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@ -5,25 +5,26 @@ draft: true
tags: ['novel']
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 全国高等学校硬式戦争選手権大会の準決勝、帝國実業と韋駄天学園の試合は佳境を迎えている。十名いる選手のうち六名がすでに仮想体力を喪い退場を余儀なくされ、残る四名が市街地を模した公死園戦場の各所で互いに隙をうかがっていた。帝國実業三年の主将、葛飾勇はこの時、昭和八九式硬式小銃に装着された弾倉が最後の一つだった。地道な基礎練習を怠らない生真面目な性分が功を奏して彼は残りの弾数を正確に把握していたが、同時にそれは自身の劣勢を否が応にでも自覚させられる重い錨となってのしかかる。最悪の場合、たった九発の銃弾で残る四人の敵を倒さなければならないのである。
 対する韋駄天学園の戦いぶりは賢明であった。むやみに弾を浪費して一か八かに賭けるくらいなら潔く負けを認めて予備弾倉をその場に残していく。準決勝でもやり方は変わらない。つまり、四人の敵の弾薬は未だ豊富であって正面での撃ち合いではまず勝てる見込みがない。圧縮ゴムでできた硬式弾をしこたま食らって血まみれになっても、本人が直立している限りにおいて戦場に立ち続けられた昔とは違う。現行の仮想体力制度では胴体に四発ももらえば確実に退場だ。
 勇は壁伝いに歩いて近場の建物の中に忍び足で入った。戦場をまばゆく照らす照明から逃れて部屋の陰に座り込んで身を落ち着ける。通信機で仲間との交信をしたいところだが、仲間の状況が判らない以上はうかつに音を鳴らすわけにはいかない。同様に、彼自身もまた不用意に声を発すれば位置を補足される危険性を伴う
 だだだだ、と硬式小銃特有の低い銃声が聞こえた。さらに遠くでは、わああっ、と観客の歓声が波のようにこだまする。敵か味方か、どっちかがやられたらしい。観客席から見える大型の液晶画面からも、試合を中継しているテレビでも、勇たち選手の仮想体力は常に表示されていて残り何発持ちこたえられるのか、何発撃てるのかなどが把握できる仕組みになっている。さらには複数の望遠カメラが刻一刻と変化する戦場の様子を捉えて、選手たちのここ一番の勇姿を映し出す。帝国中の臣民が関心を寄せる公死園の準決勝ともなれば、その視聴率は相当なものに違いない
 勇はあまりの緊張に息が詰まりかけた。監督の助言を思い出す。音を立てず、目を見開いて、腹の底で深呼吸を繰り返す。見開いた目の先に、標準戦闘服の胸元に刺繍された帝國実業の校名が見えた。彼はだんだんと気持ちが静まっていくのを感じた。一転、目をすぼめて腰を落とした状態で建物の上階へと上がった。
 ここ入った理由は戦場を俯瞰するためだった。通常、背の高い建物は取り合いになるが序中盤の戦いで各方に敵味方が散った現状では、かえって忍び込みやすい状況に変化している。弾数で優勢を誇る敵方は鉢合わせになる危険を懸念して、平地で安全に集合して制圧を仕掛ける腹積もりなのだろう。
 一方、ろくに連絡も取れず銃弾も心許ない勇たちは一発逆転を目指すしかない。狙うは応射の難しい遠方から頭部への一撃だ。例外なく一発で仮想体力を奪い去ることができる。上階にたどり着き身を伏せた姿勢から窓をゆっくり除き込む。狭い視野でも戦場の概観が眼前に広がった。やや遠くに戦場を左右に貫く二車線道路が見える。手前には商店街を模した背の低い建物が並んでおり、こちら側に近づくにつれて建造物は住宅地の気配を帯びて密度が高まる。道路の向こう側には朽ちて荒廃した街並みが再現されている。当然、斜線が通りやすいそこに味方がいるとは思えない。だが……。
 硬式小銃の倍率照準で覗いたその先に、敵が崩れた建物の壁で小休止をとっている敵がいた。生き残りの四人がまとまって周囲を警戒している。予想通り、弾薬を温存した彼らは面制圧で押す方針に固めたようだった。勇はドーランを塗った額から目元に垂れる汗を拭って、そっと小銃を窓枠に立てかけた。
 全国高等学校硬式戦争選手権大会の準決勝、帝國実業と韋駄天学園の試合は佳境を迎えていた。共に十名いる選手のうち六名がすでに仮想体力を失い退場を余儀なくされ、残る四名が市街地を模した公死園戦場の各所で互いに隙をうかがっている。帝國実業高等学校三年の主将、葛飾勇はこの時、昭和八九式硬式小銃に装着された弾倉が最後の一つだった。地道な基礎練習を怠らない生真面目な性分が功を奏して彼は残弾数を正確に把握していたが、同時にそれは自身の劣勢を否が応にでも自覚させられる重い錨となってのしかかる。最悪の場合、たった九発の銃弾で残る四人の敵を倒さなければならないのである。
