salt/合同誌企画作品.md

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仮題:標準入力インターフェイス
1
土や砂の詰まった容器でいっぱいになった背嚢を下ろすと、僕はいつもの場所に腰を下ろした。摩天楼をつくほどの巨大ビルがそびえていたという島も、栄えていた湾岸の街並みも歳月の圧力に押しつぶされて瓦礫の山と化している。遠目に見える半身の立像だけがこの辺りの目標だ。
この前に来た時よりも気温が下がっていたおかげか、ずいぶん長い距離を往復した割にさほど疲労感はなかった。視界いっぱいに広がる乳白色の地面を手でさすりながら、適当なところにナイフを突き刺してえぐりとる。膂力の少ない肉体ではずいぶん手間取るが、まだ時間はたっぷりある。そうして切り取った塊からこぼれ落ちた破片を口に含む。相変わらずしょっぱい。しかしミネラルと塩分の摂取にはこの上なく好適と言える。なぜならこれらは塩そのものだからだ。
地平線の彼方まで広がっているように見えるこの地面はかつて海の一部だった。大昔、人類に降りかかった未曾有の気象災害により海水が干上がり、凝固し、空を覆い尽くした分厚い雲によって封じ込められ、長い長い年月を経て塩の結晶が出来上がった。歩こうと思えばこのままずっと先まで歩いていける。どこかで塩の層が事切れて水の海に出会えるのかもしれないし、何年間も歩いた先に別の大陸か島が顔を出すのかもしれない。任務として与えられていない以上、そんな長丁場の寄り道は決してできないがこの白く濁った表面の連続は僕に新しい洞察を与えてくれる。
洞察が深ければ深いほど一心不乱に手が動く。さっきまでは表情のない立方体でしかなかった塩の塊が、ナイフの切っ先で削られるごとになにがしかの文脈を辿っていく。ある時には四足の動物を連想させることもあれば、小一時間も経つと全裸の人間に変わる。全体を俯瞰するとあたかも進化の過程を表しているようでもある。原初の生命もミネラルと塩と水から生まれたのだった。
高く昇った太陽が傾いで地平線の彼方に隠れはじめる頃、僕のこの隠された衝動はすっかり満たされて手元にはなんとも形容しがたい物体が残る。勤務評価を考えるとそろそろ帰宅しなければならない頃合いだ。現に、探索地の方角が同じだったらしい同僚が一人、塩の地面をのしのしと歩いてやってきた。
「またやっているのか」
「やっているよ」
『HID6』と右胸に印字された作業服を着た同僚が、隆々とした筋肉全体で呆れた様子を表現する。見るからに体格に優れる彼に与えられる任務はいかにも過酷そうで、背嚢は大きく固い金属製でできている。手にはライフル銃。本来、我々は常に武器の携行を命じられているが、手が塞がる上に重い割には使う機会がまったくないため僕は毎回忘れたふりをしている。最初は本当に忘れていったのだが、勤務評価になんの影響もなかったので定番のやり口となった。
「それ、使ったことあるのか」
HID6は顔を左右に振ってから、意味ありげに口元を歪ませた。
「あるといえば、ある。お前のその楽しみと似たようなものだ」
人には人の楽しみがある。あまり詮索するのも無粋だろう。ぞんざいに手を振って去っていく彼の姿が見えなくなってから、僕も造形した塩の塊を背嚢にしまって立ち上がった。最後にもう一度、夕焼けの強い光に照らされた固形の海面を見る。
徒歩にして約三〇分の地点に着くと、どこかに露出しているのであろう地上のセンサが僕を識別して岩の地面がめくれ上がった。突如、湧いたように現れた扉を開けると長い下り階段を降りていき、今度は重くて硬そうな扉に突き当たる。
「HID11、ただいま帰還しました」
扉に向かって話しかけると、ほどなくして女性の声が返ってくる。
〝標準入力インターフェイス11、帰還を承認します〟
