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Rikuoh Tsujitani 2023-09-18 19:09:44 +09:00
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GPG key ID: 010F09DEA298C717

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title: "夏の公死園"
date: 2023-09-16T14:52:18+09:00
draft: true
date: 2023-09-18T19:09:18+09:00
draft: false
tags: ['novel']
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@ -17,7 +17,7 @@ tags: ['novel']
 実弾よりも柔らかく大きい硬式弾は距離減衰が甚だしい。ある地点からくの字を描いたように急降下する。この遠距離射撃を当てるつもりで撃つ判断は、西の強豪たる帝國実業主将の自負心がそうさせていた。
 勇は息を深く吸った後に、引き金を絞った。
 直後、拡大された視界の中で一人が側頭部に硬式弾を食らって昏倒した。耳の通信機が敵の退場を報せる。残る三人が振り返る――銃声と照準の逆光からこちらの位置を把握するまでに約五秒――二人目の頭部に合わせて放った銃弾はそれて肩口に命中した。相手は顔をしかめて背を壁に打ちつけたが、まだ退場ではない。
 ひゅん、と風を切る音が聞こえた。の外壁に衝撃が走る。相手はすでに応射を始めている。これ以上は撃ち合っても意味がない。成果に不満を覚えつつも窓枠から引き下がろうとしたその時、倍率照準の内枠に信じられない光景が映った。
 ひゅん、と風を切る音が聞こえた。建物の外壁に衝撃が走る。相手はすでに応射を始めている。これ以上は撃ち合っても意味がない。成果に不満を覚えつつも窓枠から引き下がろうとしたその時、倍率照準の内枠に信じられない光景が映った。
 崩れた建物の壁、彼らが拠り所としていた遮蔽物の裏から一人の味方が飛び出してきたのだ。ひと目で判る巨体――あれはユン・ウヌだ。手にはほとんどの選手が装備品に選ばない模擬軍刀の丸まった刃が光っている。ゆうに一町半は離れたここまでも彼の雄叫びが聞こえた。一撃で敵を退場させられる方法はもう一つある。模擬軍刀による急所命中判定だ。
「あの馬鹿!」
 勇は肉体に刻んだ基本動作を放棄して窓枠にかじりついた。覗き直した照準の先では、盛んに軍刀を振り回すユンと敵が入り乱れている。これでは援護のしようがない。しかし、勇の耳に届いた叫びがわずかに遅れて意味のある言語として認知された。
@ -92,7 +92,7 @@ tags: ['novel']
 二人が姿勢を正すか正さないかのうちに、勇は今しがた自分がされたのと同じ要領で二人の頬に拳を振り抜いた。後ろに倒れ込む後輩たちに向けて一転、落ち着いた声で言う。
「貴様らは二年生がてら優秀な戦績を修めて分隊員に選ばれた。決勝では誉れ高く戦え。来年もあるなどと思うな」
「はっ、ご指導ありがとうございました!」
 二人揃って自分とそっくりの絶叫を張り上げた後輩を背に、勇は自分自身の頬の痛みに顔をめて湯浴みをしに向かった。
 二人揃って自分とそっくりの絶叫を張り上げた後輩を背に、勇は自分自身の頬の痛みに顔をしかめて湯浴みをしに向かった。
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@ -174,13 +174,13 @@ tags: ['novel']
「叔父さんのことを忘れたのか。あれで父さんは降格させられたんだぞ」
「あの人はちょっと本気になりすぎたんだ。僕程度のことは計算機好きなら大抵やっているよ。憲兵だってこんなのいちいち捕まえている暇ないだろ」
 父の弟は変わった経歴の持ち主だった。帝國大学にしかない計算機科学科を経なければ就職できない電子計算機技師に叩き上げで成り上がって、生まれも育ちも違う人々と肩を並べて熱心に働いていた。父は「やつは骨の髄まで英米思考だ」と事あるごとにこき下ろしていたが、口ぶりほどに嫌っていないことはよく伝わっていた。実際、物腰が軽妙で知識が豊富な叔父を嫌う者はいなかった。親戚の集まりでも常に話題の中心にいた。
 その叔父さんが、治安維持法違反で逮捕されたのが五年前だ。なんでも電子計算機を用いて扇動を企てていたという。それがどんな内容だったのかはもはや誰にも分からない。殺人で捕まった者にさえ面会や文通が許されるのに、政治犯には一切認められていないからだ。懲役三〇年の刑期は、まだ六分の五も残っている。
 その叔父さんが、治安維持法違反で逮捕されたのが一〇年前だ。なんでも英語で講習会を主催していたという。それがどんな内容だったのかはもはや誰にも分からない。殺人で捕まった者にさえ面会や文通が許されるのに、政治犯には一切認められていないからだ。懲役三〇年の刑期は、まだ三分の二も残っている。
 身内の罪を贖うべく父は、かつての同僚が上司になり、かつての部下が同僚になる屈辱にめげず二倍も三倍も働いて、町内會の集まりにも針のむしろを承知で顔を出した。それから年月が経ち、長男の勇が二年で公死園に初出場を決めたことが契機となって、とうとう禊が済んだらしい。勇は母が「今は昇進の話も出ているの」と嬉しそうに話すのを聞いていた。
「とんでもない弟だ」
 端的に感想を述べると功は得意げににやりと笑った。
「捕まりはしないよ。わざわざ日本橋の裏路地くんだりまで行って海外のVirtual Private Networkを契約したんだ。将来は帝大の計算機科学科に入って大日本帝國の技術力にいっそうの飛躍をもたらしたく存じます……っていう感じでうまくやっていくさ」
「とにかく英語を使うのは勘弁してくれ。英米思考と思われて得なことはない」
 英語規制は法律ではないが強力に存在している。codeは算譜と言うべきだし、internetは電網と言わなければならない。ただ、どのみち勇には意味が解らなかった。
 英語規制は法律ではないが実態としては強力に存在している。codeは算譜と言うべきだし、internetは電網と言わなければならない。ただ、どのみち勇には意味が解らなかった。
「ふん、でもみんなテレビだとかラヂオだとかは言うじゃないか」
「あれは昔からあるからいいんだ」
「internetだって本当は三年以上も前からある。じゃあそろそろ解禁だ」
@ -274,7 +274,7 @@ tags: ['novel']
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 翌日、朝早くから自転車を駆って大阪城近くに校舎を構える帝國実業高校へと登校した。低空を漂う無人航空機と勝手に競争した気になって意識的に並走を試みる。臣民の暮らしを守る安心と信頼の三菱重工製だ。
 校門の前には不機嫌そうな顔のユンがすでに立っていた。待ち合わせの約束など一度もした覚えはないが、いつからか校門前で肩を並べて登校するのが二人の習慣と化していた。自転車を降りて転がしながら近寄る。
 校門の前には不機嫌そうな顔のユンが立って待っていた。待ち合わせの約束など一度もした覚えはないが、いつからか校門前で肩を並べて登校するのが二人の習慣と化していた。自転車を降りて転がしながら近寄る。
「なんだそのツラは」
「うるせえな」
 ユンがずんずんと巨体を揺らして先に進んでしまったので、勇も後を追う。機嫌が頻繁に変わるのは彼の性分とはいえ、今日は特に悪い方に振れている気配がする。敷地の奥ではもう硬式小銃の低く鈍い銃声と怒号が聞こえてきている。
@ -287,7 +287,7 @@ tags: ['novel']
「ほう、おれみたいなやつが他にもいたとはな」
「お前でも初手では使わんだろう。だが、あいつらは軍刀一つで戦っている。戦略を見直さなきゃならんぞ」
「それで昨日の電文か」
 そういえばあの電文は試合を観ている前提の内容だったな、と勇は思い直した。そうこうしている間に二人は硬式戦争部が専有する野戦場にたどり着いた。真横の駐輪場に自転車を停める。戦場ではまだあどけなさの残る一年生たちが必死の形相で「洗礼」の第二段階に取り組んでいた。硬式弾を受けた状態での全力疾走。仮想体力が尽きないうちに身動きが取れなくなるようではとても使い物にならない。全身の痛みで足取りが緩む候補生に監督の喝が飛ぶ。
 そういえばあの電文は試合を観ている前提の内容だったな、と勇は思い直した。そうこうしている間に二人は硬式戦争部が専有する野戦場に着いた。真横の駐輪場に自転車を停める。戦場ではまだあどけなさの残る一年生たちが必死の形相で「洗礼」の第二段階に取り組んでいた。硬式弾を受けた状態での全力疾走。仮想体力が尽きないうちに身動きが取れなくなるようではとても使い物にならない。全身の痛みで足取りが緩む候補生に監督の喝が飛ぶ。
「硬式弾ごときでへばっていてどうする! いま、日本海の向こうでは栄えある帝國軍人が自らの漏れた腸を引きずりながらでも支那の反乱分子どもと戦っておられるのだぞ!」
 帝國実業の主力である二人の姿を認めると、候補生たちはひしゃげた顔のまま直立不動の体勢に直ってお辞儀をした。
「いいから続けていろ!」
@ -339,7 +339,7 @@ tags: ['novel']
