第七幕の途中3
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Rikuoh Tsujitani 2023-09-03 22:03:03 +09:00
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 敷地の正面口では約束の時間を大幅に過ぎたにも拘らず和子が待っていた。今日の試合日程が終わってだいぶ経ち、人混みがまばらになった周辺で互いの姿を見つけるのは容易だった。先に目ざとく勇の姿を認めると、彼女は白く細い腕にはめられた腕時計の文字盤をつつく仕草をした。彼が目の前まで来た時、にも表された。「三〇分遅刻。もう帰ろうかと思っちゃったわ」
 敷地の正面口では約束の時間を大幅に過ぎたにも拘らず和子が待っていた。今日の試合日程が終わってだいぶ経ち、人混みがまばらになった周辺で互いの姿を見つけるのは容易だった。先に目ざとく勇の姿を認めると、彼女は白く細い腕にはめられた腕時計の文字盤をつつく仕草をした。彼が目の前まで来た時、言葉にも表された。「三〇分遅刻。もう帰ろうかと思っちゃったわ」
「悪い、勝ったら勝ったで色々あるんだ」
 適当にごまかそうとした言い草に、和子は持ち前のよく通る声で指摘した。
「その頬の腫れとなにか関係があるの?」
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「柄にもなくちょっとは頑張った甲斐があったよ」
 飄々と言ってのけた功はまた計算機に向き直って、キーボードを叩いた。すると、風景画が消えて画面いっぱいに英語が記された頁が現れた。一転、次に緊張を露わにしたのは勇の方だった。
「おいっ、なんで英語の頁なんか」
「シッ、大声を出さないでくれ
 功は人差し指を立てて口に合わせた。年齢的には硬式弾を食らってもいい歳なのに、仕草や顔つきは未だ中学生みたいに見える。
「シッ、大声を出さないで
 功は人差し指を立てて口をいーっと開いた。年齢的には硬式弾を食らってもいい歳なのに、仕草や顔つきは未だ中学生みたいに見える。
「先取り学習だよ。国内の情報は内容が古すぎる。最先端のcodeはinternetにしかないんだ」
「よせ、親父に見つかったらぶっ飛ばされるぞ」
「だからあんなに慌ててたんじゃないか」
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 勇は姿勢を正して下手な妄想から立ち直った。
 麦酒を一瓶空けて、父がまぐろに手を着けたので内心今か今かと待機していた兄弟はようやく寿司にありつくことができた。揃って寿司を頬張る様子を見た父は「うまいか」と短く訊ねた。「とても美味しいです」と勇は言い、功も慇懃な物言いで応じた。最後に、母がいそいそと手前の玉子を取って食べた。
 いつの間にかテレビは漫才番組が終わり帝国の地図を映し出していた。荘厳な音楽とともにじわじわと上から下に流れる字幕と、それに合わせて語りかける神妙な口調の声が注意を惹きつける。
北は樺太……西は満州、……南はパプアニューギニアに至るまでを縦横する海底の情報網……重要なのは速度はありません、安心と信頼です。帝国電信電話公社が誇りを持って我が国の情報通信技術を主導いたします
北は樺太……西は満州、……南はパプアニューギニアに至るまでを縦横する海底の情報網……重要なのは速度はありません、安心と信頼です。帝国電信電話公社が誇りを持って我が国の情報通信技術を主導いたします
 勇は功の目が細くすぼまるのを見逃さなかった。冷笑の視線だ。英米の最新情報に通じる彼にとってこの広報はきっと誇大なのだろう、と勇は当て推量した。
 ほどなくして準決勝の第二試合目が中継される頃には、机の上の寿司は半分ほど消えてなくなっていた。父の手にある切子の中身も麦酒ではなく清酒に切り替わっている。
 選手が戦場に入場して一列に並ぶ。観客も静まりかえるなか国歌が演奏され、続いて皇居の方角に向かって全員が一礼する。観客も一斉に立ち上がって深々と一礼した。現人神で知られる天皇陛下は幾多の戦争を勝利に導いた軍神とも称され、その際立った神通力を継承すべく世襲制が採られている。昭和九十八年の現在は三代目の昭和天皇が襲名して五年が経った。
