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Rikuoh Tsujitani 2024-07-11 12:51:13 +09:00
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@ -7,7 +7,7 @@ tags: ["diary"]
2003年のある夏の日。僕はいつものように本を読みながら下校していた。人も建物もまばらな田舎町の通学路は足が覚えている通りに歩き続けるだけで家に着く。時折、足の裏に意識の一欠片を分け与えると、じきに靴底が土くれを踏んでいる感触を伝えてだいたいどの辺りを歩いているかが分かる。道中に道路が未舗装の区間があるため、そこまで来れば半分は歩いたことになる。
たとえ東北の寒村であっても夏は蒸し暑い。6時間授業を終えた後でも、未だ空高く昇りつめた太陽がじりじりと首筋を焼き焦がして汗腺を刺激する。してみると、これはずいぶん不公平な話に思える。日本中どこもかしこも暑いのだから東京の子たちと同じく夏休みも8月31日まで続いていいではないか。だが、事前に配られた冊子は今年も例年通り僕たちの夏休みが遅く始まり、より早く終わる過酷な事実を容赦なく告げてきた。
たとえ東北の寒村であっても夏は蒸し暑い。6時間授業を終えた後でも、未だ空高く昇りつめた太陽がじりじりと首筋を焼き焦がして汗腺を刺激する。してみると、これはずいぶん不公平な話に思える。日本中どこもかしこも暑いのだから東京の子たちと同じく夏休みも8月31日まで続いてたっていいではないか。だが、事前に配られた冊子は今年も例年通り僕たちの夏休みが遅く始まり、より早く終わる過酷な事実を容赦なく告げてきた。
かといってそのぶん冬休みが東京の夏休み並に長くなるわけでもない。冬は冬で窓という窓が積雪に覆われていようとも、屋根の雪かきに駆り出されようとも断じて長い休みにはならない。良いところがあるとしたら自転車で行ける距離に小学生無料の市営スケートリンクがあること、そして僕は自分のスケート靴を持っているのでレンタル料金がかからないことぐらいだ。
@ -17,11 +17,11 @@ tags: ["diary"]
だから僕は、歩きながら本を読んでいる。どうせ手に入らないのなら作り話の方がよほど面白い。僕にとっては百円玉も、まだ見ぬ異国のポンド硬貨も、現実には存在しないシックル銀貨も、面白いか面白くないかの差しかない。シックル銀貨はポンド硬貨より面白く、ポンド硬貨は百円玉よりはたぶん面白い。
後で知った話だが、僕は自慢するにはだいぶ物足りない理由で町の有名人だった。身体の肩から顔まで覆い尽くす巨大な本を読みながら登下校する子がいれば、それは当然、通学路に点在するあらゆる家々の人たちに記憶される定めであり、僕は彼ら彼女らから「本読みの子」と密かに呼ばれていた。
後で知った話だが、僕は自慢するにはだいぶ物足りない理由で町の有名人だった。華奢な身体の肩から顔まで覆い尽くす巨大な本を読みながら登下校する子がいれば、それは当然、通学路に点在するあらゆる家々の人たちに記憶される定めであり、僕は彼ら彼女らから「本読みの子」と密かに呼ばれていた。
ただでさえ乏しい日数の前半がラジオ体操により消耗される徒労を思い出した夏休み初日、前触れなく警察官が家を訪れたのはそういう伝言ゲームの結果だったのだろうと思われる。がっしりした体格の「おじさん」か「お兄さん」かでいえば辛うじて後者に属する風体のお巡りさんは、一向に姿を現さない父親を諦めてこう言った。「うん、君に聞いた方が早そうだ。少しいいかな」
ただでさえ乏しい日数の前半がラジオ体操により消耗される徒労を思い出した夏休み初日、前触れなく警察官が家を訪れたのはそういう伝言ゲームの結果だったのだろうと思われる。がっしりした体格の「おじさん」か「お兄さん」かでいえば辛うじて後者に属する風体のお巡りさんは、一向に姿を現さない父親を諦めてこう言った。「うん、君に聞いた方が早そうだ。少しいいかな」