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 鶴橋に向かう途中、無人偵察機の数は増える一方だった。さっきと異なり明確な指向性を持って飛んでいるわけではないと判っているのに、勇にはなぜか自分がつけ回されているような気がしてならなかった。大阪城を越えて目的地に近づくにつれ、高階層のマンションや建築物は鳴りを潜め、代わりに年季の入った風合いの木造住宅が目に留まる。そのぶん空の境界が低くなり、無人航空機のちかちか光るカメラがいっそう悪目立ちした。だが、蝉より小うるさくぶんぶんと飛び回るそれらは鶴橋駅の雑踏に辿り着いた途端に姿が見えなくなった。
 鶴橋に向かう途中、無人偵察機の数は増える一方だった。さっきと異なり明確な指向性を持って飛んでいるわけではないと判っているのに、勇にはなぜか自分がつけ回されているような気がしてならなかった。大阪城を越えて目的地に近づくにつれ、高階層のマンションや建築物は鳴りを潜め、代わりに年季の入った風合いの木造住宅が目に留まる。そのぶん空の境界が低くなり、無人航空機のちかちか光るカメラがいっそう悪目立ちした。だが、蝉より小うるさくぶんぶんと飛び回るそれらは鶴橋駅の雑踏に着いた途端に姿が見えなくなった。
 待ち合わせ場所によく使われる駅前の石像を横切って商店街に進む。雛壇を模した段差の下に、各々の民族衣装に身を包んだ複数の男女が笑顔で座り、一段高いところに和服を着た男が座っている。石像の側面には『八紘一宇の精神 〜みなさん仲良くしませう〜』と刻まれていた。
 ユンの家は商店街の中にある。引しめき合う店の隙間に生えたかのような二階建て木造住宅は、一階が露店と居間を兼ねている。店の前で投げ出すように自転車を置いた勇を、軒先で漬物を売っていたユンの祖母が見つけるといつもの調子で階段に向かって叫んだ。
「ウヌ、あんたのチョルチンが来たよ!」
@ -376,7 +376,7 @@ tags: ['novel']
「あの野郎がおれを嫌っているのは知っている。だが強いから出している。朝鮮人のおれをな。今は……まあそれでいい。おれには目標がある」
 監督が模擬軍刀でユンを徹底的に打ち据えたのは、果たして個人的な嫌悪心からくるものなのか、それとも純粋に鍛えたかったからなのか、勇には判らなかった。なにも言えず黙っているとユンは場の空気を入れ替えるように声を張った。
「まあ、とりあえずメシを食え。いま下でハルモニが作っているはずだ」
 ちょうど図らったかのように、彼の祖母が階下から二人を呼んだ。階段を危なげに下りて居間に行くと、畳の上のちゃぶ台にすでに夕飯が用意されていた。やたら大きいお櫃に入った大量の雑穀米と、鍋いっぱいのわかめの汁物、朝鮮漬け、臓物の和え物、煮物などが台の上を埋め尽くしている。日本人には不慣れな朝鮮人の家庭料理だが、家に来るたびに振る舞われるので勇にとってはすっかり馴染み深い味になっていた。なにしろ量が多く執拗におかわりを勧められるので、昼飯時に行くと育ち盛りの勇でさえ夕飯がいらなくなるほどだ。
 ちょうど図らったかのように、彼の祖母が階下から二人を呼んだ。階段を危なげに下りて居間に行くと、畳の上のちゃぶ台に夕飯が用意されていた。やたら大きいお櫃に入った大量の雑穀米と、鍋いっぱいのわかめの汁物、朝鮮漬け、臓物の和え物、煮物などが台の上を埋め尽くしている。日本人には不慣れな朝鮮人の家庭料理だが、家に来るたびに振る舞われるので勇にとってはすっかり馴染み深い味になっていた。なにしろ量が多く執拗におかわりを勧められるので、昼飯時に行くと育ち盛りの勇でさえ夕飯がいらなくなるほどだ。
 そんな光景を見てユンは「金はねえがとにかくメシはあるからデカくなれた」と、普段は家の文句ばかりなのにここぞと自慢するのだった。
 しかし今日の彼は様子がおかしかった。「もっと食え」と勇におかわりを勧める割には、自分の丼ぶりの中身は一向に減っていない。いつもはお櫃が空になるまで食べるのにまだ半分も残っている。隣で甲斐甲斐しく米をよそってくれるユンの祖母も気がついて「あんた、今日は全然食べないねえ」と訝しんだ。対する彼ときたら「うるせえな、食い飽きたんだよ」と買い言葉を口にして、とうとう一杯分の丼ぶりを辛うじて空にしただけで夕食を終えてしまった。
 古い瓦斯釜で沸かされた風呂から順番に勇が出てくると、まだ九時にもならないうちにユンは「おれは寝る」と言って灯りをつけたまま万年床の布団に仰向けに寝転がった。客人の立場で電気を消耗するのに気が咎めた勇は、父に様子を尋ねる電文を打ってから早々に灯りを消した。入浴の間にユンの祖母が隣に敷いてくれたのであろう布団に横たわると、窓から入り込む夜の商店街の光が部屋の至るところを赤、緑、青にちかちかと薄く照らすのが見えた。
@ -485,7 +485,7 @@ tags: ['novel']
「あんたに渡したってどうにもならないよ。でも、あれで足りてよかったわねえ。勇さんもこんなのを病院に連れていって大変だったでしょう」
 深い皺が刻まれた彼の祖母の顔がくしゃっと丸まって勇に笑顔を向けた。
「……ええ、自転車が折れるかと思いましたよ。頂いたお金が間に合ってよかったです。二度と往復したくありませんからね」
 二人は漬物樽が陳列している店先の前で一旦別れた。帝國実業の校舎を通り過ぎて帰路へとつく。昨日打った電文の返事は結局来なかったが、朝方は無人航空機の往来も少なく勇はさして恐怖を感じずに自宅まで辿り着くことができた。鍵を差して家の扉を開け「ただいま帰りました」と報告する。反応がない。家の中は静まりかえっている。疲れて寝ているのだろうか。
 二人は漬物樽が陳列している店先の前で一旦別れた。帝國実業の校舎を通り過ぎて帰路へとつく。昨日打った電文の返事は結局来なかったが、朝方は無人航空機の往来も少なく勇はさして恐怖を感じずに自宅まで帰ることができた。鍵を差して家の扉を開け「ただいま帰りました」と報告する。反応がない。家の中は静まりかえっている。疲れて寝ているのだろうか。
 いないものと思って居間を通り過ぎかけたので、そこに父が座っているのを見つけて勇は驚いた。その背中はいつもよりだいぶ丸く衰えて映った。
 改めて父の背中に呼びかけると、当の本人はのろのろと振り返った。目に隈ができていて表情に生気がない。普段ならとっくに出勤している時間なのに父は寝間着のままで、ちゃぶ台の上には日本酒と切子が並んでいた。
「おお……帰ったか」
@ -516,7 +516,7 @@ tags: ['novel']
 言い切ろうとして、一瞬、言葉を切った。父はまだ黙ったままだった。
「――だから十萬円を使った。今の俺に、他に欲しいものなんて一つもなかったから」
 勇は最後までなにも言えないでいた父を置いて家を出た。
 帝國実業の名を冠する銀色の刺繍を胸に彼は、自転車を駆って桜ノ宮駅へ行った。桜ノ宮駅から電車に乗って大阪駅で乗り換え、大阪梅田駅から公死園駅へと進路をとる。電車内の液晶画面に映る代わり映えしない電子公告が数巡すると、目的地にたどり着いた。確かな歩みで駅から戦場の施設に進んで、帝國実業高等学校の控室へと入る。そこでは分隊員と、ユンと、監督がすでに待っていた。彼が入るやいなや全員の視線が集中した。
 帝國実業の名を冠する銀色の刺繍を胸に彼は、自転車を駆って桜ノ宮駅へ行った。桜ノ宮駅から電車に乗って大阪駅で乗り換え、大阪梅田駅から公死園駅へと進路をとる。電車内の液晶画面に映る代わり映えしない電子公告が数巡すると、目的地に到着した。確かな歩みで駅から戦場の施設に進んで、帝國実業高等学校の控室へと入る。そこでは分隊員と、ユンと、監督が待っていた。彼が入るやいなや全員の視線が集中した。
 勇は軍靴の底を弾き鳴らし直立不動の敬礼姿勢をとって、叫んだ。
「帝國実業三年、主将、葛飾勇、ただいま帰りました!」
@ -549,7 +549,7 @@ tags: ['novel']
「正しさ――正義はそこにはないんですか」
 勇は口を滑らせた。これは口ごたえにあたるかもしれない。だが、英語で計算機の情報を調べていただけの弟を、こんなにまで晒し者にして、家族まで犠牲にする仕打ちが適正な処罰とは到底思えなかった。意外にも監督は怒鳴らず、ただ小馬鹿にしたふうに笑った。
「正義は人の数だけある。貴様の方が正しいと信じるなら証明してみせろ。今日がその最初の日だ」
 ユンが便所から帰ってくると監督はベンチから立ち上がって全員に大声を張った。一瞬の間に彼は元の邪悪な顔貌に戻っていた。
 ユンが便所から帰ってくると監督はベンチから立ち上がって全員に大声を張った。一瞬の間に彼は元の凶暴な顔貌に戻っていた。
「さあ、決勝だ。支那人どもを蹴散らしてこい」
「押忍!」
 待機所を出て、太陽の眩い光が差し込む入場口へ分隊は一列に並んで行進した。流れ込んでくる応援団の威勢のよいラッパの音色と同期して、一糸乱れぬ連携と調和を演出する。戦場に入ると目のくらむ光が融けて、配置の変わった市街地の建物が眼前に広がった。円形の観客席から盛大な拍手と、それに負けず劣らずの罵声が飛び交う。真後ろのユンが声を漏らした。
@ -578,7 +578,7 @@ tags: ['novel']