 対する韋駄天学園の戦いぶりは賢明であった。むやみに弾を浪費して一か八かに賭けるより潔く撃たれて予備弾倉を戦場に残していく。準決勝でもやり方は変わらない。つまり、四人の敵の弾薬は依然豊富であって正面での撃ち合いではまず勝てる見込みがない。圧縮ゴムでできた硬式弾をしこたま食らって痣だらけになっても、本人が直立している限りにおいて戦場に立ち続けられた昔とは違う。現行の仮想体力制度では胴体に四発ももらえば確実に退場だ。
 勇は壁伝いに歩いて近場の建物の中に忍び足で入った。戦場を眩く照らす電燈から逃れて部屋の陰に座り込み、ひとまず身体を落ち着かせる。片耳に押し込まれた通信機で仲間との交信をしたいところだが、周囲の状況が判らない以上はうかつに声を発するわけにはいかない
 だだだだ、と硬式小銃特有の低い銃声が聞こえた。さらに遠くでは、わああっ、と観客の歓声が波のようにこだまする。敵か味方か、どっちかがやられたらしい。観客席から見える大型の液晶画面からも、試合を中継しているテレビでも、勇たち選手の仮想体力は常に表示されていて残り何発持ちこたえられるのか、何発撃てるのかが把握できる仕組みになっている。さらには複数の望遠カメラが刻一刻と変化する戦場の様子を捉えて、選手たちのここ一番の勇姿を映し出す。帝國中の臣民が関心を寄せる公死園の準決勝ともなれば、その視聴率は相当な規模だ
 勇は極度の緊張に息が詰まりかけた。監督の助言を思い出す。目を見開いて、腹の底でゆっくり深呼吸を繰り返す。視界の先に、戦闘服の胸元に刺繍された帝國実業の校名が見えた。彼はだんだんと気持ちが静まっていくのを感じた。一転、腰を落とした状態で建物の上階へと上がった。
 ここ入った理由は戦場を俯瞰するためだった。通常、背の高い建物は取り合いになるが序中盤の戦いで各方に敵味方が散った現状では、かえって忍び込みやすい戦況に変化している。残弾数で優勢を誇る敵は鉢合わせの混戦に至る危険を懸念して、平地で安全に制圧戦を仕掛ける腹積もりなのだろう。
 一方、ろくに連絡も取れず残弾も心許ない帝國実業は一発逆転を目指すしかない。狙うは応射の難しい遠方から頭部への一撃だ。例外なく一発で仮想体力を奪い去ることができる。上階にたどり着き身を伏せた姿勢から窓を慎重に覗き込む。狭い視野でも戦場の概観が眼前に広がった。やや遠くに戦場を左右に貫く二車線道路が見える。手前には商店街を模した背の低い建物が並んでおり、こちら側に近づくにつれて建造物は住宅地の気配を帯びて密度が高まる。道路の向こう側には朽ちて荒廃した街並みが再現されている。当然、斜線が通りやすいそこに味方はいないだろう。だが……。
 硬式小銃の倍率照準で覗いた先に、崩れた建物の壁で小休止をとっている複数の人影があった。生き残りの四人がまとまって周囲を警戒している。予想通り、弾薬を温存した韋駄天学園は面制圧で押し切る方針に固めたようだった。勇はドーランを塗った額から目元に垂れる汗を拭って、そっと小銃を窓枠に立てかけた。
 理想は一人一発で四人、現実的な見立てでも二人は仕留めたい。照準の向こうに映る四人のうちでもっとも動きの少ない一人に狙いを定めた。赤い点が敵の足元から腰、腰から胸、そして頭へと這うように移動して、勇の息が落ち着くにつれ左右のぶれが収束する。引き金の指をかける。敵はまだ動かない。
 彼は息を深く吸った後に、引き金を絞った。
 直後、拡大された視界の向こうで一人が側頭部に硬式弾を食らって昏倒した。判定するまでもない完全な退場。残る三人が振り返る――銃声と照準の逆光からこちらの位置を把握するまでにわずか二秒――二人目の頭部に合わせて放った銃弾はそれて肩口に命中した。相手は顔をしかめて体を壁に打ち付けたが、まだ退場ではない。
 ひゅん、と風邪を切る音が聞こえた。続けて窓の外壁に衝撃音が走る。相手はすでに応射を始めている。あと数秒も余計に撃ち合えば今度はこちらが頭部を抜かれるに違いない。結果には不満だが撤退を考慮して窓枠から引き下がろうとしたその時、勇の拡大された視界に信じられない光景が映った。
 崩れた建物の壁、彼らが拠り所としていた遮蔽物の裏から一人の味方が飛び出してきたのだ。ひと目で判る巨体――あれはユンのやつだ。手にはほとんどの選手が装備品に選ばない模擬軍刀の丸まった刃が光っている。ゆうに二〇〇メートルは離れたここまでも彼の絶叫が耳に入った。一発で敵を退場させられる方法はもう一つある。模擬軍刀による急所命中判定だ。
 実弾よりも柔らかく大きい硬式弾は距離減衰が甚だしい。ある地点からくの字を描いたように急落下する。この遠距離射撃を当てるつもりで撃つのは、西の強豪たる帝國実業主将の自負心がそうさせていた。
 勇は息を深く吸った後に、引き金を絞った。
