第九幕まで
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Rikuoh Tsujitani 2023-09-04 21:57:28 +09:00
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 全国高等学校硬式戦争選手権大会の準決勝、帝國実業と韋駄天学園の試合は佳境を迎えている。十名いる選手のうち六名がすでに仮想体力を喪い退場を余儀なくされ、残る四名が市街地を模した公死園戦場の各所で互いに隙をうかがっていた。帝國実業三年の主将、葛飾勇はこの時、和八九式硬式小銃に装着された弾倉が最後の一つだった。地道な基礎練習を怠らない生真面目な性分が功を奏して彼は残りの弾数を正確に把握していたが、同時にそれは自身の劣勢を否が応にでも自覚させられる重い錨となってのしかかる。最悪の場合、たった九発の銃弾で残る四人の敵を倒さなければならないのである。
 全国高等学校硬式戦争選手権大会の準決勝、帝國実業と韋駄天学園の試合は佳境を迎えている。十名いる選手のうち六名がすでに仮想体力を喪い退場を余儀なくされ、残る四名が市街地を模した公死園戦場の各所で互いに隙をうかがっていた。帝國実業三年の主将、葛飾勇はこの時、和八九式硬式小銃に装着された弾倉が最後の一つだった。地道な基礎練習を怠らない生真面目な性分が功を奏して彼は残りの弾数を正確に把握していたが、同時にそれは自身の劣勢を否が応にでも自覚させられる重い錨となってのしかかる。最悪の場合、たった九発の銃弾で残る四人の敵を倒さなければならないのである。
 相対する韋駄天学園の戦いぶりは賢明であった。むやみに弾を浪費して一か八かに賭けるくらいなら潔く負けを認めて予備弾倉をその場に残していく。準決勝でもやり方は変わらない。つまり、四人の敵の弾薬は未だ豊富であって正面での撃ち合いではまず勝てる見込みがない。圧縮ゴムでできた硬式弾をしこたま食らって血まみれになっても、本人が直立している限りにおいて戦場に立ち続けられた昔とは違う。現行の仮想体力制度では胴体に四発ももらえば確実に退場だ。
 勇は壁伝いに歩いて近場の建物の中に忍び足で入った。戦場をまばゆく照らす照明から逃れて部屋の陰に座り込んで身を落ち着ける。通信機で仲間との交信をしたいところだが、仲間の状況が判らない以上はうかつに音を鳴らすわけにはいかない。同様に、彼自身もまた不用意に声を発すれば位置を補足される危険性を伴う。
 だだだだ、と硬式小銃特有の低い銃声が聞こえた。さらに遠くでは、わああっ、と観客の歓声が波のようにこだまする。敵か味方か、どっちかがやられたらしい。観客席から見える大型の液晶画面からも、試合を中継しているテレビでも、勇たち選手の仮想体力は常に表示されていて、残り何発持ちこたえられるのか、何発撃てるのかなどが把握できる仕組みになっている。さらには複数の望遠カメラが刻一刻と変化する戦場の様子を捉えて、選手たちのここ一番の勇姿を映し出す。帝国中の臣民が関心を寄せる公死園の準決勝ともなれば、その視聴率は相当なものに違いない。
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「というと……?」
 勇には監督の言っている含意が解らなかった。あれこれ言ってもユンは立派な戦績を持つ副主将だ。先の行動の通りやや独断専行気味のきらいはあるが、とにかく文句なしに強い。強くなければ強豪の帝國実業の前衛は務まらない。主将の勇も近距離戦では一度も勝った試しはない。
「やつは外地人だ」
「え、いや違いますよ、両親も祖父母も鶴橋に住んでいます」
「え、いや違いますよ、両親はいませんが祖母と鶴橋に住んでいます」
 監督があまりにも見当違いなことを言ったので、うっかり言葉が口を衝いて出た。どんな状況であれ目上の者の意見を否定するのはとんでもない無礼に値する。はっ、と息を呑んで監督の顔を見ると、案の定、その表情は厳しさを増していた。それでも監督は若干の間を置いて、今度ははっきりと言い直した。
「そういう意味ではない。大和の血統ではないということだ。あいつは朝鮮人だろう」
 勇は虚を突かれて言葉を失った。それをどう受け取ったのか定かではないが、勢いを取り戻した監督はさらに話を続けた。
「別に朝鮮人や支那人が選手にいようと構わん。強ければ入れるし弱ければ捨てる。勝利がすべてだ。だが、この晴れ舞台、公死園の大詰め、ここ一番という時に脚光を浴びるのは、われわれ日本人でなければならん。それがお前の義務だ」
「別に朝鮮人や支那人が選手にいようと構わん。強ければ入れるし弱ければ捨てる。勝利こそがすべてだ。だが、この晴れ舞台、公死園の大詰め、ここ一番という時に栄光に浴するのは、われわれ日本人でなければならん。それがお前の責務だ」
