推敲:12話の途中
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Rikuoh Tsujitani 2024-03-22 15:09:45 +09:00
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@ -193,7 +193,7 @@ tags: ['novel']
「やだ、私がもらったんだもの」
「なによ、ケチ」
 歩幅を揃えて部屋に戻った私は、ドアを開けて前に三歩、左に二歩動いて壁にかかっていたポシェットを手に取る。この中に私のお財布と身分証明証が入っている。すぐ下の杖も忘れずに持っていかなくちゃならない。街は障害物でいっぱいだから。
 右に二歩、後ろに三歩後ずさって扉を閉めた。せっかく部屋の間取りを覚えたのに、たぶんここには戻ってこられないだろう。この家も、前の家も、その前の家も、元は別の人の持ち主がいたらしい。その人たちは今どこに住んでいるのかしら。
 右に二歩、後ろに三歩後ずさって扉を閉めた。ぶつかって壁を破壊しないようにせっかく部屋の間取りを覚えたのに、たぶんここには戻ってこられないだろう。この家も、前の家も、その前の家も、元は別の人の持ち主がいたらしい。その人たちは今どこに住んでいるのかしら。
 大荷物を抱えてリザちゃんと家から出た後、なんとなく私はそれのある方向に一礼した。
 まだお日さまの熱を感じる時間なのに、外はずいぶん肌寒かった。相変わらず厚手の手袋も外套も手放せない。せっかくのドレスが台無しだ。でも、杖の先っぽで石畳をこつこつと叩きながら道を歩いているうちに、だんだんと身体が暖まってきた。
 杖の先端で固い地面を叩くと甲高い音が鳴って、衝撃が指先に伝わる。すると、私の真っ暗な視界の中に白線の波がざざあ、と描かれていく。反響の具合であと何歩歩くと壁があるのか、どの辺りに他の人が立っているのかだいたい分かる。
@ -588,11 +588,12 @@ tags: ['novel']
 ソ連兵の思惑を悟った刹那、とてつもない爆発が起こった。とっさに大口径の魔法をぶつけて相殺を試みる――が、襲いかかる衝撃は左右に散って辺りにことごとく破滅をもたらした。爆風の隙間を縫って耳に届いた悲鳴は、殺人の波に包まれてたちまち消し飛んだ。
 季節外れの吹雪の夜に再び静けさが訪れた時、彼の姿はどこにもなかった。
「ごほっ、自爆――したのか?」
 しばらくすると後ろから生き残りの兵士たちが雪を押しのけて起き上がった。ウルリヒ伍長が、もう存在しない部下に向かって声を震わせる。
 しばらくすると後ろから生き残りの兵士たちがよろよろと起き上がった。ウルリヒ伍長が、もう存在しない部下に向かって声を震わせる。
「おい、どうした――どこへいったんだ、お前ら」
「爆風に巻き込まれて死んだのよ。今ここにいるのは――たまたま魔法に当たらなかった人だけ」
「そんな無体な、ついさっきまで――死体さえも――」
 がさっ、と雪の上に膝をつく音がした。声や身じろぎの数から、およそ半数の兵力が瞬く間に失われてしまったのだろう。強力な魔法の威力は灼熱の業火をも上回る。物や人を破壊した痕跡さえも残さない。すべては虚空の彼方へと消えゆく。
 土の上に膝をつく音がした。声や身じろぎの数から、およそ半数の兵力が瞬く間に失われてしまったのだろう。強力な魔法の威力は灼熱の業火をも上回る。物や人を破壊した痕跡さえも残さない。すべては虚空の彼方へと消えゆく。
 この辺りにもう雪は積もっていない。夥しい熱波に侵されて一瞬のうちに蒸発してしまったのだ。
「……あなたのせいですぞ、大尉どの」
 普段の落ち着いた口調が嘘みたいに、刺々しい声色で伍長が私に食ってかかった。
「前もってソ連兵どもを皆殺しにしていれば!」
@ -610,14 +611,14 @@ tags: ['novel']
---
 いつもの要領で上空から奇襲を仕掛ける。キャタピラで固い土を踏み鳴らして進む重戦車と、遠慮なしに金属音をがなりたてる随伴歩兵らしき集団の輪郭が、急降下に伴って明瞭に映り込む。魔法の砲弾を放ったと同時に反転して空へ舞い戻る。地雷原で損耗した戦車の数を念頭に入れると、敵方の車輌はそう多くはないはずだ
 いつもの要領で上空から奇襲を仕掛ける。キャタピラで固い土を踏み鳴らして進む重戦車と、遠慮なしに金属音をがなりたてる随伴歩兵らしき集団の輪郭が、急降下に伴って明瞭に映り込む。そこへ魔法の砲弾を放つ――と、同時に反転して空へ舞い戻る。結局はこの反復が一番効率的だった
<南側からも来るわ>
「そっちはお願い>
 短く無線通信を交わして目の前の戦場と向き合う。ただひたすら、被弾を最小限に、攻撃を最大限に。続々と現れるソ連兵たちにも限りはある。上空からの砲撃に一段落を見出した後、四方に分散したであろう小隊の位置取りに見当をつける。今、私の右斜め後方で音がした。
 速やかに建物の縁から飛び立つと、入れ替わるように銃弾が元いた位置を掠めていった。軌跡を辿ったその先にステッキを振り抜く。帯状に展開された魔法の波動が、通り過ぎた物体を無慈悲に切断していく。敵の死に様に放たれた応射の銃弾が私の肉体をえぐる。
 リザちゃんがいる方向からも景気の良い爆発音が聞こえてきた。どうやらなんとかうまくいっているようだ。事態はすでに残党の掃討に切り替わっている。
 ふわりと地面に降り立つ。各個遁走を始めた背中に人差し指を突き立てて一人ひとり、順番に始末していく。破損した戦車の陰を覗くと、逃げ遅れた若いソ連兵の泣きじゃくる声が耳に入ってきた。
 もし口を閉じて黙っていたら気づかなかったかもしれないのに、甲高い泣き声のせいで私の目には敵を仕留めるのに十分な情報が描き出される。相変わらずロシア語は分からない。
 速やかに建物の縁から飛び立つと、ちょうど入れ替わる形で銃弾が元いた位置を掠めていった。軌跡を辿ったその先にステッキを振り抜く。帯状に展開された魔法の波動が、通り過ぎた物体を無慈悲に切断していく。敵の死に様に放たれた応射の銃弾が私の肉体をえぐる。
 リザちゃんがいる方向からも景気の良い爆発音が聞こえてきた。どうやらなんとかうまくいっているようだ。状況はすでに残党の掃討に切り替わっている。
