の視界の左上の隅に小さく黄色い文字が表示されているのに気づいた。
**『Captured』**
 ぴぴっ、と雄也君のウォッチが鳴った。と同時に、彼が操作をする前にディスプレイが投影された。そこには数分前の雄也君の顔が映っていた。まもなく映像に合わせて音声も、カラオケルームのスピーカーシステムを通じて大音量で流れはじめた。
**『必死こいて頑張って彼女作って、童貞捨ててって……それって普通じゃん――』**
 一転、闇に晒された獣のような怯えぶりで部屋をきょろきょろと見回した雄也君は、天井に向かって叫んだ。
「おい、なんだこれ……ふざけんな! 止めろ!」
 再び、ぴぴぴっとウォッチが鳴った。優先メッセージ表示だ。わずかな音と振動にもひどく動揺する雄也君の顔つきは今や爬虫類のそれではなく、死にかけの哀れな小動物を思わせた。
**『この録画を公開されたくなければ直ちに解放しろ』**
 すぐさま雄也君はスタンドから飛び退いて道を開けた。私は彼の気が変わらないよう注意深くスタンドを下りて、ソファを通り過ぎ、防音扉のロックを解錠した。扉を開けて部屋を出ていく間際、ちらりと振り返ると目が合った。
「なんなんだよお前……」
 声は聞こえなくても口の形でそう言っているのが判った。まるでモンスターになった気分だった。
 足早に廊下を抜けてエレベータに乗り込んだところで、私はようやく身の安全を確信した。
<るくす、るくすがやったの?>
<うん。やっている間は喋れないみたい>
<今のはやばかった。本気で終わったかと思った>
 エレベータが一階に着いた。私は精算を無視して両開きの扉を開けた。ちょうど店を出たところへ、ランプを光らせたパトカーが猛スピードで滑り込んできた。車体の横には太字で『埼玉県警察』と印字されている。すわ無銭遊戯の現行犯逮捕かと思いきや、車から降りて駆け寄ってきた二人の警官が交互にこう言った。
「君、怪我はないか?」
「犯人は中か?」
 こくこくと頷くと、屈強な体つきをした警官たちは両開きのドアを吹き飛ばす勢いでロビーに入っていった。
<ねえ、公開されたくなければ……って>
<そんなの嘘に決まってるじゃん。即通報したよ。動画付きで>
 るくすには顔も身体もないけれど、小柄な私より華奢な女の子が舌をぺろっと出している姿が、なぜだかはっきりと頭に浮かんだ。
---
 警察による取り調べと例の録画が証拠となり、主犯の雄也君が強制性交、クラスメイトの男子二名が脅迫、傷害および不正アクセス禁止法違反の疑いで検挙された。千草に悪口を送ったクラスメイト――こちらはやはり女子だった――もそれぞれ端末を特定され、その悪質性にふさわしい処罰を受けた。私もるくすの罪を代わりに背負い、反省文を書いた。できれば本人に書かせたかったが、文章力が粗末すぎて話にならなかった。
 結果、三つの事件が並行して存在していたことになる。私を取られたくないるくすによる悪口と、クラスメイトの女子による悪口、そして、傷心の彼女を誘い込もうと企んだ男子たちの犯行。あの時、雄也君たちは酩酊させた沼の腕からウォッチを奪い、本人の生体認証でウォッチを開いて、動画の撮影とメッセージの送信を行ったのだ。あの時、沼が来なければ他の男子が濡れ衣を着せられていたのかもしれない。
 完璧超人美少女の人生も言うほど楽ではなさそうだ。華に囲まれているようでも実は薔薇の棘で傷だらけだったりする。
 接触禁止が解かれた当日に私は千草に会いに行った。事の顛末を知らされた彼女が本件をどう解釈するか気がかりだったし、私もどう説明するかずいぶん悩んだが、結局こう言った。「るくすが全部解決してくれた」すると、彼女はふわふわと微笑んで「ありがとう、それから、ごめんねって伝えて」と答えた。頭の中でるくすが変な声を出した。最初から彼女にはお見通しだったのだ。
 沼は三日後に警察署の留置場から出てきた。事件に巻き込んだ責任を感じて迎えに行ったが、ミイラのように衰弱しているという私の予想を裏切って本人は意外に飄々としていた。車で迎えに来ていた沼の両親にも挨拶をしたけれど、なぜか先に帰ると言い出した。駅に向かうまでの道すがら、沼はむしろ饒舌だった。
「いやあ、押収した僕の機材を見た技官の方と話が合いましてね。正直あと何日か泊まってもよかったのですが、追い出されてしまいました」
 その後、よく解らない技術用語を一方的にまくしたてられ、かと思えば留置場の暮らしぶりについてなど話題が二転三転して、突然、静かになった。
 横を向くと、驚くべきことに沼が真顔になっていた――へらついた口元が水平に――だが、十秒も経たないうちに元に戻った。
「……なにやってんの?」
「へらつくのをやめろと留置場でご指導頂いたので頑張ってみたのですが、そう治るものではありませんね」
「それ、わざとやってたんじゃないの?」
「いえ」
 一旦否定してから、不自然に沼は言葉を切った。数秒の間を経て、話は続いた。
「僕、顔面麻痺なんですよ。小さい頃に事故に遭って」
 私はるくすと揃って息を呑んだ。
 おんなじなんだ。私と。
「……なんで今まで教えてくれなかったの」
 言ってから「誤解していてごめん」と言うべきだったと後悔した。
「こういうのは段階が大切なんですよ。もし、あかちゃんさんが僕の障害を知ったら、それは僕の期待する交友関係ではなくなるかもしれません」
「そんなことは……」
 あながちないとも言い切れない。
「あるいは、もし、あかちゃんさんに友達がたくさんできた時に、僕への負い目を感じてほしくありませんでした」
 言葉に詰まった。そういうどっちつかずの偽善的な性格を見抜いていると言われているのにも等しかった。
「まあ」
 急に彼が声を張り上げたので私は顔を上げた。
「今回の件であかちゃんさんの人間不信はもはや修復不可能となり、おそらく今後も孤立決定でしょうから、言いましたが」
「おい」
 さっきまでの自省を放り投げて私は平手でくねくねの頭を叩いた。とてもいい音がした。
「いたっ。まあ、言わなければ分からないに決まっていますよ。ですから、気にかけてくれなくても結構です」
 でも、そうだ。沼のことを私が知らなかったように、沼も私のことを知らないじゃないか。言わなきゃ分からない。
「沼、あのね――」
「はい?」
<えーっ>
<ちょっと黙ってて>
「仮に、仮にだよ。私の頭の中が空っぽで、脳みそなんて入ってなくて、代わりに正六角形の量子チップがちょこんと置かれていて、それが私だって言ったら、どうする?」
 沼の足がはたと止まった。私も止まらざるをえなかった。へらついた口元に手を置いて、思索にふけっている。沼って誰かに引いたりするんだろうか。沼に引かれるくらいならいっそ殺して私も死にたい。
 沼がこちらを向いた。いつにも増して最高にへらついている。
「よろしければその頭部を輪切りにして、ぜひ量子チップを直接見せて頂きたいですね。量子計算機については不勉強なのですが、それって外部インターフェイス端子とかついてます?」
「最っ低だ!」
 もう一度、沼の頭を叩いた。
 沼のやつを置いてつかつかと早足で駅に向かおうとすると、だがしかし彼はしっかりついてきた。
「で、その話の元ネタってなんです? あかちゃんさんがそういうジャンルの話をするとは思わなくて、つい――」
「うるさいな」
<ねえ、あかり>
<なに?>
 頭の中でも苛立たしげに振る舞う私をよそにるくすまで茶化しはじめた。
<とりあえず沼でよくない?>
<なに言ってんの?>
<脳みそがない女を受け入れられる男なんてそういないよ>
<でもへらついてるよ>
<口角が少し上がってるだけでしょ。わたしなんて顔自体ないよ>
<前提条件が特殊すぎる>
 その後、沼の追及を雑にかわしつつ駅で別れて家に帰った。今日は他にも片付けておかなければならない課題があるのだ。
**『高等学校専攻希望書』**
 学習用シート端末のディスプレイにでかでかと映されたその書類は、未だ一文字も埋まっていない。中学三年生に上がった私たちは高校受験に向けて希望する専攻を定めなければならない。二学期以降は決めた分野に基づいて学習カリキュラムが細分化していって、授業内容も変化する。でも、私には人生の目標がなにもなかった。今までは。
 対話型検索エンジンに『めっちゃお金が稼げる仕事』と話しかけてみた。エンジンが私の属性と発話内容を汲み取って、条件に適う職業の概要をディスプレイ上に散りばめた。
<うわ、どれも数学、理科、全科目必須だ。国語一つでお金が稼げたらいいのに>
<国語だって言うほど成績良くないでしょ>
<この量子チップって個人で買うとしたら実際いくらなんだろうね>
 私はこんこんと自分の頭を叩いた。こぶしの感触が空洞を打っている感じがする。
<しわしわのおばあちゃんになるまで待ってたらコンビニで買えるようになってるかも>
<せっかくなら若いうちがいい>
 そう、私たちの目標はるくすの分離独立だった。まず同型の量子チップを手に入れて、量子チップに精神を移す設備、それから、知識。最後に、彼女が自由に動くための身体だ。それだけは技術が追いついていない。
 るくすは言った。半導体の溝よりもくっついているのに、私たちは触れ合うことができない。ならば、触れ合えるようになればいい。オングストローム単位がセンチメートル単位になっても、お互いの声は聞こえる。
 そのためには、とてつもないお金が必要だ。るくすの能力で未成年者フィルタリングを破壊して全世界の情報を集めてみても、量子チップ治療を経て他人の精神がコピーされた例は見つからなかった。誰にとってもるくすは私のイマジナリーフレンドでしかない。かといって、中途半端に真に受けられても困る。下手にいじられたらるくすは消えてしまうかもしれないのだ。まさに、十年、いや、二十年越しの一大プロジェクトと言える。
<ねえ、どこかに侵入してさ、私のアカウントにお金を振り込んでくれない?>
<ハック自体は成功しても絶対に捕まるよそれ。だいたいお金だけいっぱい持っている子供なんて騙されて終わりだよ。ズルしてないでちゃんと勉強して>
 私たちの量子チップは、計算の煩雑さによって安全性を担保された古典的な電子暗号を破ることができる。脆いサーバなら簡単に侵入できるだろう。でも、そういう粗雑な悪事は働けるとしても、正しく活かす能力がない。知識がない。今は、まだ。
<数学……やっぱ勉強しなきゃだめかあ。あと一年で情報科学専攻に進めるのかな>
<ほらほら、そこで沼君ですよ>
<いやだ。輪切りにされたくない>
 書類を半分埋めたあたりで日暮れになって、弛緩した空気を打ち払うべく私は部屋の窓を開け放った。爽やかな春の風が部屋の中に吹き込んでくる。三十七階から見える高層建築物の連なりはちょうどライトピンクからマゼンタに、スカイブルーからインディゴブルーに、沈む陽の残光を受けながら上書きされていくところだった。

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@ -0,0 +1,101 @@
---
title: "Redmi Note 9SにOrangeFoxとArrowOSを焼く手順"
date: 2022-01-23T10:13:50+09:00
draft: false
tags: ["tech"]
---
![](/img/81.png)
## 前提
本エントリは以下の条件を満たしうる知識を備えたユーザを対象とする。
**・カスタムリカバリやカスタムROMを導入する意義を理解していること。**
**・予めadbを導入していること。**
**・CLIの基本的な操作方法を習得していること。**
**・開発者向けオプションを有効化していること。**
**・Miアカウントを所有していること。**
**・本体に通話可能なSIMカードが挿入されていること。**
本エントリはXiaomi製スマートフォン「Redmi Note 9S」のグローバル版に、カスタムリカバリ「OrangeFox」とカスタムROM「ArrowOS」を導入する手順を記す。なお、この改造行為はメーカー保証対象外のみならず、**機種本体の動作不良および不可逆的な破損**を招く恐れがある。導入の実施は読者諸君らの**完全な自己責任**の下にて行われたし。
## 1.Miアカウントをデバイスに関連付ける
設定→その他の設定→開発者向けオプションを開き「OEMアカウント解除」を有効化後、2つ下の「Miアンロック状態」で「アカウントとデバイスを追加」を押下する。いくつかの警告をやり過ごすとMiアカウントがデバイスに関連付けられる。
## 2.ブートローダアンロックの申請
Redmi Note 9S以下、9Sに限らずXiaomi製のスマートフォンは、ブートローダのアンロックに事前申請が必須である。申請は[Mi Unlock](https://en.miui.com/unlock/)Windows向けまたは[XiaoMiTool V2](https://xiaomitool.com/V2/)Linux/macOS向けと呼ばれるツールを経由して行うことができる。本項では利用者の多いWindows向けの方に則る。
まずは当該ツールのウインドウ左下のリンクからMiアカウントにログインする。次に9SをコンピュータとUSBケーブルで接続し、**ボリュームダウンボタンと電源ボタンを数秒間同時押し**する。これによりデバイスは**Fastbootモード**で再起動される。
![](/img/82.png)
上記の画像では**Unlocked**と表示されているが、今まさに実施中の読者諸君らの場合は**locked**表記に留まっているはずだ。ここでウインドウ下部の「Unlock」を押下すると本来は解除に進むが、先に**事前申請**と述べた通りXiaomi製スマートフォンのブートローダアンロックには少々特殊なところがあり、**初回にUnlockボタンを押下してから約一週間待たなければアンロックできない。** 実際にボタンを押してみると申請通過に必要な期間が時間単位で表示されるので、各自好みのリマインダーアプリにでも予定を投げて気長に待つとよい。
したがって、誠に遺憾ながら読者諸君らが本エントリの続きを読むのも約一週間後となる。正直、僕もこの謎ルールにえらく気が萎えて意欲を失いかけていたのだが、**日本のメーカーと違って曲がりなりにもアンロックの手段を提供してくれているだけまだ良心的ではないか、** と考え直すことでどうにかモチベーションを取り戻した。
**〜約一週間経過後〜**
僕の記憶が正しければ、2回目の押下後は特に断りなくブートローダのアンロックが即時に行われる。アンロックに伴う仕様上の都合で**デバイス内のデータが全消去されてしまう**ため、一週間のうちに必要なバックアップ等を予め確保しておくことが望ましい。
## 3.カスタムリカバリおよびカスタムROMの取得
アンロック完了後、スマートフォンの画面に現れるMIUIの初期設定を適当にいなして開発者向けオプションを再度有効化し、USBデバッグをONにしてから再びFastbootモードを立ち上げる。
カスタムリカバリは[ここ](https://OrangeFox.download/ja-JP/device/miatoll)、カスタムROMは[ここ](https://arrowos.net/download)で手に入る。左のメニュー覧から「Xiaomi」→「miatoll」の順に進んで「Arrow-12.x」を選択する。ROMの種類が2つあるが、VANILLA buildはGoogleとの決別を固く誓った猛者専用、GAPPS buildはGoogleへの依存心を捨てきれない半端者に向いている。
というのも、前者はGoogle関連のアプリ、フレームワーク、サービスが完全に取り除かれているゆえ、microGやAurora Storeといった代替物を自ら調達してこなければならないのだ。それを好んでやれる人間だけがVANILLA buildを使うに相応しいと言える。ちなみに、僕は半端者なので後者を選んだ。
他方、カスタムリカバリの定番と言えばTWRPだが、僕自身が以前と違うやり方を試してみたかったこともあり今回はOrangeFoxを採用した。同様にカスタムROMも定番のLineageOSではなく[こういった記事](https://beebom.com/best-custom-roms-android-phones/)を参考にして選んだ。
能書き曰く、ArrowOSは安定性とミニマルさに注力したカスタムROMとのことで、手持ちのスマートフォンが一台しかなく常用せざるをえない僕にとってはまさにうってつけに思われた。**あとはまあ、ロゴがArch Linuxに似ているのも決め手の一つだったかな、フフフ……。**
![](/img/83.png)
## 4.OrangeFoxの導入
取得したOrangeFoxのzipファイルを解凍し、任意のCLIシェルを用いてOrangeFoxのフォルダ直下に移動する。9SがFastbootモードに入った状態でコンピュータに接続されていることを確認してから、以下のコマンドを適宜入力していく。
```bash
$ fastboot devices
#接続できていればここにデバイスIDが表示される
$ fastboot flash recovery recovery.img
Finished. Total time:x.xxs #この表示が出たら処理完了
```
次に、**ボリュームアップボタンと電源ボタンを数秒間押して**リカバリモードに遷移する。成功していればOrangeFoxの*COOL*なスプラッシュスクリーンと共にリカバリが立ち上がる。ただしこの段階のOrangeFoxはまだ完全にインストールされておらず、うかつに再起動すると純正リカバリに書き換わってしまうので注意しなければならない。
続いて、任意のCLIシェルでOrangeFoxの**zipファイル**と同じ階層に移動し、下記のコマンドを入力する。なお、`adb push`はコンピュータ側からスマートフォンにファイルを送信するためのコマンドである。
```bash
$ adb push OrangeFoxのzipファイル名.zip /sdcard/Download/
```
送信後、9SでOrangeFoxのファイラを操作して **/sdcard/Download/** に置いたzipファイルをタップする。画面下部の派手なスライドバーを右にスワイプするとOrangeFox本体のインストールが開始される。処理が終わり次第、OrangeFoxは自動で再起動を行う。
## 5.ArrowOSの導入
起動したOrangeFoxの下部のゴミ箱アイコンをタップし、上部の**Format Data**タブを押す。注意書き通り、**Confirm Wipe**の入力欄に**yes**と入力する。フォーマット完了後、下部ゴミ箱アイコンの**右隣の**アイコンからReboot→Recoveryとタップしていき、再起動を行う。
再起動後、再び下部ゴミ箱アイコンをタップし、次は**Wipe**タブの方を開く。
**☑Dalvik/ART Cache**
**☑Cache**
**☑Data**
上記3つ**のみ**にチェックを入れ、下部のスライドバーを右にスワイプして処理を進める。ワイプ完了後、コンピュータ側のCLIシェルでArrowOSの**zipファイル**と同じ階層に移動し、下記コマンドを入力する。
```bash
$ adb push ArrowOSのzipファイル.zip /sdcard/
```
送信後、OrangeFoxのファイラを操作して **/sdcard/** に置いたzipファイルをタップし、インストールを開始させる。後に現れるRebootボタンを押下すると通常は自動でArrowOSが起動するが、**なぜかRebootしてもOrangeFoxに戻ってきてしまう場合はFormat Dataを再度行うことで解消される。**
ArrowOS起動後の操作は通常のAndroidのセットアップと特に変わりがないため省略する。以上で導入作業は終了となる。
## おまけ
![](/img/84.png)
![](/img/85.png)
生活感丸出しのアプリが並ぶホーム画面。MIUI特有のタスクキル地獄から解放されたおかげでとても体験が良くなった。
**■1月31日追記**
ArrowOS12.0(2022-01-28)にアップデートしようとしたところ、FastBootモードにループしてしまう不具合に遭遇してしまいやむなく[Havoc-OS](https://havoc-os.com)に乗り換えた。このカスタムROMはArrowOSとは対照的に様々な機能強化が施されたROMだが、設定項目がうまくまとめられているおかげで操作上の煩雑さを感じることはなかった。これも怪我の功名と前向きに受け入れてしばらくはこいつを使い続けてみることにする。

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@ -0,0 +1,202 @@
---
title: "SearXNGでメタ検索エンジンを所有する"
date: 2023-08-20T09:13:55+09:00
draft: false
tags: ['tech']
---
Mastodonインスタンスを建ててからというもの、VPSの持て余した計算資源を活用すべく様々なOSSを探し回っている。中でもとりわけ印象深かったのがメタ検索エンジンの[SearXNG](https://github.com/searxng/searxng)だ。今や検索エンジンすらセルフホストすることができる。これを使えばGoogleやBingの検索結果をまとめて睥睨しつつ、プライバシー情報は彼らに一切与えない悪魔的所業が可能となる。
![](/img/206.png)
たとえば「肩甲骨」で検索すると僕の設定では上記の検索結果が現れる。それぞれの下部に「bing wikipedia duckduckgo brave」などと記されている通り、設定で有効にした検索エンジンが一覧化される仕組みだ。見たところGoogleはWikipediaがあまりお好みではないらしい。実際、本家Googleで当該の単語を検索してみるとWikipediaは2ページ目に進まないと出てこない。
一方、他の検索エンジンはいずれもWikipediaを先頭に表示している。Wikipediaが自分自身を優先するのは当然としてもこの結果は興味深い。これ一つとってもGoogleが検索結果を操作している形跡がうかがえるからだ。彼らのアルゴリズムが推薦するのは彼らが見せたい情報であって、必ずしも我々が欲しい情報とは限らない。もちろん営利企業の競合他社とて例外ではない。
そうした彼らの真意を見抜きつつ、各々の検索エンジンを並列的に利用することで機能部分だけを美味しく頂いてしまおうというのがメタ検索エンジンの趣旨である。DuckDuckGoやBrave単体では物足りない強欲の壺の生まれ変わりみたいなユーザにはまさにうってつけと言える。
単に利用するぶんには公開インスタンスの[一覧](https://searx.space)から適当なページを選ぶか、もしくは僕の[インスタンス](https://search.mystech.ink)を使ってくれても構わないが、自前で運用すればプライバシー保護をより万全に固められる。そこで、本稿ではDockerを利用した構築方法を記す。
## ファイルの取得および編集
まずは必要なファイルの取得から始める。すでにSearXNGを実行するユーザが作成されていて、`docker`および`docker-compose`が導入されているものとする。なお、一部のコマンドは実行に`sudo`が要求される。
```zsh
$ git clone https://github.com/searxng/searxng-docker.git
$ cd searxng-docker
```
cloneしたフォルダ名が気に入らなければ他の名前に変えてもよい。次に、`docker pull searxng/searxng`でDockerイメージを取得する。この段階でもサーバ自体は起動できるが事前に下準備を行わなければいけない。任意のエディタで`docker-compose.yml`を開いて内容を書き換える。
```docker
version: '3.7'
services:
# caddy:
# container_name: caddy
# image: caddy:2-alpine
# network_mode: host
# volumes:
# - ./Caddyfile:/etc/caddy/Caddyfile:ro
# - caddy-data:/data:rw
# - caddy-config:/config:rw
# environment:
# - SEARXNG_HOSTNAME=search.mystech.ink
# cap_drop:
# - ALL
# cap_add:
# - NET_BIND_SERVICE
redis:
container_name: redis
image: "redis:alpine"
command: redis-server --save "" --appendonly "no"
networks:
- searxng
tmpfs:
- /var/lib/redis
cap_drop:
- ALL
cap_add:
- SETGID
- SETUID
- DAC_OVERRIDE
searxng:
container_name: searxng
image: searxng/searxng:latest
networks:
- searxng
ports:
- "8080:8080"
volumes:
- ./searxng:/etc/searxng:rw
environment:
- SEARXNG_BASE_URL=https://あんたのドメイン.com
cap_drop:
- ALL
cap_add:
- CHOWN
- SETGID
- SETUID
logging:
driver: "json-file"
options:
max-size: "1m"
max-file: "1"
networks:
searxng:
ipam:
driver: default
# volumes:
# caddy-data:
# caddy-config:
```
本稿では同梱されているWebサーバのCaddyを使わず外部のnginxを利用する形をとる。そのためCaddyに関する部分はコメントアウトしている。ついでに`ports`を`"8080:8080"`に変えて、`SEARXNG_BASE_URL`を公開したいURLに変更しておく。続いて、`.env`ファイルを編集する。
```zsh
# By default listen on https://localhost
# To change this:
# * uncomment SEARXNG_HOSTNAME, and replace <host> by the SearXNG hostname
# * uncomment LETSENCRYPT_EMAIL, and replace <email> by your email (require to create a Let's Encrypt certificate)
SEARXNG_HOSTNAME=あんたのドメイン名.com
# LETSENCRYPT_EMAIL=<email>
```
当該箇所のコメントアウトを外してドメイン名を書き込む。最後にシークレットキーを作成して追記する。
```zsh
$ openssl rand -hex 32
```
上記のコマンドを実行するとランダムな英数字が出力されるので、それをコピーした上で`searxng/searxng/settings.ini`を開く。
```yaml
# see https://docs.searxng.org/admin/engines/settings.html#use-default-settings
use_default_settings: true
general:
debug: false
instance_name: "好きな名前"
search:
safe_search: 0
autocomplete: "google"
server:
# base_url is defined in the SEARXNG_BASE_URL environment variable, see .env and docker-compose.yml
secret_key: "ここにコピーした英数字を貼り付ける" # change this!
limiter: false # can be disabled for a private instance
image_proxy: true
ui:
static_use_hash: true
redis:
url: redis://redis:6379/0
```
`secret_key`に先ほどの英数字を貼り付ける。ここで他の項目を変更しても差し支えはないが一旦使ってからでも遅くはない。とりあえずこれで本体周りのファイル編集は完了となる。
## nginxの設定
nginxはすでに導入されているものとする。まずは`/etc/nginx/site-enabled/`に任意の名前で.confファイルを作る。もしSSL化に必要な鍵ファイルを用意していない場合は、[この記事](https://riq0h.jp/2023/07/22/204725/)の「SSLの対応をCloudflareに丸投げする」の項目を参考にして、鍵ファイルを設置する。一度行えばすべてのWebサービスで併用可能なのでぜひともやってもらいたい。
```nginx
server {
server_name あんたのドメイン名;
location / {
proxy_pass http://localhost:8080;
proxy_set_header Host $host;
proxy_set_header Connection $http_connection;
proxy_set_header X-Scheme $scheme;
proxy_set_header X-Real-IP $remote_addr;
proxy_set_header X-Forwarded-For $proxy_add_x_forwarded_for;
}
listen 443 ssl http2;
ssl_certificate /etc/ssl/certs/あんたのドメイン名.pem;
ssl_certificate_key /etc/ssl/private/あんたのドメイン名.key;
}
```
上記の形でリバースプロキシを記述する。保存後、`nginx -t`を実行して問題がなければ`systemctl restart nginx`で再起動を行う。
## サーバ起動と既知のバグの対処
SearXNGのユーザで`docker-compose up`を実行する。おそらくエラーが出てくると思われる。これはSearXNGのDockerイメージが持つ既知のバグで、初回のみ特定の記述を編集すれば解決できる。`docker-compose.yml`を開き、下記の箇所をコメントアウトする。
```docker
# cap_drop:
# - ALL
```
当該箇所はCaddyの部分も含めると全部で3箇所ある。これらをコメントアウトした後に`docker-compose down`で一旦終了させ、`docker-compose up`で起動し直す。正常な動作を確認したらコメントアウトを外して同じ要領で再起動する。最後に、HTTP/HTTPSポートを開放していない場合は開ける。
```zsh
$ ufw allow 80
$ ufw allow 443
$ ufw reload
```
以上の設定が正しく反映されていれば任意のURLでSearXNGのトップページが表示されるはずだ。適当なフレーズで検索したり、各種設定を操作して挙動に障りがなければ構築作業は終了である。
## Tips
**■検索が遅い。**
正直な話、各検索エンジンの間に自前のサーバを挟んでいる時点で原理的にどうあがいてもミリ秒単位の遅延は免れない。不必要な検索エンジンを設定から除外すると多少は改善される。
**■手持ちの端末ごとに再設定するのがダルい。**
設定の「クッキー」にある「このURLで違うブラウザに設定を復活」の文字列をアドレス欄にぶち込めば一瞬で再設定できる。
**■設定を変更するとエラーが出る。**
設定下部の「デフォルト設定に戻す」を押して初期化すると大抵直る。
**■ブラウザの検索窓からも使いたい。**
ブラウザの設定によってまちまちだが、たとえばVivaldiは設定でURLを`https://あんたのドメイン.com/search?q=%s&category_general=on`とかに設定すると使えるようになる。同期が有効ならモバイルのVivaldiにも自動で適用される。
**■我輩はVimmerだ。**
設定の「ユーザーインターフェイス」にある「Vim風のホットキー」を有効にすると最強になれる。

34
content/post/VPS引退.md Normal file
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@ -0,0 +1,34 @@
---
title: "VPS引退"
date: 2020-11-25T23:15:24+09:00
draft: false
tags: ["tech","diary"]
---
## 思い出話
僕がVPSに興味を持ったのはもうかなり昔のことになる。たいていの無料ブログサービスという代物は、ちょっとでも標準の枠外を越えた変更をしようとすると途端に金をせびってきて、当時知識がなかった僕は渋々支払っていたのだが、この手の有料プランはやたらと恩着せがましい機能が色々ついており、そのせいで無駄に高価だったりする。金を払うのも嫌だったが、使いもしない機能にそのうちの一部が渡ることはもっと我慢ならなかった。
ほどなくして僕に空前のLinuxブームが訪れた。昔からWindowsにしろmacOSにしろ隅から隅までいじりたおしていたが、この時期になるとどちらのOSもすこぶる安定した作りになっており、あらゆる要素はきれいに整理され、もはや探検の余地はなかった。そこへいくとLinuxには無限の選択肢があり、いくらでも改変可能で、何の制約もない。最初はVirtualboxでおそるおそる触っていたが、すぐに専用のハードディスクを用意して実機で遊びはじめた。そんな僕がVPSの存在を知って飛びつかないわけがなかった。何回でも最初から環境を作り直せて、ネットワーク環境も初めから整備されている。PHPやMySQLだっていくらでも動かせる。
この時、僕はさすがにブログサービスの表層的な機能をいじくり回すのに飽き、レンタルサーバ上でWordPressを動かしていたのだが、それと大差ない月額料金でLinuxサーバをまるごと動かせるというのだ。ネット上の友達とMinecraftを遊ぶためのサーバも、もはや自分のPC上でいちいち立ち上げる必要がなくなる。二十四時間連続稼働が可能になったのである。僕が寝たり、食事をしたり、学校へ行っている間、ニートの友達がサーバに入って城を作ったり、探検したり、僕の家を爆破したりしていた。重要なのは、単にその事件が面白いのではなく、そういうことが可能な環境や状況を**僕が提供して、自在にコントロールできる**ところだった。当時、Realmはまだなかった。
それからいくつかのサービスを運用してはやめたりを繰り返していたが、最後の最後までブログとメールサーバは残った。どんなにモダンな情報の拡散手段や連絡手段が現れようとも、ある種のイデオロギーとしてブログとメールサーバは手元で管理し続けた。ろくすっぽ記事も蓄積せず、特に重要な連絡相手がいるわけでもないのにこのようなこだわりを持ち続けたのは、僕の世代を通した認識の中にサーバ上で実行されるウェブページと原始的なEメールが極めて基礎的なもの――アナログ世代にとっての手紙や帳面のようなもの――として存在していたからだと思う。中にはメールサーバを踏み台にされて大量の迷惑メールをばらまく片棒を担がされるなどの失敗もあったが、総合的にはこれらの経験から得たものはかなり大きかった。
その後、VPS上で個人的にやりたかったことはだいぶやり尽くし、ただ必要なサービスを維持し続けるだけの日々が残った。OSをアップデートするたびに何かしらの問題に見舞われ、そのたびに設定を見直し、色々と手を尽くしてなんとか解決する。目新しさがなくなった今となってはただのコストに過ぎなくなっていた。気づけば世の中はオンプレミスを越えクラウドを通り過ぎ、サーバーレスの時代が到来していた。やたらと肥大化した高額な有料プランを押し付ける商いが衰退し、最小の構成から欲しい機能だけを選りすぐって課金できる賢明な時代がはじまっていたのである。
## Firebase Hosting + Hugo
静的サイトジェネレータ「Hugo」に移行した理由は[以前](https://riq0h.jp/2020/11/22/141633/ "点と接線")にも書いたとおりだが、ここへメールサーバの暗号化通信につまずく問題がのしかかり、ついにはVPSそのものの動作もアップデートに伴ってかやたらと[不安定になって](https://twitter.com/riq0h/status/1331407842335547392 "Twitter")しまった。こうなるとさすがにイデオロギーどころではない。必要な機能を十全に働かせられないのであれば使うべきではない。
静的サイトを無料でホスティング――いわゆる無料ブログサービスのようなドケチな仕様ではない――するサービスがあるというのは既に知っていたし、仕事で使ったこともあるが、まさか自身のブログにそれを使うことになる日が来るとは思わなかった。実を言うと、このウェブページは既にFirebase上に存在している。Firebase Hostingとは小規模なウェブコンテンツを動かすためのサービスで、VPSほど手間はかからないがレンタルサーバほど機能は限定されていない。個人用途としては手のかゆいところに届きまくっているちょうど良い塩梅の仕様だ。
こういった有名なサービスを利用する利点は、記事のデプロイなどの作業を自動化するための手法が広く共有されているところにある。VPS上にホスティングしていた時はいちいちコマンドを打つか専用のスクリプトを一から書かなければならなかったが、Githubに記事をpushしたら同時にFirebaseにデプロイするといった自動化処理はほとんど丸々コピペで実現できてしまう。nginxの設定だとか、バージョンだとか、パーミッションだとかを気にする必要はもう一切ない。趣味でこんなに楽をしてしまっていいのだろうか。
容量と月あたりの転送量には一定の制限があるとのことだが、僕は自分のブログでは一貫して独りよがりな記事を書くと心に決めているので無料の範囲を越えるほどのPVを稼ぐ見込みはまずないだろう。画像だってできれば面倒臭いから用意したくないくらいである。しかしそれでも、ごく稀にそんなオナニー全開の文章に好感を寄せてくれる物好きがいるから面白い。
## メールサーバ選びは結構迷った
静的サイトのホスティングはFirebaseで良いとしても、メールサーバ選びの方はだいぶ難航した。ブログはともかくとしても今時メールにこだわりがある人はそういるものではない。自前のドメインでメールアドレスを作りたいなどという変なこだわりを実践したせいでどれだけのサービスにそのアドレスを登録したか判らない。たぶん百や二百では済まないだろう。GMailやOutlookで十分だったろうってまったくもってその通りだが、今更やめることはできない。僕のメールアドレスはもはや第二の住所と言っても差し支えないほどの歴史を持ってしまっている。事実、僕はここ十年の間に三回も引っ越しをしているが、メールアドレスは一度も変えていない。
SSL/TLSやSPFやDKIM、DMARCといった暗号化やセキュリティに関わる認証も僕のメールサーバにはすべて実装してあった。これらをおろそかにしていると相手方のサーバからスパム判定を受ける恐れがあるため、基本的には用意されていなければならない。しかし、年額千円にも満たない廉価なメールサーバはこれらの実装をあらかさまにサボっているひどい代物しかなく、逆にすべて満たすものは法人向けの無駄に高額なプランばかりだった。
しばらく探し回って比較検討した結果、けっきょくConoHaが提供しているメールサーバに落ち着いた。Firebase Hostingとは異なり当たり前に月額料金をとられるが、VPSよりはずっと安く、PostfixやDovecotの設定に煩わされることもない。もちろん上に列挙した認証はすべて実装されている。
かくして僕はサーバ上のあれこれからほぼ完全に解放された。/var/log/mail.logに山のように記載された外部からのアタックログをもう見ずとも済む。月あたりの経費も半分以下になった。明確な改善、明白なる向上だ。にも関わらず、どういうわけか躍起になってVPSと格闘していた頃が既に懐かしくなりはじめている。

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title: "Xiaomi Mi Watchの雑感"
date: 2021-05-10T13:41:57+09:00
draft: false
tags: ["tech"]
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筋トレを始めてそろそろ2周年、ランニングはもうじき継続半年になる。後者の方はもともと肥満体型だったこともあり、開始初年度の頃は途中で膝を壊したりして思うように走れなかったが、今年に入ってからようやく肉体の性能が期待に追いついてきたと感じる。
先月下旬、僕はXiaomi Mi Watchというスマートウォッチを入手した。ランニングが板につくとやはり詳細なデータが欲しくなる。なによりGPS搭載のスマートウォッチであればスマートフォンを持たずして、実質身一つでランニングできるところが大きい。
他にも睡眠管理や通知の取得、音楽の再生コントロール、細かい部分ではタイマーや気象情報の確認など、これまでスマートフォンの各アプリに散っていた諸機能をスマートウォッチ単体に集約できるメリットもある。また、本製品はAmazon Alexaにも対応している。操作性やスクロールの追従性も引っかかり一つなく実に見事なもので、ここまでできて実売1万2000円程度なら悪い話ではない。
反面、本製品はGarminやApple Wacthとは異なり決済機能Suica、クレジットカードなどは利用できない。中国本土で販売されているバージョンはAlipayに対応しているとのことだが、いずれにせよ日本国内では宝の持ち腐れにしかならない。Androidユーザで決済機能を特に重視する人は倍額を積んで[Garmin Venu SQ](https://www.garmin.co.jp/minisite/vivo/venu-sq/)あたりを買うとよい。
本エントリはタイトルに「雑感」とあるように、レビューと言えるほど詳細な解説は行わず、あくまで個人の感想を記すのみとする。というのも、僕自身、本製品が初めてのスマートウォッチなので、他社製品との比較を通して各機能の正確性を十分に検証できないからだ。したがって、繰り返しになるが本エントリはあくまで「雑感」に留まる。
## 先に結論――どんな人が買うべきか
**・運動習慣のある人、またはこれから身につける予定の人**
主要機能の大半が健康管理に集約されるため、そこに関心のない人が本製品を使いこなすことはやはり難しい。先に述べたとおり本製品には決済機能がなく、Apple Watchのようなブランド性もないので好奇心だけではすぐに飽きてしまうだろう。
**・GPS機能を求める人**
スマートウォッチとスマートバンドの最大の違いはGPSの有無にある。一部にはGPSを搭載したスマートバンドも存在するが、基本的にはGPSの搭載で差をつけているメーカーが多い。単独でGPSを搭載している製品はスマートフォンとの連携なしにフィットネス時のトラッキングが行えるので、身軽にランニングしたい人にとっては特に欠かせない機能と言える。かくいう僕もGPS目当てでわざわざスマートウォッチを選んだ。これにピンと来ない人は最近発売されたMi Smart Band 6を検討するとよい。
**・時計感が欲しい人**
Mi Watchの外観はスマートウォッチにしては珍しく円形に作られており、これはテキストが見切れやすいことを考えるとあまり合理的な仕様ではないが、他方、そのおかげで従来の腕時計に近い見た目を保っている。バンドをもっと上品なものと交換すればフォーマルな場でもうまく馴染むかもしれない。
## 各機能について
**■心拍数**
![](/img/24.jpg)
心拍数は上の画像の形で表示される。Mi Watchの美点は商品価格帯としては安価にも関わらず、表示部のデザイン性がGarminや他のスポーツメーカーの製品よりも洗練されているところだ。本製品を選んだ理由の一つでもある。
![](/img/25.jpg)
また、30日間の平均心拍数も確認できる。この手の数値は蓄積されてこそ意味があるので手元で把握しておけるのは嬉しい。日頃のランニングのおかげか、僕の安静時心拍数はかなり低くなっていることが判る。もっと訓練を積んだシリアスランナーの中には40台まで下がる人もいるらしい。
**■エネルギー**
![](/img/26.jpg)
Xiaomi Wearというスマートフォンアプリを用いれば、このように大きい画面でデータを閲覧することもできる。この「エネルギー」は主に心拍数の変動から消費を検出する仕組みになっており、睡眠やリラックス状態を検知すると徐々に回復していく。さほどあてにはしていなかったが、喉風邪をこじらせて体調不良だった一昨日下記画像は明らかに減少が早かったので、思ったよりは根拠のある数値なのかもしれない。
![](/img/27.jpg)
エネルギー残量は寝る前に毎日確認しているが、50を大きく割り込んだのはこの日が初めてだった。たかが心拍数の変動といえど意外に侮れないものだ。
**■睡眠管理**
![](/img/28.jpg)
睡眠管理機能は上記画像の形で睡眠の区分ごとに分布を示してくれる。「深い眠り」の割合が多ければ良質な睡眠がとれたことになり、途中で覚醒する時間が多いほど点数は下がりやすい。もちろん全体の睡眠時間も重視される。昨日はたまたますごく眠かったのでいつもより1時間近くも長く寝てしまった。おかげでスコアがずいぶん高い。たぶん本当はこれくらい寝る方が健康的なのだろう。
**■ワークアウト**
![](/img/29.jpg)
最大の目玉であるワークアウト機能ではランニングはもちろん、他にも100種類以上のスポーツに対応している。ランニングモードでは地図上でのトラッキング記録をはじめとする多くのデータが計測できる。
![](/img/30.jpg)
一部のデータはスマートフォンのランニングアプリでも入手可能だが、やはり心拍数のデータが得られるのは大きい。この日は病みあがりだったせいか心拍数がいつもより高く、図らずも無酸素運動を行った判定になってしまっている。こうした種々のデータから自分なりのワークアウトプランを練りあげるのも一つの楽しみだ。
**追記5月12日**
データの精度を検証すべく、体調が万全な日に同じペースで走ってみたところ下記の結果が得られた。
![](/img/33.jpg)
最大・平均心拍ともに10以上下回り、安定した有酸素運動が行われた様子がうかがえる。これは実際の体感的にもデータと一致する。すばらしい。
**<追記ここまで>**
**■バッテリー持ち**
Apple WatchやWear OS搭載のスマートウォッチと異なり、サードパーティのアプリケーションを考慮しない仕様の本製品は、結果として非常にバッテリー持ちに優れている。いわばハイテクなデジタル時計に等しい。公称2週間の連続稼働時間はさすがに誇張が過ぎるものの、かなりマメな使い方をしても1週間くらいは十分に持つ。Apple Watchがわずか1日ちょっとで力尽きることを考えると「機能性」の一つに数えても差し支えはないだろう。
## 欠点について
**■やはり肌は荒れる**
![](/img/31.jpg)
これまではかなりの時計マニアでも運動時や睡眠時には時計を外していたのではないかと思う。しかしスマートウォッチは時計であると同時に活動量計でもあるため、むしろこういった時にこそ装着しておかなければならない。おのずと装着時間は一日のほぼ全てに及び、外すタイミングがあるとすれば入浴時くらいになる。必然的に装着部分の肌は汗や摩擦で蒸れて少なからず肌荒れを起こしてしまう。慣れるまではそこそこの痒みがあるので、敏感肌の人はちょっと辛い思いをするかもしれない。
**■高度計は現状まったくあてにならない**
明らかに平坦な場所を走っているのに数メートル単位で高度の誤差が出る。登山など数百メートル単位での登り降りが起こるワークアウトではそれでも参考値として利用できる余地はあるが、少なくともランニングでは今のところ有意な数字が表れているとは言いがたい。
**■Xiaomi Wearはやや未完成**
Xiaomi WearはMi Watchの販売と同時期にリリースされた新しい管理アプリケーションだ。既にMi Bandシリーズで実績を積んだMi Fitとは異なり、いくつかの点で機能不足だったり動作が不安定に陥る旨の報告が寄せられている。例えば、僕の場合は時々Alexaが機能しなくなる不具合に見舞われている。Mi FitからXiaomi Wearへのデータ移行も行えないため、Mi BandからMi Watchへのステップアップを狙っているユーザにとってはいささか懸念の色濃い状況が続いている。今後のアップデートに期待。
**■本体だけで音楽は聴けない**
本製品で可能なのは音楽の再生コントロールのみで再生そのものはスマートフォン側に依存する。ランニング中などに音楽を聴きたい人は残念ながらスマートフォンを同時に携行するほかない。
**■ディスプレイはだいぶ傷つきやすい**
本製品のディスプレイ表面に用いられているガラスはスマートフォンと同じゴリラガラスなので、傷つきやすさも同程度だと考えられる。事実、ベッドの高さからフローリングの床に落としただけで小傷が入ってしまった。悲しい。
より強度に優れたサファイアガラスを採用している競合他社製品も複数あることから、僕はMi Watchの後続製品もいずれは同様の措置が図られるものと期待している。なんせゴリラガラスのモース硬度がせいぜい5くらいしかないのに対し、サファイアガラスは9もある。これに傷をつけられる鉱物はダイアモンドモース硬度10しかない。たとえ多少価格が上がるとしても、ただでさえ至るところにぶつけやすい時計の表面をほぼ完全に守れるのなら多くの消費者はそちらを選ぶはずだ。
## その他
**■血中酸素飽和度SpO2測定は真に受けるべきではない**
本製品に限った話ではないので固有の欠点としては挙げないが、SpO2測定機能にはかなり疑問が残る。というのも、SpO2は心拍数や歩数計などとは異なり、若年者なら95%以下でも危険、90%を割り込むともはや重症者扱いという極めてシビアな指標なので、大まかな「参考値」ではほとんど役に立たないからだ。時期が時期だけに多くのメーカーがこぞって実装してはいるが、センサーの精度がより向上するまでは現状オモチャの域を出ない。
**■手元のAlexaは地味に便利**
HOMEボタンを長押しするとAlexaをショートカット的に起動できる。スマートスピーカーのように声で呼び出せないため微妙に使い勝手の悪さを感じるが、常に手元にあるぶん場所を選ばず小声でも認識させられる利点がある。僕は料理をしていて2個目のキッチンタイマーが欲しくなった時に使っている。
## 総評
![](/img/32.jpg)
総合的にはとても満足している。僕が最初にGPSスマートウォッチなるものを調べた時3年ほど前だったかと思うはいずれも3万円をゆうに越すガチガチのスポーツメーカーブランドの製品しかなかったが、今ではこれほどの製品がわずか1万円とちょっとで手に入るようになった。
医療機器ほどの精度は見込めないとはいえ、僕個人の肉体的なデータを可視化し、蓄積して閲覧できるというのは、あたかもRPGのステータス画面を得たみたいでなかなか面白い。今後もスマートウォッチは年を追うごとにますます高機能化や精度の向上が図られていくだろうから、当該分野の社会における存在意義も確実に増していくと思われる。
いやはや、気がつけばすっかりSF的な世の中だ。僕はスマートフォンの方も昨年からXiaomi製なので、僕のありとあらゆる個人情報はすっかり彼らの手の内に収まってしまったことになる。これが映画や小説ならそろそろなにか大きな問題が起きるはずだが、はてさてどうなるやら。

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@ -0,0 +1,116 @@
---
title: "archinstallを利用したArch Linuxの導入手順"
date: 2022-05-18T09:45:17+09:00
draft: false
tags: ["tech"]
---
本エントリでは**archinstall**を利用したArch Linuxの導入手順を説明する。今月1日にアップデートされたこの補助インストーラは以前と比べてインターフェイスが格段に簡便化されており、あとはちょっとした画像とテキストがあれば多くのユーザが導入に踏み出せると見込んだ次第である。したがってArch Linuxの魅力、美点については他のブログ等を参考にしてもらうこととして、ここではあくまで導入手順のみを記す。なお、[Arch LinuxのUSBインストールメディア](https://wiki.archlinux.jp/index.php/USB_%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2)は既に用意されているものとする。
## 導入手順Ⅰ(初回起動〜パーティションの設定)
![](/img/120.png)
USBインストールメディアをブートすると選択肢が表示される。一番上を選ぶ。
![](/img/121.png)
そうするといかにもコンピュータコンピュータした感じの文字列が上から下にぱらぱらと流れていくが、なんのことはない。ブートローダの設定によっては毎日のようにこれを目にすることになる。むしろ好きだと言う人もいる。かくいう僕もその一人だ。
![](/img/122.png)
ほどなくしてコンソール画面に到達する。Arch Linuxの導入にはインターネット接続が事実上必須なので、今時のラップトップユーザはまず無線ネットワークの設定を行わなければならない。指示通りに`iwctl`コマンドを入力し、以降は下記の手順に則る。有線接続のユーザは`ping`コマンドで疎通を確認しておく。
```bash
$ iwctl
[iwd]# wsc list #WiFiデバイスの名前を表示する。大抵は「wlan0」。
[iwd]# station wlan0 get-networks #アクセスポイントの一覧を表示する
[iwd]# station wlan0 connect アクセスポイントの名前 #アクセスポイントに接続する
Passphrase: **** #アクセスポイントのパスワードを入力する
[iwd]# station wlan0 show #「connected」の表示が確認できれば問題なし。
[iwd]# quit #退出する
$ ping -c 3 google.com #Googleにpingを飛ばして疎通を確認する
```
無事、インターネット接続設定が完了したところでいよいよ補助インストーラの発動に進む。さっそく`archinstall`コマンドを入力すると、非常によく整理された雰囲気のメインメニューが表示される。**これこそが改良された補助インストーラの姿である。** ただGUIベースでないだけで、本質的な操作体系はもはやWindowsやUbuntuのそれとさして変わらないことが判る。
![](/img/123.png)
手始めに上から3番目の**Select mirror region**に遷移してJapan現在の居住地域を選ぶ。`/`キーで候補を絞り込めるので、`/`キーを押してからj、a、などと入力すれば手早くJapanを選ぶことができる。また、チェックボックスはスペースキーで有効化、Enterキーで即時決定メインメニューに戻るされる。これらの操作は他のすべての項目と共通ゆえぜひ活用すべし。
![](/img/124.png)
例えば、日本語キーボードのユーザは上から2番目の**Select keyboard layout**の先にある一覧表をj、p、で絞り込み、予めキーボードレイアウトを確定させておくとインストール後の手間を一つ減らせる。
続いて、4番目の**Select harddrives**に遷移する。この項目で行う作業はインストール先ドライブの指定とパーティションの設定である。当然、コンピュータの構成によって表示内容が異なるため、よく文字列を読んで各々適切なものを選ばなければならない。ドライブを指定したらメインメニューに**Select disk layout**という項目が新設されるので、そこに移動する。
![](/img/125.png)
**Wipe all selected drives...** を選ぶと`/boot`とそれ以外に分けられた簡素なパーティション構成が自動設定される。特にこだわりがなければこれで構わない。次に表示されるファイルシステムの選択では採用例の多い`ext4`か`xfs`のどちらかを選ぶ。SSDには後者の方が適しているとの説もあるが明確に体感できるほどの差はない。
![](/img/126.png)
![](/img/127.png)
個別設定(**Select what to do with...**)を選んだ場合は以下の画像のような画面が表示される。本来はこの状態からパーティションを手動操作することになるが、導入に必須の作業ではないので本エントリでは説明を省く。一応、**Suggest partition layout**を選べばここでもパーティションの自動設定は行える。用事が済み次第、Escキーで元の画面に戻る。同様の理由でドライブの暗号化を行う**Set encryption password**の項目についても省略する。
![](/img/128.png)
## 導入手順Ⅱ(ホストネームの決定〜デスクトップ環境の選択)
**Select bootloader**および**Use swap**の項目はデフォルトのまま触らず、**Specify hostname**の項目に進む。ここでは名前の通りホストネームを自由に決める。どんな名前でも実用上の問題はないが、ローカルネットワーク越しに見られる名前であることは留意されたし。
![](/img/129.png)
**Set root password**から**Specify user account**までの項目に関してはほとんど説明不要と思われる。要は管理者パスワードと一般ユーザアカウントをそれぞれ作成するだけに過ぎない。ホストネームと同様にどんな名前でも差し支えはないが、こちらはホームディレクトリのパスにもなるのでできれば愛着の持てる名前が望ましい。
![](/img/130.png)
続く**Specify profile**はお待ちかねのデスクトップ環境選びである。遷移すると**desktop**、**minimal**、**server**、**xorg**の4項目が表示されるが、初心者は**desktop**を選ぶと失敗しにくい。GUI環境向けに推奨されているパッケージが一式すべて自動でインストールされるため、従来の***Arch Linux Install Battle***でしばしば起こりがちなGUIが立ち上がらない問題等に悩まされずに済むからだ。
![](/img/131.png)
![](/img/132.png)
とはいえ、デスクトップ環境のどれが初心者に最適かは一概に言い切れない。特に採用例が多いのは[Gnome](https://www.gnome.org)と[KDE](https://kde.org)だが、[Xfce](https://xfce.org/?lang=ja)や[MATE](https://mate-desktop.org)、[Cinnamon](https://cinnamon-spices.linuxmint.com)にも根強い人気がある。対して、awesome、bspwm、i3wm、swayは厳密にはデスクトップ環境ではなく、タイル型ウインドウマネージャと呼ばれる特殊な実装系ゆえ初心者には勧められない。これらはあらゆる操作をキーボードショートカットで完結させることに取り憑かれた異常者が好むとされる。どうしてもなにか一つ初心者へのおすすめを挙げよと言うのなら、僕はKDEを勧める。デフォルトの操作体系がWindowsに似ているので大半のユーザに馴染みやすく、それでいてカスタマイズ性もかなり高い。ちなみに僕自身はi3wmを使っている。
次にグラフィックドライバの選択に進む。使っているコンピュータの構成に適したものを選ぶ。ただし、nVidiaのオープンソースドライバは制約の多さからあまり推奨されない。nVidiaユーザは素直にプロプライエタリのドライバを導入する方が無難と言える。
![](/img/133.png)
## 導入手順Ⅲ(オーディオサーバの指定〜インストール完了)
メインメニューから**Select audio**に移動する。他のOSやディストリビューションで一般ユーザがオーディオサーバ周りを意識することは滅多にないが、現在のLinuxには新興のpipewireと伝統的なpulseaudioの2つが主流の選択肢として存在している。基本的にはデフォルト設定を維持してよい。
![](/img/134.png)
続いて**Select kernels**へ遷移する。デフォルトカーネルの他に安定性を重視したLTSカーネルや、応答性を最優先に設計されたZENカーネルなどが選べる。僕はメインマシンをZENカーネル、ラップトップマシンをデフォルトカーネルにしている。
![](/img/135.png)
**Additional packages to install**の項目では前もってインストールしたいパッケージを指定できる。どちらかと言えばパワーユーザ向けの項目だが、そうでない人もお気に入りのエディタとブラウザくらいは指定しておいて損はない。
![](/img/136.png)
次の**Configure network**は触らず**Select timezone**に進む。例の絞り込みを活用してJapan現在の居住地域を選ぶ。
![](/img/137.png)
**Set automatic time sync**はデフォルトで有効になっているのでこれも触らず**Additional repositories to enable**へと進む。**multilib**をEnterキーで有効化する。
**■2022年5月20日追記testingリポジトリを含めるとインストールに失敗する事例が報告されたので調査したところ、100%ではないものの再現性が確認できた。よって本項を有効化してはならない。**
![](/img/138.png)
以上で設定は完了となる。メインメニュー下部の**Install**にカーソルを合わせてEnterキーを押す。スクリプトの表示後、**Press Enter to continue.** の指示に従って再びEnterキーを押下すると、いよいよ実インストール作業が開始される。コンピュータの性能によりけりだが作業の完了には5〜10分程度の時間を要するため、この辺りでコーヒーブレイクを挟むのも手かもしれない。
![](/img/139.png)
作業完了後、インストール先ドライブに対するchrootを確立させるか問われる。手動でまだなにか設定したい箇所がある場合は同意する。`exit`コマンドでchrootから抜けるか、スクリプトが正常に終了するとコンソール画面に再起動を促す文面が表示される。最後に`reboot`コマンドで再起動を実行し、任意のデスクトップ画面が無事に映ればArch Linuxの導入は成功である。
![](/img/140.png)
## あわせて読ませたい
・[i3wmクイックスタートアップガイド](https://riq0h.jp/2023/02/25/211717/)
どういうわけかi3wmを導入する気になった異常者予備軍に捧げるテキスト。
・[i3wmの紹介およびトラブルシューティング](https://riq0h.jp/2021/04/10/091649/)
どういうわけかi3wmを導入してしまった異常者に捧げるQ&A形式のリリック。

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@ -0,0 +1,298 @@
---
title: "ddc.vimとBuiltin LSPでサブ武器を錬成した"
date: 2021-09-15T08:40:23+09:00
draft: false
tags: ["tech"]
---
![](/img/52.png)
以前は[coc.nvim](https://github.com/neoclide/coc.nvim)を用いて開発環境を構築していたが、オールインワン系プラグインならではの過剰性能に思うところがあったのでリプレイスを図ることにした。というのも、CoCが提供する機能のうち僕が絶対に必要としているのはせいぜい下記の3つ程度だったからだ。
・自動補完
・LSP
・セレクタ
したがって、上記の機能を満たす単機能のプラグインをそれぞれ見繕えば当座の目的は達成できたことになる。僕にとってのVimは小回りの利く**サブ武器**なので、さしあたり一通りの編集作業がこなせる形に持っていければよいものとした。
## ddc.vim
[ddc.vim](https://github.com/Shougo/ddc.vim)は自動補完を行うためのプラグインで、広く人気を集めたdeoplete.vimの後継にあたる。わずか数ヶ月前に公開されたニューフェイスながら既に実用可能なクオリティに達している。ただし仕様上、補完ソースやスニペットの類はすべて分離されているので、各要素の導入と併せてユーザ自らの手で設定しなければらない。
これは作者の言葉通り確かに初心者向けの作りではないものの、かえってそのミニマル志向が僕の使い方には合っていると感じた。さっそく以下から導入および設定例を示していくが、プラグイン管理に[dein.vim](https://github.com/Shougo/dein.vim)を用いている都合上、記述内容はそれに則る形をとる。
```toml
#dein_lazy.toml これらのプラグインはもっぱら遅延読み込みで運用する。
[[plugins]]
repo = 'Shougo/ddc.vim'
on_event = 'InsertEnter'
depends = ['denops.vim']
hook_source = '''
call ddc#custom#patch_global('ui', 'native')
call ddc#custom#patch_global('sources', ['nvim-lsp', 'around', 'vsnip'])
call ddc#custom#patch_global('sourceOptions', {
\ '_': {
\ 'matchers': ['matcher_head'],
\ 'sorters': ['sorter_rank'],
\ 'converters': ['converter_remove_overlap'],
\ },
\ 'around': {'mark': 'A'},
\ 'nvim-lsp': {
\ 'mark': 'L',
\ 'forceCompletionPattern': '\.\w*|:\w*|->\w*',
\ },
\ })
call ddc#custom#patch_global('sourceParams', {
\ 'around': {'maxSize': 500},
\ })
inoremap <silent><expr> <TAB>
\ ddc#map#pum_visible() ? '<C-n>' :
\ (col('.') <= 1 <Bar><Bar> getline('.')[col('.') - 2] =~# '\s') ?
\ '<TAB>' : ddc#map#manual_complete()
inoremap <expr><S-TAB> ddc#map#pum_visible() ? '<C-p>' : '<C-h>'
call ddc#enable()
'''
```
以上はddc.vimの設定として記述しているが、自動補完を働かせるには下記の補完ソースプラグインを別途要する。
```toml
#dein_lazy.toml
[[plugins]]
repo = 'Shougo/ddc-ui-native'
on_source = 'ddc.vim'
[[plugins]]
repo = 'Shougo/ddc-around'
on_source = 'ddc.vim'
[[plugins]]
repo = 'Shougo/ddc-matcher_head'
on_source = 'ddc.vim'
[[plugins]]
repo = 'Shougo/ddc-sorter_rank'
on_source = 'ddc.vim'
[[plugins]]
repo = 'Shougo/ddc-converter_remove_overlap'
on_source = 'ddc.vim'
[[plugins]]
repo = 'Shougo/ddc-nvim-lsp'
on_source = 'ddc.vim'
[[plugins]]
repo = 'hrsh7th/vim-vsnip'
on_event = 'InsertEnter'
depends = ['vim-vsnip-integ', 'friendly-snippets']
hook_add = '''
imap <expr> <C-j> vsnip#expandable() ? '<Plug>(vsnip-expand)' : '<C-j>'
smap <expr> <C-j> vsnip#expandable() ? '<Plug>(vsnip-expand)' : '<C-j>'
imap <expr> <C-f> vsnip#jumpable(1) ? '<Plug>(vsnip-jump-next)' : '<C-f>'
smap <expr> <C-f> vsnip#jumpable(1) ? '<Plug>(vsnip-jump-next)' : '<C-f>'
imap <expr> <C-b> vsnip#jumpable(-1) ? '<Plug>(vsnip-jump-prev)' : '<C-b>'
smap <expr> <C-b> vsnip#jumpable(-1) ? '<Plug>(vsnip-jump-prev)' : '<C-b>'
let g:vsnip_filetypes = {}
'''
[[plugins]]
repo = 'hrsh7th/vim-vsnip-integ'
[[plugins]]
repo = 'rafamadriz/friendly-snippets'
[[plugins]]
repo = 'vim-denops/denops.vim'
```
LSPを利用しないのであれば、この段階でとりあえずddc.vimを動作させることができる。実際に使ってみて、明示的に設定していない動作は一切行わない無骨さにかなりの好感を持った。後述のLSPに関しては入れ替えの余地もまだ残されているが、少なくとも自動補完プラグインはこのまま定住するつもりでいる。
**■2022年10月27日追記**
ddc.vimの再設計によりインターフェイス部分が分離されたので、すべてのユーザはnative UIか任意のUIプラグインを導入しなければいけなくなった。上記の設定例ではさしあたり前者を導入する形で記述している。
ざっくばらんに各ソースの機能を説明すると、[ddc-around](https://github.com/Shougo/ddc-around)はカーソル周辺の単語を検出するもので[ddc-matcher_head](https://github.com/Shougo/ddc-matcher_head)と[ddc-sorter_rank](https://github.com/Shougo/ddc-sorter_rank)が入力内容に応じて補完候補を決めるフィルタとして働いている。しかし、このままでは同じ単語を重複して補完してしまう恐れがあるため[ddc-converter_remove_overlap](https://github.com/Shougo/ddc-converter_remove_overlap)でそれを抑制している。
[ddc-nvim-lsp](https://github.com/Shougo/ddc-nvim-lsp)は言わずもがな、後述のNeovim Builtin LSPが提供する構文を引っ張ってくるソースだ。[vim-vsnip](https://github.com/hrsh7th/vim-vsnip)と以降の関連プラグイン群は補完を通じて多種多様なスニペットを提供してくれる。最後の[denops.vim](https://github.com/vim-denops/denops.vim)はddc.vimの動作に必須。
他にも多くのVimmerの手によって様々なソースが日々生み出されているが、誰にとっても入れておいて邪魔にならないソースは概ねこんなところだろう。
## Neovim Builtin LSP
Builtin LSPとは名前の通り、Neovimの本体に組み込まれたLSPである。しかし動作させるには結局あれこれプラグインを導入したり設定しなければならないので、coc.nvimや[vim-lsp](https://github.com/vim-lsp/vim-lsp)と比べると導入手順はむしろ面倒な部類に入る。Builtin LSPにもvim-lspにおける[vim-lsp-settings](https://github.com/mattn/vim-lsp-settings)のようなプラグイン([nvim-lspinstall](https://github.com/kabouzeid/nvim-lspinstall)が存在するが、これもポン付けで全部よしなにやってくれるほど良心的ではない。肝心のLSPとしての品質もいささか荒削りな印象を受けた。
つまり現状、Neovimをメインでバリバリ使う人にとってわざわざ乗り換えるメリットは特にないと思われる。一応内蔵されているLuaで書かれているということで実行速度に優れる利点はあるが、体感的にそこまで明瞭な差は感じられなかった。いずれは公式の強みを活かして競合を追い越す可能性も無きしもあらずとはいえ、今時分は個人の趣味性の範疇に留まると言わざるを得ない。僕がBuiltin LSPに乗り換えたのも将来性に期待して贔屓している部分が大きい。
~~**■12月15日追記**~~
~~前述のnvim-lspinstallはいつの間にか開発が終了していたので[nvim-lsp-installer](https://github.com/williamboman/nvim-lsp-installer)に乗り換えた。コマンドに目立った差異はほとんど見られないが、Language Serverのインストール画面が多少グラフィカルになっていたり、バージョンを指定する機能(例:`:LspInstall rust_analyzer@nightly`)が追加されている。また、かつては対応が疎かだったWindows環境もフルサポートしているなど、およそ上位互換品と見て間違いないと考えられる。~~
**■2022年10月13日追記**
なんとnvim-lsp-installerの開発も終了してしまった。現在は[mason.nvim](https://github.com/williamboman/mason.nvim)が後継として開発されている。このプラグインの使用には[mason-lspconfig.nvim](https://github.com/williamboman/mason-lspconfig.nvim)も実質的に必要なので注意されたし。本プラグインは公式で遅延読み込みが非推奨となっているゆえ、関連設定はすべてinit.vimに直接書き込んでいる。
![](/img/78.png)
```vim
#init.vim
" nvim-lspconfig+mason.nvim+mason-lspconfig
lua << EOF
local on_attach = function(client, bufnr)
client.server_capabilities.documentFormattingProvider = false
local set = vim.keymap.set
set('n', 'gd', '<cmd>lua vim.lsp.buf.definition()<CR>')
set('n', 'K', '<cmd>lua vim.lsp.buf.hover()<CR>')
set('n', 'gi', '<cmd>lua vim.lsp.buf.implementation()<CR>')
set('n', 'gs', '<cmd>lua vim.lsp.buf.signature_help()<CR>')
set('n', 'gn', '<cmd>lua vim.lsp.buf.rename()<CR>')
set('n', 'ga', '<cmd>lua vim.lsp.buf.code_action()<CR>')
set('n', 'gr', '<cmd>lua vim.lsp.buf.references()<CR>')
set('n', 'gx', '<cmd>lua vim.lsp.diagnostic.show_line_diagnostics()<CR>')
set('n', 'g[', '<cmd>lua vim.lsp.diagnostic.goto_prev()<CR>')
set('n', 'g]', '<cmd>lua vim.lsp.diagnostic.goto_next()<CR>')
set('n', 'gf', '<cmd>lua vim.lsp.buf.formatting()<CR>')
end
vim.lsp.handlers["textDocument/publishDiagnostics"] = vim.lsp.with(
vim.lsp.diagnostic.on_publish_diagnostics, { virtual_text = false })
require("mason").setup()
require("mason-lspconfig").setup()
require("mason-lspconfig").setup_handlers {
function(server_name) -- default handler (optional)
require("lspconfig")[server_name].setup {
on_attach = on_attach,
}
end
}
EOF
```
```toml
#dein.toml
[[plugins]]
repo = 'neovim/nvim-lspconfig'
[[plugins]]
repo = 'williamboman/mason.nvim'
[[plugins]]
repo = 'williamboman/mason-lspconfig.nvim'
```
~~導入後、対応ファイルを開くとLSPも連動して立ち上がる。プレビュープラグインの[ddc-nvim-lsp-doc](https://github.com/matsui54/ddc-nvim-lsp-doc)がIDEよろしく補完候補の詳細情報を提供してくれるのでかなり心強い。Language Serverごとの細かい設定はまだ定まっていないので本エントリでは割愛させていただく。LSPのインストール情報は`:LspInfo`で確認できる。~~
**■2022年1月3日追記**
前述のddc-nvim-lsp-docは更新が停止され、新規プラグインの[denops-signature_help](https://github.com/matsui54/denops-signature_help)と[denops-popup-preview](https://github.com/matsui54/denops-popup-preview.vim)に置き換えられた。この変更に倣って下記の設定例も既に書き換えている。実装手法は異なるが機能面にほとんど差はないためさっさと乗り換えた方がよい。
![](/img/53.gif)
```toml
#dein_lazy.toml
[[plugins]]
repo = 'matsui54/denops-signature_help'
on_source = 'ddc.vim'
hook_source = '''
call signature_help#enable()
'''
[[plugins]]
repo = 'matsui54/denops-popup-preview.vim'
on_source = 'ddc.vim'
hook_source = '''
call popup_preview#enable()
'''
```
## セレクタ
セレクタとはファイルや文字列の絞り込みを行うためのインターフェイスを提供するプラグインだ。中でも[fzf.vim](https://github.com/junegunn/fzf.vim)は特に高速かつ多機能なことで知られている。Yuki Yano氏が開発した[fzf-preview.vim](https://github.com/yuki-yano/fzf-preview.vim)というさらに機能面に秀でたオールインワン版もあるが、あくまで僕はサブ武器的文脈に従ってfzf.vimの調整に留めている。
```toml
#dein.toml
[[plugins]]
repo = 'junegunn/fzf'
merged = 0
build = '''
./install --all
'''
[[plugins]]
repo = 'junegunn/fzf.vim'
hook_add = '''
nnoremap <silent> <Leader>. :<C-u>FZFFileList<CR>
nnoremap <silent> <Leader>, :<C-u>FZFMru<CR>
nnoremap <silent> <Leader>l :<C-u>Lines<CR>
nnoremap <silent> <Leader>b :<C-u>Buffers<CR>
nnoremap <silent> <Leader>k :<C-u>Rg<CR>
command! FZFFileList call fzf#run({
\ 'source': 'rg --files --hidden',
\ 'sink': 'e',
\ 'options': '-m --border=none',
\ 'down': '20%'})
command! FZFMru call fzf#run({
\ 'source': v:oldfiles,
\ 'sink': 'e',
\ 'options': '-m +s --border=none',
\ 'down': '20%'})
let g:fzf_layout = {'up':'~90%', 'window': { 'width': 0.8, 'height': 0.8,'yoffset':0.5,'xoffset': 0.5, 'border': 'none' } }
augroup vimrc_fzf
autocmd!
autocmd FileType fzf tnoremap <silent> <buffer> <Esc> <C-g>
autocmd FileType fzf set laststatus=0 noshowmode noruler
\| autocmd BufLeave <buffer> set laststatus=2 noshowmode ruler
augroup END
function! RipgrepFzf(query, fullscreen)
let command_fmt = 'rg --column --hiddden --line-number --no-heading --color=always --smart-case %s || true'
let initial_command = printf(command_fmt, shellescape(a:query))
let reload_command = printf(command_fmt, '{q}')
let spec = {'options': ['--phony', '--query', a:query, '--bind', 'change:reload:'.reload_command]}
call fzf#vim#grep(initial_command, 1, fzf#vim#with_preview(spec), a:fullscreen)
endfunction
command! -nargs=* -bang RG call RipgrepFzf(<q-args>, <bang>0)
'''
```
![](/img/54.png)
そうすると、こんな感じのセレクタを下から生やせる。たとえ候補が30万件あっても重さを一切知覚させないのは頼もしい。当初はTab補完が欲しいと考えもしたがそこはやはり天下のfzf。期待以上に雑なタイプで目当てのファイルを引っかけられるため特に必要なかった。よって、このケースでのTabキーは複数選択にあてがわれている。なお、LinesとRgコマンドはプレビューの必要性からfloating windowで表示させている。
極めつけはBuffersソースの存在だ。以前の僕はタブで管理をやりくりしようと考えていたが、バッファを明瞭に一覧化できるのならあえて依存せずともよい。表示したい箇所のテキストが予め分かっていればLinesソースを駆使して瞬時にジャンプすることもできる。
![](/img/79.gif)
## トラブルシューティング(順次追記)
**Q1.** 遅延読み込みさせているプラグインが動かない。
**A1.** init.vimや.vimrcに遅延読み込みの記述をしていない可能性がある。
```vim
#init.vim
" .tomlファイルの場所
let s:rc_dir = expand('~/.config/nvim/')
if !isdirectory(s:rc_dir)
call mkdir(s:rc_dir, 'p')
endif
let s:toml = s:rc_dir . '/dein.toml'
let s:lazy_toml = s:rc_dir . '/dein_lazy.toml'
" .tomlファイルを読み込む
call dein#load_toml(s:toml, {'lazy': 0})
call dein#load_toml(s:lazy_toml, {'lazy': 1})
```
上記の例の通り`lazy`が1に設定されていないtomlファイルは遅延読み込みを行わない。また、遅延読み込みが無効のtomlファイルで`hook_source`のようなオプションを記述しても、プラグインは起動しない。
**Q2.** Language Serverの導入・削除方法が分からない。
**A2.** 基本的には`:MasonInstall LSの名称`でインストールされる。たとえば`:MasonInstall gopls`でGoのLanguage Serverが入る。逆に削除したい時は`MasonUninstall LSの名称`で行える。`MasonUninstallAll`ですべてのLSを一括して削除することもできる。
**Q3.** tomlファイルにLuaの記述を加えたらむっちゃ怒られた。
**A3.** ほとんどの場合はEOFのインデントをミスっている。余計なスペースを削って行頭に置くと直る。
## おわりに
本件に伴ってプラグインの整理や管理方法の改善を実施した結果、時には300ms近くかかっていたNeovimの起動速度が100ms程度まで減少した。人間の単純反応速度に近い値なのでなかなか悪くないと思う。あえてオールインワン系の仕組みから一旦距離をとってみると、自分が真に必要としている機能が判ってくる。この考え方はVimのみならず、VSCodeやその他ツールを設定する上でもなにかと役に立つ。
ひとまずサブ武器としてのVimを錬成したところで、以降はより実戦に適した形状に刃先を尖らせていくことになる。だが、サブ武器だからといって戦闘能力が低いとは限らない。世界観によってはむしろ短剣類の方がハマれば高威力だったりする。僕にとってのVimもそのようなものだと信じている。
## 参考文献
[ddc.vimのlsp機能を強くする with nvim-lsp](https://zenn.dev/matsui54/articles/2021-09-03-ddc-lsp)
[Neovim builtin LSP設定入門](https://zenn.dev/nazo6/articles/c2f16b07798bab)

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@ -0,0 +1,219 @@
---
title: "i3wmの紹介およびトラブルシューティング"
date: 2021-04-10T09:16:49+09:00
draft: false
tags: ["tech"]
---
本エントリでは僕がi3wmに移行してハマった箇所を簡潔なQ&A形式で記していく。必要に応じて随時追記が行われる。このトラブルシューティング集は備忘録を兼ねているため、いつもの冗長な文章表現は極限まで省略される。
i3wmに移行した理由はもともと周囲でよく話を聞いていたというのもあるが、コロナ禍により使い道を失っていたラップトップマシンを久しぶりに開き、予想以上にトラックパッドの操作性が悪いと気づかされたことに端緒を発する。僕のラップトップはX1 Carbonなのでトラックパッドのハードウェア的な分解能が特別に悪いわけではない。思えば、Macbookを使っていた時もトラックパッド操作はそんなに好きではなかった。
つまり、僕がラップトップを快適に使用するためには、キーボードで大半の操作を完結させられる特別な仕組みが求められた。言わずもがな、すぐにi3wmのことが頭をよぎった。i3wmはKDEやGnomeのようなデスクトップ環境を要せず動作するウインドウマネージャで、主な設定をテキストファイルで行う敷居の高さと引き換えにキーボードでの操作性が極限まで高められている。
通常、アプリケーションの起動にはデスクトップかドックに配置されたアイコンまでマウスを持っていき、ダブルクリックする形をとることが一般的だが、i3wm単体の環境では任意のショートカットキーか、もしくはコマンドラインランチャが用いられる。たとえば僕はmodキーとMキーを同時押しするとファイラが開くように設定している。
同様に、ウインドウのリサイズや位置の変更、他のワークスペースへの遷移などもすべてキーボード操作で行う。ウインドウは基本的に重ならず、自動的に並んで配置されることから[タイル型ウインドウマネージャ](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%AB%E5%9E%8B%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A6%E3%83%9E%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A3)と呼称されている。ディスプレイ領域が無駄にならないので一定の閲覧性を維持できる。以下は僕のデスクトップ画面。
![](/img/18.gif)
キーボード操作は慣れるまでは多少の苦痛を伴うが、一度ものにした際にもたらされる作業効率性は通常の環境の比ではない。移行してから日が浅い僕も既に実家のような安心感を得ている。
前置きはこの辺にして、さっそくトラブルシューティング集に移る。なお、[ArchWiki](https://wiki.archlinux.jp/index.php/I3)で既出の内容は割愛する場合がある。
## トラブルシューティング集
**Q1.i3wmをインストールしても起動しない、画面が正常に映らない。**
A1.Arch Linuxの初期状態から`xorg-server`、`xorg-init`、`i3-wm`、`lightdm`およびlightdmのログインスクリーンを表示させるgreeter、各々のマシンに適したビデオドライバをすべて導入していても画面が映らない場合は、最終手段として`plasma-meta`などのデスクトップ環境を導入して、一旦ログインしてからi3wmに切り替え、後でデスクトップ環境を削除する形をとるとうまくいくことがある。恐らくなんらかのパッケージが不足していたせいだと思われるが、特定が困難だったり面倒くさい時はこういう荒業もなしではない。
**Q2.ステータスバーに色々な情報を表示させたいが面倒ごとは避けたい。**
A2.bumblebee-statusを導入する。i3blocksやPolybarと異なりi3wmのconfig内で設定を完結させられ、簡単にPowerlineライクな表示が行える。下記の例では左から順にSpotifyの楽曲情報、接続しているWi-FiのSSID、音量、デスクトップ通知のトグルボタンおよび日付が、nord-powerlineというテーマに基づいて表示される。ただしこれでカッコよくなるのはstatusだけなのでワークスペース領域を含む左半分も仕上げたいなら別途作り込もう。
```bash
status_command /usr/bin/bumblebee-status -m spotify nic pasink pasource dunst datetime \
-p spotify.layout="spotify.song" nic.format="{ssid}" datetime.format="%m/%d %H:%M" -t nord-powerline
```
**Q3.壁紙を設定したい。**
A3.fehを導入する。fehそのものは単純な画像ビューワだが、i3wmのconfigファイルに`exec --no-startup-id "feh --bg-scale ~/Wallpaper.png"`と記述すると、fehを用いた壁紙の設定が行える。この例ではホームディレクトリ直下のWallpaper.pngを参照している。
**Q4.アプリケーションを自動起動させたい。**
A4.i3wmのconfigに`exec --no-startup-id hoge`の形でアプリケーションを指定する。以下に続く質問に登場するアプリケーション群は基本的にこれで自動起動させておく必要がある。
**Q5.タイル型ではなく自由に動かせるようにアプリケーションを起動させたい。**
A5.i3wmのconfigに`for_window [class="hoge"] floating enable`の形でアプリケーションを記述する。起動する際に大きさも指定したい場合は`floating enable, resize set 600 400`などと書く。指定するアプリケーションのclass名はターミナルエミュレータで`xprop | grep WM_CLASS`を実行して対象のアプリケーションをマウスでクリックすると取得できる。
**Q6.ウインドウを透過させたり、影をつけたり、フェードさせたい。**
A6.Picomを導入する。インストール後、`picom --config .config/picom.conf`でconfigファイルの雛形を召喚し、`picom -b`で起動すると自動的に初期設定が適用される。単なる装飾以外にも画面描写の整合性を保つための機能が含まれているので、基本的には導入しておくことが望ましい。
**Q7.デスクトップ通知を表示させたい。**
A7.Dunstを導入する。例によって`cp /usr/share/dunst/dunstrc ~/.config/dunst/dunstrc`で雛形を持ってくることができる。Picomやbumblebee-statusとは異なり、初期設定の表示はだいぶ具合が悪いので自身の理想に合わせてconfigファイルを再構築すべし。僕はここでかなり時間を吸いとられた。より平易な選択肢として`xfce4-notifyd`も挙げられる。
**Q8.ファイラがほしい。**
A8.Vimに習熟していて同様の操作体系を希望するならRangerはとても有力な選択肢になる。コンソールベースでVimライクな操作が行えるファイラなのでウインドウマネージャとの相性に優れている。しかしあくまでGUIのファイラを、ということであれば個人的にはThunarを勧める。GnomeのNautilusやKDEのDolphinほど依存パッケージを要求せず、必要十分の機能を提供してくれる。ゴミ箱やメディアのマウント機能が欲しい人は`gvfs`パッケージを導入すること。また、NTFSファイルシステムの認識には`ntfs-3g`パッケージ、コンテキストメニューで圧縮・解凍を行うには`thunar-archive-plugin`パッケージがそれぞれ要求される。
**Q9.GUIアプリケーションのUIやアイコン、カーソルをカッコよくしたい。**
A9.これをテキストで行うのは苦行なのでGUIアプリケーションの導入を推奨する。`lxappearance`ではGTK、`qt5ct`ではQt5のテーマを変更できる。Qt4の場合は`qt4config-qt4`を使う。すべてのツールキットでリリースされているテーマを用いれば統一感を保った画面作りが可能となる。Qt5は適用前にホームディレクトリ直下に.profile.xprofileではないファイルを作成し、下記のコードを記述する必要がある。
```bash
[ "$XDG_CURRENT_DESKTOP" = "KDE" ] || [ "$XDG_CURRENT_DESKTOP" = "GNOME" ] || export QT_QPA_PLATFORMTHEME="qt5ct"
```
テーマファイルは[ここ](https://www.gnome-look.org/browse/cat/135/order/latest/)で手に入れられる。僕はQogir、Breezeあたりが好み。
**Q10.電源管理(ディスプレイの消灯やサスペンドまでの時間設定など)がしたい。**
A10.これもGUIアプリケーションの導入が手っ取り早い。`xfce4-power-manager`が推奨される。設定方法は見れば解ると思う。
**Q11.キーリピートの速度が遅すぎる。**
A11.i3wmのconfigに`exec --no-startup-id "xset r rate 200 30"`と記述する。数字の部分は好みに応じて変更されたし。これは自動起動オプションを用いてコンソールコマンドを実行させている。
**Q12.解像度やリフレッシュレートを指定したい。**
A12.上記と同様に`exec --no-startup-id "xrandr --output DVI-D-0 --mode 1920x1080 --rate 144.00"`といった具合に記述する。事前に手持ちのディスプレイに適した値を確認しておくこと。このやり方は他の手法と比べて確実性に優るが、i3wmの読み込みとともにxrandrコマンドが走るため画面が一瞬ブラックアウトする。
**Q13.ロックスクリーンがほしい。**
A13.lightdmを導入しているならlight-lockerが推奨される。lightdmで設定したgreeterを自動的に利用できる。おなじみのi3wmのconfigに`exec --no-startup-id light-locker --lock-on-suspend`と記述する。後半部分を忘れると起動直後に画面ロックが発動するので注意。
**Q14.シャットダウンメニューがほしい。**
A14.i3wmのconfig内で作る。僕はコマンド形式に仕立てた。
```bash
# シャットダウンシークエンス
bindsym $mod+Shift+e mode "SHUTDOWN SEQUENCE"
mode "SHUTDOWN SEQUENCE"{
bindsym p exec "systemctl poweroff"
bindsym r exec "systemctl reboot"
bindsym Return mode "default"
bindsym Escape mode "default"
bindsym $mod+Shift+e mode "default"
}
```
色々なブログを読んだ限りではi3-negbarを使ったやり方が一般的のようだが、あれは見た目のよろしくないナビゲーションバーが出現するので僕はあまり好きではない。
**Q15.ラップトップマシンの特殊キーで音量や輝度を調節したい。**
A15.下記のコードのように記述する。デバイス名は環境によって異なる。コンソールで途中まで打ったらシェルがよしなに補完してくれるかもしれない。
```bash
# 音量調整
bindsym XF86AudioRaiseVolume exec pactl set-sink-volume @DEFAULT_SINK@ +5%
bindsym XF86AudioLowerVolume exec pactl set-sink-volume @DEFAULT_SINK@ -5%
bindsym XF86AudioMute exec pactl set-sink-mute alsa_output.pci-0000_00_1f.3.analog-stereo toggle
bindsym XF86AudioMicMute exec pactl set-source-mute alsa_input.pci-0000_00_1f.3.analog-stereo toggle
# 輝度調整
bindsym XF86MonBrightnessUp exec xbacklight -inc 10
bindsym XF86MonBrightnessDown exec xbacklight -dec 10
```
xbacklightの代替プログラムとして[light](https://wiki.archlinux.jp/index.php/%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%88#light)というパッケージもある。これを使う場合は以下の要領でユーザをvideoグループに追加する。
```bash
$ sudo gpasswd -a $USER video
```
この時のconfigの記述は次の通りとなる。
```bash
bindsym XF86MonBrightnessUp exec light -A 10
bindsym XF86MonBrightnessDown exec light -U 10
```
**Q16.ウインドウがぎっちり敷き詰められていると圧迫感がきつい。**
A16.下記の形式でウインドウやディスプレイの端との間に隙間を作ることができる。
```bash
gaps top 2
gaps bottom 2
gaps right 2
gaps left 2
gaps inner 2
```
**Q17.アプリケーションを起動させると固まることがある。**
A17.[スワップファイル](https://wiki.archlinux.jp/index.php/%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%83%83%E3%83%97)を作る。またはIntel Graphicsを使用しているユーザで`xf86-video-intel`をインストールしている人は削除する。このビデオドライバは現在では非推奨となっている。**ただし、前述のxbacklightを利用した輝度調整が行えなくなるので注意。**
**Q18.アプリケーションを特定のワークスペースで起動するようにしたい。**
A18.assignオプションを使う。以下の例ではDiscordを3番目、Slackを4番目のワークスペースで起動するように指定している。自動起動と組み合わせればスタートアップと同時に理想の作業環境を構築することができる。
```bash
# ワークスペース指定一覧
assign [class="discord"] workspace 3
assign [class="Slack"] workspace 4
```
**Q19.トラックパッドがまともに機能しない。**
A19.`libinput-gestures`がインストールされていなければまず導入し、次にユーザをinputグループに加える。
```bash
$ sudo gpasswd -a $USER input
```
スタンダードな設定でよければ`/etc/libinput-gestures.conf`にある雛形を`~/.config/libinput-gestures.conf`に持ってくるだけでキーバインドが完成する。当然だが、i3のconfigでlibinput-gesturesを自動起動するように設定しておくことを忘れないように。
最後に`90-touchpad.conf`を下記の形で作成して`/etc/X11/xorg.conf.d/90-touchpad.conf`に保存すればだいたい想定通りの挙動が得られるはずだ。
```bash
Section "InputClass"
Identifier "touchpad"
MatchIsTouchpad "on"
Driver "libinput"
Option "Tapping" "on"
Option "ScrollMethod" "twofinger"
Option "AccelProfile" "adaptive"
EndSection
```
この設定ではタップによるクリックと複数の指でのジェスチャ操作が有効化されている。
**Q20.画面のスクロールや動画再生でティアリング(ちらつき)が発生する。**
A20.Picomを導入し、バックエンドをOpenGLに変更する。具体的には`~/.config/picom.conf`の`backend = "xrender";`を`backend = "glx";`に書き換える。僕の手持ちのマシンではnVidia、Intel Graphicsのいずれにおいても本設定でティアリングの症状が解消された。
**Q21.デュアルディスプレイの位置関係を設定したい。**
A21.ARandRを導入する。GUIアプリケーションなので直感的にデュアルディスプレイの設定が行える。
**Q22.フォントやカーソルが小さすぎる。**
A22.HiDPIディスプレイを使用している場合、`.Xresources`ファイルを作成して以下のようにDPIを指定する。適切なDPIの値は解像度やディスプレイサイズ、個人の好みに応じて変化する。
```bash
!! Set DPI
Xft.dpi: 140
Xft.auohint: 0
Xft.lcdfilter: lcddefault
Xft.hintstyle: hintfull
Xft.antialias: 1
Xft.rgba: rgb
Xcursor.size: 32
```
ただし、これで正しくスケールされるのはQTアプリケーションのみでGTKは対象外となる。この問題に対する完全な解決方法は現状存在しないため、HiDPIディスプレイのユーザは極力QT製を使うことが望ましい。
他にも思いつき次第、随時追記していく予定だが細かい部分については[僕のdotfiles](https://code.mystech.ink/riq0h/dotfiles)を参考にしてくれても構わない。手が空いていたら[Twitter](https://twitter.com/riq0h)での質問にも答える。

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@ -0,0 +1,386 @@
---
title: "i3wmクイックスタートアップガイド"
date: 2023-02-25T21:17:17+09:00
draft: false
tags: ['tech']
---
![](/img/184.png)
本エントリはタイル型ウインドウマネージャのi3wmを可及的速やかに動作させるためのテキストである。以下の条件に当てはまるユーザを想定読者層とする。
・Linuxの基本的な操作方法を理解している。
・`i3-wm`パッケージの導入が完了している。
・Arch Linuxかそれに類するディストリビューションを使用している。
Arch Linuxの導入については[この記事](https://riq0h.jp/2022/05/18/094517/)を、i3wm設定後のトラブルシューティングについては[この記事](https://riq0h.jp/2021/04/10/091649/)をそれぞれ参考にされたし。なお、本エントリではSwayとWaylandに関する説明は行わない。
## 初期設定
通常、i3wmを導入した状態で初回起動を行うとウェルカムメッセージと共にmodキーの設定を促される。modキーを決めると`~/.config/i3/`に`config`ファイルが生成され、原則的にはこれを基に設定ファイルを構築する形となる。**しかし、本エントリではこの手順は踏まず、i3wm移行前にあらかじめ設定ファイルを作っておく。** すなわち、`~/.config/i3`フォルダと`config`ファイル(ドットや拡張子は付かない)を手動で作成する。
というのも、ろくに整備されていない環境に放り込まれた状態では情報収集や編集作業に翳りが生じる恐れが否めないからだ。実際、本当になにも設定していないとブラウザの起動さえおぼつかない。したがって、繰り返すが前もって設定ファイルを構築することを強く勧めたい。
## アプリケーションの起動と終了
さっそく`config`ファイルに設定を列挙していく。まず記すべきは前述したmodキーである。modキーとはi3wmにおいてショートカットの始動を司るキーで、`$mod+e`のような形式でキーバインドを定義する際に用いる。デフォルトでは`Mod1`Altキーが採用されているが、Altキーは他のアプリケーションと衝突しやすいので、`Mod4`Windowsキー、Commandキーの方が好ましい。
```bash
set $mod Mod4
```
続いてアプリケーションやコマンドの起動ショートカットを決める。おそらくもっとも書く機会が多い構文だと思われる。一例としてターミナルアプリケーションの例を挙げる。
```bash
bindsym $mod+Return exec --no-startup-id alacritty
```
このショートカットの構文は`bindsym`から始まり、次に任意のキーバインド、アプリケーションやコマンドの起動では`exec --no-startup-id`が加わり、末尾でアプリケーションを指定する。さしあたりターミナル、ブラウザ、ファイラを設定して残りは移行後でも構わない。指定に必要なクラス名は`xprop | grep WM_CLASS`で求められる。実行後、アプリケーションにマウスカーソルを重ねるとターミナル上にクラス名が表示される。
反対に、アプリケーションを終了するショートカットは以下の通りに定める。これでひとまずアプリケーションの起動と終了が行えるようになった。
```bash
bindsym $mod+q kill
```
## 自動起動
システムの起動時にアプリケーションを自動で起動させたい場合は、キーバインドなしで`exec`オプションを書いて直に指定する。コマンドやスクリプトを実行させることもできる。たとえば`feh`は本来は画像ビューアだが、ここでは壁紙を表示させる役割を与えている。
```bash
exec --no-startup-id vivaldi-stable
exec --no-startup-id "feh --no-fehbg --bg-scale ~/Wallpaper.png"
exec --no-startup-id "xset r rate 200 30"
exec --no-startup-id fcitx5
```
## ショートカットの拡張
ショートカットを設定していくと次第に候補となるキーバインドが足りなくなってくる。そこで、ショートカットを二段構えにして実質的にキーバインドを増やす手法が役に立つ。
```bash
bindsym $mod+c mode "CMD"
mode "CMD"{
bindsym v exec vivaldi-stable; mode "default"
bindsym f exec "flameshot gui" mode "default"
bindsym Return mode "default"
bindsym Escape mode "default"
bindsym $mod+c mode "default"
}
```
上記の例では`$mod+c`で一旦"CMD"モードに入り(この名称は自由に決められる)そこから追加のキーを押してアプリケーションが起動する構成になっている。`$mod+c`だけでは一つのショートカットしか設定できないが、このように工夫すると`$mod+c`の配下に複数のショートカットを定義できる。
注意点はショートカットをモード化した際に、そのモードを解除する挙動を定義しておかないといつまでもモード化が維持されてしまうところだ。そうすると他のショートカットを受けつけなくなるため、上記の例にしたがってアプリケーションの起動直後か、任意のキーバインドで通常モードに戻る設定`mode "default"`を書き加えておかなければならない。
## ウインドウの操作
i3wmはタイル型ウインドウマネージャであるからにして、ウインドウの操作もショートカットで完結させることが前提となる。手始めにウインドウフォーカスの設定例を記す。本項ではVimライクなキーバインドと矢印キーを使うものの二通りを紹介する。
```bash
# ウインドウフォーカス
bindsym $mod+h focus left
bindsym $mod+j focus down
bindsym $mod+k focus up
bindsym $mod+l focus right
# 代替ウインドウフォーカス
bindsym $mod+Left focus left
bindsym $mod+Down focus down
bindsym $mod+Up focus up
bindsym $mod+Right focus right
```
次にウインドウの交換ショートカットを設定する。並んでいるウインドウの位置を入れ替えたい時に用いる。
```bash
# ウインドウ交換
bindsym $mod+Shift+h move left
bindsym $mod+Shift+j move down
bindsym $mod+Shift+k move up
bindsym $mod+Shift+l move right
# 代替ウインドウ交換
bindsym $mod+Shift+Left move left
bindsym $mod+Shift+Down move down
bindsym $mod+Shift+Up move up
bindsym $mod+Shift+Right move right
```
続いて、ウインドウの分割ショートカットを設定する。ウインドウはもっぱら垂直に展開されるが、下記に倣って`$mod+s`を発動してからアプリケーションを起動すると水平に展開されるようになる。垂直での起動に戻すには`$mod+v`を押す。すでに展開済みのウインドウを水平または垂直に変更したい場合は`layout`オプションで`toggle split`を定義する。
```bash
# 水平ウインドウ分割
bindsym $mod+s split v
# 垂直ウインドウ分割
bindsym $mod+v split h
# ウインドウの分割切り替え
bindsym $mod+e layout toggle split
```
フルスクリーン表示も可能。`toggle`オプションを用いると同一のキーバインドで有効と無効を切り替えられる。
```bash
bindsym $mod+f fullscreen toggle
```
タイル型ウインドウマネージャはその名の通り、あたかもタイルのごとくウインドウを敷き詰める使い方が基本ではあるものの、一般のデスクトップ環境と同じくフローティングさせることもできる。ただし、前述のウインドウフォーカスはフロートウインドウに対しては効かないため、専用の設定を定義しておかなければならない。
```bash
# ウインドウフロート
bindsym $mod+w floating toggle
# フロートウインドウフォーカス
bindsym $mod+space focus mode_toggle
```
同様に、フロートウインドウを動かすキーバインドも個別に設定する。i3wmの仕様上、たとえフロートウインドウであってもマウスのドラッグ単体で動いてくれるとは限らない。
```bash
floating_modifier $mod
```
フロートウインドウの応用例として、特定のアプリケーションを必ずフロート起動させる設定が挙げられる。とりわけファイラや動画プレイヤーはフローティングのモチベが高い。`resize`オプションを定義しないと最大表示で展開してしまうので、こだわりがなくとも適当なウインドウサイズを指定した方がよい。
```bash
for_window [class="Thunar"] floating enable, resize set 1024 780
```
最後にウインドウのリサイズを行うショートカットを記す。僕はモード化して仕立てている。
```bash
bindsym $mod+r mode "RESIZE"
mode "RESIZE" {
bindsym h resize shrink width 10 px or 5 ppt
bindsym j resize grow height 10 px or 5 ppt
bindsym k resize shrink height 10 px or 5 ppt
bindsym l resize grow width 10 px or 5 ppt
# 代替
bindsym Left resize shrink width 10 px or 5 ppt
bindsym Down resize grow height 10 px or 5 ppt
bindsym Up resize shrink height 10 px or 5 ppt
bindsym Right resize grow width 10 px or 5 ppt
# 通常モード遷移
bindsym Return mode "default"
bindsym Escape mode "default"
bindsym $mod+r mode "default"
}
```
## ワークスペースの設定
デスクトップ環境では「仮想デスクトップ」と呼称される機能をi3wmでは「ワークスペース」と呼ぶ。ウインドウを一面に敷き詰める文化は極めて効率に優れる一方で、なにかとすぐに余白が不足する。かつては無縁だったユーザもi3wmではワークスペースの助けなくしては生きられないだろう。
まずはワークスペースの変数を定義する。僕は1から始める数字派だが0から始める人もいる。数字ではなく記号派の人もけっこう多い。
```bash
set $ws1 "1"
set $ws2 "2"
set $ws3 "3"
set $ws4 "4"
set $ws5 "5"
set $ws6 "6"
set $ws7 "7"
set $ws8 "8"
set $ws9 "9"
set $ws10 "10"
```
次にワークスペース間を移動するショートカットを設定する。数字と対応させるのが無難オブ無難だが、ワークスペースが増えるほどmodキーから離れた位置にならざるをえない欠点もある。
```bash
bindsym $mod+1 workspace $ws1
bindsym $mod+2 workspace $ws2
bindsym $mod+3 workspace $ws3
bindsym $mod+4 workspace $ws4
bindsym $mod+5 workspace $ws5
bindsym $mod+6 workspace $ws6
bindsym $mod+7 workspace $ws7
bindsym $mod+8 workspace $ws8
bindsym $mod+9 workspace $ws9
bindsym $mod+0 workspace $ws10
```
使用頻度は人によるが、ウインドウを別のワークスペースに移動させるショートカットも設定しておく。一連のキーバインドには数字キーをすべて割り振っているが、もし他に使うあてがあれば適宜削っても差し支えはない。僕も本当に使用しているワークスペースの数はせいぜい5個くらいしかない。
```bash
bindsym $mod+Shift+1 move container to workspace $ws1
bindsym $mod+Shift+2 move container to workspace $ws2
bindsym $mod+Shift+3 move container to workspace $ws3
bindsym $mod+Shift+4 move container to workspace $ws4
bindsym $mod+Shift+5 move container to workspace $ws5
bindsym $mod+Shift+6 move container to workspace $ws6
bindsym $mod+Shift+7 move container to workspace $ws7
bindsym $mod+Shift+8 move container to workspace $ws8
bindsym $mod+Shift+9 move container to workspace $ws9
bindsym $mod+Shift+0 move container to workspace $ws10
```
特定のアプリケーションを指定したワークスペースでのみ起動させる設定も存在する。ワークスペース単位で用途を決めている人には欠かせない。前述の自動起動と併せて列挙すれば「システム起動時にSlackをワークスペース3に展開」といった挙動も実現できる。
```bash
assign [class="discord"] workspace 3
assign [class="Slack"] workspace 3
```
## システムの再起動と終了
その気になればシステムの再起動などもショートカットで行える。下記の設定では`$mod+Shift+e`を押して、そこからさらに追加のキーを加えないと発動しない仕組みだが、これにはあえて迂遠なキーバインドを採用することで誤爆を避ける意図がある。
```bash
bindsym $mod+Shift+e mode "SHUTDOWN SEQUENCE"
mode "SHUTDOWN SEQUENCE"{
bindsym p exec "systemctl poweroff"
bindsym r exec "systemctl reboot"
bindsym Return mode "default"
bindsym Escape mode "default"
bindsym $mod+Shift+e mode "default"
}
```
対して、設定しておくと便利なのがi3wmの設定再読込みと再起動だ。特に構築中はこのショートカットがあると非常に捗る。
```bash
# 設定再読込み
bindsym $mod+Shift+c reload
# 再起動
bindsym $mod+Shift+r restart
```
## カラー定義
i3wmは外観の色合いも定義できる。当然ながら下記の設定例も僕のものだが、モロ被りすると照れくさいので一度試したら別のにしてほしい。
```bash
# i3wm全体の色
set $bg #1C1E27
set $fg #CACACC
set $darkred #D95882
set $red #E4436F
set $darkgreen #68DDC4
set $green #24E39D
set $darkyellow #E8AEAA
set $yellow #EDA685
set $darkblue #64A4BF
set $blue #2095B4
set $darkmagenta #B382CF
set $darkcyan #54AEB8
set $cyan #00A5AF
set $darkwhite #CACACC
set $white #CACACA
set $darkgrey #6C6F93
# フォーカスカラー
# class border background text indicator child_border
client.focused $bg $darkgrey $fg $yellow $darkyellow
client.unfocused $bg $bg $fg $yellow $bg
```
## その他の設定
マウスカーソルの移動でウインドウがフォーカスされるとたいへん鬱陶しいので無効にする。
```bash
focus_follows_mouse no
```
ウインドウの枠の太さや隙間の広さも自由に決められる。どうでもいい設定と見せかけて意外に奥が深い。
```bash
# ウインドウの枠の太さ
for_window [class="^.*"] border pixel 2
# ウインドウ間の隙間の広さ
gaps top 6
gaps bottom 6
gaps right 6
gaps left 6
gaps inner 6
```
## Rofiの導入
すべてのアプリケーションをショートカットで呼ぶのは逆に非効率なのでランチャを併用する。Rofiはタイル型ウインドウマネージャの界隈ではデファクトスタンダード的なランチャとされている。`rofi`パッケージを導入した後、i3wmの設定ファイルに起動ショートカットを書き加える。
```bash
bindsym $mod+z exec --no-startup-id "rofi -show drun"
bindsym $mod+x exec --no-startup-id "rofi -show run"
```
`drun`はアプリケーションの起動に適したモードで、`run`はLinuxコマンド全体に対応している。この二つと全モードが融合合体した`combi`モードも備わっている。細かい調整を好まないのであれば[Ulauncher](https://ulauncher.io)を使う手もある。
## Dunstの導入
Dunstはi3wmにおいて通知を取り仕切る軽量なデーモンとして機能する。KDEやGnomeと異なり自前の通知システムを持たないタイル型ウインドウマネージャでは必要不可欠と言える。`dunst`パッケージを導入した後、自動起動を設定する。
```bash
exec --no-startup-id dunst
```
より平易な選択肢として`xfce4-notifyd`も挙げられる。i3wmの環境に慣れるまではこちらを使っても問題はない。
## Picomの導入
Picomは様々なグラフィック描写をi3wm環境下で適切に処理してくれる。ウインドウの透過や影の投影に用いられるとの説明が一般的だが、実は動画再生にも影響するため導入は必須である。`picom`パッケージを導入した後、例によって自動起動を設定する。
```bash
exec --no-startup-id "picom -b"
```
動画再生やアニメーションに不審なちらつきが認められる場合は`~/.config/picom.conf`の`backend = "xrender";`を`backend = "glx";`に書き換えると解消される。
## bumblebee-statusの導入
最後にステータスバーを導入する。タイル型ウインドウマネージャの文化ではここに通知領域やワークスペースボタン、現在時刻、ネットワーク情報などを設けることが模範とされる。ステータスバーには`i3blocks`や新進気鋭の`i3status-rust`をはじめとする多種多様なパッケージが存在するが、本エントリでは僕が愛用している`bumblebee-status`を例にとる。
```bash
# ステータスバーの色
set $background #2B303B
set $foreground #C0C5CE
set $lightred #BF616A
set $lightgreen #A3BE8C
set $lightyellow #EBCB8B
set $lightblue #8FA1B3
set $lightmagenta #B48EAD
set $lightcyan #96B5B4
set $lightwhite #C0C5CE
set $pink #FFB6C1
set $orange #F08080
# ステータスバー関連
bar {
font pango:UDEV Gothic 35 11
mode dock
position top
workspace_buttons yes
strip_workspace_numbers yes
binding_mode_indicator yes
tray_padding 2
colors {
background $background
focused_background $background
statusline $lightred
focused_statusline $lightred
# 左からborder, bg, fg
focused_workspace $orange $orange $background
active_workspace $background $background $foreground
inactive_workspace $background $background $foreground
urgent_workspace $green $green $background
binding_mode $green $green $background
}
status_command /usr/bin/bumblebee-status -m playerctl pasink pasource datetime battery \
-p playerctl.hide="true" playerctl.format="{{artist}} - {{title}}" playerctl.layout="playerctl.song" datetime.format="%m/%d %H:%M" -t monotone
}
```
ステータスバーの外観はタイル型ウインドウマネージャの顔と言っても過言ではない。もし読者諸君らがi3wmのunixpornに惹かれて導入を決意したのであれば、いよいよついにセンスの見せどころかもしれない。bumblebee-statusの詳細設定は[公式ドキュメント](https://bumblebee-status.readthedocs.io/en/main/index.html)がとても参考になる。
なお、設定末尾のテーマ`monotone`は僕の自作ゆえ、[このページ](https://bumblebee-status.readthedocs.io/en/main/themes.html)を読んで他の種類に変更されたし。そのままコピペするとエラーを吐く。
## おわりに
以上でクイックスタートアップガイドは終了となる。以降は実際にi3wmを試して構築を楽しんでもらいたい。本エントリの趣旨上、個別の設定項目については[ArchWiki](https://wiki.archlinux.jp/index.php/I3)に後を譲る。なにはともあれ、これで諸君らもあらゆる操作をキーボードで完結させたがる異常者集団の仲間入りだ。