「しかし、自分としては――分隊としての役割、分隊としての勝利――そういうものも、あるかと愚考いたしますが――ユンの剣戟もそれはそれで戦略の価値ありかと――」
 理に反する都合を突きつけられて、なおも必死に弁明を繰り出す勇であったがそれが火に油を注ぐ行為でしかないのは目に見えていた。しかしそれでも、ついさっきまでは他ならぬ本人に罵声を浴びせていたのに、どういうわけか今ではすっかり擁護したい気持ちでいっぱいになっていた。
「では、あのユンに錦を飾る栄光を差し出すというのか。寛大なことだ。そんなぬるい気持ちで決勝に臨んでいてはとても勝ち抜けないぞ。所詮は別の民族なのだ。まあ、それはそれとして、だ」
 理に反する都合を突きつけられて必死に弁明を繰り出す勇であったがそれが火に油を注ぐ行為でしかないのは目に見えていた。ついさっきまでは他ならぬ本人を罵倒していたのに、どういうわけか今ではすっかり擁護したくて仕方がなかった。
「では、あのユンに錦を飾る名誉を差し出すというのか。寛大なことだ。そんなぬるい気持ちで決勝に臨んでいてはとても勝ち抜けないぞ。所詮は別の民族なのだ。まあ、それはそれとして、だ」
 唐突に監督の拳がすさまじい速度で勇の頬に叩き込まれた。いつもと違って意表を突かれたために彼は姿勢を崩して地面に尻をついた。遅れてやってくる鋭い痛みを上塗りするように、仁王立ちの監督が見下ろす眼差しで告げる。
「上官への言葉遣いには気をつけろ。お前は二回も口ごたえをした。決勝進出に免じて精神注入棒は勘弁してやる。だが、その頬の痛みはやつを擁護する割に合うかよく考えておくんだな」
 ほぼ反射的な動作で直立不動の姿勢に戻り、勇は大声を張った。
「ご指導ありがとうございました!」
 鈍い痛みの残る顔面に構わず、監督と別れるやいなや彼は携帯電話をぽちぽちと押して二人の選手を呼び出した。数分のうちに誰もいない控室に現れた彼らは先ほどの勇と同じうろたえた様子で口を閉ざしていた。まるで攻守が逆転したみたいだと勇は思った。
「貴様ら、あの試合でなにをしていた」
 主将として、帝國軍人さながらの低い声音を腹から絞り出して下級生の二人に詰め寄ると、左側の方が先に釈明をした。
 監督が部屋の扉を開け放って場を後にすると、入れ替わりに二人の部員が顔を覗かせた。主将が説教されていると見取って入れずにいたのだろう。勇は彼らが試合に出場していた分隊員と判ると頬の痛みに構わず詰め寄った。二人は気配に勘づいて先ほどの勇とまったく同じ直立不動の体勢をとった。
「貴様ら、あの試合でなにをしていた
 主将として、帝国軍人さながらの低い声音を腹から絞り出すと左側の方が先に大声で釈明をした。
「自分は弾薬を切らしておりまして、移動途中の際の接敵で退場と相成りました!」
 建物に潜んでいる最中にやられたのはこいつだったか、と彼は納得を得る。しかし声はあくまで厳しさを保った。
「隠密を怠るから敵に発見されるのだ! この土壇場では不運も自己責任と捉えろ!」
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「貴様はまだ生きていたな」
「自分も弾薬が心許なく、遠方より機会をうかがっており……」
「何発残ってたんだ」
「は、予備弾倉はなく、十三発を残すのみとなっておりました」
 かっ、と身体中の血が沸騰するのを感じた。勇はさらに大きく声を跳ね上げ、低い音程を維持するのにたいそう苦労した。
「は、十三発を残すのみとなっておりました」
 かっ、と身体中の血が沸騰するのを感じた。さらに大きく声を跳ね上げたので低い音程を維持するのにたいそう苦労した。
「一人胴体四発と見ても三人は仕留められるではないか! 準決勝の舞台で退場するのが惜しくなったのか?」
 ぐいっと「帝國実業高等学校」の刺繍が施された戦闘服の胸ぐらを掴むと、下級生らは今にも泣き出しそうな表情を浮かべて謝罪した。だが、彼は追撃の手を緩めなかった。
 ぐいっと「帝國実業高等学校」の刺繍が施された戦闘服の胸ぐらを掴むと、下級生らは今にも泣き出しそうな表情で謝罪した。だが、彼は容赦しなかった。
「貴様らが身を賭していれば副主将は歯を失わなかった。そこに直れ!」
 二人が姿勢を正すか正さないかのうちに、勇は今しがた自分が食らったのと同じ要領で二人の頬に拳を振り抜いた。後ろに倒れ込む下級生に向けて一転、落ち着いた声色で言う。
「貴様らは二年生がてら優秀な成績を収めて正規選手に選ばれた。決勝では誉れ高く戦え。来年もあるなどと思うな」
「貴様らは二年生がてら優秀な成績を収めて分隊員に選ばれた。決勝では誉れ高く戦え。来年もあるなどと思うな」
「ご指導ありがとうございました!」
 二人揃って自分とそっくりの絶叫を張り上げた後輩を後に、ようやく勇は公死園戦場を後にした。
