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血の匂いは、久しぶりにお風呂に浸かる許しを得てからもしばらくとれなかった。
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私が魔法能力行使者として正式に階級章を授けられたのは、その日から始まった訓練を終えたさらに半年後の話になる。
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リザちゃんも同じような訓練をしたのかな。
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”ムッソリーニ首相が王様に叱られて以来、イタリアのほとんどの土地はずっと敵にとられたままになっています。イタリア人の彼女はたまたま難を逃れていましたが、ドイツ軍に接収されたので今はここで戦っています。なんでも接収されると、別の国の人でもその国のきまりに従わなければいけないのだそうです。難しいことは私にはよくわかりません。いつか故郷に帰してもらえるといいと思います。イタリアはドイツの大切な同盟国なので、フューラーも色々考えてくれているでしょう。お父さんも、祖国に勝利をもたらすその日まで、どうかお元気で。ハイル・ヒトラー”
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”ムッソリーニ首相が王様に叱られて以来、イタリアのほとんどの土地はずっと敵にとられたままになっています。イタリア人の彼女はたまたま難を逃れていましたが、ドイツ軍に「セッシュウ」されたので今はここで戦っています。なんでも「セッシュウ」されると、別の国の人でもその国のきまりに従わなければいけないのだそうです。難しいことは私にはよくわかりません。いつか故郷に帰してもらえるといいと思います。イタリアはドイツの大切な同盟国なので、フューラーも色々考えてくれているでしょう。お父さんも、祖国に勝利をもたらすその日まで、どうかお元気で。ハイル・ヒトラー”
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手紙を書き終えると私は杖を握って居室を出た。ベルリンの大きな基地は大きいだけあって基地の中に郵便局がある。壁伝いに身体を預けつつ杖をこつこつと叩いているうちに、窓口に着いてしまう。口数が少ない郵便局員の人に便箋と身分証明書と小銭を手渡すと、いつもの調子で鼻を鳴らした。私の中ではこれが受領完了の合図ということになっている。すぐに判をつく音がして、身分証明書が突き返された。十日に着いてから毎日送っているので愛想の悪さにはもう慣れた。それも、今日までだ。
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往路を同じ要領で戻ると、いつの間にかリザちゃんが起きて髪を梳かしていた。一定の感覚で刻まれる音の感じで、彼女の髪の長さが分かる。
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「おはよう、リザちゃん」
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その後、私はたっぷり叱られてただでさえ少ないその日の食事が全部抜きになった。
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「食料がないわね」
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出し抜けに、リザちゃんが言った。スプーンで缶詰の底をがりがりとこする音もする。私も同じことをしているのでちょっとうるさいくらいだ。
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ポーゼンに進みはじめてから早くも三日が経過した。外套に収まるだけの携行食糧は早くも底を尽きた。一時間おきに無線機の周波数を切り替えても友軍との連絡は一向につかない。ひょっとすると地上軍はもうベルリンまで撤退してしまったのだろうか。
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ポーゼンに進みはじめてから早くも三日近くが経過した。外套に収まるだけの携行食糧は早くも底を尽きた。一時間おきに無線機の周波数を切り替えても友軍との連絡は一向につかない。ひょっとすると地上軍はもうベルリンまで撤退してしまったのだろうか。
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幾度となく、空を飛んで辺りを見渡したい衝動に駆られた。けど、どうしてもできなかった。バルバロッサ作戦以来、ソ連は五年間にわたり私たち魔法能力行使者と戦ってきている。一度でも発見されたら血眼になって追いかけてくるに違いない。そうなればポーゼンを奇襲するどころではない。
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私たちはひたすら平地や開けた場所、近隣の村などを避けて、敵兵との接触を最小限に抑えた。戦車の重苦しいキャタピラが地面を揺らすのが聞こえたら動き、歩兵たちのちょっとした声や足音にさえ敏感に反応した。そのどれもがベルリンを焼きに向かっているという事実を前にしても、真の目標の前には耐えなければならなかった。
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私たちはひたすら平地や開けた場所、近隣の村などを避けて、敵兵との接触を最小限に抑えた。戦車の重苦しいキャタピラが地面を揺らすのが聞こえたら動き、歩兵たちのちょっとした声や足音にさえ敏感に反応した。そのどれもがベルリンを燃やしに向かっているという事実を前にしても、真の目標の前には耐えなければならなかった。
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でも、空腹は耐えがたい。
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「どこかから糧秣を調達しないと」
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こそげ落とした最後の豆を口に含みながら提案した。今や全土がソ連の支配下にあるとはいえ、ポーランドの西半分は私たちの味方のはずだ。こんなドレスを着た子どもが軍人だと言っても信じてもらえないかもしれないけど、外套には顔写真入りの身分証明書が入っている。そう、私たちはなんといっても大尉なのだ。
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「でも、この有様じゃどの集落もソ連に占領されているんじゃないのかしら」
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白線で縁取られた横顔が空を仰ぐ。こんなにも大量のソ連兵が進軍してきているのなら、少なくとも街や村と呼べるような場所には私たちの鈎十字ではなく鎌と槌の旗が翻っているのだろう。
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「集落から離れたところに家を建てて住んでいる人たちもいるでしょ。まさか、そんなところにまでソ連兵は居座っていないはず」