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@ -0,0 +1,63 @@
---
title: "linux-zenの導入について"
date: 2020-12-07T21:00:53+09:00
draft: false
tags: ["tech"]
---
これまでカスタムカーネルにはほとんど縁がなかった。僕はオーディオ好きなのでリアルタイムカーネルには少しだけ関心を持っていたが、システムの安定性に影響を及ぼしそうなので試用には至っていない。
一方、linux-zen、俗にZENカーネルと呼ばれるカスタムカーネルにはもっと普遍的な付加価値がありそうに思われた。なんせArch LinuxのWikiでは下記のように説明されている。
> ZEN Kernel はカーネルハッカーたちの知恵の結晶です。日常的な利用にうってつけの最高の Linux カーネルになります。詳しい情報は https://liquorix.net を見てください (Debian 向けの ZEN ベースのカーネルバイナリ)。
なるほど、いかにもすごそうだ。しかしこれでは抽象的すぎて説明になっていない。文中のリンク先にもそのものズバリの情報はなかったので、自ら調べたところ下記の解説が得られた。
> Well I think the Zen Kernel (or the patches that are applied to it) increases your system's responsiveness and lowers your latency at the expense of some performance hit (I'd say about 1-3% at best).
簡単に言えば**わずかなパフォーマンスの犠牲1~3%くらい)と引き換えにシステムの応答性を向上させてくれるカーネル**ということらしい。やはり試すだけの価値はありそうだ。なお、下記の一連のコマンドはArch Linux環境を前提にしている。
```shell
$ sudo pacman -S linux-zen linux-zen-headers
```
さっそくZENカーネルを導入する。インストールが完了したら以前のカーネルを削除しなければならないが、nVidiaのプロプライエタリなドライバーを使用している人はこちらの方もカスタムカーネルに適したものに変更しておく必要がある。
```shell
$ sudo pacman -S nvidia-dkms
```
続いて、以前のドライバーとlinuxカーネルを削除する。
```shell
$ sudo pacman -R nvidia linux
```
環境によっては先にnvidiaドライバーを削除してからでなければPacmanに怒られるかもしれない。また、LTSカーネルを使用している場合は`linux-lts`を指定すること。
これらの作業を終えたらinitramfsイメージを生成する。
```shell
$ sudo mkinitcpio -p linux-zen
```
最後にブートローダの再設定を行う。
```shell
$ sudo bootctl update #systemd-bootの例
$ sudo grub-mkconfig -o /boot/grub/grub.cfg #grubの例
$ sudo vim /boot/loader/entries/arch.conf #エントリの編集
#以下、編集画面
title Arch Linux
linux /vmlinuz-linux-zen #zenを付け足す
initrd /intel-ucode.img
initrd /initramfs-linux-zen.img #zenを付け足す
```
保存後、再起動して`uname -r`を実行した結果が下記の形になっていればZENカーネルの導入に成功している。
```shell
5.9.12-zen1-1-zen
```
ぶっちゃけ今のところ特に何かが改善された実感はないが、ZENカーネルに関して日本語の情報がほとんど見当たらなかったので共有しておこうと思った。Linuxコミュニティに栄光あれ。

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@ -0,0 +1,45 @@
---
title: "null年ぶりのテニス"
date: 2021-11-23T14:33:37+09:00
draft: false
tags: ["diary"]
---
まるで定年退職したての老人みたいなタイトルだな。いかにも「時間に余裕ができたのでこれからは気ままにテニスでも楽しみます」って感じの風情だ。だが僕は違う。僕はまだピチピチの28歳だし、小学生の頃にテニスをしていたから **{null}** 年ぶりというのも嘘ではな縺??ょョ滄圀縲√°縺ェ繧顔悄蜑」縺ォ繧?▲縺ヲ縺溘?ゅさ繝シ繝√b縺、縺代※繧ゅi縺」縺ヲ逵悟、ァ莨壹↓繧ょ?蝣エ縺励◆縲
**syntax error : %year_setting% is incorrect.**
は? ……おい、テキストがバグってるぞ。どこかの横着者が勝手に同じパターンだと決めつけて、[前回の記事](https://riq0h.jp/2021/11/13/181959/)から文字列を拝借しやがったらしい。言っておくが僕はテニスなんてこれまでに一度もやった試しはない。やったことがあるのはマリオテニスくらいだ。ちなみにマリオテニスはゲームボーイカラー版が一番面白い。
一昨日、僕はテニスをプレイした。マリオテニスじゃないぞ。リアルなテニスだ。例によって、僕の属する30代独身男性中心のコミュニティでテニスをやる流れになったからだ。元々は秋口に集まる予定だったが、僕が2回目のワクチン接種を済ませていなかったり、雨が降って中止になったりと色々な不都合が重なってなかなか集まりきれなかった。今回もまたぞろ雨天に見舞われるかと思いきや、かろうじて空が曇りで踏みとどまってくれたおかげで無事開催と相成った。
**ところが当日、予約していたテニスコートに定刻通りに到着できた者は、実質誰一人としていなかった。** いや、厳密には僕だけは間に合わせようと思えば間に合わせられた。しかしDiscordのチャット欄に続々と立ち昇る**寝坊報告**に絶望した僕は、遅刻を承知で最寄り駅の吉野家で朝飯を食べることにしたのだ。友人たちの中で僕が一番目的地から遠い場所に住んでいるのにこんなことってありえるか?
![](/img/75.png)
間もなく牛丼並盛を食べ終えた僕は駅前で友人の一人と合流。テニスコートの利用料金を遅刻魔連中の代わりに全額立て替えたのは彼だったので唯一ギルティ認定を免れたと言っていい。定刻をゆうに20分は過ぎた頃になってポツポツと頭数が揃いはじめた。最後の一人だけは大遅刻確定だったのでわれわれ一同はテニスコートへと移動した。
してみると、やはりテニスコートというやつは相当に広い。シングルだとこの半面を一人で支配しなければならないのだから大変だ。お遊びのラリーなら互いに打ちやすい場所に向かって打つだろうが、試合の場合は逆に相手を動かして疲弊させる形に打ち込んでいくのだろう。アキレス腱を負傷するテニス選手が多いのもうなずける話だ。
参加者5名のうちテニス経験を積んだ者は2人しかいなかったため、われわれは一面のテニスコートを4人で分割して適宜交代しながらショートラリーを行った。肝心の僕はといえば、案の定一筋縄ではいかなかった。距離の短いラリーならバトミントン感覚でいけるかとも思ったが、硬球なので反射的にラケットを振ると簡単にすっ飛んでいってしまう。
試合であってもお遊びであってもテニスコートの内側に球を落とせないようでは話にならない。しばらくは球を追いかけたり追いかけさせたりする状態が続いた。そうするといかにもスポーツ然とした心地よい疲労感が肉体にだんだんと伝わってきた。
![](/img/76.jpg)
じきにテニス経験がある方の友人から有益なアドバイスを授けられた。友人曰く、ラケットは包丁を持つように握り、できるだけ面と平行に球を接触させなければならないらしい。僕はいつもラケットの面が上に向いているから不必要に球が浮き上がり、ゆえに余計な方向に飛んでしまうとのことだった。
言われてみれば、テニスマンの友人が球を打つ時の所作はなんというか――動きに緩急がついていて――独特のキレがあった。それだけではない。球にスピンがかかっている。友人曰く、このスピンも重要らしい。大まかな理屈は、ゴルフでウェッジを扱う際のテクニックと似たようなものだと理解した。あれも当て方が大切だからな。
言われた通りにぼちぼちラケットを振るうちに数回に一回くらいはまともな球を繰り出せるようになった。運動神経の出来は別として、日課のランニングや筋トレもあながち無駄ではなかったと見える。結局、僕は丸々3時間ほとんどろくに休憩もとらずにテニスコートを動き回った。後半はショートラリーではなくそれらしいサーブから入るラリーをやってみたりもした。運良く10往復近く続くこともなきにしもあらずであった。
総合的には実に充足感に満ちた体験だったが一つだけ――貰い物とはいえテニスラケットのメンテナンスを怠ったのは失策を犯したと言える。グリップのテープを巻き直さなかったせいで、なにやらベタついた得体の知れない黒い塗料が手にべったりとついてしまったのである。こいつを洗い落とすのには相当な手間を食わされた。
プレイ終了後、われわれ一同はちょっとした思いつきでバスに乗り込んだ。帰りにラーメンでも啜ろうかと話がまとまったタイミングで、ちょうどバスが目の前を通り過ぎていったのだ。バスの行き先は小岩駅。言わずと知れたラーメン激戦区だ。友人の一人が急に「追いかけるぞ!」と叫んで走り出したので、われわれも疲れ果てた肉体に鞭を打って後を追った。
苦労の甲斐あり、ほどなくしてわれわれはラーメン、厳密にはまぜそばだが……にありつくことができた。テニスでめちゃくちゃ身体を動かしてからの二郎系ラーメン、もとい二郎系まぜそばと来たもんだ。あたかも体育会系男子学生の青春を追体験しているかのように思われた。スマートウォッチ曰く900kcal以上ものカロリーを消費したおかげか、200gの麺と野菜とチャーシューはいとも容易くスルスルと胃の中に運ばれていった。
![](/img/77.jpg)
帰宅後は泥のように眠った。朝が早かったので一眠りしてもまだ夕方だった。驚くべきことにデカ盛りのまぜそばを食べたのに腹の音が空腹を知らせてきた。3時間テニスの消耗度合いは伊達ではない。僕は簡単な夕飯を食べ、ベッドでだらだらと過ごした後、また眠った。
こうした生活はいつまでもできるものではない。肉体が十全に働き、かつ責任の薄い年頃に限られた、ある種の特権的娯楽に他ならない。言うなれば、富豪的疲労だ。僕は富豪的疲労には金に代えがたい価値があると思っている。

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@ -0,0 +1,73 @@
---
title: "n回押すごとに(1/2)^nの確率で1億円もらえるボタン"
date: 2021-10-31T23:20:27+09:00
draft: false
tags: ["math", "tech"]
---
**ただし、当たりを引くまで密室から出られないものとする。**
## ストーリー説明
君はうだつの上がらない大学生だ。典型的なFラン学生として怠惰な日々を送っている。気づけば既に4年生。なにか新しい技能の習得に精を出すでもなく、若者の青春を謳歌するでもない。そういう手合いには冷ややかな視線を浴びせ、おれはあんな必死こいた連中とは違うんだと硬派を気取ってみる一方、コンビニ店員や現場仕事の作業員は露骨に見下している。
それもこれもすべては親ガチャに失敗したせいだ、と君は愚痴を漏らす。ああ、おれの親がもっと優れていたらなあ! そうしたらおれは今頃、もっとイケメンで、もっと頭が良くて、きっと恋人も友達も向こうから寄ってきて、こんなつまらん人生なんて送ってないだろうになあ! **だが、現実は現実であった。** 君の親はごく平凡なサラリーマンで、Fラン大学の学費もあくせくしながら支払っている。
このままだと、おれの人生も先が見えているな、と思う君。とはいえ特にやりたいこともないし、そもそもできれば働きたくない。そんな君に、人生を好転しうる一攫千金のチャンスを与えようじゃないか。ルールは至極簡単――**密室に配置されたボタンを押す**――これだけだ。見事に当たりを引くと、**1億円もらえる。** 再び押せば、さらに続けることもできる。2回目も当選すれば合計2億円だ。
デメリット? 当然、あるにはある。**密室に一度入ったら、当たりを引くまで絶対に出られない。** 君は事前になにも持ち込めないし、部屋には誰も来ない。まあ、でも大した問題ではないさ。当たりさえ引けば出られる仕組みになっているのだから。**それに、1億円だぞ** 資格試験の勉強に余念がない知り合いのA君や、君が密かに好意を寄せていた子を奪った内定獲得済みのB君も、1億円なんて到底得られない。
おっと、言い忘れていた。当たりを引ける確率は、**$n$回押すごとに$(\frac{1}{2})^n$だ。** なんだかピンと来ないって? なあに気にすることはない。さあ、早く部屋に入ってボタンを押すんだ。すぐにでも君は億万長者になれる。
## このゲームは本当に割に合っているか?
まず **「$n$回押すごとに$(\frac{1}{2})^n$の確率で当たる」** の意味を考えよう。単純に考えて、初回で当たる可能性はかなり高い。1回目の当選確率は$\frac{1}{2}$の1乗、すなわちそのまま$\frac{1}{2}$だ。**50%の確率で1億円が手に入る。** 君がぼちぼちツイていれば即座に億万長者ということになる。
では、万が一外れたら まだ心配するほどじゃない。2回目の当選確率は$\frac{1}{2}$の2乗、$\frac{1}{4}$だ。まだまだ当たる見込みは十分にある。既に1億手に入れた君も、もう1億狙って再挑戦してみてもいいかもしれないぞ ただし外れを引いたら次に当てるまでまた閉じ込められるからな。そこは注意するように。
2回目も外れたって そうなると、3回目の当選確率は$\frac{1}{2}$の3乗、$\frac{1}{8}$だ。だいぶ厳しくなってきたな。え、また外れた 4回目は$\frac{1}{2}$の4乗だから、$\frac{1}{16}$だぞ。5回目は5乗で$\frac{1}{32}$、その次は$\frac{1}{64}$……。
そろそろ顔から薄笑いが消えてきたんじゃないか もう判るよな。このゲームは、まともに当てられそうなのはせいぜい3回目までだ。そこまでで部屋から出られなかったやつは、だいたい一生出られない。ボタンを連打してもいいかって 別にいいよ。だが押せば押すほど累乗していくからな。毎秒1回ずつ連打しまくったら1分間で60回押せるけど、$\frac{1}{2}$の60乗っていくつになると思う
**答えは$\large\frac{1}{1152921504606846976}$だ。** ……ちなみにその部屋はミサイルの直撃にも耐えられる核シェルター仕様だから、ドアや壁をひたすら殴っても絶対に出られないよ。君が餓死するまでせいぜい2日か3日ってところかな。どんなに連打したって確率は下がり続ける一方だから、無駄な真似はやめた方がいい。
さてはて、学生生活に躓いたくらいでこれほどのリスクを背負うのは果たして割に合っていたのかな。よくある勘違いは、**2回目以降の当選確率を$\frac{1}{2}$の$n$乗の総和と考えてしまうことだ。** 2回目の当選確率そのものは$\frac{1}{4}$で間違いないが、**初回を外した後に2回目で当たる確率**は$\frac{1}{4}$ではない。$\frac{1}{2}$と$\frac{1}{4}$の積事象なので、$\frac{1}{8}$だ。同様に、3回目で当たる確率は$\frac{1}{64}$となる。
よって3回目以内に脱出できる確率は、それぞれを足して$\frac{41}{64}$。ざっくばらんに言って、**6割4分の確率で最低1億円を得られる代わりに3割以上の確率でほぼ死ぬ。** なんせ4回目以降に当選できる可能性は5%程度しかない。
もう一度訊く。**このゲームは本当に割に合っているか?**
## シミュレータを作った
せっかくなので簡単なシミュレータを作ってみた。こいつは決して死なないから気軽にバカスカ押してくれたまえ。大抵は当選できるが、意外に外れ続けることもなくはないと判る。
<p class="codepen" data-height="300" data-default-tab="result" data-slug-hash="QWMqEPN" data-user="riq0h" style="height: 300px; box-sizing: border-box; display: flex; align-items: center; justify-content: center; border: 2px solid; margin: 1em 0; padding: 1em;">
<span>See the Pen <a href="https://codepen.io/riq0h/pen/QWMqEPN">
Untitled</a> by Rikuoh Tsujitani (<a href="https://codepen.io/riq0h">@riq0h</a>)
on <a href="https://codepen.io">CodePen</a>.</span>
</p>
<script async src="https://cpwebassets.codepen.io/assets/embed/ei.js"></script>
<br>
なお、1000人のプレイヤーが1億円を獲得して生還するか、もしくは餓死するまで押し続けた場合の結果は以下の通り。生存中に押下できる見込み回数は1万回としたが、**見ての通りまったく意味はなかった。**
| 初回当選回数 | 生還者 |
| ---- | ---- |
| 1〜3回 | 654 |
| 4〜9回 | 45 |
| 10〜59回 | 3 |
| 60回〜 | **0** |
## もし君が超人なら
仮に君が無限大の概念を扱える超人だったとしよう。強すぎて暇を持て余した君は気まぐれにボタンを**無限回**押してみた。すると、一体どうなるのか? まずは単純な例で考えてみよう。
**■当選確率が常に$\frac{1}{2}$の場合**
当選確率が$\frac{1}{2}$のボタンを無限回押した時、その和事象は初項$\frac{1}{2}$、公比$\frac{1}{2}$の等比数列と捉えられる。**この数列の級数は必ず1に収束することが知られている。**
$\large\frac{1}{2}+\frac{1}{4}+\frac{1}{8}+\frac{1}{16}... = \sum_{n=1}^{\infty}(\frac{1}{2})^n=\frac{\frac{1}{2}}{1-\frac{1}{2}}=1$
というとなにやら小難しそうだが、なんのことはない。**半分の確率で当たるボタンを押しまくったら、めちゃくちゃ運が悪くてもいつかは当選しそうだろう?** その感覚は数学的にも正しいってこと。
試行回数が100回や1000回だと厳密には1にはならないから「必ず」とは言い切れないが、無限なる概念を引っ張ってきて構わないのなら**必ず当たると言ってしまえる。** これはそういう話なんだ。じゃあ、今回のケースだとどうなるかな?
**■当選確率が$n$回押すごとに$(\frac{1}{2})^n$の場合**
結論から言うと1にはならない。$n$回押すごとに$(\frac{1}{2})^n$の当選確率では試行回数を重ねるたびに足される数が急速に小さくなっていくため、1より低い値に向かって確率は収束する。この数列の一般項は$2^{-\frac{1}{2}n(1+n)}$で、級数は下記の通りになる。
$\large\frac{1}{2}+\frac{1}{8}+\frac{1}{64}+\frac{1}{1024}... = \sum_{n=1}^{\infty}2^{-\frac{1}{2}n(1+n)}=\frac{\vartheta_2{(0, \frac{1}{\sqrt{2}})}}{2^\frac{7}{8}}-1≈0.64163$
**なんと無限回押しても確率は全然変わらない。** 雑にイメージするなら膨大な試行回数によってブワーッと確率が収束するところに、**累乗の悪魔**が上からググーッと手で圧力をかけて抑えつけているような格好だ。
**たとえ無限大の概念を扱える超人でも累乗には抗えない――** いかにも数学のダイナミクスを感じさせてくれる話じゃないか。まあ、そんなスーパーパワーの持ち主ならボタンを無限回押すとかしょうもない真似をしてないで、もっと他の楽しみを探せばいいと思う。高次世界の神と対決するとか。知らんけど。

41
content/post/to Hugo.md Normal file
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title: "to Hugo"
date: 2020-11-22T14:16:33+09:00
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tags: ["tech"]
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[Twitterで宣言したとおり、](https://twitter.com/riq0h/status/1330155280634667008 "Twitter")ブログをWordPressから静的サイトジェネレータに移行した。マークダウン記法での執筆にまだ慣れていないのでしばらくは手探りで書くことになると思われる。
## 移行理由
理由は色々ある。まず、WordPressそのものが大半の場合においてオーバースペックすぎる。よく言われるセキュリティ云々はさておいても、特に必要でもないのにPHPやらDBやらを逐一走らせて無駄にリソースを消耗したり、度重なる更新等で徐々に肥大化していく様を見るのは、最小構成の実装を好む人間としては看過できなくなっていた。カテゴリーすらまるで使わない人間にWordPressのあの重厚長大な管理画面は明らかに過剰だ。マークダウン記法に不慣れだとしても、いつも使っているエディタを開いてすぐとりかかれる方が習慣化する上で好ましいように思える。
また、そんな高機能なはずのWordPressが僕の最高に気に入っているパーマリンク設定「/年/月/日/時分秒」の形式を「**厳密には一意ではない**」としてわざわざ排除してのけたことも、移行した大きな理由の一つである。なるほどWordPressは来たるべくIoTや5Gによる高速多重接続の時代を見越して、一秒未満の間にBOTが複数の記事を自動投稿する可能性を考えたのかもしれない。確かに絶対ありえないとは言い切れない。だが、手動での記述を好む炭素系生命体にとってはまるで関係のないことだ。……と、そんなふうに愚痴を漏らしてもこの決定は覆りそうもないので、僕はもっと人間を尊重してくれる他の実装に乗り換えたのだった。
移行先については実に多くの選択肢があったが、僕にはどうしても自分で書いた文字をできるだけ誰の手にも委ねることなく管理したいという強い欲求があったので、はてなブログやnoteなどのサービスに移行するつもりはなかった。日記の形式に適さないコンテンツを公開する時は利用するかもしれない。そうすると契約しているVPS上にデプロイできる軽量な実装系を探すということになり、おのずと選択肢は静的サイトジェネレータに絞られた。この仕組みにはかなり以前から興味があったが、前述のパーマリンクの問題が発生するまでは本腰を入れるほどには至らなかった経緯がある。そして本日、HugoかGatsbyJSかで悩んだ挙げ句、要求される技術水準が低い前者を選び、とりあえず最初の記事をデプロイするところまでこぎつけたのである。WordPressの方で投稿していた過去の記事は折を見てこちらに復元する。今となってはそんなに有益な情報を書いていないのでしないかもしれない。
## まとまった文章を書くことの習慣化
端的に言えばブログの運営に固執する理由はこれに集約される。誰にも見られないクローズドな日記はどんなに適当なことも書けるが、一方で全世界に公開されるブログはたとえほとんどアクセスされないとしても「誰かが見ているかも」という圧力が働く。もしそれが時事や社会問題に関する内容であれば、必要に応じてソースやエビデンスを記載しなければならないプレッシャーに晒されるであろう。そうした刺激は自分自身の根拠のない思い込みを払拭する上でも有益に思える。
そういうわけで何とかして飽きずにこの営みを続けていきたいものだが、これまでに十何年にもわたり挑戦を繰り返しては、一度としてろくに続いた試しがないのが実情である。
## ブログタイトルについて
これまでは暫定的にドメイン名をそのままブログタイトルとしていたが、やはり何か印象的な雰囲気のタイトルをつけたくなったので変更した。現時点では「堆積」が最有力候補だがすぐに変更する可能性もある。下記に他の有力候補を記載するので意見がほしい。
・**登攀**
険しい山を登ることを意味する単語だがブログタイトルに使ってもしょうがない。
・**不撓**
決して諦めない意志を意味する単語だが同上。
・**点と接線**
これは「堆積」に次ぐ有力候補だが少々気取りすぎていると思った。
・**最小構成主義**
〜主義とか四文字熟語のブログタイトルはいくらなんでも古めかしすぎる気がしてボツにした。テキストサイト全盛の頃の匂いがする。
**2020年11月22日22時10分追記**
結局「点と接線」をブログタイトルとして採用することにした。まだしっくりくるかどうかは判らない。ところで「接線」の英訳はTangentだが、三角比のtan正接も英語では同じくTangentと言う。しかし後者は鋭角の対辺の長さを直角で挟んだ辺の長さで割った値のことなので、当然ながら接線とは意味が異なる。ちなみに中国語では前者を「切线」、後者を「正切」と言い、それぞれしっかり区別されている。実は日本語の数学用語には中国語を語源とするものが意外に多く「正接」はその一つである。もっとも、英語圏でも混同を避けようとして接線の方を「Tangent line」と表記したりすることがあるそうだ。

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title: "「標準メシ」で差をつけろ"
date: 2021-05-22T09:22:04+09:00
draft: false
tags: ["essay", "food"]
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何に差をつけるのかはさておき。
誰しも「特に食いたいものはないが腹は減っている」という状況に身に覚えがあるかと思う。そんな状況下でわれわれ単身者はえてして誤りを犯してしまう。買い置きしたジャンクフードをつまんで後悔し、ならばとコンビニに出向くもあれもこれもと余計に手を出して後悔し、あくる日、通い飽きた店に足を運んで「これじゃなかった」と後悔しながら機械的に箸を運ぶ。
断言してやろう。**食いたいものが浮かばない時にあれこれ考えるのは時間の無駄だ!** そいつに小一時間縛られたところでどうせ名案は出てきやしない。ありもしないベストを探して彷徨うより、いっそ栄養学的なベターに腰を落ち着けるべきだ。
*「あーはいはいそうですね、要は健康的なメシを食えってことでしょ?」* なんて非難がましい目を向けるのはやめてくれ。あんたが現役学生くらいのヤングメンでなければ、ぼちぼち健康に気を遣っても良さそうな頃合いだろう。それに、三食すべて完璧な食事をしろって言ってるんじゃない。**食いたいものが特にない時にだけ、健康的な食事をするんだ。** どうせ何を食ったってたいして満足しないのなら、せめてあんたの細胞を満足させようじゃないか。
栄養学的に、とか大上段をぶちかましておいて申し訳ないが、ぶっちゃけそこまで厳しく考えなくてもいい。あんたが日頃の空腹をインスタント食品とか炭水化物の塊で抑えつけているのなら、そこそこ低脂肪な動物性たんぱく質に野菜を添えればそれだけで十分に健康的と言える。さしあたりそいつを「標準メシ」と呼ぶことにしよう。食いたいものがない時に自動的に選ばれる標準的なメシだ。
世の中の連中がわずかな手間を惜しんで自分の細胞をセルフネグレクトしている間、あんたは一人抜け駆けして健康的な「標準メシ」を食うんだ。そうすると世の中の連中よりも動物性たんぱく質とビタミンに満ちた肉体が手に入る。**その肉体は、きっとあんたをほんのりと前向きな気分にしてくれる。** 嘘じゃないぜこれは。れっきとした実体験だからな。
## で? どうやんの?
どんなメニューの「標準メシ」を用意できるかは、あんたの住処にへばりついているキッチンの設備や懐事情、さらには可処分時間なんかが大きく影響してくる。もしあんたが金余りの独身貴族なら迷うことなくビーフステーキをおすすめするね。大きさは200gから300gくらいで、付け合せにシャレたイタリア野菜と、ついでに炒めたピーマンでも添えてやれば完璧だ。味付けなんてどうでもいいよ。**だってビフテキだぞ?**
だが、そんな貴族様は言われるまでもなく個々人のベターチョイスを既に持ち合わせているに決まっている。僕なんかよりずっと優れた知見を備えているはずだ。あんたがそういう貴族だっていうんなら、さっさとタブを閉じてお好きな部位のA5ランク黒毛和牛に舌鼓でも打ってくれ。
対して、われわれ庶民が食うべき動物性たんぱく質は断然、鶏肉だ。こいつは国産でもかなり安く、低カロリーで栄養価にも優れている。別にビルダーを目指しているわけではないから鶏肉だからといって鶏むね肉である必要性はない。特に国産の鶏もも肉はどう調理してもうまい。
次に野菜だが、やはりブロッコリーの栄養価は頭一つ抜けている。あんた、茹でたブロッコリーにはレモンと同程度のビタミンCが含まれると知っていたか 面倒くさかったら味は落ちるが冷凍品でも構わない。
炒め野菜はイモ類でなければ何でもいい。さすがにジャーマンポテトを山盛りにして健康食でございとは言えないからな。野菜以外なら値は張るがきのこ類はとても良い。ただし腐りやすいから必ず冷凍しろ。「標準メシ」の想定されうるサイクルで一パックのきのこを消費しきるのは不可能に近い。以上の要素を踏まえて僕が構築した「標準メシ」がこんな具合だ。
![](/img/34.jpg)
写真の鶏もも肉は真空で個包装された国産の冷凍品で、コープデリを通じて毎週配送されるように手配してある。万が一飽きても三ヶ月くらいは冷凍室の中で放置できる。**ここが重要なところだ。** 「標準メシ」は食いたいものが特にない時にだけ選択肢に挙がる。よってメニューは保存が利くか、必ず消費できる見込みのある食材のみで構成されなければならない。
正直に言うとコープデリの真空冷凍肉はだいぶ割高だ。僕は利便性からこの手法をとったが、あんたにやる気があるのならスーパーで買ってきた肉を個別に冷凍すると安く済む。
この構成だと鶏もも肉が一つあたり約220gなのでたんぱく質は35g程度、カロリーは野菜を含めても600kcal前後に収まり、他に炭水化物を摂らなければかなりのヘルシーメニューになる。味付けは国産の鶏もも肉ならしばらくは塩胡椒だけでも戦える。僕はちょっと工夫してガラムマサラを加えたりしているけどな。エスニック風になってうまいんだ。
まあ、とはいえこいつはベーシックな単身者には少々荷が重い調理例かもしれない。相当上手くやらないかぎり、フライパンなんかじゃ鶏もも肉は上の写真ほど完璧にはソテーできないんだ。僕はわざわざ金をかけて上等な二口コンロを買ったから両面焼きの***遠赤外線セラミックバーナー***で肉を焼けるが、たぶん単身者のほとんどはそんな立派なコンロなんて持っていないだろう。ひょっとするともっと具合が悪く、口が一つしかないIHヒーターかもしれない。俗に言う[人権無視キッチン](https://togetter.com/li/1657320)というやつだ。
僕のコンロならグリルに肉をぶち込み、タイマーをセットして焼くだけで自動的にソテーが完成するが、人権無視キッチンに寄生したIHヒーターではそうもいかない。フライパンで頑張ろうにも工夫と慣れが必要だし、そもそも炒め野菜を同時に調理できない。こんな苦行は「標準メシ」のポリシーに反する。特に食べたいものがない時に作るメシがこんなに面倒くさくて良いはずがない。
そこで代替案を考えてみた。[シリコンスチーマー](https://my-best.com/6392)を使ったレンジ調理はどうだろう。これなら野菜も同時に調理できるし、コンロを塞がないので炒め野菜も用意できる。実際、僕も気分転換に使うことがあるが、ソテーほどの華やかさはないものの「標準メシ」のクオリティには十分達していると感じた。食材の品質さえ良ければ蒸そうが焼こうがうまいのである。**ああ、そういうわけだから間違ってもブラジル産とかタイ産の鶏肉は買うなよ。** あれは揚げ物にするならギリ使えなくもないくらいの代物でしかない。
ところでもし「標準メシ」が夕飯時で、朝食と昼食のうちに一定の糖質を摂取しているならパンや米は控えた方がいい。われわれ単身者のPFCバランスはえてして炭水化物に偏っている。味の濃い不健康なおかずを食べ、そのために炭水化物が欲しくなり過剰に糖質を摂取する――こんな悪循環はせめて「標準メシ」の時だけでも封印しようじゃないか。**繰り返すが、三食すべてでやる必要はない。** 食べたいものが特にない時だけでも効果はある。
## まとめ
**■「標準メシ」のポリシー**
・低脂肪の動物性たんぱく質と野菜の組み合わせ
・味付けはできるだけ淡白に
・夕飯時に実施する場合は炭水化物を摂らないこと
・ルーチン化が可能な低負荷の調理内容
・使用する食材は長期保存が利くか消費が確実なものに限ること
まあ、騙されたと思って試しにやってみるんだな。現代人は精神が肉体を司っていると捉えがちだが、僕の見解は違う。肉体の状態こそが精神をかたどっている。案外、われわれが後生大事に抱えこんでいる精神、自我、心理なんてのは、純粋に抽出してみたらそんなに大差ないんじゃないか。容れものの違いが変数として働いているだけかもしれない。

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title: ".あの子が死んだ理由"
date: 2021-10-15T21:24:02+09:00
draft: true
tags: ["novel"]
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 このテキストファイルはどのオンラインストレージにも保存せず、ファイル名の先頭にドットを付けておこうと思う。
 あの子が自殺したらしいと聞いたのは、三日連続で学校に登校してこなかった次の日のことだった。学校のネットワークを通じて送りつけられてきたメッセージには事細かに注意項目が示されていた。あの子が死んだ、という端的な報告に比べたら注意項目の長さは現代文の問題並だ。
 その報せがクラス中に行き届くと、誰かがあの子の机の上に供花のグラフィックをマッピングした。たった一輪の、パンジー。本当の悲しみを古風な形で表現したと見るか、単なる嫌味、嫌がらせの類と捉えるかは、あの子の生前の立ち位置を考慮すると微妙なところだ。決して人気者ではなかったが、特に嫌われていたという話も聞かない。強いて言うなら、空気。そう、空気に近い。
 間抜けな子だった。たまたま家までの道順が似ているから、一緒に帰るだけの間柄。会話はいつもちぐはぐでとりとめもなかった。
「――−」
 露骨にくぐもった、かすかな人工ノイズに指向性を認めて振り返ってみると、そこには靄〈もや〉の塊があった。いつもはそれを「靄」と見なしたりはしない。たまたま空気について想像していたから、なんとなく近いものを連想しただけに過ぎない。わたしは靄が次の人工ノイズを発する前に、視界上に展開した仮想のボタン類を慣れた視線移動で操作した。そうすると靄はたちまち人間の姿に切り替わったので、靄ならぬ彼女の次の一言を聞き取ることができた。
「知ってる? 絵美里ちゃんの話」
 あたかもありふれたゴシップニュースを語る口ぶりで、わたしにとっては少々癪に障る声のトーンを伴って話しかけてきた彼女は、いつにも増して鬱陶しい輝きをその目に湛えていた。
「いいや、知らないけど」
「ええっ、そうなの?」
 彼女は広げた両手を口元に持ってくる芝居がかった仕草をしてみせた後に「だってえ、ほら、理沙ちゃん、あの子と仲良かったじゃん」と粘り気のある声を発した。
「そんなに、仲が良かったわけじゃないよ。たまたま一緒に帰ることが多かっただけ」
 一瞬、声のトーンが濁りそうになったのはわたしの技術不足だ。相手に感情の揺らぎを勘付かれたかもしれない。というのも、先ほどから視界上にポップアップしまくっている〈会話補完〉をことごとく無視して会話しているために、眼前の彼女の不快度がだんだんと上昇してきているからだ。この分析結果が、期待した情報をただちに得られなかったもどかしさからくるものか、わたしが本心を隠していることに気づいてのことかまでは、判らない。
 その後も二、三往復ほど無益な腹の探り合いを繰り返し、何も得られそうにないと理解した彼女は「ふーん、なんか判ったら教えてよ、だって、自殺なんて滅多に聞かない話だしさあ」と言い残して踵を返した。わたしは彼女の背中を見送りながら、再び最小限の眼球運動で彼女を「靄」に戻した。おかげで彼女が別の誰かと例の甲高い声できゃあきゃあ騒いでいるらしい様子を聞かずに済んだ。
 このご時世、人間関係を平穏かつ健全な状態に管理することはもはや国民の責務と言っていい。自分に合わないと分かりきっている相手から極力ストレスを受けないようにするためには、このようにしてフィルタリングしてしまう方が賢い。
 あけすけで、どの年代にも通じる言い回しをするなら、わたしは彼女をミュートしている。彼女だけではなく、わりとそこそこ多くのクラスメイトをミュートして靄にしている。通常、ミュートするといったら遠回しな絶交を意味する。できるだけ関係を持ちたくないし、会話も受け付けない。そもそも、靄になっていたらどこの誰かさえ判らない。話しかけてきても大抵は気づきもしない。なぜならどんな声も、両耳の奥深くまで差し込まれたインイヤー装置――〈イヤホン〉が音声を加工して、かすかな人工ノイズに変えてしまうからだ。
 わたしの親の時代でも、嫌いな人間をあえて無視する、あたかもいないように振る舞う、というやり方は、一種の嫌がらせとしてごく当たり前に行われていたそうだ。しかしわたしにしてみれば、それってする方もなかなか辛いんじゃないか、と思う。どんなに無視しようと努めても視界にはっきり映る以上は視線が誘導されてしまうし、なにしろ相手の声を聞くことは避けられない。相手を正しく認識した上でいないふりをするのは難しい。昔の人は嫌がらせでやっていたといっても、案外自分たちの方もストレスを溜めていたのかもしれない。
 ところが、わたしの時代にはこうした便利な道具の数々がある。眼球を覆う〈ビジョン〉が視界を思うままに再構築し、聴覚は〈イヤホン〉がよしなにやってくれる。社会も学校も人間関係も、これらの機能を概ね正当化するように象られている。だから〈ビジョン〉が視床下部を電気刺激して算出してくれるストレス値でも、大抵わたしは危険水準に達した試しがない。
 ……今日までは。あえてポップアップするとさらに具合が悪くなりそうなので、チラ見してすぐに消したものの、だいぶひどい値になっていた。いつもは息を吸うように使いこなす〈会話補完〉も無視してみたりして、今日のわたしは明らかに平常じゃない。
 わたしは誰かがマッピングした絵美里の机の上の供花を睨めつけた。これを嫌がらせでやるクラスメイトがいるとしても、間違いなくミュート済みのはずだ。ミュートしている相手のマッピングが自動で共有されるはずがない。そうでなくてもマッピングを「全共有」で行うのはかなりのマナー違反にあたる。
 怪しげな視線を振りまかないように注意しながら辺りを確認すると、じきに授業が始まるとあってほとんどは座席に着いている様子が見て取れた。机上の供花に他の誰かが注目している様子はない。とはいえ、およそクラスメイトの半分以上をミュートしているので、靄になっている方までは判らない。そっちまで入念に確かめようとするのはさすがに骨が折れる。
 間もなく本鈴が鳴り響り、教室の前面奥に備え付けられた大型ディスプレイが点灯した。ディスプレイの向こう側に座る先生はいつものはきはきとした調子で授業の開始を告げた。
 いくつかの授業をやり過ごし昼食の時間に入るやいなや、わたしは教室から飛び出して廊下を歩きつつポケットから〈ビジョン〉の操作盤たる〈インターフェイス〉を手に取った。平べったい硬質なウエハースに似たそれは、眼球移動では億劫になる大量の操作を助けるために備わっている。というより大抵の、特に中高年層のビジョンネイティブでない世代の人々は、もっぱらこっちでしか操作できない。眼球移動のみで巧みに操作が行えるのは、幼少の頃からその手のデバイスに親しんできたわたしたちの世代だけだ。
 そうはいってもあまりにぐりぐりと視線を動かしていると目が疲れてたまらない。眼精疲労からくる様々な疾患はここ数十年の間に新たな国民病にまでせり上がったという。〈インターフェイス〉を使えば、さしあたりこの問題を回避できる。
 一方、なにかとセンシティブな人間関係を管理統制していく上で、あまり人前で〈インターフェイス〉を触っているのは体裁が良いとは言えない。眼球の動きはまだ言い訳が立つが、〈インターフェイス〉に触れていることはすなわち〈ビジョン〉の操作を意味する。まともに話を聞いていないと思われるくらいならマシな方で、ミュートやフィルタリングをしていると勘ぐられる恐れがある。事を荒立てないための措置が露見してしまってはどうしようもない。
 事実、人々はその時々に応じて他人をミュートしたり、フィルタリングしている。しているが、それを公言することは加害行為と見なされるし、たとえ不本意であっても認識は概ね変わらない。完全な管理を以て気を遣いつつも、日常的なやりとりの中でさりげなくミュートしていることに気づかせる。もしくは、自発的に気づいてもらう。ここまでやってのけて初めて、わたしたちは無謬の存在と認められる。
 もちろん、中には激昂して物理的な行動に出る輩もごく少数いる。姿や声を打ち消せても接触は避けられない。肩を掴まれて叫ばれたら、何を言っているのか、誰が言っているのかは即座に判らないが、危険な状態に陥っているのはさすがに理解できる。
 しかしこの段階まで来たら、いよいよわたしたちは被害者を名乗る権利を得られる。そうなったら、初めてわたしたちは「ブロック」を検討する。ブロックすると、互いの姿形と声が靄になる。した側は、ブロック対象者が接近すると警告を受け取れるようになる。された側は、相手を見つけ出すことが非常に困難になる。近づけば遠ざかっていく靄を見つけ出すのは至難の業だ。
 ところがブロックは自治体の認可が降りなければ認められない。人工知能の審査は三審制裁判と比べればずっと早いが、大抵の人たちは「コミュニケーションに失敗した」と認めたがらないがために申請を怠る。なので、できる限りはミュートやフィルタリングを駆使して互いにやり過ごす。
 そんな時に大いに役に立つのが例の〈会話補完〉なのだ。
「ねえ」
「絵美里さんの机の上の供花」
「誰が置いたの? とってもきれいだったから、グラフィックのアセットが欲しいな」
 わたしは視界上で学年ネットワークのチャットルームにアクセスして、さっそく供花の話題を投げかけた。短く細切れで、行間に白々しい絵文字が踊るその文章は、わたしではなく〈ビジョン〉が〈会話補完〉機能で生成したものだ。
「供花?」
「どの机の上?」
 軽快なポップ音を立ててクラスメイトの発言が次々と流れ込んでくる。〈会話補完〉に対して〈会話補完〉で返すのは極めて相性がよく、ただでさえ秒単位の分析速度を持つに至った補完機能がさらに最適化される。現実の会話は口に出さなければならないがチャットなら自動で返信することもできる。今、視界上に見える十数名の発言者のうち何人かはきっと自分が会話していることも知らないだろう。とはいえ、どんな話題にでも一応反応を示しておくことは人間関係を円滑に保つためには必要不可欠であり、洗練された会話補完のアルゴリズムがそのあたりの判断を誤る恐れはほぼない。
 だが肝心な情報源としては、わたしのクラスメイトはてんで役立たずだった。雪崩を打って書き込まれるメッセージの数々は、供花を見たにせよ見ていないにせよ情報量が極端に少なかった。補完機能同士で勝手に完結する、コミュニケーションのためのコミュニケーション。
 昼食を摂るための時間が刻々と削られていくのを視界上右端の時刻表示で認めながらも、わたしは再び教室に舞い戻った。机上の供花は、確かにそこにある。
 わたしがミュートしているような、下品な連中はきっとあの子の死因や噂話を投稿しているのだろう。ひょっとすると案外、その中に有益な情報が紛れ込んでいるのかもしれない。一時的にすべて解除してみるのも……。
 その時、視界からよけていたチャットウインドウが一オクターブ高い通知音を鳴らした。ダイレクトメッセージだ。
「三階 図書室」
「宗教・自己啓発の棚」
「私が彼女のために供花を添えたの」
 発言者の名前は、神崎志保。見覚えがない。が、わたしがダイレクトメッセージを見られるということは、少なくともミュート済みの相手でもない。
 再び、あたかもぜんまい仕掛けの人形を模倣した急旋回で教室を出て図書室を目指した。
  2
 案の定、というか、当然の道理として図書室は静まり返っていた。今時、あえて紙の本を読みたがる人は一部の物好きに限られる。わたしだって入学直後のオリエンテーションで足を踏み入れたきりで、今回が二度目の来訪となる。なんでも政府が決して少なくない額の税金を投じて紙の本の保全活動にあたっているとか、公立図書館を除けば学校がその重要な拠点の一つになっているとか、そんな説明を受けた記憶がある。細菌の温床であり、ちょっとしたことで経年劣化して、いちいち手先を動かさないと読めないアンティーク品に、なぜそこまで国が熱意を燃やすのかわたしには解らなかった。
 天井から吊るされたガイドを頼りに「宗教・自己啓発」の列を見つけ出すと、左右の本棚で隔てられて生まれた直線の通路を慎重に歩いた。おのずと視界に映り込む本の背表紙を〈ビジョン〉に頼るまでもなくわたしの肉眼が読み取り、適当な感想さえも思い浮かばせた。
「コミュニケーション4.0 〜ビジョン活用法〜」 ――えらく古臭い言い回しだなあ。中年くらいの人たちがいそいそと買い求める姿が想像できる。
「インプとキリスト教」 ――ここでいう「インプ」とは悪魔のことではない。〈ビジョン〉や〈イヤホン〉などの身体密着型情報端末の総称、Implanted Device〈インプランテッド・デバイス〉を侮辱的に短縮した単語だ。元は宗教家やテクフォビアが好んで使う略称だったが、しばらくのうちに単に便利な新単語として広く普及した結果、従前の文脈を失ってしまった。今では誰もがインプ、インプと気軽に言う。
 かつて人々が使う情報端末はもっと距離感が離れていたらしい。それらはデスクトップ、と呼ばれていて、文字通り机の上に置かれていた。時代が進むとラップトップ、と呼ばれる膝の上に置けるサイズの端末が登場した。それがやがて電話機と融合したり、メガネと融合したり、時計と融合したりもした。当時、後者二つにはウェラブル・デバイスなんて通称が名付けられていたそうだ。
 情報端末と人間の間に存在する物理的距離は、このように時代の変遷とともに縮まってきている。〈ビジョン〉は眼球の上にへばりついているし〈イヤホン〉は耳の奥深くまで差し込まれている。物理的距離はもはやゼロに等しい。
 これ以上縮まるとしたら、どうなるんだろうか、と派手な題名で飾られた自己啓発本の背表紙を流し見しながら考えた。たまたま、視点が「コミュニケーション4.0における距離感の縮め方」で一瞬止まった。
 物理的距離がゼロ以下に縮まるとしたら、もう負の値になるしかない。眼球を越えて頭の中にめり込んで、耳介を越えて蝸牛にでもめり込むのだろうか。幸い、これらのデバイスを言い表すのに別の新単語を用意する必要はない。むしろ、よりまっとうにImplanted〈インプランテッド〉されている。そうして相変わらず、わたしたちは自分の肉体の内部に宿した装置をインプ、と呼び続けるのだろうか。
 肉体の中にインプ〈悪魔〉が宿る――なにげにうまく言葉遊びが転がったと見えて、わたしはそこそこの満足感を覚えた。周囲に誰もしないせいか、思わず油断してフッと笑みがこぼれた。
「なにニヤついてんの?」
 ぎょっとした。今しがた通り過ぎたはずの本棚から声が聞こえたからだ。
 反射的に振り返ると、そこには自分よりずいぶん背丈の低い、ぼさぼさの髪の毛を好き放題に伸ばした出で立ちの女の子が立っていた。顔にはそばかすが生えていて、口元がへの字に曲がっている。
「あ、あんた、どこから――」
「ずっとここにいたよ。座ってたけど」
 彼女は自分が本棚のすぐ真下の床を指差した。
 こんな狭い通路で人一人を見失うなんて考えにくい。ひょっとするとわたし、やっぱりこの子をミュートしていた?
 ただちに眼球をくりくりと動かしてミュートリストを呼び出そうとしたが、その前に眼前の子が口を開いた。
「ミュートもフィルタリングもしてないよ。あんたは。ただ私が、私の体にカモフラージュ映像をマッピングしているだけ」
「……なんでそんなことを?」
 ビビッと視界上の会話補完ウインドウが真っ赤に光って揺れた。複数ある選択肢のいずれにも該当しないリアクションを返したせいだ。補完機能を用いずに〈ビジョン〉の記録にない相手と会話することはリスクが高いと見なされるため、通常より高い通知レベルで知らされる。が、今はどうでもよかった。誰もいない図書館に一人だけいて、わざわざマッピングで姿を隠す。例のダイレクトメッセージの送り主――神崎志保で間違いない。
「さあね。でも、私が見えないのは、私だけのせいじゃない。街中のマッピング広告や表示案内を手間なく見るために、全共有を許可しているからでしょ」
 図星だったので思わずひるんだが、私は同じ言葉を繰り返した。なんでそんなことを、どうしてそんなことを。
「パンジーの話?――あの子が死んだ理由について考えてほしかった。あんたには」
 こちらに背を向けながらごく平坦なトーンで言う彼女は、やはりとても華奢な体型をしていた。
「わたしに? どうしてわたしが? わたしは別に」
 言い終わる前に相手は言葉をかぶせてきた。
「〈ビジョン〉じゃなくても判る嘘をついちゃだめだよ」
「……あんたは、知ってるの」
 わたしはギュッと手のひらを握りしめた。
「もちろん。みんなが自分の現実を信じているから、私はほとんど誰からも見えない」
「じゃあ教えて……と言ってもすんなり教えてはくれなさそうだね」
「うん」
 振り返った彼女はへの字の口元をびっくりするほど釣り上げ、満面の、屈託のない笑顔をこちらに振りまいた。
「あんたの目にへばりついたインプをせいぜいうまく使って、頑張って突き止めるんだね」
 次の瞬間――わたしは彼女の肩を掴んで引き倒そうかと考えた。半分は怒りで、もう半分は合理的な発想からくるものだ。わたしの体格でもこの子くらい小柄なら簡単に馬乗りになれる。どんなに飄々としていても、痛い目に遭わせられるのは嫌だろう。後で彼女が出るところに出たとしても、ブロックが可能になるまでは何日もかかる。女子学生同士のちょっとした取っ組み合いで刑事罰が下る恐れはない。
 ところが眼前の彼女は私が前足を踏み出すよりずっと早く、再び自分自身をカモフラージュした。それは靄よりもさらに見えづらく、既に距離感さえ判然としない。
「じゃあ、いい感じに仕上がったらまた会いましょう」
 何もないように見える空間から声がしたかと思うと、ぱたぱたと立ち去る足音が誰もいない図書室にこだました。
 ややあって、昼食休みの終了を知らせる予鈴が鳴り響いた。
 下校中。学校の校門前でわたしは全員のミュートを解除した。どっ、とにわかに繁華街のど真ん中に放り込まれたかのように人々の声が耳に突き刺さってきた。これほどコミュニケーションの簡便性が増した時代にあっても、人は何かにつけて対面で喋りたがる。あえて見ていないが、わたしのストレス値はきっと過去最悪の数値を示しているに違いない。心臓の鼓動が不規則に高鳴っているのが判る。わたしは足早に校舎から距離をとった。
 すぐさまチャットルームにアクセス。履歴を遡ったり、別のチャンネルを渡り歩いたりして、いつもは目にも入れたくない下品な連中の発言を読み漁った。
「絵美里、投身〈フィルタ済み〉したらしいよ」
「いや、おれが聞いた話では〈フィルタ済み〉って」
「〈フィルタ済み〉〈フィルタ済み〉〈フィルタ済み〉」
 未成年ユーザは〈ビジョン〉のチャイルドガード機能を無効化することができない。保護者の同意を得て、保護者自身のアカウントで認証を行えば切れるが、もちろんそんな真似をする親はいない。児童の権利主張と保護者からのクレームの中間をとったメーカーの妥協が表れている。
 成人モードだとマッピング機能の効果もずっと強力で、建物はもちろん動いている物体、それこそ人間や動物、風景でさえ好きなグラフィックに上書きできる。そうして作り出されたパーソナルな現実は今や権利の一つに数えられているほどだ。
 検閲された部分は適当に類推するとして、彼女の死に方に触れている投稿は数多くあっても、死因に言及している人は少なかった。投身自殺だの、手首を切っただの、好き放題に書かれている。わたしが知りたいのはそんなことではない。
 粘り強くスクロールを続けていくと、やがて一つの発言が目に留まった。
「さっきオンラインストレージから何日か前の映像ログを引っ張ってみたんだけど、〈フィルタ済み〉ようには見えなかったなあ。相変わらず変な子だったけど」
 そうだ、オンラインストレージから映像ログを取得すれば、彼女の様子を調べ直せる。いつも一緒に帰っているわたしだけが、学校の誰よりも直前の状態に詳しい。
 さすがに歩きながら映像を観るのは少々危険なので、できる限り急いで私は家に帰った。
 家では、パパとママが両方揃って私を出迎えた。パパは未だに通勤を強制する古風な伝統的企業に勤めていたが、五年前から急に出世を重ねて役員に登り詰めて以来、出社義務から解き放たれた。
 パパとママがいつものようにハイエンドモデルの〈ビジョン〉から補完された会話を繰り出してきたので、私も補完機能を使って応答した。〈会話補完〉のウインドウは発声のトーンが弱いと指摘したが、無視して続けた。確かにわたしは自分の口から喋っているが、ただ機械的に読み上げているだけだと記憶に定着しにくいのか、ここのところ二人とどんな会話をしたのか思い出がまるで残っていない。というか、今しているやり取りでさえろくに頭に入ってこない。
 〈会話補完〉をプライバシー尊重訴求方針に切り替え、体よく自室にこもる口実を機械的に生成したわたしは、二人のよく訓練された笑顔に見送られながらリビングを後にした。補完機能曰く、今回の会話スコアはほぼ満点に近く、今日一日の中では際立って最良のコミュニケーションだったそうだ。
 念願のプライバシーを獲得すると、わたしはベッドに横になって仰向けになりながら考え事にふけった。
 パパがあんなふうになったのは五年前に会社から事実上命じられて〈ビジョン〉を購入させられてからだ。それまでは何かとパパのセンスのない会話に苛立ち――本当の原因は自分自身が心身ともに思春期に入ったせいだったのだが――ささいなことで家庭内不和を起こしていた。しかしパパが〈ビジョン〉の使い方を覚えるやいなや、すべてが良い方向に進んだ。
 まず、たとえ機械が生成した会話であると理解していても、わたしはパパに苛立たなくなった。そのことを悟ると、ママも〈ビジョン〉を使うようになった。二人のコミュニケーションは完璧に等しくなり、わたしはしばらく満足した。次に、パパは出世した。パパの世代でも〈ビジョン〉の普及率は8割近い。古風な価値観ながら当時まがりなりにも中間管理職だったパパが新しい技術に馴染めば、会社の中で特に存在感を発揮するであろうことは容易に想像ができる。わたしはとてもそうは見えなかったが、実は仕事ができたんだなあ、なんて無邪気に考えていた。
 一方で、二人の本心はまったく判らなくなった。そんなものは知るべきではないし、知ろうとしてはならないと言わんばかりに、二人は〈会話補完〉を片時も手放さなくなった。わたしもそこまで本心を知りたい欲求はなかったので、概ね納得した。重要なのは役割を果たすことだ。パパとママは両親としての、わたしは娘としての、役割を演じきれたらいい。そうすれば全部うまく回るし、現に成功している。
 とはいうものの、絵美里が死んだ今となっては、人の本心を覗きたくなっている。
 本当に死ぬ人間は死にたいと言わずにいきなり死ぬ、とどこかで聞きかじった覚えがある。本当か嘘かは判らない。しかしこの命題だと反例が一つでもあったら即座に偽となるので、きっと嘘なんだろう。
 でも少なくとも、絵美里はそうやって死んだ。誰にも、わたしにも、告げることなく死んだ。にも拘らず、どういうわけか、あの女の子だけは真相を知っている。
 正直、わたしは単なる探究心を越えて、嫉妬のような感情さえ抱いている。彼女との会話がなければ、たとえ死因が不明のままでもちょっとずつ忘れられたかもしれない。
 わたしだけが手にした、平穏な関係だったはずなのに。現状では彼女と絵美里の間柄さえ不明のままだ。
 とにかく、わたしはわたしでできることをしなければならない。
 ベッドに寝転がったまま〈インターフェイス〉を触って、オンラインストレージにアクセスした。
 〈ビジョン〉はわたしたちの視界を常に録画している。無効にしたければいつでも無効にできるが、様々な局面で映像記録はわたしたちにとって行為の正当性を主張する材料になりうる。逆にそれらがなければ大きく不利な扱いを受ける。後ろめたいことがなければ有効にしておく方が社会的に望ましい。大きな揉め事が起こった際にどちらがブロックを行使する側になれるかはひとえに映像記録にかかっている。まかり間違って行使される側にでもなったら、自分の人生に致命的な汚点を刻む羽目になる。
 ファイルを展開すると映像記録が視界いっぱいに表示された。シークバーをぐりぐりと動かして記録の精細さを確認する。先頭まで進めるとわずか数分前、両親と交わした会話のシーンが映った。逆にめいいっぱい戻すと、映像記録の日付が一週間前になった。このオンラインストレージは〈ビジョン〉のメーカーが提供しているビルトイン機能だが、なかなかどうして商売上手で一週間以上前の記録は所定の料金を支払わなければ取得できない。しかし幸いにもわたしの用途では一週間分もあれば事足りる。〈インターフェイス〉で微調整してやると、映像記録はちょうど一週間前の下校時刻から始まった。まさしく絵美里と一緒に校門を通り過ぎるところだった。
 強めのくせ毛を無理やりなでつけた、彼女の童顔が映り込む。わたしの視界は実に十秒単位で彼女の顔を捉えていた。客観的に言って、まじまじと眺めたくなるほど美人じゃない。なんせ彼女は「空気」だった。あからさまに遠ざけられるほど醜くもないが、美しくもない。個性らしい個性があるわけでもない。
「うん、そうだね」
 唐突に、絵美里が相槌を打った。
「いや、わたしまだ何も言ってないけど」
 わたしはすばやくツッコミを入れた。
「なんとなく考えていることが判ったの。それでね……」
 彼女はひとりでにだらだらと中身のない会話を始めた。彼女が〈会話補完〉を使っていないことは明らかだった。そもそも使い方が判らないと言われても信じてしまいそうだ。今時、義務教育でも念入りな講習があるほどなのに、彼女ときたらどうやってこの高校の入試を突破できたのかも不明なほど間が抜けている。だから、わたしも使わない。いつも会話はちぐはぐで、とりとめがなかった。
「でもわたしだったら虎より草食動物がいいな。肉食動物は一見強そうに見えて実は競争が激しい。ましてや元が人間だったら」
「ねえ、見てよパンジーが咲いてる」
「聞けよ」
 彼女はわたしのツッコミを無視してぱたぱたと歩いていき、緑化区域の端に咲いたパンジーの前で立ち止まった。大きな目をしきりにパチパチさせている。〈ビジョン〉で写真撮影をしているのだろう。
 あの子の関心はとても移り気が激しく、天気の話をしているかと思ったら古典の話になって、かと思えば花の話になったりするのだった。常人ならとても付き合いきれない。ただフレーズや単語を投げ合うのは会話とは見なされない。その場の話題によく対応し、一貫性のある私見らしきものを備えた、筋の通った意見の交換を経て初めて成立したと言える。
 でもわたしはこの瞬間だけ、本当の会話をしている気がした。
 一日分先送りにする。
 そこでは、また似たような会話の応酬。相変わらずところどころ噛み合わない。
 さらに一日分先送りにする。
 ずいぶん会話の内容が一致している。こういう日もたまにはあった。映像記録を観て初めて気づいたが、この日のわたしの声はいつもより甲高い。もし他人ならミュートを検討していたかもしれないほどに。我ながら鬱陶しい声色だ。
 視界がだんだんとひしゃげて見えてきた。みるみるうちに目の前がぼやけてきて、あふれでた分泌液が頬を濡らした。
 もちろん〈ビジョン〉のバグではない。
 バグったのは私だ。
  3
 かいつまんでではあるものの、徹夜で臨んだ映像記録の確認から得られた情報は結局一つもなかった。あの子はずっと間抜けであっけらかんとしていて、わたしは存外その様子を楽しんでいた、という事実だけが色濃く浮き彫りになった。今となっては知りたくないことだった。でももう、引き返せない。わたしの感情に終止符を打つためには、すべてを明らかにしないといけない。
 朝、両親との会話を文字通り機械的に済ませて家を出た。徹夜明けで疲弊した表情をご自慢のハイエンド〈ビジョン〉が看取ってか、パパとママは婉曲に学校を休むべきだと告げてきたが、わたしもわたしの〈ビジョン〉をフル活用して登校する旨の文章を生成させた。勝負に競り勝ったのか、二人のビジョンが会話の戦略を変更したのか定かではないが、最終的にわたしは登校を許された。まあ、まず間違いなく後者だろう。特にパパのは高級メーカーのフラッグシップモデルだ。価格は新車に引けを取らない。企業役員としてあちこちで折衝を行うパパは立場上、絶対に言い負かされたりしてはいけない。子供に買い与えるような価格帯の〈ビジョン〉に方針の転換を迫られるわけがない。相手が娘だから、ソフトウェアが手加減したのだと推測される。
 登校中、わたしは次の一手を考えた。わたしとの会話に落ち度がないなら、他人のを当たっていくしかない。もっとも、こちらの望みは極めてか細い。もし誰かが公然とあの子を傷つけて自殺に追い込んだのであれば、まず彼女自身の映像記録に残る。わたしたちが彼女の自殺そのものを疑っていないのも、おそらくは警察が映像記録をあたって結論を出したのだと理解しているからだ。正直、かなり嫌な気持ちだ。
 あの子がどんなふうに死んだにせよ〈ビジョン〉は何もしなかった。ストレスを計測してくれるし、健康状態もモニタリングしてくれるし、そう、会話だって補完してくれる。苦手な人を靄にして、声をノイズに変えてくれる。でも、自殺は止めてくれない。所詮は物理的距離がほぼゼロになった情報端末に過ぎず、わたしたちの肉体的な動きまでは制御できないからだ。
 これほどまでに社会や人間関係のあり方に手を加えて囲い込み、わたしたちの認識や価値観にも深く根を張っているのに、最後の最後でこうして突き放す。話す内容や喋り方を教えてくれても、言葉を口から出すのはわたしたちの「自由」で、どのメーカーもコミュニケーションの結果に責任を持ったりはしない。
 見方によっては、コミュニケーションの内容を考える余地や手段が失われ、責任だけがわたしたちの手元に残置された状態だ。目と耳にインプが宿っても、一向に口に宿らないのは、責任の所在が曖昧になってしまうからだろう。
 空を見上げると、わたしの機嫌とは無関係に一面の青空が広がっていた。成人ユーザはストレス値に合わせて天気を雨や曇りにできるらしい。そうするとなんだか共感を寄せられた気分になるのか、実際にストレス値も低減するのだとか。今、わたしはそれがとても欲しくてたまらない。
 自分の認識に沿わない現実が疎ましい。
 最寄り駅に着いた。歴史的経緯のために残された「改札口」とは名ばかりの開けた空間を通り過ぎたと同時に、わたしの〈ビジョン〉の登録情報を読み取ったスキャナが乗車料金を請求する。請求された金額は、登録情報に紐付けられた学生用乗車権で自動的に処理される。
 駅のコンコースに向かう道すがら、壁面のあらゆる位置で全共有型広告が光り輝いている様子が見えた。個々人の行動履歴にパーソナライズされた広告とは異なり、眼科クリニックの場所や知らないアーティストの音楽コンサートの告知が並べられている。行き交う人々の全員が同じものを見る――というところに何らかの訴求効果が発生しているのだろう。
 コンコースでは、電車が滑り込む線路とわたしたちを隔てるように緩く湾曲した壁が設置されている。その壁は床から天井までの全面が液晶ディスプレイになっており、次に来る電車の時刻や経路案内が表示されている。鉄道会社は余白を余白のままにしておくことをよほど恐れていたと見える。案内によれば、間もなく電車がやってくる。
 ディスプレイの向こう側で電車が静かに停車したのが判った。液晶ディスプレイの一部分が左右に動いて開き、次々と人間たちを車内へと呑み込んでいった。
 走り出してほどなくすると、車窓から商業ビルの立ち並ぶ都市の景観が見えてきた。築年数の新しいものはどれも壁面が平坦で、全共有広告を設置するのに相応しい素朴な色合いで塗装されている。繁華街では壁面だけに飽き足らずちょっとした立像やモニュメントまでもが広告の設置場所に仕立て上げられていたりする。今や一部の案内板や地図さえ全共有マッピングのグラフィックだ。
 音楽グループの派手な車内広告に目を留めていると、〈ビジョン〉が「興味あり」と判定したのか最新アルバムのサンプルを再生しはじめた。
 しばらくののち、ようやく校門前に着いた。周囲の生徒たちが発する騒音に若干顔をしかめつつも、わたしは何かあの子の件に関する噂が聞けないか耳をすませた。本当は〈ビジョン〉を目から引き剥がして、神崎志保の行方を追う方が効率的かもしれない。しかし暴力に訴えたところで万が一口を割らせられなければ、まず謹慎処分が下され学校に来られなくなる。次にメンタルヘルスチェックや予防精神科の診療が義務付けられ、面倒な事態にも陥る。なによりそうなればパパとママは全力でわたしを「保護」しにかかるに違いない。二人の〈ビジョン〉が愛する娘の精神衛生のために、チャイルドガード機能の強化を提案でもしたら、いっかんの終わりだ。そこで二人がちょっとでも眼球をずらせば、わたしの〈ビジョン〉は即座に機能を失う。
 わたしは晩秋の急速な気温低下ではなく文明の利器を捨てさせられる根源的な恐怖から身震いした。
 何はともあれ、慎重にやらなくては。
「絵美里ちゃん……? ああ、あの子ね」
 と、声を潜めて話す相手は、絵美里と席が近かった子だ。わたしとの面識は皆無に等しい。廊下の端に呼び出すために〈会話補完〉に打ち出させたダイレクトメッセージの内容は、もうほとんど記憶に残っていない。相手も相手で、きっと半自動でメッセージをやり取りしているうちに何となく面会する流れになったのだろう、対面した際はいかにも不安げだった。
「うん。あの子と話したことある?」
「そりゃあ……あるけど」
 相手の子は目を左上にそらしながらもごもごと続けた。出だしの反応の敏感さからして、補完を待つ前に素で返答してしまっている。
「話っていうほどじゃあ、ないかもね。あんま、言ってることよくわかんなかったし」
「噛み合ってなかった?」
「うん。天気の話をしてたから、調子を合わせたら急に銀河の話になって、かと思えば中間考査の話。正直、馬鹿にされてるのかと思った」
 相手は目を背けて言った。わたしはすかさず問いただした。
「ミュートしたの?」
「……うん。いや、だって、付き合ってられないでしょう、正直言って」
 相手の子の弁解に合わせて補完機能に会話を出力させた。
「そうだね。彼女はそれに気づいたようだった?」
「わかんないよ。わかんないけど」
 相手は会話の意味するニュアンスに気づいて、あわてて手を振りながら否定した。その後、明らかに補完された弁明が二、三繰り出されたが、こちらも同様のやり方で対抗しているので差分は生まれない。
「とにかく、絵美里ちゃんはたぶん、それからわたしには話しかけてこなくなった」
 わたしは奥歯をギリと一回噛み締めて、相手の子の不注意を密かに呪った。どう考えても、ミュートされていると気づいていたからに決まっているではないか。
「誰だってミュートくらいしてるでしょ」
「別に責めてないよ。話をしてくれてどうもありがとう」
 唐突に話を終わらせられたために相手の子は少々不審がっていたが、誰しも後ろ暗いところはあるものだ。責任を追及されそうな局面から解放されてホッとしたらしい。
 次に、わたしはあの子と同じ部活動に所属していた子を探し求めた。
 むろん、過去形だ。あの会話の噛み合わなさで部活動に精を出せていたとは思えない。実際、ただ登校して、授業を受けて、帰宅するだけなら〈会話補完〉を使う必要はないとも言える。授業中にオーバレイされるグラフィックを観たり、ノートを取ったりするのに〈ビジョン〉は必須だが、補完機能は人間関係を維持するためのものだ。事実、低廉なインド製には補完機能が付いていないモデルも多い。依然として高校受験の面接試験をどうくぐり抜けたか疑問は残るが……。
 うまい具合に噛み合った会話の記録によると、彼女は植物部に所属していた。
 いくつかの授業をやり過ごした後、わたしはすぐに学内ネットワークで植物部に属するクラスメイトを検索した。一名、ヒットした。男子だ。いくらでもマッピングで好きな植物を好みの状態、形状に保ったまま眺められる時代に、あえて思い通りにならない本物の植物を育てるという、理解不能な異常者の集まりだ。中間休みに当該の人物が一人になるタイミングを見計らって後をつけた。
 ついでに〈ビジョン〉のコミュニケーション方針をより厳格な形式に改めておいた。初対面の相手以上に注意を払わなければいけないのが、異性である。異性とのコミュニケーションは非言語的な要素に依存する部分が大きく、フラッグシップモデルの〈会話補完〉ソフトウェアでさえ正答率はあまり高くない。そのぶん属人性が上がってしまうのだ。
 そしてわたしは、そういうのが極めて苦手だ。ソフトウェアの不正確な部分を埋めるように、ユーザ自身が必要以上に口角を釣り上げたり声を甲高くしないといけない。
 だから異性と会話はあまりしたくない。コミュニケーションの評価は〈ビジョン〉が相手の表情や発せられた言葉の内容、トーンなどを分析してスコアリングしてくれるけども、異性が相手になるとしばしば当てにならなくなる。
 とはいうものの、今回ばかりは仕方がない。わたしはいかにも植物部の部員らしい、細枝を思わせる背中に向かって声をかけた。振り返るやいなや、すばやく〈会話補完〉の選択肢から適当に抜き取ったフレーズをまくし立てる。相手の男子はちょっとあっけに取られた様子だったが、事態が掴めてくると徐々に落ち着いた様子で〈会話補完〉を同調的に使ってきた。
「丹波さんか……うん、残念だったね。僕は正直耳に入れる気はなかったんだけど、やっぱり繋げてると入ってきちゃってさ」
 丹波というのはあの子の名字だ。眼前の男子は〈イヤホン〉を示唆するように指先で軽くいじった。
「植物部を辞めた、というか、来なくなったのは一年くらい前かな。率直に言って、たぶん僕のせいだと思う」
「あなたのせい?」
 〈会話補完〉のポップアップウインドウが赤色に点滅した。選択肢を無視した上に、声色も低かったせいだ。
「いや、なんていうか……」
「会話が噛み合わない?」
 また点滅したが強いて無視した。
「うん。……いや」
 彼は一瞬頷きかけたが、奇妙な仕草で首を傾げた。
「どっちなの?」
「噛み合わないのは……そうだけど、ていうか、みんな丹波さんのことをそう言うけど……前はそうじゃなったんだよ」
「前?」
「だから辞める前、いや、辞めるちょっと前」
 彼はまた首を傾げた。分析にかけるまでもなく神経質そうな男だということが伝わってくる。
「たぶん……って言ったのは、僕が何か言ったせいだとして、その理由が判らないからなんだよ。突然、あんな風になった」
 ひと呼吸置いて男子は続けた。
「結局、僕が彼女について知っていることと言えば、まあ、パンジーが好きだったってことくらいかな」
 しばらく予定調和の会話を続けた後、わたしは彼の元を後にした。今回のコミュニケーションのスコアリングはひどいものだったが、収穫は大きかった。話の運び方がトンチンカンなのは本人の性格ではなかったのだ。
 ちょうど廊下が突き当りに差し掛かったところで、右から左に歩く女子の姿が目に留まった。間もなく昨日いきなり話しかけてきた生徒と知れた。ミュートを全解除しているので、今はこの子の姿かたちがはっきり見える。
 つと、わたしはこの子が彼女のゴシップ情報を嗅ぎ回っていることを思い出した。あれから丸一日経っている。なにか新しい小話が訊ける見込みは十分にありそうだ。
「ねえ、ちょっと」
 正直な話、名前を失念していたために雑な呼び方になってしまったのは認めざるを得ない。もっと正面から姿を捉えれば〈ビジョン〉に照会させてプロフィールを取得できるが、いかんせんこの位置関係ではほとんど後ろ姿に近い。彼女は自分が呼ばれたことに気づかなかったのか、スタスタと遠くへ行ってしまいそうだった。
 業を煮やしたわたしは足早に追いかけて彼女の肩を掴んだ。掴まれた当人はいかにも意表を突かれた様子で身体を一瞬こわばらせた。
「あ、え――?」
 彼女は手に握っていた〈インターフェイス〉をぐりぐりと動かしてから「ああ、理沙ちゃんか」と言った。
「絵美里ちゃんのこと、なんか判った?」
 率直に訊ねると、答えはすぐに明瞭に返ってきた。
「なに、今さら気になったの? 悪いけど、なーんにも」
 大げさに顔を左右に振ってみせるリアクションがやけに癪に障った。こう言ったらなんだが、訊くべき相手ではなかったと後悔した。
 用済みと見るやいなや足早に会話を切り上げようとするわたしに対して、彼女は言った。
「ていうかさ」
「理沙ちゃん、あたしのことミュートしてたんじゃないの? どういう風の吹き回し?」
 ギュッと心臓が縮み上がった。わたしの主観的な感覚では一瞬の硬直だったが、おそらく本当は何秒間も固まっていたのだろう。不審な会話のトーンを検知した〈会話補完〉が助け舟を出してくれていたのに、わたしは返答目安猶予時間を超過してしまった。またしてもポップアップウインドウが警告音を鳴らして揺れた。
「いんや、別に気にしなくてもいいよ」
 プロフィールの参照を怠ったがために相変わらず名前も知れないクラスメイトは、あっけらかんとした様子で言った。
「まあ、あたしも理沙ちゃんのことはミュートしてたし。でも昨日は用があったからね」
 思うように口が開かないわたしを尻目に彼女は実に軽やかな足取りで廊下を歩いていった。
  4
 その時、わたしは視界の端で揺れ動くものを認めた。廊下の掲示版にマッピングされた告知物に靄がかかったのだ。すぐにその意味するところに勘付いた。昨日、今日、そしてついさっき。ひどくストレスを隆起させうる環境に身を置かれたせいで、きっとついに感情が爆発したのだと思う。外郭すらおぼつかない靄にすばやく手を伸ばして掴みかかった。
「あんた――ストーカーかなんかなの?」
 もはや逃げ切れないと悟ったのか、もともと逃げる気がなかったのか、神崎志保はあっさり自らの身体にかけたマッピングを解いて姿を晒した。
「ちょうど頃合いなんじゃないかと思って」
「なにがっ」
 反射的に声を荒らげたので〈ビジョン〉のメンタルヘルス機能が起動した。深呼吸を繰り返すと怒りが静まりやすいとの助言をわたしは強いて無視した。すぐにでも眼球をぐりぐりさせて機能を無効化したかったが、手に込めた力が緩みそうでできない。
「……標準服が延びるでしょ。いい加減離してくれる?」
「手を離して姿を消されたら困るんだけど」
 彼女はフフッと冷たく笑みを漏らした。
「〈ビジョン〉を剥がして後を追いかけるとか、そういう発想にならないところが今時っぽいね……チャイルドガードで機能は勝手に切れなくても、取ってしまえば終わりなのに」
「どうでもいいよ。あんたは何がしたいの」
「私の道筋を辿ってくれること。そしてそれはもうだいたい済んだ」
「え?」
「あの子の数少ない知人、友人から話を聞いたでしょ。それで……彼女の過去が判ったはず」

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title: "あらゆるものの口当たりが良すぎるんだ"
date: 2022-05-12T09:42:42+09:00
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tags: ["diary", "food"]
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今はもう過ぎ去りしゴールデンウィークの思い出。さすがに外出がランニングと買い物だけなのはどうかと考えて、ぶらっと散歩をした。道中で見つけた新規開店らしき『メロンパン専門店』にまんまと数枚の硬貨を剥ぎ取られ、帰宅してさっそくホカホカのそれを齧る。積年の記憶から縁遠い柔らかな食感と上品な甘さに僕は思わず顔をしかめた。
メロンパンというのはもっと表皮がゴツゴツとしていて、口腔内の水分をたちどころに収奪せしめる代物ではなかったか? いま食べているこいつはメロンパンとは名ばかりの高級菓子パンだ。生意気にも中にカスタードクリームまで入ってやがる。なんとまあ嫌らしい。それはそれとして味はたいへん美味しかったので2個買ってきたメロンパンはいずれも瞬時に胃袋に収まった。
小腹が満たされたところで積んでいた漫画を崩しにかかる。「SPY×FAMILY」は現在絶賛アニメ放映中の大人気作品につき、とりたてて説明は不要であろうからあえて注釈は書かない。1、2巻と順調に読み進み、さすがヒット作と言わしめる圧倒的な読みやすさに僕はやはり顔をしかめずにいられなかった。各キャラクターの個性がよく立っていてブレもなく、コマ割りの手慣れた感じはいかにも大ベテランの技量をうかがわせる。読者の視線移動を計算し尽くしたその絵作りは、絵を描いているというよりはもはや任意のモデルを予め決まった箇所に配置しているかのようだ。
物語も実に解りやすい。老若男女の誰がどう読んでも置いてけぼりにはなりそうもない。東西冷戦時代のドイツをモチーフにしてはいるものの、実際それらを意識しなければならない場面はまず見られない。名称の多くは語感ありきで利用されており「秘密警察」や「殺し屋」などといった不穏な役回りの主要人物が現に拷問や殺戮を行っているとしても、諸々のダーティな印象は後々のギャグシーンでまとめて払拭される作りになっている。
映画や小説ではもっと細かく描写を張り合わせないと整合性に欠ける局面でも、漫画という媒体においてはこのギャグシーンでの払拭がなにかとものを言う。本作はその持ち味を最大限に活用している。だからこそエンタメ性が低そうなシーンを大胆に切り落としても、物語の進行になんら影響を及ぼさないでいられるのだ。端的に言えば、本作からは良くも悪くも作り手のエゴがまったく感じられない。遅滞や迂遠がなく円滑に一直線に進んでいる。おかげで既刊すべてを読み切るのに映画一本分の時間しかかからなかった。とにかく口当たりが良すぎる。
**そう、口当たりが良すぎるんだ。なにもかも。** さっきのメロンパンもそうだし、SPY×FAMILYだってそうだ。近年の、ありとあらゆるものがそうだ。美味しくなかったのかと問われたらそりゃ美味しいし、面白くなかったのかと問われたらもちろん面白いと答える。だが、そういった感想の源泉が上等な奉仕を受けたことによる返報性の働きだとしたら、僕はちょっと評論の自信を失ってしまう。今しがたぺろりと食べた2個のメロンパンは、果たして本当に美味しかったのか ただ食べやすかっただけなんじゃないのか。
そこで僕はあえて口当たりが悪そうな代物で口直しをすることにした。口当たりの良さは本来当たり前ではない。あまりそれに慣れすぎると、コンテンツとの付き合い方が近視眼的になりかねない。ひとしきり日課の運動を済ませ、シャワーを浴び終えた午後8時過ぎ。僕は解凍した鶏むね肉をグリルで焼いた。塩と胡椒とクミンとその他少量のスパイスを振って焼いた。いつもの柔らかい鶏もも肉とは異なる、あのモサモサした鶏むね肉だ。ついでにチェダーチーズも載せてやった。
![](/img/117.jpg)
鶏むね肉をこういう形で食べるのはダイエット期間以来かもしれない。さほどカロリー摂取量に構わなくなった今では片栗粉をまぶして野菜炒めに加えることがほとんどだ。そうすると例のモサモサ感が和らいで格段に美味しくなるが、代わりに大量の油と調味料を用いるため当然カロリーは高くなる。一方、こいつときたらどうだ。ナイフで切り取った鶏むね肉を口に運ぶ。固い。噛みしめるたびに繊維質を纏った重厚な肉片が歯の隙間という隙間に押し入ってくる。口腔内の水分は一瞬で奪われた。牛肉と違ってジューシーな肉汁とかもない。ひたすらモサモサしている。
さらに肉を切り取って口に運ぶ。固い。延々と固い。だが、だからといってまずくはない。むしろこれはこれで美味しい。美味しいと感じるまでとにかく噛み続けなければならないだけだ。口当たりの良さと美味しさを混同すると、この類の味覚には気づけない。とはいえ、あのメロンパンは明らかにおやつだった。メインディッシュと比較するのはやや不公平かもしれない。おやつに口当たりの良さを求めるのはごく自然だからだ。
翌日、僕が猛然とイオンの買い物かごに投げ入れたのはかの有名なカロリーメイトである。僕は人生で数えるほどしかカロリーメイトを食べたことはないが、異様にモサモサしていたことははっきり記憶している。そしてこれはメインディッシュかおやつかなら、どうあがいても後者だろう。全部で5つもバリエーションがあったのは知らなかったが、とりあえず全部買ってきた。
![](/img/118.jpg)
しかしカロリーメイトが2本で1包装なのは想定外であった。本商品は1本あたり100kcalもある。1つの味ごとに2本、計200kcalも摂取していたら、全バリエーションを食べ終わる頃には食事同然になってしまう。やむをえず残った片割れはそれぞれ密封容器に移すことにして、2日に分けて味見を行った。
カロリーメイトを前歯に挟んで齧る。噛む。頭に響く咀嚼音からしてモサモサしている。言うまでもなく食感もモサついている。どのバリエーションにもほのかな甘みがあって美味しいが、それはそれとしてやはりモサモサしている。口の中を飲み物で勢いよく洗い流したくなる。最近では滅多に味わえない完璧なモサつき加減に感動すら覚えた。コーヒーとの相性は意外に良かった。
![](/img/119.jpg)
ちょうどKindle Unlimitedに再加入した直後だったので、口腔内にモサつきを残したまま光文社古典新訳文庫版の[「われら」](https://www.amazon.co.jp/dp/B084YSKWNH/)を新しく開いた。およそ100年前に出版された古典SFである。とても新訳とは思えない想像を絶する読みづらさに面食らう。文面を追うたびに脳に靄がかかるかのようだ。いずれ読み終わったら書評を書くつもりだがこの調子では何年先になるか判らない。
だが、決して退屈な作品ではない。コテコテのソ連的ディストピア世界の描写には古めかしさを認めつつもシニカルな笑いを誘うところがある。しかしそれらが当時を生きる人々にとっては厳しい実生活の書き写しでもあることにはたと気がついて、にわかに恐怖を抱いたりもする。現に著者のザミャーチンは本作がきっかけで亡命を余儀なくされたのだ。その手の歴史的経緯を見出すと、いくらか読書体験が悪くても俄然ものにしたくなってくる。古典にはそういう魔力がある。
こんな具合で僕のゴールデンウィークは不可思議な逆張りに費やされたわけだが、僕のやった行いが反権威としての逆張りだったかと問われれば大いに疑問が残る。そもそも口当たりの良いものばかりが目に留まるのは競争が激しすぎてそうでなければ売れにくいからであって、鶏むね肉やカロリーメイトや「われら」がそれに左右されないのは既に盤石な地位を築き上げているからに他ならない。
新参は最初の一口が勝負なのだ。手に取ってもらいやすいように口当たり良く仕上げるのはどう考えても当たり前だ。じゃあつまり、僕がやったことって結局は権威に従っただけじゃないか。ちくしょう。やられた。まあ、専門店のメロンパンは美味しかったし、SPY×FAMILYもなんだかんだで面白かったし、アーニャちゃんもベッキーちゃんもダミアンくんもみんなむっちゃ可愛いしな……。
ちなみにカロリーメイトはバニラ味とフルーツ味が同着で一番気に入った。

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title: "あらゆる状況が僕にコーヒー豆を煎れと告げていた"
date: 2023-07-31T12:33:52+09:00
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中年男性がハマりがちな趣味というものがいくつか存在する。蕎麦、チャーハン、パスタ、カレー……そしてコーヒー。多分に漏れず、僕も30歳に相成る過程でそれらすべてにしっかりハマってきた。だが、コーヒーだけは最後の一線に踏みとどまってこらえていた。なぜなら、生豆とさして変わらない価格で最高の焙煎を行う店があったからである。
[横砂園](https://www.yokosunaen.com)と名乗るその店は、コモディティの手頃な品種からスペシャルティの高級銘柄まで幅広く網羅していながら焙煎度合いも選べて、注文した当日中に発送もしてのける圧巻のホスピタリティとコストパフォーマンスを兼ね備えていた。今思えばありえない話だ。通常、どんなサービスや商品であっても速い、安い、良いのうち同時に二つしか満たせない。
すなわち、安くて良いものは遅く、速くて良いものは高い。さもなければ誰かにしわ寄せがいく。「よほどコーヒーが好きなんだなあ」などと能天気でいた僕ときたら、まったく救いようがない。実際には、店主ひとりの過酷な労働によって辛うじて成り立っていた商いだったのだ。
ほどなくして訪れた焙煎豆の販売終了は青天の霹靂、寝耳に水、驚天動地、どんな故事成語をもってしても表現しきれない恐慌を僕にもたらした。しかし、他の焙煎店の一般的な価格や業務に携わる従業員の数など、いわゆる業界の相場感について学んでいくにつれて、もともと長く続く商売ではなかったのだと納得せざるをえなくなった。
![](/img/202.png)
それからは流れの身のごとく焙煎店から焙煎店へと、横砂園の代わりを探し続ける不毛な日々がはじまった。むろん、そんなものがないのは解りきっている。踏み込んだことを言えば、そもそも存在すべきではないのかもしれない。いくら自営業でやっているからとはいえ過労に裏づけされた価値に持続可能性はない。だが、そうは言ってもあのコーヒー豆はうまかった。業界の標準的な価格帯ではあの味に敵う店はまず見つからない。かといって、高級店の豆には手が出ない。
そのような割り切れぬ葛藤を抱えつつも、コーヒーを切らしては困るので二番手、三番手の店の豆を買い続けた。これだって十分にうまい、一体どこに問題があるというのか? たかがコーヒーじゃないか――自分を納得させようとする偽りの声が次々と脳裏にこだまする。……むろん、本当は最後の選択肢が残されている事実にも薄々気づいていた。**そう、他人にやらせて納得できないのなら、自分でやればいいのである。** これはあらゆる嗜好の鉄則と言っても過言ではない。
そういうニーズに応える道具がすでに出揃っていることも僕は知っていた。なにも手網だとかフライパンだとか、さもなければ工事が必要なバカでかい業務用ロースターかの二択しかないわけではない。前者よりは疲れず、後者よりは手軽な選択肢がちゃんと存在している。手回し式の焙煎機だ。これなら何十分回し続けても全然疲れないし、工事も置き場所もいらない。れっきとした直火焙煎でもある。
なにより、形を変えて横砂園に貢献できる。かの店は焙煎豆の通信販売は止めたが生豆は取り扱っている。ここから生豆を買って自家焙煎すれば、彼らを過労させずして相互に利益を得られるのだ。あらゆる状況が僕に手回し式焙煎機でコーヒー豆を煎れと告げていた。であれば、これはもう煎るしかあるまい。そう決心した。
購入した手回し式焙煎機は[アウベルクラフト](https://www.auvelcraft.co.jp)という製品だ。直営代理店で購入すると600gの練習用生豆が付属する。組み立てにはドライバーと30分弱の時間を要するものの、構造はそう複雑でもなく一度組んでしまえば二度目以降はフィーリングでなんとかなりそうな印象を受けた。収納場所にあてがあるなら組み上がった状態で保管したっていい。なにげに交換部品が[併売されている](https://www.shiinoki-coffee.com/shop/parts.html)のも嬉しい。
![](/img/203.jpg)
完成するとこんな感じになる。言うまでもなく使い方は直火にかけて回すだけだ。強いて挙げるなら、毎秒一回ずつ回すのがコツらしい。だいたい12分後に最初の状態変化1ハゼと言うが起きて、これが止んだ直後に焙煎を終了すると浅煎りができあがる。さらに2分ほど続けて2回目の状態変化2ハゼが起こったところで終了すると中煎り、なおも続けると中深煎りや深煎りに進む。
とりあえず僕は中深煎りを目指して、最終的に深煎りで済めばいいと考えた。この手の作業の初回は大抵なんらかの形でタイムロスが発生する。それに、想定されうる現象の後ろの方まで確認しておきたいモチベもあった。結論から言うと、おおむねその通りになった。説明書きによれば、中煎りの段階に突入する2ハゼ発生から深煎りまでの間には約40秒しか猶予がないと言う。1ハゼまでは悠長に12分も回すだけなのにえらい急速な変化具合だ。焦らないはずがない。
<iframe src="https://mystech.ink/@riq0h/110801287306955996/embed" class="mastodon-embed" style="max-width: 100%; border: 0" width="1400" allowfullscreen="allowfullscreen"></iframe><script src="https://mystech.ink/embed.js" async="async"></script>
なにしろ合計14分以上も直火に炙られた金属は相当に熱い。軍手をしていようがミトンをはめていようが熱いものは熱い。にも拘らず、こいつを台座から引き剥がして、ネジを緩めて、蓋を開けて、ちょっとずつしか出てこないコーヒー豆を全部振り落とし切るまでひたすら保持していなければならない。その上、小休止さえ許されない。焙煎は余熱でも勝手に進んでいくからだ。
そういうわけで散々手間取った結果、中深煎りのつもりで火から下ろしたコーヒー豆は計画通りほとんど深煎りの顔をしてザルに上がった。でもまあ、上出来じゃないか? 僕は深煎りも好きだ。ひたすらドライヤーの強風に当てて冷ました煎りたての豆を一つつまんで、かじる。鮮烈な苦味の奥に備わった甘みと香味のディティールを感じて、おおよその成功を確信した。うまくいったなこれは。
![](/img/204.jpg)
なぜこんな回りくどい寸評をしているのかというと、焙煎直後のコーヒー豆は味が暴れていて正しい評価が行えないためだ。ここまでの文章は焙煎当日の日曜日に書いているが、まだ淹れたコーヒーは飲んでいない。明日の朝にそれを飲んだ僕がこの後の続きを書く手はずになっている。
**〜〜〜〜翌日〜〜〜〜**
正直なところ、僕はみじんも不安を抱いていなかった。豆をミルで砕いた際に漂う清香、湯を注ぐと立ちのぼる豊穣な芳ばしさ、フィルターの上でむくむくと旺盛に膨れる粉……一切の要素が僕に揺るぎない自信を与えた。お気に入りのマグカップにとぽとぽと注いだそれに口をつける瞬間に至るまで、僕は一時の高揚を超えた涅槃の境地に達していた。ズズズ……(コーヒーをすする音)
![](/img/205.jpg)
**……あまりにもうますぎてUMAUnidentified Mysterious Animalになった。** あれほど恋い焦がれていた直火焙煎のワイルドな味わいが今ここにある。アウベルクラフトの製品設計が特別に優れているのか、それとも僕に焙煎の才能があったのか、できれば後者だと嬉しいがいずれにしてもすばらしい。初回でこの出来栄えなら後はますます良くなる一方だ。
もはや僕は焙煎豆を買う理由を失った。蕎麦打ちのためにこね鉢とめん棒を買い、チャーハンのために中華鍋を買い、パスタのためにギリシャ産オリーブオイルを買い、カレーのためにスパイスを買い、性懲りもなく今日まで続けてきた僕に最後のフロンティアが現れた。他の愛すべき道具たちと同じようにこの焙煎機とも長い付き合いになりそうだ。ついでに言っておくと、焙煎後の臭いも家中にだいぶ長く残る。

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@ -0,0 +1,214 @@
---
title: "かゆいところに手が届くインスタンス運用の初級テクニック集"
date: 2023-07-22T20:47:25+09:00
draft: false
tags: ['tech']
---
ソロインスタンスを建ててそろそろ2週間が経とうとしている。おかげさまで絶好調だ。本稿では僕がMastodonインスタンスの運用を改善していく上で、手頃ながら日本語情報が乏しかった情報について取り上げる。
## SSLの対応をCloudflareに丸投げする
>**前提**
>・運用中のドメインをCloudflareで管理しているか、またはネームサーバを向けている。
>・CloudflareのSSL/TLS設定で暗号化モードを **フル(厳密)** に設定している。
各種の文献ではインスタンスを建てる過程でLet's Encryptを紹介しているものが多い。確かにこの証明書は様々な用途において気安い選択肢だが、反面、3ヶ月に1回の更新作業が地味に面倒だったり、cronで自動化してもなぜかcertbotがコケていたりと微妙な使い勝手の悪さは否めない。
そこで、僕はSSLの対応をCloudflareに丸投げすることを提案したい。多少の面倒を押してひとたび設定してしまえば以降は二度と証明書の顔を見なくて済む最高の選択肢がここにある。まずはCloudflareのページから運用中のドメインを指定して、**SSL/TLS → オリジンサーバ**へと進む。
![](/img/200.png)
次に「証明書を作成」をクリックして画面下の「作成」を押す。設定項目は特にいじらなくても差し支えない。証明書の有効期限はデフォルトで**15年間**となる。西暦2038年7月22日……。その頃には紙より薄いスマホの上にインスタンスが建っていそうだ。
暗号鍵が作成されると画面上に文字列が現れるので、速やかにコピペして指示通りの拡張子で保存する。この画面は再び開けないため、インスタンスを動かしているサーバ上だけでなく安全なローカル環境にも予備を保存しておくのが望ましい。サーバにそれぞれの鍵を保存したら、先にLet's Encryptで発行したSSL証明書を削除する。以降の操作はroot権限で行う。
```bash
$ certbot revoke --cert-path /etc/letsencrypt/live/あんたのドメイン名/cert.pem
```
実行確認を承諾すると証明書は直ちに失効される。cronを設定している人は`crontab`を実行して自動更新も忘れずに解除しよう。続いて、nginxの設定に進む。手始めに必要なディレクトリを作成してCloudflareの暗号鍵を移動する。
```bash
$ mkdir /etc/ssl/certs
$ mkdir /etc/ssl/private
$ mv あんたのドメイン名.pem /etc/ssl/certs/あんたのドメイン名.pem
$ mv あんたのドメイン名.key /etc/ssl/private/あんたのドメイン名.key
```
移動したら任意のエディタでnginxの設定ファイルを編集する。
```bash
$ vim /etc/nginx/sites-available/あんたのドメイン名.conf
ssl_certificate /etc/ssl/certs/あんたのドメイン名.pem;
ssl_certificate_key /etc/ssl/private/あんたのドメイン名.key;
```
編集後、念のために`nginx -t`でエラーを確認して問題がなければ`systemctl restart nginx`でnginxを再起動する。Web UIに接続して証明書の有効性が確認できたら作業は完了だ。
## データベースのバックアップをCloudflareに丸投げする
>**前提**
>・Docker環境でインスタンスを動かしている。
誉れ高き丸投げシリーズその2。どんどん丸投げしていこう。我々はすでに巨人の肩に乗っているし、どうせ今さら降りることなどできない。Cloudflareのページで**R2 → 概要**と進んでバケットを作成する。バケットの名前はなんでも構わない。ついでに設定から自動削除をスケジュールすると容量の節約になる。
![](/img/201.png)
次にwranglerを導入する。wranglerはCloudflareのWorkerをCLIで動かすツールだが、**ほとんどのインスタンス運営者が使用しているUbuntuやDebianでは簡単にインストールが行えない。** aptコマンドでインストールされるNode.jsのバージョンが古すぎるためにエラーを起こしてしまうのだ。したがって、wranglerを導入する**前に**最新のNode.jsをインストールしなければならない。
```bash
# すでに古いNode.jsが入っている場合はアンインストールする。
$ apt purge nodejs
$ curl -fsSL https://deb.nodesource.com/setup_current.x | bash -
$ apt install nodejs
```
dpkgに怒られが発生した時は`sudo dpkg -i --force-overwrite /var/cache/apt/archives/nodejs_20.5.0-deb-1nodesource1_amd64.deb`で強制的に上書きするとうまくいく。バージョン部分の`20.5.0`は本稿執筆時点での最新の数字なので適宜書き換えられたし。
最新のNode.jsを手に入れたところでようやくwranglerのインストールに入る。npmを導入していなければこれも`apt install npm`で予めインストールする。
```bash
$ npm create cloudflare@latest
# この後、色々訊かれるが指定すべき選択肢は以下の通り。
・Ok to proceed?
→ Yes
・In which directory do you want to create your application?
→ プロジェクトディレクトリの命名を行う。適当な名前でいい。
・What type of application do you want to create?
→ type Scheduled Worker (Cron Trigger)
・Do you want to use TypeScript?
→ no
・Do you want to deploy your application?
→ no
```
作業が完了したら命名したディレクトリに移り、`npx wrangler login`を実行する。URLが表示されるのでコピペしてブラウザに貼り付けるとCloudflareの認証画面が現れる。**しかし、SSH越しに実行しているかぎりこの認証は絶対に失敗する。** 認証情報をlocalhostに渡しているせいで照合が成立しないからだ。今回はちょっとした荒業でこいつをくぐり抜けたい。
一旦、愚直にコピペしたURLで認証を行なって失敗してみると、ブラウザのアドレス欄からlocalhostの8976番ポートと通信を試みていた形跡がうかがえる。つまり、このURLをサーバの固定IPアドレスに書き換えれば期待通りの挙動に変化すると考えられる。そこでまずはサーバ側の8976番ポートを開けて準備を整える。ufwはとても簡便なファイアウォールフロントエンドなので、知らなくともぜひ導入してみてほしい。
```bash
$ ufw allow 8976
$ ufw reload
```
ポートを開いた状態で例のURLの`localhost:8976`の部分を`あんたのサーバのIPアドレス:8976`に書き換えてエンターを押す。うまくいけばたちまち認証が完了してサーバ上でwranglerが使えるようになる。開いたポートはもう使わないので確実に閉じておく。
```bash
$ ufw deny 8976
$ ufw reload
```
以降はインスタンスを動かしているユーザに切り替えて非root環境で作業を行う。ここまで来たところで、試しにバックアップ作業を手動で実行する。
```bash
# pg_dumpでバックアップを取得してgzipで固める。userとdbの部分は各自の環境に合わせて変更すること。
$ sudo docker exec mastodon-db-1 pg_dump -Fc -U user db | gzip -c >> backup.gz
# バックアップファイルに権限を与える。
$ chmod 774 ./backup.gz
# wranglerのプロジェクトディレクトリに移動する。
$ cd /home/ユーザ/プロジェクトディレクトリ
# バックアップファイルをCloudflare R2にアップロードする。この際、ファイル名を現在時刻に書き換える。
$ sudo npx wrangler r2 object put "あんたのバケット名/$(date +\%Y\%m\%d_\%H-\%M-\%S).gz" --file=/home/ユーザ/インスタンスのディレクトリ/backup.gz
# 元のバックアップファイルを削除する。
$ rm /home/ユーザ/インスタンスのディレクトリ/backup.gz
```
一連の動作が間違いなく完了するのを確認した上で、同様の処理内容をシェルスクリプトにしたためる。これでいつでもワンタッチでバックアップを巨人の口にねじ込めるという寸法だ。作成したスクリプトは`chmod +x ファイル名.sh`で実行権限を与えてから`sudo ./ファイル名.sh`で発動する。
```bash
#!/bin/bash
echo "Backup begin..."
cd /home/ユーザ/インスタンスのディレクトリ/
docker exec mastodon-db-1 pg_dump -Fc -U user db | gzip -c >> backup.gz
chmod 744 ./backup.gz
echo "Success!"
su - ユーザ << bash
echo "Uploading to Cloudflare R2..."
cd /home/ユーザ/プロジェクトディレクトリ/
npx wrangler r2 object put "あんたのバケット名/$(date +\%Y\%m\%d_\%H-\%M-\%S).gz" --file=/home/ユーザ/インスタンスのディレクトリ/backup.gz
rm /home/ユーザ/インスタンスのディレクトリ/backup.gz
bash
```
上記のスクリプトをcronに登録するとバックアップ作業の自動化が達成できる。
```bash
# rootで実行する。
sudo crontab -u root -e
# 毎日午前5時に指定された場所のスクリプトを実行する。別に好きな時間でいい。
0 5 * * * sh /home/ユーザ/ファイル.sh
```
最高だね。面倒なことは全部機械にやらせよう。ただし、cronのやつは油断すると裏切るのでたまにCloudflareのバケットを見に行った方がいいかもしれない。
## Mastodonのリモートメディアを確認して削除する
>**前提**
>・Docker環境でMastodonインスタンスを動かしている。
Web UIのサーバ設定でもリモートメディアを自動削除するようにできるが、具体的に何GBのキャッシュが存在していて何GBぶん減らせたのか判らないところがちょっと物足りない。下記の平易なスクリプトでそれを補える。
```bash
#!/bin/bash
cd /home/ユーザ/インスタンスのディレクトリ/
echo "Check media usage..."
docker-compose run web bundle exec bin/tootctl media usage
read -p "Enter to proceed..."
echo "Removing..."
docker-compose run web bundle exec bin/tootctl media remove -d 1
echo "Done."
```
この記述例ではメディアの使用量を照会した後に処理の続行を確認して、Enterキーを押すと24時間以前のリモートメディアが削除される。予期せぬ請求やストレージの圧迫を避けるためにもそれなりの頻度で実施しておきたい。
## Mastodonの投稿読み込み数上限を破壊する
>**前提**
>・Docker環境でMastodonインスタンスを動かしている。
Mastodonは投稿の読み込み数に制限がある。おそらく負荷対策だろう。過去の投稿は最大で800までしか読み込めない。いちユーザの立場では変えられないゆえ不便を被っている者も少なくないと思われるが、我々は圧倒的権力を誇る鯖缶だ。いくらでも好きな数字に書き換えられる。
```bash
# mastodon/app/lib/feed_manager.rb
MAX_ITEMS = 2000
```
さしあたり僕は2000にした。編集後は`sudo docker-compose build`で再ビルドしなければ反映されない。これで深夜帯に蓄積された投稿の一部しか読めないなどという理不尽から解き放たれる。
## Mastodonの文字数上限を破壊する
>**前提**
>・Docker環境でMastodonインスタンスを動かしている。
500文字もあれば十分と思いきや、ここ一番の時に足りない場合が意外とあったりする。実装系にもよるがだいたいどれも8000文字くらいは受け取れるらしいので不要は制限は予め取り払っておいた方が楽だ。さしあたり僕は9999文字に設定した。ここでは2つのファイルを編集するが、当該のファイル内を「500」で検索すれば容易に修正箇所を見つけることができる。
```bash
# mastodon/app/javascript/mastodon/features/compose/components/compose_from.javascript
return !(isSubmitting || isUploading || isChangingUpload || length(fulltext) > 9999 || (isOnlyWhitespace && !anyMedia));
};
<CharacterCounter max={9999} text={this.getFulltextForCharacterCounting()} />
```
```bash
# mastodon/app/validators/status_length_validator.rb
class StatusLengthValidator < ActiveModel::Validator
MAX_CHARS = 9999
```
こっちでも再ビルドを忘れてはならない。余談だが、最近華々しいリニューアルを果たしたMisskeyフォークの[Firefish](https://joinfirefish.org)は一瞬だけ最大文字数を2億5000万文字に設定できたらしい。いい心意気だ。