 ふわりと地面に降り立つ。各個遁走を始めた背中に人差し指を突き立てて一人ひとり、順番に始末していく。途中、破損した戦車の脇を通りかかると、陰から逃げ遅れたソ連兵の泣きじゃくる声が耳に入ってきた。
 もし口を閉じて黙っていたら気づかなかったかもしれないのに、甲高い泣き声のせいで敵を仕留めるのに十分な情報が視界に描き出される。相変わらずロシア語は分からない。
「ぱん」
 人影の輪郭が弾けて消えた。
「こっちは終わったよ」
@ -625,37 +626,37 @@ tags: ['novel']
<こっちも今終わった。どう、怪我してない?>
 毎度の確認に少々辟易しながらも私は律儀に答える。
<お腹がちょっと痛い>
 ひょっとするとまた月のものが始まったのかもしれない。だとしたら、布を集めなくちゃいけない。食糧も必要だ。どっちもソ連兵から鹵獲できるといいのだけれど。
 なんとなしに空を仰ぐと頬を生温かい風が撫でた。
 あの日、最初の襲撃を経て私たちの部下は全員が戦死した。結局、ウルリヒ伍長から話は聞けないままだった。
 でも私たちは生きている。めでたい春を迎えて久しいこの地で、長く続いた雪の代わりに銃弾を浴びながらライヒのために戦い続けている。
”**一九四六年四月三〇日** 親愛なるお父さんへ。紙がなくなりそうなのでしばらくお手紙書けなくなるかもしれません。この地に来てからもう一ヶ月余りが経過しました。身体に空いた穴が二桁を越えてからは数えるのを諦めています。放っておけばそのうち塞がるけど、戦うたび穴が空くので実際のところいくつあるのか分からないのです。こないだ、ようやく戦死した人たちの埋葬を全員分終えました。ソ連兵の魔法能力行使者に殺されてしまった捕虜の皆さんも今では土の下で一緒になっています。”
 改行音が鳴らない。また故障したみたいだ。慣れた手つきでアームの位置を無理やり下げて、続きを書き進める。
「食糧、そこそこ手に入ったわ。またしばらくは持つと思う」
 ひょっとすると月のものが始まったのかもしれない。だとしたら、布を集めなくちゃいけない。食糧も必要だ。どっちもまたソ連兵から鹵獲できるといいのだけれど。
 なんとなしに空を仰ぐと生温かい風が頬を撫でた。
 あの日、最初の襲撃で私たちの部下は全員が戦死した。ウルリヒ伍長から話は聞けないままだった。
 でも私たちは生きている。めでたいはずの春を迎えて久しいこの地で、長く続いた雪の代わりに銃弾を浴びながら帝国<ライヒのために戦い続けている。
”**一九四六年四月三〇日** 親愛なるお父さんへ。紙がなくなりそうなのでしばらくお手紙書けなくなるかもしれません。この地に来てからもう一ヶ月余りが経過しました。身体に空いた穴が二桁を越えてからは数えるのを諦めています。放っておけばすぐに塞がるけど、戦うたび穴が空くのできりがありません。こないだ、ようやく戦死した人たちの埋葬を全員分終えました。ソ連兵の魔法能力行使者に殺されてしまった捕虜の皆さんも今では土の下で一緒になっています。”
 改行音が鳴らない。また故障したみたいだ。アームを指先で無理やり引き下げて、続きを書き進める。
「食糧、そこそこ手に入ったわ。しばらくは持つと思う」
「うん」
”ベルリンの様子が心配でなりません。ブリュッセルだってきっと大変に違いありません。私たちがここで戦うことで、少しでも戦況が良くなることを願っています。あるいはもしかしたら、今日の戦いがソ連の最後の悪あがきなのかもしれません。実はもうソ連軍は東部戦線から撤退を始めていて、モスクワに帰っていく途中なのです。本当にそうだったらいいなと思います。一ヶ月もお休みをとった先輩の魔法能力者たちは今にも出撃の準備を心待ちにしているのでしょう。”
”ベルリンやブリュッセルの様子が心配でなりません。私たちがここで戦うことで、少しでも戦況が良くなることを願っています。あるいはもしかしたら、今日の戦いがソ連の最後の悪あがきなのかもしれません。実はもうソ連軍は東部戦線から撤退を始めていて、モスクワに帰っていく途中なのです。本当にそうだったらいいなと思います。一ヶ月もお休みをとった先輩の魔法能力行使者たちは今にも出撃の準備を進めているはずです。”
「当て布、いる?」
「うん」
”じきに私たちにも真の春が訪れるはずです。これだけ頑張ったのだから、フューラーもきっと私たちのことをお褒め下さるはずです。いつか解放されたヨーロッパ大陸全土にたなびく鉤十字の旗の下で、ひと目でも生のお声を聞いてみたいと思います。そういえば、今年に入ってからというものラジオ放送でもとんとフューラーのお声が流れていませんね。ゲッベルス大臣の演説もたいへんすばらしいですが、ここぞという時にはやはり総統閣下の堂々たる鼓舞に耳を震わせたいものです。ここにもし国民受信機があったら……”
”じきに私たちにも真の春が訪れます。これだけ頑張ったのだから、総統閣下もきっと私たちのことをお褒め下さるでしょう。いつか解放されたヨーロッパ大陸全土にはためく鉤十字の旗の下で、ひと目でも生のお声を聞いてみたいと思います。そういえば、今年に入ってからというものラジオ放送でもとんとフューラーのお声が流れていませんね。ゲッベルス大臣の演説もたいへんすばらしいですが、ここぞという時にはやはり閣下の堂々たる鼓舞に耳を震わせたいものです。ここにもし国民受信機があったら……”
「ねえ、ちょっと」
「うん」
「ねえったら」
「うん?」
 なにやら急に肩をがしりと掴まれたので、ふと我に返った。どうやらずっと空返事をしてしまっていたらしい。一旦、お手紙を書くのは中断して、彼女に手伝われながら月のものを確認した。ほんの少し、血が出ているようだった。さっそく布切れをあてがう。皮肉にも彼らが携行している医療品のおかげで私はドレスを自分の血でひどく汚さずに済んでいる。
 とはいえ、もう他人の血でずいぶん汚れてしまっているけれども。いつ襲撃が来るのかも分からないので洗濯はだいぶ前に諦めた。どうしても私はドレスで戦いたい。
 急に肩を掴まれたので、ふと我に返った。どうやらずっと空返事をしてしまっていたらしい。一旦、お手紙を書くのは中断して、彼女に手伝われながら月のものを確認した。ほんの少し、血が出ているようだった。さっそく布切れをあてがう。皮肉にも彼らが携行している医療品のおかげで私はドレスを自分の血でひどく汚さずに済んでいる。
