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@ -53,7 +53,7 @@ tags: ['novel']
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肩を怒らせてのしのしと近づいてくるバイソンはいかにも格好の獲物を見つけたと言いたげな表情で、わざとらしく両手をメガホンの形にして叫んだ。プラスチックの壁を容易に突き破る怒声だった。
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「おーい、出てこいよ!」
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出だしは友達に呼びかける感じの朗らかさだが、すぐ後に「十秒で出てこないと前歯全部折るぞ」と続き、間延びした音程のカウントダウンが開始された。取り巻きたちもげらげらと笑いながら唱和する。否が応もなく、僕はノートパソコンをモジュラーケーブルが繋がったまま閉じて、リュックに突っ込んで隠した。街よりも東京よりも広いグレーの公衆電話ボックスの中の世界には、鍵がついていない。意地を張って籠城を決め込んでも僕を引きずり出すのにそう手間はかからない。
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這うような前のめりの姿勢で電話ボックスから出ると、途端にむわっとした夏の空気と虫の鳴き声と地獄のカウントダウンが一斉に襲いかかってきて、僕はめまいを覚えた。「出た、出たからやめてくれよ」そう言うのが精一杯だった。なにをやめてほしいか具体的な言及は避けた。殴るなと言えば殴られるし、壊すなと言えば壊されるに決まっているからだ。
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這うような前のめりの姿勢で電話ボックスから出ると、途端にむわっとした夏の空気と虫の鳴き声と土の匂いと地獄のカウントダウンが一斉に襲いかかってきて、僕はめまいを覚えた。「出た、出たからやめてくれよ」そう言うのが精一杯だった。なにをやめてほしいか具体的な言及は避けた。殴るなと言えば殴られるし、壊すなと言えば壊されるに決まっているからだ。
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「田宮、お前こんなとこでなにしてんだ?」
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左右に取り巻きを引き連れてバイソンが眼前に立ちはだかった。二十センチもの身長差はどうあがいてもこちらになすすべがないことを思い知らせてくれる。
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「あー……ちょっと休んでて」
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「これは?」
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「URLに決まってるでしょ」
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「いや、分かるけど……交換日記をするんじゃないの?」
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彼女は短くせせら笑った。
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彼女はふん、と鼻を鳴らした。
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「こんなのでちんたらやるなんて馬鹿馬鹿しいでしょ。えーと、夕方は家庭教師が来るから……そのあとご飯を食べて……そうね、午後八時にそこにアクセスして」
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「八時!? 今日の? 無理だよ!」
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僕は思わず叫んだ。
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「なんで? ああ、あれは家族共用のパソコン?」
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文脈からすると「あれ」とは電話ボックスで見たノートパソコンのことだろう。だけども、彼女の誤解はもっと根が深い。まず第一に家族共用ではなく勝手に持ち出しているだけだし、第二に、家にインターネット回線は通っていない。第三に、いくらなんでも夜遅くにグレーの公衆電話ボックスに行ってインターネットをするのは叱られるどころでは済まない。たとえ彼女に脅されたって無理なものは無理だ。インターネットに接続できる日は土日の昼間しかない。
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……という事情を説明すると、彼女は妙に納得したふうにうなずいた。
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「ふうん、そういうキャラとかじゃなかったんだあれ」
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「へえ、そういうキャラとかじゃなかったんだあれ」
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「そういうキャラってどういうキャラ?」
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「教室の隅でこれみよがしに難しい本を読むような感じ」
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「そんなつもりは……そもそもあの辺には誰も人なんて来たことなかったんだよ。ましてやあいつらが来るなんてありえなかった。いつもゲーセンに入り浸ってるのに」
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改造された電話ボックスの中は虫の音のみならず陽の光も遮断されて、まさしく宇宙らしい風情を醸し出している。もっと早くこうするべきだったと自画自賛もほどほどに所定の作業をはじめた。約束の時間にはまだ三十分もある……。お気に入りのウェブページに絞れば一週間分の分量を確保するのは難しくない。
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つつがなく蒐集を終えたところで僕は例のURLを打ち込んだ。時刻は午後一時の五分前。軽快にキーボードを叩いて最後の一文字を埋めて、なんだかんだで期待を抱きつつエンターキーを強く押した。強引に約束させられたとはいえウェブページには違いない。がりがりがりとハードディスクがうなり、上から下に向かって鈍い青色のウェブページが描写されていった。
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だが、そのページには空白のテキストボックスと「更新」と書かれたボタン以外にはなにも情報が載っていなかった。ページ一面が凪いだ海みたいに閑散としている。
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もしかするとURLの入力を誤ったのかもしれない。以前にも、ミスタイプをしたのに違うページに偶然繋がってしまって気づくのに遅れたことがある。URLを書き写した紙片をディスプレイ脇に寄せて、インターネットエクスプローラーのアドレス欄と見比べる。間違いはなかった。