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 勇は小銃を精密射撃に構えて撃ち放った。何万回と繰り返してきた動作が公死園の決勝で滑らかに実践される。帝國実業ではたとえ「洗礼」をくぐり抜けても基本動作が身につくまで一発も弾を撃たせてもらえない。その基準は強豪の名に相応しく高い。一寸のズレや揺らぎも許さない絶え間ない反復が、軟式戦争で芽生えた自信を無慈悲に押し潰す。まるで鉄を折り曲げるよう――それでも撓まず折れずまっすぐに伸びる人間のみが、帝國実業の分隊員に選ばれる。
 勇は小銃を精密射撃に構えて撃ち放った。何万回と繰り返してきた動作が公死園の決勝で滑らかに実践される。帝國実業ではたとえ「洗礼」をくぐり抜けても基本動作が身につくまで一発も弾を撃たせてもらえない。その基準は強豪の名に相応しく高い。一寸のズレや揺らぎも許さない絶え間ない反復が、軟式戦争で芽生えた自信を無慈悲に押し潰す。まるで鉄を折り曲げるよう――それでも撓まず折れずまっすぐに伸びる人間のみが、帝國実業の分隊員に選ばれる。
 笛が鳴った瞬間に放たれた六発の鋭い銃弾は二人の敵に向かって狙い通り飛んだ。並大抵の相手なら、なすすべもなく全弾を胸部に食らって即刻退場を余儀なくされていただろう。だが、第一八高の手練たちは目を見張る機敏さで軽やかに弾をかわした。耳元の人工音声がなにも通知しないということは、一発も当たっていない事実を意味する。
 若干遅れて他の分隊員が銃撃を重ねるも、敵はもう左右に散って市街地の各方面へ紛れていった。迂回路から攻めて距離を縮める作戦と思われた。
 こちらも分散して広く陣を張るべきか……あるいは固まって迎撃すべきか……。
@ -588,14 +588,14 @@ tags: ['novel']
 各々、手近な味方を伴って狭い街の隙間に消えていった。上空から見た時、この戦場は将棋の盤面のように上下を二分しているだろう。今、互いに歩が前に出て角行の通り道ができた。ただし敵の歩はこちらが一つ進むたびに三つは進む。敵に遅れをとらぬよう前へ前へと出なければならない。
「田中、ここからは手信号だ。周りに用心しろ」
 横の田中は頷いて帝國実業独自の手信号で「了解」の合図を送った。
 市街地の戦場にいるとまるで家の近所で戦闘しているような錯覚を覚える。石垣に囲われた一戸建てが整然と並ぶ家々を模したこの通りは、実際の住宅街となんら大差がない。そのぶん、朽ちた区画と違って隠れやすく遮蔽物も多い。奇襲を行うにはうってつけの場所だが、同時に逃げやすい空間でもある
 市街地の戦場にいるとまるで家の近所で戦闘しているような錯覚を覚える。石塀に囲われた一戸建てが整然と並ぶ家々を模したこの通りは、実際の住宅地となんら大差がない。そのぶん、朽ちた区画と違って隠れやすく遮蔽物も多い。
 遠くから散発的に銃声が聞こえた。戦いが始まったようだ。
 横の田中に新たな手信号を送ろうとして顔を向けた際、反対側の石からかすかに足音が聞こえたのを勇は逃さなかった。手信号を中断して勇は小銃を構えながら振り返り、ほとんど相手を見ず反射的な挙動で石の上を射撃した。
 果たしてそれは功を奏し、ちょうど石に飛び乗った敵は胴体に四発の銃弾を食らって奥に倒れ込んだ。耳元で人工音声が通知する。
 田中に新たな手信号を送ろうとして顔を向けた際、反対側の石からかすかに足音が聞こえたのを勇は逃さなかった。手信号を中断して勇は小銃を構えながら振り返り、ほとんど相手を見ず反射的な挙動で石の上を射撃した。
 果たしてそれは功を奏し、ちょうど石に飛び乗った敵は胴体に四発の銃弾を食らって奥に倒れ込んだ。耳元で人工音声が通知する。
<選手八番、仮想体力喪失。退場>
 気を休める暇はなかった。隣から銃声が聞こえたので勇は向き直った。石から飛び出してきた敵は一人ではなかった。しかし、田中の反応は勇よりわずかに遅れたばかりに機を逸し、彼の放った銃弾はいずれも外れて敵に二度目の跳躍の余地を与えた。鋭角に飛びかかってきた敵は居合の要領で腰から軍刀を抜くと、すれ違いざまに田中の胴体を一閃した。あっ、と声をあげたのは人工音声がさらなる退場を通知した後だった。
 気を休める暇はなかった。隣から銃声が聞こえたので勇は向き直った。石から飛び出してきた敵は一人ではなかった。しかし、田中の反応は勇よりわずかに遅れたばかりに機を逸し、彼の放った銃弾はいずれも外れて敵に二度目の跳躍の余地を与えた。鋭角に飛びかかってきた敵は居合の要領で腰から軍刀を抜くと、すれ違いざまに田中の胴体を一閃した。あっ、と声をあげたのは人工音声がさらなる退場を通知した後だった。
<選手五番、仮想体力喪失。退場>
 呆然と立ちくす田中をよそに敵は軍刀を勇に振りかぶった。この刹那、勇は以前には見えなかった剣撃が辛うじて視認できることに気がついた。身体を横に傾けて訓練通りの最小限の動きで軌跡から遠ざかる。おそらくかわされるとは思っていなかったのだろう――二、三秒にも満たない攻防――勢い余って前傾に姿勢を崩した相手の頭部に銃床を叩きつけた。
 呆然と立ちくす田中をよそに敵は軍刀を勇に振りかぶった。この刹那、勇は以前には見えなかった剣撃が辛うじて視認できることに気がついた。身体を横に傾けて訓練通りの最小限の動きで軌跡から遠ざかる。おそらくかわされるとは思っていなかったのだろう――二、三秒にも満たない攻防――勢い余って前傾に姿勢を崩した相手の頭部に銃床を叩きつけた。
<選手十二番、仮想体力一割減少、残り九割>
 電子部品が内蔵されていない銃床による打撃は衝撃判定が緩い。だが、仮想体力がどうでも頭を殴られてはどのみち動けない。勇は昏倒した相手にすかさず硬式弾を当てて退場を確定させた。
 しばらくして退場を宣告された三名の敵味方は両手を頭の後ろに回して互い違いに戦場を離脱していった。
@ -603,201 +603,203 @@ tags: ['novel']
「田中がやられたが二人倒した」
 手短に伝える。小刻みに戦闘が起きる硬戦では双方向の通信は期待できない。運良く、今回はがさがさとした雑音と分隊員の息切れした声が返ってきた。
「入場場所を背に西側に逃げている! 至急応援求む!」
 西側、といえば勇たちが来た場所の方角だった。「葛飾だ。直ちに向かう」と返答して彼は近辺を石垣伝いに移動しはじめた。曲がり角を二つ折れて、二車線道路寄りに近づいたあたりで人の足音が聞こえた。位置取りを調整して迎撃の構えをとる。塀の脇に隠れて姿を現すのを待ったが、すぐにそれでは不足だと悟った。追う側が迎撃を警戒していないわけがない。
 近づいてくる足音に急き立てられつつも、勇は目の前の塀をよじ登った。そこから隣接した一戸建ての二階部分の縁に飛び移り、さらに屋根へと登る。緩く傾斜した屋根に腹ばいに寝て小銃を底面に立てかけた。所詮は模型ゆえ実際の二階建て住宅より小さく作られているとはいえ、それでも十数間先の道路を走る二人の姿を垣間見るには十分な高さが得られた。改めて通信機を起動する。
 西側、といえば勇たちが来た場所の方角だった。「葛飾だ。ただちに向かう」と返答して彼は近辺を石塀伝いに移動しはじめた。曲がり角を二つ折れて、二車線道路寄りに近づいたあたりで人の足音が聞こえた。位置取りを調整して迎撃の構えをとる。塀の脇に隠れて姿を現すのを待ったが、すぐにそれでは不足だと悟った。追う側が迎撃を警戒していないわけがない。
 近づいてくる足音に急き立てられつつも、勇は目の前の塀をよじ登った。そこから隣接した一戸建ての二階部分の縁に飛び移り、さらに屋根へと登る。緩く傾斜した屋根の上に腹ばいで寝て小銃を立てかけた。所詮は模型ゆえ実際の二階建て住宅より小さく作られているとはいえ、それでも十数間先の道路を走る二人の姿を垣間見るには十分な高さが得られた。改めて通信機を起動する。
「押山、その角を曲がれ」
 まもなく押山と呼ばれた分隊員は指示通りに角を曲がって勇の視点の直線上に現れた。数秒後、敵が軍刀を片手に追いすがってきた時にはすでに彼の引き金は絞られていた。
 まもなく押山と呼ばれた分隊員は指示通りに角を曲がって勇の視点の直線上に現れた。数秒後、敵が軍刀を片手に追いすがってきた時には彼の引き金は絞られていた。
 たった一発の硬式弾が敵の額に正確に命中した。予測射撃に加えて高所からの狙撃。反射的に頭を抑えてよろけた敵は、直後に退場を悟って軍刀を手放した。走っていた押山も振り返って敵を見て、それから屋根の上の勇を見上げて感謝の手信号を送る。
 勇は屋根から滑り降りて地面に着地した。ここまでの首尾は良好。勝利へのささやかな期待感に胸が膨らむ。
 失った田中に代わり押山を背後に回して、二人で敵方への前進を試みた。機動力に長ける敵移動を抑えつけられたら状況は俄然有利だ。いかに軍刀の手練でも射程が一町に伸びたりはしない。
 閑静な住宅街を抜けると朽ちた街並みが見えてきた。石垣は崩れ、家々は倒壊しており、高所はろくに見当たらない。全身を隠せる場所が少ないので奇襲には不向きの区画だが、同様に退避や狙撃もできないので一概にどちらが有利とは言い切れない。近接武器しか持たない相手に接近しなければならないのは、公死園が長時間の待ち伏せを禁じる規則を定めているためだ。裁量はかつては審判、現在は電子計算機の動的な計測に委ねられているため、時間を測って計画的に居座ることもできない。この判定に引っかかり「不健全試合」の烙印が押されると、即座に全選手が退場を宣告される。
 大日本帝國の軍人に膠着は許されない。その精神は公死園にも息づいている。