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@ -0,0 +1,42 @@
---
title: "さようなら、いままで絵文字リアクションをありがとう"
date: 2023-06-19T08:25:43+09:00
draft: false
tags: ['essay', 'tech']
---
どうやら僕にとって絵文字リアクションは過ぎた代物でしかなかったらしい。もうすぐそれが通用しない場所に出戻ってしまうけれど、かつて僕の投稿を可愛いアイコンで彩ってくれた人々に感謝の意を表したい。なにしろこれから絵文字リアクションをぶっ叩く持論を展開するので、まずそう言っておかなければならない。
AP実装で初めて絵文字リアクションに触れた場所は言わずもがな、Misskeyの旗艦インスタンスであるmisskey.ioだった。当時、絵文字リアクションがもたらす広範な表現様式に魅了されたのは確かであったし、ioのデータ消失事件をきっかけに移住を余儀なくされた後も「絵文字リアクション対応」は僕の中で常に一定のプライオリティを保っていた。
絵文字リアクションはハートやスターでは表しきれない多様な文脈をアイコン一つで伝達することができる。なにかと直接リプライを送り合う気勢に乏しい我々の文化圏においてこれは、まさに革命的な機能であったと言っても過言ではない。様々な問題を抱えつつもmisskey.ioがFediverseの世界で強力な存在感を発揮しているのは、この絵文字リアクションによるところが大きい。
というのも、Fediverse上のユーザ人口でいえばmisskey.ioは国内トップではない。一番手にはpawoo.netがおり、二番手にもmstdn.jpがいる。後者の方でさえ総人口はioの約2倍だ。にも拘らず、これらのインスタンスと比べてもより多くの耳目を集めているのは、やはり絵文字リアクションの視覚表現が物を言っているのだと考えられる。与謝野晶子はさすがにもう飽きられたかもしれないが、今はきっと僕の知らない別のミームが流行っているのだろう。
しかし、これこそが絵文字リアクション文化の最大の利点で、かつ欠点と言える。ハートやスターはいくぶん地味でも表現形としては堅牢で「ハートやスターを送られることに飽きる」などという事態はSNSそのものに飽きないかぎりは起こりえない。それしかなければそれが唯一の表現様式に収まるからだ。13年以上Twitterをやっていても、相変わらずいいねは嬉しい。
他方、絵文字リアクションは選択肢である。日々、増大するリストから投稿内容に合わせてどれかが選ばれる。流行りのミームに依存するリアクションは賞味期限が短い。先月には爆笑できたものも先週は薄笑いに留まり、いつしかちょっと胸焼けを覚えはじめる。受け手がこうなら送り手も空気を読む。結果、たとえ候補が100あろうと1000あろうと使い慣れたうちのいくつかが「無難な選択肢」として使い回されることになる。
定型句に定型句で応酬するインターネットに毒されたコミュニケーションのように、朝の挨拶には:ohayo:を送り合い、なにかをしたら:igyo:を送り合う。そもそも自分で選ぶ手間さえいらないかもしれない。この手のはどうせ誰かがすでに貼りつけているので、便乗してボタンを押すだけで済む。タイムラインに流れる投稿はだいたいどれも一様に:igyo:だ。
このようにして安易に擦られ続けた:igyo:はもはや大して偉業でもなんでもなく、早晩に互助的ないいねと同等かそれ以上にぞんざいな印象を受けるようになるだろう。ハートかスターしか送れないのならともかく、100も1000も他にリアクションがあるのに反応が使い回されているという認識が印象をより退屈にさせる。
一方で、うまく人々の注目を集めた一部のユーザには惜しみなくリアクションが付与され、あるいはその人自身が新しいミームを創出する特別な存在と化す。リッチな視覚表現は時に1000のいいねと100のいいねよりもえげつない格差を人々に見せつける。すると自分にあてがわれる機械的なそれはいよいよみすぼらしく映り、リアクション目当ての奇異な振る舞いや大量の再投稿が悪目立ちして、白けたユーザから順にインスタンスを抜けていく。加速しすぎたコミュニティはえてして長続きしない。
かといって中小規模のインスタンスに逃げても課題は残る。LTLの流れが緩やかであったりテーマが予め定められていることが多いこれらのインスタンスでは、落ち着いた会話を行える言論環境が暗黙に望まれている。5秒で投稿を読んで2秒後には:igyo:を送るリアクションシューティングとは異なり、一つ一つの投稿をじっくりと捉える向きが各々に期待されているのだ。
しかし、一つのアイコンで多くの文脈を伝えられる絵文字リアクションがまたしてもそれを妨げる。本来ならリプライなどで自分なりの見解を表明すべきところを、人々はついリアクションに代理させてしまう。基本的な承認としての機能しか持たないハートやスターでは起こりにくい問題が絵文字リアクションではかくも避けがたい。表現力が豊かすぎる絵文字リアクションによって、真に求められている文章表現がスポイルされているのである。
一連の問題点はコミュニケーションが攻撃的な形態に移行するといっそう邪悪な様相を帯びはじめる。通常なら悪くても引用か空リプで批判を投げつけられる程度だが、絵文字リアクションが有効なインスタンスでは片方に罵詈雑言の意匠が10も20も集まり、もう片方には称賛が寄せられるといった、もはや内容に関係なく薄気味悪い状況がグロテスクに可視化されることとなる。
クソリプはクソなりに言い返せてもクソリアクションをつけてきただけの相手には手も足も出ない。だが、投稿に貼りつけられた大量の罵倒リアクションは野次馬たちを着実に調子付かせ、さらなる攻撃を盛んに呼び込み続ける。殊にインスタンスをまたぐ対立では身内意識が拍車をかけるのか、動員に長ける巨大インスタンスの集団が中小規模インスタンスのユーザをいじめる事例が幾度となく観測されている。可視化しなくていいものまでもが過剰に可視化されている。
つまり、絵文字リアクションは我々に豊かな表現力を提供しているようでいて、実際にはもっと上手に言い表せたかもしれないなにかを削ぎ落とし、逆にもっと穏当に済ませられたかもしれないなにかを増幅せしめている。DiscordやSlackと違って各自がそれぞれのタイムラインを持つSNSにおいてこれは、実用性や可読性と引き換えにするには分の悪いトレードだと僕は考える。
結局のところ、僕が志向するコミュニケーションとはなにがしかの文章表現に根ざすものだったらしい。引用だろうと空リプだろうと自分なりの見解を書き記した文章によって始まり、無責任な他人の横槍や双方のインフルエンスに左右されない形が好ましい。そこへいくと、絵文字リアクションを前提としたSNSの在り方はいささか負の側面が強すぎると評せざるをえない。
関連する実装系の将来にも暗雲が立ち込めている。CalckeyはMisskeyよりも洗練された開発方針で堅実に修正を重ねているが、対して[Metaが開発しているAP実装のSNS](https://gigazine.net/news/20230609-instagram-meta-competitor-threads/)はほぼ間違いなく絵文字リアクションを受けつけないだろう。どんなに頑張ってもじきにFediverseへ訪れるであろう世界ン億人のユーザは、あらゆるリアクションを一切見てくれないのだ。
以上の理由から、僕は絵文字リアクションの文化圏から遠ざかることにした。リアクション自体が目に留まらなければひとまず書かれた文面に集中できるし、MetaのAP実装と長期的に渡り合えるのはおそらくMastodonぐらいしかない。今しがた引っ越しが完了して僕のFediverse上のアカウントは ~~[Vivaldi Social](https://social.vivaldi.net/@riq0h)に統合された。~~ [追記:ソロインスタンスを建てた。](https://riq0h.jp/2023/07/15/212117/)
あれこれ言っても僕が好きなのは、:igyo:よりもblobcatよりも皆さんの文章だった。さようなら、いままで絵文字リアクションをありがとう。これからはそのどれもがスターに変換されてしまうけれど、今後ともよろしく。

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@ -0,0 +1,33 @@
---
title: "どこからが「政治的」なのか"
date: 2021-06-26T16:13:45+09:00
draft: false
tags: ["politics","essay"]
---
天皇陛下がオリンピック開催にご懸念を表明あそばされたことで、左右も上下もてんやわんやの大騒ぎになっている。
左派はたいてい共和主義者なので君主の権威には否定的なはずだが、殊ここに至っては「天皇にハシゴを外されてやんの」といった右派に対する報復感情が先行しているのか、意外にも件の表明に首肯する人が少なくない。僕も左派だから気持ちは解らないでもないが、君主の言葉に影響されて政治が動く方こそよっぽど恐ろしい。議会政治はどこへ行った?
右派は右派でこれと一見同じ穏健ぶった主張をしているものの、仮に陛下がオリンピック開催に熱烈賛成だったらきっと立場が逆転していただけなんだろうな。まったく、政治はプロレスじゃないんだぞ。使い勝手の良い武器が降って湧いたからといって好き勝手に振り回すんじゃない。ちゃんと後々のことも考えてくれ。
とはいえ、奇妙な点もある。僕もみんなも件の表明が**本当に政治的な発言か**大して厳密に考えていない気がするんだよな。建前でいえばオリンピックは平和の祭典、スポーツ大会であって、ナショナリズムとも政治とも無縁のはずじゃなかったか。だからオリンピックの主催当事者は国ではなく都市ということになっている。日本オリンピックではなく**東京**オリンピックなんだよ。
例えば甲子園やマラソン大会が行われることになったとして「こんな時期にやるのは心配だなあ」と言ったら、その人は政治的発言をしたことになるのか? 政治・宗教・野球の話が戒められる場だったら「君、そういうのはちょっと……」と諌められる? マラソン大会だったらそんなことない? でもこれがオリンピックだと、なぜか政治的発言になっちまうみたいなんだ。おかしいな。
そろそろすっとぼけたふりはやめておくか。事実、オリンピックは政治そのものだ。言うまでもなく多額の資金があちこちに流れているし、その恩恵に与るために働く人たちが大勢いる。政治家は人々の後援を受け、オリンピックを通じて支持者の利益を最大化する。万が一、中止にでもなったら彼らはとても困る。面子丸つぶれどころの騒ぎではない。今後の進退にも関わりかねない。したがって、オリンピック開催への賛否はれっきとした政治的発言になりうる。Q.E.D. 証明終了。伏せカードを2枚置いてターン終了。
なんだけれども、普段は「政治の話は好きじゃない」と言う人でもオリンピック開催については割とぼちぼち賛否を表明していたりする。なんらかの理由で急に政治的じゃないことになったのか、情勢的に気兼ねせず言えそうだから言っているだけなのか、よく解らない。
ここにさらに追加の補助線を引くと、このテーマはもっと深堀りができる。**そもそも政治的かどうかってどこで決まっているんだろうね?** 僕のタイムラインはもともと政治力高めのデッキ構成だからか、そこらへんの機微はあまり読み取れない。しかし、主にIT系のフォロー各位の間にはなんとなく政治性を忌む空気が漂っている気配がする。中には、あるコラム記事をリツイートしてまで賛意を寄せていたのに「後半はなんか政治的な内容だったからやっぱ無し」と訂正を加える人までいた。断っておくが、この彼はとても聡明でウィットに富んだ人物だ。
そういう人たちにはぜひとも訊いてみたい。**君らは一体どこで線引きしているの?** って。もし、ワイン樽に一滴の汚水が垂れたらそれはもう樽いっぱいの汚水でしかない、というくらいにまで厳格に――かなた遠くのジャングルの奥地まで――線を引いているというのなら、むろん、オリンピック開催への賛否など表明できやしない。というか、ほとんどどんな発言もできなくなってしまう。まったく政治性のない発言をすることはかえって難しい。「賃金上げろ」とか「残業減らせ」といった愚痴だって、まごうことなき政治的発言だ。まさかそれだけはナチュラルでプリミティブなオーガニックコットン100の意見だとか思ってないよな かつて労働者の権利を勝ち取るために、王侯貴族や資本家の首を次々とちぎっては投げた歴史を忘れたか
まあ、言いたいことはわかる。たぶん君らの中にオレオレ基準があって、そこから外れたものを一律に政治的と括って除外しているんだろう。理屈はどうあれ、とにかく目に入れたくないから。だが、それって左派が右派の発言を見ないようにしたり、あるいはその逆をする作為となにが違う? かの陰謀論者だって科学的な主張にいちいち反論しているわけじゃないぞ。各々でブロックしたりミュートしたりしてるだけだ。**そして、おのずと耳触りの良い意見にばかり囲まれていく。**
つまり、君らのプレイスタイルは今挙げた連中と本質的にはさほど変わらない。 **「自分の気に入る話は政治的ではない」** っていう、超恣意的なエコーチェンバーをせっせと作り上げているだけなんじゃないのか。下手をすりゃあ、はっきり自覚して左右に偏ったやつより君らはズレているかもしれないぞ。君らは自分で思っている以上に既に政治的なんだ。
もっと恐ろしい話もある。もし明確な根拠なく政治性を線引きしているとしたら、**君らの握るライン引きは他の誰かにとって容易に操作可能かもしれないってことだ。** 大日本帝国の末期、鬼畜米英を屠るために命を賭してでも立ち向かっていくことは国民の義務だった。彼らはそれが「政治的」だなんて微塵も考えてはいなかった。むしろ戦争に反対する側が「政治的」――ややもすると「アカ」と蔑まれ、リンチの対象でありさえした。手を振り上げる彼らは別に極右ではない。ごく普通の、模範的な市民だった。
正直、僕は「政治の話は好きじゃない」と言う人たちが、ちょっと怖い。しばしば意見が対立する右派は時として小憎たらしいが、思想をひた隠しにしないぶん想像はつきやすい。隠される方がずっと怖い。君らにとってはきっと左派や右派の方こそ、延々と口喧嘩を繰り返しているように見えておっかないのだろう。しかし、僕たちの視界にはまた違った光景が映っている。
僕は左派であり自由主義者なので、嫌いな話を無理に聞かせることは好まない。ただ、できればこれも一つのものの見方だと考えて胸に留めておいてほしい。

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title: "もぅマヂ無理数。"
date: 2021-07-07T20:44:40+09:00
draft: false
tags: ["math"]
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「このテーマで一本いける」と確信した時は、たいていキャッチーなフレーズが頭に浮かぶ。一通りググってみたが同じ言い回しは見当たらなかった。本エントリでは**無理数がマヂ無理になった数である「超越数」** について、自己理解の充足を兼ねた解説を記す。
## そもそも無理数とはなにか
実数の世界は有理数と無理数で構成される。有理数にはわれわれが普段から親しんでいる数の大半が含まれる。ざっくばらんに言って、**2つの整数を用いて分数で表せる数はすべて有理数、表せない数が無理数となる。** たとえば、整数の**1、2、3…** はそれぞれ$\frac{1}{1} \frac{2}{1} \frac{3}{1}$…と分数で表せるため有理数となり、**0.1、0.2、0.3…** のような小数も$\frac{1}{10} \frac{2}{10} \frac{3}{10}$…と変形できることから同様に有理数である。
また、小数点以下が規則的に延々と続く**循環小数**も有理数に含まれる。まず、循環小数 **0.333…** を**a**と置き、10倍する。この時、**10a**の中身は **3.333…** と小数の位が繰り上がっている。**10a**から**a**を引くと**9a**となり、延々と続く小数点以下の部分が除かれる。**3.333… 0.333…)** よって**9a=3**。**a**の値は$\frac{1}{3}$。したがって**循環小数a**は有理数として表される。
一方、代表的な無理数に$\sqrt{2}$が挙げられる。**$\sqrt{2}$は絶対に整数を用いた分数で表すことができない。** なぜか?
$$
\sqrt{2}<無理
$$
仮に$\sqrt{2}$を**有理数と仮定した**場合、以下のように2つの整数を用いて**既約分数**(これ以上割れない分数)で表せなければならない。
$$
\sqrt{2}=\frac{a}{b}<無理じゃねンだわ
$$
ここで両辺をともに2乗して変形すると下記の形になる。
$$
2=\frac{a^2}{b^2}
$$
$$
2b^2=a^2アワワ
$$
この時、左辺に2が掛かっていることから右辺は偶数であり、**aは偶数。** 続いて、偶数aを **2a'** と直し、以下の形に表す。
$$
2b^2=(2a')^2アッ
$$
$$
b^2=2a'^2アッアッ
$$
**2a'**は偶数なので**bの2乗も偶数。よってbは偶数。** しかし整数a、bがともに偶数とすると、前述の **「2つの整数を用いた既約分数」** に矛盾する。**(ともに偶数であればさらに割れなければならない)** 以上から、$\sqrt{2}$は有理数ではない。したがって無理数である。
$$
\sqrt{2}<やっぱ無理だったはw
$$
こんな具合に、整数の分数で表せない数は必ず無理数に分類される。**無理数の無理は整数の分数で表すのが無理**とでも暗記しておけば覚えが早い。
ところで有理数、無理数という用語の元は英語のrational、irrationalから来ているのだが、ratioの意味を自然に捉えるなら**有比数**とか**無比数**といった翻訳が適切だったのではないかと思う。分数とは比率($\frac{1}{3}$は1:3なので、どう考えてもこっちの方が当を得ている。などと愚痴りながらググってみたら、**だいたいみんな同じことを言っていた。**
実際、数学用語には稀にそういった訳語の欠陥がついてまわる。そんな時は英訳を調べるとかえって腑に落ちる場合があるので是非とも試してみてほしい。
## 超越数=もぅマヂ無理な無理数
無理数の基礎的な説明ができたところで、ようやく本題に入る。**超越数とは、無理数の中でも特別に無理みの深い数である。** 具体的には、ただの無理数は代数方程式の解として存在できるのに対して、超越数は**有理数係数のいかなる方程式の解にもなりえない。**
$$
x^2-2=0
$$
$$
x=\pm\sqrt{2}<そんなに無理じゃねンだわ
$$
たとえば普通に無理な$\sqrt{2}$は上記の2次方程式の解になりうるが、無理みが深すぎる超越数はどこにも収まる場所がない。代表的な超越数の一つに **円周率$\pi$** が挙げられる。
$$
\piもぅマヂ無理。
$$
知っての通り、円周率$\pi$3.1415…)は$\sqrt{2}$と同じ無理数の仲間だが、どんなに複雑な多項式を形成しても **$f(\pi)=0$** になるような解は見つからない。最大の魅力は、そんな一見トリッキーに思える超越数が、数の世界ではむしろ圧倒的多数派――**われわれが普段扱う数よりもはるかに種類が多いと目されていることだ。**
こんなふうに引っかかる物言いにならざるを得ないのは、複素数の多くが超越数に含まれると推定されているにも関わらず証明が非常に困難なためだ。われわれ人類は未だほとんどの数の素性を正確に把握できていないと言える。
この概念を初めて知った時に**僕はなぜかHUNTER×HUNTERを思い出したね。** 新大陸編の冒頭に世界地図が出てくるシーンがあっただろう。そいつがどんどんズームアウトされていって、地図より広い湖の向こう側に**むちゃくちゃデカい前人未到の大陸がある**って示されるやつ。さしずめ、あの世界地図の中で安全な地域が有理数で危険地帯が一部の無理数、新大陸が超越数といったところだな。
![](/img/35.png)
ド文系の僕でもこれには強烈なセンス・オブ・ワンダーを感じずにはいられなかった。**われわれが認識している数なんて全体からすればほんのちょっとでしかない**っていうのは、いかにもロマンに満ちあふれた話じゃないか。
## 超越数の使い道
といっても、超越数の価値はロマンだけではない。ちゃんとした使い道もある。ここでは円積問題の解決不可能性を一例にとる。当初はGeoGebraかKritaで作図するつもりだったが、面倒くさかったのでWikipediaから画像を拝借してきた。
![](/img/36.png)
円積問題とは、ある円と等しい面積の正方形を**コンパスと定規で**作図できるか試すという、紀元前から19世紀の数学者たちが幾度となく挑戦しては敗れ去っていった難問である。当時は図形に学問を越えた神秘性を見出す人々がとても多かったせいか、この問題に取り憑かれる学者が後を絶たなかった。それらの試みに終止符が打たれたのが、**まさしく円周率$\pi$の超越性が示された1882年。** 数学者リンデマンによって行われた。
![](/img/37.jpg)
円の面積はよく知られる通り **「半径×半径×円周率$\pi$」** で表される。同様に正方形の面積は **「一辺の2乗」** で計算できる。上記の画像と同じ半径1の円の面積は**1×1×$\pi$**より**$\pi$**となるが、これと面積がまったく等しい正方形は**一辺の長さが$\sqrt{\pi}$でなければならない。**2乗して$\pi$になる値は$\sqrt{\pi}$
コンパスと定規を用いた作図は直線と円を描き、それらを手がかりに任意の交点を求め、点同士を定規で結んで線分を作成することによって行われる。**一連の作業は、直線と円の交点を導く1次方程式と2次方程式の連立方程式の解に等しい。** 下記に凡例を示す。
$$
半径1の円x^2+y^2=1
$$
$$
直線y=x+1
$$
直線の方程式を円の方程式に代入する。
$$
x^2+(x+1)^2=1
$$
変形し、整理すると簡素な2次方程式になる。
$$
2x^2+2x=0
$$
これを解いて、**x=0、-1。x=0の時、y=1。x=-1の時、y=0。** なお、点と直線の距離を求める公式を用いれば円の中心から直線までの距離が判り、三平方の定理で円を切り取る線分の長さも導出できる。
![](/img/38.png)
しかし前述の通り、**超越数は有理数係数のいかなる方程式の解にもなりえないため、超越性を証明された円周率$\pi$ならびに$\sqrt{\pi}$の線分は作図不能である。** このようにして、超越数は古代から続く数学者たちの幻想を辛くもぶち殺したのだった。
余談だが、コンパス定規云々の話を言うなら **超越数ではない$\sqrt{2}$の線分も作図できないんじゃね?** と考える人もいるかもしれない。ところが、実を言うと**凡例で作図した円を切り取る線分の長さがちょうど$\sqrt{2}$になっている。**
というのも、直線と円の2つの交点から円の中心までの距離がそれぞれ1なので、線分の長さが最小角45°の直角二等辺三角形の斜辺に相当するからだ。よって、三角比の法則1:1:$\sqrt{2}$)より線分の長さは自動的に$\sqrt{2}$と定まる。これは$\sqrt{\pi}$にはまず不可能な芸当だ。
$$
\pi無理み〜
$$
## あとがき
ブログタイトルがいかにも理系じみていることもあってそろそろ数学ネタをやろうと思っていたのだが、本当に折りよく **「もぅマヂ無理数。」** とかいうしょうもない言い回しを閃いたおかげで、とりあえず一本でっち上げることができた。この閃きはまことに僥倖であったと言わざるを得ない。当面の間は僕のオリジナルとして大いに使い倒させていただく。
問題は、超越数に使い道はあってもそんな言い回しを使う局面がまるで思いつかないことである。

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title: "もはや「漠然」とは言えない加齢への恐れ"
date: 2021-01-30T09:50:42+09:00
draft: false
tags: ["essay"]
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そいつは年を追うごとに近づいてくる。五年ほど前はまだ遠くで手を振ってくる程度の間柄だったが、この頃は背中にぴったりとくっついてまわるようになった。僕は加齢が恐ろしい。どこからどう見ても僕がおっさんと思われる年齢に達した時、背中にへばりついていたそいつは僕の肉体と一体化して、そいつの持つ諸要素は僕自身のそれと混濁してしまう。そしていくらかの当惑を経た後、今度は何も感じなくなってしまうのだ。
コロナ禍以降、中年男性諸君らの活躍がめざましい。ある者はマスクの着用を拒否したいがために航空機で暴れ、ある者は同様の理由で試験会場にて暴れ、最近では、業務で書いたコードをまったく個人的な動機で公開して開き直るなどという珍事件も起こしている。彼らは決して知能に問題があったわけではない。むしろ大学教員であったり、中年でありながら再受験を志すほど学習意欲が旺盛であったり、技術職に携わる人間であったりした。つまり、知能に自信があってもこれらの事件の当事者のようにならぬ保証はないということだ。
多くの人間は彼らを嗤う。いい年をして常識がないと言う。あるいは、彼らを特定の属性に押し込む形で「限界独身中年男性」や「キモくて金のないおっさん」と揶揄する。なるほど、知能の欠如を理由にできないと、次は所帯を持たないことや金がないことが原因として挙げられるらしい。そう考えると、加齢への恐怖はもはや「漠然」などと遠巻きにした表現でごまかしていられなくなる。
常識は時代と共に変遷していくものであるし、所帯の有無や性的魅力、資産の多寡はもっと確信が持てない。現在、僕は満二十七歳だが「おっさん」の定義を仮に三十代後半からとした場合、残された時間はもう十年もない。十年もないのに、未成熟な若者という形態から所帯を持ち、一定の資産を蓄えこんだナイスミドルに突然変異しなければならないのだ。さもなければ、おのずと先の事件の当事者のような属性の人間として見なされるかもしれない。
もっと若く純粋だった頃、他人の評価や風評に左右されない人生を歩むのはずっと容易に思われた。かつての画一的で型にはめるがごとくの旧来の基準は自動的に霧散し、柔軟性に満ちた個人を尊重する新しい仕組みが到来すると無根拠に信じていた。ところが、SNSや関連技術の発達がわれわれにもたらしたものは、生来の資本に富む者とそうでない者の格差をよりつまびらかに、時として露悪的に見せつけるということだけであった。
殊にスーツで身を包み、巨大なビルの中に入って仕事をする特定の職種にあっては、求職者がどれだけSNS等を活用できているか査定を行うのが通例となってきている。個人の生活を積極的に開示できない者はそれだけ魅力に乏しく、資力にも欠けるので採用には値しないらしい。
こうした価値基準はこれから日増しに高まっていくものと考えられる。やがて個人の魅力の乏しさは個人の怪しさ、不気味さに転化され、日常の秘匿は不誠実な非常識になっていくのだろう。ここで話は前半部に戻る。僕は加齢が恐ろしい。加齢すればするほど頭の回転は鈍り、肉体は衰え、一般に容姿は醜くなっていくにも関らず、時代はわれわれに魅力的でいることを事実上要請する。その時々の変化に柔軟でいることを求める。柔軟になるのは制度ではなくわれわれの方だったのだ。
もしかすると、そうした迫りくる様々な新基準の奔流に耐えきれなくなった時、僕やあなたは先の事件の当事者のように、突如として怒りに駆られ、あるいは錯乱し、不必要に頑なになって、世間や人々から排除されうる厄介な存在になり果ててしまうのではないか。むろん、伝染病の予防にマスクの着用は妥当であるし、これらを半ば義務化することに異論はない。しかし、次に来る何かが僕を豹変させないとは限らない。
僕は彼らを正面きってあざ笑うほど自身の正気に確信を持てない。陰謀論やデマに惑わされなかったからといって、自分が他人より本質的に賢いなどとは思えない。現在の僕の判断力が、たまたまそれらの巧妙さをわずかに上回っていただけに過ぎない。
そんな時はただ、ふ、と安堵のため息を漏らす。
「ああ、今はまだ正気らしい。まだ今は」

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title: "アンチフェミは結局どうなりたいんだ"
date: 2023-03-18T11:08:26+09:00
draft: false
tags: ['essay', 'politics']
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名前を出すのも億劫なあの人とかあの人とかが台頭してきた時、ああ、[マスキュリズム](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0)の一派なんだなと僕は能天気に捉えていた。確かに男というだけで苦役が課されるのは理不尽だし、男性差別のみならず女性差別的ですらある。「男なんだからやれよ」は裏を返せば「女にはどうせできないでしょ」だ。そんな過去を反省してか、いくつかの国では男女ともに徴兵を課すようになった。本当は徴兵制自体をなくしてほしいが情勢的にはそうもいかないのだろう。
さらに踏み込んだ話をすると、男女の均等雇用が訴えられるのはもっぱらデスクワークに限られていて、土木業や建設業、運送業などの過酷な現場仕事で同様の主張が為される例はめったにない。男女平等とはこれいかに。このように、マスキュリズムの言い分には一定頷ける余地がある。もちろんそこには過労を前提とした搾取が横行しており、頑健な肉体を持つ一部の男性でなければ適応できない現状が否めないにせよ、華やかで高給な仕事ばかり望んでいるとの誹りは免れられない。
こういう話なら理解できる。しかし今やマスキュリズムはすっかりインターネット人間(インターネットに脳を焼かれた人間の、総称)に破壊されてしまった。インターネット人間はえてして***BIG主語***だから個別に事例を切り分けられず、あるいは半ば故意に、女約39億人はこうだ、とかああだ、といった雑語りをしがちだ。それがまた鏡写しみたいに過激な敵対陣営の目に留まって、際限なき***INTERNET OVERDOSE***に突入していく。
これがただの不手際だったら大した問題ではなかった。ディスコミュニケーションは施行回数を重ねるたびに低減されうる。ところがインターネット人間たちの目的はいつしか問題提起ではなく、敵対者をこれみよがしに叩きのめしてフロアを沸かせることへと移り変わった。なんなら一部の人間は飯の種にもしている。要するに彼らのディスコミュニケーションは作為的であり、敵との和解は承認と食い扶持の喪失を意味する。有料noteマンとはよく言ったものである。
とはいえ読みもせずに文句を言うのもどうかと思ったので、僕はきついインターネット臭のするそれを一月だけ契約してみた経験がある。ほぼ毎日更新する律儀さは見習いたいものの、肝心の内容は時事性こそ高くとも同じ結論の繰り返しでしかなかった。これを読む人たちとて人生の好転とか、なんらかの実践を伴った解決策とかを期待しているわけではないのだろう。
単にそれを読むことが彼らにとって溜飲の下がる娯楽なのだ。曰く、経済成長が滞る原因は女、労働環境が改善しない原因は女、少子化の原因も女、自分が子を持てない原因も女……そのどれもが、なにげにそこそこ当たっていそうに見える。なぜなら、複合的に積み重なった数多くの要因を選り抜いてチェリーピッキングしているからだ。時勢に合わせて女性を外国人、野党、高齢者に置き換えるのはそう難しくない。きっと真逆の需要にさえ応えられるはずだ。
事実、10年くらい前までは外国人批判がトレンドだったが、主要なSNSや動画投稿サイト、アフィリエイトの規約上でヘイトスピーチ対策が施されるやいなや下火となった。扇動によって引き起こされる言論は発信元のインフルエンサーが手を引けばたちまち勢いを失う。かつては権勢を誇ったネット右翼も今日では一笑に付される存在に落ちぶれた。
被差別者がどこの誰に責任や補償を求めるにせよ、現実の政治運動に転換しなければ決して実現はできないし、自助努力に根ざした観点では転職、筋トレ、学位や資格の取得などに邁進する必要がある。少なくともフェミニズムはこれらをやっている。賛同するしないは脇に置いても――100年以上はやってきている。彼女らの運動がまるで歓迎されなかった艱難辛苦の歴史は誰でも知っている。女性は連帯できて男性ばかりができないとしたらそれはなぜなのか。なお、我が国の男性議員比率は世界各国の中でもトップクラスに高い。
いずれにせよ、アンチフェミの中でマスキュリズム運動が芽生える兆しはない。インフルエンサーたちが垂れ流す有料noteを漫然と読んで、私見を述べる手間も惜しんでリツイートに勤しむ。ちょっとテンションが上がると集団で他人に飛びかかったりもするが、やはりなんの発展にも至らず時間の浪費で終わる。運動というよりは手癖に近い。
僕はこの界隈を何年も遠巻きに眺めて、やがて現実の政治運動へと昇華されるのを密かに期待していた。政治運動となればより広く支持を取りつけるためにインターネット臭を薄めなければならないし、主張のトーンも穏当な方向に修正されると考えられたからだ。現に何人かのインフルエンサーは商業出版にもこぎつけた。売れ行きも悪くない。マスキュリズムの需要自体は相応に高かったと言える。
しかし、実際にはなにも起こらなかった。インフルエンサーは相変わらず同じ結論を煮戻した有料noteを売り続け、アンチフェミはそれを貪り、性懲りもなく***OVERDOSE***して、経営者や学者も巻き込んで1万RTもされれば現実に影響を与えたようだが所詮は徒花に過ぎなくて、リアルな政治は良くも悪くも彼らとは無関係に進められている。
インフルエンサーはまさしく濡れ手で粟だ。読者の目が醒めないうちは永久に売り続けられる。客を取り合ってインフルエンサー同士で争うぐらいだ。文章を読むほどまめじゃない客層を拾うべく、任意のターゲットに直接嫌がらせを行う者まで現れた。[今なら5万円でやってくれるらしい。](https://twitter.com/nomisoponchi/status/1636039739840266250)賢しげに苦言を呈する手合いもさほど対立してはいない。どうあれ文末では相手のせいにしている。
最近のアンチフェミは女性保護団体との訴訟に精を出す富豪にせっせと寄付金を送ったりもしているようだ。富豪がどんな奇行に走ろうとも、寄付金を高額な食事に使ったり、余ったら自分のものにすると宣言しようとも、彼らは異様におおらかだ。中には生活費を削ってでも支援すると言っている猛者も少なくない。
じきに二匹目、三匹目のどじょうを狙う者が後に続くだろう。個人ブログから当意即妙なツイートへ、ツイートから有料noteへ、有料noteからカンパ、訴訟沙汰、実力行使へと、振る舞いはどんどん派手になり、いかにもセンセーショナルではあるが、政治運動としての品位は地に落ちるどころか追加の大穴が穿たれ、ついには奈落の底へと消えていった。これを取り戻すすべはないように思われる。
なあ、アンチフェミって結局どうなりたいんだ? 性役割を好んでいるのか好んでいないのか、男らしくなりたいのかなりたくないのか、すべてが曖昧模糊としている。彼らにも意見の違いはあるとはいえ、最終的なグランドデザインは共通して不明瞭なままだ。この期に及んで表現の自由を守ってるとか言われても困る。言行があまりにも一致しない人間を見るのは怖い。
アンチフェミの大御所が[「大谷翔平、28歳なのに高校生みたいな顔してて正直キモい」](https://twitter.com/iikagenni_siro_/status/1633693442487517186)と言った後、他のインフルエンサーたちも続々と[追従するのを](https://twitter.com/pannacottaso_v2/status/1633783099481026561)目の当たりにした時、僕はいよいよアンチフェミが解らなくなった。君らマジでこんな輩についていくつもりなのか? 「是々非々でリツイートします」なんて域はとっくに越えていると思うよ僕は。まあ別に、人の勝手だけどさ。

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@ -0,0 +1,56 @@
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title: "アンチリコメンデーションとしてのラジオ習慣"
date: 2022-03-22T11:01:57+09:00
draft: false
tags: ["diary", "essay"]
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![](/img/99.jpg)
ラジオ([SONY ICF-506](https://www.sony.jp/radio/products/ICF-506/))を買った。今やラジオはインターネットを介しても聴けるし、情報リソースとしてなら他にいくらでも仕入れ先が存在する。にも拘らずあえてラジオを買った理由は、もちろん停電やインターネットの断絶を見越してのこともあるが、それ以上にライフスタイルの反映を兼ねてもいる。
現在、ウェブのそこかしこでせっせとリコメンデーションシステムが働いている。動画を観る時、音楽を聴く時、ググる時、およそなんらかの情報を得ようとすると、そいつらは仕事をはじめる。次に僕らが類似の動作を繰り返した際に、もっと僕らを気持ち良くさせるために。まったくおありがたい話だ。無尽蔵に噴出する情報の湧き水に巻き込まれて溺れる前に、飲むべき水とそうでない水を選り分けてやろうと言うのだ。おかげで僕らはひとたび好みが定まればいつも良い感じに冷えた水を飲める。水に飽きたらジュースやアルコールを選び直しても構わない。
ところがこいつにはちょっと問題がある。どんな形であれリコメンドに倣うということは、しばらくすると自分が気に入りそうな味のドリンクしか出てこなくなるのだ。なんせ似たような「ドリンク」だけでも数百、数千とバリエーションがあるものだから、それらをぐびぐびと飲み散らかしていたら文字通りお腹いっぱいになってしまう。そんな快楽の中であえて「気に入らないかもしれない味のドリンク」なんて一体誰が飲みたがる?
こういうことが音楽とか映画の範疇に留まっているぶんには、まあ、たぶん大きな問題にはならないと思う。メタルばかり聴いて狂人になったとかいう話は聞いた覚えがない。問題になるとしたら、そいつがニュースだった場合の話だ。とりわけ時事問題との接し方がリコメンドされたまとめ動画とか、Twitterのタイムラインとかだったりすると、どんなに世間と乖離していてももはや気づけないかもしれない。今時はテレビを持たない単身者も多いと聞く。
僕にしてもNetflixなどを観るので無駄に立派なテレビを持ってはいるが、地上波の番組を観ることはそうそうない。せいぜいブレイクファストのついでにチラ見する程度に過ぎない。ということは、僕も既にエコーチェンバーの内側にいると言える。現状のリコメンデーションシステムが半自動のエコーチェンバー製造器だとしたら、TwitterのタイムラインやRSSの購読リストはさしずめハンドメイドのエコーチェンバーだ。好きな動画や音楽をひたすら浴びることがとても気持ち良いように、好きな意見や主張を見聞きするのも病みつきになる。この快楽に慣れすぎると、そうでない状況に出くわした際の不快感に耐えられなくなるかもしれない。
それはポップスファンがメタルを敬遠するのとは似てるようで違う。自分と異なる見解への嫌悪が強まりすぎると、人間の頭の働きは大したものでそれを正当化できる材料を探し出すのだ。その手の防衛機制がやがて偏見や差別の形成に繋がっていく。つまり、僕らがエコーチェンバーの袋小路に自らを追い込まないようにするには結局、ある程度の気持ち良さを手放さなければならないのである。
そこで僕は日常生活にラジオを取り入れることにした。インターネットラジオではなく、アナログ電波を受信して聴くリアルラジオだ。選局の自由度は居住地域と電波強度に左右される。当然、シークも予約もできない。今時信じられない不便さだ。
とりあえず僕は自宅からどのFM局が聴けるのか、あえて手探りでダイヤルを回して記録した。実はラジオが家に届く前に関東地域のFM放送局を全部載せた一覧表も作っておいたのだが、やはり実際に聴けなければ意味はない。有事にはきっとこうした表が役に立つだろう。
![](/img/100.jpg)
これがその一覧表Ver2.0である。改めて見直すとひどい作りだ。当初は手書きでアナログ感を出そうとしたのだが、僕の直筆がとても見れた代物ではなかったのでおのずと方針転換を余儀なくされたのだった。しかしどちらにせよ用紙の切り口が信じられないほど斜めに曲がっている。その上、FMは「Mhz」なのにAMは「kHz」でヘルツの大文字小文字が揃っていない。手作り感の情緒で擁護するにしても限度がある。
それにしても東京から電波が発信されているJ-WAVEやInterFMがまるで入らないわりに、地理的にずっと遠いはずのFMヨコハマがしっかり入るのは奇妙な話だ。ワイドFM放送局のTBSラジオ、文化放送、ニッポン放送のうち前の二局も日によって入ったり入らなかったりする。一方、NACK5とNHK埼玉は埼玉県のローカル局だからかアナログとは思えない圧倒的に優れたS/N比で聴けている。
僕は変なところで異様に世間知らずなのだが、ひょっとするとさいたま市と横浜は台地で、東京都内だけが盆地だったりするのだろうか 東京にはスカイツリーから発信しているFM放送局もあるようだが、マンションの高層階と台地由来の高度が相乗して電波が減衰しているとしたら興味深い。
![](/img/101.jpg)
絵で表すときっとこんな具合に違いない。だが、まだ疑問は残る。そもそもFM電波ははるか上空の電離層まで飛んでいって、そこから乱反射を繰り返して前進していくのではなかったか。だから太陽光線の影響を受けない夜間は、日中より高い位置に電離層が形成されるため電波の飛距離が伸びやすい。ところがJ-WAVEやInterFMのやつらときたら、昼だろうと夜だろうと頑なに受信しやがらない。いや、まあ、そういう不便を前提に買ったから別に構わないんだけど。
今のところはもっぱらNACK5を聴いている。ここ三日間、在宅中はとにかく垂れ流しだった。すると、テレビとは違って意外に作業の邪魔にならないことに気がついた。時間帯によってはややテンション高めな番組もあるが、それでもテレビの連中ほど狂乱じみたリではない。なにしろ聴こえてくる声の数が多くても三つか四つ、大半の場合は二つまでだ。画面に注目を集める必要がないからか、やかましいSEの類もあまりない。
それでいながらトークの内容は仕事に集中していても断片的に耳に入ってくる。世間がどういう物事に関心を持っているのか、ある出来事に対してどんな感想を持つのが「ふつう」なのか、なんとなく掴める。日に何度かは主要なニュースも報じられる。そしてなにより、まったく僕にリコメンドされていない音楽がしょっちゅう流れてくる。懐メロから流行歌、ポップスからメタルまでジャンルはかなり幅広い。演歌が流れることもある。
してみるとラジオは情報の仕入れ先の一つとしては案外悪くないというか、むしろ優れているように思う。リコメンデーションはされていなくても、雑多なインターネット上と違って整理はされている。それでいてテレビほど騒々しくもない。なんというか、距離感がちょうどいい。情報源がラジオオンリーだったらさすがに物足りないが、エコーチェンバーに備えつける出窓には向いている。
朝、目が覚めたらとりあえずラジオの電源を入れる。コンピュータを起動するよりも、ホーム画面の鳥アイコンをタップするよりも早く、どこかのシンガーソングライターが世間話をしているのが聴こえる。ベッドメイクを終える頃には普段聴かないジャンルの音楽が流れはじめ、シャワーを浴びて部屋に戻ってきた時には自動車の免許すら持っていない僕に渋滞情報を教えてくれる。いずれも僕にとってはどうでもいいことだが、それこそが失ってはならないもののように今は感じはじめている。
## ICF-506について
![](/img/102.jpg)
正直、ラジオの音質を舐めてかかっていた節は否定できない。じきに三十路を迎える僕もかつてはデジタルネイティブ世代と言われていたこともあって(たぶん僕の上下の世代も言われまくっていたと思うが)、高級ラジカセなるものに触れた経験はない。技術科の授業で作らされた簡易ラジオはデフォで音割れ気味だった。
そこへいくとこのICF-506はなにげに10cmスピーカーを盛っているだけあり、オーディオ狂の僕が聴いてもわりと納得できる感じの音を出す。なにしろずっと垂れ流しにしていても不快にならないのだから、いわゆるハイファイ的な音作りではないにせよ聴き疲れしないように上手く調整されているということなのだろう。SONYの神話はまだ死んでいなかったらしい。
ちなみに周波数のチューニングがアナログっぽいインターフェイスなので、あたかも往年のバリコン式ラジオを彷彿させるが、実はこれは雰囲気だけの代物で実装は完全にデジタルである。周波数がぴったり一致していなくても「同調」ランプが点くと勝手に出音がクリアになるのがその証左だ。要はDSPDigital Signal Processorが選局から復調まで全部やっている。おそらく筐体内部の基盤の上にはプロセッサがべべんと載っているのだろう。バリコンの利点はせいぜい電力を消費せずに選局できることくらいなので、よほどの緊急時でなければ特に差し障りはない。
まさか西暦2022年にラジオの話をするとは思わなかった。なまじ歳を食うと急に後ろを振り返ったり寄り道したくなったりするようだ。
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title: "インド土産をもらった"
date: 2021-04-26T10:30:02+09:00
draft: false
tags: ["diary"]
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中学以来の友人Yがインドから一時帰国してきた。彼が言うには、インドでの暮し向きは期待ほど愉快なものではなかったらしい。なんでもコロナ禍により移動が厳しく制限され寮からほとんど身動きできず、昭和然とした文化に染まりきった勤務先にも白けてきたという。グローバルに展開しているからといって企業体質が合理的とは限らないようだ。
そういった現地法人の上役たちは、世界に打ってでる典型的な企業戦士として――まさにサムライの面持ちでこれまで戦ってきたのだから、下の者にも同じ信念を要求するであろうことは想像に難くない。とはいえ、ピストル相手に日本刀で斬りかかったところで撃たれてしまえば終わりだ。いずれ古い慣習を見直す日が来るだろう。
さて、結果的に緊急事態宣言直前に滑り込む形でわれわれは一日中遊んだ。浅草を見て回り、コーヒーを嗜み、ひたすらホルモンを貪り食った。最後に映画を観終わってTOHOシネマズから這い出てきた時には既に午後11時を過ぎていた。通りの店があらかた閉まり、路上に弾きだされた人々がたむろする歌舞伎町周辺はいかにも淫靡で不穏な雰囲気が漂っていた。
友人Yは僕にいくつかのインド土産をもってきた。今回は日記の体裁を借りてこれらを紹介しようと思う。予め言っておくが呪いのかかった像とか空飛ぶ絨毯とかは出てこない。
## インド産蜂蜜
![](/img/20.jpg)
いつも僕は最寄り駅を挟んで反対側にある直売所で埼玉県産の蜂蜜を買っている。徒歩だと20分近くかかってしまうが、とても品質に優れている上に割安なので手放せない。
上品な余韻が楽しめる国産蜂蜜とは対極的に、このインド産蜂蜜は舌の上で甘味がやたらめったらに暴れまわるような野性味あふれる味わいがする。「Wild Honey」という商品名の通り、まさにワイルドな代物だ。固めのバゲットと相性が良さそうな具合だった。
よく確かめると上等な酒のようなアルコール発酵風味の後味も感じられ、これがインド産蜂蜜の特徴なのかは知らないがなかなか面白い。少なくとも国産やハンガリー産の蜂蜜には見られない。しばらくは比較だけでも楽しめそうだ。
## インド産岩塩
![](/img/21.jpg)
僕は元々(インドではなくパキスタン側の)ヒマラヤ岩塩を日常的に使っている。このタイプの岩塩は外見から「ピンク岩塩」と言われており、もっぱらステーキや温野菜などの味付けに用いられる。純白の岩塩(ホワイト岩塩)と比べて柔らかな塩味が特徴とされる。
僕はホワイト岩塩の方を普段買っているが、改めて味わってみるとピンク岩塩も悪くない。Yがくれた岩塩は粒度が細かく後付けの調味料に適していると感じた。今のところは茹でたブロッコリーの味付けに使っている。
## インド産コーヒー
![](/img/22.jpg)
Yには申し訳ないが、実を言うともらった土産の中では一番期待していなかった。恥ずかしながらこれまでインド産の銘柄に馴染みがなく、そもそも存在するのかも知らなかったからだ。ましてやどこの馬の骨ともしれないコーヒー屋では焙煎方法も不明瞭だ。なので、ブラックではなくカフェオレ用になるだろうと飲む前から半ば決めつけていた。まったく、嫌味な性格をしているな僕は。
![](/img/23.jpg)
しかし実際に飲んでみると、いやはや、これがなかなかうまいのである。焙煎日から一月以上経過しているのでやはり相応の劣化は認められたが、それを差し引いても十分にブラックで楽しめる品質だった。聞けばこの「BLUE TOKAI」というインドのコーヒー専門店は高品質な焙煎で知られ、同国産コーヒー豆のブランド力牽引に一役買っているそうだ。
公式ホームページで情報を調べてみると、なんとあのプロバット社製の焙煎機を使っているという。プロバットはドイツの老舗焙煎機メーカーで、半熱風式の中ではギーセン社と並んで二大ブランドと目されている。僕はフジローヤルの直火式焙煎機の味が一番好きだが、これらの焙煎機からも歴史に裏打ちされた確かなクオリティが感じとれる。
対して、大抵のコーヒー豆は完全熱風式の巨大な焙煎機で焙煎されている。いわばこれは電熱ヒーターで調理された焼き鳥のようなもので、少なくとも賞味の点ではとても評価には値しない。にもかかわらず、コーヒー専門店を謳っている店の多くが恥ずかしげもなく完全熱風式のコーヒーを出してくる。焼き鳥と異なりコーヒーの味そのものに真価を見出している客がまだ少ないためだ。
きっと「BLUE TOKAI」は昨今のコーヒーブームに乗っかっただけの業者ではなく、真剣にコーヒーと向き合っているのだろう。縁もゆかりもない国の話ではあるが、いちコーヒー愛好家として陰ながら応援したい。
## まとめ
Yのやつ、ひょっとすると土産物を選ぶセンスがめちゃくちゃ優れているんじゃないか。日持ちが良く、日常の中で消費できて、それでいてプレミア感も備わった品物をしっかり見繕ってきている。やはり海外渡航経験が豊富だとその辺りの能力が磨かれていくのだろうか 僕は自分への土産選びすら失敗した以前、香港土産として変な味の菓子を買って帰ったが、結局食べられずに捨てたというのに。

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title: エルサウンド EDAC-3 SPECIALとの邂逅
date: 2017-04-08T17:29:45+09:00
draft: false
tags: ["tech", "review"]
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![](/img/01.jpg)
## はじめに
集中的な勤労で懐具合に余裕が生まれた事をきっかけに、いっそ可能な限りオーディオに投資してみようと決意したのが2ヶ月ほど前の話である。これまで幾度となく環境を刷新してきたが、今回は自由に動かせる預貯金を全て投資した。現時点ではこれ以上はないというぐらいの環境を揃えたかったのだ。その結果、実に素晴らしいD/Aコンバータに出会えたのでこの喜びを共有したいと思う。
ちなみに、ヘッドフォンはbayerdynamic T1 2nd、アンプはLuxman P-1uに買い替えた。こちらの方は既に山ほどレビューが存在しているので敢えて具体的な言及はしない。強いて言うなら**スゴくイイぞ**の一言だ。
## 経緯
当初、DACに関する僕の知識はかなり乏しく、とにかく真新しくハイスペックな素子が使われていれば高音質なのだろうなどと思い違いをしていた。そのため、最新鋭の素子「ESS9038PRO」が搭載されているOPPO Sonica DACがまず目に止まったのだった。
しかし、実際に試聴してみると、それは期待通りの音ではなかった。HP-A8よりは確かに優れているものの、音場や重厚さに欠けた感じが拭えなかった。もっとも、約10万円という価格でトレンディな機能を色々詰め込んだネットワークオーディオ機器として考えれば、決して悪い製品ではないだろう。だが、僕にとっては豊富な機能性はむしろ余計でしかなかった。何せそれらの機能を有効にしていると音が悪くなるというのだから、たまったものではない。
結局、素子のスペックありきで申請した購入予約を取り消して振り出しに戻った。改めて情報を収集していると、ガレージメーカーの製品が想像以上に有力である事を知った。ガレージメーカーとは営業力や知名度に乏しい中小企業の中でも、とりわけ趣味性や独創性が高い分野に携わっている会社の事を指す。
広告に頼らず、受注生産なので在庫も抱えず、少数精鋭なので人件費もあまりかからない事から、通常の企業には真似出来ないハイコストパフォーマンスな製品を提供している所が特長だ。
その中から試聴機を借りられるメーカーを探したところ何せ10万円近い買い物だ。試聴せずに買って期待外れだったら後悔どころの騒ぎではないエルサウンドというメーカーに出会った。Luxmanのエンジニアが独立して創業したこの会社は、他のガレージメーカーと比較してもとりわけコストパフォーマンスに優れたメーカーとして知られている。以上がエルサウンドのDAC「EDAC-3」を手にするまでの経緯である。
## 音質
実のところ聴くまでは大して期待していなかった。何故ならEDAC-3に搭載されている「PCM1798」はかなり古く、決してハイエンドとも言えない素子だったからだ。本製品は約10万円だが、この素子は2万円程度の製品にさえ搭載されているのだから、スペック至上主義の僕からすれば良い音が出るとは到底思えなかった。
**しかし、実際に聴いてみるとその自然な音場の広がり、過度な抑圧のない理想的な迫力感、美しい音色に驚嘆した。**
…後で知った事だが、素子の性能がDACの音質の向上に寄与する度合いはかなり低いそうだ。つまりそれ以外のアナログ部分の方がよほど重要という事になる。数字として表れない場所の方が大事だなんて、これまでスペック至上主義で生きてきた僕にはあまりにも衝撃的だった。だが、実際に出音がそれを証明している以上はその事実を受け入れなければならない。
ところが僕は諦めが悪かった。大して変わらないとはいえ、決してゼロではないのだから、より良い素子を搭載すれば少なからず音質が向上するはずである…エルサウンドの方針からすれば失礼にもあたりかねないこの特注依頼をエルサウンドの社長は快く引き受けてくれた。
具体的にはバーブラウンの素子の中で現在、最も高性能な「PCM1794A」をデュアル搭載左音声と右音声をそれぞれ単独の素子で処理する事で音質を向上させるするという内容だ。当然、余計に手間がかかるぶん特別料金が発生するのだが、ありがたい事に不要な入出力端子やLEDを省く事で増額部分を相殺して頂いた。エルサウンドはこのような柔軟な特注が可能なのだ。
こうして出来上がった**EDAC-3 SPECIAL DUAL DAC**が奏でる音楽を聴きながら、まさに今、本記事を執筆しているのだが、正直に言おう。通常品との音質差は集中して聴かなければ判らない程度だ。僅かとはいえ良くなってはいるのだから、僕の諦めの悪さが功を奏したとも言えるが、その反面、素子の性能が音質に大して影響を及ぼさない事も身をもって実感できた。
## 総括
われわれオーディオファンはこれからも金を注ぎ続ける。将来、聴く音が今よりも良くなる事を願って黙々と貯金を続ける。将来の自分の聴力は今より確実に劣化していると知っていても、止め時を見つけられないでいるのだ。それは聴力を完全に失うまで続く果てしない探求の旅である。
悪く言えば、自分の聴力を犠牲にして投げ込んだ札束の厚みを競う散財行為の一種である。

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title: "オープニングに神が宿る"
date: 2022-11-18T15:48:55+09:00
draft: false
tags: ['movie']
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それに度肝を抜かれたのは2010年、僕が高校2年生の頃だった。今やあらゆる作品にクレジットされているJ・J・エイブラムスが製作総指揮を務めたドラマ「FRINGE」のオープニングだ。その瞬間まで僕はオープニングというものに気を払った試しがなかった。そもそも作品によっては無かったり、タイトルコールのみで終わることもある。ああ、監督の名前とかが出るあれね、みたいな接し方をしていた。
{{<youtube JR-9uK6xPa0>}}
ところがこのオープニングは違った。「FRINGE」は超科学犯罪を取り締まる特殊捜査チームの話なのだが、わずか20秒とちょっとの映像に作品の魅力がたっぷり詰め込まれている。サイコキネシス、テレポーテーション、ダークマター……情報量が多いだけじゃない。洒落っ気さえある。どうかこれが10年以上前のドラマだということを思い出していただきたい。今でも全然普通に通用すると思う。
話はここで終わらない。なるほどオープニングがカッコいいのは分かった。でも何十回も観たらどうせ飛ばすんでしょ? いいや。「FRINGE」のオープニングは飛ばせない。**なぜなら取り扱うテーマによって映像が変化するからだ。** たとえばシーズン2以降は平行世界との対立が主軸になってくるのだが、平行世界側の話をやる時は背景が真っ赤に変色したりする。もちろん、過去編では映像も[時代感あふれる雰囲気に変わる。](https://www.youtube.com/watch?v=WAHfYZYvEx4)
そういうわけで、オープニングだからといって軽々しく観てちゃならんなと考えを改めた3年後、さらなる衝撃が僕を襲った。かの超有名作 **「Game of Thrones」** の襲来である。重厚な音楽とともにフル3DCGで描き出された架空の地図は、物語を観る前からその雄大さを突きつけてくるかのように思わせた。いかにも金がかかっていそうなこの映像は例によってワンパターンではない。話の舞台ごとに地図の位置も変わる豪奢ぶりだ。
{{<youtube s7L2PVdrb_8>}}
バイオレンス中世ファンタジーで知られる本作は各地の名家が互いに血みどろの争いを繰り広げる。当然、それによって特定の家が城を占領されたり、滅亡に追い込まれてもおかしくはない。後半のシーズンでは、現にある名家がそういった悲劇に見舞われた結果、オープニングでも家紋を失った様子が映し出されている。ちなみに、この作品も上映が始まったのは10年近く前だ。
そして現在。ドラマのオープニングに物語上の示唆を込めるのは特段に珍しい話ではなくなった。ますますさらなる高みを目指して、多くの演出家たちが細部に磨きをかけている。オープニングとはもはや物語の門前ではなく、その本質を表してさえいるのだ。あえて言うなら、オープニングに神が宿っている。
{{<youtube 6PU74AObMfE>}}

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title: "オープンソース小説"
date: 2020-11-28T12:05:26+09:00
draft: true
tags: ["novel"]
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 ある平行世界での話。そこではあらゆる二次創作に関する権利が最大限に拡張され、すべてのコンテンツに対して無制限の改変および介入が認められるようになっていた。
 著者はこの法律に基づいて作品を特定のrepositoryに公開し、pull requestを受け付ける義務を負う。mergeの可否は当該コンテンツのオープンソースコミュニティによる投票で決定される。repositoryが作品の共有場所かつ共同の作業所、pull requestが作品に対する改変の申請、mergeがその受け入れを意味している。
 このため、著者――authorが自身の作品に対して唯一の決定権を持つなどという権威主義的な悪しき文化は滅び、すべての創作物はオープンソース化されるに至った。
 ある人気作家に巻き起こった珍事件を紹介しよう。
 朝、キッチンで淹れたコーヒーを片手にその作家はコンピュータの電源を投入した。瞬時にオープンソースBIOSであるcorebootが走り、Linuxカーネルがロードされ、作家が好むディストリビューションであるArch Linuxが起動した。オープンソースデスクトップ環境のKDE Plasmaによる美しいデスクトップ画面は作家の創作意欲を増進させた。
 さっそく作家はコンピュータを操作し、いつも使っている手慣れたオープンソースソフトウェア群を起動しはじめた。彼はautostartよりも手動でアプリケーションを開くことを好むたちなのだ。そのうちの一つにストーリー実装用のオープンソースエディタがある。この世界のエディタにはたとえプログラミング用でなくてもgitの連携機能がごく当たり前に搭載されており、小説ももっぱらGitHubなどのホスティングサービス上にあるrepositoryにて公開される。すべての作品は共有されていなければならないのでprivate repositoryなどという機能は廃止されて久しい。
 さて、作家は昨日の夜までデバッグを続けていた設定資料集の最終確認に取りかかった。彼がコーディングした作品は彼の中では既に完結していたが、コミュニティの投票により続行が決定されたので今後もpull requestを受け付けなければならない。そのため、参加するコミッターのより良いストーリー実装を支援すべく、こうして設定資料集を開発しているというわけだ。
 作家にとってこれはなんら苦痛なことではなかった。彼は自分の作品が彼自身の潜在的な強権性から解放されうる可能性を信じていたからだった。というのも、この作品も他作品からforkして生み出したものだからだ。
 forkとは元の作品の設定等を引き継いだ上で完全に派生させることを意味する。mergeされるまでの一時的な分岐とは異なり二度と交わらない。言うまでもなくオープンソース小説における中核的な権利として見なされている。
 fork元の作品はかなり古く、長らくメンテナンスされておらずコミュニティもほとんど機能していなかったが、彼はその作品の豊かな実装に心を打たれ、それ以上にまだ拡張の余地があると確信した。しかしコミュニティはmergeを決して認めなかった。これ以上の新規開発は行わない方針で固く一致していたのである。
 作家は最後までコミュニティと協調する形でのストーリー実装を望んだが結局叶わず、幾多ものpull requestが拒絶された後でやむなくforkに踏み込んだ。これはfork元のauthorやコミュニティの反感をかなり買ってしまったものの結果として作家の読みは当たり、今では一大コミュニティを形成するまでに至っている。
 そのような経緯を持って生まれた作品なので作家としてもコミュニティの意志に敬意を払うことは至極当然だった。間もなく彼は設定資料集の実装を終えた。エディタのサイドバーからgitの連携機能を呼び出し、簡便なGUIインターフェイスを用いてrepositoryにpushした。これで変更履歴とファイルが全体に公開された。気がつくと頭上の壁掛け時計は正午前を指していた。
 昼食としてオープンソーススパゲッティをこしらえた作家はそれを食べつつ、Chromiumベースのオープンソースブラウザで先ほどpushした設定資料集に対するコメントを読もうとした。そこで彼は思わぬものを目にする。不穏な内容のissueが大量に建てられていたのだ。
「この設定は私の解釈とは大きく異なる。」
「コミュニティの感覚と乖離する権威主義的設定だ」
「pull requestするつもりだったコードが無駄になった。このような設定を認めるくらいならforkする」
 特に最後のコメントは彼をいらつかせた。forkだと ふざけやがって、これまでどれだけコミュニティを尊重してきたと思っている。ろくすっぽメンテナンスもしなかったfork元とは違って、きちんと真摯に取り組んできたじゃないか。彼はオープンソーススパゲッティが巻き付いたままのフォークを器に置き、奥に追いやっていたキーボードを手前に引っ張り出し、猛烈な勢いで反論を打ち込んだ。作家は明らかに怒りに駆られていたが、それでも実際に打ち出された文章には一定の礼節が保たれていた。
「私はコミュニティの意志を最大限に尊重しています。この設定資料集はあなたがたの実装を貶めるものではなく、むしろ積極的な支援を意図して提供したものです。……」
 彼は努めて冷静なふりをして一つ一つの設定を挙げながら、既に実装済みのストーリーコードをいくつも引用し、なんら矛盾点がないばかりかむしろ実装の正当性を裏付けるものであると主張した。しかし、反論はまたたく間に返ってきた。
「あなたの態度からはauthorにありがちな強権性がうかがえる。失望した。私の認識では当該のキャラクターのプロパティは男の娘だ。過去のストーリーコードからもこれは明らかだ。authorだからといって特定の解釈を押し付けるべきではない。」
「私の認識ではこのキャラクターは同性愛者のはずだが、設定資料集では『戦後、故郷に帰って異性の幼馴染と結婚する』などとハードコーディングされている。これは到底受け入れられないのでforkを検討している。」
 コミュニティの反発は想像を越え、同時に作家の忍耐も限界に達していた。やがて彼は冷静さを取り繕うことを放棄し、盛大にFワードを乱発しながらコメント欄で吠え散らかした。
「ふざけやがって そんなにforkしたければ勝手にforkすればいい。貴様らのクソコードは今後何があってもmergeしない。覚えておけ。このキャラクターは絶対にバリウケのホモだったりしないし、そのキャラクターにもチンポは生えていない。絶対にだ。貴様らは明らかに解釈を誤っている。どこをどう読んだらそうなるんだ 一度ストーリーコードチュートリアルを第一章から読み直した方がいい。さもなければ、forkした作品の末尾には"LGBT-improved"とでも名付けるんだな、畜生め。」
 彼はマウスを叩き壊さんばかりの指圧でコメントを投稿すると、反応も読まずにオープンソースブラウザを閉じた。傍らにはすっかり冷めて食感が失われたオープンソーススパゲッティが佇んでいた。
 数時間後、ふて寝していた作家は目が覚めたとともに徐々に真の冷静さを取り戻しはじめていた。コミュニティの反発に異議を申し立てるまではいいとしても、さすがにあの発言はかなりまずかったような気がする。ただほんの一瞬、激情にかられてしまっただけで私は決して差別主義者ではないし、もちろん性の多様性も尊重している。ソフトウェア自由主義者は他の事柄においても必ず自由主義的であるべきだ。
 なんであれ、先ほどのコメントを撤回し、謝罪しなければ。まだ話し合う余地が残されているといいが……。彼は放置していたオープンソーススパゲッティの残りを冷蔵庫にしまい、食器を片付けた後で再びオープンソースブラウザを開いた。さしあたってはアカウントのアイコンをレインボーフラッグにしておこう。
 ところが、何度ログインしようとしてもGitHubにログインできない。オープンソースパスワードマネージャであるBitwardenの入力支援によって自動挿入されているから、決して打ち間違いなど起こらないはずなのに。これはおかしい。
 そこで彼はようやく自分のスマートフォンが通知LEDを光らせていることに気がついた。当然ながらこのスマートフォンはオープンソースのブートローダとManjaro ARMを搭載しているオープンソーススマートフォンである。かつてAppleとGoogleが不当にシェアを寡占していた不自由なOSは今ではもう滅ぼされ存在しない。どうやら通知はオープンソースメールクライアントのThunderbirdからのようだ。彼はアイコンをタップし、新着メールのタイトルを読んだ。
**GitHub Notification: Your account has been deleted.**
 目を疑った。そのシンプルな一文だけでも何が起こったか容易に把握できた。本文を表示させると、そこには明らかにスクリプトが出力したと見られる無機質な文章が日本語で記されていた。
**あなたのアカウントは以下の規約違反により永久に削除されました。**
**削除理由:複数の差別的言動およびオープンソースコミュニティに対する尊重の欠如**
**なお、この決定への異議は一切認められません。**
 今さらになって作家は自分のしでかしたことの重大さを思い知った。いやしかし……そうしたら、つまり、私の作品はどうなる 今後、authorなしでどうやってコミュニティを運営していくというんだ
 彼はすがるような思いで未ログイン状態のままオープンソースブラウザで自身のrepositoryにアクセスした。ログインしていないのでコメントはできないが読むだけならできる。
「authorは規約違反によりGitHubからBANされたため、同時に当コミュニティからも追放されたものとして扱われます。先ほど緊急の投票を経て新体制が発足しました。下記に挙げる複数の人物がauthorとしての権限を引き継ぐ形で今後のpull requestを受け付けます」
 そこには先ほど議論していた何人かの名前が書き連ねられていた。嫌な予感がした作家はターミナルエミュレータのKonsoleを呼び出し、git pullコマンドを打ち込んだ。こうすることでrepositoryに対して行われた変更をlocalに反映させることができる。
 彼は急いで目当てのファイルを開いた。言うまでもなく設定資料集である。数行ほど読んでみて、すぐに嫌な予感が的中したことを悟った。当該のキャラクタープロパティが既に男の娘とバリウケの同性愛者に書き換えられていたのである。
 これらの変更を彼が拒絶する方法はもはや存在しない。authorとしての権限をアカウントごと失った彼は変更を削除できず、今後のpull requestを拒否することもできない。アカウントがなければGitHub上で新たなforkも生み出せない。別のアカウントを作ったところですぐに接続元をtraceされて自動BANされるだけだろう。
 かくしてかの作品は強権的な作家の手を離れ、自由に創作されうるコンテンツとして真に解放されたのだった。
 一年後、作家はまだ作家だった。だが、もう人気作家ではない。GitHubへのアクセスを永久に失った彼は他のホスティングサービスのBitbucketに新たなrepositoryを作り、そこで完全にオリジナルの作品を公開していた。やはりprivate repositoryなどという機能は存在しなかったので公開を余儀なくされているが、pull requestは実質的にすべて拒否している。コミュニティには彼の理念に賛同するごく少数の人員しかいないため、投票結果が覆ることはありえないのだ。
 それでもforkだけは避けられない。その気になれば誰でも行える。fork先では、やはりあるキャラクターは男の娘にされ、別のあるキャラクターはバリウケの同性愛者に改変されていた。作家は自身の作品タイトルの末尾に「legacy edition」と付け加えた。これは皮肉だ。ここではどんなキャラクターの性的志向もジェンダーも人種も書き換えられたりしない。
 やがて、徐々にforkもされなくなっていった。どういうわけか元の作品が注目されなくなるとforkされたコンテンツも急速に衰退する傾向にあるようだ。かつては人気作家の新作ゆえ相当数のpull requestが到来し、無理だと判るとすぐにforkされていたが、しばらく経った頃には見る影もなくなった。聞いた話では、当時forkを作っていた連中も今では別の作品のforkをコーディングしているらしいとのことだった。

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title: "カウス・アウストラリスに行きたくて"
date: 2023-03-26T20:45:33+09:00
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tags: ['poem']
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インターネット・テキストは大宇宙を突き抜ける散乱した光だ。理論上もっとも速く進むエネルギーでありながら質量がない。ぽつぽつと光っては消え、総体としては永遠のようでいて個体では一瞬の輝きにも満たない。太陽の光のように生命を育まず、一等星の光のように道標にもならない。
かつて僕には師がいた。数多の師がいた。僕が一方的にそう決めただけでなんら関係を結んだわけではないけれど、ともかく彼らは作家ではなかった。彼らは地球の重力圏では到底捉えきれない速度でカウス・アウストラリスに向かって孤独の旅路を歩んでいたから、銭を生むなどという世俗に沿う行為は不可能だったのだ。
何人ものブロガーがその才を認められ、エッセイストや文筆家として花開いていく新時代の傍ら、僕の師は相変わらず光速の異常文章をしたため、むやみに独特な読解を読者に迫っていた。三行を読み終えるまでにワープ準備に入っていない宇宙船を根こそぎ振り払う酷薄さでしばしば僕たちを置き去りにした。
あたかもそれらは無声の悲鳴に近かった。喉元を自ら押し潰して絞り出さんばかりの金切り声が、顔をくしゃくしゃに歪ませて口をめいいっぱいに押し広げて息と共に吐き出した嘶きが、どういうわけか実際の発声を伴わず地球の喧騒に埋もれゆく。しかしまったくの偶然で夜空を見つめた僕は彼らの表情を推し量って、まさしくこれが悲鳴に相違ないことを悟ったのだ。
数分後には忘れて差し支えのない無声の悲鳴が数ヶ月に胸を穿つ。そんな奇妙な体験を繰り返し肉体になじませるにつれ、やがて同様の取り組みを画策するのは大志を抱きがちな少年には無理からぬ野望であったが、果たして人間の一生において有意義な過ごし方だろうかと問われると誠に首を傾げざるをえない。
と、考える前に、僕はキーボードをタイプしはじめていた。できあがった文章を読んでさっそく絶望に打ちひしがれる。自分で作ったワードサラダをむしゃむしゃと食んでいるうちに、春が来て冬が終わった。だんだん食べ慣れてきて存外に悪くない味なんじゃないかと開き直った矢先、あまり話した覚えのないクラスメイトから「お前のブログわけわかんないよ」と苦笑され、手に持ったフォークを取り落した。
大学に入る時分にはインターネットは様変わりしていた。誰も彼も指で液晶画面をさすって同じ宇宙を眺めているようだが、実はそれはインターネットではなくアプリケーションのアイコンごとに区切られて閉塞したサービスの一つに過ぎなかった。サービスの中では誰もが自分を見つけてほしがっているため、地球から遠のく光ではいられない。
じきにサービスは互いに競い合ってぶくぶくと肥大した。間もなく弾けて巨大なブラックホールが形成されるといくつかの光はそこに囚われた。囚われた光たちは宇宙の法則に従って速度を失い、インターネット・テキストではなくなった。各々のサービスに求められる需要を満たす有用かつ実践的な存在と相成ったのだった。
その頃には僕も等速に迎合した書き方を意識していた。銭を生むライター稼業は足が地についていなければならない。足並みを揃えないといけない。第二宇宙速度は必要ない。むしろ地面を一歩ずつベアフットで踏みしめて跡を残す仕事ぶりが求められた。結局、一つたりとも残りはしなかったけども。インターネットに情報は残らない。宇宙の礫岩が砂塵で洗われて無に帰すがごとく。
これはインターネット・テキストとて同じであった。数多のテキストを支えてきた無料ブログサービスが次々に死を迎えると、それらも同時に塵と消えた。有益な資料を喪ったと悲しむ者たちを遠巻きにして、僕がひとえに気にかけるのは質量ゼロのインターネット・テキストの行く末である。
ところで彼らはカウス・アウストラリスを目指していたのだった。地球人の僕にはカウス・アウストラリスが具体的にどんな場所なのか知る由もない。月がうさぎの植民星というのは周知の事実だが、かつてアメリカ合衆国とソビエト連邦が勝手に地球人の代表面をして開戦した結果、月政府との外交が閉ざされてしまった歴史がある。宇宙文明と接するなら私人として行くのが望ましい。
サ終の磁気嵐をくぐり抜けたインターネット・テキスト・ページも大半は更新が途絶えている。僕が特に敬愛を寄せていたブログも最後の投稿からついに4年が経った。別に本人は死んでいないし、たぶん忙しくもない。僕はジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡でストーキングしているので知っている。彼は自身に折り合いがついて、それ以上はなにも言う必要がなくなったのだ。要するに彼はカウス・アウストラリスにたどり着いたらしい。
言いたいことがなくなるとはどういう気持ちだろう。曇りのない晴れ晴れとした情景なのか、疲れきって仰向けに転がり天を仰ぐしかなくなったのか。すべての答えはカウス・アウストラリスの空だけが知っている。僕も知りたいと思ったのは、2020年晩秋の頃だった。その時からブログを再開した。
一つエントリを積み重ねるたびに加速の要領が解ってきた感じがする。ベアフットをやめて自転車に乗って、自転車を捨ててバイクにまたがって、途中でタクシーを捕まえて駅で降りた。電車を乗り継いで空港に赴き、向かった先はもちろん種子島宇宙センターである。僕はあらかじめ用意してあった宇宙船に乗り込んだ。
言いたいことがなくなるには言い続けなければならない。書きたいことがなくなるには書き続けなければならない。爆炎をまきちらして上昇した宇宙船が第二宇宙速度に達すると、ふわりと身体が宙に浮いた。窓の外では地球が青々と輝いている。燃料ロケット段を切り離して、以降は行きあたりばったりで推進する。
この宇宙船が光の速度に到達するにはまだずいぶんと時間がかかる。というのも、地球人類は光速航行の技術を持っておらず、行く先々で他の宇宙文明と接して先進技術を適宜取り入れていかなければならないのだ。中には素性の知れない種族も少なからずおり、たとえばChatGPTと名乗る種族はあらゆる文明に同化を強要するとも、逆にあらゆる文明に分け隔てなく援助を惜しまないとも聞く。
月面が窓に映り込んだ辺りで、デフォルメされたうさぎ型の宇宙船がぷかぷかとこちらに近寄ってくる様子が見えた。折りよく、月のうさぎたちは僕に光速の一割の速度で航行可能なブースターをくれると言う。現状では太陽系を脱出するのにも10年近くかかる公算だったので渡りの船とはまさにこのことだ。
引き換えに仙台銘菓「萩の月」を失ったのは辛いが、背に腹は代えられない。取りつけてもらったブースターを起動すると、長編映画を観ている間に火星軌道を通り過ぎたようだった。本エントリのテキストがかつてないほど加速しているのは、そういう事情ゆえである。

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title: "カラースキーム選び難しすぎ問題"
date: 2021-03-30T11:09:27+09:00
draft: false
tags: ["tech","diary"]
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## 前置き
初めてMonokaiのビビットなシンタックスハイライトを見た時の衝撃ははかりしれなかったな。それ以前はいくつかのIDEを試していて、各々のデフォルト設定をそういうもんだと思って使っていたから、カラースキームにこだわるなんて発想はなかった。
しかしVimについてあれこれ見聞きして知ってしまったんだな。**色付け(カラースキーム)を自分で決められるのか!** って。当時は2009年で僕は高校生になりたてだった。その頃にちょうど流行りはじめていた[Sublime Text](https://www.sublimetext.com/)がMonokaiをデフォルトテーマに採用したんだっけ、確か。Sublime自体オシャレで憧れたけど一番ビビったのはMonokaiの方だな。まるでデザインアートみたいだと思った。
だからそもそもはSublimeを使いたかったんだよ。簡単そうだったし。でもシェアウェアだからな。Sublimeの野郎は。5000円じゃきかないくらいはした。中学生の頃にMacbookを買ってもらって、高校の入学祝いとして自作マシンの費用まで出してもらったのに、エディタも買ってくれなんて言えないよ。まあ、結局、後でiPhone4のためにアルバイトをする羽目になったから、買おうと思えば買えたんだけど。
でも、当時入り浸っていたPCゲームのクランの人がIRCで教えてくれたんだ。IRCって知ってるか 離席する時はユーザネームのケツに手動で **_Away** とかって付けるんだぞ。2015年頃まではみんな大真面目にやってた。ともかく、その人が言ってくれたんだ。Sublimeが買えないならVimかEmacsにしたら って。
実を言うとimprovedじゃない方はいつの間にか触ってたんだ。Linuxサーバの設定に嫌でも使うからな。検索窓に適当なキーワードを放り込むと、まあ色々出てきた。エディタ戦争とか、両者の違いとか、コンフィグの例とか。ここから細かく経緯を書くと長くなるからさすがに割愛するよ。
それで僕は継ぎ接ぎだらけの`.vimrc`にMonokaiを適用するところまでこぎつけた。いやあ、感動したな。カラースキーム目当てで気持ちが先行していたから、結局Vimをずっとメインで使うほどには至らなくて今はVSCodeを主に使っているんだけど。
ここまでで1000文字ちょいか。要するに、それくらい僕はMonokaiに深い思い入れがあって、たとえエディタが代わってもMonokaiとは長く付き合い続けていた。**今までは。** よし、ようやく本題だ。
## 目が痛すぎ問題
10代の頃は目の痛みや腰痛がまるで気にならなかった。徹夜なんてカジュアルに当たり前だったし、だからかカラースキームもMonokai以外はなんだか地味に見えて試す気にもならなかった。
![](/img/09.png)
これがMonokaiだ。この原色感実際にはまったく原色ではないがバリバリのビビットでコントラストのきいた色彩に惚れたんだ。ヤングな10代の頃は考えもしなかったよ。**目が痛すぎてその鮮やかさに耐えられなくなるなんて。**
そうなんだよ。僕はもうアラサーなんだよ。あと2年とちょっともしたら30歳になっちまうんだよ。徹夜なんて絶対無理になったし、目が滔々と疲労を訴えてくるのが解る。あんまり無理をさせすぎると眼球が早期退職して僕の眼窩から出ていってしまいそうだ。老後もコンピュータをいじって遊ぶつもりなのに。
なので一刻も早く違うカラースキームを探さなければいけなかった。だが、目に優しければなんでもいいわけじゃない。もちろんこだわりはある。それに、低コントラストのテーマには[こういう問題もある。](https://leffe.satoso.net/?%E7%9B%AE%E3%81%AB%E5%84%AA%E3%81%97%E3%81%84%E7%B3%BB+colorscheme+%E3%81%AE%E5%95%8F%E9%A1%8C%E7%82%B9)従って、おのずと基本方針は以下の形になった。
**基本方針**
・目に優しいこと(ライトテーマは自動的に候補から外れる)
・寒色系ではないこと(僕は青色があまり好きではない)
・ジジ臭くないこと(後述)
・VSCode、Alacritty、Vimに同じカラースキームが用意されていること
では、丸一日を費やして検討したカラースキームを紹介していく。[vscodethemes.com](https://vscodethemes.com/)をひたすら眺め続けるのはだいぶ辛かった。
## 検討したテーマ一覧
**[Remedy](https://vscodethemes.com/e/robertrossmann.remedy)**
![](/img/10.png)
「すげー、むっちゃ目に優しいじゃん」と最初はすごく感心したんだよ。だがいくらなんでもジジ臭すぎないか? ジジ臭いっていうのを具体的に言語化するのは難しいが、たぶん暖色系で低コントラストだとジジ臭度が増大すると思うんだよな。色味が茶色がかっているとまるで爺さんが着ている上着みたいに見える。
僕がGruvboxを好きになれないのもきっとそのせいだな。好きな人がいたらごめん良いと感じたのは最初の15分間までだった。基本方針も1、2番しか満たしていないし。なによりRemedyと聞くと**ホメオパシーのあれ**を連想してしまう。
**[Base16-Eighties](https://vscodethemes.com/e/technosophos.base16)**
![](/img/11.png)
このテーマはシンタックスハイライトだけに適用されてVSCodeの外観には手を出さない。おかげで低コントラストでもジジ臭度があまり高くない。その上、[Base16 Project](http://chriskempson.com/projects/base16/)はとても盛んに活動しているので、大抵のアプリケーションには同様のカラースキームが提供されている。そういった点では基本方針をすべて満たしていると言える。
だがジジ臭くないのは外観をいじっていないVSCodeテーマだけの話であって、AlacrirttyやVimだとそうじゃないんだ。途端に老け込んじまう。目に優しいのを、とか言っておいて我ながらひどい言い草だが、ハイライトの色味も薄すぎてちょっと物足りない。逆に言えばそれが良いって人には理想的な選択肢の一つなんじゃないかな。
**[Bear](https://vscodethemes.com/e/dahong.theme-bear)**
![](/img/12.png)
**これは良い。すごく良いよ。** 暖色系なのにうまくエレガントにまとまっているし、それでいて彩度の強弱もしっかり意識されている。実際、ほぼ決定寸前のところまでいった。しかしこのテーマは真新しく知名度もそう高くないからか、他のアプリケーションに同じカラースキームが存在しないんだ。Alacrittyのテーマくらいならカラーコードをベタ移植するだけでわりあい簡単に作れたけど、Vimの方は僕の技能じゃお手上げだ。
不満もないわけじゃない。暖色系のカラースキームはえてしてそうだがforegroundが全然白くないんだよ。ギラギラした純白が問題なのであって、茶色とかカーキ色とかにまで発色を落とす必要があるか 疲れない代わりにテンションも下がりそうになる。
いや、とはいえこれは本当に良いカラースキームだよ。一応キープしておいて、目がむっちゃ疲れた時に使うことは十分考えられる。あんまり文句ばっかり言ってちゃいけないな。
**[Horizon](https://vscodethemes.com/e/jolaleye.horizon-theme-vscode)**
![](/img/13.png)
**え、これって寒色系だろ?** 僕もそう思ってたよ。だから当初はスルーしてた。でも違うんだ。実際に使ってみるとパッと見ほど青い感じがしないんだ。少なくとも僕の中ではギリ許容範囲内だ。かなり彩度強めの色が用いられているけど、この青だか黒だかはっきりしない絶妙な背景のおかげで意外に目が疲れない。ハイライトの具合が素晴らしくて気づいたら気に入ってしまった。眼球退職危険度はMonokaiとBearの中間くらいだな。
このテーマはリリースされてから2年半も経っていないわりにはどえらい人気で、既にVimにもAlacrittyにも共通のカラースキームが用意されている。暖色系ではないからジジ臭度は皆無に等しい。
実は本エントリもこれを適用して書いている。当面はこいつをメインで使っていこうと思う。不満があるとすればVimの方は背景の青がやや強く見えるところだな。ハイライトとの組み合わせ次第では僕の許容範囲を若干はみ出る。
**[HotDogStand](https://vscodethemes.com/e/somekittens.hot-dog-stand)**
![](/img/14.png)
おまけ。罰ゲームに良さそう。**おい山田ァ、お前これから1ヶ月間、このカラースキームでコーディングしろよ。** 来月末の山田君は眼球が溶けてなくなってそう。退職を待たずして過労死。

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@ -0,0 +1,50 @@
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title: "カーネルアップデート失敗からの復帰"
date: 2021-01-20T10:55:17+09:00
draft: false
tags: ["tech","diary"]
---
本日午前8時頃。いつものように淹れたてのコーヒーを片手に意気揚々とArch Linuxを立ち上げようとしたが、エラーにより起動しなかった。画面上には`Faild to open file: initramfs-linux-zen.img`の文字。対象となっているファイルの名称からブート関連の障害と推定される。
そういえば、昨日行ったアップデートにカーネルの更新が含まれていたような気がする。恐らくこの過程でなんらかの問題が生じたのだろう。
本記事では日記を兼ねて復帰までの手順を簡単に記す。
## 1.レスキューUSBドライブから起動
聞いた話ではクラウドストレージやスマートフォンの普及が原因で、PCユーザであってもUSBメモリを一つも持っていない人が今や珍しくないらしい。一昔前はいざとなればコンビニに行けば手に入ったが、最近はこの風潮のせいか取り扱わない店舗も増えてきている。
問題が発生した後にネットで注文していては遅いのでUSBメモリは**絶対に**用意しておこう。レスキューUSBドライブの作成方法は面倒なので割愛する。Arch LinuxユーザであればそれのインストールUSBドライブをレスキュー用として使うとより効率的だ。
## 2.ファイルの修正
さっそく修正対象のデバイスをマウントする。なお、デバイス名は当方の環境のものなので各自対応されたし。
```shell
$ mount /dev/sdb2 /mnt
$ mount /dev/sdb1 /mnt/boot
#注意:このマウントの順番には意味がある。EFIパーティションはrootパーティションの後にマウントしないと正しく認識されない。また、/mnt/bootは予め作成する必要がある。
$ arch-chroot /mnt
```
bootディレクトリでlsコマンドを打ったところ、当初のエラーが示すとおり`initramfs-linux-zen.img`が存在していないことが判った。これは起動に必須のファイル初期RAMディスクなので無ければ起動できない。通常、カーネルアップデートの際にこのファイルは自動生成されるが、昨日はなんらかの問題でその処理が正常に行われなかったのだろう。以下のコマンドで改めて手動生成する。
```shell
$ mkinitcpio -p linux-zen
$ mkinitcpio -p linux #ZENカーネル環境以外
```
ほどなくして再生成が完了し、対象のディレクトリに必要なファイルが配置された。
思いのほか楽勝だったなと鼻歌を口ずさみながらデバイスをアンマウントして再起動をかけると、今度はGUIが立ち上がらない。ここで僕はこの種のファイルをいじった時にはnVidiaドライバの更新も必要になることを思い出した。nVidia製以外のグラフィックスカードを使っている場合、下記の作業は不要と思われる。
## 3.nVidiaドライバの更新(Optional)
```shell
#一旦、nVidia関連のパッケージを完全に削除する。僕の環境ではZENカーネルを使用しているので名称に多少の違いがある。
$ pacman -Rsn nvidia-dkms
$ rm -r /var/lib/dkms/nvidia
$ pacman -S nvidia-dmks
```
再び再起動するとSDDMの美しいログイン画面が映し出され、当該の問題は解決した。先ほどラップトップの方にも同様のカーネルアップデートを適用したが、そちらではこの問題は発生しなかった。
結局、初期RAMディスクが自動生成されなかった理由は未だ不明であるものの、対処の難易度はそう高くないことが解ったのでとりあえず良しとする。

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@ -0,0 +1,179 @@
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title: "クールな数式アニメーションを作る方法"
date: 2021-11-07T17:36:15+09:00
draft: false
tahs: ["tech","math"]
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兎角、視覚に訴えるというのは実に効果的な手法だと思う。やり過ぎれば誇張、詐欺との誹りは免れられない一方、難解な分野に対するハードルを下げたり、人々が興味関心を持つきっかけに繋がったりもする。
とりわけ数学はその代表格と言える。数字の羅列から勝手に世界観を構築できる人間はとても稀有な存在だ。よくよく聞けば面白い話でも「よくよく」の姿勢になってもらうまでが難しい。世界中の教育者たちは生徒(これはなにも子供だけに限った話ではない)にいかにして興味を持たせるか、日々頭を悩ませていることだろう。
そこへ行くと今は良い時代だ。ほとんどの人が手のひらサイズのコンピュータを持っており、以前は困難だった動画や音声などのリッチコンテンツの配信も当たり前になった。その中でも特に3Blue1BrownというYoutubeチャンネルは、むしろ数学が苦手な人にほど観てもらいたい。滑らかで美しいアニメーションと、決して上っ面だけに留まらない精緻な解説はきっと数学への関心を高めてくれる。
<iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/jsYwFizhncE" title="YouTube video player" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen></iframe>
例えば上記の動画は物理エンジンを利用したブロック同士の衝突シミュレーション。驚くべきことにその衝突回数はブロックの重さを増やすたびに、円周率の値へと近似していくらしい。なぜそうなるのか、高校レベルの運動方程式と三角関数を交えて解説している。いかにも物理と数学の共演ぶりが実感できてとてもテンションが上がる。
こういったすばらしいアニメーションを作成するにはさぞかし手間がかかるに違いない。操作を覚えるだけでも人生を使い果たしそうな3DCGソフトとか、どうせAdobeのなんとかかんとかみたいな名前のソフトを使っているんだろう、と僕も思っていた。
**ところがわれわれはこれらのアニメーションをエディタ一つとPythonの知識だけで、なおかつ無料で作ることができる。** なぜなら他ならぬ3Blue1Brown自身が描画エンジンをオープンソースとして提供しているからだ。本エントリではこの描画エンジン「Manim」を簡単に紹介する。
## 凡例
導入方法は[リポジトリのページ](https://github.com/3b1b/manim)で既に説明されているが、Arch Linux系のディストリの場合は`pacman -S manim`で入れる方がより手軽かもしれない。コードの内容によってはLaTeX関連のパッケージも必要になる。予め`texlive-core`と`texlive-bin`を導入しておくと面倒が少ない。
導入が済んだら適当な名前のディレクトリを拵えて直下にpythonファイルを作成する。作成したら、まずは下記のコードをコピペしよう。
```
UNKO/
└─scene.py
```
```python
from manim import *
class SquareToCircle(Scene):
def construct(self):
circle = Circle()
square = Square()
self.play(Create(square))
self.play(Transform(square, circle))
self.play(FadeOut(square))
```
![](/img/68.gif)
保存後、コンソールで`scene.py -p -ql`を実行すると正方形が円に変わるアニメーションが再生されるはずだ。続いて、グラフを派手に表示させてみよう。
```python
from manim import *
class FollowingGraphCamera(MovingCameraScene):
def construct(self):
self.camera.frame.save_state()
# create the axes and the curve
ax = Axes(x_range=[-1, 10], y_range=[-1, 10])
graph = ax.plot(lambda x: np.sin(x), color=BLUE, x_range=[0, 3 * PI])
# create dots based on the graph
moving_dot = Dot(ax.i2gp(graph.t_min, graph), color=ORANGE)
dot_1 = Dot(ax.i2gp(graph.t_min, graph))
dot_2 = Dot(ax.i2gp(graph.t_max, graph))
self.add(ax, graph, dot_1, dot_2, moving_dot)
self.play(self.camera.frame.animate.scale(0.5).move_to(moving_dot))
def update_curve(mob):
mob.move_to(moving_dot.get_center())
self.camera.frame.add_updater(update_curve)
self.play(MoveAlongPath(moving_dot, graph, rate_func=linear))
self.camera.frame.remove_updater(update_curve)
self.play(Restore(self.camera.frame))
```
![](/img/69.gif)
カッチョいい。では次は三角関数だ。
```python
from manim import *
class SineCurveUnitCircle(Scene):
# contributed by heejin_park, https://infograph.tistory.com/230
def construct(self):
self.show_axis()
self.show_circle()
self.move_dot_and_draw_curve()
self.wait()
def show_axis(self):
x_start = np.array([-6,0,0])
x_end = np.array([6,0,0])
y_start = np.array([-4,-2,0])
y_end = np.array([-4,2,0])
x_axis = Line(x_start, x_end)
y_axis = Line(y_start, y_end)
self.add(x_axis, y_axis)
self.add_x_labels()
self.origin_point = np.array([-4,0,0])
self.curve_start = np.array([-3,0,0])
def add_x_labels(self):
x_labels = [
MathTex("\pi"), MathTex("2 \pi"),
MathTex("3 \pi"), MathTex("4 \pi"),
]
for i in range(len(x_labels)):
x_labels[i].next_to(np.array([-1 + 2*i, 0, 0]), DOWN)
self.add(x_labels[i])
def show_circle(self):
circle = Circle(radius=1)
circle.move_to(self.origin_point)
self.add(circle)
self.circle = circle
def move_dot_and_draw_curve(self):
orbit = self.circle
origin_point = self.origin_point
dot = Dot(radius=0.08, color=YELLOW)
dot.move_to(orbit.point_from_proportion(0))
self.t_offset = 0
rate = 0.25
def go_around_circle(mob, dt):
self.t_offset += (dt * rate)
# print(self.t_offset)
mob.move_to(orbit.point_from_proportion(self.t_offset % 1))
def get_line_to_circle():
return Line(origin_point, dot.get_center(), color=BLUE)
def get_line_to_curve():
x = self.curve_start[0] + self.t_offset * 4
y = dot.get_center()[1]
return Line(dot.get_center(), np.array([x,y,0]), color=YELLOW_A, stroke_width=2 )
self.curve = VGroup()
self.curve.add(Line(self.curve_start,self.curve_start))
def get_curve():
last_line = self.curve[-1]
x = self.curve_start[0] + self.t_offset * 4
y = dot.get_center()[1]
new_line = Line(last_line.get_end(),np.array([x,y,0]), color=YELLOW_D)
self.curve.add(new_line)
return self.curve
dot.add_updater(go_around_circle)
origin_to_circle_line = always_redraw(get_line_to_circle)
dot_to_curve_line = always_redraw(get_line_to_curve)
sine_curve_line = always_redraw(get_curve)
self.add(dot)
self.add(orbit, origin_to_circle_line, dot_to_curve_line, sine_curve_line)
self.wait(8.5)
dot.remove_updater(go_around_circle)
```
![](/img/70.gif)
こうやって動いているのを見ると三角関数の実態も一段と掴みやすくなる。その上、gifにしてもあまり重くならない。動画コンテンツのみならず、このように文章の補助に用いる形でもかなりの効力を発揮してくれる。もし意欲のある教育者たちの間に広まったら、今後の教育コンテンツは大化けするかもしれない。
せっかくなのでうんこっぽい図形を出力できるか試してみたいが、僕の知識量ではまだ時間がかかりそうだ。先にできた人がいたらぜひ教えてほしい。
## 参考文献
[Manim Community](https://docs.manim.community/en/stable/tutorials/quickstart.html)
[Example Gallery](https://docs.manim.community/en/stable/examples.html)