以降は流れ作業だ。すれ違うのも困難な細い通路を渡り、規定の手続きに従って成果物を提出する。表示がかすれ気味なモクロディスプレイに映し出された勤務評価は、今回もA。長年の試行錯誤によって見る前から結果は分かっていた。適切な成果物を持って日が落ちるまでに帰ればA評価が確定する。
〝標準インターフェイス11、切断処理に入ってください〟
作業着と背嚢を中身ごとロッカーにしまい、脱衣する。施設の最奥に位置するチェンバー室の殻に入り込むと、後頭部を密着させた。殻が自動的に閉鎖されて表面に文字が浮かぶ。
〝切断処理開始〟
途端、深く強烈な眠気に襲われて目を閉じざるをえなくなる。意識が事切れる寸前、密着した後頭部にドライバが差し込まれる感覚がかすかにした。
2
記憶に連続性があると言っても、この場合は少々あてにならない。冷凍と解凍を繰り返すたびに僕の長期記憶は揮発していき、今や覚えていることの方が少ないからだ。一番最初に解凍させられた時はまだ身も心もフレッシュだった。まるで瑞々しい葉野菜のよう。シェルターを訪れた当時の感情も明瞭に残っていたから、さぞ地表は芳しい草花が生い茂り、空は青く澄み渡り人類の復活を讃えてくれるのだろうと胸を踊らせていた。あるいは地表に文明社会が再興していてもおかしくないとさえ期待した。ロンドンはニューロンドンに、トーキョーはニュートーキョーに。誠に遺憾ながらニューヨークはこの命名規則だとニューニューヨークになってもらうしかない。
しかし、初めて目を覚ましたチェンバー殻の表面に浮かんだ文字列はたったの一言。
〝あなたは我々の標準入力インターフェイスとして再定義されました。以後、HID11と呼称します〟
ところで、活動状態の肉体はたいへん燃費が悪い。一〇〇〇人の人間をまともに生きながらえさせようとすれば、膨大な備蓄食料、清潔な飲み水、空気、それらを支える大がかりな施設な循環システムを要する。じきにそういった代物は宿命的に老朽化を余儀なくされ、修理するための資材や人員、教育や訓練、果ては指揮系統を円滑化する官僚機構や社会制度までもが求められる。尻に火が付いている人類にとってはあまりにも考えることが多すぎる。
そこで、我々は情報化を選んだ。元の肉体を問題解決後のために冷凍保存し、思考する精神を地下深くのサーバに転写する。延々と眠りこけていては例外的な事象に対処できないからだ。シェルターの内外に張り巡らされたセンサ類を基に、情報体と化した技術者たちが日々分析にあたる。彼らにはラザニアもコーヒーもマウンテンューもいらない。地表が未曾有の異常気象に見舞われている環境下で水源を濾過し続ける方法を検討するよりも、深宇宙探査機用の原子力電池一つの方が安上がりで手っ取り早い。当時、情報化はすでに革新派の間では取り入れられていたライフスタイルだったが、ここへきて初めて一挙に普及したと推測される。どの会社のシェルターも似たりよったりのプランを提供していたからだ。
僕がこうして地上の熱波に焼かれず生存しているということは、情報体の私が存在していてしかも技術者優待を受けられる身分かもしくは金持ちだったのだろう。無分別に人々を受けられるほどサーバの演算性能は高くない。情報体の人々が僕たちを都度呼び起こす理由は様々だが、大抵は個体の適性に合わせた仕事が割り振られる。僕の場合はセンサで捉えきれない微小な気候変動のモニタリングや、実際のサンプルを持ち帰る地質調査が大半を占める。なんの前触れもなく解凍されると言いつけ通りに地上に出ていき、仕事を終えると再びチェンバー殻に入って冷凍される。もう何度繰り返したか覚えていない。最初の解凍の時点では数分の外出にも重苦しい耐熱防護服が必要だったが、今では人類が活動していた頃とほとんど変わらない。
