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Rikuoh Tsujitani 2024-06-17 18:00:44 +09:00
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title: "論評「ヒトラーのための虐殺会議」:流血なき血生臭さ"
date: 2024-06-17T16:12:24+09:00
draft: true
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## あらすじ
本作はナチス政権下で実際に行われた「ヴァンゼー会議」をもとにした作品である。ベルリン郊外のヴァンゼー湖畔にちなんで名づけられたこの会議では、親衛隊の将校ならびに事務次官などナチス・ドイツの中枢を支える高官たちが一堂に会している。
そんな多忙を極める彼らが今回召集された理由は、かねてよりヒトラー総統が訴えている「ユダヤ人問題」の「最終的解決」を討議するためだった。風光明媚な景観を湛える別荘の中、ランチタイムを挟んだ90分の議論でユダヤ民族の虐殺計画が策定されたのだった。
## 流血なき血生臭さ
本作は大別すると戦争ものの歴史映画に含まれると思われるが、作中では一発の銃声も響かない。全編が会話シーンで占められているこの作品に戦場は現れず、したがって流血も起こらない。仕立ての良い軍服や正装に身を包んだ男たちの物語だ。
しかしながら、会議の最中に語られる彼らの「仕事」の裏には夥しい流血の匂いを感じさせる。捕虜の「特別処理」について報告する将校の裏には死体の山が、アーリア民族の潔癖を守るために様々な手段を講じたと語る官僚の裏には飢餓と貧困が、それぞれ垣間見える。
視界には机と人とコーヒーカップしか映らなくとも、視聴者は台詞からむごたらしい光景を想像することができる。時に人間の想像は生半可な写実を容易に越える。観る人が観れば、鉤十字の旗の下にどす黒く染まった血の海がやがて固まり、隆起した血の山脈さえ思い浮かぶだろう。
## 手間は最小限に、手柄は最大限に
一方、本作をより陰惨たらしめているのは登場人物の高官たちが残虐な人物だからではない。むしろ逆に、彼らはしばしば「最終的解決」の実行に難色を示す。もちろんそれは、ユダヤ民族に同情心を示しているわけではない。
作中では地図やイラスト用いてヨーロッパ内におけるユダヤ人の総数、地域別の人数が示される。その数はおよそ1100万人にものぼる。ヒトラー総統の悲願を達成するには東京都の人口にも及ぶほどの人間を「最終的解決」に導かなければならない。
となると、たちどころに現実的課題が立ちはだかる。1100万人ものユダヤ人を一つの場所に集めるのはどだい不可能なため、各管轄で手分けして「解決」にあたらなければならない。ただでさえ戦時中で酷使されている輸送網を「最終的解決」のために幾度となく往復させる必要が出てくる。
ただ送ればいいわけではない。効率性を考えるとなるべく一度に大量輸送したいところだが、もし不穏を察知されて暴れられると集団蜂起の危険性も出てくる。輸送のために兵力を余分にあてがうなど戦時中では論外だ。だが、反乱を恐れて小分けに輸送していては燃料が無駄になる。
送られてきたら送られてきたで、今度は宿舎や食事の用意が欠かせない。数千、数万人単位で送られてくるユダヤ人を順に「解決」できるわけもなく「解決」する寸前まではおとなしくしてもわなければ手間がかかるので、どうしても一時的に落ち着かせる場所がなくてはならない。建築資材、人夫、食料、警備……。
はてさて、こうして考えてみると高官たちにとって「最終解決」を意欲的に行うメリットなどなにもないばかりか、下手に安請け合いして失敗でもしたら逆に粛清のリスクさえある。外れ仕事も甚だしいが、ヒトラー総統の命とあっては応えないわけにはいかない。
そこで、集結せし将校、官僚ともども切った張ったの押し付け合いが始まる。典型的な縦割り組織ならではの所属部署の利益優先、保身ーー皮肉にも、現代のサラリーマン生活でも時折見受けられる普遍的な光景である。
特に他の部署や組織が省庁の権限に踏み込んでくることには、官僚としては我慢ならない。逆に将校としては総統の理想を素直に受け入れず原則論を振りかざす官僚の頑固さに我慢ならない。会議はほとんど平行線のまま、戦時中にしては豪華な珍品が揃えられたご機嫌なランチタイムに突入する。
変な話、もし彼らがカルト宗教の狂信者のごとくリスクも代償もいとわず命令を実行するような人々だったら、かえってさほどのグロテスクさは帯びず安っぽい印象だったのではないか。これほど今時のホワイトカラーにも共通の葛藤や私欲を抱えつつも、根本的な部分で相容れない両極端さにこそ底知れぬ恐怖を感じる。
## ユダヤ人の定義
後半では内務省次官と将校たちの議論が白熱する。散々押し付けあった末に渋々ではあるもののある程度、管轄ごとに受け入れ可能なユダヤ人が決まったところで、次に問題となるのは「誰をユダヤ人とみなすのか」であった。
将校たちの見解は明快である。ユダヤ人の血が少しでも入っている者は例外なく根絶すべきだと訴える。これに断固反対を示したのが先の内務省次官、シュトゥッカート氏だ。関連法を起草した法学者でもある彼にとって、なんで法律を無視することは許されない。
当時のドイツの法律では混血児であっても親の片方がアーリア民族かつ行動様式がドイツ的であればドイツ人と認定される。したがってクォーターは当然にドイツ人として保護される。ところが将校たちの見解に立つと、これらに該当する者の権利が突然に奪われてしまうことになる。
もちろん、シュトゥッカート氏はユダヤ人に同情などしていない。あくまで法体系の一貫性と秩序の確立を重んじている。一方、将校にとってはヒトラー総統こそが秩序であり唯一の法である。異常な帝国を支える身でありながら、両者の隔たりは渓谷よりも深い。