 直後、拡大された視界の向こうで一人が側頭部に硬式弾を食らって昏倒した。耳の通信機が敵の退場を報せる。残る三人が振り返る――銃声と照準の逆光からこちらの位置を把握するまでにわずか五秒――二人目の頭部に合わせて放った銃弾はそれて肩口に命中した。相手は顔をしかめて背を壁に打ちつけたが、まだ退場ではない。
 ひゅん、と風を切る音が聞こえた。窓の外壁に衝撃が走る。相手はすでに応射を始めている。これ以上は撃ち合っても意味がない。成果に不満を覚えつつも窓枠から引き下がろうとしたその時、倍率照準の内枠に信じられない光景が映った。
 崩れた建物の壁、彼らが拠り所としていた遮蔽物の裏から一人の味方が飛び出してきたのだ。ひと目で判る巨体――あれはユン・ウヌだ。手にはほとんどの選手が装備品に選ばない模擬軍刀の丸まった刃が光っている。ゆうに二〇〇メートルは離れたここまでも彼の雄叫びが耳に入った。一撃で敵を退場させられる方法はもう一つある。模擬軍刀による急所命中判定だ。
「あの馬鹿!」
 勇は肉体に刻んだ基本動作を放棄して窓枠にかじりついた。覗き直した照準の先では、盛んに軍刀を振り回すユンと敵が入り乱れている。これでは援護のしようがない。しかし、わずかに遅れて彼の耳に届いた絶叫が意味のある言語として認知された。
「……てーっ! てーっ!」
 彼方の味方は自分に構わず敵を撃てと伝えていたのだ。
 一人を斬り伏せ、もう一人に斬りかかったユンはまもなく、後退して距離をとった二人の硬式弾をしこたま浴びて倒れ込んだ。入れ違いに、勇の速射がまばらに二人の胴体に命中した。弾切れを知らせる撃鉄音が響く。
 試合終了の笛が鳴った。どうやら今ので相手の仮想体力をなんとか削りきったらしい。
 勇は肉体に刻んだ基本動作を放棄して窓枠にかじりついた。覗き直した照準の先では、盛んに軍刀を振り回すユンと敵が入り乱れている。これでは援護のしようがない。しかし、勇の耳に届いた叫びがわずかに遅れて意味のある言語として認知された。
「……てーっ! てーっ!」
 遠く彼方の味方は自分に構わず敵を撃てと伝えていたのだ。
 一人を斬り伏せ、続けざまに斬りかかったユンはまもなく、後退して距離をとった二人の硬式弾を全身に浴びて倒れ込んだ。入れ違いに、勇の速射がまばらに二人の胴体に命中した。弾切れを知らせる撃鉄音が響く。
 試合終了の笛が鳴った。
 こうして、全国高等学校硬式戦争選手権大会の準決勝は帝國実業の辛勝に終わった。
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@ -72,7 +73,7 @@ tags: ['novel']
「ご指導ありがとうございました!」
 監督が部屋の扉を開け放って場を後にすると、入れ替わりに二人の部員が顔を覗かせた。主将が説教されていると見取って入れずにいたのだろう。勇は彼らが試合に出場していた分隊員と判ると頬の痛みに構わず詰め寄った。二人は気配に勘づいて先ほどの勇とまったく同じ直立不動の体勢をとった。
「貴様ら、あの試合でなにをしていたッ」
 主将として、帝軍人さながらの低い声音を腹から絞り出すと左側の方が先に大声で釈明をした。
 主将として、帝軍人さながらの低い声音を腹から絞り出すと左側の方が先に大声で釈明をした。
「自分は弾薬を切らしておりまして、移動途中の際の接敵で退場と相成りました!」
 建物に潜んでいる最中にやられたのはこいつだったか、と彼は納得を得る。しかし声はあくまで厳しさを保った。
「隠密を怠るから敵に発見されるのだ! この土壇場では不運も自己責任と捉えろ!」
@ -121,7 +122,7 @@ tags: ['novel']
「じゃあ仮想体力制ってなんなのよ。昔みたいに倒れるまで撃ち合っていたらいいじゃない」
「それは危険だから――あっ」
「ほら、やっぱり死ぬのは怖いんじゃない。私だって勇さんに死んでほしくないわ」
 気まずくなって視線をそらすと、電車内の液晶画面に投影された広告が目に入った。(男女で一つ、性別は二つ、子供は三人 帝家庭庁)ちょうどそれが入れ替わって、新しい広告が表示される。
 気まずくなって視線をそらすと、電車内の液晶画面に投影された広告が目に入った。(男女で一つ、性別は二つ、子供は三人 帝家庭庁)ちょうどそれが入れ替わって、新しい広告が表示される。
**『三菱重工の最新無人航空機……二四時間無給で働く警備員の代わりに! 町内會の見回り要員に! 果ては外地不穏分子の監視、鎮圧にも! 一部法人に限り武装改造も承り〼』**
 生え際の後退した男性の姿が目立つ車内をつと見回して、勇はなんとか有効な反論を思いついた。
「今は徴兵に行ける人手が少ないみたいなんだ。帝國を支えてくれた年長者を守るには、強くたくましく、五体満足の若者が必要なんだ」
@ -168,12 +169,12 @@ tags: ['novel']
