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Rikuoh Tsujitani 2023-08-21 20:46:59 +09:00
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title: ".あの子が死んだ理由"
date: 2021-10-15T21:24:02+09:00
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tags: ["novel"]
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 このテキストファイルはどのオンラインストレージにも保存せず、ファイル名の先頭にドットを付けておこうと思う。
 あの子が自殺したらしいと聞いたのは、三日連続で学校に登校してこなかった次の日のことだった。学校のネットワークを通じて送りつけられてきたメッセージには事細かに注意項目が示されていた。あの子が死んだ、という端的な報告に比べたら注意項目の長さは現代文の問題並だ。
 その報せがクラス中に行き届くと、誰かがあの子の机の上に供花のグラフィックをマッピングした。たった一輪の、パンジー。本当の悲しみを古風な形で表現したと見るか、単なる嫌味、嫌がらせの類と捉えるかは、あの子の生前の立ち位置を考慮すると微妙なところだ。決して人気者ではなかったが、特に嫌われていたという話も聞かない。強いて言うなら、空気。そう、空気に近い。
 間抜けな子だった。たまたま家までの道順が似ているから、一緒に帰るだけの間柄。会話はいつもちぐはぐでとりとめもなかった。
「――−」
 露骨にくぐもった、かすかな人工ノイズに指向性を認めて振り返ってみると、そこには靄〈もや〉の塊があった。いつもはそれを「靄」と見なしたりはしない。たまたま空気について想像していたから、なんとなく近いものを連想しただけに過ぎない。わたしは靄が次の人工ノイズを発する前に、視界上に展開した仮想のボタン類を慣れた視線移動で操作した。そうすると靄はたちまち人間の姿に切り替わったので、靄ならぬ彼女の次の一言を聞き取ることができた。
「知ってる? 絵美里ちゃんの話」
 あたかもありふれたゴシップニュースを語る口ぶりで、わたしにとっては少々癪に障る声のトーンを伴って話しかけてきた彼女は、いつにも増して鬱陶しい輝きをその目に湛えていた。
「いいや、知らないけど」
「ええっ、そうなの?」
 彼女は広げた両手を口元に持ってくる芝居がかった仕草をしてみせた後に「だってえ、ほら、理沙ちゃん、あの子と仲良かったじゃん」と粘り気のある声を発した。
「そんなに、仲が良かったわけじゃないよ。たまたま一緒に帰ることが多かっただけ」
 一瞬、声のトーンが濁りそうになったのはわたしの技術不足だ。相手に感情の揺らぎを勘付かれたかもしれない。というのも、先ほどから視界上にポップアップしまくっている〈会話補完〉をことごとく無視して会話しているために、眼前の彼女の不快度がだんだんと上昇してきているからだ。この分析結果が、期待した情報をただちに得られなかったもどかしさからくるものか、わたしが本心を隠していることに気づいてのことかまでは、判らない。
 その後も二、三往復ほど無益な腹の探り合いを繰り返し、何も得られそうにないと理解した彼女は「ふーん、なんか判ったら教えてよ、だって、自殺なんて滅多に聞かない話だしさあ」と言い残して踵を返した。わたしは彼女の背中を見送りながら、再び最小限の眼球運動で彼女を「靄」に戻した。おかげで彼女が別の誰かと例の甲高い声できゃあきゃあ騒いでいるらしい様子を聞かずに済んだ。
 このご時世、人間関係を平穏かつ健全な状態に管理することはもはや国民の責務と言っていい。自分に合わないと分かりきっている相手から極力ストレスを受けないようにするためには、このようにしてフィルタリングしてしまう方が賢い。
 あけすけで、どの年代にも通じる言い回しをするなら、わたしは彼女をミュートしている。彼女だけではなく、わりとそこそこ多くのクラスメイトをミュートして靄にしている。通常、ミュートするといったら遠回しな絶交を意味する。できるだけ関係を持ちたくないし、会話も受け付けない。そもそも、靄になっていたらどこの誰かさえ判らない。話しかけてきても大抵は気づきもしない。なぜならどんな声も、両耳の奥深くまで差し込まれたインイヤー装置――〈イヤホン〉が音声を加工して、かすかな人工ノイズに変えてしまうからだ。
 わたしの親の時代でも、嫌いな人間をあえて無視する、あたかもいないように振る舞う、というやり方は、一種の嫌がらせとしてごく当たり前に行われていたそうだ。しかしわたしにしてみれば、それってする方もなかなか辛いんじゃないか、と思う。どんなに無視しようと努めても視界にはっきり映る以上は視線が誘導されてしまうし、なにしろ相手の声を聞くことは避けられない。相手を正しく認識した上でいないふりをするのは難しい。昔の人は嫌がらせでやっていたといっても、案外自分たちの方もストレスを溜めていたのかもしれない。