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もしかするとURLの入力を誤ったのかもしれない。以前にも、タイプミスをしたのに違うページに偶然繋がってしまって気づくのに遅れたことがある。URLを書き写した紙片をディスプレイ脇に寄せて、インターネットエクスプローラーのアドレス欄と見比べる。間違いはなかった。
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とすると、このウェブページの唯一の仕掛けは「更新」ボタンのみという話になる。彼女は僕を騙したのだろうか。これまでの嗜虐的な態度を踏まえると大いにありえる。
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手持ち無沙汰を紛らわせたくて「更新」ボタンをクリックすると、青い背景に日本語の文字列が追加された。
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**『梨花 さんが入室しました』**
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その日は突然やってきた。担任の先生が普段の調子で帰りの会を早じまいさせようとしたところ、がらがらと教室の引き戸が開いて別の先生が入ってきた。ずんぐりとした体型に似合わず、黒板を引っ掻いたような甲高い声が特徴の風紀指導担当教員だ。不意の闖入者に担任の先生も少々驚いた様子だったが、すぐに彼女が持ち前の声で要件を高らかに伝えた。
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そういえば、こんな日もあった。いつものように外出の準備を始めると定位置に置かれてあったノートパソコンが失くなっていたのだ。居間にもなく、自室にもない。もしやと思って父さんの部屋を覗くと、机の上に積まれた大量のフロッピーディスクの横にそれが見えた。父さんは懸命にそのフロッピーディスクを抜き差ししていて、僕が部屋に入ってきたのに気づくと大げさに驚いた。
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「おいっ、なんで部屋に入ってくるんだ」
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「いや、あの……パソコンを使いたくて」
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「今日はだめだ」
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父さんはきっぱりと言って何枚目かのフロッピーディスクを抜いて脇に置き、また積まれた山のてっぺんの一枚を手に取った。
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本当のことは言えない。でも、今日は特にパソコンが必要な日だった。なぜなら休日であり、日曜日であり、すなわち梨花ちゃんとの待ち合わせをすっぽかすわけにはいかないからだ。今まで一度も行かなかったことはないが、彼女の言によると約束を破ったら殺される手はずになっている。結局、うまい説得は思いつかずに子どもっぽい駄々だけが口から漏れた。
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「えー……」
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父さんはじれったそうに振り返って、片手でフロッピーディスクを入れ替えながら追い打ちをかけた。
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「いつもみたいに外で遊んでいればいいじゃないか。そうだ、そうしなさい」
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どうやら、なにがなんでも僕を家から追い出したいようだった。僕はノートパソコンを持たず、財布とパソコン雑誌だけが詰め込まれた虚無のリュックを元手に灼熱の太陽の下へと放逐された。
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どちらにせよ行くあてのない足は半ば習慣的に山あいへと向かう。いつもよりだいぶ軽いリュックに沈んだ気持ちを背と腹に抱えながら、むせ返るような土と木の匂いが立ち込める森林に入って、いつもの電話ボックスの中に腰を落ち着けた。変わらずそこに鎮座するグレーの公衆電話は、宇宙船に乗らずして現れた僕にワープゲートの入場口を固く閉ざしている。
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やむをえずリュックを開けて比較的読み込んでいない号の再読を始めた。やがて約束の時間が訪れて、淡々と五分が過ぎ、十分が過ぎた。パソコンの前で静かに怒りを燃やす梨花ちゃんの顔が浮かんだ。殺すと言ってもまさか本当に文字通り殺されはしないと思うが、どつかれる覚悟くらいはした方がいいかもしれない。
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三十分が過ぎた頃、何の前触れもなくどん、と電話ボックスが叩かれたので僕はパソコン雑誌から顔をあげた。最初は全然集中できなかったが、いざ腹をくくると妙に気持ちが落ち着いて集中できるようになっていた。それが梨花ちゃんの顔――普段は一文字に結ばれた口元がへの字に曲がっている――を目の当たりにするやいなや、急速に萎んでいって僕は雑誌を投げ出してボックスの隅に身を縮めた。まもなくドアが開けられて、湿った空気とともに彼女が踏み込んできた。
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「とりあえず殺すつもりだけど一応言い訳を聞いてあげる」
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電話ボックスの中央で仁王立ちになった彼女による、死刑前提の人民裁判が始まった。
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「……父さんにノートパソコンを取られちゃったんだ。もともと僕のじゃないって言ったろ」
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おそるおそる抗弁を述べると、彼女は片方の眉を釣り上げてふうん、と唸った。
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「わざとすっぽかしたとか忘れてたわけじゃあないって言いたいわけね。まあ、ここには来てたわけだし……けど」
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妙に芝居がかった声色でぐるりと電話ボックスを見回すと、急に手を伸ばして僕の腕を掴んだ。やはり、死刑か。
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「どうせ暇でしょ。街に行こう」
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「え!」
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梨花ちゃんに引っ張り上げられる形で立ち上がりつつ僕は変な声を出した。
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「なに、約束を破ったくせに埋め合わせもしないつもりなの?」
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「でも街って子どもだけで行ったらいけないんじゃ……バイソンとかもいるし……」