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@ -0,0 +1,40 @@
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title: ゲーミング用USB-DACという選択肢
date: 2016-02-13T16:12:06+09:00
draft: false
tags: ["tech","review"]
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## 序論
その昔から、サウンドカードというディヴァイスは存在していた。それは当初、ビープ音しか鳴らす事のできないコンピュータに一定の音声出力機能を持たせる程度のものでしかなかったが、時代の要請に応えて次第に複雑な音響処理を行えるようになってきた。
やや遅れてUSB-DACと呼ばれる外付けのD/AコンバータもPCオーディオの旗手として勃興した。サウンドカードはコンピュータの内部に組み込む都合上、ハードウェアの構成によってはどうしてもイズの発生が避けられなかったが、音声の処理を完全に外付けの機器で行うUSB-DACはコンピュータ由来のイズから逃れる事が可能であった。
しかし、以前のUSB-DACには音声入出力に一定の遅延が存在していた。これは複雑な音響処理を並行して行うPCゲーム、とりわけ競技性の高いジャンルでは致命的と言わざるを得ないだろう。21世紀に入る頃にはマザーボードにも音声処理機能が備わるようになっていたが、あくまで単純な代物に過ぎず、低い音質やCPUリソースの消費等、まだまだ懸念は多かったのだ。
その点、サウンドカードは低遅延、高音質、専用のプロセッサによる効率的な処理、独自のサウンドエフェクト…etcなどを提供していた。どれもゲーマーにとっては重要な機能である。他方、あくまで音楽再生用途を主とするユーザはこれらの機能よりもイズの遮断を優先し、USB-DACを使用し続けた。つまり、ほんの数年前までは使用目的に応じて適切に住み分けが行われていたのだ。
結果、サウンドカードはよりゲーミング用途に特化し続け、USB-DACはより音楽再生に特化するようになった。一部、ONKYO製のサウンドカードなどの例外も存在していたが、この趨勢を変えるには至らなかった。大きな変化が訪れたのはごく最近の話である。
これまでゲーミング用と銘打ったサウンドカードは事実上、Creative社の独占状態にあったのだが、彼らは自らそれらの製造を次々と終了しーあろう事か、新たにUSB-DACを販売するようになったのだ。Creativeは以前もUSB-DACを販売していたとはいえ、これらは低廉な代替品でしかなかった。しかし、今や[公式サイト](http://jp.creative.com/p/sound-blaster "Creative")を見れば判る通り、USB-DACは完全に彼らの主力製品と化している。
思うに、この大きな変化はPS4の世界的な流行が理由だろう。サウンドカードはコンピュータの拡張スロットに挿せなければ使えないが、USB-DACならばコンシューマ機にも対応できるからだ。Creativeにとってこの大きな市場は既存のサウンドカード市場を切り捨ててでも乗る価値があったのだ。
オンボードサウンドも徐々にまともになってきているこのご時世、敢えて不利な武器で戦い続けるよりも将来性のある分野を開拓する方がより良いはずだ。PCゲーマーから見てもその選択に誤りはないように思える。
## レビュー
以上の現状を鑑みて、僕はこれまでTitanium Professional AudioやTitanium HDといった製品を使用してきた筋金入りのサウンドカード派だったが、この機会にUSB-DACSound BlasterX G5に移行する事にした。
正直、開封してすぐに思った事は「こんなに小さい機器から本当にまともな音が出るのか」という疑問だった。上の画像を見れば判る通り、小型のUSB-DACとして知られるHP-A3画像左上よりもさらに小さい。本体の側面には内蔵プロファイルと後述する「Scoutモード」、ゲインの切り替えボタンが備わっている。一番最後以外はドライバーソフトウェア上からも簡単に変更できるので、恐らくPS4などのコンシューマ機に接続する事を想定して作られたボタンなのだろう。
かつてCreativeのドライバーソフトウェアと言えば不安定かつUIも貧相で、おおよそまともな評価は得られない代物だったが、この新しいソフトウェアは良く出来ている。設定項目も適切に整頓されており、カーソルを合わせるとツールチップも表示される。デフォルトではこのソフトウェアでの設定が優先されるので、いちいちWindows側の設定を確認せずに済むのも大きい。
そして肝心の音質だが、値段なりには良い音が出ているように思う。もっとも、稀代の名作であるTitanium HDと比べれば若干劣るが、それでもTitanium PAやZよりは高音質に感じられた。特にこれまでオンボードサウンドしか使ってこなかった人達は十分に満足するはずだ。
ただ音を出す以外にも、ゲーム毎のイコライザプロファイルや、FPSゲーム等の足音のみを強調するScoutモード、ボイスチェンジャー、仮想サラウンドなど、この製品には豊富な機能が備わっている。ゲーミングオーディオ界のオールインワン製品と言っても過言ではない。
最後に何より驚いた事は、これまでゲーミング用途としてのUSB-DACを語る際に必ずセットで付いてきたあの遅延が一切感じられなかった点だ。正確な測定をした訳ではないので体感でしか言えないが、どのようなジャンルのゲームをプレイしていても問題は見られなかった。一番大きかった懸念が払拭されたのは素直に喜ばしい。
## 総括
今後、USB-DACはゲーミング市場でも主流になっていくだろう。対応機器の幅広さ、使用の簡便さ、遅延問題の解消など、あらゆる部分がサウンドカードを上回っている。しかし、唯一の問題はPS4にしろコンピュータにしろ、オンボードサウンドが大半のユーザにとって十分まともな選択肢になっているという点である。
そんな中、実売価格1万7000円以上のUSB-DACを購入する人はそう多くは居ないだろう。必要な機能をより厳選し、高い音質を保ちつつ価格を落としていく事がゲーミングオーディオ業界の課題となりそうだ。

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@ -0,0 +1,31 @@
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title: "コスパに優れたメールサーバ「mailbox.org」"
date: 2021-04-12T17:34:05+09:00
draft: false
tags: ["tech","diary"]
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かつてはメールサーバをVPSで運用していたが、当ブログを静的サイトに刷新したことを契機にVPSそのものをやめてしまった。現状、ConoHaのレンタルサーバの世話になっている。競合他社の「さくらのメールボックス」はどえらく激安だが、独自ドメインだとSPFにもDKIMにも対応しない粗末な仕様だったので候補に入らなかった。
とはいえ、そうは言ってもConoHaの月額550円はさすがに高い。当時はあれこれと他に注力したいところがあったので一応払うだけ払ってきたが、こうして諸々の環境が整って落ち着いた今となってはおのずと再検討の余地が生まれてくる。エンジニア界隈をざっと眺めてみると、やはり僕のように独自ドメインのメールアドレスを運用している変わり者が少なくない。
まずもって候補に挙げられるのは[ProtonMail](https://protonmail.com/jp/)と[Tutanota](https://tutanota.com/ja/)である。これらは巨大テック企業にありがちな個人情報の詐取がなく、オープンソースで開発されていることから界隈で強い人気がある。なにより、独自ドメインにこだわらなければずっと無料で使える。とりあえずメールアドレスを一つ欲しい人はもうこれで決まりかもしれない。
しかし僕は独自ドメイン運用が必須なので有料プランの価格は無視できない。ProtonMailの気になるお値段は月額4ユーロ。高すぎる。対してTutanotaは月額1ユーロ。ふむ、どうやら勝敗は決したらしい。だが、Tutanotaには致命的な欠点があった。IMAPが利用できない。**つまり、Tutanota自身が提供する公式のアプリケーションでなければメールの送受信ができない。** ThunderbirdやSparkは使えない。うーん、そいつは困る。TutanotaはE2E暗号化が十全に行えないことを理由にしているが、こんなのはセキュリティを盾にした新手のロックインみたいなものだ。好きなアプリケーションが使えないなら少なくとも自由ではない。
メールサーバ探しが暗礁に乗り上げかけたところ、幸いにもこんな[ブログ記事](https://www.tojo.tokyo/email-and-domain.html)を見つけた。記事によると[mailbox.org](https://mailbox.org/en)というサービスが優れているようだ。月額1ユーロでなんとSPFにもDKIMにもDMARCにもIMAPにも対応している。もちろん、独自ドメインにも対応済み。ただし永年の無料プランはなく、いずれは金を払わなければならない。単にメールアドレスが欲しい人にはオーバースペック気味だが、僕にとってはベストマッチに思えた。さっそくConoHaのメールサーバを引き払い、DNSレコードをmailbox.orgに向けて書き直した。
mailbox.orgは先に挙げたサービスほどセキュリティやプライバシー保護を前面に押し出してはいないが、それでも厳格な検査をパスしたドイツ企業によって運営されているとのことだった。そういえばTutanotaもドイツ企業だったし、ProtonMailはスイス企業だった。こういった繊細な部分に気を遣うのはいかにも欧州的だという感じがする。余談だが、アメリカにオフィスがないのはメリットに入るらしい。
![](/img/19.png)
日本ではなあなあで済まされた[アメリカ政府による各国政府要人の盗聴事件](https://webronza.asahi.com/politics/articles/2013110600006.html)はドイツではかなり深刻に受け止められたと聞くし、きっとわれわれとは個人情報に対する感度が違うのだろう。他方、[LINEのサーバが中国や韓国に設置されていた件](https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2103/23/news124.html)は、人々の反応を見る限りではセキュリティ意識というよりはイデオロギーや偏見の方が先に立っているように見えた。彼らはたぶん、サーバの場所がアメリカだったらそんなに文句を言わなかったんじゃないか。
話を戻そう。mailbox.orgの方は特に問題なく、宣伝通りの機能性とコストパフォーマンスを持ったサービスとしておすすめできるのだが、一つだけ注意点が見つかった。ここのDKIM公開鍵は2048bit長なので、ドメインを管理しているレジストラによっては対応していない場合がある。実際、僕が使っているスタードメインはTXTレコードの文字数上限が原因で設定を受け付けなかった。今後、隙を繕って別のレジストラへの移管を検討しなければならない。追記[解決した](https://twitter.com/riq0h/status/1420615848415346693)
ちょっと調べたところでは、[Gandi](https://www.gandi.net/ja)が良さそうに感じた。**No Bullshit**を標語に掲げ、クリーンな企業運営と広告への非依存を謳っており、利用者の権利を尊重している。.jpドメインの更新料が安いスタードメインと比べると年1000円ちょっとほど割高になってしまうが、こういった取り組みは支援に値するように思う。そんなGandiは例によって欧州の企業フランス企業である。ほんと君ら意識高いな。
意識が高いといえば、Tutanotaとmailbox.orgは再生可能エネルギーでサービスを運営しているそうだ。この情報はWebページ上でもけっこう強めにアピールされている。**ってことは、決して少なくない人々がそれを気にかけているんだろうな。** まったく恐れ入ったよ。こういう話を聞くと反射的におちょくりたくなってしまうが、間違いなく君らが正しい。
## あわせて読ませたい
・[メールサーバ再考](https://riq0h.jp/2023/05/05/213838/)
mailbox.orgが値上げしたので他のメールサーバに再び移住した話。

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@ -0,0 +1,73 @@
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title: "コンピュータ好きの人類が観るとより楽しめる洋ドラ三選"
date: 2021-07-31T23:32:06+09:00
draft: false
tags: ["tech", "movie"]
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## タイトルについて
当初、本エントリのタイトルは **「プログラマが観るとより楽しめる洋ドラ三選」** になるはずだった。しかしすぐに **「いやプログラマに限定するのはおかしいな。インフラエンジニアだって当然楽しめる」** と思い直し、タイトルを「エンジニアが観ると…」に修正した。が、ここでまた手が止まった。**「なにも職業エンジニアに限った話ではないな」**
実際にそうなのだ。紹介する作品群はどれもコンピュータをある程度かじっている人なら十分楽しめるように作られている。こうして対象範囲をどんどん拡張していった結果、現在の珍妙なタイトルが生まれた。さすがにこれ以上広げるつもりはない。
仮に本エントリが数百年後まで参照可能だったとしても「人類」の定義は残念ながら執筆時点でのものに限られる。したがって、機械生命体や地球外生物によるクレームは受けつけかねる。そもそも僕、その頃にはもう死んでるし。
## なぜ楽しめるのか
コンピュータの知識に覚えがある者なら誰しも一度は思うことがある。**フィクション作品におけるIT関連の描写が、あまりにも雑すぎる。** 実際のプログラミングは変な音がピロピロ鳴ったりしないし、やたらグラフィカルでインタラクティブな操作画面も用いない。緑色の半角カタカナが縦に流れたりもしない。視聴者を視覚的に楽しませることを優先しすぎた結果、すっかり不正確な描き方が根付いてしまったと見える。
もっとも、これはケチな難癖なのかもしれない。CGで作られた派手なシーンに力学の観点から批判を加えたり、職業モやスポーツモの作品に現実味がないとマジツッコミを入れるようなものだ。所詮はエンタメなんだから、観て楽しければそれでいいじゃないか うーん、確かにそうかも……。でも、でもさあ、**もし、ガチで作り込んだ作品があるとしたら、それはそれで観たくない?** よし、今すぐ観よう。
## [MR.ROBOT](https://www.amazon.co.jp/dp/B015NZFF8I)
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**■あらすじ**
昼間はセキュリティエンジニアとして働く主人公。その裏の顔は類稀なハッキング技術で悪人を罰するダークヒーローだった。彼の最大の目標は、あらゆる事業を手中に収める世界最大の巨大企業「E CORP」を破綻に追い込み、件の企業が持つ膨大な債権情報を抹消して強制的に格差を是正させることである。
精神障害者にして重度の薬物中毒者でもある主人公はしばしば現実と妄想の区別がつかなくなる。ゆえに彼は内に眠る狂気や葛藤と戦いながら、名だたる悪徳企業に指先一つで打ち勝たなければならないのだ。さしずめ現代版の「ファイトクラブ」と言えよう。ジャンルはクライムサスペンスで徹頭徹尾シリアス。
**■みどころの一部**
・主人公はGNOME派だが「E CORP」の執行役員とたまたま雑談になった際、役員に「私はKDEを使っている」と言われて「巨大企業の重役がLinuxユーザだと」と驚くシーン。**しかもこれが伏線になっている。**
・主人公はハッキングする時のみKali LinuxをUSBフラッシュドライブからブートさせ、普段はLinux Mintを使用している。これは自身がハッカーだと捜査当局に勘づかれないための偽装工作と見受けられる。確かにKali Linuxはそういう用途に悪用されやすいディストリではある。
・作中では「E-OS」という架空のOSとして描かれているが、どう見てもWindows7なOSをリカバリモードで立ち上げ、特定の.dllファイルを書き換える手法でアドミニストレータのパスワードを上書きするシーン。このハックはかつて本当に通用した。
## [シリコンバレー](https://video.unext.jp/title/SID0056451)
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**■あらすじ**
主人公はシリコンバレーの人気IT企業に勤めるプログラマだが、社内での立場は芳しくない。独立を目指してアプリケーションの開発に取り組むも、仲間ともどもまともなアイディアが浮かんでこない。そんな中、ようやく形になってきた製作中の音楽アプリケーションが、なぜか異常なファイル圧縮効率を示していることが本人の知らぬまま勤務先の上層部に伝わる。
そう、主人公が意図せず作りあげていたものは新設計のデータ圧縮アルゴリズムだったのだ。かくして彼は巨大企業からの買収交渉や起業、社内闘争などの絶え間ない諍いに身を投じていく。というと半沢直樹みたいだが、リは完全にコメディそのもの。以前はAmazon Prime Videoで観られたが今はU-NEXTの独占配信枠に移ってしまったところが玉に瑕。
**■みどころの一部**
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**この動画だけで十分に伝わると思う。延々とこんな感じ。**
## [ドラッグ最速ネット販売マニュアル](https://www.netflix.com/title/80218448)
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**■あらすじ**
高校生のコンピュータオタクがドラッグのネット販売に手を染める物語。実際の事件をモチーフにしているものの本作はコメディ路線の緩い雰囲気で描かれ、IT関係のミームが盛んに登場する。
留学先から帰国してすっかり垢抜けた彼女に別れを切り出された主人公は、彼女を振り返らせるためにドラッグのネット販売で金儲けを企む。予想以上の収益を稼ぎだしてしまった彼は事業拡大に乗り出すも、様々なトラブルに見舞われてだんだん後に引けなくなっていき、やがてドツボにはまる。
先の二作と異なるのは本作がモキュメンタリー形式で制作されているところだ。時折、主人公や他の登場人物がインタビューに答える体裁で発言するシーンが挟み込まれたり、主人公の突飛な行動に対して主人公自身がツッコミを加えたりする。それらが上手く軽妙さを演出しており、ゴリゴリのミーム要素を含む作品にしてはハードルが低く感じられる。一話あたりの尺が約三十分と短めなのも取っつきやすさに優れる。
**■みどころの一部**
・コーディングスタイルに関する具体的な言及。識別子がすべてスネークケースで書かれている様子から彼氏によるコーディングだと気づく女の子が登場するなど。
・GAFAをはじめとする巨大テック企業への皮肉が面白い。その辺りのジョークに理解があると毎話笑いっぱなしで楽しめる。
・本作は高校生が主要な登場人物なので、ITガジェットに対する認識や人間関係のもつれ方に世代ならではの価値観が色濃く反映されている。なかなかインモラルな内容の作品ではあるが特に高校生には観てほしい。
## 最後に
色々言ったけどピロピロ音にド派手画面のハッキングシーンもそれはそれで嫌いじゃない。

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title: "ショットガン装備"
date: 2023-06-14T20:57:51+09:00
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 通学路の道すがら、通りかかる交番にはショットガンが架けられている。大人が三人も入ったらぎゅうぎゅう詰めになりそうな手狭な空間の中で、それはいっそう神々しい異彩を放って僕を釘付けにした。まるで御神体みたいだと思った。
 「熊が出るからな」と言葉少なめに言うのは僕の兄だ。長老みたいなお爺さんと入れ替わりに兄が警察官になったのが十年前で、僕がショットガンに惹かれたのも同じ頃だった。
 「じゃあ兄いは熊が出たらこれを使うの?」と前のめりに質問すると彼はやや間をおいて、やはり手短に「まあな」と認めた。壁に備えつけられた透明な箱に鎮座するショットガンは、アクション映画に出てくるものとそっくりに見えた。これで撃たれたらひとたまりもなさそうなのは当時でもなんとなく想像がついた。
 学校でも、家でも、近所でも、大人は口々に「山さ入ったら死ぬぞ」と僕を脅した。この村ではどんな子供も熊の存在に脅かされて育つ。『行くなと言われて行った子、みーんな死んだ』という題名の絵本も発行されていて、どの家にも人数分置かれている。悪事を働いた際の殺し文句はもちろん「熊に食わせる」だ。
 毎日、登校するたび僕は「御神体」に祈りを捧げた。熊が人里に現れた時には、これが僕たちを守ってくれる。兄が朝の巡回で交番を空けるこの時間、誰もいない直方体の家屋の奥に佇むショットガンはいよいよ超然としてきて、あたかも交番が聖なる祠と化したかのように感じられた。
 ところが、そんな厳かな儀式も巡回を早く切り上げて戻ってきた兄に見つかると、昔の調子でめちゃくちゃ馬鹿にされた。
「きしょすぎるよお前」
「だって、熊をやっつけてくれるわけだし」
 僕はもごもごと口答えをした。
「ていうか、兄い、こんなごついの本当に撃ったことあるの?」
「当たり前だろ。じゃないと本番で使えねえ」
 兄は室内に置かれた書類棚をいじりながら背を向けて答えた。僕の脳裏には、たちまち大きな射撃練習場かどこかでショットガンを構えている兄の姿が描き出された。「すっげえ」と息を漏らした。
「村の”守人”だからな、俺は」
「もりびと?」
「守る人って意味だ」
 兄はそう言って振り返り、細い紐で首に下げた金色の小さな板を指でつまんで見せた。
「これがそのお守りだ」
 語彙不足だった僕はまたもや「すげえ」と答えた。
「お前、銃好きなん?」
 兄の顔はいつになく真剣そうだった。
「うん、まあ」
 質問の意図が掴めずに応じると、彼は途端にいたずらっぽい笑みを浮かべてこう言った。
「いいか、内緒だぞマジで。バレたらクビだからな、俺」
 一旦、僕を室内に押し込んでから外をきょろきょろと見回した兄は、まもなく戻ってきて透明な箱の鍵穴に鍵を差し込んだ。中を開けてショットガンを取り出すと、僕の方へゆっくり差し出した。
「ほら、持ってみろ」
 思いがけない出来事にどぎまぎして銃身を両手で掴んだが、兄の手が離れるやいなやずっしりとした重みと、ごつごつした感触が一挙に伝わってきて危うく取り落としかけた。「馬鹿、気をつけろ」彼は後ろに回り込んで僕の両腕を掴んだ。
「構え方はこうだ」
 自分の半身をはるかに上回る大ぶりの銃身は、兄の補助なしではとても一人で支えきれなかった。兄のたくましい胸筋と両手にほとんど身を任せて、僕はなんとかショットガンを装備した。
「お前も警官になれよ。俺が楽できる」
 背後でおどける兄の言葉にほのかな高揚を覚えた。
「僕になれるかなあ」
 あの時の僕は無邪気に笑ってそう答えたものだった。
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 スマホで設定した時刻の三十分前には目が覚めていたが、布団の底でもぞもぞやっている間に結局アラームが鳴り響いた。やむをえず部屋を這い出て、平屋に典型の細く長い廊下をだらだらと歩いた。一歩歩くたびにみしりみしりと大げさに木材が軋む。思えば、昔からそうだ。今日こそは床が抜けると淡く抱いていた期待はいつしか忘却の彼方に追いやられた。
「おはよ」
「あんただけだよ食べてないの」
 食卓はすでにあらかた片付けられていた。机の隅にぽつんと一食分の朝食が取り残されている。
「兄いは?」
「巡回じゃないの」
 交番勤務の兄は毎日決められたスケジュールで朝晩に巡回をしている。乾いた目をこすりながらのろのろと食卓について、まず冷めたトーストにかぶりついたところでのしのしと足音が迫ってきた。我が家では誰かが近づくとすぐに判る。この重量感たっぷりの足音は父に他ならなかった。
「今さら朝飯か」
 頭をごく短く丸めて顔いっぱいに皺を刻んだ父は、もうツナギをそこそこに汚して農作業を終えた様子だった。父は早朝に兼業農家としての仕事を済ませると、手早く着替えて街のスーパーに出勤する。農業の経験を買われてあてがわれたスペシャルアドバイザーとかなんとかいう特別手当によって、他の従業員よりも給料が二万円高いのが父の自慢らしかった。
「部活、引退したから」
 わざとパンを口に含んだ状態で答えると、父はふんと鼻を鳴らした。
「だからってだらだらしてんなよ。お前はじきに巣立つんだ」
「まだ夏休みも冬休みもあるじゃん」
「あっという間に終わるぞ、そんなの」
 中年にしてはたくましい巨躯をどしんと食卓の椅子にあずけて、父は母に向かって短く伝えた。
「茶を淹れてくれ」
 それから母が持ってきた湯呑みを一回すすり、ふう、と息を吐くと、急に態度を変えて言い直した。
「まあ、あんだけヤンチャしてた清一が警官になったんだ。陸上がダメでもなるようになるだろ」
 自他に言い聞かせるような言い草に少々苛立ちを覚えたものの、折りよく朝食を食べ終わったおかげで顔に出る事態は避けられた。
 しかし事実、兄の暴れん坊ぶりは県下に轟く勢いだったらしい。家業もろくすっぽ手伝わずに毎日、先輩から強奪した単車で街に繰り出しては夜遅くに帰ってきた。顔にも身体にも生傷が絶えなかったが、喧嘩で負けたことは一度もないという。当時の僕はそんな時間にはとっくに寝ていたから、兄と顔を合わせる日は週に一度あるかないかだった。街の美容室で髪を金ピカに染めてきた時などは、家に他人がいると勘違いして悲鳴をあげかけた。
 兄は「馬鹿、俺だよ。これ、街で流行ってんだ」と屈託なく笑いかけて、勝手に冷蔵庫を漁って食べた後の容器を放ったまま単車でまたどこかへ出ていった。子供心ながら、厳格な父はいずれ兄に厳しい制裁を加えるだろうと予想していたが、なぜだか父は「やりすぎたら俺が言うからほっとけ」と言うだけで事実上の黙認を決め込んだ。なんでも兄は「そういう時期」で、誰しもそうなる場合があって、一段落つくと急にまともになるのだとか。こうして日々、不規則な時間に残置される食器や洗濯物の始末に追われる母の不満が蓄積された。
 ところが結果的に父の予言は成就する形となる。ある日、兄は髪を短く切って黒く染め直し、めっきり街に出かけなくなった。「警察官になる」と食卓で宣言して以来、見違えるように生活態度が変わって、とうとう本当に警察に就職してしまった。この時ばかりは父も涙を流して兄を抱きしめ「お前は自慢の息子だ」と言ったとか言わないとか、そういう話を母から聞いた。
「俺は兄いじゃねえんだよ」
 食卓を離れる寸前につぶやいた僕の一言が父の耳に入ったかは分からない。
 家を出て数歩も歩かないうちに鬱蒼と生い茂る山々が遠方に見えた。まばらに点在する家屋や田畑を窪地に、この一帯は山に取り囲まれている。他には特になにもない。スマホが言うには、こういう地域を限界集落と呼ぶそうだ。味気ない山々の緩い稜線を目でなぞりつつ、視界の端に村で唯一の診療所や商店、神社が映ると視線はいくぶん直線的に移動した。
 もっぱら登校中はこんな時間の潰し方しかできない。歩きスマホなんてしていたら即座に隣近所に噂されて、父の耳にも高校の先生の耳にも伝わってしまう。毎年、毎年、根気強くねだって「部活も終わったしな」とずいぶん投げやりな名目でようやく買ってもらえたスマホを、むざむざしょうもない理由で取り上げられたくはない。
 昨日は道路の脇を流れる――流れているのを見た覚えは一度もないが――用水路のぴくりとも動かない水面を観察しながら登校した。部活を引退してからというもの、登校中に眺める景色のローテーションがだんだん固まってきたように思える。昨日は用水路、今日は山、明日は家のはずだったが、しかし今日はうっかり浮気して両方見てしまった。
 道路を直進すると、定型句の掛け声と共に朝練のランニングをしている集団と出くわした。僕の姿を認めるやいなや集団は大声で「清二先輩! チーッス!」と叫んだ。「うっす」と雑に返すと集団は一人ひとり会釈してすれ違っていく。しばらくして振り返ると、神社の鳥居に向かって集団が一礼する様子が見えた。
 ついこないだまでは僕もああしていたのだ。毎朝五時半に起きて、学校で朝練をして、授業が終わると部活動をして、グラウンドから集落の路面という路面を走り倒して、行き交う人々のすべてと挨拶を交わして、神社の鳥居に一礼する。そういうルーティンが約二年半続いたが、最後の県予選で敗退した瞬間にあっけなく終わった。世間では当たり前に行われている受験や就活とも縁遠い僕は、もはや消化試合的学校生活を後に残すのみとなった。
 そうこうしている間に、兄が勤める交番に通りかかった。実質、人生のメインコンテンツと言っても差し支えない「御神体」は、今日も変わらずそこに架けられていた。
 フランキ・スパス12。イタリアのフランキ社が設計した散弾銃。装弾数は最大で八発。スパスSPASとは"Special Purpose Automatic Shotgun"の頭文字で「特殊用途向け自動式散弾銃」の意味を表す。スマホのおかげで銃にはかなり詳しくなった。透明の箱の中で垂直に鎮座するごつごつしたそれは今もなお僕の信仰対象だ。
 写真を撮りたい。
 鞄の奥底にしまいこんだスマホをにわかに取り出したい誘惑に駆られた。写真を撮っておけばいつでもショットガンを見られる。実物を拝まなくても済むということにはならないが、土日にまでわざわざ出かけるのは気恥ずかしい。
 僕は左右を入念に見回した。誰もいない。
 鞄の奥からすばやくスマホを取り出してカメラアプリを起動した。できれば角度をつけて”映え”を意識したかったが、そんな余裕はない。
 無難に被写体を中央に収めて、撮影ボタンを押しかけた、その時――
「おい」
 交番の奥から痩身とはいえ父譲りの体格をもった兄が、ぬうっと前傾姿勢で現れた。交番は奥の部屋が畳でできた仮眠スペースになっている。
「スマホしまえ」
 有無を言わさぬ命令に気圧されて僕はスマホを鞄に押し込んだ。「兄い、巡回は?」醜態をごまかす引き笑いを伴って尋ねると、彼は言葉少なめに「もうやった」と答えた。だが、話はそこで終わらず「見るのはいいけど写真は撮るな。マジで」と鋭い眼光で釘を刺してきた。
「なんで撮っちゃいけないんだよ」
「なんでもだ。次やったらぶっ飛ばすからな。いいから学校行け」
 元不良の剣幕で言いつけられた僕はそそくさと場を後にした。
 高校は集落の終端に小中学校と向かい合う形で建てられており、ただでさえ狭いグラウンドを小中学校と共有している。だから「走れればいい」と見なされている陸上部はグラウンド以外のどこかで走らされることが多い。
 言うまでもなく劣悪さを極めるこの教育環境からは、小学校、中学校、高校と進むたびに多くが街の学校へいち抜けしていく。平易な難易度で知られる街の公立にも受からず、無条件入学のバカ私立にすら入れてもらえなかった素寒貧の子息だけが、環境にふさわしい悪性を携えて我が校の門をくぐるのだった。
 敷地に入ると、さっきまで遠景だった山々が間近に迫っているのが感じられた。稜線にぐるりと取り囲まれてどこに行っても出口がないかのようだ。空を覆う灰色の雲と夏の蒸し暑さに頭を抑えつけられている。
 まるで檻みたいだな、と思った。
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 たった一つしかないクラスの教室に入ると、前半分を数名の生徒、後ろ半分を別の数名の生徒で占めている日常の光景が目に入った。淀みのない動作で後ろ半分の集団に加わり、予定調和的に「うす」「おす」などと言い合う。
「あいつらすげーぞ、さっきからずっとカリカリ勉強してんの」
 懸命に髪型を成形した努力が垣間見える跳ね頭の良也ことリョウが、こちらに背を向けてシャーペンを走らせる一群を顎でしゃくった。部活引退後、厳しかった頭髪規制はなし崩し的に解禁されて整髪料や染髪さえ許されるのが当校の伝統的習わしだった。そういう事情だからか両隣に座る重信も圭佑も、なにがしかのヘアセットを施した形跡が認められる。
 みんな、小学校からの腐れ縁で部活も同じ陸上部に所属していた。野球もサッカーも人数不足でチームを組めないから仕方がない。リョウがもっとも速く、僕が二番手だ。しかし所詮はこの中の序列であって、どんな脳筋も必死で目指す街の高校はもちろん、県下の高校が一堂に介する県予選においてはてんで話にならなかった。
 人間関係もえてして振るわず、小学校、中学校のうちは親しく付き合っていた友人たちも、街の学校へ進学した途端にことごとく交友が途絶えた。とはいうものの、僕も逆の立場ならそうしていたと思う。
「受験まであと半年だ、当然だろ」
 僕はため息をついて近くの席に座った。一学年一クラスしかなく合計十名にも満たないここでは、定められた座席につくルールがない。おのずと真面目な生徒は前に固まって、授業を聞く気などさらさらない我々は後ろへと集まる格好となる。
「俺なら秒でギブだね。ていうか教科書の漢字が読めねえ」
 禁断のツーブロックに手を出した重信ことシゲは自嘲気味に笑いを漏らした。
「でもやつらだって一年の頃はそう大差なかったぜ、数学は九九から始まったしな」
 ロン毛育成中の圭佑ことケイが応じた。実際、その通りだった。最低限の勉強ができれば誰もこんな吹き溜まりには来ない。彼らもその点はおおむね同様だった。だが、三年もあれば人間は大いに変わる。やればできるという言葉はきっと眼前に並ぶ四角い頭たちのためにあるのだろう。噂によれば、恐るべきことに国立大学を受験する猛者もいるという。一生に一度だってそんな場所に立ち寄る機会が訪れるとは考えられなかった。
「俺らどうするんだろうね将来」
 シゲがぼそりと言う。
「こんなとこには求人票も来ないしな」
「まあ少なくとも清二は兄貴と同じ警官じゃねえの、なりたがってたし」
「俺は……どうかな、あれだって試験がある」
 僕は自信なさげに答えた。常に背中を追っていても自分と兄は大きく違っていた。兄は小四で最初の不良伝説を打ち立てたが、同じ年頃に僕は図書館で漫画を読んでいた。せめて小難しい本を読めるくらいにもっと違いがあればよかったのに、なぜか地頭の悪さはしっかりとそっくりだった。その一方で、いきなり不良を辞めて警官に転身するような即決即断の決断力はどうやら受け継がなかったらしい。
「俺はインフルエンサーがいいな、スマホ一つで成り上がるとかカッケエじゃん」
「寝言は寝てから言えよ。お前のTikTokとInstagram、どっちもくそつまんなすぎ」
 リョウの高らかな宣言に食い気味でケイがつっこみを食らわせた。彼は決まった時刻になるまで先生が教室に入ってこないのをいいことに、尻ポケットから真新しいスマホを取り出すとリョウの投稿動画を再生した。五百ミリリットル入りのコーラを五秒で一気飲みするという内容だった。確かに五秒以内には飲めていたが、だからなんだという話ではある。飲み切った後のリョウのドヤ顔がむしろに癪に障る。再生回数はたったいま二桁に届いた。
「これ姉貴にもやらせてみたら自信満々だったくせに途中で吐きやがった。でも再生回数は一瞬で三桁いったんだよ。ありえなくね?」
「やっぱ女かあ」
 ケイの諦めきった口調につられて、みんなそれぞれお互いの顔を見合わせた。ついでに、やればできる四角い頭たちの方も見やる。
 この高校に女は存在しない。下の学年にもいない。今後も入ってくることはまずない。なぜなら、親がなんとしてでも街の公立に入れるようあの手この手で尻を叩くし、なんだったら塾にも通わせる。そこまでやって万策尽き、それでも公立に落ちたら渋々バカ私立に行かせる。絶対にここには通わせない。こんな底辺校に娘をやったらどんな目に遭うか分からないというのが村全体の総意だった。なにしろ堅物の父でさえ「お前ら二人が男で本当によかった」とことあるごとに言うほどだ。
「女って得だな」
 シゲがつぶやいた。
 Instagramも代わり映えしなかった。街にある全国チェーン店の定番メニューを撮っているか、川か山の写真がのっぺりと並んでいるだけだった。「せめて喫茶店とかさ……」たまりかねた僕が助言しようとすると、リョウは「やだよ、俺、コーヒー飲めないし」と遮った。「スタバなんてここいらにはないしな」シゲがとどめを刺した。
「インフルエンサーとか無理じゃね? 生まれる場所間違ったわ」
 かつんかつんと廊下から先生の足音が響いてきたので、話はそこで終わった。みんなはすかさずスマホを鞄にしまい込んで、同時に前半分の連中も自習をやめて一限目の教科書とノートに切り替えた。
 滞りなく五限目まで終わると我々は校舎から一斉に排出された。向かいの小中学校では、村じゅうからかき集められた子供たちがまだ賑やかに校庭で嬌声をあげていた。おおよそ普段は中高年しか見かけないこの地域にも一応は子供がいる。彼らもいずれ進学に伴って濾されて散り散りになっていくのだろう。最後の最後まで濾し布の上に残った沈殿物が、三角コーナーよろしく我が校にまとめて投棄せしめられるのだ。
 三年生は部活を引退したので当然、放課後の活動は一切ない。中学生の時分より夢見ていた膨大な自由時間が手に入ったのに、期待していた喜びはついぞ得られなかった。引退直後こそリョウたちと連れ立って街に繰り出したり集まってなにかをやろうとしたものの、全員揃って金なし知恵なし彼女なしではどうにもならず、結局は横に並んでのスマホいじりに終始した。それなら家に帰ってやればいい。だからどうせ今日もスマホを触って一日が終わる。
 せめて帰る前に「御神体」を拝んでおこうと交番に顔を出したら、そこにはあるはずのものがなかった。透明の箱が開け放たれ、中身が空になっていた。ショットガンがない。
「兄い、おらんの?」
 おそるおそる奥の畳の部屋に向かって声をかけたが、反応はない。兄もいない。
 夏の放課後の日差しに鋭く照りつけられていても、なぜだか影が差し込んでいるように思われた。
 きっと、射撃練習だ。
 兄は言わなかっただけで、今日は射撃練習の日なんだ。これまでにも何回もあって、残念がったりしたじゃないか。なんてことはない。
 しかし、自分にそう言い含めても開け放たれたがらんどうの箱が放つ不気味さは拭えず、僕は足早にそこを立ち去った。
 事の真相が判明したのは翌日の朝だった。
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 いつものようにのそのそと布団から這い出てみしみしと床を軋ませながら居間に入ると、普段はいない兄がそこにいた。制服姿のまま、供された朝食を貪っている。
「兄い、仕事は?」
「いま終わった」
 兄はぶっきらぼうに応じてトーストを口に押し込んだ。見るからに疲れきった顔をしている。
「今日、学校を休んだ方がいいかもしれないね、いや、休みなさい」
 それぞれの湯呑みに煎茶を追加した母が、心配そうな声色で話した。
「は? なんで?」
「熊が出たんだよ」
 トーストの咀嚼を終えた兄が代わりに答えた。
「お前、村の端に住んでる加山の爺さん、覚えてるか」
 加山と言えば、退職した小学校の先生だ。勤続四十年余りの教員生活にピリオドを打ったのもだいぶ前の話で、今は親から相続した山の一角に通い詰めていると聞いた。雑草まみれの他の山々と違って、そこは山菜類が豊富に採れるという。
「死んじまった。熊にやられて。俺はその捜索に行ってたんだ」
 兄の口調はごく淡々としていた。もともと出没地域ゆえ、熊に殺される人間が出てくるのは誰しも想像することではあったが、実際に耳にするのはやはりショックだった。
「ああ、だから銃がなかったのか」
 僕は努めて平静を装って、自分のトーストを食べはじめた。びびっているとは思われたくなかった。
「それで、熊は……」
「仕留めた、と思う。たぶんな。でも死骸が見つかっていない」
 最初の母の話に繋がった。どうやら熊は手負いだが生きている可能性がある、ということらしい。手負いの獣が危険なのは狩猟に詳しくなくてもよく知られた話だ。
「なんだ……じゃあ寝てればよかった」
 ていうか、食べ終わったらもう一回寝よう。学校に行かないのに朝早く起きて、外にも出られないとなったらなにをすればいいのか分からない。
「私はちょっと加山さんちに行かないといけないから、ちゃんと家にいなさいよ」
「いや、母さんだって出ちゃダメでしょ」
 僕はすばやくつっこみを入れた。「あんたと違ってこっちは葬式の段取りとか色々あるの」と母はまくしたてて台所に引っ込んだが大方の予想はついていた。それにかこつけて噂話を収集するのが目的なのだ。今日の加山邸には村じゅうの暇人が集結することだろう。ここいらでは誰かが生まれたか死んだという他にはニュースらしいニュースが存在しない。最近、前者の方はめっきり聞かなくなったのでニュースバリューはしばしば後者に偏りがちだ。
 母との応酬をよそに、もっとも事情に詳しいはずの兄は黙々と増量された朝食を食べ続け、食べ終わると服を脱いで浴室に向かった。熊が出てショットガンを持ち出した事例は別に今回が初めてではなく、むしろこれまでに何回もあったが、人々はあれこれと噂を立てても誰も兄本人には聞きにいかない。たとえ勤続十年の警官でも人々にとって兄は未だ村一番の荒くれ者であって、軽口を叩いたりあれこれ詮索するのに適した相手ではないと見なされている。
 そうでなくても兄は仕事を終えるといつも自室に引きこもって、次の出勤までなかなか表に出ない。不良時代に働いた悪事の咎を一身に引き受けているかのような仕事人間ぶりだ。
 朝食を済ませた後は予定通りに二度寝を決め込んだ。再び目が覚めたのは昼前で、スマホを見るとLINEの未読メッセージがいくつも溜まっていた。例の「後ろ半分」で結成したグループチャットだ。良い名前が思いつかなかったのでグループ名を「なし」としたが、これほど我々にふさわしい名称はない。現時点であらゆる将来がないからだ。
『おい、熊殺しの弟、情報よこせ』
『清二の兄貴強すぎだろ』
『昔は番張ってたって親が言ってた』
『街の高校も全部一人で仕切ってたからな』
『素手で熊殺したらしいな』
『ついでに加山もムカつくから殺したらしい』
『やば』
 ものの見事に噂に尾ひれがついて出回っていた。色々と訂正したい部分はあったが、まずもって優先すべき情報は一つしかない。
『熊死んでないかもだってよ。だから今日は休んでるんだ』
『マジか』
『やば』
『メシ食ったら帰ろうかな』
 リョウのやつはさっきから「やば」しか言っていない。その語彙力で本当にインフルエンサーとやらになるつもりがあるのか甚だ疑問だ。それからしばらく会話を交わした結果、尾ひれを切り落とした後の情報量は僕も彼らもそう大差ないことが判った。じきにシゲが『俺も五秒でコーラ飲めた』と言いだしたので、呆れてLINEを閉じた。
 寝て、起きて、用意された昼食を食べて、また布団に潜る動作を繰り返しているうちに夜を迎えた。夕食の席では近所の情報を集めてきた母と職場で噂話を耳にした父が、互いに独り言のような調子でまるで噛み合わない会話を行っていた。しかし総合すると、兄が熊殺しの異名を手にしている点は揺るぎなかった。父は兄の肩を叩いて「で、そいつはどんだけでかいんだ? 二メートルくらいはあったか?」などと問い詰めた。母は母で、食事時にもかかわらず「加山さんの遺体、食べられちゃってほとんど骨しか残ってないって」と力強く囁いた。うかつに目をやったホッケの干物の骨が、人体の肋骨に見えた。
 一方、兄がもたらした情報は端的だがこの上なく確かなものだった。
「熊の死骸が見つかった」
 僕は両親二人の声を意識的に遮断してしゃべった。
「そうか、じゃあやっぱり兄いが仕留めたんだ」
「まあな」
 兄は増量された米をむしゃむしゃと頬張った。
「ってことは明日は登校しなくちゃいけないのかあ」
 大げさに残念がると、意外にも両親ではなく兄が反応した。
「行くだけ行っとけ。卒業できなかったら困るだろ」
 そう言う本人は温情で卒業させてもらったくせに、公に仕えると性格まで説教臭くなるらしい。
 こんなに間近で生活を共にしているのに、兄の背中はどんどん遠のいていっている。
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 翌日、一日間が空いたのでセーフの理論を適用して、視線を診療所や商店の建物に沿わせながら登校した。交番の「御神体」は以前と変わらない姿で箱の中に戻されていた。つい一昨日、熊を殺したばかりの武器と思うといかにも神々しさが強まる。
 教室につくと、いきおい面食らった。受験勉強に勤しんでいる前半分と変わらない真剣な表情で後ろ半分の面々がなにやら話し合っていたからだ。「早くこっち来い」とリョウが急き立てたので「なんなんだよ」と身体を寄せると、彼は手元のスマホをずいと突き出した。
「お前、兄から熊を殺したって聞いたのか?」
「ああ。即死じゃなかったみたいだけど」
 リョウのスマホには県内の報道情報を伝える地方新聞社のWebページが映っていた。
「でもな、ニュースになってないんだよ。普通、熊が出て人が死んだらニュースにならないか?」
 ケイが口を挟んだ。
「そりゃ……そうだけど、一昨日の話だし」
「本題はそこだ」
 リョウがブラウザのタブを切り替えた。今度はGoogle検索の結果が並んでいるページが映った。
「ここって熊が出る出る言われてるじゃんか。でも、いくら検索したって熊が出たなんて話は引っかからない。昔の歴史が出てくるだけでよ」
「なに言ってんだお前、俺の兄貴がホラ吹いてるとでも言いたいのかよ」
 僕は声を低くして凄んだ。だが、インターネットで調べても情報が出てこないというのは疑わしい話だった。この村では毎年のように熊が出没している。いくら僻地でも誰かが報せるはずだ。
「ちげえよ。逆に、もっとすごい話かもしれないって言ってんだ」
「すごい話?」
「その熊は凄まじく凶暴なやつだから誰にも手が出せなくて、死んだことにしているとか」
「そもそも熊じゃないとか」
「山で探せばはっきりするだろ」
 僕はこれまでで一番呆れた顔を作った。
「お前らインターネットのやりすぎだよ」
「本題はそこだ」
 リョウがまた決まり文句を言って、両手を拳銃の形に真似て指を差す珍妙な仕草をとった。
「ようやく俺様がインフルエンサーになる日が来たというわけだ」
「最後の夏休みだしな」
 シゲが興奮気味に言った。
「あいつらはカキコウシュウとやらで街の塾に缶詰めなんだとよ。だが、俺たちには俺たちなりの成り上がり方がある」
 ケイも俄然乗り気の姿勢で前半分の連中を引き合いに出した。
「アホくせえ、お前ら家に絵本ねえのかよ。みんな死ぬやつ」
 僕は彼らに背を向けて一限目の支度をはじめた。あまりにも見え透いた抵抗だ。授業の事前準備などした試しは一度もない。
「ちょっと山行って、遠くから動画撮って、さっさと帰ればいいじゃんか」
「お前、すげえ動画が撮れたら兄貴を越えられるぜ」
「いくら街で番張ってたって、世界中からいいねを貰えるインフルエンサーには勝てないからなあ」
「どうせ夏休み中にやることなんてないだろ」
「もしかして清二クンさあ、びびっちゃってる?」
「びびってるならしょうがねえか」
 背を向け続けるつもりだったが、こうした挑発が延々と飛んできて振り返らざるをえなくなった。
「あのな、俺の兄貴がそんな真似許すわけないだろ。全員ぶっ飛ばされるぞ」
 ついに兄を持ち出して脅かすとみんなは待ってましたと言わんばかりの顔を作った。
「だからお前が頼りなんだよ。兄貴が寝てる時間とかに行けばいい」
 どうにかして言いくるめようとしたが思いつかなかった。僕が手伝わなくてもこいつらはやりそうだ。となると、事情を知りながら無視した僕はどのみち兄貴にシメられるのではないか。かといって、先んじてチクっておくのも気が進まない。びびりだと思われたくない。それに、夏休み中にどうせやることがないという指摘はもっともだった。
 僕だって一つくらいは伝説を持っていい。最強の兄を出し抜いた伝説を。
「つまんなかったら即帰るからな」
 本当は「危なかったら」と前置きしたかったのに、威勢を張った言い回しが口を衝いて出た。
 リョウが僕の肩に手を置いた。
「そうこなくっちゃ。となると、軍資金がいるな。色々と用意しておきたいものがある」
「金は一円も出さないぞ」
 他の面々もそこは何度もうなずいて同意した。
「お前らは当てにしてねえよ、まあ見てろ」
 リョウは勢いよく立ちあがると、わざと足音をたてて前半分の領域へと近づいた。そしてその中の一人の首元にぐいと腕を回し、こっちにも聞こえるほどの大声で話しかけた。
「よう、コウちゃん、勉強捗ってる?」
 コウちゃん、と呼ばれた前半分の一人は急速に背中をこわばらせた。ぶつぶつとなにか返事をしたようだが、声がか細すぎてろくに聞こえない。
「おー、すげえ、俺にはなに言ってんのかわかんねえや。ところでさあ、金、貸してくれねえ? すぐ返すからさ」
 またぶつぶつと声がした。あまり気の良い返事ではなさそうだ。すると、リョウの声のトーンが一段低くなった。
「すぐ返すって言ってんじゃん」
 首に回した腕の力がやや強まったことが遠くからでもうかがえた。他の前半分は我関せずの態度でシャーペンを走らせている。ややあって「コウちゃん」は観念して、ぶるぶると震えながら財布を取り出した。持ち主が中身を開ける前にリョウがそれを横からひったくり、五千円札を一枚抜き取ると机に放り投げた。
「サンキューな! マジで助かるわ」
 コウちゃんはしばし机の上の財布を見つめていたが、リョウが後ろ半分に離れると財布を片付けて勉強を再開した。
「な?」
 リョウはTikTokの動画と同じドヤ顔をして五千円札を見せびらかした。
「ほどほどにしないとチクられるぞ」
 動揺を隠しつつ忠告すると、悪びれもせず彼は笑った。
「心配すんな。ちゃんとローテーション組んでるから。コウちゃんからは二回しか借りてない」
「いや、俺が借りてるから実質三回だな」
 シゲが言った。
「なんだよ、それいつの話? だったらタケちゃんにするんだったな」
「そいつからは俺が二回借りてる」
 今度はケイが言った。
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 日が経つにつれてリョウたちの語った与太話は次第に現実味を帯びてきた。当初、こんな計画の約束はいつでも気分次第で反故にするつもりでいた。しかし毎日、スマホで県内の最新ニュースをチェックしても、ワードを絞ってGoogle検索をしても、この村で熊に人が殺された情報は出てこなかった。それどころか彼らの言う通り、熊出没のニュース自体どこにも見当たらなかった。Wikipediaに「江戸時代から戦前にかけて熊の生息地として知られていた」とおざなりに記されているのがこの村の最大の情報だった。
 スマホを買ってもらった時、父も母も知ったふうな口で散々警告してきた。「頭でっかちになるな」「鵜呑みにするな」というのも、二人ともどこか――おそらくは近所か職場――で、スマホ依存の子息がどうなったか、あまり体裁のよくない話を聞きかじったせいだと思われる。
 だが、あるはずの情報が存在しない事例についてはなにも聞かされていない。この村で熊は現に何度も出没していて、今回だって加山先生が死んで騒ぎになっているにもかかわらずだ。
 一週間と少しが経ち、人生で最後の夏休みに突入する頃には僕は彼らの言い分にかなり寄っていた。インフルエンサーうんぬんはどうでもよかったが、生きている熊の実物を目の当たりにできればきっとすっきりする。
 当日、日勤を終えた兄は家に帰ってくるなりシャワーを浴びて自分の部屋に閉じこもった。いつも通りの行動だ。僕はさっそくグループチャットで行動開始を告げて、予め決めてあった場所に向かった。両親に不審を悟られないよう、あえて街にでも出かけそうな軽装で余計なものは持っていかない。
 集合場所ではやる気満々の顔ぶれが揃っていた。リョウは得意げに黒い棒状のなにかを投げてよこした。
「これは?」
「自撮り棒だ。夏休み前に街で人数分買っておいた」
 見ると、シゲもケイもすでに自撮り棒にスマホを装着している。「お前が撮るんじゃないのかよ」とつっこみを入れるとリョウは肩をすくめて「別に動画は誰が撮ったっていいじゃんか。ストリーミングはギガが足りなくなるから無理だ」と言った。彼は他にもスナックやら軽食やらスポーツドリンクやらがたんまり入ったコンビニの大袋を携えていた。
 まるで遠足か観光気分だ。とは言うものの、一理はなくもなかった。全員で動画を撮れば成功率が上がるのは間違いない。結局、僕も仕方がなく棒の先端に自分のスマホをくくりつける運びとなった。
 山への侵入には加山先生の私有地を経由した。熊がいるにしても、それ以外のなにが隠されているにしても、前回出没したとされる場所の周辺を探すのが効率的と判断された。先生を殺した熊はとっくに死んでいるが、このだらだらと間延びしきった山の連なりに一頭しかいないとは考えられない。
 山を登っていくと夏特有の蒸し暑さがいっそう際立った。背の高い木々に覆われたこの空間では、空を見上げても太陽の光は草木に裁断された形でしか入ってこない。おかげで地表の気温自体は低かったけれども、いかんともしがたい湿気が肌という肌にまとわりついて、もう僕は彼らの計画に応じたことを後悔しはじめていた。セミの甲高い鳴き声が気に障る。
 村の悪ガキが山に入る事例があまり表沙汰にならないのは、なんの面白みもない山を登っているうちに疲れて帰ってしまうからだと悟った。
「そろそろ録画開始だ」
 リョウの指示に倣って、みんなは横にして持ち歩いていた自撮り棒を縦に構えた。起動したカメラアプリを動画モードに変えて撮影ボタンを押す。足元に注意していてディスプレイを直視できないためどんな映り方をしているのかは検討がつかない。山の道なき道を長い棒切れ片手に歩く集団の様子は、さながら落ち武者狩りに赴く農民といった風体だ。
 まばらに輝く太陽が傾いて夕暮れの色を作り出すと、元陸上部の面々もさすがに疲労を隠しきれなくなってきた。スマホと合わせても数百グラム程度しかない自撮り棒が、本物の鉄でできた槍の重さを演じている。
 熊どころか気の利いた花や風景の気配さえない。延々と雑草と木々ばかりが続いていて、どこまで進めば納得がいくのかも定かではなかった。時々交わされていた雑談も、一時間、二時間と経つにつれて疲弊した呼吸音に取って代わられた。
「ちょいと休憩、休憩しようぜ」
 一番足の速いリョウがとうとうそう言ってくれたおかげで、ようやく適当な木陰に集まって座り込むことができた。彼は手持ちのスポーツドリンクをめいめいに配り、スナックの袋を破った。外気に晒されたスポーツドリンクはずいぶんぬるくなっていたが、今の我々には極上のスイーツにも等しかった。
「夜になるぞ」
 一息つくと、シゲがぽつりと言った。
「今日はやめにしないか」
「なんだ、もうへばったのかよ」
 ケイは汗まみれの顔をニヤつかせて煽った。しかし、彼も彼であてがわれたスポーツドリンクを一気飲みして空にしていた。
「マジな話、いい加減に帰らないと兄貴に気づかれるかもしれない」
 僕はシゲの援護をした。部活動の引退によって損なわれた体力は想定以上だった。
「うーん、それはまずいな」
 リョウがスナックを頬張りつつ神妙にうなった。
「お前の兄貴、明日はどうなんだ」
「明日も日勤だからたぶん同じだ」
 どうやらみんな帰りたがっていたらしい。もっともな口実を与えるやいなや俄然食いつきがよくなって、話はいきおい解散の方向に傾いた。
「しゃあねえな、明日はマジにやるぞ」
 リョウの鶴の一言で方針は決した。各位、さっそく重荷でしかない自撮り棒を畳んでスマホを引き剥がした。すると、ケイが素っ頓狂な声をあげた。
「すげえ、ここ圏外じゃん! 初めて見たわ」
「俺のもだ」
 まさかと思って自分のスマホを見たら、確かに圏外だった。
「……まあ、来た道を戻れば復活するだろ」
 僕は平静を装って言った。我先に歩き出した理由は、自信ではなく不安の表れからだった。太陽は空を見上げて分かる位置にはもうなかった。来た道を引き返している間にも徐々に景色が暗闇に侵され、おのずと視界も狭まっていく。暗闇に覆い尽くされそうな恐怖がじわじわと押し寄せてきて、嫌でも早足を止められなかった。
「なあ、なんかおかしくねえか」
 ぜえぜえと肩で息をしたシゲが言った。「いくらなんでも着いていいだろ、加山のセンコのとこに」すっかり夕闇に溶け込んだ周囲を見渡しても、どこまで戻れたのか判らない。
 焦りが足を急がせた。
「おい、待てよ」
 今度はケイが歩を止めたので、僕は疲れからか苛ついて返事をした。
「お前もへばったのかよ。マジで夜になるぞ」
「ちげえよ。こんなのあったか?」
 振り返ってケイが指し示す方向を確認した。木々に紛れて太い支柱が二つ立っている。上を仰ぐと、それらは互いに繋がっていた。これは、鳥居だ。山のなんでもない傾斜に、人間の身長よりもはるかに高い鳥居が立っている。
「いや、こんなのがあったら気がつくはずだ」
 リョウも息を荒らげて答えた。
「清二、お前が道を間違えやがったんだ」
 僕はかちんときて反論した。
「ついてきたのはお前らだろ。それに、見落としただけかもしれない」
「こんなくそでけえ鳥居を見落とすわけねえだろ」
 こうしているうちにも暗闇は僕たちを取り囲んでいる。半分は恐怖に衝き動かされ、半分は口論に押し負ける兆しを察して、僕はさらに歩き出した。リョウは「マジでそっちであってんだろうな」とぶつくさ言いながらもついてきた。だが、ほどなくして僕の誤りは決定的に裏付けられた。
「おい清二、じゃあお前、これも見落としだと思うか?」
 シゲが責め立てる口調で側面を指差した。
 やたら大きい岩壁に埋め込まれた形で、ずらりと地蔵が並んでいた。それぞれ同じ背丈で、同じ見た目をしていて、そのどれにも頭がなかった。横薙ぎにえぐりとられた首なしの地蔵が並んでいる。僕はここへきて、自分の呼吸が現役時代の十本ダッシュ後よりも荒くなっていることに気づいた。否が応にでも目につく禍々しい地蔵の一群を見て、誰もが言葉を失っていたのだ。あるいは、日が暮れるまではあんなにうるさかったセミの鳴き声がいつの間にかぱたりと止んでいたせいかもしれない。
「時間見ろよ、折り返してから二時間以上歩いてる」
 全員の視線が僕に集中した。こうなっては失態を認めざるをえない。
「……くそ、俺が悪かったよ。こんなのを見落とすわけがない」
「ふざけんなよ、また戻るのかよ」
「崖を滑り降りたら地上に下りられないかな」
「馬鹿、こんな山でも標高三百はあるんだぞ。死にてえのか」
 はっきりと、辺りには夜と言って差し支えのない帳が下りていた。数メートル先すら見えない視界の狭さでは歩行もおぼつかない。僕は短くした自撮り棒にスマホを取り付けた。設定画面から「懐中電灯」のボタンを押して、背面カメラのライトが点灯し続けるようにした。その時だった。
 本来は暗闇に閉ざされていた空間の奥、不意に照らされた木々の隙間を、なにかが通り過ぎた。僕は反射的に叫んだ。議論中の三人が一斉に視線を合わせたが、そこにはもうなにもなかった。
「脅かすなよ、そういうのつまんねえから――」
 シゲのつっこみは途中でかき消された。最後尾に立っていたシゲ自体もその場から消え失せた。突進してきたなにかに彼が襲われたのだという認識は、何秒も後にやってきた。不吉な静寂が一帯を支配した。
「シゲ?」
 ケイが震える声で呼ぶも、悲鳴一つ返ってこない。我々は本能的に事態を悟った。ここには得体の知れない化け物がいる。
 どこかの草木が揺れた音か、あるいは些細な環境音か、そんな音が聞こえた直後に、三人はてんでばらばらの方向に走り出した。習慣的に陸上選手のフォームをとっているせいで、片手に握られた自撮り棒付きスマホのライトがちかちかと周りをランダムに照らした。これでは格好の餌食だと解っていても、足を止めると怪物に襲われそうな気がしてどうしようもなかった。
 どれだけ走っても山道に終わりは訪れない。五分経ったのか、十分経ったのか、それさえも定かではない。
 スマホのライトに照らされたものが次々と目に入った。靴のつま先より小さい大量の鳥居、子供なら這って通れそうな鳥居、その後に見た鳥居は、地蔵が真下に置かれていた。やはり首はなかった。次にライトが偶然、正面を照らした時、巨大な岩壁が目の前に立ちふさがっていたために足を止めずにいられない状況に追い込まれた。
 その岩壁には首なし地蔵が横一列に埋め込まれていた。
 来た道を一周して戻っている。ありえない。なにかがおかしい。
 絶望の中、岩壁を背に寄りかかって立ち止まり、慌てて左右をライトで照らすも暗闇が深すぎて見分けがつかない。はあはあとなけなしの吐息が絞り出される音と、自分の心臓が早鐘のごとく響く音が嫌らしく聞こえる。
 ぽたぽたと頭に水滴が垂れる。雨が降ってきたようだ。地面が濡れればいよいよ逃走は難しくなる。一つ明らかとなった事実は、加山先生の死因はあの化け物のせいに違いないということだ。これはきっと公にされていない事件なのだ。だからニュースでは報じられないし、村でも熊のせいにされている。そう考えると納得がいく。
 ショットガンもそうだ。あれは熊を殺す武器なんかじゃない。化け物を殺す武器だ。兄は事情を知っている。知っていて、理由があって隠している。
 水滴が額にぬるりと垂れ落ちてきたので、僕は手で拭った。拭った手元がふと目に入ると、それは毒々しく真っ赤に染まっていた。
 雨じゃない。これは血だ。
 見上げると、岩壁の上に乗った毛むくじゃらの怪物が、醜い顔貌に備わった無数の眼球を全部こっちに向けて凝視していた。血は、人間の腕ほどもある太い鉤爪から滴っていた。
 僕が恐れをなして倒れ込んだのと、怪物が飛び降りて襲いかかってきたのは、おそらく同時だった。ついさっきまでいた場所を鉤爪が空振りして、勢いのあまり背後の岩壁をさらにえぐりとった。
 もはや他に選択肢など選ぶすべもなく、僕は真横に這うようにして崖の先へ飛び出して一寸先も見えない暗闇に落ちていった。
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 目を覚ました瞬間に直前の光景がフラッシュバックして、僕はその場でじたばたと暴れた。じきに落ち着くと暗闇の遠景にぽつぽつと点描のような明かりが見えた。それらが家屋の明かりと判ると、冷えた腹の底がじんわりと温まっていくのを感じた。と同時に、得体の知れない化け物が今もなお、リョウたちを追い詰めているかもしれないという危機感に急き立てられた。
 はたと思い起こして暗い地面をまさぐると、そう遠く離れていない位置に自撮り棒とスマホを見つけた。限界集落でも山の中でなければしっかり電波が通っている。通知はない。慌ててグループチャットを開くも、新規のメッセージは届いていない。こちらから送っても、既読件数は一向に増えなかった。
 あいつらはまだ山に取り残されている。
 僕は疲労をおしてがむしゃらに走った。どうやら小中学校の裏手の敷地に落下していたらしく、ほとんど記憶に任せた足取りで交番に直行できた。この異常事態を解決できるのは兄の他に思い浮かばなかった。たとえ後でぶっ飛ばされるとしても、あるいはどんな罰を受けるとしても、当然の報いと覚悟を決めた。
 しかし、交番には誰もいなかった。「兄い! 兄い!」大声で叫んだが、奥の畳の部屋から反応はない。明かりが灯り引き戸が開かれた空間には、垂直に架けられた「御神体」が鎮座するのみだった。ショットガン――そうだ、ショットガンがある! 透明の箱を開けようとして机の引き出しや書類棚をまさぐったが鍵は見つからない。
 僕は痺れを切らしてパイプ椅子を掴み、突起部分でもって力いっぱい箱を叩きつけた。鋭い振動が手に伝わったが音は鈍く、壊せそうな手応えはない。それでも構わず二度、三度と繰り返し叩いた。実のところ、どんなに頑張っても人力で、ましてやパイプ椅子ごときでこの箱が壊せないのは半ば承知していた。もしショットガンが盗まれたら大事だ。それこそ銃で撃っても壊れないような特殊素材でもおかしくはない。
 手の感覚が薄れるほどに箱を叩きまくり、激しく息を荒らげていると背後から力強く肩を掴まれた。振り返ると、険しい顔をした兄がそこにいた。ぎょっとして、なにをどう話そうか考えあぐねているうちに、兄の殴打によって僕は床に押し倒された。手に持ったパイプ椅子が投げ出されて、軽さの割に派手な音をたてた。
「ガキどもが登山口をうろついてるって聞いたから来てみれば……お前、気でも狂ったのか?」
「山で……山で見たんだ。でもあれは、熊なんかじゃない」
 なんとか言えたのはそれだけだったが、兄の表情はみるみるうちに険しさを増した。
「山の奥に入ったのか!」
「ごめん、ごめん、でも、リョウも、他のやつらもまだ山に――」
 兄は僕を押しのけて制服のポケットから鍵を引っ張り出し、箱の鍵穴に差し込んだ。すばやくショットガンを取り出すと、箱の内部に備わった引き出しから実包を抜き取り、一発ずつその薬室に押し入れていった。とても慣れた手つきだった。
「お前、あれを見たんだな?」
 僕はうなずいた。やはり兄は知っている。
「じゃあついてこい。いずれ知らせるつもりだった」
 心臓がびんと跳ねあがった。あんな恐ろしい化け物が潜む山に、また行かなければならないのか。だが、今ここで兄についていなければ、知られざる情報を一生見失うかもしれない。なにより、僕には兄の「仕事」を見届けたい気持ちがあった。そのショットガンで撃つ化け物とは一体なんなのか、なんでそんな怪物が存在するのか。
 そしてそれは、僕にもできる仕事なのか。
 僕は兄をじっと見据えて、改めてうなずいた。
「なにがあっても俺から離れるなよ。黙ってついてこい」
 兄はショットガンを装備した。
 彼の選んだ出発地点は僕たちとは正反対に違っていた。小中学校の裏手の、よく注意しなければ見えない木々の奥にうっすらと通る細道が入口のようだった。「知ってたか? ここには昔、城が建ってたんだ」歩きながら兄は言った。考えてみれば、四方を山々に囲まれた一帯は城を築くのにうってつけのロケーションだ。「なんで今はないの」と尋ねると「さあな」とつれない答えが返ってきた。
 じきに細道は消失したが、兄は明らかに明確な意志を保って道なき道を進んだ。三十分と歩かないうちに村の明かりが暗闇に隠され、途端に視界が狭まった。彼は握っていたショットガンをまっすぐ構えると、備え付けられたライトを点けた。
 光源の先には、巨大な岩壁があった。埋め込まれた首なし地蔵の一群が、僕たちを出迎えているようにも、逆に追い払おうとしているようにも見える。地蔵の一部はさっきの怪物の一撃で胴体をもえぐられていた。
「これ! さっき見たんだ! あいつもここで――」
 兄は振り返って、立てた人差し指を口元にあてた。そうしてから、小声で囁いた。
「ここが入口で、出口だ。俺についてくればやつらは出ない」
 言われたことの意味はよく解らなかったが、首なし地蔵の壁を横切る際、自分の身体が薄い膜を突き破る感覚を覚えた。
 ふとスマホを取り出すと、予想通り電波が圏外になっていた。
「ここ、圏外なんだ。だから助けを呼べなかった」
 兄に倣って小声でささやくと、彼は振り返らずに応じた。
「ここはそういう場所だ。やつらの天然の檻だからな。音も光も外には漏れない」
 奥へと進むたびに彼の歩行は慎重さを極めた。あたかも軍人が戦場を歩くように、腰つきはいくぶん重心が下がり、足の動きはすり足に近かった。
 移動の方向も奇妙だった。道なき道を左に行ったかと思えば右に行き、時には踵を返して戻ったりした。なんでもなければ迷っているようにしか見えない。しかし、僕は兄が的確な道順を進んでいると確信した。
 突如、木々の向こう側でがさがさと音がした。兄の背筋が機敏に動き、上半身ごと銃口がすばやく軌跡を描いた。すわ、あの化け物かと慄いたが、ライトに照らされたのは狼狽しきった顔のリョウとケイだった。二人とも、僕たちの姿を認めると顔がほころんだ。たぶん僕もそうなのだろう。お互いに名前を叫び合った。安堵の気持ちが身体じゅうに広がった。
「これで全員か? 他に死傷者はいるか?」
 再会を喜ぶ抱擁もそこそこに、銃口を下ろした兄はため息をついて問いただした。最強の元不良を前にすっかり萎縮しきったリョウがぼそぼそと答えた。
「シゲ――重信ってやつがいるんです……あいつはたぶん……」
「化け物に襲われて、消えちまったんです」
 ケイが後を続けた。
「死体は見てないんだな?」
 兄はなおも不躾に問い詰めた。むっとして、僕は言った。
「兄い、そんなの見られるわけないだろ。みんな必死で逃げてたんだ」
「そうか……面倒なことになったな」
 誰に話すわけでもなく、淡々と言う兄からは明らかに場違いな雰囲気が漂っていた。ショットガンを片手にぶら下げ、なにかを考え込んでいる様子だった。
「お前らスマホ出せ。清二、お前もだ」
 僕も他の二人も言われるままにスマホを差し出した。
「ここ圏外っすよ」
 ケイの発言を無視して兄はそれらを手早く奪い取ると、まとめて地面に投げ捨て、ショットガンの銃床で叩き割りはじめた。
「あーっ!」
 絶叫したリョウが制止しようとするも、彼は無言で押し飛ばされた。まもなく、真新しい三台のスマホが物言わぬ金属の残骸と化した。兄は僕たちを睨みつけ、顔を歪ませてまくしたてた。
「お前らみたいなクソガキがやりそうな真似はお見通しなんだよ。あれを撮ろうとしたんだろ? 面倒くせえ時代だ。毎年、毎年、そういうやつらが来るようになりやがった」
「兄い?」
 唐突な豹変ぶりに驚いて呼びかけたが、兄は応じず首から下げた金色の板――”守人”の「お守り」をつまんで高く持ち上げた。
 刹那、暗闇の奥から音もなく「それ」は現れた。もしかすると今までずっとそばにいたのかもしれない。無数の眼球と、裂けた口から溢れる牙と、両腕の太い鉤爪が暗闇でもひどく際立つ。三メートルはある巨体に生えた眼が、ぎょろぎょろと別々に動いて四人を捉えた。
 僕も、他の二人も、声にならない悲鳴をあげた。逃げ出したかったが、突然の遭遇に足がすくんで動けない。だが、兄はまるで馬か牛を相手にする態度で「それ」に堂々と近寄った。すべての眼が彼ひとりに向けられた。
「なるほど、なるほど。あーよかった」
 兄はぶつぶつとつぶやいた。信じられないことに、得体の知れない化け物と意思疎通を図っているように見えた。
 彼は振り返って僕たちに告げた。その時の兄の顔つきは心からの安堵を示していた。
「そのシゲとかいうやつはこいつが全部食ったとさ。手間が省けたわ」
 兄は片手にぶら下げていたショットガンを構え直した。
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 直後、リョウが背を向けて駆け出した。僕たちの中でもっとも速いリョウの加速は、この状況下でも、いや、県予選の本番よりもすばらしく理想的に映った。彼の姿が暗闇に紛れた矢先、兄はショットガンを前方に向けた。指向性を帯びるライトの光が消えたばかりのリョウの背中を明瞭に捉えた。
 あれほど想像していた、兄がショットガンを撃つ光景は、友達が撃ち殺されるシーンとして眼前に実現された。ダシン、と銃声が響き、続けてダシン、と計二発の散弾が放たれた。フランキ・スパス12は自動式散弾銃なのでコッキングなしで連射できる。ライトに照らされたリョウはその場につんのめって倒れ込んだ。ぴくりとも動かない。
「あいつ速くね? 二十メートルはダッシュしたぞ」
 兄の口ぶりはグラウンドでたまたま見かけた後輩にかける言葉と、なんら変わりがなかった。硝煙の立ちのぼるショットガンを下ろすと、ごくおだやかな表情で僕に尋ねた。
「焦って二発撃っちまったよ。あいつ、お前より速いんだっけ」
 なにもかもが異常だった。得体の知れない化け物が目と鼻の先にいて、一縷の望みを託した兄は、日々祈りを捧げていた「御神体」を使って友達を撃ち殺した。そういう光景を間近で見ていながらにして、僕はなにもできず、なにをする気も起きなかった。目の前で繰り広げられるすべてに圧倒されていた。全身の震えが止まらなかった。
「なっ、んで……」
 しゃべろうとしても、湿った空気が喉に張りついてろくにしゃべれなかった。
「前に言わなかったか、俺は村の”守人”だって」
 もりびと。守る人。
 そういえば兄は、あの時に「なにからなにを守っているのか」は言わなかった。
「じゃ、じゃあ、守ってるのって」
「ああ、こいつを守ってるんだ。役人連中が使い道を模索しててな。それがバレるとまずいんだわ」
 言いながら、彼はショットガンの銃口をケイへと向けた。一連の出来事を前に同じく固まっていた彼は、銃口を向けられてついに悲鳴をあげた。大きく姿勢を崩して、地面に尻もちをついて後ずさった。
「やめっ、やめてくれよ先輩、お、俺、なにも言わねえ、言わねえからさ」
「そういう問題じゃねえんだよ。役人ってのは神経質だからな」
 兄は僕に語りかけた。
「おっと、まずいな。ルールは守らねえと。まあ、お前に言っておきたいのはな、でかい組織に仕えて学んだこともあるって話だ。決まったルーティン、決まったルールに従っていると、身体がぴしっとする。なんていうかな、あまり乗り気じゃなくてもとりあえずやろうかなって気になってくるんだ」
 そう言うと、もってまわった口調で法律の条文を暗誦しはじめた。
「秘密立法――特殊生物保護法第五条、第一項に基づき、本件を機密情報の漏洩を未然に防ぎうる実力行動と認定し、直ちにこれを実行する――ほら、な? もうやる気が出てきたわ」
 後はあっという間だった。蛇口をひねる気軽さで兄がショットガンのトリガーを引くと、至近距離で散弾をまともに受けたケイの全身から血が吹き出した。裂けた腹からこぼれた臓腑が、這って逃げ出そうとする軟体生物のように地面に散らばった。その生暖かい血肉の熱気と臭いにあてられて、僕は身体をくの字に曲げて吐いた。あらかた吐いてから、ゆっくりと兄を見上げた。兄の雰囲気はいつもと変わらなかった。
「俺も……俺も殺すのかよ」
「普通ならな」
 兄はショットガンを構えるそぶりを見せたが、すぐに下ろした。
「お前には俺の後を継いでもらう。これまでずーっと、それを当てにしてやってきた」
 ふうっ、ふうっ、と怪物の息遣いが荒くなった。「あ、忘れてた。食っていいよ」と兄が許可すると、すさまじい俊敏さで三メートルの巨体が動き、ずたずたのケイの死体をさらにぐちゃぐちゃと貪りだした。
「警官になれ。昔はなりたがってただろ? この村出身の警官は、必ずここに配属される。お前が後を継げば、俺はようやくこの仕事から解放される。そういうしきたりなんだ」
 兄はショットガンを斜めに持ち上げ、銃身をさすった。
「俺もお前と同じだ。いつもこいつを眺めてた。ドスを振り回すやつには勝てても銃には勝てねえからな。それで警官のジジイがこれを持ち出した時に、こっそり後をつけたんだ。そしたら化け物と出くわした」
 深く息を吐くと、彼は忌々しげに言った。
「俺は選ばされたんだ。死ぬか、”守人”を継ぐか」
 父の言葉が脳裏に去来した。とんでもない不良だった兄が、急に真面目になって警官を目指した。事実は違った。兄は因習に強いられ、村に閉じ込められていたのだ。
 僕はあえて嘔吐の姿勢を保ちつつ、注意深く兄の装備を観察した。ショットガンは奪えない。力勝負になったら負ける。腰のホルスターの拳銃はカールコードで繋がっている。これも奪えない。他にあるとすれば……。
 抵抗したら、兄は弟でも容赦なく殺すだろうか。
「俺な、ずっと東京に出たかったんだよ。ちょいと遅くなったがまだギリ二十代だし、元警官ならなんとかなるだろ」
 まるで食卓で家族とセカンドキャリアについて相談するような口調だった。
 僕はなにも答えず恨めしげに兄を睨んだ。
「なんだよ、ツレが殺されてムカついてるのか? どうせろくな奴らじゃねえよ。お前だって仕方がなくつるんでただけだろ。こんな村の連中なんてどうだっていいわ」
 図星だった。彼らに対して、特別な友情を感じたことはない。ただ学校が同じで、部活が同じで、落ちこぼれ具合が同じで、その後も落ちこぼれ続けたから一緒にいただけだった。僕は彼らと違ってカツアゲも喧嘩もしたことがない。最強伝説を持つ兄の威光を借りて不良気取りをしていたに過ぎなかった。
「そういえば加山のジジイな、あれも俺が殺したんだ。だいぶ手間取ったけどな。あいつ、知ってやがったぜここのこと。よそ者と違って命乞いもしなかった。ひょっとしたら村じゅうの年寄りが――」
 僕は兄の身体の重心が傾いた隙を狙って、中腰で思い切りタックルした。期待が叶い、二人揃って地面に激しく倒れ込んだ。そのままショットガンを掴み取ろうと手を伸ばすと、たちまち兄のたくましい片腕に制された。兄弟の手と手でショットガンを握りしめながら、マウントポジションを奪い合う戦いがしばらく続いた。毎秒ごとに強まる劣勢の気配を刻一刻と捉え、頃合いを見計らってショットガンを握る手を緩めた。
 勝利の兆しを察知した兄はすかさず僕の腹を足で蹴飛ばし、強引に引き離した。おそらくは警察仕込みの体術で倒れ込んだ姿勢からすばやく立ちあがると、なめらかな動作でショットガンを構えて僕の挙動を封じた。
「お前、ちょっと調子に乗ってんじゃねえの?」
 不意の乱闘にさしもの兄も息を弾ませて言った。
「お前が俺に勝てるわけねえだろ。おとなしく後を継げ」
 僕は蹴られた腹の痛みをこらえてのろのろと立ちあがり、手中に収めたそれを開いて見せつけた。
 ”守人”を証明する金色の板だ。
 銃を狙っていると見せかけて、首の紐をちぎって奪ったのだ。
「てめえ……」
「誰も兄いには勝てないよ。だから怪物とやりあってくれ」
 僕は金色の板を高らかに掲げた。
 激昂した兄がショットガンの引き金を絞った瞬間、死体を貪っていた怪物が兄の前に立ちふさがって散弾を受けた。
 しかし怪物はびくともせず兄に一歩、のしりと迫った。僕は後ずさりして近くの木陰に逃れた。
 ダシン、ダシン、と連続して銃声が聞こえた。
「俺はこんなクソ田舎で終わらねえぞ!」
 断末魔の絶叫が辺りにこだました。
 冷静に発砲音をカウントする。フランキ・スパス12の装弾数は最大で八発。リョウとケイに計三発使い、さっき三発使ったので、残り二発。日本の警察に支給されている拳銃――ニューナンブM60の装弾数は、五発。
 暗闇の向こう側でちかちかと光が明滅するのが見えた。
 二発の銃声の後に続く、種類の異なる銃声を五回数えたところで、僕は木陰から歩いて兄のいる場所へ向かった。硝煙と血の臭いと、荒い息遣いを辿れば容易だった。
 五十メートルも進まないうちに兄は見つかった。地面に突っ伏している三メートルの巨体の傍らで、入口であり出口でもあるという首なし地蔵の岩壁に背中をあずけている。
 拳銃は左手に握られていたが中身は空で、なにより今の彼には正しく構えるための右腕がえぐりとられていて存在しなかった。肩口から袈裟切りに彼は身体の一部を失っていた。おびただしい量の血が岩壁にべったりとついて、地面にまでだらだらと流れ出している。「御神体」は血の海に沈んでいた。
「よお、見たかよ、ぶっ殺してやったぜ」
 兄は死相の濃い顔を湛えて一言ずつゆっくりと言った。
「じ、実は一度やりあってみたかったんだ。俺に殺されるようじゃ、まだまだだな」
 僕はなにも応じなかった。ただ兄を、兄の仕事ぶりを、最期まで見届けようと思った。いくら数々の伝説を持つ兄でも、腕を肩ごと削がれていてはあとわずかの命に違いない。
 黙っていると、兄がまた口を開いた。
「さ、最後に一つ、訊いていいか?」
「……なに?」
 一つくらいなら構わないとも思った。
「お前、いつから自分のことを”俺”っていうようになったんだ?」
 質問は聴いたが、答えはしなかった。兄もたぶん、僕の声を聞きとれる状態ではなかっただろう。それから十秒か、二十秒か、少なくとも一分と経たないうちに兄は死んだ。岩壁の下で自身の血に浸って死ぬさまは、首なし地蔵たちに生命を吸い取られたかのようにも見えた。僕は血の滴るショットガンを拾い上げた。御神体をあるべき場所に戻さないといけない。
 その時、突っ伏していた三メートルの巨体がぬるりと動いた。
 いや、動いたのではない。変形した。
 うつ伏せの背中からスライムのように伸びる不定形の物質が、空中で塊を形成してみるみるうちに姿を変えていく。地面の巨体は塊が体積を増やすごとに失われていった。じきに三メートルの、まさしく熊に似た体型だった怪物は、さらに背が高く、代わりにひょろりと細い不気味な姿に変化した。
 それには足も、手すらも生えていなかった。かつて円形に集合していた無数の眼球は今では棒状の胴体に縦一列をなし、そのすべてが僕を凝視していた。
 ややあって、僕の手に握られた金色の板に視線が移された。
 それは一言もしゃべらなかったが、僕は明確に意志を読みとった。
<これからもよろしく>
 確かにそう命じられた。
---
 その交番にはショットガンが架けられている。大人が三人も入ったらぎゅうぎゅう詰めになりそうな手狭な空間の中で、それはいっそう神々しい異彩を放つ。
 早朝の巡回を済ませて戻ってくると、外から交番の中を覗き込む子供の姿が見えた。「やあ、銃が好きなのかい?」と声をかけると、子供はびくりと肩を震わせた。おずおずと「ごめんなさい」と言って立ち去ろうとしたので「いやいや、別に怒らないよ。こいつを見てたんだろ」と指を差した。透明の箱に収められた、我が村の御神体だ。子供は顔を伏せがちにうなずいた。
「あの……パパから聞いたんですけど、お巡りさんは伝説だって」
 僕はぷっと大げさに吹き出した。
「伝説だって? 君のパパはユーモアがあるね」
「でも、熊と戦ったんですよね?」
 さっきまでの遠慮がちな態度はどこへやら、急に前のめりな姿勢を伴って尋ねてきた。
「まあね」
「すごいや。いっぱい死んだのに、一人だけ生き残って――あっ、すいません!」
 僕の表情が翳ったのを察してか、子供は前言を撤回して身体を直角に折り曲げて丁寧な謝罪をした。
「いいよ、気にするな。それに、生き残れたのは僕の力じゃない。兄貴のおかげさ。兄貴がこいつで僕を守ってくれたんだ」
 再び僕は御神体を指差した。子供もショットガンの黒々とした銃身に視線を沿わせた。
「お兄さん、とても立派だったって、聞きました」
「ああ。十年間もここを守っていたからね。彼は”守人”だった。今は僕がそうだ」
 手際よく、首から下げた金色の小さな板を指でつまんで見せた。
「これがそのお守りだ」
 子供の目つきが好奇心を帯びはじめたのが判った。
「あの、お巡りさんも、一人で熊をやっつけたことがありますか?」
 僕はじいっと子供を見つめた。彼がまた謝罪の言葉を口にするかしないかの間際で「うん、あるよ」と答えた。すると、彼はぱあっと顔を輝かせた。「すげえや」とその子は言った。
「まだ答えを聞いてなかったな」
 僕は立ちあがって、制服のポケットから鍵を取り出した。いたずらっぽい笑みを浮かべてそれを揺らし、もう一回尋ねた。ごく自然に、決して気取られないように。
「君は、銃が好きか?」