 ところが、わたしの時代にはこうした便利な道具の数々がある。眼球を覆う〈ビジョン〉が視界を思うままに再構築し、聴覚は〈イヤホン〉がよしなにやってくれる。社会も学校も人間関係も、これらの機能を概ね正当化するように象られている。だから〈ビジョン〉が視床下部を電気刺激して算出してくれるストレス値でも、大抵わたしは危険水準に達した試しがない。
 ……今日までは。あえてポップアップするとさらに具合が悪くなりそうなので、チラ見してすぐに消したものの、だいぶひどい値になっていた。いつもは息を吸うように使いこなす〈会話補完〉も無視してみたりして、今日のわたしは明らかに平常じゃない。
 わたしは誰かがマッピングした絵美里の机の上の供花を睨めつけた。これを嫌がらせでやるクラスメイトがいるとしても、間違いなくミュート済みのはずだ。ミュートしている相手のマッピングが自動で共有されるはずがない。そうでなくてもマッピングを「全共有」で行うのはかなりのマナー違反にあたる。
 怪しげな視線を振りまかないように注意しながら辺りを確認すると、じきに授業が始まるとあってほとんどは座席に着いている様子が見て取れた。机上の供花に他の誰かが注目している様子はない。とはいえ、およそクラスメイトの半分以上をミュートしているので、靄になっている方までは判らない。そっちまで入念に確かめようとするのはさすがに骨が折れる。
 間もなく本鈴が鳴り響り、教室の前面奥に備え付けられた大型ディスプレイが点灯した。ディスプレイの向こう側に座る先生はいつものはきはきとした調子で授業の開始を告げた。
 いくつかの授業をやり過ごし昼食の時間に入るやいなや、わたしは教室から飛び出して廊下を歩きつつポケットから〈ビジョン〉の操作盤たる〈インターフェイス〉を手に取った。平べったい硬質なウエハースに似たそれは、眼球移動では億劫になる大量の操作を助けるために備わっている。というより大抵の、特に中高年層のビジョンネイティブでない世代の人々は、もっぱらこっちでしか操作できない。眼球移動のみで巧みに操作が行えるのは、幼少の頃からその手のデバイスに親しんできたわたしたちの世代だけだ。
 そうはいってもあまりにぐりぐりと視線を動かしていると目が疲れてたまらない。眼精疲労からくる様々な疾患はここ数十年の間に新たな国民病にまでせり上がったという。〈インターフェイス〉を使えば、さしあたりこの問題を回避できる。
 一方、なにかとセンシティブな人間関係を管理統制していく上で、あまり人前で〈インターフェイス〉を触っているのは体裁が良いとは言えない。眼球の動きはまだ言い訳が立つが、〈インターフェイス〉に触れていることはすなわち〈ビジョン〉の操作を意味する。まともに話を聞いていないと思われるくらいならマシな方で、ミュートやフィルタリングをしていると勘ぐられる恐れがある。事を荒立てないための措置が露見してしまってはどうしようもない。
 事実、人々はその時々に応じて他人をミュートしたり、フィルタリングしている。しているが、それを公言することは加害行為と見なされるし、たとえ不本意であっても認識は概ね変わらない。完全な管理を以て気を遣いつつも、日常的なやりとりの中でさりげなくミュートしていることに気づかせる。もしくは、自発的に気づいてもらう。ここまでやってのけて初めて、わたしたちは無謬の存在と認められる。
 もちろん、中には激昂して物理的な行動に出る輩もごく少数いる。姿や声を打ち消せても接触は避けられない。肩を掴まれて叫ばれたら、何を言っているのか、誰が言っているのかは即座に判らないが、危険な状態に陥っているのはさすがに理解できる。
 しかしこの段階まで来たら、いよいよわたしたちは被害者を名乗る権利を得られる。そうなったら、初めてわたしたちは「ブロック」を検討する。ブロックすると、互いの姿形と声が靄になる。した側は、ブロック対象者が接近すると警告を受け取れるようになる。された側は、相手を見つけ出すことが非常に困難になる。近づけば遠ざかっていく靄を見つけ出すのは至難の業だ。
 ところがブロックは自治体の認可が降りなければ認められない。人工知能の審査は三審制裁判と比べればずっと早いが、大抵の人たちは「コミュニケーションに失敗した」と認めたがらないがために申請を怠る。なので、できる限りはミュートやフィルタリングを駆使して互いにやり過ごす。
 そんな時に大いに役に立つのが例の〈会話補完〉なのだ。
「ねえ」
「絵美里さんの机の上の供花」
「誰が置いたの? とってもきれいだったから、グラフィックのアセットが欲しいな」
 わたしは視界上で学年ネットワークのチャットルームにアクセスして、さっそく供花の話題を投げかけた。短く細切れで、行間に白々しい絵文字が踊るその文章は、わたしではなく〈ビジョン〉が〈会話補完〉機能で生成したものだ。
「供花?」
「どの机の上?」
 軽快なポップ音を立ててクラスメイトの発言が次々と流れ込んでくる。〈会話補完〉に対して〈会話補完〉で返すのは極めて相性がよく、ただでさえ秒単位の分析速度を持つに至った補完機能がさらに最適化される。現実の会話は口に出さなければならないがチャットなら自動で返信することもできる。今、視界上に見える十数名の発言者のうち何人かはきっと自分が会話していることも知らないだろう。とはいえ、どんな話題にでも一応反応を示しておくことは人間関係を円滑に保つためには必要不可欠であり、洗練された会話補完のアルゴリズムがそのあたりの判断を誤る恐れはほぼない。
