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@ -70,7 +70,7 @@ tags: ['novel']
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「上官への言葉遣いには気をつけろ。お前は二回も口ごたえをした。決勝進出に免じて精神注入棒は勘弁してやる。だが、その頬の痛みはやつを擁護する割に合うかよく考えておくんだな」
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「上官への言葉遣いには気をつけろ。お前は二回も口ごたえをした。決勝進出に免じて精神注入棒は勘弁してやる。だが、その頬の痛みはやつを擁護する割に合うかよく考えておくんだな」
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ほぼ反射的な動作で直立不動の姿勢に戻り、勇は大声を張った。
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ほぼ反射的な動作で直立不動の姿勢に戻り、勇は大声を張った。
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「ご指導ご鞭撻ありがとうございましたぁ!」
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「ご指導ご鞭撻ありがとうございましたぁ!」
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鈍い痛みの残る顔面に構わず、監督と別れるやいなや彼は携帯電話で二人の選手を呼び出した。ものの数分のうちに誰もいない控室に現れた彼らは先ほどの勇と同じうろたえた様子で口を閉ざしていた。
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鈍い痛みの残る顔面に構わず、監督と別れるやいなや彼は携帯電話をぽちぽちと押して二人の選手を呼び出した。数分のうちに誰もいない控室に現れた彼らは先ほどの勇と同じうろたえた様子で口を閉ざしていた。まるで攻守が逆転したみたいだと勇は思った。
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「貴様ら、あの試合でなにをしていた」
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「貴様ら、あの試合でなにをしていた」
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主将として、帝國軍人さながらの低い声音を腹から絞り出して下級生の二人に詰め寄ると、左側の方が先に釈明をした。
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主将として、帝國軍人さながらの低い声音を腹から絞り出して下級生の二人に詰め寄ると、左側の方が先に釈明をした。
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「自分は弾薬を切らしておりまして、移動途中の際の接敵で退場と相成りました!」
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「自分は弾薬を切らしておりまして、移動途中の際の接敵で退場と相成りました!」
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またしても言い淀む勇。華々しく決勝進出を決めた分隊の主将なのに、なんだって今日はこんなに釈然としないんだろうと彼は自分でも疑問を感じた。
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またしても言い淀む勇。華々しく決勝進出を決めた分隊の主将なのに、なんだって今日はこんなに釈然としないんだろうと彼は自分でも疑問を感じた。
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「隠し事はなしよ」
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「隠し事はなしよ」
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結局、勇は洗いざらいをすべて話した。聞かれなくても帰り道のどこかでどうせ話していた。ありていに言えば、彼は今もやもやしていた。それを晴らしたくて仕方がなかった。健全に交際している間柄で、硬式戦争とも運動部とも無縁の才女は中立の相談相手にはうってつけだと思った。
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結局、勇は洗いざらいをすべて話した。聞かれなくても帰り道のどこかでどうせ話していた。ありていに言えば、彼は今もやもやしていた。それを晴らしたくて仕方がなかった。健全に交際している間柄で、硬式戦争とも運動部とも無縁の才女は中立の相談相手にはうってつけだと思った。
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「ずいぶんgrotesqueな話ねえ」
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「ずいぶんgroteskな話ねえ」
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一通りの話を聞いて、彼女は聞き慣れない外国語を使い感想を述べた。もし帝國実業でそんな言葉遣いをしているのを見られたらすぐさま「英米思考」のレッテルを貼られて張り手が飛んでくるだろう。女子校の教育はその辺りがちょっと違うのかもしれない。
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一通りの話を聞いて、彼女は聞き慣れない単語を流暢に発話して感想を述べた。もし帝國実業でそんな言葉遣いをしているのを見られたらすぐさま「英米思考」のレッテルを貼られて張り手が飛んでくるだろう。女子校の教育はその辺りの区別が進んでいるのかもしれない。
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「たぶん勇さんは言われていることと現実の行為にgapを感じているんじゃないかしら」
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「たぶん勇さんは言われていることと現実の行為にkluftを感じているんじゃないかしら」
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「日本語で言ってくれないか」
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「日本語で言ってくれないか」
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「だからその――たとえば、公死っていうの、晴れ舞台で死ぬのは尊く崇高だっていうんでしょう」
