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2023-08-21 10:07:01 +09:00
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title: "完全に正しい時ほどへりくだる"
date: 2021-05-27T08:32:45+09:00
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いや、これはただの愚痴みたいなもんなんだけどさ。
いわゆる団地というところに引っ越して半年ほど経つ。色々な制約はあったが、駅まで徒歩十分以下かつ激安の家賃ともなれば多少のことには目をつぶらなければなるまい。今なお社会人学生の夢を捨てきれていない僕にとっては、間違いなく好条件の住処なのだから。なんだかんだでドラム式洗濯機も55インチのブラビアも上手くねじ込めたしな。引越し業者の神テクニックには舌を巻かずにいられなかった。
「色々な制約」のうち一番厄介なのが、俗に言うマンション自治会ってやつだ。伝統ある団地にはえてしてこの手の組織がついて回る。しかもこいつは、都内にありがちな「黙って金を払えば全部よしなにやってくれる謎組織」ではない。**金はもちろん取られた上に、謎仕事もどこからか降ってくる代物だったのだ。**
この謎仕事は、通常、住みはじめてから一年以上経つと「代議員」という名の謎役職と共に回ってくる。運が良ければ三年くらいはせずとも済むらしいが、いずれは必ずやらなければならない。昨年末、夕飯後にドンドンとドアを叩かれたので仕方なしに開けると、そこには人の良さそうな老婆がいた。
老婆は言った。来年度の代議員を決めなければいけない。今から会議を催すので直ちに出頭せよ。結論を先に言うと、僕がやることになった。いや待て、それはおかしい。その謎役職は居住して一年以上経たなければ回ってこないはずだったのではないか? その通り。そいつに気づいたあんたはちゃんと文章を読んでいる。えらい。
ではなぜ僕がやることになったのか? 自ら手を挙げたからに他ならない。えっ、お前、そんな性格の人間だったか? 地域社会と繋がりたいってか? 流行りのハッシュタグか? 団地にエンジニアはそういないんじゃないのか。いるのは老人と外国人と子供ばかりだ。おい、誤解するな。そんなんじゃない。れっきとした理由がある。
理由というのは、僕がいま割と暇だってことだ。在宅勤務のプログラマで、キャリアが浅く、重要な立場にいない。所帯を持つ見込みもない。むしろ今さら大学に通い直そうとしている男だ。しかし、これらの状態はおそらく永続しない。コロナ禍が終われば通勤しなければならないかもしれないし、大学に受かれば通学しなければならない。
さっき言ったように例の謎役職は**いずれ必ず回ってくる。** 来年か、再来年か、判らないが、とにかく回ってくる。拒否権はない。どんなに忙しかろうが、シングルマザーだろうが、足腰の弱い老人だろうが、やっているし、やらせられている。そういう運用だと聞いた。となると、断れるわけないじゃないか。そいつが回ってきた時、僕がむちゃくちゃ忙しいとしてもだ。
だったら、暇なうちにやった方がまだマシってものだ。謎役職は階ごとに任命されるので、ほぼ全室が埋まっているこの階では一度こなしさえすれば当面回ってこない。そういうわけだから、やることにした。
そして月日が流れ、今年の四月から僕は謎役職の謎仕事をこなしている。案の定、引き継がれた紙切れの中にマニュアル的な資料は存在しなかった。代議員全員が出席する定例会議なる集会でも **「人に聞いて覚えてください」** と、むしろ誇らしげな態度で言われたのでまったく期待してはいなかった。この手のレガシーの極北みたいな組織はえてしてそういうものである。
僕は脳内の批判を司る機能を一時的にターンオフした。予めすべてを受け入れる姿勢で臨めば腹は立たない。遠い異国に来て母国にあったこれがないなどと抜かす輩は滑稽だ。この団地は言うまでもなく日本国内に屹立しているが、きっと実質的には外国なのだ。合理化の波に乗れないまま海底に沈んだアトランティスだ。どうしても嫌になったら引っ越せばいい。
