salt/合同誌企画作品.md
2024-08-21 19:25:29 +09:00

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仮題:標準入力インターフェイス
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記憶に連続性があると言っても、この場合は少々あてにならない。冷凍と解凍を繰り返すたび、私の長期記憶は次第に揮発していって今や覚えていることの方が少ないからだ。一番最初に解凍させられた時はまだ身も心もフレッシュだった。まるで瑞々しい葉野菜のよう。シェルターに迎えられた当時の記憶も明瞭に残っていたから、さぞ地表は芳しい草花が生い茂り人類の帰還を讃えてくれるのだろうと思っていた。あるいは地表に街ができていてもおかしくないとさえ期待した。ロンドンはニューロンドンに、トーキョーはニュートーキョーに。誠に遺憾ながらニューヨークはこの命名規則だとニューニューヨークになってもらうしかない。
ところが、チェンバー殻の表面に表示された文字列はたったの一言。
〝貴殿は我々の標準入力インターフェイスに再定義された。以後、HID1と呼称する〟
ところで、活動状態の肉体はたいへん燃費が悪い。一〇〇〇人の人間をまともに生きながらえさせようとすれば、膨大な備蓄食料、清潔な飲み水、空気、そしてそれらを支える大がかりな施設や循環システムを要する。じきにそういった代物は宿命的に老朽化を余儀なくされ、修理するための資材や人員、教育や訓練、果ては指揮系統を円滑化する官僚気候や社会階層までもが求められる。尻に火が付いている人類にとってはあまりにも考えることが多すぎる。
そこで我々は情報化を選んだ。元の肉体を問題解決後のために冷凍保存し、思考する精神を地下深くのサーバに移行する。ただ眠りこけていては例外的事象に対処できないからだ。シェルターの内外に張り巡らされたセンサをもとに情報体と化した技術者たちが日々分析にあたる。彼らにはラザニアもコーヒーもマウンテンデューもいらない。地表が未曾有の異常気象に見舞われている環境下で水源を濾過し続ける方法を検討するよりも、深宇宙探査機用の原子力電池一つの方が安上がりで手っ取り早い。当時、情報化はすでに革新派の間では取り入れられていたライフスタイルだったが、ここへきて初めて一挙に普及したと推測される。どの会社のシェルターも似たりよったりのプランを提供していたからだ。ちなみに、肉体を冷凍保存せず移行と同時に廃棄する下位プランは比較的安い。
私がこうして覚醒できているということは、情報体の私が別個に存在していてしかもその私は技術者優待を受けられる身分だったかもしくは金持ちだったのだろう。情報体の人々が私を都度呼び起こす理由は様々だが、センサでは捉えきれない気候変動のモニタリングや実際のサンプルを持ち帰る地質調査が大半を占める。なんの前触れもなく解凍されると地上に出ていき、仕事を終えると再び冷凍用のチェンバー殻に入る。もう何度繰り返したか覚えていない。最初の解凍の時点ですでに地表は人類に好適な温度に下がっていた。だが、情報体の彼らが生身の人間の姿に戻ることはできない。生体脳の中身を情報体に移行できても、逆は行えないからだ。かつて期待されていた技術革新はついに起こらず、元の肉体は負債に成り下がった。機械の肉体などなお望むべくもない。そんな資材や生産設備はどこにもない。ゆえに私は彼らの標準入力インターフェイスなのだった。使えるものは使わなければならない。私自身、私の処遇には納得している。
今日もまたチェンバー殻の内側で目が覚めた。しかし、いつもとは決定的に様子が違っていた。身体の調子がおかしくて仕方がない。なにより眼前の殻に反射する自分自身の像は、多少湾曲している点を考慮しても明らかに記憶上の自分と乖離して見えた。長期記憶の大半が欠落していても私は確実に女性の性自認を保っているつもりだが、目の前に映し出された姿はどう観察しても男性そのものだ。ぎこちなく手を動かして殻の表面に付着した水滴を拭い去ると、不意に視界に映り込んだ上腕二頭筋がますます肉体の差異を印象付ける。このような性的違和が記憶違いであるとは到底考えにくい。
そんな当惑を無視して殻にはいつもの文字列が表示された。
〝HID1接続完了〟
彼らは私がチェンバーから起きることを「接続」と表現する。まもなく殻が奥手にせり出して開き、そこから出られるようになる。ぎこちなく前に踏み出すと太くたくましい両脚が即座に応じた。チェンバー室の左右に整然と並ぶ大量の殻を見やりつつ、肉体は変わっても染みついたルーティーン通りの軌跡を辿って活動準備に入る。作業服と背嚢はチェンバー室の隣、食事は直進して突き当たりを左の培養プラント室にある。巨大なパイプの排出口から出てくる吐瀉物に似た食べ物は相変わらずなにでできているのか分からないが、活動には不可欠だ。
食事が済むと便意を催す。前回の時に溜まっていた便が腸内活動の再開によって押し出されたのかもしれない。部屋を出て奥のトイレに向かい、便器に腰掛けたところで例外的な困難に直面した。
