salt/標準入力インターフェイス.md
2024-09-03 22:18:41 +09:00

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1
土や砂の詰まった容器でいっぱいになった背嚢を下ろすと、僕はいつもの場所に腰を落ち着けた。摩天楼を突くほどの巨大ビルがそびえていたという島も、世界でもっとも栄えていたとされる湾岸の街並みも、等しく時間の圧力に押しつぶされて瓦礫の山と化している。遠目に見える半身の立像――かつて自由を讃えていたという――だけがこの辺りで唯一、建っていると言える建物だ。
この前に来た時よりも少し暖かくなっていたおかげか、そこそこ長い距離を往復した割にさほど疲労感はなかった。曇ガラスに似た平らな地面を手でさすりながら、手頃な位置にナイフを突き刺して切り取る。膂力の少ない身体ではずいぶん手間取るが暇はたっぷりある。そうして得た塊からこぼれ落ちた破片を口に含む。しょっぱい。しかしミネラルと塩分の摂取にはこの上なく望ましい。なぜならこれは塩そのものだからだ。
地平線の彼方まで広がるこの平面はかつて海の一部だった。大昔、人類に降りかかった未曾有の気象災害により海水が凍結、凝固し、空を覆い尽くした分厚い雲によって封じ込められ、長い長い年月を経て巨大な塩の結晶ができあがった。歩こうと思えばこのままずっと先まで歩いていける気がする。どこかで塩の層が事切れて水の海に出会えるのかもしれないし、延々と歩いた先に別の島か大陸が顔を出すのかもしれない。仕事として与えられていない以上、そんな長丁場の寄り道は決してできないがこの白く濁った表面は僕に一風変わった洞察をもたらしてくれる。
洞察が深ければ深いほど一心不乱に手が動く。さっきまでは表情のない立方体でしかなかった塩の塊が、ナイフの切っ先で削られるごとになにがしかの文脈を負っていく。ある時には四足の動物を連想させることもあれば、小一時間も経つと人形に変わる。過程を辿るとあたかも生物の進化を表しているようでもある。原初の生命もミネラルと塩と水から生まれたのだった。
高く昇った太陽が傾いで地平線の彼方に隠れはじめる頃、僕の隠れた衝動はすっかり満たされて手元にはなんとも形容しがたい物体が残る。勤務評価を考えるとそろそろ帰宅しなければならない頃合いだ。現に、探索地の方角が同じだったらしい同僚が一人、塩の地面をのしのしと歩いてやってきた。
「またやっているのか」
「やっているよ」
『HID6』と右胸に印字された作業服を着た同僚が、隆々とした肉体すべてで呆れた様子を表現する。体格に優れる彼に与えられる仕事はいかにも大変そうに見え、背嚢は特別に大きく固い金属製でできている。手には電動銃。本来、我々は常に武器の携行を命じられているが、重い割に使う機会がまったくないため僕は毎回忘れたふりをしている。最初は本当に忘れていったのだが、勤務評価になんの影響もなかったので定番のやり口となった。
「それ、言うほど使い道があるのか」
HID6は顔を傾けて意味ありげに口元を歪ませた。
「使おうと思えばな」
要領はいまいち得られないが、あまり詮索するのも無粋だ、と会話を終えようとしたところで巨体の主が隣に並んで座り込んだのが分かった。
「今日はどこまで行ってきたんだ」
おずおずと塩の平面の向こうを指差す。
「あの辺りの対岸まで。片道二時間くらいかな」
「そうか。土いじり専門だったなお前は」
たぶん悪気はないと思うが、それでもどことなく軽んじられた気配がしたので声高らかに反論する。
「地質調査と言ってほしいな。僕が頑張って土を選り分けて拾ってくるから、センサじゃ分からないようなことだって把握できる」
「それがだめだとは言ってねえよ、ただな……」
言いかけたところで、彼は彼で時間が迫っていたらしい。隣の山が隆起して背嚢を背負い込んだ。「色々な可能性を探れってことだ。まだ若いんだから」
知ったふうな口を利いて手を振って去っていく彼の姿が見えなくなってから、僕も造形した塩の塊を背嚢にしまって立ち上がった。最後にもう一度、夕陽の強い光に照らされた固形の海面を眺める。
可能性ってなんだ。僕はこの夕暮れを浴びるだけですごく満ち足りているのに。
徒歩にして約三〇分の地点に着くと、どこかに露出しているのであろう地上のセンサが反応して石畳がめくれ上がった。突如現れた長い下り階段を降りていき、重くて固そうな扉に突き当たる。少し待っていると勝手に開く。
後は流れ作業だ。すれ違うにも困難な細い通路を渡り、規定の手続きに従って成果物を提出する。表示がかすれ気味なモクロディスプレイに映し出された勤務評価は、今回もB。見る前から結果は分かっていた。適切な成果物を持って日が落ちるまでに帰ればB評価が確定する。A評価は一度も取ったことがないが、特に問題は起こっていない。
〝標準インターフェイス11、切断処理に入ってください〟
イヤホンから聞こえる女性の声に従って残りのルーティーンを続行した。
作業着と背嚢とイヤホンを中身ごとロッカーにしまい、脱衣する。施設の最奥に位置するチェンバー室の殻に入り込むと、後頭部を密着させた。殻が自動的に閉鎖されて表面に文字が浮かぶ。
〝切断処理開始〟
途端、深く心地よい眠気に襲われて目を閉じざるをえなくなる。意識が沈む寸前、密着した後頭部にドライバが差し込まれる感覚がかすかにした。
2
一番最初に解凍させられた時は身も心もフレッシュだった。まるで瑞々しい葉野菜のよう。シェルターを訪れた当時の感情も明瞭に残っていたから、さぞ地表は芳しい草花が生い茂り、空は青く澄み渡り人類の復活を讃えてくれるのだろうと胸を踊らせていた。あるいはすでに文明社会が再興していてもおかしくないとさえ期待した。ロンドンはニューロンドンに、トーキョーはニュートーキョーに。誠に遺憾ながらニューヨークはこの命名規則だとニューニューヨークになってもらうしかない。
しかし、初めて目を覚ましたチェンバー殻の表面に浮かんだ文字列はつれない一言。
〝あなたは標準入力インターフェイスとして再定義されました。以後、HID11と呼称します〟
ところで、活動状態の肉体はたいへん燃費が悪い。一〇〇人の人間をまともに生きながらえさせようとすれば、膨大な備蓄食料、清潔な飲み水、空気、それらを支える大がかりな施設な循環システムを要する。じきにそういった代物は宿命的に老朽化を余儀なくされ、修理するための資材や人員、教育や訓練、果ては指揮系統を円滑化する官僚機構や社会制度までもが求められる。尻に火が付いている人類にとってはあまりにも考えることが多すぎる。
そこで、我々は情報化を選んだ。元の肉体を問題解決後のために冷凍保存し、思考する精神を地下深くのサーバに転写する。延々と眠りこけていては例外的な事象に対処できないからだ。シェルターの内外に張り巡らされたセンサ類を基に、情報体と化した技術者たちが日々分析にあたる。彼らにはラザニアもトリプルエスプレッソラテもマウンテンデューもいらない。地表が未曾有の異常気象に見舞われている環境下で一〇〇人ぶんの水源を濾過し続ける方法を検討するよりも、深宇宙探査機用の原子力電池一つの方が安上がりで手っ取り早い。当時、情報化はすでに革新派の間では取り入れられていたライフスタイルだったが、ここへきて初めて一挙に普及したと推測される。どの会社のシェルターも似たりよったりのプランを提供していたからだ。きっとうまくいく。これは一時的な措置に過ぎない。
……はずだったのだが、僕が〝標準インターフェイス11〟なる名称を賜った際に知らされた新事実は以下の通りだった。
一つ、数百年余の年月が経ったが情報体を人間の頭脳に再転送する技術は開発できそうにないこと。
二つ、その一方で地表は人間が活動可能な気候に好転しつつあること。
三つ、よって今後は冷凍保存された人間を都度解凍し、元の持ち主である情報体が適性に応じて入力インターフェイスとして活用すること。
確かに、使えるものは使わなければならない。もともと僕たちの後頭部には脳を取り出しやすくするためのネジ穴が設けられているし、頭蓋と脳の電気的接点はモジュール化されている。これは情報体に移行する際の外科的措置であり、同時に保存条件の異なる肉体と脳を分離するための策だったが、くしくも冷凍と解凍の効率化に一躍買っている。
自分の処遇に納得感があるかと言われれば複雑だ。計画通りにことが進んでいればそもそも「生体脳の方に残った僕」という自我は存在しえなかった。「情報体の僕」の精神に上書きされて揮発する定めだからだ。あるいは、情報体が地上の調査よりも肉体のランニングコストを倦んで一切合切放棄していたら、やはり今の自分はない。
一方で、だから恩に着ろというのもおかしい。誰も自我をもう一つくれなんて頼んだ覚えはない。情報化される際にそんな説明は受けていない。何百年も生きていれば自分の子機を増やしたい気持ちになるのかもしれないが、情報体は自分から枝分かれして遠い先に行ってしまった別人であって、同じように物事を考えるのは難しい。
かといって、自殺する気にもなれない。今の暮らしにもそれなりの楽しみはある。なんだかんだで釣り合いが取れてしまっているのだ。ゆえに僕は標準入力インターフェイスなのだった。
今日もまたチェンバー殻の内側で目覚めた。殻の湾曲した表面にいつもの文字列が浮かぶ。
〝HID11接続処理中〟
彼女は僕が殻を出て身支度を整えるまでの間――モーニングルーティーンを「接続処理」と表現する。まもなく殻が奥手にせり出して開く。チェンバー室の左右に整然と並ぶ大量の殻にはまだ眠りについている「同僚」たちの姿が透けて見える。同僚と言っても勤務体系が年単位でばらばらなので頻繁に会話はできない。前回に出会ったHID6も今は端っこの殻の中で巨体を丸めて安穏としている。
