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Rikuoh Tsujitani 2023-09-16 14:06:39 +09:00
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 全国高等学校硬式戦争選手権大会の準決勝、帝國実業と韋駄天学園の試合は佳境を迎えていた。共に十名いる選手のうち六名がすでに仮想体力を失い退場を余儀なくされ、残る四名が市街地を模した公死園戦場の各所で互いに隙をうかがっている。帝國実業高等学校三年の主将、葛飾勇はこの時、昭和八九式硬式小銃に装着された弾倉が最後の一つだった。地道な基礎練習を怠らない生真面目な性分が功を奏して彼は残弾数を正確に把握していたが、同時にそれは自身の劣勢を否が応にでも自覚させられる重い錨となってのしかかる。最悪の場合、たった九発の銃弾で残る四人の敵を倒さなければならないのである。
 対する韋駄天学園の戦いぶりは賢明であった。むやみに弾を浪費して一か八かに賭けるより潔く撃たれて予備弾倉を戦場に残していく。準決勝でもやり方は変わらない。つまり、四人の敵の弾薬は依然豊富であって正面での撃ち合いではまず勝てる見込みがない。圧縮ゴムでできた硬式弾をしこたま食らって痣だらけになっても、本人が直立している限りにおいて戦場に立ち続けられた昔とは違う。現行の仮想体力制度では胴体に四発ももらえば確実に退場だ。
 勇は壁伝いに歩いて近場の建物の中に忍び足で入った。戦場を眩く照らす電燈から逃れて部屋の陰に座り込み、ひとまず身体を落ち着かせる。片耳に押し込まれた通信機で仲間との交信をしたいところだが、周囲の状況が判らない以上はうかつに声を発するわけにはいかない。
 勇は壁伝いに歩いて近場の建物の中に忍び足で入った。戦場を眩く照らす直射日光から逃れて部屋の陰に座り込み、ひとまず身体を落ち着かせる。片耳に押し込まれた通信機で仲間との交信をしたいところだが、周囲の状況が判らない以上はうかつに声を発するわけにはいかない。
 だだだだ、と硬式小銃特有の低い銃声が聞こえた。さらに遠くでは、わああっ、と観客の歓声が波のようにこだまする。敵か味方か、どっちかがやられたらしい。観客席から見える大型の液晶画面からも、試合を中継しているテレビでも、勇たち選手の仮想体力は常に表示されていて残り何発持ちこたえられるのか、何発撃てるのかが把握できる仕組みになっている。さらには複数の望遠カメラが刻一刻と変化する戦場の様子を捉えて、選手たちのここ一番の勇姿を映し出す。帝國中の臣民が関心を寄せる公死園の準決勝ともなれば、その視聴率は相当な規模だ。
 勇は極度の緊張に息が詰まりかけた。監督の助言を思い出す。目を見開いて、腹の底でゆっくり深呼吸を繰り返す。視界の先に、戦闘服の胸元に刺繍された帝國実業の校名が見えた。彼はだんだんと気持ちが静まっていくのを感じた。一転、腰を落とした状態で建物の上階へと上がった。
 ここへ入った理由は戦場を俯瞰するためだった。通常、背の高い建物は取り合いになるが序中盤の戦いで各方面に敵味方が散った現状では、かえって忍び込みやすい戦況に変化している。残弾数で優勢を誇る敵は鉢合わせの混戦に至る危険を懸念して、平地で安全に制圧戦を仕掛ける腹積もりなのだろう。
@ -375,7 +375,7 @@ tags: ['novel']
「あの野郎がおれを嫌っているのは知っている。だが強いから出している。朝鮮人のおれをな。今は……まあそれでいい。おれには目標がある」
 監督が模擬軍刀でユンを徹底的に打ち据えたのは、果たして個人的な嫌悪心からくるものなのか、それとも純粋に鍛えたかったからなのか、勇には判らなかった。なにも言えず黙っているとユンは場の空気を入れ替えるように声を張った。
「まあ、とりあえずメシを食え。いま下でハルモニが作っているはずだ」
 予想通り、ほとんど間を置かずに彼の祖母が階下から二人を呼んだ。階段を危なげに下りて居間に行くと、畳の上のちゃぶ台にすでに夕飯が用意されていた。やたら大きいお櫃に入った大量の雑穀米と、鍋いっぱいのわかめの汁物、朝鮮漬け、牛肉の和え物などが台の上を埋め尽くしている。日本人には不慣れな朝鮮人の家庭料理だが、家に来るたびに振る舞われるので勇にとってはすっかり馴染み深い味になっていた。なにしろ量が多く執拗におかわりを勧められるので、昼飯時に行くと育ち盛りの勇でさえ夕飯がいらなくなるほどだ。
