12話の途中
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Rikuoh Tsujitani 2024-03-14 15:08:30 +09:00
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 無線に向かって呼びかけると、リザちゃんの弾んだ声がハムノイズに乗って返ってきた。
<こっちも今終わった。どう、怪我してない?>
 毎度の確認に少々辟易しながらも私は律儀に答える。
月のものが重くてお腹がすごく痛い以外は平気
 激しく動いたからまた当て布を替えなければならないだろう。食糧も必要だ。どっちもソ連兵から鹵獲できるといいのだけれど。
お腹がちょっと痛い
 ひょっとするとまた月のものが始まったのかもしれない。だとしたら、布を集めなくちゃいけない。食糧も必要だ。どっちもソ連兵から鹵獲できるといいのだけれど。
 なんとなしに空を仰ぐと頬を生温かい風が撫でた。
 あの日、最初の襲撃を経て私たちの部下は全員が戦死した。結局、ウルリヒ伍長から話は聞けないままだった。
 でも私たちは生きている。めでたい春を迎えて久しいこの地で、長く続いた雪の代わりに銃弾を浴びながらライヒのために戦い続けている。
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「食糧、そこそこ手に入ったわ。またしばらくは持つと思う」
「うん」
”ベルリンの様子が心配でなりません。ブリュッセルだってきっと大変に違いありません。私たちがここで戦うことで、少しでも戦況が良くなることを願っています。あるいはもしかしたら、今日の戦いがソ連の最後の悪あがきなのかもしれません。実はもうソ連軍は東部戦線から撤退を始めていて、モスクワに帰っていく途中なのです。本当にそうだったらいいなと思います。一ヶ月もお休みをとった先輩の魔法能力者たちは今にも出撃の準備を心待ちにしているのでしょう。”
「当て布、もう変えておく?」
「当て布、いる?」
「うん」
”じきに私たちにも真の春が訪れるはずです。これだけ頑張ったのだから、フューラーもきっと私たちのことをお褒め下さるはずです。いつか解放されたヨーロッパ大陸全土にたなびく鉤十字の旗の下で、ひと目でも生のお声を聞いてみたいと思います。そういえば、今年に入ってからというものラジオ放送でもとんとフューラーのお声が流れていませんね。ゲッベルス大臣の演説もたいへんすばらしいですが、ここぞという時にはやはり総統閣下の堂々たる鼓舞に耳を震わせたいものです。ここにもし国民受信機があったら……”
「ねえ、ちょっと」
「うん」
「ねえったら」
「うん?」
 なにやら急に肩をがしりと掴まれたので、ふと我に返った。どうやらずっと空返事をしてしまっていたらしい。一旦、お手紙を書くのは中断して、彼女に手伝われながら股の当て布を取り替えた。皮肉にも襲撃が繰り返し来なければ早々に布不足に陥っていただろう。彼らが携行している医療品のおかげで私はドレスを自分の血で汚さずに済んでいる。
 なにやら急に肩をがしりと掴まれたので、ふと我に返った。どうやらずっと空返事をしてしまっていたらしい。一旦、お手紙を書くのは中断して、彼女に手伝われながら月のものを確認した。ほんの少し、血が出ているようだった。さっそく布切れをあてがう。皮肉にも彼らが携行している医療品のおかげで私はドレスを自分の血でひどく汚さずに済んでいる。
 とはいえ、もう他人の血でずいぶん汚れてしまっているけれども。いつ襲撃が来るのかも分からないので洗濯はだいぶ前に諦めた。どうしても私はドレスで戦いたい。
「そういうリザちゃんは身体、大丈夫なの」
 一方で、どうにもならないのは彼女の身体だった。布や食糧は死体の横に転がっていても義肢はそうはいかない。手で触れてもはっきりと分かるほど彼女の手足はぼろぼろに傷ついている。魔法の力を与えても肉体ほどには丈夫にならないし、ひとりでに治りもしない。
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 ”一九四六年五月七日。親愛なるお父さんへ。このところめっきり暖かくなりました。昨月から外套を着ていませんが、今月はドレスでも暑いくらいです。ですが、こればかりは脱ぐわけには参りません。なんといっても私の軍服ですから。とはいえ、最近はソ連兵が来ないので少々退屈しています。お腹もだんだん空いてきました。