 崩れた瓦礫が密集して視野が狭まる区間を通り過ぎる時、押山が横について腰の軍刀を抜いた。先の軍刀戦術に感銘を受けた一人らしい。勇が手信号で懸念を表明すると彼は”問題なし”の返事をよこしてきた。再び視界が開けるまで勇はすり足気味の足取りで、小銃と肩口が癒着するかと思うほどに神経を張り巡らせていたが、意外にも敵は一人も現れなかった。二人は瓦礫の山を通り過ぎて、朽ちた街並みの終端にたどり着いた。すれ違っていなければ二車線道路の西側の、三分の二を探索したことになる。
 ここに敵がいないとすると東側の状況が気がかりだった。勇は数少ない上等な形をしている石垣に背をつけて、押山を隣へ誘導した。慎重に声を落として会話をはじめる。
 勇は屋根から滑り下りて道路に着地した。ここまでの首尾は良好。勝利へのささやかな期待感に胸が膨らむ。
 失った田中に代わり押山を背後に回して、二人で敵方への前進を試みた。機動力に長ける敵移動を抑えつけられたら状況は俄然有利だ。いかに軍刀の手練でも射程が一町に伸びたりはしない。
 閑静な住宅地を抜けると朽ちた街並みが見えてきた。石塀は崩れ、家々は倒壊しており、高所はろくに見当たらない。全身を隠せる場所が少なく奇襲には不向きの区画だが、同様に退避や狙撃も難しいので一概にどちらが有利とは言い切れない。近接武器しか持たない相手に接近しなければならないのは、公死園が長時間の待ち伏せを禁じる規則を定めているためだ。裁量はかつては審判、現在は電子計算機の動的な計測に委ねられている以上、時間を測って計画的に居座ることもできない。この判定に引っかかり「不健全試合」の烙印が押されると、即座に全選手が退場を宣告される。
 大日本帝國の軍人に停滞は許されない。その精神は公死園にも息づいている。
 崩れた瓦礫が密集して視野が狭まる区間を通り過ぎる時、押山が横について腰の軍刀を抜いた。先の軍刀戦術に感銘を受けた一人らしい。勇が手信号で懸念を表明すると彼は”問題なし”の返事をよこしてきた。再び視界が開けるまで勇はすり足気味の足取りで、小銃と肩口が癒着するかと思うほどに神経を張り巡らせていたが、意外にも敵は一人も現れなかった。二人は瓦礫の山を通り過ぎて、朽ちた区画の終端にたどり着いた。すれ違っていなければ二車線道路の西側の、三分の二を探索したことになる。
 ここに敵がいないとすると東側の状況が気がかりだった。勇は数少ない上等な形をしている石塀に背をつけて、押山を隣へ誘導した。慎重に声を落として会話を始める。
「お前、東側から来たな。直前の状況を把握しているか」
「ユン先輩が二人やるのを見ました。林が斬られた後です」
 勇は頷いた。これで敵は五人が退場した。試合はすでに中盤戦だ。
 勇は頷いた。これで敵は五人が退場した。試合はもう中盤戦だ。
「分かった。他には?」
「その時に俺も同伴の中島も敵に襲われて、一人はやりましたが主弾倉が尽きて退避を選びました」
「その時に自分も同伴の中島も敵に襲われて、互いに一人やりましたが主弾倉が尽きて退避を選びました」
「それでこっちまで来たんだな」
「はい。が見たのはそれで全部です」
 敵は五人ではなくもう六人が退場していた。残り四人。こちらは中島、田中、林を失って残り七人。ここから状況が動いていなければ状況は圧倒的に有利と言える。定石通りなら集合して制圧戦に移行する段階に近い。
「はい。自分が見たのはそれで全部です」
 敵は五人ではなく六人が退場していた。残り四人。こちらは中島、田中、林を失って残り七人。状況は圧倒的に有利と言える。集合して制圧戦に移行する段階に近い。
 勇は通信機を起動した。
「総員に告ぐ。敵の最大人数は残り四人と判明した。各自、移動して入場側の二車線道路に集合せよ。可能な者は点呼を」
「押山、了解」
 まず、横の押山が通信機越しに言った。他の分隊員の点呼も期待したが、数秒待っても一人も名乗りは上がらない。じわりと胸の奥に広がりだした恐怖を、寸前のところでユンの声が押し留めた。
 まず、横の押山が通信機越しに言った。他の分隊員の点呼も期待したが、数秒待っても一人も名乗りは上がらない。じわりと胸の奥に広がりだした不安を、寸前でユンの声が押し留めた。
「ユン、了解」
「生きていたか」
「当たり前だろ」
 他の分隊員の反応はしばらく待機してもなかった。仕方がなく二人は壁を抜け出て先に二車線道路沿いへ向かった。敵の数が限られているとなれば多少は速く移動できる。ややあって二車線道路沿いに顔を出すと、まだ通りは閑散としていた。遠距離戦の間合いをとれる者に安心感を与える視界の広さゆえか、押山が呑気に軽口を叩く。あるいは、気持ちをほぐそうとする意図もあったのかもしれない。
 遅れて続々と分隊員たちの点呼が並び、現時点で七人の生存が確定した。二人は区画を抜け出て目的地に急いだ。敵の数が限られているとなれば多少は速く移動できる。一〇分後、二車線道路沿いに顔を出すと、まだ通りは閑散としていた。遠距離戦の間合いをとれる者に安心感を与える視界の広さゆえか、押山が呑気に軽口を叩く。あるいは、気持ちをほぐそうとする意図もあったのかもしれない。
「そもそも二車線道路を前後に移動していれば楽に勝てたんじゃないすかね」
あいつらが十人まとめて襲いかかってきたら混戦になるぞ。条件に限らずまともに弾が当たる相手と思うな」
つらが十人まとめて襲いかかってきたら混戦になるぞ。条件に限らずまともに弾が当たる相手と思うな」
 事実、勇はどこかに底知れぬ怯えを感じていた。
 どうにも妙に試合運びが順調すぎる。こんな手堅く勝てる相手ではないはずだ。
「ぴょんぴょん跳んできやがりますからね、あいつら」
 唐突に、寒気がした。急速にその可能性に思い当たったからだ。
 やつらが距離を詰めるのに必ずしも地面を走る必要はない。
 はっ、と全身ごと向き直ると今まさに、高層建築物が立ち並ぶ区画を模した二車線道路沿いの屋根、実物の三階建て、いや四階建てはあろうかと思われる高所から敵が飛び下りてくるところだった。
 敵の一部は高所から高所に移動していたのだ。
「押山、撃てえ!」
 仰角を上にあげて敵を狙うも、公死園戦場を爛々を照らす直射日光が彼らの実像を黒く覆い隠す。あてどなく放たれた弾は物量を尽くせどついに一発の判定ももたらすことなく空を切り、軽業師の技で軽妙に着地を果たした敵は、すでに刀の間合いにまで近づいていた。
 はっ、と身体ごと振り返ると今まさに、二車線道路沿いの高層建築物、実物の三階建て、いや四階建て相当はあろうかと思われる高所から敵が飛び下りてくるところだった。
 敵は高所から高所に移動していたのだ。
「押山、下がれえ!」
 仰角を上げて相手を狙うも、公死園戦場を爛々を照らす直射日光が敵の実像を黒く覆い隠す。あてどなく放たれた弾は物量を尽くせどついに一発の判定ももたらすことなく空を切り、軽業師の技で軽妙に着地を果たした敵は、すでに一足一刀の間合いにまで近づいていた。
「くそっ!」
 捨て台詞の代償は大きい。その一息の間に敵は軍刀を振って勇に迫った。やむをえず小銃をに用いる愚策を辛くも割って入り防いだのは、押山の刀。金属と金属がぶつかり高音を奏でて弾。追撃は横薙ぎだったがこれも押山は未然に防いで鍔迫り合いの状態に持ち込んだ。軍刀装備を選んだのは伊達ではなかったらしい。
 敵の背丈は二人より頭一個分低かった。頑強な者が選ばれやすい硬戦の風潮に反して、第一八高は体術に長けた者を選んでいると見える。勇は横に回って小銃にて援護を試みたが、相手の方が速かった。
 ここで彼が見たものは二つ目の推測の誤りである。
 捨て台詞の代償は大きい。その一息の間に敵は軍刀を振って勇に迫った。やむをえず小銃を防御に用いる愚策を辛くも割って入り防いだのは、押山の刀。金属と金属がぶつかり高音を奏でて弾き合う。追撃は横薙ぎだったがこれも押山は未然に防いで鍔迫り合いの状態に持ち込んだ。軍刀装備を選んだのは伊達ではなかったらしい。
 敵の背丈は二人より頭一個分低かった。頑強な者が前に出る硬戦の定石に反して、第一八高は体術に長けた者を選んでいると見える。勇は横に回って小銃援護を試みたが、相手の方が速かった。
 ここで彼が見たものは二つ目の想定の誤りである。
 帝國実業主将の並外れた射撃速度を上回るすばやさで、敵は腰――というより臀部――の拳銃嚢から引き抜いた硬式拳銃を押山の下顎に当て、引き金を絞った。
 第一八高は意味もなく小銃装備を捨てたのではなかった。機動性を重視して拳銃と置き換えていたのだ。
 硬式弾の直撃を食らって昏倒しかけた押山を敵は体格に似合わぬ膂力で引き倒して、放たれた銃弾の盾に用いる。勇の硬式小銃はそこで弾切れを起こした。
 ここで初めて戦況は対等と相成った。小銃を捨てて腰の拳銃を抜く勇――押山の身体を放って拳銃を構える敵――二重に銃声が響く。
 硬式弾の直撃を食らって昏倒しかけた押山を敵は体格に似合わぬ膂力で引き倒して放たれた銃弾の盾に利用する。勇の硬式小銃はそこで弾切れを起こした。
 戦況は対等と相成った。小銃を捨てて腰の拳銃を抜く勇――押山の身体を離して拳銃を構える敵――銃声が二重に響く。
 勇が一発撃つ間に相手は二発の硬式弾を放った。
 初めて顔を合わせた名も知らぬ支那人は、瞳孔が開ききった獣の目をしていた。
<選手七番、仮想体力喪失、退場>
<選手一番、仮想体力半減、残り五割>
 間近でたれた硬式弾の痛みに勇は顔を歪めたが、笑みも含んでいた。
 間近でたれた硬式弾の痛みに勇は顔を歪めたが、笑みも含んでいた。
 頭部じゃない。
 対する敵は尻もちをついて地面に倒れ込んだ。鼻先に当たっては起き上がる気力もないだろう。
 敵は残り三人。勇も押山も小銃の主弾倉に残弾が残されていないのは明らかだった。代わりに太陽光を受けて鈍く光る模擬軍刀を拾いあげると、勇は通信の途絶えた味方を追うべく市街地の東側に潜っていった。