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もじもじしていると彼女は胸を張って自慢げに言い切った。
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「あたし、見かけは中学生に見えるってよく言われるんだ。やつらと鉢合ったらまたぶっ飛ばすよ」
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引きずられるようにして反対側の街に赴く道すがら、僕たちの会話はあまり弾まなかった。時々、降り注ぐ陽の光の熱さに文句を言って、飲み物を持ってこなかったことに文句を言って、他にも親のこととか、学校の規則とか、あらかた文句を言い尽くすと彼女はだんだん口数が少なくなって、ただ応じていた僕も次第に口を閉ざした。
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インターネットを通じて会話をしている時はニ時間あっても全然足りないくらい大はしゃぎできるのに、現実では会話の糸口がてんで見つからない。ずんずんと堂々たる足取りで進む彼女の影に入り込むような形で後をついていくしかなかった。
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幸いにも、街に辿り着いて休日の賑わいに紛れると梨花ちゃんの口数はにわかに復活した。僕の手をぐいぐい引っ張って入った書店の少女漫画のコーナーで、あれやこれやと物語のあらすじを語りだした。錆びかかった歯車に油が染み込んだかのように、そのおかげで僕も会話の調子を取り戻した。
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目当ての漫画本を手に入れてご満悦の彼女は、通りかかった店の前でいきなり立ち止まった。でも、たぶん僕もいずれ立ち止まっていたに違いない。そこはゲームセンターだった。ニ階建ての手狭な店で、ビルを貸し切ったような大都会のそれとは及びもつかないが、市内の子どもたちにとってはこれが身近で唯一の娯楽施設だ。うっかり気を抜いていた僕もついに恐怖心を思い出した。
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「まずいよ、ここはバイソンたちがいつもいるんだ。早く離れよう」
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「へえ、でもあたしは入ってみたいな。一度も行ったことないし」
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僕はぶんぶんと首を振った。執行猶予中の身でも抗弁の権利はある。
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「いくらなんでも危険すぎるよ。前にバイソンのやつは中学生とやりあったんだから」
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「じゃあ、まずあたしが偵察するから、やばそうなのがいなかったら入ろう。そこで待ってて」
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僕の意思表示を待たず梨花ちゃんはゲーセンの自動ドアをくぐって硝煙の立ち込める世界に溶け込んでいった。ここで逃げたら間違いなく死刑なのだろう。足元を熱気で包むコンクリートの上で、まるで僕は忠犬よろしく佇まいで額に汗を浮かせながら彼女を待った。けれども、先に声をかけてきた女の子は彼女ではなかった。
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「あーっ、田宮くんだ」
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大きい目を見開いて、口に手をあてて道路の反対側から声をかけてきたのは千佳ちゃんだった。いつもより明るい色のワンピースを着て、頭にカチューシャをしている。道路の向こうで千佳ちゃんは両脇に立つ両親になにかを告げた後、一人で道路をまたいで近寄ってきた。
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「奇遇だね」
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「あーうん、そうだね、本当に」
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高い声を弾ませて気さくに話しかける千佳ちゃんと対照的に、僕の応対はあからさまに不審者感が丸出しで自分でも目線が泳いでいるのが判った。
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「えっとね、この前の日記! とっても面白かった! 三回も読み直しちゃった」
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「そ、そう? それは……よかった」
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実のところ、僕は交換日記になにを書いたか具体的にはあまり覚えていない。千佳ちゃんが日々繰り出す膨大な文章を打ち返すのに躍起になっていたからだ。面白いと言われれば嬉しい気もするが、よく考えたらほどほどに退屈させる方がむしろ簡単に日記を済ませられるのではないか。そんな邪な考えが頭をよぎった。
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「ところで、田宮くんのご両親は? 私、まだ挨拶したことなくて」
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いよいよ言葉に詰まった。少なくとも両親の片方は部屋でフロッピーディスクを差し替えている。今頃はその作業も終わったと思うが、それにしてもとっくにパソコンを諦めたはずの父さんがあそこまで熱心になっていたのはなぜだろう。そんなに楽しいものがあのフロッピーディスクに入っているのなら僕にも見せてほしかった。いや、そういう願いが叶うのなら今すぐここにワープしてきてほしい。
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「あー、僕の父さんはそのう、あの」
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その時、背後の自動ドアが開いて梨花ちゃんが姿を現した。
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「ねえ、おじさんしかいなかったよ。誰も――」
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「堺さん?」
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彼女の苗字を呼ぶ千佳ちゃんは幾分驚きに包まれていたものの、それでも寒気を覚えるほど低い音程だった。このほど僕が理解を得たのは、女の子が発する声は我々が思っているよりもずっと自由自在だという事実だ。対する彼女は少し眉を釣り上げてから「ん? どちらさんだっけ?」とあくまで飄々と、しかしなんらかの圧力を弾き返そうとする意図を持った声色で応じた。
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一瞬の沈黙の間に、僕はかいた汗が全部冷水に変わったと錯覚を覚えた。夏の暑さも二人が無言で発する冷気の前には敵わない。
