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1:マーリア
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”一九四七年十月二〇日。昨月の今頃はあんなに暑かったのに、このところめっきり冷え込んできました。お父さんがいるシェラン島はきっともっと寒いのでしょうね。本当はすぐにでも空を蹴って会いにいきたいのだけれど、あいにく今の私は上官の許可なくしては男の人の背丈より高く飛ぶことは許されていません。でも、管制官が仰るには戦争でもっと功績を立てれば、どんどん偉くなって、したいことがなんでもできるようになるそうです。”
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”一九四七年十月二〇日。昨月の今頃はあんなに暑かったのに、このところめっきり冷え込んできました。お父さんがいるシェラン島はきっともっと寒いのでしょうね。本当はすぐにでも空を蹴って会いにいきたいのだけれど、あいにく今の私は上官の許可なくしては男の人の背丈より高く飛ぶことさえ許されていません。でも、管制官が仰るには戦争でもっと功績を立てれば、どんどん偉くなって、したいことがなんでもできるようになるそうです。”
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チーン、とタイプライタが鳴り、ハンマーが紙面の端に到達したことを知らせてくれる。一旦、タイピングを止めて手探りで本体のレバーを引っ張り、改行する。
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”それにしても、まだ子どもの私が「上官」とか「管制官」とか言って、言葉にしてみたらずいぶんおかしい話に聞こえるでしょうね。今の私はなんでも中尉なんだそうです。私よりたっぷり何フィートも大柄な男の人たちが、前を歩くとさっと左右に避けてくれるのが分かります。姿は見えなくても足音でだいたいどんな人なのか分かりますから。”
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”それにしても、まだ子どもの私が「上官」とか「管制官」とか言って、言葉にしてみたらずいぶんおかしい話に聞こえるでしょうね。今の私はなんでも中尉なんだそうです。私よりたっぷり何フィートも大柄な男の人たちが、前を歩くとさっと右、左に避けてくれるのが分かります。姿は見えなくても足音でだいたいどんな背格好なのか分かりますから。”
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チーン。また、音が鳴った。再びレバーを引いて改行する。
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”いつか少佐になったら、私たちの鉤十字が輝くコペンハーゲンの空を飛んで、お父さんに会いに行く許可をもらおうと思います。少佐だったら、ついでに山ほどのチョコレートを買うことも許されそうな気がします。その日まで、どうかお元気で。ハイル・ヒトラー”
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チョコレート……そう、チョコレートだ、と私は唐突に思い至った。今週、給金を頂いたから、コペンハーゲンのチョコレートは無理でも近所のチョコレートは買える。
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”いつか少佐になったら、私たちの鉤十字が輝くブリュッセルの空を飛んで、お父さんに会いに行く許可をもらおうと思います。少佐だったら、ついでに山ほどのチョコレートを買うことも許されそうな気がします。その日まで、どうかお元気で。ハイル・ヒトラー”
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チョコレート……そう、チョコレートだ、と私は唐突に思い至った。今週、お給金を頂いたから、ベルギーのチョコレートは無理でも近所のチョコレートは買える。気が急いて椅子から勢いよく立ち上がったら、ふわ、と全身が浮きかけたので、あわてて踵を地面にくっつける。左を向いて五歩半歩くと、壁にかかっているバッグがある。その中にお財布も身分証明書も入っている。前に手を伸ばすとそこには確かに古びた皮革の感触が広がった。
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両手でバッグを掴んで上にもちあげると肩掛けが釘から外れる。それを頭から被るようにして肩口に合わせると、また左に三歩歩いて、冷えたドアノブを触った。すぐ隣に立てかけられた杖も忘れずに持っていかないといけない。これがあるのとないのとじゃ大違い。部屋を出ると廊下が待ち受けているが、左手の杖先で床を叩きながら右手で壁をなぞっていくと、思いのほか簡単に玄関までたどりつける。
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「あら、マーリアちゃん、お出かけ?」
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近くで寮母さんの声がした。身の回りのことはすべて彼女に任せている。寮母、と言ってもこの家に住んでいるのは私だけだ。彼女が私の素性をどれくらい知っているのかは分からない。ただ、いつも「マーリアちゃん」と呼んでくれる。
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「ええ、ちょっとお買い物に」
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「気をつけてね、もし空襲警報が鳴ったら――」
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「大丈夫、ちゃんと大声で叫んで周りの人たちに助けてもらうから」
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本当は、もしそうなったらすぐに最寄りの基地に行って出陣する手はずになっている。
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まだお日さまの熱を頭のてっぺんに感じる時間なのに、外は肌寒かった。さっき手紙で書いてばかりだというのに、横着せず右へ四歩半歩いてコートを持ってくるべきだった。でも、杖の先っぽで石畳をとん、とんと叩きながら道を歩いているうちに、だんだん身体が温まってきた。