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 敷地の正面口では約束の時間を大幅に過ぎたにも拘らず和子が待っていた。今日の試合日程が終わってだいぶ経ち、人混みがまばらになった周辺で互いの姿を見つけるのは容易だった。先に目ざとく勇の姿を認めると、彼女は白く細い腕にはめられた腕時計の文字盤をつつく仕草をした。彼が目の前まで来た時、言葉にも表された。「三〇分遅刻。もう帰ろうかと思っちゃったわ」
 敷地の正面口では約束の時間を大幅に過ぎたにも拘らず和子が待っていた。今日の試合日程が終わってだいぶ経ち、人混みがまばらになった周辺で互いの姿を見つけるのは容易だった。先に目ざとく勇の姿を認めると、彼女は白く細い腕にはめられた腕時計の文字盤をつつく仕草をした。「三〇分遅刻。もう帰ろうかと思っちゃったわ」
「悪い、勝ったら勝ったで色々あるんだ」
 適当にごまかそうとした言い草に、和子は持ち前のよく通る声で指摘した。
「その頬の腫れとなにか関係があるの?」
@ -103,7 +103,7 @@ tags: ['novel']
「隠し事はなしよ」
 結局、勇は洗いざらいをすべて話した。聞かれなくても帰り道のどこかでどうせ話していた。ありていに言えば、彼は今もやもやしていた。それを晴らしたくて仕方がなかった。健全に交際している間柄で、硬式戦争とも運動部とも無縁の才女は中立の相談相手にはうってつけだと思った。
「ずいぶんgroteskな話ねえ」
 一通りの話を聞いて、彼女は聞き慣れない単語を流暢に発話して感想を述べた。語感からしてドイツ語だろうと思われた。だが、もし帝國実業で横文字など口走ったらすぐさま「英米思考」のレッテルを貼られて張り手が飛んでくるだろう。女子高の教育はその辺りの区別が進んでいるのかもしれない。
 一通りの話を聞いて、彼女は聞き慣れない単語を流暢に発話して感想を述べた。語感からしてドイツ語だろうと思われた。もし帝國実業で横文字など口走ったらすぐさま「英米思考」のレッテルを貼られて張り手が飛んでくるだろう。女子高の教育はその辺りの区別が進んでいるのかもしれない。
「たぶん勇さんは言われていることと現実の行為にkluftを感じているんじゃないかしら」
「日本語で頼むよ。ドイツ語の成績は補習付きの可しか取ったことないんだ」
「だからその――たとえば、公死っていうの、晴れ舞台で死ぬのは尊く崇高だっていうんでしょう」
@ -130,7 +130,7 @@ tags: ['novel']
「今日は送ってもらわなくていいわ。勇さんの家族が英雄の凱旋を待ちわびているでしょうから」
 そう言い残すと、華奢で可憐な身体が扉の向こうに吸い込まれていくように消えていった。躍起になって反論したので怒らせたか、と彼は不安を抱いたがしかし、またぞろ入れ替わった広告を見て気持ちを奮い立たせた。(権利と義務は表裏一体! 徴兵にはなるべく早く応じませう! 大阪市男子道徳課)
 所詮、女の子には解らないことだ。死線のぎりぎりを見極める攻防、盤面を見通して敵を征服し尽くした時のえもしれぬ高揚感。銃撃を加えた相手が地に伏した際の確かな手応え。こんな実感の伴う競技は他にありえない。そうして先んじて軍人精神の端に触れた者のみが、徴兵されてもただのいち歩兵ではなく幹部候補生相当の扱いで外地の各方面に配属されていくのだ。本職として軍人にならなくてもその精神は社會の至るところで実力を発揮する。それは、汗水を垂らして命を危険に晒しているからこそ得られる能力だからだ。戦争部に入部できない婦女子方とはそもそも相容れない。
 電車が大阪梅田駅に着くと一気に人がどやどやと降りはじめた。背広を着た初老の會社員たちが疲れきった顔を並べて駅にあふれかえる。勇も乗り換えのために人の波に倣って後へと続く。
 電車が大阪梅田駅に着くと一気に人がどやどやと降りはじめた。背広を着た初老の會社員たちが早くも疲れきった顔を並べて駅にあふれかえる。勇も乗り換えのために人の波に倣って後へと続く。
 地下通路を登って地上に出ると、外はまだ昼過ぎだった。ひやりとした地下とはうって変わり、厳しい真夏の日差しが皮膚を焼きつける。友邦国たるドイツやイタリア式の建築が随所に見られる大阪駅周辺の街並みを一息で横断して、大阪駅の中に入ると外地の物品を扱う露店が駅中を賑わせていた。「フィリピン直輸入指定農園高級品」と題された派手な電燈の下には、照明ではなく自らが発光しているのかと思うほど黄色く輝いたバナナが鎮座している。素人目に見ても判るほど造形が整っているが、値段も庶民にはなかなか手が出ない。まずもって高校生の勇には縁のない特産品だ。かぐわしい果実の香りを振り払って商店街を後にする。