 対する敵は背中から地面に倒れ込んだ。鼻先にぶち当てられては起き上がる気力もないだろう。
 敵は残り三人。小銃の残弾はなし。勇は太陽の光を受けて鈍く光る模擬軍刀を拾い上げると、交信の途絶えた味方を追うべく市街地の東側に潜っていった。
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 爆撃を受けたかのような荒廃ぶりが目立つ東側の区画は、西側と比べて身を隠せる場所が極めて少ない。高所はより少なく、二車線道路沿いの建築物を除いて狙撃が有効な箇所はまったくない。その建築物も意図して配置されたのであろう瓦礫の山によって射線が通らず、結果としてこの一帯は近中距離戦を強いられる構造を成している。
 爆撃を受けたかのような荒廃ぶりが目立つ東側の区画は、西側と比べて身を隠せる場所がさらに少ない。高所は存在せず、二車線道路沿いの建築物を除いて狙撃が有効な箇所はまったくない。その建築物も意図して配置されたのであろう瓦礫の山によってほとんど射線が通らず、結果としてこの一帯は近中距離戦を強いられる構造を成している。
 勇は人数差有利などという発想をとうに捨てていた。条件が揃えば敵は形成を一気に逆転させられる。終盤戦に入りつつある今、それは着実に満たされつつある。
 主弾倉の弾切れだ。予備弾倉があっても交戦中の交換はまず期待できない。なければ拳銃や軍刀での戦いに持ち込まれ、立場がひっくり返る。第一八高の立ち回りは表向きの勇ましさとは裏腹に冷徹な計算に裏付けられている。
 そういう心積もりでいたから、勇は次第に高まる怒号や銃声の聞こえる方向へ急接近している最中も、最悪の事態を想定する準備をすることができた。
 瓦礫の山を制して円形状にくり抜かれた空き地に辿り着くと、そこでは大方の決着がついていた。
 地面に倒れた退場者は帝國実業の戦闘服を着ている。敵は一人。軍刀を片手くるくると振って新たな獲物の到来に薄く口角を広げている。
 味方の退場者との会話は規則違反ゆえ相手のやり口を知る余地はない。顔を合わせてから五秒、六秒目にして、勇は意を決して拳銃を腰から引き放った。
 曲芸的な身のこなしで相手は二発の速射を難なくかわす。これ以上、撃っても浪費にしかならないと引き金を緩めた途端に敵はいきおい距離を詰める
 手持ちの軍刀を振る。鍔迫り合いにはならず互いに薄い金属を弾き合って膠着を作らない。しかし激しい応酬の間でも、勇は一度見た敵の共通の仕草を決して忘れてはいなかった。旺盛に刀身を薙ぐ傍ら、相手の左手が臀部の隠された拳銃嚢に回るのをしかと捉えた。この戦いで勝敗を分けた要因は、実のところわずかな癖の差でしかなかったと考えられる。
 いかに剣術に長けた実力者でも空いた手で他のなにかを掴もうとする最中に膂力が弱まらない人間はいない。勇は敵が拳銃を掴むか掴まないかの瀬戸際に前に踏み出て無理やり鍔迫り合いに持ち込んだ。突然の定石外しに眼前の相手はしたたかに姿勢を後傾させて、本来ならば絶対にとりえない敗着の足取りへと自ら後退を余儀なくされた。
 滑らせた刀剣を強く弾くと、敵は防御を崩して胸元をがら空きにさせた。すかさずそこに切っ先を向けて渾身の突きを叩き込む。急所判定。人工音声が退場を報せる。敗北感と剣先に押し倒された相手は地面に尻をついた。
 予想が正しければ他の分隊員は二車線道路に出たところを高所から狙われた。うまく逃げおおせたか、それとも……。そんな勇の心配を察知してか、敵の口元が嘲笑に歪む
 主弾倉の弾切れだ。予備弾倉があっても交戦中の交換はまず期待できない。残弾がなければ拳銃や軍刀での戦いに持ち込まれ、立場がひっくり返る。第一八高の立ち回りは表向きの勇ましさとは裏腹に怜悧な計算に裏づけられている。
 そういう心積もりでいたから、勇は次第に高まる怒号や銃声の聞こえる方向へ接近している最中も臨戦体勢を維持することができた。
 瓦礫の山を制して円形状にくり抜かれた空き地にたどり着くと、そこでは大方の決着がついていた。
 地面に倒れた退場者は帝國実業の戦闘服を着ている。敵は一人。軍刀を片手くるくると振って新たな獲物の到来に薄く口角を広げている。
 味方の退場者との会話は規則違反ゆえ相手のやり口を知る余地はない。顔を合わせてから五秒、六秒目にして、勇は拳銃を腰から引き放った。闘争心を秘めた無言の戦闘が始まる
 曲芸的な身のこなしで二発の速射が難なくかわされる。これ以上は撃っても浪費にしかならないと引き金を緩めた途端、敵はいきおい距離を詰めてきた
 手持ちの軍刀を振る。鍔迫り合いにはならず互いに薄い金属を打ち合って膠着を作らない。しかし激しい応酬の間でも、勇は一度見た敵の共通の仕草を決して忘れてはいなかった。旺盛に刀身を薙ぐ傍ら、相手の左手が臀部の隠された拳銃嚢に回るのをしかと捉えた。この戦いで勝敗を分けた要因は、実のところ些細な癖の差でしかなかったと考えられる。
 いかに剣術に長けた実力者でも空いた手で他のなにかを掴もうとする最中に膂力が弱まらない人間はいない。勇は敵が拳銃を握るか握らないかの瀬戸際に前へ踏み出て無理やり鍔迫り合いに持ち込んだ。突然の定石外しに眼前の相手はしたたかに姿勢を後傾させて、本来ならば絶対にとりえない敗着の足取りへと自ら後退を余儀なくされた。
 滑らせた刀身を強く弾くと、敵は防御を崩して胸元をがら空きにさせた。そこに切っ先を向けて渾身の突きを見舞う。急所判定。人工音声が退場を知らせる。敗北感と剣先に押し倒された相手は地面に尻をついた。
 推測が正しければ他の分隊員は移動中に高所から狙われた。うまく逃げおおせたか、それとも……。そんな勇の心配を察知してか、敵の口元が嘲笑をかたどる
「主将と副主将どのが直々に逃げたやつらを追いかけている。じきに戻ってくるだろうよ……次に倒れるのは貴様の番だ」
「”死人”が口を開くな」
 不安を読まれた焦燥からか、勇は冷徹に相手を一喝した。立ち上がった敵は勇を睨みながらも、両手を頭の後ろに回す退場用の姿勢をとって場を後にしようとした。
 ところが、すぐそこから迫りくる激しい剣撃の金属音に応して勇も敵もしばし動きが止まった。音は次第に大きくなり、聞き馴染みのある怒声さえ聞こえる。じきに姿を現したのは第一八高の戦闘服の背中。それをとてつもない猛攻で押すのは他でもないユンだった。
 不安を読まれた焦燥を隠して勇は冷たく相手を制した。立ち上がった敵は勇を睨みながらも、両手を頭の後ろに回す退場用の姿勢をとって場を後にしようとした。
 ところが、すぐそこから迫りくる激しい剣撃の金属音に応して勇も敵もしばし動きが止まった。音は次第に大きくなり、聞き馴染みのある怒声さえ聞こえる。姿を現したのは第一八高の戦闘服の背中。それをとてつもない猛攻で押すのは他でもないユンだった。
「おらぁ! どうした! お得意の回避術はよ!」
 生来の怪力に物を言わせたとめどない攻撃に、敵方の副主将と思われる相手は明らかに余裕を失っていた。後退する一方の打ち合いは相手の実体力をみるみるうちに奪い去り、動きは衰え、勇が援護のために足を踏み出す頃には勝敗が決していた。ユンの得意とする大上段が防御の遅れた刀をすり抜け肩口に叩き込まれ、敵の副主将は尊厳の喪失からか、はたまた実際の苦痛からか膝を地面についた。後から、二年の椹木が駆けつけてくる。
 生来の怪力に物を言わせたとめどない攻撃に、敵方の副主将と思われる相手は明らかに余裕を失っていた。後退する一方の打ち合いは相手の実体力をみるみるうちに奪い去り、太刀筋は衰え、勇が援護のために足を踏み出す頃には勝敗が決していた。ユンの得意とする大上段が防御の遅れた刀をすり抜け肩口に叩き込まれ、敵の副主将は尊厳の喪失からか、はたまた実際の苦痛からか膝を地面についた。後から、二年の椹木が駆け寄ってくる。
「遅えぞ。もうやっちまったよ」
 ぎらついた目を周に振りまくユンはまだ気力十分の顔つきで次の獲物を探っていた。副主将の敗北に然として退場姿勢を解きかけていた先ほどの敵に猛獣の眼差しが向けられる。敵は短く悲鳴を上げて頭部に後ろ手を回した。そこで、ユンは初めて勇の姿に気づいたようだった。彼は不満げに舌打ちをした。
 ぎらついた目を周に振りまくユンはまだ気力十分の顔つきで次の獲物を探っていた。副主将の敗北に然として退場姿勢を解きかけていた先ほどの敵に猛獣の眼差しが向けられる。敵は短く悲鳴を上げて頭部に手を回した。そこで、ユンは初めて勇の姿に気づいたようだった。彼は不満げに舌打ちをした。
「ちっ、なんだお前がやってたのか」
 敵と副主将はともども、ユンの放つ威圧感に気圧されて後ずさりながら退場していった。まだ身体が痛むであろう味方も立ち上がって残された三人に応援の視線を送って場を後にする。
 敵と副主将はともども、ユンの放つ威圧感に気圧されて後ずさりながら退場していった。倒れていた分隊員も立ち上がり、残された三人に応援の視線を送って場を後にする。
「なんだ、あとは俺だけか」
 突然の声に三人が振り返ると、そこには臣民第一八高等学校硬式戦争部の主将――陳開一と名乗っていた――が堂々と立っていた。声を発するまで三人のうちの誰一人も気配にさえ気づけなかった。
 反射的に勇が拳銃を向けて撃とうとしたが、陳は片手を出して制止を呼びかけた。
 背後の声に三人が振り返ると、そこには第一八高硬戦部の主将――陳開一と名乗っていた――が平然と立っていた。声を発するまで、三人のうちの誰一人も気配にさえ気づけなかった。