 とはいえ、すでに他人の血でずいぶん汚れてしまっているけれども。いつ襲撃が来るのかも分からないので洗濯は諦めた。どうしても私はドレスで戦いたい。
「そういうリザちゃんは身体、大丈夫なの」
 一方で、どうにもならないのは彼女の身体だった。布や食糧は死体の横に転がっていても義肢はそうはいかない。手で触れてもはっきりと分かるほど彼女の手足はぼろぼろに傷ついている。魔法の力を与えても肉体ほどには丈夫にならないし、ひとりでに治りもしない。
「だめかも」
 そう言う彼女の声は存外に明るい。このところソ連軍の襲撃が減ってきているせいかもしれない。長きにわたる戦いにもいよいよ終わりが近づいているのだ。静かな夜をぶち壊しにする戦闘機の金切り音も聞こえなくなって久しい。間違いなく、敵の資源は払底しつつある。
「だめかも
 そう言う彼女の声は存外に明るい。このところソ連軍の襲撃が減ってきているせいかもしれない。長きにわたる戦いにもいよいよ終わりが近づいているのだ。静かな夜を台無しにする戦闘機の金切り音も聞こえなくなって久しい。間違いなく、敵の資源は払底しつつある。
「ねえ、リザちゃんは戦争が終わったらどうするの」
 彼女の義手のぎざぎざとした傷跡を指先でなぞりながら、優しく尋ねた。私はもちろん管制官のお勧めに従って”たいぴすと”になるつもりだけど、彼女の将来の夢はまだ聞いたことがない。
 彼女の義手のささくれ立った傷跡を指先でなぞりながら、ゆっくり尋ねた。私はもちろん管制官のお勧めに従って”たいぴすと”になるつもりだけど、彼女の将来の夢はまだ聞いたことがない。
 すると、淡い輪郭の人影が小刻みに震えて、途端に低い声を出した。
「絶対に、笑わないでよ」
「え、なんで」
「いいから、約束して。笑わないって」
「笑わないよ。なに?」
「えっとね……お嫁さん」
 不自然な沈黙が二人の間に流れた。あんなに強くて、威張りんぼな彼女が、平和な世の中になったら、なんと男の人とお付き合いをしてお嫁さんになるつもりなのだという。
 不自然な沈黙が二人の間に流れた。あんなに堂々としていて、威張りんぼな彼女が、平和な世の中になったら、なんと男の人とお付き合いをしてお嫁さんになるつもりなのだという。
「ちょっと、なにか言って――」
 それは……それって……。
 とてもすばらしいことだ! 私はすぐさまオーク材でできた両手を握りしめて上下に振った。
@ -663,100 +664,101 @@ tags: ['novel']
「えっ、そう? そんなに?」
「私は生活の身を立てることしか考えていなかったから」
「ううん、でも私も――」
「まさか、戦争が終わっても国家の繁栄に身を尽くすなんて! すごい、本当に」
「まさか、戦争が終わっても国家の繁栄のために尽くすなんて! すごい、本当に」
「えっ?」
 管制官が仰っていた「女の役目」を果たすには結婚しなければならない。こうして月のものが訪れる年頃になってしばらく経つ私でも、そんな話はずいぶん先のことに感じられる。男の人とお付き合いをする、というのもどうやればいいのか分からない。殺すだけなら指先一本だけで済むのに。
「赤ちゃんは何人むつもりなの?」
 管制官が仰っていた「女の役目」を果たすには男の人と結婚しなければならない。こうして月のものが訪れる年頃になってしばらく経つ私でも、そんな話はずいぶん先のことに感じられる。男の人とお付き合いをする、というのもどうやればいいのか分からない。殺すだけなら指先一本で済むのに。
「赤ちゃんは何人むつもりなの?」
「……何人?」
「管制官は国家のためにはすべての女性が最低三人産むのが望ましいって言ってた」
 でも、リザちゃんは違う。ちゃんと未来の国家に貢献する方法を考えていたんだ。
「リザちゃんならっとたくさん産めるよね」
「……うん、そうね」
 するり、と木でできた両手が私の手から抜け。「そろそろ寝ようかしら」と言って、ベッドの方に歩き出す。軋む両足をひょこひょこと動かしながら揺れ動く人影を見送った後、私も手探りで机の上に座った。
「リザちゃんならっとたくさん産めるよね」
「……うん、そうかもね」
 するり、と木でできた両手が私の手から抜け。「そろそろ寝ようかしら」と言って、ベッドの方に歩き出す。軋む両足をひょこひょこと動かしながら揺れ動く人影を見送った後、私も手探りで机の前に座った。
 このところ、タイプライタはおかしな音を出すようになったけれど、だからといって練習を疎かにしてはいけない。
 私も頑張らなくちゃ。
---
”一九四六年五月七日。親愛なるお父さんへ。このところめっきり暖かくなりました。昨月から外套を着ていませんが、今月はドレスでも暑いくらいです。とはいえ、こればかりは脱ぐわけには参りません。なんといっても私の軍服ですから。最近はソ連兵があまり食糧を持っておらず、お腹が空いてきました。でも、月のもののせいで痛むのか、お腹が空きすぎて痛むのかもうよく分かりません"
 音は鳴らない。故障しているのだ。手探りで紙を引き上げて手で改行する。
"毎日のように無線機のダイヤルを回しています。偶然にどこかの電波を掴んで、なにか情報が得られるかもしれないからです。しかし私たちの無線機は出力が弱すぎるのか、ハムノイズ以外にはなに一つ音が聴こえません。一体、街の外はどうなっているのでしょうか。今すぐにでも飛んで見回りたい気持ちです。ですが、いつソ連兵が攻めてくるか分からないので離れられないのです”
 実際、一度だけリザちゃんに哨戒をお願いしたことがある。ずいぶん心配しながら飛び立った彼女は、まもなくとんぼ返りする羽目になる。重戦車と歩兵部隊がこちらにやってくる様子が見えたからだ。その日はいつにも増して身体に穴が空いた。
”一九四六年五月七日。親愛なるお父さんへ。このところめっきり暖かくなりました。外套は先月にしまいましたが、今月はドレスでも暑いくらいです。とはいえ、こればかりは脱ぐわけには参りません。なんといっても私の軍服ですから。最近はソ連兵があまり食糧を持ってこないので、いつもお腹が空いています。月のもののせいで痛むのか、お腹が空きすぎて痛むのかよく分かりません"
 音は鳴らない。また故障しているのだ。手探りで紙を引き上げて改行する。