 だが肝心な情報源としては、わたしのクラスメイトはてんで役立たずだった。雪崩を打って書き込まれるメッセージの数々は、供花を見たにせよ見ていないにせよ情報量が極端に少なかった。補完機能同士で勝手に完結する、コミュニケーションのためのコミュニケーション。
 昼食を摂るための時間が刻々と削られていくのを視界上右端の時刻表示で認めながらも、わたしは再び教室に舞い戻った。机上の供花は、確かにそこにある。
 わたしがミュートしているような、下品な連中はきっとあの子の死因や噂話を投稿しているのだろう。ひょっとすると案外、その中に有益な情報が紛れ込んでいるのかもしれない。一時的にすべて解除してみるのも……。
 その時、視界からよけていたチャットウインドウが一オクターブ高い通知音を鳴らした。ダイレクトメッセージだ。
「三階 図書室」
「宗教・自己啓発の棚」
「私が彼女のために供花を添えたの」
 発言者の名前は、神崎志保。見覚えがない。が、わたしがダイレクトメッセージを見られるということは、少なくともミュート済みの相手でもない。
 再び、あたかもぜんまい仕掛けの人形を模倣した急旋回で教室を出て図書室を目指した。
  2
 案の定、というか、当然の道理として図書室は静まり返っていた。今時、あえて紙の本を読みたがる人は一部の物好きに限られる。わたしだって入学直後のオリエンテーションで足を踏み入れたきりで、今回が二度目の来訪となる。なんでも政府が決して少なくない額の税金を投じて紙の本の保全活動にあたっているとか、公立図書館を除けば学校がその重要な拠点の一つになっているとか、そんな説明を受けた記憶がある。細菌の温床であり、ちょっとしたことで経年劣化して、いちいち手先を動かさないと読めないアンティーク品に、なぜそこまで国が熱意を燃やすのかわたしには解らなかった。
 天井から吊るされたガイドを頼りに「宗教・自己啓発」の列を見つけ出すと、左右の本棚で隔てられて生まれた直線の通路を慎重に歩いた。おのずと視界に映り込む本の背表紙を〈ビジョン〉に頼るまでもなくわたしの肉眼が読み取り、適当な感想さえも思い浮かばせた。
「コミュニケーション4.0 〜ビジョン活用法〜」 ――えらく古臭い言い回しだなあ。中年くらいの人たちがいそいそと買い求める姿が想像できる。
「インプとキリスト教」 ――ここでいう「インプ」とは悪魔のことではない。〈ビジョン〉や〈イヤホン〉などの身体密着型情報端末の総称、Implanted Device〈インプランテッド・デバイス〉を侮辱的に短縮した単語だ。元は宗教家やテクフォビアが好んで使う略称だったが、しばらくのうちに単に便利な新単語として広く普及した結果、従前の文脈を失ってしまった。今では誰もがインプ、インプと気軽に言う。
 かつて人々が使う情報端末はもっと距離感が離れていたらしい。それらはデスクトップ、と呼ばれていて、文字通り机の上に置かれていた。時代が進むとラップトップ、と呼ばれる膝の上に置けるサイズの端末が登場した。それがやがて電話機と融合したり、メガネと融合したり、時計と融合したりもした。当時、後者二つにはウェラブル・デバイスなんて通称が名付けられていたそうだ。
 情報端末と人間の間に存在する物理的距離は、このように時代の変遷とともに縮まってきている。〈ビジョン〉は眼球の上にへばりついているし〈イヤホン〉は耳の奥深くまで差し込まれている。物理的距離はもはやゼロに等しい。
 これ以上縮まるとしたら、どうなるんだろうか、と派手な題名で飾られた自己啓発本の背表紙を流し見しながら考えた。たまたま、視点が「コミュニケーション4.0における距離感の縮め方」で一瞬止まった。
 物理的距離がゼロ以下に縮まるとしたら、もう負の値になるしかない。眼球を越えて頭の中にめり込んで、耳介を越えて蝸牛にでもめり込むのだろうか。幸い、これらのデバイスを言い表すのに別の新単語を用意する必要はない。むしろ、よりまっとうにImplanted〈インプランテッド〉されている。そうして相変わらず、わたしたちは自分の肉体の内部に宿した装置をインプ、と呼び続けるのだろうか。
 肉体の中にインプ〈悪魔〉が宿る――なにげにうまく言葉遊びが転がったと見えて、わたしはそこそこの満足感を覚えた。周囲に誰もしないせいか、思わず油断してフッと笑みがこぼれた。
「なにニヤついてんの?」
 ぎょっとした。今しがた通り過ぎたはずの本棚から声が聞こえたからだ。
 反射的に振り返ると、そこには自分よりずいぶん背丈の低い、ぼさぼさの髪の毛を好き放題に伸ばした出で立ちの女の子が立っていた。顔にはそばかすが生えていて、口元がへの字に曲がっている。
「あ、あんた、どこから――」
「ずっとここにいたよ。座ってたけど」
 彼女は自分が本棚のすぐ真下の床を指差した。
 こんな狭い通路で人一人を見失うなんて考えにくい。ひょっとするとわたし、やっぱりこの子をミュートしていた?