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「だからその――たとえば、公死っていうの、晴れ舞台で死ぬのは尊く崇高だっていうんでしょう」
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「そうだ。だから公死園で死ぬと本物の殉死と同じように靖国神社に祀られるんだ。ものすごい名誉なことだ」
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「そうだ。だから公死園で死ぬと本物の殉死と同じように靖国神社に祀られるんだ。ものすごい名誉なことだ」
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@ -121,18 +121,68 @@ tags: ['novel']
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「じゃあ仮想体力制ってなんなのよ。昔みたいに倒れるまで撃ち合っていたらいいじゃない」
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「じゃあ仮想体力制ってなんなのよ。昔みたいに倒れるまで撃ち合っていたらいいじゃない」
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「それは危険だから――あっ」
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「それは危険だから――あっ」
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「ほら、やっぱり死ぬのは怖いんじゃない。私だって勇さんに死んでほしくないわ」
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「ほら、やっぱり死ぬのは怖いんじゃない。私だって勇さんに死んでほしくないわ」
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気まずくなって視線をそらすと、電車内の液晶に投影された広告が目に飛び込んだ。(男女で一つ、性別は二つ、子どもは三人 帝国家庭庁)ちょうどそれが入れ替わって、新しい広告が表示される。
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気まずくなって視線をそらすと、電車内の液晶に投影された広告が目に飛び込んだ。(男女で一つ、性別は二つ、子供は三人 帝国家庭庁)ちょうどそれが入れ替わって、新しい広告が表示される。
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**『スメラギ重工の最新無人航空機……二四時間無給で働く警備員の代わりに! 町内會の見回り要員に! 果ては外地の監視、鎮圧にも! 一部法人に限り武装改造も承り〼』**
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**『三菱重工の最新無人航空機……二四時間無給で働く警備員の代わりに! 町内會の見回り要員に! 果ては外地不穏分子の監視、鎮圧にも! 一部法人に限り武装改造も承り〼』**
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はた、と有効な反論を思いついて勇は視線を戻した。
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はた、と有効な反論を思いついて勇は視線を戻した。
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「死ぬか死なないかの危険を乗り越えることで徴兵されても怖気づかないし、実社會でも活躍できるんだ。うちの部は完全就職で有名でもある」
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「死ぬか死なないかの危険を乗り越えることで徴兵されても怖気づかないし、実社會でも活躍できるんだ。うちの部は完全就職で有名でもある」
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「そういうものかしら」
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「そういうものかしら」
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ちょうど電車が野田駅で停車したので、和子は持ち前の大和撫子然とした黒髪をなびかせて勇の脇を通り過ぎた。家まで送るよ、と申し出かけたがまるで予知でもしたみたいに先手を打たれた。
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ちょうど電車が野田駅で停車したので、和子は持ち前の大和撫子然とした黒髪をなびかせて勇の脇を通り過ぎた。家まで送るよ、と申し出かけたがまるで予知でもしたみたいに先手を打たれた。
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「今日は送ってもらわなくていいわ。勇さんの家族が英雄の凱旋を待ちわびているでしょうから」
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「今日は送ってもらわなくていいわ。勇さんの家族が英雄の凱旋を待ちわびているでしょうから」
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そう言い残すと、華奢で可憐な身体が扉の向こうに吸い込まれていくように消えていった。躍起になって反論したので怒らせたのかも、と彼は不安を抱いたがしかし、またぞろ入れ替わった広告を見て気持ちを奮い立たせた。(唱和百年記念万博を国民精神総動員でなんとしてでも成功させませう! 大阪市広報課)
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そう言い残すと、華奢で可憐な身体が扉の向こうに吸い込まれていくように消えていった。躍起になって反論したので怒らせたか、と彼は不安を抱いたがしかし、またぞろ入れ替わった広告を見て気持ちを奮い立たせた。(権利と義務は表裏一体! 徴兵にはなるべく早く応じませう! 大阪市男子道徳課)
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所詮、女の子には解らないことだ。死線のぎりぎりを見極める攻防、盤面を見通して敵を征服し尽くした時のえもしれぬ高揚感。銃撃を加えた相手が地に伏した際の確かな手応え。こんな実感の伴う競技は他にありえない。そうして先んじて帝國軍人の威容の端に触れた者のみが、徴兵されてもただのいち歩兵ではなく幹部候補生相当の扱いで外地の各方面に配属されていくのだ。本職として軍人にならなくてもその精神は社會の至るところで実力を発揮する。それは、汗水を垂らして命を危険に晒しているからこそ得られる能力だからだ。戦争部に入部できない婦女子方とはそもそも相容れない。