 予想通り、ほとんど間を置かずに彼の祖母が階下から二人を呼んだ。階段を危なげに下りて居間に行くと、畳の上のちゃぶ台にすでに夕飯が用意されていた。やたら大きいお櫃に入った大量の雑穀米と、鍋いっぱいのわかめの汁物、朝鮮漬け、臓物の和え物、煮物などが台の上を埋め尽くしている。日本人には不慣れな朝鮮人の家庭料理だが、家に来るたびに振る舞われるので勇にとってはすっかり馴染み深い味になっていた。なにしろ量が多く執拗におかわりを勧められるので、昼飯時に行くと育ち盛りの勇でさえ夕飯がいらなくなるほどだ。
 そんな光景を見てユンは「金はねえがとにかくメシはあるからデカくなれた」と、普段は家の文句ばかりなのにここぞとばかり自慢するのだった。
 しかし今日の彼は様子がおかしかった。「もっと食え」と勇におかわりを勧める割には、自分の丼ぶりの中身は一向に減っていない。いつもはお櫃が空になるまで食べるのにまだ半分も残っている。隣で甲斐甲斐しく米をよそってくれるユンの祖母も気がついて「あんた、今日は全然食べないねえ」と訝しんだ。対する彼ときたら「うるせえな、食い飽きたんだよ」と買い言葉を口にして、とうとう一杯分の丼ぶりを辛うじて空にしただけで夕食を終えてしまった。
 旧式のバランス釜で沸かされた風呂から順番に勇が出てくると、まだ九時にもならないうちにユンは「おれは寝る」と言って灯りをつけたまま万年床の布団に仰向けに寝転がった。客人の立場で電気を消耗するのに気が咎めた勇は、父に様子を尋ねる電文を打ってから早々と灯りを消した。入浴の間にユンの祖母が隣に敷いてくれたのであろう布団に横たわると、窓から入り込む夜の商店街の光が部屋の至るところを赤緑青にちかちかと薄く照らすのが見えた。
@ -682,143 +682,148 @@ tags: ['novel']
「無駄な真似はやめろ。弾は大切にとっておけ」
 勇は引き金を引く気になれなかった。その発言がはったりでもなんでもない本心だと理解したからだ。
「うちの連中はどうした。二人いたはずだが」
 ユンが軍刀を構えながら訊ねると、陳は端的に答えた。
「せめて一発は撃たせてやるべきだったかもな。三年だろうやつらは」
 ユンが訊ねると、陳は端的に答えた。
「せめて一発は撃たせてやるべきだったのかもな。三年だろうやつらは」
 二人はたじろいだ。強豪帝國実業の成熟した分隊員を二人も一方的に屠ったと言ってのける男に付け入る隙があるとは思われなかった。
「自分、いきます!」
 椹木が軍刀を両手に握って陳に迫った。対するは無表情のまま身動きもせず、椹木の二年にしては十分に熟達した太刀筋が自身を触れる寸前に、ごく限られた動きでそれをかわした。入れ替わりに、ひゅんっ、と鮮やかに振られたすばやい刀身が椹木の喉元を捉えた。実際に急所を打たれた椹木は地面にもんどり打って倒れた。喉を抑えて小刻みに震える椹木は退場よりもさらに過酷な苦痛を味わっているように見えた。
 椹木が軍刀を両手に握って陳に迫った。対する第一八高主将は無表情のまま身動きもせず、椹木の二年にしては十分に熟達した太刀筋が自身を触れる寸前に、ごく限られた動きで難なくそれをかわした。入れ替わりに、ひゅんっ、と片手で鮮やかに振られたすばやい刀身が相手の喉元を捉える。正真正銘の急所を打たれた椹木は地面にもんどり打って倒れた。喉を抑えて小刻みに震える姿は退場よりもさらに過酷な苦痛を味わっているように見えた。
「次は二人でかかってきても構わんぞ」
 軍刀をひと振りして気勢を整え、相変わらずの直立姿勢で二人を威圧する陳に勇は微笑む。
 軍刀をひと振りして気勢を整え、相変わらずの直立姿勢で二人を威圧する陳に勇もあえて挑発に乗る。
「そうしない理由などないからな」
 勇とユンは一瞬の目配せの後に左右に別れて陳にかった。
 切り合ってすぐに、勇は陳が二本の刀を持っているのではないかと目を疑った。さながら千手観音のごとく――勇とユンの刀を片手の動きだけで捌いている。二人がかりで戦っている方がむしろ力んでいるせいで、たちどころに疲労感が募っていく。わずかに遅れた剣筋の隙を見抜けない陳ではなかった。
 横薙ぎの一閃――勝負はそれでついたと確信した陳だったが、勇は寸前のところでそれをかわした。本能的な察知に近い。ユンもまた、続けて振られた追撃をかわす。不利を悟って後ずさった二人へ、陳は淡々と告げた。
 勇とユンは一瞬の目配せの後に左右に別れて陳に襲いかかった。
 斬り合ってすぐに、勇は陳が軍刀を二本持っているのではないかと目を疑った。さながら千手観音のごとく――勇とユンの刀を片手の動きだけで捌いている。二人がかりで戦っている側がかえって力んでいるせいで、たちどころに疲労感が募っていく。その緩んだ軌跡の間隙を見抜けない陳ではなかった。
 横薙ぎの一閃。勝負はそれでついたと確信した陳だったが、勇は辛くもそれをかわした。ユンもまた、続けて振られた追撃をかわす。明らかな敗着を付け焼き刃の鍛錬が拭った。不利を悟って後ずさった二人へ、陳は皮肉っぽく感心を露わにした。
