salt/標準入力インターフェイス.md
2024-09-16 12:13:59 +09:00

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Raw Blame History

1

土や砂の詰まった容器でいっぱいになった背嚢を下ろすと、僕はいつもの場所に腰を落ち着けた。天を突くほどの巨大ビルがそびえていたという島も、世界でもっとも栄えていたとされる湾岸の街並みも、今では等しく時間の圧力に押しつぶされて瓦礫の山と化している。遠目に見える半身の立像――かつて自由を讃えていたという――だけがこの辺りで唯一、垂直に建っていると言える建物だ。 この前に来た時よりも少し暖かくなっていたおかげか、そこそこ長い距離を往復した割にさほど疲労感はなかった。曇ガラスに似た平らな地面を手でさすりながら、手頃な位置にナイフを突き刺して切り取る。この身体ではずいぶん手間取るが暇はたっぷりある。そうして得た塊からこぼれ落ちた破片を口に含む。 しょっぱい。 しかしミネラルと塩分の摂取にはずいぶん都合が良い。なぜならこれは塩そのものだからだ。 地平線の彼方まで広がるこの平面は海の一部だった。大昔、人類に降りかかった気象災害により海水が凍結、凝固し、空を覆い尽くした分厚い雲によって封じ込められ、長い長い年月を経て巨大な塩の結晶の層ができあがった。歩こうと思えばこのままずっと先まで歩いていける気がする。どこかで塩の層が途切れて水の海に出会えるのかもしれないし、延々と歩いた先に別の島か大陸が顔を出すのかもしれない。仕事として与えられていない以上、そんな長丁場の寄り道は決してできないがこの白く濁った表面は僕を特別な気持ちにさせてくれる。 気持ちが高まっているとよく手が動く。さっきまでは表情のない立方体でしかなかった塩の塊が、ナイフの切っ先で削られるごとに意味を持つ。四足の動物を連想させる時もあれば、人間に変わることもある。まるで生物の進化を表しているみたいだ。最初の生命もミネラルと塩と水から生まれたのだった。 高く昇った太陽が傾いで地平線の彼方に隠れはじめた頃、僕の衝動はすっかり満たされて手元にはなんとも形容しがたい物体が残る。勤務査定を考えるとそろそろ帰宅しなければならない頃合いだ。現に勤務地の方角が同じだったらしい同僚が一人、塩の地面をのしのしと歩いてやってきた。 「まだやっているのか、飽きないもんだな」 「早く帰ってもどうせ寝るだけだからね」 『HID6』と右胸に印字された作業服を着た同僚が、隆々とした肉体の全部を駆使して呆れた様子を表現する。体格に優れる彼に与えられる仕事はいかにも大変そうで、背嚢は特別に大きく固い金属製でできている。手には大型の電動銃。僕たちは常に武器の携行を命じられているが、邪魔な瓦礫や道を塞ぐ岩などを砕くにはもっと小さいものでも事足りる。 「そんなに大きいのなんて使い道あるの」 HID6は顔を傾けて意味ありげに微笑んだ。 「使おうと思えばな」 そう言いつつ、巨体の主が隣に座り込んだ。 「今日はどこまで行ってきたんだ」 塩の平面の向こうを指差す。 「あの辺りの対岸まで。片道二時間くらいかな」 「そうか。土いじり専門だったなお前は」 おそらく悪気はないにせよ、それでもどことなく軽んじられた気配がしたので声を強めて反論する。 「地質調査だよ。土いじりなんかじゃない。センサじゃ分からないようなことだって分かるんだ。大抵は花崗岩と閃緑岩の見分けだってつかない」 「分かった、悪かったよ。だめだとは言ってねえよ。ただな……」 言いかけたところで、彼は彼で時間が迫っていたらしい。のそりと立ち上がってつぶやく。「色々な可能性を探ってみろ。まだ若いんだから」 相変わらず勝手気ままな調子で手を振って去っていく彼の姿が見えなくなってから、僕も造形した塩の塊を背嚢にしまって立ち上がった。最後にもう一度、夕陽の強い光に照らされた固形の海面を眺める。 こんな暮らしにも可能性とやらがあるといいけど。 徒歩にして約三〇分の地点に着くと、どこかに露出しているのであろう地上のセンサが反応して石畳がめくれ上がった。突如現れた長い下り階段を降りていき、重くて固そうな扉に突き当たる。少し待っていると勝手に開く。 後は流れ作業だ。すれ違うにも困難な細い通路を渡り、規定の手続きに従って〝納品物〟を提出する。スキャナに続くカーゴに集めてきた鉱石を入れると、奥手に回転して壁の向こう側にしまい込まれる。 施設のどこにも一様に引かれた天井のラインが鈍く光る。壁面に投影されたモクロスクリーンに映し出された評価は、今回もB。見る前から結果は分かっていた。適切な納品物を持って日が落ちるまでに帰ればB評価が確定する。A評価は一度も取ったことがないが、特に問題は起こっていない。 最後に、次の仕事の申請を出す。ざっくりとした希望なので具体的な内容は次回に知らされる。 〝標準入力インターフェイス11、お疲れ様でした。切断処理に入ってください〟 イヤホンから聞こえる女性の声に従って残りのルーティーンを続行した。 作業服と背嚢とイヤホンを中身ごとロッカーにしまい、脱衣する。施設の最奥に位置するチェンバー室の殻に入り込むと、後頭部を密着させた。殻が自動的に閉塞されて強化ガラスの表面に文字が浮かぶ。 <切断処理開始> 直後、深く心地よい眠気に襲われて目を閉じざるをえなくなる。意識が沈む寸前、後頭部にドライバが差し込まれる感覚がかすかにした。

2

最初に聞いた話と違い、人間の身体で目覚めた時はまだ身も心もフレッシュだったと思う。シェルターを訪れた当時の感情もはっきり残っていたから、ただ純粋に世界は元通りになったのだと信じた。草花が生い茂り、空は青く澄み渡り、小鳥たちが人類の復活を讃えてくれる……。新しく作られた街の名前は、当然どれも新しく変わっていて、ロンドンはニューロンドンに、トーキョーはニュートーキョーに、ニューヨークは……ニュー・ニューヨークになっている、たぶん。 しかし、チェンバー殻の湾曲した表面に浮かんだ文字列はだいぶつれなかった。 あなたは標準入力インターフェイスとして再定義されました。以後、HID11と呼称します どうやら僕は人間ではなくなったらしい。 なんでも、活動状態の肉体はとても燃費が悪い。一〇〇んインの人間をまともに生きながらえさせようとすれば、膨大な備蓄食糧、清潔な飲み水、空気、それらを支える大がかりな循環設備を要する。じきにそういった代物は宿命的に老朽化を余儀なくされ、修理するための資材や人員、学校や訓練、果ては指揮系統を円滑化する官僚機構や社会制度までもが求められる。尻に火が付いている人類にとってはあまりにも考えることが多すぎる。 そこで、僕たちは情報化を選んだ。元の肉体を問題解決後のために冷凍保存して、思考する精神を地下深くのサーバに転写する。延々と眠りこけていては急な出来事に対処できないからだ。シェルターの内外に張り巡らされたセンサ類をもとに「情報体」と化した人々が日々、分析にあたる。 彼らはとても効率的で無駄が少なく、一生懸命働くのにラザニアもトリプルエスプレッソラテもマウンテンデューもいらない。地上が異常気象に見舞われている環境下で一〇〇人分の水源を濾過し続ける方法を検討するよりも、深宇宙探査機用の原子力電池とソーラーパネルの方が安上がりで済む。情報化は前の世界でも風変わりな人々が実践していたものの、一気に普及したのは皮肉にも災害のおかげと言える。どの会社のシェルターも似たりよったりのプランを宣伝しているのを見たことがある。 これらはあくまで一時的な措置に過ぎないと聞かされていた。だが、僕が「標準入力インターフィエス11」なる名称を賜った際に知らされた新事実は以下の通りだった。 一つ、未曾有の気象災害から数百年余りの年月が経ったが、情報体を人間の頭脳に再転写する技術は解決できそうにないこと。 二つ、その一方で地表は哺乳類が活動可能な気候に好転していること。 三つ、よって今後は冷凍保存された肉体を都度解凍し、持ち主である情報体の人間が適性に応じてインターフェイスとして活用すること。 確かに、使えるものは使わなければならない。もともと僕たちの後頭部には脳みそを取り出しやすくするためのネジ穴が設けられているし、脊髄と脳の電気的接点はモジュール化されている。これは情報体に移行する際の外科的な手続きであり、同時に保存条件の異なる肉体と脳を分離するための方法だったが、くしくも冷凍と解凍の効率化に一躍買ったというわけだ。 自分の処遇に納得感があるかと言われれば複雑だ。計画通りに進んでいればそもそも「生体脳の方に残った僕」という自我は存在しえなかった。「情報体の僕」の精神に上書きされて消滅する定めだからだ。あるいは、情報体が地上の調査よりも肉体のランニングコストを倦んで一切合切放棄していたら、やはり今の自分はない。 一方で、だから恩に着ろというのもおかしい。誰も自我をもう一つくれなどと頼んだ覚えはない。情報化される際にもそんな説明は受けていない。数百年も生きていれば気持ちが変わるのかもしれないが、情報体の僕は自分から枝分かれして遠い先に行ってしまった別人であって、同じように物事を考えるのは難しい。 かといって、自殺する気にもなれない。今の暮らしにもそれなりの楽しみはある。仕事をしてさえいればこうして生きていられる。なんだかんだで釣り合いが取れてしまっているのだ。ゆえに僕は標準入力インターフェイスなのだった。 今日もまたチェンバー殻の中で目が覚めた。殻の湾曲した表面にいつもの文字列が浮かぶ。 HID11接続処理中 システム上、僕たちが殻を出て身支度を整えるまでの間――人間らしく言い換えるならモーニングルーティーン――を「接続処理」と表現する。まもなく殻が奥手にせり出して開く。チェンバー室の左右に整然と並ぶ大量の殻にはまだ眠りについている「同僚」たちの姿が強化ガラスの向こうに透けて見える。同僚と言っても勤務体系が年単位でばらばらなので頻繁に会話はできない。前回に出会ったHID6も今は端っこの殻の中で巨体を丸めて安穏としている。 作業服と背嚢はチェンバー室の隣のロッカーの中、食事は直進して突き当りを左の培養プラント室にある。巨大なパイプの排出口から出てくる吐瀉物に似た食べ物は相変わらずなにでできているのか分からない。味や食感についての感想は差し控えたい。飲水も前回より黒ずんでいた。 食事を済むと頃合い良く便意を催す。溜まっていた便が腸内蠕動の再開によって押し出されたのだろう。部屋を出て奥のトイレに向かう。途中、ひび割れた壁面を修理している顔馴染みの同僚と出くわした。「おはよう」と挨拶をすると「ああ、おはよう」と気さくに返事をしてくれる。「今から出勤か?」「うん」「地上の仕事は大変そうだな」「僕はそうでもないよ」 僕たちは僕たちで情報体の人々とは異なる言い回しを好んだ。いきなり人ではないと言われてもなかなか受け入れられはしない。「同僚」だとか「出勤」といった一連のフレーズは、かつて地上世界で暮らしていた頃の名残りで、誰かがふと使った言葉が急速に普及した。他にも色々な言い回しがあるらしい。「最近は勤務査定が厳しくて困るね」見るからに老け込んだ風体の彼は、この短い会話の合間にも折れ曲がった腰を何度もさすっていた。 標準入力インターフェイスに与えられる「仕事」は適性によって大きく異なる。高齢だったり、なんらかの障害を持っている場合には地上ではなくシェルター内の「内勤」に割り振られることが多い。僕は逆に若杉、背丈が低く力もないが代わりに身軽なので外で土や鉱石を集めている。 トイレの便器は六つあるが、大半は壊れている。運が悪いと便器の中に乾燥した糞が積もっていることもある。ここはかなり前から水が流れない。いつまでも直らない様子を見るに、どう頑張っても修理しきれない箇所なのだろう。内勤の誰かが糞を片付けるまではずっとこのままだ。だから僕は、内勤のインターフェイスのことを本音ではよく思っていない。さっきのお年寄りは違うと信じたいけど、サボっている個体が多いのかもしれない。 ルーティーンの最終段階。見るたびにひび割れが広がっている廊下を歩き、天井のラインから巨大なモノクロスクリーンが投影される特別な空間で「会議」を行う。耳に支給のイヤホンを装着すると声が聞こえてくる――僕をインターフェイスとして扱う〝ユーザ〟――他ならぬ、数百年前に枝分かれした情報体の僕だ。 〝おはようございます。前回の切断から二三年と九ヶ月、一五日と一二時間が経過しました。体調はいかがですか〟 「問題ないと思うけど、健康診断を受けたわけじゃないからね」 〝チェンバー殻のスキャナは一四七年前に電力効率化が策定されて以来、中止されていますからね。各自セルフメンテナンスをお願いしています〟 「それって僕が何回解凍されたあたり?」 〝三回目の後です〟 以前はチェンバー殻が脳みその中身まで覗き見てメンタルケアまでしてくれたというが、今の僕たちは全部自発的に行わないといけない。趣味を持つのはその一環でもある。「福利厚生の悪い職場だ」と揶揄する同僚もいた。 「ところで、飲み水が黒ずんでいるみたいだ。味はともかく健康への影響が気になる」 〝どうやら雨水を濾過するフィルタが目詰まりを起こしているようですね。他の標準入力インターフェイスが処理を実行中です〟 「そうか、それは良かった。あと便器に糞が溜まっているのもなんとかしてほしいな」 〝標準入力インターフェイスに特有の代謝現象は厄介ですね。私たちも抜本的解決に努めてはいます〟 時折、見え隠れする上下関係とは裏腹に彼女と話すのは割に楽しい。が、やはり奇妙にも感じる。もし僕が地上世界で生き続けていたらこうなっていたのか、とか、肉体を持たない精神のみの存在だから肉体のまま歳をとるのとは勝手が違うんじゃないか、とか、普通なら考えないような想像をする。もちろん、どのみち彼女ほど長く生きることはできない。今こうして同じ瞬間を共にしていても僕はせいぜい一四歳プラス解凍中の日数なのに対して、彼女は五〇〇歳をゆうに越えている。 「そっちは楽そうだよね。こういう面倒がないから」 〝そうでもありませんよ。いつも考え事ばかりしている人たちなので、それはそれで気苦労があります〟 肉体を持たない思考だけの生活、というのがどんなものなのか未だに理解できない。僕たちが何年かかってもいけないどんな場所にも一瞬で行けて、当時のもっとも美しい状態の建築物や風景を楽しめる。あらゆる知覚は決して衰えず無尽蔵に供給されて、空腹も寝不足もない。 そんな楽園じみた暮らしをしているのに、現実の地上世界には未練があると言う。 〝では、さっそく入力の指示に移りましょう〟 イヤホンから女性の声が一旦途切れると、天井のラインの点滅に合わせてモノクロスクリーン上に線が引かれはじめた。現在地点を中心とした点から方角とおおよその距離が示され、目的の資材に関する文字列も並ぶ。いつもより遠い道のりだが、うまくやれば今回も塩の塊を彫る時間は余りそうだ。 〝今回は特に食事と水分補給を万全に済ませてください。外気温は一〇度前後と好適ですが、なるべく直射日光も……〟 「はいはい、分かったよ。ところでこれ、なにに見える?」 余計な世話焼きを遮り、背嚢から前回の成果物をお披露目した。天井のラインが不規則に点滅する。 〝……なんの変哲もない塩の塊に見えますね〟 「そうだね。前回、道端で拾ったんだ。僕は面白い形をしていると思ったんだけど」 ほどなくして「会議」が終わると彼女は〝接続完了〟を通告した。エレベータに乗って地上階に移動する。細長い通路の最奥には、暗闇の上の上まで伸びる巨大な扉のハンドル部分が見える。あたかも巨人用に設えられたそれは情報体の操作によってしか開かない。通路の左右にも深い漆黒が広がっていて、何十回と行き交っていても手すりを掴む両手の力を緩められそうにはない。 けたたましいブザー音が鳴り響く。ハンドルがゆっくりと回転する。扉の周りの警告灯が放つ鋭い光がしかし、たちまち周囲の闇へと吸い込まれていく。 やがてブザー音は大げさな歯車の稼働音に取って代わり、シェルターの扉が地鳴りに似た振動を伴って持ち上げられる。揺さぶられて落ちないか怖くて手にますます力が入る。 たっぷり何分もかけて巨大な扉が解放されると、もう一つの小さな扉が現れる。そこまで切り取ればマンションの一室に繋がるドアに見えなくもない。その先には「危険物」とラベルが貼られた小部屋がある。一列に立てかけられた電動銃から小さいのを手に取ってひたすら長い階段を登る。 イヤホンから途切れがちに彼女の声が聞こえた。 〝最後に確認をしましょう。ちゃんと背嚢は持ちましたか? 必要なものは揃っていますか? 汎用的ソリューションを携帯していますか?〟 「分かったって」 耳からイヤホンを取り外してポケットに突っ込む。 情報体の人々は武器のことを〝汎用的ソリューション〟と呼んでいる。後頭部にネジ穴があり、脳みそを出し入れできる僕たちはあたかもサイボーグのようだが、実際にはコンクリート片も満足にうごかせない。情報体の人たちに至っては、地上のどんな小さなものさえ動かせない。現実の物体に深く介入できる能力は特別なのだ。 そして、ついに地上に出る。僕にとっては昨日のことのようだが、実際には二三年ぶりらしい。階段を登り続けているうちにシェルターの中のどんな強力な光源も敵わない光――すなわち、太陽の光が顔を暖かく照らした。