『全国高等学校硬式戦争選手権大会、夏の公死園、準決勝第二試合がまもなく始まります』
 司会の声に合わせて映像が鮮やかに動き、画面上の左右に両者の仮想体力が大きく描画される。区別のために左側が青く、右側が赤い。それぞれの体力の下には草書体で各々の選手の名前が記されていた。そこで、勇は選手たちの名前が一風変わっていることに気がついた。画面上の校名に視線を寄せると「沖縄 臣民第七高等学校 対 臣民第一八高等学校 台北』と記されてあった。
「驚くべきことに準決勝まで勝ち進んだこの二校はともに外地の学校です。帝国臣民の真髄により迫ることができるのは果たして、どちらなのでありましょうか」
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 鶴橋に向かう途中、無人偵察機の数は増える一方だった。さっきのと違って明確な指向性を持って飛んでいるわけではないと判っているのに、勇にはなぜか自分がつけ回されているような気がしてならなかった。ぶんぶんと飛び回るそれらは鶴橋駅にたどり着いた途端に姿が見えなくなった。
 鶴橋に向かう途中、無人偵察機の数は増える一方だった。さっきのと違って明確な指向性を持って飛んでいるわけではないと判っているのに、勇にはなぜか自分がつけ回されているような気がしてならなかった。大阪城を通り過ぎて目的に近づくにつれ、高層のマンションや建築物は鳴りを潜め、年季の入った風合いの木造住宅が目立ってきた。そのぶん空の境界が低くなり無人航空機のちかちか光るカメラがいっそう悪目立ちした。だが、ぶんぶんと飛び回るそれらは鶴橋駅にたどり着いた途端に姿が見えなくなった。
 駅の出口には待ち合わせ場所によく使われる石像が置かれてある。雛壇を模した段差の下に、様々な出で立ちの民族衣装に身を包んだ複数の男女が笑顔で座り、一段高いところに和服を着た男が座っている。石像の側面には『八紘一宇の礎 〜みなさん仲良くしませう〜』と刻まれていた。
 ユンの家は鶴橋商店街の中にある。引きめき合う店の合間に佇む二階建て木造住宅は、一階が露店と居間と兼ねている。店の前で投げ出すように自転車を置いた勇を、露店で漬物を売っているユンの祖母が見るといつもの調子で二階の階段に向かって叫んだ。
「ウヌ、あんたのチョルチンが来たよ!」
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 旅行鞄を手にぶら下げながら言い淀んでいると、ユンははっきりと応じた。
「テレビを観た。事情は判っている。早く家に入れ」
 ほっ、と安堵して勇は祖母に深くお辞儀をして、軒先で靴を脱いで居間をまたぎ、今にも崩れそうな階段をユンの後に続いて上った。
 二階にある四畳半の部屋がユンの根城だ。薄汚れた畳の上に万年床の布団、まるで使った形跡のない古びた勉強机には埃が積もり、さらにその上には読みかけの雑誌や紙切れや学校から支給された用紙などが堆積している。一方、部屋の片隅に置かれた旧式のテレビにはそれなりの手入れが施されている様子が見て取れた。テレビの画面では、今まさに勇の家が映し出されていた。彼は急速に、とんでもない異常事態が起きつつあることを悟った。
 二階にある四畳半の部屋がユンの根城だ。薄汚れた畳の上に万年床の布団、まるで使った形跡のない古びた勉強机には埃が積もり、さらにその上には読みかけの雑誌や紙切れや学校から支給された用紙などが堆積している。畳の上にさえ紙がいくつも落ちている。一方、部屋の片隅に置かれた旧式のテレビにはそれなりの手入れが施されている様子が見て取れた。テレビの画面では、今まさに勇の家が映し出されていた。彼は急速に、とんでもない異常事態が起きつつあることを悟った。
 テレビの右上には『北野高の首席入学生 治安維持法違反で逮捕さる!』と題する字幕が目立つ。さらにその下には『兄は硬式戦争部の主将』と丁寧な補足情報まで記されてあった。
「治安維持法違反だと? 功のやつ、捕まらんと言ってたじゃないか!」
 勇は思わず大声をあげた。ユンは万年床にあぐらをかいて座って、腕組みをした。
「身に覚えはあるようだな。お前の弟は計算機に詳しかった」
「あいつはただ技術の勉強をしていただけだ! それを……こんな……」