"毎日のように無線機のダイヤルを回しています。偶然にどこかの電波を掴んで、なにか情報が得られるかもしれないからです。しかし私たちの無線機は出力が弱すぎるのか、ハムノイズ以外にはなに一つ音が聴こえません。一体、街の外はどうなっているのでしょうか。今すぐにでも飛んで見回りたい気持ちです。ですが、いつソ連兵が攻めてくるか分からないので離れられないのです
 実際、一度だけリザちゃんに見回りをお願いしたことがある。とても心配しながら飛び立った彼女は、まもなくとんぼ返りする羽目になった。重戦車と歩兵部隊がこちらにやってくる様子が見えたからだ。その日はいつにも増して身体に穴が空いた。
<ねえ、また来たわ>
 ざざ……とノイズ音に紛れて、机の上に置いたインカムからリザちゃんの声がした。最近は散発的に敵が来る。一日に二回来ることも珍しくない。戦力の逐次投入などもっともやってはならない過ちなのに、よほどソ連軍は余裕を失っているのだろう。おちおちお手紙も書いていられない。インカムをかぶり、無線機を背負って外に向かう。椅子から立ち上がって、後ろに二歩、右を向いて三歩。ドアを開けて廊下に出る。一ヶ月も住めばここも家みたいなものだ。
 飛翔するとすぐに辿るべき電波の白線が見えた。数キロメートル先の末端に佇む彼女は意外にも空中ではなく地上に立っている。
 ノイズ音に紛れて、机の上に置いたインカムからリザちゃんの声がした。最近は散発的に敵が来る。一日に二回来ることも珍しくない。戦力の逐次投入などもっともやってはならない過ちなのに、よほどソ連軍は余裕を失っているのだろう。おちおちお手紙も書いていられない。インカムをかぶり、無線機を背負って外に向かう。椅子から立ち上がって、後ろに二歩、右を向いて三歩。を開けて廊下に出る。一ヶ月も住めばここも家みたいなものだ。
 空に舞い上がると辿るべき電波の白線が見えた。数キロメートル先の末端に佇む彼女は、なぜか空中ではなく地上に立っている。
「どうしたの」
 呼びかけるとオーク材の腕の輪郭が前方の森林を指差した。
「いるにはいるんだけど、ずっと森の向こうに引っ込んで出てこない。やる気あるのかしら」
「森ごと吹き飛ばしたら」
「お腹が空くから無駄撃ちしたくない」
 耳をすませると、遠くから布が擦れ合う音、金属がかちゃかちゃと重なる音が聞こえた。私にしか聞こえないほどのかすかな音だけれど、確かに敵はそこにいる。
「こっちから森に入するのはどう」
「こっちから森に入するのはどう」
「閉所だと余計に被弾するわよ」
「うーん、じゃあ――」
 直後、すさまじい風切り音とともに銃弾が隣を横切っていった。ライフル銃――にしては大きい――けど、砲弾にしては速すぎる――めきめき、と木材の軋む音、裂ける音が続く。やたらと鈍重な銃声が最後に響いた。刹那の出来事が終わった後には、目の前の彼女の輪郭がずいぶん小さく崩折れて地面に転がっていた。
 直後、すさまじい風切り音とともに銃弾が隣を横切っていった。ライフル銃――にしては大きすぎる――けど、砲弾にしては速すぎる――めきめき、と木材の軋む音、裂ける音が続く。
 やたらと鈍重な銃声が最後に響いた。刹那の出来事が終わった後には、目の前の彼女の輪郭がずいぶん小さく崩折れて地面に転がっていた。
「リザちゃん?」
「――やられた、脚――逃げて――!」
 反射的に飛び上がりかけた私の脇腹に、鉄の塊が深くめりこんだ。体勢を崩して激しく地面をのたうち回って転がる。急いで起き上がろうとしても、なかなか起き上がれなかった。起き上がるための腹斜筋がえぐれてなくなっていたからだ。
 声にならないうめき声を上げる。痛かった。銃で撃たれて痛いと思ったのは初めてだった。だが、それでも、応射、応射をしなければ。
 なんとかホルスターから抜き取ったステッキを当てずっぽうに振る。前方に着弾した魔法が木々をなぎ倒して、兵士の絶叫が空にこだまする。
 隙を見取り、地面を這いつつ体勢を立て直した。急に重苦しく感じた無線機を引き下ろす。それを支えによろよろと立ち上がると、地面の染みみたいに揺れ動く輪郭の前に立った。
 反射的に飛び上がりかけた私の脇腹に、鉄の塊が深くめりこんだ。想定外の圧力に体勢を崩して地面をごろごろと転がる。急いで起き上がろうとしても、なかなかできなかった。起き上がるための腹斜筋がえぐれてなくなっていたからだ。
 声にならないうめき声をあげる。とても痛かった。銃で撃たれて本当に痛いと思ったのは初めてだった。だが、それでも――応射、応射をしなければ。
 寝転がったまま、なんとかホルスターから抜き取ったステッキを当てずっぽうに振る。前方に着弾した魔法が木々をなぎ倒して、兵士の絶叫が空にこだまする。
 隙を見取り、地面を這いつつ体勢を立て直した。急に重苦しさが増した無線機を背中から引き下ろす。それを支えに立ち上がると、不安げに揺れ動く輪郭の前に立った。
「後ろにいて」
 義足を破壊されたリザちゃんはもう立ち上がれない。
 私が守らなくちゃいけないんだ。
 今にも襲撃をうかがっているであろう兵士たちの輪郭を聴き取ろうと、私は仁王立ちのまま息の調子を整えた。
 シュッ、と銃弾が空気を切り裂いて肩口に当たった。わずかに身がのけぞったものの、大丈夫、これは普通の七.六二ミリ弾だ。痛くない。
 そして私の目には銃弾の軌跡が克明に刻まれている。
「そこね」
 ふ、とつぶやいた私の言葉は、自分でもとちょっとびっくりするほど冷たく凍りついていた。ぴん、とまっすぐ伸ばした腕で軌跡をなぞり、人差し指を末端に突きつける。
 私が守らなくちゃいけないんだ。苦しみを、分かち合う。
 今にも襲撃をうかがっているであろう兵士たちの機微を聴き取ろうと、私は仁王立ちで息の調子を整えた。
 シュッ、と銃弾が空気を切り裂いて肩口に当たった。わずかに身がのけぞったものの、大丈夫、これは普通の七.六二ミリ弾だ。そんなに痛くない。
 そして私の目には銃弾の軌跡が克明に刻まれている。
「そこにいるのね」
 ふ、と息を漏らしながらつぶやいた私の言葉は、自分でもとちょっとびっくりするほど冷たく凍りついていた。ぴん、とまっすぐ伸ばした腕で軌跡をなぞり、人差し指を末端に突きつける。
「ぱーん」
 放った魔法の銃弾が、森の向こうの射手を仕留めた実感を得た。
 戦場が静まりった。
 でも、兵士たちの荒い息遣いは少しも減っていない。視界には映らなくても、今、私の百メートル先にはソ連の歩兵部隊が控えている。