 ただちに眼球をくりくりと動かしてミュートリストを呼び出そうとしたが、その前に眼前の子が口を開いた。
「ミュートもフィルタリングもしてないよ。あんたは。ただ私が、私の体にカモフラージュ映像をマッピングしているだけ」
「……なんでそんなことを?」
 ビビッと視界上の会話補完ウインドウが真っ赤に光って揺れた。複数ある選択肢のいずれにも該当しないリアクションを返したせいだ。補完機能を用いずに〈ビジョン〉の記録にない相手と会話することはリスクが高いと見なされるため、通常より高い通知レベルで知らされる。が、今はどうでもよかった。誰もいない図書館に一人だけいて、わざわざマッピングで姿を隠す。例のダイレクトメッセージの送り主――神崎志保で間違いない。
「さあね。でも、私が見えないのは、私だけのせいじゃない。街中のマッピング広告や表示案内を手間なく見るために、全共有を許可しているからでしょ」
 図星だったので思わずひるんだが、私は同じ言葉を繰り返した。なんでそんなことを、どうしてそんなことを。
「パンジーの話?――あの子が死んだ理由について考えてほしかった。あんたには」
 こちらに背を向けながらごく平坦なトーンで言う彼女は、やはりとても華奢な体型をしていた。
「わたしに? どうしてわたしが? わたしは別に」
 言い終わる前に相手は言葉をかぶせてきた。
「〈ビジョン〉じゃなくても判る嘘をついちゃだめだよ」
「……あんたは、知ってるの」
 わたしはギュッと手のひらを握りしめた。
「もちろん。みんなが自分の現実を信じているから、私はほとんど誰からも見えない」
「じゃあ教えて……と言ってもすんなり教えてはくれなさそうだね」
「うん」
 振り返った彼女はへの字の口元をびっくりするほど釣り上げ、満面の、屈託のない笑顔をこちらに振りまいた。
「あんたの目にへばりついたインプをせいぜいうまく使って、頑張って突き止めるんだね」
 次の瞬間――わたしは彼女の肩を掴んで引き倒そうかと考えた。半分は怒りで、もう半分は合理的な発想からくるものだ。わたしの体格でもこの子くらい小柄なら簡単に馬乗りになれる。どんなに飄々としていても、痛い目に遭わせられるのは嫌だろう。後で彼女が出るところに出たとしても、ブロックが可能になるまでは何日もかかる。女子学生同士のちょっとした取っ組み合いで刑事罰が下る恐れはない。
 ところが眼前の彼女は私が前足を踏み出すよりずっと早く、再び自分自身をカモフラージュした。それは靄よりもさらに見えづらく、既に距離感さえ判然としない。
「じゃあ、いい感じに仕上がったらまた会いましょう」
 何もないように見える空間から声がしたかと思うと、ぱたぱたと立ち去る足音が誰もいない図書室にこだました。
 ややあって、昼食休みの終了を知らせる予鈴が鳴り響いた。
 下校中。学校の校門前でわたしは全員のミュートを解除した。どっ、とにわかに繁華街のど真ん中に放り込まれたかのように人々の声が耳に突き刺さってきた。これほどコミュニケーションの簡便性が増した時代にあっても、人は何かにつけて対面で喋りたがる。あえて見ていないが、わたしのストレス値はきっと過去最悪の数値を示しているに違いない。心臓の鼓動が不規則に高鳴っているのが判る。わたしは足早に校舎から距離をとった。
 すぐさまチャットルームにアクセス。履歴を遡ったり、別のチャンネルを渡り歩いたりして、いつもは目にも入れたくない下品な連中の発言を読み漁った。
「絵美里、投身〈フィルタ済み〉したらしいよ」
「いや、おれが聞いた話では〈フィルタ済み〉って」
「〈フィルタ済み〉〈フィルタ済み〉〈フィルタ済み〉」
 未成年ユーザは〈ビジョン〉のチャイルドガード機能を無効化することができない。保護者の同意を得て、保護者自身のアカウントで認証を行えば切れるが、もちろんそんな真似をする親はいない。児童の権利主張と保護者からのクレームの中間をとったメーカーの妥協が表れている。
 成人モードだとマッピング機能の効果もずっと強力で、建物はもちろん動いている物体、それこそ人間や動物、風景でさえ好きなグラフィックに上書きできる。そうして作り出されたパーソナルな現実は今や権利の一つに数えられているほどだ。
 検閲された部分は適当に類推するとして、彼女の死に方に触れている投稿は数多くあっても、死因に言及している人は少なかった。投身自殺だの、手首を切っただの、好き放題に書かれている。わたしが知りたいのはそんなことではない。
 粘り強くスクロールを続けていくと、やがて一つの発言が目に留まった。
「さっきオンラインストレージから何日か前の映像ログを引っ張ってみたんだけど、〈フィルタ済み〉ようには見えなかったなあ。相変わらず変な子だったけど」
 そうだ、オンラインストレージから映像ログを取得すれば、彼女の様子を調べ直せる。いつも一緒に帰っているわたしだけが、学校の誰よりも直前の状態に詳しい。
 さすがに歩きながら映像を観るのは少々危険なので、できる限り急いで私は家に帰った。
 家では、パパとママが両方揃って私を出迎えた。パパは未だに通勤を強制する古風な伝統的企業に勤めていたが、五年前から急に出世を重ねて役員に登り詰めて以来、出社義務から解き放たれた。
 パパとママがいつものようにハイエンドモデルの〈ビジョン〉から補完された会話を繰り出してきたので、私も補完機能を使って応答した。〈会話補完〉のウインドウは発声のトーンが弱いと指摘したが、無視して続けた。確かにわたしは自分の口から喋っているが、ただ機械的に読み上げているだけだと記憶に定着しにくいのか、ここのところ二人とどんな会話をしたのか思い出がまるで残っていない。というか、今しているやり取りでさえろくに頭に入ってこない。
