8話から
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Rikuoh Tsujitani 2024-01-24 09:14:53 +09:00
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@ -75,8 +75,8 @@ tags: ['novel']
 チーン、とタイプライタが鳴り、ハンマーが紙面の端に到達したことを知らせてくれる。一旦、タイピングを止めて手探りで本体のレバーを引っ張り、改行する。  チーン、とタイプライタが鳴り、ハンマーが紙面の端に到達したことを知らせてくれる。一旦、タイピングを止めて手探りで本体のレバーを引っ張り、改行する。
”それにしても、まだ子どもの私が「上官」とか「管制官」とか言って、言葉にしてみたらずいぶんおかしい話に聞こえるでしょうね。今の私はなんでも中尉なんだそうです。私よりたっぷり何フィートも大柄な男の人たちが、前を歩くとさっと右、左に避けてくれるのが分かります。姿は見えなくても足音でだいたいどんな背格好なのか分かりますから。” ”それにしても、まだ子どもの私が「上官」とか「管制官」とか言って、言葉にしてみたらずいぶんおかしい話に聞こえるでしょうね。今の私はなんでも中尉なんだそうです。私よりたっぷり何フィートも大柄な男の人たちが、前を歩くとさっと右、左に避けてくれるのが分かります。姿は見えなくても足音でだいたいどんな背格好なのか分かりますから。”
 チーン。また、音が鳴った。再びレバーを引いて改行する。  チーン。また、音が鳴った。再びレバーを引いて改行する。
”いつか少佐になったら、私たちの鉤十字が輝くブリュッセルの空を飛んで、お父さんに会いに行く許可をもらおうと思います。少佐だったら、ついでに山ほどのチョコレートを買うことも許されそうな気がします。その日まで、どうかお元気で。ハイル・ヒトラー” ”いつかもっと偉くなったら、私たちの鉤十字がはためくブリュッセルの空を飛んで、お父さんに会いに行く許可をもらおうと思います。ついでに山ほどのチョコレートを買うことも許されそうな気がします。その日まで、どうかお元気で。ハイル・ヒトラー”
 チョコレート……そう、チョコレートだ、と私は唐突に思い至った。今週、お給金を頂いたから、ベルギーのチョコレートは無理でも近所のチョコレートは買える。椅子から勢いよく立ち上がったら、ふわ、と全身が浮きかけたので、あわてて踵を地面にくっつける。左を向いて五歩半歩くと、壁にかかっているバッグがある。その中にお財布も身分証明書も入っている。前に手を伸ばすとそこには確かに古びた皮革の感触が広がった。  チョコレート……そう、チョコレートだ、と私は唐突に思い至った。今週、お給金を頂いたから、ベルギーのチョコレートは無理でも近所のチョコレートは買える。一月ぶりのご褒美。椅子から勢いよく立ち上がったら、ふわ、と全身が浮きかけたので、あわてて踵を地面にくっつける。左を向いて五歩半歩くと、壁にかかっているバッグがある。その中にお財布も身分証明書も入っている。前に手を伸ばすとそこには確かに古びた皮革の感触が広がった。
 両手でバッグを掴んで上にもちあげると肩掛けが釘から外れる。それを頭から被るようにして肩口に合わせると、また左に三歩歩いて、冷えたドアノブを触った。すぐ隣に立てかけられた杖も忘れずに持っていかないといけない。これがあるのとないのとじゃ大違い。部屋を出ると廊下が待ち受けているが、左手の杖先で床を叩きながら右手で壁をなぞっていくと、思いのほか簡単に玄関までたどりつける。  両手でバッグを掴んで上にもちあげると肩掛けが釘から外れる。それを頭から被るようにして肩口に合わせると、また左に三歩歩いて、冷えたドアノブを触った。すぐ隣に立てかけられた杖も忘れずに持っていかないといけない。これがあるのとないのとじゃ大違い。部屋を出ると廊下が待ち受けているが、左手の杖先で床を叩きながら右手で壁をなぞっていくと、思いのほか簡単に玄関までたどりつける。