 バレている。私の目が見えないことが。
 沈黙を挟む小競り合いの堰が切られるまでにはさらに数分を要した。うっかり者の歩兵が、たぶん銃を取り落したかなにかしたのだろう。私の耳に届いた金属質の反響音が、研ぎ澄まされた仮初の視に像を結ぶのは必然だった。
 戦場が静まりかえった。
 でも、兵士たちの荒い息遣いは少しも減っていない。視界には映らなくても、今、私の百メートル先にはソ連の歩兵部隊が控えている。
 バレている。私が音で見ていることが。
 沈黙を挟む小競り合いの堰が切られるまでにはさらに数分を要した。うっかり者の歩兵が、たぶん銃を取り落したかなにかしたのだろう。私の耳に届いた金属質の反響音が、研ぎ澄まされた仮初の視に像を結ぶのは必然だった。
「ぱーん」
 また一人、ソ連兵が死んだ。
 入れ替わりに空気を切り裂いてやってきた銃弾を、かすかに身をよじってかわす。頬の表皮を鉛の粒が削りとっていった。
 突如、森の向こうでラッパの音と、ロシア語の号令が響いた。位置を特定する間もなく、野太い叫びがあちこちから立ちのぼり、次いで地面が荒々しく踏み鳴らされる。
 互い違いに飛び込んできた銃弾を、かすかに身をよじってかわす。頬の表皮を鉛の粒が削りとっていった。
 突如、森の向こうでロシア語の号令が響いた。位置を特定する間もなく、野太い叫びがあちこちから立ちのぼり、次いで地面が荒々しく踏み鳴らされる。
 銃剣突撃だ。
 仮初の視野に映るのは、もはや人影ではなく一つの群体と化した霧の塊だった。
 目前に映るのは、もはや人影ではなく一つの群体と化した霧の塊だった。
 もうあの銃撃は来ない。
 身を軋ませながらも、悠然と手のひらを群体に突きつける。
 だが手のひらから魔法の砲弾は出なかった。
 身を軋ませながらも手のひらを群体に突きつける。
 だが迫る軍勢を前に、いつまで待っても手のひらから魔法の砲弾は出なかった。
 魔法の力が減退している。
 ならば
 ならば
「ぱん!」
 今度は出た。拳銃を模った小口径の魔法が群体の一部をえぐり取る。もちろん、ソ連兵たちの叫び声に衰える気配は見られない。
 今度は出た。拳銃を模小口径の魔法が群体の一部をえぐり取る。もちろん、ソ連兵たちの叫び声に衰える気配は見られない。
「ぱん! ぱん!」
 さらに撃ち続ける。霧の大きさが減る。しかし、減っているのにだんだん迫ってくるものだから体感としてはむしろどんどん膨れ上がり、今にも私たちを覆い尽くそうとしているかのように思われた。
 さらに撃ち続ける。霧が薄まっていく。しかし、だんだんと迫ってくるものだから体感としてはむしろ膨れあがり、今にも私たちを覆い尽くそうとしているかのように思われた。
「ぱん! ぱん!」
 ついに私は小口径で戦うのも諦めてステッキの先端に刃を顕現させた。きっとその刃の大きさはソードどころかダガーほどの大きさもないのだろう。
 ついに私は小口径で戦うのも諦めてステッキの先端に魔法を顕現させた。きっとその刃はソードどころかダガーほどの大きさもないのだろう。
 先陣を切って襲いかかってきた兵士の首筋を極小の間合いでちぎり取る。間を置かず、別の兵士たちの銃剣が肩口に、脇腹に、喉元に突き立てられる。
 名前も知らないソ連兵たちの顔の輪郭が間近に見えた。表情は分からない。言葉も分からない。ただ、鬼気迫る呼吸と銃剣の先端にこもる圧力が唯一無二の殺意を表している。
 バターナイフ同然の魔法の刃を手近な相手に向かって振るう。煮えた血しぶきが私の顔にかかり、銃剣を通してかかっていた圧迫感がふと、緩む。それを糧に私は前進して、さらに別の兵士に刃を突き刺す。繰り返し、繰り返し、霧が枝分かれして人影に、人影がともども地面の染みと化すまで。
 最後に、私は空いている手で兵士の首筋を掴んだ。たっぷり三〇センチは高いであろう人影が縮んで、目の前に跪く。その大きく開けた岩肌のような胸元に刃を突き立てた。
 そうしてようやく作り出された静寂に、私はあまり感慨を覚えなかった。失った腹斜筋をなんとか代わりの筋肉に務めさせて歩き、リザちゃんのいる地面に手を伸ばした。
 いよいよソ連兵たちの顔の輪郭が間近に見えた。表情は分からない。言葉も分からない。ただ、鬼気迫る呼吸と銃剣の先端にこもる圧力が唯一無二の殺意を表している。
 バターナイフ同然の魔法の刃を手近な相手に向かって振るう。煮えた血しぶきが私の顔にかかり、銃剣を通してかかっていた圧迫感がわずかに緩む。それを糧に私は前進して、さらに別の兵士に刃を突き刺す。繰り返し、繰り返し、霧が枝分かれして人影に、人影がともども地面の染みと化すまで。
 最後に、私は空いた手で兵士の首を掴んだ。たっぷり三〇センチは高いであろう人影が萎んで跪く。その大きく開けた岩肌のような胸元を刃で切り開いた。
 返り血を持て余したドレスの裾から、ぽたぽたとそれが垂れる音がした。失った腹斜筋をなんとか代わりの筋肉に務めさせて歩き、リザちゃんのいる地面に手を伸ばした。
「おんぶしてあげる。行こう」
 リザちゃんは壊れた義足の根元をぷらぷらとさせながらも、黙って背負われていた。ただ、帰り道、耳元で静かに尋ねた。
「……どこへ行くの」
 私は今まで感じたことがない彼女の重さを背中に受けながら、なんとか答えた。
「お手紙を書かなくちゃ」
 だって戦う以外にはそれしかやることがないんだもの。
「分からない。今は教えてくれる人がいないから」
---
”一九四六年五月一三日。親愛なるお父さんへ。あれからめっきりソ連兵が来なくなりました。毎日、毎日、こうしてお手紙を書いているけど、正直に言って本当にちゃんと書けているのかあまり自信がありません。ほとんどのキーが沈んだまま戻ってこない有様ですし、手で戻してやってもまたすぐにれてしまうからです。まるで私みたいです。"
 改行はもうしない。紙を自分で引き上げて続きを書く。
”一週間も経つのに怪我の治りが悪いです。手で肌をなぞると、身体のどこを触っても銃創で穴ぼこだらけなのが分かります。私のお腹もえぐれたままです。なのに、相変わらず空腹でたまりません。この前のソ連兵たちはあまり食糧を持っていませんでした。なんだかずいぶん近いところから出撃しているみたいです。”