 〈会話補完〉をプライバシー尊重訴求方針に切り替え、体よく自室にこもる口実を機械的に生成したわたしは、二人のよく訓練された笑顔に見送られながらリビングを後にした。補完機能曰く、今回の会話スコアはほぼ満点に近く、今日一日の中では際立って最良のコミュニケーションだったそうだ。
 念願のプライバシーを獲得すると、わたしはベッドに横になって仰向けになりながら考え事にふけった。
 パパがあんなふうになったのは五年前に会社から事実上命じられて〈ビジョン〉を購入させられてからだ。それまでは何かとパパのセンスのない会話に苛立ち――本当の原因は自分自身が心身ともに思春期に入ったせいだったのだが――ささいなことで家庭内不和を起こしていた。しかしパパが〈ビジョン〉の使い方を覚えるやいなや、すべてが良い方向に進んだ。
 まず、たとえ機械が生成した会話であると理解していても、わたしはパパに苛立たなくなった。そのことを悟ると、ママも〈ビジョン〉を使うようになった。二人のコミュニケーションは完璧に等しくなり、わたしはしばらく満足した。次に、パパは出世した。パパの世代でも〈ビジョン〉の普及率は8割近い。古風な価値観ながら当時まがりなりにも中間管理職だったパパが新しい技術に馴染めば、会社の中で特に存在感を発揮するであろうことは容易に想像ができる。わたしはとてもそうは見えなかったが、実は仕事ができたんだなあ、なんて無邪気に考えていた。
 一方で、二人の本心はまったく判らなくなった。そんなものは知るべきではないし、知ろうとしてはならないと言わんばかりに、二人は〈会話補完〉を片時も手放さなくなった。わたしもそこまで本心を知りたい欲求はなかったので、概ね納得した。重要なのは役割を果たすことだ。パパとママは両親としての、わたしは娘としての、役割を演じきれたらいい。そうすれば全部うまく回るし、現に成功している。
 とはいうものの、絵美里が死んだ今となっては、人の本心を覗きたくなっている。
 本当に死ぬ人間は死にたいと言わずにいきなり死ぬ、とどこかで聞きかじった覚えがある。本当か嘘かは判らない。しかしこの命題だと反例が一つでもあったら即座に偽となるので、きっと嘘なんだろう。
 でも少なくとも、絵美里はそうやって死んだ。誰にも、わたしにも、告げることなく死んだ。にも拘らず、どういうわけか、あの女の子だけは真相を知っている。
 正直、わたしは単なる探究心を越えて、嫉妬のような感情さえ抱いている。彼女との会話がなければ、たとえ死因が不明のままでもちょっとずつ忘れられたかもしれない。
 わたしだけが手にした、平穏な関係だったはずなのに。現状では彼女と絵美里の間柄さえ不明のままだ。
 とにかく、わたしはわたしでできることをしなければならない。
 ベッドに寝転がったまま〈インターフェイス〉を触って、オンラインストレージにアクセスした。
 〈ビジョン〉はわたしたちの視界を常に録画している。無効にしたければいつでも無効にできるが、様々な局面で映像記録はわたしたちにとって行為の正当性を主張する材料になりうる。逆にそれらがなければ大きく不利な扱いを受ける。後ろめたいことがなければ有効にしておく方が社会的に望ましい。大きな揉め事が起こった際にどちらがブロックを行使する側になれるかはひとえに映像記録にかかっている。まかり間違って行使される側にでもなったら、自分の人生に致命的な汚点を刻む羽目になる。
 ファイルを展開すると映像記録が視界いっぱいに表示された。シークバーをぐりぐりと動かして記録の精細さを確認する。先頭まで進めるとわずか数分前、両親と交わした会話のシーンが映った。逆にめいいっぱい戻すと、映像記録の日付が一週間前になった。このオンラインストレージは〈ビジョン〉のメーカーが提供しているビルトイン機能だが、なかなかどうして商売上手で一週間以上前の記録は所定の料金を支払わなければ取得できない。しかし幸いにもわたしの用途では一週間分もあれば事足りる。〈インターフェイス〉で微調整してやると、映像記録はちょうど一週間前の下校時刻から始まった。まさしく絵美里と一緒に校門を通り過ぎるところだった。
 強めのくせ毛を無理やりなでつけた、彼女の童顔が映り込む。わたしの視界は実に十秒単位で彼女の顔を捉えていた。客観的に言って、まじまじと眺めたくなるほど美人じゃない。なんせ彼女は「空気」だった。あからさまに遠ざけられるほど醜くもないが、美しくもない。個性らしい個性があるわけでもない。
「うん、そうだね」
 唐突に、絵美里が相槌を打った。
「いや、わたしまだ何も言ってないけど」
 わたしはすばやくツッコミを入れた。
「なんとなく考えていることが判ったの。それでね……」
 彼女はひとりでにだらだらと中身のない会話を始めた。彼女が〈会話補完〉を使っていないことは明らかだった。そもそも使い方が判らないと言われても信じてしまいそうだ。今時、義務教育でも念入りな講習があるほどなのに、彼女ときたらどうやってこの高校の入試を突破できたのかも不明なほど間が抜けている。だから、わたしも使わない。いつも会話はちぐはぐで、とりとめがなかった。
「でもわたしだったら虎より草食動物がいいな。肉食動物は一見強そうに見えて実は競争が激しい。ましてや元が人間だったら」
「ねえ、見てよパンジーが咲いてる」
「聞けよ」
 彼女はわたしのツッコミを無視してぱたぱたと歩いていき、緑化区域の端に咲いたパンジーの前で立ち止まった。大きな目をしきりにパチパチさせている。〈ビジョン〉で写真撮影をしているのだろう。