「意外と骨があるな」
 次に陳の口から放たれた言葉は勇をうろたえさせた。
 だが、次に陳の口から放たれた言葉は勇をうろたえさせた。
「今日ほど仮想体力制を恨めしく思ったことはない……貴様だよ、葛飾勇。貴様のようなやつを思う存分打ちのめせないからな」
「ついにご贔屓までできたのか」
 横のユンが息を荒らげながら囃し立てるも、陳は笑わない。
おれがどうしたというんだ」
 横のユンが息を荒らげながら囃し立てるも、陳はもう笑わない。
がどうしたというんだ」
「報道を観た。不穏分子を身内から出しておきながらおめおめとこの晴れ舞台に姿を現すなど許しがたい」
「なん――!」
 抗弁する余裕は与えられなかった。自ら一歩踏み出した陳の前進は地面に立っていながらにして空気を切り裂く機敏さを持ち合わせ、勇に向かって秒に三回の剣撃を浴びせた。すばやく、軽、それでいて重い。
 辛くも勇が受けきれている間に背後からユンが襲撃を試みるも、風のようにさらりと横に身を逃してやはりかわされる。再び正面に相対して刀を前に突き出す陳が、ひときわ大きい声を張る。
「なん――!」
 抗弁する余裕は与えられなかった。自ら踏み込んだ陳の前進は地に足を付けながらにして空気を切り裂く鋭敏さを持ち合わせ、勇に向かって秒に三回の剣撃を浴びせた。すばやく、軽やかで、それでいて重い。
 勇が受けきれている間に背後からユンが襲撃を試みるも、風のようにさらりと横に身を逃してかわされる。再び正面に相対して軍刀を前に突き出した陳が、ひときわ大きい声を張る。
「貴様は一八だ。すでに成人している。なぜ弟の罪を贖って腹を切らない」
 陳の滾った表情から、腹を切るというのがまさしく言葉通りの意味であることが察せられた。勇は始めはおずおずと、徐々にはっきりと答えた。
おれは……判らない。なにが正しいのか間違っているのか。弟は本当に罪を犯したのか」
 陳の厳しい表情から、腹を切るというのがまさしく言葉通りの意味であることが察せられた。勇は始めはおずおずと、徐々にはっきりと答えた。
俺は……分からない。なにが正しいのか間違っているのか。弟は本当に罪と呼べる罪を犯したのか」
「この期に及んで見苦しい言い逃れを重ねるか。死を以て償えないのならせめて敗北の汚辱に塗れるがいい」
 三度、陳の刀身が迫る。だが、それをり返したのは勇ではなくユンの力任せの横薙ぎだった。陳も衝撃にたじろいで正面からは受けずに流して距離を取る。ユンは息も絶え絶えに言った。
「てめえ、さっきから聞いてりゃあ……他所の家の事情にいちいち口出すんじゃねえよ」
 三度、陳の刀身が迫る。だが、それをり返したのは勇ではなくユンの力任せの横薙ぎだった。陳も衝撃にたじろいで正面からは受けずに流して後退する。ユンは息も絶え絶えに言った。
ハァ……てめえ、さっきから聞いてりゃあ……他所の家の事情にいちいち口出すんじゃねえよ」
「他所の家の事情ではない。一人の不穏分子が一家を蝕み、やがて國體をも脅かすのだから」
 勇は二人の応酬の最中、ユンの呼吸の調子が明らかに異常をきたしていることに気づいた。それを知ってか知らずか、ユンが言う
「てめえはそんなことを考えて刀を振っているのかよ。いい加減に口を閉じろ。決着をつけようぜ」
 勇が体勢を整える前にユンは陳に突進した。盛り上がる背筋から繰り出される怒涛の猛攻は頭一つどころか二つも低い陳を確実に追い詰めているはずだった。しかし、勇にはどうにもその剣筋は鈍く、剣撃を交わすたびに徐々に遅滞しているようにしか思われなかった。
 勇は彼の呼吸の調子が明らかに異常をきたしていることに気づいた。それを自分で知ってか知らずか、ユンは気の急いた様子で宣言した
「てめえは毎度そんなことを考えて刀を振っているのかよ。いい加減に口を閉じろ。決着をつけようぜ」
 勇が体勢を整える前にユンは陳に突進した。盛り上がる背筋から繰り出される怒涛の猛攻は頭一つどころか二つも低い陳を確実に追い詰めているはずだった。しかし、勇にはどうにもその太刀筋は鈍く、剣撃を交わすごとに遅滞しているようにしか見えなかった。
「下がれ、ユン・ウヌ!」
 駆け出して援護にかけつける勇のすぐ目の前で、ユンは我も忘れて決死の攻撃に専念していたが、ついに最後の時は訪れた。気力が衰えつつも決して敗着とは言い難いごくわずかな刃の嵐をくぐりぬけて、陳の滑らかな剣筋がユンの脇腹をかすめた。急所でもなんでもない一撃の直後に、ユンの身体が硬直する。彼は息を荒らげたまま、持ち上げた剣を下ろして腕を垂らした