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「堺さんは田宮くんと二人で街に来ていたの?」
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千佳ちゃんは取り合わず完全に問い詰める態度で鋭く声を張って訊ねた。
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「うーん……いや」
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さしもの梨花ちゃんも逃げ場のないストレートな詰問にわずかに声を濁らせたが、わずか二秒のうちに有効な回答を絞り出した。
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「あたしと田宮……くんのママがお茶会をしたいっていうから、この辺で遊んでなさいって言われたの」
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「ああ、そうなんだ。私、てっきり」
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険しくなりかけた千佳ちゃんの表情が、花が咲いたようにぱっと明るくなる。つられて、梨花ちゃんもやや不自然な引きつった笑顔を作った。
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通りの向こうから大人の声がした。千佳ちゃんが振り返って「はーい、今行きます」と返して、二人に告げる。
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「でもゲームセンターは危ないから気をつけてね。田宮くんも」
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「ああ……うん。どうもありがとう」
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足早に立ち去っていく千佳ちゃんが通りの角を曲がるまで目で追ってから、僕は深いため息を吐いた。
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「とってもいい子だね。仲良くなれそう」
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サボテンでできた惑星くらい棘のある声で彼女はそう言うと、僕の腕をむんずと掴んでゲームセンターの中に引きずっていった。
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タバコの煙がもくもくと立ち込める独特の空気はゲームが好きでも一生慣れそうにはない。シューティングゲームやアーケードゲーム、レースゲームの台が所狭しと並ぶ中で、意外にも梨花ちゃんはどれを遊ぶが決めあぐねている様子だった。無理もない。一ゲーム百円のプレイ料金は小学生には重い。どれが面白いのか判らないのにおいそれとお金は賭けられない。
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「ねえ、あんたはどれ遊んでるの」
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ここへきて、ようやく僕の出番が巡ってきた。幸い、こんな田舎町のゲームセンターは僕が足を洗った時からほとんど台が変わっていない。僕がいつになく堂々と言った。
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「ストⅡかな、やっぱ」
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慣れた足取りで狭い通路内を進む僕の後を梨花ちゃんがついてくる。こんなことって今後は滅多にないかもしれない。
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ところが、ゲームの攻略方法をよく知っていても素人に楽しさを教えられるとは限らないとたちまち思い知らされた。彼女はてんで格闘ゲームのセンスがなかった。CPUのダルシムが放つベタ打ちのズームパンチを一向にくぐり抜けられず。負け続けることゆうに三回。腹立ち紛れに台を蹴飛ばしてから勢いよく立ち上がった。
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「あーっ、つまんなすぎ、もっと他のないの」
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悪い予感は当たった。シューティングゲームは序盤で撃墜、レースゲームは一周目でコースアウト。現実では男の子をグーで殴り倒せるのにゲーム内ではボコボコにされて手も足も出ない。彼女は明らかに苛立ちを募らせていた。このままだと代わりに僕でストレスを解消する、という話になりかねない雰囲気を放ちつつあった。
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たまらず、僕は奥の手を繰り出した。むすっと唇を「へ」どころか集合記号並に曲げた彼女を先導して、二階へと上がった。雑然とぬいぐるみが積まれたUFOキャッチャーの前に立ち止まると躊躇なく二百円を擲つ。梨花ちゃんは尖った目を丸くした。
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「見てて、あれを獲るから」
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操作に合わせてぐいーんと動くクレーンを見て「あ、動いた」と彼女は言った。直線状の確信を帯びた挙動で目標に進むアームは、まもなく指差した亀のぬいぐるみの甲羅をしかと掴み、来た経路を悠然と戻って穴の上に落とした。ごとん、と音をたてて樹脂製の壁からこちらの世界に転がってきた「あれ」を取ると、彼女に手渡した。
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「あげる。良かったらだけど」
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実を言うと、この一連の動作にはかなりの修練を積んでいる。遠方から歳の離れた親戚の子から来るたびにそうやって機嫌をとっていたのだ。あえて亀のぬいぐるみを指定してみせたのも、甲羅の部分がアームとうまくフィットしていて格段に掴みやすいためだった。この時ばかりは何年間も代わり映えしない景品を並べる街のゲーセンに感謝した。
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「まあ……一応もらっておいてあげる」
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梨花ちゃんは亀の甲羅の部分を抱き締めながら言った。それからはすべてが順調に進んだ。二階に並ぶメダルゲーム類は彼女に向いていたらしく、ついには財布から取り出した千円札を丸ごとメダルに替えてしまうほどだった。「借りを作るのも癪だから」と気前よくメダルをくれたので、そのぬいぐるみはプレゼントなんだけど、と微かな反駁を胸に秘めつつも二人してメダルゲームに興じた。享楽的に遊んだせいか夕方までにメダルの枚数は順調に減っていった。それでも、彼女は上機嫌を保っていた。
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「ねえ、ちょっと」
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二階のメダルゲームを遊び尽くした辺りで、梨花ちゃんは僕に手招きして奥まった位置に置かれた機械を指差した。従業員の手製と思しきカラフルな装飾文字が周囲に施されている。やたらとポップなそれは「ご期待に応えてついに登場!」と描かれていた。