 大阪駅から環状線の電車に乗り込んで二駅、こじんまりとした桜ノ宮駅に降り立つと、学生無料の駐輪場に停めておいた自転車に乗り換えて帰路を急ぐ。そこから野江駅の向こう側まで一五分ほど自転車を走らせると、築二〇年のやや色褪せた一戸建てがある。父と母と、弟とが共に住まう葛飾家の住宅だ。
@ -186,7 +186,7 @@ tags: ['novel']
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 数時間後、畳の居間に家族一同が集結した。机の上には大の男が三人いても余りそうなほど大量の寿司が並べられている。口数は少なくとも、いま葛飾家は祝賀の雰囲気に寄っていた。部屋の隅に置かれたテレビは、あと少しで準決勝の第二試合目が行われようとしている。前番組のごく短い漫才のかけあいをよこ目で見つつ、勇は父の切子に麦酒を注いだ。この日はやはり奮発に奮発を重ねたのか、見慣れない舶来品が二本も机もある。本式のドイツだろうと思われた。
 数時間後、畳の居間に家族一同が集結した。机の上には大の男が三人いても余りそうなほど大量の寿司が並べられている。口数は少なくとも、いま葛飾家は祝賀の雰囲気に寄っていた。部屋の隅に置かれたテレビは、あと少しで準決勝の第二試合目が行われようとしている。前番組のごく短い漫才のかけあいをよこ目で見つつ、勇は父の切子に麦酒を注いだ。この日はやはり奮発に奮発を重ねたのか、見慣れない舶来品が二本も机もある。本式のドイツだろうと思われた。
「……それでな、うちのカミさんがな、男は頼りない言いまんねや」
「カカア天下でんな、ほいで?」
「もう国も男には任せられん、選挙権ほしい言うんや」
@ -241,7 +241,7 @@ tags: ['novel']
 はっ、と我に返った勇の手には、まだ食べていない軍艦巻きが手に握られたままだった。
『これにて準決勝第二試合は臣民第一八高等学校の勇猛な勝利にて幕を下ろしました。休養日を挟んで明後日には、強豪、大阪の帝國実業高等学校と記念杯を巡って最後の一戦を交えることとなります――おや、なにか選手が言っていますね、見てみましょう」
 カメラが第一八高の主将に視点を合わせた。たとどころに集音マイクが音を拾う。
「臣民第一八高等学校三年、主将、陳開一! 畏れ多くもこの場を借りて一言申し上げたい! 公死園は直ちに仮想体力制度を取りやめ、己の命の限り死力を尽くす伝統に立ち返られよ!」
「臣民第一八高等学校三年、主将、陳開一! 畏れ多くもこの場を借りて一言申し上げたい! 公死園は直ちに仮想体力制度を取りやめ、己の命の限り死力を尽くす伝統に立ち返られよ!」
 駆け寄ってきた控えの選手から手渡された布をばっ、と広げる。華々しい日の丸の波状が際立つ大日本帝国の国旗を両手で前に持ち上げ、掲げる。息を呑んだ司会が、しかし相変わらずの熱量で感心したふうに言う。
「外地の若者の訴えです。もし彼らの戦い方で仮想体力制度を用いないとなると、昔ながらの木刀で気絶するまで殴り合う従前の形式に戻ることとなりましょう。彼らは――それでもいいと、むしろ本望であると訴えているのです。たかが支那人と侮ってはいけません。大和魂は外地の者にも確かに伝わっております。我々としても見習うべきところがあるのやもしれません……」
「ずいぶんすごい連中だな。次はこいつらと戦うのか」
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「おれらなんてしょっちゅうしょっぴかれている。斜向いんとこの悪ガキもこの前やられた。どうでもいいようなことでも実刑は当たり前だ」
 朝鮮人とおれの弟は違う、と喉元まで出かかった言葉を勇は呑み込んだ。単に日本人ではないというだけでユンの命を賭した戦いぶりを退けた監督の顔がちらついたのだ。テレビでは自宅の映像に代わり、中学生の頃の功の作文や成績表、同級生の人物評が仔細に語られている。しばらく観ていると、公死園の録画とともに勇の経歴も槍玉に上げられた。
 それから父、母、さらには親族、町内會にまで曝け出されるのに十五分とかからなかった。今この瞬間、帝国中の臣民に葛飾家の素性が覗き見られている。勇は全身に悪寒が走った。
「くそっ、好き勝手に言いやがって」
 悪態をついて畳の紙を足で薙ぎ払ってから、ようやく彼はどかっと座った。
「くそっ、どいつもこいつも好き勝手に言いやがって」
 これまで幾度となく報道番組で観てきた光景なのに、自分のこととなると全然感覚が違う。これまでは悪人の本性が暴かれているのだろうとしか考えていなかった。でも今は、帝国中に向かって葛飾家の潔白を訴えたい気持ちでいっぱいだった。電子計算機を悪用したであろう弟さえ、どこかで擁護できるならいくらでもしてみせたかった。
「勝つしかねえよ」