作業着と背嚢はチェンバー室の隣のロッカーの中、食事は直進して突き当りを左の培養プラント室にある。巨大なパイプの排出口から出てくる吐瀉物に似た食べ物は相変わらずなにでできているか分からない。味が食感についての感想は差し控えたい。飲み水は前回より黒ずんでいた。
食事が済むと頃合いよく便意を催す。溜まっていた便が腸内蠕動の再開によって押し出されたのだろう。部屋を出て奥のトイレに向かう。途中、ひび割れた壁面を修理している顔なじみの同僚と出くわす。「おはよう」と挨拶をすると「おお、おはよう」と気さくに返事をしてくれる。「出勤かい?」「うん」「地上の仕事って大変じゃないかい」「僕はそうでもないよ」
僕たちは僕たちで精神体の人々とは異なる言い回しを好んだ。「同僚」だとか「出勤」といったフレーズは、かつて地上世界で暮らしていた頃の名残りで、誰かがふと使った言葉が急速に普及した。他にも色々な言い回しがあるらしい。「最近は勤務評価が厳しくて困るね」見るからに老け込んだ風体の彼は、この短い会話の間にも折り曲がった腰を何度もさすっていた。
標準入力インターフェイスに与えられる「仕事」は適性によって異なる。冷凍された際の年齢が高かったり、なんらかの障害を持っていた場合には地上ではなく施設内の「内勤」に割り振られることが多い。僕は逆に若すぎ、背が低く力もないが代わりに身軽なので外で土や小石を集めている。
トイレの便器は六つあるが、大半は壊れている。運が悪いと便器の中に乾燥した糞が積もっていることもある。ここの水洗装置はかなり初期の段階から破損している。いつまでも直らない様子を見るに、僕たちでは修理しきれない箇所なのだと推定される。適性ある標準入力インターフェイスが糞を片付けるまではずっとこのままだ。
ルーティーンの最終段階。直しても直しても蜘蛛の巣みたいにひび割れが広がる廊下を歩き、巨大なモノクロディスプレイが据え置かれた特別な空間で「ブリーフィング」を受ける。耳にイヤホンを装着すると声が聴こえる――僕をインターフェイスとして扱うユーザ――他ならぬ、数百年前に枝分かれした精神体の僕だ。
〝おはようございます。前回の解凍から二三年経過しました。体調はどうでしょう〟
「問題ないと思うけど健康診断を受けたわけじゃないからね」
〝チェンバー殻のスキャナは一四七年前に電力効率化が策定されて以来、中止されていますからね〟
「それって僕が何回解凍されたあたり?」
〝三回目の後です〟
以前はチェンバー殻が脳みその中身まで走査してメンタルケアをしてくれたというが、今の僕たちは自発的に行っている。「福利厚生の悪い職場だ」などと揶揄する同僚もいた。
「ふーん、ところで飲み水が黒ずんでいるみたいだ。味はともかく健康への影響が気になる」
〝ああ、それは雨水を濾過するフィルタが目詰まりを起こしているんですよ。他の標準入力インターフェイスが処理を実行中です〟
「そうか、それは良かった。あと便器に糞が溜まっているのもなんとかしてほしいかな。誰かが手で掬い続けるのにも限界がある」
〝標準入力インターフェイスに特有の代謝現象は厄介ですね。私たちも解決しようとはしています〟
彼女と話すのは割に楽しいが奇妙でもある。もし僕が冷凍されずに生き続けていたからこうなっていたのか、とか、肉体を持たない精神のみの存在だから肉体のまま歳をとるのとは勝手が違うんじゃないか、とか、普通なら考えないような想像に思いが巡る。とはいえ、どのみち彼女ほど加齢することはできない。今こうして同じ瞬間を生きていても僕は一四歳プラス解凍中の日数なのに対して、彼女は三〇〇歳をゆうに越えている。そのせいか僕がどんなに対等なつもりで話をしても、彼女はまるで親のような態度で接する。それが時々――いや最近はかなり――煩わしい。
「ところでそっちの暮らしはどう? なんか良いことあった?」
〝相変わらずです。あなたの暮らしが先に述べたような欠乏と不足の連続だとすれば、私たちはその逆ですね。安全でとても満ち足りています。だけど、変化はありません〟
肉体を持たない思考だけの生活、というものがどんなものか未だに理解できない。僕たちが何年かかってもいけないどんな場所にも一瞬で行けて、当時の美しい状態の建築物や風景を楽しめる。あらゆる知覚は決して衰えることなく無尽蔵に供給され、空腹も寝不足も欲求不満も存在しない。
そんな楽園じみた世界で暮らしているのに、現実の地上世界に未練があると言う。
「だから僕をインターフェイスとして使っているわけね」
〝あけすけに言えばそうなりますね。では、今回の入力内容ですが……〟
イヤホンから女性の声が一旦途切れると、巨大なモノクロディスプレイ上に線が引かれて作図が開始された。現在地点を中心とした点から方角とおおよその距離が示され、目的の資材に関する文字情報も並ぶ。いつもより遠い道のりだが、うまくやれば今回も塩の塊を彫る時間くらいは余りそうだ。
〝今回は特に食事と水分補給を万全に済ませてください。外気温は一〇度前後ですが、なるべく直射日光も……〟
「はいはい、分かったよ。ところでこれ、なにに見える?」
余計な世話焼きを遮り、背嚢から前回の隠された成果物をお披露目した。天井に取り付けられたカメラがぐりぐりと動いて僕の手元にフォーカスする。
〝……なんの変哲もない塩の塊に見えますね〟
「そうだね。前回、道端で拾ったんだ。僕は面白い形をしていると思ったんだけど」
ほどなくして「ブリーフィング」が終わると彼女は〝接続完了〟を通告し、エレベータに乗って地上階に移動した。細長い通路の最奥には、暗闇の上の上まで伸びる巨大な扉のハンドル部分が見える。あたかも巨人用に設えられたそれは情報体の操作によってしか開かない。通路の左右にも深い漆黒が広がっていて、何十回と行き交っていても手すりを掴む両手の力を緩められそうにはない。
けたたましいブザー音が鳴り響く。ハンドルがゆっくりと回転する。扉の周りの警告灯が放つ鋭い光はしかし、たちどころに周囲の闇へと吸い込まれていく。
やがてブザー音は荘厳な歯車の稼働音に取って代わり、シェルターの扉が地鳴りに似た振動を伴って前方に開く。揺さぶられて落ちないか恐れて手にますます力が入る。
たっぷり何分もかけて巨大な扉が解放せしめられると、もう一つの小さな扉が現れる。そこだけ切り取ればマンションの一室に繋がるドアに見えなくもない。その先には『危険物』とラベルが貼られた小部屋がある。一列に立てかけられた電動銃を無視して出口に急ぐ。
彼女はこれらの武器を〝汎用的ソリューション〟と呼んでいる。後頭部にネジ穴があり、脳を出し入れできる僕たちはあたかもサイボーグのようだが、実際には等身大の岩すら動かせない。だが、僕の行き先にそんなものがあった試しはない。
そして、ついに地上に出る。僕にとっては昨日のことのようだが、実際には二三年ぶりだ。長い階段を登り続けているうちにシェルターの中のどんな強力な光源も敵わない光――すなわち、太陽の光が僕の顔を暖かく照らした。
3
目的地に着くには固形の海の上を渡っていかなければならない。濁った海面に足を下ろす際、重心を後ろに引いておく。地質の変化を恐れる年月ではないが、気温の上昇で塩の塊が脆弱化している懸念は捨てきれない。片足で強く踏みつけ、安全を確かめてからそっと乗り移る。
心配は杞憂に終わり、一時間歩いても塩の地面が揺らぐことはなかった。してみると、これほど巨大な積層は一体いかにしてできあがったのか。
気象災害が引き起こされた原因は地殻変動だとも小惑星の衝突だとも、あるいは化学兵器を交えた世界大戦だとも言われている。情報体の人々の間でも結論は出ていない。塩の層は急速に冷えて分離した塩分が凝固してできたものと推測されている。だとすれば、その時の地上は生けとし生きるものにとっては致命的だったに違いない。こうして幾度となく外に顔を出しても「地上人」だとか「新人類」といった、サイエンス・フィクションじみた超人と出会わないのも、ひとえに生き残った知的生命が僕たちだけであることを示唆している。
人類の栄華が終わったその日、僕は両親に連れられてシェルターにやってきた。二人とも途中でなにが起こってもおかしくないと用心に用心を重ねていたが、幸いにも暴徒や銃弾は車に向かわず全員とも無傷だった。しかし、家族全員ぶんのチェンバー殻があると期待していた両親に対して会社が提示したのは、情報体に移行可能なのは株主当人のみ、すなわち父一人だけという条件だった。
父と母はほんの一回、二回、互いに目配せをした……それは記憶に残っている。直後、たちまち僕はチェンバー殻に押し込められ、長い長い眠りについた。後で情報体の僕に聞かされた話によると、両親はその場で自ら死を選んだ。死ぬことによって持ち株を僕に相続させ、同時に情報体に移行する権利をも移譲したのである。まるで絵に描いたような感動ストーリーだ。
だがそんな両親とて、数百年後に息子の自我が増えて片方が娘になっているとは思わないだろう。もし二人が生き返ったらたぶん、自分の子どもだと見なすのは僕の方だ。あの時から見た目も中身もほとんど変わっていないからだ。でも、法的には彼女に正当な権利が認められるだろう。幸いにも、依拠すべき法律も裁判所も消滅したおかげでこの問題を永久に棚上げできる。
太陽が頭上を通り過ぎて傾きかけた頃、ようやく濁った白ではない色の地面に足が届いた。かつて、この辺りの湾岸地帯には建造物が多かった。石造りの建物は数百年経っても完全には風化せず、地下に資材を蓄えている場合がある。崩れた家屋らしき外壁と周囲の状況から、それと見込んだ地点の瓦礫を取り除くとマンホールが現れた。蓋を開けた先には溶接された簡素なはしごが見える。
距離はさほどでもないのにシェルターから地上に出るエレベータと同じくらい時間をかけて最下点に到達すると、朽ちた棚が左右一列に続く保管庫らしき空間に突き当たった。手は込んでいるが国家や大組織が運用するほど立派な代物ではない。金持ちで心配性の人が拵えた設備だろう。棚からこぼれ落ちて地に伏した銃器の数々は、どれも先端が折れ曲がっていたり錆びついていたりした。どうやら持ち主には使う暇がなかったようだ。