 反射的に勇が拳銃を構えて撃とうとしたが、陳は片手を広げて制止を呼びかけた。
「無駄な真似はやめろ。弾は大切にとっておけ」
 勇は引き金を引く気になれなかった。その発言がはったりでもなんでもない本心だと理解したからだ。
「うちの連中はどうした。二人いたはずだが」
 ユンが訊ねると、陳は端的に答えた。
 勇は引き金を引くのを躊躇した。その発言がはったりでもなんでもない本心だと理解したからだ。
「うちの連中はどうした。他に二人いたはずだが」
 ユンが訊ねると、陳は飄々と答えた。
「せめて一発は撃たせてやるべきだったのかもな。三年だろうやつらは」
 二人はたじろいだ。強豪帝國実業の成熟した分隊員を二人も一方的に屠ったと言ってのける男に付け入る隙があるとは思われなかった。
 二人は固まった。強豪帝國実業の成熟した分隊員をまとめて圧倒したと言ってのける男につけ入る隙があるとは思われなかった。
「自分、いきます!」
 椹木が軍刀を両手に握って陳に迫った。対する第一八高主将は無表情のまま身動きもせず、椹木の二年にしては十分に熟達した太刀筋が自身を触れる寸前に、ごく限られた動きで難なくそれをかわした。入れ替わりに、ひゅんっ、と片手で鮮やかに振られたすばやい刀身が相手の喉元を捉える。正真正銘の急所を打たれた椹木は地面にもんどり打って倒れた。喉を抑えて小刻みに震える姿は退場よりも過酷な苦痛を味わっているように見えた。
 出し抜けに椹木が軍刀を両手で握って陳に迫った。対する第一八高主将は無表情のまま身じろぎもせず、椹木の二年にしては十分に熟達した太刀筋が自身に触れる寸前に、ごく限られた動きでそれをかわした。入れ替わりに、ひゅんっ、と片手で鮮やかに振られたすばやい刀身が喉元を捉える。正真正銘の急所を打たれた椹木は地面にもんどり打って倒れた。喉を抑えて小刻みに震える姿は退場よりも過酷な苦痛を味わっているように見えた。
「次は二人でかかってきても構わんぞ」
 軍刀をひと振りして気勢を整え、相変わらずの直立姿勢で二人を威圧する陳に勇もあえて挑発に乗る。
「そうしない理由はないからな」
 勇とユンは一瞬の目配せの後に左右に別れて陳に襲いかかった。
 斬り合ってすぐに、勇は陳が軍刀を二本持っているのではないかと目を疑った。あたかも千手観音のごとく――勇とユンの刀を片手の動きだけで捌いている。二人がかりで戦っている側がかえって力んでいるせいで、たちどころに疲労感が募っていく。その緩んだ軌跡の間隙を見抜けない陳ではなかった。
 打ち合ってすぐに、勇は陳が軍刀を二本持っているのではないかと目を疑った。あたかも千手観音のごとく――勇とユンの刀を片手の動きだけで捌いている。二人がかりで戦っている側がかえって力んでいるせいで、たちどころに疲労感が募っていく。その緩んだ軌跡の間隙を見抜けない陳ではなかった。
 横薙ぎの一閃。勝負はそれでついたと確信した陳だったが、勇は辛くもそれをかわした。ユンもまた、続けて振られた追撃をかわす。明らかな敗着を付け焼き刃の鍛錬が拭った。不利を悟って後ずさった二人へ、陳は皮肉っぽく感心を露わにした。
意外と骨があるな」
割に骨があるな」
 だが、次に陳の口から放たれた言葉は勇をうろたえさせた。
「今日ほど仮想体力制を恨めしく思ったことはない……貴様だよ、葛飾勇。貴様のようなやつを思う存分打ちのめせないからな」
「ご贔屓までできたのか」
 横のユンが息を荒らげながら囃し立てるも、陳はもう笑わない。
 横のユンが息を荒らげながら囃し立てたが、他の二人は笑わない。
「俺がどうしたというんだ」
「報道を観た。不穏分子を身内から出しておきながらおめおめとこの晴れ舞台に姿を現すなど許しがたい」
「なん――ッ!」
 抗弁する余裕は与えられなかった。自ら踏み込んだ陳の前進は地に足を付けながらにして空気を切り裂く鋭敏さを持ち合わせ、勇に向かって秒に三回の剣撃を浴びせた。すばやく、軽やかで、それでいて重い。
 勇が受けきれている間に背後からユンが襲撃を試みるも、風のようにさらりと横に身を逃してかわされる。正面に相対して軍刀を前に突き出した陳が、ひときわ大きい声を張る。
 勇が受けきれている間に背後からユンが襲撃を試みるも、風のようにさらりと横に身を逃してよけられる。再び正面に相対して軍刀を前に突き出した陳が、ひときわ大きい声を張る。
「貴様は一八だ。すでに成人している。なぜ弟の罪を贖って腹を切らない」
 陳の厳しい表情から、腹を切るというのがまさしく言葉通りの意味であることが察せられた。勇はめはおずおずと、徐々にはっきりと答えた。
 陳の厳しい表情から、腹を切るというのがまさしく言葉通りの意味であることが察せられた。勇ははじめはおずおずと、徐々にはっきりと答えた。
「俺は……分からない。なにが正しいのか間違っているのか。弟は本当に罪と呼べる罪を犯したのか」
「この期に及んで見苦しい言い逃れを重ねるか。死を以て償えないのならせめて敗北の汚辱に塗れるがいい」
 三度、陳の刀身が迫る。だが、それを斬り返したのは勇ではなくユンの力任せの横薙ぎだった。陳も衝撃にたじろいで正面からは受けずに流して後退する。ユンは息も絶え絶えに言った。
 三度、刀身が迫る。だが、それを斬り返したのは勇ではなくユンの力任せの横薙ぎだった。圧力にたじろいだ陳は正面からは受けずに流して後退する。ユンは息も絶え絶えに言った。
「ハァ……てめえ、さっきから聞いてりゃあ……他所の家の事情にいちいち口出すんじゃねえよ」
「他所の家の事情ではない。一人の不穏分子が一家を蝕み、やがて國體をも脅かすのだから」
 勇はの呼吸の調子が明らかに異常をきたしていることに気づいた。それを自分で知ってか知らずか、ユンは気の急いた様子で宣言した。
 勇はユンの呼吸の調子が明らかに異常をきたしていることに気づいた。それを自分で知ってか知らずか、は気の急いた様子で宣言した。
「てめえは毎度そんなことを考えて刀を振っているのかよ。いい加減に口を閉じろ。決着をつけようぜ」
 勇が体勢を整える前にユンは陳に突進した。盛り上がる背筋から繰り出される怒涛の猛攻は頭一つどころか二つも低い陳を確実に追い詰めているはずだった。だが、勇にはどうにもその太刀筋は鈍く、剣撃を交わすごとに遅滞しているようにしか見えなかった。
「下がれ、ユン・ウヌ!」
 駆け出して援護に向かう勇の目の前で、ユンは我も忘れて決死の攻撃に専念していたが、ついに最期の時は訪れた。気力が衰えつつも決して敗着とは言い難い刃の嵐をくぐり抜けて、陳の滑らかな突きがユンの脇腹をかすめた。急所でもなんでもない一撃の後に、ユンの身体が硬直する。彼は肩で息をしたまま、持ち上げた剣を下ろして腕を垂らした。力を失った手から剥がれ落ちた模擬軍刀が、からんと虚な音をたてて転がる。
 勇が協調の体勢を整える前にユンは突進した。盛り上がる背筋から繰り出される怒涛の猛攻は頭一つどころか二つも背の低い陳を確実に追い詰めているはずだった。だが、勇にはどうにもその太刀筋が鈍く、剣撃を交わすごとに遅滞しているようにしか見えなかった。
「退け、ユン・ウヌ!」
 援護に向かおうとする勇に構わずユンは我を忘れて決死の攻撃に専念していたが、ついに最期の時は訪れた。衰えつつも決して敗着とは言い難い刃の嵐をくぐり抜けて、陳の滑らかな切っ先がユンの脇腹を突いた。
 彼の身体が硬直する。肩で息をしたまま、持ち上げた刀を下ろして腕を垂らした。力を失った手から剥がれ落ちた模擬軍刀が、からんと虚な音をたてて転がる。
「くそっ、終わりか」
 許されるのなら本当は暴れ出したかったのだろう。試合の規則に束縛された帝國実業副主将はかすかに震えながら頭の後ろに両手を添えた。
 退場の間際、岩でできたかのようなごつごつの表情は「後は任せた」と無言で勇に告げていた。
 退場の間際、岩でできたかのようなごつごつの表情が「後は任せた」と勇に告げていた。
「無駄に時間を食ったな。ようやく一騎打ちだ」
 とうとう戦場には誰も味方がいなくなった。それは敵も同じ。たった二人の生き残りが敵を目前にしながら軍刀を構えて対峙する姿は、仮想体力制度導入以来の公死園ではかつてない狂態として映っているに違ない。
 とうとう戦場には誰も味方がいなくなった。それは敵も同じ。たった二人の生き残りが敵を目前に軍刀を携えて対峙する姿は、仮想体力制度導入以来の公死園ではかつてない狂態として映っているに違ない。
 勇は言った。
貴様は尻の拳銃を使わないのか」
お前は尻の拳銃を使わないのか」
 一瞬、虚を突かれた陳の顔に不敵な笑みが浮かぶ。
「知っていたか」
貴様と同じように俺も幾多の敵を倒してきた」
「俺も幾多の敵を倒してきた」
「そうか。ならば――」
 軍刀を片手に両者は拳銃を引き抜いた。
 軍刀を片手に両者は拳銃を構えた。
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 二人は互いに緩慢な並走を伴って拳銃を撃ち放った。ダンッ、ダンッ、と重苦しい硬式拳銃の銃声の直後に弾頭がそれぞれの耳先をかすめる。共に一撃必殺のみを狙った射撃は張り詰めた反射神経の加速によってごくわずかに逸れ続け、八発の応酬を経ても髪の毛より内側に弾が当たることはなかった。ほぼ同時に、二人の拳銃の遊底が引き下がる。弾切れだ。拳銃を投げ捨てて軍刀で先手を打ったのは陳だった。
 勇の刃がそれを受け止める。ぎりぎりと金属がひしめき合い、ここに初めての鍔迫り合いが実現する。擦り切れた臣民第一八高等学校の刺繍に、ずいぶん着古した丈余りの戦闘服が視界に映った。当初の態度からは想像もつかない歯をむき出しにした陳の顔が間近に見える。