 報道番組に出演している有識者が少年犯罪の凶悪化を憂いている傍ら、ユンはぼそりと言った。身体ごと向きを変えて、繰り返す。
@ -364,10 +363,149 @@ tags: ['novel']
 口に出すと急速に心配が現実味を帯びはじめた。身内に犯罪者を作ってしまった自分が公死園の決勝などという最高の晴れ舞台への出場を許されるのだろうか。だが、ユンはニタリと笑った。紫に変色したすきっ歯の歯茎が見えた。
「出られるさ。監督は強い選手なら出す」
「なぜ分かる」
「やつがおれを嫌っているのは知っている。だが強いから出している。朝鮮人のおれをな」
「やつがおれを嫌っているのは知っている。だが強いから出している。朝鮮人のおれをな。今は……まあそれでいい。おれには目標がある
 監督がユンに徹底的な指導を施して何倍も模擬軍刀を打ち据えたのは、果たして個人的な嫌悪心からくるものなのか、それとも純粋に強い選手をさらに強くしたかったからなのか、勇には判らなかった。なにも言えず黙っているとユンは場の空気を入れ替えるように調子の良さそうな声を張った。
「まあ、とりあえずメシを食え。いま下でハルモニが作っているはずだ」
 予想通り、ほとんど間を置かずに彼の祖母が階下から二人を呼んだ。階段を危なげに下りて居間に行くと、畳の上のちゃぶ台にすでに夕飯が用意されていた。やたら大きい米びつに入った大量の雑穀米と、鍋いっぱいのわかめの汁物、朝鮮漬け、牛肉の和え物などが台の上を埋め尽くしている。日本人には不慣れな朝鮮人の家庭料理だが、家に来るたびに振る舞われるので勇にとってはすっかり馴染み深い味になっていた。なにしろ量が多く執拗におわりを勧められるので、昼飯時に行くと育ち盛りの勇でさえ夕飯がいらなくなるほどだ。
 予想通り、ほとんど間を置かずに彼の祖母が階下から二人を呼んだ。階段を危なげに下りて居間に行くと、畳の上のちゃぶ台にすでに夕飯が用意されていた。やたら大きい米びつに入った大量の雑穀米と、鍋いっぱいのわかめの汁物、朝鮮漬け、牛肉の和え物などが台の上を埋め尽くしている。日本人には不慣れな朝鮮人の家庭料理だが、家に来るたびに振る舞われるので勇にとってはすっかり馴染み深い味になっていた。なにしろ量が多く執拗におわりを勧められるので、昼飯時に行くと育ち盛りの勇でさえ夕飯がいらなくなるほどだ。
 そんな光景を見てユンは「金はねえがとにかくメシはあるからデカくなれた」と、普段は家の文句ばかりなのにここぞとばかり自慢するのだった。
 ところが今日の彼は様子がおかしかった。「もっと食え」と勇におかわりを勧める割には、自分の丼ぶりは一向に減らない。いつもは大きい米びつが空になるほど食べているのにまだ半分も残っている。隣で甲斐甲斐しく米をよそってくれるユンの祖母もすぐに気がついて「あんた、全然食べないねえ」と訝しんだ。対する彼はただ「うるせえな、食い飽きたんだよ」と買い言葉を口にして、とうとう一杯分の丼ぶりを空にしただけで夕食を終えてしまった。
 ところが今日の彼は様子がおかしかった。「もっと食え」と勇におかわりを勧める割には、自分の丼ぶりの中身は一向に減っていない。いつもは大きい米びつが空になるほど食べるのにまだ半分も残っている。隣で甲斐甲斐しく米をよそってくれるユンの祖母もすぐに気がついて「あんた、全然食べないねえ」と訝しんだ。対する彼はただ「うるせえな、食い飽きたんだよ」と買い言葉を口にして、とうとう一杯分の丼ぶりをなんとか空にしただけで夕食を終えてしまった。
 旧式のバランス釜で沸かされた風呂から順番に勇が出てくると、まだ九時にもならないうちに「おれは寝る」と言って灯りをつけたまま万年床の布団に仰向けになって寝転がった。客人の立場で無駄に電気を消耗するのも気が咎めた勇は、父に様子を尋ねる電文を打ってから灯りを消した。入浴の間にユンの祖母が隣に敷いてくれたのであろう布団に横たわると、窓から入り込む夜の商店街の電燈が赤青緑にちかちかと薄く光って部屋の至るところを照らすのが見えた。
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 あれほど不安を抱えていたのに身体は半ば機械的に眠り、然るべき時間に覚醒した。時計を見なくても今が午前五時前だと判る。夏の気が早い太陽の光が差し込んで、褪せた焦げ茶色の天井にここが自室でないことを知らされる。功は今頃どうしているだろうか。逮捕されたからには、拘置所かどこかで同じように褪せた天井を眺めているのだろうか。男のくせに女みたいにきれい好きで日に二度も風呂に入りたがる弟が、拘置所の暮らしに耐えられるとは兄の勇には思えなかった。
 父と母の動向も気がかりだった。今頃、職場は父にどんな処罰を課すか検討している頃合いだろう。母も実家から連絡があったに違いない。高校生の勇にはいまいち想像しがたい社會の動きだが、いずれにしてもこれ以上はないというくらい最悪の事態が浮かんでは消えた。