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「あれ、プリクラじゃない?」
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「ぷりくら?」
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まるで連想のしようのない四文字のひらがなの羅列が頭に浮かんで消えた。
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「プリクラ、知らないの?」
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「ウーン、知らないな……どんなジャンルのゲーム?」
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彼女はふふと笑った。そういう笑い方もできるのか、と僕はちょっと驚いた。
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「私も撮ったことはないけど……一緒に入ってみれば分かるよ」
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とる? とるって何を取るんだろう。UFOキャッチャーのようなものなのか……湧き出す疑問をよそに誘われるまま、僕は外側が赤い天幕で覆われた機械の内側に入った。台の上部に「プリント倶楽部」と記されていたのでこれが「ぷりくら」が略語であることが察せられた。お金を投入した後、梨花ちゃんが記憶を探るような不安定な手つきでボタンを押すと、目の前のモニタに僕と彼女の顔が映り込んだ。僕はあっと声をあげた。なんか今日は声をあげてばかりだなと思った。
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「ほら、ポーズしてポーズ」
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悲劇は突然やってきた。担任の先生が普段の調子で帰りの会を早じまいさせようとしたところ、がらがらと教室の引き戸が開いて別の先生が入ってきた。ずんぐりとした体型に似合わず、黒板を引っ掻いたような甲高い声が特徴の風紀指導担当教員だ。不意の闖入者に担任の先生も少々驚いた様子だったが、すぐに彼女が持ち前の声で要件を高らかに伝えた。
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「本日は風紀指導について、古井さんからとても重要なお話があるそうです。皆さん静かに聞きましょう」
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キーッキーッとした音が総体としては明瞭に日本語の意味を持つのは今もって不思議な感覚だ。言われるまでもなく教室全体に逆らいがたい重圧が立ちこめた。
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担任の先生が遠慮がちに言った。
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@ -229,14 +362,14 @@ tags: ['novel']
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直後、まったく予想だにしていなかった事態が起こった。千佳ちゃんの顔が僕に向けられ、つられてクラスメイトの視線も僕の方に向いたのだ。いきなりコロッセウムの観客席から、闘技場に投げ出されたような戦慄に襲われた。
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「田宮くんはノートを堺さんに破られていました。他にも、脅されたりしていて……。他の子たちも怖がっています」
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クラスメイトが次々と「私も見た」、「田宮くんかわいそう」と声をあげはじめた。僕に注がれる視線は同情で、梨花ちゃんに向けられているのは先ほどの二人と同じ敵意だった。彼女は二組の構成員に手を出した外敵と見なされたのだ。当の本人もうつむきがちに黙りこくっている。
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「こういう時は本人の意見も訊くべきじゃないかしら?」
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「こういう時は被害者の意見も訊くべきじゃないかしら?」
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教員の「助言」に応じて、千佳ちゃんは僕の方に身体ごと向き直って言った。
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「ねっ、田宮くん、メーワクだったよね。堺さんにノートを破られたりして。そうでしょ?」
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「僕は……」
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「田宮さん、発言する時は起立しましょう」
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指導教員の有無を言わさぬ指示に身体が勝手に動いた。以前、低学年の担任だった頃は定規で子どもを殴りまくっていた恐るべき相手に、わずかでも抗ったと気取られることは避けたかった。
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「僕は――」
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起立して改めて口を開いたものの、なにを言うべきか検討がつかなかった。ノートを破られたのは、むろん、迷惑と言わざるをえない。彼女の振る舞いは理不尽極まる。でも、あの日、グレーの公衆電話ボックスの前で危機に瀕していた僕を、結果的に救ったのは梨花ちゃんなのだ。CGIチャットを通じてFlash Playerや他の様々な情報を教えてくれたのも彼女だ。
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起立して改めて口を開いたものの、なにを言うべきか見当がつかなかった。ノートを破られたのは、むろん、迷惑と言わざるをえない。彼女の振る舞いは理不尽極まる。でも、あの日、グレーの公衆電話ボックスの前で危機に瀕していた僕を、結果的に救ったのは梨花ちゃんなのだ。CGIチャットを通じてFlash Playerや他の様々な情報を教えてくれたのも彼女だ。
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しかし、そうした背景について説明する能力を僕は持っていなかった。ありのままに言えばたとえいじめっ子が相手だとしても暴力は悪い、となりかねない。なにより恐ろしいのは、これらが「メーワク」じゃないとしたら、他クラス侵入の罪科は彼女のみならず僕自身にも降りかかってくることだ。友達を誘って招き入れたと言っているに等しい。
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脇から首筋から、手のひらから、冷や汗がだらだらと垂れてきた。もし、そうなったら僕もみんなの前で謝らせられるのだろうか? あの愚かな取り巻きの二人と同じように、僕も嗚咽を漏らして情けなく涙を流す醜態を晒すのだろうか?