目的の物品はここではなく鉄扉で隔たれたさらに奥側にあった。鉛の容器の中に収められていた目標物はブリーフィング通りなら劣化ウラン弾ということになる。しかし弾丸としては使いものにならないらしい。ディスプレイには内部に含有されているウラン238が目当てだと記されていた。
さっそく、容器から持てるぶんの劣化ウラン弾を包みごと慎重に取り出していく。この包みに放射線を抑える加工が施されていることを祈るばかりだ。
「おい」
背嚢を埋めるのに十分な弾を収めたところで、背後から声がかかった。作業に集中するあまり耳が遠くなっていたのかもしれない。振り返ると胸に『HID39』と印字された標準入力インターフェイスが立っていた。どういうわけか作業服のカラーリングが違う。僕たちはみんなオレンジの服を着ているのに、彼はブルーだ。
「おや、もしかして君もこいつを集めにきたのか?」
とはいえ、なるほど合点がいった。僕ひとりでは運びきれない状況を見越して複数のインターフェイスに仕事が割り振られていたようだ。そそくさと背嚢を抱えて部屋の隅にずれ、手招きして回収を勧めた。だが、HID39の視線は僕から動かなかった。そのまま背中の背嚢をどすんと強く下ろして口を開く。彼の背嚢は大きくて丈夫な金属製だった。
「私はそこにあるすべての劣化ウラン弾を回収せよと指示されてきた」
「えーと、すべて、というのは? そこにある量では足りない?」
「お前が背嚢に入れた分も含めてだ。全部よこせ」
自分よりずっと背の高いがっしりした身体が一歩前に迫った。
ここへきて僕はようやく自分が脅されているのだと悟った。表情に害意のなさを強調して笑みを浮かべつつ、ゆっくりと後ずさる。
「いやはや、それは……勘弁願いたいね。こっちも同じ仕事を指示されているんだ。分かるだろ?」
「私の知ったことではない。目標物を納品できなければ勤務評価に影響が出る」
相手がさらに一歩踏み出したので、僕も同じ距離だけまた後ろに下がる。文字通りの営業スマイルがひきつりだす。
「それはお互い様じゃないか――そうだ、どうだろう、ここは一つ、半々で分け合ってそれで全部だったという話にするのは……」
HID39は会話を続けるのに飽きたのか、とうとう背嚢から取り出した電動銃をまっすぐ突きつけてきた。
「無事に帰りたければ今回の勤務評価は諦めるんだな」
結局、背嚢に詰めたばかりの劣化ウラン弾がまんまと移し替えられるまで、僕は身じろぎ一つできなかった。電動銃を抜きにしてもどのみち14歳プラス解凍中の日数が敵う体格の相手ではない。
「なあ、あんた」
用を済ませるやいなやろくに口も利かず踵を返した彼に震える声で尋ねた。
「これまで仕事のバッティングなんて一度もなかった。一体どう報告すればいいんだ?」
彼は顔半分だけ振り返ってぼそりと言った。無表情で抜け目のない顔に嘲笑の色が宿る。
「そのまま報告すればいい」
最後に命じられた「しばらくマンホールから出るな」という指示を愚直に守って空虚な部屋に佇んでいると、とてつもなくやりきれない気分になった。地下で人肌に温められたぬるい空気に独り言が漂う。
「汎用的ソリューションって、確かにそうだな」
中身がほとんど空の背嚢を背負っているせいで身のこなしが軽い。日が沈むまでの時間はありすぎて困るほどだ。あてどなく探して運良く劣化ウラン弾が見つかる幸運などあるはずもなく、今回の勤務評価が最低で終わると確定したからにはせめて趣味を楽しまないといけない。
地上と地上を結ぶ凝固した海面の中間点、四方八方が見渡すかぎり濁った白の平面上で、一心不乱に塩を削いだ。手に力が籠もりすぎているせいか、どんな塊も文脈を負う前に細切れと化してしまう。言うまでもなく、僕はいらついている。身体が子どもだから金属製の背嚢を持つような大変な仕事を任せてもらえないし、僕の作った塩の彫刻は彼女に理解されない。僕だって理屈で彫っているわけじゃないから無理もないのだが……。
気がつくと濃い橙色の光に照らされて塩の地面に火が灯ったかのような光景が広がっていた。まるでろうそくみたいだと思った。手には塩を削るナイフと同じくらい、いや、それよりも鋭い鏃に似た彫刻ができている。ひょっとするとこれは僕の破壊衝動の表れなのだろうか。彼女に見せるには文字通り刺々しくて気が進まない。
なんにせよ、せめて帰還の予定時刻は最低限守らなくてはならない。
のろのろとシェルターに戻り、切断処理を始める。モーニングルーティーンの逆を行うのだ。最後に待ち受ける勤務評価――ディスプレイ上には〝性能評価〟と記されているが――は、納品物がないため当然ながら最低のD評価だった。イヤホンを耳にくっつけて彼女の言葉を待つ。
〝おや、今回は残念ですね。目標が見当たらなかったのでしょうか〟
「いや、見つかったし持ち帰るはずだった」
口を開いた瞬間、味わった恐怖がたちどころに怒りに兌換されてどんどん語気が強まった。
「そいつはブルーの作業服を着ていた。一体どういうことなんだ、仕事のバッティングなんてありえるのか。D評価は僕のせいじゃない。そいつのせいだ」
イヤホンの向こう側でしばらく沈黙が続いた。齢三〇〇歳か五〇〇歳くらいの彼女にしては珍しい。やがて、意を決したような低いトーンでしゃべりはじめた。
〝分かりました。ちゃんと説明しましょう〟
正面のモノクロディスプレイが性能評価画面から遷移して周辺の地図が描き出される。それ自体はブリーフィングのたびに見ているものだったが、いつもより縮尺が格段に広く、陸地がいくつもの配色で細かく色分けされていた。
「これは……」
〝勢力図です。私たちの、我が社の、競合他社のです〟
よく見ると下の方にオレンジ色で区分けされた範囲もあった。いくつかの色と比べると目に見えて領域が狭い。
このシェルターが株式会社の所有物で、精神体の人々が株主ないしは技術者だというのは既知の事実だ。他のシェルターの構成員も似たりよったりなのは間違いない。こうした巨大な建造物や組織の運用は僕が生まれるずっと前には国が担っていたそうだが、今ではどこも会社がやっている。学校も会社、警察も会社、軍隊も会社、しまいには政府が会社の国もできた。一四歳で働いたことのない僕にはそれが良い話なのかよく分からなかった。今もよく分からないが、両親がよく不満を漏らしていたのは覚えている。
〝どの競合他社も精神体を生体脳に戻す技術を開発できず、我が社と同様に元の肉体を標準入力インターフェイスとして活用しているようです。現行の法解釈ではインターフェイスは操作盤であって人間ではないため、競争の過程で全損を伴う実力行使を加えても重罪には問われません。権益を確保して、然るべき利潤を得た後に保証を提供しても割に合うとの考えなのでしょう〟
「競合他社だといっても同じ人類じゃないか。協力しあえないのか」
〝増産できず減る一方の資源を収集するしかない現状では、難しいですね。株主総会でもたまにそういった提案が上がりますが〟
そこで彼女は揶揄するように声色を変える。
〝毎回否決されています。私も株主ですが会社全体の意思決定には従わざるをえません〟
つまり、僕と同じく標準入力インターフェイスの番号列を宿したブルーの彼は、インターフェイスとして忠実だったと言える。下手に出た相手にもまったく譲歩せず資源を奪い尽くした。それだけじゃない。余計なコストも削減した。肉体的に劣っていて、武装もしていない相手には電動銃一発分の電力さえ惜しいというわけだ。
そう考えると、一度は滅入った気分が再び燃え盛るのを感じた。
〝しかし今後は心配いりません。今回の件は私の誤りでした。あの地点は周縁部とはいえ我が社の領域内だったので支障はないと考えていましたが、次はもっと適性に合う範囲の入力を心がけます〟
「いいや」
反射的に、僕は背負っていた背嚢をひっくり返して中身を床にぶちまけた。そこから例の尖った塩の塊を拾い上げて高々と掲げる。天井のカメラが動いて手元に焦点を合わせる。
「さっき言い忘れたことがあった。僕はこれでそいつに反撃したんだ。本物のナイフと違って隠しやすいからね。だいぶ深くえぐったから、もしかすると資源を運びきれず途中で死んだかもしれない! そうしたら、僕たちも損をしたけど、相手の会社にはもっと損をさせたことになる。 そうじゃないか?」
勢いよくまくしたてた僕に、イヤホン越しの彼女が珍しく気圧されたふうに答える。
〝……それはまあ、そうですね〟
「だから僕にだって適性があるんだよ。もっと遠くに行かせてくれよ。世の中が――といってもシェルターと塩だけの世の中だけど――そんなことになってるなんて知らなかった。なにも知らないまま土いじりだけして生きるなんてごめんだ。僕の可能性を信じてくれ!」
いつしか僕は二三年前に巨体で逞しい同僚が発した言葉をそのままなぞって喋っていた。話したことは完全に作り話だが気持ちは本当だ。嘘偽りのない嘘だ。
〝私としては気が進みませんね。私のその肉体は未発達で、高度かつ複雑な入力に耐えられる仕様ではありません〟
「なに言ってるんだ、今は僕が使ってるんだから、身体のことは僕が一番よく分かっている。まさか今からでも上書きしようなんてつもりじゃないだろうな」
あえて見当違いの指摘をしたのが効いたのか、イヤホン越しの声が妥協を示した。
〝そこまで言うのならいいでしょう。適性に修正を加えた上で、次回の入力を検討します〟
僕はいつもより大股開きでチェンバー殻に向かった。僕たちは競争をしているんだ。より難しい仕事をしなければ置いてけぼりを食ってしまう。そしていつか無知なまま死ぬ。ブルーの作業服を着た競合他社のHID39はその気になれば簡単に僕を殺せた。
興奮が全身に滾るなか脱衣も忘れて殻に入るとすぐにアラートが鳴り、正常に冷凍が行えない旨の警告が表示されたので急いで来た道を戻る羽目になった。
4