 あの子の関心はとても移り気が激しく、天気の話をしているかと思ったら古典の話になって、かと思えば花の話になったりするのだった。常人ならとても付き合いきれない。ただフレーズや単語を投げ合うのは会話とは見なされない。その場の話題によく対応し、一貫性のある私見らしきものを備えた、筋の通った意見の交換を経て初めて成立したと言える。
 でもわたしはこの瞬間だけ、本当の会話をしている気がした。
 一日分先送りにする。
 そこでは、また似たような会話の応酬。相変わらずところどころ噛み合わない。
 さらに一日分先送りにする。
 ずいぶん会話の内容が一致している。こういう日もたまにはあった。映像記録を観て初めて気づいたが、この日のわたしの声はいつもより甲高い。もし他人ならミュートを検討していたかもしれないほどに。我ながら鬱陶しい声色だ。
 視界がだんだんとひしゃげて見えてきた。みるみるうちに目の前がぼやけてきて、あふれでた分泌液が頬を濡らした。
 もちろん〈ビジョン〉のバグではない。
 バグったのは私だ。
  3
 かいつまんでではあるものの、徹夜で臨んだ映像記録の確認から得られた情報は結局一つもなかった。あの子はずっと間抜けであっけらかんとしていて、わたしは存外その様子を楽しんでいた、という事実だけが色濃く浮き彫りになった。今となっては知りたくないことだった。でももう、引き返せない。わたしの感情に終止符を打つためには、すべてを明らかにしないといけない。
 朝、両親との会話を文字通り機械的に済ませて家を出た。徹夜明けで疲弊した表情をご自慢のハイエンド〈ビジョン〉が看取ってか、パパとママは婉曲に学校を休むべきだと告げてきたが、わたしもわたしの〈ビジョン〉をフル活用して登校する旨の文章を生成させた。勝負に競り勝ったのか、二人のビジョンが会話の戦略を変更したのか定かではないが、最終的にわたしは登校を許された。まあ、まず間違いなく後者だろう。特にパパのは高級メーカーのフラッグシップモデルだ。価格は新車に引けを取らない。企業役員としてあちこちで折衝を行うパパは立場上、絶対に言い負かされたりしてはいけない。子供に買い与えるような価格帯の〈ビジョン〉に方針の転換を迫られるわけがない。相手が娘だから、ソフトウェアが手加減したのだと推測される。
 登校中、わたしは次の一手を考えた。わたしとの会話に落ち度がないなら、他人のを当たっていくしかない。もっとも、こちらの望みは極めてか細い。もし誰かが公然とあの子を傷つけて自殺に追い込んだのであれば、まず彼女自身の映像記録に残る。わたしたちが彼女の自殺そのものを疑っていないのも、おそらくは警察が映像記録をあたって結論を出したのだと理解しているからだ。正直、かなり嫌な気持ちだ。
 あの子がどんなふうに死んだにせよ〈ビジョン〉は何もしなかった。ストレスを計測してくれるし、健康状態もモニタリングしてくれるし、そう、会話だって補完してくれる。苦手な人を靄にして、声をノイズに変えてくれる。でも、自殺は止めてくれない。所詮は物理的距離がほぼゼロになった情報端末に過ぎず、わたしたちの肉体的な動きまでは制御できないからだ。
 これほどまでに社会や人間関係のあり方に手を加えて囲い込み、わたしたちの認識や価値観にも深く根を張っているのに、最後の最後でこうして突き放す。話す内容や喋り方を教えてくれても、言葉を口から出すのはわたしたちの「自由」で、どのメーカーもコミュニケーションの結果に責任を持ったりはしない。
 見方によっては、コミュニケーションの内容を考える余地や手段が失われ、責任だけがわたしたちの手元に残置された状態だ。目と耳にインプが宿っても、一向に口に宿らないのは、責任の所在が曖昧になってしまうからだろう。
 空を見上げると、わたしの機嫌とは無関係に一面の青空が広がっていた。成人ユーザはストレス値に合わせて天気を雨や曇りにできるらしい。そうするとなんだか共感を寄せられた気分になるのか、実際にストレス値も低減するのだとか。今、わたしはそれがとても欲しくてたまらない。
 自分の認識に沿わない現実が疎ましい。
 最寄り駅に着いた。歴史的経緯のために残された「改札口」とは名ばかりの開けた空間を通り過ぎたと同時に、わたしの〈ビジョン〉の登録情報を読み取ったスキャナが乗車料金を請求する。請求された金額は、登録情報に紐付けられた学生用乗車権で自動的に処理される。
 駅のコンコースに向かう道すがら、壁面のあらゆる位置で全共有型広告が光り輝いている様子が見えた。個々人の行動履歴にパーソナライズされた広告とは異なり、眼科クリニックの場所や知らないアーティストの音楽コンサートの告知が並べられている。行き交う人々の全員が同じものを見る――というところに何らかの訴求効果が発生しているのだろう。
 コンコースでは、電車が滑り込む線路とわたしたちを隔てるように緩く湾曲した壁が設置されている。その壁は床から天井までの全面が液晶ディスプレイになっており、次に来る電車の時刻や経路案内が表示されている。鉄道会社は余白を余白のままにしておくことをよほど恐れていたと見える。案内によれば、間もなく電車がやってくる。
 ディスプレイの向こう側で電車が静かに停車したのが判った。液晶ディスプレイの一部分が左右に動いて開き、次々と人間たちを車内へと呑み込んでいった。