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所詮、女の子には解らないことだ。死線のぎりぎりを見極める攻防、盤面を見通して敵を征服し尽くした時のえもしれぬ高揚感。銃撃を加えた相手が地に伏した際の確かな手応え。こんな実感の伴う競技は他にありえない。そうして先んじて帝國軍人の威容の端に触れた者のみが、徴兵されてもただのいち歩兵ではなく幹部候補生相当の扱いで外地の各方面に配属されていくのだ。本職として軍人にならなくてもその精神は社會の至るところで実力を発揮する。それは、汗水を垂らして命を危険に晒しているからこそ得られる能力だからだ。戦争部に入部できない婦女子方とはそもそも相容れない。
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電車が大阪梅田駅に着くと一気に人がどやどやと降りはじめた。勇も乗り換えのために人の波に倣って後へと続く。地下通路を登って地上に出ると、外はまだ昼過ぎだった。友邦国たる独逸や伊太利亜式の建築が随所に見られる大阪駅周辺の街並みを一息で横断して、大阪駅の中に入るとまた外地各国の文化を扱う駅中の商店街が所狭しと並んでいた。「比律賓直輸入指定農園高級品」と題された派手な電燈の下には、照明ではなく自らが発光しているのかと思うほど黄色く輝いたバナナが鎮座している。素人目に見ても判るほど造形が整っているが、値段も庶民にはなかなか手が出ない。高校生の勇には縁のない特産品だ。
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電車が大阪梅田駅に着くと一気に人がどやどやと降りはじめた。勇も乗り換えのために人の波に倣って後へと続く。地下通路を登って地上に出ると、外はまだ昼過ぎだった。友邦国たる独逸や伊太利亜式の建築が随所に見られる大阪駅周辺の街並みを一息で横断して、大阪駅の中に入るとまた外地各国の文化を扱う駅中の商店街が所狭しと並んでいた。「比律賓直輸入指定農園高級品」と題された派手な電燈の下には、照明ではなく自らが発光しているのかと思うほど黄色く輝いたバナナが鎮座している。素人目に見ても判るほど造形が整っているが、値段も庶民にはなかなか手が出ない。まずもって高校生の勇には縁のない特産品だ。
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大阪駅から環状線の電車に乗り込んで二駅、こじんまりとした桜ノ宮駅に降り立つと、学生無料の駐輪場に停めておいた自転車に乗り換えて帰路を急ぐ。そこから野江駅の向こう側まで一五分ほど自転車を走らせると、築二〇年のやや色褪せた一戸建てがある。父と母と、弟とが共に住まう葛飾家の住宅だ。
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大阪駅から環状線の電車に乗り込んで二駅、こじんまりとした桜ノ宮駅に降り立つと、学生無料の駐輪場に停めておいた自転車に乗り換えて帰路を急ぐ。そこから野江駅の向こう側まで一五分ほど自転車を走らせると、築二〇年のやや色褪せた一戸建てがある。父と母と、弟とが共に住まう葛飾家の住宅だ。
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普段は勇たちが起きるよりも早く出勤して、寝た後に帰ってくる父親が畳に座っていたので彼は驚いた。「ただいま帰りました」と告げると、父は首だけ振り返り「おお」と短く言った。それで応答が済んだのかと早合点して二階の自室に上がろうとすると、父がまたしゃべったので足を止めた。
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「見ていたぞ、試合」
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「次は決勝です」
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心なしか誇らしげに伝えると父は深くうなずいた。今度こそ、会話は終わったようだった。入れ替わりに台所の母が言う。
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「今日、奮発してお寿司の出前をとったから、部屋に行くついでに功にも教えてやって」
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わずかにきしむ階段を一段ずつ上がり、手前の自分の部屋に荷物を放り投げてからすぐに弟の部屋の扉を開け放った。こちらに背を向けて電子計算機をいじっていた功はびくりと肩を震わせ急に慌ただしくキーボードを連打した。先ほどまで映っていた液晶画面がいかにも無害そうな風景がに切り替わる。だが、ゆっくり振り返った彼の警戒の眼差しが兄を認識した時、細身の身体を縛っていた緊張の糸が一気に解けたようだった。「……なんだ、兄さんか。ノックするって約束したじゃんか」
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「いや長話じゃない。母さんが今日は寿司をとるって」
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「ははあ、じゃあ勝ったのか。相乗効果かな」
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弟の口元が皮肉めいた笑いをかたどってつり上がった。
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「次が決勝だ」
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今回は間違いなく、確実に自慢の口調で言い切った。
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「こっちも良い話がある」
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弟は机の横に積まれていた本の山の中から一枚の紙切れを取り出して半ば投げてよこした。「全国共通一次模試検査結果」と赤色で塗られた文字と数字だらけの文言の意味は勇にはいまいち解りかねたが、横枠に添えられた部分だけは明瞭に理解できた。
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『受験者の総数及び順位 二四八〇〇人中七位』
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「全国で七位……お前、そんなに勉強できたのか」
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「そうだよ。高二に上がる頃には一位になっているだろうね」
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日焼けして赤く焼けた顔に丸刈りの兄と違い、細身で脆弱で色白の弟にもそれを補って余りある才能が備わっている。葛飾家の兄弟は二人揃って文武両道なのだ。
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「だから寿司か……。最後に食べたのなんて七五三の時ぐらいだ」
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「柄にもなくちょっとは頑張った甲斐があったかな」