解凍されて殻から這い出ると、目の前に山のような巨体がそびえていて困惑した。モーニングルーティーンにはない事態だったので思わず立ち止まってしまう。頭上から聞き覚えのある野太い声が降り注いでそれが初めてHID6だと分かった。
「なにボサッとしてるんだ。行くぞ」
なぜ彼が一緒に解凍されているのか、どうして命令されているのか納得いかなかったが溶けたてで思考力がまとまらない現状ではおとなしくついていく方が無難と思われた。後に続いて更衣室に入ると、彼はてきぱきと着替えて金属製の背嚢を軽々と背負った。肉体に恵まれた者への嫉妬と羨望と綯い交ぜにしつつ他人事の態度で自分のロッカーを開けた途端、そこに同型の背嚢が鎮座していたので再び面食らった。しかし、自分のロッカーに入っている以上はこれが僕の持ち物だ。いつもより苦労して身支度を整える頃には、HID6はすでに食堂で大量に食事を摂っていた。
せめて遅れまいとせかせかして食べ終えると、隣のパイプ下にいる他ならぬ彼から声がかかった。
「おい、詰めて持っていけ。忘れてもおれのはやらんぞ」
彼は言行通り、金属製の背嚢から取り出した容器に食事と水をそれぞれ保存していった。呆気にとられて見ていると、ようやく巨体の主は事情を説明する気になったらしい。手を止めて向き直った。
「まだ話を聞いていないようだな。お前は今日、おれと一緒に仕事をする。ただの仕事じゃない。『出張』だ。一日じゃ終わらない。だから食糧と水を持っていく。分かるな」
聞き慣れない文脈の単語が出てきた。特定の標準入力インターフェイス間で用いられている言葉だろうか。僕にとって「仕事」とは日が落ちる前に済ませて帰ってくるものという認識だった。日をまたいでも続けなければならない仕事など想像もつかない。だが、きっとそれが「出張」なのだろう。前回の勤務評価の時にとった行動が今回の特別な仕事を導いたのは間違いない。
つまり、僕はその方面の適性があると認められたのだ。より多くを知るであろう職域の。
今回は便意がなかったのでトイレはパスした。HID6が戻ってきた後、一緒にブリーフィングを受ける。彼が言った通り、ディスプレイに図示された目的地はいつもの三倍は遠かった。片道だけでも日が暮れてしまう。目標の納品物はタングステンだという。前回に見た「競合他社」の勢力図を思い出すかぎり、他の拠点から容易に到達可能な距離だと推定できた。
「質問」
イヤホンを耳にくっつけたHID6が短くしゃべると、なぜかモクロディスプレイが遷移して文字列が表示された。
〝回答:質問待機中〟
「今回、複数のインターフェイスを併用した入力となるが、特別なリスクは存在しないか」
〝回答:特になし。インターフェイスのうち片方の仕様を斟酌して、キャリブレーションを目的に危険度が低い入力を与えている〟
「では、あえて適性がないインターフェイスをこの種の入力に採用した目的は」
〝回答:前回の性能評価時に適性の修正が行われたため、試験運用を実施している〟
浅黒い面長の顔が僕にちらりと向いた。微笑んでいるようだった。
「質問終了」
〝回答終了〟
そっけない指示にディスプレイも似たりよったりの淡白さで消灯した。いつまでも彼が見つめているのでつい気になって目を合わせると、ようやく口を開いてくれた。
「お前も情報体の自分に質問しておいた方がいいんじゃないか。初めてならなおさら不安だろう」
「いや……いいよ。必要がなくなった。実は同じ質問をしようとしていたんだ」
努めて平静を装って答えたが、真っ赤な嘘である。本当は彼女ととても話したかったし、責任ある仕事を与えてくれたお礼も言いたかった。気兼ねなく雑談もしたかった。彼女はきっと励ましてくれるだろうし、とにかく声も聞きたかった。イヤホンをつけて一言でも話せば、それは即座に叶う。
でも、HID6にそんな振る舞いを見せるのは嫌だった。彼と情報体の彼の会話はとてもビジネスライクでプロフェッショナルな雰囲気に満ちていて、僕とはまるきり違っていたからだ。なんだか僕が彼女とする会話がすごく子どもっぽく感じられた。
地上階へのエレベータに乗って細い通路を一列に渡り、巨大な扉が開いた先の危険物室では当然のように一番大型の電動銃を手渡された。
「一応、聞いておくが撃ち方は知っているな」
「初めて解凍された時の訓練講習でやったよ」
裏を返せばそれ以降は銃把を握ってすらいない。
さっきまで悠然と燃えていた新しい職責への熱意も、地上に続く長い階段を上がる頃には恐怖へと変わっていた。
5xx
それでも透き通ったそよ風が吹く地上世界はいつも通り格別だった。金属製の背嚢は確かに重くて辛かったが、歩いているうちに重心のコツが掴めてきた。僕の先を行く山のような巨体の同僚は道連れとしては口数が少なく物足りないとはいえ頼もしくはあった。そんな彼は危険地域の土地勘があるらしく、今は電動銃を折りたたんで背嚢にしまい込んでいる。僕もそれに倣って両手を揺らしながらしばらく乳白色の地面を鳴らして楽しんだ。
今回通っている固形の海の道筋は僕が行ったことのある方向とはだいぶ違っていた。いつもならすぐに陸地が見えたが、今日はいつにも増して晴れている日なのに対岸が朧ろげにしか映らない。太陽が頭上を通り過ぎてもまだ辿り着かず、まだ目的地にも達していないのにとうとう僕の脚は疲労を訴えだした。
自ら休憩を打診するのは気後れする、と意地を張ってさらに歩き続けること数時間。ようやく思い出したように巨体が歩みを止めて「そろそろ補給をとるか」とその場に腰を下ろした。僕は必死で疲労を隠しつつ、むしろ気が早いなとでも言いたげな顔で座ろうとしたが、脚が引きつって体勢を崩してしまい、尻もちをつく形で塩の地面に倒れ込んだ。
「無理すんな」
HID6は言葉少なめに告げて、背嚢から食事の入った容器を取り出すと二の句を続けた。
「お前は初めてにしてはついてこれている方だ。経験者でも文句の多いやつはいた」
「こういう一緒にやる仕事って何回もやったことがあるのか」
見透かされていてもなお余裕を保っていそうな態度を崩さず問いかける。彼は渋い顔をして言う。
「何回もある。むしろ一人でやる方が少ない。二人だけじゃなくて三人とか四人の時もある。数が多ければ多いほど特に危険だ」
「持って帰るものが重くて多いとか?」
どうやら的外れな返事をしたらしい。食事を含んだまま一転、薄笑いをして「それもあるがそうじゃねえ」と切り返された。「数が多い時は敵も多い。大抵は誰かが帰ってこられない」
淡々とした物言いとは裏腹に僕の背筋はたちまち凍りついた。HID39をさらに獰猛にしたような輩がたくさんいるということだ。言われてみれば、戦略的な理に適いすぎている。先に相手を殺してしまえば物資を奪い取れるだけでなく、競合他社の標準入力インターフェイスを減らすことができる。あまり想像したくはないが、接続可能なインターフェイスを完全に失ったシェルターは地上世界に対していかなる操作も行えない。センサ頼りの受動的な分析しかできない。そのセンサさえも一旦物理的に壊れでもしたら一巻の終わりだ。他社との競争において致命的な不利を負うのみならず、情報体の長期的生存をも危うくなる。
「これ、かなり聞きづらいことなんだけど……」
食事の手を止めておずおずと尋ねる。
「僕たちは、勝っているのか? その、競合他社に」
背嚢に空いた容器を片付けていた巨体が一瞬固まったように見えた。少し待っても回答はない。なんだかきまりが悪くなり、僕は急いで自嘲を混ぜ込んだ。
「いや、僕はつい前回、あっさり負けちゃったけど」
「じきに嫌でも分かる」
HID6が立ち上がったので僕も慌てて残りの食事を片付けて背嚢に突っ込んだ。「だが、負けたってのはどういうことだ。逃げて生き残ったのか」金属製の背嚢を慎重に背負い込みながら首を振る。「逃げてすらいない。ブルーの作業服を着たやつが気まぐれで見逃してくれただけだ」こんなふうに言うと侮られるかもしれないが、思わず吐露したくなるほど悔しい事実だった。意外にも彼は白い歯を見せつけて笑った。「気にするな。今度、ブルーの連中にお前を生かしたことを後悔させればいい」
それからの道のりはうってかわって退屈しなかった。補給中の会話で打ち解けられたのか、ぽつぽつと会話を交わす雰囲気になったのだ。競合他社はそれぞれ違う色の作業服を身に着けていて、ブルーもいればイエローもいるという。一度、レッドの服を着たやつを見つけたかと思いきや、それは殺したやつの血で染まっていただけだったなどと粗野な武勇伝を聞かせてくれたりもした。逆に、競合他社の相手から見れば僕たちは「オレンジのやつら」ということになる。
一日たっぷりかけて対岸に渡り、朝方ぶりに土を踏みしめるとなんだか奇妙な感触がした。きっとこれからはこの感じが当たり前になるのだと思った。この辺りでは珍しい丘陵に昇り、下っていき、しばらくするとちょっとした湖に出くわした。案の定、一面が水ではなく塩気を含んだ個体に凝結している。含まれているミネラルや不純物の濃度の関係なのか、こっちの方は幾分か透き通っているように見えた。じきに日が落ちるから野営をするとHID6が言うので、僕は急いで湖の方向に駆け寄って片手で持てる立方体のサイズに塩の塊を削り取った。戻ってくると彼に「お楽しみ用か」と茶化されたので「いいや、このまま持っておく」とついむきになって言い張った。本当は夜のうちに造形するつもりだった。
ちょうどなだらかな傾斜が付いている清潔な地面を見繕い、そこで僕たちは野営の準備を始めた。必要なものは金属製の背嚢に全部入っていた。いかに現在の地表が温暖化しているとはいえ、夜間には氷点下をぐっと下回る。作業着よりも分厚い素材で作られた折りたたみ式の寝袋に入り込むと一転、切り裂くように吹きつけていた寒風が阻まれて全身が温まった。
「ぐっすり寝るなよ、適当な時間で交代だ」
寝袋を器用に巻き付けて身体の自由と防寒を両立させながら彼が言った。手元にはもう電動銃の鈍く光るチャージライトがちらつく。