 走り出してほどなくすると、車窓から商業ビルの立ち並ぶ都市の景観が見えてきた。築年数の新しいものはどれも壁面が平坦で、全共有広告を設置するのに相応しい素朴な色合いで塗装されている。繁華街では壁面だけに飽き足らずちょっとした立像やモニュメントまでもが広告の設置場所に仕立て上げられていたりする。今や一部の案内板や地図さえ全共有マッピングのグラフィックだ。
 音楽グループの派手な車内広告に目を留めていると、〈ビジョン〉が「興味あり」と判定したのか最新アルバムのサンプルを再生しはじめた。
 しばらくののち、ようやく校門前に着いた。周囲の生徒たちが発する騒音に若干顔をしかめつつも、わたしは何かあの子の件に関する噂が聞けないか耳をすませた。本当は〈ビジョン〉を目から引き剥がして、神崎志保の行方を追う方が効率的かもしれない。しかし暴力に訴えたところで万が一口を割らせられなければ、まず謹慎処分が下され学校に来られなくなる。次にメンタルヘルスチェックや予防精神科の診療が義務付けられ、面倒な事態にも陥る。なによりそうなればパパとママは全力でわたしを「保護」しにかかるに違いない。二人の〈ビジョン〉が愛する娘の精神衛生のために、チャイルドガード機能の強化を提案でもしたら、いっかんの終わりだ。そこで二人がちょっとでも眼球をずらせば、わたしの〈ビジョン〉は即座に機能を失う。
 わたしは晩秋の急速な気温低下ではなく文明の利器を捨てさせられる根源的な恐怖から身震いした。
 何はともあれ、慎重にやらなくては。
「絵美里ちゃん……? ああ、あの子ね」
 と、声を潜めて話す相手は、絵美里と席が近かった子だ。わたしとの面識は皆無に等しい。廊下の端に呼び出すために〈会話補完〉に打ち出させたダイレクトメッセージの内容は、もうほとんど記憶に残っていない。相手も相手で、きっと半自動でメッセージをやり取りしているうちに何となく面会する流れになったのだろう、対面した際はいかにも不安げだった。
「うん。あの子と話したことある?」
「そりゃあ……あるけど」
 相手の子は目を左上にそらしながらもごもごと続けた。出だしの反応の敏感さからして、補完を待つ前に素で返答してしまっている。
「話っていうほどじゃあ、ないかもね。あんま、言ってることよくわかんなかったし」
「噛み合ってなかった?」
「うん。天気の話をしてたから、調子を合わせたら急に銀河の話になって、かと思えば中間考査の話。正直、馬鹿にされてるのかと思った」
 相手は目を背けて言った。わたしはすかさず問いただした。
「ミュートしたの?」
「……うん。いや、だって、付き合ってられないでしょう、正直言って」
 相手の子の弁解に合わせて補完機能に会話を出力させた。
「そうだね。彼女はそれに気づいたようだった?」
「わかんないよ。わかんないけど」
 相手は会話の意味するニュアンスに気づいて、あわてて手を振りながら否定した。その後、明らかに補完された弁明が二、三繰り出されたが、こちらも同様のやり方で対抗しているので差分は生まれない。
「とにかく、絵美里ちゃんはたぶん、それからわたしには話しかけてこなくなった」
 わたしは奥歯をギリと一回噛み締めて、相手の子の不注意を密かに呪った。どう考えても、ミュートされていると気づいていたからに決まっているではないか。
「誰だってミュートくらいしてるでしょ」
「別に責めてないよ。話をしてくれてどうもありがとう」
 唐突に話を終わらせられたために相手の子は少々不審がっていたが、誰しも後ろ暗いところはあるものだ。責任を追及されそうな局面から解放されてホッとしたらしい。
 次に、わたしはあの子と同じ部活動に所属していた子を探し求めた。
 むろん、過去形だ。あの会話の噛み合わなさで部活動に精を出せていたとは思えない。実際、ただ登校して、授業を受けて、帰宅するだけなら〈会話補完〉を使う必要はないとも言える。授業中にオーバレイされるグラフィックを観たり、ノートを取ったりするのに〈ビジョン〉は必須だが、補完機能は人間関係を維持するためのものだ。事実、低廉なインド製には補完機能が付いていないモデルも多い。依然として高校受験の面接試験をどうくぐり抜けたか疑問は残るが……。
 うまい具合に噛み合った会話の記録によると、彼女は植物部に所属していた。
 いくつかの授業をやり過ごした後、わたしはすぐに学内ネットワークで植物部に属するクラスメイトを検索した。一名、ヒットした。男子だ。いくらでもマッピングで好きな植物を好みの状態、形状に保ったまま眺められる時代に、あえて思い通りにならない本物の植物を育てるという、理解不能な異常者の集まりだ。中間休みに当該の人物が一人になるタイミングを見計らって後をつけた。
 ついでに〈ビジョン〉のコミュニケーション方針をより厳格な形式に改めておいた。初対面の相手以上に注意を払わなければいけないのが、異性である。異性とのコミュニケーションは非言語的な要素に依存する部分が大きく、フラッグシップモデルの〈会話補完〉ソフトウェアでさえ正答率はあまり高くない。そのぶん属人性が上がってしまうのだ。
 そしてわたしは、そういうのが極めて苦手だ。ソフトウェアの不正確な部分を埋めるように、ユーザ自身が必要以上に口角を釣り上げたり声を甲高くしないといけない。
 だから異性と会話はあまりしたくない。コミュニケーションの評価は〈ビジョン〉が相手の表情や発せられた言葉の内容、トーンなどを分析してスコアリングしてくれるけども、異性が相手になるとしばしば当てにならなくなる。
 とはいうものの、今回ばかりは仕方がない。わたしはいかにも植物部の部員らしい、細枝を思わせる背中に向かって声をかけた。振り返るやいなや、すばやく〈会話補完〉の選択肢から適当に抜き取ったフレーズをまくし立てる。相手の男子はちょっとあっけに取られた様子だったが、事態が掴めてくると徐々に落ち着いた様子で〈会話補完〉を同調的に使ってきた。