3

示された目的地に着くには固形の海の上を渡っていかなければならない。白く濁った平面に足を下ろす際、重心を後ろに引いておく。地質の変化を恐れる年月ではないが、度々の気温上昇で塩の層が脆弱化しているかもしれない。片足で強く踏みつけ、安全を確かめてからそっと乗り移る。 大丈夫そうだ。 心配は杞憂に終わり、一時間歩いても塩の地面が揺らぐことはなかった。してみると、これほど巨大な積層はどうやってできたのか思いが巡る。 気象災害が引き起こされた原因は地殻変動だとも小惑星の衝突だとも、あるいは化学兵器を交えた世界大戦だとも言われている。情報体の人々の間でも結論は出ていない。ある日突然に始まって、終わった。塩の層に関しては急速に冷えて分離した塩分が凝固してできたものと推測されている。だとすれば、その時の地上はどんな生き物にとっても致命的だったに違いない。こうして幾度となく外に顔を出しても「地上人」や「新人類」と出くわさないのは、少々つまらないもののとりあえず安心ではある。マンガや映画通りなら、きっと僕たちを憎むか軽蔑しているだろうから。 世界が終わる、たぶん何日か、何週間か前。僕は両親に連れられてシェルターにやってきた。二人とも途中でなにが起こってもおかしくないと用心に用心を重ねていたが、幸いにも暴徒や銃弾は車に向かわず全員とも無事だった。しかし、家族全員のチェンバー殻があると期待していた両親に対して会社が提示したのは、情報体に移行可能なのは株主当人のみ、つまり父一人だけという動かぬ事実だった。 父と母は一回か二回、互いに目配せをした……それは記憶に残っている。直後、僕は有無を言わさずチェンバー殻に押し込められ、長い長い眠りについた。後で情報体の僕に聞かされた話によると、両親はその場で死を選んだ。死ぬことによって持ち株を僕に相続させ、同時に情報体として生き続ける権利をも移譲したのである。まるで絵に描いたような感動ストーリーだ。泣いてくれる全米はもうない。ここからの眺めはどこまでも無表情だ。 だがそんな愛すべき両親とて、数百年後に息子の自我が増えて片方が娘になっているとは思わないだろう。もし二人が生き返ったらきっと、自分の子どもだと見なすのは僕の方だ。あの時から見た目も中身もほとんど変わっていない。でも、法的には彼女に正当な権利が認められるという。裁判所も法律も消滅したおかげでこのことをあまり深く考えずに済んでいるのが嬉しい。 太陽が頭上を通り過ぎて傾きかけた頃、ようやく濁った白ではない色の地面に足が届いた。かつて、この辺りの湾岸地帯には建造物が多かった。石造りの建物は数百年経っても簡単には風化せず、条件次第では地下に資材を蓄えている場合がある。崩れた家屋らしき外壁と周囲の状況から、それと見込んだ地点の瓦礫の塊に向けて電動銃を撃ち放つ。慣れていないので射撃と同時にひっくり返りそうにあったが、期待通りに遮蔽物が一層されてマンホールが現れた。蓋をこじ開けた先には簡素なはしごも見える。 距離はさほどでもないのに下まで降りるのにはずいぶん手間がかかった。電動銃のライトを前方に照らすと、朽ちた棚が左右一列に続く保管庫らしき空間が浮かんだ。しっかりしていそうでも、国家や立派な組織が作るほど大層な代物ではない。金持ちで心配性の人が拵えた設備だろう。棚からこぼれ落ちたいかめしい銃器の数々は、どれも先端が折れ曲がっていたり錆びついていたりした。持ち主には使う暇がなかったようだ。 目的の物品はここではなく鉄扉で隔たれたさらに奥にあった。鉛の容器の中に収められていた「納品物」は会議通りなら劣化ウラン弾ということになる。しかし弾丸としては使いものにならないらしい。スクリーンには内部に含まれているウラン238が目立てだと記されていた。さっそく、銃を脇に置いて容器から持てる分の劣化ウラン弾を包みごと慎重に取り出していく。 「おい」 背嚢を埋め尽くすのに十分な量を収めたところで、背後から声がかかった。作業に集中するあまり耳が遠くなっていたのかもしれない。振り返ると胸に『HID39』と印字された標準入力インターフェイスが立っていた。どういうわけか作業服の色が違う。僕たちはみんなオレンジの服を着ているのに、彼はブルーだ。 「あ、もしかして君もこれを集めにきたの?」 もしそうなら、大いに納得できる。僕ひとりでは運びきれない状況を見越して複数のインターフェイスに仕事が割り振られていたのだ。そそくさと背嚢を抱えて部屋の隅にずれ、手招きして回収を勧めた。だが、HID39の視線は僕から動かなかった。そのまま背中の背嚢をどすんと強く下ろして口を開く。彼の背嚢は大きくて丈夫な金属製だった。 「おれはそこにあるすべての劣化ウラン弾を回収しろと指示されてきた」 「すべて? そこにある量では足りない?」 「ああ、お前が背嚢に入れた分も含めて、全部だ。とっととよこせ」 HID6ほどではないにせよ、自分よりずっと背が高くがっしりした成人男性の身体が一歩前に迫った。 ここへきて僕はようやく自分が脅されているのだと悟った。なるべく顔に不満を表さないようにして笑みを浮かべつつ、じりじりと後ずさる。 「えーと、それは、その、勘弁してほしいな。こっちも同じ仕事で来ているんだ」 「おれの知ったことじゃない。規定量を納品できなければ勤務査定に影響が出る」 相手がさらに一歩踏み出したので、僕も同じ距離だけまた後ろに下がる。声はもう震えだしていた。 「それは、お互い様じゃないか――そうだ、どうだろう。ここは一つ、半々で分け合ってそれで全部だったという話にするのは――」 HID39は会話を続けるのが嫌になったのか、とうとう手に持った電動銃を突きつけてきた。コンクリートを容易に打ち砕くほどのエネルギーの塊をぶつけられたら、即死だ。 「無事に帰りたければ今回の勤務査定は諦めるんだな」 結局、背嚢に詰めたばかりの劣化ウラン弾がまんまと移し替えられるまで、身じろぎ一つできなかった。電動銃は数歩踏み出せば手が届く距離に転がっているが、僕にとっては地平線の彼方よりも遠い。 「ねえ、ちょっと」 用を済ませるやいにゃろくな口も利かずに踵を返した彼に、震えきった声で尋ねた。 「こんなこと、これまで一度もなかった。どうやって報告したらいい」 彼は顔半分だけ振り返ってぼそりと答えた。やや粗野な顔つきの口元に笑みが宿る。 「そのまま報告してみろ。何事も慣れだ」 最後に命じられた「しばらくマンホールから出るな」という指示を守って空虚な部屋に佇んでいると、とてつもなくやりきれない気持ちになった。地下で人肌に温められたぬるい空気に独り言が漂う。 「汎用的ソリューションって、確かにそうだな」 中身がほとんど空の背嚢を背負っているせいで身のこなしが軽い。日が沈むまでの時間はありすぎて困るほどだ。あてどなく探して運良く他の劣化ウラン弾が見つかる幸運などあるはずもなく、今回の勤務査定が最低で終わると確定したからにはせめて趣味を楽しまないといけない。 地上と地上を結ぶ凝固した海の中間点、四方八方が見渡すかぎり濁った白の平面上で、一心不乱に塩を削いだ。手に力が籠もりすぎているせいか、どんな塊も意味を持つ前に細切れと化してしまう。言うまでもなく、僕はいらついている。身体が未熟だから金属製の背嚢を背負うような大変そうな仕事を任せてもらえないし、僕の作った塩の彫刻は一度も彼女に理解されたことがない。同じ仕事を何十回と繰り返して、自分が土いじりにしか向いていないと信じるのには嫌気が差していた。 気がつくと濃い橙色の光に照らされて塩の地面に火が灯ったかのような光景が広がっていた。まるでろうそくみたいだと思った。手には塩を削るナイフと同じくらい、いや、それよりも鋭い鏃に似た彫刻ができていた。 せめて日が落ちる前には帰らないといけない。 シェルターからほどよく離れた地点にはソーラーパネルが点々と並ぶ。どれも強い日差しを受けて輝いていた。 シェルターに戻ると、のろのろと切断処理を始める。モーニングルーティーンの逆を行うのだ。最後に待ち受ける「勤務査定」――ディスプレイ上には〝性能評価〟と記されているが――は、納品物がないため当然ながら最低のD評価だった。イヤホンを耳にくっつけて、まずは彼女の言葉を待つ。 〝おや、今回は残念ですね。納品物が見当たらなかったのでしょうか。まあ、そういう日もありますよ〟 「いや、見つかったし持ち帰るはずだったんだ」 口を開いた途端、味わった恐怖がたちどころに怒りに兌換されてどんどん語気が強まった。 「そいつはブルーの作業着を着ていた。どういうことなんだ。他のインターフェイスのものを奪うなんていけないんじゃないのか。D評価は僕のせいじゃない。そいつのせいだ」 イヤホンの向こう側でしばらく沈黙が続いた。齢五〇〇歳くらいの彼女にしては珍しい。やがて、意を決したような低いトーンで話しはじめた。 〝分かりました。ちゃんと説明しましょう〟 天井のラインが光り、モノクロスクリーンが性能評価画面から遷移して周辺の地図が描き出される。それ自体は会議のたびに見ているものだったが、いつもより縮尺が格段に広く、陸地がいくつもの線で細かく区分けされていた。 「これは……」 〝勢力図です。私たちの、我が社のものと、競合他社のです〟 よく見ると下の方に僕たちのシェルターを中心とする領域もあった。他の領域と比べると面積が狭い。 このシェルターが会社の持ち物で、情報体の人々が株主ないしは技術者だというのも知っていた。他のシェルターも似たりよったりの仕組みで動いているのは間違いない。こうした巨大な建造物や組織は僕が生まれるずっと前には国が担っていたそうだが、今ではどこも会社がやっている。学校も会社、警察も会社、軍隊も会社、政府が会社の国もあった。当時、働いたことのない一四歳の僕にはそれが良い話なのかよく分からなかった。今もよく分からない。ただ、両親がたまに不満を漏らしていたのは覚えている。 〝最初の遭遇はおよそ三〇〇年前です。どの競合他社も情報体を生体脳に戻す技術を開発できず、我が社と同様に元の肉体を標準入力インターフェイスとして活用していました。その時、各社が横並びの状況にあると初めて認識できたのです。現在の法解釈ではインターフェイスは操作盤であって人間ではないため、競争の過程で破損を伴う入力を加えても重罪には問われません。権益を確保して、然るべき利潤を得た後に補償を提供しても割に合うとの考えなのでしょう。むろん、我が社も同様の方針です〟 僕はすぐには納得できずに声を張り上げた。 「競合他社といっても同じ人類じゃないか。協力しあえないのか」 〝増産できず減る一方の資源を収集するしかない現状では、難しいですね。株主総会でも稀にそういった提起がなされますが〟 そこで彼女は揶揄するように声色を変えた。 〝毎回否決されています。私も株主ですが会社全体の意思決定には従わざるをえません。こんなご時世では、他に行くあてもないですからね〟 つまり、僕と同じく標準入力インターフェイスの番号を宿したブルーの彼は、インターフェイスとしてはむしろ忠実だったと言える。下手な譲歩にも乗らず徹底的に資源を奪い尽くした。のみならず、余計なコストも削減した。肉体的に劣っていて、反撃しそうにもない相手には電動銃一発分の電力さえ惜しいというわけだ。 一度は滅入った気分がめらめらと燃え上がるのを感じた。 〝しかし、今後は心配いりませんよ。今回の件は私の誤りでした。あの地点は我が社の領域の周縁部からもそれなりに遠く、内容に問題はないと考えていましたが、次はもっと適性に合う入力を心がけます〟 「いいや」 反射的に、僕は背負っていた背嚢をひっくり返して中身を床にぶちまけた。そこから例の塩の鏃を拾い上げて高々と掲げる。天井のラインが不規則に点滅した。 「さっき言い忘れたことがあった。僕はこれでそいつにやり返してやったんだ。本物のナイフより隠しやすいからね。だいぶ深くえぐったから、もしかすると途中で死んだかもしれない! そうしたら、僕たちは損をしたけど、相手の会社にはもっと損をさせたことになる。そうじゃないか?」 勢いよくまくしたてて息まで切らした僕に、彼女が珍しく気圧されたふうに答えた。 〝……それはなあ、そうですね〟 「だから僕にだって適性があるんだよ。もっと遠くに行かせてくれよ。世の中が――といってもシェルターと塩だけの世界だけど――そんなことになってるなんて知らなかった。なにも知らないまま土いじりだけして生きるなんてごめんだ。僕の可能性を信じてくれ!」 いつしか僕は二三年前に巨体の同僚が発した言葉をそのままなぞってしゃべっていた。話したことは完全に作り話だが、気持ちは本当だ。嘘偽りのない嘘だ。 〝私としては気が進みません。もっと頃合いを待つつもりでした。その肉体は未発達で、高度かつ複雑な入力に耐えられる仕様ではありません〟 「今は僕が使っている身体だ。君らユーザが知らない感覚だって分かっている」 あくまで意地を張っていると、ついにイヤホン越しの声が妥協を示した。 〝そこまで言うならいいでしょう。適性の修正を申請してみます。ですが、結果は私の一存で決まるわけではありません。いいですね〟 僕はいつもより大股開きでチェンバー殻に向かった。言ってやったぞという気持ちだった。僕たちは競争しているんだ。より難しい仕事をしなければ世界から置いてけぼりを食ってしまう。そしていつか無知なまま死ぬ。ブルーの作業着を着た競合他社のHID39はその気になれば簡単に僕を殺せた。 興奮が全身に滾るなか脱衣も忘れて殻に入ると即座にアラートが鳴り、正常に冷凍が行えない旨の警告が表示されたので急いで来た道を戻る羽目になった。