”一九四六年五月一三日。親愛なるお父さんへ。先週からソ連兵が来なくなりました。他にすることがないので、毎日、毎日、こうしてお手紙を書いているけど、正直なところ本当にちゃんと書けているのか自信がありません。ほとんどのキーが沈んだまま戻ってこないですし、手で戻してやってもまたすぐにれてしまうからです。まるで私みたいです。"
 改行はしない。紙を自分で引き上げて続きを書く。
”一週間も経つのに怪我の治りが悪いみたいです。手で肌をなぞると、身体のどこを触っても穴ぼこだらけなのが分かります。私のお腹もえぐれたままです。なのに、相変わらず空腹でたまりません。この前のソ連兵たちもろくに食糧を持っていませんでした。なんだかずいぶん近い拠点から出撃しているみたいです。”
 沈みきったキーを押し戻しながら、ちょっと考え込んだ。でも、結局は書いてしまうことにした。
”私たちはもうこらえきれません。ブリュッセルで懸命に戦っていらっしゃるお父さんにも、総統閣下にも、療養中の先輩方にも申し訳ないですが、目の見えない私にリザちゃんのお世話はできません。明日にでも、彼女を背負ってベルリンに帰投するつもりです。”
 ふと、私は立ち上がって左へ三歩、振り返って前へ二歩進む。そこにリザちゃんのベッドがある。
”私たちはもうこらえきれません。ブリュッセルで懸命に戦っていらっしゃるお父さんにも、総統閣下にも、療養中の先輩方にも申し訳ないですが、目の見えない私にリザちゃんのお世話はうまくできません。明日にでも、彼女を背負ってベルリンに帰投するつもりです。”
 ふと、私は立ち上がって左へ三歩、前へ二歩進む。そこにリザちゃんのベッドがある。
「おトイレ行く?」
「……うん」
 脚が壊れてからリザちゃんはすっかり口数が少なくなった。あんなに威張りんぼだったのに、今ではトイレすら遠慮がちだ。一度、日記を書くのに夢中になっていて彼女の世話を忘れていたら、ベッドの上で粗相をしていた。彼女が言うには何度か声をかけたというのだけれど、私には聞こえていなかった。一〇〇メートル先の物音さえ聞き取る私の耳が、ハキハキしたリザちゃんの声を素通りしてしまうなんて考えられない。ともかく、私に細かい清掃作業は難しかったので窓から汚れたシーツをマットレスごと投げ捨てた。他の部屋から新しいものを持ってくる方が楽だった。
 人をおぶって運ぶのは無線機を背負うのとはだいぶわけが違う。少しでも重心を誤るとたちまちバランスを崩してしまう。オーク材の手がするりと首筋から抜けて転がり落ちると、なんだか変な音がする。いっそ文句の一つでも言ってくれた方が気楽なのに彼女はそれでもなにも言わない。
 今日のトイレは長かったので、彼女も月のものが始まったのだと思う。しかし私はあえてなにも言わず「終わった」とドア越しに言う彼女を便座から引き上げて、部屋までの道を慎重に戻る。
 脚が壊れてからリザちゃんは口数が少なくなった。あんなに威張りんぼだったのに、今ではトイレに行くのすら遠慮がちだ。一度、日記を書くのに夢中で彼女の世話を忘れていたら、ベッドの上で粗相をしていた。彼女が言うには何度か声をかけたそうなのだけれど、私には聞こえていなかった。
 遠くのわずかな物音を聞き取れる私の耳が、ハキハキしたリザちゃんの声を素通ししてしまうなんて信じられない。ともかく、私に細かい清掃作業は難しかったので窓から汚れたシーツをマットレスごと投げ捨てた。他の部屋から新しいものを持ってくる方が楽だった。
 人をおぶって運ぶのは無線機を背負うのとはわけが違う。少しでも重心を誤るとたちまちバランスを崩してしまう。オーク材の手がするりと首筋から抜けて転がり落ちると、なんだか変な音がする。いっそ文句の一つでも言ってくれた方が気楽なのに彼女はそれでもなにも言わない。
 今日のトイレは長かった。彼女も月のものが始まったのだと思う。「終わった」とドア越しに言う彼女を便座から引き上げて、部屋までの道のりをゆっくりと戻る。
「ねえ」
 自分の背後に向かって語りかける。
「なに」
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 部屋に戻ると、長らく隅っこに置かれっぱなしの無線機がザーザーとノイズ音を鳴らしていた。それがなにを意味をするのか悟った瞬間、私は危うくリザちゃんを放り捨てかけた。なるべく急いで彼女をベッドの上に寝かせた後、私は所定の歩数を刻んで机の上のインカムを頭にかぶった。ダイヤルをわずかにずらすと、すぐに鮮明な声が聞こえた。
<こちらアルベルト・ウェーバー管制官准将、配下の魔法能力行使者がいたら応答せよ、繰り返す……>
「管制官!」
 私はその脳を揺さぶるほど甘美な声にすがるようにして、インカムに向かって叫んだ。直後、ぴたりと止んだ管制官の声が、ややあって慎重に問いかけてくる。
 私はその脳を揺さぶるほど甘美な音にすがるようにして、インカムに向かって叫んだ。束の間、ぴたりと止んだ管制官の声が、ややあって慎重に問いかけてくる。
「その声は……マリエン・クラッセ大尉で間違いないか? 帝国航空艦隊所属のマリエン・クラッセ大尉か?」
「さようでございます! 私はマリエン・クラッセ大尉です!」
 お腹の中の空気を全部絞り出す勢いで叫んだ私の頬は、もうすでに涙でひたひたに濡れていた。
 お腹の中の空気を全部絞り出す勢いで叫んだ私の頬は、早くも涙でひたひたに濡れていた。
<そうか。リザ・エルマンノ大尉も一緒か?>
「はい! 彼女も一緒です!」
<ポーゼンを占領していると聞いているが、間違いないか?>
「はい! もうかれこれ一ヶ月以上になりますが、私たちは懸命に――」
<そうか、そうか。今すでに向かっている。すぐに着く。よく見える場所で待機していてくれ。通信終了>
「はい! かれこれ一ヶ月以上になりますが、私たちは懸命に――」
<そうか、そうか。今、そっちに向かっている。よく見える場所で待機していてくれ。通信終了>
 通信が途絶えてハムノイズだけが耳を満たすようになっても、私はしばらくその場に固まって半分えぐれたお腹の底からせり上がる多幸感を噛み締めていた。
 管制官が迎えに来てくれた。もし、ベルリンが攻め落とされていたらそんなことはできない。
 戦争は終わったんだ。
 私たちは勝ったんだ。
 イギリスのチャーチルにも、アメリカのトルーマンにも、ソ連のスターリンにも勝ったんだ!