だが、情報体の彼らが生身の人間の姿に戻ることはできない。生体脳の中身を情報体に転写できても、逆を行う技術を開発できなかったからだ。曰く、脳の構造は半導体ほど単純ではないらしい。眠るたびにわざわざ後頭部を開いて脳だけ別の条件で冷凍しているくらいだから、なんとなく難しさの想像はつく。
結局、期待されていた技術革新はついに起こらず、元の肉体は電力食らいの負債に成り下がった。万能な機械の肉体などなお望むべくもない。そんな資材や生産設備はどこにもない。ゆえに僕たちは彼らの標準入力インターフェイスなのだった。枝分かれした自我の代償に労働し、勤務評価を得て再び眠りにつく。次に解凍されるのは数年後か数十年後か、それとも数百年後か分からない。
確かに、使えるものは使わなければならない。僕たちの後頭部には脳を取り出しやすくするためのネジ穴が設けられているし、脳と肉体の電気的接点はモジュール化されている。もともとは情報体に移行する経過的措置だったが、くしくも再解凍の効率化に一躍買っているようだ。
僕自身、僕の処遇には納得している。そもそも「肉体の僕」という自我は計画通りなら存在しなかった代物だ。「情報体の僕」の精神に上書きされて揮発する定めだった。なんであれ生きているのはすばらしい。仕事一辺倒の人生でも楽しみはある。
今日もまたチェンバー殻の内側で目が覚めた。殻の湾曲した表面にいつもの文字列が浮かぶ。
〝HID11接続処理中〟
彼らは僕が殻を出て身支度を整えるまでの間を「接続処理中」と表現する。まもなく殻が奥手にせり出して開き、そこから出られるようになる。チェンバー室の左右に整然と並ぶ大量の殻にはまだ眠りについている同僚たちの姿が透けて見える。同僚と言っても勤務体系が年単位でばらばらなので気軽に会話はできない。前回、出会ったHID6はあれで三回目だが今は端っこの殻の中で巨体を丸めて安穏としている。
たとえ世紀を隔てていようとも染みついたモーニングルーティーンに揺るぎはない。作業服と背嚢はチェンバー室の隣、食事は直進して突き当たりを左の培養プラント室にある。巨大なパイプの排出口から出てくる吐瀉物に似た食べ物は相変わらずなにでできているか分からない。味や食感についての感想は差し控えたい。飲み水も前回より少し黒ずんでいた。
食事が済むと頃合いよく便意を催す。溜まっていた便が腸内蠕動の再開によって押し出されたのかもしれない。部屋を出て奥のトイレに向かう。六つある便器のうち大半が割れ、残った便器にも大抵は乾燥した糞が堆積しているが、何回か寝て起きる頃には清掃されていたり修理が施されていたりする。きっと適性のある同僚による成果なのだろう。
ちなみに水は流れない。このトイレの水洗装置はかなり初期の段階から破損している。いつまでも直らない様子を見るに、標準入力インターフェイスでは修理しきれない箇所なのだと推定される。
準備の最終段階。前回よりひび割れが目立つ廊下を歩き、巨大なモノクロディスプレイが据え置かれた空間でブリーフィングを受ける。質疑応答もここで答えてもらえる場合がある。中央に置かれた椅子に座ると、特に重心をかけたつもりはないのに脚ごとひしゃげて壊れた。どうやらブリーフィングは立って受けることになりそうだ。
ディスプレイ上に線が引かれて作図が開始された。現在地点を中心とした点から方角とおおよその距離が示され、目的の資材についての文字情報も並ぶ。いつもより長い道のりだが、うまくやれば今回も塩の塊を彫る時間くらいは余りそうだ。
「質問」
質問コマンドを投げかけるとディスプレイが暗転して対話状態に遷移する。情報体の彼らと会話できる数少ない機会だ。
〝HID11による応答待機中〝
「そろそろ便器に糞が溜まってきたので次に起きる時までにはなんとかしてほしい。あのままでは溢れかえってしまうよ」
〝回答:標準入力インターフェイスに特有の代謝現象に起因する老廃物の処理については我々も常に憂慮している。現在、解決に向けて討議中である〟
「ありがとう、助かるよ。あと飲み水が黒ずんでいるのも心配かな」