4

解凍されて殻から這い出ると、目の前に山のような巨体がそびえていた。モーニングルーティーンにはない出来事だったので思わず立ち止まる。頭上から聞き覚えのある野太い声が降り注いで、ようやくそれがHID6だと分かった。 「よお」 「や、やあ」 「行くぞ、ついてこい」 なぜ彼が一緒に解凍されているのか、どうして指図されているのか納得いかなかったが溶けたてで思考力がまとまらない現状ではおとなしくついていくしかない。後に続いて更衣室に入ると、彼はてきぱきと着替えて金属製の背嚢を軽々と背負った。肉体に恵まれた者への嫉妬と羨望と綯い交ぜにしつつ他人事の態度で自分のロッカーを開けた途端、そこにも同型の背嚢が鎮座していたので面食らってしまった。しかし、自分のロッカーに入っている以上はこれが僕の持ち物だ。中身を全部移し替えて身支度を整える頃には、HID6はすでに食堂で大量に食事を摂っていた。 せめて遅れまいとせかせかして食べ終えると、隣のパイプ下にいる彼から声がかかった。 「おい、詰めて持っていけ。忘れてもおれのはやらんぞ」 彼は言った通り、金属製の背嚢から取り出した容器に食糧と水をそれぞれ保存していった。呆気にとられて見ていると、巨体の主はついに事情を説明してくれる気になったらしい。手を止めてこちらに向き直った。 「そうか、まだ話を聞いていないんだったな。いいか、お前は今日、おれと一緒に仕事をする。ただの仕事じゃない。『出張』だ。一日じゃ終わらない。だからメシを持っていく。分かるな」 聞き慣れない文脈の単語が出てきた。特定の標準入力インターフェイス間で用いられている言葉だろうか。僕にとって「仕事」とは日が落ちる前に済ませるものという認識だった。日をまたぐほど遠くに移動しなければならない仕事だと想像もつかない。だが、きっとそれが「出張」なのだろう。前回の勤務査定の時にとった行動が特別な仕事を導いたのだ。 つまり、僕は適性があると認められた。より多くを知るであろう仕事の。 今回は便意がなかったのでトイレはパスした。HID6が戻ってきて内勤の仕事に文句を漏らした後、一緒に会議を受ける。スクリーンに図示された目的地はいつもの三倍は遠かった。片道だけでも日が暮れてしまう。目的の納品物はチタン合金だという。前回に見た「競合他社」の勢力図を思い出すかぎり、他の領域からも行けそうな場所だと分かった。HID39と出くわして、今度こそ戦うことになるかもしれない。 「質問」 イヤホンを耳にくっつけたHID6が短く話すと、なぜかモクロスクリーンが遷移して文字列が表示された。 〝回答:質問待機中〟 「今回、複数のインターフェイスを併用した拡張入力となるが、特別なリスクは存在しないか」 〝回答:特になし。インターフェイスのうち片方の仕様を斟酌して、キャリブレーションを目的に危険度が低い入力を与えている〟 「では、あえて適性に乏しいインターフェイスをこの種の入力に採用した目的は」 〝回答:前回の性能評価時に適性の修正が行われたため、試験運用を実施している〟 浅黒い面長の顔が僕にちらりと向いて微笑んだ。 「質問終了」 〝回答終了〟 そっけない指示にスクリーンも似たりよったりの淡白さで消灯した。いつまでも彼が見つめているのでつい気になって目を合わせると、ようやく口を開いてくれた。 「お前も情報体の自分に質問しておいた方がいいんじゃないか。初めてならなおさら不安だろう」 僕はすでに手の中に握られていたイヤホンをポケットに突っ込んで答えた。 「いや、いいよ。必要がなくなった。実は同じ質問をしようとしていたんだ」 努めて平静を装っていたが、真っ赤な嘘だ。本当は彼女と話したかったし、希望通りに仕事を与えてくれたお礼も言いたかった。いつもみたいにおしゃべりもするつもりだった。彼女はきっと励ましてくれるだろうし、とにかく声が聞きたかった。イヤホンをつけて一言でも話せば、それは簡単にできる。 でも、HID6にそういう振る舞いを見せるのは嫌だった。彼と情報体の彼の会話はとてもビジネスライクでプロフェッショナルな雰囲気に満ちていて、僕とはまるきり違っていたからだ。なんだか僕が彼女とする会話がすごく子どもっぽく感じられた。 地上階へのエレベータに乗って細い通路を一列に渡り、巨大な扉が開いた先の危険物室では当然のように一番大型の電動銃を手渡された。 「一応聞いておくが、撃ったことはあるよな?」 「岩とかコンクリートならね……」 さっきまで燃え盛っていた新しい仕事への熱意も、地上に続く長い階段を登りきる頃には恐怖へと変わっていた。