 勇の刃がそれを受け止める。ぎりぎりと金属がひしめき合い、ここに初めての鍔迫り合いが実現する。擦り切れた臣民第一八高等学校の刺繍と、着古した丈余りの戦闘服が視界に映った。当初の振る舞いからは想像もつかない歯をむき出しにした陳の顔が間近に見える。
 その目はやはり、瞳孔が開ききった獰猛なぎらつきを帯びていた。
 こいつら、まさか全員――
 勇は力任せに押しのけて膠着を解いた。三尺の間合いで距離が開く。
 勇は刀身を押しのけて膠着を解いた。三尺の間合いで距離が開く。態度に勘づいた陳が言う
「あいつは”はじめて”だったようだな。副作用に慣れていない」
「そういう貴様らは常習者か。将来が惜しくないのか」
 陳の顔に一筋の汗が垂れた。かすかに呼吸が荒くなっているのが間合いを取っていても判る。
「そういうお前らは常習者か。将来が惜しくないのか」
 陳の顔に一筋の汗が垂れた。呼吸が荒くなっているのが間合いをとっていても判る。
「俺たちに将来などない。ここで勝たなければどうせ先は見えている」
 いつぞやの、ユンの言葉が脳裏に蘇った。勇は軍刀を強く握り直して構えた。
 いつぞやの、ユンの言葉が脳裏に蘇った。勇は軍刀を強く握って構え直した。
「それは俺とて同じだ。勝つことで正しさを証明する」
「抜かせ! 腹も切れぬ不穏分子の兄に正しさがあるものか!」
 振られた軍刀を勇は受けずに身体を反ってかわした。がら空きの脇腹をめがけて反撃を見舞う。が、さしもの軍刀集団の主将はそう簡単には斬らせてくれない。寸前のところでかわされる。
 振られた軍刀を勇は受けずに身体を反ってかわした。がら空きの脇腹をめがけて反撃を見舞う。が、さしもの軍刀集団の主将はそう簡単には斬らせてくれない。寸前のところで刃から遠ざかる。
「ハァッ……なるほど、そこそこ使うようだな……」
 さらに一筋の汗を垂らす陳の姿を見て、勇は次の剣撃もかわせると確信を得た。事実、間を置かずに振りかぶられた刃の軌跡が克明に見えた。二撃目は余裕をもって斬り返す。衝撃判定は得られずとも刀身が戦闘服の布地をかすめた。いよいよ陳に狼狽の色が灯った。
 さらに一筋の汗を垂らす陳の様相を見て、勇は次の剣撃もかわせると確信を得た。事実、間を置かずに振りかぶられた刃の軌跡が克明に目に映った。二撃目は余力をもって斬り返す。衝撃判定は得られずとも刀身が戦闘服の布地をかすめた。いよいよ陳に狼狽の気配が宿った。
 自分が速くなっているのではない。勇は悟った。
 相手が遅くなってきている。もし陳が万全なら三回受ける前に急所を貫かれていただろう。
 怒声とともに繰り返される激しい打ち合いも勝てるとまでは言わずとも負ける気配を感じさせない。ひたすら受け続けて、刻一刻と近づく陳の実体力切れを待つことに勇は苛立ちを覚えつつあった。かといって、敵を一閃して試合を鮮やかに終わらせられるような剣術は持ち合わせていない。
 勇の手が半ば学習的に陳の揺らぎを捉えた。後退の遅れた太ももに下段の切っ先が命中した。再び、両者は反発する磁石のように弾き合って離れる。
 雄叫びを伴い繰り返される打ち合いも、勝てるとまでは言わずとも負ける気配を感じさせない。ひたすら受け続けて、刻一刻と近づく陳の実体力切れを待つことに勇は苛立ちを覚えつつあった。かといって、敵を一閃して鮮やかに試合を終わらせられる技量は持ち合わせていない。
 勇の手が半ば学習的に陳の揺らぎを捉えた。後退の遅れた大腿部に下段の切っ先が命中した。再び、両者は反発する磁石のように弾き合って離れる。
<選手二番、仮想体力二割減少、残り八割>
「もし、貴様が正しいと言うのなら――」
 今や顔中に汗の粒をまとった陳が、息を切らせながら言う。
「なぜ、俺の弟と父は死ななければならなかったんだ」
 要領を得ない突然の問に勇は戸惑う。
 要領を得ない突然の問いかけに勇は戸惑う。
「なんの話だ」
「俺の弟は盗みで憲兵に斬り殺された。父はその咎を受けて自ら腹を切って死んだ!」
 身体ごと押しつける強引な膠着にぎりぎりと互いの刀身が震える。詰まった間合いでなおも陳が吠える。
 身体ごと押しつける強引な膠着にぎりぎりと両者の刀身が震える。詰まった間合いでなおも陳が吠える。
「俺だって立派に切腹して死にたかったが、母に止められた。”お前はまだ幼い”と……後悔しなかった日はない。なのに、とうに成人の貴様が!」
 そうか。
 それで、公死を果たしたかったのか。
 疲弊した身ではありえない鋭さで剣が弾かれる。うろたえた勇の胴が空き、身をよじる暇もなく丸い刃が脇腹を打った。その結果を冷徹に人工音声が伝える。
<選手一番、仮想体力三割減少、残り二割>
 当然、相手にも同じ内容が伝わっている。陳は衰えた力を絞るようにして笑った。
 疲弊した身ではありえない鋭さで刀が弾かれる。抜かった勇の胴が開き、身をよじる暇もなく丸い刃が腰を打った。その結果を冷徹に人工音声が伝える。
<選手一番、仮想体力四割減少、残り一割>
 当然、相手にも同じ内容が伝わっている。陳は萎えた力を無理に絞るようにして笑った。
「どうだ。どこを打ってもあと一撃で貴様は終わりだ」
 大して痛みのないはずの脇腹を抑えて、勇は言う。
 大して痛みのないはずのを抑えて、勇は言う。
「同情はせんぞ。俺には俺の理合があり、勝って守るべき尊厳と家族がいる。だが……」
 同情はしない、と口に出して言ったことでかえって本音が漏れている理屈など、今の勇には理解する余裕がなかった。理解しているのは、次の打ち合いが互いに最後だという確信。運任せの決着は両者ともに望んでいない。
貴様とはいつか万全な時に相まみえたいものだ」
 陳は鼻を鳴らしてえた。
世迷い言を。おとなしく沈んで一族と命運を共にしろ」
 同情はしない、と口に出して言ったことでかえって本音が漏れている理屈など、今の勇には考察する余裕がなかった。理解しているのは、次の打ち合いが互いに最後だという確信。運任せの決着は望んでいない。
お前とはいつか万全な時に相まみえたいものだ」
 陳は鼻を鳴らしてえた。
痴れ言を。おとなしく沈んで一族と命運を共にしろ」
「俺は雲よりも高く飛翔するつもりだ」
 最後は勇から仕掛けた。幾度も斬り結んで得た相手の挙動を彼は掴みつつあった。むろん、太刀筋の理解には及ばない。長きに渡り剣術に身を費やした手練ににわか仕込みの刀が通用する道理はない。ただ、どう押すとどう引いて、どう引くとどう押されるのかはった。
 押した後に押し返される、その間際に勇は身体を傾がせた。そこへつけんで陳が旺盛に斬りかかる。二度、三度、四度、斬り合い、勇が横に刀を薙ぐと相手の位置がずれる。またぞろ押し合い、前進、後退。そうして、勇は狙った場所に辿り着いた途端、陳の猛攻によって気力を使い果たして、身体を地面に押し倒された。
 最後は勇から仕掛けた。幾重にも斬り結んだ相手の挙動を彼は掴みつつあった。むろん、太刀筋の掌握には及ばない。長きに渡り剣術に身を費やした手練ににわか仕込みの刀が通用する道理はない。ただ、どう押すとどう引いて、どう引くとどう押されるのかは分かった。
 押した後に押し返される、その間際に勇は身体を傾がせた。そこへつけんで陳が旺盛に斬りかかる。二度、三度、四度、斬り合い、勇が刀を薙ぐと相手の位置がずれる。またぞろ押し合い、前進、後退。そうして勇は狙った場所にたどり着き、身体を地面に押し倒された。
 機を得た陳が仰向けに倒れた勇にのしかかる。首元まで迫る二振りの軍刀が鈍く光って金属音を嘶かせた。
「勝負あったな」
 全身で息をしながら気の早い勝利宣言を決め込む相手に勇は言ってやる。
 荒い呼吸で気の早い勝利宣言を決め込む相手に勇は言ってやる。
「ああ、今回は俺の勝ちだ」
 伸ばした右手が握ったのは、敵か味方か、どちらが落としたのかも判らない硬式拳銃。ただ一つ明らかなことは、遊底が引き下がっていない自動拳銃には最低一発以上の弾丸が込められているという事実だった。
 拳銃の獲得に力を割いた代償に、めりめりと首元の表皮にめりこんでいく自らの模擬軍刀を御し、勇は陳の側頭部に向かって銃弾を放った。よけようがない密着状態での射撃によって眼前の敵は弾き飛ばされたかのように横に倒れた。
 拳銃の獲得に力を割いた代償に、めりめりと首元の表皮にめりこんでいく自らの模擬軍刀を御し、勇は陳の側頭部に向かって銃弾を放った。よけようがない密着状態での銃撃によって眼前の敵は真横に弾き飛ばされた。
<選手二番、仮想体力喪失、退場>
 副作用による過度の疲弊も相まってか、気絶した陳を勇は見て、それから日光に照らされる硬式拳銃を見た。遊底が引き下がっている。最後の一発だった。
 もし「判定」などない本当の戦闘だったなら、勇もまた自らの刃によって喉がえぐられて絶命していただろう。仮想体力制度が衝突を基準に採用しているおかげで、彼の仮想的な生命は徐々に押し当てられる刃に虚無の判定を返したのである。
 副作用による過度の疲弊も相まってか気絶した陳を勇は見て、それから陽の光に照らされた硬式拳銃を仰ぎ見た。遊底が引き下がっている。最後の一発だった。
 もし「判定」などない本当の戦闘だったなら、勇もまた自らの刃によって喉がえぐられて絶命していただろう。仮想体力制度が衝突を基準に採用しているおかげで、彼の架空の生命は徐々に押し当てられる刃に虚無の判定を返したのである。
 試合終了の笛が鳴り響く。
 同時に、消音されていた戦場内のスピーカーから司会の声が流れてきた。決着の刻を見守っていた観客もざわざわとに声をあげる。だが、それは歓声でも罵声でもなく、しとしととしたすすり泣きの連なりをなしていた。