「だけかどうかは国が判断することさ。運が悪かったな」
「だけかどうかは国が判断することさ。お前の弟は運が悪かったな」
 彼のそっけない態度に、一晩泊めてもらう恩義も忘れて勇はいらだちを露わにした。
「なんだその言い草は。喧嘩売っているのか」
「いいから座れ。この狭い部屋でそう突っ立っていられるとねずみ小屋にいる気分になる」
 やむをえず勇は座ったが、まだ怒りは収まっていない。それを知ってか、ユンは冷静に言った。
「おれらなんて治安維持法でしょっちゅうしょっぴかれている。どうでもいいようなことで実刑五年、十年は当たり前だ。日本人なら特別だと思うか」
「おれらなんてしょっちゅうしょっぴかれている。斜向いんとこの悪ガキもこの前やられた。どうでもいいようなことでも実刑は当たり前だ」
 朝鮮人とおれの弟は違う、と喉元まで出かかった言葉を勇は呑み込んだ。単に日本人ではないというだけでユンの命を賭した戦いぶりを退けた監督の顔がちらついたのだ。テレビでは自宅の映像に代わり、中学生の頃の功の作文や成績表、同級生の人物評が仔細に語られている。しばらく観ていると、公死園の録画とともに勇の経歴も槍玉に上げられた。
 それから父、母、さらには親族、町内會にまで曝け出されるのに十五分とかからなかった。今この瞬間、帝国中の臣民に葛飾家の素性が覗き見られている。勇は全身に悪寒が走った。
「くそっ、好き勝手に言いやがって」
 悪態をついて畳の紙を足で薙ぎ払ってから、ようやく彼はどかっと座った。
 これまで幾度となく報道番組で観てきた光景なのに、自分のこととなると全然感覚が違う。これまでは悪人の本性が暴かれているのだろうとしか考えていなかった。でも今は、帝国中に向かって葛飾家の潔白を訴えたい気持ちでいっぱいだった。電子計算機を悪用したであろう弟さえ、どこかで擁護できるならいくらでもしてみせたかった。
「勝つしかねえよ」
 報道番組に出演している有識者が少年犯罪の凶悪化を憂いている傍ら、ユンはぼそりと言った。身体ごと向きを変えて、繰り返す。
「おれたちは公死園で勝つしかねえんだ。結果を出せば世間は黙る。これはそういう戦いだ」
「そもそも出られるのか、おれが」
 口に出すと急速に心配が現実味を帯びはじめた。身内に犯罪者を作ってしまった自分が公死園の決勝などという最高の晴れ舞台への出場を許されるのだろうか。だが、ユンはニタリと笑った。紫に変色したすきっ歯の歯茎が見えた。
「出られるさ。監督は強い選手なら出す」
「なぜ分かる」
「やつがおれを嫌っているのは知っている。だが強いから出している。朝鮮人のおれをな」
 監督がユンに徹底的な指導を施して何倍も模擬軍刀を打ち据えたのは、果たして個人的な嫌悪心からくるものなのか、それとも純粋に強い選手をさらに強くしたかったからなのか、勇には判らなかった。なにも言えず黙っているとユンは場の空気を入れ替えるように調子の良さそうな声を張った。
「まあ、とりあえずメシを食え。いま下でハルモニが作っているはずだ」
 予想通り、ほとんど間を置かずに彼の祖母が階下から二人を呼んだ。階段を危なげに下りて居間に行くと、畳の上のちゃぶ台にすでに夕飯が用意されていた。やたら大きい米びつに入った大量の雑穀米と、鍋いっぱいのわかめの汁物、朝鮮漬け、牛肉の和え物などが台の上を埋め尽くしている。日本人には不慣れな朝鮮人の家庭料理だが、家に来るたびに振る舞われるので勇にとってはすっかり馴染み深い味になっていた。なにしろ量が多く執拗にお代わりを勧められるので、昼飯時に行くと育ち盛りの勇でさえ夕飯がいらなくなるほどだ。
 そんな光景を見てユンは「金はねえがとにかくメシはあるからデカくなれた」と、普段は家の文句ばかりなのにここぞとばかり自慢するのだった。
 ところが今日の彼は様子がおかしかった。「もっと食え」と勇におかわりを勧める割には、自分の丼ぶりは一向に減らない。いつもは大きい米びつが空になるほど食べているのにまだ半分も残っている。隣で甲斐甲斐しく米をよそってくれるユンの祖母もすぐに気がついて「あんた、全然食べないねえ」と訝しんだ。対する彼はただ「うるせえな、食い飽きたんだよ」と買い言葉を口にして、とうとう一杯分の丼ぶりを空にしただけで夕食を終えてしまった。