股の間に生えた男性器が大きすぎて、便器内に正常な排尿が行えないのである。慌てて手で海綿体を抑えつけても、味わったことのない強烈な感覚に圧倒されてとても折り曲げられない。結局、準備が間に合わず尿は弧を描いて便器外の床に放出された。次いで、便意も訪れたためこれ以上の対応はさらに厳しいものとなった。とはいえ、とりたてて問題ではない。次に解凍されてここに座る頃には自然に蒸発しているに違いない。
ちなみに水は流れない。このトイレの水洗装置は2回目の解凍の時以来、機能不全を起こしている。今回も試してみたが、やはり水は流れなかった。情報化までの一時的な設備として用意されたのであろうこのトイレは、六ある便器のうち三つの便器が割れ、残った三つには乾燥した自分の糞が堆積している。順繰りに使っているがいずれは満杯になる。
準備の最終段階。前回より壁面のひび割れが目立つ廊下を歩き、巨大なディスプレイが据え置かれた空間でブリーフィングを受ける。質疑応答もここで答えてもらえる場合がある。中央に置かれた硬い椅子に座ると、特に重心を強くかけていないのに脚ごとひしゃげて木っ端微塵に壊れた。男性体の肉体の重さに耐えられなかったのか、もともと風化していたのか定かではないがいずれにしても直立でのブリーフィングを余儀なくされた。スクリーンが点灯して文字が浮かぶ。いよいよ今回の任務が通達される時だ。
ディスプレイ上に線が引かれて作図が開始された。真円に近い形状をしたそれは円周に沿って周縁から中心点に至るまで細かく溝が彫られている。色は黒、しかし例外あり。直径は三〇センチメートルか一七センチメートル、これも例外あり。中心点には穴が空いている。
〝指示:以上の外見的特徴を備えた音源記憶装置を収集せよ〟
「質問」
反射的に質問要求を投げかける。これまで与えられた指示とはずいぶん勝手が異なる。ディスプレイが暗転してこちらの音声入力を待ち受ける状態に遷移した。
「今回の指示の目的を尋ねたい」
情報空間は満ち足りた世界だと聞いている。あらゆる知覚可能な情報が無尽蔵に手に入れられる世界だ。音源に不足するとは思えない。
返答は迅速に行われた。
〝回答:重大な障害により音声入出力システムに不備が生じている。外部から直接音源を取り入れる形で検証を図りたい〟
「質問」
「つまり、今そちらの世界には音がないということなのか」
〝回答:論理的に存在しているが我々には認識できない状況だ〟
音がない世界というのはにわかに想像しがたい。情報空間ではそれでもテキストコミュニケーションや直接のフィードバックによって意思疎通には困らないだろう。だが、今までなんら不自由のない世界を謳歌していた人間が突然に制約を課されるのは耐えがたい苦しみなのかもしれない。気を取り直して私は他の質問を繰り出した。
「質問、私の今の肉体は変化しているように感じられる。記憶の混濁でなければ意図を尋ねたい」
今度は回答の出力にやや時間がかかった。
〝回答:冷凍装置の不具合により、ハードウェア部分に不可逆的な機能不全が生じた。やむをえず不全箇所を切除、廃棄し、新たな肉体に移行を行った〟
平たく言えば、私の元の肉体は腐り落ちてしまったということだ。落胆すべきか安堵すべきか分からない。もし脳も一緒に腐っていたらこうして説明を聞く機会さえ得られなかった。
ほどなくしてブリーフィングが終わるとエレベータに乗って地上階に移動した。一回にひと一人しか通れないほど細長い通路の最奥には、見えないほど高い天井まで伸びる巨大な扉のハンドル部分が見える。まるで巨人用に設られたそれは情報体の側の操作によってしか開かない。通路の左右にはこれまた見えないほど深い漆黒の闇が広がっていて、何十回と行き交っても手すりを掴む両手の力を緩められそうにはない。
私の到達を見計らったようにけたたましいブザー音が鳴り響き、ハンドルがゆっくりと回転しはじめた。扉の周りの警告灯がちかちかと鳴る。目を突くほどの真っ赤な光線はしかし、たちどころに漆黒の空や底に吸い込まれていく。やがてブザー音は負けず劣らず激しい歯車の駆動音に取って代わり、地鳴りに似た振動と共に扉が天井に向かって開きはじめた。振動に揺さぶられて落ちないよう手にますます力が入る。
たっぷり十数分もかけて扉が解放されると、もう一つの扉が現れる。そこだけ切り取ればマンションの一室に繋がるドアに見えなくもない。先に進むと扉と扉に挟まれた狭い空間に閉じ込められる。機械的な走査処理だ。その先にまたロッカーがある。作業服が置かれている部屋とよく似ているが、ロッカーの中には銃器と弾薬が収められている。その中の一つを握り、弾薬をこめる。今まで一度も使った覚えはない。しかし、彼らはこの道具を〝汎用的ソリューション〟と呼称し、携行の命令を譲らなかった。
そして、ついに地上に出る。私にとっては昨日のことのようだが、きっと数百年ぶりの地上だ。分厚い鉄の扉が背後で固く閉ざされる。気の遠くなるほど長い階段をひたすら登り続けると、シェルターのどんな強力な蛍光灯も敵わない強力な光源ーーすなわち、陽の光が私の顔を眩く照らした。
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