 危ない火遊びだ、と勇は思った。戦争部の人間もたまにはめを外して乱闘騒ぎを起こしたり、飲酒や賭博で補導されたりする者が現れるが、若気の至りとして温情に放免されるこっちと違って、これは本当に親兄弟に塁の及ぶ罰を与えられかねない。
「叔父さんのことを忘れたのか。あれで父さんは降格させられたんだぞ」
「あの人はちょっと本気になりすぎたんだ。僕程度のことは計算機好きなら大抵やっているよ。憲兵だってこんなのいちいち捕まえている暇ないだろ」
 父の兄は変わった経歴の持ち主だった。帝大学にしかない計算機科学科を経なければ就職できないはずの電子計算機技師に叩き上げで成り上がって、生まれも育ちもがらりと違う人と肩を並べて熱心に働いていた。弟の父さんは「やつは骨の髄まで英米思考だ」と事あるごとにこき下ろしていたが、口ぶりほど嫌っていないことはよく見て取れた。実際、物腰が軽妙で知識が豊富な叔父を嫌う者はいなかった。親戚の集まりでも常に話題の中心にいた。
 父の兄は変わった経歴の持ち主だった。帝大学にしかない計算機科学科を経なければ就職できないはずの電子計算機技師に叩き上げで成り上がって、生まれも育ちもがらりと違う人と肩を並べて熱心に働いていた。弟の父さんは「やつは骨の髄まで英米思考だ」と事あるごとにこき下ろしていたが、口ぶりほど嫌っていないことはよく見て取れた。実際、物腰が軽妙で知識が豊富な叔父を嫌う者はいなかった。親戚の集まりでも常に話題の中心にいた。
 その叔父さんが、治安維持法違反で逮捕されたのが五年前だ。なんでも電子計算機を用いて扇動を企てていたという。それがどんな内容だったのかはもはや誰にも判らない。殺人で捕まった者にさえ面会や文通が許されるのに、政治犯には一切認められないからだ。懲役三〇年の刑期は、まだ六分の五も残っている。
 身内の罪を贖うべく父はかつての同僚が上司になり、かつての部下が同僚になる苦境でもめげずに二倍も三倍も働いて、町内會の会合にも針のむしろを承知で顔を出した。それから数年が経ち、長男の勇が二年で公死園に初出場を決めたことが契機となって、ようやく禊が済んだらしい。勇は母が「今は昇進の話も出ているの」と嬉しそうに話しているのを聞いていた。
「とんでもない弟だ」
 端的に感想を述べると功は得意げににやりと笑った。
「捕まりはしないよ。わざわざ日本橋の裏路地くんだりまで行って海外のVPNを契約したんだ。僕は帝大の計算機科学科に入って大日本帝の技術力にいっそうの飛躍をもたらしたく存じます……っていう感じでやっていくさ」
「捕まりはしないよ。わざわざ日本橋の裏路地くんだりまで行って海外のVPNを契約したんだ。僕は帝大の計算機科学科に入って大日本帝の技術力にいっそうの飛躍をもたらしたく存じます……っていう感じでやっていくさ」
「少なくとも英語を使うのは勘弁してくれ」
 英語規制は法律ではないが空気として確かに存在する。codeは算譜と言うべきだし、internetは電網と言わなければならない。ただ、どのみち勇には意味が解らなかった。
「ふん、でもみんなテレビだとかラヂオだとかは言うじゃないか」
@ -204,19 +205,19 @@ tags: ['novel']
「そんな、父ちゃんにもたまには政権交代させたって〜」
「無理やで、うちの家庭は庭やのうて帝やからな」
 どっ、と笑い声が巻き起こる。早川工業社製の伝統的なマイクの前で二人の漫才師がお辞儀をして、演目はつつがなく終了した。ふん、と父が鼻を鳴らす。「そりゃ女に政治なんか無理に決まってる」ずずず、と半透明の切子の中身が喉の蠕動に合わせてみるみるうちに減っていく。コン、と音を立てて置かれた途端に今度は母が次を注ぐ。
「帝議会は第二の戦場だ。乱闘騒ぎなどしょっちゅうなのに女にどう務まるんだ。その時だけ男に守ってもらうのか」
「帝議会は第二の戦場だ。乱闘騒ぎなどしょっちゅうなのに女にどう務まるんだ。その時だけ男に守ってもらうのか」
 なし崩し的に晩酌の責務を解かれた勇はふと、なぜか和子が議会の壇上で大演説を振るっている様子を思い浮かべた。議題はもちろん硬式戦争における防具着用の義務化である。獣のように猛り狂った男たちの罵声を浴びながら、彼女は毅然とした面持ちで語る。「そんなに命を賭けるのがお好きなら、いっそ敗けた方が切腹でもすればよろしいじゃありませんか。運動くらい粋がるのはやめにして兜を着けて安全に楽しみましょう」――あからさまな挑発に激昂した議員が雪崩をうって壇上に押し寄せる。どういうわけか、想像の中の勇はたった一人でそれを堰き止めようとしていた。
 いや、やはり女一人では無理だ。たとえ守ってくれる男がいたとしても、その場の流れ次第では議会の外でも取っ組み合いは起きる。以前、路上の喧嘩で敗北を喫したベテラン議員があっけなく選挙で落選したのを見た。ましてや自分の拳で戦えないのでは体裁が悪すぎる。
 勇は姿勢を正して下手な妄想から立ち直った。