「丹波さんか……うん、残念だったね。僕は正直耳に入れる気はなかったんだけど、やっぱり繋げてると入ってきちゃってさ」
 丹波というのはあの子の名字だ。眼前の男子は〈イヤホン〉を示唆するように指先で軽くいじった。
「植物部を辞めた、というか、来なくなったのは一年くらい前かな。率直に言って、たぶん僕のせいだと思う」
「あなたのせい?」
 〈会話補完〉のポップアップウインドウが赤色に点滅した。選択肢を無視した上に、声色も低かったせいだ。
「いや、なんていうか……」
「会話が噛み合わない?」
 また点滅したが強いて無視した。
「うん。……いや」
 彼は一瞬頷きかけたが、奇妙な仕草で首を傾げた。
「どっちなの?」
「噛み合わないのは……そうだけど、ていうか、みんな丹波さんのことをそう言うけど……前はそうじゃなったんだよ」
「前?」
「だから辞める前、いや、辞めるちょっと前」
 彼はまた首を傾げた。分析にかけるまでもなく神経質そうな男だということが伝わってくる。
「たぶん……って言ったのは、僕が何か言ったせいだとして、その理由が判らないからなんだよ。突然、あんな風になった」
 ひと呼吸置いて男子は続けた。
「結局、僕が彼女について知っていることと言えば、まあ、パンジーが好きだったってことくらいかな」
 しばらく予定調和の会話を続けた後、わたしは彼の元を後にした。今回のコミュニケーションのスコアリングはひどいものだったが、収穫は大きかった。話の運び方がトンチンカンなのは本人の性格ではなかったのだ。
 ちょうど廊下が突き当りに差し掛かったところで、右から左に歩く女子の姿が目に留まった。間もなく昨日いきなり話しかけてきた生徒と知れた。ミュートを全解除しているので、今はこの子の姿かたちがはっきり見える。
 つと、わたしはこの子が彼女のゴシップ情報を嗅ぎ回っていることを思い出した。あれから丸一日経っている。なにか新しい小話が訊ける見込みは十分にありそうだ。
「ねえ、ちょっと」
 正直な話、名前を失念していたために雑な呼び方になってしまったのは認めざるを得ない。もっと正面から姿を捉えれば〈ビジョン〉に照会させてプロフィールを取得できるが、いかんせんこの位置関係ではほとんど後ろ姿に近い。彼女は自分が呼ばれたことに気づかなかったのか、スタスタと遠くへ行ってしまいそうだった。
 業を煮やしたわたしは足早に追いかけて彼女の肩を掴んだ。掴まれた当人はいかにも意表を突かれた様子で身体を一瞬こわばらせた。
「あ、え――?」
 彼女は手に握っていた〈インターフェイス〉をぐりぐりと動かしてから「ああ、理沙ちゃんか」と言った。
「絵美里ちゃんのこと、なんか判った?」
 率直に訊ねると、答えはすぐに明瞭に返ってきた。
「なに、今さら気になったの? 悪いけど、なーんにも」
 大げさに顔を左右に振ってみせるリアクションがやけに癪に障った。こう言ったらなんだが、訊くべき相手ではなかったと後悔した。
 用済みと見るやいなや足早に会話を切り上げようとするわたしに対して、彼女は言った。
「ていうかさ」
「理沙ちゃん、あたしのことミュートしてたんじゃないの? どういう風の吹き回し?」
 ギュッと心臓が縮み上がった。わたしの主観的な感覚では一瞬の硬直だったが、おそらく本当は何秒間も固まっていたのだろう。不審な会話のトーンを検知した〈会話補完〉が助け舟を出してくれていたのに、わたしは返答目安猶予時間を超過してしまった。またしてもポップアップウインドウが警告音を鳴らして揺れた。
「いんや、別に気にしなくてもいいよ」
 プロフィールの参照を怠ったがために相変わらず名前も知れないクラスメイトは、あっけらかんとした様子で言った。
「まあ、あたしも理沙ちゃんのことはミュートしてたし。でも昨日は用があったからね」
 思うように口が開かないわたしを尻目に彼女は実に軽やかな足取りで廊下を歩いていった。
  4
 その時、わたしは視界の端で揺れ動くものを認めた。廊下の掲示版にマッピングされた告知物に靄がかかったのだ。すぐにその意味するところに勘付いた。昨日、今日、そしてついさっき。ひどくストレスを隆起させうる環境に身を置かれたせいで、きっとついに感情が爆発したのだと思う。外郭すらおぼつかない靄にすばやく手を伸ばして掴みかかった。
「あんた――ストーカーかなんかなの?」
 もはや逃げ切れないと悟ったのか、もともと逃げる気がなかったのか、神崎志保はあっさり自らの身体にかけたマッピングを解いて姿を晒した。
「ちょうど頃合いなんじゃないかと思って」
「なにがっ」
 反射的に声を荒らげたので〈ビジョン〉のメンタルヘルス機能が起動した。深呼吸を繰り返すと怒りが静まりやすいとの助言をわたしは強いて無視した。すぐにでも眼球をぐりぐりさせて機能を無効化したかったが、手に込めた力が緩みそうでできない。
「……標準服が延びるでしょ。いい加減離してくれる?」
「手を離して姿を消されたら困るんだけど」
 彼女はフフッと冷たく笑みを漏らした。
「〈ビジョン〉を剥がして後を追いかけるとか、そういう発想にならないところが今時っぽいね……チャイルドガードで機能は勝手に切れなくても、取ってしまえば終わりなのに」
「どうでもいいよ。あんたは何がしたいの」
「私の道筋を辿ってくれること。そしてそれはもうだいたい済んだ」
「え?」
「あの子の数少ない知人、友人から話を聞いたでしょ。それで……彼女の過去が判ったはず」