「本当に競合他社が襲いかかってくるのかな、相手だって眠いんじゃ」
自力で寝るのも起きるのも初めての僕にしてみれば、そんな不確かな挑戦はしないに越したことはなかった。しかし彼は構わず腹ばいになって傾斜の向こう側に電動銃のバッテリーマガジンを立てかけた。
「むしろ油断ならない。夜勤<ナイトシフト>の連中がいる」
「夜勤<ナイトシフト>?」
聞き慣れない言葉だ。ひょっとしたら僕のこれまでの職分では知りえない言葉がたくさんあるのかもしれない。
「夕方に解凍されて夜のうちに勤務する凄腕の輩だ。おれもお前も大抵の仕事はものを持って帰ったり、情報を集めたりすることだが、連中は違う」
深く息を吸い込んだのか、彼の背中が一層盛り上がった。
「連中の仕事は競合他社の人員を減らして回ることだ。つまり、戦闘しかしない」
さながら血に飢えた野獣のようなイメージ像が脳裏に浮かんだ。当然、僕が適性によって今の仕事をあてがってもらったように、夜勤<ナイトシフト>にも適性があるのだろう。電動銃をどこにでも百発百中で当てられるとか、夜でも眠くならない体質とか。
「そういう人たちと戦ったことがあるのか」
「ない、あったら生きてちゃいない。だがおれたちの会社で元夜勤だったやつと組んだことはある――早死したくなくて配置転換を希望したと言っていたが――いずれにしても、なるべく敵には回すまいと感じたな」
こんな話を藪から棒に聞かされて、限られた睡眠時間を十分に活用できるか心配で仕方がなかった。今、この瞬間にでも夜目の効く最強の使い手が自分を照準の中に収めているかもしれないのだ。
6
ところが意外にも、次の瞬間にはごつごつとしたHID6の手に揺さぶられて起こされる羽目となった。感覚的には解凍されるのとさして変わりはない。脳みそが引き出されているかいないかの差ぐらい――にもかかわらず、外はまだ暗く何時間も経ってはいないであろうことが察せられた。同じように眠りについていても、人間の生理的なファンクションの方の睡眠はずいぶんタイムスケールが短い。
結局、いまいち覚醒しきれていない状態で指図されるがままに寝袋から出て身体に巻き付け、数時間前の彼がしていたように傾斜の前に腹ばいになった。「電動銃の撃ち方は知っているな」「それは……知っている。情報化前の講習で倣った」「撃ったことは?」「ない」急ごしらえの相棒はとんだ新人と組まされたものだと言いたげに口を曲げた。だが、それでも真剣に指示を続けてくれた。
「いいか、三つだけ覚えろ。先に撃たれてお前が死んでいなかった場合、とにかく撃ち返せ。ビビって引っ込んだら距離を詰められる。次に、銃声がしたがお前じゃないやつが撃たれている場合、すぐに隠れておれを起こせ。最後に、すでに相手が接近していて取っ組み合いになった場合、大声をあげて危険を知らせろ。いいな、なにもなければ日が上がるまで監視だ」
僕は反射的に「えっ」と唸った。「じゃあ僕はもう寝られないのか」体感的には明らかに眠い。これまでの仕事では感じた試しのない感覚だ。しかし目の前の経験豊富な同僚は眉間に皺を寄せて「お前はもう五時間も寝た。俺だって同じくらい寝る権利はある」とぐうの音も出ない正論を告げたので、目の前に広がる暗闇と黙って対峙するほかない現実を渋々受け入れた。
あるいはこれが僕のこれからの仕事なのかもしれない。いつどこから撃ち殺されてもおかしくないと考えれば怖がってもいいはずなのに、十分ではない睡眠となんの代わり映えもしない黒一面の風景に、姿勢さえも変えられない窮屈さが倦怠感を身体じゅうに押し広げてあるはずの恐怖を塗りつぶしてしまう。
小一時間経ったか、それともまだ五分しか経っていないか定かではないが、僕の意識は将来の人生設計に傾いた。今は必要に応じて解凍される標準入力インターフェイスでしかないけども、いつか精神体の人々はなんらかの根本的な解決策を手に入れて地上に進出するはずだ。数十年後か、数百年後か、数千年後かはともかく、冷凍冬眠装置に故障がなければ僕もその時には一人の市民として輪に加わっているだろう。立体映像として描かれた上司の彼女とも直接会って話せるようになるかもしれない。より多くの人々とも交流の機会を得て、地上世界をより良くするために話し合うことになる。
そこへいくと、僕はあまりにもものを知らなさすぎる。今、こうして地上での勤務経験でも同僚に水を開けられているし、無限大の情報源にアクセスして僕たちが寝ている間も常に思考を重ねている精神体の人々とはまずもって比べられない。あらゆる問題が解決した後でさえも僕自身の能力が課題として待ち受けており、それを改善するのは簡単ではない。
昔、地上に人類が暮らしていた頃には何人にも教育が与えられていた。そういう施設もたくさんあった。ところが今から地上世界に再進出するとしても、当面はもっと基礎的なインフラを構築する方が優先されて他の事柄は後回しにされるに違いない。つまり、現状の格差を覆す手がかりはおそらく得られず、僕の人生は非常に不活性的で見通しの悪いものとならざるをえない。
だとしたら。こうも考えられる。
今の状況がずっと続いている方がよほど良いじゃないか。地上に出て応分の働きをして、用が済んだら冷凍されて、そのうちまた解凍される。人生がとても離散的なのはやむをえないが、少なくとも思い悩むことはあまりない。たまにトイレに糞が残っているとか、食事や水に喜びを見いだせないとか、そういった点に目を瞑れば今の暮らしもそんなに悪くはない。彫刻だってできる。
ただ……じゃあなんで僕はもっと楽な地質調査とか資源の回収の仕事に留まらず、より多くのことを知ろうとしたのだろう。今だって眠いのをこらえて必死に――
その時、真っ黒な風景にわずかだが光がちらついた。最初は気のせいかと思ったが、続けて二回、そして三回、光が灯る。入れ違いに別の地点でも光が灯った。やがて決定的に電動銃特有の奇妙な音色が耳に届いて、いよいよ確信を得た。
銃撃戦が行われている。
左手の閃光は派手に光っているのに対して右手の方は幾分控えめだ。だんだん激しさを増して音も大きく響いている。そこで、はたと思い出して彼を起こそうとしたところで背後から声がした。
「右のやつらが夜勤<ナイトシフト>だな」
どきりとして「起こそうと思ったんだけど」と申し開きをしかけたが、彼は平然と僕の前から電動銃を持っていって自分の位置に構え直した。
「いや、おれが勝手に起きた。眠りが浅かったらしい」
おそらく眠りが浅いのではなく、浅く寝ていたに違いない。頼りない新人に命を預けて高いびきなど経験豊富な者の振る舞いではないからだ。
とはいえ、いちいち落ち込んでいても仕方がない。僕も自分の背嚢から電動銃を取り出して開き、さっきまでと同じように置いた。
「なんで右が夜勤<ナイトシフト>だと分かるんだ。左の方がよく撃っているように見えるけど」
しゃべっていても隣の同僚の頭は照準から揺らがない。
「光の散乱具合から当てずっぽうに撃っているだけだと分かる。それに対して右側は正しく牽制している。距離を詰めきるまで逃げられないようにするためだ。ほら、見ろ」
数百メートルか、あるいはもっと離れた地点で決定的な瞬間が訪れた。最後に右手の光が二回光り、以降はまるで闇がすべてを覆い隠したかのように辺りが静まり返った。
「妙な気を起こすなよ。おれたちにできるのはやつらがひと仕事を終えたと考えて帰ってくれるのを祈るだけだ」
さすがにこの頃には眠気が吹き飛んでいた。たった今、暗闇の対岸で絶命した人々も今後の人生について思いを馳せていたかもしれない。それがほんのちょっとしたさじ加減で奪われた。まだ見ぬ夜勤<ナイトシフト>の凄腕たちが気まぐれで進行方向を変えていたら、今頃死んでいたのは僕たちだったのだ。
7
何事もなく太陽が上がり、食事を食べ終え、隅々まで陽光で照らされた地面を歩いていても恐怖は背筋に張りついたようにしていつまでも消えなかった。まだ殺し足りない夜勤<ナイトシフト>が昼も活動していて、四方八方のどこからか自分を狙っているのではないかと妄想に駆られた。彼らが文字通りの職分ならそんなことはありえない。そうでなくても襲撃の気配があれば僕よりも先に同僚が気がつくだろう。いずれにしてもなにかが起こる前から心配するのは杞憂でしかなかった。だが、分かっていても足取りは鉄の重さで、腹にはいつまでも溶けない氷が沈んでいた。
「ここだな」
HID6が大きな平屋建ての前で止まった時、ようやく安堵の気持ちが芽生えた。建物の中に入れば遠くから撃ち殺される可能性は低い。実際、この後の仕事はとても気楽だった。目標物はあっけなく見つかった。眼前に並ぶ砲弾らしき物体そのものは風化していてもはや役に立たないが、内部の弾芯にはタングステンが豊富に含まれている。そのまま持っていくには重すぎる砲弾も、古くなっていたおかげか背嚢の角や電動銃の銃床を駆使して叩くと簡単に砕けた。同じ作業を二人で黙々と続けているうちに、ブリーフィングで示されていた分量を大幅に越える材料が集まった。
しかし意気揚々と帰り支度を整えて建物から出ようとした途端、正面にひと組の人影を認めて僕はついさっきの恐怖を胃の奥からせり出すこととなった。電動銃――背嚢の中だ――目視距離に堂々と佇む二人と相対すること数秒、先に口を開いたのは相手の方だった。
「君らもここで物資を集めていたのかい」
背後で電動銃を構えていたのであろうHID6が答える。
「さあ、どうかね」
「タングステンか?」
「だったらどうだ」
短い応答の後、相手は急に両手を胸の前で合わせて懇願のポーズをとった。
「我々も同じものを探しているんだ。もしよかったら分けてもらえないか、この通りだ」
そこで僕はようやく相手が二人して武装していないこと、そもそも雰囲気からして敵意がないこと、イエローの作業服を着ていることなどを把握した。張り詰めていた緊張の糸が切れて、がちがちに固まっていた筋肉が和らいだ。