 麦酒を一瓶空けて、父がまぐろに手を着けたので内心今か今かと待機していた兄弟はようやく寿司にありつくことができた。揃って寿司を頬張る様子を見た父は「うまいか」と短く訊ねた。「とても美味しいです」と勇は言い、功も慇懃な物言いで応じた。最後に、母がいそいそと手前の玉子を取って食べた。
 いつの間にかテレビは漫才番組が終わり帝の地図を映し出していた。荘厳な音楽とともにじわじわと上から下に流れる字幕と、それに合わせて語りかける神妙な口調の声が注意を惹きつける。
『北は樺太……西は満州、……南はパプアニューギニアに至るまでを縦横する海底の情報網……重要なのは速度はありません、安心と信頼です。帝電信電話公社が誇りを持って我が国の情報通信技術を主導いたします』
 いつの間にかテレビは漫才番組が終わり帝の地図を映し出していた。荘厳な音楽とともにじわじわと上から下に流れる字幕と、それに合わせて語りかける神妙な口調の声が注意を惹きつける。
『北は樺太……西は満州、……南はパプアニューギニアに至るまでを縦横する海底の情報網……重要なのは速度はありません、安心と信頼です。帝電信電話公社が誇りを持って我が国の情報通信技術を主導いたします』
 勇は功の目が細くすぼまるのを見逃さなかった。冷笑の視線だ。英米の最新情報に通じる彼にとってこの広報はきっと誇大なのだろう、と勇は当て推量した。
 ほどなくして準決勝の第二試合目が中継される頃には、机の上の寿司は半分ほど消えてなくなっていた。父の手にある切子の中身も麦酒ではなく清酒に切り替わっている。
 選手が戦場に入場して一列に並ぶ。観客も静まりかえるなか国歌が演奏され、続いて皇居の方角に向かって全員が一礼する。観客も一斉に立ち上がって深々と一礼した。現人神で知られる天皇陛下は幾多の戦争を勝利に導いた軍神とも称され、その際立った神通力を継承すべく世襲制が採られている。昭和九八年の現在は三代目の昭和天皇が襲名して五年が経った。
『全国高等学校硬式戦争選手権大会、夏の公死園、準決勝第二試合がまもなく始まります』
 司会の声に合わせて映像が鮮やかに動き、画面上の左右に両者の仮想体力が大きく描画される。区別のために左側が青く、右側が赤い。それぞれの体力の下には草書体で各々の選手の名前が記されていた。そこで、勇は選手たちの名前が一風変わっていることに気がついた。画面上の校名に視線を寄せると「沖縄 臣民第七高等学校 対 臣民第一八高等学校 台北』と記されてあった。
「驚くべきことに準決勝まで勝ち進んだこの二校はともに外地の学校です。帝臣民の真髄により迫ることができるのは果たして、どちらなのでありましょうか」
「驚くべきことに準決勝まで勝ち進んだこの二校はともに外地の学校です。帝臣民の真髄により迫ることができるのは果たして、どちらなのでありましょうか」
 熱のこもった司会の案内の後で、カメラが戦場を映し出す。すでに両軍は初期配置について試合の開始を待っている。トロの甘みに舌鼓を打ちつつも、勇はつい数時間前の戦いを思い出して他人事ながら緊張を覚えた。
 試合開始の笛が画面越しに響いた。複数のカメラが小刻みに切り替わって一斉に動き出す選手を追う。五分と経たないうちに外地同士といえど採る戦略はまるで異なる様子がうかがえた。第七高は野伏のごとく隠密に広がっていくのに対して、台北の第一八高はひと固まりの猪突猛進で戦場を横断する。
「あれはどうなんだ、勇」
@ -245,7 +246,7 @@ tags: ['novel']
『これにて準決勝第二試合は臣民第一八高等学校の勇猛な勝利にて幕を下ろしました。休養日を挟んで明後日には、強豪、大阪の帝國実業高等学校と記念杯を巡って最後の一戦を交えることとなります――おや、なにか選手が言っていますね、見てみましょう」
 カメラが第一八高の主将に視点を合わせた。たとどころに集音マイクが音を拾う。
「臣民第一八高等学校三年、主将、陳開一! 畏れ多くもこの場を借りて一言申し上げたい! 公死園は直ちに仮想体力制度を取りやめ、己の命の限り死力を尽くす伝統に立ち返られよ!」
 駆け寄ってきた控えの選手から手渡された布をばっ、と広げる。華々しい日の丸の波状が際立つ大日本帝の国旗を両手で前に持ち上げ、掲げる。息を呑んだ司会が、しかし相変わらずの熱量で感心したふうに言う。
 駆け寄ってきた控えの選手から手渡された布をばっ、と広げる。華々しい日の丸の波状が際立つ大日本帝の国旗を両手で前に持ち上げ、掲げる。息を呑んだ司会が、しかし相変わらずの熱量で感心したふうに言う。
「外地の若者の訴えです。もし彼らの戦い方で仮想体力制度を用いないとなると、昔ながらの木刀で気絶するまで殴り合う従前の形式に戻ることとなりましょう。彼らは――それでもいいと、むしろ本望であると訴えているのです。たかが支那人と侮ってはいけません。大和魂は外地の者にも確かに伝わっております。我々としても見習うべきところがあるのやもしれません……」