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そんなの絶対に嫌だ。僕はなにも悪いことはしていない。そんな目に遭わなければならない道理は、取り巻き連中や梨花ちゃんにはあっても僕には一つもない。僕は僕の世界を守らなくちゃいけない……。
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@ -272,12 +405,12 @@ tags: ['novel']
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語気を強めてそう言うと、幾ばくか緩慢な動きで階段を降りていき、やがて姿が見えなくなった。そこまで徹底的に絶交を突きつけてきた相手をさらに追う勇気はなかった。
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「大丈夫?」
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よろめきながら立ちあがると、背後から聞き覚えのある声がした。振り返ると千佳ちゃんが心配そうな顔をして立っていた。僕が「うん、まあ」と応えて、現に外傷のない様子を確かめると、ぱっと柔らかな笑みを浮かべた。
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「よかった。……ねえ、堺さんって、怖いね。でももう大丈夫。先生もしっかり見張ってくれるって言ってたから。二度と関わらなくて済むよ、きっと」
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||||
「よかった。……ねえ、堺さんって、怖いね。でももう大丈夫。先生もしっかり見張ってくれるって言ってたから。二度と関わらなくて済むよ、きっと。梶くんと尾野くんも――」
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||||
その言葉でついさっきの梨花ちゃんによる絶交宣言が脳裏にリフレインされた。目の前の千佳ちゃんをまじまじと見て、僕はだんだん怒りが湧いてくるのを感じた。その感情を認めた途端に、千佳ちゃんのすべてが憎たらしく思えてきた。丁寧に整えられた二つ結びの髪型も、前髪に差しているヘアピンも、鮮やかな緑のスカートも、どんな大人をも味方につけそうな丸みを帯びた目と顔も、なにもかもが憎たらしかった。
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||||
「あのさ、もう、交換日記やめよう」
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||||
「えっ」
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||||
僕は背中のランドセルを肩に回して開き、中から交換日記用のノートを取り出して彼女に押しつけた。
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||||
「別に興味なかったんだ、最初から」
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||||
「興味なかったんだ、最初から」
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||||
それだけ言い残すと、僕は千佳ちゃんから顔をそらして階段を駆け下りた。幸いにも追いかけてくることはなかった。下駄箱で上履きを履き替え、校門を通り過ぎ、歩いて、田んぼの連なりが視界いっぱいに広がると、ついに僕の心は均衡を失ってぐちゃぐちゃになった。
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どう考えても八つ当たりだ。女の子に嫌われた腹いせに、別の女の子をわざと嫌った。街でも東京でもアメリカでも、インターネットの大銀河でも僕より最低最悪なやつは見つからないんじゃないかと思った。
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僕はなに一つ悪くないはずだった。ノートも破っていないし、暴力も振るっていないし、告げ口もしていない。交換日記だってこっちから誘ったわけじゃないし、いつやめようと勝手だ。そうとも、僕は悪くない。
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@ -286,8 +419,8 @@ tags: ['novel']
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週末までの数日、梨花ちゃんは学校に来なかった。いつ一組の教室を覗いても彼女の座席は虚空が埋めていた。それでも間の悪さに賭けて、幾度となく授業中にトイレに行くふりをして教室を見に行ったが、やはりいない。同じ間の悪さでも、あの後にたまたま病気にかかったなどという可能性を信じる気にはなれなかった。
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土日は二日続けて大雨だった。インターネットをしたくても雨が降っていては外出できない。電話ボックスの中に入ってしまえば関係ないが、行くまでの間にリュックが雨水に濡れて浸水したら大変だ。パソコン雑誌にも、コップの水がかかっただけで何十万もする自慢のパソコンがお陀仏になった、という失敗談とともに家財保険の広告が載っていた。僕の父さんがそんな保険に入っているわけもなく、パソコンを壊したら残るのは長期ローンの支払いだけだ。そして二度とパソコンもインターネットもできなくなる。
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だが、日曜日の昼食時に差し掛かるといつもの約束の時間が迫っていることを思い出した。日曜日の午後一時。梨花ちゃんは「来なくていい」と言ったが、僕はどうしても今日こそ行かなければいけない気がした。居間の窓に張りついてざあざあと降りしきる雨脚を見ていると、母さんが昼食を持ってきながら訝しんだ。
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土日は二日続けて大雨だった。インターネットをしたくても雨が降っていては外出できない。電話ボックスの中に入ってしまえば関係ないが、行くまでの間にリュックが雨水に濡れて浸水したら大変だ。パソコン雑誌にも、コップの水がかかっただけで何十万もする自慢のマシンがお陀仏になった、という失敗談とともに家財保険の広告が載っていた。僕の父さんがそんな保険に入っているわけもなく、パソコンを壊したら残るのは長期ローンの支払いだけだ。そして二度とパソコンもインターネットもできなくなる。
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だが、日曜日の昼食時に差し掛かるといつもの約束の時間が迫っていることを思い出した。日曜日の午後一時。梨花ちゃんは「来なくていい」と言ったが、僕はどうしても今日こそ行かなければいけない気がした。居間の窓に張りついてざあざあと降りしきる雨脚を見ていると、n母さんが昼食を持ってきながら訝しんだ。
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「朝から外ばかり見て……ここのところしょっちゅう出かけているけどそんなに気に入った場所でもあるの? 今日はよしときなさい」
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「うん、でも、今日は行かないと」
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「いつもどこに行っているの?」
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彼は礫岩のように重いノートパソコンをひょいと片手で持ち上げた。そうしてから、なんのためらいもなく地面に叩きつけた。湿った地面にべしゃっと筐体の底面が埋まった。もう声は出ないと思っていたが、その光景を見た瞬間に僕の腹の底からは出したこともない悲鳴が衝いて出た。