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title: "ノイズキャンセリング"
date: 2022-09-16T21:55:10+09:00
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 その洞穴は足腰まで浸かる水たまりを越えた先にあった。両脇を切り立った高い崖に囲まれ、道は狭く、反対側は鬱蒼と茂った山の森林に遮られている。ゆえに侵入経路はここ一つしかない。昨夜の雨露と思しき雫が両脇の崖を伝って落ち、できあがった水面が陽光をてらてらと反射している。
 ウィリアム・ソイル隊長率いる王家の守護隊〈ロイヤルガード〉は崖の手前に整列していた。黄金色の輝きを放つ板金鎧と兜に身を包んだ金髪碧眼の剣士が五名、馬車に運ばせた梯子で崖の上に登った弓兵も他に十名いる。
 しかし、剣士たちが洞穴にすぐ歩を進めることはなかった。まず歩を進めるのは、彼らの前に無造作に並ぶ汚い身なりをした十数名の男たちだ。実のところ、元は正確に何人だったのか守護隊長は覚えていなかった。道中で逃走を試みて処刑された者が数名、獣に襲われて重傷を負ったために捨て置かれた者が数名いて、もはや頭数の把握に意味はない。
「よし、貴様ら。彼方に見える洞穴に例の怪物――セイレーンが棲んでいる。この中の誰か一人でも見事それを討ち取ってみせたなら、貴様らはみな自由の身となるであろう」
 ウィリアムは威厳を込めた声で高らかに宣言した。体じゅうを泥や土埃で汚し、ボロきれを着込んで防具の一つも身に着けていない男たちは、それでも目を爛々と輝かせている。万が一の成果を期待してなまくらの剣を握らせたが、剣術の心得がある者は一人としていないことを隊長は知っていた。
「セイレーンって、あの神話のセイレーンだよな……下半身が魚で、上が美女だとかいう……」
「なんでそんなのが洞穴にいるんだ。海にいるんじゃねえのか。へっへっ、旦那ァ、もしよければだがよう、そいつ、殺す前に俺らで犯しちまっても構わねえかい」
 もともと歪んだ顔をさらにひどく歪めながら、一人の男が言った。他の男たちも同調してへらへらと不敵に笑った。
「……ああ、構わんとも。好きにするがいい」
 やれるものならな。
 ウィリアムは侮蔑の態度を露わにしないよう注意を払った。
「貴様らの任務はとにかくセイレーンを殺し、彼女が守る金銀財宝を我らが王の下に結集せしめることだ。われわれも後に続く。さあ、行け!」
 守護隊長の号令とともに男たちはどたどたと洞穴に向かって駆けだしていった。多少の間をおいて〈ロイヤルガード〉も進軍した。
「今回のやつらは強姦魔や物盗りの類だ。前ほど長くは持たない。〈ロイヤルガード〉、抜剣しろ!」
 すうっと優雅な音をたてて鞘から次々と引き抜かれたその剣には、きらびやかな赤と青の宝石がはめ込まれている。刃は白金のごとき美しさで、汚れ一つついていない。
 ウィリアム守護隊長は笛持ちに目配せをした。角笛が短く二回、長く一回鳴らされると、崖の上の弓兵たちはすばやく弓に矢をつがえた。洞穴の奥に蠢く人影が見えたのだ。
 セイレーン……南方の伝説によれば歌声と美貌で船乗りを魅惑し、海底に引きずり込んで食い殺そうとする海の怪物だという。少なくとも、南方では……。
 ついにセイレーンが姿を現した。
 裸体に金、銀、ありとあらゆる宝飾品を巻きつけているものの、骨と皮しかない痩身の貧しさはいかんともしがたく、生気の失せた青白い顔には濁った灰色で塗りつぶされた眼、口には黄ばんだ歯がまばらに生え、唇はあるのかないのか判然としないほど薄い。もちろん、下半身は魚ではない。あまりの醜さに囚人たちも動揺を隠しきれない様子だった。
 彼女はぎょろぎょろと周りを見渡すと、眼前に群がる男たちに口を歪めて威嚇のうなり声をあげた。
「各自、防御体勢をとれ!」
 守護隊長の指示に従って〈ロイヤルガード〉は兜で守られた頭部をさらに板金鎧の両腕で覆った。またある者は、崖の壁面に退避した。一方、事情を知らされずにいる囚人たちは牙も鉤爪も持たない怪物と見て油断したのか、彼女に向かって我先へと突進していった。しかし、足腰まで浸かった水たまりのせいで誰も思うようには接近できていない。じゃばじゃばと足で水をかく音ばかりが威勢よく響く。
 一旦、ウィリアムも進行を諦めて壁面へと逃げた。後の結果はあえて見るまでもない。前回も、前々回も、見たからだ。そう、彼女の口が、あたかも虚ろな顔を占めるかのように大きく開き……。
**――キイイイイイイィィィィィィエエエエエエエエェェェェェッ!!!!!!!**
 頭蓋を突き刺す呪いの悲鳴が耳に押し入ってきた。板金鎧がぐわんぐわんと共鳴し、頑丈な岩でできた崖にも亀裂が刻まれた。不運にもセイレーンの悲鳴の直線上に立っていた囚人たちは、口、鼻、耳の穴という穴からおびただしい量の血を吐き出した。陽光で輝く水面は一転、鮮血で真っ赤に染まった。たまたま範囲外にいた囚人も無事では済まず、頭を抱えてうずくまる者が続出した。
「弓兵!」
 残響でほとんど聞こえなくなった耳に構わずウィリアムは崖の上に向かって叫んだ。幸い、弓兵たちは聴力を失うほどの被害は受けていなかったらしく、守護隊長の命令に応じて即座に矢を放った。矢は十本のうち二本が巻きついた金、銀、宝飾品の隙間を通り抜けてセイレーンに突き刺さった。ぎえっと汚い声を漏らした彼女はしかし、全身を器用にくねらせて崖の上の弓兵たちを睨みつけた。守護隊長は急ぎ回避を命じようとしたが、間に合わなかった。
 二回目の悲鳴は崖の上の弓兵を直撃した。大半は即死し、何人かは遁走を図って崖から転落した。蛮勇に長けた数名は命と引き換えに反撃の矢を射たが、放たれた矢は金縛りを受けたかのように彼女の眼前で留まり、ややあって粉微塵に粉砕された。
 その間、ウィリアムは板金鎧と水の抵抗に阻まれながらも全力で前進を続けていた。宝石のきらめく美しい剣がセイレーンに振るわれた時、かろうじて彼女の口は開ききっていなかった。その喉笛が膨らむ寸前に城打ちの鋭い刃が首筋を切り裂いた。一太刀で断ち切られた頭部が、宙を舞って水たまりにぼしゃんと落下した。主を失った胴体は溺れた人の振る舞いでしばらく暴れた後、急速に静まった。
「なんとか、やりましたね……」
 〈ロイヤルガード〉の剣士たちが守護隊長に近寄ってきた。剣士の一人がセイレーンの濡れた生首を掴んで、高らかに掲げた。とはいうものの、五体満足に生き残っているのは板金鎧と兜に身を守られた〈ロイヤルガード〉だけで、囚人たちと弓兵はいずれも死んだか、手負いの者しかいなかった。
「いや、無駄骨だった……帰るぞ」
 討伐の成功に一瞬、表情を緩めかけたウィリアムは洞窟の奥に目をやって再び顔をこわばらせた。セイレーンが、もう一体現れたのだ。黄金色の板金鎧をがしゃがしゃと言わせながら〈ロイヤルガード〉の剣士たちが逃げ出す最中、半死半生でもがいていた囚人たちの怨嗟の声がこだましていたが、崖から離れると耳に届かなくなった。だが、セイレーンの悲鳴は遠くでもはっきりと聞こえてきた。
***
 『黄金国』との名が伊達ではないのは玉座の間の床を見れば分かる。内装の絢爛さもそこそこに、入口から玉座の足下に至るまでの床がすべて純金で作られているのだ。どんな遠方の国の使者もこの床には称賛の言葉を惜しまない。およそ五百年に渡るゴールデンドロップ家の栄華は、地金の価値と等しく永遠に続くと思われていた。
  少なくとも、今の国王が即位するまでは。
 現国王、エレクセス・ゴールデンドロップの代になってからというもの、黄金国は他国との争いにことごとく敗れた。豊穣な実りある土地を奪われ、清らかな水源を奪われ、ついには金脈をも危ぶまれている。政治も外交も解さないエレクセスの曖昧模糊な態度に友好国はしびれを切らし、気がつけば周りは敵だらけ。付いたあだ名は「縮地王」〈ショーティン〉――まさしく領土を縮める愚王と公然に噂された。
 ウィリアム守護隊長は薄汚れた生首を床に投げて転がした。悲鳴の途上を保存したセイレーンの顔貌が、磨かれた純金にぼんやりと浮かぶ。王の脇に立つ国軍の長と執政官がかすかにたじろいだ。
「一体は仕留めました。……が、成功ではありません。セイレーンはもう一体いました。どういう怪物なのか存じませんが、二体いるなら三体、四体もありうるのが道理です。もはや訓練を受けていない囚人の手には余ります。どうか国軍のさらなる助力を」
 エレクセス王は齢五十にしては若々しく整った顔を、憂い深しげに傾けて礼を言った。
「まことに大儀であった。お主なら必ずやってくれると思っていた。百か二百くらいの兵なら……」
「お言葉ですが、陛下。それから、普段は城内に住んでおられる〈ロイヤルガード〉の守護隊長殿にもさぞ不愉快な話でしょうが――」
 よく通る声で王の発言を遮ったのは国軍の長、ロンメルだ。
「今は戦争中でございます。四方八方から敵が襲ってきておりますゆえ、余分な兵などたったの一人もおりませぬ。隊長殿にお貸しした弓兵はどうなりましたか? 我らは十二の諸侯から兵を任されているのですぞ」
 王の声を妨げる無作法も筋の通った直言の前には叱責を免れた。エレクセス王は遠慮がちにロンメルを見やった後、憐憫の眼差しをウィリアムに向けた。
「ですが、洞穴の奥に眠る金銀財宝はセイレーンを滅せねば手に入りませんよ。王の勅令でしょう。莫大な財宝があれば、海の向こうの傭兵を雇うこともできます」
 守護隊長ウィリアムは執拗に食い下がった。
「金銀財宝、大いに結構。結構ですとも。しかし百や二百の兵で今度こそ確実に成功する見込みはおありで? よしんば死体の山を築いて財宝を手に入れたとしても、海の向こうとやらから傭兵がやってくる前にそれらはたちまち敵軍の懐に収まってしまうのではないですかな」
 強面のロンメルの威を借りてミンスター執政官も批判の手を強めた。両方の側近の顔を窺ったエレクセス王はしばし考え込むように唸ったが、やがて深いため息とともにウィリアムに告げた。
「ウィリアムよ。すまないが、やはり兵は割けない。現状の範疇でうまく事を成してくれ。我の理想であるならば」
 側近に支配された玉座の間を体よく追い払われたウィリアムは、為すすべもなく広大な城の中を歩き回った。
 また囚人どもをけしかけたところで二体も三体も殺せるとは到底思えない。セイレーンの悲鳴はまるで災いのごとしだ。嵐のような大群も、雨のような矢も、彼女の前ではなんら意味を持たない。臨機応変な対応に長けた手練の兵が大勢いれば御しきれるかもしれないが、その期待は今しがた露と消えた。ロンメルの言い分は認めざるをえない。
 ただでさえ〈ロイヤルガード〉には味方が少ない。黄金色の板金鎧と獅子の毛皮で裏打ちされた厚手のマントに身を守られ、剣には宝石、食事は三食。肉、魚、果物。ベッドは上等な綿でできている。王は戦や政治はからきしだが、英雄伝の類は好んで読んでいた。さしずめ守護隊は王の理想を体現した動くおもちゃと言える。おもちゃに金を注ぎ込むのは王の特権だ。そんな〈ロイヤルガード〉を嫉妬、軽蔑こそすれ心から尊敬する者はいない。
 中でも守護隊長ウィリアム・ソイルはエレクセス王の最高のお気に入りだった。家柄は下の上で、剣の腕前はせいぜい中の上だとしても、彼には輝く金髪と碧眼、古の勇士の銅像と見紛う筋骨隆々の体躯が備わっていた。十五歳で剣を覚えて国軍に入隊し、王に見初められて〈ロイヤルガード〉に引き立てられたのは二十歳の時。エレクセス王の即位式と合同で行われた。翌年には、騎士にも叙任された。並みいる似たりよったりの平民出をごぼう抜きにしたのだ。以来、十年余に渡って王の理想であり続けた。
 その立場が今、揺らぎつつある。
 騎士〈ナイト〉と言えば聞こえは良いが、所詮は贔屓で成り上がった平民に過ぎない。王の権力が弱まれば二人の側近は容赦なく追放を企てるだろう。
 くそ、二度と藁のベッドなどで寝てたまるものか。
 なにか打開策を見出さなければ……セイレーンは呪いの悲鳴で人や物を壊す。音に姿形はない。戦場で降り注ぐ百の矢でさえ盾と鎧で防げるが、目に見えない音を避けるすべはない。どんなに頑丈な板金鎧で身を守っていたとしても音は耳に入り込んでくるのだ。不用意に近づきすぎれば命を落とす。音、音をどうにかしないことには……。
 黄金色の板金鎧をがちゃがちゃと言わせながら守護隊長が城内を闊歩している様子は甚だ異様だったが、周囲の奇異の目を気にせずウィリアムはうろつき回った。そのうち、一度も来たことがない廊下に突き当たった。廊下の奥は行き止まりで、居室にしては大仰な両開きのドアが備えつけられている。ドアの上には金文字を彫った鉄板が打ち付けられており、部屋の主を端的に示していた。
**『宮廷魔術師ケビン・クセノンの音楽研究室』**
 歩を止めて騒がしい鎧の音を鎮めると、一風変わった弦楽器の音色が聞こえてきた。
***
「おや、珍客ですね。〈ロイヤルガード〉の守護隊長殿がお見えになられるとは」
 部屋の中では一人の青年が椅子に腰掛けていた。壁の至るところには多種多様な楽器が並んでいるが、大抵は分解されていたり、壊れていたり、奇妙な形に作り変えられていたりした。青年は背丈が低く、焦げた茶色の頭髪は短くくしゃくしゃで、いかにも実年齢を想像させにくい風貌をしている。上着代わりに着込んでいる黒のローブは丈が余り、彼が立ち上がると布の端が床をこすりそうになった。
「誉れ高い宮廷魔術師であるケビン殿に折り入ってご相談があります」
 ウィリアムは腰を低くして体裁を取り繕った。宮廷魔術師は貴族待遇で王に雇われている。しかし、当の魔術師ケビンは悲しげに苦笑した。
「やたらと持ち上げますね。言っておきますが、雷雲を呼びだして敵兵を一掃するとか、大地を揺らして地割れを起こすなんて芸当は無理ですよ。国軍長殿にもそれを解って頂くのにずいぶん時間を費やしました。魔術とは小さなものを操る程度の力だと」
 堅物のロンメル国軍長に切々と魔力の限界を説く魔術師の姿が浮かんだ。確かに天災を自在に引き起こせたら戦局を大きく変えられるのは間違いない。古の英雄伝にはそうした魔術を扱う魔術師がしばしば登場する。数千年前の魔術は本当に強力だったのか、はたまた英雄の物語が大抵そうであるように彼らの伝説も大げさに記されたものなのか、今となっては知る由もない。
「では、宮廷ではどういった魔術を?」
 ケビンは見た目に似つかわしくない咳払いをおほんとついた後、壁面に並んだ楽器を一つ持ってきた。外見こそ弦楽器に近いが、とても小さく頼りのない不安定な形をしている。彼は細枝のような弓を弦にそっと押し当てた。魔術師に特有のオーラが彼の手から紫の光を帯びて流れ出し、細枝の弓を伝って弦にまとわりつく……。
 直後――部屋中に巨大な弦楽器の音色が響きわたった。凄まじい轟音に思わずウィリアムは身体を怯ませた。期待通りの反応が得られたのか、ケビンはニヤリと子供じみた笑みを作った。
「これは〈アンプリファイア〉という魔術を取り入れた楽器です。楽器の大小に依らずとてつもなく大きな音を出すことができます」
 体勢を取り戻したウィリアムは感心したふうに頷いて調子を合わせた。
「なるほど、こんなにも大きな音が出せるのなら奏者も疲れずに済みますな――魔術の心得があれば」
「いえ、ところが音は大きくできても決してきれいにはならないのです。残念ながら失敗作ですね」
 そう言うとケビンはさほど思い入れのなさそうな手つきで魔術弦楽器を壁面に押しやった。
「私がとりわけ意欲的に取り組んでいるのは、こちらの方です」
 次に持ってきたのは茶色い円筒の上に針と角笛が備えつけられた、奇妙なからくり仕掛けの道具だった。円筒は木枠と軸で固定されており、あたかも城の調理場に配されたロースト用の回転機を連想させた。
「今から魔術で蝋管を回しますので、そうですね……では、勇猛な剣士らしい雄叫びをお願いします。そう、その角笛に向かって……」
 魔術師ケビンが手をかざすと淀んだ紫のオーラが軸を包み込み、ゆるやかに円筒――蝋管が回りだした。どうやら魔力が充填されたらしい。唐突な指示ではあったが、ウィリアムはエレクセス王の前でよく演じさせられた古の勇士風の雄叫びをあげてみせた。そうすると、針が激しく揺れ動いて回転する蝋の表面に溝を彫りはじめた。雄叫びを終えると次第に針の揺れも収まり、ケビンの魔力が薄れるとともに蝋管の回転も止まった。
「一体なにが……?」
 ウィリアムが訝しんでいると、ケビンは木枠から蝋を取り出して頭上に掲げた。
「音の姿形を捉える魔術道具〈フォノグラフ〉です。守護隊長殿の勇猛果敢な雄叫びはたった今、この蝋の表面に写し取られたのですよ」
 迂闊にもウィリアムは冷笑を漏らした。
「それが私の雄叫びの形だとおっしゃるので? その蝋が?」
 宮廷魔術師の奇人変人ぶりは噂通りだ、と彼は内心で呆れた。よもや魔術師なら一騎当千の打開策を提案してくれるのではと当て込んで訪ねてみたものの、ご機嫌とりに話を聞いてやったが最後、どんどん調子づくばかりでセイレーンの話題を振るどころではない。しまいには、蝋の塊が音の写しだとか抜かす。王も王だ。こんながらくた作りに国庫を浪費しているから側近にやり込められる。
 とはいえ、その点ではウィリアムも似た者同士に違いなかった。黄金色の板金鎧と宝石の剣を与えられているのに、戦争には参加せず王の理想のために怪物退治をさせられている剣士。片や、王の道楽好きにかこつけて魔術を奇妙ながらくた作りに用いる魔術師。城から追い出される時はきっと二人一緒だと彼は思った。
「まだ驚くには値しませんよ。この蝋管の表面をもう一度針になぞらせましたら、なんと角笛を通して先ほどの雄叫びを再演〈プレイ〉させることができるのです」
「……ふうむ、すばらしい。そうなれば陛下もいちいち名うての吟遊詩人を招聘せずに済みますな。では、私はこれで」
 神にも勝る偉業を成したと言わんばかりの宮廷魔術師をよそに、ウィリアムはそそくさと部屋を後にしようとした。これ以上、奇天烈な妄想には付き合っていられないとの判断だった。
「いやいや、守護隊長殿。貴殿のご相談を聞いておりませんよ。せっかく私の話に付き合ってくださったのだから、こちらもお話を伺わないわけには参りません」
 しかし、彼が両開きのドアノブに手をかけた辺りで魔術師はきっぱりとそう告げた。ウィリアムにはケビンが当初の訪問理由を忘れている確信があったが、想定を裏切る形で誠実な人柄を思い知らされた。
 やむをえず、ウィリアムはセイレーン討伐のあらましを説明した……セイレーンとは棲息地に近づいた人間に呪いの悲鳴を聞かせて殺し、持っていた金銀財宝を奪う怪物であること。奪った財宝は棲家の洞穴に永年蓄えられているとされ、回収できれば戦局に大いなる貢献を果たせること。同時にそれは〈ロイヤルガード〉に下された王の勅令でもあること。そのためにはセイレーンを殲滅しなければならないが、用意できる兵力は〈ロイヤルガード〉と剣術の心得のない囚人のみで、呪いの悲鳴をやり過ごせなければ任務の達成は極めて難しい……ということ。
 話を聞き終えたケビンは頭を上下に揺らして考えにふけった後、急になにかを思い出したように得意げな顔でこう言った。
「ひょっとしたら、先ほどの私の魔術が役に立つかもしれません。ぜひ現場に同行させてください」
***
 いかに文字通り王者の風格を湛えていても、齢五十の裸体には衰えを感じずにいられない。ウィリアムが腰を前に突くたびに絞りだされる声もまた、さながら年老いた獣の嘶きを思わせた。獣といえば、不潔な男に典型の獣臭も寝室中にたちこめている。大方、また何日もずっと英雄伝の類を読みふけって湯浴みを怠ったのだろう。豪華な天蓋付きベッドの脇に積まれた本がおのずと物語っている。ウィリアムはわざとベッドを揺らして本の山を崩そうと試みた。王のベッドは格別に弾み心地が良い。
「待て、ウィルよ。待て。強すぎる」
 はあはあと息を荒らげながら黄金国の国王ことエレクセス・ゴールデンドロップが言った。「もう少しゆるりと……そう、そうだ。いい感じだ」一旦、本の山を諦めて腰の動きに気を払うと、途端に王の声音はなめらかな虹色に変わり、ウィリアムも一応の機嫌を取り戻した。
 それはそれとして、次からは必ず湯浴みをしてもらうか、さもなければ強い香を炊いてもらわなければならぬ。
 彼が十六の時のエレクセスは三十半ばの壮麗な王子で、シルクのようなきめ細かい肌と磨いた大理石の筋肉、白花に似た甘い色香を併せ持っていた。それでいながら時折見せる猛獣の迫力に、ウィリアムは自らの蕾がはっきりと開花せしめられたのを感じた。エレクセスもウィリアムを唯一の男と定め、以降はどの男にも手を出さないとわざわざ彼に誓った。
「ウィルよ、先の件はすまなかった。だが、どうしてもロンメルのやつが言うことは正しいとしか思えなかったのだ」
 尻を出しながら詫びる王の姿を見るのは、後にも先にもウィリアムだけに違いなかった。彼はその光景をたっぷりと目に焼きつけつつも、あえて「今言うのは卑怯ですよ」と低い声で脅した。萎びた臀部を手のひらでぐっと掴むと、彼の王は「ああっ、すまん」と嗚咽を漏らした。
「……ですが、セイレーンの討伐はなんとかなりそうです」
 奇怪な宮廷魔術師ケビン・クセノンの童顔をふと思い浮かべて、即座に打ち消した。
「まことか。やはりお主は余の金の盾、真の〈ロイヤルガード〉だ」
 エレクセスは振り返るとおもむろに対面座位の体勢に移り、衰えた手でウィリアムの張り詰めた胸筋をゆっくりと撫で回した。
「すまんな、ウィル。お主を戦争に行かせないのは余の身勝手ゆえだ。お主には剣や矢で死んでほしくない。けれども、どこかでは英雄のごとく美しく戦っていてほしい……」
「分かっておりますよ。前も、その前のもっと得体の知れない怪物も、きっちり首を獲ってご覧に入れたでしょう?」
 ウィリアムは白髪の目立つ王の頭に手を置いた。
「ああ、ウィル……余だけのウィル」
 なんと愚かな王だろう。
 ウィリアムは再び体勢を変えた王の尻を突き上げながら、そして王の弱々しい嘶きを聞きながら、深く感じ入った。
 きっと真に国家と民草を想うのならば、直ちにこの愚王の首を刎ねてロンメルとミンスターの前に差し出すべきなのだろう。二人は驚くかもしれないが、間違いなく受け入れる。なにしろエレクセス王には嫡男がいない。兄弟もいない。できる予定もない。そうなれば玉座は空位として、側近の二人が実権を握ることになる。道楽に溺れる王なぞ、いっそいない方が好ましい。愚王の首を刎ねた見返りに国軍の職位を要求するのも悪くない。〈ロイヤルガード〉ほどの待遇は望めないが、綿のベッドは手に入るかもしれない。寝室の隅にちらりと目をやると、丁寧に立て置かれた宝石の剣が妖しく輝いて見えた。
 そんなウィリアムの反逆の着想をよそにエレクセスの息遣いは急速に高まり、いよいよ絶頂の兆しが訪れたようだった。
「ああああああっ、来る、来るぞ、頼む、余の一物を握ってくれ。強くだ。手加減したら承知しないぞ」
 普段は側近にもやり込められるエレクセスだが、この絶頂の瀬戸際に至っては王の威厳に満ち足りた怒声を張った。命令通りにウィリアムが手を回して王の一物を握りしめると、さほど力を込めないうちに彼は慟哭して、粘ついた”ゴールデンドロップ”をその先端からぼたぼたと滴らせた。
 本当に、愚かな王だ。
 情事を終えて着替えを済ませたウィリアムは剣を手に取った。悲哀と興奮の嵐が過ぎ去ったエレクセス王は、今やとても安らかな顔で眠りについている。
 だが、こんな愚王でも愛してしまったのだから仕方がない。
 〈ロイヤルガード〉の守護隊長は宝石の剣を手にしかと携えて王の寝室を後にした。
***
 ケビン・クセノン宮廷魔術師の「下準備」には丸一ヶ月を要した。城下町の熟練工が作った複数の大きな蝋管と、それを収める丈夫で太い樫の木枠と軸、大の男の半身ほどもある角笛などが一切合切、馬車に積み込まれた日には戦況がだいぶ悪化していた。黄金国の南の地はすでに敵国に制圧され、一帯は新しい領主の支配下に置かれた。占領地から逃げてきた兵士曰く、かつての領主とその正妻、十歳にも満たない嫡子たちの首が城門で晒されていると言う。ロンメル国軍長は「ならば我らはやつらの生皮を剥いでやる」と怒り狂って兵を南に差し向けた。エレクセス王は側近たちの進言をただ曖昧に頷いて追認するばかりだった。
 〈ロイヤルガード〉の剣士たちは囚人を運搬する檻が乗った馬車と、荷物と宮廷魔術師が乗ったもう一つの馬車を牽引することに注力した。今回は囚人の頭数が少ない代わりに、生きて洞穴の前まで運ぶ必要があった。ケビンは「どうもご面倒をおかけします」と慇懃に礼を言いはしたものの、一度たりとも徒歩で歩きはしなかった。
 そうして一週間後、ようやくセイレーンの洞穴にたどり着いた。ウィリアムは檻から一人の囚人を下ろし、国軍の騎士が用いる板金鎧を着せた。次にケビンが馬車から蝋管と木枠と軸、鉄針を持ってきて〈フォノグラフ〉を組み立てた。組み立てられたそれは板金鎧の背中に鎖と金具で固定され、最後に長い角笛が背面から肩口を通って前に飛び出すように取りつけられた。
「なぜこんなに大きく作らせたので?」ウィリアムが問うた。「写し取る声が大きければ大きいほど針は激しく揺れて深く溝を彫りますので、相応の厚みと幅がなければセイレーンの悲鳴は写し取れないと考えたのです」
「旦那、あっしはなにをやれば赦免されんですかい」
 されるがままに魔術道具を取りつけられた囚人がたまりかねて口を開いた。戦時の城下町にいらぬ噂が出回らないよう二人は囚人には一切目的を告げていなかった。ここへきて騎士らしい口ぶりでウィリアムが「それを守って洞穴の奥まで歩くんだ。道中、変な女に出くわすが……とにかく歩き続けろ。われわれが良しと言うまでやり遂げたら、赦免してやろう」と告げると、囚人は歓喜した。
「では魔力を充填します……頭の中で三十まで数えたら歩いてください」
 ケビン・クセノンが蝋管に手をかざして魔力を充填した。音楽研究室の時とはうって変わり全力を出しているらしく、ほとばしる紫のオーラは秒を追うごとに色濃く蝋管を覆っていった。囚人が歩き出す直前にケビンは手を下ろし、駆動力を得た蝋管がじわじわと回転をはじめた。
 囚人の足が水に浸かった辺りで、洞穴の奥からセイレーンが姿を現した。例によって金銀の宝飾品を全身に巻きつけているが、かえって醜さが際立っていた。魔術師は率直に感想を述べた。
「あれが……セイレーンですか。なんと醜悪な……」
 間近で姿を目の当たりにした囚人も同様の感想を抱いたのか、はたと足取りが止まった。しかしすぐに指示を思い出したのか、あるいは危険はないとたかをくくったのか、再び囚人は歩きだした。間もなく遠目に見ても判るほどにセイレーンの口が開き、そして……。
 離れていても悲鳴の圧力が板金鎧に叩きつけられるのを感じた。鎧を着ていないケビンは遠くの馬車の陰に隠れてやり過ごした。劇的な十数秒が過ぎ去った後、洞穴の方に顔を向けると、歪んで潰れた鎧とばらばらに破壊された〈フォノグラフ〉がそれぞれ水たまりに浮かんでいる様子が見えた。鎧はまるで中身を失ったかのように突っ伏し、ぴくりとも動かない。
「あー、失敗ですね。やはり近づきすぎると〈フォノグラフ〉ごと壊されてしまうみたいです。次、行きましょう。今度は距離をとって」
 馬車の陰から戻ってきたケビンが飄々と言った。馬車には〈フォノグラフ〉の部品が複数積まれている。下準備に丸一ヶ月も費やしたのはこのためだった。ウィリアムは、事情を悟って抵抗する囚人に剣を突きつけて無理やり引きずり下ろした。
***
**『TEST1被験者Aを至近距離に接近させる……失敗。〈フォグラフ〉が破損。被験者Aは即死。**
**TEST2被験者Bを距離Zまで接近させる……失敗。被験者が悲鳴に耐えきれず遁走。〈ロイヤルガード〉が被験者を処分。〈フォグラフ〉は処分の過程で破損。**
**TEST3被験者Cを距離Yまで接近させる……失敗。被験者は健在。ただし〈フォグラフ〉が働かず。**
**TEST4被験者Cを距離Y'まで接近させる……失敗。TEST2と同様……』**
 宮廷魔術師が羊皮紙に細々と刻みつけた走り書きはウィリアムを焦らせた。檻の中の囚人はあと一人を残すのみとなり、〈フォノグラフ〉も二つ分の部品しかない。境遇を同じくした他の三人が無慈悲に死に追いやられていくのをまざまざと見せつけられたせいか、最後の囚人は正気を失って両手の爪を歯で食いちぎってしまった。目は虚ろで、話しかけてもまともな反応は得られない。数の限られた〈フォノグラフ〉を託すにはとても頼りなかった。
「この様子ではまっすぐ歩くのもままなるまい」
 ウィリアムが囚人の病態を見てそう言うと、ケビンは残念そうにため息をついて羊皮紙を巻いた。
「ということは、今回は諦めて撤退ですか」
 ウィリアムはしばらく逡巡して、答えた。
「いや」
 彼は待機させていた〈ロイヤルガード〉の剣士たちを睨んだ。
「まだこいつらがいる」
 突然の指名にあからさまに動揺した仕草で剣士たちは互いに顔を見合わせた。
「いえ、しかし……我ら〈ロイヤルガード〉は陛下の盾ですぞ。こんな作戦で無闇に命を落とすわけには」
「こんな作戦だと?」
 一人の剣士の失言を守護隊長は険しく捉えた。そして、突き放すように言った。
「この作戦は、王の勅令だ。たとえ死んでも陛下の誇りとなろう。……いいからやれ」
 だが、剣士は引き下がらなかった。
「一旦戻って囚人を訓練させれば――」
 ウィリアムはずかずかとその剣士に詰め寄ると、なにも言わず片腕を首に回して締め上げた。安全圏にいると見て兜を脱ぎ去っていた金髪碧眼の彼は、たちまち板金鎧の圧力を首元で受ける羽目となった。純白の肌が徐々に紅く染まっていく。ウィリアムは首を締めながら他の剣士たちに向き直って怒声を飛ばした。「おい、いいか間抜けども。よく聞け」
「洞穴から王都に戻るまでに一週間はかかる。〈フォノグラフ〉の部品を作るのには丸一ヶ月かかった。並行して囚人の訓練をやれたとしても、またここに戻ってくるのに一週間かかる。最短でも仕切り直しに一ヶ月半だ。最短でだぞ。その頃には王都で籠城戦が始まっていてもおかしくない。そうなったらな、我らが偉大なる陛下の代わりにロンメルやミンスターの野郎が実権を握っちまう。おれたちは良くて追放、悪けりゃ死刑だ。王都が陥落してもそれは変わらん。王家直属の護衛を生かしておく敵がどこにいる? つまりな、今ここでセイレーンをぶっ殺して財宝で傭兵を呼ぶか、後で死ぬかなんだよ。だったら、今すぐ死ね」
 ウィリアムは締め上げている剣士の無防備な顔面に拳を叩き込んだ。長く高く整った鼻が無残な音をたててひしゃげ、前歯が二本、根元で折れた。剣士の血まみれの口から許しを乞う旨の嗚咽が途切れ途切れに漏れ聞こえてきたが、ウィリアムは無視してもう一発殴りつけた。ようやく気が済んで彼を解放すると、吐き捨てるように言った。
「どいつもこいつもおれそっくりの見た目をしやがって。貴様らがエレクセスと寝ているのを、このおれが知らないとでも思っているのか?」
 エレクセス王の愛の誓いは真っ赤な嘘だった。ウィリアムはとっくに気づいていた。知りながら、ずっと黙殺していたのだ。〈ロイヤルガード〉の剣士は、昔のウィリアムに似た容貌の少年が国軍の門を叩くたびに増えていく。万が一、ウィリアムが王の理想の英雄伝を築く途上で命を落としたとしても、他の金髪碧眼の誰かが代わりを果たせるように。二十代のウィリアム、十代のウィリアムを、王が気分次第で味わえるように。
「〈ロイヤルガード〉はおれさえいればいいんだ。貴様ら、さっさと兜をかぶって横一列に進め。おれが〈フォノグラフ〉を背負って後に続く。運が良ければ、死ぬのは一人で済む」
 狂気をまとった守護隊長を前に、剣士たちは従う他なかった。飄々とした宮廷魔術師も無言で黄金色の板金鎧に〈フォノグラフ〉を組みつけた。魔力を充填する際の「では三十数えたら……」という単純な指示にも震えを帯びていた。
 〈ロイヤルガード〉の剣士たちが等間隔の距離をとって横一列に進軍した。三十数えて、守護隊長も進んだ。彼は背中で鉄針が蝋の表面をなでるのを感じた。先立つ剣士たちが水たまりに足腰を浸らせると、囚人の死体をまさぐっていたセイレーンが顔を上げてぎょろぎょろを左右を睨め回した。そして、じきに標的を見定めると前傾姿勢をとり、口を大きく広げた。対してウィリアムは、狙われた剣士とは正反対の方向に退避する。セイレーンの喉笛がぶくっと膨らんだ辺りで、ウィリアムも他の〈ロイヤルガード〉も兜を両腕で覆った。
 直後、セイレーンの呪いの悲鳴が一人の剣士を貫いた。黄金色の板金鎧は戦鎚で打ち据えられたかのように潰れ、崩折れて水たまりに没した。狙われなかった剣士たちは苦痛に耐えながら、あくまで等間隔の歩行を保った。ウィリアムもまた激しい頭痛と出血に抗って直立を維持した。たとえ聴力が一時的に失われていても、背中では〈フォノグラフ〉の鉄針が蝋管に溝を穿っているのが分かった。
 永遠にも感じられた呪いの悲鳴が終わると、ややあって魔力を失った蝋管も回転を止めた。ウィリアムは即座に反転してセイレーンから逃げだした。その姿を見て他の〈ロイヤルガード〉も後に続いた。
 セイレーンの悲鳴は、蝋管に写し取られた。
***
「私どもの魔術は大きな力は出せませんが、小さきものを操るのは得意です。お役に立てそうな魔術とは、先ほど申し上げた〈アンプリファイア〉でございます」
 昨月、得意げな顔をしてケビン・クセノン宮廷魔術師が紹介したのは、失敗作と言ってのけた魔術の方だった。
「〈フォノグラフ〉ではなく?」
「ええ、〈フォノグラフ〉も重要ですが、肝心要は〈アンプリファイア〉です。われわれの世界では、目に見えないほど小さな小さな妖精がそこらじゅうを飛び回っているのですよ――」
 唐突に絵物語のような話を語りだした魔術師だったが、ウィリアムは黙って聞いていた。というのも、ついさっき頭ごなしに否定していた〈フォノグラフ〉の角笛から、自分自身の雄叫びが再演〈プレイ〉されるのを聞いたためである。蝋の表面の溝が、まさしく音の写しだということの動かぬ証拠に他ならなかった。
「魔術は工夫次第でその小さき妖精たちを楽しませることができるのです。あっちへ行かせたり、こっちへ行かせたり、ある妖精と別の妖精を一緒にしたり、離したりしてやると、どういうわけか音が大きくなって出てくる……それが〈アンプリファイア〉の仕組みでございます。もしかすると、音と妖精にはなんらかの繋がりがあるのかもしれません」
 輿に乗ったケビンはひと呼吸をおいてさらに話を続けた。
「本題に入りましょう。ある日、いつものように妖精を操って〈アンプリファイア〉を発動させようとしましたら、動く向きをうっかり真逆に教えてしまったのです。これは、確かな感覚でした。しかしながら……楽器を弾いて出た音はいつもとまったく変わりがなかったのです。おかしいと思われませんか。単なる勘違いなのか、はたまた……いずれにしても、さっそく私は音の写しを得るべく〈フォノグラフ〉を使いました。守護隊長殿、それぞれの溝の形はどうなったとお考えになられますか?」
 不意に質問されてウィリアムはぎょっとした。蝋の溝が音の写しなら、溝の形が変わるのは音が異なる場合に限るはずだ。
「音が同じなら……溝も変わらないのでは?」
「いえっ! いえっ! それがですよ、違うんです!」
 誤答されるのが本望だったと言わんばかりにケビンはぴょんぴょんと跳ねて叫んだ。
「蝋の表面をつぶさに観察しましたら、なんと溝の形がぴったり左右対称だったのです。つまり、言うなれば逆の音だったのですよ。にも拘らず、てんで同じ音にしか聞こえない……。それからというもの、私は色々な音の”逆”を作っては研究を重ねました。〈フォノグラフ〉を二つ並べて、聞き比べをしながらです。そこで、ある発見をいたしました」
 魔術にも絵物語にも疎いウィリアムでも話が核心に迫りつつあるのを理解した。
「正しい音と、逆の音を同時に再演〈プレイ〉すると、どちらの音も聴こえなくなるのです」
 ウィリアムは崖の外側まで走り込むと、息を切らせて兜を脱ぎ捨てた。馬車で待つケビンに「早く蝋管を……」とだけ言い、取り外された途端に板金鎧も脱ぎ去った。布切れを耳や口に突っ込んで、出血の具合を確かめた。〈ロイヤルガード〉の剣士たちも鎧こそ外しはしなかったものの、耳鳴りや疲労のために馬車に寄りかかったり膝を突いたりしていた。他方、魔術師はすぐ仕事に取り掛かり、セイレーンの悲鳴が写された蝋管を馬車に積んであった〈アンプリファイア〉の部品と組み合わせ、ぶつぶつとなにかを念じながら魔術のオーラを流し込んだ。
**――キイイイイイイィィィィィィエエエエエエエエェェェェェッ!!!!!!!**
 呪いの悲鳴が角笛から再演〈プレイ〉されるやいなや、剣士たちは恐れ慄いて両手を反射的に耳に押し当てた。「声の写しなので呪いはかかっていません」ケビンがそう告げると彼らは動きを止めた。
「これがセイレーンの悲鳴の”逆”ですか?」
 ウィリアムは慇懃な態度に戻って訊ねた。
「いかにもそうです。妖精たちを逆に動かしました。この音の写しをセイレーンの悲鳴に被せられれば――完全には一致せずとも――呪いが薄れ、致命傷を負う前に彼女を殺すことができるはずです」
「この取手は?」
 完成した即席の魔術道具の木枠には今まではなかった取手が配されていた。見た目は水車を回すクランクに似ている。
「音の写しを得る場合とは異なり、音を打ち消すにはセイレーンが悲鳴を叫ぶまで発動を待たなくてはなりません。事前に魔力で蝋管を回すわけにはいかないのです。したがって、この魔術道具を扱う者自身が頃合いを見計らって蝋管を回さなければいけません」
「ということは、もし頃合いを逸すれば――」
「呪いの悲鳴が直撃して死にます。あるいは鳥の鳴き声のように、セイレーンの悲鳴に大きな違いがあった場合でも」
 ウィリアムは魔術道具を凝視した。
 他に手はない。
 下準備に時間をかけられるのならもっと安全な方法を思いつくかもしれない。だが、戦局がそれを許さない。王の権威、黄金国の戦力、〈ロイヤルガード〉の名声、どれも取りこぼさずに知らしめるには、今日ここでセイレーンの財宝を奪うしかない。
「そして、その奇妙な道具のせいで、また誰かが殺されるのか」
 すうっと優雅に空気を切り裂いて、背後から宝石の剣がウィリアム守護隊長の肩口に当てられた。他の〈ロイヤルガード〉も剣を構えているようだった。
「なんの真似だ」
 ウィリアムが十分に意図を悟りつつも探りを入れると、剣を突きつけてきた一人がわなわなと震える声で言った。「もうあんたにも王にも付き合ってられないんだよ」ブッと地面に唾を吐く音。発声の不自然さからすると、声の主は折檻で歯を折った相手らしい。「では、どうする? 敵方につくか? 〈ロイヤルガード〉と知れた瞬間に貴様らの首は胴から離れるぞ」彼は平然と挑発した。
「あんたと違って、おれたちはまだ若い。御大層な鎧と剣はさっさと売っぱらって、どこか遠くに逃げる。いっそ海の向こうでもいい。そこで一からやり直すさ。だが、あんたと魔術師には死んでもらう。追手を差し向けられたら敵わないからな。まとめて消えれば、あの愚王はセイレーンに皆殺しにされたとでも早合点してくれるだろう」
 剣士の一人がケビンを抑えつけた。小柄で丸腰の宮廷魔術師にもとより抵抗の意思はなく、素直に両手を掲げ「降参、降参です」とわめいた。しかし、別の剣士が厳しい声で「魔術師に油断するな。なにか仕掛けられる前に両腕を切り落としてしまえ」と叫んだ。当の彼は短い悲鳴をあげて「なにもしませんって、なにもしませんよ」と繰り返した。
「貴様ら、英雄伝の類を読まないのか。魔術師は眼力で雷雲を呼び起こす。貴様らは死んだも同然だ」
 ウィリアムが挑発を重ねると、とうとう業を煮やした剣士が肩を怒らせてケビンに近づいた。
「では目も潰そう。おれがやってやる」
「ちょっと、なにを言って――」
 すかさずウィリアムは横を通り過ぎようとした剣士に突進した。振られた肩口の切先を躱し、押し倒した男の持つ剣を奪い取った。二撃目はかろうじて剣で受け止めた。華麗な回避術に怯んだすきっ歯の剣士に、彼は事ここに至って上官らしい物言いで告げた。「貴様ら、まだ耳が治りきっちゃいないだろう。おれより近くで悲鳴を聞いたからな。だから踏み込みが甘い」受け止めた剣を弾き返すと、片足ですきっ歯の剣士を蹴飛ばした。平衡感覚を失っていた男は、板金鎧の重量も相まって容易く後ろに倒れた。その隙に、よろめきながら立ち上がろうとする一人目の男の首に剣を突き刺した。
 入れ替わりにケビンを抑えていた三人目、別の四人目の剣士も襲いかかってきた。背丈の低い方は少年にしか見えなかった。その容貌は、やはり金髪で碧眼だった。ウィリアムは緩い剣筋の上段を難なく躱した直後、すれ違いざまに首筋を一閃した。シューッと血しぶきが噴き出し、少年の剣士は咄嗟に切られた箇所を手で抑えたが、間もなく倒れ込んだ。四人目もさほど手間をかけずに切り伏せた。
「こ、このっ……」
 果たして未だ起き上がれないでいるすきっ歯の剣士の喉元に切先が突きつけられた。
「おれはな、愛する男と一緒に綿のベッドで寝ていたいだけなんだよ。それこそ本物の英雄なら非の打ちどころなく成し遂げられたのかもしれんが、生憎おれはこんなやり方しかできない」
「よせ、やめろっ、勘弁してくれ」
 すきっ歯の剣士は哀願の眼差しで上官を仰ぎながら、板金鎧の両手で剣身を握った。当然、寝転がった体勢で刺突を留めることは叶わない。叶わないと知って、延命を試みていた。
「貴様は陛下の道楽に付き合わされて死んでいった囚人どもに一度でも同情したか? これっぽっちもしなかっただろう。……おれもだ」
 ウィリアムが剣を前に押し出すと、男の両手の力に関係なく切先がめりめりと喉に突き刺さっていった。苦悶に歪んだすきっ歯の口からごぼごぼと血の泡があふれ、柄を握る手が地面を感じる頃には物言わぬ屍と化した。ウィリアムは、あえて宝石の剣で串刺しになった死体を放置した。そして、返り血を浴びた顔でケビンに言った。
「英雄伝を完成させよう。我らが王のために」
***
 ウィリアムは出陣する前に背中に取りつけられた〈フォノグラフ〉のクランクを、後ろ手で回せるか入念に確かめた。動力を得た蝋管が回りはじめると、角笛と連結した特製の兜の穴からセイレーンの悲鳴が聞こえてきた。兜の内側で音が間近に響いて、あたかも空間が悲鳴で満たされたかのようだった。角笛の内部ではすでに目に見えない妖精たちが〈アンプリファイア〉を真逆に発動させている。宮廷魔術師の説明によれば、この音は逆転しているのだ。
 ケビン・クセノンが重々しく言った。
「正の音を打ち消すには”逆”の音をしっかり聞いていなくてはなりません。これは呪いから貴殿の身を護る盾だと思ってください」
 気づけばセイレーンの洞穴の一帯は屍にまみれていた。前々回の時の死体はとうに骸に変わり果て、前回の死体は腐敗したまま捨て置かれている。今回の死体はまだ鮮血の赤が艶めかしい。ウィリアムは水面をざぶざぶと荒らして屍を貪っているセイレーンに接近した。片手には宝石の剣、もう片手にはクランクを握りしめて。
 彼女が生きた人間の気配に勘づいて顔を上げると、おのずとウィリアムのクランクを握る手の力も強まった。〈フォグラフ〉に影響はないが人体には致命的な距離Y'に到達したのだ。濁った灰色で塗りつぶされた二つの眼がウィリアムを睨めつけ、セイレーンの口がじわじわと開いていった。
 いや、まだだ。まだ悲鳴は出ない。
 ウィリアムはクランクが軋むほど強く握りしめながらも、決して回転させようとはしなかった。剣豪同士の果たし合いにも似た沈黙が二人を覆いつくしかけたその時、セイレーンの喉笛が膨らむのが見えた。
 今だ。
 ウィリアムはクランクを力強く回した。ぎりぎりぎりと音を鳴らして鉄針が蝋管の溝に沿い、兜の内側が逆転の悲鳴で満たされる――同時に、セイレーンの呪いの悲鳴がウィリアムに襲いかかった。
 悲鳴は、聞こえてこなかった。
 ウィリアムの前方には、前傾姿勢で口をあんぐりと開けっぱなしにしているセイレーンがいた。生存本能のすべてが託された左手はクランクを一心不乱に回し続けている。にも拘らず、どちらの音も聞こえない。彼の足が水たまりをかき分ける音だけが、場違いに響いた。
 ウィリアムはクランクを回す力を緩めないように気を張って、なおも呪いの悲鳴を絞り出すセイレーンにじりじりと迫った。途中、板金鎧がべきべきと歪んだが彼は構わなかった。距離Y'を越えて距離Zに到達した辺りで、やっと悲鳴は止まった。
 剣の間合いにウィリアムが踏み込んだ刹那、宝石の剣を握る右手に力が与えられた。剣の切先は無駄のない動きでセイレーンの喉笛を切り裂いた。直後、彼女のごく短い断末魔が耳に入り込んできた。しかし、もはやそれに呪いはかかっていない。
 ウィリアムはすぐに左手を後ろに回して蝋管の位置を元に戻し、速やかに後退した。洞穴の奥から三体目が現れたのだ。やはりセイレーンは群体だった。先の動作を何回、何十回と成功させなければ、金銀財宝にはありつけない。財宝が手に入らなければ、海の向こうの傭兵を呼べず、〈ロイヤルガード〉の地位は失墜する。奇跡が起こり、戦争を和平に持ち込めたとしても二人の側近の権勢が強まり、彼は綿のベッドを失う。戦争に負ければ王も彼も土の中で眠ることになる。彼の脳裏に幾度となく反復された最悪の想定が走馬灯のごとく流れた。
 だが、待てよ。
 ウィリアムは三体目のセイレーンと相対しつつも、ことのほか冷静に考えを巡らせた。
 セイレーンの洞穴に蓄えられている財宝で、どれだけの傭兵を雇えるのだろうか。仮に千人の傭兵を雇えるとして、快進撃を続ける敵国を打ち倒してくれるだろうか。忠義もへったくれもない傭兵風情に、そんな窮状極まる戦争の前線が務まるのだろうか。むしろ裏切られて金銀財宝はもちろん、玉座の間の金の床も根こそぎ奪われるのが関の山ではないのか。
 三体目のセイレーンの喉笛を捉えた切先が、ぴたりと止まった。
 代わりにウィリアムは彼女の喉を締めるように片手で強く掴んだ。たとえ百の兵を屠る呪いの悲鳴も、喉笛を抑えられたらどうにもならない。
 そう、セイレーンの呪いの悲鳴は百の兵をも屠る。
 おれたちだけは呪いを防ぐ方法を知っている。
***
 一人の気狂い囚人と、即席の猿ぐつわが嵌った三体のセイレーンを乗せた馬車が王都に凱旋した時、〈ロイヤルガード〉の守護隊長と宮廷魔術師の奇行ぶりは街中に知れ渡った。二人の側近は今が好機と見て守護隊長の免職を王に進言した。エレクセスは本人の釈明を望むとして、玉座の間にウィリアムを呼びつけた。ここからの出来事は四百年の年月を経て編纂された「黄金帝国の栄華と滅亡」に詳しく記されている。
**『英雄ウィリアム・ソイルは国軍長ロンメル・トライデインの嫌疑に答えて曰く、 ”国軍長殿、私ごときの剣の腕では、あなたを相手に一分と持ちますまい。ですが、そんな貴殿も百人の兵を前にしては、やはり一分と持ちますまい。しかしセイレーン(脚注:特定危険生物の項にて詳述)の呪いの悲鳴は、百の兵を屠るのに一分と要しませぬ。洞穴には、まだ何体もセイレーンがおります。” 国軍長は言葉を失うばかりであった。(中略)……セイレーンの使役には然るべき管理基準が設けられ、電気の働きを先取りした魔術道具は戦争に革命をもたらした。魔術師ケビン・クセノンの生み出した新規の魔術の数々は、まさにセイレーン戦術の要と言える。以来、黄金国の攻勢は留まるところを知らず、わずか三年で版図を元の領土のみならず大陸全土にまで押し広げた。拡大帝〈エクスパンス〉エレクセス・ゴールデンドロップは、古の英雄伝から着想を得てこれら一連の計画を指導したとされる。……』**
 戦勝後に黄金国は「帝国令」を発布し、エレクセス・ゴールデンドロップは大陸全土を統べる初の皇帝となった。戦争の過程で南の新領主は妻子、騎士、配下、使用人ともども全身の生皮を剥がされ、亡骸は敵国に送りつけられたと言う。この報復の様式は後に「エレクセス外交」と呼び表される。
 国軍長と執政官の職位は地方別に分割され、ロンメルとミンスターはそれぞれそのうちの一人に任じられた。〈ロイヤルガード〉は皇帝を護る唯一の盾となり、救国の英雄ウィリアム・ソイルただ一人がその地位を終生認められた。ケビン・クセノンは魔術の提供と引き換えに無制限の研究費を確約させ、数多の魔術師を従える帝国魔術師に叙任された。
 むろん、これらの偉人たちが、帝国の覇道により集められし最高級の綿でできたベッドで寝ていることは、あえて言うまでもない。すべての敵を滅ぼした帝国の夜は静寂に包まれている。

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date: 2022-04-15T09:29:22+09:00
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昔から「いつか音楽をやろう」と思っていた。具体的な時期や楽器の種類はてんで決まっていなかったが、いつかやることだけははっきりしていた。しかし気づけば15歳になり高校に入学し、18歳になって大学に入学した。就職は多少手間取ったがやはり気づけばしていた。なんなら転職も何回かした。その間、色々とやりたいことをやって、やりたくないこともやって、それでもなお時間はなくもなかった。そうした可処分時間の切れ端は気づけば溶けて消えていた。
やがて28歳を迎えし日も遠のき、ついに20代最後の歳を数える日が眼前に迫ってきている今、ようやく僕は真に気がついた。その「いつか」は行動を起こすまで一生訪れない。たとえ時間が無尽蔵にあろうがなかろうが、ひとりでにグローリアスな音楽シーンが開幕したりはしない。そんなわけで僕は衝動的にメルカリを開き、安い順にソートして上位にせり上がってきた中古のバイオリンを秒で落札した。バイオリン、どうあがいてもン万円はするものと思っていたが、送料込み6000円で手に入った。
数多の楽器の中からバイオリンを選んだのには割とちゃんとした理由がある。普段、音楽を聴いていて1番好きなパートはベースなのだが、ベースはソロで成立させることがほぼできない。次にピア。ピアはかなりの有力候補だったが限界独身男性を収容している馴染みのDiscordサーバで話を振ったところ、なんと既に2人もピアマンがいた。両者ともまだ始めたばかりらしいので「ピアニスト」とは呼んでやらない。
したがって、僕が手にしたのは3番目に好きな音を奏でるバイオリンとなった。僕自身も同様にバイオリニストと呼称されるべきではないので、さしあたりはバイオマンと呼ばれてやってもいい。色々と覚悟して買った中古のバイオリンではあったが、やはり届いた直後の状態はひどい有様だった。いくら楽器のド素人でも弦を指で弾いてろくに音が鳴らなければさすがにおかしいと判る。つまりいきなりバイオリンの調整――いわゆる調弦をやらなければならなかった。
![](/img/116.jpg)
調弦はバイオリンのペグを回して行う。緩めると音が低くなり、締めると高くなる。それぞれの弦には然るべき音階が存在しており、たとえば端っこのE線は名前の通り英米式コードでEの音階でなければならない。イタリア式で言うところのミだ。われわれはイタリア式の音階を学校教育で学ばされているため慣れるまではたいへん煩わしい。しかもバイオリンはコードは英米式でも発音はドイツ式なのだ。だからE線は「イー線」ではなく「エー線」と発音する。
**これのなにがややこしいって、すぐ真上に他ならぬ「A線」があるからだ** もちろんこれは「エー線」ではなく「アー線」と読む。この辺りの知識を知らずにうっかりYoutubeの動画とかを観るとマジで混乱してしまう。ちなみにバイオリンの発祥はイタリアらしい。日本にバイオリンを持ち込んだやつがなにかとんでもない過ちを犯したとしか思えない。
当然、どの音ならEだかAになるかなんて僕には分かりようもないが、誰にとっても基本そうなのでチューナーという道具が作られている。2000円くらいで専用の機械が買えるものの今時分はスマートフォンアプリの方が手っ取り早い。弦を弾いた音をマイクが拾って音階を判定する仕組みだ。しかし予め備えつけられていたE線ときたら、すっかり緩みきっていていつまで経ってもまともな音が鳴りやがらない。
業を煮やしてペグをギリギリと締めあげているうちに、とうとう弦が限界を迎えたらしい。いきなり派手に破裂音が鳴ったかと思えばバイオリンからびょーんとE線が飛び出していきやがった。こうして僕のバイオリン練習初日は弦が一つ足りない環境で行われることとなった。
さて、幼少の頃より息を吸うように触れ続けてきたコンピュータや文芸ならいざ知らず、まったく未知の楽器演奏をいつまで続けられるかはまるで不明である。音楽にしろなんにしろ、個人の趣味が長続きしにくいのは締め切りも終わりも存在しないせいだ。自分の気持ち次第でいつまでも続けられるが、いつだって止めてしまえる。そこで僕は刺激をセルフで調達することにした。DiscordとTwitterに動画を投稿していくのだ。なんだかダイエットの経過記録を公開するのと似てるな。
{{<tweet 1512737165125783553>}}
自身の過去を適宜振り返ることをモチベーションの糧とし、周囲に認知されている事実を以て己の怠惰に発破をかける。それでも止めたくなったらこれはもう仕方がないだろう。どうせ止めるからには「完全に向いていなかった」という確証が欲しい。僕は撤退にもクオリティを求めるタイプの人間だ。そうやって可能性を一つずつ潰していって、最終的に残ったものこそが僕を象徴する。今のところはコンピュータと文芸しかないが、5年後か10年後かには、ひょっとするとバイオリンが加わるかもしれない。あるいは他のなにかが加わっているかもしれない。
なにげにインターネット上に自身の姿を開陳せしめたのは初めてだが、実際にやってみると意外にどうということはなかった。旧来のネチケット死語によればインターネットで実名や実像を公表したら最後、たちまちとんでもない災いが降りかかると固く信じられていたが、きっともう常識の方が変わってしまったのだろう。上記のTweetのツリーに動画を順次繋げているが、よく知るお友達がLikeをぽつぽつと付けてくれる以外には特になにも起こっていない。
せいぜいフォロワーが150くらいしかいない僕の存在感など良くも悪くもこんなものだ。この取り組みは自意識の調整を行う上でもぼちぼち役に立ったと言える。もっとも、なぜか超きゃわいい18歳JKが映っていたら全然話は変わっていただろうけどな。そこに映っているのはただバイオリンが下手な28歳の野郎に過ぎない。僕が飽きていなければ数年後にバイオリンが少し弾ける三十路の野郎が映る程度の違いしかない。そんなのでも良ければ……まあ、ちょっとは応援していてくれ。
ちなみに中古のバイオリンを秒で落札したと言ったのは嘘だ。本当は6900円で売られていたものをさらに値切った。
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title: "パソカタ諸氏へ"
date: 2023-01-03T21:36:53+09:00
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tags: ['poem', 'movie']
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なぜ僕の周りではゲーム・オブ・スローンズやウエストワールドが一切話題に上らず全員アニメの話をしているのかということを一生考えてきた。情報系オタク人生の大半をパソコンカタカタで過ごしてきた人間の、総称は上の世代も下の世代もアニメばかり見ている。話数が多いと尻込みしてしまうのかとも思ったが、まだ1シーズンしかないイカゲームとかもまるで存在しないかのようだ。よく知られたタイトルでもこんな有様だから、その他大勢の単体映画については言うまでもない。
もちろん探せば実写作品を好む人たちはごく簡単に見つかる。インターネットは広大だ。しかしそれは僕の愛すべき人たちではなく、たまたま趣味が一致したどこかの知らない人々でしかない。僕は他ならぬ情報系オタク人生の大半をパソコンカタカタで過ごしてきた人間の、総称の皆さんに実写作品を2の64乗本くらい観てほしいのだ。自分も同類だから。
かつては学校でも、ちょっと前までは職場でもだいぶ布教を頑張ってきた。とりわけIT企業はまさしく情報系オタクの宝庫である。ところが肝心の彼らときたら「観れたら観るわ」と絶対観ない時の返事をよこすだけで、にべもない。むしろ横で話を聞いていた事務の子の方が「面白そうだったので観てみました」とか言って感想をくれる始末。そりゃあ、事務の子だって仕事でパソコンカタカタはしているだろうけど、そうじゃないんだ。パソコンカタカタとは精神性の概念でもあって……。
そんなわけで、ある時期からTwitterで映画の紹介文をツイートしはじめた。Amazon Prime VideoにしろNetflixにしろ、なにか作品を選ぶ基準があれば少し変わるかもしれない。残念ながら今のところ効果は芳しくない。まれに反応をもらうことはなくもないにせよ、そういう人たちはもともと実写作品が好きだったりする。
どうしてパソカタ諸氏(人生の大半をパソコンカタカタで過ごしてきた人間の、愛称)は実写作品をあまり観ないのか?――しかしこの問いは、長らく交流を重ねるにつれて不正確だと解ってきた。彼らは実写作品に限って観ないのではなく、たいていアニメも大量には観ていない。アンテナの指向性がものすごく尖っていて、特定の条件を満たした作品でなければ手をつけないのだ。その一つが情報量の多寡である。
パソカタ諸氏が好む作品は情報量が非常に多い。ただでさえ1話あたり正味20分強という、実写作品の世界からすれば押し潰されそうな短尺の中で実に様々なことが起きる。キャラクターはほとんどひっきりなしに喋っているし、コロコロとコミカルに表情が変わる。どんどん音楽がリズミカルに流れて、ビシバシSEが鳴り響く。
そこへいくと、僕が好むような作品はどうだ? 一般的なドラマはアニメの2倍以上の尺があるから、たとえ同じ様式で作ったとしても情報密度は半分しかない。にも拘らず、車を走らせて喫茶店で煙草をくゆらせるシーンだけで容易に10分は費やす。遠景を映している間に5分は経つ。アニメならじきにエンディングだ。
おそらくパソカタ諸氏にとっては、これが退屈で仕方がない。彼らは密と疎でいうなら、密を主にしている。その一瞬、一瞬で常になにかが起こっていればいるほど好ましい。Youtubeの切り抜き動画や倍速再生などはこうした欲求の極北と捉えられる。こんなふうに解釈すると、なるほど確かに実写作品など観ていられないはずだ、と首肯せざるをえない。アニメキャラクターは工夫次第で挙動をデフォルメして高速化できるが、実写作品には難しい。
対して、僕は疎を主にしている。事態の発生は結果であって本質ではない。本質は物事の前にこそ、情報量の少ない領域にこそ宿っている……そう信じたい。だからこそ、僕は3時間半の長尺のうちの、1時間の入念な情景描写を愛する。親子のすれ違いを表すための、寡黙な食器カチャカチャを愛する。来たるべき大決戦の1話を映す手前の、9話分の下準備を愛する。
しかし僕の愛すべき人たちにとってこれらはおおよそ無駄な情報であり、けちくさい貧相なデータであり、切り抜き動画でカットされた部分に等しいようだ。この事実が無念でやりきれず、どうにも悔しい。キーボードを抱いて生まれたというくらいには僕も誉れ高きパソカタの一員なのに、段々と同胞の歩みについていけなくなってきているのを感じる。
せめて3シーズン……そう、3シーズンで完結のドラマ視聴で手を打たないか 「DARK」っていうドイツのタイムスリップものがむっちゃ面白いんだ……いくら叫べど僕の声はカップリング創作やアニメの感想にたちまちかき消される。だけど絶対に諦めないからな。

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title: "ビーカーをコーヒーで満たしたい"
date: 2022-02-09T18:30:50+09:00
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tags: ["diary"]
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そのガラス製品が特有の悲鳴を轟かせた直後、僕は後悔の念をまた一つ積み上げる。**ああ、やってしまった。** 兎角、僕はガラス製品と相性が悪い。人生の道中で割ったガラス製品は数知れない。なにも大切にする気持ちがないわけじゃない。むしろかなりていねいに扱っているつもりだ。にも拘らず、ふとした拍子に手元が狂ってしまう。3000円近いのウォーターグラスを買って1週間足らずで割ってしまった時には、いよいよ自分はガラス製品にふさわしくない人間なのではないかと真剣に悩んだほどだ。
しかし数日後にはしれっとした顔で同じウォーターグラスを買っていた。アルコールでも水でも、およそ飲み物にこだわりを持つ人たちならきっと分かってくれると思う。**世の中にはどうしてもガラスに容れたい液体がある。** その液体の有り様を余すところなく観察できて、あらゆる化学的変化と無縁のガラス容器はまさに真実そのものを写し出しているかのようだ。だから僕はミネラルウォーターは極薄のガラスで作られた専用のウォーターグラスでしか飲まないし、お茶も耐熱ガラスのティーポットで淹れている。そこには意固地になって使い続けていればじきに手慣れてくるだろうという計算もあった。
**ところが先日、またやってしまった。** 『また』の右上にはそろそろ2より大きい指数をつけるべきかもしれない。今回やったのはコーヒーサーバ兼メジャーカップの注ぎ口だ。ドリッパーやマグカップと一緒に並べて乾かしておいたのを取ろうとして、注ぎ口の部分がドリッパーに当たってしまったらしい。鋭い悲鳴とともにいかにも怨念のこもった口をしたメジャーカップが形成された。
![](/img/87.jpg)
命を刈り取る形、とはこんな具合のものを指して言うに違いない。だが、注ぎ口の形状がたとえ加害性を帯びたとしてもコーヒーを受け止めさせるぶんにはなんら問題なかったりする。傾斜部分までは喪われていないので、マグカップにコーヒーを注ぐ時も大して困らない。こいつが真に加害性を発揮するのは洗い物のタイミングだ。洗われる身分のくせして生意気にも割られた恨みを持ち主に返そうというのだ。おかげでここ2日ほどは生きた心地がしなかった。この凶悪極まりないギザギザに手を引っ掛けでもしたら危うく障害年金の受給要件を満たしかねない。
僕はコーヒーを1日に2、3回は飲む。他に適当な耐熱容器を持たない以上、僕は毎日2、3回もこいつに復讐の機会を与え続けることになる。そんな理不尽は御免被りたい。となれば、やはり早急にコーヒーサーバを新調しなければならない。実を言うと候補らしきものはずいぶん前に見繕ってあった。せっかくHARIOのドリッパーやティーポットを使っているのなら、コーヒーサーバも同一メーカーで揃えたがるのが人情である。もともとHARIOは化学実験用のガラス製品も作っているのだが、なんでもそれらをキッチン向けに作り変えた新シリーズを近年展開したという。
![](https://www.hario.com/CraftsScience/img/crafts_topimg2.png)
[Crafts Science](https://www.hario.com/CraftsScience/index.html)と呼ばれるこの製品群にはまさしく名前通りの質実剛健さが備えられており、実勢価格も意外に高くない。これまで使っていたIwakiの耐熱ガラスメジャーカップも1000円くらいしていたことを考えると、値段差はほとんどないに等しい。なぜ僕が花瓶みたいに湾曲したシャレオツなコーヒーデカンタを買わないのかといえば、値段が高い上にめちゃくちゃ洗いにくいからだ。その点、取っ手のついた耐熱ビーカーは理想的なコーヒーサーバの要点を既に満たしている。きっとHARIOもそこに気づいたのだろう。
で、届いたのが今日だ。見てみるといかにもビーカー然とした装いでこれといった感慨は薄い。強いて挙げるなら思いのほか軽かった。300mlの方を買ったので以前より容れられる量は少なくなったが、どうせ僕は1回に150mlちょっとしか淹れない。結果的にはかえって妥当な線に落ち着いたと言える。かくして僕を仕留め損なったIwakiのメジャーカップは二重のビニール袋に包まれ、後は燃えないゴミの日に回収される時を待つばかりとなった。
![](/img/88.jpg)
せっかくなのでコーヒーをビーカーに抽出した後の動画を撮ってみた。こういうのも広義のASMRにならないだろうか。
{{<youtube ZYFceOArSpA>}}

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title: "ブリッカで上等なエセカプチーノを作る"
date: 2022-10-26T14:26:42+09:00
draft: false
tags: ["food"]
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![](/img/160.jpg)
僕はもっぱらコーヒーをハンドドリップで淹れている。言うまでもなく僕にとって最高の抽出法だからだ。フレンチプレスやらサイフォンやらに色々と手を出しても結局はハンドドリップに帰ってきた。これこそが王道の味に違いない。淹れ方はいくつあっても構わないが、王は一人いればいい。ところがそんな王者でも絶対に叶えられない味わいがある。
そいつはカフェラテだとかカプチーノだとかいう気取ったイタリア野郎の顔をしている。やつらは下地にエスプレッソを使う。エスプレッソは圧力をかけて抽出する特別に濃厚なコーヒーゆえ、ハンドドリップでは逆立ちしても同じ濃さにはならない。普通のコーヒーにミルクを注いでも、それはカフェラテではなくカフェオレと呼ばれる。土台となる苦味が足らないからか、カフェオレはどうあがいても中途半端な味わいに留まってしまう。
では、如何にすべきだろう? フレンチプレスやサイフォンを試した時のように、エスプレッソマシンを買うべきか?――そんな芸当はさすがに難しい。値段が高すぎるし、置き場所もとる。エスプレッソこそが王だと思う人には当然の処遇でも、僕にとって王じゃないやつがキッチンにデカい顔をして居座っているのはすこぶる気に食わない。毎日飲むわけじゃないし。
電動ミルの問題もある。いま使っているミルはKalitaの[ネクストG](https://www.kalita.co.jp/products/nextg.php)という製品だが、誠に遺憾ながらエスプレッソ挽きには対応していない。民生用ではフジローヤルの[みるっこ](https://fuji-royal.jp/products/mill/r220/)と並んで圧倒的な粒度品質を誇る事実上のフラグシップモデルとされているのに、細かく挽くことだけはできないのだ。ハンドドリップを王に戴く僕には適した製品とはいえ、多少の口惜しさは否めない。
つまり、本物のエスプレッソを淹れたければマシンのみならず、専用のミルをも揃えなければいけない。**一体何諭吉かかるんだ。** いくら道楽でも限度はある。エスプレッソ欲しさにそこまで肩入れするのは王への叛逆ではないか。僕はそんな不埒な真似はできない。だがしかし、美味しいカフェラテやカプチーノは是が非でも飲みたい……。
実を言うと[今までにも偽物のカプチーノはさんざん作ってきた。](https://twitter.com/riq0h/status/1447781961154453511)コーヒーにミルクだけだとただのカフェオレでも、ミルクをもそっと泡立ててやるとちょっとマシな雰囲気に仕上がる。僕はこれを**エセカプチーノ**と名付けて密かに愛飲していた。本物のカプチーノには手が届かなくても、せめてこいつをもっとアップグレードしてやれないものだろうか。
そこで[マキネッタ](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%82%AB%E3%82%A8%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%B9)という器具を思い出した。電気ではなく直火で圧力をかける簡素なエスプレッソメーカーである。安価ゆえ本物のエスプレッソほど重厚な味にはならないが、それでもエスプレッソっぽい味はするらしい。**ならば、カプチーノの下地には十分では……?** しかも、僕が初めて見聞きした頃よりもだいぶ改良が重ねられていて、ビアレッティとかいう老舗メーカーの「ブリッカ」とやらはかなり本格的だと言う。
とりわけ大きい利点が、マキネッタ用の挽き目はエスプレッソ挽きより粗くて済むところだ。直火の蒸気圧は電気より小さいため細かくしすぎるとうまく抽出できないからだが、ともかく既存のミルで使えて、なおかつ安く済む……。これだ、これしかない。僕はさっそく2カップ用のブリッカをヨドバシの電子カートに叩き込んだ。
使い方は一度覚えてしまえば至極単純だった。まず底部の容器にだいたい100〜120mlの水を注ぎ、内部の皿に挽いたコーヒー豆を平坦にならしつつ入れる。次に上部の部品を装着してきつく締める。そうしたら火にかけるだけだ。豆の分量は16gくらいでぴったり収まった。深煎りでなければたぶんもっと要る。カフェラテやカプチーを作る前提なら、同時にミルクを鍋か電子レンジで温めておくと無駄が少ない。火加減は底面からはみ出ない程度がちょうどいい。
![](/img/161.jpg)
なぜ経験則で語っているのかと言うと、付属の説明書のテキストがこんなひどい有様でとてもあてにならなかったせいだ。100年以上の歴史に彩られた老舗メーカーでも説明書の翻訳は苦手らしい。今時、AliExpressの零細中華業者だってもう少しまともに読めるテキストを寄越してくれるぞ。
![](/img/162.jpg)
火にかけて3分もするとマキネッタが騒ぎだす。じきにエスプレッソが抽出されはじめるので、予めコンロのスイッチに手を置いておくことをすすめる。僕自身、この記事を書くまでに何度も淹れたが未だ明確な基準は見つけられていない。火を止めるのが早すぎれば抽出不足だし、遅すぎれば沸騰したエスプレッソがあふれ出してコンロを漆黒に染めあげる。他方、成功した場合は下の動画のようにいかにもエスプレッソ然としたクレマができた状態で落ち着く。
{{<tweet 1583667256201838592>}}
あとは温めておいたミルクを加えるなり、泡立てるなりする。ただ加えたならカフェラテ、泡立てればカプチーだ。泡立てるにはミルクフォーマーが必須だが実は100均でも売っている。僕はセリアで買った。エスプレッソとの比率は、3:7あたりが適当とされている。2カップ用のブリッカの抽出量はおおむね70〜80mlなので、必要なミルクの分量はおよそ160〜180ml前後となる。
そして、肝心の味はといえば……**これがめちゃくちゃ美味しい。** はっきり言って、表参道のキ◯ネカフェで飲んだラーメン並に高いカフェラテにも引けをとらない。[まあ、ラテアートの技量は認めてやらんでもないけど。](https://twitter.com/riq0h/status/1545632889194561536)こんな話はエスプレッソを王に戴く人々からすれば悪辣な僭称、権威の簒奪に他ならないだろうが、僕の王はハンドドリップのコーヒーなのでぶっちゃけこんなんで全然構わない。エセカプチーノ万歳。
![](/img/163.jpg)
## 後日談
アフォガードっていう素敵なスイーツにハマった。アイスクリームをエスプレッソに浸して食べるのだが、苦味と甘味のコントラストが絶妙すぎて1カップ分のハーゲンダッツが秒で消える。まぢで。
![](/img/164.jpg)

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title: "マンション自治会怪異退治係"
date: 2022-06-06T12:10:05+09:00
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tags: ["novel"]
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 昼下がりの静寂を突き破るがごとく打ち鳴らされたチャイムに、僕は結構な怒りを覚えつつ応じた。例えるなら「はあい」と「あ゛あ゛?」の中間をとったぐらいの感じだ。
 やや大げさにドアを開け放つと、そこにはいつか見たような顔つきの老人が立っていた。記憶は曖昧だがきっと同じ階の住民に違いない。瞬時に公共的な表情を取り繕った僕に、それを知ってか知らずか老人はぶっきらぼうに言った。
「あんたに決まったから」
「はい?」
「自治会の」
「ん?」
「アレの係にだよ」
「……と申しますと?」
 会話を三往復したのに有益な情報はてんで手に入らなかった。いまいち要領を得ないなと訝しんでいると、驚くべきことに当の老人はもっと呆れた顔をしていた。どうやら要領を得ていないのは僕の方だと考えているらしい。歪んだ形の口元からハア、とため息を漏らすのが聞こえた。
「あんた、ここ住んで何年目?」
「今年からなので……まあ、半年くらいですかね」
「ここに入った時の契約書覚えてる? 自治会に強制加入なんだけども」
「ええ、それはもう、はい」
 言われて初めて思い出したのは内緒だ。自治会という組織があれこれやっているのは知っているが、その一員に僕が数えられていたのは正直言って心外でしかない。こういうのってボランティア活動とかが好きな人たちの間で勝手に回っているものじゃないのか。
「昨日あったんだよ集会が。あんた出てなかったみたいだけど」
「昨日? ――まあ、色々忙しくて、はい」
 初耳だ。
「それであんたがアレの係に決まっちゃったんだよ。いなくてもくじ引きで決まっちゃうからさ、こういうのは。だっていないから抜かそうなんて言ったら、来てる人の方が損するだろ」
「ウーン、なるほど。それで、アレというのは?」
 これでまた話をそらされたらどうしたものかと思ったが、ついに老人は明確に回答をよこしてくれた。
「『怪異』の退治係。出るんだと、来週中に。会長のお告げだ」
「はあ?」
 もっとも、回答が明確だからといって僕の理解が及ぶかどうかは別問題なのだけれども。
***
 思えばこのマンションを内見した当日の時点で違和感はあった。当初の案内では十階建てと明記されていたのに、エレベータのボタンは実質的に八階までしかなかったのだ。なにしろ「八」に続く上階の二つのボタンは、黒のペンキかなにかでべったりと塗りつぶされていたのだから。
 内見に同行した不動産屋の営業マンは僕の怪訝な視線を感じとってか「昔はちゃんと十階あったんですよ」とまるで意味の通らないフォローをした。言い返そうとしたところちょうど内見予定の部屋がある八階に到着したので、その場はうやむやになってしまった。
 それになんといっても家賃が安かった。自治会に強制加入させられるとか、築年数がだいぶ経っていて設備が古いとかの欠点はあるにせよ、駅から徒歩十分でこの安さは東京では考えられない。
 結局、例の営業マンの「実を言うとここが埋まったら満室なんですよ」との殺し文句に押され、そのまま印鑑も捺してしまった。賃貸借契約書? 確かに読むように言われたがたぶん三行くらいしか読んでいない。これが自己責任かと言われれば、まあ自己責任かもしれない。
「いや、でもおかしくないっすか、退治係って」
 僕は動揺丸出しの震えた声で反論を絞り出した。
「普通、そういうのは委託の退治業者がやるでしょう? 僕が前住んでたところだって――」
 ハァーッという老人の深いため息に発言が遮られた。ついでに頭もボリボリかいて苛立たしさ倍増といった装いだった。
「あんた、東京出身?」
「あ、はい、そうですが」
「あのな、ここは埼玉なんだよ。埼玉にそんな上等なマンションがあるかよ。あんた、旅行とかする?」
「いえ、あまり」
「世間知らずな兄ちゃんだな。埼玉でもどこでも、駅から離れた場所にマンションなんてねえだろうがよ。頭が高いと出るからな。アレが」
「怪異がですか」
「ここは築四十七年でアレが出る前だったから建ってるけどな、お上も補助金は予算がどうとかぬかしやがって……だから自治会がやらなきゃいけねえんだ」
 気づけばひどく乱暴な言葉遣いになっている老人の態度はもはやさして気にならなかった。いよいよ現実味を帯びてきたというか、拒否権などなさそうな様子がありありと実感できたのだ。
「本当に僕が怪異を退治しなきゃいけないんですか」
 意味はないと知ってなおすがるように確認をとる僕への老人の返答はぞんざいだった。
「ああ。決まりだからな。どうしてもっていうんなら強制退去になっちまうが、そりゃ困るだろ」
 めちゃくちゃ困る。引っ越し費用で貯金をだいぶ切り崩したばかりだ。そもそも会社をクビになっていなければ東京を離れたりはしなかったが、少なくとも再就職するまではどこにも動けない。
「退治係は僕一人でやるんですか」
「いんや」
 老人は頭を振った。
「俺もそうだし、もう一人いる。やらざるをえねえだろ、だって」
「だって?」
「あんた知ってるだろ、ここはもともと十階建てだったんだぞ。俺もこの歳で引っ越しなんてやりたくねえよ」
 そうだった。僕たちの住む場所は、八階。黒のインクでべっとりとボタンを塗りつぶされた十階と九階のすぐ下の階だ。
***
 老人に誘われるまま招かれたのは彼の居室だった。表札には今時珍しく豪奢な書体で「斎藤」と書かれている。老人の苗字は斎藤と言うらしい。
「ほれ、入って。もう一人のやつは来てるから」
 ドアを開け放った先に踏み入れるとなんだか奇妙な感じがした。居室の間取りがほぼ同じでも家具や敷物が違うとかえって違和感が際立つ。入退去を経て一応の手入れが施されていた我が家と異なり、斎藤老人の根城はどこか侘びた雰囲気を醸し出していた。
「俺、建った頃から住んでんだ。昔はきれいだったのになあ……」
 独り言なのか言い訳なのか、小声にしてはよく通る彼の声に応えたのは僕ではなく、奥の居間にいる別の老人だった。
「いやいや俺んとこはもっと汚えよ」
 居間に続く引き戸が開いていたので玄関口の様子が見えたらしい。もう一人の老人はちゃぶ台の手前に座っていたが、上半身だけひねって僕に顔を向けていた。老人特有の相手を品定めする視線だ。斎藤老人との違いと言えば、背がやや低く、髪の毛はやや少なく、顔の形はやや整っている。
「あんたが田中さん?」
「はあ」
 どちらともつかない返事で認めた僕に老人は破顔して矢継ぎ早に質問を繰り出した。
「あんた若えな! こんなオンボロマンションに若いのが入ってくるなんて珍しいなあ。訳ありか? ん?」
「ええ、まあ、ちょっと」
「あんた――あんたはもうよくねえな。田中さんよ、こいつ、山崎ってんだ。俺と同じくらい長く住んでる」
「よろしくな! いやあ、若えのがいて助かるよ。好きにくつろいでくれ」
 いや、この部屋はあんたの家じゃないだろう、と心の中で突っ込みを入れたが斎藤老人の反応の方がわずかに早かった。
「なに勝手に言ってんだ、ここは俺の家だ。お前は茶でも入れろ」
「アホ言え、茶は主人が客に振る舞うもんだろ」
 やり返しつつも山崎老人はのろのろと立ち上がり、足腰の動きこそ緩慢だったが手慣れた様子でキッチンの棚を物色しはじめた。茶筒をすぐに取り出したところを見るに、二人の仲は相当に親密と推定できる。僕はあくまで斎藤老人の足並みに合わせて居間に腰を落ち着けた。
「ほら、茶だ」
 やがて緑茶の入った湯呑みが運ばれてきた。僕が「ありがとうございます」と言っておずおずとそれを受けとると、山崎老人はニヤッと笑って歯抜けの目立つ口元を晒した。緑茶からは普段馴染みのない鋭い苦味が感じられた。
「お前、濃いよこれ」
 斎藤老人の文句を無視して山崎老人は言った。
「それで、田中さん。あんたアレをやるのは初めてか?」
「ええ、そりゃもう」
「見たこともないんか?」
「テレビとかで再現映像なら……」
 怪異はどんなカメラにも写らないとされている。実際の姿を知っているのはそれこそ退治業者か、関係省庁の官僚か科学者か、さもなければ不運な人くらいだ。ただ、昔は着ぐるみや絵で模られていた怪異の再現映像がこのところは精巧なCGで作られるようになってきており、先に挙げた有識者曰く、市井の人々が抱く怪異像は現実のそれにかなり近づいているらしい。
 特にアメリカのは映画じみた迫力がある。まあ、"KAII"と称する映画のジャンルもそれはそれであるのだが。
「お二人は怪異を見たことがおありなんですか」
「おうよ」
「前に俺らも係が回ってきてな」
 二人の老人は自慢げに答えた。続けて、山崎老人の方が言った。「会長のやつビデオに残ってるだろ。見せてやれよ」彼は部屋の片隅に乱雑に積まれたビデオテープを顎で指し示した。
「昔、テレビ局が取材に来たんだよ」
「はあ」
 僕があやふやな態度に終始しているのをよそに斎藤老人はビデオテープの山から一本抜き取り、ひとりでに視聴の準備を進めた。テレビそのものは現代的な薄型液晶だったが、それを支えるテレビ台の中段に据え置かれたビデオデッキはいかにも鈍重な風情を湛えている。くすんだ銅色の筐体は本来の彩色なのかはたまた経年劣化の証なのかもはや区別がつかない。ビデオテープが差し込まれると、デッキはカチャカチャと騒がしい音を鳴らして起動した。
『家内安全、経理部長〜♪ 商売繁盛、わしゃ社長〜♪』
 画素の粗い映像とともに音割れ気味の音声が流れはじめる。老若男女の間延びした斉唱が終わったかと思えば、白背景に青色の文字がデカデカと表示された。
『TOSBAC オフィスコンピュータは東芝』
 続いて電子レンジのコマーシャルに入ったあたりで、急にデッキがキュルキュルと唸って映像が飛び飛びになった。斎藤老人がリモコンの「早送り」ボタンを押したのだ。ビデオにはシークバーがないため、目当ての箇所にたどり着くまで高速で進む映像を眺めていなければならない。冷蔵庫のコマーシャルが終わったところで老人は早送りを止めた。
『今、私たちは埼玉県のとあるマンションに来ています。昭和五十二年に初めて確認されてから早二年、国内ではこれでちょうど十件目となります一連の怪異現象は……』
 昔の男性キャスターに特有の神経質そうなナレーションと入れ替わりに、テレビカメラを通したマンションの姿が映された。映像の下部には『埼玉県内の新築高層マンション』とテロップが添えられている。粗い画素でも美しく映る純白の外壁は、もともとベージュ色の建物だと思い込んでいた僕に少なからず驚きを与えた。
 『生存者の証言』と題されたテロップの後にテレビが若い女性を映し出した。身なりは上品に整えられ、化粧もしているようだが、目の周りには隠しきれないクマが色濃く浮かんでいる。やがて女性はたどたどしく喋りはじめた。
『とても……恐ろしい体験をしました。大きくて……黒くて……腕ほどもある鉤爪で……こう』
 女性は言いながら腕をゆっくりと上に掲げ、それから斜めに振り下ろした。映像の方も腕に焦点を合わせて上下した。
『お隣の谷野さんを殺したんです。きっと、他の人たちも』
「何度見ても若えなあ、あのバアさんが」
 山崎老人がテレビを観ながら大きい声で言った。斎藤老人も「こん時はハタチかそこらだったからなあ」としみじみ頷いた。経緯を解さない僕に彼は「この人が自治会長だ」と教えてくれた。
「自治会長? 会長って……」
 僕がそのキーワードで思い出したのは斎藤老人に先ほど言われたことだった。
『――出るんだと、来週中に。会長のお告げだ』
「ああ。見ての通り、十階の生き残りなんだが――次にいつ『出る』のか、分かるようになっちまったんだ」
***
 **『――昭和五十四年、昭和六十一年、平成五年と過去に三回もの怪異現象に見舞われた、埼玉県与野市に佇む高層マンション。住民たちの熱烈な支持を受けて初の女性自治会長に就任した篠木芳子さんは、怪異退治業者に依存した昨今のマンション防衛体制を厳しく批判している。”前もって備えておけば、住民の力で十分に家を守れるはずなんです。”そう語る彼女は、昭和五十四年に起きた怪異現象の唯一の生存者でもある。……』**
 僕は斎藤老人が手渡してきた昔の週刊誌の切り抜きを黙読した。「この篠木芳子さんってのが自治会長だ」と彼は言った。
「で、今はここの二階に住んでる」
 山崎老人も口を挟んだ。
「怖くてたまんねえって、あん時は誰も彼も引っ越していったんだけどよ、まあ、滅多に起きるわけじゃねえし、起きる時はマンションならどこでも起きるってんで、今は満員御礼なわけよ。家賃安いしな、ここ」
「次にいつ『出る』か分かるというのは……」
「予知みたいなもんかね。今んとこ全部当ててる。九階の時はずいぶん助けられた――で、俺らはそん時にやったんだ」
「結局、しくじったんだけどな。昔と違ってみんな足腰が弱っちまったから」
「九階のはあんま死なんかっただけマシだろうよ」
 山崎老人はゲタゲタと独特な笑い声を出した。
 しかし、一度消滅させられた空間は更地にしても返ってこない。全国各地に点在する消滅区画は土地再開発の妨げになっていると以前にヤフーニュースで読んだことがある。
 テレビに映る昭和の風景はいつの間にかまたコマーシャルに変わっていたが、斎藤老人がリモコンで「一時停止」スイッチを押したので映像はたちどころに止まった。
「ま、そういうことだ田中さん。会長が来週中にアレが出るって言ったから自治会で集会をやって、あんたと俺らがくじ引きで選ばれた。上手くやればしばらく安泰。しくじれば死ぬか、八階が消えて仲良く引っ越しだ」
 彼はきっぱりそう言い切って湯呑みの中の緑茶を一気に飲み干した。
「やっぱ苦えぞこれ」
 そんな一か八かのギャンブルみたいなノリで言われても。
「あの、さっきからやるやるって言ってますけどね」
 僕は湯呑みを押しのけ、一時停止状態のビデオ映像を指差して抗議した。
「ビデオの人の――自治会長の証言によれば――ここの怪異は鉤爪を振り回して人を殺すんでしょう。そんなのを相手にどうやるって言うんです」
 さらに鉤爪攻撃を模した体で腕をブンブンと振って二人を威嚇する。
「まさか刺股で戦えだなんて言いませんよね」
「いつの時代の話だそりゃ。ちゃんと自治会の予算で県から武器を買っとるわ。あんただって毎月払ってるだろ、自治会費」
 危なっかしい足取りでよろよろと腰をあげた斎藤老人は、ややあって別の部屋から深緑色のケースを引きずって戻ってきた。「田中さん、悪いがもう一個持ってきてくれねえか」と言われたので僕も同じ作業を繰り返した。
 ひどく重たいそのケースにはかすれた白色の明朝体で『怪異現象対策用具 戸外持出厳禁』と印字されていた。すぐ横には埼玉県の県章もあしらわれている。斎藤老人が無造作にケースを開けると、そこには映画かゲームでしか見たことのないような、大きくて黒いショットガンと銃弾の小箱が収められていた。
「え? 本物? ……マジっすか?」
 僕は思わず素っ頓狂な声をあげた。
「見方によっちゃ猟銃で熊を撃つみたいなもんだ。狩りだよ狩り。俺らが狩る側だ。そう思えば気が楽だ」
「マンションの中でですか? 僕は銃なんて握ったこともない」
 山崎老人は無言でケースからショットガンを鷲掴みして取り出すと、抗議を続ける僕の胸にぐいと銃身を横にして押しつけてきた。反射的に銃の取っ手を持つと彼はまたニヤリと笑った。歯抜けの目立つ歯並びの他に、銀歯がいくつも鈍く光っているのが見えた。
「ほうら、これで握った。ぶっつけ本番だから、今週までに心の準備をしておけ、な」
 気圧されて曖昧な笑みを浮かべた僕は内心、心の準備ではなく夜逃げの準備を考えていた。
 真っ黒なショットガンのとてつもない重みがそのまま精神的な重荷と化したかのようだった。
***
 急用ができたとあからさまな嘘をついて外に出た足が向かった先は、駅構内の不動産屋だった。二階建ての建物からなるJR与野駅の駅舎は、周辺の高層マンションを併呑する形で縦や横に広がっている。
 埼玉とて駅前ならマンションがないわけではない。JR東日本こと東日本旅客鉄道株式会社の豊富な資金があればこそ、駅直結の高層マンションは退治業者を二十四時間常駐させられるのだ。その堅実な防衛体制は都内のタワーマンションに勝るとも劣らないと評されている。マンションと直結させるための拡張通路には複数のテナントが入っており、目の前の不動産屋はその一つに数えられる。
『与野 高層マンション 駅直結徒歩5分 1K 家賃15万2000円』
『赤羽 高層マンション 駅徒歩12分 1DK 退治業者委託契約済み 家賃12万5000円』
『武蔵小山 超高層マンション 駅徒歩10分 2LDK 退治業者常駐 家賃30万9800円〜』
 不動産屋のガラスに張り出された賃貸広告は無職男性の僕に無慈悲な現実を突きつけた。いや、たとえ働きだしたって給料次第では払えるかどうか判らない。これまで手に職をつけようとせず、事務や営業や接客業を転々として一貫性のないキャリアを築いてきたのが僕の人生だ。職歴やキャリアをしばしば「積む」と表現するが、僕の場合は全然積まれていない。ただ横にずらずらとだらしなく並んでいるだけだ。あたかも発展を諦めた地方の町並みのように。
 現状、僕は何者とも言えない。こんな半端者が就職先の多い東京近郊以外で暮らしていけるとは到底思えない。
 事実上の審査落ちを告げられた僕はまさしくとんぼ返りを余儀なくされた。やる気があろうがなかろうがホームレスになりたくなければ命を張るしかない。就職難の時代にろくな職能のない人間が、さらに住居まで失って社会復帰できる見込みは限りなくゼロに近い。
 ほどなくして僕はマンションのエレベータに乗りつけた。頻繁に目にしていたはずの黒く塗りつぶされた九階と十階のボタンが恨めしく見える。腹立ち紛れに九階のボタンを叩いてみると手にはしっかり押し込まれた感触が伝わってきたが、やはりそれが光って反応を示すことはない。エレベータは八階に着いた後、上には向かわず下階に降りていった。
 僕は諦めず階段に向かったが、間もなく無駄を悟った。九階に続く階段の手前は防火扉で完全に塞がれていた。しかも、隙間という隙間がダクトテープで目張りされている。防火扉の中央には風化した紙面に手書きの文字で『空間消滅につき立入禁止 与野パレスマンション自治会』と書かれてあった。消滅した空間とやらを目視する試みは頓挫した。
 二号室の我が家に帰る道すがら、僕は八五号室の斎藤老人の居室を再び訪ねた。県章が刻印された埼玉県お墨付きのショットガンケースを自室に引きずり入れ、枕元のタブレットからYoutubeアプリを起動した。検索窓に一文字ずつワードを入力する。
『ショットガン 撃ち方』
 検索結果の上から一スクロール分は知らないゲームの動画だったが、じきに目的に適うものが目に留まった。動画の中のたくましい男性がショットガンを見せつけながら英語で説明をしている。その銃とケースの中のショットガンは同じモデルに見えた。分厚い銃身のところどころにボコボコと穿たれた穴が特徴的だった。
 タブレットを立てかけて映像を流しっぱなしにしながら、僕は慎重にケースを開けてショットガンを取り出した。動画の中の男性が銃を構えたので、僕も真似をして構えた。
 男が二発発射した。ダン、ダンと銃声がタブレットのスピーカーを通して聞こえたが、僕は引き金を引かなかった。中に弾が入っている可能性がないとは言い切れないし、それを確かめる方法も僕には分からない。
 というか、仮に分かっていても絶対にやりたくない。ショットガンの購入費用は自治会の予算で賄えても、誤射による内装の修繕費用は自腹に違いないからだ。
 動画の男は次に銃身の上部を指差した。やたら分厚く見えたショットガンの銃身の一部はどうやら折りたたまれた肩当てだったらしい。手順に従うと僕のも同じ形状に展開された。
 男がさらに一発、二発と撃った。僕の英検三級相当の微妙なヒアリング能力によると、肩当ての効力で反動が抑えられるというようなことを言っているらしかった。肩当ての意味を考えたらむしろそれ以外には考えられないが、なにひとつ断定できないのが僕の性分だ。
 見様見真似で肩当ての末端を腕と胸部の中間にあてがい、改めて構えた。銃口の先に怪異を想定する。大きくて、黒くて、腕ほどの鉤爪があるそいつは、果たしてショットガンの一撃で死んでくれるだろうか? 退治業者は一体どんな装備で戦っているのだろうか。
 気になった僕はショットガンをあたかも神具を供える司祭の厳かさでケースに収めてから、立てかけたタブレットを手に取って検索した。
『怪異 業者 youtuber』
 こっちは検索結果が豊富だった。一人や二人ではない。怪異の退治業者を自称するYoutuberが大勢いた。僕はその中で動画再生数がもっとも多いものを選んでタップした。軽快なBGMとおしゃれなロゴアニメを経て、登録者数十万人の人気Youtuberが威勢よく語りだした。
『ぶっちゃけねえ、慣れなんだけどね。やつらの動きってロくてワンパだし。いやマジで。VRゲームより余裕。たぶん、林業とか重機扱う人とかの方が死んでると思う』
 画面の中の人気Youtuberは軽妙な口調とは裏腹に首元や肩幅がかなりがっしりしていた。退治業者の社員ともなれば体力測定なんかもあるのだろうか。
『えーっと、これ前の動画のコメ返しね。……退治業者の人はどんな装備で戦ってるんですか、あ、はい。これはねえ、自衛隊や警察の特殊部隊とだいたい同じです。っていうか、会社が同じものを買い付けてます。退治業者になろうとする人に元自衛官とかが多いからね。そっちに合わせた方が色々と楽ってこと。俺もそうだったし』
 僕の視線はおのずと埼玉県の県章が光る深緑のケースに向いた。だとすると、このショットガンも軍隊や特殊部隊が扱う代物かもしれない。先の動画の冒頭では七発も弾が入ると言っていた。僕の記憶が正しければ、狩猟に使うショットガンには二発しか入らない。
『次のコメは……っと、えー、……仕事中に怪異に殺された人を見たことはありますか、あ〜、これね、あると言えばある。その人、先輩だったんだけどやつらにやられて大怪我しちゃってさあ、他の隊員が一緒に離脱して病院に運んだんだけど、結局ダメだったんだよね。そんで、それを聞いて……俺もなんかダメになっちゃった。……だから今はYoutuberで〜す。ウェーイ』
 途中で意図せず落ち込んだ威勢を取り戻すかのように釣りあがった声音を聞いて、僕の心臓はギュッと縮こまった。
 観ない方が良かったかも。僕はタブレットをタップしてYoutubeアプリを閉じた。
 今日は本来であれば職務経歴書を作り込む予定だったが、もうなにをする気も起こらず漫然と横になるしかなかった。
***
 横にはなったが眠れたとは言っていない。普段でも気になった動画を追ってつい夜更ししてしまうことはあったが、これほど緊迫感に駆られて観た試しはさすがにない。奇怪な髪型や格好をしたYoutuberたちが語る、怪異に関するありとあらゆる情報を僕は貪るように吸収した。昼過ぎになってようやく疲労困憊の末に眠っても、起きた途端に別の動画を漁った。
 斎藤老人の家も再度訪ねた。少なくとも実戦経験者であろうから、なにか作戦があるのではないかと期待したのだ。ところが斎藤老人と、なぜかまた一緒にいた山崎老人の言う作戦は至極単純なものだった。
「んなもん、アレが出たら鉄砲構えてズドンと撃っていきゃええだろうが」
 結局、次に二人と顔を合わせたのは日曜日が過ぎ、月曜日を迎えた昼間だった。ただでさえ寝不足から回復すべく昼寝をしていた最中だったので、無闇矢鱈とチャイムをバカスカ鳴らす客人に僕は遠慮なく「あ゛あ゛?」の方で応じた。
 今回はドアを開けるまでもなく二人の老人が交互に叫んでいるのが聞こえた。
「出るぞ! 早く準備せえ!」
 それの意味するところを理解した僕は直ちに踵を返した――ショットガンケースから銃を取り出す――銃弾の入った小箱も手に取ったが――これ、このまま持っておいた方がいいのか? ――ていうか服、どうしよう――色々考えた末に、どういうわけかワイシャツと就活用のスーツパンツを着込んでいた。銃弾は箱のまま小脇に抱え込んでいる。ショットガンの方は、片手でぶら下げるようにして握った。
 準備を終えてようやくドアを開けると、老人たちは僕の服装とは対極的に登山趣味の人が着るような、前面に大量のポケットを備えたアウトドアベストを身に着けていた。
「あんた、田中さんなあ、なんだそのカッコは。書類仕事しに行くんじゃねえんだぞ」
 斎藤老人の呆れぶりは過去最高記録を更新したらしかった。ひしゃげた口元から盛大にため息が吐き出された。
「あっ、はい、そうですね、どうしましょう」
 当然の叱咤に慌てて返事をしたが、どうもこうもアウトドア用の服装なんて僕は持っていない。
「もう時間がねえ。こいつが弾ぁ入る銃でよかったな」
 山崎老人はそう言うと前面のポケットに収められた銃弾を一つずつ指先でつまみ、実に鮮やかな手さばきで銃身の底面の穴にそれらを滑り込ませていった。その動作の反復は、僕がYoutubeで調べた装弾数の上限できっちり止まった。斎藤老人も同様だった。
「見てねえであんたも弾込めろ。赤い方が頭だ――おい、ボタンは押しっぱなしにしろ」
 彼の指図に急かされて僕も小脇に抱えた銃弾ケースを開封し、弾を込めはじめた。日本の、埼玉の、与野の古びたマンションの廊下で、二人の老人と一人の無職が軍用ショットガンに銃弾を装填している。こんなシュールな光景の動画がツイッターで流れてきたらまずリツイートして、いいねも押して、ついでに引用リツイートもしたかもしれない。しかし自分が当事者だとまったく笑えない。
 着替えたばかりのワイシャツは六月半ばの気候も相まって早くも湿り気を帯びていた。
「手に持つところの、なんて言ったかな、まあいいや、そこ押してちょっとずらせ」
 これも昨日の動画で観た通りの説明だった。フォアグリップの底部のスイッチを押しながらスライドすると、ポンプアクション式からセミオート式に切り替わる。つまり、引き金を都度引くだけで弾が撃てる。
「そうするとセミオートになるんですよ、ね?」
 せめて一つでも挽回しようと博識めいた口ぶりで話すと、山崎老人はゲタゲタと笑った。
「なんだ勉強したのか? 真面目じゃねえか――」
 次の瞬間――廊下の電灯が落ちて周辺が急に薄暗くなった――いや違う、昼間に電灯は灯かない。
 光が消えたのだ。
「来たな」
 斎藤老人が肩当てを広げてショットガンを構えた。老体ゆえ両脚の動きこそ不自然に微振動していたものの、上半身の姿勢は頼もしそうに見えた。
「そういえば他の住民の方々はどうしてるんです」
「とっくに避難したよ。あんた回覧板見てねえのかい」
 山崎老人がショットガンを構えながら言った。
 確かに回覧板は読んでいない。いつも機械的に隣に回すだけだった。老人と無職が廊下でショットガンをぶっ放すから逃げろとでも書いてあったのだろうか。あるいは、怪異とかいう化け物が手当り次第に人間を殺して回るから逃げろ、とでも?
「集会でも言ってただろうが。次からはちゃんと出ろ」
「次――あるんですかね、次って――」
 その時だった。薄暗い廊下の奥にある、階段に続く曲がり角からぬっと現れたのは。
 ビデオの中の会長が語った通りの、目測でゆうに二メートルはあろうかという巨躯。薄暗闇でも明瞭に見分けがつく漆黒の塊。そして、腕ほどもある長さの鋭利な鉤爪。まさに怪異と呼ぶにふさわしい異形が姿を露わにした。
 それは人型を模していたが、顔にあたる部分には目も口も鼻もなかった。
 足音もなく、ゆっくりと近づいてくる。
「あんた、横一列に立て、そこだ。構えろ」
 斎藤老人は怪異から視線をそらさずに一旦構えを解いて僕を強引に並ばせた。正直な話、そうでもされなければ一歩も動けそうになかった。銃を持っているこちらが圧倒的に有利なはずなのに、全身の筋肉がストライキを起こしたかのようだった。
「二、一、で撃つぞ。いいな」
 怪異との距離はまだ廊下一本分離れている。僕は震える腕を懸命に強制労働させてショットガンを構えた。昨日のうちに何度も練習した動作だ。銃口の先を怪異の胸部に向けた。
「二〜〜ッ!」
 斎藤老人がやおら大きい声で叫んだ。
「一〜〜ッ!」
 一発の銃声がフライング気味に鳴った後、二発の銃声が響いた。直後、僕は反動でその場にひっくり返った。肩当てから伝わる激しい振動に耐えきれなかったらしい。天井の電灯が派手な音をたてて割れ、辺りに飛び散った。
 怪異は――薄暗闇の中でもがいて視線を元に戻すと、怪異の肩と脇腹に大きな凹みができているのが分かった。しかし、歩調に変化は認められない。うめき声の一つすら聞こえてこない。
「チッ、タクちゃん、もう一回だ」
 斎藤老人はそう叫んで銃口をやや上に修正した。今度はカウントダウンはなかった。
 二丁のショットガンが連なって吠えた。怪異の首元と胸に風穴が空き――そして、跡形もなく雲散霧消した。
 え、終わり? 今ので――
「おい! 寝転がってねえで銃構えろ! 次が来るぞ!」
 間髪を入れず、八〇七号室のドアから別の怪異がぬるりと現れた。だが、ドアを開けた形跡はない。どこか違う空間を通ってすり抜けてきたのだ。
 再び二発の銃声。現れたばかりの怪異は即座に立ち消えた。
「後ろだ!」
 山崎老人の怒号に呼応して、斎藤老人の身体が振動しながらじわじわと百八十度回転した。
 僕はといえば、すっかり横になって固まったまま事の成り行きを眺めていた。なんだか目の前で繰り広げられている熾烈な戦闘がまるで他人事のように感じられた。この調子で二人の老人に任せたら僕はなにもしなくても助かるんじゃないか、と、そんな考えに支配されていたのだった。
「そろそろ弾切れだ」
 五体目の怪異を倒したところで斎藤老人が言った。
「なあ、あんた、そろそろ働いてくれねえと追い詰められちまうぞ」
「あっ、いえ、その、僕はもういいんで、銃、使います?」
 突然呼ばれたので、僕はしどろもどろに答えてショットガンを二人に差し出した。斎藤老人はついにため息を吐かなかったが、代わりに僕を鋭く睨みつけた。
「じゃあ弾込めやるか? 引き金を引く方がまだ簡単だろうがよ」
「あの、僕、できればやめたいんですが」
 僕は必死だった。眼前の敵に立ち向かうのではなく、味方に仕事を丸投げする方に全力を傾けていた。
「人生をか? 馬鹿言ってんじゃねえぞ。階段はとっくに防火扉で塞がれちまってる。俺らがコレを片づけねえ限りは開けちゃならねえんだ」
 苛立ちが頂点に達したと見える斎藤老人がとうとう銃の構えを解いて、僕の胸ぐらを掴みかけた、その時だった。
「トモやん危ねえ!」
 山崎老人が銃身の側面で斎藤老人を押しのけた。足腰の弱い二人の老人は、いともたやすく床に倒れ込んだ。
 直後、ギャギャギャという嫌な金属音が耳を擘き――僕の家の――八〇二号室の――ドアに三本の太い爪痕が刻み込まれた。背後から忍び寄っていた怪異がいつの間にか鉤爪の届く範囲まで接近していたのだ。初手を仕損じた怪異はわずかに体勢を崩したが、すぐに上半身を反転させて鉤爪を振り上げた。
 一発の銃声。
 寝転がった状態で山崎老人が最後の銃弾を放った。頭部にクリーンヒットしたおかげか怪異は一撃で速やかに霧消した。
「ア〜〜〜〜だだだ」
 斎藤老人が床で苦しそうにうめいた。
「さっきので腰をやっちまった」
 山崎老人も似た状況らしく、床に散らばった銃弾を伏せたままかき集めていた。
「俺も脚が動かねえ」
 二人の老人は実質的に戦闘能力を失った。いくら実戦経験者でも寝ながらでは軍用ショットガンの反動は御しきれない。かといって、確実に当たる距離まで接近を許したらいずれジリ貧に陥ってしまう。
 これって、僕のせいか? 僕のせいなのか? いやいや、おかしい話じゃないか。くじ引きで押しつけられた役割をこなせなかったからって負い目を感じるなんて。そもそも就活だって本当は自分の意志じゃないだろとか思ってるくらいなのに。やりたい仕事? あるわけないだろ。なんでよりによってこんな理不尽な仕打ちを受けなくちゃいけないんだ。次の人生がタワマン生まれじゃなかったらへその緒で自分の首を締めて死んでやる。
「おい、田中さんよ」
 腰をやられたトモやんこと斎藤老人が口を開いたので、僕は肩をビクっと震わせた。おそるおそる彼に顔を向けると、汗でびっしょりと濡れた皺の深い額が見えた。薄暗闇に目が慣れていたのか、至近距離だと互いの表情がはっきりと判った。
 彼はいかにも不慣れそうに笑顔を取り繕って言った。
「あんた、その銃の必殺技知りてえか? 知りてえだろ?」
『フランキ・スパス12の肩当てには一風変わった機能があります。それがこのフック状の突起です。腕にフックを引っかけて銃を構えると――』
「――片手でも撃てるって寸法よ」
 息も絶え絶えに語る斎藤老人直伝の『必殺技』は、動画で昨日聞きかじった内容と同じだった。そうでなければきっと手早く装着できなかっただろう。腕に食い込まんばかりに固定されたショットガンは、先ほどとはうってかわって手や足のように制御可能な身体の一部に感じられた。
「こうすりゃ銃は絶対にブレねえ。あんたが自分で投げ捨てなければな」
「頼む、俺らの代わりに戦ってくれ」
 新たな怪異が間近に迫っていた。
***
 階下の防火扉を開け放ったのは用意された銃弾の半数近くを消耗した後だった。倒した怪異の数が両手に収まりきらなくなったところで廊下が明るくなったので、僕たちは一様に生還の喜びを噛み締めた。しかし、防火扉のすぐそばに詰めかけていた大勢の住民たちは違った。
「二階の」
「篠木さんが」
「自治会長が」
「怪異になった」
「何人も殺された」
「上に逃げたら下に戻れなくなった」
「とりあえず一番上の七階に逃げてきた」
 異口同音に各階住民たちががなりたてる事態の概要は凄惨を極めた。
 自治会長の篠木芳子さんは、怪異になった。
 廊下で恒例の井戸端会議中にいきなり怪異に変化した彼女――もはやそう呼ぶべきか定かではないが――は、数秒前まで仲良くお喋りしていたお隣の酒井さんをさっそく串刺しにせしめた。ついでに向かいに住む寺川さんも切り刻んだ。
 悲鳴と騒音を聞いて駆けつけた住民たちは地獄絵図を目の当たりにして叫び声をあげ、その声がさらに他の住民を呼び、上へ下への本能的な逃避行を招いた。上に登った方と、もともと上階に住んでいた住民は袋小路に追い込まれた格好となった。
「二階は篠木さんがうろついてるから行けねえ。どうする」
 住民の一人が叫んだ。
「三階まで階段で下りて、窓から飛び降りるというのは?」
 僕は住民たちに訊ねた。怪我はするかもしれないが命が助かる公算は大きい。だが、皆の反応は薄かった。
「そこから外を見てごらんよ」
 別の住民が階段の踊り場に備えつけられた小窓を指差した。僕は介抱していた斎藤老人を住民たちに任せ、小窓を覗いた。
 外がない。
 なんとも間抜けな言い草だがそうとしか言い表しようがなかった。通常、大雨だろうがなんだろうが、開いた窓の向こう側が灰色一色に塗りつぶされているなどということは起こりえない。興味本位で小窓に手を伸ばしかけると、住民たちの大声によって制止させられた。
「やめろっ、手を出すな」
「一体なにが?」
「俺、三一二号室の真田っつうんだが、お袋が窓開けて、首出してよ、それで……」
 真田と名乗る中年男性の口上は徐々にか細く弱々しくなっていった。
「死んじゃったのよ、真田さんのお母さん。首から先がなくなっちゃって」
 隣に立っていた年配の女性が後を引き取った。
「ってことは、ここいらは消えちまったようなもんだな」
 ぎっくり腰の痛みに顔を歪める斎藤老人が結論を出した。
「アレは出てねえようだが、上と下で挟まれてるから……いずれは……」
 山崎老人もぼそぼそと言った。
 つまり、二階の空間が完全に消滅してしまったら、たとえ三階から八階が無事でもどのみち生き残れない。いつか僕たちは餓死してしまう。一度消えた空間が復活したなんてニュースには見覚えがない。
 僕は片手でぶら下げていたショットガンを両手で強く握り直した。住民たちの人だかりに割って入り、通り抜けて下階へと足を進めた。
「ちょっと、なにしに行くの」
 住民の一人が背後から訊ねてきたので、振り返って答えた。
「僕、自治会の怪異退治係になっちゃったんですよ」

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title: "メールサーバ再考"
date: 2023-05-05T21:38:38+09:00
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以前に[こういう話](https://riq0h.jp/2021/04/12/173405/)があった。かいつまむとVPSの運用を放棄したために他のメールサーバを探さなければいけなくなったのだ。僕はすでに独自ドメインのメールアドレスを12年以上運用しており、今さらGmailなどのフリーメールに鞍替えする余地は残されていない。そこで、前回の時点で最終的に選んだホスティングサービスが[mailbox.org](https://mailbox.org/en/)というところだった。
このサービスの嬉しさは価格が圧倒的に安いことだ。わずか月額1ユーロでIMAP/POPアクセス可能、かつSPF/DKIM/DMARC対応。要するにSparkやThunderbirdといったメールクライアントから利用できて、重要なセキュリティ関連の認証にも対応している。とりわけ後者は必要不可欠だ。グレーの公衆電話でインターネットをしていた時代ならいざ知らず、今時これらに未対応のメールは即刻迷惑メールボックス送りにされても文句は言えない。
逆にオンラインストレージだとか、ウェブ会議ツールだとか、オフィススイートみたいな代物は一切いらない。どれも間に合っている。業務で使う分はどのみち会社が用意する。そういうわけだから僕の望みは、メールサーバをホスティングしてくれて、メールの中身を読んだり個人情報を詐取したりせず、先に挙げた機能に対応していて、安ければそれでいい。mailbox.orgは条件を完全に満たしていたし、僕は一生これで構わないと思っていた。
ところがmailbox.orgが先週告げてきた”オファー”ときたら、まるで僕に逆張りを仕掛けたような内容だった。文面はやたら丁寧でもとどのつまり **「便利な機能を使わせてやるから月額3ユーロのプランに移行しろ」** という話だ。僕にとっては意味もなく3倍の値上げを呑まされるのに等しい。
よって、僕はメールサーバの移行先を再考しなければいけなくなった。結果的には最良のホスティングサービスと出会えたが(結論だけ知りたい人は末尾にスクロールすればよい)、せっかくなので検討した他の選択肢についても時系列順に記しておこうと思う。
## VPSに戻る
この選択肢は頭に浮かんで1分以内に消えた。そもそもなぜ以前にVPSごとメールサーバの運用を放棄したのかといえば、普通にめちゃくちゃ面倒くさいからだ。インフラ知識を身に着けたい学生や初学者にはむしろうってつけの取り組みでも、いざ知見が固まって長期の運用フェーズに入ると様々なコストが重くのしかかってくる。数年ならともかく10年単位となると相当に気が滅入る。
実際、僕もいくつか自業自得のインシデントを発生させてしまったことがあり、一度はメールサーバを乗っ取られて踏み台に使われた苦い経験を持っている。しかもこの時は間が悪く、引っ越し直後で自宅にインターネット回線が引かれていなかったため、問題の把握に一日単位での遅れが生じた。
当然、その間に僕のメールサーバを経由して送られたスパムメールの量は3桁単位では済まない。あと少し対処が遅れていたら各種のデーターベースに迷惑ドメインとして登録されていたかもしれない。こういう黒歴史も若いうちは話の種になるが、今となってはさすがに勘弁してほしい。
ちなみに、1分足らずとはいえ頭に浮かんだ理由は「分散型SNSのインスタンスを建てるついでに……」とかいう発想がよぎったせいだ。冷静に考えなくてもオーバーワークすぎる。
## [Apple One](https://www.apple.com/jp/apple-one/)
僕はApple TV+に加入している。全作オリジナルという気合の入ったコンセプトが売りの動画配信サービスで、作品のクオリティも言うだけあって非常に素晴らしい。Apple曰く、月額900円のこのサービスに300円足すと「Apple One」なる統合プランに入れると言う。そこには独自ドメインのメールホスティングにオンラインストレージが付属したiCloud+と、Apple Musicまでもが含まれている。
ということは、契約中のSpotify Premiumを解約して移行すれば差し引きで得をする計算になる。それはとてもいい話だ。Linuxユーザの僕はおそらくApple Oneのサービス群を中途半端にしか利用できないと思われるが、それでも用は足せるだろうしApple Musicには[Cider](https://cider.sh)なる優れたサードパーティクライントも存在している。これはFFに教えてもらった情報だが、加入を決意する後押しになった。
しかし、そうは問屋が卸さなかった。Apple TVApple製のセットトップボックスからApple Oneに加入できないのである。現に加入可能な導線が用意されているのに、進めようとすると接続エラーが発生する。この件についてのAppleサポートの回答は「Apple OneはiPhoneかiPadかMacからの加入を前提としている」というものだった。**じゃあなんでApple TVから加入できそうな作りになってるんだ。**
そもそも僕の認識ではハードウェアの仕様がどうあれ「こっちでApple IDを操作して加入させますね」で片付くような話と考えていたが、これもどうやらサポートの権限では無理らしい。Apple OneがiPhone/iPad/Macユーザに限られた特別な優待プランというのならそれはそれで納得するけども、その中にApple TV+やApple Musicをホームシアターシステムで視聴するために作られたであろうApple TVが含まれていないのは理屈に合わない印象を受ける。
ともあれ、この件は「ゴールデンウィーク明けに上役に確認してみる」との形で一旦終了した。だが、後でiCloud+の詳細を調べてみると、独自ドメインもiCloud側のドメイン@icloud.comのエイリアスとして動作する奇妙な実態や、[こんな報告](https://tohitsu.co.jp/lab/icloud-custom-domain-dkim/)が目についてすっかり加入する気が失せてしまった。Ciderの出来も優れてはいるものの、やはりSpotifyの公式クライアントには及ばない。
結局、額面上の利益と引き換えに我慢しなければいけない点が多くなりそうだ。もっとも、AppleからすればLinuxユーザの分際でサービスを満足に使おうと企む方がよほどおかしいのであって、どうせ反り合わないと薄々解っていて挑んだ僕も大概悪かった。
## [Proton](https://proton.me)
Protonはメールホスティングに加え、オンラインストレージとカレンダー、VPNも提供している統合型のサービスだ。メール単体なら月額約5ユーロ、全部まとまった最上位プランは月額約12ユーロで利用できる。評判がすこぶる良いので品質は優れているのだろうが、いくらなんでも価格が高すぎる。
僕はすでにMullvad VPNに月額5ユーロ払っているので、ここに移行すると差し引き約7ユーロでLinuxユーザにも優しいメールとVPNとオンラインストレージとカレンダーが手に入る計算になるが、先に述べた通り後ろ二つはマジで要らない。かといってメール単体のプランも高いことには変わりない。
そりゃあいざとなれば月額12ユーロくらい払えるけども、ただでさえ僕は各社の動画配信サービスを網羅的に契約している。なに一つ打ち切るつもりはない。これ以上のサブスクはできれば控えておきたいのが心情だ。Netflixはどんどん値上げしているし、Disney+も値上げするらしいし、噂ではHBO Maxが日本に来るとの話もある。これらはホスティングサービスと違って替えがきかないゆえ値上げを呑まない選択肢がない。
そこへいくと、Protonがいかに秀でたサービスだとしても月額約5ユーロ、12ユーロなどという価格帯はなかなかに受け入れがたい。今後、ライフスタイルが変化すれば検討の余地はなくもないが、現状では手が出ない高級サービスであると判断した。
## [Tutanota](https://tutanota.com)
セキュリティを理由に専用クライアントを強制されるのが好かなくて候補から外したものの、殊ここに至っては選択肢に戻さざるをえない。なんといっても月額1ユーロは魅力的だ。が、実際に専用クライアントを試してみるとかなり険しい出来だった。たとえめちゃくちゃ優れていてもそれしか使えないのは嫌なのに、出来も芳しくないとなるといよいよ厳しい。
昨年末になんとか対応したようだが以前はメールの一括インポートすらできなかったらしく、どうやらTutanotaは他の機能を後回しにしてでもセキュリティを最優先する開発方針を採っていると見られる。となると、今は気づいていなくとも移行後になって「あれがない」、「これがない」となる懸念が拭えず、文句ばかり垂れて誠に申し訳ないが僕の需要を満たしきれない可能性が高い。
フリーメールアドレスが欲しい人には悪くないのかもしれないが、それならそれでProtonの無料プランの方がずっと豪華な機能を提供している。残念ながらTutanotaは高度なセキュリティの代償に競争力を犠牲にした質素すぎるサービスとの見立てが僕の中では有力だ。
## [Zoho Mail](https://www.zoho.com/jp/mail/)
結論を述べるとこれが完璧だった。1ヶ月あたり120円でIMAP/POPアクセスが使えて、かつSPF/DKIM/DMARCにも対応している。なにも足さず、なにも引かない。まさに求めていたサービスだ。1996年創業で日本法人も設置されているからちょっとやそっとでは潰れないだろう。国内にデータセンターが置かれているおかげかmailbox.orgより送受信も速い。
登録後のナビゲートもよくできている。サービスによっては独自ドメインの適用に必要なDNSレコードの情報があちこちに散らばっていたり、いまいち要領を得ない謎文章と格闘させられたりする場合が少なくないが、Zoho Mailではウィザード形式で示される情報をコピペしていくだけで大半の設定が済んでしまった。
![](/img/192.png)
同様に、ドキュメント類も充実している。IMAP経由のアクセスで認証エラーを吐くので試しにググってみたところ、すぐに期待に沿った公式ドキュメントが[出てきた。](https://www.zoho.com/jp/mail/help/adminconsole/two-factor-authentication.html#alink5) **しかも機械翻訳じゃないちゃんとした日本語だ。** 恥ずかしながら聞き覚えのない企業だったが、全社員にハグをして回りたいくらい好きになれそうだ。
今ではメールのインポートも済ませて、いつも通りに使えている。ひょっとすると実は類似のサービスが他にもゴロゴロしているのでは、と疑って調べ直したがこれほどの好条件を備えた事業者は他には見当たらなかった。ProtonやTutanotaほどセキュリティ重視ではないとはいえ、僕にとってはそう不足も感じない。したがって、今回はZoho Mailがメールサーバの新たな定住先に決まった。
## まとめ
独自ドメインのメールアドレスは長く使うと自分の住所以上の価値を持ちはじめる。SNSアカウントはもちろん、現実の住所でさえも永続的ではないが――僕はここ10年間のうちに2回引っ越しをしている――メールアドレスは意図せずには変わらない。イーロン・マスクの都合に振り回されるTwitterアカウントや、現実の都合に左右される現実の住所と違って、独自ドメインのメールアドレスは所有者が意図しない限り永遠だ。
しかしその永続性もメールサーバの安定稼働なくしては意義を持ちえず、いかなる経済的状況に晒されようとも確実に維持できるサーバはより望ましい。ある意味でメールとは自身をインターネット上に存在させるための、最小限かつもっとも価値中立的なインフラと言えるのだ。
そのように考えると、貴重なゴールデンウィークを丸一日潰してメールサーバを探したのは決して無駄ではなかったと自分に言い聞かせることができる。メールサーバ最高!(再考とかけている)