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この杖は先端がとても硬くできている。なので固い地面を叩くと甲高い音とともに、衝撃が指先に伝わる。すると、私の真っ暗な視界の中に白線の波がざざあ、と描かれていく。音の調子と衝撃の具合で、あと何歩歩くと壁があるのか、どの辺りに他の人が立っているのかだいたい分かる。
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今しがた、目の前に白線の壁の輪郭ができあがったので、私はそれをひょいとよけて道を曲がった。
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こういうのって誰でもできるわけじゃないみたい。管制官が「まるでコウモリみたいだね」とおっしゃっていた。聞いた話では、コウモリさんは目はほとんど見えないのだけれど、代わりに壁とおしゃべりをして場所を教えてもらうんだそう。一体、どんなふうにおしゃべりしているのかな。
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でも、確かに私とそっくりだ。杖でコツコツと叩くと地面が壁やお店の場所を教えてくれる。きっと私はコウモリとして生まれるはずだったのに、間違えて人間に生まれてきてしまったんだ。だとしたら、なんて運の良いことでしょう。人間じゃなかったらチョコレートは食べられないもの。
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また角を曲がって路地に入ると、もう杖はいらなくなった。鼻をくすぐるチョコレートの甘い匂いが、ひとりでに私の足をお店の前に運んでくれるからだ。揺るぎない自信を持って手を前に突き出すと、果たしてそこには目的地のドアノブがあった。ぐい、と手前に引くと、愛想の良さそうなおじさんの声が出迎えた。
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「やあ、久しぶりだね」
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「あの……」
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おずおずと欲しいものを言いかけると、おじさんが得意げに先制した。
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「チョコレートかい?」
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「あ、はい。そうです」
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「いやしかし、この頃は原料の配給が厳しくてね」
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低い声でウーン、とうなるおじさんの声に、私の心臓は緊急降下中の気圧よりも重たくなった。
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「えっ、チョコレート、買えないんですか?」
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「買えない……」
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「そんな……」
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「……わけないだろ、お嬢ちゃん。ちゃんと君がいつ来てもいいように取っておいた」
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目線の高さにざっ、と紙袋が置かれた音がしたので、思わず私は手で袋をぎゅっと掴んだ。大、小、いろんな形のチョコレートが袋にぎっしりと入っているのが分かった。
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「こんなに頂いていいんですかっ!?」
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店の中に響く大声で言うと、店主のおじさんはげらげらと笑って答えた。
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「いやいやだめだよ、ちゃんとお金はもらうからね、はっは」
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「あ、いえ、それはもう、もちろん。今すぐお支払いします」
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私は急いで鞄の中をまさぐり財布を取り出して、中に入っているお札を全部出した。
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「これだけあれば足りますか」
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「そんなにはいらないよ」
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おじさんは数枚の紙幣を抜き取ると、大きなごつごつとした手のひらで私の手を包み込み、そっと押し戻した。
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「気をつけて帰るんだよ」
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「はい、直ちに帰投しま……じゃない、はい、まっすぐ帰ります」
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最後の最後でうっかり会話の段取りを誤った私は、杖をいつもより早く叩いて店を足早に去った。しかしなんにせよ、チョコレートが手に入ったのは間違いない。量もいつもより多い。
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「すっかり上達したようだね」
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不意に背後から話しかけられてぎくりとしたものの、声の主が他ならぬ管制官と分かった途端に私はその場で直立して右手を高く掲げていた。
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「ハイル――」
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