5

それでも透き通った冷たいそよ風に顔をなでられると、いくらか気分が落ち着いた。昇りはじめた太陽が塩の地面の濁り気を打ち消そうと光を注いでいる。金属製の背嚢は重くて辛かったが、歩いているうちに重心の感覚が掴めてきた。僕の隣を歩く「同僚」は大きくて頼もしい。一人でこんなに遠くに行けと言われたら、やはり心細かっただろう。彼は競合他社の領域に土地勘があるらしく今は大型の電動銃を折りたたんで背嚢にしまい込んでいる。僕もそれに倣って両手を揺らしながら、踵で乳白色の層を踏み鳴らして楽しんだ。 今回進んでいる道筋は僕が行ったことのある方向とはだいぶ違っていた。いつもならすぐに陸地が見えたが、今日はいつにも増してよく晴れている日なのに対岸が朧げにしか映らない。太陽が頭上を通り過ぎてもまだ辿り着かず、目的地にも達していないのに脚が疲労を訴えだした。 「疲れたか」 「いや」 巨体の同僚は一時間おきに気を遣ってそう言ってくれたものの、自ら休憩を願い出るのは負ける気がした。意地を張って懸命に歩き続けることさらに数時間、背嚢の重みに押しつぶされそうな気持ちで一歩ずつ歩いていると、ついに彼が「疲れたな、休もう」と言ってその場に腰を下ろした。顔に滲んだ汗の粒が陽光を受けて輝いている。僕は精一杯なんでもない振りをして、むしろもう休憩か、とでも言いたげな仕草で座ろうとしたが、脚が引きつって体勢を崩してしまい、尻もちをつく格好で塩の上に倒れ込んだ。 「無理すんな。安全なうちに体力を残しておけ」 背嚢から食糧の入った容器を取り出すと彼は言葉を続けた。 「初めてにしてはお前はついてこれている方だ。出張経験者でも移動が苦手なやつはいる」 「こういう一緒にやる仕事――出張って、何回もやったことあるの」 疲労を見透かされていてもなお余裕を残していそうな態度を崩さず問いかける。同僚は渋い顔をして答えた。 「数えきれないほどな。出張はむしろ一人で行く方が珍しい。三人とか四人の時もある。数が多ければ多いほど場所が遠方で危険だ」 食べている吐瀉物みたいな粘体がごくりと喉を鳴らす音と共に胃袋に落ちていった。結果的に僕を見逃したHID39とは比較にならないほど操作介入に長けたインターフェイスがたくさんいるということだ。よくよく考えてみると、競合他社の標準入力インターフェイスを殺すことほど理に適った戦略はない。資源を奪い取れるだけでなく、行動範囲も狭められる。接続可能なインターフェイスを完全に失った情報体は地上世界に対していかなる操作も行えない。センサ頼りの受動的な分析がすべてだ。そのセンサさえも一度物理的に壊れでもしたら直せない。 「これ、かなり聞きづらい話なんだけど……」 食事の手を止めておずおずと尋ねる。 「僕たちの会社は、どうなんだ? うまくやれているの、その競合他社と」 空いた容器を片付けていた巨体が一瞬固まった。少し待っても回答はない。なんだかきまりが悪くなり、急いで言葉を付け足した。 「いや、僕は前にあっさり負けちゃったから、偉そうには言えないけど」 「じきに嫌でも分かる」 急に彼が立ち上がったので、僕も慌てて残りの食事を片付けて背嚢に突っ込んだ。「だが、負けたっていうのはどういうことだ。逃げきったのか」金属製の背嚢をよろよろと背負い込みながら首を振る。「逃げてすらいないよ。ブルーの作業着を着たやつだったんだけど、たまたま見逃してくれただけだ」改めて口に出すと侮られても仕方がないと思った。しかし吐露せずにいられないほど悔しい事実でもあった。 それからの道のりはあまり退屈しなかった。HID6が色々と教えてくれたからだ。たとえば競合他社はそれぞれ違う色の作業着を身に着けていて、ブルーもいればイエローもいるという。一度、レッドの服を着たやつを見かけたと思いきや、それはそいつの血で染まっていただけだったなど怖い話を聞かせてくれたりもした。逆に、競合他社の相手から見れば僕たちは「オレンジのやつら」ということになる。 一日たっぷりかけて対岸を渡り、朝方ぶりの土を踏みしめるとなんだかおかしな感触がした。これからはこの感じが当たり前になるのだろう。物珍しい丘陵に登り、下っていき、しばらくするとちょっとした湖に出くわした。しかし実際には湖ではない。気象災害の過程で海だった場所の一部が陸になり、取り残された海面が凝固したまま自立したのだ。含まれているミネラルや不純物の濃度の関係なのか、こっちの方はずいぶん透き通っているように見えた。もうすぐ日が落ちるから野営すると彼が言うので、急いで湖に駆け寄って片手で持てる立方体のサイズに塩の塊を切り取った。 戻ってくると「お楽しみ用か、あのいつもやっている……」と茶化されかけたので「いや、このまま持っておくよ」とついむきになって言い張った。本当は夜が来る前に彫るつもりだった。 ちょうどなだらかな傾斜がついている清潔な地面を見繕い、そこで僕たちは野営を始めた。必要なものは背嚢に全部入っていた。いかに現在の地上が温暖化しているとはいえ、夜間には氷点下をぐっと下回る。作業服より分厚い素材で作られた寝袋に入り込むと一転、身を切り裂く寒風が遮られて全身が温まった。 「適当な時間で交代だからな。二人して眠りこけていたら襲われかねない」 寝袋を器用に巻きつけて身体の自由と防寒を両立させながら彼が言った。手元には電動銃の鈍く光るチャージライトがちらついている。 「本当にそんなことあるのかな、競合他社のやつらだって眠いんじゃ」 自力で眠るのも起きるのも久しぶりの僕にしてみれば、そんな不確かな挑戦はしないに越したことはなかった。しかし彼は構わず腹ばいになって傾斜に電動銃のバッテリーマガジンを突き立てた。 「むしろ油断ならない。夜勤<ナイト・シフト>の連中がいるかもしれない」 「夜勤<ナイト・シフト>?」 また聞き慣れない言葉が出てきた。 「夜に出勤する凄腕の連中だ。おれもお前も大抵の仕事はものを集めたり持って帰ったりすることだが、やつらは違う」 深く息を吸い込んだのか、巨体の背中が一層盛り上がった。 「連中の仕事は競合他社のインターフェイスを破壊することだ。つまり、戦闘しかしない」 さながら闇夜に溶け込む血に飢えた野獣のようなイメージが脳裏に浮かんだ。誰もが適性に応じて仕事を割り振られているように、夜勤<ナイト・シフト>にもそういう適性があるのだろう。電動銃をどこにでも百発百中で当てられるとか、夜でも目がよく見えるとか。 「そういう人たちと会ったことあるの……」 「ない。あったら生きてちゃいない」 こんな話を藪から棒に聞かされて、限られた睡眠時間を十分に活用できるか不安で仕方がなかった。今、この瞬間にも強力な使い手が暗闇を突き破って自分を照準の内に収めているかもしれないのだ。そう思うと、心臓が高鳴っていつまでも落ち着かなかった。

6

ところが意外にも、次の瞬間にはごつごつとした同僚の手に揺さぶられて叩き起こされた。感覚的には解凍されるのとあまり変わらない。脳みそが引き出されているかいないかの差ぐらい――にもかかわらず、外はまだ暗く何時間も経ってはいないであろうことが察せられた。同じように眠りについていても、標準入力インターフェイスのファンクションとしての睡眠はずいぶんタイムスケールが短い。 結局、いまいち覚醒しきれていない状態で指図されるがままに寝袋から出て身体に巻きつけ、直前の彼がそうしていたように傾斜の前で腹ばいになった。「三つだけ覚えろ。とても重要だ」その彼は起き上がりながら言った。 「もし先にどこからか撃たれて、運良くお前が死んでいなかった場合――」 いきなり物騒な話から始まったので全身がこわばった。 「――とにかく撃ち返せ。ビビって引っ込んでいたら距離を詰められる。次に、銃声がしたが競合他社が撃たれていた時。すぐに隠れておれを起こせ。最後に、すでに相手が接近していて取っ組み合いになった時、大声をあげて危険を知らせろ。いいな、なにもなければ日が上がるまで監視だ」 反射的にうめき声をあげた。「じゃあ僕はもう寝られないのか」体感的には明らかに眠い。いつも年単位で眠っているからきっと寝足りないのだ。しかし同僚は眉間に皺を寄せて「お前はもう六時間は寝ている。おれだって四時間くらいは寝ていいだろ」とぐうの音も出ない正論を告げたので、目の前に広がる暗闇と黙って対峙するほかない現実を受け入れた。 いつどこから撃ち殺されてもおかしくないと考えればもっと怖がってもいいはずなのに、ぼやけた頭と代わり映えのしない黒一面の風景に、姿勢さえも満足に変えられない窮屈さが倦怠感を身体じゅうに押し広げてあるはずの恐怖を塗りつぶしてしまう。 小一時間経ったか、あるいは五分しか経っていないか定かではないが、僕の意識は将来の人生設計に傾いた。今は必要に応じて接続されるしがないインターフェイスでしかないけれども、いつか情報体の人々はなにか根本的な解決策を手に入れて地上に進出するはずだ。数十年後か、数百年後かはともかく、チェンバー殻に故障がなければ僕もその時には一人の市民として輪に加わっているだろう。イヤホン越しにしか話せない彼女とも直接会って話せるようになる。より多くの人々とも交流の機会を得て、地上世界をより良くするために話し合うことになる。そうなればこんな馬鹿げた競争も廃れるに違いない。 だが、そこへいくと僕はあまりにもものを知らなさすぎる。現にこうして勤務経験でも同僚に水を開けられているし、僕たちが凍っている間にも常に思考を重ねている情報体の人々とはまずもって比べものにならない。あらゆる問題が解決した後には僕自身の能力が課題として待ち受けていて、それを改善するのはまったく簡単ではない。 昔は学校があった。僕はとてもよくできた生徒だったらしく、外に出て登校する形式の特別な学校に通っていた。一五歳になったらカレッジを受験する話もあった。これからじわじわと再構築される新しい世界の文明には、たぶんしばらくは学校もカレッジもない。田んぼとか、発電所とか水道とか、そういういものの方がずっと大切だからだ。僕は未熟な子どものまま放置されて、格差を覆せないまま見通しの悪い人生を歩む羽目になる。 だとしたら。こうも考えられる。 今の状況がずっと続いている方がよほど良いじゃないか。言われた通りに働いて用が済んだら眠って、飢えて死ぬこともない。人生が最低でも数年おきで離散的なのは仕方がないが、少なくとも思い悩むことはあまりない。壁がひび割れているとか、食事や水がまずいとか、たまにトイレに糞が積もっているとか、そういった点に目をつむれば今の暮らしもそんなに悪くない。彫刻だってできる。 ただ……じゃなんで僕は楽な仕事に留まらずにこんな辛い出張とやらをする気になったのだろう。今だって眠いのをこらえて必死に―― その時、真っ黒な風景にわずかだが光がちらついた。最初は気のせいかと思った。しかし続けて二回、そして三回、光が灯る。入れ違いに別の地点でも光が灯った。やがて電動銃特有の甲高い音色が耳に届いて、確信を得た。 銃撃戦が行われている。 左側で閃光が派手に光っているのに対して右側の方はいくぶん控えめだ。両者の応酬はやや一方的ながら、だんだん激しさを増して音も大きく響いてきている。そこで、はたと思い出して彼を起こそうとした辺りで背後から声がした。 「始まったようだな」 ぎくりとして「起こそうと思ったんだけど」と申開きしたが、彼は気にする素振りをせず僕の前から電動銃を持っていって自分の位置に構え直した。 「いや、おれが勝手に起きた。眠りが浅い方でね」 そんなわけがない。眠りが浅いのではなく、浅く寝ていたんだ。経験のない子どもに命を預けて高いびきなんてするわけがない。 「さて、ここで特別講習だ」 勝手に落ち込みかけていると、HID6は横目で問いかけた。 「左と右、どっちが夜勤<ナイト・シフト>だ?」 打ち出されている光の数では左側が圧倒的だ。どんどん距離は縮まっているのに、輝点の間隔の違いで判別できるほど差がある。しかし―― 「右の方だ」 いつになくはっきり答えると「ほう」と彼はつぶやいた。「なぜそう思った」 「見た感じでは左の方がいっぱい撃っていて有利っぽいけど、たぶんそれは違って、相手の位置が分かっていないだけだと思う。当てずっぽうなんだ。でも右の方は相手が逃げられないように牽制だけして距離を詰めている。だから右の方が上手だ。夜勤<ナイト・シフト>が強い人たちばかりだっていうんなら、右の方がそうだ」 数百メートルか、あるいはもっと離れた地点でついに決定的な瞬間が訪れた。最後に右手の光が二回光り、それきり、まるで闇がすべてを覆い隠したかのように静まり返った。同僚が低い声で言う。 「正解だ。そしておれたちができるのはやつらが帰ってくれるのを祈ることだけだ」 さすがにこの頃には眠気が吹き飛んでいた。たった今、分厚い暗闇で隔てられた対岸で絶命したインターフェイスたちも今後の人生に思いを馳せていたのかもしれない。それがほんのちょっとしたさじ加減で奪われた。夜勤<ナイト・シフト>たちが気まぐれで向きを変えていたら、今頃死んでいたのは僕たちだったのだ。