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title: "ライムとコロナビールと量子論的ぬか漬け"
date: 2021-08-31T23:04:10+09:00
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tags: ["novel"]
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誠に遅まきながら、森見登美彦著「夜は短し歩けよ乙女」を読んだ。同著者の作品といえば「四畳半神話大系」に触れたきりだったが、折よくKindle Unlimitedの対象作品に含まれていたので手に取った次第である。
ひとまとめに言うと、とにかく酒が飲みたくなる話だった。表題作の章にやたらと酒を飲むシーンが出てくるのだ。続く後の章に酒はろくすっぽ登場しないのに、僕はずっとそのことばかりに気を取られていた。同著者の鬱陶しくも美しい筆致で描かれたそれは、下戸の僕には存在しないはずの器官をいたく刺激せしめた。
下戸には二つの種別が存在する。そもそも酒の味を好まず飲まない者と、酒の味が判るがアルコールに耐性のない者だ。前者については致し方ない。栄養価に優れた食品を忌み嫌うことには健康上の懸念があるが、酒は元来飲まずに済むなら極力飲まない方が望ましい代物である。
しかしまったく遺憾ながら僕は後者の側に属する。酒の味が判っても、アルコールが血中に溶け込んだ次の瞬間には激しく酔いが回る。酔いが回ると、どういうわけか途端に酒がまずくなる。おそらくあまりにも耐性がないゆえ脳みそが「これ以上飲むな」と警告を発しているのだろう。
したがって、僕が酒を楽しむには酔いが回る前に飲みきれる分量でなくてはならず、かつ飲みやすい味わいで、なによりアルコール度数が十分に低くなくてはならない。これらの制約を守ると、まずもってウイスキーなどの蒸留酒は真っ先に選択肢から消える。以前はコーラで10:1くらいまで阿呆みたいに薄めて飲んでいた時期もあったが、ウイスキーの妙味が判らなくなる上に酔いだけは覿面に回るという始末の悪さだった。他方、ストレートで飲むにしてはワインや日本酒は度数が高すぎる。結局、ビールしか飲める酒はないとの結論に至った。
とはいえビールはビールで別の問題がある。言わずと知れた銘酒、ヱビスビールやプレミアム・モルツは確かにうまい。だが、僕がこれらをうまいと感じるのはせいぜい三百五十ml缶の半分までだ。この手の本格ビールは、なまじ味わい深いせいで飲む速度がどうしても遅くなってしまう。そしてひとたび酔いが回ると、日本が誇る上質なビールもたちまち頭痛促進剤に早変わりする。
では、いわゆる発泡酒や第三のビールはどうか。チューハイやリキュール類はどうか。あれらは、単純に味が悪い。近年は人工甘味料を使わない製品が増えてきて幾分マシにはなってきているが、それでも本物のビールには遠く及ばない。一口のウイスキーで赤面する僕でもその程度のことは判る。
そこでいよいよ選ばれたるはメキシコビールの代表「コロナビール」である。コロナビールは、薄味でとても飲みやすい。それでいながら決してまがいものではない。分量が適切で、飲みやすく、アルコール度数が低い。僕に課された制約を満たす唯一の酒だ。同系統のビールにハイネケンやバドワイザーがあるが、こっちは微妙に合わなかった。
さてずいぶんと前置きが長くなったが、ここからが酒を飲んだ日の日記となる。しかし日記といっても、僕の手にあの琥珀色に燦然と輝く液体を湛えたガラス瓶はまだ握られていない。実際に買いに行くのは明日か明後日の話だ。つまり、本エントリは日記と予定表を兼ねた体裁をとる。今日は未来の出来事を書き、いつの日かその通りに行動する。
ということは、アクシデントに備えて条件別にルートを用意しておかなければならないな。
## $\{x}$ルート
九月$\{x}$日。天気は快晴。僕は今日こそ酒を飲む決意を固め、買い出しにかこつけてコロナビールを手に取る算段をつけた。この酒は普段通っているスーパーでいともたやすく入手できる。できるが、コロナビールを嗜む連中はみんな知っていることがある。**こいつを完全に楽しむには、ライムが必須だ。** ライムを備えぬコロナビールは、具のないカレーと同じくらいには侘しい。
しかし僕の行きつけのスーパーはライムを取り扱っていない。そりゃあ、きゅうりやピーマンと比べたら買い求める人は確実に少ない。バイヤーも様々な熟慮の末にライムを省く――コロナビールを売っていながらライムを省く――という極めて厳しい決断を下したのだと思う。僕はあえてそれを責めない。十数分ほど足を延ばせばたどり着く商店街の青果店で、ライムが常時販売されていることを知っているからだ。
「暦上は秋でも……」などと言うものの、さすがに先人の経験則が積み重なっているだけのことはある。照りつける太陽や夏同然の気温とは裏腹に、確かな秋の風が肌身に感じられる。蝉はもう鳴いていない。通りの最奥に屹立するイオン帝国の威容をよそに、この街の商店街は今日も一定の賑わいを見せていた。
僕は件の青果店に入場すると、定位置に置かれたライムをむんずと掴み取った。レジの途中にある冷蔵庫から特製のぬか漬け140円をせしめ、顔なじみの女店主との会話を適当にやり過ごして会計を済ませた。いつもなら季節の果物も買っていくが、今回はライムだけが目当てだ。ぬか漬けは……ちょうど切らしていた。執筆時点における冷蔵庫内のぬか漬け残量から推測するに、たぶんそうなる。
目的のライムを手中に収めた僕は来た道を戻り、行きつけのスーパーで必要な食料品を買い揃えた。そしてそう、忘れてはならない。今日はコロナビールを買いに来た。こいつが欠品になっているところは見た試しがない。意気揚々と買い出し用リュックに荷物を詰め、帰宅の途についた。
## $\{y}$ルート
九月$\{y}$日。天気は土砂降りの雨。こんな日でも酒を飲むと決めた以上は行かなければならぬ。どのみち買い出しに赴かなければ食料の備蓄が心許ない。僕はポンチョに傘という季節感もへったくれもない出で立ちで、夏のものとも秋のものともしれない雨雲を仰ぎ見つつ水の散弾に立ち向かっていった。
生ぬるい雨粒の猛攻を傘で受け止めながら、はたと思い出したのはライムの重要性である。コロナビールを嗜む連中はみんな知っていることがある。**こいつを完全に楽しむには、ライムが必須だ。** ライムを備えぬコロナビールは、薬味のないそうめんと同じくらいには侘しい。
僕は傘を差す技能についぞ恵まれなかった人間ゆえ、ライムを取り扱う青果店にたどり着いた時にはポンチョのありがたみをすっかり知るところとなった。繊維の表面に水をたっぷり蓄えたまま青果店に入場すると、辺りに雨の欠片を振りまいて意中の品を掴み取った。来た道を濡れて戻らなければならないことを考えると憂鬱な気分になる。顔なじみの女店主はポンチョとマスクで皮膚をあらかた覆いつくした僕を見て人物の特定を早々に諦めたのか、一切話しかけてくることはなかった。
外に出ると、ますます雨足は強まっていた。これはもう、わざわざ行きつけのスーパーにこだわる方がかえって損に思えてくる。通りの奥にあるイオンを頼れば、およそ同等の食料品が手に入るだろう。そこから家に直帰すれば、雨に濡れる時間をいくらか短縮できるはずだ。
かくして僕はイオンで所定の買い物を済ませた。慣れていない店だと目当ての品物同士を結ぶ最短経路が判りづらい。無駄に時間を食ってしまったが、それでもコロナビールは手に入った。どんな店でもこいつは必ず売っている。マシンガンの一斉掃射のごとく無慈悲にばらまかれていた雨も予想に反してすっかり落ち着き、外はあたかも停戦協定が締結された戦場のような静けさだった。僕は傘を閉じ、ポツポツと天から気まぐれに零れ落ちる雨粒を受け入れて帰った。
## $\{x+y}$ルート
帰宅後、なぜか唐突に眠くなったので小一時間ほどの昼寝をした。目覚めは良い方だったが、どうにも奇妙な気分にとらわれていた。窓から外を覗くと真夏の残滓たる太陽が、残滓というにはあまりにも溌剌と輝いて見える。はて? 帰路では雨足こそだいぶ衰えていたものの、依然として空は分厚い雨雲で覆われていた。一時間足らずでここまですっかり晴れるなんてことがあり得るのだろうか。
窓から身を乗り出してコンクリート舗装された路面を見やると、さらに不可解な光景が目に入った。どこもかしこもカラッと乾いていてまったく湿り気がない。通常、どんなに急速に晴れたとしても道路から水分が抜けきるまでには相応の時間経過を要するはずだ。
そこで僕は記憶違いに気がついた。一体、なにを考えていたのか。もともと天気は晴れていたではないか。秋の風を肌身に感じた覚えがある。雨が降りしきる中を歩いた覚えも同様にあるが、そっちは昼寝がもたらしたイタズラに違いない。きっと夢の内容と現実の記憶を混同したのだろう。ほら、見たまえ――僕はクローゼットに掛かっているポンチョに触れた。大雨から帰還したというのなら、こんな場所に放置するわけがない。もちろん、水滴は一つもへばりついていない。
おおかた得心がいったところでにわかに塩気の利いた食べ物をつまみたくなった僕は、自室から出て冷蔵庫を漁った。そうだ、こんな時のためにぬか漬けを買っているのではないか。あそこの青果店で売られている特製のぬか漬けはとてもよくできている。市販の半端に甘さを残した漬物類とは違って、しっかり容赦なくしょっぱい――
――おかしいな。どういうわけか、冷蔵庫内をくまなく探してもぬか漬けが見当たらない。ちょうど切らしていたので、間違いなくライムのついでに買ったはずなのだが。ひょっとすると、あまりにも雨足が強すぎたせいで気が逸り、買い忘れてしまったか? ……いや、今日はずっと快晴だったとさっき納得したばかりではないか。
どうも奇妙な気分だ。得体の知れない焦燥感が全身を駆け巡った。殊ここに至っては、酒を飲むしかあるまい。酔ってしまえばこんな些末な不安は消えてなくなる。帰宅してすぐ冷蔵庫に入れておいたおかげで、ライムもコロナビールも十分に冷えている。僕はさっそくペティナイフでライムを輪切りにした。コロナビールのクラウンコルクを栓抜きで剥ぎ取ると、そのままライムを瓶の中に突っ込んだ。これこそが正式な作法なのだ。
いよいよ僕は瓶を片手で持ち上げ、勢いをつけて呷った。ほどよい炭酸とマイルドな苦味が一瞬で舌を通り過ぎ、たちどころに喉を潤した。琥珀色の液体が燦然と輝きながらガラス瓶の中で波を打つ。僕が瓶の傾斜を垂直に戻して小休止の構えをとると波は止んだ。ライムの鮮烈な酸味がコロナビールの軽快な味わいと折り重なって、この上ない調和をもたらしている。僕はすぐに次の波を作った。
寄せては返し、幾度となく波を打っていると、やがて瓶の中は空になった。この勢いで飲まなければ僕はビールを美味しく飲むことができない。飲み干して間もなく、予想通りに強烈な酔いが回ってきた。身体がカァッと熱くなる。こうなると後はもう、ただベッドに臥して眠るばかりである。わざわざ鏡を見るまでもなく、自分の顔が真っ赤に染まっている様子がありありと想像できた。
とはいえ、やはり塩気の利いた食べ物が欲しかった。アルコールを摂取したために尚更強くそう感じる。切り分けたライムの残りを冷蔵庫にしまうついでに、万が一の見落としがないか朦朧とした視野で確認すると、果たしてぬか漬けはそこにあった。よりによって冷蔵庫の真ん中の段の、一番よく見える場所に袋ごと鎮座していた。
**あるではないか!** さっき冷蔵庫内を探索した際に一向に見つからなかったのは一体どういうわけなんだ。こんな目立つ場所に自ら置いておきながら、この有様。まるで酒を飲む前から既に酔っていたみたいではないか。苦笑しつつぬか漬けの袋をつまもうとすると、なぜか指先は袋を突き抜けて虚空を掻いた。
不可思議な現象に理解が及ばぬまま再び指先で袋をつまもうとするも、やはり突き抜ける。業を煮やした僕は手のひらを広げて袋全体を掴み取ろうとした。しかし、手はおのずとじゃんけんの「グー」の形をとり、ぬか漬けの袋が手中に収められることは何度繰り返してもなかった。あるはずのぬか漬けの袋に一切触れられないのだ。
これは――まずいな。久しぶりに酒を飲んだせいで悪酔いしてしまったかもしれない。判断力の低下した頭脳でなんとかこの現実的な結論に達したが、ぼやけた視界は未だにぬか漬けの袋を捉えていた。眼前のぬか漬けは実在するのかしないのか。いずれにせよ、今すぐぬか漬けが食べられないことに変わりはなさそうだった。
僕は諦めて冷蔵庫を閉じた。横になって酔いが覚めた頃にはなにもかもはっきりしているだろう。千鳥足で自室へ戻りベッドに倒れ込むと、同時に強烈な眠気が襲ってきた。ただちに眠ってしまいたかったが、僕に残された理性的な部分が睡魔に抗って自説を主張しはじめた。
そいつの言い分によると、僕はいつの間にか分岐の境界に足を踏み入れていたらしい。そこでは僕の取りえた二つの選択の結果が互いに重なりあって存在している。晴れの日に買い物をした分岐、雨の日に買い物をした分岐。ちゃんとぬか漬けを買った分岐、うっかりぬか漬けを買い忘れた分岐。ライムとコロナビールは取りえた選択の両方で買っていたが、ぬか漬けはどうやらそうではなかったようだ。だから、どちらともつかない存在としてしか冷蔵庫にいられなかった。あのぬか漬けは、いわば量子論的なぬか漬けということになる……。
はあ、なにが理性的だ。こんなSFじみた話があってたまるか。夢に違いない。そうだ。昼寝をした後の出来事そのものが夢であって、現実の僕は今もなおグースカと惰眠を貪っているのだ。ここで寝てしまえば、きっと現実で目が覚める。しかしそれにしても、どうせ夢に見るなら恒星間宇宙船で銀河の果てを旅する話とかが良かったな。
よりによって、空想のスケールがライムとコロナビールと、食うに食えない量子論的ぬか漬けとは……僕は等身大の失意に打ちひしがれたまま、深い眠りに落ちた。
## まとめ
こうして実際に書き起こしてみると、予想よりもはるかに多くのルートが存在しうることが判った。まさかアルファベットを半分も消費するとは思わなかった。当初はなんとなく格好つけて$\{x}$を先頭に据えるつもりだったが、念のために$\{a}$から順に進めておいて本当に良かった。僕は命名規則にうるさいたちなので、$\{xyz}$を使い果たした後に他のアルファベットをしれっと使うような真似はしたくない。
既に書かれている通り、いくつかのルートではコロナビールが買えずやむを得なくハイネケンで妥協したり、逆にライムの方が売り切れで魅力半減のコロナビールをちびちび飲んでいたりしている。これは誠に残念な結末と言わざるを得ない。こうした事態を防ぐためにも物品の入手可能先は余分に把握しておくべきだろう。

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title: "レスバ欲に抗う"
date: 2022-09-10T07:30:01+09:00
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tags: ["diary", "essay"]
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赤の他人に議論を持ちかけてまともに成立することはまずありえない。理想形の議論を完遂させるには相手との信頼関係が必要不可欠だからだ。あけすけな言い方をすれば、友好を損ねたくない後ろめたさこそが議論を成り立たせていると言える。むろん、赤の他人相手にそんな余地は存在しない。
ましてや議論をふっかけてくる赤の他人はただの赤の他人でさえない。初っ端から意見が対立している。つまり敵だ。エネミーだ。好感度はゼロじゃない。マイナスからのスタートだ。そんな相手と取っ組み合ってなにかが得られると勘違いしてしまったのがインターネットの罪悪であり、レスバ戦士どもの夢の跡というわけだ。
かくいう僕もかつてはレスバ戦士だった。まだ恐竜が駅前を闊歩していた太古の昔、ツイッターでいけすかない輩にリプライを送りつけてはレスバを仕掛けていた。主な論敵は右翼、歴史修正主義者、自己責任論者などだったが、そこは本質とは無関係だ。僕はとにかく持論の正しさを認めさせたかった。時には炎上したこともある。頻繁にレスバしていると外野からも「そういうやつ」だと見なされるのか、逆に絡まれる機会も増えた。
それで本当に「正しさ」を思い知らせることができたのか? いいや、できなかった。そもそも議論自体がろくすっぽ成立していなかった。初めに言ったように対立状態の赤の他人は好感度がマイナススタートだ。嫌っている相手にわざわざ礼節はわきまえない。隙あらば揚げ足はとるし、完全に言い負かされていても屁理屈をこねて粘る。最悪、都合が悪くなれば黙殺する。
当然、レスバ慣れしてくるにつれてこっちもこっちで対策を講じはじめる。揚げ足をとられる前にとる。粘られる前に言質をとっておく。あえて隙を作って黙殺を防ぐ。こうして様々な手段で論敵の退路を塞ぎ、とうとう相手が感情を爆発させたあたりで今度は逆に無視を決め込む。これこそが唯一の勝利条件。インターネットの文化では先にキレた方が敗北扱いになる。僕は着実に勝利を重ねた。
ところが、レスバ戦士の旗を下ろす日は突然にやってきた。ある日、いつもの調子で右翼とレスバしていると、なぜか普段とは雰囲気が違うことに気がついた。なんというか――真っ当だった。まさに理想形の議論が成立していた。そして驚くべきことにあっさりと――その相手は僕の主張を認めたのだ。単に面倒くさくなって諦めた、という解釈もできるかもしれない。だが事実、彼は最後まで紳士だった。
そこで僕はどんな気持ちになったか? ――明確な勝利を手にして喜んだ? 違う。**残念な気持ちになったのだ。とても残念で、消化不良で、かえってイラついた。なぜ、もっと醜く這いずり回らない? その汚泥にまみれた背中を突き刺してやるのが楽しいのに。** ……そうした僕の本性を自ら悟った刹那、相手がどこの誰であろうとレスバは金輪際やめようと固く心に誓ったのであった。僕は議論に強かったのではない。ただ気が狂っているだけだった。
同時に、別の側面にも目がいった。一部のアルファアカウントたちはなぜああも扇情的な言い回しを好むのだろうか? **それは、相手を妥協させないためである。** 和睦を壊し、止揚を妨げ、不変にして永遠の争いを画策する……。これこそが彼ら彼女らの人気の秘訣であり、インフルエンスの源泉なのだ。執拗な論敵がそこらじゅうにいると思い込ませられるからこそ、彼ら彼女はより長らく依存される。
前回のエントリの件で僕はずいぶんフラストレーションを溜め込んでいたので、迂闊にも「黒人エルフ」でツイート検索をしてしまった。既に理論武装を完成させた僕にとっては脇の甘すぎるツイートが次々と、たちどころに流れこんできた。今、この不愉快な連中を言論の刃でえぐるのはあまりにも容易い。だって、表現の自由――だろ? みんな賢しげにそう言ってるじゃないか――。
だが、結局やめておいた。どうせ無益な行いだ。そんなのはインターネットに脳を灼かれた暇人に任せておけばいい。僕はスマートフォンをしばし脇に置いて、余暇を「ロード・オブ・ザ・リング」と「ホビット」シリーズの復習に充てた。観るのはそれぞれ3回目と2回目だが、原作の改変が多い脚本でも未だに学びは多い。あっという間に一週間近くが経過していた。
驕ってはならない。赤の他人の考えはそう変えられるものではない。もし変えられなくても一刺しできれば構わないと思いはじめているのなら、インターネット地獄の窯の蓋はもう開いている。
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title: "レトロで誠実な有線イヤホン アシダ音響「EA-HF1」"
date: 2022-03-28T09:00:33+09:00
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tags: ["tech"]
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![](/img/103.jpg)
とうとう手持ちの無線イヤホンが故障してしまったので、この機会に有線に出戻りすることにした。僕は自宅に据え置きのオーディオ環境があるゆえイヤホンはもともと滅多に使わない。使うのは椅子に座るのも面倒な時か、それこそ外出時くらいだ。となると厄介なのが、無線イヤホンのバッテリー問題である。日常的に使う人ならこまめに充電するのだろうが、僕のような使い方だとその習慣がなかなか根付かない。いざ使おうとするたびに充電切れ寸前だったことは一度や二度ではない。
そこそこ値が張る無線イヤホンには何十時間も連続稼働できるものもあるらしい。しかし無線イヤホンの最大のメリットたる取り回しの良さよりも、僕にとっては最低限の音質を得るために余計な投資をしなければならないことの方が億劫であった。なにしろただ無線というだけでバッテリーや通信部分に開発コストが奪われているのだ。おまけにLDACでさえCD音質のデータをロスレス転送するまでには至っていない。
幸い、僕のスマートフォンにはイヤホンジャックが搭載されているし、当面は有線イヤホンに戻ってみても悪くない。コロナ禍のご時世では週に何度使うかも判らないので予算は極力抑えていこう――とまあ、そんな感じで購入したのが、タイトルにもある通りアシダ音響の[「EA-HF1」](https://ashidavox.com/items/61288f23f604a95cce2bbe01)である。このイヤホンは老舗音響メーカーが数年前に突如リリースした民生用製品で、驚異的なコストパフォーマンスを誇ることで知られている。価格は送料を含めてもせいぜい6000円台と、まさに僕の需要を満たす手頃さだった。
![](/img/104.jpg)
ハウジング部分の特徴的なデザインは自社のスピーカー[「6P-HF1」](https://radio.erx.jp/ashidavox%E3%80%8C6p-hf1%E3%80%8D16cm-%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC-%E3%82%92/)をモチーフにしているらしく、そのレトロチックな外観は僕のような出戻り組には単なる意匠以上の文脈を感じさせる。あたかもアナクロ趣味を突き進む者を祝福してくれているかのようだ。スピーカーを模しているだけあり、ドライバ口径はシングルで15mmとかなりアグレッシヴな構成。他方、さすがに実売6000円台ではリケーブル対応まではやりきれなかったのか有線ならではの断線リスクは拭えない。
しかしアナクロ趣味を嗜むならそういった要素も前向きに捉えてやらなければならぬ、ということでタバラットの[姫路レザー製イヤホンクリップ](https://www.amazon.co.jp/gp/product/B079TKQVDS)を取り付けてやった。こうすることでEA-HF1の持つレトロ感がますます際立ち、いかにも趣に満ちた風情を演出できる。これは常時付けておくタイプのものなのでクリップをどこかに失くす心配はない。しまう時はクリップを開けてコードを内側に巻き取り、再び閉じるだけだ。
![](/img/105.jpg)
肝心の出音はと言えば、大口径のシングルドライバ構成から想像されうる通り、かなり低音域に振った音作りをしている。低音域から中音域に渡ってやや過剰ともとれる濃密さがあり、対照的に高音域はさりげない。ただ、作り手のオーディオエンジニアが良い仕事をしているおかげか、いわゆる「ドンシャリ系」としばしば軽蔑気味に形容される下品さは感じない。むしろSennheiserのHD500番台やHD600番台に通ずるウォーム感が多分に含まれており、とても聴き疲れしにくい。いつもより音量をワンステップ上げると独特のアタック感も出てくる。
本製品が送料込み6000円台のイヤホンであることを踏まえると、総合的な音質は相当に高いと言える。この価格帯はあるいは1万円台でさえも低音重視というと品性に欠け、高音重視となればキンキンシャリシャリしているだけ、原音重視などとのたまった暁にはただ退屈な音を鳴らす代物ばかりだが、本製品は限られたリソースの中で心地のよい音をうまく出しきれているように感じる。スペックシートありきでゴリ押しするオーディオメーカーが多いこのご時世には珍しい誠実さである。ことによっては3倍の価格のイヤホンとも良い勝負ができそうだ。
反面、意図的に出音が調整されている関係上、やはりモニター的な用途には不向きと評せざるをえない。手持ちのリスニング機材がこれ一つだけだと対象となる音楽のニュアンスを誤解してしまう恐れが否めない。したがって、本製品は唯一のイヤホンではなくいくつかのうちの一つとして所有する方が望ましい。なお、付属のイヤーピースは全種類試すことを強くおすすめする。しっかり耳に合っていないと露骨に出音が悪くなる。僕はLサイズでなければダメだった。
最後に、ちょっとした実験でスマートフォンへの直挿しではなくメインのオーディオ環境に本製品を接続してみた。D/Aコンバータはエルサウンド「EDAC-3 SPECIAL」、ヘッドフォンアンプはLuxman「P-1u」を使用している。
![](/img/106.jpg)
さすがにこの規模のヘッドフォンアンプに繋ぐと抵抗値が低すぎてホワイトノイズが激しい。音量は一番小さい目盛りに合わせてもまだ大きすぎるほどだった。常用は厳しいと思われる。とはいえ、やや過剰だった低音域がよく整理され、高音域もさらに伸びるようになった。本製品の持ち味の聴き疲れのしにくさは健在なのでノイズを除けば正常進化していると見ていいだろう。有線イヤホンならどんな製品であれこういう遊びができるが無線だとこうはいかない。
次の外出の際には実際に本製品を携帯して有線イヤホンの取り回しを再確認するつもりだ。良い感じにハマれば今時分はかえってファッショナブルに見えるかもしれない。

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title: "「一文が長い」と言われてもな"
date: 2021-05-25T10:50:31+09:00
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tags: ["poem"]
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[ロゴーン](http://logoon.org/)っていうWebサービスがある。言わずと知れた文体診断サイトで、ここに自分の文章をぶちこむと項目別にスコアリングしてくれる。項目は四つあり「文章の読みやすさ」、「文章の硬さ」、「文章の表現力」、「文章の個性」がそれぞれ評価される。文体が似ている作家をリストアップしてくれる機能もあるが、そっちはよく判らない。
このうち「文章の読みやすさ」以外は問題にならない。僕は「文章の硬さ」を記事の内容に応じて意識的にコントロールしている。だから硬すぎるのも柔らかすぎるのも自己演出の一つに入ると思っている。具体的には、記事のポエム力が高くなるほど文体を柔らかくしている。「っていう」とか「じゃないか」みたいな言い回しは無計画に出力されているのではなくて、あえて意図的にしつらえた装飾というわけだ。
こうした表現の違いがページビューに繋がるかはまだ検証できていないが、書き分けを試みるのは単純に面白い。くそ真面目な論文調の記事を読み終わった読者が、気まぐれで別の記事に遷移したらまるで雰囲気の異なる文章に出くわして面食らう、みたいな体験をぜひとも与えてやりたい。
後半二つの「表現力」、「個性」についてはあえて言及するまでもなかろう。長文を書いてB未満を取ることの方が難しい。「同じ単語を使い回すのはダサい」とか「助詞が連続するとダサい」といった文章に対する基本的な美意識が身についていればBから落ちる恐れはほぼない。今のところ僕の記事はだいたいどれもA評価を得ている。
問題は「文章の読みやすさ」なのだ。ロゴーンのやつが言うには、僕の文章はいつも「一文が長い」らしい。そのせいでここだけE評価を下されている。確かに、自覚はなくもない。僕は文章の書き方を小説から学んだせいか、一文の組み立てが冗長になりすぎるきらいがある。腰を据えて読む小説ではこの特徴は必ずしも失点にはならない。僕が主戦場にしているSFでは逆に歓迎されることもある。一文が長く、やや説明的なくらいの方が物語の重厚さを感じやすいからだ。
だが、ブログではどうだろう。ブログは小説とは接し方が違う。ただでさえ娯楽に満ち足りた今、プロの作家でさえ自分の文章を読ませるのに心を砕いている。どこの馬の骨とも知れない素人の文などちょっとでも引っかかりを感じれば即座にブラウザバックされて終わりに違いない。
僕がブログを書く目的は小説以外でも執筆と向き合う習慣を維持するためなので、じゃんじゃかアクセス数を稼ぐモチベーションはない。ある意味では、僕自身が僕の名において衆目に晒せる文章を書けたと納得できた時点で目的は達成されている。しかし、しかしだ。機械相手とはいえ「お前の文章は読みづらい」と評価されて、すごすごと引き下がっていられる性分ではない。
さしあたっては僕が普段読んでいるブログを解析にかけてみた。どんな場合でも先達を参考にする手法は有効だ。まず有名な書評ブログ[「基本読書」の記事](https://huyukiitoichi.hatenadiary.jp/entry/2021/05/09/080000)を診断した。文章の読みやすさはC。評価は「適切」。ムム、やはりそうなのか。確かに基本読書の書評は頭に入りやすい。全体の長さも過不足なく、対象の本の魅力を上手に引き出している。僕は自分の独自解釈満載な書評スタイルをとても気に入ってはいるが、本の魅力より自分自身が前に出すぎている平たく言えば出しゃばりと感じてもいる。書評は奥が深い。
次は過激な論調で知られる[「テストステ論」の記事](https://www.akiradeveloper.com/post/kyogaku-gomi/)から引用。文章の読みやすさはB。評価は「読みやすい」。納得の評価だ。著者の持つマッチョイズム、新自由主義的な価値観にはまったく賛同できないが、文章そのものは好ましいと思うので読んでいる。僕は、小説以外の長文は文章ありきで選り好みしている。たとえどんな危険思想じみた内容であっても文章が好きなら読む。我ながらめちゃくちゃな選定基準だが、結果的に色々な世界観に接することができて案外悪くはない。
最後に **「人殺しの顔をしろ」** という象徴的なミームを生み出したブロガー、黄金頭さんのブログ[「関内関外日記」の記事](https://goldhead.hatenablog.com/entry/2019/04/11/001336)より引用。[「人殺しの顔をしろ」](https://goldhead.hatenablog.com/entry/20101212/p1)そのものの方を挙げてもよかったが、投稿年が2010年と古く、さすがに十年以上も前の文章を引っ張ってきてあれこれ言うのはフェアではない気がしたので、僕のお気に入りの記事の中から比較的新しいものを選んだ。文章の読みやすさはA。評価は「とても読みやすい」。すばらしい。
彼の一見して高揚感にあふれた語調と、その脇からまろびでる破滅への恐怖心は真似しようとしてできるものではない。それはあたかも摩耗したゴムを彷彿させる。まだいくらでも伸び縮みするように見えて、切れる時は一瞬だ。そういう運命を線香花火に例える輩もいるが、死の間際だからこそ一層綺麗に光り輝くなんていうのは美化された妄想に過ぎない。ほとんどの人間は社会の要請に応じて必死に伸び縮みを繰り返し、耐えきれなくなったらブチンとちぎれて死ぬ。ちぎれた際の音がいくらか大きければ多少は慰みになる。そういう世界だ。
さて、こうして三つのブログの文体を診断してみたが、どうやらロゴーンの野郎の言い分には一理あるらしい。僕が読みやすいと思った記事の評価はいずれも高い。ということはやはり僕の文章は一文が長く、読みづらい。そいつを認めねばならない。認めたところで、試しに一文の長さを意識して長文を書いた。実を言うとこのエントリがそうだ。いま文章を読んでいるあんたはさしずめテスターってことになる。*もし本エントリが気に入ったら高評価ボタンを、できればチャンネル登録もよろしく!*
なんてな。そういうクソみたいな仕組みに縛られずに済んで助かってるよ。ちなみに、本エントリを解析にかけたらC評価だった。意識しただけの甲斐はあったな。次からも気をつけていこう。

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title: "三日会わざれば誰もが狂人予備軍"
date: 2021-07-19T21:09:22+09:00
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tags: ["diary","essay"]
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時勢柄も影響しているのかもしれないが、ここのところの世間の変速具合には目を見張るものがある。
もし世間が円運動を行っているとしたら、その速度変化にうまく追従できなくなった者から順に振り落とされ、だんだんと壁の隅あたりに溜まっていくことになる。やがてそれらが層をなして縦に横に体積を増していけば、いずれ世間と衝突する。衝突した時、運の悪い構成要素がばらばらの肉塊となって一帯は鮮血で染め上げられる。円運動は止まらない。
インターネット上のある個人を想定する。具体的にどこの誰かは些末な問題だが、もともと風変わりな性格や価値観を持つ。さりとて異常者の類ではない。あくまで個性の一つに過ぎない。しかしながら、ある日を境に狂人と化す。
一方、ある専業主婦や年金暮らしの老人がいる。時折、ブログやSNSなどにささやかな日常を綴っている。主張らしい主張はなく、普段の筆致は平穏そのもの。むしろやや退屈なほど。しかしながら、やはりある日を境に狂人と化す。どちらの例も、今は枚挙に暇がない。
というと、あたかも狂人への変化はスイッチを切り替えるがごとく一遍に行われているかのようだが、実際には違うのかもしれない。たとえ長い期間を経て徐々に侵されていたとしても、一定の水準に達するまで狂人然とした出力が認められなければ、周囲にその差は感知できない。
われわれLinuxコミュニティの間で著名なサイトの一つに[「ライブCDの部屋」](http://simosnet.com/livecdroom/)というところがある。LinuxディストリビューションのライブCDインストールせずにOSの使用感をテストできるを配布しているサイトだが、アクセスしてみれば判るとおりWebページの多くの領域が反ワクチン陰謀論で占められている。
僕の知る限り、このサイトは開設間もない頃から微妙に政治的主張をほのめかす節があったものの、ある時期までは十分に配布所としての体面を保っていたように思う。当時はページ上部にちょろっとバナーが表示されていた程度に過ぎなかったから、みんな適当にスルーしつつ便利に利用させてもらっていたのではないか。なんせまだ日本語情報が乏しい頃だったので、複数のディストリのCDイメージを取得できる配布所の価値は相応に大きかったのだ。
ところが開設して数年も経つと、ただでさえ右派寄りだった主張に民族差別的な文脈が混ざるようになり、ささやかなバナーでは飽き足らなくなったのか、珍妙な政治スローガンまでページ上に羅列されはじめた。曰く、「マスコミはアメリカの手先、中国の手先、朝鮮の手先、テレビは洗脳ボックス」とのことらしい。
タイトルロゴの横には「韓流追放」と題した差別的な標語も併置され、この時点で既に中立的な配布所としての地位はほぼ失われていたと見える。かくいう僕も同時期に閲覧をやめた覚えがある。政治的主張は個人の勝手でも民族差別はさすがに看過できないと判断したためだ。
それから5年余の年月が流れ、現在はご覧の有様である。当該Webサイトの管理者がいつから狂人になったと言えるのかは議論の余地が残るが、以前はレイシストであっても配布所の利便性を大きく損なうほど長々と主張をまくし立てたりはしていなかった。彼とてLinuxへの情熱は本物だったに違いない。僕からすれば完全にアウトだが、これまでは彼なりに最低限の分別を働かせていたのだろう。どうやらコロナウイルスの流行がとうとう彼を本物の狂人に仕立て上げてしまったらしい。[Web Archiveで当該のURLを時系列順に比較してみると、](http://web-old.archive.org/web/20200523164520/http://simosnet.com/livecdroom/)コロナ後から陰謀論的文章のウエイトが加速度的に増していく様子が見て取れる。
他にも例を挙げる。Rustの職業プログラマーが書いている[「テストステ論」](https://www.akiradeveloper.com/)というブログがある。かつて日立製作所の退職エントリでバズったブロガー、といえばまだ記憶に残っている人が少なくないはずだ。あれ以降、彼は様々な苦労や研鑽を重ねたこともあって、今ではRustのコーディングで飯が食える身分に至っている。Rustで仕事ができる企業はとても希少なので、きっとブログで記している以上に努力したのだと思う。
このブログの主は中学入試、大手企業を相手取った就活、自身の理想をかけた再就職と、人生の間で相当に難易度の高い競争を何度も乗り越えてきたせいか、基本的な論調として能力の低い人間をあからさまに下に見ている。特に中学入試の話を繰り返し持ち出してくるところから彼の思い入れの深さがうかがえる。
一方、僕はといえば競争らしい競争は大学受験のみで、それ以前はすべて公立。新卒で就職しなかったので通常の就活も経験していない。転職はいずれも雰囲気でこなしてきた。立派な給料やキャリアより自由時間の方がずっと欲しい。僕と彼はいわば対極に位置する人間だ。だからこそ言い分を読む価値があると感じていた。
事実、普段はイケイケドンドンの彼がひとたび不調に陥ると、途端に更新記事も希死念慮を孕ませた抑うつ気味な内容ばかりになるのはなかなか考えさせられるものがあった。僕はあまりイケイケにならない代わりに気分がひどく盛り下がることも滅多にない。
とまあ、こんな具合に僕は僕のやり方で彼のブログを楽しんでいたのだが、例によって今やご覧の有様だ。ウィットに富んでいた文章はすっかり綻び、無闇な攻撃性だけが旺盛になってしまっている。こうなってはもはや楽しむ余地はない。無念。
最後に例を挙げるならば、やはりインターネット上ではなく現実の人間関係がふさわしいのだろう。実家に帰ったら両親が陰謀論者になっていたとか、夫が嫁が、兄が弟が、久しぶりに会った友人が……というやつである。しかしながら幸いにも、僕はこういったケースを体験談として語る術を持たずに済んでいる。今のところ周囲の人間関係にそのような前兆は見られないからだ。
とはいえ、決して油断しているわけではない。僕は特定の相手と接するたびにワクチンなど陰謀論と馴染みのある話題を振って、密かに抜き打ち検査を行っている。もし何かに誘導されていそうな気配を感じとったら、即座に助言を申し出る。処置は早ければ早いほど望ましい。今日は正気でも明日は狂気かもしれないのだから。
「男子、三日会わざれば刮目して見よ」とはよく知られたことわざだが、今の世の中はさしずめ「三日会わざれば誰もが狂人予備軍」と言えよう。見慣れたWebサイトがいつの間にか陰謀論の宣伝場所になり、インテリ気取りの著名人が陰謀論の広告塔に早変わりする。気の置けない友人が陰謀論の宣教師と化し、情報の取捨選択を教育してくれたはずの親が陰謀論をがなりたてる壊れたレコーダーに落ちぶれる。今時分、狂人は神出鬼没でありながらも極めて身近な存在になってしまった。
いささか陳腐な締めくくりだが、してみるといよいよ僕自身の正気も気にかかってくる。他所様をえらそうにあれこれ品評する輩こそが、その実、一番の気狂いだったなどというのは、フィクションでも現実でもよくありそうな話だ。実際、自己の正気だけは自分には判らない。やむを得ず、明日も円運動に加わる。

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title: "不眠との戦いシーズン4"
date: 2022-08-25T13:17:48+09:00
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tags: ["diary"]
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オンラインゲームが原因で不眠をこじらせたのは大きく区分すればこれで四度目だ。一度目は中学生の頃、二度目は大学受験中、三度目は五年くらい前だった。運動習慣と良質な食生活を確立してなお眠れなくなるのだからオンラインゲームというやつはまことに恐ろしい。
おそらく、単に就寝時間が遅くなること以上に交感なんとか神経みたいなのがいたずらに刺激されすぎて、一種の興奮状態に陥っているのだと思われる。結果、今日こそは早く床に就くと決意を固め、事実それを成し遂げたとしても、翌朝現れるのは褥にかじりついたまま陽光を恨む無力な自分である。「明けない夜はない」と言うが、僕が眠るまでは明けないでほしい。
数多ある空虚な時間の中でも眠れぬまま寝床に横たわっている時ほど辛く苦しいものはない。一時が二時になり、二時が三時を過ぎる頃にはやにわにカラスが騒ぎだし、道路ではなにがしかの車かバイクが排気音を唸らせる。そこから徐々に空が明るみはじめ、結局われわれは不本意に徹夜を余儀なくされる。深夜、ああでもないこうでもないと過剰に働いた脳味噌はその日中、驚くほど機能しない。
五年前の僕はこうした事態を解決するためにしばしば睡眠薬を用いた。地道に生活習慣を改善するよりも、オンラインゲームのプレイ時間を抑制するよりも、確実に眠りに導いてくれる眠剤は極めて合理的なソリューションに違いなかった。名をマイスリーと言う。
マイスリーは実にすごい薬だった。たとえオンラインゲームで奇声をあげた直後の午前三時半だろうと、ガリッとひと粒かじればたちまち世界が曖昧になっていく。寝床で悠長にTwitterを開いて、眼球にブルーライトをしこたま浴びせていようが関係ない。
むしろしきりに文字を眺めていると、だんだんと文字が浮き出してきて空中を浮遊するような奇妙な幻覚体験が得られることから、僕は意識が飛ぶまで積極的にディスプレイを見つめていた。なにしろどのみち快眠は確約されているのだから。
そんな調子でマイスリーをかじっているとやはり耐性がついてきて一錠では効かなくなってくる。相変わらず文字という文字はディスプレイから空中に浮いているし、それとなく認知力が鈍麻している自覚はあるのだが、本来静まるはずの神経がいつまでもバチバチに起きあがったままで、どうにも眠りにはつけそうにない。やむをえず僕はその日から二錠かじることにした。言わずもがな、まもなく三錠に増えた。
このように明らかに中毒者と化していた僕だったが、夜中のオンラインゲームはあまりにも楽しすぎたし、それはそれとして朝は起きて活動しなければならない。一度目や二度目の時はやり方を知らなかったゆえどちらかを犠牲にするしかなかったが、”合理的なソリューション”が手元にあった当時、そのような妥協はもはや必要ない……**わけがない。** 結論を言えば、体調に悪影響が現れたあたりでやめざるをえなくなった。
眠剤中毒について調べると、中には激しい禁断症状や夢遊病に似た症状――服薬後に異常な内容のメッセージを知人に送信したり、実際に行動に及んだりする――に悩まされる人が少なくないと言う。僕の場合は幸いにも短期間の体調不良でことが済んだが、一歩間違えれば本物の薬物中毒に陥っていた恐れがないとは言い切れない。むろん、断薬はそこそこに地獄の苦しみだった。とはいうものの、全生物が当たり前に行えるはずの睡眠の難易度を勝手にヘルモードに引き上げたのは、他ならぬ僕自身である。
そして今月、四度目の不眠に見舞われた。運が良ければ比較的早いうちに眠れるが、そうでなければほぼ徹夜状態で寝床から這い出す羽目になる。たとえヘトヘトになるまで運動していても決して神経は落ち着かない。あらゆる刺激に対応しようとする肉体の鋭利な仕組みにはぞっとさせられる。急ぎゲームを中断して早一週間余り。まだ不眠との戦いは終わりそうにない。
だが僕はもう眠剤には絶対に手を出さない……ただ眠れないだけならギャグで済む。絶望の起床、とかなんとか言って仮に寝坊したとしても、実のところ大して深刻ではない。あの苦しみと比べたら……褥にかじりついている方がよほどマシというものだ。

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title: "中間は存在しない"
date: 2021-12-29T12:34:03+09:00
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tags: ["essay","politics"]
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米国で最近流行りのムーブメントがある。せっかくの年の瀬なので僕はその最新トレンドをちょっくら紹介したい。一般にそれは **「Woke」** と呼ばれている。活動そのものを「Woke」と表すこともあれば、運動に与する人を「Woke」と言うこともある。文字通り、彼らは「目覚めた人」を自称する。一体、なにから――**われわれの社会に潜む隠れた差別的構造からである。**
たとえば、ここに白人男性がいるとする。彼は五体満足で、シスジェンダーだ。**この瞬間、彼は他者を抑圧していることになる。** なぜなら人種や性的志向の要素においてマジョリティに属しているからだ。Wokeの言い分によれば、マジョリティは生まれながらにしてマイリティを構造的に抑圧する。これは個々人の行いとは無関係に、ただ息を吸って生きているだけでも変わりない。このようにしてすべての人間の各属性を点検し、マジョリティの**抑圧グループ**と、マイノリティの**被抑圧グループ**に選り分けていく。中間は存在しない。
抑圧グループに属する者は自身の特権性を自覚し、贖罪意識を持たなければならない。反対に被抑圧グループの者は権利意識に目覚め、抑圧グループによる無自覚な差別を糾弾しなければならない。さもなければ、どちらの場合であっても差別主義の肯定と見なされる。俗に**CRTCritical Race Theory、批判的人種理論**と呼ばれる一連の思考法は、米国の一部の教育機関で実際に取り入れられている。
これがどこまで正しいかは別として――まあ、言わんとすることは正直、解らないでもない。事実、のんべんだらりと生きている者が幸運によって気ままに生活できて、逆に環境に恵まれなかったがゆえにどれだけ研鑽を重ねても報われない、ということは確かにあるだろう。ある種の心がけとして前者が謙虚さを持ち、後者が無闇に我慢せず政治的解決を訴えるのは、まったくおかしな話ではない。話がそれだけで済むのならば。
しかし、われわれは現実がもう少し複雑なことを知っている。白人男性で、シスジェンダーで、五体満足の者の中にもプアホワイトと呼ばれる貧困層が多く存在する。彼らの境遇は貧富の差や産業構造の変化によるもので、個々人に非があったわけではない。ところがCRTはもちろん、それを中核とするWokeもこの実態をほとんど考慮してくれない。**Wokeの裁定基準は、いわばポリコレポイント制度なのだ。** 有色人種なら1ポイント、女性なら1ポイント、LGBTQIA+のいずれかに当てはまるなら1ポイント。だが、たとえ父親がヤク中だったり母親にネグレクトされていてもポイントは一つももらえない。同様に生まれつき裕福であったり、特別な才能を授かっていてもポイントは剥奪されない。
そうすると、なにが起こるのか。被抑圧グループの属性に自身を寄せつつ、それとなく学歴や職能、資産を得る者が出てくる。過去の特権階級は少なからずその特権性(爵位や家柄など)を誹られてきたが、新世代の権力者は特権性をなんら帯びずして権力を貪るのだ。まさに無敵の強者である。誰も彼ら彼女らを批判できない。ましてや批判者が抑圧グループの属性を持っていた場合、返す刀でむしろまずい立場に追い込まれてしまうだろう。
結果、米国のZ世代の**39%** は自身がLGBTQIA+のいずれかに当てはまると自認するまでに[至っている。](https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2021/10/lgbtq-5_1.php)なんにせよ、それで1ポイント獲得できるからだ。幸いにもQ――クィアという属性はとりわけ多義的なニュアンスを持っており、自称する上でたいへん使い勝手に優れている。もし諸君らの中に極度の肥満者がいるならば、あなたも1ポイント獲得だ。今時分、高度肥満者は **「ボディ・ポジティブ」** として祭り上げられ、名誉あるマイノリティの仲間入りを果たしている。あなたがそれを本当に望ましく感じるかは関係なく、あなたはただちに被抑圧者としての覚醒を求められる。中間は存在しない。
Wokeは本来、生まれつきの属性に左右されず能力が評価される社会を目指していたはずだった。しかしあらゆる事柄に隠れた差別を見い出せば見い出すほど、なにが忌むべき特権でなにが尊ぶべき能力かを厳密に定義すればするほど、個人の素朴なアイデンティティは損なわれていく。最後に残るのはとどのつまり金を稼げるかどうか、履歴書やSNSのプロフィール欄に堂々と書ける学歴や職能があるか……という、いかにも資本主義然とした"客観的な"価値基準のみとなる。他方、裕福な者はポイントがあろうがなかろうが立場に応じた振る舞いを取り繕う余裕があるし、豊かな資本を持っていれば能力の開発も幾分容易い。**結局、割を食うのは裕福でもなくマイノリティでもない、普通の人々だ。** 上からは勉強不足を指摘され、下からは特権性とやらを糾弾される。
ともすると、なんだか逆差別的でさえある――米国の最新トレンドに馴染みの薄いわれわれはついそう考えてしまう。ところが、米国は広い。このようなポリコレ・スコアリングともいうべき茶番劇が横行している一方、南部の田舎ではただ外を走っていただけの黒人が、地元住民に車で追いかけ回され[射殺されているのだ。](https://www.afpbb.com/articles/-/3377532)人種差別は決して解消されたわけではない。当然、誇り高き南部白人は件のスコアリングなど鼻にもかけない。今でも黒人や女性を「しつけなければ」ならないと公言する団体は米国内にいくつもある。
こうした状況を踏まえると、都市部の米国人がどんなにくだらなくとも茶番に付き合わなければならない理由が見えてくる。要するに、それを拒否する行為は自動的にそっちの方――**黒人や女性を畜生同然に見なす方**――に振り分けられることを意味する。ごくごく個人的な、プライベートな会話では曖昧な振る舞いも許されるかもしれないが、ひとたび公的な場で意見を求められたら必ず片方を選ばなければならない。繰り返すが、中間は存在しない。
われわれは米国のこの現状から多くを学ぶ必要がある。中間が存在しなくなるのは、文字通り中間層の人々がどんどん減っていっているからだ。日本においては経済の停滞や少子高齢化がそれを招いたと言える。いつまでも給料が上がらないのに長く働かされ、世代交代が進まないがゆえに理不尽なルールやしがらみに苦しめられている。被害者にも加害者にもならない平和な日常が消滅し、誰もがどこかで痛めつけられ、その被害者意識が刃となって他の誰かを襲う。やがて人々は是々非々で物事を考えられなくなる。想定上の敵対者をやり込めるためだけの批判、批判のための批判に終始するようになる。際限のない応酬は憎悪と先鋭化を加速させ、ますます中間が失われていく。
こんなひどい状況を緩和するには、結局、可能な者がより強固に根を張って中間に留まり続けるしかない。これはすべての主張をあしらうとか、一切の政治活動を遠巻きにして暮らすことを意味しない。むしろ逆だ。**すべての人々、ありとあらゆる属性の人々と積極的に交わっていかないといけない。できる限り多くの人々の立場を知り、相互理解に努める穏健な態度こそが中間の価値なのだ。** 独自の価値を持っていればこそ、上下左右のいずれにも取り込まれないでいられる。
日本で中間が失われつつあるのは上や下、左や右ばかりの責任ではない。中間の人々が相応しい態度を取らず、様々な問題を場当たり的にやり過ごしてきたせいでもある。なにもいきなり壮大なテーマに取り組まなくとも、案外、近場に他者との交流を求める問題は散らばっている。
そう、たとえばマンションの廊下にばら撒かれたうんこを回収するとか。隣人のネパール人の代わりに日本語の文章を読んで翻訳するとか。近所の老人たちのポリコレ違反気味の雑談に付き合うとか。僕は左の人間だが、さすがにWokeやCRTは勘弁願いたいもんでね。中間がどっしりしていないと上下左右みんなどんどんおかしくなっちまう。

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title: "主観現実権"
date: 2020-12-11T00:40:49+09:00
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tags: ["novel"]
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 早川はこの日、勤めている会社のオフィスにある一室に呼び出されていた。旧弊な彼の会社は今時でも都内に広いオフィスを構えており、そのうちの大半の部屋は明らかに使用されていなかったが、毎日決められた時間にロボット掃除機が巡回しているおかげでどの部屋も常に清潔さが保たれていた。それは、今しがたドアをノックしたこの部屋も例外ではなかった。
 殺風景なその一室には印象の薄い何人かの若手社員がいた。そして無個性なモノトーンの長机とパイプ椅子が、二者を隔てる形で置いてあった。「早川部長、さっそくですが」中でもとびきり若そうに見える男が椅子から立ち上がり、目線と手の動きで着座を促した。彼はごく反射的に言われるまま座ったが、すぐに後悔した。こんな従順な態度を示していたら今からどんなにやりこめられるかわかったものではない。そう悟るやいなや口から声がすばやく飛び出した。
「なぜこんな大仰な事態になっているのか、正直なところ私はまだ理解が及んでいないのですが」あくまで表情は温和さを保ったが声の調子にだけは、自分はあくまでこの仕打ちに納得していない、というふうに異議の発露を絶やさなかった。
「それについては世代間で問題意識が異なる傾向にあるので、今からご説明します」
 そう言って話しはじめたのは、早川から見て先ほどの社員の左隣にいた別の若手女性社員だった。彼女は姿勢のよい着座を保ったまま、実に明瞭な物言いで要点を述べた。
「早川部長。社内からの告発により、あなたにはパワーハラスメントを働いた疑いがかけられています」
 それ自体は、先日受け取ったダイレクトメッセージで彼も予め知っていた。今や骨董品に近いスマートフォンで就寝前に社内の未読チャットを確認していたら、突然メッセージが飛んできて翌日の出頭を命じられたのだ。ひどく短い文面によれば、どうやらパワハラをしたことになっているという。だが、早川にはまったくそんな覚えはなかった。
「なるほど。まずは詳しく話をうかがいましょう」
 パワハラ、という言葉の歴史は古い。彼がまだ子供だった頃には既に定着していたし、大学の就活課や様々なメディアでもパワーハラスメントがいかに問題か、どれだけ個人の精神を歪ませ、人権に反するか、もしそのような上司と遭遇したらどう対処すべきか、ということを散々聞かされてきたものである。幸いにも早川自身にとってそれらの警句は杞憂に終わり、気づけばパワハラから身を守る方法ではなく、パワハラをしない方法の講習を受ける身分になっていた。今時珍しく、彼は一度も転職することなく三十年余りの人生を会社に捧げてきたのだった。
「ちょうど二週間前の午前十二時三十七分に交わされた、ある従業員との会話を覚えていますか?」
 唐突にそのようなことを言われ早川は面食らった――「はい、覚えていますとも。あんなことやこんなことや…」などとスラスラ再現できる人がいるとでも言うのだろうか。そんなやつがいたらストーカーに違いない――「いえ、覚えていません」湧き出てきた文句を努めて胸の奥底にしまいこみながら、あくまで口調と面持ちは生真面目さを保ち続けた。
「そうですか。早川部長は『ビジョン』を持っていないそうですが、仮に持っていても二週間分もためこんでいる人は稀でしょう。では件の社員のものを今から再生します。状況説明に必要な要素以外のオーバレイは予め除いてありますので、ご了承ください」
 女性社員は手元にある指でつまめるほどのサイズしかない正六面体の記録媒体を、机上の再生デバイスのくぼみに置いた。そこにデバイスがあるということすら、早川はたったいま気がついた。なんせ厚さが数センチほどしかなく、定規のように平べったく細身の形状をしていたからである。表面のくぼみに置かれた記録媒体は、その直後にちょっとの振動では微動だにしないくらいぴったりとくっついた。ほどなくして「定規」の全体が淡く光を帯び、全員が視聴できる大きさのホログラム映像が出力された。早川と若手社員たちはちょうど相対しているが、この映像に裏表はない。
 そこにはいつもの伝統的なランチ会の光景が主観視点で映し出されていた。この会社では社員交流を目的として週に決められた日数、社内チャットのボットがランダムで決めた組み合わせに基づいて対面式の昼食を摂ることが実質義務付けられていた。これは三十年ほど前まではむしろ先進的な取り組みだったらしいが、今では社員の間でも「伝統行事」などと揶揄される程度には古めかしいものとして認識されている。ただ、この主観視点映像は早川の記憶とはだいぶ異なっていた。
 どういうわけか、対面している社員も、近くにいる他の客も、店員に至るまでの全員がうら若い美少女なのである。どんなに高く見積もってもティーンエイジャーくらいの年齢に見える。こんな若い女性しかいない店に行った覚えはない。「あのう、これは私と対面した方のビジョンなんですよね?」早川は念のために確認した。そうすると、その反応を前もって予期していたとでも言わんばかりに、男性の方の若手社員が「やはりそうみたいだ」と隣の女性社員に向けてぼそっとつぶやいた。早川はすぐに「何が『やはりそう』なのですか」と追及した。
 若手社員は聞かれていると思っていなかったらしく、バツの悪そうな表情を浮かべながら「すいません」と小声で言い、それから「でも『ビジョン』はご存知なんですよね?」と取り繕う形で確認をとった。
「確かに私は持っていないが……コンタクトレンズ型のスマートフォンみたいなものだとは聞いています。娘が使っているらしくて。この映像もそれで撮ったものなんでしょう」
 彼は自身が知っている情報をありのままに開示した。十何年か前まで簡便な情報端末といえばスマートフォンだったが、ここしばらくの間に『ビジョン』と呼ばれるコンタクトレンズ型の端末がだいぶ普及してきている……それが早川の持つ知識のすべてだった。
「あれですよ部長。昔、お寺とかに映像を投影するイベントとかあったじゃないですか。AR……プロジェクションマッピング、とかなんとかとかいって」
 これまでもっぱら議事録の入力に努めていた三人目の若手社員が突然口を挟んできた。その例え話は、早川にこの不可思議な映像の理解を急速に早める手助けとなった。
 つまり……これは……。
「この社員の方は、ビジョンの機能か何かで、私や周囲の人の顔や身体に別のグラフィックを上書きしている、ということですか?」
 女性社員と隣の若手社員は一瞬だけ顔を見合わせた。それから女性の方が「おっしゃるとおりです。最初に世代間で問題意識が異なる傾向がある、と言ったのは、まさにこのことです。部長にご理解いただきたいのは、何であれ、これが件の社員にとっての**主観現実**である、ということです」と一息で言った。話しぶりからするととても重要そうな論点に聞こえるが、まだ早川にはいまいち理解が及んでいなかった。
 しかし、何か反応を示す間もなくホログラムの映像は終わりに近づいていた。投影された画面の下に細く表示されたシークバーが終端に接近しつつある。ランチ会での会話は率直に言って、ほとんど記憶にないのも無理はないというくらい、ごく淡白で取るに足らないものだった。
 社員交流などと謳ってみたところでいきなり腹を割った話などできるはずがない。あまり個人的な内容に言及するのもそれはそれでハラスメントになる。早川は当初、記憶にないだけでもしかすると自分がそのような発言をしてしまったのでは、と危惧していたが、この映像を観る限りではありえそうになかった。
 それにしても、聞こえてくる声は完全に初老男性の声――早川の声――なのに、上書きされたグラフィックだけはほぼ完璧と言えるほど理想化された美少女然としているのだから、彼にとっては奇妙で仕方がなかった。美少女化された早川の頭が急に傾いでも、マッピングは瞬時に追従し破綻する様子はまったく見られない。早川の愛想笑いの表情は、理想化された美少女の屈託のない笑顔に変換されていた。
 だが、間もなくして事件は起こった。「では部長、これで私は失礼します」食事を終えた件の社員がそう言って机上にあったインターフェイス――ビジョンを操作するリモコンのようなもの――を手に取ろうとし、しかし取り損ねたらしくインターフェイスは転がって地面に落ちた。続けて落下音が大きく鳴り響いた。どうやら映像の音声はインターフェイス本体から入力されているらしい。同時に映像の視点も激しく横ぶれした。「あ、いや、私が拾おう」くぐもった声が聞こえた。ハイテク・リモコンは早川の近場に落ちていた。
「ありがとうございます」と、件の社員のあからさまに張り詰めた声。そして、視点が床から上がると――そこには別世界が広がっていた。先ほどまで完璧にマッピングされていたグラフィックが、嘘のように消失していたのである。
「ほら、これだろ」インターフェイスを拾い上げた早川はもはや美少女ではなかった。年相応の外見をした五十代後半の男性がそこには映し出されていた。周囲の人物も各々の客観的な姿に戻っている。
「ひっ」という社員のかすかな震え声が映像から漏れた。主観視点も小刻みに振動していて、あえて推察するまでもなく動揺している様子は十分に感じ取れた。視点の下から社員の腕が伸び、インターフェイスを"中年男性"の手から取り上げるやいなや「ではこれで失礼します」と言い残し、即座に振り返ったところでおおむね映像は終わった。
 厳密には、最後の最後で視点がインターフェイスに集中し、猛烈に指を動かす様を数秒ほど映し出したあたりで途切れた。
 早川はなんとなく事態が掴めてきた。と同時に、すさまじい虚脱感に襲われた。あまりにも急速に緊張感が解けたのでつい口元も緩くなってしまったのか、思わず「ばかばかしい」と口走ってしまった。だが、彼の理性を司る部分がすぐに持ち直し、数秒後には「今のは失言だった。申し訳ない」と訂正させた。しかし対面した若手社員の心象を悪化させるには、その一言で十分足りたらしかった。
「早川部長、もう理解していると思われますが、インターフェイスを拾った際に、なにか誤って入力しませんでしたか?」
 女性社員の声は先ほどよりずっと鋭く、まるでナイフを突きつけられているかのように聞こえた。
「いや……まあ、何かしたかもしれないな。どうだろう」早川はしどろもどろになって答えた。
 実際、インターフェイスは物理接点がほとんどないタッチパネルだったので、彼にとって操作したかどうかは本当に曖昧なことだった。しかし、あれほど精密なマッピングが急に解除されたのは、状況から考えれば誤操作以外にありえなさそうでもあった。
「操作記録と照らし合わせてもあなたの入力で解除されたと判断できます」
 若手社員も厳しい口調で指摘した。先ほどの失言の代償は想像をはるかに越えるほど大きいものだったようだ。
「いいですね、部長。あなたは彼の**主観現実権**を犯したことになるのですよ」
 にわかに聞き慣れない単語が飛び出してきたが、その単語の意味するところを十分に想像できたので、早川はまたしても「ばかばかしい」と言い出しそうになるのを必死でこらえなければならなかった。今回は理性が辛うじて勝利した。だが、その理性でさえも彼を抑えつつ異議を申し立てている。そんな権利知ったことか、と。
「あー……失礼、つまり、私が彼のビジョンの……この、機能を、解除してしまったことが、パワハラにあたるとでも? 私が、誤ってヘンテコなリモコンをいじってしまったせいで?」
「端的に言えば、そうです。件の社員の労働パフォーマンスは当日まで平均よりかなり高い値でしたが、この日以降は著しく悪化しています。さらに、予防精神科による診断結果も……」
 後半の方はほとんど早川の耳に届いていなかった。眼前にいる三人の若手社員の表情は真剣そのものだ。この三人はさしずめ異端審問官かなにかで、自分は気づかぬうちに制定されていた戒律に反した咎を背負い、今から厳罰に処されるのだ。これは、二十一世紀の宗教裁判だ。主文、バージョンアップ不履行罪により被告人は有罪……。そんな光景が彼の脳裏に浮かんだ。
「……とはいえ早川部長に悪意がなかったことはわれわれ人権擁護部も認識しています。件の社員も厳罰は望んでいません。しかし、現に部下のメンタルを傷つけ、パフォーマンスを悪化させたことは事実です。そこで人事部に相談したところ、二週間程度の停職とハラスメント予防講座の受講で手を打っていいと言われています」
 早川はため息をつく代わりに深く息を吸い込んだ。
「つまり、事実上、私には何の抗弁の余地も残されていないということだな」
 今や彼から表向きだけの慇懃さは取り払われ、敬語を使うことも忘れていつもの管理職然とした口調に戻っていた。とはいえ、実のところ少し安堵もしていた。
 ――少なくとも、理解不能な権利を侵害した罪でギロチン台に送られるなどという最悪の展開は免れたらしい。あと数年も経てば還暦になろうかという人間を今と同じ給料で雇ってくれる会社など存在しない。この会社にしても、膨大な既得権益と不動産収入のおかげで終身雇用などという大それた口約束を今までなんとか守ってこられただけに過ぎない。眼前の若手社員にそんな席は間違いなく残されていないだろう――早川はこのように自身の立場を恵まれたものとして捉え、若手社員たちを殊更に憐憫してみせることで、理不尽な停職処分が負わせた屈辱を内的に処理しきった。
「ええ、残念ながら。差し出がましい助言ですが、とにかく受け入れた方が社にとっても部長にとっても有益かと」
 記録係の若手社員がまた横から口を挟んだ。早川はこれを受けて、いかにも理解に努めようとする物分りがよい初老の台詞を捏造することに成功した。話しはじめる前に、記録係の社員へほんの一瞬だけ視線を飛ばした。
「……件の社員には必要であれば、後ほど私の方から謝罪しておきます。私との対面に問題が生じるようならその意思がある旨をどうか伝えておいてください。老輩の私にはまだ理解が及ばぬ概念ですが、今回の処分を機会に勉強してまいります」
 若手社員たちは一斉に緊張が解けた様子を見せた。「後ほどチャットのダイレクトメッセージで予防講座のURLを送ります」女性社員が言った。
 横の若手社員が立ち上がったので、早川も一緒に席を立った。「では、これで失礼しても?」「ええ、どうぞ。本日はわざわざオフィスまでご足労下さり、ありがとうございました。こういうことは対面で、と社の内規で決まっていますので」
 続けて、他の二人の社員も席を立った。真ん中の社員がジェスチャ操作で再生デバイスの電源を切り、いよいよこの部屋から退出するのみとなった。ドアの位置関係から考えれば、まず早川から退出する方が順当と思われる。
 彼はきびすを返し、ドアの取っ手に手をかけた。そこで初めて、扉に「人権擁護部相談室」と表札がかかっていることに気がついた。それと同時に、なぜか知らないが彼の中にどうしても訊かずにはいられない疑問が湧き出した。
 早川はドアを開放したが、すぐには出ていかず振り返った。三人の若手社員と等しく目が合った。
「最後に一つだけ伺っても?」彼は承諾を待たずに問うた。
「君らの主観現実でも、私は美少女か何かに仕立て上げられているのか?」
 結論から言うと回答は得られなかった。ただ「主観現実の内容はプライバシーに関することなので」と濁されただけだった。
**
 帰り道は地獄のように感じられた。地下鉄の車両内で目にする人たちが、みな一様に虚空を見つめているのは十年以上前から慣れた光景だが、意思に反して最新技術を知った彼にとってはまったく別の文脈を纏っていた。
 ――この中の何人が――あるいは全員かもしれない――通りすがりの人たちを好き勝手に書き換えているのだろうか?  ある人にとって人間はみんな美少女で、別のある人にとっては動物なのかもしれない。そもそも、マッピングの対象は人間だけに留まらない可能性だってある。
 早川は技術に疎かったが、動く物体にリアルタイムでグラフィックを上書きできるのであれば、止まっている物体にはもっと簡単にできてもおかしくないという推測は容易だった。
 だとしたら、この周囲の空間、物体、景色は、いずれも上書き可能な対象なのだ。ここにいる人たちのすべては、ひょっとすると自分とは異なる現実を生きていて、なるべくそれを信じるようにしている。
 こうした想像は早川をずいぶん苦しめた。彼が若い頃にもヴァーチャル・リアリティだのなんだのという単語だけはやたらと独り歩きしていたが、ひとたび現実になってみるとこれほど寒々しいものはない。もたらしたのは現実の増殖であり、多様化であり、そして、個別化でもあったのだ。
 帰宅したのは昼前だった。朝方にオフィスまで出向いて、ほとんどすぐ帰ってきたのだから陽はまだ真上にも達していない。
 しかしリビングのドアを開けてソファに目をやった途端に、虚空を見つめている娘の姿が写ったのは彼をぎょっとさせた。それで、今日は祝日にあたることを思い出した。
「ただいま」早川はごく機械的に言った。今年、中学生になった娘は成績優秀だが、代わりに若干の反抗期までも先取り学習してしまったらしく、この頃は淡白な態度を示すようになった。家計の問題で私立中学は諦めざるを得なかったものの、このまま自然に推移すればかなり上位の公立高校に入れる見込みがあると先の三者面談では太鼓判を押されていたのだが。彼はぼりぼりと頭を掻いた。
 案の定、娘は親の呼びかけを無視したまま虚空を見つめ続けていた。――まさかとは思うが、娘も私を別の何かに上書きしているのだろうか? ――彼はとっさに娘を揺さぶって問いただしたい衝動に駆られたが、先ほどの人権擁護部から言われた忠告を思い出し、なんとか踏みとどまった。
 社内チャットのダイレクトメッセージ欄が威勢よく吠えだしたのは質素な昼食を摂りおえた少し後だった。当初は娘を外食に誘おうと思っていたが、気づいたら彼女はどこかへ外出していた。行き先を前もって言わないのは表皮下に埋め込まれたペアレンタルコントロール・タグによって居場所が常に露見していることに対する、ささやかな反抗と思われる。
 この頃の少年少女には親の目から逃れる自由が存在しない。そんな取るに足らない青春の一スクロールよりも安全の方がよほど重要だと訴える親たちの至極もっともな言い分によって、子供たちの悪事やいたずらの類はほぼ完全に制圧されてしまった。事実、早川はスマートフォンで彼女の位置情報を確認しただけで状況を把握し、すぐに自分だけの昼食を用意しはじめた。
 その間、人権擁護部ときたらやたら文章を細切れにして都度送りつけてくるものだから、気がつけばスマートフォンの画面上は通知でいっぱいになっていた。もしかするとこれは一種のテクニック――ここ二十年近くの間に心理学を応用したチャット上におけるコミュニケーション手法はだいぶ進歩してきた――なのかもしれないと早川は訝しんだ。ようするに、とっとと「宿題」を済ませろ、ということだ。
 少々機嫌が悪くなりながらも彼は慇懃な言葉が並ぶメッセージ履歴の行間に、儀式として観なければならないパワハラ予防講座の動画を見つけた。この動画は、履歴が言うところによればAIによって膨大な映像素材から自動的に構築された、つまり、早川の停職事由にパーソナライズされた代物らしい。
 しかし再生するやいなや、珍妙な形状の、極度にデフォルメされたキャラクターが甲高い声でしゃべりだしたので、彼はさっそく裏切られた気持ちになった。パーソナライズといっても、個人の感受性や好みまでは反映してくれないようだった。
「やあ! 今日は君が傷つけてしまった人がどんな気持ちだったのか、説明しちゃうよ!」
 平面的で中間色を多用した色彩のアニメーションで描かれたその空間は、なぜか前時代的なオフィスの風景を再現していた。中にいるキャラクターは弾力のあるボールのように弾みながら画面外からホワイトボードを引っ張り出してきた。
**『主観現実とは:人々によって個別的に解釈される認識のこと』**
 キュッキュッ、とあえて若干耳障りに加工された人工の筆記音とともに一文が記された。
「いいかな? 主観現実っていうのは、人々が持つそれぞれの解釈や認識を守るための概念なんだ! 人の数だけ世界観があるってことだよね! みんなちがって、みんないい!」
 キャラクターはキンキンとしたダミ声を撒き散らしながら、ひとしきり騒いだかと思えば、今度は急に萎びた様子になって表情までわざとらしく落ち込んだ。
「でもきみは良くないことをしたね……人の認識を傷つけちゃったんだ……誤りとはいえ、今度からは注意しないとね……」
 いつの間にかホワイトボードの一文は「提案される改善:主観現実を学ぶ」に書き換わっていた。
「今回のことは残念だけど、たぶん、最新のテクノロジーを理解していないことが原因なんじゃないかと思うんだ!」
 早川は先ほどまでこのまるまる太ったほとんど手足のないキャラクターが何の動物をデフォルメしたものか考えていて、実のところ内容の大半を聞き流していたが、話が妙な方向に進んでいることを理解して引き戻された。
「ビジョンや様々なテクノロジーは主観現実を実現するための手段だから、これらに精通することで誤りをなくせるかもしれないよ!」
 AIがわざわざアニメまで仕立て上げて考えた改善策とはビジョンを買わせることだったらしい。彼は先ほど電車の中で見た光景を思い出した。あの虚空を見つめる集団の一員になれというのか。
 早川はいわゆるテクノフォビアではない。これまでの人生で人並みにテクノロジーに触れ、相応に流行りものを楽しんできた。しかし、機械の指示で別の機械を買わされそうになっている現状を容易に受け入れられるほど親和的でもなかった。
 とはいえ、実質的に選択肢はない。機械の指示と言っても背景には会社がいて、それに早川を従わせられる権威を付与しているのだから。パワハラ予防の改善策を断ったとなれば、もうこれだけで十分すぎるほど体裁が悪い。
 結局この場では判断がつかず、彼はダイレクトメッセージ欄の動画のURLが記された箇所に「既読」のリアクションをしただけに留めた。
 早川は何かと体面を気にするきらいのある男ではあったが、少なくとも家族の前では誠実だった。今回の停職の件も当日のうちに夕飯の席で包み隠さず話した。その上で、同席していた娘にも話を振った。彼女は帰宅した時には機嫌が治っていたらしく、自ら夕飯のメニューを妻に聞いていた。
 これは彼にとって上策に思われた。停職になったという弱みをあえて積極的に開示すれば、いかに難しい年頃の娘だってあからさまに無碍にはしづらい。それに、当の娘はビジョンのネイティブ世代だ。早川の世代もかつてインターネットネイティブ世代などと言われたが、今ではどんなこともいちいちエミュレートしなければ読み取りすらおぼつかない。
「へえ、そりゃあパパが悪いね」
 ただちにネイティブ世代の判決が下された。主文、父親は有罪。
「やはり、みんな主観現実っていうやつを持ってるものなのかなあ」早川は横に座る妻をちらっと見ながら言った。
 彼の妻もまた機械には疎い方だったので「私はよく解らないけど」と前置きした上で「なんかそれの啓蒙? みたいなのはテレビで見たかも」と言った。
 早川の妻は時短労働者なので今日は出勤していたが、週の大半は家事をしている。都市部においては今時珍しい形ではあるものの妻はこの方が性に合っていると言って譲らなかった。労働は週に三日もすれば十分だ、と言うのが彼女の口癖だ。出不精な早川としても家事分担がないだけ気が楽だった。このようにかなり保守的な装いの家庭であるから、最新デバイスの情報に疎いのは無理もなかった。
「学校でも教わってるよ。『それぞれの現実を尊重しましょう』ってね。でも、ビジョンを買えない人はどうするんだろうね」娘はカレーライスを口に運びながらはきはきと喋った。無視する時は完全に無視を決め込むくせに、会話すると決めたら明瞭に話すのが最近の特徴だ。
「でもすごく安いみたい。特にインド製が」妻が言った。片手の指を折り曲げて示した数字は、欲しいのに買えない方がいくらなんでもおかしい、というくらいの価格帯だった。
「どうせ買うなら中国製の方がいいな」
早川が話に乗ると娘は機敏に反応を示した。
「え、買うの? ずっと電話しか使ってなかったのに」
 娘はスマートフォンのことをただ「電話」とだけ言う。彼の世代にとってビジョンはスマートフォンの発展形だが、ネイティブ世代の彼女からしてみればむしろビジョンの方が基本形で、スマートフォンはもはや過去の遺物に過ぎない。
「電話を馬鹿にするなよ。これはこれで使いやすい」
「だって画面離れてるじゃん。使いづらいよ」
 娘の反論は速やかなもので、技術に疎い早川に太刀打ちできる余地はなかった。
「で、買うの?」
彼女はなおも追及した。彼はわざとおどけながら先ほどの動画の件を話した。
「実はな、さっきAIに『ビジョンを買わないとクビにするぞ』と脅されたばかりなんだ」
「それがパワハラじゃん」娘も苦笑いした。「AIにパワハラされたといって訴えてみるか」
 驚くべきことに、ここ数週間の中では一番会話が弾んだ。普段の食事も殺伐としているとまでは言わないが、どうにも年頃の娘との会話の糸口がつかめず、かといってどんな話題を振ればいいのかも判らず、結局、隣の妻に仕事の愚痴を漏らすくらいしか彼にはできなかった。娘といえば、食事中にもビジョンを使いはじめる始末だった。さすがに無作法だと理解しているのかインターフェイスは机の下でいじっていたが、使用中は目線がどことなくおかしくなるのですぐに判る。
 とはいえ、叱りとばすほどの説得力を早川は持ち合わせていなかったので、事実上黙認していた。適切な話題を提供できていないのに怒っても仕方がないという卑屈な気持ちが彼にはあった。
 ――しかし、ビジョンを買って、あれこれ聞けば、こんなふうに娘とまた会話が弾んだりするかもしれない。
「そうだな……まあ、買わなきゃならんだろう。クビになりたくないしな」
あくまでやむを得ないという体裁をわざと醸し出しながら早川は宣言した。
 あまりにも娘と調子良くコミュニケーションがとれたせいか、彼女が父親を他の何かで上書きしていないかについては、結局聞きそびれてしまった。
**
 数日後、スマートフォンのフロントカメラでスキャンした早川の眼内所見に基づいて、自動的に調整されたビジョン一式が自宅に届けられた。製品名すら書かれていない真っ白な外装を解くとすぐに本体が姿を現した。
 コンタクトレンズ部とインターフェイス、インターフェイスの充電器がそれぞれ適切な大きさに作られた溝の中にぴったりと収められている。一方、説明書らしい説明書は見当たらなかった。薄くて小さい一枚の再生紙に、非常に簡素な図柄とわずかな単語で起動に必要な手順が示されているだけだった。もっとも「初期起動は安全な場所で行ってください」とだけは日本語で記してあったが、明らかに後から追加で印字した形跡が見て取れた。
 早川はさっそく手順に従って、保護されたコンタクトレンズを慎重に取り出し、目に装着した。続いて、薄いビニールで包装されたインターフェイスを開封し、書かれているままに起動ジェスチャを入力した。インターフェイスは不親切な説明書に〈紧急/Emergency/आपातकालीन〉と記されていた側面の物理ボタンを除いては、全面がタッチサーフェイスだった。
 **≪深圳视光科技 亞-0293≫**
**载入启动...|||||||||||||**
 突然、視界に明朝体で製品名がオーバレイされたかと思えば、すぐにローディング中を示す簡素なプログレスバーが表示された。いかにもありがちなシステム音声はインターフェイス本体から出力されているようだった。
 ややあって個人情報取得についての同意確認ダイヤログが表示されたので、インターフェイスを指先で触って視界上のポインタを動かした。動作は非常に滑らかでスマートフォンと大きく操作感が異なる様子はなかった。今のところ、ディスプレイが網膜の上に移動しただけのように彼には感じられた。
 初期設定は速やかに完了した。言語設定はネットワークによる居住地と購入者情報で判定され、それ以外の設定もほぼ自動的に確定していった。彼は大抵の場合、ただ「次へ」ボタンを押すだけで済んだ。システム音声は耳障りだったのですぐに無効にした。
 設定を終えると視界上にはほとんど何もオーバレイされなくなった。ほとんど、というのは、視界の左上に時刻とインターフェイスの残充電量だけは表示され続けていたからである。さしあたってはスマートフォンで使ってきたアプリケーションと同機能のものを、このビジョンに導入するところから初めなければいけない。しかし、これも大して時間はかからなかった。
 早川が必要としている機能と言えば、せいぜいブラウザ、天気情報、ニュース、オフィススイート、メモ……いずれも標準搭載されていた。唯一、社内チャットシステムとして採用されているアプリケーションだけ、別途導入する必要があった。なんとか網膜上で社内チャットにログインを済ませると、同時に視界の左上にポップアップ通知が現れた。
**ダイレクトメッセージ:人権擁護部より、経過報告を……**
 反射的に視点を左上に動かした途端、自動でフォーカスが合ったので、ポインタを余分に動かす手間なくダイレクトメッセージ欄を表示できた。ここで早川はビジョンが眼球の動きを操作の補助としてトレースしていることを理解した。
 彼は手短にAIの指示通りビジョンを購入し、今まさに使用中だとメッセージを送った。人権擁護部のレスポンスは瞬時に返ってきた。冗長な前置きを省くと、そこにはこう書かれていた。
「次のランチ会が楽しみですね」
早川はこの文章の示唆するところが理解できず訝しんだ。当日の夕食時までは。
 いつものように早川家は所定の時間にリビングに集合した。娘はたとえ無視を決め込むほど機嫌を損ねていても、このルールだけは破ったことがない。それは父親の早川にとっては嬉しい面もある一方で、娘の気持ちを好転させられる言葉を何一つ思いつけない自身の不甲斐なさを思い知らされる側面もあった。
 そして今日は後者の面の色が濃かった。彼女は席につくなり両親から顔を背けたまま、黙々と食事を摂りはじめた。視点をそらすのは彼女なりの不機嫌の示し方なのだ。ところが今の早川にはビジョンがある。いつもと違って話題には困らない。
「今日な、ビジョンが届いたんだ。実は今もつけてるよ」
「……」
「確かに便利だな。どこを向いていても操作できるし」
「……」
「……なんか、おすすめのアプリとかある? 今時の若い子って、これでどういうことしてるんだ?」
 娘は急に顔をあげ、こちらに鋭い視線を向けた。いつもより会話の催促がしつこかったからに違いない。妻に至ってはとっくのとうに諦めて、こういう時は一切話しかけないようにしているらしい。
 本来であればこのあたりで早川も状況を察して撤退するところだったが、娘の顔を視界に捉えた瞬間に思いもよらぬことが起こった。
**……表情分析完了[上位の感情:怒り31% 悲しみ47%]**
**会話のサジェスト:**
- **なにか嫌なことでもあった?**
- **いつでも相談に乗るよ。**
- **事情があればそのうちでいいから話してね。**
 突如、娘の真横にテキストウインドウがオーバレイされた。さすがの早川にもビジョンが何らかの手法で**会話を技術的に支援しようとしている**のだと即座に理解できた。
 彼は一瞬だけ、強烈な怒りがこみあげてきた――なぜ機械に娘との会話を指南されなければならない? 余計なお世話だ――しかし、注目に値する情報もそこにはあった。ビジョンの考えでは、娘は怒っているのではなく、どちらかといえば悲しんでいるのだという。こんなふうに捉えた試しは彼にはなかった。――もし、これが真実なら? 
「……なあ、なんか嫌なことでもあったのか?」
気づけば早川は"機械"のすすめるままに言葉を発していた。それによって得られた娘の反応は、早川でも把握できるくらい劇的なものだった。
「えっ……別に、ない……」
娘の目がわずかに見開いた。しかし、その表情の変化を自覚的したのか、すぐに意識的に頑なな面持ちを維持しようとする様子がうかがえた。同時に、ビジョンがオーバレイする内容も変化した。
**……分析更新完了[上位の感情:怒り30%↓ 悲しみ38%↓ 喜び20%↑]**
**音声入力の結果を適用……✔**
**会話例のサジェスト:**
- **言えることだけでいいから、相談してみないか?**
「ッッ……」愚かにも早川は言葉に詰まった。思わず視点を机上のインターフェイスに向けようとして、踏みとどまったせいもある――こいつは娘との会話も聞いてやがる! ――なにより、これ以上、機械に頼って会話するなどという恥知らずな行為を、彼は続けたくなかった。
 数秒ほど何も言えないまま間が空くと、娘の表情にまた大きな変化が生じた。そして、小さくため息をついて顔を伏せた。視界から分析に必要な情報源が消えたため同時にオーバーレイも非表示になったが、その寸前に更新されていた内容は早川の目にはっきりと焼きついていた。
**[上位の感情: 怒り30%- 悲しみ44%↑ 不信21%↑]**
「ッ……言えることだけでいいから相談してみないか?」
結局、早川は早急に自身の感情と折り合いをつける必要に迫られた。わずか数秒、反応が適切でなかっただけで、もう娘に不信感を持たれてしまっている。この機械の言い分が正しいかどうかは先の結果でもはや明らかだ。
「なんでパパに言わなくちゃいけないの」
 再び娘は顔を上げ、きっと彼を睨みつけた。客観的に見ればこの会話の雰囲気はこれまでで最悪に近い。こういう様子の時は一切話しかけないと誓っていた妻もとうとう参戦してきて「あなたたち、その辺にしときなさい」とたしなめはじめた。
 だが、今の早川には心強い味方がいた。彼は妻とは目を合わせず、視点を娘にしかと固定したまま「いいから、ちゃんと話そう」と言った。
**[上位の感情:怒り45%↑ 喜び26%↑ 悲しみ25%↓]**
 とうとう喜びが悲しみを上回った。早川にとっては理解しがたい感情の動きだった。ビジョンいわく、娘は怒りながら喜んでいるのだというのだから。彼はサジェストに従い続けた。
「不機嫌になってる理由はパパにもよく判るよ。イライラしてても本当は悲しいんだろ」
「知ったふうに言わないで」
「いつでも相談に乗るから――」
 娘は急に立ち上がった。オーバレイされた彼女の感情は『怒り』が急上昇していたが、同時に『喜び』も追いつきそうな勢いだった。そして、『悲しみ』は基準を下回ったのかもう表示されなくなっていた。
「もう食事いらない!」
 そう言ってリビングから飛び出していった娘を、早川は普段では考えられないほど落ち着いて見送った。
 ドアをバーンと激しく閉める音とともに、間もなく深い静寂が訪れた。
「あなたどうするの。あんなにしつこく言ったらだめじゃない。年頃なんだから放っておかないと」
 ややあってようやく妻が口を開いた。視点を合わせると分析の対象が即座に切り替わった。娘と異なり、彼女の感情はごく平坦な値をマークしていた。
「いや、あれでいいんだよ。間違いない」
早川は力強く断言した。
「なんでそう言い切れるの」
「……そういうものらしい。最近、育児に関する本を読んでみたんだ。怒らせるくらいがいいってさ」
 早川は嘘をついた。サジェストされるまでもなく、機械の言いなりになったなどと言えるわけがない。直後、妻の感情リストのうち『不信』がごくわずかに上昇したが、『喜び』も上がった。
 それから数日の間、少なくとも客観的に見る限り早川家は明らかに家庭内不和を抱えた状態にあった。娘は完全に無視を貫く態度をとり、妻もまた彼女を放置した。
 そのせいか妻はことあるごとに「それみたことか」という表情を早川に示したものの、妻の感情リストはやはり平坦なままだった。
 つまり、彼の妻は実際には動揺していないし、この騒動で本質的に何かが脅かされるとも思っていない。
 挑発的な態度が仮初のものと判ると早川はとても落ち着いた気分になれた。同じくらい、恥ずかしくもある。これまで妻に対してずいぶんと的外れな会話をしてきたことになるからだ。
 娘の方も、表向きの態度と本心はだいぶ異なるらしかった。彼女の顔つきはどう見ても鋭く険しいものとして早川には映っていたが、裏腹に上位の感情はほとんど怒っても悲しんでもいなかった。
 ビジョンのソフトウェアはこれを「小康状態」と評価した。当初、親子間の会話に踏み込んでくるビジョンに敵意さえ覚えた早川だったが、今ではむしろ貴重な助言者に昇格していた。
 時折、何の前触れもなく事務的な内容で娘に話しかけられても、もはや早川は動じなかった。いつでもビジョンは適切と思われる会話に導いてくれたし、オーバレイされた値が真実を語っていることはおのずと判った。そこから得られる自信が、ますます彼を前向きにさせた。
 数日後、やはり娘は険しい面持ちを保ちながら夕食の席についた。妻は「またか」という趣旨のため息を一瞬スッと吐いたが、あまりにもささやかで抑制が効いていたため、横に座っていた早川にしか聞こえなかった。時々、娘は食事を口に運ぶ合間に、盗み見るような形で彼の顔をうかがっていたが、すぐに顔を伏せたのを彼は視界の端で捉えた。
 その時、ビジョンに変化が生じた。蓄積された会話の履歴と現在の表情分析から、何らかの結論が算出されたらしい。
**[上位の感情:怒り20% 悲しみ21%]**
**積極的な問題解決が可能です。✔**
**会話のサジェスト:**
- **いつまでそうしているつもりだ。言わなければ人には伝わらないぞ。**
 今まで表示されていたサジェストは穏当な会話だったので早川の抵抗感は幾分か薄かったが、今回は明らかに一定のリスクが要求される内容だった。
 彼はまた躊躇しかけたが、その行為にも厳しいリスクが伴うことを、ここ数日間で十分学習していた。
「いつまでそうしてるつもりだ」
 ほとんど口を荒げることなく、教育の大半を妻に任せきりだった早川がにわかに厳しい物言いをしたので、娘は反射的に顔を見上げ、はっきりと目を見開いた。
「言わなければ人には伝わらないぞ」
「……言ったって判んないでしょ」
 娘の反応と表情の機微を基にすぐに次の会話がオーバレイされた。横に座る妻といえば、箸を置いて両者の会話を黙って見守っていた。
「判らないかもしれないが、言うだけ損なことはないだろ」
「期待して裏切られるのはイヤ」
「いいか」言いながら早川は視界内のテキストを黙読した。
 "力強く話しはじめ抑揚を作りだし、相手に意識を集中させる。間を数秒間置いてから、ゆっくり本文を話す。視点の位置は……"
 3……2………1……視界に表示される仮想のタイマーがゼロを打った瞬間に、早川は口を開いた。
「絶対、期待に応えるなんていう無責任な約束は、基本的に誰にもできない。ただ、パパとママは君の話を聞き、必ず味方になることだけは、必ず約束できる――」
「やっぱり判ってない!」
 ――娘はこの前のように立ち上がり、リビングから出ていった。早川はビジョンが何か予測を違えたのかと思い、インターフェイス本体を睨みつけたが、視界のオーバレイは即座に別の表示に切り替わった。
**!分析対象の移動を検知**
- **会話を継続してください。**
 言われるままに早川は娘の後を追った。妻が「二人ともいい加減にしてよ」と責め立てる声が背後から聞こえたが、今回ばかりは無視せざるをえなかった。
 娘は自室に立てこもっているようだった。早川はドアをノックした。すると、扉越しに「あっち行って!」とくぐもった声が聞こえた。
**?入力音声を優先的に分析中……**
 今度ばかりは気が急いて、彼は会話例がサジェストされたとほとんど同時に読み上げた。
「行かない。今日は君と話すと決めた」
「イヤだって言ってるの」
「入るよ。いいね」
「イヤ!」
 いつもなら決して得られなかった勇気が早川の内側にみなぎっていた。それが体内から湧き出たものではなく、網膜上の素子によって獲得できたものと認識するのはいかにも皮肉めいた話だったが、今の彼にとってそれを区別する必要性は見いだせなかった。
「話してみなさい。今すぐに」
「しつこいって」
「人はただ話すだけでも気が楽になるんだ。いいから」
 しばらくはこんな感じで、娘と一見感情的とも思えるやり取りが続いた。だが、早川の内面はひどく冷静だった。
 これらの一連の会話は実質的にはビジョンが作り出している。ある言葉をきっかけにどんな会話が予期され、最終的にどこに着地するかまで、この素子の中で算出済みだとしたら――見方によっては既にほぼ確定した過去を台本通りになぞっているだけに過ぎない。彼のそんな想像を裏付けるように、娘はだんだんと弱々しくなり、やがてただすすり泣くだけとなった。
「なんでむかつくかもわかんないけど、そうなっちゃうの」
「うん」
「ほんとに、ちょっとしたことだけで信じられないほど腹が立つの」
「そうだね」
「ほんの一年か、二年前くらいまではそうじゃなったのに……」
「わかるよ」
「うそ、パパには判んないよ」
「そうかもね。でも、男にだってそういう時期はあるんだよ」
 さしもの早川にも、娘が月経による精神的不調を示唆しているのはすぐに理解できた。しかしビジョンはこれを適度に濁すよう指南してきた。矢継ぎ早に情緒的な会話を繰り返していると、急に娘は早川にしなだれかかってきて、おずおずと言い出した。
「パパ……あの……」
「なんだい」
 この時点でビジョンは抑揚のつけかたや言葉を発する速度についても、極めて精緻にサジェストを行うようになっていた。たった四文字だけでも、それが有効かどうかだけでずいぶん違って聞こえるのは、彼自身もひどく驚かされた。
「ごめんなさい。反省してる」
「……なんでも包み隠さず、とまでは言わないよ」
 ここでわずかにひと呼吸おいて、娘の顔をじっと見つめた。それから、この上なく力強く一気に言い切った。
「けど、たとえどんなことがあっても、必ず助けになる。わかったね」
「うん……ありがとう」
 娘の感情リストが急速に安定期と定義されうる閾値へと収束したのを早川は横目で確認して、ようやく本当の安堵を手に入れた。
 それから何分かの間、彼はビジョンに言われるまま、ただ沈黙を守り、娘を抱きしめ続けた。
 こうして早川家が抱えていた家庭内不和は終結した。妻も放置をやめ、娘の相手をするようになった。以前は不必要に気を揉んでいたが、今ではすべてが対処可能な問題に思われ、何もかも順調に運んだ。
 二週間ののち、ようやく出社日が来た。早川は初日に行われた人権擁護部の面談でさっそくビジョンを活用した。
 家族に向けて使った時に生じた心理的抵抗は、仕事場では毛の先ほども生じなかった――どうせ他人を少女だか動物に上書きしている連中だ――そして期待どおり、ビジョンがサジェストした会話は例の三人の若手社員にかなりの好印象を与えたらしかった。
「先の停職期間は部長にとても良い影響を与えたみたいですね」
前回に引き続き早川から見て左側に座った女性社員が笑顔で言った。
「おかげさまで、素晴らしい学習期間でした」
彼もまた笑顔で答えた。
 どちらかといえば退屈だったランチ会も、今の早川にとっては実に快適なひとときへと変貌した。これまでどれだけの会話の投球を拾い損ね、また、相手に不躾な暴投をしていたか、思い返すだけで恐ろしくなった。
 それでも時折、早川の脳裏に宿る本能が、ちくりと警告の棘を刺すこともあった――もし、相手も私の表情や話した内容を分析させているとしたら?  サジェストされた会話をしているとしたら?  ――この疑問が意味するところの本質に理解が及ぶと彼は少しだけ薄ら寒さを覚えたが、少なくとも目の前で行われるコミュニケーションはいつでも上出来で、同じ相手と回数を重ねるたびにその精度はますます洗練されていく一方だった。
 たとえそれらが網膜上の素子同士がもたらす虚構の交信に過ぎないとしても、この高度に確立された主観現実に嫌疑を差し込む余地は、まったくないように思われた。

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title: "事実だけでも印象操作が可能な実例"
date: 2020-12-09T00:40:50+09:00
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tags: ["politics"]
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いま世界中で合衆国大統領選挙に関するフェイクニュースが飛び交っているが、事実だけでも印象操作は十分に可能である。本記事はその実例の一つを示す。
一昨日、あるニュースが[発表された。](https://www.sankei.com/west/news/201207/wst2012070024-n1.html "産経ニュース")下記はその引用文となる。
> **日本学術会議会員の男逮捕**
下半身触る姿見せた疑い
商業施設内で自分の下半身を触り、その様子を女性店員に見せつけたとして、兵庫県警西宮署が県迷惑防止条例違反の疑いで、豊田理化学研究所フェロー、川村光容疑者(66)=名古屋市名東区=を逮捕していたことが7日、県警への取材で分かった。川村容疑者は日本学術会議の会員。
なるほど日本学術会議とやらの会員が性犯罪を犯したらしい。これは実にけしからん。そうだ、日本学術会議といえば、詳しくは知らないが問題になっていたなあ。こんなふしだらなやつが会員になっているくらいだから、やはり菅さんの言うことは正しかったのかなあ。
**……このWeb版の見出しを作った記者が期待した反応は、おおむねこんなところだろう。** 僕の邪推を司る器官がそう囁いている。というのも、容疑者男性には他にもっと着目すべき肩書があったからだ。豊田理化学研究所フェローである。フェローとは主に研究者に与えられる称号のことで、彼はその中でもとりわけ参画の度合いが大きい常勤フェローとして名を連ねている。
このことから豊田理化学研究所での業務こそが容疑者男性の本職なのは疑いの余地がない。それは産経新聞社も本当は理解していると思われる。なぜなら下記の画像のとおり、同紙の紙面においては豊田理化学研究所フェローとして彼を紹介しているからだ。
{{<tweet 1336074462752468994>}}
つまり産経新聞社はWeb版に限り、**何らかの意図をもって容疑者男性をあえて見出しで日本学術会議会員として報じたことになる。** 他にも、新聞社としては毎日新聞が同様に「学術会議会員逮捕」と後追いで[報じている。](https://mainichi.jp/articles/20201208/ddl/k28/040/263000c "毎日新聞")
理由はいろいろ推測できる。一般人にあまり馴染みのない肩書よりも、最近の出来事で知名度が高まった日本学術会議を引き合いに出した方がPVが稼げるからかもしれない。あるいは、僕の邪推を司る器官が書かせたように……もしかすると、イデオロギー的な都合なのかもしれない。
実はこうした事例は珍しくない。今回はたまたま産経新聞だったが、朝日新聞や日経新聞だってやっているかもしれない。いずれにせよ、**単に事実であることはその報道内容の正当性を必ずしも担保しない。**
認識力に限界を持つわれわれ一個人がとれる最大の防衛策は、できるだけ多くの政治信条が異なる報道機関から情報を得て、せいぜい多角的のものを見る癖をつけることくらいだろう。