「ずいぶんすごい連中だな。次はこいつらと戦うのか」
 酒も飲まずに同じく試合に集中していた父が言った。
@ -281,7 +282,7 @@ tags: ['novel']
「お前でも初手では使わんだろう。だが、あいつらはほとんど軍刀一つで戦っている。戦略を見直さなきゃならんぞ」
「なるほど、それで昨日の電文か」
 そういえばあの電文は試合を観ている前提の内容だったな、と勇は思い直した。そうこうしている間に二人は硬式戦争部が専有する野戦場にたどり着いた。真横の駐輪場に自転車を停める。あどけなさの残る一年生たちは必死の形相で「洗礼」の第二段階に取り組んでいた。硬質弾をまともに受けた状態でひたすら走らされるのだ。仮想体力が零に尽きないうちに身動きが取れなくなるようでは選手にはなれない。足取りが緩む候補生に監督の檄が飛ぶ。
「硬質弾ごときでへばっていてどうする! いま、海の向こうでは栄えある帝軍人が自らの漏れた腸を引きずりながらでも支那の反乱分子どもと戦っておられるのだぞ!」
「硬質弾ごときでへばっていてどうする! いま、海の向こうでは栄えある帝軍人が自らの漏れた腸を引きずりながらでも支那の反乱分子どもと戦っておられるのだぞ!」
 二人の姿を認めると、候補生たちは険しい顔のまま一斉に直立不動の体勢に直ってお辞儀をした。
「いいから続けていろ!」
 怒号とともに彼らは無限とも思える持久走に戻っていく。振り返った監督は声を落として二人に告げた。
@ -357,9 +358,9 @@ tags: ['novel']
 やむをえず勇は座ったが、まだ怒りは収まっていない。それを知ってか、ユンは冷静に言った。
「おれらなんてしょっちゅうしょっぴかれている。斜向いんとこの悪ガキもこの前やられた。どうでもいいようなことでも実刑は当たり前だ」
 朝鮮人とおれの弟は違う、と喉元まで出かかった言葉を勇は呑み込んだ。単に日本人ではないというだけでユンの命を賭した戦いぶりを退けた監督の顔がちらついたのだ。テレビでは自宅の映像に代わり、中学生の頃の功の作文や成績表、同級生の人物評が仔細に語られている。しばらく観ていると、公死園の録画とともに勇の経歴も槍玉に上げられた。
 それから父、母、さらには親族、町内會にまで曝け出されるのに十五分とかからなかった。今この瞬間、帝中の臣民に葛飾家の素性が覗き見られている。勇は全身に悪寒が走った。
 それから父、母、さらには親族、町内會にまで曝け出されるのに十五分とかからなかった。今この瞬間、帝中の臣民に葛飾家の素性が覗き見られている。勇は全身に悪寒が走った。
「くそっ、どいつもこいつも好き勝手に言いやがって」
 これまで幾度となく報道番組で観てきた光景なのに、自分のこととなると全然感覚が違う。これまでは悪人の本性が暴かれているのだろうとしか考えていなかった。でも今は、帝中に向かって葛飾家の潔白を訴えたい気持ちでいっぱいだった。電子計算機を悪用したであろう弟さえ、どこかで擁護できるならいくらでもしてみせたかった。
 これまで幾度となく報道番組で観てきた光景なのに、自分のこととなると全然感覚が違う。これまでは悪人の本性が暴かれているのだろうとしか考えていなかった。でも今は、帝中に向かって葛飾家の潔白を訴えたい気持ちでいっぱいだった。電子計算機を悪用したであろう弟さえ、どこかで擁護できるならいくらでもしてみせたかった。
「勝つしかねえよ」
 報道番組に出演している有識者が少年犯罪の凶悪化を憂いている傍ら、ユンはぼそりと言った。身体ごと向きを変えて、繰り返す。
「おれたちは公死園で勝つしかねえんだ。結果を出せば世間は黙る。これはそういう戦いだ」
@ -450,7 +451,7 @@ tags: ['novel']
「それは一体なんなんです」
 なんとなく不審さを覚えた勇が尋ねると、彼は神妙に答えた。
「Methamphetamin……巷ではヒロポンと言う。本来は前線の兵士に配られる代物だが……明日からはきっちり休むというのならこいつを処方してやろう」
 ヒロポン。聞いたことがある、と勇は記憶を掘り起こした。昔は合法だったが、中毒症状のあまりの強さに現在では帝軍人でなければ買えない薬だ。不良学生が帰国した負傷兵と結託してヒロポンを入手しているとの噂をよく耳にする。数時間持続する痛みや不安からの解放の後、使用者はさらに厳しい苦しみを背負う。耐えきれず、その苦痛をさらにヒロポンの快楽で補おうとした一部の者には地獄が待っているという。
 ヒロポン。聞いたことがある、と勇は記憶を掘り起こした。昔は合法だったが、中毒症状のあまりの強さに現在では帝軍人でなければ買えない薬だ。不良学生が帰国した負傷兵と結託してヒロポンを入手しているとの噂をよく耳にする。数時間持続する痛みや不安からの解放の後、使用者はさらに厳しい苦しみを背負う。耐えきれず、その苦痛をさらにヒロポンの快楽で補おうとした一部の者には地獄が待っているという。