 駆け出して援護に向かう勇の目の前で、ユンは我も忘れて決死の攻撃に専念していたが、ついに最期の時は訪れた。気力が衰えつつも決して敗着とは言い難い刃の嵐をくぐり抜けて、陳の滑らかな突きがユンの脇腹をかすめた。急所でもなんでもない一撃の直後に、ユンの身体が硬直する。彼は肩で息をしたまま、持ち上げた剣をゆっくりと下ろして腕を垂らした。力を失った手から剥がれ落ちた模擬軍刀が、からんと虚な音をたてて転がる
「くそっ、終わりか」
 許されるのなら本当は暴れ出したかったのだろう。試合の規則に束縛された帝國実業副主将はかすかに震えながら頭の後ろに両手を添えた。
 退場の間際、岩でできたかのようなごつごつの表情は「後は任せた」と無言で勇に告げていた。
さあ、一騎打ちだ」
 とうとう戦場には誰も味方がいなくなった。それは敵も同じ。たった二人の生き残りが敵を目前にしながら軍刀を構えて対峙する姿は、まこと仮想体力制度導入以来の公死園ではかつてない狂態として映っているに相違ない。
無駄に時間を食ったな。ようやく一騎打ちだ」
 とうとう戦場には誰も味方がいなくなった。それは敵も同じ。たった二人の生き残りが敵を目前にしながら軍刀を構えて対峙する姿は、仮想体力制度導入以来の公死園ではかつてない狂態として映っているに相違ない。
 勇は言った。
「貴様は尻の拳銃を使わないのか」
 一瞬、虚を突かれた陳の顔に笑みが浮かぶ。
 一瞬、虚を突かれた陳の顔に不敵な笑みが浮かぶ。
「知っていたか」
「貴様と違って俺は主将に恥じぬ働きをした」
「貴様と同じように俺も幾多の敵を倒してきた」
「そうか。ならば――」
 軍刀を片手に両者は同時に拳銃を引き抜いた。最後の戦いの火蓋が切って落とされる。
 軍刀を片手に両者は同時に拳銃を引き抜いた。
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 二人は互いに並行して歩きながら拳銃を撃ち放った。ダンッ、ダンッ、と重苦しい硬式拳銃の銃声の直後に風切り音が耳先をかすめる。共に一撃必殺のみを狙った射撃は張り詰めた神経の加速によってごくわずかに逸れ続け、八発の応酬を経ても髪の毛より内側に弾が当たることはなかった。ほぼ同時に、二人の拳銃の遊底が引き下がる。弾切れだ。拳銃を投げ捨てて軍刀で先に打って出たのは陳だった。
 勇の刃がそれを受け止める。ぎりぎりと金属がひしめき合い、ここに初めての鍔迫り合いが実現する。当初の冷静な態度からは考えられない歯をむき出しにした陳の表情が間近に見えた。擦り切れた臣民第一八高等学校の刺繍に、よく見ればずいぶん着古して丈の余った戦闘服が視界に映る。
 その目はやはり、瞳孔が開ききった獰猛なぎらめきを帯びている。
 二人は互いに緩慢な並走を伴って拳銃を撃ち放った。ダンッ、ダンッ、と重苦しい硬式拳銃の銃声の直後に弾頭がそれぞれの耳先をかすめる。共に一撃必殺のみを狙った射撃は張り詰めた反射神経の加速によってごくわずかに逸れ続け、八発の応酬を経ても髪の毛より内側に弾が当たることはなかった。ほぼ同時に、二人の拳銃の遊底が引き下がる。弾切れだ。拳銃を投げ捨てて軍刀で先手を打ったのは陳だった。
 勇の刃がそれを受け止める。ぎりぎりと金属がひしめき合い、ここに初めての鍔迫り合いが実現する。擦り切れた臣民第一八高等学校の刺繍に、ずいぶん着古した丈余りの戦闘服が視界に映った。当初の態度からは想像もつかない歯をむき出しにした陳の顔が間近に見える。
 その目はやはり、瞳孔が開ききった獰猛なぎらつきを帯びていた。
 こいつら、まさか全員――
 勇は力任せに押しのけて膠着を解いた。三尺の間合いで再び距離が空く。
「あいつは”はじめて”だったようだな。反動に慣れていない」
 勇は力任せに押しのけて膠着を解いた。三尺の間合いで距離が開く。
「あいつは”はじめて”だったようだな。副作用に慣れていない」
「そういう貴様らは常習者か。将来が惜しくないのか」
 陳の顔に一筋の汗が垂れた。かすかにだが呼吸が荒くなっているのが間合いを取っていても判る。
 陳の顔に一筋の汗が垂れた。かすかに呼吸が荒くなっているのが間合いを取っていても判る。
「俺たちに将来などない。ここで勝たなければどうせ先は見えている」
 いつぞやの、ユンの言葉が脳裏に蘇った。勇は軍刀をしかと握り直して構えた。
「それはおれとて同じだ。勝つことで正しさを証明する」
 いつぞやの、ユンの言葉が脳裏に蘇った。勇は軍刀を強く握り直して構えた。
「それはとて同じだ。勝つことで正しさを証明する」
「抜かせ! 腹も切れぬ不穏分子の兄に正しさなどあるものか!」
 振られた軍刀をここで初めて勇は受けずに身体を反ってかわした。がら空きの脇腹をめがけて剣撃を見舞う。が、さしもの軍刀集団の主将はそう簡単には切らせてくれない。すんでのところでかわされる。