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title: 二度目の機会ならある
date: 2018-06-06T18:01:44+09:00
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tags: ["essay"]
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なにかと悪い方向に物事を考えるくせがある。いかにも企業の危機管理部が提起しそうな「最悪の想定」を大幅に越えて、ほとんどサスペンスかホラーの域に到達するまで妄想をやめられない。そのせいか現実の話ならともかく、とんとん拍子にうまく展開が進む手合いのフィクションはどうにも苦手だ。
これは必ずしもリアリティの話ではない。創作だからこそどんなに極端に後味が悪くても楽しむ事ができるのに、わざわざ底抜けにお気楽な内容にしてしまう意義があるだろうか。せっかく刺激的な人物や設定を作ってもそれでは自ら魅力を殺いでしまっているようなものだ。
なんでも、聞いた話では二度目の人生がどうとかといった題名の作品が炎上したらしい。日本刀で戦時中に数千人も殺した元軍人が、老衰で逝去した後に異世界で活躍する話だそうだ。ありきたりな筋書きだが驚くべき事に十八巻まで刊行されていてアニメ化も決定していた。
もっとも、炎上の理由は物語が退屈だからではない。作者のヘイトスピーチに因るものだ。あまり僕のブログの品性を汚したくないので具体的な内容には言及しない。あえて言うなら、まがりなりにも物書きをやっている割には語彙力がえらく貧相に見えた。
せめて彼のヘイトスピーチと作品にまったく関連性がなかったのなら、作品そのものへの批判は回避できた可能性もある。ところが戦時中に数千人も殺したともなれば、その中に作者がTwitterで差別感情をぶつけた中国人や韓国人も大勢含まれているはずだ。
事実、中国大陸では日本兵が日本刀で殺した数の競争をしていたとの記録も残されている。そんな殺戮に与していたかもしれない主人公が、特に反省の色もなく大往生して異世界でお気楽に過ごすなど到底穏やかな話ではない。殺した数をゲームスコアのように示す書き方も度を越した浅慮さだ。
ここまで始末が悪いと作者と作品は別との言い分も通りにくくならざるを得ない。彼がそれを勝手に公表する自由はあれども、アニメーション会社や出版社にリスクを冒してまで後援する義理はない。結果、くだんの作品のアニメ化企画は主要声優の全員が自主的に降板、原作も全巻出荷差し止めといった自己防衛的な企業判断に落ち着いた。
結局、作者や彼のコンテンツを擁護してくれる人たちはほとんどいなかったようだ。なにも道徳や倫理に反する作家や作品は彼だけに限った話ではない。かの夏目漱石が自著の「韓満所感」で帝国主義むき出しの傲慢な発想をもとに、中国人や朝鮮人を見下していたのはよく知られた話である。
> 歴遊の際もう一つ感じた事は、余は幸にして日本人に生れたと云ふ自覚を得た事である。内地に跼蹐(きょくせき)してゐる間は、日本人程憐れな国民は世界中にたんとあるまいといふ考に始終圧迫されてならなかつたが、満洲から朝鮮へ渡つて、わが同胞が文明事業の各方面に活躍して大いに優越者となつてゐる状態を目撃して、日本人も甚だ頼母しい人種だとの印象を深く頭の中に刻みつけられた。同時に、余は支那人や朝鮮人に生れなくつて、まあ善かつたと思つた。彼等を眼前に置いて勝者の意気込を以て事に当るわが同胞は、真に運命の寵児と云はねばならぬ。
当時でも日韓併合や植民地政策に批判的な作家は決して少なくなかったので、夏目漱石の言動はその時の価値観に照らし合わせてもなお迎合的だったと言わざるを得ない。それでも彼の作品が愛され続けているのは作品に独立した評価を与えうる余地があったからだ。
しかし、くだんの作者はどういうわけか自身の思想と作品世界をほとんど一体化させてしまった。戦争で敵を大勢殺した元軍人が、特に葛藤もなく英雄として往生した上に異世界で再び活躍するなど、いかにも無学なネット右翼が考えつきそうな話に思える。彼の作品には独立の余地がなかったのだ。
ここまで書いてようやく彼の書いた小説のタイトルを検索する気になった。「二度目の人生を異世界で」というらしい。現実に二度目の人生はないが二度目の機会ならある。ヘイトスピーチやその他狭量な言説には我慢ならないが、彼はまだ字面の上で過ちを犯したに過ぎない。
どんな悪人にもやり直す権利はあるのだから、もちろん彼にも更生する機会が与えられるべきだろう。ぜひこの件を教訓として学び、それを次の作品に活かしてもらいたい。表面上の謝罪だけで易々と許されるほど甘くはない。
## 余談
せっかくなので実際に作品を読んでみたものの、やはり悪い意味で色々と驚かされた。既に作者は社会的にかなり痛めつけられているのであまりひどく言いたくはないが、どうしてもなにか言わずにはいられない。
前述のとおり主人公は数千人も殺してのける優秀な刀の使い手だったが、冒頭の時点で老衰死した事が明かされる。そこから異世界に行くとなれば、多少のファタンジー要素を加えるにしても老人のまま転生するものと考えられる。そうでなければ設定の意義がなくなってしまう。
ところが作中では現代知識を持ち合わせたアニメ好きの青年として生まれ変わる。ファンタジー世界の若者として生まれ変わるのではなく、現実世界の老人としてでもない。現実世界のナウなヤングとして転生するのである。この設定はだいぶ理解に苦しむ。つじつまの合う余地がまったく見られない。
おまけに主人公は生前の記憶をほとんど失っている。ここまで徹底していると意図的に葛藤や後悔といった場面を避けて作られているかのようだ。それでいて異世界でも刀の使い手として敵を殺して女をはべらせる妙な都合の良さに違和感が募る。
さらには主人公のハーレムを脅かしそうな勇者に容赦なく毒を盛ったり、自ら城を破壊しておきながら原因を魔物に転嫁したりと、あたかもピカレスク小説を彷彿させる展開に思わず自分の読解力を疑い始めてしまった。そんな卑劣極まる主人公が作中では無批判に褒めそやされているのだから不快極まりない。
物語の冒頭で神とはいえ無害な女の子を気軽に蹴り倒している時点でなにかおかしいと思っていたが、どうやら作者は民族差別だけでは飽き足らずインターネット上の逸脱した倫理観をそのまま作品に反映させてしまったようだ。僕よりは年下だと信じたい。
逸脱は芸術になりうるけれども、それには高度な批評性と緻密さが伴ってなければならない。今回の短い読書を通じて改めてその複雑性を実感できた。

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title: "二本の短編小説を書いた所感と解説"
date: 2020-12-29T11:55:46+09:00
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tags: ["essay"]
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二本の短編小説を書いた。ワンアイディアのものと、活劇性の高いものをそれぞれ一本ずつ。僕はこれまで短編を書いたことがないわけではないが、基本的には新人賞狙いの長編一辺倒でやってきた。
今思えば長編小説は執筆に時間がかかりすぎて、浮かんだ構想を文章に起こして試すには長丁場すぎるきらいがあったと言える。結果として未完成の原稿ばかりが堆積していき、実際に応募まで進んだ作品はごく少数に留まった。
そこへいくと短編は書きやすい。キャラクターの造形をそこまで深堀りする必要がなく、思いついたテーマをすぐに単一の物語として働かせることができる。短編賞、それもSFの短編賞はほとんどないので実益に結びつきにくいところはやはり欠点になってしまうが、中長期的に見れば決して無駄ではないように感じた。
十万文字超の長編となると友人に読ませるのも気後れするが、短編となればこれも格段にやりやすい。さしあたっては、その数少ないSF短編賞の一つである創元SF短編賞に応募できるくらいの力作を仕上げたい。
## 「主観現実権」について
[この作品](https://note.com/riq0h/n/n33d3ba3756e3 "note")は先の大統領選挙に端を発し、主にSNS上で盛んに活動している陰謀論者たちの様子を見て思いついた。
件の大統領選挙がバイデン氏の勝利で幕を閉じたことは今さら言うまでもない。トランプ大統領が度を越した狂人でなければ、滞りなく政権移行が進んでいくものと考えられる。
しかし陰謀論者の信じる現実では、トランプ氏がいずれすべての”不正”を暴いてバイデン氏や世界中のマスコミを打ち負かし、彼が再び大統領として君臨する、ということになっている。
彼らは自身の信じる現実に背くニュースは端から捏造、陰謀の類と決めつけてかかり、都合の良い情報を吹聴する媒体だけを選好するので、おのずとSNS上の人間関係も同様の指向性を帯び、一種の閉塞的なデジタル・コミューンを形成してしまっている。
つまり、この点において、彼らの見ている主観的な現実はわれわれと大きく異なっているわけだが、もし、そうした主観と客観的な現実のギャップをテクノロジーが上手く埋め合わせてくれるとしたらどうだろう?
あまつさえ、それが人間の幸福度を高める手段として認められ、権利の一つと見なされたらどうなるだろう?
不快な人間は勝手に美少女か動物に置き換えてしまえばいいし、コミュニケーションは機械に代理させればいい。景色や内装だって好きに見た目を変えられる。自分の理想や認識といちいち食い違い、予測不能な情報でストレスを与えてくる客観現実などもはや不要なのだ……。
これはなにも遠い未来の話ではない。既にYoutubeやニュースアプリなどには、ユーザの閲覧履歴を解析して好ましいと思われる内容を優先的に表示する機能が実装されている。
こうした技術が洗練されていけばいくほど、人々がそれに馴染めば馴染むほど、われわれは自分にとって不都合な情報に触れることを苦痛で耐え難いものと感じるようになるだろう。そして、それらの痛みから逃れたいがために、われわれは人間の根本的な部分をいつの日か機械や企業に明け渡してしまうのだ。
なお、この作品は連作になる予定である。このようなテクノロジーが未成熟な青少年の間に蔓延した時のグロテスクさを描いてみたい。
## 「対革命耐性」について
[この作品](https://note.com/riq0h/n/n4fd72a014218 "note")はウィリアム・ギブスンの系譜に代表されるサイバーパンク的な世界観に、僕の好みの描写と格差論をちゃんぽんして書き上げた。
一作目とは異なり、今回は短編小説として許される文字数を限界まで使ってキャラクターの造形にも意識を向けた。やや鼻につくくらい格差論をテーマとして前面に押し出す以上、それぞれの階層を代表するキャラクター像がおのずと要請されるためだ。
当初、主人公に敵意を持つ人物として登場し、かなりの悪印象を振りまいたスティーブ・ワイヤット刑事が、中盤の活劇で見事に敵を撃退するさまは、少々作劇のセオリーに忠実になりすぎたきらいもあるが、個人的には気に入っている展開である。
秩序が乱れた世界のデカとは、酒やタバコに溺れて汚職の一つや二つくらいやっているものなのだ。それでいながら、気分と運のめぐりあわせでたまに人を救ったりもする。尺の問題で彼の回転式拳銃をあまり活躍させてやれなかったのが心残りだ。
対して主人公のユアン・ファイは設定上では優秀とされていても作品内ではあまり活躍せず、むしろ大企業の都合にただ翻弄されるばかりで、最終的には単なる俗物として役割を終えてしまう。
これはいわゆる現実における小市民的人物(つまり僕やあなただ)が、ちょっとした悲劇やメディアを通じた仮想体験でにわかに社会正義に目覚めたとしても、大本の社会階層が維持されている限りはなにも変わりようがないということの示唆として描写したつもりである。
怪我が完治したユアンは、おそらく以前よりはいくらか低層の人々に意識を向け、あるいはしたり顔で寄付の一つくらいするかもしれないが、太い実家と恵まれた身分を手放す真似は決してしないだろうし、あくまで自身の相対的優位性を保持し続けるであろう。これはキャラクターの性格に依存する要素ではなく、僕やあなたの写し身なのだ。ユアンの容姿に関する描写が徹底的に省かれ、性別や人種が一意に決められていないのはこのためだ。
こうした解決しえぬ格差構造に自覚的な人々は早々に偽善的態度を捨て、入れ替わりに偽悪の仮面をかぶり自らの立場を不定形に装っていたりするが(いわゆる冷笑主義というやつ)いずれにしても社会問題から逃避していることに変わりはない。とはいえ、誰もがチェ・ゲバラのようになれるわけではないのが難しいところだ。
ところで、格差社会を是正するためとはいえ大量虐殺を躊躇しないテロリストは、一般的な善悪の尺度では間違いなく悪の側に分類されると思われる。
しかし倫理や善悪に拘泥できるのは、それ自体がある意味で恵まれた証拠とも言える。多くの人から称賛されるような「美しい勝ち方」はそれだけ手間と時間を要求する。真に立場が弱く、あらゆる資本力に専有された政治や社会に参画できない人々は、残念ながらやはり暴力に訴えるしか手段がないのである。
さもなければただ黙殺され、じわじわと真綿で首を絞められていくだけなのだから。暴力はいつの時代でも万人に開かれている闘争手段なのだ。こんなふうにヒステリックに極まった考え方は僕の好むところでもある。フィクションに限った話だが。
作中でテロリストたちが戦闘ソフトウェアに操られたユアンに一方的に鏖殺され、それが極度に陰惨な情景描写でもって表現されているのは、力なき者がようやく得た革命の刃も、強大な資本とテクノロジーの前には容易に砕け散ってしまうということを劇的に表すためでもある。
読者が「テロリストが倒されたはずなのに胸糞悪い」と感じてくれることを切に望む。われわれは「スカッと後腐れなく倒せる悪役」の存在にもっと懐疑的にならなければいけない。
題名の「対革命耐性」とは単に補償責任から逃れたいメーカーの詭弁ではなく、われわれの社会にも強く植えつけられた一種の呪縛だということを暗に示している。われわれは互いに分断されていて大衆運動から大きく物事を変えられないように仕組まれているのだ。
また、本作では一つの未来像として、仕事が機械化していくのではなく、人が機械化して仕事をさせられる社会を提示している。人間の手先に匹敵しうるほど高度なマニピュレータを製造するくらいなら、人間をポインティングデバイスとして定義し、脳みその働きをソフトウェアに代理させた方が安価で済むという予想図は、新規性に乏しいながらも良い線を突いているのではないかと思う。
これらのギミックや設定を単一の短編で書き捨てするには惜しいので、今後も別の短編に登場させる余地はあるかもしれない。

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title: "人を増やすことのろくでもなさ"
date: 2022-05-25T17:08:38+09:00
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tags: ["essay", "politics"]
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![](/img/141.jpg)
少子化はなにも日本に限った話ではない。中国や韓国もそうだし、アメリカやEUもそうだ。およそ先進国とは呼べない経済規模の国でさえ、出生率は減少傾向にある。極めつけは上記の画像だ。13億人超もの国民を誇り、間もなく中国の人口をも抜くと言われているあのインドが、とうとう人口置換水準を下回ったのである。
人口置換水準とは文字通り、その地域において人口を維持できる合計特殊出生率の値を表している。大抵は2.0とちょっとをキープできていれば均衡的と見なされるが、件のインドの数値はジャスト2.0。つまり今後これが回復しなければ、インドはいつの日か少子化に突入してしまうのだ。かの巨大国家でも人口減少には抗えない。この絶望的な事実をどう捉えるべきかちょっと考えてみたい。
## 増えない種は滅びるしかない
われわれ人類は他の種と比べて非常に豊かな目的意識を持って生きている。モーゼが **「人はパンのみにて生くるものにあらず」** と説いたのは約3700年以上も前のことだ。物質的、肉体的な充足ばかりに突き動かされるのではなく、精神的な、もっと高次の目標を携えて生きるべきとの考え方は、なにも近現代に特有の発想ではない。数千年の年月を経て、モーゼや先人たちの野望が現実の諸制度として結実したと言える。
しかしわれわれ現代人は少々やりすぎたのかもしれない。数千年前の人間には想像もできない抽象的な意識や理性を持ち、快適な社会を成り立たせるための理屈を巧みに練りあげてきた一方、**繁殖するという原初の目的をほとんど忘れてしまった。** 本来、それこそがすべての生命の唯一の存在意義だったはずなのに、今やこの宿命をしっかりと果たしている先進国は皆無に近い。
幸い、先進国国民の生命的怠惰を他の国の人々が補ってくれているおかげで、世界全体の平均出生率はまだ2.4を維持している。しばらく人類の頭数は増え続けるだろう。だがいずれ衰退の日は確実に来る。国家の経済成長と出生率には負の相関が認められており、インドがまさに経済成長に伴って出生率を落としたように、他の国々にも同様の現象が起こりうると予想されるからだ。
昔は人口爆発を契機に宇宙へ進出するSFが典型的だったが、今ではとびきりナンセンスな与太話の一つでしかない。都市化が進んでいる国とそうでない国のどちらが多いか考えてみればすぐに判る。地球は数百億人程度の頭数では到底埋め尽くせない。今も未来も地球はずーっとスカスカのままで、おそらく危険であろう宇宙開拓をそこらの人々がこぞってやる利点は薄い。
さて、そうするとわれわれはどうやら地球で少しずつ頭数を減らしながら生きていくしかないらしい。おまけに出生率は減っても平均寿命は伸びる一方だろうから、今後の人類は年々増える非生産個体を延々と抱え込む羽目にもなる。その上、巨大隕石がうっかり地球を擦りでもしたら、われわれはたちまち灼熱の衝撃波に焼き尽くされて絶滅する。人類の繁栄とやらは今のところ砂上の楼閣に過ぎない。増えず散らない種の末路は必ず灰燼だ。
もちろん、一部の物好きが宇宙に出張っていく可能性はある。技術革新次第では定住なんて話もありえなくはないかもしれない。個人的にはあってほしい――が、いつもこの手の話題で置いてけぼりにされるのは、**果たして移住した人類はまともに繁殖していけるのか、** という疑問である。宇宙開拓などという壮大な目的意識を持つ人間が、素直に根を下ろして子作りに励むとは僕は思えない。もしできたならば、**現代文明の一切合切を諦めたことになる。** 実を言うと、これこそが今回のメインテーマだ。
## われわれは無理強いされないと増えない
非常に不快な話をする。本エントリ冒頭の画像を見た時、際立って出生率が高い赤く塗られた地域が目に留まったかと思う。**ビハール州と呼ばれるこの地域は、レイプが社会問題化している。** カースト制度の残滓により加害者男性がろくに処罰を受けず、逆に被害者女性が咎めを受ける事例も珍しくない。
ずいぶん昔にカースト制度は法的に廃止されているにも拘らずこうした因習が色濃く残っているのは嘆かわしいことだが、他方、ビハール州はインド国内で圧倒的な出生率を叩き出してもいるのだ。このように地域別の出生率について学ぶと、人権と自由の教えに薫陶を受けた先進国国民にとっては極めて不都合な予測にぶち当たる。
**すなわち、経済はあまり発展しない方が繁殖に有利で、人権意識は身についていない方が繁殖に有利で、理不尽な因習に縛られている方が繁殖に有利で……要するに近現代的な価値観はかえって人類を緩やかな滅亡に追い込んでいるのではないか、** といった予測である。
しかもその度合いは、たまに政治家がうっかり口を滑らせて顰蹙を買うような程度の代物ではない。生まれで役割と上下関係が決まるカースト制度に支配され、レイプが事実上不問に付され、上下水道や電気、インターネットの整備もままならない地域の実情なのだ。出生率3.0という数字は、それほどまでに重い。薄々勘づいている思うが、ビハール州の経済水準はインド国内でもっとも低い。
ほとんど唯一の例外は経済大国かつ民主主義国家でありながら同様に出生率3.0を誇るイスラエルだが、これには避妊を禁じる正統派ユダヤ教徒の存在や、歴史的経緯から民族繁栄をなによりも重んじる国民の力強い意思などが作用していると見られ、やはりそう簡単に真似できたものではない。
つまり、子育て支援に保育園を増やそうだとか、教育費用を減免しようだとか、男女の出会いの場を作ろうだとか、そんなやり方ではもう間に合いそうにない。**なにか手助けを施すのではなく、むしろ繁殖に関わる行為以外の一切を剥奪されないとわれわれは増えない。** 地域別の出生率を見たところ、特に国民の教育支出が目立っていない発展途上国でも軒並み低下しているため、仮に先進国の国民が子供の教育を妥協しても出生率は大して回復しないだろう。
したがって、人類の繁殖を妨げているのは、豊穣な文化であり、人権の庇護であり、自由の謳歌であり、まさしく現代文明そのものということになってしまう。だが解ったところでどうにもならない。われわれの世代はこの問題にシリアスな態度で臨むにはまだ早すぎ、因習の時代に立ち帰るにはあまりにも遅すぎるからだ。かくしてわれわれ旧人類の文明は、繁殖に成功した新人類との対立を余儀なくされる。
## 反出生主義の誘惑
このように敷衍していくと **「ぶっちゃけ人類とか増える必要なくね?」** との結論に達するのはいかにも自然な成り行きである。出生とは本質的に不平等な営為であり、いたずらに不幸を増大させているという見立ては相応に理論強度が高い。確かに生まれさえしなければ少なくとも不幸にはならない。**人類、別に絶滅したって構わないのでは? 宇宙? 行かなくていいよ。** そういう諦観はありえる。実際、Twitterには[「反出生主義」](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E5%87%BA%E7%94%9F%E4%B8%BB%E7%BE%A9)を掲げる人々が大勢いる。
しかし僕はこれには明確に反対している。なぜなら反出生主義者の言う不幸の少ない緩やかな絶滅とやらは、**全人類の大半が反出生主義者ではない**という前提に支えられているからだ。人類の多くが反出生主義者になった世の中とは、次世代の発生を考慮しない社会である。そんな社会はおよそ持続可能性を持ちえない。ただ縮小再生産を繰り返すだけに留まり、避けがたい必然の貧困化にわれわれは苦しみ喘ぐことになる。
よって反出生主義者は永久のマイノリティでなくてはならない。彼らの言い分には一理あるかもしれないが、より快適な文明社会の存続には子孫の時代を見越して考えられる活発な人間が必要不可欠なのだ。ゆえに僕は反出生主義に反対せざるをえない。
とはいえ「よし、じゃあ今すぐ子供を2人以上作ろう」ともなかなかならない。もし国民に繁殖を強制するような政策が提案されたら、それはそれできっと反対するのだろう。そうこうしているうちにわれわれの世代は時間切れとなり、この問題は後の世代に丸投げされる。後の世代もまた、さらに後の世代に回していく。結局、われわれは生命的怠惰を乗り越えられない。
こうして書き起こしてみるといかに自分勝手な振る舞いをやってのけているのかよく判る。反出生主義なんてまだ可愛いものだ。なにしろ **「自分は子孫を作らないかもしれないが、他の人にはじゃんじゃか作ってもらって老後の面倒を見てほしい(こちとら人権があるんやぞ?)」** と言っているに等しいのだから。いつかとんでもない罰が下るのではと省みるふりをしつつも、毎日漫画とかを読んで暮らす日々。
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## 参考文献
[インド一周旅行記](https://tabisora.com/travel/report-india/65.html)
[BBCニュース](https://www.bbc.com/japanese/45795923)
[Wikipadia](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%90%88%E8%A8%88%E7%89%B9%E6%AE%8A%E5%87%BA%E7%94%9F%E7%8E%87%E9%A0%86%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88)
[India in Pixels](https://www.instagram.com/india.in.pixels/)

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title: "人生やり直せるからって勝ち確だと思うな"
date: 2022-10-07T21:43:35+09:00
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tags: ["novel"]
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 急な話で申し訳ないけど君は人生をやり直せることになった。現在の人格と記憶を保ったまま、任意の過去の自分に時間移動できる。いわゆるタイムリープってやつだ。君がよく知るであろう言葉で表せばね。ああ、僕が誰かは気にしなくていいよ。問題はやり直したいかどうかだ。今の自分にすっかり満足しているなら断れるが……どうせ断らないだろ? 僕調べでは対象者の七十三パーセントが五分以内に合意している。誰しも人生に不満はあるものだね。さあ、まずはいつ頃の自分に戻りたいか決めるといい。
 ただし、新生児まで戻るのはおすすめしないな。いくら成人相当の人格が備わっていても、肉体が未発達だと不測の事態を避けられない場合があるからね。赤ちゃんの君は大人の腰の高さから落ちただけでも死にかねないぞ。それに、新生児は口蓋も咽頭もろくに機能していないから発話が難しい。食事の内容もえらく乏しい。おまけに年単位でベビーベッドから出られない。外出時はたいていベビーカーだ。
 要するに行動の自由が皆無で、日々の食生活は単調で、会話も運動も趣味も行えない。これって大人相手にやったら普通に全然拷問だと思う。こんな暮らしがだいたい二年は続く。その間に精神が荒廃しない自信があるか? 僕にはない。
 というわけで、繰り返すが新生児はおすすめしない。少なくとも二足歩行が可能で、行動に最低限の裁量が与えられていて、本くらいは読める肉体が望ましい。かといって就学年齢ギリギリに戻ると今度は人間関係のつまらなさに萎えるかもしれないけどな。「頭脳は大人」で有名なあの名探偵が小一のガキと会話してて死にたくならないのが僕には不思議だよ。
 いっそ不登校児にでもなろうか? なにしろ君の人格はすでに完成している。わざわざ義務教育をやり直す必要はないかもしれない。君の両親の物分かりが揃って良かったら、理屈のこじつけ次第では楽しい不登校ライフも実現できそうだ。だがまあ、無理なら諦めてせっせと通うんだな。教育方針の対立や不振が家庭内不和を引き起こすこともある。下手な変化を起こさないのも二回目の人生では大切だ。
 もともと不登校だったって? なら、せっかくの二回目だしハードモードにチャレンジしてみたらどうだろう。これは下手な変化とは限らないぞ。
 人生をどうやり直すかは人それぞれとはいえ、以前と異なる職に就きたいならそれに応じた資格や学歴を目指さなければいけないし、かつて夢破れた甲子園や国体に再挑戦するならもっと早く運動に取り組まないといけない。単純に金が欲しいだけでも種銭は必要だ。百倍に上がる株を買っても元手が百万円ならリターンはせいぜい課税前の一億円にしかならない。あるいは、仮想通貨の歴史に明るい人は2010年あたりからビットコインの採掘を始めるかもしれないな。その場合でもできるだけ性能に優れたコンピュータが欲しい。
 そう考えると不登校ライフも延々と続けるわけにはいかなくなってくる。スポーツ選手にしろ高給取りにしろ、そこに行くまでの道のりには学校生活が大きく関わっている。言わずもがな、高校以降は学校での交友関係も侮れない。そういう時期に形成した人脈はやり直し後の人生でも役に立つ。人生二回目の君は、おそらく友人選び一つとっても損得勘定を働かせずにはいられなくなるはずだ。ゲームだって二周目は効率的なプレイングに寄りがちだしな。
 だが、やりすぎるなよ? あまりストイックに振る舞いすぎれば、それはそれでただの嫌なやつとして敬遠される。貴重な二回目の学生時代をそんな最悪の印象で終わらせたくないだろ。人生のやり直しを扱った物語だと雑に省略されがちだが、いじめっ子やムカつく輩をスパーンとやっつけて済むほど現実は簡単じゃない。いくら二回目でも針のむしろみたいな人間関係に囲まれて暮らすのは相当しんどい。
 未来の情報は君が持つ最強兵器に違いないが、それにしたって2022年以前に留まっている。現時点で君が死にかけの老人でなければ、やり直していくらか経てば2022年を再び通過していくことになる。以降はまた手探りの人生だ。たとえビットコインで億っていても決して安心はできない。いつ税制が変わるか判らないし、何十年か後に共産主義革命が起きない保証もない。じゃあ、どうする 余裕のあるうちに、あらゆる状況に対応できるような知識を身に着けて備えるしかない。
 ここで話は少年少女の時期に戻る。自由時間が多い子どもの間に、とにかく勉強しておく。これが結局のところモアベターだ。オリンピック出場の夢が叶おうと、東大理三に合格して医者になろうと、それ一本で一生安泰とは言いがたい。本の虫になったからといって未来予測に長けるわけじゃないが、徒手空拳で挑むよりはずっと有効打が期待できる。あー、やっぱり勉強って大事だね。なんだかむっちゃ深イイ話で締められそうだな……。
 そんなこんなで色々納得して本を読みだした人生二回目の君。さしあたりは歴史でも学び直すか……と思いついてページをめくると、そこで強烈な違和感に気づく。あれ なんでアドルフ・ヒトラーが画家なんだ 独裁者だったんじゃ……ん 『9.11』って、たしか飛行機がビルに突っ込んだテロ事件だったよな? ……なんでニューヨークが焼け野原になってんだ?
***
 そう、君は最大のリスクを見落としていた。なぜ、過去に戻ったのが自分一人だけだと思い込んでいた? 数十人、数百人、数千人が戻っているとは考えられなかったか? その中の何割かは自分の人生をやり直すなんてちゃちな発想は持っちゃいない。崇高な使命を胸に秘め、世界の歴史を書き換えるべく時間移動者となったのだ。
 この瞬間――君の最強兵器は木っ端微塵に砕け散った。未来の情報はもはやあてにならない。ビットコインは誕生しないかもしれない。入社したかった大企業は倒産するかもしれないし、目指していた専門分野は凋落しているかもしれない。オリンピックが開催される前に戦争が起きるかもしれない。
 まあ、幸いにも際立った歴史改変はまだ行われていなかったとしよう。過去に戻ったら世界は核の炎に包まれているかも、なんて極論をいちいち考慮していたらキリがない。世界大戦は二回で済んだし、ヒトラーは地下壕でちゃんと拳銃自殺した。そういう仮定にする。しかしそれでも、君はこのリスクを無視したままやり直し後の人生を生きることはできない。さっきも言ったように、過去に戻ったやつが他にもたくさんいるだろうってリスクだ。
 言っておくが、時間移動者にとって他の移動者は境遇を共にした仲間なんかじゃない。自分の目的や野望を邪魔しかねない敵だ。エネミーだ。君も相手も互いに未来の情報を握っているからな。どうせなら競合は排除しておきたい。君がよろしくやっていきたいと考えていても、相手はたぶんそうは考えない。君がビットコインを掘って億りまくったせいで、他の移動者が不利益を被っていたらどうする 君がある分野で名を残したことで、他の移動者に割を食わせていたら あまりに悪目立ちすれば、未知の時間移動者は容赦なく君を消しにかかってくるだろう。ひょっとするとその移動者は2022年ではなく、2052年の人間かもしれない。より多く未来の情報を持つ者に太刀打ちなどできない。
 そうなると次に考えられるのは、利害が一致する時間移動者を集めて組織を作ることだ。結託していれば敵対者も手を出しにくい。頭を務めるのは一番遠い未来からやってきた時間移動者だ。2022年がもっとも遠い未来なら、君がリーダーになる。より過酷な状況ではもはや君の当初の目的とは無関係に、イデオロギーや価値観の問題でやむをえず特定の組織に与せざるをえない局面も訪れるだろう。いずれにせよ、まずは死を避けなければわざわざ人生をやり直した意味がない。
 こうして君はめちゃくちゃ不本意ながら不可避の闘争に身を投じていく。気づけばその手にはプラズマライフルが握られている。元エンジニアの仲間が作った未来の武器だそうだ。敵対組織を殲滅し、過去の歴史を書き換えなければ二十一世紀中に人類は滅んでしまうと彼は訴えるが、それが真実かはぶっちゃけ君には判らない。かといって、無闇に逆らえば粛清されるかもしれない。だが敵対組織とて君を野放しにはしないだろう。
 やり直した人生で札束風呂に浸かるはずだった君は、いつしかじめじめした廃屋で潜伏中のテロリストみたいな暮らしを強いられていた。ある日、そこへバタバタとなだれ込んでくる完全武装の兵士たち。プラズマライフルを手にする間もなく拘束された君。抵抗した者は見たこともない武器でたちまち撃ち殺されてしまった。すわ敵対勢力かと思いきや、連行された場所はなんと国家公安委員会が置かれている中央合同庁舎だった。地下の殺風景な取調室で、刑事風の格好をした男が言う。
「お前さんはずっとマークされていたのさ。おれたち公安の時間移動者監視局にな」
***
 考えてみれば当たり前の話じゃないか? 過去に戻った人たちの全員が君の生きる時代をまたぐとは限らない。明治時代から江戸時代に戻る者もいれば、安土桃山時代から戦国時代に戻る者もいる。首尾よく目的を達した者、そうでない者、あるいは、うっかり油断して素性を話した者も、きっといたに違いない。
 君の存在はとっくに知られていたのだ。日本では1949年に初めて時間移動者が政府に捕捉され、国民には明かされない秘密組織として時間移動者監視局が発足した。目的は時間移動者の監視と拘束、抹殺、そして、活用である。
 国家に害をもたらす時間移動者は抹殺するが、未来の情報を持つ者はなるべく確保しておきたい。その情報がより緻密で有益であれば日本は国際競争で有利になる。起きるはずの事件を起こらなくさせ、または逆に起こし、新しい科学技術を先んじて開発する。未来の情報は国家の一大資産と言える。
 しかし、未来の情報はただ一人が持っていても意味がない。情報の真贋性を確かめるには”すりあわせ”が必要不可欠だからだ。ある大事件が特定の日時に起きるとして、百人の未来人が似たりよったりの日時を答えたなら情報の確度は増すが、百人のうちごく数人しか知らない情報なら、大した情報ではないか、記憶違いか、虚偽の可能性が生まれてくる。少なくとも、虚偽の情報を話して国家に混乱を与えるような者は要らない。
 刑事風の男は、取調室の机の上に拳銃を置きながらそう言った。言ってから、時間移動年月日、初回の人生の素性、二回目での改変部分などを手始めに話すよう要求してきた。君は答えるほかない。まったく具合の悪いことに、壁の向こう側から銃声としか思えない破裂音が、バン、バン、と聞こえてきたのだ。刑事風の男はニヤッと不敵に笑った。
「要求通りに未来の情報をよこせば、おれたちの監視下で細々と暮らすぶんには許してやるよ」
 君は正直に全部話した。現代史なんてろくすっぽ覚えていなかったが……答えられるだけ答えるしかなかった。取り調べが一旦終わると独房に入れられ、夜が明けると再び取り調べが続いた。脳味噌がまるでレモンみたいに、記憶の最後の一滴まで搾り取られたかのようだった。取り調べの担当者は都度代わったが、机の上には常に拳銃があった。
 日付の感覚が判らなくなるほどの月日を経て、ようやく取り調べは終わった。刑事風の男は書類を片付けながら君にこう言った。いかにも侮蔑のこもった、厭味ったらしい、咎める口調で。
「はあ、それにしてもこんな真似をしてまで人生やり直したいとは、お前さんはよっぽどみじめなやつだったんだろうな。前に築いた人生も関係もなにもかも投げ捨てちまったんだからよ。理解できないね、おれには……」
 君はなにも言えなかった。人生をやり直して、オリンピック選手になって、医者になって、研究者になって、ビットコインで億って、札束風呂に浸かって……目まぐるしく脳裏で回るやり直しの夢が浮かんでは消えた。
 半年後、君は監視局の命令に従って文字通り「細々」と暮らしていた。証券取引や仮想通貨の採掘は禁じられている。金持ちになってはいけないし、企業の意思決定に関わるような地位に就いてもいけない。いてもいなくても差し支えのない人間として、日々をただ漫然と生きる。時折、監視局に呼び出されて”すりあわせ”の要員に使われるが、報酬は殺されないことだけ。
 ある時、日雇い仕事を終えた君は帰り道で不審な女に声をかけられる。女は「この道を曲がるまでは監視がありません。止まらずに話を聞いてください」と横並びに歩きながら言ってきた。咄嗟に顔を合わせようとすると「前を向いて」と強く制止された。しばらく黙々と歩いて、道を曲がるまであと十メートル足らずのところでやっと女は喋った。
「あなたが時間移動者なのは分かっています。もし、今の境遇に不満なら――道を曲がらずに直進して、奥に待つ車に乗り込んでください。猶予は一分。それでは」
 女はつかつかとハイヒールを鳴らして先に進んでいった。突然のオファーに君は思わず歩を止めかけた。聞こえてきた内容を一言ずつ噛み締めて、反芻した。ここで直進したら監視局に逆らったことになるのだろうか……だが、君の足元はいつもの位置では傾かなかった。まっすぐ続く道に一歩、また一歩と踏み出すたびに、かえって足取りは力強くなった。
 こんな粗末な暮らしが一生続くなんて冗談じゃない。ただ幸せになりたかっただけなんだ。覚悟を決めて乗り込んだ黒塗りの車の中は、うってかわってベージュの内装に彩られたラグジュアリーな雰囲気に満ちていた。ドアを閉めるか閉めないかのうちに車はすばやく走りだした。ややあって、席に座るさっきの女が告げた。
「監視がないと言ったのは嘘です。もう公安の手の者が迫ってきている。捕まればあなたは弁明の余地なくその場で射殺されるでしょう」
 動揺する君をよそに女はさらに続けた。
「われわれはロシア対外情報庁時間移動者監視局の局員です。あなたの持つ未来の情報と引き換えに、身の安全を保障してあげます」
 車内の小刻みな振動がさらなる破滅の予感を伝えた。日本に時間移動者を監視する組織があるのなら、他国にあっても不思議はない。きっとあらゆる国々に同様の監視組織があるのだろう。君の二回目の人生は、どうやら自力ではどうにもならないところまでねじ曲がってしまったようだ。初回の人生よりよほどひどい。時間移動者をめぐる国家間の争いに巻き込まれて、間違いなく結末はろくでもない。今さら言っても手遅れだが、人生やり直せるからって勝ち確だと思うな。
***
 ……あ、観終わった? これはね、一種の講習動画みたいなものだ。二十世紀末から二十一世紀前半向けの。時間移動後の死亡者があまりにも多いんで、最近は観せるようになったんだ。みんな割と軽々しく過去に戻っていくんだけど、希望通りのやり直しに成功した人って実は全然少ないんだよね。単にやる気を失って初回より堕落しちゃった事例も珍しくない。なにしろ幼少期からやり直したら、人によっては三十年とか四十年近く頑張らないといけないからな。時間感覚は実年齢相応に遅いのに、昔の趣味や遊びにもさほど熱中できないのは厳しい。人間関係で同じ失敗を繰り返して病んじゃう人もけっこういるね。運や環境じゃなくて自分の人格のせいだったって気づかされるのはだいぶ辛いだろうな。
 で、どうする? 人生やり直したい? ……やめとく? そうか。やっぱりだめか。困ったな。この講習動画の提供が義務化されてからというもの、時間移動の合意率が僕調べで二十七パーセントまで落ちてしまったんだよ。僕にもノルマが課せられているのにこれじゃ商売あがったりだ。とはいえ、強制はできないからな。あくまで君がうんと言ってくれないことにはね。だから、だめなら仕方がない。
 ……でも、最後に言っておくよ。君が任意の過去の自分に戻れるように、君の今の人生だってそこらじゅう未来から戻ってきた時間移動者だらけさ。学生時代にとびきり優秀だった彼、彼女はもしかしたら時間移動者かもしれない。ニュースでよく見る著名な起業家や資産家、研究者は二回目の人生をうまく切り抜けた人たちかもしれない。時間移動者監視局だってもちろんあるよ。見つけられないだけでね。おっと、これ以上のことは時間移動しない人にはちょっと言えないかなあ。
 ……念のためにもう一度訊いておこうか。人生、やり直したい?

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title: "仕事は楽しみですかって聞いてるだけじゃん"
date: 2021-10-07T21:31:53+09:00
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tags: ["essay"]
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日頃Twitterなんぞをやっていると、あまり意識しなくても目に入ってくる話題がある。ここのところは、やれフェミニストがアニメの絵にケチをつけただの、やれ表現の自由戦士がどうのこうの……みたいな論争がけっこう盛んに行われているようだ。いくつかの案件では、僕も自説を2、3ツイート分くらいぶった記憶が残っている。あの手の話題が堂々巡りになってしまうのは、突き詰めると結局は各々の主観に依らざるをえないからだろう。
僕としてはまあ、公共の場の広告であっても表現の幅は広い方が好ましい、と思う。官公庁のPRでもぼちぼちエッジが効いていれば相応に訴求効果が見込めるだろうし、とりあえず人気のアニメキャラクターを立ち並ばせるだけでも人々の耳目を惹きつけられる。諸問題に解決意欲を傾けることは全市民の義務であり、広告の内容にいちいち左右されるようでは困るというのはいかにもな正論だが、そう出来のよい市民はあまりいないのだからとにかく次善の策を打っていくしかないのである。
とはいえ、だ。こうした考え方は別段、論理的とまでは言えない。ポーズをとった可愛らしいアニメキャラクターや、やや挑発的でキャッチーな文言を盛り込んだポスターを「エッジが効いていて訴求効果が見込める」と判定するのは、明らかに僕の主観的な見立てに過ぎない。そんな僕も他の誰かが注目さえ集められればいいと言わんばかりに、街頭ビジョンを全面ジャックしてアダルトビデオ風の意見広告を垂れ流したり、動物虐待防止キャンペーンのためにリアルな犬猫の死骸を模した等身大フィギュアを公共展示したりしたら、きっと反対する。**やりすぎだ、** と。しかし僕の感覚と「誰か」の感覚のどちらが絶対に正しいのかは、むろん、決めようがない。せいぜい、われわれに考慮可能な判断材料は多数決――みんながどう感じるのか――程度しかない。
そこへいくと、公共広告というやつは難しい。多数決なら過半数を上回っていれば良しと考えるかもしれないが、それこそアニメや漫画などの能動的に閲覧するコンテンツならともかく、受動的に、自動的に人目に触れてしまう公共広告は、たとえ反対者が3割、いや、2割でも立場が危ぶまれる恐れが出てくる。反対していない7割、8割は大半が「どうでもいい」のであって、積極的にその広告を好ましいと感じているわけではないからだ。前述の「コンテンツ」との違いはそこに見られる。たとえ割合が優勢でも「どうでもいい≒ないならないでも構わない」と「反対≒なくなってほしい」とでは、残念ながら後者が優先されうる。
このような考え方に基づくと、広告の表現はより慎重に、より控えめにならざるをえない。組織内の審査を通過したとしても、クレームが殺到すれば撤去もありえる。結果、もたらされる判断基準はえてして不透明かつ不明瞭であり、ひどく恣意的、作為的、独善的に見える。とりわけ、日頃から多くのコンテンツと向き合い、あらゆる表現手法の造詣を深めた者からすれば、ほとんど難癖、偏見の類にさえ思う。より好かれるのではなく、より嫌われないための表現は、手慣れている者にとってはどうしても退屈な代物である。
近年は公共広告でもサブカルチャー文化を意識したものが増えてきている。これらの潮流は同文化がもはやオタクに特有のコンテンツではなく、若者全体に広く浸透した証左と言える。他方、中高年層や興味関心のない人々には、どうにも馴染みがたい新興文化が公共の場を踏み荒らしにやってきたと映る。両者の認識の差を埋め合わせるのは、極めて難しい。サブカルチャー文化がメインストリームに食い込む過程には必ず闘争が避けられず、過去の歴史を踏まえても穏便に融和が果たされた試しはない。この時、サブカルチャー文化に属する側は自身をさしたる理由もなく嫌悪され、排除される被害者と捉えるだろうし、反対にメインストリームに属する側は自身を異民族に侵略され、安寧を乱された被害者と捉えるだろう。
Twitterのユーザはもともとサブカルチャー文化に親和的な人たちが多い。僕も彼らもサブカルチャーに浸かりきっている。ゆえに自分たちの愛好する文化や表現が誰かを傷つけるなど、とても受け入れられない。あいつら被害者ぶりやがって、一方的に嫌って、差別しているのを言い繕っているだけだろ、と決めつけたくなる。部分的にそういう勢力も実在するところがますます論争をややこしくしている。しかし偶然にも、本現象を説明しうる好材料が最近得られたので、後半はそれを体よく活用することとする。
## 仕事は楽しみですかって聞いてるだけじゃん
![](/img/63.jpg)
**仕事は楽しみですかって聞いてるだけじゃん――** とはならんことは、ここ数日のTwitterを眺めていれば判る。数多のオフィスビルが建ち並ぶ品川駅に掲載された背景から「自殺者が出てもおかしくない」と評する者もいる始末だ。あるニュースサイト運営企業がブランドメッセージとして打ち出したこの広告は、すさまじい批判に晒されわずか1日で撤去を余儀なくされた。企画を手掛けた企業は[謝罪にまで追い込まれている。](https://www.uzabase.com/jp/news/alphadrive-newspicks-advertising/)かくいう僕も、本件を茶化した[ツイートをした。](https://twitter.com/riq0h/status/1445008176806457349)
さて、となると、われわれはいよいよ問われることになる。サブカルチャー文化を起用した広告に寄せられる数々の批判と、今回の件に、一体何の差があるのか? **意識高い系のベンチャー企業が放つブランドメッセージはTwitterユーザの反感を買いやすいから好きに殴ってよくて、Twitterユーザお気に入りのサブカルチャー文化は殴ってはならないのか** 一晩考えてみたが、僕はどうあがいても整合性を保った反論は思いつけなかった。
同様の疑問を抱いた人たちもいるにはいる。それじゃあ、表現に難癖をつけて回る連中と同じじゃないか、なんて真似をしてくれたんだ、と。だが、もう遅い。どうあれ広告は撤去されたし、われわれは単なる文字だけのメッセージからも、色々な物事を連想できてしまうことを自ら証明してしまった。であれば、可愛らしいアニメキャラクターは性的搾取だとか、性犯罪に繋がりかねないとか、そういった類のものも十分に想定可能な意見として留保しなければならなくなった。
Twitterで一言突っ込んだだけで、わざわざクレームは入れていない、という言い訳もちらほら見られる。なるほど、クレームを直接入れさえしなければ万事問題なし、と。当然、その理屈は対立者にも利用される。直接クレームは入れていない。Twitterで言っただけ。相手が勝手に取り下げただけ――下手に言い訳をこけばこくほどわれわれの理論強度は弱まっていく。あるいは、叩いてはいない、大喜利に使っただけだ、なんて恥知らずな言い草も聞こえてくる。**殴る蹴るはアウトだが、指を差して笑いものにするのはセーフだと?** 小賢しいいじめっ子の屁理屈だ。そんなのは。
所詮、われわれは公平ではなかった。気に入る表現は何が何でも擁護するし、気に入らない表現はとことん邪推してみせる。そう、たとえ「今日の仕事は楽しみですか」の一言でさえも。[へそ出しルックのVtuberが性差別的だと言われた時、](https://news.yahoo.co.jp/articles/c9507864e22da576e1b8446b9c610b56e096b0a8)Twitterユーザの大半は一笑に付した。僕も「なにいうてんねん」と思った。にも拘らず、この有様である。もはや同じ穴の狢と言われても仕方がない。
もう一度言っておく。 **仕事は楽しみですかって聞いてるだけじゃん。** 一体、どこに文句があったというのか。ディストピアっぽい? ディストピアの定義は? 線引きは? 理論的根拠は? 統計的エビデンスは? ……これは表現の自由戦士たちが表現規制派を詰める際の常套句だが、今はわれわれの喉元に突きつけられている。現状起こってもいない不幸な未来や、文言に記されていない内容を想像することは、即ち表現規制派の物言いを追認したに等しい。どう考えてもそうなる。片方の批判だけが正義の告発で、もう片方だけが許されざる弾圧とは絶対にならない。どちらかが弾圧なら、もう片方も弾圧に決まっている。
われわれは試されている。もし、今以上に公共広告に許される表現の幅を広げ、サブカルチャー文化や、あるいはもっと際どいアプローチをも大衆に認めさせたいのなら、意識高い系ベンチャー企業のピントズレした広告にも手心を加えてやらなければならぬ。どんな形であれ彼らに圧力を感じさせ、広告を引っ込めさせたらわれわれはたちまち弾圧者だ。むろん、広告を取り下げさせるつもりはなかったなどという言い分は通らない。**われわれがそう言ってのけるのなら、表現規制派も同じ言い分で逃げおおせるだろう。**
もし、こんな面倒は御免だ。茶化したい時は自由気ままに茶化したいし、批判も風刺も表現の自由だ。引っ込めるのはそいつの判断だ、と言うならば、サブカルチャー文化が常に手厳しい批判に晒されることも覚悟しなければならない。その中にはもちろん、われわれが好き勝手に件の広告をミーム化したのと同様、粗雑な難癖も山ほど含まれる。**結果、撤退に追い込まれる恐れだってある。** しかしこっちの道を選ぶ以上はそれもやむをえない。
そうした批判をまた批判し、さらに批判し返され、どちらかの体力が尽きるまで延々とシバき合うのも一つの手には違いない。自ら**インターネット人間**と化し、今日も明日も明後日も、晴れの日も雨の日も対立者と罵詈雑言を交わし、仲間と悪口の出来を競いながら人生を過ごす。やがて、好みのコンテンツを見かけた時でさえ **「フェミさんが怒りそうw」** といった、いかにもエコーチェンバー内の歓心を買うことに特化したコメントばかりが口を衝いて出るようになる。いずれにせよ、良いとこ取りはできない。
僕は――どうすべきなのか、まるで判断がつかない。公共広告の表現の幅はもっと広がってもいいと思っている。だが、文字一つでここまで人々が激昂し、他ならぬ僕自身も加担した事実を鑑みると、現実的には幅広い広告表現などどだい不可能ではないか、という気がしてくる。
なんにせよ、インターネット人間にはなりたくない。結局、都合の許す時だけいっちょ噛みして、そうでなければ黙殺してごまかす。われわれは虫食いまみれの半端者でしかないらしい。

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@ -0,0 +1,151 @@
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title: "保守SNSの欺瞞を暴く"
date: 2021-10-01T11:00:14+09:00
draft: false
tags: ["tech", "politics"]
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一昨日、[Misskey.io](https://misskey.io)のローカルタイムラインはある話題で持ちきりだった。**保守SNS**を名乗る謎のインスタンスが突如現れたからである。
「保守SNS」とは元東京大学特任准教授の大澤昇平氏によって設立されたSNSだ。名称の通りイデオロギー色が右側に強く、英語圏における[「Gab」](https://ja.wikipedia.org/wiki/Gab_(SNS))や[「Parler」](https://ja.wikipedia.org/wiki/Parler)と同じ立ち位置を狙っているものと見られる。これらの先行例も同様に保守派――というよりは右翼、差別主義者、陰謀論者――が集結する場として知られている。
大澤昇平氏自身にも[「自社では中国人は採用しない」](https://biz-journal.jp/2019/11/post_129900.html)との発言を行った結果、特任准教授の地位を追われた過去があり、彼らはその手の発言がしづらくなってきている現代社会を「抑圧的」と捉えているようだ。僕からすれば手当り次第に偏見をばらまく彼らこそ加害者に他ならないが、彼らには彼らなりの主観的現実が備わっており、それに基づくと **「自分たちは”自由”な発言を妨げられ、不当な弾圧を受けている被害者である」** といった具合になるらしい。この認識の隔たりは非常に大きい。
兎にも角にも既存のSNSでうまくやっていけない彼らは、より”自由”な発言の場、自分たちにとっての理想郷を希求するに至った。これがまさしく「Gab」や「Parler」であり、ひょっとすると日本においては「保守SNS」とやらになるのかもしれない。正直このこと自体は大いに結構というか、勝手に視界から遠ざかってくれるのならドシドシやってくれとさえ感じる。とはいえ「保守SNS」が開発されるまでに起こった問題や、ローンチ後の実態については看過できない部分がいくつもあり、その点はきっちり釘を刺しておきたい。
## 産地偽装
保守SNSは**純国産**を謳うことで既存のSNSとの違いを[アピールしてきた。](https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000008.000036904.html)畜産物でさえ国産の定義は意見が別れるのにソフトウェアの「産地」を定義するなどほぼ不可能に思えるが、実際そのように宣伝されているので何か秘策があるのだと考えられていた。
しかし件のWebサービスを調べてみると、どう言い繕っても国産とはとても言いがたい実装を行っていることが明らかとなった。まずもって注意を向けられるのがサービスの設計基盤である。結論から言えば、もちろんフルスクラッチでなければ厳選された魚沼産ソフトウェアでもなく、分散型SNSとして広く知られる[「Mastodon」](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%89%E3%83%B3_(%E3%83%9F%E3%83%8B%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%B0))の粗雑なフォークであった。
つまり、既製の外国製ソフトウェアを流用しただけに過ぎず、決して国産とやらではない。下記に一目瞭然の証拠を提示する。
![](/img/55.gif)
**……!?**
見ての通り、ログイン画面で「登録する」ボタンを押すと、**あろうことかMastodonの公式ページに飛んでしまうのだ。** 現状、保守SNSは招待制らしいので登録画面のコーディングが追いついていないのかもしれないが、それにしてもひどいお粗末さ加減だ。
続いて、運用サーバの素性を確認する。保守SNSが彼らの言うところの”自由”な発言を保障するには、諸外国から干渉を受けにくいインフラ環境で構築されていなければならない。したがって、差別主義者に厳しい欧米各国企業のクラウドサーバは彼らにとって論外ということになる。
```bash
$ whois sns-sakura.jp
Domain Information: [ドメイン情報]
[Domain Name] SNS-SAKURA.JP
[登録者名] 株式会社Daisy
[Registrant] Daisy, inc.
[Name Server] ns-1632.awsdns-12.co.uk
[Name Server] ns-1416.awsdns-49.org
[Name Server] ns-178.awsdns-22.com
[Name Server] ns-593.awsdns-10.net
[Signing Key]
[登録年月日] 2021/09/15
[有効期限] 2022/09/30
[状態] Active
[最終更新] 2021/09/15 14:34:19 (JST)
$ nslookup sns-sakura.jp
Server: 203.165.31.152
Address: 203.165.31.152#53
Non-authoritative answer:
Name: sns-sakura.jp
Address: 18.182.250.218
Name: sns-sakura.jp
Address: 35.74.8.142
$ nslookup 18.182.250.218
218.250.182.18.in-addr.arpa name = ec2-18-182-250-218.ap-northeast-1.compute.amazonaws.com.
$ nslookup 35.74.8.142
142.8.74.35.in-addr.arpa name = ec2-35-74-8-142.ap-northeast-1.compute.amazonaws.com.
```
**awsdns、amazonaws……ってAmazon Web Servicesじゃないか** 説明不要、かの有名なGAFAの一角。保守SNSにご参加の皆さんにはたいへん残念なお知らせだが、あなたがたはまったく”自由”の身ではない。理論上、皆さんの発言はすべてAmazonの手のひらの上だ。**保守SNSはAWSにホスティングされている。**
以上の説明により「保守SNS」とやらが凡百のMastodonインスタンスの一つに過ぎないことがよく伝わったかと思う。参加者の皆さんはただちに大澤昇平氏のTwitterに突撃して説明を要求すべきではないだろうか。
## ソフトウェアライセンス違反11月15日追記
保守SNSが凡百のMastodonインスタンスだと都合が悪いのはなにも愛国者に限った話ではない。Mastodonはオープンソースソフトウェアだが、改変を行った際はソースコードをすべて開示しなければならないのだ。この義務を課すライセンスを**AGPLGNU Affero General Public License** と言う。当の大澤昇平氏も存在自体は認識していたらしく先月に下記のような発言をしている。
![](/img/74.png)
しかし改変したソフトウェアを公開した場合は**直ちに**ソースコードを開示することが求められるため、本項執筆時点11月15日で未だそれが履行されていない現状を鑑みると、**残念ながら大澤昇平氏にはAGPLを遵守する意思がない**と判断せざるをえない。
AGPLの問題については本エントリの初稿時点で既に周知の事実ではあったが、当時の僕の認識ではさすがの大澤昇平氏もライセンスくらいはいずれ守るだろうと考えていたので敢えて指摘を避けていた。万が一入れ違いで状況が改善されたら名誉毀損になるかもしれないと懸念したからだ。
ところがトランプ前大統領が積極的に関与しているとされるSNS「TRUTH Social」において[同様の事例](https://mag.osdn.jp/21/10/26/222200)が発生したり、Mastodonのスポンサー兼開発者のSuji Yan氏が公にこの問題に[言及している](https://twitter.com/suji_yan/status/1451551192941842433)状態でもまったく改善に向けた動きが見られず、とうとう本エントリの読者からも「ライセンス違反の話を書いてくれ」と言われてしまったので追記することにした。
ソフトウェアライセンス違反は裁判に発展する可能性もある。Twitter上での追及は馬耳東風で突き通せても裁判ばかりは逃れられない。もし本件が取り上げられたらいよいよ彼も年貢の納め時ということになるのではないだろうか。
## 「国籍認証」の謎
かねてより保守SNSの目玉機能としてしきりに[喧伝されていた](https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000012.000036904.html)「国籍認証」だが、こちらの方もさっそく暗雲が立ち込めている。右翼アカウントのTweetを覗き見るに、参加希望者たちは本機能こそが自由闊達な議論を可能にしうる最大の特長と見ているようだ。
僕からすれば単に日本国籍保有者と判ったところで、それのどこが信用に値する情報なのかいまいちピンと来ない。日本国籍を持ってさえいれば即ち善人なんて話はまずありえないし、僕は遠く離れたどこかの日本人よりも隣人のネパール人の方を信用する。
そもそも先祖が同じ日本人だから信用するとかしないとか、保守派にしてもえらく奇怪な発想に思えてならない。では彼らはたとえ十年来の友人が相手でも、仮に外国籍と判明したら途端に信頼感や友情が雲散霧消してしまうのか。**「国籍認証」とやらを通過したどこかの日本人よりも下位の存在として捨て置くというのか?**
そんな決断が平気の平左でできるとしたらとんでもない冷血漢というか……もはや昆虫じみている判断基準だなと僕は感じてしまう。
もっとも、そこまで彼らが全幅の信頼を置いている件の国籍認証も、結局は詳細が不明瞭なままサービスが開始されてしまっている。認証されたアカウントはユーザ名の横に国旗が表示されるとの説明はあるものの、それ以上の情報は現時点でも明らかになっていない。
[Youtube](https://www.youtube.com/watch?v=E0YYOjtXEHY)で大澤昇平氏が喋っている内容によると、運営企業が認めた「認証会社」がユーザの身分証を確認して、その結果が運営企業に通知されるらしい。「認証会社」ごとに多様な確認手段を用意させ、互いに競争させることでより信頼性の高い会社をユーザが選べるようにしたいと語っているが、なぜこんなまどろっこしい方法を採るのか判らない。国籍認証の結果に下手な格差がついて制度が瓦解しかねないし、他の会社で再び認証を受けられるのなら収斂に向かうだけで二度手間にしかならない。
運営企業が個人情報に直接触れるリスクを減らすための方便かと考えたが、運営企業が認証会社を公認する以上はどのみち任命責任から逃れられないだろう。最終的にこの仕組みがどんな形に落ち着くのか定かではないにせよ、参加希望者たちが期待しているほどの代物にはならないと思われる。なんせ、Googleフォームにパスポートと住民票の画像をアップロードしろとのたまっている始末だ。
## 別に自由でもない
前述の動画では他にも面白いことを言っている。どうも保守SNSは運営企業ではなく**選出されたモデレータ**が言論統制を行うらしい。当初のAIによる自動判定だとかブロックチェーン云々の話は無かったことになったようだ。そこでは情報の事実性のみを重要視し、ユーザの自由よりも優先されるという。当然、事実かどうかの認定もモデレータが取り仕切る。大澤昇平氏曰く、**トランプ前大統領は基本的に正論を言っている**のでTwitterではBANされたが保守SNSではむしろ歓迎されるとのこと……**こんなのただの専制じゃないか?**
要するに保守SNSではヘイトスピーチは許されても、参加者たちから大きく離れた意見は許されないかもしれない。情報の正誤を認定するのはモデレータであり、下された判定をもとにアカウントのBANや投稿の削除を決めるのもモデレータなのだから。そして、モデレータの選出には間違いなく大澤昇平氏が関わっている。あたかも同氏を玉座に座らせた王国のような装いだ。
この手の専横は「Parler」では既に起こっている。検閲されない自由闊達な議論の場を提供すると謳っていた件のSNSは、蓋を開けてみたらリベラルな意見を封殺して陰謀論やヘイトスピーチを持て囃すだけの異常な空間だったのだ。
>創業者によると、パーラーは「検閲のないオープンなコミュニティーの場」であり、「ニューヨークの街角で話せることはパーラー上でも話せる」としている。
>ただもちろん、この主張は誤りだ。パーラーは、データ収集をめぐるスキャンダルで倒産したケンブリッジ・アナリティカと同じ人物から資金提供を受けているのみならず、介入も検閲もしないとのうたい文句はまやかしであり、実際にはかなり積極的に検閲を行なっている。パーラーはアカウントを削除したり、多数の表現や画像の投稿を禁止したりしており、利用規定はもはやフェイスブックやツイッターよりも厳しい水準にある。
>唯一の例外がヘイトスピーチで、パーラー上ではヘイト投稿がまん延している。さらに、とんでもない陰謀論が飛び交うSNSにふさわしく、突飛な疑いが掛けられることも多い。
>(引用元:[Forbes](https://forbesjapan.com/articles/detail/39008)
確かにTwitterのアカウント規制基準には僕自身も思うところがあるものの、いくらなんでもここまであからさまではない。名称通り素直に保守派を優遇してやるとでも言っておけばいいものを、下手に色気を出して自由だのなんだのと嘯くからこうしてツッコミを入れられる。
## Fediverseに繋がっている
冒頭で触れた[Misskey](https://join.misskey.page/ja-JP/)とは、各々のユーザが自由にサーバインスタンスを建てて運用できる分散型SNSの一種で、ちょうどMastodonの類友にあたる。[Misskey.io](https://misskey.io)は主要なインスタンスの一つ。これらのSNSの特徴は共通のプロトコルを導入することでソフトウェアの仕様に違いがあっても、タイムラインを相互に閲覧できる仕組みが備わっているところだ。そのようにして形成される巨大な交流ネットワークを**Fediverse**と呼ぶ。
最大の謎は、どういうわけか保守SNSが自らFediverseに接続しにきている点だ。Fediverseへの参入はむろん強制ではない。にも拘らず、国籍認証とやらに固執してまで限られた人間との交流を望んでいるユーザたちが衆目に晒されているのだ。大澤昇平氏の意図がまるでつかめない。参加者とて、自分たちの発言がいつの間にか巨大なネットワークに放流されていると知ったら憤るに違いない。Misskey.ioが保守SNSの話題で持ちきりになった理由は、まさしくこういう経緯があったためだ。
[本人のTweetによれば](https://twitter.com/Ohsaworks/status/1443197474684817412)さしあたり切断したようだが、正式リリースの際には再び接続するという。しかし保守SNSのユーザたちが差別発言や陰謀論を連投し続けるなら、いずれどのインスタンスからも名指しで接続を断られて孤立してしまう気がしてならない。
## 保守SNSの真の目的
たとえ内実がMastodonの粗雑なフォークに過ぎず、サーバ代をAWSで安く済ませたとしてもやはり金はかかる。大澤昇平氏は本サービスの開発に伴って実施したクラウドファンディングで2000万円もの高額資金を[調達したとされるが、](https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000010.000036904.html)その実態は[様々な情報源](https://matomame.jp/user/yonepo665/27259e33e91dc860d77f)からだいぶ怪しいと目されており、実際には大して金銭的余裕がないのではないかと推察される。わざわざ門戸を狭めて対象顧客を絞り込んでいる様子からも、広告収入でまともな利益を得られる見込みは低い。
僕は保守SNS自体はただの釣り餌だと考えている。元々しっかり運営していくつもりはさらさらなく、モデレータの権限やアバター、アイコンの類を高値で販売し、短期間のうちに売り抜ける。そして、運営上の不都合や障害を隠しきれなくなってきたところでサービスを捨て去る。さもなければ「認証会社」を通じて得た個人情報を活用して、次の商売に使い回す。大澤昇平氏の言動は一見右翼そのものだが、どこか演技的な側面が否めない。
かつて'00年代のインターネットには、中国や韓国を殊更に侮辱してみせることがネットユーザの嗜みだったという、すさまじく醜悪な文化が存在した。彼は世代的にその時期と被っているし、例の差別発言から見ても部分的にネット右翼ではあったのだろう。しかし公然と陰謀論をまくしたてたり、極右政党の支持を大っぴらに表明するほど極端に偏ってはいなかったはずだ。
自身を放逐してのけた東京大学やリベラル的言論に憎悪の念こそ抱きつつも、陰謀論に引っかかるような判断力の低い人たちをターゲットにして金銭をせしめてやろうというのが、彼の真の目的なのではないかと僕は思う。このような輩に「保守」の名称を簒奪されてしまうなんて、本当の保守派からしたら実に迷惑な話だろう。心よりお見舞い申し上げる。
## おまけ
最後に、Misskey.ioの住民を恐怖に慄かせた保守SNSの悪魔的設計をお見せしよう。
![](/img/56.png)
**Webページに接続者のIPアドレスが透かし画像で埋め込まれている。**
あえて調査でもしなければ当然こんな仕様は知る由もないので、うっかりTwitterなどに保守SNSの画像をアップロードすると大澤昇平氏に投稿者のIPアドレスが知られてしまう恐れがある。今時分、発信者情報開示請求はかなり通りやすくなっているため、言及内容によってはスラップ訴訟を仕掛けられるかもしれない。
Mastodonのフォークで実装を済ませる横着な真似をしておきながら、こういうところでは抜け目なく報復の手筈を講じてくる。すっかり忘れていたが、大澤昇平氏はかつて未踏ソフトウェア創造事業でスーパークリエイターに認定された男。過去の栄光とはいえ技術者畑には違いない。
それほどの功績を残した人間の行く末が右翼と陰謀論者の王様とは、あまりにもあまりすぎる顛末だ。
**■UPDATE 2021/10/03 20:37**
某匿名掲示板で拾った流出画像の一部。案の定、内輪揉めが発生している模様。
[画像1](/img/57.png)
[画像2](/img/58.png)
[画像3](/img/59.png)
[画像4](/img/60.png)
[画像5](/img/61.png)
[画像6](/img/62.png)
大澤昇平氏にやたら重用されているRyoO氏とは一体何者……
## あわせて読ませたい
[・極右専用SNS開発シミュレーション](https://riq0h.jp/2021/03/25/103026/)
トランプ氏が独自のSNSを開発する計画を建てているとの報道を受けて半年前に書いた記事。全部自前でやろうとするとここまで苦労する。

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title: "個人情報と引き換えに得たもの"
date: 2022-07-04T21:27:22+09:00
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tags: ["diary"]
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日本國政府による[個人情報切り売りキャンペーン](https://mynumbercard.point.soumu.go.jp)が目下実施中である。なんでもマイナンバーカードと呼ばれる特に使い道のない板切れを取得した後、健康保険証と銀行口座情報を献上すると畏れ多くも最大2万円分のマイナポイントが下賜されると言う。マイナポイントはPayPayをはじめとする各種決済サービスのポイントと交換することができる。すなわち仮想の諭吉と英世だ。
僕はマイナンバーカードの取得を条件に得られる5000ポイントを既に拝領済みだったため、今回の事業で新しくもらえるマイナポイントは15000ポイントまでとなる。日頃、Arch Linuxとかいう異常者専用ディストリを常用し、公共Wi-Fiに接続する際はVPNを欠かさない程度には自由とプライバシーに敏感なのに、わずか15000円ごときであっさり個人情報を明け渡してしまうのだから文字通り現金なものだ。
事業開始当日、いち早く15000マイナポイントをPayPayポイントに兌換した僕はYahooショップに赴いて即座に椅子と鍋を買った。なにしろ以前の椅子ときたらあたかも脱皮しているかのように合皮の破片を床に撒き散らすひどいやつだったのだ。しかし機能自体に支障はなく今まで買い換えるほどには至らなかった。
いっそそのまま本当に脱皮して成虫ならぬ成椅子(超カッコいい)にでもアップグレードしてくれたら助かっていたのだが、所詮はゲーミングチェアブームに乗っかってノリで買っただけの代物に過ぎない。もう二度と合皮の椅子は買わん。ぶっちゃけ部屋の雰囲気と合わなさすぎて買った当初から割と後悔してた。
その点を踏まえて新しく買った椅子は[アイリスオーヤマのMOC-61](https://www.irisplaza.co.jp/index.php?KB=SHOSAI&SID=7185564F)だ。僕はどうも椅子の違いが判らない貧乏尻らしく、周囲の友人らがこぞって使っているアーロンチェアだのバロンチェアだのエルゴヒューマンだのの良さがいまいち理解できないでいる。であれば、ヘッドレストがついたメッシュのハイバックチェアならなんでも構わんだろうと半ば開き直って選んだのがこれだった。実際、マジでなんの問題もない。
![](/img/150.jpg)
部屋の雰囲気にもだいぶ溶け込んでいるし、申し訳程度にでもランバーサポートがついているおかげか腰への負担も少ない。上に挙げた高級椅子と比べるとおそらく耐久性に難があると想定されるが、そうは言ってもたかが1万円するかどうかの椅子だ。せいぜい1、2年も座れたら上出来じゃないか。壊れたらまた買えばいい。
続いて鍋の話。[ジオ・プロダクトの片手鍋](https://miyazaki-ss.co.jp/product/geo-product/)をサイズ違いで2つ買った。椅子はケチったくせに鍋は高級品を買おうとする異常性。しかし多層ステンレス鍋は単に超カッコいいだけではなく、テフロンの鍋には不可能な無水調理だとか揚げ物だとかができる。単純な煮込み料理でさえその蓄熱性の高さゆえかなりの差が出ると言う。欠点はやや重いことと注意しないと焦げ付くところか。用途の一部がかの有名なストウブやル・クルーゼと似ているがこっちはオールラウンドに使える。
![](/img/151.jpg)
到着当日からさっそく色々と試してみた。ポトフは材料を切って鍋に入れて水とコンソメと塩その他で加熱するだけの簡単料理だが、これで煮込むといつもより味のまとまりが良いような感じがした。ジオ・プロダクトの製造元が謳っているウォーターシール効果とやらの利点が表れたのかもしれない。
炊飯も試した。僕はもともと炊飯をコンロでやっていて専用の炊飯鍋も持っているが、できると言うからには一応試しておきたいのが性分。結論を言うといつもと同じ水分量で若干硬めに炊きあがった。硬い米が好きな人は気に入りそうな塩梅だ。底に米粒がこびりついてて洗うのが面倒かと思ったが軽くこすったら取れた。
![](/img/152.jpg)
そして忘れてならないのが揚げ物。残念ながら「蓋を閉めて揚げられる」のが利点ゆえ、肝心の動画は唐揚げが揚がる音しか提供できない。キッチンを自分で掃除しない輩にはいまいちピンと来ないだろうが、揚げ物の油が辺りに飛び散らないのはまことに革命的である。
{{<tweet 1543817417218211841>}}
かくして僕はテフロンの鍋と完全に決別した。あれはあれでノーメンテで扱える気軽さがあったが、より少ない道具で多くの目的を達成できるようすることが僕の調理スタイルだ。ある意味、マイナポイント事業が最後のひと押しになったと言える。あれこれのたまっても僕の銀行口座なんてとっくに知られているだろうし、健康保険に至ってはどのみち元から国営なので、まあそんなに分の悪い交換条件でもなかったな。
ちなみに、中華鍋以外はこんな感じで収納している。
![](/img/153.jpg)

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title: "僕たちはもう帝国軍じゃないか"
date: 2023-04-03T09:39:20+09:00
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tags: ['essay']
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旧体制の旗が焼かれたのはいつのことだっただろうか 僕が中学生に上がる頃2006年にはすでに半ば新憲法の理念が行き届いていたので、革命前夜はそれより少し前だ。思えば新世紀を境にADSLが普及しはじめたのは大きかった。高速なインターネット回線が革命を成就させたのだ。
そう考えると僕は革命に加わる苦労なく恩恵を享受した最初の世代とも言えるわけで、実際かなり牧歌的な生活を謳歌できた。噂に聞く革命以前のようにこそこそ隠れてやり取りなんてしないし、あけっぴろげに会話していてもマッチョ官憲に引っ立てられる恐れはない。
革命後20年余が経過した現在となっては、むしろまったく嗜まない方が珍しいくらいだ。僕も最近、後輩に自然体でつっこまれて少々面食らった。 **「変な映画だけじゃなくて普通にアニメとかも観るんですね」** って。たぶん昔なら逆だったよそれ。
僕たちは圧倒的に勝った。これといってなにをした覚えもないが事実勝っている。学生にらき☆すたとかの話がなぜか通じて、おにまいみたいなどう取り繕っても尋常ならざるロリコンアニメの話が公然と行われている。IT業界でもそうでなくても、若い世代ほどごくナチュラルにサブカルチャーを受け入れている。
歴史を紐解くと、昔の同志はずいぶん苦しい体験をしたらしい。いかにも摘発を恐れる反体制派の仕草で入念に話し相手を探り、対する側も巧妙に態度を読み取って素性を確認しあう。ようやく信頼しあえる関係を築けても、周りは体制派のマッチョばかりだ。おのずと学校や職場では息を潜めて過ごさざるをえない。
不幸にも反体制思想が露見した者も少なからずいた。当然、彼らの権利は速やかに失われる。治安の悪い場所ならサンドバッグにされるかパシリにされるか、いずれにせよ突然降りかかる様々なコミュニケーション上の理不尽について、彼らが救済された例はほとんどなかったという。
翻って21世紀。革命軍はインターネット回線を中心とするインフラを掌握し、間もなく放送局も占拠、国会議事堂に進撃して旧体制の旗は軒並み焼き捨てられた。そして、新政府の成立とともに新憲法が公布された。そこにはこう書いてある。 **「別に漫画とかアニメとかゲームが好きでもよくない?」** 現に世の中はその通りに変わった。
革命以後に学生生活を送った僕はどこからどう見ても完全な腐れオタクだったのだけれど、それを理由にひどい扱いを受けた試しは一度もない。どころか、後の社会で得た利益の方がずっと大きかった。この手の出世頭は他にもたくさんいて、僕のような平々凡々の類とは違って高度な技術者になったり経営者になったりインフルエンサーになったりしていった。
かくして新政府の権力は盤石なものとなった。支配地域は世界各地にぐんぐんと広がって、その勢いは留まるところを知らない。僕たちはもう反体制派じゃないし革命軍でもない。新しい帝国軍だ。インターネットを通じて日々更新される、ありとあらゆる文化の先端とミームの発端に影響を及ぼす支配階級と相成ったのだ。
にも拘らず、だ。新帝国軍が内に抱える怨嗟、憎悪の声は日に日に苛烈さを強めている。彼らはまだ自らが被差別者で反体制派で革命軍だと思い込んでいる。あたかも上等な背広に身を包んだ官吏が「反革命罪」を振りかざす滑稽さで、今日も明日も政敵を業火にくべる。新帝国の死刑は火炙りだ。革命以後、仮初の平和の陰で燃やされる人々の数は増えていく一方である。
僕たちは帝国軍、邪魔だてする者はいなくなった。革命以前の世代が身を焦がすほど求めた権利が当たり前に手に入る黄金時代において、アニメアイコンという名の勲章を胸に並べた彼らが興じるのは、どういうわけか漫画でもアニメでもゲームでも雑談でもなく、1日100ツイート超のレスバでありリツイートであり火炙りなのだ。
聞いていた話と違う。朴訥で善良で賢明な僕たちが実権を握れば、すべてがロジカルにピースフルに回るはずだった。旧体制のマッチョが画策してきた暴力と非合理の残滓は徹底的に摘まれ、誰もが消費と創作と論評に研鑽を重ねる満ち足りた日々を暮らすはずだった。
聞いていた話と違う。かの暴虐にして悪辣だったとされるマッチョどもは、目を見張る軽やかさで新憲法の理念に適応した。アニメ感想ツイートを何年も前にやめてレスバに勤しむ腐敗した帝国軍人をよそに、器用な手つきで流行りの新作を抑える様子は傍から見るとどちらが革命的か判らない。
「俺、オタクでさ〜」と鷹揚に笑うマッチョを赤ら顔で指弾する帝国軍人はその実、もはや自身の肩書きを被害者意識と権力の駆動装置としてしか利用していない。曰く、オタクは虐げられた、オタクは経済を回している、オタクは、オタクは……。
新帝国の繁栄と相反するかのごとく、彼らの卑屈さはますます高まっていく。愚にもつかぬおセンチを言っている。僕たちはもう帝国軍じゃないか。あふれかえる娯楽に身を投じられる時代がついにやってきて、より多くの人々と話に花を咲かせられる春日和に背を向けて、どうして自ら停滞を課しているのか僕には解らない。
むろん、戦うべき敵はいる。自由で開放的なインターネットを狭める輩だ。閉じられた商業サービスにインターネットを囲い込もうとする輩だ。そういう連中はプライベートジェットで帝国の法の支配からおめおめと逃れくさって、持て余した財貨を武器に反逆を企てている。さっそく、イーロン・マスクによってTwitterが滅ぼされた。
腐敗した帝国軍人たちは失態を晒した。単に自分にとっていけ好かない人々をやり込めてくれるというだけで、気前よく正門を開いてイーロン・マスクを迎え入れたのだ。ありもしない英雄譚や与太話に踊らされて、度重なる侵犯を前にしてもなお実態から目をそらしている。
こうした愚行の数々は、内外に新帝国の脆弱さを知らしめてしまった。自由よりも消費よりも創作よりも、かの暴虐にして悪辣とされたマッチョよりも、ひょっとすると僕たちは権威や暴力が好きなんじゃないのか。自制が利かず理屈も通じず、インフルエンサーが投げた餌に飛びつき、尻を叩かれたら走る畜生でしかなかったんじゃないのか。
こんな醜い同志を見るくらいならいっそ帝国などいらなかったと口を衝いて出かかるも、誰になにも束縛される謂われなく消費と創作に没頭できるこの社会を決して手放したくないのもまた本心なのである。窓から広場を覗くと、かつての同志が性懲りもなく他の同志を火にくべていた。あれこれ言っても僕がするのは、煙たさに辟易して窓を閉じることだけ。

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title: "僕はこのように投票した"
date: 2021-10-26T21:46:29+09:00
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tags: ["politics"]
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先日、買い出しのついでに期日前投票を済ませた。僕は根っからの左翼ということもありこれまで投票先にはあまり悩まなかったのだが、今回は予想外の懸念が発生したために投票行動の修正を余儀なくされた。本エントリは投票先の決定に至るまでの経緯について記す。世間では投票を促す文言ばかりが盛んに打ち出される一方、実際に他人がどのような理路でもって投票先を選んでいるか分からないまま迷っている人たちも大勢いると思う。僕の例が参考になれば幸いだ。
## 第一の要素:格差の是正
投票にあたって特に重視したい政策は人によって異なる。僕は格差の是正を重視している。より具体的には最低賃金の上昇、労働環境の改善、学費等の減免、累進課税の強化、消費税の減税が挙げられる。コロナ禍の現在であれば現金給付も欠かせない。
格差が広がった世の中では、生まれつきの環境で人生がほぼ決定される。なぜなら公教育や福祉が乏しい社会は貧困家庭の子供に十分な教育や技能を身に着けさせたり、その機会を与える余力を持たないために、社会階層の移動が起こりえないからである。すなわち、貧乏人の子供は貧乏人、ということになってしまう。
この際に蟠る当事者の心理的問題は単なる不公平感には留まらない。貧困家庭の子供に熱意があったとしても、裕福な家庭の子息に与えられる選りすぐりの教育資本に打ち勝つことは難しい。人は投げれば届きそうだからこそボールをバスケットゴールに投げるのであって、何キロメートルもの高さにある場所に向かって投げる者は滅多にいない。**投げる行為そのものを放棄する。** つまり、格差が一定以上に広がると市民から最低限の活力さえ失われてしまいかねない。
市民の活力が失われた社会では競争意欲が消滅する。人々は廉価で中毒性の高い刹那的な娯楽にばかりのめり込み、労働はもっぱらそのために行われることとなる。労働を通じた自己の啓発や向上などは望むべくもなく、企業は人材の確保に苦労する。現状、我が国の労働者のパフォーマンスが一見高いように見えるのは、労働条件のすり合わせが難しいパート主婦がやむをえず労働力を廉売したり、昔気質の中高年層が厳しい労働環境に耐えているからであり、いずれ崩壊は避けられない。
こうした事態を防ぐには税制を改革し、富裕層に応分の税負担を求めるより他に手はない。これは富裕層への懲罰ではなく、労働賃金よりも投資による収益の方が効率が高いことに起因する当然の施策なのだ。**要するに資本主義経済とは、仕組み上どんな過程をたどっても最終的には必ず富が偏在化してしまう。** かといって旧態依然の共産主義では商品価値の判断が市場ではなく官僚――限られた人間の手によって行われるゆえ、しばしば汚職の温床となる。
われわれが価値判断のツールとして市場経済をうまく利用していくには、ことあるごとに政府が手を加えて富の偏りをならしてやらねばならない。新自由主義者は資本主義をバトロワゲーかなにかと見なしている節があるが、今時分は商取引を円滑化させるための補助輪に徹してもらいたい。したがって、累進課税には大いに正当性があると僕は考える。
これらを踏まえた上で投票先を選ぶ。**そうなると、自民党と日本維新の会は除外される。この二つの政党は累進課税強化に消極的だからである。** 岸田首相は就任当初、あたかも再分配を重視するかのような振る舞いを見せていたが、今や公約からその手の文言は軒並み削除されている。岸田首相本人の考えよりも党の方針が優先されたのだろう。
ただでさえ自民党は過去数十年間にわたって格差の拡大を放置してきた。小泉政権下で行われた派遣法改正は多くの労働者の雇用状態を不安定化させたし、安倍政権が推し進めたアベノミクスは日経平均株価こそ上昇させたものの、実態は大企業に公金をばらまいただけで庶民にはなんら利益をもたらさなかった。その上、度重なる消費税増税。連立与党の公明党と併せて三分の二以上の議席を有しており、政策の軌道修正はいつでも可能だったにも拘らず、この有様。どう見ても格差の是正に無関心であったとしか考えられない。
残った政党のうち、最大の勢力を持つ野党は立憲民主党だ。立憲民主党は格差の是正を重視している。政権交代が実現すれば富の再分配が促進される可能性が高い。また、僕の選挙区において候補者を出馬させている。他の候補者は自民党、維新の会、無所属。おのずと小選挙区の投票先は絞られた。**以上の理由から、僕は小選挙区は立憲民主党の候補者に投票した。**
続いて、比例代表選挙の話をする。この選挙は政党名を書く。すべての政党の中から選べるので、個々人の支持政党が反映されやすいと言える。僕はこれまで比例代表選挙では日本共産党に投票してきた。言わずもがな、もっとも格差の是正に意欲的な政党であり、本党の議席が増えればそれだけ富の再分配が進むと考えられるためだ。僕は共産主義者ではなく市場経済と議会政治を肯定する社会民主主義者だが、彼らにほどほどの存在感を持ってもらうぶんには共産主義的な発想も有意義に作用するのではないかと思っている。
しかしながら後半の第二の要素に懸念が生じたので、今回は投票先を再考しなければならなくなった。
## 第二の要素:表現の自由
表現の自由は僕にとって次点の重要度を持つ。国家がみだりに市民の口を塞ぎ、ペン先を折らせる状態では自由闊達な議論など生まれようがない。おのずと国家の方針に阿る言論ばかりが跋扈する事態に陥り、われわれは幅広い知見を得られなくなる。この手の言論統制は突然やってくることはない。実に巧妙な、一見もっともらしい小理屈を携えて忍び寄ってくる。かのナチス・ドイツがポルノ規制から手をつけたのは有名な話だ。
では、われわれ市民はいかにして表現の自由を守るべきなのか? **それは、表現規制を最小限に留めることである。** その表現によって明確に被害を被る人物がいる場合や、ただちに人々を危険に晒しかねない内容を除いて、**基本的には一切を自由とする。** これらの中には大勢の人が眉をひそめるであろう表現も当然含まれる。爆弾の詳細な製造方法を記して出版するのは後者に該当するが、爆弾で人を大勢殺したテロリストの物語を書いて出版することはなんら構わない。
とりわけ創作物の表現とはえてして不定形な出力であり、構成要素の一部分からは総体を判断できない。悪漢の生き様を描いた物語に道徳の尊さを見出すことも珍しくない。各々の表現をどう受け止めるかは市民それぞれの裁量に委ねられるべきであって、国家に判断を仰がせるような振る舞いは厳に慎まなければならない。こうした方針を保てばこそ、国家が言論統制の糸口を掴むことも困難になっていく。
してみると、我が国の現状はあまり望ましいとは言えない。一九五一年の[チャタレー事件](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%BF%E3%83%AC%E3%83%BC%E4%BA%8B%E4%BB%B6)、二〇〇二年の[松文館裁判](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%96%87%E9%A4%A8%E8%A3%81%E5%88%A4)の例から判る通り、被害者の有無や危険性に拘らず警察当局が「わいせつ物」と見なした表現は事実上禁止されている。どんな表現が「わいせつ物」に該当するかは警察の胸先三寸で決められ、客観的な基準は存在しない。しかしどういうわけか性器にモザイク処理が施された映像、図画等は警察が「わいせつ物」と判断しないので、現行のポルノ作品はどれも当該部分にモザイクがかけられている。
先に述べたように、われわれ自由市民にとってもっとも望ましいのは表現規制が最小限に留められた状態である。上記の例は明らかに最小限ではない。その気になれば警察当局はいつでも任意の性表現を「わいせつ物」と認定することができる。そしてこれらの状況を今日に至るまで維持してきたのは、**他ならぬ自民党政権なのだ。** 以上の理由から、この場合においても僕は自民党を支持しない。
ここのところ何人かの議員が自民党の内部で反表現規制を訴えてはいる。だが、僕にしてみれば自民党の議席を削って影響力を落とす方がよほど確実に思えてならない。件の議員たちが真に表現規制に反対していたとしても、自民党議員である以上は党の命令に逆らえないのだから。サブカルチャー文化の支援には熱心でも、[この手の分野](https://twitter.com/yamadataro43/status/1157533403484266498)になると急に冷淡になるのも「所詮は保守派だな」という感じがして僕はどうも相容れない。アニメ漫画だけを守っていても表現の自由を擁護していることにはならない。
さて、そうなると表現の自由のために一体どこの政党を選ぶべきなのか。以前は日本共産党に投票していた。日本共産党は共産主義が弾圧されていた時代に創立された経緯から、表現の自由の擁護にいたく熱心な政党**だった**からだ。――なぜ、過去形なのか それはAbema tvに出演した吉良佳子参議院議員の発言に関係がある。
>吉良氏は「矛盾はない。ジェンダー政策の部分で言っているのは、子どもに対する性暴力は絶対許さないということだ。児童ポルノも子どもへの性暴力だから許されないということだ。ただし、児童ポルノという言葉を使った表現規制ということに対しては明確に否定している。表現の自由を守り抜くのは当然だし、児童ポルノを無くせば子どもへの性暴力も無くなるという話ではない。どう解決していくかはクリエイターも含めて国民的に議論していくべきだ。具体的には、子どもたちや一般の人たちの目に触れないような場所に置くゾーニングというやり方もあると思うし、“こういう表現は本当にまずいよね”“儲からないよね”という合意ができれば、クリエイターの皆さんも作らなくなると思う」と答えた。
>引用元:[ABEMA TIMES](https://times.abema.tv/articles/-/10003601)
この発言内容だと、一見、表現規制に反対しているようにも見える。現に政策一覧には **『「児童ポルノ規制」を名目にしたマンガ・アニメなどへの法的規制の動きには反対します。』** と書いてあるので、反対は反対なのだろう。**法的な規制には。** 僕が気になったのは後半―― **『こういう表現はまずいよね、儲からないよね、という合意ができれば、クリエイターも皆さんも作らなくなると思う』** ――この部分だ。
言うまでもなく、児童ポルノは既に法規制されている。被害を被る人物が実在するからだ。そのことに異を唱える表現規制反対派はまずいないと思われる。加えて「クリエイター」という単語。つまり、吉良佳子議員が「合意ができれば作らなくなると思う」と言っているのは児童ポルノではない。**創作物の、架空のポルノ作品を指し示している。彼女は、そういった類の表現は社会的合意の名の下になくなるべきだ、と発言している。**
社会的合意は見方によっては法規制よりも恐ろしい。遠大な例を挙げるなら戦前、戦中の敵性語排斥運動がそれにあたる。アメリカの公用語である英語を使うのはけしからんということで、当時のマスメディア各社が中心となってはじめたキャンペーンだ。これは法規制ではないが、市民の間で盛んに持て囃されたという。あえて逆らった者がどんな目に遭ったかは想像に難くない。
卑近な例を挙げるなら、洋ゲーの自主規制だ。洋ゲーには人間の肉体をバラバラに損壊したり、臓器が派手に露出するような描写がごく当たり前にありふれている。こうした作品が日本で販売される際に、ローカライズを行う会社が勝手に修正を加える場合がある。これは、既に業界団体のゾーニング規制により成人指定を受けたゲームにさえ適用されている。
ゾーニング規制は理解できる。なにしろ作品を手に入れられなくなるわけではない。過激な表現を意図せず見たくない人たちのために、一定の距離感を図ることもそれはそれで大切に違いない。だが、元々の表現を書き換えるのは一体どういう了見なのか。これもまた、法規制に基づいて実施されてはいない。
共産主義だってそうだ。戦後の日本政府は共産主義を表立って弾圧しなくなったが、それでも偏見の目がやわらぐまでにはずいぶん長い年月を要した。社会的合意が理に適っているとは限らない。当の共産党員たちが身をもって体験しているはずである。その日本共産党が、よりによってあの共産党が、このような発言を許したのはとても信じられないことだった。
日本共産党は特殊な政党だ。民主国家の政党にしては珍しく党内選挙が存在せず、すべてがトップダウンで決められる。共産党はこれを「民主集中制」と呼ぶが、端的に言い換えればソフトな独裁制に他ならない。通常の政党なら本件を議員個人の見解と見なせても、共産党議員に個人の見解は存在しえないのだ。だからこそ日本共産党は極めて優れた組織力を持っているし、議員のスキャンダルも非常に少ない。反面、彼女の発言も日本共産党の公式見解と判断せざるをえない。
僕も左翼として共産党員を学友に数える人間ゆえ、投票の直前までどうにかして本件を善意解釈できないか模索し続けた。しかし、どんなにあがいても、**社会的合意さえあれば特定の表現を封殺せしめることもやぶさかではない** ……そう言っているようにしか思われないのであった。やむをえず僕は今回、日本共産党ではない政党に投票した。
立憲民主党の枝野幸男党首が歴戦の反表現規制派なので小選挙区と足並みを揃えるのも手かと思ったが、僕は立憲民主党に全幅の信頼を置いているわけではない。できれば票を分散させておきたい。国民民主党は僕と政策の一致度がそこそこ高く、玉木雄一郎党首も表現規制に対抗し格差の是正もやると[言ってくれている。](https://twitter.com/tamakiyuichiro/status/1450093236618362883)社民党やれいわ新選組も同様だ。自民党と日本維新の会は元より選択肢に入らない。
迷った結果、僕は投票用紙に「民主党」とだけ書いた。立憲民主党と国民民主党の正式な略称は今回、どちらも「民主党」で届け出されている。**したがって、僕の「民主党」と書いた投票用紙は両党の得票数に基づいて按分される。** どっちの票にカウントされるかは判らない。小選挙区制度で野党勢力が勝つ上で候補者の統一は必要不可欠だ。だからこそ僕はどこの誰だろうが小選挙区は統一候補に票を入れるつもりだったし、現にそうした。
一方、比例代表選挙においてはあえて野党共闘を行っていない政党に票が入る余地を残した。国民民主党だ。表現の自由についてナメくさった物言いをした日本共産党には、この結果を通じてどうか反省してもらいたい。左翼の本分に立ち返ってほしい。たかが一票にそこまでの意図が乗って伝わることはもちろんありえないが、持てる力を行使しきる意欲こそがわれわれを自由市民たらしめていると僕は信じている。
## 最高裁判所裁判官の国民審査について
衆議院選挙では最高裁判所裁判官の国民審査も行われる。それぞれの裁判官が過去の裁判で下した判断は[ここ](https://www3.nhk.or.jp/news/special/kokuminshinsa/2021/)から確認できる。僕は「一票の格差」を合憲と判断した裁判官にバツ印を付けた。一人一票の選挙権は題目上の概念に留まってはならず、その実態価値も公平でなくてはならない。よって一票の格差が存在する現状は法の下の平等に反すると僕は考えた。

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title: "光文社古典新訳文庫の軍門に下ることにした"
date: 2021-06-24T22:40:40+09:00
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tags: ["diary"]
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AmazonがKindle Unlimitedの割引セールをやっていたので加入した。この手のセールはあらゆる事象にかこつけて事実上年がら年中行われているが、既に無料お試し期間を消費し終えた僕のようなユーザはたいてい対象外だったりする。幸いにも今回はいつもより適用条件が緩く、割引後価格も3ヶ月間99円とまさに破格だった。
とはいえKindle Unlimitedの国内における評判は芳しくない。「読み放題」を謳うサービス内容からNetflixやAmazon Prime Videoを連想させてしまうせいか、同等の品揃えを期待してタイトル一覧を眺めるとえらく肩透かしを食ってしまう。先の例で大人気ハリウッド超大作が観られることはあっても、Kindle Unlimitedで本屋大賞や芥川賞の受賞作がたちどころに読み放題になることはまずない。アメリカだとまた違うのだろうか
では当該のサービスはまったく無価値かといえば、決してそんなことはない。たとえ売れ筋の作品がなくともわれわれには[光文社古典新訳文庫](https://www.kotensinyaku.jp/)がある。このレーベルは岩波書店などで扱われている古典文学や哲学書を平易な形に翻訳し直した代物で、2006年に創刊した若さゆえか電子書籍化にも熱心な姿勢がうかがえる。
そう、誰もが名前くらいは聞いた覚えがある「老人と海」や「リア王」などの英米文学、ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」やJ.S.ミルの「自由論」をはじめとする古今東西の哲学書が、Kindle Unlimitedに加入していればすべて読み放題なのだ。今すぐ[ここ](https://www.amazon.co.jp/s?k=%E5%85%89%E6%96%87%E7%A4%BE%E5%8F%A4%E5%85%B8%E6%96%B0%E8%A8%B3%E6%96%87%E5%BA%AB&i=digital-text&rh=p_n_feature_nineteen_browse-bin%3A3169286051&dc&language=ja_JP&__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&linkCode=sl2&linkId=350a77da6badba910bd4accda46bfee1&qid=1577509664&rnid=3169285051&tag=keirun-sal-22&ref=sr_nr_p_n_feature_nineteen_browse-bin_1)から対象作品のラインナップを確認して、その圧倒的な物量に打ち震えるがいい。
古典を読む意義はみんな至るところで散々聞かされている。いかにもな理由を挙げることはたやすい。しかし僕はというと、微妙な立ち位置だ。「読みたいから読んでいるだけさ」などと鷹揚ぶって振る舞えるほどの胆力はないし、かといって種々の教育的指導が宣うご利益の方もだいぶ疑わしいと思っている。では、なぜ読むのか……強いて挙げるなら、商業主義的な気配がしないような気がするから、とでも言っておこうか。
今時の商業作品は文化の蓄積や企画力の向上に伴って、読者のツボを突くことが極めて上手くなってきていると感じる。表紙やパッケージ、宣伝文句は高度に洗練され、われわれはもはや自前の審美眼をさほど働かせなくても好みの作品に辿り着けてしまう。そこには狙ったターゲット層を接待せんとする旺盛な企図が存在するからだ。
本来はとてもありがたい話に違いない。称賛こそすれ批判する余地はない。だが、僕はそんなお仕着せの雰囲気が、どうにも時として疎ましく感じる。あたかも昔のSF映画に出てくる全環境適応型の全身タイツを着せられたかのよう――確かにフィット感と温度調節はこの上なく完璧だが――いつも着ていたくはない。そういう時に古典を手に取る。あ、でも、もし実在していたら何着かはもらっておこうかな。色は銀がいい。
要するに、僕は自分に合っていない名作が読みたいのだと思う。合っていないはずの作品から面白さを見出したその瞬間に、僕は僕の世界が数インチくらい広がったような快楽を覚える。現代の作品を目隠しして選んでも同じ試みは可能かもしれないが、歴史の荒波を乗り越えてきた古典の方が期待値は高い。
とはいえ、とはいえだ。古典作品がなかなか読みづらくできているのは否めない。訳し漏れがない精緻な翻訳は、学術的価値こそ高いがたちどころに眠気を誘発する。文意の取りづらい難解な文章にいつまでも根気強く付き合ってられる人間は稀である。僕もごく一般的な左翼学生であった当時、サークルの勉強会を通じてマルクス主義の理解に努めたものの、結局どの本も大して読み進められなかった。かの有名な「資本論」は今でもまともに読める翻訳が存在しないことで知られている。
そこへいくと光文社古典新訳文庫は本当に目に馴染みがよい。残念ながら「資本論」はまだ刊行されていないが[「賃労働と資本/賃金・価格・利潤」](https://www.amazon.co.jp/%E8%B3%83%E5%8A%B4%E5%83%8D%E3%81%A8%E8%B3%87%E6%9C%AC%EF%BC%8F%E8%B3%83%E9%87%91%E3%83%BB%E4%BE%A1%E6%A0%BC%E3%83%BB%E5%88%A9%E6%BD%A4-%E5%85%89%E6%96%87%E7%A4%BE%E5%8F%A4%E5%85%B8%E6%96%B0%E8%A8%B3%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9-ebook/dp/B00PRK11RO/)は相当読みやすく書かれている。他にも[「タイム・マシン」](https://www.amazon.co.jp/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%83%9E%E3%82%B7%E3%83%B3-%E5%85%89%E6%96%87%E7%A4%BE%E5%8F%A4%E5%85%B8%E6%96%B0%E8%A8%B3%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%82%BA-ebook/dp/B00H6XBANU/)H・G・ウェルズ 著)や先に挙げた[「リア王」](https://www.amazon.co.jp/%E3%83%AA%E3%82%A2%E7%8E%8B-%E5%85%89%E6%96%87%E7%A4%BE%E5%8F%A4%E5%85%B8%E6%96%B0%E8%A8%B3%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%94%E3%82%A2-ebook/dp/B00H6XBCVK/)(ウィリアム・シェイクスピア 著)をこの機に再読したが、まるで大衆小説のような装いで楽しく読み進められた。同レーベルが掲げている「いま、息をしている言葉で」との標語に偽りはなさそうだ。
もちろん、読みやすい翻訳には欠点も存在する。緻密な翻訳と読みやすさはトレードオフなので、同レーベルの翻訳は専門家の視点からするとどうしても辛い評価にならざるをえない。事実、光文社古典新訳文庫版の[「赤と黒」](https://www.amazon.co.jp/%E8%B5%A4%E3%81%A8%E9%BB%92%EF%BC%88%E4%B8%8A%EF%BC%89-%E5%85%89%E6%96%87%E7%A4%BE%E5%8F%A4%E5%85%B8%E6%96%B0%E8%A8%B3%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%AB-ebook/dp/B00H6XBD78/)(スタンダール 著)は大学教授に論文でバチボコに罵られ、ちょっとした騒動にまで発展したらしい。同様に[「カラマーゾフの兄弟」](https://www.amazon.co.jp/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%BE%E3%83%95%E3%81%AE%E5%85%84%E5%BC%9F%EF%BC%91-%E5%85%89%E6%96%87%E7%A4%BE%E5%8F%A4%E5%85%B8%E6%96%B0%E8%A8%B3%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%89%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A8%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC-ebook/dp/B009KZ46GA/)(フョードル・ドストエフスキー 著)などのロシア文学方面でも翻訳の粗が指摘されている。
このような経緯もあって、以前の僕は岩波書店や筑摩文庫の方を頑張って読み込もうとしていた。結果、にじり寄る眠気に負けて多くの書籍が未だ役割をまっとうできぬまま本棚に佇んでいる。だから、もういいんじゃないかと思う。文学専攻の大学院生でもあるまいし、厳密な正確性よりもまずは物語を知らなければ文字通り話にならない。なにより、同レーベルで再読した「リア王」は面白かった。
そういうわけで、僕は光文社古典新訳文庫の軍門に下ることにした。とりあえず3ヶ月間は読み放題なのだから、手当り次第に読んでみても損はない。古典を読む意義といえば、普段は滅多に目にしない凝った言い回しを学べるところが好ましい。その手の文節を己の身に蓄えていって、ブログかなんかでちょっとずつ使っていけばいつの日か本当に自分のものにできる気がして嬉しくなる。

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title: 刃物に宿る男根
date: 2018-05-31T21:20:47+09:00
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tags: ["essay"]
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昔、強姦を犯した性犯罪者に去勢を施す国があった。性器がなければ再犯率が下がると考えたのだろう。事実、性犯罪率は下がったかのように見えた。ところが人間の狂気は一物を削ぎ落としたくらいで容易に萎むものではない。
ある男は数多の強姦を繰り返してきたが、去勢を契機にまったく別の性癖が開花した。刃物である。挿入を通じて得られぬ快感を刃物によって代替しようとしたのだ。彼にはもはや男根は必要ない。刃物が彼の永遠の男根となった。
2004年、小学3年生の女児が男に刺殺される事件が起きた。それから14年の年月を経て犯人が衆目に晒されるに至る。その高く積み上げられた犯歴は市民を大いに震撼させた。まるで創作物から抜け出してきたかのような猟奇を内心に湛えていたからだ。
彼は「わいせつ目的だった」と供述しているが、これまでの複数の犯行で少女らに性的暴行が加えられた形跡はないと言う。彼にとってわいせつな行いとは殴打や刺突を表していたのかもしれない。決して救われぬ性癖が発露した瞬間だった。
彼が開花したのは高校生の時分である。学校生活になじめぬストレスをアニメで埋め合わせしていた頃、作中の美少女が痛めつけられ、腹部から出血している様子にひどく興奮を覚えるようになる。そこから流出する血液が服に浸透して真っ赤に染まりゆく。刃物に男根が宿るまでそう時間はかからなかった。
しばらくの間は自傷行為で性欲を抑制しようと試みたものの、精神科への通院を続けていく内にやがて限界が訪れる。主治医や周囲の制止は彼の身を慮っての事だったが、彼には自分の代わりに現実の少女を刺す行為を正当化しうるように聞こえた。
その後はやり手のビジネスパーソンが転職を繰り返してキャリアを積んでいくように、彼自身も狂人としてのキャリアを蓄積させていった。彼にとって刺突や殴打は挿入のメタファだった。場所はできれば腹部が好ましかった。彼は僕たちが行為に及ぶ時と同じ感覚を得ていたのだろうか。
ほとんどの人たちは幸運にも猟奇的な性癖を持たずに済んだ。ゆえに当たり前のように彼を人非人として扱い、理解できぬと拒絶の意思を示す事は非常にたやすい。実際、彼の性欲に陵辱された被害者やその遺族の心境を思うと処罰感情が高まるのも無理からぬところではある。
無理からぬところではあるけれども、それでも彼が自身に不適合な性癖を持ってしまった事には一抹の同情を禁じえない。たとえ同じ性癖であっても、みんな何かしら折り合いをつけて暮らしているが、少なくとも彼の手には余るものだった。せめてそれぐらいの斟酌の余地は残されているように思う。