 勇は寝言だか呻き声だかよく判らない声をあげて横たわるユンを尻目に、勝手知ったる他人の洗面所を使うために階下へと下りた。例の小さいちゃぶ台には、やはりもう大量の朝食が用意されている。階段の軋む音を聞いたユンの祖母に挨拶されたので礼儀よく返す。
「ウヌはまだ起きてこないのかい」
「なんか寝言言ってますよ」
「ご飯が冷めるから後で起こしてやってね」
 洗面所で洗顔を済ませた後、言われた通りに再び階段を上って部屋に戻った。横たわるユンに呼びかけるも、ろくな反応がない。今日は公死園の決勝だというのにだらしのないやつだ、と思って肩に掴みかかると、そこで勇は初めて異変に気づいた。
 まるで大雨に打たれたみたいに全身がびしょ濡れになっている。それに、信じられないほど熱い。あわてて身体を引き起こすと、ユンの顔はかつてないほどの苦痛に歪んで生気のない土気色に染まっていた。
「おい、ユン、どうした」
 慌てて身体をさすると、紫色の唇がわずかに動いてやがてぼそぼそと言葉を発した。
「歯が……歯が痛くてしょうがねえ」
「歯だと? もしかしてお前――」
 本人が動けないのをいいことに唇を指でぐいと押し開けてみると、どす黒く変色した歯茎が見えた。失った前歯を中心に左右に穢れが広がっているように思われる。
 勇はその瞬間になにもかも悟った。昨日の朝の時点でユンはなんらかの治療が必要な状態だったのだ。無理矢理に我慢していたせいで症状が悪化したのかもしれない。
「病院に行くぞ。こんな調子では試合などとても無理だ」
 病院、という言葉に反応したのか彼の目が薄く開いて睨んだ。
「病院だと……そんな金が家にあるかよ」
「行って頼み込んだらなんとかしてくれるかもしれない。さあ、立て」
 肩を貸してなんとか立ち上がらせたユンを階下に連れ出すのは相当に苦労した。下で待っていた彼の祖母に事情を説明すると、とてもうろたえた様子で「病気なんて三つの頃にしたきりだったのに」と言い、部屋の隅の箪笥から数枚の紙幣を手渡された。「これでなんとかなるといいけど」
 畳にユンを一旦横たえてから、勇は部屋に戻って手早く着替えを済ませた。戦闘服を着込むのには時間がかかるので父に手渡された旅行鞄の中から適当に選ぶ。受け取った紙幣を財布に入れてもはや階段の具合に構わずどたどたと下りて、ユンを起き上がらせる。「自転車の後ろに乗れそうか」と尋ねると彼は呻きながら頷いた。
 岩の間から産まれたような頑強な男がこれほど弱っているさまはにわかには信じがたかった。祖母の助けも借りてなんとか彼を自転車にまたがらせると、勇も乗って彼の両手を自分の腰に掴ませる。二両をゆうに越える重みが自転車の駆動を妨げたが、それでもなんとか走り出して二人は近場の病院に急いだ。
 見通しのよい二車線道路沿いに出て歯科を探すと、鶴橋駅から歩いて十数分のところにこじんまりとした医院が見つかった。普通なら自転車で五分とかからないが後ろにユンを抱えた身ではそうもいかない。二倍近い時間をかけて自転車を押すように漕いで自動扉の前にたどり着いた。意識が覚醒しつつあるユンに肩を貸して、どんどんと扉を叩いて声を張り上げる。
「急患です! 誰か、誰か!」
 まもなく透明な扉の奥から当直の看護婦が現れて解錠した。
「一体なんなんです、救急窓口はこの敷地の後方ですよ」
「こいつの歯がひどいんです。色が黒く変わっていて、熱も出てて」
「ここは歯科じゃありませんよ」
 呆れかけた看護婦の眼差しは、勇がぐいとユンの唇を押し広げた途端に色をなして変わった。「外科の先生を呼んできます。ここで待っていてください」と告げると、廊下に向かって駆けていき、ややあってよれた白衣を着た白髪の医者を連れて戻ってきた。
「これはひどいな。化膿の切除……抗生物質もいるな……だが」
 白髪の目立つ初老の男性はちらりとユンと見やる。
「君ら、鶴橋の方から来たのか。申し訳ないが、臣民保険証は持っているか」
「おれはあります。けど、ユンは……」
 横で抱えられながら話を聞いていたユンが皮肉めいた笑いを漏らした。
「んなもん持ってるわけねえだろ……」
「となると、実費で払ってもらうことになるな」
 途端に、医者の眼差しが険しくなる。勇は勝手も解らず尻のポケットから片手で取り出した財布を手渡して言った。
「こいつの祖母からもらったお金が入っています。これでどうにか」
 医者は受け取った財布の中身を改めて、さらに険しい顔をした。
「君、こんなんでは薬代も出ないよ。申し訳ないが他を当たってくれ」
 白髪頭を手でがりがりと掻いて、踵を返す医者を勇は目で追うしかなかった。看護婦の方は名残惜しい表情でこちらをちらちらと見ていたが、じきに医者の後に続いた。
 金……金がいる……今すぐに!