「おれたちになんの利益が? 他社だということくらいは分かってるだろう」
「分かっている、交換しよう。我々は銅線を持っている。今回の目標物でなくても絶対に必要なはずだ」
確かに、と率直な感想を抱いた。銅線なら僕の仕事でも集めた覚えがある。次回以降の仕事で要求された時にもともと持っていたらその日は仕事をしなくてもB評価だ。
「現物を見ないことにはなんとも言えんな」
同僚の呼びかけに律儀に応じて、彼らは各々の背嚢を下ろして中身を探りだした。昨夜、戦闘しないまでも夜勤<ナイトシフト>たちの仕事ぶりを目の当たりにしたからか、この短い間にも特殊な感覚が養われたのか分からないが、てんで戦闘経験のない僕にさえ、彼らが隙だらけの小動物に見えた。じきに背嚢の奥からずるずると銅線をひっぱりだすと、その長さを誇るようにして広げてから丸めはじめた。
「どうだ、悪い話じゃないだろう? 多めにとったって評価はどうせ変わらないんだ、だから」
「そうだな。いいだろう」
そう言うと真後ろにいた巨体が歩を進めて隣に並び、背中の背嚢を片手で持ち上げて下ろした。
もう片方の手にはまだ電動銃が充填状態で握られている。
「だが、おれがくれてやるのはこいつだ」
電動銃が真横で射出されて不可視の運動エネルギーがイエローの作業服を着た相手に衝突した。それは相手の胴体に風穴を開けるには十分すぎる威力で、すでに事切れているであろう肉体はそのまま地面に崩折れた。撃たれていない方は突然の襲撃に状況を飲み込めず、まばたき数回分の間隙を経てようやく素っ頓狂な悲鳴をあげた。僕自身の悲鳴も遅れてあがった。
「おい、一度しか言わねえからよく聞け。走って逃げ切れたら追わねえ。だからうまく逃げろ。ほら、走れ」
二人の醜態をよそに彼は黄色い作業着の足元すれすれに二発目を放った。ほとんど反射的に背嚢も持たずに相手は走り出した。
「おっ、けっこう速いじゃねえか」
いくらか時間を置いて同僚が放った三発目、四発目の銃撃は傍目から見ても粗雑な撃ち方だった。とても当てるつもりで撃っているとは思えない。現に運動エネルギーの塊は相手から数メートルも離れた地点にぶつかり、かすかに土煙を舞わせていた。しかし彼は一向に意に介さず、黒い顔に今まで見せたこともない残忍な笑みを浮かべながら作為的な射撃を繰り返した。
そうして一分、二分も経ち、イエローの作業着が本当にイエローなのか判別がつきづらくなってきた辺りで、彼はいきなり銃の構え方を変えた。
「そろそろ楽しみは終わりだな」
距離距離はもはや狙撃に近いと言って差し支えないほど離れていたにもかかわらず、最後の一撃はあっけなく逃げ惑う背中の中心を捉えた。さすがにこの距離となると悲鳴も地面に倒れた音も聞こえない。
「……どうして」
今の僕の心理状況としては、この一言を絞り出すのが精一杯だった。言いながら、次の言葉を考える。
「殺す必要は、なかった」
しかしそのわずかな間に、目の前の殺人者はさっきまでの堅実で面倒見のよい同僚に変貌を遂げていた。
「もうずいぶん前になるが、言っただろ。お前の楽しみみたいなのがおれにもあると。おれは……逃げるやつを撃つのが好きでね」
あまりにも感慨深く、まるで趣味の話でもするみたいに言うものだから僕は気がおかしくなりそうだった。相変わらず堂々とした態度で彼は「それに」と付け加える。
「お前、A評価って取ったことないだろう。あれはどうやったら取れると思う」
「し、知らない」
これは一瞬前までは嘘ではなかった。本当に知らない。最初の何回かは多く資材を持っていって高評価を狙ったものの、上司の彼女が褒めてくれるだけで評価自体に変化はなかった。直接、A評価をとるにはどうしたらいいか聞いたこともあるが、はぐらかされるばかりで結局教えてもらえていない。
もちろん、こうして状況と辻褄を合わせれば未経験者の僕でも吐き気を催すほどよく分かる。
「おれたちだって競合他社を減らせる。この銃はそのためにあるんだ」
「今まで、何回、こんなことを」
しゃべらないと本当に吐いてしまいそうだったので聞きたくもない質問をした。対する同僚の受け答えは洗練されていた。
「おれはずっとA評価しか取ったことがなくてね」
帰りの道のりは非常に快適だった。なぜなら殺したイエローたちは電気で動く二人乗りのバイクを近くに隠していて、それに乗って帰ったからだ。僕の本心を見透かしていてなおHID6は後部座席に座る僕に、エンジンの駆動音や風切り音に負けない大きい声で呼びかける。
「こんなものおれたちは持っていねえ! そうだろ!? だが他社の連中は持ってる! おれたちが持っていない良いものを連中は持ってる! これでおれたちが勝ってると思うか!? ええ? 殺さずに勝てると思うか!?」
僕はひたすら無言の抵抗を貫くほかなかった。時速百キロメートルで前から後ろへと高速で流れ去っていく風景、彼方まで広がる乳白色の塩の地平線、そのどれもがひどく味気なく感じられた。
8
成果物を走査するダッシュボードの中にタングステンと血みどろの生首が投げ込まれて以来、僕はあっさりこの種の仕事から手を引いた。もともと適性なんてなかったのだ。モクロスクリーンに踊るA評価の文字を一瞥してさっさとチェンバー室に戻っていったHID6をよそに、いつまでも色褪せたリリウムの床に滴る血痕を眺めていた。率直に配置転換の希望を告げると彼女はむしろ安堵した様子だった。
ロッカーには金属製の背嚢が残ったままだったが、もう二度と使うことはない。中から便利そうな道具だけ拝借して、手に取るのはいつもの軽くて柔らかい背嚢だ。あれから何回かまた冷凍と解凍を経て、土と塩をいじる生活に逆戻りした。電動銃も持ち歩いていない。ブリーフィングで作図される地図の縮尺は小さく、競合他社と相まみえる危険性は非常に低い。それでももし出会ったら……荷物を全部差し出すか黙って撃たれる方を選ぶ。
僕の人生設計は完全に崩壊した。人類はきっと滅ぶ。どこでボタンをかけ違えたのか分からないが、競合他社同士で別け隔てなく協力し合うのも難しいのだろう。シェルターの位置を中心に得られる資源の多寡や種類が定まり、おのずと生産できる成果物も決まっていく。どんなに条件を詰めても必ずどこかの会社が割りを食い、他社からの施しは後世に渡る不利を形成する。企業のステークホルダーはそんな不合理な契約を認めたりはしない。法人とはそういうものだ。
太古の昔、我々は自然人と呼ばれる存在だった。法人格の一部に組み込まれる前――僕たちの判断は真に個人に委ねられていた。それが村を形成し、国家となり、より利益に先鋭的な企業組織の台頭が目覚ましくなると、個人的な意思決定の領分はますます縮小を余儀なくされた。そんな折に訪れた気象災害は法人の自滅的傾向をより鮮明に描き出したと言える。競争するために生まれた存在は競争によって死ぬしかないのである。
乳白色の地面の上で塩を舐めることが増えた。自分のしている営為が無味乾燥ではないと確かめたがっているのかもしれない。頭の中で意味を感じられていないから、舌を通して味を感じている。今日も今日とて塩辛さは変わらない。
そんなふうだからか彫刻の出来栄えには自分でも首を傾げざるをえない。出来上がったものを見つめたり、くるくると回したり角度を変えてみても特になにか文脈を負っているようには感じられない。先の出来事が自分の人生観にショックを与えすぎてスランプに陥ってしまったのだ。
今回もまた、思うままに刻んだ形容しがたい塩の塊を地平線の彼方に向かって投げ捨てた。塊はほど近い地点に着地して乳白色の地面をつるつると滑っていった。
やりきれない気持ちを抱えながら帰途に着くと、遠くに人影が見えた。あの時以来、同僚と分かっていてもなにか動くものを捉えたら目で追う癖がついている。背嚢から双眼鏡――金属製の方から拝借した――を取り出してよく覗くと、他ならぬ巨体の殺人者がそこにいた。HID6だ。シェルターとは反対方向に向かっている。仕事の途中だろうか。
しかしそう考えるには不審な点があった。今は昼過ぎで、仕事を始めるには遅すぎる時間だ。かといって帰ってくるのは早すぎるし進行方向もおかしい。
ありえるとしたら夜勤<ナイトシフト>に配置転換された場合だが、だとしたら今度は逆に出勤が早すぎる。話を聞くかぎり彼らは夕暮れ以降に働いている。
棒立ちで注視している間に彼はゆっくりと遠ざかっていく。そういえば電動バイクも使っていない。あれほど便利な道具を使わないのは不合理だ。しかし数回の冷凍と解凍の間に何百年も経っていて電装系が風化した可能性も否めない。
こうして思案しているとなぜたか胸のつかえがごまかされるような感じがした。おのずと足が前へと動き、やがてHID6の後を追う格好をとった。たぶん僕は、なんであれ彼の行いをもう一度目の当たりにして決着をつけなければならないのだろう。
いざ追ってみるとすぐに彼の行き先が変わっていることに気がついた。無価値の瓦礫の山ばかりでなにもない内陸部の方へと進んでいる。結果的に遮蔽物が多く、隠れながら進む手がかりを得たものの言葉に言い表せない違和感はますます強まった。あるいは、彼の「楽しみ」と関係しているのかもしれない。いずれにしても腹は決まっていた。
彼の歩みは堂々たるもので一切迷いが感じられなかった。地質調査でもなければなんらかの資源を探しているといったふうでもない。予め目的地が決まっているようだった。それにしては歩幅や身のこなしから疲労を気にしている素振りはない。以前の出張のように日をまたぐ仕事ならどんな体力自慢であっても足取りは重くなる。彼ほどの恵体の持ち主なら尚更そうだ。
実際のところ、僕は半ば尾行が露見しても構わないつもりでいた。いざとなれば目的地の方角が同じだったとか、彫刻の材料を探していたとか、いくらでも言い訳は立つ。いくら遮蔽物が多いといっても半身も隠せればいい方だ。なにもない時もある。数百メートルの距離があるといっても見通しのよい終末の真っ平な世界で、気まぐれに振り向きでもされたら即座に発見されてしまう。もし目が合ったらこっちもたった今気づいたようなふりをして挨拶を交わすつもりだ。この際、過去のわだかまりはないものとして扱った方が望ましい。