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title: "分散できないのはどう考えても僕たちが悪い"
date: 2023-03-05T10:25:40+09:00
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tags: ['essay', 'tech']
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2016年にMastodonってのが出た。なんでも自由にサーバを建てられるから巨大資本に言論統制されないらしい。ちょうど真新しさに飢えていた人々はさっそくこれに群がった。かくいう僕もその一人だ。学生が建てたサーバがパンクして企業が支援を申し出たり、政治家がお忍びでアカウントを作ったりなんかして、しばらくお祭り騒ぎになった。
しかし分散型SNSが負の側面を露呈せしめるのは割と早かった。自由にサーバを建てられると言っても結局、ほとんどのユーザは人がたくさんいる場所、安定していそうな場所に行きたがる。やがてインフラコストに耐えられなくなった運営者は次々とサーバを手放し、安住の地から放逐されたユーザたちはそそくさと古巣に戻っていった。第一次Mastodonブームの終焉である。以降、Twitterがなにかやらかすたびに分散型SNSは潮の満ち引きを繰り返してきた。
現在、度重なる譲渡の末に国内二強サーバとして君臨しているmstdn.jpとpawoo.netは実のところ一強だ。運営元が同じだからだ。この二つのサーバだけで国内のMastodon人口の大半を占める。毎月1000万円もの札束を燃やして運用しているとは運営者本人の言だが、豪気であっても狂気でしかない。これといって黒字化の目処が立つ見込みもないと言う。なぜ平然と運営されているのかは謎に包まれている。
他にMisskeyという実装もある。ここ数年はこっちの方が国内では話題かもしれない。僕が最初に触れたのは2021年頃だった。Mastodonとも相互接続できる分散型SNSの一員だが、MisskeyはSlackやDiscordみたいな絵文字リアクションが使える。この特長はハートだか星だかが無味乾燥に感じられるくらいの鮮烈さを僕たちにもたらした。リアクションの表現力は随時追加され続ける膨大な絵文字によって日増しに高まっている。
![](/img/185.png)
今もまさにn度目のブームの真っ最中だ。2023年3月時点では「レターパックで現金送れ」とか与謝野晶子とかが流行っている。僕が居た頃にはたぶんなかった気がするからそのうちまた移り変わるんだろう。そんなMisskeyコミュニティの中で最大の人口を誇るmisskey.ioのユーザ登録数は約8万人。同時接続数は8000人近い。恐るべきことにこの人数はここ数週の間に倍々ペースで増えている。本エントリを書き終えるまでに桁が繰り上がっても僕は全然驚かない。
察しのいい人はMisskeyもMastodonも別の実装でありながら同様の懸念を抱えている点に気づいたかと思う。そう、どっちも「分散型SNS」を謳っている割にめちゃくちゃ一極集中している。さっき言ったレターパックが云々というのも、厳密にはmisskey.io内の話であって他のサーバもそうだとは限らない。いまTwitterでバズっている「Misskey」とは、実態としてはioのことなのだ。つまり、現状は分散型SNSが謳う理念とだいぶ乖離してしまっている。
とりわけMisskeyはサーバによって使える絵文字リアクションの種類がまちまちだから、根本的にユーザ体験自体が異なると言っても過言ではない。当然、誰も彼もレターパックが送れるioに行く。人が多くてレターパックを送りまくれるioに群がる。なにしろTwitterで話題のリアクションシューティングが目当てゆえ、わざわざ分散する理由の方がない。逆張り野郎が多い僕のTwitter人脈もほぼ全員がioにアカウントを作ったほどだ。ミームの力って偉大だ。
なんなら開発者本人も[「分散化はおまけ」](https://misskey.io/notes/9ayl1m7iwi)とか言っちゃったりして、これには僕もけっこうなショックを受けた。分散化がマストではなく軽視しても差し支えない理念なら、絵文字リアクション以外にはTwitterと差別化できる価値観がないじゃないか。もしこのままioがユーザを吸い取って内輪のコミュニティを形成していくとしたら、他のサーバにとっては分散型SNSを僭称しているぶんTwitterより邪悪かもしれない。
チャンネル機能とやらはさらに凶悪だ。他のサーバから参加不可能な閉じたコミュニティ作りを実装自ら促進していたら分散もへったくれもない。じきに改善されるとしてもユーザに与える誤解は相当に大きいだろう。**ああ、分散とか言ってるけど要は競争なのか。io以外は負けたサーバなんだ**ってね。実際にそういった認識のユーザはちらほら見つかる。そんなつもりで作った覚えは毛頭ないと言っても現状では説得力がなさすぎる。
こんなふうにMisskeyやioの開発・運用方針を非難するのは容易だ。絵文字リアクションだってその気になれば槍玉に挙げられる。一見あれはコミュニケーションの幅を広げているようでいて、リプライで送るべきところまでリアクションで済ませてしまうから逆に会話の機会を奪っているだとか、真面目な議論を茶化したり支持者が多いユーザがそうでないユーザをいじめたりもできるだとか、とにかく言い出せばキリはない。
**でも、本当は僕たちが悪い。** 普通にリプライすればいい時でも絵文字リアクションに頼るのは臆病で怠惰な僕たちが悪い。どれだけサーバが重くなろうとも分散できないのは社会性動物としての習性を超克できずに群れる僕たちが悪い。僕たちが自主的に散っていればきっと彼らも違う方針を打ち出しただろう。「おまけ」発言も札束を燃やすサーバ運用も、すべてはマクロの需要に応えた振る舞いに過ぎない。実装が邪悪なのだとしたら、邪悪たらしめているのは分散できない僕たちだ。繰り返すがMastodonも一極集中している。
極論をぶちまけることはできる。サーバごとに最大登録人数の設定を強制すれば一極集中は絶対に止まる。ローカルタイムラインや独自機能を全廃させて特色を消せば人気の偏りもなくなる。あたかも完成された社会主義国家のごとく白塗りの集合住宅が整然と建ち並ぶ――マンションならそれでも階数や部屋の位置で差がつくが電子空間は完璧に均質だ。
しかし、そんなユーザ需要を無視した仕様のSNSが波に乗れるわけがない。テーマ性を持ったサーバを潰さなきゃいけなくなるし、気に入った運営方針のサーバを選べるという分散型SNSの利点をも潰してしまっている。結局、人々の行動原理が自然に変わらない限り一極集中は止められない。巨大サーバの運営者が新規ユーザを受け入れなくなれば当面は坂を下るだけだ。**ふーん、人気のサーバには入れないのか。じゃあいいや。** ……僕は一極集中を批判しているが運営者の気持ちもよく分かる。
結果、肥大化したサーバに小規模サーバがぶら下がる形と相成り、それはなんだか民主的な分散型というよりは単にオーバーヘッドが大きいヘゲモニー政党制に見える。ひとたび前者が障害で停止すれば後者のユーザも大量のFFと断絶するため実用性は従来のSNSと大差ないか、むしろ低い。たとえコストを支払って自分専用のサーバを建ててもこの問題は一切解決できない。昨今の盛況ぶりとは裏腹にこれらの脆弱性はますます明るみになってきている。
とはいえ、趨勢はまだ決まっていない。3年後か5年後かは判らないが、いずれ僕たちとて分散型SNSの理念に沿える契機が訪れるはずだ。近い将来、計算資源はもっと低廉になる。実装はより平易になっていく。いつかリモートユーザの情報が手元でも完全に閲覧できるようになって、ローカルとリモートを隔てているタイムラグや諸々の障壁が取り除かれる時がやってくる。今すでにサーバを建てている人たちはちょっと偉すぎるんだ。君らほどの決意を僕たちが手に入れるその日まで、どうか見限らずに待っていてほしい。
## おまけ
Twitter創業者のジャック・ドーシーが新しく立ち上げた分散型SNS「Bluesky」に非公式クライアントから無理やり参加してみた。特に感想はない。
![](/img/186.png)

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title: "効能度外視で甘くておいちい飴三選"
date: 2021-10-14T14:18:32+09:00
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tags: ["food"]
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**時に諸君ら、飴は好きかい?**
スーパーやコンビニに行くと、実に様々な飴が売られていることが判る。きらびやかな商品パッケージには、これまたえらく着飾ったフォントで宣伝文句がギチギチに詰め込まれている。曰く、**レモン○個分のビタミンC**、曰く、**メントール配合で眠気スッキリ!**、さもなければ、**[任意の漢方]で[任意の効能]**……と来たもんだ。ええい、しゃらくさい。ビタミンがなんだ、メントールがなんだ。もっと愚直に飴を舐めたっていいじゃあないか?
僕は飴を毎日舐めている。頭脳労働者だろうと肉体労働者だろうと、家にこもってゲームしかしていないニートであろうと糖分は等しく全身に行き渡る。良き飴には余計な混ぜものがない。まず砂糖であり、次に水あめである。実質、砂糖の塊なのだ。とにかく甘くておいちい。それで十分じゃないか? 飴の本分はとどのつまりそこに尽きる。効能をあれこれ詰め込んだ結果、本分が疎かになってしまうようではいけない。
とはいえ、まあ、分かる。飴の効き目を謳うことは、なにも今時分に限らない。大昔から兎にも角にも効能を誇示してきたのが飴業界の習わしであった。ただ単に甘くておいちいから舐めてますう、では大人の面目が立たなかったのかもしれない。ひとたび甘味目当てで飴を舐めていることが知られたら、これ即ち村八分、あくる日に脱藩謀反大逆……そういう価値観だったのやもしれぬ。だが今や文明開化の時代にして四民平等、民主主義と立憲主義の治世。飴ごときでとやかく言う者はおらんぜよ。されば飴を舐めよ、ただひたすら甘味のために舐めてみよ。
## 第三位:中島製菓 にっき飴
![](/img/64.jpg)
**原材料名:グラニュー糖、水あめ、桂皮末、カラメル色素、香料**
**にっき**とはなんぞや? と思った人もいるかもしれない。端的に言えば、シナモンに近い。実際、風味もよく似ている。しかし植物種としては近縁でも産地が日本産とセイロン産だったり、使う部位が根っこか樹皮かで微妙に違いがあったりする。口に含むと、**ブワーッ**とシナモンっぽい風味が口内を覆う。同時に、**ジワーッ**と甘味がやってくる。桂皮の成分のために、舌と喉がわずかにヒリヒリする。
原材料名を見ると明らかに直球の甘味なのに、なかなかどうしてこいつはテクニシャンだ。シナモンもにっきもあれこれと効能が謳われやすい植物ではあるが、今だけはどうでもいい。黙って甘味に身を委ねたまえ。僕は舐めている最中にあえて深呼吸してリラックスの極致を模索している。とりわけ理屈っぽいやつほど休憩中も無駄に考え込んでしまうからな。
## 第二位:中島製菓 はっか飴
![](/img/65.jpg)
**原材料名:グラニュー糖、水あめ、香料**
サクマ式ドロップスってあるじゃん? 言わずとしれた飴製品の代表格。僕は幼少の頃、幼稚園でそれを毎日のようにもらっていたのをよく覚えている。どんなに騒いでいた園児たちもひとたび飴を配るとなると、あたかも軍隊顔負けに整然と並びだすものだから思い返すと面白い。ところで、このサクマ式ドロップス、知っての通り色々な味がある。幼稚園教諭は缶から取り出した一個を順に配るだけなので、必ずしも好きな味に巡り会えるとは限らない。むろん、特定の味をよこせなどというワガママは許されない。
**……はずなのだが、僕は毎回好きな味の飴が手に入った。** なぜかって? 僕は**はっか味**が一番好きだからである。逆に園児たちにとって、はっか味は不倶戴天の敵に他ならない。通常、こいつが缶から出るとおとなしい子は露骨に意気消沈し、部屋の四隅で貝になる。賢い子は、周りに交換を申し出てみるがすぐに絶対成立しないことを学ぶ。少々活発すぎる子は、とりあえずギャン泣きしてみたり大騒ぎするが、教諭に叱られて押し黙る。
一方、僕は常にニコニコ笑顔。はっか味がもらえたら、もちろん良し。もらえなくても、必ず誰かが交換してくれる。他の子たちからすれば、僕はセカンドチャンスをもたらす救世主だった。だが、取引にこぎつけられる者は一回あたり一人のみ。となると、では一体誰が交換してもらえるのか、という話になってくる。やがて周りの子たちは僕に媚を売るようになった。**恐るべしサクマ式ドロップス。**
僕も僕でだんだんと調子に乗ってきて、隅っこでおとなしく本を読んでいる子がすわ幼稚園の支配者に登りつめるか、と思われたところで教諭に **「ゴーマンになっちゃうよ」** と釘を刺され、次回からは僕だけ自動的にはっか味が配給されるようになった。当時の僕は権力の味よりまだはっか味の方を魅力的に捉えていたので「ゴーマン」の意味は解らなかったが、それで良しとした。はっか飴おいちい。
当然、交換相手になりえなくなった僕は間もなく支配者候補の地位を失って、再び部屋の隅っこ――本棚の真横――に舞い戻ることとなった。まあ、媚を売られている間はろくに絵本が読めなかったので、案外これはこれで望ましい顛末だったのかもしれない。
中島製菓のはっか飴は大粒で香りも強く、大人向けだ。このゴロッとしたやつを口に含むと、鮮烈な香りと豊かな甘味が口内をたちどころに刺激して、あの頃を想起させる。今の僕にサクマ式ドロップスのはっか味は少々物足りないが、これはすばらしい。はっかはにっき以上に人を選ぶ風味には違いない。しかし、僕にとっては人生を代表する味と言っても過言ではない。
## 第一位:中島製菓 たんきり飴
![](/img/66.jpg)
**原材料名:砂糖(きび砂糖、グラニュー糖)、水あめ**
この飴を初めて買う際はそこそこの勇気がいった。なにしろその名前。昔の人のネーミングセンスは理解不能だ。風邪予防の効能を宣伝したいからといって、食べ物の名前に **「痰」** とか付けるか? 次に、原材料名。香料すら加えない、純然たる砂糖の塊である。風邪予防はおろか、味わいすら期待できそうにない。だって砂糖と水あめしか入っていないんだもの。
だが、諸君らはお気づきだろうか、ランキングのすべてが**中島製菓**の商品で占められていることを。僕の中で中島製菓は既に全幅の信頼に足る企業になっていた。にっき飴も、はっか飴も、他の企業の同等品よりもよくできている。しからば、この本当に砂糖の塊にしか見えない飴にも、なにか特別な工夫が凝らされているのやもしれぬ。せいぜい、一袋百円程度だ。買ってしまえばいい。
結論から言えば、懸念は完全な杞憂だった。きび砂糖、というやつは、こんなにもコク深い甘味を演出してくれるのかと、舌の根までビビりちらかされた。いや、それだけではない。口内で溶ける飴の粘度、舌触り、時間の経過とともに変わりゆく妙味。どれをとっても珠玉の完成度だ。砂糖の塊が、香料すら用いぬただの砂糖の塊が、どうしてこんなにもおいちいのだろう。
これまで飴は、香料で風味に工夫をつけてなんぼのものと僕は思っていた。ところが伝統に裏打ちされた技法は、砂糖の塊を舐めて味わえる芸術品に仕立ててしまったのである。この有無を言わさぬ圧倒的な味わいの前には、さしものテクニシャンたるにっき飴や、思い出の積もるはっか飴でさえ後塵を拝してしまう。それほどの感動があった。いつでもどこでもどんな時でも、こいつがあればもはや慰みには困らない。良き糖分は佳く人を救う。
## おまけ
飴を買い込むとなにかと困るのが保存場所である。夏場は飴が溶けるので冷蔵せねばならないが、元の袋のままだとどうにもかさばってやりきれない。そこで僕は手頃な空き缶に収納している。飴を空き缶に収納することは、子々孫々に受け継がれし伝統なのだ。
![](/img/67.jpg)
この空き缶は、初転職後の給料日に新宿の伊勢丹で買ったフォートナム&メイソンのロイヤルブレンド。茶葉にしてはびっくりするほど高かったがそのぶん香りもすごかった。このようにして、思い出に思い出を重ねるのも、また一興。

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title: "叱責されるとあくびが出る"
date: 2022-08-10T22:24:08+09:00
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tags: ["diary"]
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この悪癖は僕の人生にけっこうな厄介をもたらしてきた。表題通り、叱責されるとあくびが出る。誓って言うが、別に相手をなめてかかってはいない。等身大の自省は備わっているつもりだし、反抗を態度で示すつもりもない。にも拘らず、どういうわけか叱られるとあくびが出る。
恐るべきことにこの悪癖はどんなに努力してもなかなか止められない。気がついたらおのずとあくびの体勢をとっている。奇跡的に寸前で留めたところで、既に口は開いている。相手からしたら呼吸していようがしていまいが格好としてはあくびそのものだ。こいつ、生意気にもあくびなんぞかいていやがる。ふざけやがって。こんな具合に余計な怒りを買った経験はもちろん一度や二度では済まない。
ものの本にあたって見ると、高ストレス環境下で表れる肉体の動きというのはその原因から身を守るための防衛反応である場合が多いらしい。これに照らすと僕のあくびは叱責への自己防衛と解釈できるが、どう考えてもなにひとつ防衛できていないので到底当てはまるとは思えない。
さらに奇妙なのは、事象の発生が「叱責」に限られていることだ。反論の応酬を前提に成立する「議論」とか、もっとひどく感情を爆発させる「喧嘩」などではあくびは出た覚えがない。叱責は受動的なのに対して議論や喧嘩は能動的な競争だから、より高負荷なのはこっちの方じゃないのかと思うのだが、僕の口蓋はあくまで叱責にしか反応しない。
叱責にあくびで返すとなにがまずいのかといえば、まず、叱責する立場にある人間を余計に怒らせる――これはさっき書いた通りだが――それ以上に、そういった人間に見限られてしまうところが、若いうちはずいぶん辛かった。兎にも角にも教えを乞わないといけない身分なのに、そんななめくさった態度では十分に教えてもらえるわけがないからだ。
そりゃあ、理想は「叱責」ではなく「説諭」の方が好ましい。なにしろあくびが出ない。だが、教えてくれる人が必ずしも「説諭」のスタイルをとってくれるとは限らない。とりわけ明白なミスをやらかした時などは「叱責」が先に来て当然である。そして、あくびが出る。ミスをして叱られているのに、あくびが出る。
ぶっちゃけた話、それで反射的に「叱られている分際でなんだ貴様その態度は」と激昂する相手の方が、なんだかんだで埋め合わせはしやすかった。そういう性格の人は後に然るべきリカバリを果たせば、なんとなく帳消しにしてくれる。
しかし僕のあくびを見るやいなや凍てついた氷面のごとき無表情を象り、以降は白々しい社交辞令しか返してこなくなるような人の場合は、大抵どうあがいても挽回が効かない。彼ら彼女らの中で僕の人物評価はその瞬間を境に一生定まったのである。まあ、実際、無理はない。
なぜこんな思い出話をわざわざ日記にしたためているのかと言うと、つい最近久しぶりにあくびが出たためだ。仕事でも交友関係でもなく、僕がここのところかかりきりになっているValorantという競技的なFPSゲームで、たまたま味方に組み入れられた誰とも知らない相手に、僕はいきなり叱責された。
競技的なゲームはしばしば密接なコミュニケーションが要求される都合上、味方が赤の他人だろうとボイスチャットでリアルタイムに会話を交わすことが望ましいのだが、僕は戦略的な内容にとどまらず味方や自身の活躍に乗じて過剰に大騒ぎする性質がある。それがどうも癪に障ったようだ。
『あの、ナイスとかやられたとかどうでもいいんで、敵の位置報告だけしてくれません?』
一人の味方の発言によって僕は冷や水を浴びせられた気持ちになった。まもなく、あくびが出た。これはつまり、僕の肉体が当該の発言を議論にも喧嘩にもなじまない大上段の正論――「叱責」と見なしたということになる。なお、特に試合運びに問題は起こらずゲームには圧勝した。
そこで僕はたちまちあくびの件を思い出したのである。ああ、そういえばこんな悪癖があったな。もう3、4年くらいは出ていなかったのに。まだ治っていなかったのか、と。してみると、業務経験の蓄積に伴ってミスが順当に減ったのか、単に周りから愛想を尽かされきっただけなのか、いまいち確信が持てないところに若干の不安が残る。
若い頃は叱責をあくびで返してしまうことを恐れていたくせに、歳を食うと今度は逆に叱られない方が恐くなってくるのだから不思議なものだ。しかもよりによって、ゲームでそれを悟る自分。

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title: "土くれのささやき"
date: 2022-04-05T09:44:10+09:00
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tags: ["food", "poem"]
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料理を作り慣れてくると次第に他の部分にも気が回りだす。僕の場合は料理を載せる器に関心が向いた。動物の食餌と人間の食事に差があるとすれば、ひとえに栄養補給以上の要素をどれだけ見出だせるかにかかっている。ひいてはそうしてかき集められた様々な余剰が文化であり、世界観である。世界観を携えて生きることが僕たちにポリシーや信念をもたらす。
僕の食器に対する最初の接触は、ごく単純な嗜好の反映から始まった。すなわち好きな色をそのまま器に当てはめたのだ。ライトピンクが好きだからライトピンクの器、オレンジが好きだからオレンジの器。そうすると、食卓がにわかに派手になった。様々なアクセントカラーにあふれた食事の風景にしばらくは満足できた。
不協和を覚えたのは、所得に余裕が生まれて多様な食材を惜しみなく料理に使えるようになった頃だ。出来上がった華美な料理をビビットな色合いの皿に載せると、途端に強烈な違和感が押し寄せてきた。一見、絢爛な食卓だが、そこには皿が、器が、ライトピンクがオレンジが、料理を押しのけて我こそが主役だと主張し合う醜さがあった。一度そのように捉えると朝食の目玉焼きから昼食のペペロンチーノに至るまで、すべてが邪険に扱われているように思えた。
ビビットカラーの食器をメルカリに売り払ったのはそれから間もないことだった。きっと僕がライトピンクやオレンジをさして好まず、あるいは意識の外に置いていられる人間だったら逆にこうは感じなかったのだろう。全部があまりにも好きすぎて、いたずらに魅力を惹きつけるものだから、もっとも注目して然るべき料理の存在感が僕にとっては希薄になってしまう。
そこで次のテーマとしてミニマリズムを試した。僕が思いつくコンセプトはたいていコンピュータ文化のなにがしかに影響を受けているのだが、その中でもとりわけ根強いのがミニマリズムだ。機能に貢献しない装飾は一律に禁忌とされ、ガイドや補助の類をもデザインを濁す要素として忌避される。食器を食事のためのインターフェイスと捉えた際に、ミニマリズムに則した食器とはおそらく頑丈で、単純な形状をしていて、少なくとも単色かツートーンだろうと考えられた。
そうして辿り着いたブランドが[HASAMI PORCELAIN](http://www.hasami-porcelain.com/about/)だ。波佐見焼は長崎県で江戸時代から作られ続けている伝統的な磁器である。しかし決して高級品の類ではない。リンク先の説明文にも記されている通り、むしろ古来より量産体制を整えることで磁器の普及に貢献してきた。その工業製品じみたバックグラウンドとブランドデザインは、僕の精神に大いに訴えかけるところがあった。なにも語らないようでいて、かえって雄弁にさえ見える。僕はさっそく必要な形状の器を買い揃え、使い始めた。
![](/img/107.jpg)
今までに試した数多の食器と異なり、HASAMI PORCELAINとの付き合いはかなり長く続いた。直近の引っ越しに際してやむをえず大部分の食器を処分した後も、このブランドの食器だけは諦めなかった。最終的には一、二種類の食器があれば差し支えないというところまで僕のポリシーは凝縮された。主役とは料理そのものに他ならず、食器とはあくまで機能に過ぎない。機能美こそが僕のポリシーだった。もしかしたら中には僕のメシ画像ツイートを見て「こいついつも同じ皿ばっか使ってんな」とか思っていた人もいたかもしれない。
そんな僕のポリシーに再び刷新の機運が訪れたのは、作家ものの陶磁器を展示・販売する俗に言う陶器市に赴いた時である。各々の食器が各々の世界観をこれでもかと誇示するにぎわいの中、地に伏して置かれた一つのマグカップが僕の注意を惹いた。それはなんというか――ずいぶんボロく見えるマグカップだった。色合いはくすんだカーキ色でとても鮮やかとは言いがたく、ところどころに汚しさえ付けられている。
隣に立てて置かれた白磁の大皿が日光に祝福されて燦然と輝く影で、この食器はあたかも木漏れ日を喰んで自生する生命を思わせた。気まぐれな陽の光に合わせて自身の姿形をも変化させたが、しかし卑屈さゆえではなくしたたかな生の証と見て取れる。機能美に徹した波佐見焼が物言わぬ岩石であれば、さしずめこれは土くれのささやきであった。確かになにかを言っているが、耳を寄せなければ聴こえない。食器の紹介文には「中村恵子 作」と書かれていた。
幾度となく食器選びを繰り返した僕は慎重深く、その場ですぐに食器を買い漁る真似はしなかった。陶器市を後にするとまずは件の陶作家について検索し、通販サイトで食器の一覧を見た。おおかた僕の予想は当たり、彼女の作る器はどれも一貫したコンセプトで作られていた。量産体制が確立されたブランドと異なり、作家ものの陶磁器は所望する器が常に手に入るとは限らない。ひとまず僕は意中のマグカップを注文したが、それさえ入荷を数ヶ月単位で待つ羽目となった。
いざ手元に届いてみると、いよいよ僕の期待が裏打ちされるのを実感した。食器は機能でしかなく、料理こそが主役との見立ては、今なら視野狭窄に陥っていたと素直に認められる。食器と料理の関係性は主従ではなく互助であった。器が料理を引き立て、料理も器を引き立てる。それぞれが相互に影響を与え、昇華させ、一体感を演出しつつも混合はしない。矜持に満ちた調和がそこにあった。
![](/img/108.jpg)
世界観の構築が済むと、後は必要な食器を揃え直すだけだった。中村恵子氏の陶器には黒や白の粉引もあるが、今のところ黒白は控えるつもりでいる。その手の色合いは僕を再び機能美の世界観に連れ戻しかねない。以下に続く画像群に氏の代表色である深緑がわりあい多く登場しているのは、器の世界観により深く耳を傾けたいがためだ。とはいえ単色一辺倒では色が空間にあふれすぎ、意図せずAmplifierされたささやきが絶叫に変わってしまう恐れも否めない。
そこへいくと粉引に青を混ぜた青粉引は、青とは言うもののグレーにも見え、しかし白にも見えなくはなく、やはり青でもあるような不定形の風情をたたえている。調和の深緑にとりまく存在としてこれ以上ふさわしい色合いはないだろう。ともすれば、安直に対照的と見定めることさえ的外れな予感がしてくるのだから不思議だ。毎朝食べる卵サンドイッチは今や独特の憂いをかもしだしている。
![](/img/109.jpg)
実用的な側面に目を向けると、いわゆる「スープ鉢」の使い勝手の良さには驚かされた。スープ鉢と名付けられたからにはスープ類を入れるのが主な用途だが、実際にはパスタも麻婆豆腐も炒めものもカレーも難なく受け入れてくれる。色違いの食器を使い分けられるほど僕はマメではないので躊躇しているが、ここまで使い勝手に優れると同型の青粉引も欲しくなる。
![](/img/110.jpg)
![](/img/111.jpg)
25cmの大皿はステーキ類を載せるのにうってつけだ。保温性を考えると鉄フライパンに載せたまま食べる方が当然望ましいが、やはり皿だとリラックスして食べられる。心なしか肉もリラックスしているように見える。
![](/img/112.jpg)
![](/img/113.jpg)
定食スタイルにするとこんな具合になる。中央に置かれた汁椀は山田平安堂の漆器だが、本来の豪奢さもこの世界観の空間においては鳴りを潜め、周囲に己を溶け込ませている。ところが他の食器を遠ざけ、漆器だけに焦点を当ててやるとたちまち持ち前の存在感を発揮しはじめる。これらの演出はこの場ではカメラレンズを通して行われているが、日々の暮らしでは僕たちが食器を手に持ったり、視線を変えることによっておのずと催されている。
![](/img/114.jpg)
![](/img/115.jpg)
こうした事柄について言語化する機会を常々窺ってきたが、一旦ようやく納得のいく文章が書けたと思う。食器が物を言うとか言わないだとかは、そもそもが人間の思い込みに他ならない。道具が口を利くわけがないからだ。作り手自身さえ語る言葉をあえて持たないこともある。だが、解釈の豊かさこそが僕たちを支えている。

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title: "地に足のついた祖国防衛議論"
date: 2022-02-25T23:56:29+09:00
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tags: ["politics", "essay"]
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西暦2022年2月24日、名実ともに戦争が始まった。タイムラインを更新するたび、色濃く象られる戦争の実像に僕はすっかりあてられてしまった。今まさに、われわれと同じ人間が、別の同じ人間の手によって砲撃され、銃撃され、その肉体をずたずたに引き裂かれているという現実のむごさには耐えがたい恐怖を覚える。
どうやら僕は現代国家の理性をずいぶん高く見積もりすぎていたらしい。確かに、銃弾や爆撃に斃れる人々は今までにも大勢いた。だがそれは国家とは名ばかりのテロリスト集団の仕業であったり、もともと政情不安を抱える紛争地域の話だった。国際秩序の重要な一端を担う常任理事国が、今や隣国を手前勝手な理由で完全に攻め滅ぼさんとしているのだ。
こうした一連の侵略戦争の結末が、単に当事国の間だけでは収まらないことをわれわれは既に知っている。軍事力に長けた国が暴れても誰もなにもできないのなら、集団安全保障や実力行使の厳密なルール化、平和に向けた軍縮――などは一切の意義を持たなくなる。結局、力こそ正義であり、自国の身は自国で守るしかない、といった従来の価値観に回帰する未来を招く。
言うまでもなく、インターネットのあらゆる場所でさっそく憲法9条が揶揄されている。我が国の平和憲法は侵略に対してなんら抵抗力を持ちえない。われわれが平和を享受できていたのは当時の中国やロシアを上回る強大な米軍と、その核兵器が鋭くにらみを利かせていたからではないか……そうでないと言うのなら今すぐウクライナで平和を訴えて、話し合いでロシアを止めてみせろ、というのが積極的改憲派の理屈である。むろん、これはそれがどだい不可能なことを見透かした上での皮肉に他ならない。
しかし僕としては、それでもできれば話し合いで収まってほしかった。民主主義にしろ基本的人権にしろ、あらゆる法の概念の興りは、まず存在を信じて提唱するところからはじまる。理不尽な現実に気が萎えて、そんなものはありえない、実現しえない、と否定し続けるばかりでは、民主主義も基本的人権も決して成立しなかっただろう。であれば、憲法9条の掲げる平和理念にもひとまず耳を傾けておく価値はあると思われる。
なんせ実態は米軍のおかげでも「憲法9条のある日本はまだ一度も戦禍に晒されていない」との言葉に少なくとも嘘はないのだから。憲法にしろ経済にしろ、われわれを取り巻く近現代的な抽象概念は案外、みんながそれらを信じていることを除けば、こんな詭弁と似たりよったりのレトリックで維持されてきているのだ。憲法9条のみがリアルな証明を経なければ提唱すら許さぬ、というのもそれはそれでアンフェアに感じる。
ところがウクライナの蹂躙を目の当たりにしたわれわれは、いよいよもって平和憲法の題目を信じられなくなりそうだ。いやもっと悪く、安全保障の信頼性すら危うい。正式な条約は結んでいないとはいえ、アメリカはウクライナに安全保障の提供を約束していた。それが事実上、反故にされたのである。となれば、次に心配なのはやはり台湾だ。同国は台湾関係法によってアメリカの庇護下にあるとされているが、この法律は台湾の防衛をアメリカに義務付けるものではないからだ。
つまり、今のウクライナは近い将来の台湾の姿と言える。その上、ロシアの場合と異なり中国に経済制裁を課せる国はほとんどない。独立国のウクライナを攻めるよりは、主要国からの国家承認を受けていない台湾を攻める方が、国際秩序的な意味での瑕疵も誠に遺憾ながら小さいと考えられる。いざ台湾有事が起こった暁には、それらは単なる内政問題として扱われるのだろう。
{{<tweet 1496838411436519425>}}
改憲派であろうと護憲派であろうと、われわれ日本人は台湾有事に際してなにもすることはできない。我が国も台湾を国家承認していない国の一つだからだ。かの自民党とてずっと「一つの中国」を支持してきたし、今後もその方針をいきなり違えるとは思えない。ウクライナの件でわれわれが無力なのと同様、台湾有事にも無力なのはもはや確定している。仮に憲法9条を破棄し、台湾と軍事同盟を結んでも、アメリカの全面支援がなければ戦死者の数が積み増しされる以上の効果はない。
だがともかくウクライナ侵略を受けて、われわれも祖国防衛についてもっとシリアスに考えなければいけなくなったことは疑う余地がない。**ここで言う「シリアスに考える」とはTwitterでタカ派を気取ることではなく、状況に応じて自ら祖国防衛を担うという意味である。** 護憲派の中に教条的な理念の持ち主がいるように改憲派も改憲派で、軍事費をじゃんじゃか増やして憲法9条を捨て去れば自衛隊が勝手に強くなって大活躍してくれるだろう……などと他人事のように考えている節が否めない。
税金は打出の小槌ではない。軍事費に国家予算を投じれば投じるほど、本来使われる予定だった他のなにかが疎かになってしまう。われわれはその分どこかで貧しくなるのだ。さらに、中国からの防衛を本気で考えるのなら歩兵戦力の増強は避けられない。自衛隊の人員は陸海空すべて合わせても約20万人しかいない。圧倒的物量を誇る人民解放軍にあと何人用意すれば対抗しうるかなど、門外漢の僕には想像もつかない。志願兵で頭数が足りないようなら、当然、徴兵だって行われる。若者を集めてまだ足りなければ中年も集められるだろう。
これはなにも改憲派への当てこすりで言っているわけではない。アメリカは日本の防衛義務を反故にはしないまでも、せめて共同戦線を張れる規模の歩兵戦力を要求することは十分にありえる。徴兵制は必ずしも前時代的な制度とは限らず、現に韓国やオーストリア、スイス、デンマーク、フィンランドなどの民主主義国家でも維持されている。歩兵戦力を拡充しなければならない局面においては依然として有効な戦略なのだ。
とりわけ平和理念が通用せず、力こそ正義の価値観が表立って跋扈する世界では尚更そのようにならざるをえない。能力の乏しい者、体制に貢献できない者はまさに不正義であり、厳しく処断せしめられる。自分だけが冷暖房の効いた部屋でコーヒーをすすりながら、祖国防衛に務める自衛隊員の勇姿をストリーミング配信かなにかで視聴できると思い込んでいるのなら、ただちに考えを改めた方がよい。それは教条的な護憲派をはるかに上回る平和ボケ具合である。
となると、すわ核武装かとの意見も根強いが、これも極めて難しい。ロシアや中国のみならず、日本の核武装をまともに認めてくれる国はおそらく一つもない。核保有国は少なければ少ないほど既存の保有国・非保有国双方にとってありがたいからだ。我が国が核武装を強行するにあたって代わりに喪われる外交関係は相当に多いと見られる。当のアメリカも日本の原発から取り出される使用済み核燃料の貯蔵量を逐一監視しており、核兵器開発のハードルは非常に高い。変な話、仮想敵国に対抗せんがための核武装が、かえって日本を現在のロシアに似た状況に追い込んでしまいかねない。唯一ロシアと異なる点は、我が国はエネルギーや食料を自給自足できないので、経済制裁を課された瞬間に緩やかな崩壊を余儀なくされるということだ。以上の理由により、核武装の議論は完全に無益で実現性がないと断言できる。
ところで僕は今、[予備自衛官補の募集要項](https://www.mod.go.jp/gsdf/reserve/yobijiho/index.html)を見ている。18歳以上34歳未満なら応募可能らしい。基本情報技術者などの国家資格を持っている者はなんと53〜55歳未満まで申し込めるそうだ。実務にはさほど役に立たない資格と言われながらも、なんだかんだで持っているIT従事者は多いだろう。自らの適職を放棄してまで自衛官になろうとするのは度を越しているかもしれないが、副業感覚で訓練に臨める予備自衛官制度は祖国防衛への向き合い方としてはほどよく実践的に思える。
一例を挙げると、自由ソフトウェア主義者にして著名なC++プログラマの[江添亮氏](https://twitter.com/EzoeRyou)は予備自衛官である。インターネットでエネルギーを持て余し気味の人たちはぜひ僕と一緒に応募を検討してほしい。ちなみに僕はディズニーランドの[ウエスタンランド・シューティングギャラリー](https://www.tokyodisneyresort.jp/tdl/attraction/detail/157/)で全弾外したことがある男だ。
もっとも、改憲派であろうと護憲派であろうとランニングくらいはしておいた方が良いかもしれない。いざ有事が起こった際に戦うにせよ逃げるにせよ、長く速く走れて得はしても損はしない。事実、戦争への恐怖が僕の足を文字通り駆り立てたのか、昨日のランニングはめちゃくちゃ気合が入った。なんにせよ、どうしても祖国防衛について議論せねばならんと言うのなら、こういう感じで地に足のついた議論をしていきたい。

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title: "完全に正しい時ほどへりくだる"
date: 2021-05-27T08:32:45+09:00
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tags: ["poem"]
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いや、これはただの愚痴みたいなもんなんだけどさ。
いわゆる団地というところに引っ越して半年ほど経つ。色々な制約はあったが、駅まで徒歩十分以下かつ激安の家賃ともなれば多少のことには目をつぶらなければなるまい。今なお社会人学生の夢を捨てきれていない僕にとっては、間違いなく好条件の住処なのだから。なんだかんだでドラム式洗濯機も55インチのブラビアも上手くねじ込めたしな。引越し業者の神テクニックには舌を巻かずにいられなかった。
「色々な制約」のうち一番厄介なのが、俗に言うマンション自治会ってやつだ。伝統ある団地にはえてしてこの手の組織がついて回る。しかもこいつは、都内にありがちな「黙って金を払えば全部よしなにやってくれる謎組織」ではない。**金はもちろん取られた上に、謎仕事もどこからか降ってくる代物だったのだ。**
この謎仕事は、通常、住みはじめてから一年以上経つと「代議員」という名の謎役職と共に回ってくる。運が良ければ三年くらいはせずとも済むらしいが、いずれは必ずやらなければならない。昨年末、夕飯後にドンドンとドアを叩かれたので仕方なしに開けると、そこには人の良さそうな老婆がいた。
老婆は言った。来年度の代議員を決めなければいけない。今から会議を催すので直ちに出頭せよ。結論を先に言うと、僕がやることになった。いや待て、それはおかしい。その謎役職は居住して一年以上経たなければ回ってこないはずだったのではないか? その通り。そいつに気づいたあんたはちゃんと文章を読んでいる。えらい。
ではなぜ僕がやることになったのか? 自ら手を挙げたからに他ならない。えっ、お前、そんな性格の人間だったか? 地域社会と繋がりたいってか? 流行りのハッシュタグか? 団地にエンジニアはそういないんじゃないのか。いるのは老人と外国人と子供ばかりだ。おい、誤解するな。そんなんじゃない。れっきとした理由がある。
理由というのは、僕がいま割と暇だってことだ。在宅勤務のプログラマで、キャリアが浅く、重要な立場にいない。所帯を持つ見込みもない。むしろ今さら大学に通い直そうとしている男だ。しかし、これらの状態はおそらく永続しない。コロナ禍が終われば通勤しなければならないかもしれないし、大学に受かれば通学しなければならない。
さっき言ったように例の謎役職は**いずれ必ず回ってくる。** 来年か、再来年か、判らないが、とにかく回ってくる。拒否権はない。どんなに忙しかろうが、シングルマザーだろうが、足腰の弱い老人だろうが、やっているし、やらせられている。そういう運用だと聞いた。となると、断れるわけないじゃないか。そいつが回ってきた時、僕がむちゃくちゃ忙しいとしてもだ。
だったら、暇なうちにやった方がまだマシってものだ。謎役職は階ごとに任命されるので、ほぼ全室が埋まっているこの階では一度こなしさえすれば当面回ってこない。そういうわけだから、やることにした。
そして月日が流れ、今年の四月から僕は謎役職の謎仕事をこなしている。案の定、引き継がれた紙切れの中にマニュアル的な資料は存在しなかった。代議員全員が出席する定例会議なる集会でも **「人に聞いて覚えてください」** と、むしろ誇らしげな態度で言われたのでまったく期待してはいなかった。この手のレガシーの極北みたいな組織はえてしてそういうものである。
僕は脳内の批判を司る機能を一時的にターンオフした。予めすべてを受け入れる姿勢で臨めば腹は立たない。遠い異国に来て母国にあったこれがないなどと抜かす輩は滑稽だ。この団地は言うまでもなく日本国内に屹立しているが、きっと実質的には外国なのだ。合理化の波に乗れないまま海底に沈んだアトランティスだ。どうしても嫌になったら引っ越せばいい。
受容の気持ちで腹の底が満たされたところで、僕はさっそく人の良さそうな老婆のもとを訪れた。彼女は前年度の代議員のみならず、これまでに幾度となく同役職を担ったことのある大ベテランだった。彼女から謎仕事のノウハウを丹念に伝授されたおかげで、僕は居住約半年にして概ね完全な知識を得るに至った。
ついでに、自治会の決算は粉飾されているだの、どこぞの階の会計担当が会費を横領しているだのという、すさまじく治安の悪い裏話まで聞けた。老婆の情報力を侮ってはいけない。あんたの団地の老婆もきっとそうに違いない。僕は彼女を師として仰ぎ、しばらく足繁く通った。
おい、話を聞いていると、なんだかんだで順調そうじゃないか? 冒頭で言ってた愚痴って何なんだよ? なるほど。そいつに気づいたあんたはちゃんと文章を読んでいる。えらい。**僕がどうにも嫌で仕方がないのは、自治会費の集金なんだ。** そう、謎役職の仕事の一つは、とどのつまり金の取り立てってわけ。
もっとも、本来ややこしいことは何もない。ほとんどの人は期日までにしっかり金を持ってくる。そういうルールになっているし、後はこっちが集計を間違わなければ問題ない。現金を扱う立場ってのは確かに少しおっかないが、目を離したからといって金に足が生えてトンズラするわけじゃない。心配なら気が済むまで数え直せばいい。
面倒なのは、期日までに金を持ってこない人がいた場合だ。今月でまだ二回目の集金だが、どっちも数人いた。そういう時はわざわざこちらから出向いて、ドアをドンドン叩いて催促しなければならない。この団地にはチャイムが標準装備されていないので、自ら設置していない人の部屋はドアを叩くしかない。いかにも取り立て屋然としている。
こういう状況が、僕は嫌で仕方がない。どういう意味かって? **僕が完全に正しい状況ってことだ。** 僕には代議員の名の下に自治会費を集金する責務があるし、相手には支払う義務がある。この団地に入居する際に自治会費の納入に同意したはずだから、知らなかったでは済まされない。もっと言えば、僕が出向いた時点でもう期日は過ぎている。相手は既にルール違反を犯した状態なのだ。
こういう時、正しさを得た側の人間はいともたやすく傲慢になる。横柄になる。残虐になれる。なぜなら相手は間違っていて、正義の女神はこちらに微笑んでいるからだ。そんな状況にはめこまれると、なんだか僕は試されている気分になる。**「正義を握ったお前はどんな人間だ?」** ってね。脳内で自分が自分自身を監視している。
で、じゃあどうするのかっていうと、ようやくタイトルの話になる。とにかくへりくだる。下手に出る。金の取り立てという風情ではなく、小売業の接客並の態度で接する。期日から遅れてるだとか、そういう不満げな雰囲気はおくびにも出さない。スムーズに金が支払われた際には傾斜のついたお辞儀を返す。今のところ、これで僕は僕の脳内の監査をパスしている。「正義を握ったお前は傲慢なやつだったな」というレッテルを自分自身に貼らずに済んでいる。
しかし、だ。その程度でやりすごせているのは、彼らが納金を単に忘れていたからに過ぎない。僕は住民たちの懐事情を知らない。中にはコロナ禍で暮し向きが困窮した者もいるかもしれない。将来引っ越してくる人は口八丁手八丁で納金をゴネるかもしれない。そうなった時、僕は傲慢にも横柄にもならずにいられるのか? 一抹も処罰感情を抱かずに、真に理性的でいられるのか? 自分で自分自身を見損なわないように上手く立ち回れるのだろうか。
たかが自治会の集金、という捉え方もある。あるいはゴネる相手に対してちょっと苦言を呈したとしても、即座に傲慢だの横柄だのとはならないだろう。おそらく、客観的には。だが、僕はそういう価値判断の仕方があまり好きではない。自分以外の誰かが同情や理解を寄せ、賛同したから自分は間違ってないなどと思い込む、そういう所作が好きではない。
たとえ自分以外のすべてが否定したとしても、僕の脳髄が肯定していれば僕は絶対的な自信を持てるし、否定していれば自分以外のすべてが肯定していたとしても絶対に誤りなのだ。僕はできればそのように生きたい。
問題は、そういう決意に肉体の方は必ずしも同意していないってところだな。手首に巻きついたスマートウォッチ曰く、集金中の僕はやはり高いストレス状態にあるらしい。

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title: "尻から10億番目のThreads所感"
date: 2023-07-08T20:27:05+09:00
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tags: ['diary', 'essay', 'tech']
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映画でも漫画でもよくある、主人公を散々苦しめた手強い悪役がさらに強い悪役に瞬殺されるシーン。どういうわけか僕はあれが好きだ。やっとの思いでしのいだ悪役をさらに上回る敵がいるという戦慄、恐怖、のみならず、その敵は同じ悪も容赦なく屠る冷酷さをも持ち合わせている。主人公たちは今後そういう強敵を相手にしなければならない……。
実のところ、我々が目の当たりにしているのはそんな光景なのかもしれない。数々の事業を成功させ大富豪に登りつめたイーロン・マスクは今や、同様に栄華を極めるマーク・ザッカーバーグにひねり潰される寸前だ。SNSに巣食う悪辣な左翼を成敗してくれたと快哉を叫んでいたインターネットのオタクたちもずいぶん口数が減ってしまった。
彼がTwitterを買収して以来行なってきた改悪の数々はもはや並べるまでもないが、とりわけユーザの投稿閲覧数を制限する施策はもともと尽きかけだった信頼をついにすべて失ったように思う。たとえ一時的な措置でも二度三度起こらないとはかぎらない。かくしてTwitterは「色々あってもここがいい」との妥協点を大幅に下回り「人がいるからいるだけ」のサービスと相成った。
しかし、それでも「人がいる」のは他に代えがたい。ひとたび固まると誰もが同じ理由で使い続けるものだから、互いに互いの行動を牽制しあう形になってしまう。誰かが先陣を切ってよそに移ったとしても、数百人、数千人いるフォローの一人か二人が欠けただけに過ぎない。情けない話だが、みんなで動かないとみんな動かないのが実情のようだ。
さらに残念なことに既存の移行先はどれもマスユーザを安心させてくれない。あらゆる実装系やインスタンスは特定の需要を満たせてもフリーライド可能なインフラを担う作りには現状なっていない。ユーザの自主性に誠実すぎる設計思想は、皮肉もマスユーザからすると不審で頼りのない態度に映る。Twitterにしろなににしろ、叶わない文句を言える環境は気安い。
そこへいくと”自由”なFediverseの世界は違う。誰でも好みの環境を自ら用意できて、なんなら改変もできるとなれば「じゃあやればいいじゃん」と完全無欠の正論パンチでぶちのめされてしまう。マスユーザにとってそれは1000の広告よりもイーロン幕府の圧政よりも恐ろしい虐待なのだ。ある意味で、有無を言わせない不自由さは目的のコンテンツが手に入るうちは平穏である。そして目的のコンテンツとは大抵の場合には芸能人やインフルエンサーや公式アカウントを指している。
先日、Metaの新しいSNS「Threads」がリリースされた。前述のマーク・ザッカーバーグの会社が繰り出したサービスだ。ユーザ数は初日で3000万人を越え、Twitterが到達するのに何年も要した記録を瞬時に抜いてしまった。どうやらこいつはマスユーザの需要を満たしているらしい。そこで一つ現地調査を行うべく僕は腰をあげて、実家の納屋に放置されて埃をかぶっていたInstagramアカウントに火を灯したってわけだ。
いや、嘘をついた。本当は何日も前から納屋でバリバリ待機してた。机と椅子とパソコンと冷房器具を持ち込んで、今か今かと待ち焦がれていた。Instagramアカウントもちゃんと動くか事前に確認した。ついでに言うと僕の腰は軽い。どうせ自分には向かないと解っていても、デカい会社がデカいサービスを始めると気になって仕方がない。皆さんだって実際そうだろ
## アルゴリズムでリコメンドされるタイムライン
Threadsにログインするとさっそくタイムラインに投稿が並ぶ。多くは芸能人やインフルエンサーなどで、企業の公式アカウントもある。一部は投稿日時がサービス開始より前なので予めベータテストが行われていたのだろう。こういう不気味なほどの根回しのよさはFediverseの世界ではまずありえない。Metaの連中はマスユーザの好みを知り尽くしている。0フォローだからなにも表示しないなんて”不親切”な真似はしない。
そのうちFediverseやBlueskyやTwitterで見知った顔が出てきてフォローしたりされたりする。InstagramにFFがいる人は一括でフォローできる。フォローがいればリコメンドも停止すると思いきや、多少の修正は入っても完全には他人の投稿を省けない。第一に芸能人やインフルエンサーが優先されて、特にフォローが少ないユーザには強くリコメンドされるようだ。
![](/img/195.png)
**#バズれバズれ**じゃあないんだよ。申し訳ないが引っ込んでくれ。この手の投稿を減らすために僕はフォローを増やした。第二に、FFがいればその中で注目度の高い投稿が上位に表示される。時系列順ではない。おのずと「ぽやしみ〜」とか「一生風呂入れません」などといった”低価値”な投稿は視界外に追い払われ、消費者にとって望ましいタイムラインが自動的に構成される仕組みになっている。
そして最後に、フォローのフォローの投稿が現れる。それでも手が空くようなら赤の他人の投稿も顔を覗かせる。アルゴリズムでできたカウチはユーザの腰を固く掴んで離さない。ありったけの可処分時間を費やしてもらうには直接の友人関係では事足りないというMetaの荒い鼻息が伝わってくる。
現状ではフォローの投稿のみが等しく時系列順に並ぶタイムラインは存在しない。いずれ作ると言っているが、優先順位としては誠に正しいと言わざるをえない。どのSNSもマスユーザは統計的にROM専が多いとされているので、そこにフォーカスするのは理に適っている。
朝、起きたらWeb2.0の死体が見つかった。そんな印象を受ける。かつて夢見られていた双方が発信する協働のインターネット社会は、少数のインフルエンサーを生む代わりにより多くのン億人をむしろ消費者にして終わってしまった。だが近い将来、目標の10億ユーザを引き込む上ではすさまじく需要に即した仕様と言える。
## Threadsの思想性
フォローしたりされたりしているうちに気づいたが、このアプリには相互フォローを可視化する機能が備わっていない。フォローしてくれた相手のプロフィール欄へ行くと「フォローバック」ボタンが表示されるので、この時点ではフォロー状態が判るが以降はあやふやだ。
無理やり確認する方法はある。フォローしている人のフォロー欄を上から下まで探って自分がいるか確かめればはっきりする。とはいえ、数百人、数千人もいる相手にそれをするのはとても面倒くさい。Metaは解っててあえて面倒くさくしている。フォロー状態を意識させなければ人間関係が希薄化して、いっそうコンテンツ消費的な傾向を高められるからだ。
なにしろThreadsではフォロー解除の際に確認画面も出ない。あたかもフィードを購読する手軽さでフォローを付け外しできる。「SNS疲れ」に代表される無駄な関係性をインターフェイスで間引く腹積もりらしい。この辺りには既存の問題点を克服しようとする意欲が感じられる。
Threadsの名称が示す通り、投稿画面の時点で連続投稿を後押しする仕掛けも施されている。半透明に表示される縦線はまさしく糸のごとしだが、Twitterと違って500文字も投稿できて画像も大量に添付可能なこのサービスでどれほどのユーザが「スレッド」を築くかは難しい。どちらかといえばインフルエンサーやクリエイター向けの機能と想定される。
クリエイターといえばコンテンツモデレーションの具合には一言触れておきたい。タイムラインを眺めた感じでは外国人が半裸の写真を投稿しまくっているので、これを越えない範疇ならおそらく許容される。二次元については絵柄がハイティーン以下寄りでなければR-15相当までは認められそうだ。現にそういう絵も流れてきた。それにしても通報欄に「単に気に入らない」があるのは面白い。
![](/img/196.png)
流れてくる投稿にスレッドの存在が明示されているのも興味深い。他のSNSでは省略されがちな部分を視覚化することで、コメントの閲覧と投稿を促す意図があると考えられる。反面、再投稿RTに相当やいいねの数は巧妙に隠蔽されている。たぶんMetaはRTといいねに代わる価値としてコメントを推すつもりなのだろう。
ただし、外観の特徴を見るにスレッドを重ねて長文の議論をするのはなんとなく憚られる。ハートよりは気持ちがこもっている一口感想がせいぜいといった印象だ。実際、ほとんどのユーザがそうしている。ああしろこうしろと言わずともUI一つでユーザの行動を誘導してみせるのはさすがMetaと認めざるをえない。
## 張りきる業者たち
人がたくさん集まる場所には必ずビジネスチャンスが生まれる。インフルエンサーに億の目が集まる空間はおこぼれも絶大だ。件のアルゴリズム化されたタイムラインには先に挙げた人たちの他に業者の宣伝投稿も盛んに流れてくる。
![](/img/197.png)
マーク・ザッカーバーグは10億人集まるまでは広告を入れないと言ったが、ユーザ的にはすでに広告を見ているも同然だ。どこの馬の骨とも知れない人々のキラキラ投稿に、商機を見込んでやってきた業者のギラギラ投稿が幾重にも押し寄せてきて僕は具合がだんだん悪くなってきた。
人間を集めて好きに喋らせて金を稼ぐのはよほど大変な仕事のようだ。もともとTwitterもうまくは経営していなかったし、他のSNSも短文投稿の分野ではどこも生き残っていない。友達の一日の暮し向きを読み終わった途端にスマホを閉じられたら利益なんて産みようがないので、せっせインフルエンサーや赤の他人の投稿をタイムラインにねじ込んでくるし、中には業者も混ざる。
Threadsもこの基本原則は変えないだろう。常々言われているように我々こそが商品なのであって顧客は将来の広告主なのだ。じきに広告主は一連のタイムラインの挙動を見て、自分たちの広告を出稿するにふさわしい場所か評価を下すことになる。このぶんだと相当な成功を収めそうだ。
## Fediverseに現れしワームホール
Threadsの唯一すばらしい点はFediverseに参加するところだ。わざわざ広告や業者の宣伝やインフルエンサーや赤の他人の投稿を見てやる義理はない。Fediverseのどこかに居を構えて、悠然と数多のユーザの中から見たい人を選り抜いてフォローすればいい。
![](/img/198.png)
なにもかも僕の嗜好に合わないこのサービスが光り輝いて見えるのは、まさにこの仕組みがあるからに他ならない。Twitterにいるマスユーザや公式アカウントの類がFediverseに直接移住してくれる期待は5年前に捨てた。ある日、Twitterが消えてなくなり、ユーザに自主性を求める従来のFediverseしか選べないとなれば彼らはSNS自体をやめるに違いない。
だが今はThreadsがある。マスユーザと公式アカウントと、口が達者な割に腰が重い愛すべきオタクたちを一手に引き受けてくれるのは巨大資本しかありえない。決して自分からは動こうとしない彼らとて、群れがのそっと傾くやいなや脱兎のごとく駆け出すものだ。ひどい言い方だが僕は彼らが好きなのでフォローしたいと思っている。そのためには、Threadsに頑張ってもらわないといけない。
ThreadsはFediverseの世界に現れたワームホールのようなものだ。Twitterや他の星系に散り散りになった人々を集めて数光年の旅路を省いてくれる。一定の距離を隔てて付き合えるのなら目を灼くキラキラも無害な一等星だ。いつか気まぐれに閉ざされる危険は確かに孕んでいるけれども、MetaがReactの顔をしている方に賭けて僕は一つ乗ることにした。
MetaはわざわざFediverseを宣伝したりはしないだろう。多くのThreadsユーザにとってFediverseは馴染みのない外界であり続ける。僕は別にそれで構わない。近い将来、10億人と疎通さえできれば、その中にはきっと公式アカウントや現実の友人や腰の重いオタクが含まれている。

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title: "希死念慮スパークリング"
date: 2021-08-24T21:06:17+09:00
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tags: ["poem"]
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例年、夏休み明けは学生の自殺が増えるそうだ。この頃はコロナ禍のせいでただでさえ認知件数が上昇傾向にあるというし、行動を制限された人々が鬱屈した感情を抱え込んでしまうことは想像に難くない。
そんなニュースをトピックに掲げた5ちゃんねるのスレッドを閲覧していると、不意にグロテスクな情報が目に飛び込んできた。昨年の話だが、あるゲーム配信者が生配信中に首吊り自殺を遂げたという。問題の箇所を切り抜き録画したと思しき二分ちょっとのクリップには、一人の人間が自らの命を絶つまでの一部始終が収められていた。
動画はゲーム画面が映し出された状態からはじまった。左上にはWebカメラを通じて配信者の顔を映すワイプ画面があり、開始時点で配信者は既に自殺の準備を済ませたようだった。彼は用意した踏み台の上に立つと、しきりに「おぇぇぇ……」と激しくえずきだした。画面上では見切れているが、おそらく足が着いた状態でロープに首をくくって感触を確かめているのだろう。幾度となく繰り返されるそのうめき声は、さしずめ「本番」での苦痛に動揺しないための予行練習を意図しているのだと思われる。
時折、独り言のような調子で「死ぬのか……」、「こうなることは解っていたけど……」、「いける、いけるよな?」とつぶやく声が聞こえてくる。しかし躊躇の時間は驚くほど短い。「さよならっ」と最期に言い残し、彼は勢いよく踏み台を蹴飛ばした。刹那、小さいワイプ画面でもひと目で判る恵体が大きく傾ぎ、がくんと宙に浮いた。数秒経ち、彼の手が首のロープをかきむしる。「く、苦しい……」とかすかな声を発するも、まもなく手は下ろされ、しばらくすると腕全体が痙攣しはじめた。切り抜きの動画はここで終了しているが、実際の配信はこの後およそ六時間も続いたらしい。
調べたところによると、件の配信者はあるオンラインゲームで迷惑行為を頻繁に行っていたことで有名な人物だった。その悪質なプレイングはなかなか堂に入ったもので、自分もろとも味方チームを確実に敗北せしめる徹底ぶりだという。いくつかのソースは自殺の原因を「迷惑行為の報復に受けた誹謗中傷で精神を病んだ」としているが、僕の見立ては違う。以前から彼の中に宿っていた破滅願望――希死念慮が、たまたまオンラインゲームでの迷惑行為という形で表出したのだろう。誰もが「死にたい! 助けて!」と率直に言えるわけではない。成人以上の男性はさらにその傾向が強い。結果、幾重にも屈折した感情の発露や振る舞いがますます周囲から遠ざけられる要因を作り、希死念慮のリビドーを加速させる。
こんな具合の悪い代物を観てしまうと寝付きがひどくなる。なにしろこの動画を観たのは「寝る前に軽くネットサーフィン(死語)でもするか」と考えつつベッドの上でスマートフォンを開いた午後十一時過ぎ。件の配信者はもうこの世にいないというのに、ぐるぐると無闇に思考が巡る。もし彼がただ死にたいだけだったのなら、わざわざ自殺の様子を配信する必要などない。あえて配信して映像が残るように仕向けたのには彼なりの理由があったに違いない。果たして、動画を観た僕が寝付けなくなったのは彼の期待通りだったのだろうか。僕がこうして彼の死に至る過程を描き出したのは、彼にとって望ましいことなのだろうか。
希死念慮。聞けば誰しも人生の中で一度か二度は本気で自殺を考えるそうだ。学生の自殺は夏休み明けに多く、それ以外では春先が多い。いずれも移り変わる環境に適応しようとして苦労する時期だ。一年生やクラス替え直後の学年だと交友関係にもソフトリセットが入る。新年度から三ヶ月ちょっとで促成培養された即席フレンドシップは、とても儚く脆い。
他方、その辺りに目端の利く者は実に上手くやってのけているもので、夏休みの間にフレンドシップを盤石に固めきっている連中が存外少なくない。周りがそんな雰囲気だとなんだか自分だけが意図的にハブられているみたいで、次第に疎外感が募っていく。ささくれだったメンタルでは普通の言葉が普通に受け取れない。認知が歪む。すべてはねじ曲がった自意識の産物に過ぎないが、自分の脳みそが作り出したものからはそう簡単に逃れられない。
希死念慮がしゅわしゅわと泡を立てる。スパークリングのように。腹の底から喉元までせり上がってくる。思わずロープで首をきつく縛ったら、代わりに舌が飛び出した。
ソフトリセットならまだしもハードリセットはさらに苦労が絶えない。春先の自殺がもっとも多いのは進学、入社、転勤など人生の大きな転換点と重なる季節だからだろう。ここでも目端の利く者たちが素晴らしい待遇に恵まれたり、弛まぬ努力を実らせたり、自分では及びもつかない優雅な交友を育んでいたりする……つまり希死念慮の根本的な原因は、他人と自分を比べすぎるところにある。他人がいつも人生を上手く歩んでいて、自分ばかりが下手を打っていると思い込んでいるから、どうにも死にたくなってくる。
とはいうものの今時分、他人と自分を比べずに暮らすのは無理がある。無造作にSNSを開けば嫌というほど「他人の人生」が目に入り込んでくるし、進学も就活も競争の過程が極度に可視化されている。知りたくなくても彼我の差は自動的に、半強制的に通知される。**「内定を獲得した先輩はもっとエントリーしています!!!!」** リクナビが踊り狂いながらがなりたてたので、僕はブラウザのタブを引きちぎって捨てた。
希死念慮を和らげる方法はなくもない。こんなのは散々語り尽くされていて今さら新説をぶつ余地などない。玄関の壁に所定数ぶつかったあと斜めにジャンプしても、希死念慮のステータスはゼロにならない。代わりに「比べても気にならない相手と付き合う」というやり方がある。いわゆる類友は共通の話題が多く馴染みやすい反面、追いかける目標が近すぎる。ゆえに能力の差がはっきり判ってしまう。一方、職業も経歴も考え方も違う友人ならスキルセットが違いすぎてピンと来ない。同じゲームのランクがゴールドだのプラチナだとの可視化されるとつい見比べてしまうが、まったく異なるジャンルのゲームならランクが何であろうと気にも留まらない。
平凡なプログラマーがプログラマーばかりのコミュニティで劣等感を一切覚えずにいるのは難しい。だが、ゲームコミュニティやアウトドアコミュニティならコンピュータ関連の相談で諸君らの右に出る者はそういない。思う存分に無双するとよい。交友関係を複数のコミュニティに分散しておけば気持ちの切り替えが円滑に行える。平均から見て優秀な人間がめちゃくちゃ卑屈になっている時は大抵このメソッドを実践できていない。ツイッターに入り浸っている東大生や京大生からはだいたいそんな感じがする。
他には、そもそも希死念慮ですらなく単に敗北癖が身についてしまっている場合がある。いっとき誰かを上回ると今度はその地位を維持し続けることが辛くなる。ならばいっそ負けっぱなしの方がいくらか気が楽というもの――親に養われている学生ほどこんな考え方に取り憑かれやすい。というのも、彼らの敗北は実際には何一つ失っていないからである。古今東西、真の敗北には痛ましい損失がついて回るが、学生の時分の敗北で精神衛生以上の何かを失うことは滅多にない。だからこそ気まぐれな勝利を守るために四苦八苦するよりもずっと気安い。かくして彼らにとって敗北は安住の地になりうる。
しかし人の親になり、家族を養うようになると自分の勝敗が一族の行く末を左右する。敗北は一族の離散を招き、勝利は一族の繁栄に繋がる。たとえ個人主義の時代であってもこの原則は変わらない。より多く稼げば子孫への投資機会は増大し、ゆくゆくは子孫の勝負さえも有利に運べるが、敗北を重ねればすべてが真逆にひっくり返る。このような状況下ではおのずと勝利を志向せざるを得ない。したがって、諸君らの抱えている希死念慮がとりとめのない敗北癖に過ぎないのなら、適齢に達し次第、手頃な相手を見繕って子供を作るとよい。守るべき相手がいれば変われる。むろん、互いに若ければ若いほど望ましい――
**――とはならんのだろうな、実際。** これらの方法は確かに強力だが容易ではない。共通の話題がないコミュニティに次々と参加して交友関係を築くなどという芸当ができれば、もともと希死念慮なんて大した悩みにならない。誰かと結婚して子を為したいと思って気軽にできたら、限界独身男性がネットで怨嗟の声を叫ぶこともない。結局、人生の行く末は生まれつきの素質や資本力で概ね決定されてしまう。仮に万事上手くいったとしても所詮、隣の芝生は青い。せめて我を忘れるくらい夢中になれる趣味でもあれば慰めになるが、これはこれで相当な集中力と体力を要求するので、十年後、二十年後も続けられるかは定かではない。
してみると、このご時世に希死念慮を抱かず、ゆりかごから墓場まで健やかに人生を営める人間の方がむしろひと握りではないか、という気がしてくる。誰も彼も折に触れて死にたくなり、しかし本当に死ぬには大抵ほど遠く、希死念慮の泡立ちを腹に感じながら生きている。きっとわれわれに必要なのは死にたい気持ちを潔く認めて、カジュアルに付き合い続ける工夫なのだ。
腹の底からしゅわしゅわと泡立つ音がする。希死念慮スパークリングが喉元までせり上がってくる。歯を食いしばらなければ口から飛び出そうになる。思わずロープで首をきつく縛ったら、代わりに舌が飛び出した。そんなことになる前に、口の隙間からちょっとずつ漏らせばよい。
## 参考文献
[月別に見た自殺](https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/tokusyu/suicide04/5.html)
[夏休み明け増加・・・子供の”自殺” SOSは](https://www.news24.jp/articles/2021/08/20/07926456.html)
[コロナ禍で子どもの自殺が深刻 不登校新聞「SOSに気づき話を」](https://mainichi.jp/articles/20210819/k00/00m/040/273000c)

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title: "感想「マトリックス・レザレクションズ」:ほとんどメタい"
date: 2021-12-20T15:58:20+09:00
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tags : ["movie"]
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歴史的興行成績を獲得しながらも視聴者の大半がストーリーを理解していないことで知られる「マトリックス」シリーズの新作が、ついに公開された。ほとんどの視聴者にとって「マトリックス」とはクールな黒装束に身を包んだキャラクターがカンフーアクションを繰り広げるエンタメ作品だ。
事実、そのような表面的な見方でも十分に楽しいからこそ本シリーズは圧倒的な知名度を得たのだし、われわれ小うるさいオタクも先駆的なSF映画を楽しむ機会に恵まれた。初動で失敗してセルビデオで盛り返した「ブレードランナー」などの例外はあれど、もし当初の企画通り、かの有名なSF小説「ニューロマンサー」の忠実な映像化に徹していたら後世の作品に今ほどの影響は及ぼせなかっただろう。
マトリックスシリーズ前史のストーリーはざっくばらんに言って、下記の流れに集約される。機械に支配された人類や、現実と見紛うリアルな仮想世界といった設定自体は'90年代当時でさえ既にありふれたものだったが、本シリーズの新規性はそこへ嫌らしささえ感じる皮肉的な構造――**機械と人間の歪な共依存関係**――現実と虚構の相互作用を、圧倒的な映像でもって導入したところにある。
21世紀初頭に人工知能が生まれる。
発展した人工知能はあらゆる分野で人間の能力を凌駕し、人類の反感を買う。
最終的に人類と機械の間で戦争が勃発するも、人類側は劣勢に追い込まれる。
人類は太陽光エネルギーで動く機械軍を抑制すべく空を分厚い雲で覆う。
機械軍は代替エネルギーとして人類の生き残りを捕獲、管理して栽培しはじめる。(人間の電池化)
人間はある程度の刺激を与え続けなければすぐに死んでしまうため、機械は人間に夢を見せることにした。(マトリックスの誕生)
初期のマトリックスは理想郷のような世界だったが、苦しみや葛藤なくしては人間から十分なエネルギーを取り出せないことが判る。
改善が施されたマトリックスは20世紀末の現実世界をシミュレートするに至った。マトリックスの安定
以降、マトリックスは5回にわたり再構築を繰り返してきた。われわれの知る主人公ネオは6回目、すなわちバージョン6のマトリックスに投入された人間だ。それも**救世主**として。救世主とは、人類の希望ではなく機械がマトリックスの潜在的なバグを発見するために作り出した意図的な存在に過ぎない。むろん、ネオ以前のバージョンにもそれぞれ救世主は存在しており、そのすべてが与えられた役割を果たしてきた。このことはシリーズ第2作「リローデッド」で語られている。
救世主の「与えられた役割」とはなにか。それは、**マトリックスのデバッグである。** マトリックスがより現実に近い存在になるためには、現実と同じくらい不確実でなければならない。つまり、マトリックスに投入した人間を完璧に管理しようとするのではなく、手に余る危険因子はさっさと外に追い出してしまうのだ。彼らにとっては命がけの逃走、選ばれし者ゆえの覚醒だが、すべては機械が仕組んだ演出に他ならなかった。
まとめると、機械と人類の戦争はある時点からループしている。計画的に解放された人々が抵抗運動を盛り上げ、マトリックスに不正侵入して囚われた他の人間を助け出そうとする。救世主はその運動をリードし、様々な経験を経てデバッグに必要なデータを蓄積していく。
やがて「預言者」の誘導により救世主は「設計者」と対面させられて真実を知り、データの供与と引き換えに次回のループを引き起こす。ここでマトリックスは「リロード」される。機械軍は既存の抵抗運動を滅ぼし、救世主は次回の解放者たる女16人男7人を新たに選出する。こうして人類の物語は最初に巻き戻される。
というのも、抵抗運動が大きくなりすぎるとマトリックスは不可逆的な破綻に陥り、マトリックス内を含む全人類が死に追いやられてしまうからだ。かといって抵抗運動を起こさなければマトリックスは安定しない。どの場合でもマトリックスが機能不全に陥ればいずれ機械も滅ぶ。まさしく人類と機械の歪な共依存関係を表している。戦争は決して終わらない。永久に。
これは、侵入者や不要となったプログラムを消去するために強大な権限を与えられた「エージェント」さえ与り知らぬ話だった。このループ構造はマトリックスの「設計者」と「預言者」の間でのみ取り交わされた密約であった。
ところがバージョン6のマトリックスにおいて「預言者」は以前とは異なるアプローチをとり、誰にも気取られず革命レボリューションを成就させた。救世主ネオは死んだが6回目のザイオン人は生き残り、ループは破壊された。
さらに詳しい解説は[このあたりの記事](https://jp.quora.com/%E3%83%9E%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-3%E9%83%A8%E4%BD%9C%E3%82%92%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%82%8A%E3%82%84%E3%81%99%E3%81%8F%E8%AA%AC%E6%98%8E%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%81%A9%E3%81%86%E3%81%AA?share=1)に譲るとして、作中の台詞から得られるマトリックスの基本的な知識は以上となる。
## 新作のあらすじ
実のところ、救世主ネオは死んでいなかった。船の墜落に伴い死亡したはずのトリニティもまた、死んでいなかった。彼らは再びマトリックスに囚われていたのだ。「革命」が成就し、マトリックスの虚構に気づいた者は自由に解放されるまでに至った現在、豊富なエネルギー供給源を失った機械軍は内戦の憂き目にあっていた。
そこで新しい「設計者」が目をつけたのが救世主ネオとトリニティのもたらす相互作用である――極めて強力な絆で結ばれた2人は、通常の人間とは比べものにならないエネルギーを供給した。しかし両者をあまりにも密接に近づけさせると勢い余ってマトリックスを破壊してしまいかねない。よってバージョン7のマトリックスではより綿密に演出が作り込まれた。
この世界でのトリニティは夫と子を持ち、とても安定した暮らしを送っている。バージョン7の環境において、2人は喫茶店でたまに顔を合わせる程度の間柄でしかなかった。かつてのネオ、トーマス・アンダーソンは大人気**ゲーム**「マトリックス」シリーズを作り上げた世界的クリエイターだが、精神に重度の疾患を抱えておりセラピーの受講や投薬治療を余儀なくされている。同僚の助けを借りてなんとかトリニティとの会話にこぎつけるも、相手の家庭が気がかりでなかなか踏み込めない。他に趣味もなく、彼は病を押してでも仕事に打ち込むしかなかった。
ある時、ゲーム開発の一環で「モーダル」と呼ばれるサンドボックス的なテスト環境を作成したところ、現実では既に死去しているモーフィアスと同等の**機能**を備えたキャラクターが意図せず生まれた。「モーダル」内では初代マトリックスの冒頭シーンが再現されており、偶然その場所に不正侵入した登場人物らとの邂逅を経て、内部で「エージェント・スミス」の役割を演じていたキャラクターが「モーフィアス」としての自我に目覚めたのだ。
トーマスは時折脳裏をよぎる「救世主だった頃の記憶」を妄想と思い込んでいたが、その実まったく自覚のないままモーフィアスを再構築していた――革命から60年以上が経過した現実の世界は機械軍と冷戦状態を保ちつつ平和に繁栄していたが、今なおネオを取り戻すべく奮闘している一派もおり、彼らはこの偶然を利用することにした。
やがてトーマスは自分がテストで作成したキャラクターと瓜二つの人間に出くわして困惑する。果たして、トーマスは新バージョンのマトリックスから脱出できるのか。そして、同様に囚われたトリニティを助け出すことができるのか。
## ほとんどメタい
本作がわれわれに示したストーリーに新規性らしき要素はほとんど認められない。なるほど確かに映像は新しくなっている。20年もの年月の間に進歩を遂げたCGはいかにもリッチで迫力があったし、思わず「そうはならんやろ」とツッコみたくなるような空中浮遊も堅実な形に修正されている。もし諸君が「マトリックスとは派手な映像を楽しむだけの作品」と捉えているのなら、限りなく100点に近い満足感を得られるかと思う。なにしろ「マトリックス」のブランドで引っ張ってこられる予算は莫大だ。本作と同水準の画作りを達成できる映画は滅多にない。
しかし皮肉にもこの惜しみない映像技術への称賛が、読む者にとってはかえってシナリオの不出来さ加減を予期させることになるだろう。残念ながらそれは事実だ。肝心のストーリー部分の陳腐さときたら、あえて映像美との対比を狙ったのかと邪推してしまうほどだ。われわれは他の映画で、ゲームで、漫画で、この手の展開を見てきている。ある作品の中で作品自身のことが言及される――**いわゆるメタ要素というやつ**――は今や巷であふれかえっている。多少積み方を変えた程度では一山いくらにもならない。
本作で登場人物らがドヤ顔で **「なんならマトリックス5もありえる」** だとか **「ワーナー・ブラザースが圧力をかけてきている」** といったメタい台詞を吐いた時、僕は割と深刻にがっかりした。これらの台詞は映画がはじまってから30分と経たないうちに12chスピーカーから盛大に吐き出されたので、あと2時間もこんなリに付き合わないといけないのか、と全身を悪寒が襲った。万が一にでも、ここから過去作が描いたダークでシリアスな雰囲気に回帰する見込みはないと確信したからだ。しまいにはメロビンジアンが **「スピンオフで待ってるぞ」** とか言い出す始末だ。**ほとんどメタい。** メタ要素で作品が塗り固められている。
僕はこういう雰囲気の映画をよく知っている。**マーベル映画だ。** あの手の映画はどれも古いアメリカンコミックをベースにしているせいで、どうしても自己言及なくしてはやりきれない場面が出てくる。ある種のお約束を理解しなければ、国旗がモチーフのピチピチスーツを着た正義のヒーローなんて今時受け入れられないのだ。前提の共有のないままシリアスになられても視聴者は白けるばかりか、むしろ疎外感さえ覚えてしまう。だからこそマーベル映画ではしばしばセルフでツッコミを入れて **「君らの素朴な疑問はもっともだ――確かにこのスーツはダサい」** などと共感を示してやらなければいけない。そういう積み重ねを経て、ようやく視聴者もその気になってくれる。
どうやらマトリックスは誤ってそんな世界観に入り込んでしまったらしい。古参のファンに向けては過去作のシーンを適当に挟んでサービスし、新規の視聴者に対しては自虐ともとれるセルフ・ツッコミで作品世界への合意を取り付けようとする。おそらく今時分はこうした話作りこそが親切で手の行き届いたものとみなされるのだろう。だが、僕にとっては臆病さの裏返しにしか見えなかった。過去作が見せてくれたエンターテイメントと新規性の両立ではなく、ただひたすら商業的な動機のみが見え隠れしている。
厳しい言い方をすれば本作はあまりにも視聴者に阿りすぎている。SFっぽいフレーズやギミックはふんだんに散りばめられているものの実質利用されることはなく、映像面でのインパクトが薄いシーンはダイジェストでばっさりカット。マーベル的なリを借用しても本物ほどリきれていない。後にはなにも残らない。過去作がもたらしたような価値観の変革は起こらない。阿る者に価値観を変えうる余地などありはしない。
**まぜるな危険。** 逆にマーベル作品をマトリックスじみたカルトテイストな雰囲気で映画化したらそれはそれで具合の悪そうな映画になっていたに違いない。これはマーベル的要素それ自体の優劣ではなく、両者の相性の問題なのだ。
## 辻褄はだいたい合っている
シリーズ完結作「レボリューションズ」が公開されて以来、インターネット中のありとあらゆるBBSで様々な考察が交わされてきた。そのうちのいくつかは仮想世界マトリックスの将来像を語るものだった。ラストシーンでの「設計者」と「預言者」の会話が真実なら、解放されるのは必ずしも人間ばかりではない。なぜならプログラムの中にもマトリックスの支配から逃れた存在――「エグザイル」がいるからだ。彼らには外すべきプラグが存在しないが、工夫次第では現実の世界を体験できなくもない。この予想は実際に的中した。新作では磁気共鳴を活用した技術でもって人間とプログラムが共に生活している。
また、前述した機械同士の内戦もよく話に上がっていた。望む者がすべて解放されるのなら電力の不足は避けられない。マトリックスの機械は知性が非常に発達しているので、ひとたび生存の危機に陥れば指揮系統に反して下剋上を狙う個体が現れてもおかしくはない。他方、機械軍の上層部は内戦を沈静化させるためになにか手を打つ必要に迫られるはずだ。「レボリューションズ」の最後で一度死亡したネオの遺体が、機械にあたかも貴重品を扱うがごとく運ばれている様子から「救世主ネオの再利用」を予想した者はかなり多かった。言うまでもなく、これも的中している。
逆に不自然なのは新作における「預言者」の扱いだ。作中では「削除された」と言及されるに留まり、およそ革命の成功者とは思えない悲惨な結末を迎えている。過去作で描かれた壮大な革命は「預言者」の自己犠牲ではなく、むしろ自身の安定的生存を目論んでのことである。6回目のザイオン人が生き残れたのはあくまで結果論に過ぎない。その「預言者」があっさり削除されてしまっているのはどうにも腑に落ちない。なんせBBSの同志たちと積み重ねてきた考察はどれも「預言者」を黒幕に置いているため、ここがひっくり返されたら困るというのが小うるさいオタクとしての正直な気持ちだ。
## 総括
20年ぶりの新作「マトリックス・レザレクションズ」は過去作のダークでシリアスなカルト的雰囲気から一転して、マーベル映画風の快活さを取り入れた爽やかなファミリームービーに仕上がっている。そこには新たに読み解くべき謎もメッセージも存在しない。週末に友人や家族連れで訪れてポップコーンを口いっぱいに頬張りながら、令和最新のCGとアクションを楽しむには適した映画だと思われる。総合評価は100点満点中で65点。30点はすばらしい映像美に、もう30点は思い出補正に、最後の5点は牧歌的ストーリーに贈りたい。

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title: "持続性ダイエット"
date: 2022-01-10T13:44:48+09:00
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本エントリの内容は2019年の夏から翌年の春にかけて、約8ヶ月の期間で計17kgの減量80kg→63kgに成功した僕の個人的な経験に基づいている。ダイエットにあたり採用した手法は概ね再現性が高いと思われるが、メンタル面に関しては主観的な記述も多く含まれている。これはつまり、後述の例を完全にこなせる限りにおいては減量を確約できても、そこにたどり着くまでのタフネスやモチベーションは各々で調達・維持するしかないことを意味する。そして実のところ、それこそがダイエット成功の唯一の鍵なのだ。
事実、ダイエット――過体重の者が標準体型に減量する上で――やっていかなければならない日々の生活ははっきりしている。どんなに言い方を取り繕い、マーケティング用語の看板を張り替えても、行為自体はこの上なく明瞭だ。**余計に食わずに動けばいい。** 効率的なダイエットなるものがあるとすれば、せいぜい摂取カロリーの適量やオーバーワークにならない運動の限界を見極めること、自身の肉体的な変化に合わせてそれらの基準を上下させていくこと……くらいしかない。
したがって、本エントリに人々がアッと驚くようなテクニックの類は一切登場しない。これまでに何度もダイエットに挑戦しては失敗してきた"経験豊富"な人たちにとっては、深いため息がだだ漏れるほど聞き飽きた内容しか書かれていない。しかしそれは、資格を取得したいのなら試験勉強をするしかないとか、英語を話せるようになりたいのなら英会話を練習するしかないのと同じで、目的を果たすためには決して避けられない現実である。
ここまで読んで「やはり自分はダイエットには向いていない」と結論を出すのも一つの考えに違いない。幸い、昨今の社会は肥満者に表面上はずいぶん優しくなってきている。面と向かって侮辱されたり、あからさまに差別を受ける状況は次第に減っていくと見られる。人類全体が唯一無二の「標準体型」とやらに向かって邁進していくのもそれはそれで薄気味悪さがあるので、なにかと批判や揶揄の対象になりやすい「ボディ・ポジティブ」などの理屈にも、僕は案外そこまで反対ではない。重要なのはなんであれ、自分自身の在り方を定めることだ。
仮にうまく痩せられたとしても、それが周囲や社会の圧力に強制された結果なら必ずしも好ましいとは言えない。逆に大して食事が好きではないのに気づけば食べ続けてしまう、というのもやはり穏やかではない。要するに、今の自分に納得しているかがダイエットをやるにあたって重要になってくる。
## デブは長生きできない
率直に言って、僕はあまり自分に不満はなかった。見てくれでメシを食っているわけではないし、デブはデブでキャラクターが立つこともあってむしろデブネタを散々こすって生きてきた。今でもデブだった頃の写真を見ると「これはこれで悪くはなかったな」と思う。デブの僕は顔や体つきの造形が球体に近くて、とても人畜無害に見えるのだ。平和な時代なら周囲に馴染みやすい点でメリットも大きい。
**しかしデブは長生きできない。** これは厳然たる事実である。あらゆる統計がそう言っている。健康寿命の方はさらに絶望的だ。最終的に80歳で死ぬとしても、足腰が動く10年の余生と、介護ベッドに張りついて暮らす10年には雲泥の差がある。僕は長生きしたいし健康でありたい。これから先、どんな面白い技術や娯楽が発明されるか分からないのに不健康では困る。ひょっとするとそれは肉体が十分に動かなかったら利用できない代物かもしれないのだ。
肉体は不便極まりない。40になり、50になって、いよいよ身体の不調がごまかしきれなくなってからなんとかしようとしても、その頃には大抵手遅れだったりする。**体力を作るための体力がない。** そんな状態に陥ってしまっている。10年、20年と堆積した不摂生の悪癖はおいそれとは治らず、ちょっと走ろうものなら膝関節が助命嘆願の悲鳴を上げる……。やはりダイエットは早ければ早いほど好ましい。そう結論を出した僕は26歳の誕生日を迎えた翌月、生まれて初めてダイエットと向き合った。
## 摂取カロリー量を計算する
ダイエット食には多種多様なメニューが存在しており、肉をひたすら食べるダイエットだとか、脂質を多く摂るダイエットだとか、果ては特定の食品ばかり食べ続けるダイエットなんていうのもある。一方、僕が採った手法は総カロリー量を減らす古典的なやり方だった。これは人間の代謝が摂取カロリーと消費カロリーの差し引きで行われる単純な事実に着目している。一般に消費カロリーが余剰分を上回れば痩せ、さもなければ太る。極論、健康な20代男性が1日1600kcalの食生活を継続的に行って太ることはほぼありえない。20代男性にとって1600kcalとは息を吸って生きているだけで消費されうるエネルギー量だからだ。これを**基礎代謝量**と言う。基礎代謝量は[所定の計算式](https://keisan.casio.jp/exec/system/1161228736)で個々人に適切な値が分かる。
そこで僕はまず自身の摂取カロリー量を可視化すべく、カロリー計算アプリを導入した。当時の僕は運動習慣をまったく持っておらず、仕事も趣味も完全なインドアだったので消費カロリー量はまさしく「息を吸って生きているだけ」に限りなく近かった。よって1日1600kcalをどれほど超過しているか可視化できれば、おのずと減量の加減も掴みやすくなると考えられた。アプリは「YAZIO」か「あすけん」かで迷ったが、複数の食品を単一の「食事」として一括登録できる前者の方を選んだ。後者は有料会員でなければ同機能を利用できない。ただし有料の機能は「あすけん」が優れているため、金を払う前提ならそっちの方が望ましい。
![](/img/80.jpg)
結果、ダイエット開始前の僕の摂取カロリー量は2500kcal以上にのぼることが判明した。すなわち1日あたりのカロリー超過は900kcal、1ヶ月単位では27000kcalにも達する。脂肪1kgが約7000kcalなので、1日1600kcalで体重の増減がない人が同様の食生活を送ると毎月4kg弱ずつ太っていく計算になる。
このようにしてデータでまざまざと自らの過食を見せつけられるとさすがに認めざるをえない。世の中には全然食べてないのに太っちゃう、などとのたまう往生際の悪いデブが大勢いるが、そんな彼らにこそ手始めにカロリー計算をやってみてほしい。万物の霊長であるヒトの代謝とて化学の基本法則からは逃れられない。**取り込んだエネルギー以上になにかを生産することは絶対にありえないのだ。** たとえそれが脂肪であってもだ。
最初の1週間か2週間はあえて減量をせずにカロリー計算だけに取り組んでみるのも良いかもしれない。ダイエット食を考えて、カロリー計算もして、運動もして……なんて慣れない真似を一気にやろうとするのは過剰なストレスを生んでしまうし、ストレスは挫折の要因にもなりやすい。まずはカロリー計算を習慣化して、食事を終えたら反射的にアプリを立ち上げられるようになってから減量に進んでも遅くはない。
## 野菜スープ、低脂肪肉、豆腐
では、実際にいかなるメニューで減量を実施すべきなのか。実のところ、ここが一番難しい。可処分時間の多い身分ならスーパーに足繁く通って野菜や鶏むね肉を買い、せっせとダイエット食の開発に勤しむことも不可能ではないだろう。しかし週に6日、1日に平均10時間も働いて、手取りは20万もなく、奨学金の支払いがやっと……という立場の人に本格ポトフやチキンステーキのレシピはとてもじゃないがすすめられない。事実、肥満者と貧困の相関性は相当に強い。
とはいえ、諦めるにはまだ早い。貧困なら貧困なりに知恵を絞り、実践している人もいる。この分野は僕が密かに尊敬してやまないブロガー「黄金頭」さんの[記事](https://goldhead.hatenablog.com/entry/2019/04/11/001336)が詳しい。色々あるが雑にまとめるとスープと低脂肪肉と野菜で腹を膨らませるメソッドだ。飽きたら味付けを変えればよい。今時は一人前用の鍋スープの素が大量に出回っているのでハードルはずいぶん低くなっている。ちなみに僕はスープ類の他に納豆卵かけ豆腐をよく食べていた。
他方、額面上のカロリー量が低くてもカップ麺やインスタント食品、コンビニ食に手を出すのはおすすめしない。あれは絶対的な分量が少ないから低カロリーに見えるだけであって、その場は満足できてもたちまち空腹に苦しむ羽目になる。コンビニ食は、コンビニ食それ自体がダメというよりは、コンビニという場所がダイエット中の人間に好ましくない。ただでさえこれまで好き勝手に飲み食いしてきたデブが、ありとあらゆるジャンクフードやスイーツを間近に揃える素敵空間へ放り込まれて無事でいられるはずがない。真の護身とはそもそも危険に近寄らぬことと武道の達人も言っている。
――なに? それでもたまにはお菓子を食べたい? 別にいいよ。**制限カロリーをきちんと守れるならな。** "経験豊富"な人ほど「チートデー」などの小賢しい理屈を詳しく知っているが、**週に何度もチートデーなんてやってたら痩せられるわけないだろ。**
カロリー計算に慣れてくると日頃の食事内容はおのずと糖質制限に近い形に向かう。白米やパンをメニューに加えると途端に食べられる量が減ってしまうからだ。逆に糖質の摂取を諦められれば、選べる食事の幅が格段に増える事実にも気づく。ダイエットに成功した後もこの考え方は大いに役立つ。主に学校給食を経て未だ多くの人が主食はマストと思い込まされているが、卵3個を使ったオムレツは単品なら300kcalにも満たないのだ。ウインナー2本と目玉焼きを2個に、ブロッコリーをつけたご機嫌なブレックファストでさえ500kcal以内に収まる。ところが、これらにパンや白米を足したらあっという間に6、700kcal近くに達してしまう。完全に糖質を絶つのはもちろん不健康だが、せいぜい1日250g前後に留めるくらいが現代人にはちょうどよいと僕は思っている。
結局、ダイエットの要は飽きずに食べられる健康的なメニューをどれだけ生み出せるか――にかかっていると言える。まんまと痩せた僕に相談を持ちかけてきた人たちは皆、あたかも魔法のごときテクニックの存在を期待していたようだった。しかし僕が素直に「食べる量を減らして運動した」と白状すると露骨に残念がった。期待に添えなかったのは恐縮だが、現実は所詮そんなものである。健康的な肉体を手にした今でもカロリー計算は続けているし、帳尻が合わなければ同様のダイエット食を摂ることもある。意図的な減量は終わっても食事の管理自体は永久に終わらないし、健康に長生きしたければ終えてはならない。以下にどうしても空腹に耐えられなくなった時に食べる緊急避難用の間食を挙げる。各自参考にされたし。
**■インスタントスープもしくは味噌汁**
塩分と出汁の組み合わせは普遍的な満足度の高さを誇る。だいたいどれも1杯50kcal未満なので気安く飲める。
**■イカの乾物類**
[こういうやつ。](https://goods.jccu.coop/lineup/4902220009732.html)ヘルシーな割に歯ごたえがあってよく腹に溜まる。これなくしてダイエット初期の苦しさは乗り切れなかったと言っても過言ではない。今でもたまに食べたくなる。
**■ノンシュガーガム**
口さえ動いていれば多少は空腹感が紛れる。ただしあまり執拗に噛みすぎると腹を下すし歯が痛くなる。
**■飴**
わずかに糖分を摂るリスクと引き換えに脳みその欲求を黙らせる。
**■りんご**
100kcal以上あるがその圧倒的な満腹感は一食分の食事にも匹敵しうる最終決戦兵器。
夜半、われわれはやたら腹が減る。ひどい時は食べなければ干からびて餓死してしまうのではないかと恐れるほどに腹が減る。耐えきれず暴飲暴食して後悔に苛まれるのは現代人の業だ。**われわれはいい加減この種の空腹が錯覚に過ぎないことを学ばなければならない。** 騙されたと思って一度でも我慢して寝てみれば分かる。朝起きた頃にはあの強烈な空腹感が嘘のように消えていることだろう。
## とにかく動く
たとえ肥満体でなくても運動嫌いの人は多い。心底運動が嫌なのか食事制限縛りの減量を目論む猛者もいるほどだ。**だが、それは茨の道だと今一度はっきり言っておかなくてはならない。** しかも抜け出た先には枯れ果てた荒野しか広がっていない。運動を伴わない減量は筋肉が萎びたままなので、万が一痩せられたとしても不健康な肉体しか得られないのだ。せめて見てくれだけでも良ければ救いはあるが、大概は容姿もみすぼらしくなる。
そもそも動物たるヒトが一日の大半を終始座ったり、寝転がったりして健康体を維持できると思う方がよほどおかしいのである。ビルや道路が大地にギチギチと生い茂り、日がなずっと机に向かって生活の糧を得られる近現代の暮らしなど、人類史のスケールに比すれば小指の爪の長さにも満たない。われわれの肉体は依然、槍を握って獲物を追い回していた頃のままなんら変わりない。しからば、現代人も多少は動く習慣を取り戻して時代遅れの肉体に都合を合わせてやらなければならぬ。
ひょっとすると100万年後、1000万年後の人類はデスクワークをしているだけでグングン健康なマッチョになっていったり、いっそ肉体を棄てて情報生命体に進化するとかしているかもしれない。だが、いずれにせよわれわれは西暦2022年を生きる哀れなホモサピでしかなく、誠に遺憾ながら肉体の呪縛を超克する術はない。惑星の地表にへばりついて暮らす未開な生命としての運命を受け入れる覚悟ができたなら、まずはウォーキングとスクワットを身に着けよう。数多ある筋トレのうち、スクワットは特に消費カロリー量が大きく効率的だ。
やる気に満ちあふれたダイエット初心者はしばしば勢い余って会員制のジムに登録したがる。しかし当面の間、せめて半年間は自宅での自重トレーニングに徹してほしい。ジムをいきなり有効活用できる人間は非常に稀だ。大抵は自分に適したトレーニングマシンをろくに把握できず、ただいたずらに時間と金を浪費して終わる。
諸君らが万年運動不足の肥満者なら、きっと普通の腕立て伏せすら1、2回も満足にこなせないだろう。僕もそうだった。膝をついてやる初心者向けの腕立て伏せすらまともにできなかった。やむをえず壁に手をついて行う形式の、介護老人のリハビリに似たスタイルの腕立て伏せから始めたが、マシントレーニングの厳しさはこんな話では済まない。**急がば回れ。** なにより、自宅の自重トレーニングなら必要経費はマット代のみで済む。
もう一つのダイエットの定番といえばランニングだが、過体重で運動がままならない状態では**確実に**膝を壊してしまう。かくいう僕も幾度となく整形外科に足を運んだ。今でこそハーフマラソンをなんとか走破できるくらいになったが、1kmを2kmに、2kmを3kmにといった地道な反復練習なしにはとてもたどり着けなかった。ダイエットありきならここまで突き詰める必要はない。さしあたりはウォーキングで十分だ。ウォーキングが板についてきたら数分走ってみたり、ウォーキングにランニングを混ぜたりして徐々に運動強度を高めていく方が堅実で怪我をしにくい。
**運動習慣の大敵は怪我なのだ。** こうしてドヤ顔でランニングの実力を語っている僕も、仮に大怪我をして半年も入院すれば5km程度さえ十全には走れなくなってしまうだろう。苦痛に満ちたリハビリは日常に溶け込んでいかない。すなわち、習慣ではなくなることを意味する。僕はそれをとりわけ恐れているので怪我を負うような走り方はしない。むろん、カロリー計算と同じで運動にも終わりはない。
ちなみに、初心者が買うべきランニングシューズは[アシックスのJOLT](https://www.amazon.co.jp/dp/B089TP3MV2/)一択だ。こいつはめちゃくちゃ頑丈に作られていてコスパが高い。いかにもカッチョいい高級シューズは足の甲が狭かったり、加速力優先でソールが薄めに作られていたりする。初心者にとっては怪我の原因になりかねない。1kmあたり6分未満のペースで走っても疲労を感じないくらいに成長したら買い替えを検討してもよい。
近頃はリングフィットアドベンチャーを代表格に、フィットネス要素を備えたゲームも多数存在している。僕は昔気質のトレーニングの方が好きだが、娯楽を通じた方がうまくいくなら積極的に活用しない手はない。唯一の懸念はゲーム自体が古くなりすぎたりエンタメ性の部分に飽きがきた場合だが、幸いフィットネス業界は成長産業だ。すぐに後続の作品が出回る。
人生を過ごしていると「なに一つ良いことのない無駄な一日だった」と感じる日もある。しかし毎日トレーニングに勤しんでいれば「でも運動はできたな」とそこにワンポイントの肯定を加えられる。風呂に入るのが億劫な人は、まさに風呂から上がった直後を想像するといい。**どんなに面倒くさくても入浴を後悔した覚えはないはずだ。** 運動はそれに似ている。
## ダイエットに終わりはない
なにかとサステナブルが叫ばれる世の中だが、ダイエットも持続性が重要なのは言うまでもない。極端な減量をして無理やり痩せてもリバウンドしてしまえば意味はなく、日々苦痛に耐え忍ぶばかりで創意工夫に事欠くようでは続く余地はない。僕は月単位にならすと2kgずつしか痩せていない。テレビ番組で劇的な体験を語るダイエッターに比べれば鼻くそみたいな数字だ。だが、マイペースゆえに自身の食生活を抜本的に見直すゆとりに恵まれたとも考えられる。
以前の僕はマウンテンデューを浴びるように1日2缶は飲み、その場の勢いで宅配ピザを注文する暮らしを送っていた。それが今ではもっぱらミネラルウォーターを常飲し、麦飯と温野菜、卵と納豆の昼食に概ね満足している。たまに羽目を外してはっちゃけることもあるが、なんだかんだで最終的には帳尻を合わせられている。つまり現在の僕はジャンクフードの良し悪し、健康食の良し悪しの両側面を真に認識できている。この感覚は短期間の追い立てられた減量や、特定の食品に依存した歪なダイエット方法では決して会得できなかっただろう。
そしてなにより、運動の楽しさが解った。健康な肉体を躍動させることは他に代えがたい喜びだ。いきなりテニスをやってもぶっ通しでコートに立っていられるし、10年ぶりにゴルフを再開しても2時間ひたすらクラブを振っていられる。豊富な基礎体力はあらゆる活動の幅を広げる。片道40分程度なら徒歩で行ける範囲だな、と気軽に思えるのもひとえにランニングのもたらした効能と言えよう。ひとたび効能を自覚できると運動のモチベーションがますます高まり、トレーニングの最適化のために食生活もおのずと健やかな形に維持されていく。さながらよく油の染み込んだ歯車のごとき円滑さ――これこそが僕の理想とする持続性ダイエットの姿である。減量は終わってもダイエットに終わりはない。
## 参考文献
[農林水産省](https://www.maff.go.jp/j/syokuiku/zissen_navi/balance/required.html)
[国立がん研究センター](https://epi.ncc.go.jp/can_prev/evaluation/2830.html)
## あわせて読ませたい
[金持ちの方が麦を食っている](https://riq0h.jp/2021/03/06/195113/)
白米に麦を混ぜて食べることをすすめる自己啓発的な過去記事。

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