「ハァッ……なるほど、意外に使うようだな……」
 さらに一筋の汗を垂らす陳の姿を見て、勇は次の剣撃もかわせると確信を得た。事実、間をおかずに振りかぶられた剣筋の軌跡が克明に見えた。二撃目は余裕をもって切り返す。陳の表情に狼狽が宿った。シュッと刀の切っ先が戦闘服の余った布をちぎり取る
 自分が速くなっているのではない。
 相手が遅くなってきている。もし陳が万全なら勇の剣術では三回受ける前に急所を貫かれていただろう。
 怒声とともに繰り返される激しい剣戟も勝てるとまでは言わずとも負ける気配を感じさせない。ひたすら受け続けて、刻一刻と近づく陳の実質的な時間切れを待つことに勇は並ならぬ苛立ちを覚えつつあった。かといって、敵を一閃して試合を鮮やかに終わらせられるような剣術は勇にはない。
 勇の手が半ば学習的に陳の揺らぎを捉えた。後退の遅れた太ももに下段の切っ先が命中した。再び、両者は磁石のように弾き合って距離をとる。
 振られた軍刀を勇は受けずに身体を反ってかわした。がら空きの脇腹をめがけて反撃を見舞う。が、さしもの軍刀集団の主将はそう簡単には斬らせてくれない。寸前のところでかわされる。
「ハァッ……なるほど、そこそこ使うようだな……」
 さらに一筋の汗を垂らす陳の姿を見て、勇は次の剣撃もかわせると確信を得た。事実、間を置かずに振りかぶられた刃の軌跡が克明に見えた。二撃目は余裕をもって斬り返す。衝撃判定は得られずとも刀身が戦闘服の布地をかすめた。ついに、陳の表情に狼狽が灯った
 自分が速くなっているのではない。勇は悟った。
 相手が遅くなってきている。もし陳が万全なら三回受ける前に急所を貫かれていただろう。
 怒声とともに繰り返される激しい打ち合いも勝てるとまでは言わずとも負ける気配を感じさせない。ひたすら受け続けて、刻一刻と近づく陳の実体力切れを待つことに勇は苛立ちを覚えつつあった。かといって、敵を一閃して試合を鮮やかに終わらせられるような剣術は持ち合わせていない。
 勇の手が半ば学習的に陳の揺らぎを捉えた。後退の遅れた太ももに下段の切っ先が命中した。再び、両者は反発する磁石のように弾き合って離れる。
<選手二番、仮想体力二割減少、残り八割>
「もし、貴様が正しいと言うのなら――」
 今や顔中に汗の粒をまとった陳が、息を切らせながら言う。
――なぜ、俺の弟と父は死ななければならなかったんだ」
「なぜ、俺の弟と父は死ななければならなかったんだ」
 要領を得ない突然の質問に勇は戸惑う。
「なんの話だ」
「俺の弟は盗みで憲兵に斬り殺された。父はその咎を受けて自ら腹を切って死んだ!」
 身体ごと迫って再度の膠着にぎりぎりと互いの刀身が震える。詰まった間合いで尚も陳が吠える。
 身体ごと押しつける強引な膠着にぎりぎりと互いの刀身が震える。詰まった間合いでなおも陳が吠える。
「俺だって立派に切腹して死にたかったが、母に止められた。”お前はまだ幼い”と……後悔しなかった日はない。なのに、とうに成人の貴様が!」
 疲弊した身ではありえない鋭さで剣が弾かれる。うろたえた勇の胴が空き、まともに身をよじる暇もなくすかさず剣先が脇腹を撫でた。その結果を冷徹に人工音声が伝える。
 そうか。
 それで、公死を果たしたかったのか。
 疲弊した身ではありえない鋭さで剣が弾かれる。うろたえた勇の胴が空き、身をよじる暇もなく丸い刃が脇腹を打った。その結果を冷徹に人工音声が伝える。
<選手一番、仮想体力三割減少、残り二割>
 当然、相手にも同じ内容が伝わっている。陳は薄く笑った。
 当然、相手にも同じ内容が伝わっている。陳は衰えた力を絞るようにして笑った。
「どうだ。どこを打ってもあと一撃で貴様は終わりだ」
 なんら痛みのないはずの脇腹を抑えて、勇は言う。
「同情はせんぞ。おれにはおれの理合いがあり、勝って守るべき尊厳と家族がいる。だが……」
 同情はしない、と口に出して言ったことでかえって本音が漏れている理屈など、今の勇には理解する余裕がなかった。理解しているのは、次の剣戟が互いに最後だという確信。時間切れによる決着は両者ともに望んでいない。
 大して痛みのないはずの脇腹を抑えて、勇は言う。
「同情はせんぞ。俺には俺の理合があり、勝って守るべき尊厳と家族がいる。だが……」
 同情はしない、と口に出して言ったことでかえって本音が漏れている理屈など、今の勇には理解する余裕がなかった。理解しているのは、次の打ち合いが互いに最後だという確信。運任せの決着は両者ともに望んでいない。
「貴様とはいつか万全な時に相まみえたいものだ」
 陳は鼻を鳴らして答えた。
「世迷い言を。おとなしく沈んで一族と命運を共にしろ」