藍色を身に纏った公僕の姿をまじまじと見つめる。目線の高さに映る腰周りには警棒と拳銃。拳銃は硬い紐で繋がっていてハサミでは切れない。内部には5発の銃弾が装填されている。でも、本当に撃ったら怒られる。僕が読んだ本にはそう書いてあった。お巡りさんは自らしゃがんで僕と顔を合わせた。経験則から僕の中ではそういう仕草をする大人は良い人だということになっている。
藍色に身を包んだ公僕の姿をまじまじと見つめる。目線の高さに映る腰周りには警棒と拳銃。拳銃は硬い紐で繋がっていてハサミでは切れない。内部には5発の銃弾が装填されている。でも、本当に撃ったら怒られる。僕が読んだ本にはそう書いてあった。お巡りさんは自らしゃがんで僕と顔を合わせた。経験則から僕の中ではそういう仕草をする大人は良い人だということになっている。
「ダイエーの手前の道路、わかる? 君の学校の通学路なんだが」
@ -47,11 +47,11 @@ tags: ["diary"]
ところが夏休みの半ば、ラジオ体操の義務から解放された頃に再びお巡りさんがやってきた。今度は自転車ではなくパトカーが家の前に停まったので父の慌てぶりは臨界点に達した。顔面に殴打を食らう前に「なにも言ってないよ」と弁明したものの、それすらも耳に入っていない始末だった。例によって玄関のドアを開けると、お巡りさんは両手に大きい包みを抱えながら入ってきた。
「お父さんはいるかね
「お父さんはご在宅かな
「えっと、うーん、仕事中です」
「そうか、じゃあ後でお父さんにも伝えておいてくれるか。これは公務じゃないからね、簡単に」
「そうか、じゃあ後でお父さんにも伝えておいてくれるか。これは公務じゃないからね、簡単に」
お巡りさんが包みを解くと、たくさんの文庫本が列をなして現れた。5、10、15……一目ではとても数えれない。背表紙には色々な表題が記されていたが、著者はどれも同じ名前で「星新一」と記されている。今も昔もよく知られた日本SFの大家だ。
お巡りさんが包みを解くと、たくさんの文庫本が列をなして現れた。5、10、15……一目ではとても数えれない。背表紙には色々な表題が記されていたが、著者はどれも同じ名前で「星新一」と記されている。今も昔もよく知られた日本SFの大家だ。
「この間はいきなり押しかけて悪かったね。ずっとお礼をしなきゃならんなと思ってたんだ。君、本が好きなんだろう。これは実家にあったやつなんだが、子どもでも読めると聞いてね。まあ、俺は本を読まないから……もし良かったら代わりに読んでくれないか」
@ -63,6 +63,6 @@ tags: ["diary"]
父は仁王立ちで怪訝そうに睨んでいたが、家の前のパトカーが遠ざかる音を聞くやいなや「ふん」と鼻を鳴らした。それでいて明らかに気が緩んだ態度で口元を折り曲げた。「税金で食ってる連中は気楽なもんだな」そう言う父は祖父の財産を食いつぶして暮らしていた。
その後、しばらく本には困らなかった。星新一の短編集は一冊あたりの分量こそ少ないが、ゆうに30冊以上もの巻数がある。短い夏休みが終わり、さらに短い秋が駆け足で通り過ぎてもめどなく読み続けることができた。一寸、実体を得たかのように見えた背景はたちまち元の平坦さを取り戻し、代わりに僕の世界はますます奥行きを増して厚みを帯びた。
その後、しばらく本には困らなかった。星新一の短編集は一冊あたりの分量こそ少ないが、ゆうに30冊以上もの巻数がある。短い夏休みが終わり、さらに短い秋が駆け足で通り過ぎてもめどなく読み続けることができた。一寸、実体を得たかのように見えた背景はたちまち元の平坦さを取り戻し、代わりに僕の世界はますます奥行きを増して厚みを帯びた。
やがて、心の中に強固なマイ国家が築かれた。何人にも決して侵されない脳裏にはにぎやかな部屋が作られ、そこには時に暗く明るいひとにぎりの未来が広がっていた。ところで、この日記には重大な嘘が含まれている。一つだけとはかぎらないし、最初から最後までまるきり嘘という顛末も大いにありえる。