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相当に滑稽な声色だったのか、梶と尾野が二人揃って爆笑した。僕はただその笑いの渦が止むのを待つしかなかった。
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しかし意外にも、笑い声はすぐさま立ち消えた。あと一時間は笑っていそうな勢いだったが、たぶん十秒と経っていない。実際、彼らの爆笑はほとんど一瞬でかき消されたのだ。入れ替わるように梶が叫んだ。
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「あーっ! お前、あの時の女!」
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「あーっ! お前!」
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地面に寝転がったままどうにかして首をひねると、梨花ちゃんがいた。よほど急いで来たのか呼吸を荒らげている。
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「そいつを放して。じゃないと今度は鼻を折る」
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梶と尾野はたじろいだ。この前は一撃で倒されたのだ。バイソンはそんな二人に苛立ちを覚えたようだった。
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不意に急所を殴られてよろめいたバイソンだったが、案の定さして効き目はないようだった。むしろかえって力を増した勢いで全身ごとひねって木の棒を振り回したので、梨花ちゃんは後ろに退いて距離をとり、僕は振り落とされた。
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「こんなのいらねえ」
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彼は木の棒を自分の膝で真っ二つに叩き折った。折れた木を地面に放り投げると、改めて梨花ちゃんと相対した。
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だが、彼女は困憊しきった様子で膝に手をついて、ふらついたかと思うとその場に倒れ込んだ。立ちあがる気配はない。バイソンは興を削がれたふうに「これだから女は」とつぶやくと、一転、向きを変えて僕の胸ぐらを掴んだ。
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しかし、彼女は困憊しきった様子で膝に手をついて、ふらついたかと思うとその場に倒れ込んだ。立ちあがる気配はない。バイソンは興を削がれたふうに「これだから女は」とつぶやくと、一転、向きを変えて僕の胸ぐらを掴んだ。
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「じゃあまずはお前だ」
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万事休すだ。
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バイソンの拳が頬面を打ちつけた。顔を殴られるのは初めてだった。雨水か汗かで、彼の手がシャツから滑り落ちると、いよいよ面倒になったのか僕の身体にのしかかって馬乗りになった。
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僕はノートパソコンとパソコン雑誌をリュックに詰めて、長靴を履き直した。雨は降ったり止んだりしている。具合の悪そうな梨花ちゃんにかっぱを被せて一緒に下山すると、あぜ道の手前に赤色の自転車が停めてあった。彼女は「私の家に来て」と言って、代わりに自転車を漕ぐように求めた。
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僕はノートパソコンとパソコン雑誌をリュックに詰めて、長靴を履き直した。雨は降ったり止んだりしている。具合の悪そうな梨花ちゃんにかっぱを被せて一緒に下山すると、あぜ道の手前に自転車が停めてあった。彼女は「私の家に来て」と言って、代わりに自転車を漕ぐように求めた。
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二人して泥まみれの格好で、カゴにリュック、彼女が荷台、僕がサドルに座って、雨に濡れた道を走った。湿った道路とタイヤが奏でるぬるぬるとした擦過音を聞いて、背中に彼女の体温を感じていると、だんだん心臓の錘が溶けていくようだった。
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そこそこ自転車を漕ぐと、建ち並ぶ家屋の群れが見えてきた。彼女の家は中でもひときわ大きく、赤色のレンガ造りでできていた。自転車を下りて玄関に立つと、その瀟洒ぶりに気圧されて泥まみれでなくても入るのに気後れしそうな印象を持った。
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「シャワーを浴びて、まずあんたから」
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彼女は言葉を切って、息を吸い込んだ。
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「そうしていたら、パパがパソコンを買ってくれた。インターネットにいると、夜中でも家の中にいても世界中と繋がっていられる気がした」
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「僕も、そう思う」
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「……でもパソコンの電源を落とすと、消えたディスプレイに一人ぼっちのあたしが浮かんで見えた。あの校則のせいで子どもだけじゃ街の方にも居づらくなっちゃって、ほっつき歩いていると山であんたがいじめられてた。ちょうどムカついていたからあいつらをぶっ飛ばしてやった。その後に……あんたが電話ボックスでインターネットをやっているのを見たんだ」
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「……でもパソコンの電源を落とすと、消えたディスプレイに一人ぼっちのあたしが浮かんで見えた。自分だけじゃ街の方にも行きづらくて、ほっつき歩いていると山であんたがいじめられてた。ちょうどムカついていたからあいつらをぶっ飛ばしてやった。その後に……あんたが電話ボックスでインターネットをやっているのを見たんだ」
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ばらばらの点が線で繋がっていくようだった。
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「あたし、夏休みに入ったら東京に引っ越すんだ」
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唐突に彼女が言った。僕は「えっ」と口から息みたいな声を漏らした。テレビでしか見たことのない東京、日本のすべてが集まっているとまことしやかに喧伝されているメガロポリス東京。梨花ちゃんはあそこに行くという。夏休みまであと二週間もない。
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「それ、あたしのパパが契約してるレンタルサーバの管理用URLとログインパスワード。そこに全部置かれてる」
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洗濯乾燥機によって元通りに乾かされた服に着替えて、いよいよ玄関まで見送られる段になると彼女は念押しした。
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「あたし、退院したら絶対にアクセスするから。ちゃんと作っておいてよ、じゃないと」