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リザちゃんが「どうかしらね」と疑念を孕んだ声を投げかけるも、二人そろってお腹の虫がぎゅーっと鳴った。現地部隊との合流を前提に一日分しか携行していない食糧を三等分しているのだから、いつもお腹はぺこぺこだ。ご飯を食べながら、次のご飯のことを考えている。ちょうど雪解けの季節で川が流れていなければ飲み水にも苦労したかもしれない。
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そんな水筒の中身もソ連兵を避けながらの補給では頼りない。
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結局、彼女は家を探すことに同意してくれた。平地を離れ丘陵に近づくにつれて、心なしか張り詰めた神経が落ち着いてきた。そろそろ屋根のある場所で寝たいと思った。外套を深々と着込んで全部のボタンを留めても、夜の間は寒くて仕方がない。
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「前にね、お父さんと一緒に住んでいた家でね、暖炉が壊れてしまったことがあるの」
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一転、私は明るい調子で話しはじめた。漆黒の道のりを無言で歩き続けるのは退屈だった。
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「あの時もちょうど冬の頃で、家じゅうのお洋服を着込んで、それでも寒かったからお父さんの膝の上に座ってた」
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そこで読んでもらった絵本が当時の私の知っている世界のすべてで、そのうちの一冊がピノッキオだった。ピノッキオの冒険。何度もせかんで読んでもらったお気に入りの話だけど、結末だけは今もあまり好きじゃない。様々な困難を乗り越えたピノッキオは最後、妖精に認められて人間に生まれ変わるのだ。
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どうして、木のままではいけなかったのだろう。ピノッキオは色んなことができて、苦しい試練があっても楽しく暮らしている。松の木でできているからこそ、あんなにどきどきするような大冒険の日々に恵まれている。人間に生まれ変わってしまったら、特別でもなんでもない普通の子だ。
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”君は特別だ”
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魔法能力を授けられてから私は口々にそう言われるようになった。もし私の目を普通の人と同じにできるとしても、代わりに魔法が使えなくなるのなら、私はずっと見えないままでいい。私には役目がある。
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「あんたのお父さんってどんな人なの?」
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私の数歩先を先導して歩きながらリザちゃんが言った。
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「えっとね、優しくて、賢くて、なんでも知ってるの。今はブリュッセルで戦ってる」
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「ふうん」
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「リザちゃんのお父さんは?」
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「同じよ、たぶんね」
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「いつか会えるといいね」
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彼女の歩行は淀みない。段差や障害物がある時だけ過不足なく歩幅が変わるから、まるで道標のように機能する。
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イタリアも大変だと聞いていた。王様に嫌われたムッソリーニ首相が、フューラーに助けられて北の方に新しい国を作ったという。新しい国にはまだ兵士の数が足りないので、代わりにドイツ国防軍が居候している。イタリアとドイツは友達なので助け合わないといけない。
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リザちゃんがドイツに「セッシュウ」されてきたのも同じ頃だ。できればイタリアで戦いたかったのだろうけど、偉い人たちはもっと難しい作戦を考えているのだと思う。実際、彼女がいなければドイツもどうなっていたか分からない。
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「そうね……」
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それきり、会話はぶつ切りに途絶えてぬかるんだ土を踏む音が続いた。たまに、遠く彼方の方角にプロペラの高周波音と、戦車のキャタピラが草木をすり潰す重低音が聞こえる。
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私たちは黙々と行軍して、時折、隙を見ては川の水を飲み干し、再び歩いた。相変わらずお腹は鳴っていても、ポーランドが川の多い国だったおかげでなんとか我慢できている。人はなにも食べていないと三日くらいで死んでしまうのに、水を飲んでいれば二週間は生きられるらしい。
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夕方、草木に空が覆われている手頃な箇所を見繕って野宿の支度をする。暗くなってからだと薪を集めるにも苦労するので明るいうちにしないといけない。もともと目の前が暗い私には関係なくても、目で見て手頃な木を探せるリザちゃんには大いにある。
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「そう、そこよ」
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彼女が声で示した位置でぴたり、と人差し指を止めて「ぼっ」とつぶやくと、魔法が指先で爆ぜて集めた薪がぱちぱちと言う。灯りのありがたみが分からない私でも、焚き火の温かみはよく分かる。こんな的外れな位置にはさすがのソ連兵は来ないと願うしかない。
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「そういえば、コーヒーがあったわ」
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「えー、コーヒー飲むの」