 勇が言い淀んでいると、横からユンが弛緩した口元を懸命に動かして叫んだ。
「うってくえ、早く」
 遅れて、勇も言う。
@ -535,11 +536,11 @@ tags: ['novel']
「いや、弱い。貴様など吹けば飛ぶような存在だ」
「じゃあ、なぜ試合に?」
 監督は質問には答えずにテレビ画面をあごでしゃくった。
「世の中にはいくらでも悪人はいる。立派そうな連中の中にも。銀座で飲み歩く御大尽にも、帝議会でふんぞりかえっている代議士にもな。だが、やつらがこうして報道機関の槍玉に挙がることはない。なぜだ?」
「世の中にはいくらでも悪人はいる。立派そうな連中の中にも。銀座で飲み歩く御大尽にも、帝議会でふんぞりかえっている代議士にもな。だが、やつらがこうして報道機関の槍玉に挙がることはない。なぜだ?」
「……政治のことはおれにはよく解りません」
「よく解らないのは、単に知らなくても損をしなかったからだ。貴様のようなやつはな……。今日からは違う」
 鬼のような険しい顔の監督が睨みを効かせる。ただし怒りではなくそこには神妙さが宿っていた。
「解らないなら教えてやろう。そいつらは強いからだ。お前が少々、硬式戦争で腕を鳴らして――あるいは本当の帝軍人に成り上がったとしても、そいつらの曲げた指先一つにも敵わない。だからみんな畏れ、敬う」
「解らないなら教えてやろう。そいつらは強いからだ。お前が少々、硬式戦争で腕を鳴らして――あるいは本当の帝軍人に成り上がったとしても、そいつらの曲げた指先一つにも敵わない。だからみんな畏れ、敬う」
「正しさ――正義はそこにはないんですか」
 勇は口を滑らせた。これは口ごたえにあたるかもしれない。だが、英語で計算機の情報を調べていただけの弟を、こんなにまで晒し者にして、家族まで犠牲にする有様がふさわしい処罰とは到底思えなかった。監督は怒らず、ただ小馬鹿にしたふうに笑った。
「正義は人の数だけある。貴様の方が正しいと信じるなら証明してみせろ。今日がその最初の日だ」
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 たった一発の硬式弾が敵の頭を正確に撃ち抜いた。予測射撃に加えて高台からの狙撃。反射的に頭を抑えてよろけた敵は、直後に退場を悟って軍刀を手放した。走っていた押山も振り返って敵を見て、それから屋根の上の勇を見上げて手信号を送る。
 勇は屋根から滑り降りて地面に着地した。今度は押山を背後に回して二人で敵方への前進を試みる。機動力に長ける敵の頭を抑えられたら状況は俄然有利だ。いかに軍刀の手練でも射程が一町に伸びたりはしない。本来、追い込まれるのは飛び道具を持たない方でなければならない。
 閑散とした住宅街の区画を抜けると朽ちた街並みが見えてきた。石垣は崩れ、家々は倒壊しており、高台はほとんど見当たらない。全身を隠せる場所が少ないので奇襲には不向きの区間だが、同様に逃避や狙撃もできないので一概にどちらが有利とは言い切れない。近接武器しか持たない相手に接近しなければならないのは、公死園が長時間の待ち伏せを禁じる規則を定めているためだ。裁量はかつては審判、現在は電子計算機の動的な計測に委ねられているため、時間を測って計画的に居座ることもできない。この判定に引っかかり「不健全試合」の烙印が押されると、即座に全選手が退場を宣告される。
 大日本帝の軍人に膠着は許されない。その精神は公死園にも息づいている。
 大日本帝の軍人に膠着は許されない。その精神は公死園にも息づいている。
 崩れた瓦礫が密集して視野が狭まる区間を通り過ぎる時、押山が横について腰の軍刀を抜いた。先の軍刀戦術に感銘を受けた一人らしい。勇が手信号で懸念を表明すると彼は”問題なし”の返事をよこしてきた。再び視界が開けるまで勇はすり足気味の足取りで、小銃と肩口が癒着するかと思うほどに神経を張り巡らせていたが、意外にも敵は一人も現れなかった。二人は瓦礫の山を通り過ぎて、朽ちた街並みの終端にたどり着いた。すれ違っていなければ二車線道路の西側の、三分の二を探索したことになる。
 ここに敵がいないとすると東側の状況が気がかりだった。勇は数少ないマシな形をしている石垣に背をつけて、押山を隣へ誘導した。慎重に声を落として会話をはじめる。
「お前、東側から来たな。直前の状況を把握しているか」