少なくとも、彼の不審な行動の理由がはっきりするまでは。
予想通り、双眼鏡の向こうの巨体は尾行開始から一時間ほどで止まり、瓦礫の山が特に積もった地点で辺りを見回しはじめた。すると、グレイの作業服を着た標準入力インターフェイスが二名、どこからか現れて接近してきた。意外にも彼は電動銃を手に持っていない。こんな状況で襲撃されたらひとたまりもない。
不本意ではあるが、僕は遮蔽物から遮蔽物に移動を重ねて彼らのすぐ近くまでにじり寄った。距離にして三〇メートルもない。双眼鏡がなくてもお互いが見える距離だ。いざとなったら武装しているふりをして牽制しなければならない。殺人者とはいえ有力な人材を競合他社に潰されるわけにはいかない。
ところが、彼らの応対はあたかも親しみさえにじみ出るほどこなれたもので物騒な気配は一切しなかった。案外、彼も人殺し一辺倒というわけではないらしい。金属製の背嚢を下ろしてやり取りもしている。今は電動銃を見せてなにかを教えているようだ。武器と交換したくなるほど価値の高い資源をもらえるのだろうか。
ひゅっと甲高い音がして、自分の真横を運動エネルギーの塊が通過していった。瓦礫の壁が砕けて砂塵が舞う。あげかけた悲鳴を喉元で抑え込んだが、どのみち意味はなかったようだ。たぶん、彼は最初から気づいていたのだ。それどころか、ここについてくるように仕向けていた。
「おーい、坊主! 出てこいよ! いい話がある!」
牽制射撃で動きを封じておきながら、彼の声はぞっとするほど朗らかだった。それでも懸命に気取られまいと僕は物見遊山のふりをしてふらふらと近づいていく。
「なんだ分かっていたのかあ、実は挨拶しようと思ってたんだ、たまたま材料を探していて……」
「そうか、まあ久しぶりだな。見ての通り、こいつらは他社の標準入力インターフェイスだ」
こちらの言い分をまるで信じていない態度で彼は横に立つ人物を紹介した。抜け目ない狡猾そうな表情をした二人は口も利かずに黙って会釈をする。僕も努めて明るく返す。
「君、話し合いとかできたんだな。てっきり撃ち殺してばかりなのかと」
皮肉を交えて石を投じてやるも、HID6に気を払う様子はなかった。横の二人も平然としている。
「普通はな。昨日もやってきたばかりだ。背嚢に首が入ってる。見るか?」
「……それで、いい話というのは?」
口を開いたのはグレイの作業服を着た方だった。
「正直、我々にとって貴殿の介入は想定外なのだが……」
「いや、いいよ。おれが推薦する。こいつは成体未満だ」
無表情のまま渋る二人に対して彼が顎でしゃくると「確かに」ともう片方が納得した。
「成体じゃなかったからどうだっていうんだ」
「成体でなければ成長余力が見込まれる。つまり適性の修正幅が大きい」
グレイの一人が手短に説明した。これまでずっと他の標準入力インターフェイスより背が低く、膂力も小さく、肉体性能に劣っていることに気後れしていたが、視点を変えればそういう見方もできるらしい。
「じゃあおれとこいつが転職ってことでいいな」
「……いいだろう。シェルターの座標と武装の概要は把握した」
「転職? 転職ってなんだ」
また知らない単語が出てきた。もちろん地上に人類がいた頃の単語としては理解している。昔の社会には様々な職業があり、個人の希望と需要に合わせてそれを変えることができた。だが、今のご時世に標準入力インターフェイス以外の生き方が肉体を持つ者にあるとは思えない。
HID6は僕の背丈に合わせて少し屈み、噛んで含めるように言った。
「おれたちのシェルターはもう終わりだ。開発競争で負けているし、持っている情報量も少ない。おまけに便器はいつも糞まみれ。このまま所属していてもジリ貧だ。だから、転職する」
「え、それは、つまり――」
「我が社の標準入力インターフェイスに移り変わるということだ。代わりにシェルターの位置、セキュリティ、武装、施設内の構造について教えてもらった。近年中に襲撃する予定だ」
それは、つまり、産業スパイじゃないか。背任行為だ。
グレイの二人のうち片方が背嚢から電動銃を取り出した。口で言わなくても態度は伝わる。心なしか僕たちの武器よりも洗練されているように見えた。そこへ、巨体の彼が割って入る。
「悪いことは言わねえ、黙って首を縦に振れ。お前が土いじりを続けたいっていうんならしばらくは構わない。グレイの作業着を着てやればいい。どうせそのうち気が変わる。おれの目は確かだ」
「分かった、分かったよ。待遇が確かなら転職する。僕は会社にこだわりはない」
それ自体は、嘘ではなかった。遠い昔に死んだ両親が少数株主で、たまたま契約していたシェルターだったからという理由なくして僕がオレンジの作業着を着る意味はない。なにか一つでも前提条件が違えば、僕は喜んで今いる会社の全員を死に追いやっただろう。
しかし。
ただ僕は彼が許せなかった。巨体で親身な彼が喜んで人殺しをしていたこと、それでも会社の利益のためだと思い込もうとしていた信頼を再び裏切られたこと。そこに始末をつけることが僕にとっての最優先で、他の事柄は些事でしかなかった。
「念のために武器を押収したい。これからシェルターの付近まで同行してもらう。一応確かめておかなければ」
「こいつは武器を持たないやつなんだ」
「いや、彫刻を掘るためにナイフを持ち歩いている」
「たかがナイフだろ」
グレイの片方は首を振って手を突き出した。「ナイフも武器には違いない」僕は腰を落として背嚢を前に回し、ナイフを差し出した。代わりに受け取ったHID6が振り返ってグレイの片方に手渡す。
今の彼は隙だらけだ。
僕はすばやく背嚢から塩でできた鋭い彫刻を抜き取り、広々とした巨躯の肩に突き刺した。ところで、塩のモース硬度は二.〇以上もある。石膏より固い。尖った先端は筋肉の中に吸い込まれるように入り込んでいき、僕の手元に生々しい嫌な感触を残した。彼の野太い絶叫が辺りにこだまする。そうして抜き取った塩の塊を、痛みから膝をついた巨体の向こう側――グレイの片割れに向かってまっすぐ投げつけた。今度は刺さりはせず手にぶつかって落ちる。それでも電動銃を放り出させるには十分だった。
未発達な肉体に有利な点があるとすれば身軽なところだ。前に放り投げられた電動銃を前に踏み出して拾い上げると、ろくに照準も合わせずグレイの作業着に向かって発砲した。洗練された外見に相応しい洒落た音をたててエネルギーの弾丸が相手の胴を貫く。続けて、わずかに銃身を水平にずらしてもう片方も始末する。
なにも頭で考えてやってのけたわけではない。彼に塩の彫刻を刺してから先のことは行き当たりばったりだった。
「くっ、このガキ……」
振り返ると顔を激情に歪めた同僚が肩を抑えて立ち上がっていた。今度こそ、逃げるしかない。
僕はありったけの力を込めて美しい作りの電動銃を瓦礫の山の遠方に打ち捨てた。直後、背嚢を手に取って脱兎のごとく駆け出す。走り出して少し経つと滑稽な雰囲気の銃声が背後から聞こえてきた。彼が自分の電動銃を撃っているのだろう。瓦礫の壁の間をすりぬけるように走ってやり過ごす。ほどなくして振り返ると、山のような巨体が必死で追いすがってくるのが見えた。
9
毒々しい夕暮れの強い日差しが乳白色の地面を照らす。その合間を二つの人影が通り過ぎて大きく間延びした影を作る。それはさながら巨人同士の戯れに見えた。だが、現実、僕は殺人者に追われていて僕も今では殺人者になってしまった。正当防衛を主張する論拠は乏しい。彼の言う通り黙って頷いていれば危害を加えられないであろう確信はあった。長距離走に特有の脇腹の痛みに苛まれながら、今になってなぜこんなことをしでかしたのか後悔の念が湧く。突沸した熱湯のごとく湧き出した怒りが僕を動かしたのだ。あえて平易に表現するならこれを反抗、と呼ぶ。
当初のリードは僕の体力的限界に応じてみるみるうちに縮んでいった。ちらと振り返ると彼も決して気楽そうではなかったものの、それでも一〇〇メートルも間隔はない。一気にペースを上げて距離を詰めないのは追いついた後の取っ組み合いを想定してのことだろう。彼は背嚢も武器も置いてけぼりにしてきたので丸腰だが、こっちは背嚢を背負っている。むろん、唯一の正規の武器であるナイフを差し出し、塩の結晶の塊も電動銃も投げ出した今では同じく丸腰だったが、中身が不明な荷物を持っているというだけで相手は手を出しにくい。
ここへきて今さら話し合いは通じないだろう。捕まったら素手でも殺される。なぜなら彼には僕がしようとしていることが分かっているからだ。僕もまた彼の殺意を認めているからすべきことが決まっている。このままシェルターに直進して、競合他社による襲撃を情報体の人々に知らせなければならない。
やがて距離間隔は五メートル、三メートルへと縮まり、シェルターの階段が石畳から引き出される頃には一息で追いつかれそうな位置にまで近づいていた。転がるようにして階段を降りてドアをくぐる。シェルターの大きなハンドル付きの扉はしばらくすると勝手に閉じてまた開くまでに時間がかかるが、今回の場合は手近すぎて彼を押し止める役には立たない。暗闇を左右に湛えた細い通路をなるべく急いで移動する。もう彼の黒々とした顔つきがはっきり見えるほどの間隔しかない。勤務評価室で彼女を呼び出している暇などない。シェルター内での標準入力インターフェイス同士の殺傷をどう扱うのか未知数だが、少なくともA評価常連の彼をいきなり懲戒解雇にはしないだろう。せいぜいしばらく謹慎として冷凍させておくだけで、襲撃後にはグレイの連中が彼を解凍している。ここに逃げ込めたことは僕にとってなんの安全も保証しない。