おれは太陽よりも高く飛翔するつもりだ」
 最後は勇から仕掛けた。幾度も斬り結んで得た相手の挙動を彼は掴みつつあった。むろん、剣筋の理解には及ばない。長きに渡り剣術に身を費やした相手に俄仕込みの刀が通用する道理はない。ただ、どう押すとどう引いて、どう引くとどう押されるのかは判った。
 押した後に押し返される、その間際に勇は身体を傾がせた。そこへつけこんで陳が旺盛に斬りかかる。二度、三度、四度、斬り合い、勇が横に刀を薙ぐと相手の位置がずれる。またぞろ押し合い、前進、後退。そうして、勇は狙った場所に辿り着いた途端、陳の猛攻によってついに気力を使い果たして、身体を地面に押し倒された。
 機を得たと見た陳が仰向けに倒れた勇にのしかかる。首元まで迫る二振りの軍刀が鈍く光って金属音を嘶かせた。
俺は雲よりも高く飛翔するつもりだ」
 最後は勇から仕掛けた。幾度も斬り結んで得た相手の挙動を彼は掴みつつあった。むろん、太刀筋の理解には及ばない。長きに渡り剣術に身を費やした手練ににわか仕込みの刀が通用する道理はない。ただ、どう押すとどう引いて、どう引くとどう押されるのかは判った。
 押した後に押し返される、その間際に勇は身体を傾がせた。そこへつけこんで陳が旺盛に斬りかかる。二度、三度、四度、斬り合い、勇が横に刀を薙ぐと相手の位置がずれる。またぞろ押し合い、前進、後退。そうして、勇は狙った場所に辿り着いた途端、陳の猛攻によってとうとう気力を使い果たして、身体を地面に押し倒された。
 機を得た陳が仰向けに倒れた勇にのしかかる。首元まで迫る二振りの軍刀が鈍く光って金属音を嘶かせた。
「勝負あったな」
 全身で息をしながら苦悶の表情を湛え、それでも勝利を確信した口元に向かって勇は言ってやる。
またいずれ戦おう
 伸ばした右手に握られたのは、敵か味方か、どちらが落としたのかも判らない拳銃。一つ明らかなのは、遊底が引き下がっていない自動拳銃には最低一発以上の弾丸が込められているという事実だった。
 拳銃の獲得に力を割いた代償に、めりめりと首元の表皮にめりこんでいく刃のない自らの模擬軍刀を御し、勇は引き金を陳の側頭部に向かって放った。よけようがない、ほとんど密着した状態での射撃によって眼前の敵は弾き飛ばされたかのように横に倒れた。
 全身で息をしながら気の早い勝利宣言を決め込む相手に勇は言ってやる。
ああ、今回は俺の勝ちだ
 伸ばした右手が握ったのは、敵か味方か、どちらが落としたのかも判らない硬式拳銃。ただ一つ明らかなことは、遊底が引き下がっていない自動拳銃には最低一発以上の弾丸が込められているという事実だった。
 拳銃の獲得に力を割いた代償に、めりめりと首元の表皮にめりこんでいく自らの模擬軍刀を御し、勇は陳の側頭部に向かって銃弾を放った。よけようがない密着状態での射撃によって眼前の敵は弾き飛ばされたかのように横に倒れた。
<選手二番、仮想体力喪失、退場>
 副作用による過度の疲弊も相まってか、気絶した陳を勇は見て、それから電燈の反射に照らされる硬式拳銃を見た。遊底が引き下がっている。最後の一発だった。
 もし「判定」などない本当の戦闘だったなら、勇もまた自らの刃によって喉がえぐられて絶命していただろう。仮想体力制度が衝突を基準に採用しているおかげで、彼の仮想的な生命は徐々に押し当てられる刃に虚無の判定を返したのである。
 副作用による過度の疲弊も相まってか、気絶した陳を勇は見て、それから日光に照らされる硬式拳銃を見た。遊底が引き下がっている。最後の一発だった。
 もし「判定」などない本当の戦闘だったなら、勇もまた自らの刃によって喉がえぐられて絶命していただろう。仮想体力制度が衝突を基準に採用しているおかげで、彼の仮想的な生命は徐々に押し当てられる刃に虚無の判定を返したのである。
 試合終了の笛が鳴り響く。
 同時に、消音されていた戦場内のスピーカーから司会の声が流れてきた。決着の刻を見守っていた観客もここぞとばかりに声をあげる。だが、それらの声は歓声でも罵声でもなく、しとしととしたすすり泣きの連なりをなしていた。やがて荘厳な声で司会が言う。
「……みなさん、しかとご覧になられたでしょうか。選手自らの口によって語られる勝利への渇望、期待、一族の咎を背負って戦う勇姿――共に犯罪者の弟を持った長兄同士が、刀と刀で己の正義を証明せんとする気迫――そのどれもが、かつてない感動を我々にもたらしたと言って過言ではないでしょう……。しかし今、命運は決定づけられました! 巧みな戦術で相手を破り、辛くも栄光を手にしたのは――葛飾勇選手であります! 大和民族の誇り高き血統が、それでもまだ外地人に優れることを見事に証明してくれました!」