”一九四六年五月七日。親愛なるお父さんへ。このところめっきり暖かくなりました。昨月から外套を着ていませんが、今月はドレスでも暑いくらいです。とはいえ、こればかりは脱ぐわけには参りません。なんといっても私の軍服ですから。最近はソ連兵があまり食糧を持っておらず、お腹が空いてきました。でも、月のもののせいで痛むのか、お腹が空きすぎて痛むのかもうよく分かりません。"
 音は鳴らない。故障しているのだ。手探りで紙を引き上げて手で改行する。
"毎日のように無線機のダイヤルを回しています。偶然にどこかの電波を掴んで、なにか情報が得られるかもしれないからです。しかし私たちの無線機は出力が弱すぎるのか、ハムノイズ以外にはなに一つ音が聴こえません。一体、街の外はどうなっているのでしょうか。今すぐにでも飛んで見回りたい気持ちです。ですが、いつソ連兵が攻めてくるのか分からないので離れられないのです”
 実際、一度だけリザちゃんに哨戒をお願いしたことがある。ずいぶん心配しながら飛び立った彼女は、まもなくとんぼ返りする羽目になる。重戦車と歩兵部隊がこちらにやってくる様子が見えたからだ。その日はいつにも増して身体に穴が空いた。
<ねえ、また来たわ>
 ざざ……とノイズ音に紛れて、机の上に置いたインカムからリザちゃんの声がした。最近は散発的に敵が来る。一日に二回来ることも珍しくない。戦力の逐次投入などもっともやってはならない過ちなのに、よほどソ連軍は余裕を失っているのだろう。おちおちお手紙も書いていられない。インカムをかぶり、無線機を背負って外に向かう。椅子から立ち上がって、後ろに二歩、右を向いて三歩。ドアを開けて廊下に出る。一ヶ月も住めばここも家みたいなものだ。
 飛翔するとすぐに辿るべき電波の白線が見えた。数キロメートル先の末端に佇む彼女は意外にも空中ではなく地上に立っている。
「どうしたの」
 呼びかけるとオーク材の腕の輪郭が前方の森林を指差した。
「いるにはいるんだけど、ずっと森の向こうに引っ込んで出てこない。やる気あるのかしら」
「森ごと吹き飛ばしたら」
「お腹が空くから無駄撃ちしたくない」
 耳をすませると、遠くから布が擦れ合う音、金属がかちゃかちゃと重なる音が聞こえた。私にしか聞こえないほどのかすかな音だけれど、確かに敵はそこにいる。
「こっちから森に侵入するのはどう」
「閉所だと余計に被弾するわよ」
「うーん、じゃあ――」
 直後、すさまじい風切り音とともに銃弾が隣を横切っていった。ライフル銃――にしては大きい――けど、砲弾にしては速すぎる――めきめき、と木材の軋む音、裂ける音が続く。やたらと鈍重な銃声が最後に響いた。刹那の出来事が終わった後には、目の前の彼女の輪郭がずいぶん小さく崩折れて地面に転がっていた。
「リザちゃん?」
「――やられた、脚――逃げて――!」
 反射的に飛び上がりかけた私の脇腹に、鉄の塊が深くめりこんだ。体勢を崩して激しく地面をのたうち回って転がる。急いで起き上がろうとしても、なかなか起き上がれなかった。起き上がるための腹斜筋がえぐれてなくなっていたからだ。
 声にならないうめき声を上げる。痛かった。銃で撃たれて痛いと思ったのは初めてだった。だが、それでも、応射、応射をしなければ。
 なんとかホルスターから抜き取ったステッキを当てずっぽうに振る。前方に着弾した魔法が木々をなぎ倒して、兵士の絶叫が空にこだまする。
 隙を見取り、地面を這いつつ体勢を立て直した。急に重苦しく感じた無線機を引き下ろす。それを支えによろよろと立ち上がると、地面の染みみたいに揺れ動く輪郭の前に立った。
「後ろにいて」
 義足を破壊されたリザちゃんはもう立ち上がれない。
 私が守らなくちゃいけないんだ。
 今にも襲撃をうかがっているであろう兵士たちの輪郭を聴き取ろうと、私は仁王立ちのまま息の調子を整えた。
 シュッ、と銃弾が空気を切り裂いて肩口に当たった。わずかに身がのけぞったものの、大丈夫、これは普通の七.六二ミリ弾だ。痛くない。
 そして私の目には銃弾の軌跡が克明に刻まれている。
「そこね」
 ふ、とつぶやいた私の言葉は、自分でもとちょっとびっくりするほど冷たく凍りついていた。ぴん、とまっすぐ伸ばした腕で軌跡をなぞり、人差し指を末端に突きつける。
「ぱーん」
 放った魔法の銃弾が、森の向こうの射手を仕留めた実感を得た。
 戦場が静まり返った。