通路を抜けたあたりで背後から銃声がした。ただでさえひび割れた壁面に弾痕が穿たれる。危険物室から別の電動銃を取ってきたのだろう。ついに追いかけっこに業を煮やしたのだ。三発目の銃声が響いたあたりで、僕は肩口に鋭い衝撃を感じて横の壁に身を叩きつける結構となった。まるで鋭利な熱湯の塊を浴びせられたような鮮烈な痛みが押し寄せて、声にならない悲鳴をあげる。噴き出した血漿が薄汚れた壁面や床に血溜まりを作った。
それでもチェンバー室は目の前だった。走っているとはとても言いがたい足取りで追手から逃げ惑う僕に残された手は、もう一つしかない。血で汚れた手でチェンバー殻の湾曲した表面を叩いて内部に転がり込む。殻が閉じきったあたりで電動銃を手にしたHID6が目の前に立ちふさがった。さしもの彼も長距離走はさすがに堪えたようで、顔いっぱいに汗をかいて息を切らしている。無言のまま電動銃を構えてチェンバー殻に向けた。
だが、電動銃はオレンジの警告灯を表示して発射機構を閉じた。
やはり、シェルター内の設備を破壊されないよう予め規制登録してあるのだ。強化ガラス越しでも分かる仕草で舌打ちすると、彼は大仰に電動銃を投げ捨てた。そして、これまたガラス越しでもよく通る大声で言う。
「ふん、そのまま寝たければ寝るがいい。起きた瞬間に首をひねって殺してやるからな」
まるで研ぎ澄まされた肉体を見せつけるようにその場で脱衣した彼は、大股開きで近くのシェルター殻に入り込んだ。僕より先に解凍されるつもりだ。
シェルター殻の内部で警告音が鳴り響いた。湾曲した表面に文字列が二行ぶん並ぶ。
〝警告。着衣状態では正常な冷凍が行われません〟
〝警告。バイタルに異常を検知。正常な冷凍が行われません〟
一体、誰に聞こえるのかも定かでない状況で、僕は叫んだ。
「構わない、強制的に冷凍してくれ それで、あいつよりも、HID6よりも早く解凍してほしい
〝その要請には従えません。解凍処理は接続要請が行われた時にのみ行われます〟
「なんでもいい! なにか、理由を、考えて……」
〝強制冷凍シークエンス開始。当社の保証範囲外です。問題発生時につきましてはお客様の……〟
シューッとガスが吹き込む音がして、徐々に僕の意識は遠のいていった。不出来で未発達でおまけに流血もしている肉体の頭部にドライバが差し込まれる……。
夢は見ない。冷凍されている間の脳は当然ながら細胞レベルで活動が停止しているため電源を落としたコンピュータとなんら変わりはない。電源がないコンピュータが電気羊の夢を勝手に見ないように、我々の意識もまた諸神経の活動レベルに合わせて連続的に再開される。次に目が覚めた時、湾曲したガラスの表面に示された文字列がにわかに僕の恐怖を細胞レベルで呼び覚ました。胸の高鳴りが警告音と並走する。
〝標準入力インターフェイス11接続処理中〟
「待て、待ってくれ、出さないでくれ」
哀願を無視してシェルター殻が前にせり出す、ガラスを引き戻そうと突き出した腕が無慈悲にも空を掻く。
そこで僕は違和感に気がついた。浅黒い隆々とした腕はどう見ても自分のそれではない。顔を傾けると、腕の付け根の肩口にはさらに盛り上がった筋肉が配されていて、なにか鋭いもので刺されたような傷跡があった。
正面を向くと、ガラスの表面に蛍光灯の光が差して自分自身の姿が映り込む。黒々とした逞しい顔、鎧のような肉体は、明らかにHID6そのものだった。
「これは……」
〝解凍処理の失敗につき、ハードウェアの換装を行いました〟
前に踏み出すと太ましい両脚が即座に応じた。チェンバー室の中央には見慣れない中肉中背の男が立っている。僕の姿を見た瞬間、狼狽を隠せない様子で叫んだ。
「お前、お前……返せっ、おれの身体……」
「君、まさか、HID6なのか」
口を衝いて出た音は野太く低く、とても自分のものとは思われなかった。状況から推察して、僕の本来の肉体は死んだのだろう。着衣のまま出血も多量にしていてはスシ・レストランの下働きが下処理を誤ったツナのように腐敗してもおかしくない。しかし、取り出された脳は生きていた。保存されている肉体の中でもっとも適合性の高いものが自動的に選択されたのだ。それが、HID6の肉体だった。
HID6が突進してきた。なるほど中肉中背の身体でも元の僕だったらきっとひとたまりもなかっただろう。しかし、今の僕にとってはまるで止まっているように見える。難なく向かってきた相手の首筋を片手で掴むと、そのまま真上に持ち上げた。目測で一八センチメートル近くはありそうな成人の裸体が宙に浮く。首を強く締め上げているので彼の口からは声にならないうめき声が漏れた。
自分の身体に絞め殺されるかもしれないというのはどんな気持ちなのだろう。しばらく逡巡した後、僕は手近なチェンバー殻に彼を文字通り片手で持ち運んでいき、そのまま投げ飛ばした。彼が起き上がる前に殻の表面を叩いて再び冷凍シークエンスを開始させる。いずれにしても、処分を決めるのは情報体の仕事だ。
巨躯を駆って人生最後になるかもしれないモーニングルーティーンを済ませる。食事と水分補給はこの身体だといつもの三倍は食べないと満足しなかった。ブリーフィング室に着くとさっそく、立体映像の彼女を呼び出す。彼女は姿が変わってしまった僕に少々驚き、また痛み入るような眼差しで見つめたが、怯まずに堂々と物申した。
「今すぐ稼働可能な標準入力インターフェイスをすべて起こしてほしい。緊急事態だ」
冷凍されてから何年経ったが分からないが、グレイの連中がいつ攻めてくるか定かではない。
〝一体なにが……〟
「今回は全員休日出勤だ」
10
僕の証言と突き合わせて被疑者とされたHID6の半解凍大脳を走査して、これから迫りくる脅威の真実性が明らかとなると情報体の間で直ちに緊急の会合が持たされた。地上に露出したセンサ類は紛うことなく隊列をとって移動する集団の姿を捉えている。
聞いたこともないような警告音がシェルター内に鳴り響き、危険物室の中身が一切合切取り払われ、すべての標準入力インターフェイスが武器を手に持って一堂に会した。これほどの人数が同じ勤務シフトを組むことになったのは例を見ない。中でも目を見張るのは夜勤<ナイトシフト>の面々だった。意外にも老若男女の多彩な顔ぶれが並ぶ列に武器が手渡されると、もうすでに戦闘の検討が済んだとでも言いたげに各々の持ち場へと向かいはじめる。
陣頭指揮は僕が取る形となった。皮肉にもA評価常連の巨体は人々を従わせる上で相当な効力を発揮した。元の肉体ではとてもうまくいかなかっただろう。
競合他社はおそらくHID6が直前にシェルターの扉を開放して招き入れることを念頭に置いているはずだが、かといってそれに依存して計画を立てるとも思えない。強襲の日に扉が閉まっていれば、それはそれで破壊する技術をすでに持っていると考えられる。したがって扉は予め開けて待ち受ける方針が支持された。たとえ最終的に防衛に成功しても破損した扉を修繕する能力を我々は持っていない。不正侵入を防げないシェルターは無力だ。せいぜいスパイが活躍していると思わせて、油断して入り込んできた初期投入戦力を削るのが手っ取り早い。
勤務開始から八時間が経過してすでに時間外労働に入りはじめた頃、センサが石畳の上に人影を察知した。相手の計画ではシェルターに帰還するHID6に続いて競合他社が侵入する手はずになっていたが、こちらの都合上、HID6に擬態した僕がシェルターから出て直接出迎える形をとった。
細い通路の対岸に多数の標準入力インターフェイスが潜む中、軋みながら開く巨大な扉の向こうの階段を昇り、地表に立った。さっそく僕を産業スパイと認めたグレイの作業服たちが四方八方から現れて電動銃を突きつける。隊列の一群はそれぞれ電動バイクを持ち、さらにひときわ大きな中世の破城槌に似た台車や、その他の兵器を積載した車輌を伴っていた。
「HID6で間違いないな」
僕はできるかぎり低く声を出そうと努めたが、実際には杞憂だった。彼の声はもともと低い。
「そうだ」
「施設内に稼働中の標準入力インターフェイスはいるか」
まったくいない、と言うのも嘘くさいので工夫を施した。
「内勤適性の者が数名いるのを見た。なに、どうせなにもできやしないさ」
グレイたちの何名かが顔を見合わせて頷くと、僕の方を向いて案内を命じた。
ぞろぞろと階段を下って、シェルター扉が再び閉まる前に隊列を招き入れる。
細い通路の前で一旦制止して「ここは狭いから一列に並んだ方がいい」と丁寧な助言を申し出る。
先頭の僕が渡りきったところで、突如、片手を大きくあげて味方に支持を出す。と同時に、射線から外れるように急いで先に進む。哀れにも身動きのとれない通路上に取り残されたグレイたちは、直後に不細工な電動銃の慟哭に包まれて瞬く間に絶命する次第となった。過剰な銃撃の余波でちぎれ飛んだ腕が暗闇へと消えていく。
戦闘開始だ。
大した間を置かず、銃声を聞きつけた後続の部隊が押し寄せてくる。巨大なシェルター扉を遮蔽にグレイたちが放つ応射は、その洗練された銃声もさることながら少なからずこちらの戦力をすり減らした。先に殲滅した隊列は全体の一部に過ぎない。その時、巨大な擦過音が虚空に響いて老朽化した壁面を炸裂させた。敵の高威力兵器だ。二発目の爆撃に捕らわれたこちらの隊列が瞬時に砕け散った。
いよいよ敵の優勢が鮮明と化したところで、情報体から一斉に退却命令が発布される。これ以上はより狭い空間に引き込んで戦況の泥沼を誘うしかない。
八時間の合間に即席で構築したバリケードや遮蔽物の隙間から、細い通路を渡りきってやってくる軍勢を抑え込むように射撃する。しかし電動銃のバッテリーは想定以上に摩耗が早く、電動銃自身の熱暴走も懸念材料であった。一方、目を見張る活躍を見せたのは夜勤<ナイトシフト>の面々で、早々に射列を放棄したかと思えば、廊下の角で各々近距離戦を仕掛け、ナイフ一本とごく抑制された電動銃の発砲で次々と手勢を仕留めて回った。
僕自身も、HID6の肉体によって駆動される正確無比の射撃と皮膚感覚にも等しい警戒意識に支えられつつ、徐々に後退を余儀なくされていく戦場で奮闘を重ねた。