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僕は梨花ちゃんの顔を見て、目を合わせた。肩までかかるロングの髪型にやや釣りあがった目元が際立つ、この勝ち気な女の子が重病を抱えているというのはどうしても信じがたかった。一文字に結ばれた唇は頑なに閉じられていたけれど、今は僕の返事を待っている。
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僕は梨花ちゃんの顔を見て、目を合わせた。肩までかかるロングの髪型にやや釣りあがった目元が際立つ、この勝ち気な女の子が重病を抱えているというのはどうしても信じがたかった。一文字に結ばれた唇は頑なに閉じられていて、今は僕の返事を待っている。
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「君よりうまく作ってみせるよ。殺されたくないからね」
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そう言い残して、玄関から外に出た。後はもう振り返らなかった。空が晴れて、月明かりに照らされた夜の田んぼの道はとても美しかった。
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@ -503,7 +636,7 @@ tags: ['novel']
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Perlはぼちぼち覚えたよ。HTMLもCSSも勉強した。でも、教本の値段があんなに高いとは思わなかったな。小遣いで買おうとして街の本屋で値札を見たらひっくり返りそうになったよ。結局、誕生日に買ってもらった。それにしてもなんであの教本ってどれも表紙の絵が動物なんだろうね。
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いや、いきなりこういうパソコンとかの話ばかりするのもあれだから、身の周りの話にしよう。
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バイソン覚えてる? 彼はあの日以来なにもしてこなくなったよ。おかげさまで平穏無事な暮らしを満喫できた。あ、でも一回だけあったな。街の中学校に入学して間もない頃、バイソンのやつときたらすでに大勢の手下を従えて廊下を練り歩いていたんだ。一学年に八クラスもあるマンモス校だから、そのぶん手下の頭数も増えるんだろうね。彼と長い付き合いの取り巻き二人はさしずめ幹部ってところかな。
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そのバイソンが、廊下の壁にへばりついて縮こまっている僕を指差して大声で言ったんだ。「あのチビには気をつけろ、これはあいつに刺されたんだ」って。学ランの襟をめくって首筋の傷跡を見せびらかしてね。ほら、あの時に木の棒でやっちゃったやつ。手下連中は冗談と思って笑ったんだけど「幹部」の二人が「嘘じゃねえよ、お前らバイソンなめてんのか?」ってすごんでね、それでマジだという話になったらしい。今思うと、不良まみれの学校で誰にも絡まれずに済んだのは彼らのおかげかもしれないね。
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そのバイソンが、廊下の壁にへばりついて縮こまっている僕を指差して大声で言ったんだ。「あのチビには気をつけろ、これはあいつに刺されたんだ」って。学ランの襟をめくって首筋の傷跡を見せびらかしてね。ほら、あの時に木の棒でやっちゃったやつ。手下連中は冗談と思って笑ったんだけど”幹部”の二人が「嘘じゃねえよ、お前らバイソンなめてんのか?」ってすごんでね、それでマジだという話になったらしい。今思うと、不良まみれの学校で誰にも絡まれずに済んだのは彼らのおかげかもしれないね。
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なんか武勇伝を語っているみたいで嫌だな。じゃあ、千佳ちゃんの話をするのはどうだろう。
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あれはお互い苦い思い出だったね。でも千佳ちゃんだって交換日記用のノートを破られたのは事実なわけだし、やり方はともかくとしても仕返ししたい気持ちは否定できないんじゃないかな。実は僕も千佳ちゃんに失礼なことをしちゃって、だから後日に交換日記の再開を申し出たんだけど「今は一組の淳くんとしているの」って断られちゃったよ。だけど、もじもじしている時よりもさっぱりしていて好きになれそうな感じだったな。
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いや、この話はよくないな。電話ボックスの話にするか。
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@ -512,9 +645,9 @@ tags: ['novel']
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新しいパソコンはiMacにしたよ。クロック周波数が一ギガヘルツもあるから、申し訳ないが君の持っている旧モデルより断然速い。このチャットの改良も捗った。君に言われた部分描画の自動更新は割とすぐにできたけど、どうにも特定の時間単位ごとに再読み込みさせる方法しか実装できなくてね。相手の発言に応じてリアルタイムで読み込むようにしたかったんだ。それで、簡単にできると聞いてFlashで作り直してみた。たぶんうまくいっているんじゃないかと思う。
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いつの間にか「パソコンとかの話」に戻っていた。落ち着け、あれから四年も経っているんだぞ。彼女が今もこういう話に興味を持っているとは限らない。そもそもこんな話し方でいいのか。馴れ馴れしすぎじゃないのか。
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僕は回想していると時間感覚がおかしくなる。いつ来てもいいように準備していたけれど、いざこの文字列を見ると懐かしさがこみあげて色々と思い出してしまった。総合室での出来事だって、こうして振り返るとはっきり覚えている。
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せめて相手の方から話してくれれば僕もそれに合わせられるのに、一向に発言してくれないものだから回想の止め時が見つからなかった。ひょっとすると彼女も同じで、僕のようになにから話すべきか考え込んでいるのかもしれない。
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ちらりとタスクバーに目をやると、時刻表示は日曜日の午後一時をゆうに二十分も過ぎていた。
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僕は新しいチャット画面の一番上に浮かぶ、あの週末の続きのような文字列を見つめ続けた。
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せめて相手の方から話してくれれば僕もそれに合わせられるのに、一向に発言してくれないものだから回想の止め時が見つからなかった。ひょっとすると彼女も同じで、僕のように昔を振り返っているのかもしれない。
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ちらりとメニューバーに目をやると、時刻表示は日曜日の午後一時をゆうに十分も過ぎていた。
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僕は真新しいチャット画面の一番上に浮かぶ、あの週末の続きのような文字列を見つめ続けた。
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**『梨花 さんが入室しました』**
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