「……みなさん、しかとご覧になられたでしょうか。選手自らの口によって語られる勝利への渇望、夢、一族の咎を背負って戦う勇姿――不穏分子の弟を持った長兄同士が、刀と刀で己の正義を証明せんとする気迫――そのどれもが、かつてない感動を我々にもたらしたと言って過言ではないでしょう……。しかし今、命運は決定づけられました! 巧みな戦術で相手を破り、最高の栄誉を手にしたのは――葛飾勇選手であります! 大和民族の誇り高き血統が、それでもまだ外地人に勝ることを見事に知らしめてくれました!」
 わああああああ、と円形の観客席全体が歓声と感涙の入り混じる大音声を鳴らした。今をもって人間、葛飾勇を不穏分子の兄と誹る者は一人もいそうには思われなかった。誰もが彼の戦いぶりに魅入られ、酔い、あらんかぎりの褒賞、大和民族の代表の地位さえ与えかねない勢いをまとっていた。
「昭和九八年度全国高等学校硬式戦争選手権大會の優勝校は、大阪、帝國実業高等学校です!」
 さながら台風の目――司会も観客も、おそらくは隣近所の後援会も、ひょっとすると帝國全土の人々が壮大な感動物語に酔いしれている最中、その中心にただ一人いる勇の気持ちは、どこまでも冷たく醒めきっていた。
 同時に、消音されていた戦場内の音響装置から司会の声が流れてきた。決着の刻を見守っていた観客も声をあげる。だが、それは歓声でも罵声でもなく、しとしととしたすすり泣きの連なりをなしていた。
「……みなさん、しかとご覧になられたでしょうか。選手自らによって語られる勝利への渇望、夢、一族の咎を背負って戦う勇姿――不穏分子の弟を持った長兄同士が、刀と刀で己の正義を証明せんとする気迫――そのどれもが、かつてない感動を我々にもたらしたと言って過言ではないでしょう……。しかし今、命運は決定づけられました! 巧みな戦術で相手を破り、最高の栄誉を手にしたのは――葛飾勇選手であります! 大和民族の誇り高き血統が、外地人に勝ることを見事に知らしめてくれました!」
 わああああああ、と円形の観客席全体が歓声と感涙の入り混じる大音声を轟かせた。今をもって人間、葛飾勇を不穏分子の兄と誹る者は一人もいそうには思われなかった。誰もが彼の戦いぶりに魅入られ、酔い、あらんかぎりの名誉、大和民族の代表の地位さえ与えかねない勢いをまとっていた。
「昭和九八年度全国高等学校硬式戦争選手権大會の優勝校は、大阪、帝國実業高等学校です!」
 さながら台風の目――司会も観客も、おそらくは隣近所の後援会も、ひょっとすると帝國全土の人々が壮大な英雄物語に酔いしれている渦中、その中心にただ一人いた勇の気持ちは、どこまでも冷たく醒めきっていた。
 なんだ、これは。
 この戦いは、勝利は、初めから俺のものじゃなかった。
 喰まれている、と勇は思った。自分自身の人生、弟、家族、してきたこと、されてきたことが一つの演目を形成して、この瞬間、あらゆる人々に消費されている。そこでは勇自身ですら、舞台の上で滑稽に踊る役者でしかない。
 その後、入場口の手前で開かれた授与式では、あれほど欲してやまなかった愛国杯が毒々しく輝く忌まわしい足枷にしか見えなくなっていた。
 受け取ったが最後、自分自身を物語の一部に永久に位置づける呪いだ。
 喰まれている、と勇は思った。の人生、弟、家族、してきたこと、されてきたことが一つの演目を形成して、この瞬間、あらゆる人々に消費されている。そこでは勇自身ですら、舞台の上で滑稽に踊る役者でしかない。
 その後、入場口で開かれた授与式では、あれほど欲してやまなかった愛国杯が毒々しくぬめる忌まわしい足枷にしか見えなくなっていた。
 受け取ったが最後、を物語の一部に永久に位置づける呪いだ。
「groteskだ」
 ぽつり、と勇はつぶやいた。依然として意味は理解していなかったが、現状を現すのにこれ以上相応しい言葉はないと彼は直感した。
「お前、横文字なんて使えたのか」
@ -809,26 +811,26 @@ tags: ['novel']
「踏み台だと?」
 驚いて横を向くと、ユンの衰えてもなお滾った顔が見えた。
「昔、死んだお袋がおれによく絵本を読ませた。なんとかして学を身に着けさせようとしたんだろうな……そいつは無駄骨だったわけだが、その中に、手に入れた翼で太陽に近づきすぎて死んだやつの話がある」
 荒く息を弾ませながら彼は話し続ける。
 息を弾ませながら彼は話し続ける。
「おれはずっと考えていたんだ。この国とそっくりじゃねえか……と。おとなしく地に伏しているうちは暖かさを感じる時もあるが、近づくと焼き払おうとする」
 観客席の至るところで大小の日の丸が振られ、辺り一面に白と赤の乱雑な模様が波打っている。愛国杯が近づいてくる。
 観客席の至るところで大小の日の丸が振られ、辺り一面に赤と白の模様が乱雑に波打っている。愛国杯が迫ってくる。
「だが所詮、国は人でできてるもんだ。壊せないということはない。おれが燃やされるか、燃え尽きる前におれが太陽を握り潰すかだ。そのためには、いっとう高く翔べる踏み台が必要だったんだ」
 々と語るユンを見て、こいつはまだヒロポンに酔っているんじゃないか、と勇は思った。けれども今の勇にはユンがうわ言を言っているようには感じなかった。帝國臣民に啄まれた自身の物語の中で、それはひときわ魅力を帯びて聞こえた。
「おれは、おれを侮辱した連中を絶対に許さない。たとえ何年かかっても……」
 ユンが目を合わせた。瞳孔の開ききった眼球が、恒星をも飲み込むとされる宇宙の黒く虚ろな天体を思わせた。その瞬間、勇はあの夜に彼が並べていた人名の一覧表が、どのような意味を持っているのか悟った。
 々と語るユンを見て、こいつはまだヒロポンに酔っているんじゃないか、と勇は思った。けれども、ただのうわ言を言っているようには感じなかった。帝國臣民に喰まれた自身の物語の中で、それは蠱惑的な魅力を帯びて聞こえた。
「おれは、おれを侮辱したやつらを絶対に許さない。たとえ何年かかっても……」
 ユンが目を合わせた。瞳孔の開ききった眼球が、恒星をも飲み込むとされる宇宙の黒く虚ろな天体を思わせた。勇はあの夜に耳にした人名の一覧表が、どんな意味を持っているのか悟った。
「なるほどな」
 勇もユンの言葉を繰り返した。
「それが、お前の目標だったのか」
「これでおれたちはめでたく幹部候補生待遇で徴兵だ。おれは軍人になる。一声で千人も一万人も動かせる帝國軍人にな」
 愛国杯が迫ってきた。観客の注目が愛国杯から横一列に並ぶ帝國実業の選手たちへ向けられる。勇の目には、愛国杯の虚像が高速で入れ替わって見えた。自身の家族の尊厳を回復させる希望か、演目上の自身の役割を定める忌まわしき足枷か、それとも、踏み台か。踏み台で翔んだ先には太陽の熱と光が待っている。
 手にする愛国杯は変わらないが、どの態度で受け入れるべきか勇は吟味した。その瞬間に、自分の将来が決定すると思った。
 いかにも肩書は立派そうな年老いた男性が公死園の運営員から恭しく愛国杯を受け取り、十数歩に満たない道のりをちまちまと歩いて勇の方へと進む。一歩歩むごとに大きな愛国杯の輝きが太陽光を乱反射して、目に光が入るたびに三つの解釈が錯する。
 愛国杯がやってきた。観客の注目が横一列に並ぶ帝國実業の選手たちへ向けられる。勇の目には、愛国杯の虚像が高速で入れ替わって見えた。家族の尊厳を回復させる希望か、演目上の役割を定める足枷か、それとも、踏み台か。踏み台で翔んだ先には太陽の熱と光が待っている。
 手にする愛国杯に変わりはないが、どの態度で受け取るべきか勇は吟味した。それで人生が決まると思った。
 いかにも肩書は立派そうな年老いた男性が公死園の運営員から愛国杯を預かり、十歩に満たない道のりをちまちまと歩いて勇の方へと進む。歩むごとに大きな愛国杯の輝きが太陽光を乱反射して、目に光が入るたびに三つの解釈が錯する。
「なあ、ユン」
 どうせ高く翔ぶのなら……。
 勇は主将として、愛国杯を受け取るに相応しい直立の姿勢を保ち、目は年老いた男性に合わせたまま、横のユンに言った。
 勇は主将として愛国杯を受け取るのに適した直立不動の姿勢を保ち、顔は近づく年老いた男性に合わせたまま、横のユンに言った。
「俺にも踏み台が見える」
 ついに目前に老人が辿り着いた。観客という観客、臣民という臣民が勇を観ている。差し出された愛国杯を、勇はむせび泣きそうな顔をして慇懃に受け取った。もう戦いは始まっている。近くでも遠くでもカメラのシャッターが切られる音がぱちぱちと鳴って、自分自身が光に包まれたように感じた。
 昭和九八年八月、帝國臣民に比類なき感動をもたらした歴史的な夏の公死園決勝戦の裏で、ひそかに革命の火が灯された。老いさらえた帝國の乾いた皮膚に塗られた一縷の脂。そこに灯された火は、ゆっくりと、しかし着実に炎として広がり、やがてその臓腑と骨をもことごとく燃やし尽くすであろう。
 ついに目の前に老人が立った。観客という観客、臣民という臣民が勇を観ている。差し出された愛国杯を、勇はむせび泣きそうして慇懃に受け取った。もう戦いは始まっている。近くでも遠くでもカメラのシャッターが切られる音が派手に鳴って、自分自身が光に包まれたように感じた。
 昭和九八年八月、帝國臣民に比類なき感動をもたらした歴史的な夏の公死園の裏で、ひそかに革命の火が灯された。老いさらえた帝國の乾いた皮膚に塗られた一縷の脂。そこに灯された火は、ゆっくりと、しかし着実に炎として広がり、やがてその臓腑と骨をもことごとく燃やし尽くすであろう。