 でも、兵士たちの荒い息遣いは少しも減っていない。視界には映らなくても、今、私の百メートル先にはソ連の歩兵部隊が控えている。
 バレている。私の目が見えないことが。
 沈黙を挟む小競り合いの堰が切られるまでにはさらに数分を要した。うっかり者の歩兵が、たぶん銃を取り落したかなにかしたのだろう。私の耳に届いた金属質の反響音が、研ぎ澄まされた仮初の視野に像を結ぶのは必然だった。
「ぱーん」
 また一人、ソ連兵が死んだ。
 入れ替わりに空気を切り裂いてやってきた銃弾を、かすかに身をよじってかわす。頬の表皮を鉛の粒が削りとっていった。
 突如、森の向こうでラッパの音と、ロシア語の号令が響いた。位置を特定する間もなく、野太い叫びがあちこちから立ちのぼり、次いで地面が荒々しく踏み鳴らされる。
 銃剣突撃だ。
 仮初の視野に映るのは、もはや人影ではなく一つの群体と化した霧の塊だった。
 もうあの銃撃は来ない。
 身を軋ませながらも、悠然と手のひらを群体に突きつける。
 だが、手のひらから魔法の砲弾は出なかった。
 魔法の力が減退している。
 ならば、
「ぱん!」
 今度は出た。拳銃を模った小口径の魔法が群体の一部をえぐり取る。もちろん、ソ連兵たちの叫び声に衰える気配は見られない。
「ぱん! ぱん!」
 さらに撃ち続ける。霧の大きさが減る。しかし、減っているのにだんだん迫ってくるものだから体感としてはむしろどんどん膨れ上がり、今にも私たちを覆い尽くそうとしているかのように思われた。
「ぱん! ぱん!」
 ついに私は小口径で戦うのも諦めてステッキの先端に刃を顕現させた。きっとその刃の大きさはソードどころかダガーほどの大きさもないのだろう。
 先陣を切って襲いかかってきた兵士の首筋を極小の間合いでちぎり取る。間を置かず、別の兵士たちの銃剣が肩口に、脇腹に、喉元に突き立てられる。
 名前も知らないソ連兵たちの顔の輪郭が間近に見えた。表情は分からない。言葉も分からない。ただ、鬼気迫る呼吸と銃剣の先端にこもる圧力が唯一無二の殺意を代表している。
 バターナイフ同然の魔法の刃を手近な相手に向かって振るう。煮えた血しぶきが私の顔にかかり、銃剣を通してかかっていた圧迫感がふと、緩む。それを糧に私は前進して、さらに別の兵士に刃を突き刺す。繰り返し、繰り返し、霧が枝分かれして人影に、人影がともども地面の染みと化すまで。
 最後に、私は空いている手で兵士の首筋を掴んだ。たっぷり三〇センチは高いであろう人影が縮んで、目の前に跪く。その大きく開けた岩肌のような胸元に刃を突き立てた。
 そうしてようやく作り出された静寂に、私はあまり感慨を覚えなかった。失った腹斜筋をなんとか代わりの筋肉に務めさせて歩き、リザちゃんのいる地面に手を伸ばした。
「おんぶしてあげる。行こう」
 リザちゃんは壊れた義足の根元をぷらぷらとさせながらも、黙って背負われていた。ただ、帰り道、耳元で静かに尋ねた。
「……どこへ行くの」
 私は今まで感じたことがない彼女の重さを背中に受けながら、なんとか答えた。
「家だよ。お手紙を書かなくちゃ」
 だって戦う以外にはそれしかやることがないんだもの。
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”一九四六年五月一三日。親愛なるお父さんへ。あれからめっきりソ連兵が来なくなりました。毎日、毎日、こうしてお手紙を書いているけど、正直に言って本当にちゃんと書けているのかあまり自信がありません。ほとんどのキーが沈んだまま戻ってこない有様ですし、手で戻してやってもまたすぐに壊れてしまうからです。まるで私みたいです。"
 改行はもうしない。紙を自分で引き上げて続きを書く。
”一週間も経つのに怪我の治りが悪いです。手で肌をなぞると、身体のどこを触っても銃創で穴ぼこだらけなのが分かります。私のお腹もえぐれたままです。なのに、相変わらず空腹でたまりません。この前のソ連兵たちはあまり食糧を持っていませんでした。なんだかずいぶん近いところから出撃しているみたいです。”
 沈みきったキーを押し戻しながら、ちょっと考え込んだ。でも、結局は書いてしまうことにした。
”私たちはもうこらえきれません。ブリュッセルで懸命に戦っていらっしゃるお父さんにも、総統閣下にも、療養中の先輩方にも申し訳ないですが、目の見えない私にリザちゃんのお世話はできません。明日にでも、彼女を背負ってベルリンに帰投するつもりです。”