 ばたばたばたと遠くから聞こえる戦闘機のプロペラ音は聞き間違えようがなかった。私たちのフォッケウルフ。それらが二機で先導して、後ろを輸送機が飛んでいる。
 慌てて外に出ていこうとしたが、今の私のドレスは間違いなく上官の前に出るには汚れすぎていることに気がついた。ちょっぴり考え込んで、四月から着ていない外套の存在を思い出した。あれはまだそんなには汚れていないはずだ。今の季節に着るには暑苦しいけど前のボタンをしっかり留めればそれなりに格好がつく。
 慌てて外に飛び出ようとしたが、今の私のドレスは上官の前に出るには汚れすぎていることに気がついた。ちょっと考え込んで、四月から着ていない外套の存在を思い出した。あれはまだそんなには汚れていないはずだ。今の季節に着るには暑苦しいけど前のボタンをしっかり留めればそれなりに格好がつく。
 追加の連絡に備えて久しぶりに無線機を背負い込むと、今度はリザちゃんを運べなくなる事態にも思い当たる。本来なら二人揃ってお迎えに上がるべきだが、でもこればかりは、仕方がなかった。
「リザちゃん! 管制官のお迎えに行ってくるね!」
 かつてなく弾んだ声でベッドに向かって叫びつつ、返事を待たずに外へと飛び出した。
 プロペラ音を頼りに前へ前へ、まるでスキップを踏むようにして駆け出す
 ほとんど真下までたどり着いたところで無線機から声がした。
 かつてなく弾んだ声でベッドに向かって叫びつつ、返事を待たずに外へと駆け出した。
 プロペラ音を頼りに前へ前へ、まるでスキップを踏むようにして。
 真下までたどり着いたところで無線機から声がした。
<あー、人影が一つ見えるが、マリエン・クラッセ大尉か?>
 私はもう歓喜と感動の濁流に巻き込まれて泣き叫ぶ寸前だった。
 私は歓喜と感動の濁流に巻き込まれていた。
 あてどなく彷徨うのに疲れ果てていた。偉大な存在に行くべき道を指し示してほしかった。
「さようでございます! ただいま、管制官のお膝下まで参りました!」
<なるほど、しかしリザ・エルマンノ大尉の姿が見えないようだが?>
 私はちょっと言葉に詰まったが、もう見栄を張る理由はないと思た。
 戦争は終わったんだから、彼女も安全な場所で新しい脚をもらえるだろう。
「あの、たいへん恐縮ですが、リザちゃ――リザ大尉は、その、脚を負傷しておりまして、治療を要する状態です」
<なるほど。しかし、リザ・エルマンノ大尉の姿が見えないようだが?>
 私は言葉に詰まったが、もう見栄を張る理由はないと思い直した。
 戦争は終わったのだから、彼女も安全な場所で新しい義足をもらえるだろう。
「あの、リザちゃ――リザ大尉は、その、脚を負傷しておりまして、治療を要する状態です」
<……リザ・エルマンノ大尉は自ら動けないのか? 間違いないな?>
 再三、問い詰めるような管制官の質問にかすかな違和感を覚えつつも私は努めてはきはきと答えた。
「さようでございます。できれば、然るべき後に、診察をお願いできればと――」
 執拗に問い詰めるような管制官の質問にかすかな違和感を覚えつつも私は努めて明確に答えた。
「さようでございます。然るべき後に、診療をお願いできればと――」
<そうか。それは都合が良かった>
 ぶち、と無線機の通信が切れた。一時保留ではない。完全に向こうの電波が出力を止めている。
 ぶち、と無線機の通信が切れた。一時保留ではない。完全に向こうの機材が電波の出力を止めている。
 一体、どうしたのかしら――
 ますます深まった違和感は直後、強制的に中断を余儀なくされる。
 よく耳に馴染むMG151航空機関砲の二ミリ弾が雨のように降り注いで、またたく間に私の全身を貫いたからだ。受け身をとる間もなく後ろに倒れ込む。
 ぐるぐると取り留めのない思考が浮かんでは消え、その間に私の愛すべきフォッケウルフと輸送機は鮮やかな着地音をててすぐそばの地面に降り立った。たった今起こったことを何度考え直しても、結論は同じだった。
 私は味方に攻撃された。
 ただでさえ深手を負っている私の肉体は、もうまともに動く余地がなかった。一定の感覚で歩み寄る軍靴の足音に向かって、なんとか声を絞り出す。
 よく耳に馴染むMG151航空機関砲の二ミリ弾が雨のごとく降り注いで、瞬く間に私の全身を貫いた。受け身をとる間もなく後ろに倒れ込む。
 あまりにも唐突な出来事に取り留めのない思考がぐるぐると浮かんでは消え、その間に私の愛すべきフォッケウルフと輸送機は鮮やかな着地音をててすぐそばの地面に降り立った。たった今起こったことを何度考え直しても、結論は同じだった。
 私は管制官に撃たれた。
 ただでさえ深手を負っている私の肉体は、もはやまともに動かせる余力がなかった。一定の間隔で歩み寄る足音に向かって、なんとか声を絞り出す。
「あの、一体、これは、どういう――あ、すいません、ハイル――」
「敬礼はもういいよ。リザ大尉はあそこに立っている建物のどこかにいるのかね」
「敬礼はもういいよ。リザ大尉はあそこにる建物のどこかにいるのかね」
「あ、はい、そうですが――」
 私の話の続きを絶えず遮るようにして、管制官は連れ立っている他の兵士たちに告げた。
「だそうだ。行って連れてこい」
「だそうだ。連れてこい」
「はっ」
 兵士たちの輪郭が仰向けに倒れ込む私に一瞥もくれず走り去っていく様子が映った。曖昧な縁取りで虚ろに描かれた管制官の人影が話しはじめる。
「すまないね。これも私の仕事なんだ。今から君たちを連れて行かなきゃならない」
 兵士たちの輪郭が私に一瞥もくれず走り去っていく様子が映った。曖昧な縁取りで虚ろに描かれた管制官の人影が話しはじめる。
「すまないね。これも私の新しい仕事なんだ。今から君たちを連れて行かなきゃならない」
「ベルリンに、ですか?」
 かすかな期待を込めて問うも、人影はふらふらと揺れ動いた。「いや」声の調子はいつもと変わりがなかった。
「とりあえずはニュルンベルグに連行することになっているが、その先はどこだか分からんよ
 かすかな期待を込めて問うも、人影はふらふらと揺れ動いた。「いや」声の調子はいつもと変わりがなかった。
「とりあえずはニュルンベルグに連行することになっているが、その後はどこだか分からんな
「ニュルンベルグ――? あの、失礼ながら、私、ミュンヘンにしか住んだことがなくて――どうしてニュルベルグなのですか?」
「君は裁判にかけられるんだ。判決はもう決まっている。死刑だ」
 いつもは耳から脳に淀みなく伝わる管制官のお言葉が、今回に限ってはいまいち呑み込めなかった。機銃に撃たれて朦朧としているせいもあったが、一つ一つの単語が私の認識を脅かしているように感じられたからだ。
 まずもって、明らかにしておかないといけないことがある。私は慎重に口を開いた。
「君たちは裁判にかけられるんだ。判決はもう決まっている。死刑だ」
 いつもは耳から脳に明瞭に伝わる管制官のお言葉が、今回に限ってはいまいち呑み込めなかった。機銃に撃たれて朦朧としているせいもあったが、一つ一つの単語が私の認識を脅かしているように感じられたからだ。
 まずもって、明らかにしておかないといけないことがある。私はこわごわと口を開いた。
「あの、管制官……私たち、勝ったんですよね? イギリスに、アメリカに、ソ連に」
「いいや、負けたよ」
 管制官のお返事はまるで雑談の途中みたいに軽やかだった。
 ドイツが――神聖ローマ帝国の正当な後継者たるライヒが――負けた?
「負け――そんな――私たちの先輩は、選りすぐりの魔法戦士たちは、どうなってしまったのですか」
 彼は深く息を吐いた。まるで物分りの悪い子どもに呆れ返っているような感じだった。
 管制官のお返事は雑談の途中みたいに軽やかだった。
 ドイツが――神聖ローマ帝国の正当な後継者たる帝国<ライヒが――負けた?