 わああああああ、と一斉に円形の観客席から歓声と感涙の入り混じった大音声を鳴らした。今をもって人間、葛飾勇を不穏分子の兄と誹る者は一人もいそうには思われなかった。誰もが彼の戦いぶりに魅入られ、酔い、勝利の栄光を手にする大和民族の代表の地位を与えかねない勢いをまとっていた。
 同時に、消音されていた戦場内のスピーカーから司会の声が流れてきた。決着の刻を見守っていた観客もここぞとばかりに声をあげる。だが、それらは歓声でも罵声でもなく、しとしととしたすすり泣きの連なりをなしていた。
「……みなさん、しかとご覧になられたでしょうか。選手自らの口によって語られる勝利への渇望、夢、一族の咎を背負って戦う勇姿――共に不穏分子の弟を持った長兄同士が、刀と刀で己の正義を証明せんとする気迫――そのどれもが、かつてない感動を我々にもたらしたと言って過言ではないでしょう……。しかし今、命運は決定づけられました! 巧みな戦術で相手を破り、最高の栄誉を手にしたのは――葛飾勇選手であります! 大和民族の誇り高き血統が、それでもまだ外地人に勝ることを見事に知らしめてくれました!」
 わああああああ、と円形の観客席全体が歓声と感涙の入り混じる大音声を鳴らした。今をもって人間、葛飾勇を不穏分子の兄と誹る者は一人もいそうには思われなかった。誰もが彼の戦いぶりに魅入られ、酔い、あらんかぎりの褒賞、大和民族の代表の地位さえ与えかねない勢いをまとっていた。
「昭和九八年度全国高等学校硬式戦争選手権大会の優勝校は、大阪、帝國実業高等学校です!」
 さながら台風の目――司会も観客も、おそらくは地元の後援会も、ひょっとすると帝國じゅうの人々が壮大な感動物語に酔いしれている最中、その中心にただ一人いる勇の気持ちは、どこまでも冷たく醒めきっていた。
 この戦いは、初めからおれのものじゃなかった。
 さながら台風の目――司会も観客も、おそらくは隣近所の後援会も、ひょっとすると帝國全土の人々が壮大な感動物語に酔いしれている最中、その中心にただ一人いる勇の気持ちは、どこまでも冷たく醒めきっていた。
 なんだ、これは。
 この戦いは、勝利は、初めから俺のものじゃなかった。
 喰まれている、と勇は思った。自分自身の人生、弟、家族、してきたこと、されてきたことが一つの演目を形成して、この瞬間、あらゆる人々に消費されている。そこでは勇自身ですら、舞台の上で滑稽に踊る役者でしかない。
 間を置かず入場口の手前で開かれた授与式では、あれほど欲してやまなかった記念杯が毒々しく輝く忌まわしい足枷にしか見えなくなっていた。
 その後、入場口の手前で開かれた授与式では、あれほど欲してやまなかった記念杯が毒々しく輝く忌まわしい足枷にしか見えなくなっていた。
 受け取ったが最後、自分自身を物語の一部に永久に位置づける呪いだ。
「groteskだ」
 ぽつり、と勇はつぶやいた。依然として意味は理解していなかったが、現状を現す単語としてこれ以上にふさわしいものはないと彼は直感した。
 ぽつり、と勇はつぶやいた。依然として意味は理解していなかったが、現状を現す単語としてこれ以上に相応しいものはないと彼は直感した。
「お前、横文字なんて使えたのか」
 隣のユンが反応を示す。
 隣に立つ副主将のユンが反応を示す。
「ドイツ語だ、たぶん」
「なるほどな」
 なにがなるほどなのか、と勇が問うと、ユンは遠くから観客の注目を浴びながら運ばれてくる記念杯を指差して言った。
 なにがなるほどなのか、と勇が問うと、ユンは遠くから運ばれてくる記念杯を指差して言った。
「お前にどう見えているのか知らないが、おれにはあれは記念杯ではなく踏み台に見える」
「踏み台だと?」
 驚いて横を向くと、ユンの衰えてもなお滾った表情が見えた。
 驚いて横を向くと、ユンの衰えてもなお滾ったが見えた。
「昔、死んだお袋がおれによく絵本を読ませた。なんとかして学を身に着けさせようとしたんだろうな……そいつは無駄骨だったわけだが、その中に、手に入れた翼で太陽に近づきすぎて死んだやつの話がある」
 全身で荒く息を弾ませながら彼は話し続ける。
 荒く息を弾ませながら彼は話し続ける。
「おれはずっと考えていたんだ。この国とそっくりじゃねえか……と。おとなしく地に伏しているうちは暖かさを感じる時もあるが、近づくと焼き払おうとする」
 観客席の至るところで大小の日の丸が振られ、辺り一面に白と赤の乱雑な模様が波打っている。記念杯が近づいてくる。
「だが所詮、国は人でできてるもんだ。壊せないということはない。だから、おれが燃やされるか、おれが燃え尽きる前に太陽を手に入れられるか、そういう戦いをしているんだ」