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「飲むと温まるし空腹も紛れるから。あんたも飲むのよ」
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リザちゃんはなにやらごそごそと音をたてて、焚き火でインスタントコーヒーを作りはじめた。ぶくぶくとお湯が湧く音が聞こえる。私の抗議は再三にわたったが徹頭徹尾、無視され続けた。
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空いた手に熱いコップがあてがわれる。顔にあたるゆげを吸い込むと香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
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「そう、匂いはいいのに……でも」
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試すようにして慎重に口を含むと、たちまち言葉ではとても言い表せない強烈な苦味が舌の上に広がった。
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「うええ……コーヒーってとっても美味しそうな匂いがするのに、どうしてこんなにまずいんだろう」
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焚き火が爆ぜる音の向こう側でコーヒーをすする音がした。私と違ってずいぶん慣れた感じだった。
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「そのうち慣れるわよ。ちゃんと飲みなさい」
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ぴしゃりと命令口調で言われて、リザちゃんはやっぱり威張りんぼだと思った。
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しかし、あっさり飲み干した彼女とは対照的に私のコップはいつまでも空かなかった。ちまちまと飲んでいるうちにどんどんコーヒーは冷めていき、ますます苦味が強く際立つ。そうなると、ますます飲み進められない。
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私は必死にコーヒーと闘争するための戦意を振り絞り続けた。さもなければ一向に軽くならないコップを両手で握りしめる気力を失いかねなかった。いっそ落としたふりをして地面に飲ませようかな、などと考えたりもした。
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とうとう呆れたのかリザちゃんは打開策を提案した。
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「コーヒーってチョコレートと一緒に飲むと美味しいんだって」
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「えっ、そうなんだ……」
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外套の中にひとにぎり押し込んであったチョコレートの存在が思い起こされた。どれだけ食糧を切り詰めようとも、これにはまだ一口も手をつけていない。チョコレートが一番美味しいのはお腹が空いている時でも、空いていない時でもなく、その中間くらいの時なのだ。
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とはいえ、とはいえ……リザちゃんから聞いた話はとても魅力的に感じられた。
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チョコレートの食べ時を諦めざるをえないくらい、コーヒーは苦い。
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意を決していそいそと外套の奥底をまさぐり、できるだけ小さいチョコレートの包みを取り出す。口に含んで訪れた幸福を味わうのもそこそこに、救いがたき苦味をざっと流し込んでやる。
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確かに、鋭い苦味が甘さに包まれて幾分和らいだようだった。もう一個、またなるべく小さいのを取り出して入れ違いにコーヒーを含む。後味が不思議にすっきりとして、案外悪くない。
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気づけばコップの中身はあっという間に空になっていた。
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その日、眠りにつくまでの数時間、私はちょっぴり大人になった気がした。
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リザちゃんに急かされて半分寝たまま朝の支度をさせられる。文字通り、させられている。手渡された最後の食糧を食べて、最後の水を飲んで、服を脱がされて、濡らした布で身体を拭かれて、着せられる。
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とても時間をかければ自分でもできないことないし、家にいる時はそうしていたけど作戦行動中はそういうわけにもいかない。
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「あら、月のものが来ているのね」
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「え、そうなんだ」
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どうりで股の辺りがむずむずすると思った。いつもだったらあの独特の嫌な匂いで気づくけど、こんなに長くお風呂に入っていないと鼻がほとんど効かなくなる。本当だったら入りたくてたまらないはずなのに意外とそうでもないのは、お腹が空いているとか喉が乾いているとか、他にしたいことが多すぎて身体が忘れてしまっているのだと思う。もし、息ができなかったら息をしたい以外にはきっとなにも考えられない。
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しかし、いざ行軍が再開されると股に当てられたやたらごわごわする布切れの感触が気になった。なんとかうまく歩こうとして大股歩きになると、今度は慣れない歩き方をしているせいで動きがぎくしゃくする。ただでさえ女の子は月のものの最中は元気がなくなる。
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ただでさえお腹が空いていて、喉も乾いていて、お風呂にも入れていないのに、これからもっと元気じゃなくなるのだ。
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「あら、雪が降ってきたわ」