 ほとんど反射的な動作でズボンのポケットをまさぐると、手の先が紙片に触れた。ぐい、と引っ張り出すと、地方銀行の社章が刻印されたくしゃくしゃの封筒が出てきた。
 これは、父からもらったご褒美だ。あの時のズボンがたまたま旅行鞄に入れられていたのだ。
「待ってください!」
 勇は躊躇なく叫んだ。歩を止めて振り返る医者に印籠のごとく封筒を突き出す。
「金なら、ここに十萬円あります。いくら使ってもらても構いません。だから、こいつを――今すぐに――」
 金があると判ると医者は機敏に動いた。すぐさまユンの空いている肩に手を回して力強く手術室に先導した。看護婦になんらかの指示を飛ばして、速やかに歯茎の手術が行われる。先ほど言っていた「切除と抗生物質」の治療が済むまでには三十分とかからなかった。手術室から出てきた医者に目を合わせると、彼は苦々しげに言った。
「一応、手当ては受けていたようだがひどいものだね。よほど手を抜かれたのだろう。幸いにも余計に歯は抜かずに済んだ。抗生物質を打ったから数日で良くなる」
 ほっ、と胸をなでおろしたのも束の間、数日という単語が勇を現実に引き戻した。
「助かりましたが、数日ではなく今日、なんとかなりませんか。おれもあいつも公死園に出るんです。今日が結晶です」
 医者は驚いた顔をして、しかし納得したふうに顎をさすった。
「公死園――なるほど、君ら硬戦の選手か。だからあんな怪我を……。だが、無理を言われても困るな。治療は済んでも彼はいま相当にしんどいはずだ」
「そこをなんとか、なんとかなりませんか。今日、勝たなければだめなんです。あいつが分隊にいなければおれは――」
 もはや自分の都合を隠し立てもせず押し通して、勇は医者に頼み込んだ。固いゴム弾で何度撃たれても萎えなかった己の肉体が、今にも崩れ落ちそうに震えて嗚咽さえ漏れ出ていた。
 医者はしばらく押し黙っていたが、ややあって口を開いた。
「決勝、ということは今日が最後の試合だね?」
 質問の意図が掴めないままうなずいた。医者は続きを答えず手術室の扉を押し開き、ついてくるように指示した。
 手狭な手術室の寝台に横たわるユンは、勇の姿を認めた途端にもごもごと口を動かした。まだしゃべりづらそうだ。
「勇、おえは……」
 医者は備え付けられた棚から薬品を取り出して、真上から注射針を突き刺した。指の動きに合わせて透明な液体がずるずると注射器に吸い取られていく。
「それは一体なんなんです」
 なんとなく不審さを覚えた勇が尋ねると、彼は神妙に答えた。
「methamphetamin……またの名を、ヒロポンと言う。本来は前線の兵士に配られる代物だが……明日からはきっちり休むというのならこいつを処方してやろう」
 ヒロポン。聞いたことがある、と勇は記憶を掘り起こした。昔は合法だったが、中毒症状のあまりの強さに現在では帝国軍人でなければ買えない薬だ。不良学生が帰国した負傷兵と結託してヒロポンを入手しているとの噂をよく耳にする。たとえ五体満足の健康体でもすさまじい幸福感が得られるという。
 勇が言い淀んでいると、横からユンが弛緩した口元を懸命に動かして叫んだ。
「うってくえ、早く」
 遅れて、勇も言う。
「頼みます、打ってください。おれたちは勝たなければならないんです」
 ヒロポンを吸った注射針がユンの肩口にめり込んだ。液体が身体の中に入っていくたびに胸が苦しくなっていくかのようにシャツを鷲掴みにしていたユンだったが、しばらくするとだんだんと顔が赤く頼もしく紅潮しはじめた。紫に染まっていた唇がみるみるうちに元の色に戻っていく。
 彼は寝台から基礎練の動作の要領で跳ね起きて床に着地した。その目は獣のようにぎらついていた。
「行くぞ、早く敵を撃ちたくて仕方がねえ」
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 会計を代理した看護婦から手渡された領収書によると、まるでヒロポン代で帳尻を合わせたかのようにぴったり十萬円が徴収されていた。下には赤文字で『緊急ヲ要スル事態ニ附キ除倦覺醒劑ヲ処方ス』と記されてあった。自動扉の前で深々とお辞儀をしてから帰り道もユンを後ろに乗せて行こうとすると、彼は目の前で屈伸を始めて徒競走の構えをとった。
「おれは走って家に帰る。準備運動の代わりだ」
 勇が自転車に乗りきらないうちにユンはついさっきまで病人だったとは思えない加速で大通りを駆け抜けていった。呆気にとられた勇も遅れて後を追おうとしたが、かなり真面目に漕いでも初速で距離を開けられたユンに追いつくのにはかなり時間がかかった。人通りがほとんどない歩道を独占して、二人並んで並走しながら勇が隣の彼に向かって叫ぶ。
「えらく調子がよさそうだな!」
 ユンも叫んだ。
「調子がいいどころじゃねえ! 痛みも疲れもなにも感じられねえ! 今のおれが一番強い!」
 数分後、家に戻った彼はあまりにも早変わりした姿に驚く祖母に朝食の仕切り直しを要求して、今度こそ米びつを平らげる勢いで食事を済ませた。部屋で各々戦闘服に着替えて出陣の準備を済ませる。試合当日は公死園戦場に現地集合という手はずになっていた。居間の時計を見やると、まだ多少の余裕があった。それに気づいたのか、ユンが言う。