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「……みなさん、しかとご覧になられたでしょうか。選手自らの口によって語られる勝利への渇望、期待、一族の咎を背負って戦う勇姿――共に犯罪者の弟を持った長兄同士が、刀と刀で己の正義を証明せんとする気迫――そのどれもが、かつてない感動を我々にもたらしたと言って過言ではないでしょう……。しかし今、命運は決定づけられました! 巧みな戦術で相手を破り、辛くも栄光を手にしたのは――葛飾勇選手であります! 大和民族の誇り高き血統が、それでもまだ外地人に優れることを見事に証明してくれました!」
 わああああああ、と一斉に円形の観客席から歓声と感涙の入り混じった大音声を鳴らした。今をもって人間、葛飾勇を不穏分子の兄と誹る者は一人もいそうには思われなかった。誰もが彼の戦いぶりに魅入られ、酔い、勝利の栄光を手にする大和民族の代表の地位を与えかねない勢いをまとっていた。
「昭和九八年度全国高等学校硬式戦争選手権大会の優勝校は、大阪、帝國実業高等学校です!」
 さながら台風の目――司会も観客も、おそらくは地元の後援会も、ひょっとすると帝じゅうの人々が壮大な感動物語に酔いしれている最中、その中心にただ一人いる勇の気持ちは、どこまでも冷たく醒めきっていた。
 さながら台風の目――司会も観客も、おそらくは地元の後援会も、ひょっとすると帝じゅうの人々が壮大な感動物語に酔いしれている最中、その中心にただ一人いる勇の気持ちは、どこまでも冷たく醒めきっていた。
 この戦いは、初めからおれのものじゃなかった。
 喰まれている、と勇は思った。自分自身の人生、弟、家族、してきたこと、されてきたことが一つの演目を形成して、この瞬間、あらゆる人々に消費されている。そこでは勇自身ですら、舞台の上で滑稽に踊る役者でしかない。
 間を置かず入場口の手前で開かれた授与式では、あれほど欲してやまなかった記念杯が毒々しく輝く忌まわしい足枷にしか見えなくなっていた。
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「おれはずっと考えていたんだ。この国とそっくりじゃねえか……と。おとなしく地に伏しているうちは暖かさを感じる時もあるが、近づくと焼き払おうとする」
 観客席の至るところで大小の日の丸が振られ、辺り一面に白と赤の乱雑な模様が波打っている。記念杯が近づいてくる。
「だが所詮、国は人でできてるもんだ。壊せないということはない。だから、おれが燃やされるか、おれが燃え尽きる前に太陽を手に入れられるか、そういう戦いをしているんだ」
 滔々と語るユンを見て、こいつはまだヒロポンに酔っているんじゃないか、と勇は思った。けれども今の勇にはユンがただの妄想を言っているようには思われなかった。帝じゅうに啄まれた自身の物語の中で、それはいっそう魅力を帯びて聞こえた。
 滔々と語るユンを見て、こいつはまだヒロポンに酔っているんじゃないか、と勇は思った。けれども今の勇にはユンがただの妄想を言っているようには思われなかった。帝じゅうに啄まれた自身の物語の中で、それはいっそう魅力を帯びて聞こえた。
「おれは、おれを侮辱した連中を絶対に許さない。たとえ何年かかっても……」
 ユンと目が合った。瞳孔の開ききった目が、恒星をも飲み込むとされる宇宙の黒く虚ろな天体を思わせた。その瞬間、勇はあの夜に彼が並べていた人名の一覧が、どのような意味を持っているのか悟った。
「なるほどな」
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「なあ、ユン」
 勇は主将として、記念杯を受け取るにふさわしい直立の姿勢を保ち、目は名も知らぬ初老の男性に合わせたまま、横のユンに言った。
「おれにも踏み台が見えた」
 ついに目前に初老の男性が辿り着いた。観客という観客、カメラというカメラが勇を観ている。帝じゅうが観ている。差し出された記念杯を、勇は今にもむせび泣きそうな顔をして慇懃に受け取った。近場でも遠くでもカメラのシャッターが切られる音がぱちぱちと鳴って、自分自身が光に包まれたように感じた。
 昭和九八年八月、帝臣民を比類なき感動にもたらした歴史的な夏の公死園決勝戦の裏で、ひそかに革命の火が灯された。老いさばらえた帝の乾いた皮膚に塗られた一縷の脂へ灯された火は、ゆっくりと、しかし着実に炎として広がり、やがてその臓腑と骨をもことごとく燃やし尽くすであろう。
 ついに目前に初老の男性が辿り着いた。観客という観客、カメラというカメラが勇を観ている。帝じゅうが観ている。差し出された記念杯を、勇は今にもむせび泣きそうな顔をして慇懃に受け取った。近場でも遠くでもカメラのシャッターが切られる音がぱちぱちと鳴って、自分自身が光に包まれたように感じた。
 昭和九八年八月、帝臣民を比類なき感動にもたらした歴史的な夏の公死園決勝戦の裏で、ひそかに革命の火が灯された。老いさばらえた帝の乾いた皮膚に塗られた一縷の脂へ灯された火は、ゆっくりと、しかし着実に炎として広がり、やがてその臓腑と骨をもことごとく燃やし尽くすであろう。