 まだお日さまの熱を頭のてっぺんに感じる時間なのに、外は肌寒かった。さっき手紙で書いてばかりだというのに、横着せず右へ四歩半歩いてコートを持ってくるべきだった。でも、杖の先っぽで石畳をとん、とんと叩きながら道を歩いているうちに、だんだん身体が温まってきた。  まだお日さまの熱を頭のてっぺんに感じる時間なのに、外は肌寒かった。さっき手紙で書いてばかりだというのに、横着せず右へ四歩半歩いてコートを持ってくるべきだった。でも、杖の先っぽで石畳をとん、とんと叩きながら道を歩いているうちに、だんだん身体が温まってきた。
 この杖は先端がとても硬くできている。なので固い地面を叩くと甲高い音とともに、衝撃が指先に伝わる。すると、私の真っ暗な視界の中に白線の波がざざあ、と描かれていく。音の調子と衝撃の具合で、あと何歩歩くと壁があるのか、どの辺りに他の人が立っているのかだいたい分かる。  この杖は先端がとても硬くできている。なので固い地面を叩くと甲高い音とともに、衝撃が指先に伝わる。すると、私の真っ暗な視界の中に白線の波がざざあ、と描かれていく。音の調子と衝撃の具合で、あと何歩歩くと壁があるのか、どの辺りに他の人が立っているのかだいたい分かる。
@ -106,7 +106,7 @@ tags: ['novel']
 おじさんは数枚の紙幣を抜き取ると、大きなごつごつとした手のひらで私の手を包み込み、そっと押し戻した。  おじさんは数枚の紙幣を抜き取ると、大きなごつごつとした手のひらで私の手を包み込み、そっと押し戻した。
「気をつけて帰るんだよ」 「気をつけて帰るんだよ」
「はい、直ちに帰投しま……じゃない、はい、まっすぐ帰りますっ」 「はい、直ちに帰投しま……じゃない、はい、まっすぐ帰りますっ」
 最後の最後でうっかり会話の段取りを誤った私は、杖をいつもより素早く叩いて店を足早に去った。変な子だと思われたかもしれない。しかしなんにせよ、チョコレートが手に入ったのは間違いない。量もいつもよりずっと多い。思わず浮きかけた足を、うんと踵に力を込めて地面にへばりつけた。  最後の最後でうっかり会話の段取りを誤った私は、杖をいつもより素早く叩いて店を足早に去った。変な子だと思われたかもしれない。しかしなんにせよ、チョコレートが手に入ったのは間違いない。量もいつもよりずっと多い。思わず浮きかけた足を、うんと踵に力を込めて地面にくっつけた。
 片腕にチョコレートの紙袋を抱えているからか、ちょっと杖を叩くのがやりづらい。いっそ飛んで帰ってしまいたい。気が急いて杖の先端の向きがおろそかになってしまっている。白線の波が描く軌跡はおぼろげで頼りない。それでも私はずかずかと勇ましく前へ前へと進む。今の私は重戦車だ。  片腕にチョコレートの紙袋を抱えているからか、ちょっと杖を叩くのがやりづらい。いっそ飛んで帰ってしまいたい。気が急いて杖の先端の向きがおろそかになってしまっている。白線の波が描く軌跡はおぼろげで頼りない。それでも私はずかずかと勇ましく前へ前へと進む。今の私は重戦車だ。
 しかし私の進撃は勝手知ったる街角をひょいと曲がったあたりで唐突に止まった。鼻先にぼすん、と衝撃が走り、地面に尻もちをついた。紙袋が手から滑り落ちる。突然の出来事でも、からからと石畳を転がる杖の行方を見失わないよう耳を傾けていると、覆いかぶさるように男の子の声が上から降り注いだ。  しかし私の進撃は勝手知ったる街角をひょいと曲がったあたりで唐突に止まった。鼻先にぼすん、と衝撃が走り、地面に尻もちをついた。紙袋が手から滑り落ちる。突然の出来事でも、からからと石畳を転がる杖の行方を見失わないよう耳を傾けていると、覆いかぶさるように男の子の声が上から降り注いだ。
「いってーな」 「いってーな」
@ -203,9 +203,10 @@ tags: ['novel']