「お前、とりあえず家に帰れよ。テレビの連中も落ち着いた頃合いだろ。おれは先に現地に行ってるからよ。それにしても――」
 彼は急に顔を祖母に向けた。
「いつも金がないないって言ってたくせに、あったじゃねえか。まさか手術まで受けられるとは思ってなかったぜ」
「あんたに渡したってろくなことに使わないよ。でも、なんとか足りてよかったわねえ。勇さんもこんなのを病院に連れていって大変だったでしょう」
 顔じゅうに皺が刻まれた彼の祖母の顔がさらにくしゃっと丸まって勇に笑顔を向けた。
「……ええ、自転車が折れるかと思いましたよ。頂いたお金が間に合ってよかったです。二度と往復したくありませんからね」
 二人は壺に入った朝鮮漬けなどが陳列する店先の前で一旦別れた。大阪城を通り過ぎて帝國実業の校舎を脇目に、一日ぶりに帰路へと着く。昨日送った電文の返事は結局来なかった。朝方には無人航空機の往来もまばらで勇は以前ほどの恐怖を感じずに自宅まで辿り着くことができた。鍵を差して家の扉を開けて「ただいま帰りました」と報告する。返事がない。家の中は静まり返っている。疲れて寝ているのだろうか。
 いないものと思って油断して居間を通り過ぎかけたので、そこに父が座っているのを見つけて勇は驚いた。その背中はいつもよりだいぶ小さく衰えて映った。
 改めて父の背中に呼びかけると、当の本人は力なく振り返った。目に隈ができていて表情に生気がない。いつもならとっくに出勤している時間なのに父は寝間着のままで、ちゃぶ台の上には日本酒と切子が並んでいた。
「おお……帰ったか」
 父の声には威厳のかけらもなかった。半分死んでいるような声色だった。
「職場からな、電話があった。当分休めと。まあ、クビだろうな。今度こそ」
 そう言うと、父は背中を向けて切子の中の日本酒を呷った。たん、と強く置いて、自ら次を注ぐ。
「あいつは――お前の母さんは実家に帰ったよ。身内から二人も不穏分子を出した家に娘を置いておけないと言われたそうだ。まあ、その通りだな」
 また日本酒を呷る。習慣的に勇が酌をしようと前に進み出たが、それよりも早く父が次を注いだ。手持ち無沙汰になったがなにも言うことは思いつかなかった。
「俺は一体どこで間違えたんだ……。十分にやってきたはずだ。過ぎた出来の息子を二人も授かったと思っていたのに」
「父さんは立派です」
 出し抜けに、なんとかそれだけ言えた。だが、父は力なく笑うだけだった。
「テレビ、観たか。誰もそう思っちゃいない。これからどうやって暮せばいいのかも分からない……」
 ふと、思いついたように父はまた振り返った。
「そういえばお前、あの十萬円、どうした。一度やった褒美を返せと言うのは苦しいが、今はとにかく金がいるんだ」
「あれは……もう使ってしまいました」
 瞬間、生気の薄い父の顔に怒気が宿った。釣り上がった目が勇を睨む。
「なんだと? 一昨日にやったばかりじゃないか。なにに十萬円も使ったんだ。ろくでもないことじゃないだろうな!」
「違います」
 酩酊した父は急に立ち上がるとふらつきながら勇に押し迫った。酒臭い息が鼻腔を強く刺激した。
「お前までつまらんことで捕まったら俺はもうどうしようもないんだ。なんだ、一体なにに使った。言ってみろ! 子供が一晩二晩で十萬円も使えるか!」
 父のあまりの変わりように勇は拒絶感が勝り、迫る父の手を強く振り払った。そして、開き直った態度で彼は叫んだ。
「ああ、そうだよ! 朝鮮人の歯を治してやるのに十萬円を全部使ったんだ! あいつの家は貧乏だから……それが悪いとでも言うのかよ!」
 虚を突かれたように父はおとなしく静まった。ややあって、口を開く。
「あの試合で軍刀を振っていた子のことか」
「そうだ、あいつはあれで歯を折ったんだ。危険だったけれど、ああしなければ勝てなかったかもしれない」
 気まずく沈黙する縮んだ父に向かって、勇はさらに言う。
「あいつも、今となってはおれも、公死園の決勝がすべてなんだ。これに勝てばどいつもこいつも黙らせられる。朝鮮人だろうが、不穏分子の兄だろうが――」
 言い切ろうとして、一瞬、言葉を切った。父はまだ黙ったままだった。
「――だから十萬円を使った。今のおれに、他にほしいものなんて一つもなかったから」
 勇はなにも言えないでいる父を置いて家を出た。
 銀色の刺繍が胸元に光る帝國実業の戦闘服を着た彼は、自転車を駆って桜ノ宮駅へ行った。桜ノ宮駅から電車に乗って大阪駅に乗り換え、大阪梅田駅から公死園駅へと進路をとる。車内の液晶に映る代わり映えしない電子公告が数巡すると、目的地にたどり着いた。確かな歩みで駅から戦場の施設まで進んで、帝國実業の控室に入る。そこでは分隊員と、ユン、と監督がすでに待っていた。彼が入るやいなや全員の視線が集中した。
 勇は軍靴の底を互いに弾き鳴らし直立不動の敬礼姿勢をとって、叫んだ。
「帝國実業三年、主将、葛飾勇、ただいま帰りました!」
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 ほどなくして公死園の運営関係者が控室に現れ、選手入場の時間まであと少しだと告げられた。