〝回答:雨水を濾過するフィルタの目詰まりと想定される。すでに他の標準入力インターフェイスにタスクを割り振っているためまもなく解決される見通しである〟
「そいつはいいね、そっちの暮らしはどう? なにか困ったこととか」
〝回答拒否〟
今度こそ、と思ったがやはり返事はなかった。彼らはこちらの要請とか、仕事上の質問とか、そういったものには快く答えてくれるが彼ら自身の事柄は徹底的に秘密主義でとりつく島もない。
肉体を持たない思考だけの暮らし、というものがどんな感じなのか気になって仕方がない。歴史上のどんな場所にも一瞬で旅ができて、あらゆる知覚は決して衰えることなく無尽蔵に供給され、空腹も寝不足も欲求不満も存在しない。まさに楽園の世界だ。情報体の僕もさぞ満ち足りた人生を送っているに違いない。
ほどなくしてブリーフィングが終わるとステータスが〝接続完了〝に変わり、エレベータに乗って地上階に移動した。細長い通路の最奥には、天井まで伸びる巨大な扉のハンドル部分が見える。あたかも巨人用に設られたそれは情報体の側の操作によってしか開かない。通路の左右には深い暗闇が広がっていて、何十回と行き交っていても手すりを掴む両手の力を緩められそうにはない。
僕の到達を見計らったようにけたたましいブザー音が鳴り響き、ハンドル部がゆっくりと回転を開始した。扉の周りの警告灯が激しく回る。目を突く鋭い赤色の光線はしかし、たちどころに漆黒の空と底に吸い込まれていく。
やがてブザー音は荘厳な歯車の駆動音に取って代わり、シェルターの扉が地鳴りに似た振動を伴って前方に開く。揺さぶられて落ちないか心配で手にますます力が入る。
たっぷり何分もかけて扉が解放されると、もう一つの扉が現れる。そこだけ切り取ればマンションの一室に繋がるドアに見えなくもない。その先には『危険物』とラベルに貼られた小部屋がある。作業服と背嚢が置かれている部屋とよく似ているが、ロッカーの中には銃器と弾薬が保管されている。
彼らはこれらの武器について〝汎用的ソリューション〝と呼称して携行を命じている。とはいえ、今まで一度も使いたくなった試しはない。そもそも使う相手が地表にいない。そして、ついに外に出る。僕にとっては昨日のことのようだが、きっと何百年ぶりの地上だ。分厚い鉄の扉が背後で固く閉ざされ、気の遠くなるほど長い階段を登り続けるうちにシェルターの中のどんな強力な光源も敵わない光ーーすなわち、太陽の光が僕の顔を照らした。
3
目的地には塩の地面を渡っていかなければならない。乳白色の海に足を下ろす際、念のために重心を後ろに引いておく。ブリーフィングでは前回の冷凍から今は七八年ほど経過していると聞いた。地質の変化を恐れる年月ではないが、塩の塊が脆弱化している可能性は捨てきれない。ざらざらした表面を片足で強く踏みつけ、安全を確かめてから乗り移る。
心配は杞憂に終わり、一時間も歩いても塩の地面が揺らぐことはなかった。してみると、これほど巨大な積層体がいかにして出来上がったのか気になってくる。
気象災害が引き起こされた原因は小惑星の衝突だとも、新兵器を交えた世界大戦の末路だとも言われている。精神体の人々の間でも結論は出ていないようだ。いずれにしてもこれら塩の層は巨峰の洞窟で岩塩が形成される過程と同じ道筋を辿って出来上がったと推察されている。だとすれば、その時の地表の状況は生けとし生けるものを葬り去る地獄絵図だったに違いない。こうして幾度となく地上に顔を出しても「地上人」だとか「新人類」といった、サイエンス・フィクションじみた超人と出会わないのも、生き残った知的生命が我々のみであることを証明している。
あるいは、我々は生き残ったのではなく取り残されたのかもしれない。必然的に滅ぶ定めであった運命から逸脱し、例外的に存在してしまった。だとしたら、なんと愉快な話だろう。