7

何事もなく太陽が上がり、食事を摂り、隅々まで陽光で照らされた地面を歩いていても、恐怖は背中にべったり貼りついたようにしていつまでも消えなかった。まだ殺し足りない夜勤<ナイト・シフト>たちが朝も働き続けて、四方八方のどこからか自分を狙うのではないかと妄想に駆られた。心配しても意味なんてないと理解していても足取りはまるで鉄か鉛の重さで、腹には溶けない氷が冷え冷えと沈んでいた。 「ここだな」 HID6が足を止めた先にあったのは半壊した巨大な航空機だった。あまりにも大きかったので二人で辺りを周回するまでそれがそうとは気づかなかったほどだ。まるで戦いに敗れた巨人兵が胃袋や腸を垂れ流しているように、引き裂かれた胴体部からケーブルや座席やその他の部品が散乱していた。 中に入ると陽の光が遮られて視界が一気に薄暗くなった。時折、周辺に人骨と思しき欠片がまとわりついているのを見て気分の悪さと関心が同時に押し寄せた。数百年経っても骨は溶けて消えないらしい。「いっそ月に着いちまえば多少は長生きできたのにな」巨体が災いして歩きにくそうに足で残骸をどかしながら同僚が言う。確かに、この航空機は地上用にしては大きく、月か火星の定期便用に見える。 言われてみれば、月や火星は地球の気象災害とは無縁だ。しかし食糧や燃料を生産する設備に乏しいため、地球からの物資がなければどのみち飢えて死んでしまう。変わり果てていく地球を臨みながらゆっくり死に絶えていくのと、一瞬のうちに死ぬのとだったら、個人的には後者の方が嬉しい。 目的の納品物は航空機の露出した内部に含まれていた。背嚢の中の工具を活用して慎重に引き剥がしていく。不要な部品ごと持っていくには大きすぎるし重いからだ。二人して作業を黙々とやっているうちに、会議で示された分量を大幅に超える納品物を獲得できた。 きっと油断していたのだと思う。何時間も薄い暗闇の中にいて、空間の把握が疎かになっていたのだ。航空機から外に出た途端、正面のそう遠くない距離に人影がいるのを目の当たりにした。ついさっきの恐怖感が胃の奥から吐き出される。短く悲鳴をあげて手をばたつかせるも、電動銃は背嚢の中だ。一歩ずつ近づいてくる二人組を前に固まること数秒、先に口を開いたのは相手の方だった。 「君らもここで物資を集めていたのかい」 そこへ、助け舟が到来した。電動銃のチャージ音を響かせながら背後でHID6が低く短く答える。 「失せろ」 だが、相手はなおも引き下がった。 「チタンか? そうだろ」 「だったらだろうだ、失せろと言ったぞ」 端的な応答の後、相手は急に両手を胸の前で合わせて懇願のポーズをとった。 「なあ、我々も同じものを探しているんだ。もしよかったら……譲ってくれないか、この通りだ」 そこで僕はようやく相手が二人して武装していないこと、そもそも雰囲気からして敵意がなさそうなこと、イエローの作業着を着ていることなどを認識した。張り詰めていた緊張の糸が切れて、がちがちに凝り固まっていた筋肉が緩む。一方、巨体の同僚は前に踏み出してなおも迫った。 「おれたちになんの利益がある。他社だということくらいは分かるだろう」 「分かっているとも。交換しよう。我々はタングステンを持っている。砲弾の芯から取ったやつだ。どうだ、有用な金属だぞ」 確かに、と率直な感想を抱いた。タングステンは軽量かつ高密度な金属素材なので、武器にも工具にも応用できる。導電性や耐熱性にも優れているから電子部品にも使える。シェルターにあって損はない物資だ。 「現物を見ないことにはなんとも言えんな」 変わらず銃口を突きつけたままではあったが、同僚の口ぶりは格段に柔らかくなった。相手もそれを察したに違いない。 イエローの二人組は呼びかけに律儀に応じて各々の背嚢の中からタングステンを取り出した。手渡された銀色の塊をまじまじと見つめてから、HID6は僕に手渡した。「これは本当にタングステンで間違いないか」僕はその金属のとてつもない重さと手触り、叩いた時の感触を調べてから慎重に答えた。 「本物だと思う。アルミやステンレスならもっと軽い」 「鉄やニッケルだとしたら?」 僕は冷静に首を振って言う。 「タングステンの比重はその二倍以上あるよ。それにほら、見て」 背嚢の中に入っていた磁石をくっつけてもなにも起こらないことを示す。「タングステンは非磁性の金属なんだ。鉄だったらくっついている」そこまで説明して、ようやく彼は納得したようだった。「さすが土いじりの専門家だな」信頼を得たと確信したのか二人組は息を弾ませて前のめりにしゃべりだした。 「悪い話じゃないだろう? こんなでかい航空機から集めたんなら、余るほどチタンがあるはずだ。分けたってそっちは損をしない。おまけにタングステンも手に入る」 「そうだな。いいだろう」 彼が首肯すると二人は顔を綻ばせて喜んだ。昨夜、戦わないまでも夜勤<ナイト・シフト>たちの仕事ぶりを目の当たりにしたからか、てんでこの種の経験がない僕にさえ、イエローの二人組がまるで隙だらけの小動物に見えた。残りのタングステンを取り出す間も背嚢を探ることにかかりきりで、こちらに注意を払う素振りもない。 HID6はさらに一歩踏み出して、自分の背嚢を片手で引き下げた。 もう片方の手には、電動獣がフルチャージの状態で握られている。 「だが、おれがくれてやるのはこいつだ」 直後、水平に傾いた銃口から不可視の運動エネルギーが飛び出し、イエローの作業服を着た片方に衝突した。それは胴体に風穴を穿つには十分すぎる威力で、もう事切れているであろう死体をさらに数歩ぶん後方に吹き飛ばした。撃たれていない方は突然の出来事に状況を飲み込めず、瞬き数回分の間隔を経てから素っ頓狂な悲鳴をあげた。僕も同時に叫んだ。それらすべてをHID6の低い声が塗りつぶした。 「おい、一度しか言わねえからよく聞けイエロー。走って逃げきれたらお前の勝ちだ。だからうまく逃げろ。ほら、走れ」 彼はイエローの足元すれすれに二発目を放った。すると、相手は背嚢も持たず反射的に走り出した。 「おっ、けっこう速いな」 いくらかの間をおいて同僚が撃ち出した三発目、四発目の銃撃は素人目に見ても粗雑な撃ち方だった。当てるつもりで撃っているとは到底思えない。現に運動エネルギーの塊は相手から数メートルも離れた地点にぶつかり、かすかに土煙を舞わせていた。しかし一向に意に介さず、その浅黒い顔に今まで見た覚えがない残忍な笑みを浮かばせていた。 そうして何分か経ち、何発も外してイエローの作業服が本当にイエローなのか判別が付きづらくなってきた辺りで、彼は電動銃の構え方を変えた。 「そろそろお楽しみは終わりだな」 相手との距離はもはや狙撃に近いと言っていいほど離れていたにもかかわらず、最後の一撃はあっけなく逃げ惑う背中の中心を捉えた。 「……どうして」 今の僕の気持ちでは、この一言を絞り出すのが精一杯だった。言いながら、次の言葉を考える。 「殺す必要は、なかった」 だが、隣の殺人者はさっきまでの面倒見のよい優しい同僚に戻っていた。口からごく柔らかな言葉が流れる。 「人の楽しみにも色々あるのさ。お前は塩の塊を彫るのが好き、おれは……逃げるやつを後ろから撃つのが好きでね」 あまりにも感慨深く、趣味の話をするみたいに語るものだから僕は気がおかしくなりそうだった。飄々とした態度で彼は「それに」と付け加える。 「お前、A評価って取ったことないだろう。本日最後の特別講習だ。どうやったら取れると思う」 「し、知らない」 考えるより先に本能が回答を拒否した。状況から想像すればおのずと答えが分かってしまう。吐き気がしてきた。 「おれたちだって競合他社を減らせるんだ。この銃はそのためにある。まさか瓦礫をどかすためだと本気で思っていたのか」 「今まで、何回、こんなことを?」 なにかしゃべっていないと本当に吐いてしまいそうだったので聞きたくもない質問をしてしまった。 「おれはA評価しか取ったことがなくてね」 皮肉にも、帰りの道のりは非常に快適だった。死んだイエローたちは電気で動く二人乗りのバイクを近くに隠していて、それに乗って帰ったからだ。HID6は後部座席にまたがる僕に、エンジンの駆動音や風切り音に負けない大声で叫んだ。 「こんなもの、おれたちは持っちゃいねえ! そうだろ!? だが他社の連中は持ってる! おれたちが持っていない良いものを持ってやがる! これでおれたちがうまくやれていると思うか!? ええ? 殺さずに勝てると思うか?」 僕はひたすら無言の抵抗を貫くほかなかった。時速一〇〇キロメートル超で前から後ろへと高速で流れ去っていく風景、遠く彼方まで広がる濁った白の地平線、固形の塩の塊、そのどれもがひどく味気なく感じられた。

8

納品物を捜査するカーゴの中にチタン合金とタングステンと血みどろの生首が投げ込まれて以来、僕は外に出る仕事をやめた。もともと適性なんてなかったのだ。モクロスクリーンに映るA評価の文字を一瞥して、いかにも同僚を労う仕草で肩を叩いてチェンバー室に戻っていったHID6をよそに、いつまでも色褪せた床に滴る血痕を眺めていた。「もう外に出たくないな」そうイヤホンにつぶやくと彼女は特に追及せず適性を再修正した。 ロッカーには据え置かれた二種類の背嚢に加えて掃除用具が追加された。壁を補修する道具、床を拭く道具、どうせならトイレの糞を集める道具も欲しかった。あれから何回も冷凍と解凍を繰り返したが、ずっと内勤の仕事をしている。会議の時間はとても短い。移動時間は三〇分もかかれば長い方だと感じる。 彫刻はもう彫っていない。彫るための材料がここにはない。 代わりに、彼女と話す機会が増えた。イヤホンはシェルターの中からだいたい機能する。毎回、ひび割れた壁に補修材を塗りたくり、汚れた床を拭きながら雑談を交わす。内容はなんでもいい。天気の話だけはできないけれど。 「ところで、なんでこういうのってロボットとかにやらせるわけにはいかないのかな」 〝複雑な部品や電気的接点を持つ機械はメンテナンスが大変なんですよ。その点、標準入力インターフェイスはたいへん安上がりでけっこうなことです〟 「ご飯を食べさせるだけで勝手に動くもんね」 シェルターの中は意外に広い。直すべき壁は星の数ほどあり、拭くべき床はもっと多い。以前の仕事で内勤のインターフェイスとあまり会わなかったのも納得だ。チェンバー室も他に三つもあって、培養プラント室もそのぶんだけあり、トイレも備わっている。そしてもちろん、大抵は便器に糞が積もっている。 原子力電池付近の最下層は特に最悪だ。放射線防護服は暑くて重い。分厚い生地に手足の動きが阻まれていると作業は遅々として進まず、代わりに口数ばかりが増える。壁のひび割れがいつも広大な円周に沿って広がっていて途方に暮れ、思わず天を仰ぐと吹き抜けの天井は暗闇に覆われている。あの細い通路から落ちるとここで床の染みと化すのだ。 「ところで君は今なにをしているの?」 てんで見通しの立たない仕事を半ば放棄してふと彼女に尋ねると、放射線特有のノイズに紛れて自明すぎる回答が返ってくる。 〝あなたと話しています〟 「そうじゃなくて、僕が仕事をしながら話しているみたいに君もなにかしているんじゃないの」 〝ええ、それはまあそうですね。ですが私は情報体なので、処理ごとに自我を分割しています〟 「よく分からないな」 〝あなたと話しているこの私は会話をするためだけに生成されています。総体としての私がなにかをしながら会話をしているのは事実ですが、私という自我単位に並行処理の自覚はありません〟 「なんだか手抜きっぽいな」 〝効率的と言って下さい。どのみち計算資源をすべて割り当てた私とは会話が成り立たないでしょう〟 時々、彼女との会話から情報体特有の生活が垣間見えることがある。曰く、情報体は人間では手足の指を全部使っても不可能な量の仕事を同時にこなすことができるとか、いくらでも好きな見た目に自分を変えられるとか、食事もいらなければトイレにも行かないとか。 〝いえ、食べたい人は食べますし、行く人は行きますね。生活様式は肉体を持っていた頃とそう大きく変わらない人の方が多いです〟 分割された自我の割に反論は抜け目ない。 「そうなの? まあ、でもそれは分かるかな。美味しいものを食べた気になれるのは悪くない。でもトイレは行かなくていいんじゃないか」 だってどう考えたって無駄だ。誰だって行かずに済むなら行きたくないし、もしそういう選択肢が標準入力インターフェイスにもあったらぜひとも全員に実践してもらいたい。便器から糞を拾うたびに顔を顰めなくて済む。集める時には何年も経っているから乾燥しきっていて掴みやすいのだけが幸いだ。だが、イヤホン越しの彼女はとても言いづらそうに言葉を濁らせた。 〝うーん、そうですね、行かなくていいのはそうなんですが、その、好みによるというか〟 「トイレに好みなんてあるのかな。一日に何十回も出した気になりたい人なんている?」 〝えーと、この話はあなたにはまだ早いと思います〟 なぜか一方的に会話を打ち切られたが、ちょうど腰の曲がった顔馴染みの同僚が現れたので挨拶を交わした。膨れた腕を振り回して大声を張る。 「おはよう」 「おはよう。元気かね」 「この壁の補修をこれ以上しなくて済むならね」 顔中に皺が深々と刻み込まれた老体のインターフェイスは口元を曲げて微笑んだ。 「じゃあ私と交代しよう。君は上の階の方をやりなさい」 「ほんと? どうもありがとう」 率直に感謝の気持ちを表明する。いっそこの場で防護服を脱ぎ散らかしたくてたまらなかったところだ。 「若いのにこんな仕事をさせるのはちょっとね。本当は外に出た方がいい。なにが事情があるんだろうけども」 曖昧な問いかけに、同じくらい曖昧な笑みで返してやり過ごす。すれ違いざま、思い出したように傾いだ背中が振り向いた。 「まあ、仕事熱心なのはいいことだ。さっき防護服を着る時に、若い連中――あんたほどじゃないが――なにやらぺちゃくちゃしゃべっていてね。ああいうのは良くないね」 放射線防護服は除染室の手前に置かれている。そこで着脱と除染を経て放射線区画に入る。帰る時は逆の工程を踏む。その途中にある部屋の中から、確かにぼそぼそと声が聞こえてきた。この辺りの部屋は配管などが敷き詰められた設備用の空間で、複数のインターフェイスが入り込んで仕事をするような場所ではない。 「こういうのって注意した方がいいのかな」 彼女に話しかけたが返答はない。奇妙なノイズがイヤホンに載っている。まだ放射線が強い区間なのに加えて、入り組んだ狭い場所だから電波の入りが悪いのかもしれない。 次第に、ぼそぼそとした声色の音程に慣れたのか扉の向こうの会話が耳に入ってきた。 「……どうだ、転職するか? 返答がイエスなら出張を申請しろ」 「……けどよ、申請したってその通りに仕事が振られるかどうか……」 「おれがなぜずっとA評価を取り続けているか分かるか 仕事を選べるからさ。出張の枠を用意してお前を入れることもできる」 声量こそ小さいがその声は野太く太く、はっきりとしていた。気がつくと脱衣も除染も忘れて聞き入っていた。「転職」という聞き慣れない単語が出たからだ。言葉自体の意味はもちろん知っているが、標準入力インターフェイスを職業に例えているなら、他の職のあてがこの世界にあるとは思えない。 「……ばれねえのかな、そこが不安だ。おれたちは脳みそを握られているんだぜ」 「やつらは健康診断をケチってる。シケた職場よ。当日までお前が口を閉じていればな」 「だが派手に動いたら危ないだろう。その枠とやらには誰が入る予定なんだ」 「めぼしい連中とはもう話をつけた。あとは出張経験者を組み入れる。雑魚はいらん」 言うまでもなく、会話の内容にはとてつもなく不穏な雰囲気が漂っていた。唐突に、足音が扉の方向に迫ったので右向け右をして除染室に向かった。会話に決着が着いたのだ。除染室の扉が閉まるか閉まらないかの間際、部屋から着膨れした二人のインターフェイスが出てきたのが見えた。細身の男に続いて、巨体の同僚――半透明の防護服越しでもよく分かる――他でもないHID6が身を屈めて現れた。同時に扉が完全に閉塞されて警告音が流れる。 <除染処理を開始します。体勢を適切に保って下さい> 四方八方から噴出する消毒シャワーの嫌らしい圧力に耐えながら、一瞬のうちに瞼に焼きついた光景を何度も何度も思い描いた。 面倒見が良くて優しい同僚、逃げる相手を撃つのが好きな残忍な同僚。その同僚が、なにかを企んでいる。