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飄々と言ってのけた功はまた計算機に向き直って、キーボードを叩いた。すると、風景画が消えて画面いっぱいに英語が記された頁が現れた。一転、次に緊張を露わにしたのは勇の方だった。
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「おいっ、なんで英語の頁なんか」
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「シッ、大声はやめてくれ」
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功は人差し指を立てて口に合わせた。年齢的には硬式弾を食らってもいい歳なのに、仕草や顔つきは未だ中学生みたいに見える。
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「先取り学習だよ。国内の情報は内容が古すぎる。最先端のコードはインターネットにしかないんだ」
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「よせ、親父に見つかったらまたぶっ飛ばされるぞ」
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「だからあんなに慌ててたんじゃないか」
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危ない火遊びだ、と勇は思った。戦争部の人間もたまにはめを外して乱闘騒ぎを起こしたり、飲酒や賭博で補導されたりする者が現れるが、若気の至りとして温情に放免されるこっちと違って、これは本当に親兄弟に塁の及ぶ罰を与えられかねない。
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「叔父さんのことを忘れたのか。あれで父さんは降格させられたんだぞ」
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「あの人はちょっと本気になりすぎたんだ。僕程度のことは算譜好きなら大抵やっているよ。憲兵だってこんなのいちいち捕まえている暇ないだろ」
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父の兄は変わった経歴の持ち主だった。帝國大学にしかない計算機科学科を経なければ就職できないはずの電子計算機技師に叩き上げでなって、生まれも育ちもがらりと違う人と肩を並べて熱心に働いていた。弟の父さんは「やつは骨の髄まで英米思考だ」と事あるごとにこき下ろしていたが、口ぶりほど嫌っていないことはよく見て取れた。実際、物腰が軽妙で知識が豊富な叔父を嫌う親族はいなかった。親戚の集まりでも常に話題の中心にいた。
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その叔父さんが、治安維持法違反で逮捕されたのが五年前だ。なんでも電子計算機を用いて扇動を企てていたという。それがどんな内容だったのかはもはや誰にも判らない。殺人で捕まった者にさえ面会や文通が許されるのに、政治犯には一切認められないからだ。懲役三〇年の刑期は、まだ六分の五も残っている。
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身内の罪を贖うべく父はかつての同僚が上司になり、かつての部下が同僚になる苦境でもめげずに二倍も三倍も働いて、町内會の会合にも針のむしろを承知で顔を出した。それから二年、三年と経ち、長男の勇が公死園に初出場を決めたことが契機となって、ようやく禊が済んだらしい。勇は母が「今は昇進の話も出ているの」と嬉しそうに話しているのを聞いていた。
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「とんでもない弟だ」
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端的に感想を述べると功は得意げににやりと笑った。
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「絶対に捕まりはしないよ。わざわざ日本橋の裏路地くんだりまで行って海外のVPNを契約したんだ。僕は帝大の計算機科学科に入って大日本帝國の電子計算機に飛躍をもたらしたく存じます……っていう感じでやっていくさ」
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「少なくとも英語を使うのは勘弁してくれ」
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英語規制は法律ではないが空気として確かに存在する。コードは算譜と言うべきだし、インターネットは電網と言わなければならない。ただ、勇にはVPNがなんなのかはまるで解らなかった。
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「ふん、でもみんなテレビだとかラヂオだとかは言うじゃないか」
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「あれは昔からあるからいいんだ」
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「インターネットだって本当は三〇年以上も前からある。じゃあそろそろ解禁だ」
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「こいつ、理屈だな」
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勇は手を伸ばして功の首ねっこを腕にかけると、体ごと引き寄せてもう片方の手で髪の毛をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。「わーっ」と大げさな悲鳴をあげる弟。面倒くさくなったらこの手に限る。
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ひとしきり弟への制裁を終えると彼は自分の髪の毛をなでつけながら、ぽつりと言った。
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「まあ兄さんは年上の中では一番好きかな。怒鳴りも殴りもしてこないから」
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急に勇は自分の手――鞣し革のように固く仕上がった手――に後ろめたさを覚えた。一時間も前に勇と一つしか歳の違わない下級生を二人も殴りつけたばかりだった。大層な理由はいくらでも思いつくが、実際にはただの腹いせでしかない。
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「俺が殴ったらお前なんてばらばらになっちまうよ」
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そう、おどけてみせて顔色が変わらないうちに勇は踵を返した。
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