受容の気持ちで腹の底が満たされたところで、僕はさっそく人の良さそうな老婆のもとを訪れた。彼女は前年度の代議員のみならず、これまでに幾度となく同役職を担ったことのある大ベテランだった。彼女から謎仕事のノウハウを丹念に伝授されたおかげで、僕は居住約半年にして概ね完全な知識を得るに至った。
ついでに、自治会の決算は粉飾されているだの、どこぞの階の会計担当が会費を横領しているだのという、すさまじく治安の悪い裏話まで聞けた。老婆の情報力を侮ってはいけない。あんたの団地の老婆もきっとそうに違いない。僕は彼女を師として仰ぎ、しばらく足繁く通った。
おい、話を聞いていると、なんだかんだで順調そうじゃないか? 冒頭で言ってた愚痴って何なんだよ? なるほど。そいつに気づいたあんたはちゃんと文章を読んでいる。えらい。**僕がどうにも嫌で仕方がないのは、自治会費の集金なんだ。** そう、謎役職の仕事の一つは、とどのつまり金の取り立てってわけ。
もっとも、本来ややこしいことは何もない。ほとんどの人は期日までにしっかり金を持ってくる。そういうルールになっているし、後はこっちが集計を間違わなければ問題ない。現金を扱う立場ってのは確かに少しおっかないが、目を離したからといって金に足が生えてトンズラするわけじゃない。心配なら気が済むまで数え直せばいい。
面倒なのは、期日までに金を持ってこない人がいた場合だ。今月でまだ二回目の集金だが、どっちも数人いた。そういう時はわざわざこちらから出向いて、ドアをドンドン叩いて催促しなければならない。この団地にはチャイムが標準装備されていないので、自ら設置していない人の部屋はドアを叩くしかない。いかにも取り立て屋然としている。
こういう状況が、僕は嫌で仕方がない。どういう意味かって? **僕が完全に正しい状況ってことだ。** 僕には代議員の名の下に自治会費を集金する責務があるし、相手には支払う義務がある。この団地に入居する際に自治会費の納入に同意したはずだから、知らなかったでは済まされない。もっと言えば、僕が出向いた時点でもう期日は過ぎている。相手は既にルール違反を犯した状態なのだ。
こういう時、正しさを得た側の人間はいともたやすく傲慢になる。横柄になる。残虐になれる。なぜなら相手は間違っていて、正義の女神はこちらに微笑んでいるからだ。そんな状況にはめこまれると、なんだか僕は試されている気分になる。**「正義を握ったお前はどんな人間だ?」** ってね。脳内で自分が自分自身を監視している。
で、じゃあどうするのかっていうと、ようやくタイトルの話になる。とにかくへりくだる。下手に出る。金の取り立てという風情ではなく、小売業の接客並の態度で接する。期日から遅れてるだとか、そういう不満げな雰囲気はおくびにも出さない。スムーズに金が支払われた際には傾斜のついたお辞儀を返す。今のところ、これで僕は僕の脳内の監査をパスしている。「正義を握ったお前は傲慢なやつだったな」というレッテルを自分自身に貼らずに済んでいる。
しかし、だ。その程度でやりすごせているのは、彼らが納金を単に忘れていたからに過ぎない。僕は住民たちの懐事情を知らない。中にはコロナ禍で暮し向きが困窮した者もいるかもしれない。将来引っ越してくる人は口八丁手八丁で納金をゴネるかもしれない。そうなった時、僕は傲慢にも横柄にもならずにいられるのか? 一抹も処罰感情を抱かずに、真に理性的でいられるのか? 自分で自分自身を見損なわないように上手く立ち回れるのだろうか。
たかが自治会の集金、という捉え方もある。あるいはゴネる相手に対してちょっと苦言を呈したとしても、即座に傲慢だの横柄だのとはならないだろう。おそらく、客観的には。だが、僕はそういう価値判断の仕方があまり好きではない。自分以外の誰かが同情や理解を寄せ、賛同したから自分は間違ってないなどと思い込む、そういう所作が好きではない。
たとえ自分以外のすべてが否定したとしても、僕の脳髄が肯定していれば僕は絶対的な自信を持てるし、否定していれば自分以外のすべてが肯定していたとしても絶対に誤りなのだ。僕はできればそのように生きたい。
問題は、そういう決意に肉体の方は必ずしも同意していないってところだな。手首に巻きついたスマートウォッチ曰く、集金中の僕はやはり高いストレス状態にあるらしい。