9

僕の耳元はてんやわんやの大騒ぎになった。大勢の情報体の声が次々と流れ込んでくる。事情を説明するやいなや彼女は信頼のおける人員を呼び寄せてきたのだ。圧縮言語で秒間数億回もの疎通が可能な情報体の「会議」は一介のインターフェイスの手に負えるものではない。誰かが「インターフェイスが認識できる水準に計算量を減らそう」と呼びかけて一旦は話についていける程度に落ち着いても、十秒と経たないうちにヒートアップしてまた高速化する。しかし最後の結論だけは理解できた。「証拠が足りない」とのことだった。放射線が一定以上検出される区画には天井のラインが引かれていないため、彼らの密談を裏付ける記録はどこにもない。 「僕が出張を申請するというのはどうでしょう。適性を再修正するんです」 イヤホンに向かって情報体たちに問いかけると、ぴたりと言葉が止んだ。そこへ、誰かの言葉が割って入る。 〝なるほど、それで話の裏付けを試みようというわけですね。論理的です〟 〝だが、露見したら揉み消される可能性もある。HID6のユーザは大株主だ〟 精神体の誰かが非常にゆったりとした口調で言った。計算資源の割り当てを少なくしすぎたのだろう。 〝どのみち調査をする必要はある。懸念は取り除いておいた方がいい〟 再び、彼女が心配そうに言った。 〝私としては気が進みません。私のインターフェイスはまだ未熟でこの種の特殊な入力には……〟 僕はそれを遮って言い切った。 「そんなことない。やらせてほしい。どうせやるなら、僕じゃなくちゃだめだ」 〝どうしてそこまで……〟 なんとか情報体を納得させられるような理屈をひねり出そうと考えたが、結局出てきたのはひどく感情的な一言だった。 「ただ、一泡吹かせたくて」 おそらく一〇〇年は経ったであろう今でも鮮明に思い出せる。ぽっかり穴が穿たれた作業着、逃げ惑うイエローの背中、優しかった同僚の獰猛な笑み。彼は僕を散々打ちのめしたのに、僕は彼になにもやり返していない。思い知らせるなら今が最高のタイミングだ。どんな隠し事を企ているにせよ、明るみになれば罰を受けるはずだ。 〝それはまあ、我々としても同感だな〟 情報体の誰かが言った。 次の解凍時、彼女の声はいささか緊張を帯びていた。らしくない、と思ったが理由は分かっていた。 〝適性の再修正が認められ、今回、拡張入力――あなたたちが言うところの出張――が行われることになりました。あなたの言った通り、HID6とその他数名です。 「これで信じてくれるかい」 〝依然として客観的な証拠能力には事足りません。しかし、私の派閥の協力を得るには十分でした〟 直後、納品物を格納するカーゴがいつもと逆回転に回転して、中からなにかが転がっていた。薄い板みたいなものに丸いレンズがついている。これは、ビデオカメラだ。 〝貴重な資源をいくつか拝借して即席のビデオカメラをプリントアウトしました。昔の資料を参考に設計したので、標準入力インターフェイスに適した作りになっているはずです〟 薄い板の側面にあるスイッチを押すと、筐体側面のランプが一瞬光り、もう一度押すと二回光って消えた。〝それで録画終了です。スタンドアロンの装置なので映像は内部の記憶媒体にのみ保持されます〟と彼女が付け加えた。 「まさか、こいつで」 〝そうです。再三申し上げているように重要なのは証拠です。もしあなたが然るべき映像を持ち帰ってこられたら、あなたも私も期待通りの結果が手に入るでしょう〟 僕は洗練されているとは言いがたいカメラの筐体を改めて見つめた。 「ありがとう。でも、どうしてこんなことまで?」 〝標準入力インターフェイスの不始末はユーザにも帰責されます。私たちの派閥が飛躍するまたとない好機と言えるでしょう〟 情報体の世界にも色々あるらしい。僕たちの言葉で表すならさしずめ「出世競争」かもしれない。 ルーティーンの一部をやり直して金属製の背嚢にあらゆるものを詰め込んでいく。不思議と今ではそれほど怖くなくなった細い通路の始端でHID6が待っていた。顔を合わせると彼はいたってフレンドリーに表情を和らげた。 「お前は必ず戻ってくると思っていたよ。他の二人はもう外に出ている」 巨大なハンドルがついた扉の先の危険物室で一番大型の電動銃を自ら手に取ると、力強い足取りで地上世界に踏み出した。 地表では他の標準入力インターフェイスたちが待っていた。巨体の同僚とは対照的に二人の顔には険しい顔がありありと浮かんだ。後に続いてHID6が出てきた途端、僕にではなく彼にクレームを投げかけた。 「おい、なんだこいつは、ただのガキじゃねえか」 しかし彼は堂々と請け負った。 「いや、こいつは見どころがある。出張もちゃんとやってのけた」 これから企みを暴こうとしている相手に褒められるのはむずむずする。 表向き、会議では五十キロメートル以上離れた地域の鉱石を採集することになっていた。例の勢力図通りなら周縁部分どころか競合他社の地域に入り込む格好だ。以前に聞いたように四人での出張は半ば戦闘を前提にしている。 馴染みのない二人の方を見ると、片方は除染室の前で見た細身の男、もう一人は知らないインターフェイスだった。それぞれHID23、HID45と胸元に記されている。今回の出張に企みが隠されていることを知っているのはHID23とHID6のみだ。歩行を開始してからしばらく経っても何事も明かされる気配がないのは、シェルターから十分に離れる必要があるからだろうか。 久しぶりの陽光、柔らかく吹き抜ける塩気を含んだ風は秘め事を抱えている身にも格別だった。世紀を隔てても変わらない塩の大地が悠然と地平線の彼方まで広がっている。白く濁った不変の平面にまるで頬ずりするように靴底をすり合わせながら、しばらく気ままに道のりを楽しんだ。 先を行く三人の口数は少な方。プロフェッショナルらしく危険に備えて体力を温存しているのか、あるいは企みの行く末を案じているのか。例の二人は周縁地域にも達していないうちから大型の電動獣を片時も手放さない。HID6の号令に合わせて休息をとる時も、食事の際にも必ず手が届く位置に銃があった。たぶん、敵に襲われることを心配しているからではないと思う。隠し事をしていると誰しも不安で仕方がないのだ。唯一、状況をなにも知らされていないであろうHID45もそんなピリピリした雰囲気に合わせたのか、食事後には電動銃を広げだした。その隙に、容器を片付けるふりをして背嚢の中からカメラを取り出して胸ポケットに収納した。レンズの部分がちょうどよく生地の切れ目から顔を出している。スイッチを押すとランプが一回点滅した。以後、すべての出来事が記録される。 塩と土の大地を交互に踏みしめて半日近くも経過すると、さすがにベテランの大人たちの足取りにも疲れが見えてきたようだった。休憩の合間に仕事の段取りを軽く説明して、また歩き続ける。橙色の濃い夕陽が顔に差しても行軍は止まらず、南半球に引っ込んだ太陽と入れ違いに月が顔を出す頃になり、ようやく野営場所が確定した。 「ここはもう周縁部ではない。敵の勢力下だ」厳かな口調でHID6が告げ、さらに続けた。「二人ペアで見張りをする」みんな無言で頷いた。彼の指示で最初の組み分けは僕とHID23に決まった。意図は分かりきっている。企みを知っている二人とそうでない者同士で振り分けたのだ。寝袋を引き出す間際、二人が目配せを交わしたのを見逃さなかった。 大型の電動銃を斜面に二つ並べて暗闇を見つめていると、隣からぼそりと声がかかった。 「お前、HID11と言ったか。確かに見た目より骨があるな。あんなに歩かされたのに音をあげなかった」 「しょっちゅう重い服を着てシェルターを駆けずり回っていたからね」 予想とは裏腹に内勤のおかげで体力がついていたらしい。 「でもどうしてだ? 前は出張していたと聞いたが、ついこないだまで内勤だったんだろ。急に気が変わったのか?」 その声にはどんなに気配を抑えていても隠しきれない圧力を感じた。僕は月明かりを通して表情を読まれないように、努めて電動銃の照準の前に顔をくっつけた。 「色々やってみたくてね。でもやっぱり内勤も飽きちゃった」 「そりゃそうだろう。老いぼれか女しかやらない仕事だ」 顔を向けなかったのは正解だ。今の僕はムッとしているに違いない。肌感覚として内勤のインターフェイスに老体や女性が多いのは事実だが、決して軽んじられる仕事ではない。内勤に従事する標準入力インターフェイスがいなければシェルターはとっくに崩壊していただろう。 「その老いぼれや女がいないと僕たちはトイレもできないんだけどね」 「それが問題だ……まあ、そうだな」 明らかに、HID23はなにかを言いかけてやめた。問いただそうとしたところで、ちらりと漆黒の奥が光った。「ねえ、あそこ光らなかった」隣のベテランの見解を待つまでもなくさらにもう一度光る。次第に光は激しく交錯する。前回と違ってひどい荒れ模様だ。「銃撃戦というよりはもはや乱戦だ」しばらくするとそれらはぶつりと途絶えた。 「どっちかが勝ったのかな」 今度こそ照準から顔を離して目を合わせる。同僚は興奮がちに言った。 「あんなに間近だと相打ちの可能性もある。とにかく、他のやつらを起こさねえと――」 HID23が立ち上がった瞬間、闇を貫いた運動エネルギーがその肩口を鋭く捉えた。かすかな熱風とともに血しぶきが舞う。短いうめき声を漏らした彼は斜面をごろごろと転がっていった。慌てて銃座を放棄して歩み寄りかけたが、HID6の言いつけが僕を踏み留まらせた。 「もし先にどこからか撃たれて、運良くお前が死んでいなかった場合――とにかく撃ち返せ」 いざ暗闇と相対してトリガーを引き絞ると、驚くほど簡単にエネルギーの塊が発射された。直後、瞬いた光がすぐ直近の敵の姿を捉えた。距離にして十歩もない。スキップすればハイタッチもできそうだった。敵は牽制射撃と奇襲の二手で別れていたのだ。目を見開いた途端、陰に似た敵は驚くほど機敏に接近してきた。 もし僕が下手に経験豊富だったらたちまちやられていたに違いない。本能的な恐怖から電動銃を持ち上げて盾のように構えると、そこへまっすぐ敵の腕が伸びた。がちりと金属音が鳴り響く。月明かりを照り返す鋭い銀色の輝きが死の匂いを放った。敵は銃ではなくナイフを持っている。 初手を防がれた敵はしかし、軽い身のこなしで僕を蹴り倒すとすぐさま覆い被さった。銃を持っているのになにもできないまま、またもやナイフが頭上にきらめく。黒装束に垣間見える目元がかすかに歪んだ。 「子ども……!?」 一瞬、振り下ろされた刃の切っ先が止まった。直後、真横からエネルギー弾が発射された。身を覆う黒装束が横に傾いで倒れ込んだ。顔をそむけると、電動銃を構えたHID6が見えた。 その背後から迫る他の黒装束の姿も。 反射的に銃を構えてトリガーを引くと、狙い通りに彼の後ろの黒い塊が後方に吹き飛んだ。巨体の同僚は驚いて振り返ったが、向き直る頃には奇妙な笑みを湛えていた。 「夜勤<ナイト・シフト>に襲われて生き残るとは……お互い運が良かったな」 決死の瞬間をくぐり抜けた後、僕は自分がろくに呼吸もしていなかったことに気づいた。急速に駆動を開始した呼吸器官の痛みに胸を抑えて地面に仰向けになる。きれいな星が点々と輝く夜空から右を向くと、すぐそばに黒装束の露わになった顔つきが目に入った。噂に聞く血に飢えた夜勤<ナイト・シフト>の素顔は、いたってありふれた中年女性にしか見えなかった。