 滔々と語るユンを見て、こいつはまだヒロポンに酔っているんじゃないか、と勇は思った。けれども今の勇にはユンがただの妄想を言っているようには思われなかった。帝國じゅうに啄まれた自身の物語の中で、それはいっそう魅力を帯びて聞こえた。
「だが所詮、国は人でできてるもんだ。壊せないということはない。おれが燃やされるか、燃え尽きる前におれが太陽を握り潰すかだ。そのためには、いっとう高く翔べる踏み台が必要だったんだ」
 滔々と語るユンを見て、こいつはまだヒロポンに酔っているんじゃないか、と勇は思った。けれども今の勇にはユンがうわ言を言っているようには感じなかった。帝國臣民に啄まれた自身の物語の中で、それはひときわ魅力を帯びて聞こえた。
「おれは、おれを侮辱した連中を絶対に許さない。たとえ何年かかっても……」
 ユンと目が合った。瞳孔の開ききった目が、恒星をも飲み込むとされる宇宙の黒く虚ろな天体を思わせた。その瞬間、勇はあの夜に彼が並べていた人名の一覧が、どのような意味を持っているのか悟った。
 ユンが目を合わせた。瞳孔の開ききった眼球が、恒星をも飲み込むとされる宇宙の黒く虚ろな天体を思わせた。その瞬間、勇はあの夜に彼が並べていた人名の一覧が、どのような意味を持っているのか悟った。
「なるほどな」
 勇もユンと同じ反応を示した。
 勇もユンの言葉を繰り返した。
「それが、お前の目標だったのか」
「これでおれたちはめでたく幹部候補生待遇で徴兵だ。その後、おれは軍人になる。あれはそのためになんとしても欲しかった踏み台だ
 記念杯が目前に迫ってきた。観客の注目が記念杯から横一列に並ぶ帝國実業の選手たちへ向けられる。勇の目には、記念杯が高速で入れ替わって見えた。自身の家族の尊厳を回復させる希望か、演目上の自身の役割を定める忌まわしき足枷か、それとも、踏み台か。踏み台で飛んだ先には太陽がある。
「これでおれたちはめでたく幹部候補生待遇で徴兵だ。おれは軍人になる。一声で千人も一万人も動かせる帝國軍人にな
 記念杯が目前に迫ってきた。観客の注目が記念杯から横一列に並ぶ帝國実業の選手たちへ向けられる。勇の目には、記念杯の虚像が高速で入れ替わって見えた。自身の家族の尊厳を回復させる希望か、演目上の自身の役割を定める忌まわしき足枷か、それとも、踏み台か。踏み台で翔んだ先には太陽の熱と光が待っている。
 手にする記念杯は変わらないが、どの態度で受け入れるべきか勇は吟味した。その瞬間に、自分の将来が決定すると思った。
 名も知らぬ初老の男性が公死園の関係者から恭しく記念杯を受け取り、わずか十数歩に満たない道のりをのろのろと歩いて勇の方へと向かう。一歩歩むごとに大きな記念杯の輝きが戦場の電燈を乱反射して、目に光が入るたびに三つの解釈が交互に入れ替わる。
 肩書ばかりは立派そうな年老いた男性が公死園の運営員から恭しく記念杯を受け取り、わずか十数歩に満たない道のりをのろのろと歩いて勇の方へと進む。一歩歩むごとに大きな記念杯の輝きが太陽光を乱反射して、目に光が入るたびに三つの解釈が錯綜する。
「なあ、ユン」
 勇は主将として、記念杯を受け取るにふさわしい直立の姿勢を保ち、目は名も知らぬ初老の男性に合わせたまま、横のユンに言った。
「おれにも踏み台が見えた」
 ついに目前に初老の男性が辿り着いた。観客という観客、カメラというカメラが勇を観ている。帝國じゅうが観ている。差し出された記念杯を、勇は今にもむせび泣きそうな顔をして慇懃に受け取った。近場でも遠くでもカメラのシャッターが切られる音がぱちぱちと鳴って、自分自身が光に包まれたように感じた。
 昭和九八年八月、帝國臣民を比類なき感動にもたらした歴史的な夏の公死園決勝戦の裏で、ひそかに革命の火が灯された。老いさばらえた帝國の乾いた皮膚に塗られた一縷の脂へ灯された火は、ゆっくりと、しかし着実に炎として広がり、やがてその臓腑と骨をもことごとく燃やし尽くすであろう。
 どうせ高く翔ぶのなら……。
 勇は主将として、記念杯を受け取るに相応しい直立の姿勢を保ち、目は年老いた男性に合わせたまま、横のユンに言った。
「俺にも踏み台が見える」
 ついに目前に老人が辿り着いた。観客という観客、臣民という臣民が勇を観ている。差し出された記念杯を、勇はむせび泣きそうな顔をして慇懃に受け取った。もう戦いは始まっている。近くでも遠くでもカメラのシャッターが切られる音がぱちぱちと鳴って、自分自身が光に包まれたように感じた。
 昭和九八年八月、帝國臣民に比類なき感動をもたらした歴史的な夏の公死園決勝戦の裏で、ひそかに革命の火が灯された。老いさばらえた帝國の乾いた皮膚に塗られた一縷の脂。そこに灯された火は、ゆっくりと、しかし着実に炎として広がり、やがてその臓腑と骨をもことごとく燃やし尽くすであろう。