「あまりにも美しすぎるから亡くなってしまうかもしれない」 「あまりにも美しすぎるから亡くなってしまうかもしれない」
「そんな――お上手ですね」 「そんな――お上手ですね」
「嘘じゃないよ。君だってドレスをじかに目にしただけで死んでしまいそう、と言ったじゃないか。扱うべき者が扱えば効力は倍増される。兵器と一緒だ」 「嘘じゃないよ。君だってドレスをじかに目にしただけで死んでしまいそう、と言ったじゃないか。扱うべき者が扱えば効力は倍増される。兵器と一緒だ」
 管制官はひとしきりの賛辞を私に送ると「そろそろ時間だ」と告げ、今日一日はドレスを着たまま楽しんでいていいと許可を与えてくれた。彼が手紙を持って部屋から去った後、すっかり調子に乗った私は床を静かに蹴って宙に浮かんだ。  管制官はひとしきりの賛辞を私に送ると「そろそろ時間だ」と告げ、今日一日はドレスを着たまま楽しんでいていいと許可を与えてくれた。彼が手紙を持って部屋から去った後、私はたまらず床を蹴って宙に浮かんだ。手にはまだチョコレートでいっぱいの紙袋
 あまりにも軽く薄いオーバードレスの生地がふわりとたなびいた。漆黒の世界でも思い描けば私は部屋に咲く一輪の花だった。  あまりにも軽く薄いオーバードレスの生地がふわりとたなびいた。漆黒の世界でも思い描けば私は部屋に咲く一輪の花だった。
 固い木材の天井に、おでこがこつんと当たった。  固い木材の天井に、おでこがこつんと当たった。
 緩やかに空中で漂いながら、私は紙袋からチョコレートを取り出して包装紙を破った。口に含むと、舌の上にこの上ない幸福が訪れた。
 リザちゃんが遅い昼食の時間を告げに部屋に来るまで、私はそのままでいた。  リザちゃんが遅い昼食の時間を告げに部屋に来るまで、私はそのままでいた。
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@ -362,8 +363,8 @@ tags: ['novel']
「自分は”直ちに遅滞なく”と聞かされております」 「自分は”直ちに遅滞なく”と聞かされております」
「どうしたの……」 「どうしたの……」
 差し迫った彼女の態度に不安を覚えて尋ねると、深い吐息をにじませた言葉がかえってきた。  差し迫った彼女の態度に不安を覚えて尋ねると、深い吐息をにじませた言葉がかえってきた。
「私たち、引っ越すことになったわ。休みながら飛ばないと着けないから、もっと上着を持っていかないと」 「私たち、遠出することになったわ。休みながら飛ばないと着けないから、もっと上着を持っていかないと」
「どこに引っ越すの」 「どこに行くの」
「ずっと東。ベルリンよりも東……ポーランドよ」 「ずっと東。ベルリンよりも東……ポーランドよ」
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@ -419,6 +420,8 @@ tags: ['novel']
 湿り気のある空を一時間も飛ぶと平べったいアーヘンの街並みが高速で手前から近づいてきて、そこを通り過ぎるとリエージュ州が見えてきた。ここはもうベルギーだけど、高度を下げると至るところにはきっと私たちの鈎十字がはためいているに違いない。ベルギーは私たちの一員なのだ。なのに、北海の向こうからイギリスやアメリカが奪い取りに来る。  湿り気のある空を一時間も飛ぶと平べったいアーヘンの街並みが高速で手前から近づいてきて、そこを通り過ぎるとリエージュ州が見えてきた。ここはもうベルギーだけど、高度を下げると至るところにはきっと私たちの鈎十字がはためいているに違いない。ベルギーは私たちの一員なのだ。なのに、北海の向こうからイギリスやアメリカが奪い取りに来る。
 ブリュッセルに近づくにつれて、薄汚れた硝煙が曇り空に混じりはじめた。私は咳き込みながらケルンとそっくりだと思った。  ブリュッセルに近づくにつれて、薄汚れた硝煙が曇り空に混じりはじめた。私は咳き込みながらケルンとそっくりだと思った。