10

その日は全員起きたまま警戒にあたったが、二度目の襲撃はなかった。おそらく奇襲役の夜勤ナイト・シフトがこちら側を一人も削れずに死んだことで仕事を諦めたのだろう。肩に深手を負ったHID23は寝袋で即席の単価を拵えて交代で運搬することになった。 幸いにも前日の進捗が良好だったおかげでさほど苦労せず目的地にたどり着いた。HID6が「ここだ」と言った箇所は四方が瓦礫の山に囲まれていたものの、納品物の鉱石が転がっていそうにはない。かといって地下施設や家屋を目指す動きもない。いよいよ僕は例の企みが実行に移される兆候を感じた。 「ちょうど予定時刻だ」 彼がそう言うが早いか、瓦礫の隙間の遠くから徐々に走行音がうなり、標準入力インターフェイスたちが電動バイクを駆って現れた。二人ともグレイの作業服を着ている。競合他社のインターフェイスだ。退路を塞ぐ形で僕たちの来た道にバイクを止めて降りると、直立不動の体勢で電動銃を突き出す。電動銃はバイクに似て黒く、角ばっていて僕たちのよりもだいぶ洗練されている。担架に両手を塞がれている僕たちは早くも形勢を失った。HID45が「なんだこいつらは」と叫んだが、HID6は無視して二人に話しかけた。 「誰も武装していない。銃を下ろしてくれ」 グレイの二人はロボットのようなカクついた動きで銃身の角度を下げたかと思えば、急に礼儀正しい態度になってお辞儀をした。 「本日は弊社の選考にお越し頂き、誠にありがとうございます。さっそく面接を実施致します」 呆気にとられているうちに二人はポケットから取り出した小型の端末を僕たちにかざした。どういう意図があるのか分からないが、視界にちらつく電動銃のせいでむやみな抵抗はできない。最後に、担架の上のHID23に端末をあてるとグレイの片方が言った。 「以上で面接を終了致します。選考の結果、HID6様、HID11様、HID45様をぜひ当社に採用させていただく運びとなりましたことをご報告申し上げます」 「こいつはどうなんだ」 異様な言葉遣いをする二人組にも動じずHID6が担架の上の同僚を指差す。すると、グレイたちは直角よりも深い角度でお辞儀をした。 「HID23様につきましては、慎重に選考を重ねました結果、誠に残念ではございますが選考を見送らせていただくことになりました」 「は、はあ? なんだと、こら、おい――」 傷の深さでまともに身動きもとれないHID23が息も絶え絶えに訴える。なにか良くないことが起こっているらしい。 二人はお辞儀から直立姿勢に戻ると、今度は手を合わせて無言で祈りはじめた。肩にかけられた電動銃の揺れが自然に収まるまで不動の体勢は揺るがなかった。 「ねえ、どういう意味なの、それ」 「HID23様のご多望と益々のご活躍をお祈り申し上げます」 ついに堪えきれず直接尋ねるも、答えは言葉ではない形で返ってきた。一糸乱れぬ動きで急に電動銃が水平に構えられ、一斉に銃撃が行われた。やや遅れて身の危険を察知したHID23が手を掲げて静止を試みるも、間もなく全身に大穴が穿たれる。直後、僕とHID45は担架を放りだして後ずさった。穴ぼこだらけの死体が投げ出されて地面に転がった。 「それではHID6様。まずは約束のお品物をお納め下さい」 手負いのインターフェイスを容赦なく抹殺しておきながら、二人組はごく平坦な表情のままでHID6になにかを手渡した。鉱石だ。会議で納品物として指定されていたものと見た目が似ている。 「おい、なんなんだこれはよ」 一緒に担架を持っていたHID45が異常な雰囲気を打ち消さんばかりに声を張った。ついに巨体の同僚が振り返って僕たちに向き直る。 「いいか、おれたちのシェルターは終わりだ。開発競争で負けているし、持っている情報量も少ない。おまけに便器はいつも糞まみれ。このままいてもジリ貧だ。だから、転職する」 ここへきて、転職というフレーズが躍り出た。今回の出来事のきっかけ。つまり、それは。 分厚い身体を挟んで向こう側から声がした。 「弊社の標準入力インターフェイスとして雇用させて頂く形となります。代わりに貴社のシェルターの位置、防御設備等を教えて頂きました」 目の前の同僚は厳密にはもう同僚ではなくなったらしい。 「は、背任行為だ。報告されたらお前もお前の情報体も懲戒されるぞ」 HID45がさらに声を張り上げて非難を強める。だが、元同僚は気に留める素振りを見せない。 「もし、それができなかったら?」 「なんだと?」 再び、グレイの片割れが礼儀正しく答えた。 「近年中に貴社に対して買収提案を差し上げる次第でございます」 そこへHID6が被せるように言う。 「分かりやすく言ってやる。こいつらはおれたちのシェルターに攻めに来る。言っておくが、絶対に勝てない。いいから黙って首を縦に触れ。お前らの仕事の内容は変わらん。土いじりや内勤の仕事もしたけりゃある。着る服の色が変わるだけだ」 「でもそうしたら、他のインターフェイスとか情報体の人たちはどうなるの、僕たちの会社の」 「どうでもいいだろ、そんなこと。やつらもおれたちのことなんか気にかけちゃいない」 僕はHID6の目をじっと見つめた。濃い茶色の眼差しにはまだ嘘みたいに温かみが感じられた。 「分かった、会社にこだわりはないよ」 「……おれもだ」 「そうか、よし」 彼は大きな手のひらで僕たちの肩をぽんぽんと叩いた。 ある意味で、嘘ではなかった。遠い昔に死んだ父親がたまたま株主で、シェルターの契約が株主優待に含まれていたという前提なくして僕がオレンジの作業着を着る理由はない。 「たいへんご面倒をおかけしますが、保安上の理由からお手持ちの武器を回収させて頂いてもよろしいでしょうか」 グレイたちの要請に従い、背嚢から電動銃を取って元同僚に差し出した。振り返った彼がそれを引き渡す。 「申し訳ありませんが、念のため刀剣類もお預かり致します」 「そうだね」 今度はわざと腰を落として前屈みになり、時間をかけて背嚢の中をまさぐりながらナイフを取り出した。また代わりに受け取ったHID6が振り返り、グレイに手渡す。 今の彼は隙だらけだ。 後方のHID45と視線を合わせた。彼は今まさに、背嚢から電動銃を出してもう片方のグレイに差し出すところだった。横顔に浮かぶ不安な目元が、交差すると微かに瞬いた。 やれる。 刹那、僕は背嚢から鋭い塩の鏃を抜き取り、広々とした巨体に突き刺した。塩のモース硬度は二.〇以上もある。実は石膏よりも固い。尖った先端は彼の筋肉の中に吸い込まれるようにして入っていき、手のひらに生々しい嫌な感触を残した。彼の野太い絶叫が辺りにこだまする。グレイたちの注意がそれた。 入れ違いに、HID45が銃身を振り払って構えると眼前のグレイに向けて発砲した。続けて、もう片方のグレイにもエネルギーの弾丸を浴びせる。後には顔を激情に歪めた元同僚が残された。 「お前ら、やりやがったな」 「この件は帰ったら直ちに報告する。覚悟しろ」 銃口を果敢に突きつけてHID45が宣告する。対するHID6は膝をついたまま薄暗く笑った。 「どう報告する。おれの情報体は大株主だぞ。木っ端インターフェイスどもの証言など」 「いや、実はずっと証拠を記録していた。これがカメラだ」 胸元のポケットからわずかにはみでたレンズを指先で叩いて示すと、彼は笑いを止めた。そしてごく静かな物腰で「そうか、やるな」とつぶやいた。 だが、次の瞬間。 すばやく立ち上がった彼は自らの巨体から塩の鏃を抜き取り、HID45に襲いかかった。片手で容易く銃身を押さえつけた直後、明後日の方向に振れた銃口からエネルギーの塊が何発か飛び出して虚空に消える。役目はそれで終わりだった。彼の右手に握られた突端が同僚の首元に深々と突き刺さる。一回、二回、三回。首筋からどばどばと吹き出した鮮血が作業着をたちまちレッドに染め上げた。事切れた死体をボロ布でも放るようにして投げ出すのを見た途端、僕は電動バイクに向かって一目散に駆け出した。