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リザちゃんがそう言うか言わないか、頬にひんやりとしたなにかが触れた。途端に寒さが増した気がして、外套のボタンを全部留めて歩く。
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「積もれば水には困らなくなるね」
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ここにタイプライタはないけれど、もしお手紙を書くならきっとこんな感じになるだろう。
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”一九四六年三月一八日。親愛なるお父さんへ。このお手紙はお父さんのお手元に届く頃には少し湿っているかもしれません。というのも、今まさに雪が降っているからです。もちろん音もなく降りしきる雪の姿は私の目には映りません。肌をなでる冷たい感触が私に雪を感じさせます。昔、たくさん積もった雪をすくって食べていたらお父さんに叱られましたね。案の定、あの後にお腹を壊してトイレから出られなくなったのを覚えています。行軍中にそうなったら大変ですが、今では私もお姉さんなのでもうそんなことはしません。……”
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どこかで、チーン、と改行音が鳴ったような気がした。いやしかし、それにしては音程が変だ。そもそもこれは頭の中で書いているお手紙であって本当にタイプライタを叩いているわけでは……。
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私はすぐに他にも聞き慣れた音があったのを思い出した。これは銃弾が空気を切り裂く音だ。
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「敵だ」
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私がつぶやくと、彼女が息を呑んだ。「え、どこに」「まだ遠い。銃声、二時の方向、私たちに向けてじゃない」
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「一体どこに向かって……?」
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耳を研ぎ澄ませて銃声の残響を追う。
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「少なくとも水平に飛んでいる。地面に向かってでも、空に向かってでもない。誤射や祝砲ではなさそう」
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「じゃあ、もしかして」
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「友軍が撃たれてるんだ」
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瞬間、私たちの歩幅はメートル単位で変化した。繰り返し聞こえる銃声を目指して、短い跳躍を繰り返す。何歩目かで木々に飛び移り、幹から幹へ、足で軽く蹴って立体的に移動する。
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しばし位置を離れた彼女が無線機越しにしゃべると、電波を示す白線がぎざぎざに揺れて視界に波を打つ。
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<見つけた。敵。小隊規模、車輌はなし。やれるわ>
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ごく簡潔な状況報告の後に炸裂音が響いた。私も白線を辿り木から鋭角に飛び出して地面に降り立つ。全身に陽の光を感じる――ここは平地だ――応射がリザちゃんに集中することを避けるために、未だ像を結べていない雑然とした暗闇へ、すばやくステッキを振りかざした。悲鳴。さらなる轟音。敵が叫べば叫ぶほど、だんだんと私にははっきりと見えるようになる。
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お人形さんみたいに並ぶ敵たちがいよいよ銃口をこちらに揃えた。
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横殴りの銃弾の雨を避けて真横に飛び、さらに接近する。距離にして十メートルもあるかないかに迫った状況では、ステッキの口径だと釣り合わない。ホルスターにしまい込みながら逆の手で咄嗟に拳銃を模る。
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「ぱん!」撃つ。「ぱん!」お人形さんの頭が割れた風船のように弾けて地面に崩折れていった。 私たちとの戦力差を認めて撤退を始めた残党に、リザちゃんがとどめの光線を放つ。遠ざかる人影が白い靄に包まれて跡もなく消え去った。たちどころに銃声が止んで、しばしの静寂が訪れる。
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「もしやあれは――」
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「魔法を操る特別な兵士がいるという……」
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後方でざわざわと声がした。ドイツ語だ。振り返るとあやふやな輪郭が三、四、五、続く声に応じて描かれた。
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ソ連兵だらけの敵地で出会った友軍に、私は泥と雪で濡れたドレスの裾を伸ばして応じる。
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「ええ。私たちは帝国航空艦隊所属の魔法能力行使者です。あなたがたの援護に参りました」
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直後、視界に広がるいくつもの輪郭が急にぺしゃんこに潰れたのかと思った。
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そうではなかった。
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私よりも三十センチも高い大柄な男の人たちが一斉に跪いたのだ。
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先頭にいる男が低い声で言った。
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「我々は第二二一保安師団、第三一三警察大隊隷下の残存兵どもでございます。とうに指揮官は死にました。どうか、代わりに指揮を」
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私たちに、初めての部下ができた。
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