「負け――そんな――私たちの先輩は、選りすぐりの魔法戦士たちは、どうなってしまったのですか」
 彼は深く息を吐いた。まるで物分りの悪い子どもに呆れているような感じだった。
「まあ、あえて言わなかった私も悪いからな。仕方がない」
「えっと、あの――」
「いいか、魔法戦士などゲッベルスが誇張した存在に過ぎない。君たちを含めても片手で収まるほどしかいない。むろん、全員とっくに戦死した。とんだ出来損ないどもだった」
 管制官の落ち着いた声色がうってかわって熱を帯びはじめた
「我々の国そう、ライヒ、ライヒとかいうやつはな、もうとっくに負けるはずだった。それをこの私が、俺が、変えてやったんだ。画期的な電気実験によって、古の魔法戦士を復活させることに成功した。ところが、理想と現実は違う。あたかも、そう、まさにローマ美術に登場するような、筋骨隆々のアーリア的男子こそが魔法戦士に相応しいと思っていたが――神はえてして気まぐれだ。我が国においてたった数例の成功例はどれもアーリア的資質に欠けていた」
 もはや管制官の演説には口を挟む隙がなかった。とめどなく、あふれるように次々と言葉が躍り出てくる。
「だが、俺は運命を受け入れることにした。さもなければ、神秘や呪いの類を研究している学者風情の俺などに、収容所の長、ましてや准将などという役職は決して与えられなかっただろうからさ。実際、君たちは出来損ないながらとてもよく戦った。負けて当然の戦争をいくらか引き延ばすくらいにはね。特に君たちはそうだ。こうして最後まで生き残ったんだからな。どこで拾ってきたのやら分かりもしない混血児のくせに」
 ほとんど要領の掴めない管制官のお言葉でも、最後の方だけはさすがに異議を唱えたかった。
「いえ、それはちょっと、誤解があるようですわ。私、私の父はれっきとした正当なアーリア民族です」
 それに対して管制官は鼻息を一つ鳴らして応じた。
「君に父などおらんよ。あの収容所は非アーリア的な形質を兼ね備えた個体――混血の捨て子、障害者、男が好きな男、あるいはその逆、女のふりをする男、あるいはその逆――まあそういった奇人変人、厄介者、国家のお荷物を集めて処分する施設だからな。T4作戦、というれっきとした名前も付いていた。一旦は中止されたんだが、この俺がフューラーに願い出て、そこを魔法戦士の生成実験所にする許しを得たんだ」
 管制官の説明にはまるで屈託がなかった。嘘偽りなく、飄々と胸中を曝け出しているような雰囲気が感じられた。
「いいか、魔法戦士などゲッベルスのやつが誇張した存在に過ぎない。実際には、君たちを含めても片手で収まるほどしかいない。むろん、全員とっくに死んだ。とんだ出来損ないどもだった」
 管制官の落ち着いた声色がうってかわってどす黒く熱を帯びはじめる
「我々の国――そう、ライヒ、ライヒとかいうやつはな、もうとっくに負けているはずだったんだよ。それをこの私が、俺が、変えてやったんだ。画期的な電気実験によって、古の魔法戦士を復活させることに成功した。ところが、理想と現実は違う。まさにローマ美術に登場するような、筋骨隆々のアーリア的男子こそが魔法戦士に相応しいと思っていたが――神はえてして気まぐれだ。我が国においてたった数例の成功例はどれもアーリア的資質に欠けていた」
 管制官の人影からとめどなく、あふれるように次々と言葉が躍り出てくる。
「だが、俺は運命を受け入れることにした。さもなければ、神秘や呪いの類を研究している学者崩れの俺に、准将などという階級は決して与えられなかっただろう。実際、俺の作品は出来損ないなりにうまくいっていた。特に君たちはそうだ。こうして最後まで生き残ったんだからな。どこで拾ってきたのやら分かりもしない混血児のくせに」
 要領の掴みにくい管制官のお言葉でも、最後の方だけはさすがに異議を唱えたかった。
「いえ、それはちょっと、誤解があるようですわ。私、私の父はれっきとしたアーリア民族です」
 それに対して管制官は鼻で笑って応じた。
「君に父などおらんよ。あの収容所は非アーリア的な形質を持つ個体――混血の捨て子、障害者、同性愛者、女のふりをする男、あるいはその逆――そういった奇人変人、厄介者、国家のお荷物を寄せ集めて処分する施設だからな。T4作戦、というれっきとした名前もついていた。一旦は中止されたんだが、この俺が総統閣下に願い出て、そこを魔法戦士の生成実験所にする許しを得たんだ」
 管制官の語り口調に後ろ暗さは感じられなかった。嘘偽りなく、飄々と胸中を曝け出しているようだった。
 私が、捨て子? 親がいない?
 でも、それは、おかしい。だって私は、毎日のようにお手紙を書いている。ブリュッセルで果敢に戦っているお父さんに向けて。なにより、思い出がたくさんある。そうだ、あの日のあのことだって。
 私は上官への非礼を極力避けて訂正を願い出た。
「それは……謹んで申し上げますと、どなたかとお間違いになられていますわ。私のお父さんは、ヘルゲ・クラッセは、小さい私の――」
 私は上官への非礼を承知で再度の抗議に打って出た。
「それは……恐れながら申し上げますと、どなたかとお間違いになられていますわ。私のお父さんは、ヘルゲ・クラッセは、小さい私の――」
「――手を取って、地図の上をなぞり、ミュンヘンの街並みを教えてくれた。そうだろ?」
「え?」
「最後はマリエン広場にたどり着くと終わる。なぜなら君の名前の由来だからだ。知らないわけがない。俺が考えたエピソードの一つだからな。”管理番号七、クラッセ家の物語”だ。番号の通り、他にもバリエーションがある。ところどころ設定が被っているがね。君たちはどこかの裏路地から当局に「セッシュウ」されてきた。当時、君も何度かこの言葉を聞いていたはずだ。だから再教育が必要だった」
「最後はマリエン広場にたどり着くと終わる。君の名前の由来だ。知らないわけがない。俺が考えたストーリーの一つだからな。”管理番号七、クラッセ家の物語”だ。番号の通り、他にもバリエーションがある。ところどころ設定が被っているがね。君たちはどこかの裏路地から当局に「セッシュウ」されてきた。当時、君も何度かこの言葉を聞いていたはずだ。だから再教育が必要だった」
 セッシュウ……セッシュウって、接収のことだ。今までこの言葉の意味が解らなかったのは……。
「東部戦線に行くまで君が熱心に書いていた手紙な、あれは全部、俺の元に届いていたんだ。毎日楽しく読ませてもらっていたよ。自己洗脳ほど効果が高いものはないからな」
「じゃ、じゃあ……ブリュッセルは」
「今年の二月初めに陥落した」
 言い表しようのない脱力感が全身を襲った。機銃で打ちのめされるよりもよっぽど身体が痛かった。管制官の掃射はなおも容赦なく続いた。
「いいか、君は捨て子だ。親はいない。混血児で、障害者で、国家のお荷物だった。それをこの俺が使い物になるようにしてやったんだ。いずれ連中も思い知るだろう。そういう出来損ないどもが大手を振って蔓延る世の中になったらどうなるか。確かに戦争には負けたが、我々の思想は永久不滅だ。十年後でも、たとえ百年後でも蘇ってみせる」
「私、私は……アーリア民族では、なかったのですか」