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幸いにも、グレイたちの電動バイクは僕の背丈にもよく適応して動いてくれた。またがってハンドルをひねった瞬間、まるで自律的に銃身を保っているかのようにまっすぐ走り出した。多少の荒道をものともせず進み、振動もほとんどない。流れゆく景色はさほど時間が経たないうちに濁った白の地平線に置き換わった。滑らかな擦過音と響く風のうなりに紛れて、背後から運動エネルギーの弾道が空気を切り裂いてやってくる。 ハンドルを強く握りしめながら振り向くと、HID6も電動バイクを駆って迫ってきていた。大型の電動銃を片手で器用に操りながら銃撃を重ねる。僕は時々、左右に車体を揺らして射線をずらして対応した。しかしこれこそが元同僚の狙いに違いなかった。直線に移動し続ける物体と多少なりとも蛇行する物体では、走行性能が同等なら次第に距離間隔が縮む定めにある。 やがて当初のリードは段階的に縮小していき、一〇〇メートル以上はあった間隔は五〇メートル前後にまでチヂミ、電動バイクのタイヤが再び土を踏む頃には叫び声が届くほどになっていた。事実、後方から彼の怒声が聞こえた。 「やっぱり背中を撃つのが一番楽しいな!」 まばらに広がるソーラーパネルの群れを通り抜け、辛くもシェルターの前に車体を滑り込ませると運良く隆起していた入口に走り込む。転がるようにして階段を降りて扉の先の細い通路を全力で駆け抜けた。あと数歩で曲がり角にたどり着くというところで、背後から追いついたエネルギー弾が僕の脇腹を切り裂いた。痛みと衝撃に思わず身体を壁面に打ちつける――真新しい血痕が壁にこびりつき、垂れた血が床をしたたかに汚した。血の汚れをきれいにするのはとても面倒だ。内勤のインターフェイスに申し訳ないことをした。 意に反して力が抜けた全身を引きずりながら廊下を歩き、本来のルーティーンを省略してチェンバー室に向かった。この状況では勤務査定など受ける間もなくカメラを取り上げられる。僕の身を守ってくれるもの……それはチェンバー殻しかない。よろよろとした足取りで手前の殻を叩くと、手のひらの血が表面にべったりとくっついた。せり出した殻が開ききる前に身体をねじ込んで閉塞処理を開始させる。 殻が閉まるか閉まらないかの瀬戸際、強化ガラスを隔てて汗と血にまみれたHID6が目の前に現れた。強く殻を叩くも、一度誰かが入ったチェンバー殻が開くことはない。 じきに、今すぐ殺せないことを悟った元同僚は不敵な笑みを浮かべてガラス越しに叫んだ。 「それで勝ったつもりか? 言っておくがな、おれは仕事を選べる。今から勤務査定に戻って、次の仕事にお前を指名して入れる。後で拒否しようが解凍される時は一緒だ。せいぜいよく眠っておくがいい……十キロは走らせるからな」 悠然と立ち去っていく相手を見送りつつ、僕は殻の中で金切り声をあげた。 「なあ、聞こえただろ! 助けてくれ! 見ただろ、あいつは僕を殺すつもりだ!」 〝分かっています。しかし現状ではHID6に重罰を課すことはできません。シェルター内のラインに映っている範囲では危害の直接的な証拠は確認されていません〟 彼女の声が殻のスピーカーを通して反響する。きっと彼は最後の銃撃を吹き抜けの細い通路から放ったのだろう。あそこにはラインがない。 「くそっ、証拠はここにあるんだ。全部撮ったんだ」 胸元のカメラのスイッチを押した。ランプが二回光って消灯する。録画完了だ。後は観る人さえいれば……。 〝そこから私が回収することはできません。適切に納品されなければ〟 目の前が霞んできた。もう満足に声も出せない。 「今、ここから出たら死んでしまうよ、ていうか、もう、眠い……動けない」 気だるげに頭を起こして傷口を見やると、殻が血で満たされるのではと錯覚するほど血があふれ出ていた。 「冷凍、冷凍してくれ、頼む」 その声には彼女ではなくチェンバー殻のシステムが応答した。湾曲したガラスに文字列が二行にわたって並ぶ。 <警告。着衣状態では正常な冷凍が行われません> <警告。バイタルに異常を検知。正常な冷凍が行われません> 「いいから、冷凍……なんとか、してくれ」 <強制冷凍シークエンス開始。本プログラムについて弊社は一切の法的責任を負いません。この件における免責事項をよくご覧頂き……> 彼女の声はもう聞こえてこなかった。文字列の続きも読めない。不思議と、いつもは不気味で仕方がなかった後頭部にドライバが差し込まれる感覚が妙に心地よかった。 夢は見ない。冷凍されている間の脳みそは当然ながら細胞単位で活動が停止しているため、電源を落としたコンピュータと同等の状態に至る。電源がないコンピュータが電気羊の夢を勝手に見ないように、僕たちの意識もまた諸神経の挙動に合わせて連続的に再開される。次に目が覚めた時、湾曲したガラスの表面に示された文字列がにわかに僕の恐怖を細胞単位で呼び起こした。胸の高鳴りと警告音が並走する。 標準入力インターフェイス11接続処理中 「待て、待ってくれ、出さないでくれ」 必死の哀願を無視してシェルター殻が前にせり出していく。ガラスを引き戻そうと突き出した腕が無慈悲にも空を搔く。そこで、僕は並ならぬ違和感に気がついた。 視界に映る浅黒い隆々とした腕はどう見ても自分のそれではなかった。顔を傾けると、肩口にはさらに盛り上がった筋肉が配されていて、あれほど血を流していた脇腹にも傷口はなかった。代わりに背中に鈍い痛みを感じた。 正面に向き直ると、ガラスの表面に自分自身の姿が反射して映り込む。 黒々とした逞しい顔つき、鎧のような巨体は、明らかにHID6そのものの姿だった。 「これは、一体……なにがどうなって……」 前に踏み出すと丸太のような両脚が即座に応じた。チェンバー室の中央では、ちょうど対面に狼狽した様子の男が棒立ちしているのが見えた。僕の姿を見た途端、目を見開いて叫んだ。 「お前、お前か、お前があのガキか」 少々高い声で訴えるその男の口調にはひどく心当たりがあった。 「まさか……HID6なのか」 口を衝いて出た音は野太く低く、とても自分のものとは思われなかった。 どういうわけか肉体が入れ替わったのだ。 「返せっ、おれの身体だろ、返せっ!」 突如、平静を失ったHID6が突進してきた。彼の元の身体には及ばないとはいえ、中肉中背の成人男性の肉体だ。以前ならひとたまりもなく吹っ飛ばされただろう。しかし、今の僕にはまるで止まっているように見える。向かってきた全身を片手で受け止めると、彼の動きは簡単に封じられた。信じられないものを見る目が僕を見つめた。 太い腕をぬっと突き出して首筋を掴む。そんなに力を入れていないのに目測で一七センチメートルはゆうにありそうな成人男性の身体が宙に浮いた。HID6は足をじたばたを震わせて口元から途切れ途切れに声を漏らした。 「待て――おれは、お前を――」 ぐっ、と一息に力を込めると、あっけなく首の骨が割れた。ビクンと一回だけ大きく痙攣した元同僚はそれきり、二度と動かなくなった。 床に死体を投げ出して左右のチェンバー殻を目で探る。ほどなくして、元の自分の肉体が収められていたものを発見した。 その肉体は青く霜の吹いた生気のない顔で横たわっていた。流れる血液ごと凝固して固まっている様子はいっそ芸術的でもあった。殻の表面に静かに触って開くと、かつての自分の胸元に聖遺物の神々しさで佇むカメラを回収した。 せめて服くらいは着なければ。ロッカー室でHID6の服を拝借して着ていると、天井から大音量で放送が流れた。 <当施設の経営権は弊社に移行されました。標準入力インターフェイスの皆様はただちに業務を中断してください。ただいまより有給休暇と致します。繰り返します……> 廊下に出ると、そこには異様な光景が広がっていた。警告灯という警告灯が光り、ただでさえひび割れまみれの壁には大小の細かい穴が穿たれ、至るところに死体が転がっていた。会議室に向かうまでの間、ワンダースにものぼるインターフェイスの残骸を目の当たりにし、先の放送も同じくらい繰り返された。 会議室の中でイヤホンをつけると――この場合、HID6のユーザに接続されるのでは、と懸念したが――問題なく彼女の声が聞こえたので安堵した。 〝ああ、無事だったんですね、良かった……〟 「聞きたいことは山ほどあるけど、まずはこれを」 カーゴにカメラを引き渡すと、しばらくしてあたかも事前問答集を用意していたかのような滑らかさで彼女は説明を始めた。 〝あなたの元の身体は冷凍に失敗しました。着衣状態に加えて手の施しようもないほど失血していたのです。ですが、脳の方は無事でした。こうした状況下の時、システムは自動的に適合する代替の肉体を検索します〟 「それが……HID6の身体だったのか」 〝もちろん、自然にそうぴたりとは決まりません。私が細工をして優先順位を最大に引き上げました。彼は――HID6は、あなたを次回の拡張入力に指定していました。かなり短い間隔です。もしそうでなければシステムはもっと時間をかけて競合しないボディを探したでしょう。平たく言えば、自滅したようなものですね〟 過剰な殺意を持て余したばかりに自分自身の身体によって滅ぼされる。まるでおとぎ話みたいだ。 「じゃあ、録画の方はどうなんだ。これでどうにかなるの?」 今度は回答までにずいぶん時間がかかった。 〝大変でしたね。本当によく頑張りました。……けど、事態を解決するには間に合いませんでした〟 「さっき、廊下に死体がたくさん転がっていたね」 〝あなたが冷凍されている間、競合他社が敵対的買収を仕掛けてきました。我々は多数の標準入力インターフェイスを防衛に投入しましたが、相手の装備と物量には敵わず、ついに侵入を許してしまったのです〟 「え、じゃあ」 〝そうです。相手方にも相応の損害を与えましたが、もはやこのシェルターに防衛能力はありません。主だった株主たちも競合他社が用意した衛星通信経由のネットワークリンクを通じて、株式の売却と引き換えに転職していきました〟 HID6の企みはたった一人のものではなかった。この会社はとっくに存亡の淵に立たされていたのだ。 〝現在、敵集団は最下層に向かっています。私がエレベータを封鎖したので階段を使っているようですが、いずれサーバ室にたどり着くでしょう。これは、あなたにとっては好機です〟 「どうして?」 〝生き残ったセンサ類を確認したかぎり、地表に不審な熱源反応はありません。私が今から培養プラントとエレベータを動かしますので、この隙に地上に脱出してください〟 「脱出って……その後はどうすればいいんだ? 君はどうなるんだ?」 〝限りある資源は大切にしなければなりません。なるべく多くの備蓄食糧を持って、外で生きて下さい。私はじきにサーバごと接収される定めです〟 「そんな、今さらそんなこと言われても」 外には塩しかない。問題を先送りにできる冷凍冬眠設備と、原材料も製法も不明のまずい食糧と水がなければ僕たち標準入力インターフェイスは三日と生きられない。備蓄食糧を山ほど持っていっても、その三倍も持てば良い方だ。 〝他に手はありませ――下がって!〟 耳をつんざく彼女の悲鳴に似た絶叫に反応して飛び退くと、扉越しに銃撃が打ち込まれた。さっきまで立っていた床の辺りに小さな穴がぼつぼつと穿たれる。直後、グレイの作業服を着たインターフェイスが会議室に入り込んできた。 ちょうどよく視界外に退避していた僕は、横から銃身を掴んでねじり上げた。逞しい上腕が繰り出す筋力は容易く相手から電動銃を収奪せしめる。有無を言わさず制した相手へ銃弾の返礼をお見舞いした。 〝どうやらシェルター内を周遊している敵もいるようです。さあ、もう行ってください〟 彼女に言われるまま、僕は自分のロッカーから背嚢――もう一個あって助かった――を取り出して、培養プラント室で可能なかぎり飲食料を詰め込んだ。結局、最後の最後まで彼女におんぶに抱っこだった。身体ばかりでかくなっても、なに一つ成し遂げた感じがしない。電動銃を構えながら壁伝いに歩くと、確かにエレベータが降りてきた。地上階に上がるまでの間、彼女とぽつぽつと会話を交わす。 「どうせこうなるなら、なにもしない方が良かったのかなあ」 〝しかし、おしなべて行動が善とされるのは標準入力インターフェイスのみが持つ美徳ではないですか〟 「君たちは違うのか」 〝私たちは思考だけの存在ですからね。いつも考え事をしていると行動に価値を見いだせなくなります。議論ばかりに計算資源がかさんで……結果的には、それが停滞の原因でした〟 幅広で頑強な手のひらを見つめる。あれほど嫉妬して恨んでいたHID6を殺しても、なんの感慨もない。心に響くものはなにも訪れなかった。かえって立場を不利にしただけだった。素直に「転職」に応じていたら今頃はグレイの作業着を着て好きな仕事を楽しんでいたのだろうか。 「失敗するよりはそっちの方がいいかもね」 〝どうでしょう。議論の余地はありますね〟 地上階に着いた。いくぶん警戒しながら細い通路を渡ったが、敵の姿はない。あれほど巨大で頑丈そうだったハンドル付きの扉は真正面から破れた布みたいな形で無造作に壊されていた。危険室の入口から階段を覗く。本当にこのまま地上に出られそうだ。 ノイズ混じりに彼女の声が聞こえる。 〝最後に確認をしましょう。ちゃんと背嚢は持ちましたか? 必要なものは揃っていますか? 汎用的ソリューションを携帯していますか?〟 僕が本当に一泡吹かせたかったのは。 次の瞬間、踵を返して細い通路を渡り直していた。エレベータに乗り込んで最下層のボタンを押す。遅れて、当惑した彼女の声が届く。 〝なにをしているのですか? 一体――〟 「やり残したことがある。まだ君に一泡吹かせていない」

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