 お父さんはどこで戦っているのだろう。ダンケルクが奪われたと言っていたから、その近くで戦っているのかもしれない。そうじゃなければ、どこかの前線基地にいるのかも。そこまで行けば会えるかな。
 だとしたら、と私は顔を緩めた。ブリュッセルでチョコレートを買ってから会いに行く方が手間が少ない。そうだ、お父さんにもチョコレートをあげなくちゃ。前線の兵士にはチョコレートが支給されると聞いているけれど、たくさんあればもっと嬉しいはず。嬉しいに決まっている。
 さらに高度を下げて、街の音に耳をそばだてた。もしかしたらチョコレートの匂いも漂ってきて、お店を探す手間が省けるかもしれない。  さらに高度を下げて、街の音に耳をそばだてた。もしかしたらチョコレートの匂いも漂ってきて、お店を探す手間が省けるかもしれない。
 しかし、予想に反して辺りは静まりかえっていた。たまらず、左右を見回してリザちゃんの点線に向かって手信号を送る。無線機を背負っていないのでお話するにはよほど近づかないと聞こえない。彼女の輪郭は距離が縮まるたびに精細さを増した。  しかし、予想に反して辺りは静まりかえっていた。たまらず、左右を見回してリザちゃんの点線に向かって手信号を送る。無線機を背負っていないのでお話するにはよほど近づかないと聞こえない。彼女の輪郭は距離が縮まるたびに精細さを増した。
「あの! ブリュッセル! どんな感じ?」 「あの! ブリュッセル! どんな感じ?」
@ -469,9 +472,21 @@ tags: ['novel']
「この街はもう、敵に占領されようとしているんだわ」 「この街はもう、敵に占領されようとしているんだわ」
 M26重戦車。  M26重戦車。
 敵国アメリカ合衆国の主力戦車が奏でる悪魔の調べだ。  敵国アメリカ合衆国の主力戦車が奏でる悪魔の調べだ。
 ごく数秒の間隙を置いて、それは主砲をまっすぐと私たちの方に傾けた。  ごく数秒の間隙を置いて、それは主砲をまっすぐと私たちの方に傾けた。
 リザちゃんが私の身体を抱きしめて空中に退避した直後、入れ替わりに砲弾が風を切って真下を通り過ぎた。背後で耳を突き破る爆発音がして空気をびりびりと震わせた。空中で自立した私は直ちに戦闘態勢をとった。手のひらに込めた光の源を目標に向かって解き放つ。
 精細に模られた白線の戦車に鋭い凹みができた。続いて、リザちゃんの魔法も突き刺さり、醜くひしゃげた重戦車はのろのろと後退をはじめる。とどめを刺すために追いすがる私たちはしかし、戦車が通りの十字路で停止したところで相手の意図を察知した。
 両脇の建物の角からわらわらと現れた一個小隊規模の随伴歩兵たちが、雨あられの銃撃を浴びせてきた。間一髪、私たちは回避運動をとって被弾を最小限に抑えた。それでも脚とか、肩のあたりにじんじんとかすかな鈍痛を感じた。
 この間に戦車は後退を成功させて建物の後ろに逃げ込んでいった。追いかけようとした私の腕をリザちゃんがむんずと掴む。「だめよ! 絶対に狙撃される」「みんなまとめてやっつければいい!」「だめ! 絶対に被弾するわ!」
 彼女の言わんとしていることは理解できた。私たちはここにいちゃいけないはずなんだ。本来の作戦行動に支障をきたす被弾は避けないといけない。でも、でも……!
「お父さんが! あの戦車に撃たれたら死んじゃう!」
 一瞬、彼女が言葉に詰まったものの、すぐにごくまっとうな返事が返ってくる。
「たぶん、あれだけ痛めつけたらしばらくは使えないわ。それに、私たちの身体は国家のものなのよ」
 あちこちに敵国の伏兵が潜むブリュッセルの空で、二人してしばらく見つめ合った。言い争うまでもなく答えは明らかだった。
「帰ろう、ケルンの基地に」
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